平成29年2月投稿
突然ではございますが、なんとなく表題の件「二・二六事件と海軍」と題して、かなりざっくりとまとめてみたいと思います。
知っての通り、二・二六事件といえば陸軍の青年将校が起こした事件であり陸軍の話はいくらでもあり、わざわざ海軍に着目する理由は… 私は海軍好きというだけの話です。(いちおう水交会会員ですし、、、
きちんと本筋立ててガチガチには内容をまとめてないので、ちょっと話が散らかりますがお付き合いくださいませ。
たぶん察しの良い方はわかると思いますが「横鎮」メインになりそうです、、、
目次
二・二六事件発生時の海軍
海軍省
大臣 大角岑生大将
次官 長谷川清中将
軍務局長 豊田副武中将
軍令部
総長 伏見宮博恭王
次長 嶋田繁太郎中将
第一部長 近藤信竹少将
横須賀鎮守府
長官 米内光政中将
参謀長 井上成美少将
連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕 」
加藤隆義中将 第二艦隊司令長官
横須賀警備戦隊
「木曽」艦長 岡新大佐
第三駆逐隊(汐風・島風・灘風・夕風)
横須賀陸戦隊 指揮官 佐藤正太郎大佐
昭和4年(1929年)10月
ウォール街の株価暴落に始まった世界恐慌は各国に波及し混乱を極めた。
日本においては、昭和6年満州事変、昭和7年第一次上海事変以来、日本の大陸進出とともに海外情勢も悪化。
昭和7年(1932年)5月
五・一五事件が発生。(海軍青年将校が内閣総理大臣犬養毅を殺害)
これは昭和5年に締結された「ロンドン海軍軍縮条約」を起因とした海軍青年将校の暴発。
ロンドン海軍軍縮条約
いわゆる対米6割に抑えられた軍縮条約。
海軍内部で条約に賛成する「条約派」(海軍省側)と条約に反対する「艦隊派」(軍令部側)という対立構造が発生。後に統帥権干犯問題に波及。
さらには昭和8年の「大角人事」を招く。
大角人事
大角岑生海軍大臣による条約派追放人事。
艦隊派の加藤寛治軍令部部長がロンドン海軍軍縮条約の締結に憤り昭和5年に軍令部長を辞表。谷口尚真(条約派)をへて艦隊派の伏見宮博恭王が軍令部長に就任したことから海軍省と軍令部の歯車が狂い始める。
もともと伏見宮博恭王が軍令部長に就任したのは昭和6年末、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任した事から、バランスを取るための人事でもあったが、のちに人事を担当する海軍省及び大角海軍大臣の首を締めることにもなり。軍令部を辞表した加藤寛治は伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物として昭和8年頃から大角大臣へ条約派に対する人事圧力を断行。山梨勝之進大将・谷口尚真大将・左近司政三中将・堀悌吉中将などのロンドン海軍軍縮条約締結時の海軍省要人が相次いで予備役に。
φ(..)メモ
予備役っていうのは一言で言えば「首」です。退役軍人ですね。
海軍省と軍令部の違い。
海軍省は内閣に従属。軍政・人事を担当。 軍令部は天皇に直属。天皇の統帥を輔翼し海軍全体の作戦指揮を統括担当。 軍令部は政治と人事には口出ししては駄(
とにもかくにも伏見宮博恭王は軍令部の権限を強化。
軍令部総長となり海軍省を圧倒。
海軍の対立縮図も多少は二・二六事件にも影響かな。
みんな大好き対立図式
陸軍 皇道派(二・二六事件) vs 統制派
海軍 艦隊派(五・一五事件) vs 条約派
ちなみに二・二六事件の際に陸軍皇道派に襲われた総理大臣・岡田啓介海軍大将は条約派。
というか、海軍の穏健派はロンドン条約締結賛成派。
で、前述の大角人事で艦隊派(強硬派)に左遷させられたわけで。 大角自身は事なかれ主義な人物。
海軍の艦隊派と皇道派は通じるものがあったようで。
ちょっと話題を先走ります。
それこそ二・二六事件に際しては、事件発生の朝に海軍の伏見宮軍令部総長と加藤寛治海軍大将、そして陸軍の真崎甚三郎大将が打ち合わせを行ってます。このメンツが濃すぎるんです。
陸軍の真崎甚三郎といえば皇道派の首領。事件の青年将校たちに「お前たちの気持ちはよく分かる」云々発言で有名。
で、伏見宮と加藤と真崎の三人で朝方に協議を行った後で宮中へ参内。伏見宮は昭和天皇に拝謁したが、天皇はご立腹で伏見宮は不興を買う、と。
横須賀鎮守府
話は横須賀へ。
昭和10年8月1日。
比叡艦長であった井上成美に横須賀鎮守府付(参謀長内定)人事が発令。
この時の横須賀鎮守府長官は末次信正大将。
その三ヶ月半後、昭和10年11月15日に井上成美は少将に進級し横須賀鎮守府参謀長に就任する。
その後、末次は12月1日付で軍事参議官に転出。
昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。 のちのちまで語られる「米内・井上コンビ」のはじまりの時であった。
井上が横鎮参謀長として赴任した同じ月(昭和10年8月12日)に陸軍皇道派と統制派の対立は激化。 皇道派の相沢三郎中佐中佐が統制派の軍務局長永田鉄山少将を刺殺する事件(相沢事件・永田事件)が勃発。
海軍に五・一五事件で遅れを取ったと感じる陸軍過激派の暴発を苦慮した井上参謀長は緊迫する状況を鑑み、横須賀鎮守府での即応戦力準備に取り掛かる。
まずは特別陸戦隊一個大隊を編成。そして警備艦「那珂」艦長に「昼夜雨雪関わらずに芝浦へ急航する為の研究」を命令。
※補足
当初は、「那珂」艦長に芝浦急航の研究を命じていたが、二・二六事件が発生した際は予定していた軽巡「那珂」は九州方面で活動をしていたため、実際に横須賀から芝浦に出動したのは軽巡「木曽」。
昭和11年2月26日
早朝。横須賀では珍しく積雪となった朝。
井上参謀長へ副官より第一報が到来。
「陸軍は大変なことをやりました。」
「一部は総理官邸を襲って…」
実は海軍は東京に兵力を持っておらず、横鎮の責任において在京守備をするしかない状況…
かねてより陸軍の暴発を危惧していた井上参謀長は横須賀鎮守府より矢継ぎ早に用意の手を打つ。
・砲術参謀を東京へ自動車で急派
・横須賀砲術学校より即応体制の掌砲兵20人を海軍省急派
・緊急呼集
・特別陸戦隊用意
・軽巡木曽急速出港準備
・麾下各部自衛警戒
どうやら、 総理大臣岡田啓介、内大臣斎藤實、侍従長鈴木貫太郎、 大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎、前内大臣牧野伸顕が襲われ殺害された、と情報が入り始める。
(実際は岡田総理と牧野伸顕は助かり、鈴木貫太郎は重傷で一命をとりとめる)
襲われた六人の重臣のうち3名が海軍出身の重鎮(岡田・斎藤・鈴木)であったことから海軍将兵の憤りは尋常ではなく、命令下り次第陸軍と一戦を交える気構えに、いやがおうにも包まれていく。
午前9時ごろ。
長官官舎にいた米内光政長官より井上参謀長に電話入電。
「おれもそろそろ出て行った方がいいか?」
※横須賀へは朝帰り説もありますが、まあ米内提督は強運の持ち主だったということで。
いかにも米内光政長官といった堂々たる(のんびりした)態度に感じ入りながらも井上成美参謀長は返答。
「差し当たっての打つ手は皆打ってありますが、国の大事ですから、やはり鎮守府に来ておられた方がよろしいでしょう」
こうして間もなく米内長官も鎮守府へ出勤。
混乱した各方面の首脳は永田町一帯を占拠した部隊をなんと呼称するかで迷っている様子もみられ。「蹶起部隊」という呼称も出てくる中で
井上は「海軍はあくまで逆賊として対処する」と。
米内も「あれは叛乱軍だよ」と参謀長と同意見。
米内は井上に言う。
「陸軍が宮城を占領したらどうしようか」
井上は即座に返答。
「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を比叡(御召艦)においで願いましょう。そのあと、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを行っても海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく軍艦に乗っていただければ、もうしめたものだ。」
米内
「そうか、貴様、そう考えているのか。ようし、俺も腹が決まった」
横鎮では米内長官、井上参謀長以下各員は鎮守府に籠城・厳戒体制。
同じ2月26日午前9時ごろ。
すでに準備を終え特別陸戦隊を乗せた軽巡「木曽」がまさに出港しようとしていたときに、軍令部から「待った」の声がかかる。
「警備派兵は手続きがいる。横鎮が勝手に軍艦を出すのはいかん。手続きがすむまで待て」
万全の体制で準備をしてきた横鎮に対しての軍令部の横槍に井上は憤る。
「横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのに、何を軍令部が文句を言うのか」と。
(この横槍は軍令部次長嶋田繁太郎中将あたりから出てきたものかどうか…。)
事件当日の海軍中央部の動きは、陸軍に気を使ってのことか芳しくない。
大角海軍大臣は事なかれ主義。
伏見宮軍令部総長は皇道派の真崎大将と打ち合わせをしていたり、陛下に叱責されたり。
で、軍令部は肝心の軍隊を動かす「手続」にことのほか手間どっていた。
2月26日の海軍主力。
ちょうどこのとき連合艦隊は土佐沖で演習中であった。
連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕」
加藤隆義中将 第二艦隊司令長官(加藤友三郎元帥の養子)
軍令部としての手続き。
軍令部総長が天皇の允裁を受けて統帥命令を伝達するという形式を踏まねばならなかった。そのため陸戦隊が海軍省に到達できたのは26日午後遅くとなってしまい、兼ねてより準備を進めていた井上参謀長としては不本意な結果となってしまった。
26日午後。
土佐宿毛湾沖で演習中の連合艦隊第一艦隊(旗艦長門)を東京湾へ派遣。 第二艦隊(旗艦愛宕)を大阪湾へ。
横須賀警備戦隊の木曽・第三駆逐隊・特別陸戦隊を東京に派遣。
午後になって、ようやく方針が固まった。
井上によって編成され軍令部指示で増強された派兵部隊。
軽巡木曽と第三駆逐隊(峯風型駆逐艦の島風・灘風・夕風)に乗って芝浦に急行した横須賀鎮守府特別陸戦隊四個大隊(約2000名)は井上と同期の佐藤正四郎大佐(砲術学校教官)によって率いられ芝浦から東京へ。
海軍艦艇主力の動向。
26日12時30分。
連合艦隊は演習しつつ宿毛湾に入港。
26日15時頃。
「両舷直整列」「急速出港準備ヲナセ」
26日17時。
長門以下連合艦隊は宿毛湾を出港。
長門以下第一艦隊は東京湾へ。
愛宕以下第二艦隊は大阪湾へ。
襲われた岡田啓介と鈴木貫太郎は、かつて連合艦隊旗艦「長門」艦上で連合艦隊司令長官として艦隊の指揮をとった海軍の重鎮。
(岡田は第15代司令長官、鈴木は第16代司令長官)
海軍としては断固たる決意で陸軍の蹶起に反対する意気込みが連合艦隊内にみちていた。
27日16時。
急航した連合艦隊旗艦「長門」を中心とした艦艇約40隻が芝浦沖に集結。第一艦隊では艦隊での陸戦隊を編成し上陸展開。陸戦隊で鎮定できないときは国会議事堂を艦砲射撃で破壊する案まで展開され反乱軍にいつでも砲撃できる体制を整えた。
一方で、重巡洋艦「愛宕」を旗艦とする第二艦隊は大阪湾へ。 第二艦隊は艦隊の多数を大阪の沖合に留め、旗艦「愛宕」のみを大阪港内に進入させて警戒に務めた。 これは(特に東京の叛乱軍と連動していない)大阪の陸軍(第四師団)を刺激しない配慮もあったようだ。
中央の様子
さて、中央の様子をちょっとだけ。
殺害されたとの噂も流れていた岡田啓介首相。
実は岡田首相は難を逃れ官邸の女中部屋に潜んでいた。
官邸に残った秘書官の福田耕秘書官は救出の策を練り、こっそり逃げ出した秘書官の迫水久常は宮中に岡田生存の報告へ。
秘書官の迫水久常は、なんとか岡田を救出しようと海軍大臣大角岑生に相談を持ちかける。
迫水は岡田生存の事情を伏せつつ大角大臣に相談する。
「陸戦隊を出して欲しい」
しかし、大角は(事なかれ主義の大角としては当たり前だが)
「そんなことをしたら陸海軍の戦争になる」
と反対。
大角海軍大臣はとにかく「事なかれ主義」。
二・二六事件対応では横鎮井上参謀がとにかく強硬派。
面白いことに海軍内では、いわゆる強硬派(艦隊派)が今回の事件に関しては対陸軍慎重派が多く、逆に普段は慎重派(条約派)な面々が対陸軍では強硬派だったり。
迫水大角対談。
迫水は更に言葉を続け「もし都合が悪かったらこの話は聞かなかったことにしていただきたい。実は岡田大将は生きてます。官邸の一部屋に隠れて救出を待っています。」と。
聞かされた大角海軍大臣「君、その話は聞かなかったことにするよ」と不甲斐なく…。
海軍大臣の協力を得られなかった迫水は最終的には東京憲兵隊の小坂慶助曹長らの尽力を得て岡田首相の救出に成功する。(憲兵さんの良きエピソードですが詳細割愛)
官邸では首相秘書官で義弟の松尾伝蔵が岡田首相の身代わり(勘違い?)となり殺害されていた。
初動で海軍も部隊を展開したらあとは叛乱軍と陸軍中枢との折衝が中心となり、海軍の出番はもう終わりだったり。
鈴木貫太郎のお話とかもここでは省略します。
陸軍中枢の動きと迷走や石原莞爾とかもここでは深く触れないことにする。
後日談
こうしていろいろあって(はしょりすぎ)
昭和11年3月9日。
二・二六事件により岡田啓介内閣は総辞職。広田弘毅内閣が成立。
広田内閣の一番の失策は「軍部大臣現役武官制」を復活させたこと。 これにより、この先々は陸軍の横暴に苦しめられることになる…
岡田啓介
岡田は政界の表舞台からは身をひき裏方へ。そして8年後の昭和19年。もう一度殺される覚悟でもって東条内閣打倒に尽力。終戦に向けての最後の舞台へと米内を押し出す原動力ともなる。こうして岡田の尽力で既に現役を引退していた米内は現役に復し最後の海軍大臣へ、と
大角岑生
大角岑生海軍大臣の後任は永野修身。(永野は海軍大臣ののちに連合艦隊長官。) 海軍大臣退官後の大角は軍事参議官。現役大将序列は伏見宮に次ぐ立場であったが、ぱっとせず。伏見宮軍令部総長の後任に、大角と永野の名が挙がるも、昭和16年2月に大角は飛行機事故で死去。
井上成美
昭和11年11月。 井上成美は二・二六事件ののちに横鎮参謀長から軍令部出仕兼海軍省出仕へ。 翌昭和12年10月に海軍省軍務局長に。 その時の海軍大臣は米内光政。海軍次官は山本五十六。 ここに「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」が誕生した。
米内光政
米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)
しかし米内光政は連合艦隊司令長官としての職を果たす間もなく着任わずか2ヶ月後の昭和12年2月に林内閣海軍大臣として中央に戻されることとなる。 連合艦隊司令長官の米内後任は永野修身(海軍大臣)。永野事情による海軍大臣と聯合艦隊長官の入れ替えだった、とか。
海に出た米内であったが僅か2ヶ月で中央に戻され、海軍大臣、さらには首相として本人は不本意な政治を行い、それが日本の要になるとは皮肉なものであった。そんな海軍省には次官として山本五十六がいた。(山本五十六は事件当時は海軍航空本部長で口出しする立場に無し)
いずれにせよ二・二六事件以降の動きは、また別の機会に。(あるのか?) 米内光政海軍大臣・山本五十六海軍次官・井上成美海軍省軍務局長のいわゆる「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」は、次の「日独伊三国軍事同盟」に向けての政局混乱に動き出すわけです。
鈴木貫太郎
参考文献
参考文献は手の届く間近の本棚から慌てて取り出した本を中心に。 (そこまでガッツリ書こうと思っていなかったので資料にかたよりアリ。本箱に埋もれて今回活用できなかった本も多数、残念)
「井上成美」伝記刊行会の題字は、本人の直筆筆跡。
〆