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「聯合艦隊司令長官・山本五十六」由縁の地を巡る(長岡)

長岡に赴く機会があった。
長岡といえば、山本五十六。せっかくなので、山本五十六元帥ゆかりの地を巡ってみる。


山本五十六

新潟県長岡出身。
旧姓は高野(たかの)。
海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。
海軍兵学校では、同期生に堀悌吉、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾などがいる。

昭和18年4月18日、ソロモン諸島前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。
日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物。


山本元帥生誕記念公園

山本五十六元帥の生家を復元し、記念公園として整備してある。

山本元帥誕生地

山本五十六は、1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生した。
当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と命名された。

山本元帥生誕記念公園記
 山本元帥は長岡の生んだ最大の偉人であるばかりでなく、明治・大正・昭和の三代に於ける日本の代表的偉人である。偉人は遠い處にあるのでなく、他にあるのでなく、我の中にある。誰れもの各個の性質の中にそれぞれ偉人の素質に存している。こゝに来り集まる青少年達よ、大人達よ、この人に學び、この人に倣え。然らば則ち亦偉人となることが出来よう。偉人とは自ら謙虚にして堅忍不抜、自らを人の中に置き、人のために、社會のために、國家のために捧げる人である。これが自らを大に生かす所以である。
 元帥は明治十七年四月四日、この地で、舊長岡藩士高野貞吉六男として生れた。時に貞吉五十六歳であった。後年赫々世界歴史上にその偉大さをうたわれた聖将山本元帥その人であった。長岡の歴史、山川、風土が元帥の修養努力と相待って、その人格と地位とを作り上げたのである。
 元帥の学んだ阪之上小學校、長岡中學校もこゝから近い。青少年達よ、この偉人に續け。元帥は自ら處すること嚴に他を處すること寛であった。自らを捧げて他を大ならしめる山本精神はこゝで生れたのである。
 こゝに我が景仰會が元帥の胸像を安置して、その誕生地を記念し、後進子弟の奮起を待つ所以である。
 昭和33年11月3日
 山本元帥景仰會

山本元帥生誕の地
 提督山本五十六は、明治17年(1884)、旧長岡藩士の髙野貞吉の六男に生まれた。
 高野家は代々儒官と槍術指南役をつとめ、質素倹約の生活を家風とした。
 五十六は海軍兵学校にはいり、大正五年、迎えられて旧長岡藩家老・山本家の名跡を継いだ。海軍次官を経て、連合艦隊司令長官。
 昭和18年(一九四三)太平洋戦争において戦死、元帥の称号をうけた。
 生家は戦災で焼失し、後に復元した。
   長岡市教育委員会


山本五十六胸像

山本元帥の胸像。

胸像は、昭和23年、霞ヶ浦の湖底から引き揚げられた胸部をブロンズ像に鋳直したもの。

もとは、山本五十六の戦死後の昭和18年12月に作られ、霞ヶ浦航空隊に設置されたコンクリート製の全身像。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。
この地のブロンズ像は、胸像部分を鋳直復元したもの。

また、現在、陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内の予科練記念館前に建っているものは、戦後の平成16年1月に作った新しいブロンズ像となる。

以下は、土浦駐屯地内「雄翔館」前の山本五十六像。(2023年4月撮影)


山本五十六の生家

山本元帥生誕の地 
 山本元帥は、長岡藩士の髙野貞吉の第六男としてここに生まれ、のちに海軍兵学校にすすみ、少佐のとき長岡藩家老山本家の名跡の絶えるのをおそれ迎えられて山本家を継ぐ。
 大東亜戦に壮烈な戦死を遂げられ元帥府に列し、特に元帥の称号を賜る。ご生家は昭和20年の戦災で焼失したので、これを復元し、ここを山本記念公園と命名した。
   長岡市教育委員会

石膏の山本元帥の胸像。

山本五十六の手紙。
昭和17年に、相馬御風に送ったもの。相馬御風も山本と同じく新潟の出身(糸魚川)

位牌。

大義院殿誠忠長陵大居士

「長陵」は生前の山本が用いていた雅号

常在戦場

越後長岡藩・牧野家に代々伝えられてきた家訓。長岡藩の藩風・藩訓でもあった。

手前の左端に写っているのが、山本五十六であろうか。

山本五十六の手紙

終戦の詔

真珠湾攻撃の電文

手紙

便所

台所

廊下

階段

山本五十六の勉強部屋(二帖部屋)

部屋から、胸像がよく見える。

場所

https://maps.app.goo.gl/FCZ58Kcnn393ncAEA


山本五十六記念館

1999年に開業した山本五十六記念館。

http://yamamoto-isoroku.com/

山本元帥御愛育の名木「唐楓(とうかえで)」
 この楓は、山本五十六が鎌倉在住の頃に自ら買い求め、以後、大切に育てられていたものである。
 昭和14年、海軍次官官舎より青山の自宅に転居する際には、「その楓は、もとから官舎にあったものじゃないから持っていこう」と移しかえたという逸話が残っている。
 南青山の旧山本邸は、都市開発の関係で取り壊されたが、その際に有志により一旦移植され、丹念に生育された後、平成22年秋に山本五十六記念館に寄贈されたものである。

館内は撮影禁止。
下記のサイトで360度パノラマビューできる。

https://360vrpanorama.jp/yamamoto-isoroku/hall.html

見どころは、「一式陸上攻撃機・長官搭乗機の左翼」

昭和59年(1984)2月山本五十六の生誕100年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後、パプアニューギニア政府の厚意により平成元年(1989)、左翼の里帰りが実現。

展示品

山本五十六記念館展示図録を購入しました。

場所

https://maps.app.goo.gl/o2w5Ss1LadW8FNjv5


山本五十六墓所(長岡・長興寺)

山本家の墓所。
長岡の山本家の墓では長岡藩が朝敵であった事から養祖父「山本帯刀」の墓が非常に質素に作られている。山本五十六の墓は、その山本帯刀よりもさらに質素に造られた為、戦死した陸海軍将官中、最も粗末な墓とされている。(多磨霊園の墓はまた別として) 

山本家の墓
 長岡藩家老職山本家は、武田信玄の軍師山本勘助の血脈。代々、藩主牧野氏に仕え、政治、文政に尽くした。
 特に老迂齋精義(ろううさいきよよし)は、名家老と称賛され、歴代の藩主を五十年にわたってよく助けた。幕末、帯刀義路(たてわきよしみち)は、北越戊辰戦争で大隊長として奮戦。会津飯寺で痛恨の死を遂げた。
 山本五十六元帥は、旧長岡藩士高野家から山本家を継いだ。はやくから航空機の重要性を説き、連合艦隊司令長官として、近代戦を指揮したが、昭和十八年四月十八日、南冥に散華した。
 長岡市教育委員会

山本家の墓。中央に山本五十六の墓石。左隣りに山本帯刀。

大義院殿誠忠長陵大居士

大正六年五月十九日 越後長岡 山本五十六

五十六 昭和十八年四月十八日於南太平洋戦死享年六十歳
十三 大義院殿誠忠長陵大居士 

最後の山本五十六の墓誌は、長男の山本義正氏が追記したもの。

旧長岡藩家老の山本家墓誌は山本家を相続した山本五十六によって記されています。
平成十六年(2004)十月二十三日の中越地震で崩壊した墓碑の改修にあたり父の戒名を加えて建立しました。
 平成十九年(2007)四月十八日
  山本義正

山本家の家紋は、左三つ巴紋

長興寺

場所

https://maps.app.goo.gl/dwNtciK67PvKwXAs5


山本五十六墓所(多磨霊園)

1943年(昭和18年)4月18日。 連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将戦死の日。 多磨霊園に埋葬。 墓字は山本五十六の国葬葬儀委員長を務めた米内光政による。

※2015年2月撮影

昭和18年6月5日に行われた山本五十六元帥の国葬の列は「水交社本部ビル」から出発し「日比谷公園」で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。 皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例という。

山本五十六元師国葬 NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060058_00000 …


阪之上小学学校(長岡町立阪之上尋常小学校)

山本五十六は、明治23年(1890)4月、長岡町立阪之上尋常小学校)現在の阪之上小学校)に入学している。


新潟県立長岡高等学校(古志郡立長岡尋常中学校)

山本五十六は、明治29年(1896)4月、古志郡立長岡尋常中学校(旧制新潟県立長岡中学校)に入学。
正門は、国の登録有形文化財(建造物)、大正5年(1916)建立なので、山本五十六よりも新しい。


長岡駅

明治31年(1898)に開業。

昭和18年(1943)4月18日、一式陸上攻撃機に搭乗し前線視察中、パプアニューギニア ブーゲンビル島上空で米軍機の攻撃を受け山本五十六は戦死。
およそ一か月間極秘事項として伏せられ、5月20日、堀悌吉により山本家に五十六の訃報が伝えられる。
翌21日午後3時、大本営発表。
国民には新聞やラジオ報道を通じて「元帥府に列せられ国葬を賜う」と知らされた。
6月5日、東京麻布の水交社を出発した葬列は日比谷公園に到着、盛大に国葬は営まられた。
6月7日、長岡駅に到着した山本の遺骨は、多くの市民に見守られ菩提寺長興寺の山本家墓所に納められた。

※撮影:2023年9月


関連

土浦海軍航空隊

霞ヶ浦海軍航空隊

多磨霊園

12月8日

米内光政

井上成美

「最後の海軍大臣・米内光政」所縁の地を辿る(盛岡・横須賀・東京)


米内光政

1880(明治13)年3月2日~1948(昭和23)年4月20日
海兵29期、海大12期、海軍大将、連合艦隊司令長官(23代)、海軍大臣(19代、24代)、内閣総理大臣(37代)を歴任。
 
支那事変当時の第一次近衛の内閣海軍大臣。
林・一次近衛・平沼内閣の海相を歴任、昭和15年には予備役入りし総理大臣(第37代)となり、支那事変の対応や三国同盟問題、戦争回避に尽力する。
昭和19年には現役復帰し小磯・鈴木内閣の海相として終戦の為に奔走。
戦後も東久邇宮・幣原内閣の海相として日本帝国海軍の最後を看取る。

首相官邸>

https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/037.html

国立国会図書館>近代日本の肖像

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/218/

盛岡市>

https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025020.html

ちなみに、学生時代の私は、卒論を「米内光政を中心とした海軍の対支政戦略」で書いていました。


岩手の米内光政

1880年(明治13年)、岩手県盛岡市に、旧盛岡藩士の米内受政の長男として誕生。

2023年8月に、盛岡を散策し、米内光政関連の地を巡ったので、以下に掲載。


米内光政像

盛岡八幡宮の境内に建立されている、米内光政像。
小泉信三による撰文。
小泉信三は、戦時下の慶應義塾大学の塾頭。米内光政と親交が深かった。

米内光政
 米内光政は、明治13年3月、旧盛岡藩士米内受政、母とみの長男として盛岡市下小路(愛宕町)に生まれる。盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。
 天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任。しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。昭和23年4月20日逝去、享年69歳。

米内光政

米内光政自身の筆跡となる。

米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の 聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
 昭和三十五年十月
  後進 小泉信三

場所

https://maps.app.goo.gl/1tDJamLqY4f5ueac7


米内光政首相と畑俊六陸相(米内内閣)

第37代内閣総理大臣・米内光政。
第二次世界大戦が勃発し、ドイツが攻勢を強めている情勢下において、陸軍は日独伊三国同盟締結を推進していく中で、阿部信行内閣の後継として畑俊六を首班として準備を進めていく中で、陸軍からの首班を嫌った、 昭和天皇が海軍の意中の人物として、米内光政を指名。
そうして軍事参議官・予備役海軍大将(米内は組閣に際して自ら現役を退いて予備役となった)の米内光政が、第37代内閣総理大臣に任命。1940年(昭和15年)1月16日から1940年(昭和15年)7月22日までの内閣。

米内内閣の陸相として畑俊六が就任するも、陸軍は米内内閣の組閣とともに倒閣を開始。ドイツのフランス侵攻を開始し降伏に追い込むと、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として、畑俊六陸軍大臣が単独で辞表を提出米内は後任大臣を求めたが陸軍が拒絶し、これで米内内閣は、半年で総辞職となってしまった。

米内内閣倒閣の引き金となった畑俊六は、戦後の東京裁判において戦前最期の新英米派内閣であった米内内閣を倒閣させた罪状を問われてA級戦犯として起訴される。
米内光政は、弁護側証人として東京裁判に出廷し、米内内閣倒閣は畑の意思本意ではなく、陸軍組織として動かざるを得なかったことを踏まえ、畑俊六をかばった。
そうして畑俊六は死刑を免れ終身禁固となり、畑俊六は6年の服役後の1954年(昭和29年)に仮釈放となった。
畑俊六は、海軍の責任に関して極めて厳しく罵る回想メモを戦後に残しているが、その中でも米内光政に関しては、東京裁判で畑の弁護側証人として庇ってくれたことに恩義を感じ、米内に対する感謝感動を終生深く忘れることなかったという。

米内光政没後12年の昭和35年(1960年)、盛岡八幡宮の境内に米内光政の銅像が建立され除幕式が執り行われた際、81歳の畑俊六が、人目を避けるように黙々と周囲の草むしりをしていたと伝承されている。
畑俊六は昭和37年(1962年)、福島県棚倉城址に建立された戦没者慰霊碑除幕式中に脳内出血で倒れ82歳で死去している。(棚倉城址には「畑俊六終焉の地」碑もある。行かないと、です)


米内光政墓所

盛岡市の円光寺。

米内光政は、昭和23年4月20日、目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
4月24日、自宅で仏式の葬儀と告別式が斎行。
葬儀委員長は、山梨勝之進大将であった。

山梨勝之進は、海兵25期、海大5期、海軍大将。条約派であったために大角人事で予備役となるも、米内光政らの推挙もあって学習院院長に就任。皇太子明仁親王の教育を任せられた。戦後は海軍の最長老の立場にあり、海上自衛隊の創建にも尽力した。山梨は長生きし昭和42年(1967年)90歳で死去。

米内光政墓所
 南部利英書

南部利英は南部家44代当主。
昭和13年(1938)には、岩手出身の陸軍大臣板垣征四郎の就任祝賀会に、同じく岩手出身の海軍大臣米内光政と板垣を左右として、南部利英を中央にした記念撮影なども記録に残っている。

米内光政銅像と同じ文面。書き起こしは省略。

米内光政の墓所。

救国の偉人 米内光政之墓

米内光政墓

天徳院殿仁海光政大居士

昭和23年4月20日歿
 享年69歳

緒方竹虎書

墓石の「米内光政墓」は友人であった緒方竹虎の書。
緒方竹虎は、朝日新聞副社長・主筆を経て、政治家に転身した人物。米内光政と親交があり、「一軍人の生涯 提督・米内光政」の書籍も残している。

米内家の家紋。

丸に違い鷹の羽

九代光政
天徳院殿仁海光政大居士
昭和23年4月20日

円光寺

場所

https://maps.app.goo.gl/3hkM83TkiJYjVXc36


米内光政居住地跡

米内光政が幼少期を過ごした八幡町。

米内光政居住地跡「説明」
米内光政は盛岡の下小路(愛宕町)で生れ幼少時代を八幡町で育ち、盛岡中学校(盛岡一)を経て、海軍兵学校に入り、以来、連合艦隊司令長官、海軍大将、内閣総理大臣、そして海軍大臣とすて終戦を迎えた。人格重厚沈勇、国家百年の計を思い大局を誤らず天皇の信任篤く、終戦内閣の中心閣僚として善処勇断よく祖国の壊滅を未然に護った偉業は、日本国民の永く銘記するところであります。
八幡宮境内に等身大の銅像が建っています。
 平成19年4月20日

突き当りは、銅像が建立された盛岡八幡宮。

場所

https://maps.app.goo.gl/aVCkhkm7jcQCV7GU8


盛岡市立下橋中学校(盛岡高等小学校)

岩手県内で一番長い歴史を持つ学校。
米内光政は、1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学している。
米内光政のほかに、金田一京助、石川啄木も卒業生。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jbymb9nSkWk5VzjY6


盛岡中学校濫觴の地(岩手銀行本店)

旧制盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高校)の跡地。
旧制盛岡中学校は,、明治13年(1880)に「公立岩手中学校」としてこの地に設立された。
その後 「岩手県尋常中学校」「岩手県立盛岡中学校」と改称し, 大正6年(1917)に 現在地(盛岡市上田3丁目)に移転した。
戦後 昭和23年(1948)に「岩手県立盛岡第一高等学校」と改称。

米内光政は、1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学している。

旧制盛岡中学校の卒業生
海軍では、米内光政(海軍大将・海軍大臣)、八角三郎(海軍中将)、及川古志郎(海軍大将・海軍大臣)、多田武雄(海軍中将)。
陸軍は、板垣征四郎(陸軍大将・陸軍大臣)。
そのほか、郷古潔(三菱重工社長、東條内閣顧問)、文学方面では、金田一京助、野村胡堂、宮沢賢治、石川啄木など、そうそうたる卒業生を排出している。

岩手県立盛岡中学校濫觴の地

盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度 我を倚らしめ
 石川啄木

場所

https://maps.app.goo.gl/1b7NUp95tcsVcBMSA


盛岡市先人記念館

盛岡市の先人記念館。
ここには、金田一京助、新渡戸稲造、そして米内光政のコーナーが個別に設けられており、そのほか盛岡市の先人たちの記録が展示されている。
一見の価値ある記念館。

盛岡市先人記念館

米内光政 1880‐1948
 海軍大臣を経て第37代内閣総理大臣に就任、三国同盟締結阻止を貫きました。
 太平洋戦争末期に海相に復帰、冷静な判断力、的確な洞察力、一方にかたよらない姿勢で、戦争の早期終結に尽力しました。

新渡戸稲造と米内光政と金田一京助と。
館内は、この場所以外は撮影禁止。

盛岡市先人記念館案内図録と、米内光政のピンバッチを入手しました。

米内の特徴をよく捉えたイラスト。

盛岡先人記念館>

https://www.mfca.jp/senjin/yonai/index


横須賀の米内光政

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。
このときの参謀長が、のちに重要な局面で度々コンビを結成する井上成美少将であった。

横須賀鎮守府
 長官 米内光政中将
 参謀長 井上成美少将

そして昭和11年2月26日。
米内と井上は、横須賀にて、「二・二六事件」を迎えることになった。

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)


米内光政と井上成美

井上成美とは、昭和10年の横須賀鎮守府、昭和12年の海軍省、そして昭和19年の終戦に向けての海軍省と、コンビを三度組んでいる。

昭和10年、井上成美は海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。

昭和12年、井上成美は海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。


東京の米内光政

昭和8年に佐世保鎮守府長官、昭和10年に横須賀鎮守府長官を歴任し、昭和11年12月に、連合艦隊司令長官に就任。
しかし艦隊司令としてわずか2か月後の昭和12年2月2日に、広田弘毅内閣のあとを受けた林銑十郎内閣の海軍大臣に就任。
このときの米内は軍政には興味がなく、連合艦隊長官をわずか2ヶ月で退任することを非常に渋ったというが、海軍次官であった山本五十六が前海軍大臣の永野修身、軍令部総長の伏見宮博恭王の同意を得て強く推薦し、米内光政海軍大臣が誕生した。山本五十六は海軍次官を留任し、永野修身は米内光政と入れ替わるように連合艦隊司令長官に就任している。

この昭和12年の海軍大臣就任以降、米内光政は、否が応でも軍政に携わざるを得なくなった。


米内光政と山本五十六

※山本五十六に関しては、別記事の「長岡散策」をまとめました。

日独伊三国同盟に断固反対の立場を貫く、海軍省は、海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美で「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」と称されていた。

山本五十六は、昭和10年12月に海軍航空本部長に就任。昭和11年2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府長官の米内光政と連携し、岡田啓介首相救出などに尽力し、このときの米内の対応を高く評価し、永野修身が海軍大臣を辞任した際に、後任に米内光政を推薦している。

昭和12年1月に海軍次官に就任。永野修身海軍大臣が山本五十六の手腕を熱望したものであったという。2ヶ月後に、広田弘毅内閣が総辞職し、海軍大臣も永野修身から米内光政に変わった。
山本五十六は、米内光政海軍大臣の下で、海軍次官として、林内閣・第一次近衛内閣・平沼内閣と歴任する。
こうして結果として、米内光政の海軍大臣就任は、永野修身の最大の功績ともなった。

昭和14年8月30日、山本五十六は、海軍次官から連合艦隊司令長官(第26代)に異動となった。
これは、三国同盟に強硬に反対する山本が、三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるために発した人事であった。

昭和15年、第二次近衛内閣の海軍大臣及川古志郎、海軍次官豊田貞次郎は、海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定し、9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印することになった。
奇しくも、及川古志郎は、米内光政の盛岡中学の後輩であった。

山本五十六は、そのまま連合艦隊司令長官を再任し(第27代)、開戦へと歩みをすすめることになる。

海軍甲事件
昭和17年4月18日、前線航空基地の将兵慰労のために前線視察を実施。山本五十六が搭乗した一式陸攻は、米軍機(P-38ライトニング)に補足され、襲撃・撃墜され、山本五十六は戦死した。59歳。

昭和6月5日に日比谷公園で、山本五十六の国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政元首相。
皇族・華族以外の者が国葬に付された最初の例であり、かつ戦前唯一の例である。

多磨霊園の墓碑も、米内光政の筆によるものである。


最期の海軍大臣

昭和19年、東條英機内閣が倒れると、米内光政は予備役から現役に復帰し、小磯国昭内閣の海軍大臣(第24代)となった。
軍部大臣現役武官制度により、すでに予備海軍大将となっていた米内が、海軍大臣に就任するためには、現役復帰の必要があり、米内の復帰は、「天皇の特旨」による極めて異例な復活であった。
小磯と米内の2名で組閣大命を受けたことから、米内光政は副総理格として、「小磯・米内連立内閣」とも称された。
米内光政は、当時、海軍兵学校校長をしていた井上成美を中央に呼び寄せ海軍次官に就任させた。

昭和20年、鈴木貫太郎内閣にも海軍大臣として留任。
米内は、連立内閣であった小磯首相が辞職して、副総理格であった自分だけが大臣にとどまるのは道義上問題があるとしたが、井上次官が根回しをし、米内は留任せざるを得ない状況となっていた。

戦後、米内光政は、引き続き東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。

昭和20年11月30日。
海軍省最後の日。
幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内光政は、日本で最後の海軍大臣となった。


米内光政海相と阿南惟幾陸相

阿南陸軍大臣と米内海軍大臣は、気質的な部分でなかなか反りが合わなかったが、終戦するという認識の方向性は一致しており、6月に鈴木首相の発言で国会が混乱した際は、米内海相が辞意を表明したところ、連日口論をしていた阿南陸相が米内に辞意を思いとどまるように説得をしている。
阿南自身も、戦争を終わらせる、国を救う内閣が鈴木内閣であることを理解しており、鈴木内閣を最期まで支えるために米内を説得したともいえる。

昭和20年8月15日、阿南惟幾は自決。
最期に、「米内を斬れ」との言葉をはっしたともいうが、その真意は不詳。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。


米内光政と鈴木貫太郎内閣(終戦内閣)

鈴木貫太郎内閣(第42代)は、昭和20年4月7日に成立。
終戦内閣として、戦争を終わらせた内閣。
鈴木貫太郎首相の下、米内光政は海軍大臣(第24代)を留任し、終戦のために尽力をした。


東京の米内光政邸宅跡

都内における米内光政の居住地跡を巡ってみたいと思う。
以下はメモとして。

・赤坂区青山南町
  昭和3年(1928)7月に居住の記録有り
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-24727
・渋谷区竹下町
  昭和15年まで居住(首相就任時に転居)
・麹町区三年町
  昭和15年に国会近くの地の新宅に転居。
  なお、首相時代には、首相官邸には居住せず、
  私邸から国会に赴いていた。
  麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000068037
・芝区白金台三光町 → 港区三田綱町
  仮遇として居住していたという
・目黒区富士見台1545
  終焉の地


麹町区三年町の米内光政私邸跡
(米内光政邸跡の石灯籠)

麹町区三年町。このあたりに、昭和15年の首相時代から昭和20年まで米内光政の邸宅があった。
米内光政の麹町区三年町の私邸は、昭和20年5月の空襲で焼失している。
そのときの空襲は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」と思われる。

麹町区三年町。現在の千代田区霞が関。

石灯籠のあるちいさな公園がある。
このあたりに、かつて米内光政の私邸があった。
東京の米内光政を記録する僅かな痕跡。

石灯籠の歴史
 この石灯籠は、永田町一丁目の岩手県東京事務所の敷地内にあったもので、岩手県のご好意により全国社会福祉協議会にご寄贈いただきました。

 終戦時この敷地は岩手県出身の総理大臣米内光政の邸宅となっていました。

 また、江戸時代は伊勢志摩を起源とする水軍の九鬼長門守の中屋敷跡でした。向かいあってもうひとつ上屋敷がありましたが、その前を通る坂は「茱萸(ぐみ)坂」と呼ばれていました。

 この石灯籠は形状から江戸中期のもので春日灯籠。九鬼家の中屋敷に伝わっていることから九鬼家由来のものであると考えられます。

 平成24年3月17日、永田町一丁目四番地から六本木通りを隔てて新霞が関ビル公開空地に移設いたしました。堂々たる風格でいかにも大名屋敷にふさわしい石灯籠です。
 全国社会福祉協議会

場所:ツツジの庭(新霞が関ビル公開空地)

https://maps.app.goo.gl/3m8dwzrsk1HRv8fTA

赤丸のエリアは推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」


芝白金三光町(米内光政仮遇の地)

昭和20年5月に、麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
仮遇を芝白金界隈に構えていたという。
白金となると流石に何も痕跡はない。

奥は、ザ白金ゲストハウス。元は竹中工務店の福利厚生施設跡地(白金竹友クラブ)。
もとは海軍中将の真木長義男爵邸で、戦後は外務省白金分室(外務大臣公邸)だったこともある場所。

敷地の奥には、旧服部金太郎邸もある。
旧服部金太郎邸(服部ハウス)は、戦後にGHQに接収され、1945年12月から1年間、極東国際軍事裁判(東京裁判)に携わるジョセフ・キーナン首席検事ら10人の検事の住居となったほか、1948年8月からは東京裁判の判決文の翻訳作業が行われた。

米内光政の仮遇の地も、なんだか終戦史が絡んでくる。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8


富士見台(米内光政終焉の地)

米内光政の終焉の地。
環七通りの拡張に伴い、往時の面影は残っていないが、だいたい現在の目黒区南3丁目あたりに、米内光政の最後の私邸があった。

昭和23年(1948)4月20日。
米内光政は目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
偶然にも臨終には、親交のあった緒方竹虎が立ち会っていた。(緒方竹虎は盛岡の墓石の揮毫にも携わっている)

昭和23年(1948)4月24日。
富士見台の自宅で、葬儀と告別式が行われた。
葬儀委員長は、山梨勝之進海軍大将。海軍の最長老であった。

戒名「天徳院殿仁海 光政大居士」

富士見台という地名は行政区分としては消えているが、公園やバス停に名前を残している。

赤丸のエリアが推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8

以上、米内光政の足跡を辿る所縁の地の散策記録でした。


※撮影:2023年8月

「ユダヤ人難民と北海道を救った将軍・樋口季一郎陸軍中将」顕彰碑と墓所(神奈川)

「ユダヤ人救出」「キスカ撤退」「占守の戦い」3つの奇跡を成し遂げた樋口季一郎陸軍中将。

ユダヤ人難民救出と言えば、「命のビザ」を発行した外交官・杉原千畝が有名であり、ユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」には、杉原千畝と樋口季一郎の2名の日本人の名前が記されている。

しかし、樋口季一郎の知名度は杉原千畝と比べ、圧倒的に低いが、樋口季一郎は、杉原千畝の「命のビザ」の発行の2年前に「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出ルートを手配しユダヤ難民の救出を実施している。

神奈川県に、そんな樋口季一郎に関連するモニュメントがあるので、足を運んでみた。


樋口季一郎之碑

鎌倉市山ノ内の円覚寺の塔頭・龍隠庵に、2023年5月21日に建立された顕彰碑。
建立されたばかり。

樋口季一郎碑

八風吹不動

日本国民に誇り伝えたい
陸軍中将樋口季一郎の功績

救国
昭和20年8月18日、終戦後にも拘わらず北海道占領を目論み占守島に進行したソ連軍を、第五方面軍司令官として撃破し、日本国の分断を未然に阻止した。
キスカ島救出作戦
昭和十八年、米軍に包囲されたキスカ島の日本軍将兵約五千人の救出を、北方軍司令官として大本営に意見具申し、同年七月、作戦は奇跡的に成功した。
ユダヤ難民の救済
昭和十三年三月、ナチスドイツの迫害を逃れオトポール駅(シベリア鉄道)に到達したユダヤ難民を、ハルピン特務機関長として救済した。この脱出路は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、その後も、多くの人命が救われた。

円覚寺龍隠庵の太田周文住職による、八風吹不動とは「八風(はっぷう) 吹けども 動ぜず」と読む禅語。

https://rarea.events/event/190387

円覚寺龍隠庵への参道

円覚寺


樋口季一郎

樋口季一郎(ひぐちきいちろう)
1888年〈明治21年〉8月20日 – 1970年〈昭和45年〉10月11日)
最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。
陸士21期、陸大30期。
歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官を務める。

「3つの功績」(3つの奇跡)。
1.ハルピン陸軍特務機関長であった樋口は、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れたユダヤ避難民に満洲国通過を認め、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路を用いて、亡命の手助けを実施(オトポール事件)

2.北部軍司令官として、北東太平洋の陸軍を指揮。大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦いで玉砕するも、キスカ島撤退作戦を成功させる。

3.ソ連対日参戦に対する徹底抗戦(樺太の戦い、占守島の戦いなど)を行い、8月15日以降も防衛戦を指揮しソ連軍の北海道上陸を阻止。北海道の赤化分断を挫くことに成功した。

戦後は隠棲し昭和45年(1970)老衰のために82歳で死去。


樋口季一郎の墓

神奈川県中郡大磯町東小磯の妙大寺。
ここに樋口季一郎の樋口家の墓がある。
樋口季一郎は居住地を転々としており、大磯にも住んでいた時期があった。

樋口季一郎の墓。

樋口家の墓としか、記載はない。

樋口季一郎の戒名は「真如院殿伯堂日季居士」
右から4番目。

墓碑は、1971(昭和46)年10月に樋口季一郎の長男の樋口季隆氏が樋口季一郎の死去に際して建立したもの。


ーーーーー

余談だが、妙大寺には、ほかにも著名人の墓がある。樋口季一郎の墓の隣は、福田恆存の墓。福田恆存(ふくだつねあり)の「私の國語教室」は昔、読んでいました。正字正仮名(歴史的仮名遣い)を学ぼうと思ったときもありましたので。

そして、ひときわに目立つのが、大磯の発展に寄与した松本順の墓。松本順に関しては、別記事を書く予定はある、、、

妙大寺


樋口季一郎の顕彰

神奈川以外にも、全国に樋口季一郎を顕彰するモニュメントがある。
機会があれば、足を運んでみたい。

  • 大垣城丸の内公園
    イスラエル大使館が樋口季一郎を顕彰し寄贈したオリーブの木がある。樋口季一郎は大垣に本籍を置いていた時期があった。(大垣の樋口家に養子となった)
  • 北海道石狩市「樋口季一郎記念館」
  • 兵庫県淡路市・伊弉諾神宮「樋口季一郎中将銅像」
    樋口季一郎は現在の南あわじ市出身。

大垣市「オリーブの苗木」

大垣出身の会社の後輩が帰省した際に、大垣市の丸の内公園にある「オリーブの苗木」の写真を撮ってきてくれました。
自分で行って撮影するまでのあいだは、後輩の写真を使用させていただきます。
ありがとうございます。

苗木No3,4
 平成21年12月8日に杉原千畝と同様にユダヤ人を支援した樋口季一郎が、大垣市に30年間籍を置いていたことを知った当時の「イスラエル駐日大使」から大垣市に寄贈されました。

※2024年6月に大垣に訪問したので、写真を追加。

場所

https://goo.gl/maps/VvcQj6zv7BuGfx787
※この項目のみ2023年8月撮影および2024年6月


大恩人(令和5年の「みたままつり」)

日本画家 佐藤宏三 氏 が、令和五年(2023)の靖國神社みたままつりに奉納した雪洞、なんと樋口季一郎陸軍中将でした。

制作過程の詳細が、公式サイトに掲載されております。

https://kozo-sato.art/mitama_festival_bonbori_2023/

ありがとうございます。
※撮影:2023年7月


関連

早稲田大学に、「命のビザ(杉原ビザ)」を発行した杉浦千畝のレリーフがある。

板垣退助銅像と板垣退助墓所

青梅に赴いたときに、地図を見ていたら「板垣退助の銅像」と記載があり。
気になったので、赴いてみました。
板垣退助の墓所は、品川に何度か足を運んでいたこともありましたので、せっかくなので一緒に掲載。


板垣退助

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。
明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。
東アジアで初となる帝国議会を樹立。
「国会を創った男」。
伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。(国会議事堂内に3人の銅像もある。)
国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

板垣退助の銅像

全国に、板垣退助の墓は下記の6ヵ所であるが、芝公園は現存していないので、実質は5ヵ所となる。
・国会議事堂
・芝公園(戦時供出で焼失)
・青梅釜の淵公園(昭和36年建立)
・岐阜公園(板垣遭難の岐阜事件にちなむ、戦時供出され、現在は2代目)
・高知城(出身地、戦時供出され、現在は2代目)
・日光東照宮(戊辰戦争で戦禍を回避した縁、戦時供出され、現在は2代目)


板垣退助銅像(青梅)

青梅市の釜の淵公園に。

明治時代に三多摩自由党の有志が、党首板垣退助を対岸の大柳河原に招いて鮎漁を楽しんだという。
それを記念して、昭和36年(1961)5月3日に建立したもの。

板垣死すとも自由は死せず
 大野伴睦書

自由民権確立のため其の生涯を捧げ、今なお憲政の父と仰がるる板垣先生、かつてこの地に遊ぶ。多摩の老政客・岩浪光二郎翁つとに先生を景慕すること厚く、その偉業を顕彰。以て高風を永く後世に伝えんとす。
ここに先生ゆかりの地を卜し、同志協力してこの像成る。
 昭和三十六年五月
  板垣退助先生銅像建設会
   設計作成 松野伍秀

多摩川の上流。風光明媚な景観。

場所

https://goo.gl/maps/2pNjBG2e5sRiU2RS9


板垣退助像(日光)

戊辰戦争に際して、日光に立てこもった大鳥圭介ら旧幕府軍を説得し日光を兵火から守った。
昭和4年の像は、金属供出され、昭和42年に再建。
2023年9月撮影。

神橋の近く


板垣退助像(岐阜)

工事中でしたので、望遠にて。(2023年9月)

明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件。
岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

岐阜城の近く。


板垣退助像(国会議事堂)

あまり興味のなかった2017年の撮影。これは取り直し、しないといけません。。。。

大日本帝国憲法施行五十周年を記念して1940年の建立。北村西望作。


板垣退助墓

高源院飛び地。
わかりやすくいくと品川神社の裏。
むかしから何故に品川神社の裏にあるんだろと思っていたが、もともと高源院という寺院があったんですね。高源院は、品川東海寺の塔頭であったが、関東大震災で被災し、昭和14年に世田谷区に移転している。寺院が世田谷に移転したのちも、板垣退助の墓所はそのまま高源院の飛び地として品川に残されている。
そのため、品川神社とは関係ない。。。

板垣退助の地元の高知県にも墓所はあるけど、こちらは東京の墓所。

邦光院殿賢徳道圓大居士

大正八年七月十六日薨 享年八十三

従一位勲一等伯爵板垣退助之墓

板垣退助の墓は第4正妻・板垣絹子と並んで建てられている。

品川区指定史跡
 板垣退助墓
  所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社裏
  指定 昭和五十三年十一月二十に日(第四号)
 板垣退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一八八一)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧わかせた。明治二十九年(一八九六)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九○○)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
  平成七年三月三十一日  
    品川区教育委員会

板垣
 死すとも
自由は
 死せず
   自由民主党
    総裁佐藤栄作書

明治100年及び板垣退助50回忌を記念して建立。

https://goo.gl/maps/QBbxsNPNm3wpdvHd7


品川神社

現在、板垣退助の墓は品川神社を経由しないと訪れることができない。
しなし板垣退助の墓所は品川神社の境内ではなく、高源院の飛び地。

品川神社は関係ないけど、絶対の通り道なので、、、

戦跡として。もはや、板垣退助とはなんら関係ないけど。

忠魂碑(品川神社)

この忠魂碑は明治43年4月に品川町在郷軍人会が日清日露戦争における戦没者の慰霊のため乃木大将の揮毫により当時の東海小学校構内に建立された 其の後昭和7年9月に権現山公園(現城南中学校校舎前)に移し 日支事変・大東亜戦争の戦没者をも加えて慰霊を行なってまいりました。
 昭和20年終戦後占領軍の命令により撤去させられましたが 北品川三丁目田島卯之吉氏が引き取られ千葉県南行徳の源心寺に移され慰霊を行なってまいりました。
 この度源心寺及び田島孝作氏のご厚意により終戦50周年記念事業として品川神社に引き取らせて頂き戦没者の追悼慰霊祭を執り行い平和の尊さを後世に伝えて行きたいと存じます
 平成7年7月15日
   宮司 小泉和夫 識

撮影:2022年3月及び2023年1月


関連

伊藤博文公墓所

「平和外交を尽力し続けた隻脚の名外交官」(重光葵記念館・湯河原)

湯河原駅からバスに揺られて終点の奥湯河原バス停から、数分歩いたところに、私設の記念館があった。

重光葵記念館

「重光葵記念館」
「昭和の動乱」を第一線の外交官として活躍し、終戦時には日本全権として降伏文書に調印。日本の戦争を幕引きし、そして戦後日本を国際連合加盟のために尽力した外交官「重光葵」が、その最後を過ごした別荘(保養所)のあった場所。
そこに、重光葵の次男、重光篤氏が、2000年に開設したのが、「重光葵記念館」。

重光葵記念館

http://contra99.ojiji.net/index.html

産経新聞記事

https://www.sankei.com/article/20140810-3GXA64WRCVKTHJLLLQD27R7QFA/

神奈川新聞記事

https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-19643.html

開館の日時は要注意。

金曜日 1200-1700
土曜日 1000-1700
日曜日 1000-1300

記念館内は撮影禁止。

展示品の一部は、サイトでも確認できる。

http://contra99.ojiji.net/tenjihin/index.htm

重光葵が、ここ一番の大事なときに使用した義足「恩賜の義足」(皇太后(大正天皇の貞明皇后)より賜った)も展示してある。また、重光葵の写真や手記などとともに昭和の動乱期の事象が時系列で展示。重光葵の書斎や、外交官時代の旅行鞄などもある。そして、重光葵に関する動画を視聴させていただくこともできた。ありがとうございます。

邸宅は、重光葵の頃からは、さすがに建て替えられています。


以下、多くを「平和への努力 重光葵の生涯」(重光葵記念館発行)を参照する。

重光 葵 (しげみつ まもる)

葵と書いて「まもる」(あおい ではない)

重光葵 
1887年〈明治20年〉7月29日 – 1957年〈昭和32年〉1月26日)
上海事変当時の駐華臨時代理公使。上海での天長節遙拝式場にて爆弾により右足を失う。
のち外務次官として対華問題に取り組み、張鼓峰事件時の駐ソ大使、そして二次世界大戦開戦時の駐英大使。
東条・小磯・東久邇宮内閣時の外相。降伏時の日本首席全権。戦後は改進党総裁。
鳩山一郎内閣副総理・外相として日ソ共同宣言・国連加盟を果たすなど、「昭和の動乱」を駆け抜けた第一級の外交官であった。

駐華公使での上海天長節爆弾事件
昭和7年1月28日に上海事変(第一次上海事変)が勃発。
なんとか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった、昭和7年4月29日、上海での天長節祝賀式典において、朝鮮テロリスト尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。なお、参列者は、爆弾が投げつけられた際も逃げることなく微動だもしなかった。これは「国歌君が代」斉唱中であったということもあった。
即死
 上海居留民団行政委員会会長 医師河端貞次
重傷
 上海派遣軍司令官 白川義則大将(翌月5月26日に死亡)
 第9師団長 植田謙吉中将(足指切断)
 第3艦隊司令長官 野村吉三郎海軍中将(右眼を失明)
 在上海公使 重光葵(右脚を失う)
 在上海総領事 村井倉松

この事件の7日後の5月5日、重光葵は、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。右脚切断の大手術のあとは、別府温泉で静養するも、昭和8年5月には外務次官に就任している。昭和11年の2・26事件の際も外務次官の要職にあった。岡田圭右内閣辞職後に、外部大臣であった広田弘毅が首相に任命されたのを期に、重光葵は、ソビエト駐在大使に任命となった。

写真参照元

駐ソ大使での張鼓峰事件
重光葵が駐ソ大使としてシベリア鉄道経由でモスクワに着いた日が昭和11年(1936)11月25日であった。奇しくもこの日に「日独防共協定」が調印。日本とドイツが共産主義インターナショナル(コミンテルン)に共同で対抗するとあっては、ソビエトはまったく歓迎できない空気感のもとでの重光の着任であった。
昭和13年(1938)7月29日、張鼓峰事件が勃発。ソビエトのリトヴィノフ外相との折衝で停戦協定は成立したが、このときに重光葵はソ連に睨まれ、のちの東京裁判で、ソ連側から張鼓峰事件の責任者として戦犯指名されることにもなってしまう。

駐英大使での日独伊三国同盟
張鼓峰事件ののち昭和13年10月に駐英大使として、モスクワを離れロンドンに着任。支那事変拡大の影響もあり、日英関係も悪化していた。
昭和14年(1939)9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発。1940年5月にはチェンバレン内閣の海相であったチャーチルが首相に就任し、英国では挙国一致内閣が成立となった。
日本では、陸軍主導でドイツへの接近が強まり、日独伊三国同盟が駐独大使の大島浩中将によって進められていた。
昭和15年(1940)9月、欧州の情勢をつぶさに報告し、日独伊三国同盟の危険性を指摘し警笛を鳴らしていた重光葵駐英大使の声も虚しく、第二次近衛内閣は、東條英機陸相、松岡洋右外相のもとに、日独伊三国同盟を締してしまう。
駐英大使として、英国チャーチル首相と親交を深めていた重光葵であったが、イギリスでの外交は完全に手詰まりとなり、昭和16年(1941)6月に英国を離れ、アメリカ経由で7月20日日に鎌倉丸で日本へ帰国した。

外務大臣での大東亜憲章(大東亜共同宣言)
昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦。
日本に帰国していた重光葵は、昭和16年12月19日に駐英大使を被免となり、駐華大使として南京に赴任。
重光葵は、米国ルーズベルト大統領と英国チャーチル首相の大西洋憲章を意識した大東亜憲章の構想を練り、大東亜憲章のもとにアジア各国の共同機関「大東亜機構」を作り、協力体制を確立する計画であった。
昭和18年4月に、日本に帰国し上京した重光葵は「大東亜憲章」を東条首相に進言。その夜に首相官邸より呼び出しがあり、谷外相が辞表を出したということで、重光葵は外務大臣に就任。
重光外相は東条首相の大東亜省設置には反対をするも、自らの大東亜憲章構想に奔走し、昭和18年(1943)11月、大東亜共同宣言として、実現し、大東亜会議が開催となった。
大東亜共同宣言の内容は、軍部からの異論を抑えるために、重光外相が、直接に東条首相に提出しており、「1.大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道󠄁義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス」に始まる5条は、大東亜各国の自主独立、民族の創造性、文化高揚、経済発展を謳ったものであり、重光外相には、和平や戦後構想にむけて、長年欧米諸国の植民地として搾取されていた各国の独立構想が織り込まれていたものであった。
昭和19年7月19日、東條内閣は戦局の悪化と重臣による倒閣運動により総辞職。小磯国昭内閣が成立。東條英機の後任は難航し、陸軍大将を専任順に選考するも、寺内寿一、畑俊六は断られ、3番手の小磯国昭陸軍大将に落ち着く。しかし小磯は政界に疎く政治基盤もないために指導力不足が懸念されたため、総理経験者の米内光政海軍大将を副総理格として起用し、重光葵は引き続き外相に就任した。

終戦工作
小磯内閣が、中国国民党政府との和平工作(繆斌工作)に失敗したため、内閣総辞職すると、重光葵も外相を辞任。
三番町の自宅は5月25日の空襲で焼失していたために、日光の別荘に疎開。
昭和20年8月に、木戸内大臣より外務省を通じて、東京に来るように依頼があり、8月8日に上京。木戸内大臣や近衛元首相たち重臣たちと終戦に向けての工作に奔走することになる。

日本全権での降伏文書調印
「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点」

鈴木貫太郎内閣は昭和20年(1945)8月15日に終戦を決定し、総辞職。後継は、軍部の暴走を抑えるための宮様内閣として東久邇宮稔彦王内閣となった。
重光葵は、3度めの外務大臣に就任。終戦処理を担う外務大臣となった。

降伏文書調印式の日本全権は、天皇及び日本政府を代表して重光葵外相、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長。
昭和20年9月2日、重光葵全権が早朝に詠んだ心境。
 ながらへて甲斐ある今日はしも
  しこの御楯と吾ならましを
上海の爆弾事件で失っていた命を永らえて、今日は 天皇の御楯として調印式へと向かう重光は、終戦反対の国家主義者にいつおそわれてもおかしくないなか、東京湾のミズーリ号に乗艦するするために横浜に向かった。

ミズーリ号艦上での調印式。

写真参照元

外務省外交史料館別館で展示されている降伏文書(原本特別公開)


調印の心境を、重光は以下のように詠んでいる。
 願わくは御国の末の栄え行き
  我が名さけすむ人の多きを

「降伏文書に調印した自分のような恥ずべき外相が蔑まれるような、栄えある日本になってほしい」との意を込めた、志の高い名外交官による屈辱的でもあり歴史的でもあった大きな一幕であった。

軍政施行中止要望
調印式が終わって、帰郷した重光全権は、東久邇宮首相に報告をしたのちに、参内して 天皇にも委細を奏上。その夜に。外務省からの通報で、GHQは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷き、軍票を使用させ、公用語も英語にする方針であることがわかった。
重光外相は翌日朝に、再び横浜赴き、旧横浜税関のGHQ総司令部でマッカーサーと面談。「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「 天皇は、受諾したポツダム宣言を忠実に履行する決意がある。日本国民の崇敬する天皇の指令する日本政府を通じて、占領政策を実行するのが一番の方法だ」と軍政布告の取り下げを要求し、その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。
昭和20年10月5日、東久邇宮内閣は総辞職。元外相の幣原喜重郎内閣が成立。重光葵も外相を離れ日光から鎌倉に転居。

A級戦犯
昭和21年(1946)4月13日に来日したソ連代表検事セルゲイ・A・ゴルンスキーが、ジョセフ・キーナン主席検事に対して、東條内閣・小磯内閣の外務大臣であった重光葵をA級戦犯にするように強硬に要求。GHQは、重光を戦犯起訴するつもりはなかったが、ソ連の揺さぶりに屈する形で要求を容認せざるを得ず、重光葵は昭和21年4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、巣鴨プリズンに連行となった。奇しくも天長節の4月29日は、重光が右脚を失った日でもあった。
2年半を要した軍事裁判は、昭和23年11月12日に判決が言い渡され、東條英機以下7名が絞首刑となる。この中には文官として元首相で重光にとっては外務省の先輩に当たる広田弘毅も含まれていた。東郷茂徳元外相は禁錮20年、そして重光葵は禁錮7年と一番軽く、その他は終身刑であった。
重光は、A級戦犯の中では最も軽い禁錮7年ではあったが、日本だけではなくアメリカでも重光は無罪と予想されてたなかでの有罪判決は、ソ連に対する政治的な妥協があったとも批評されている。
重光は、4年7ヶ月の服役後で、昭和25年(1950)11月21日に巣鴨拘置所を仮出所(減刑保釈)。昭和27年(1952)に講和条約(サンフランシスコ平和条約)の発行後に恩赦により刑の執行を終了となった。

改進党総裁
吉田茂の自由党に対抗する第二の保守として、昭和27年6月、改進党の元首相芦田均(重光の外務省時代の同僚)の要請があり、重光は改進党総裁に就任。
昭和28年には、自由党の吉田茂と鳩山一郎が分裂。
昭和28年11月24日に、鳩山一郎を総裁とし、重光葵を副総裁、幹事長を岸信介とする「日本民主党」が設立し、吉田茂内閣不信任案を提出。第5次吉田内閣は総辞職となり、鳩山一郎内閣が成立。重光葵は、4回目の外務大臣、そして副総理となった。

国連加盟と「東西の架け橋」
鳩山内閣では、「日ソ交渉」と「国際連盟への加盟」が大きな課題であった。
重光外相は、昭和31年(1956)7月に全権としてモスクワでソ連との交渉を行うが領土問題で交渉は難航。重光葵は対ソ強硬論であったが、鳩山一郎は日ソ国交回復を最優先する方針であった。
10月に鳩山一郎首相によって「領土問題は棚上げ」しての「日ソ共同宣言」が調印。日ソ国交回復が実現した。(なお、日ソないし日露での平和条約は現在においても未締結。)

昭和31年(1956)12月18日、これまではソ連の反対で加盟できなかったが、共同宣言締結によってソ連の支援を得られることにより、国連総会は、加盟国の全会一致で、日本の国連加盟を承認した。
重光葵外相は、12月18日の総会の、加盟の謝辞とともに、有名な演説を行った。
 わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であつて、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分自覚しておるのであります。
 私は本総会において、日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明して、私の演説を終ります。
これが、後世にのこる有名な「東西の架け橋」演説となる。

外務省サイト

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/esm_1218.html

終焉
昭和31年12月23日、第三次鳩山一郎内閣が総辞職。石橋湛山内閣が成立。重光も辞任し、後任の外相は岸信介となる。
日本に帰国した重光は、昭和32年の正月を郷里の大分県国東で過ごした。
帰京して、湯河原の別荘で静養をしていたが1月26日夜半に、狭心症の発作を起こし急逝した。69歳だった。

 霧は晴れ 国連の塔は輝きて
  高くかかげし 日の丸の旗 

日本の国連加盟が承認され、本部前に初めて日の丸が掲揚された様を詠んだ句が辞世となった。
重光は、国連演説の後、加瀬俊一初代国連大使に「ありがとう。もう思い残すことはない」と言い残し、そのわずか一ヶ月後にこの世を去ってしまった。

墓は大分県国東市安岐町にある。安岐町には、重光葵元外務大臣の遺徳を偲び、後世にその功績を伝えるために建立された「山渓偉人館」もある。また、杵築市には重光邸「無迹庵」も残っている。
葵(あおい)は中国では向日葵(ひまわり)を意味し、「向陽」と号していた。
地元の大分県国東市安岐町では遺徳を偲び命日に「向陽祭」が執り行われている。

「志四海」
「四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼす。」という意味。重光が常に胸に留めていたこの言葉は、今も重光葵記念館や母校の大分県立杵築高等学校に残されている。


機会あれば、大分の重光関連の土地にも訪れたいものです。
※撮影:2023年2月


関連(湯河原)


関連(昭和外交)


浦賀ドックのきっかけとなった「中島三郎助招魂碑」と横須賀最古の公園「浦賀園」(愛宕山公園)

「浦賀ドック」の浦賀船渠が創立したきっかけが、浦賀奉行所の与力であった中島三郎助。その慰霊碑がある愛宕山に行ってみる。


愛宕山公園

横須賀で一番古い公園という。

愛宕山公園
 明治24年(1891)に開園したしないで一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれていました。
 浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱よって浦賀船渠㈱が創設された話は有名です。
 咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
 与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
 江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀園の入口。

えーっと。道がない。
夏場に来ては駄目なところでした。

強行突破しました。。。

夏以外に訪れることをおすすめします。。。

ヤブを抜けた先の開けた場所に記念碑がありました。


咸臨丸出航の碑

市制施行70周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出航の碑
 嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて、浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする、使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は万が一の事故に備えて、軍艦奉行・木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下、九十有余名の、日本人乗組員で、運航する、咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨を上げました。途中、横浜で難破した、米測量船クーパー号の選任11名を乗せ、16日夕刻、浦賀に入港しました。それから2日間、食糧や燃料その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた、咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果した咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う、万延元年(1860)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸・太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向い合うように、ゆかりの深い、この地に建てられたものです。
 なお、この愛宕山公園は、明治26年開園で、市内最古の公園です。また、彼方に建つ、招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

咸臨丸出航の碑

日米修好通商百年を記念して昭和三十五年に建立。
碑は船型、材質は花崗岩。

裏面には乗組員の名が刻まれている。
軍艦奉行 木村摂津守喜毅
教授方頭取 勝麟太郎
通弁役 中浜万次郎
奉行従者 福沢諭吉、ほか


愛宕山公園

広場にたどり着くも、とにかく草がひどい。
何度も記載するが、夏はやめときましょう。


中島三郎助の招魂碑

横須賀市指定 市民文化資産
中島三郎助招魂碑
明治24年、彼を追慕する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。

榎本武揚の篆額

中島君招魂碑

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀奉行所与力
中島三郎助生誕200年祭
令和3年(2021年)1月25日
中島三郎助と遊ぶ会

中島三郎助の生涯
 中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。
 文政4年(1821年)21月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。

  天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与力見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすんべて免許皆伝となっている。
 この砲術の腕前は、天保8年(1837年)6月に浦賀沖に来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功績で、浦賀奉行・大田資統から太刀を拝領した。
 また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚している。

 嘉永2年(1849年)6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失す、その責任から謹慎処分を受けた。

 嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉した。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。
 ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べており、力の差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。

 幕府も軍艦の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9ヶ月というスピードで翌年5月に完成させている。
 こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。

 安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。
 また和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。
 戊辰戦争が始まると榎本武揚らとともに北海道にわたり、ここに新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、函館五稜郭近くで1869年5月15日桓太郎・英次郎ともに戦死した。
 
 明治23年(1890年)5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意思を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。

中島三郎助
 明治2年(1869)5月、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向かいにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭で共に戦った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕式の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意思を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。

招魂碑建碑由来碑

同じく、浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀ドックや浦賀の歴史を、調べようとすると、この中島三郎助にたどりつく。いままで知るよしもなかったことをこうして新たに知れるのが楽しい。


与謝野夫妻歌碑

良さの夫妻の歌碑もあった。

黒船を怖れし世などなきごとし 
 浦賀に見るはすべて黒船
               寛
春寒し造船所こそ悲しけれ 
 浦賀の町に黒き鞘懸く
               晶子

昭和10年3月3日に与謝野夫妻が観音崎・浦賀・久里浜を訪れている。与謝野寛は同年3月26日に亡くなっているため、生涯最後の歌のひとつといわれている。

愛宕山から海を望む。
夏はやめといたほうが良いですね。(大事なことなので何度も書きます)


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi7.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004024.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004001.html

https://routemuseum.jp/theme/g05/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/tokubetuten/4.html

「為萬世開太平」終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎の関連史跡2(晩年の地・千葉県野田市関宿町)

千葉県野田市関宿町。
この地に、鈴木貫太郎記念館がある。
関宿町は、鈴木貫太郎が幼年期と最晩年を過ごした土地。
前々から気に掛かる場所でした。

実は先日に、関西に出張がありました。
せっかくなので、足を伸ばしたのが、「鈴木貫太郎生誕の地」。
生誕の地に行ったのであれば、晩年の地、にもです。

本記事は「その2・晩年の地」です。
「鈴木貫太郎関連史跡1・誕生の地(大阪府堺市)」は以下より。


鈴木貫太郎

1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日。
海軍大将。終戦時の内閣総理大臣。
海軍士官として、海軍次官・連合艦隊司令官・海軍軍令部長などを歴任。
予備役後に侍従長・枢密院顧官・枢密院議長などを歴任。
小磯国昭内閣のあと、内閣総理大臣に就任。日本を終戦へと導いた。

1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾)に生まれる。伏尾は下総関宿藩の飛地であり、関宿藩久世家の家老であった父の鈴木由哲は、代官として和泉国大鳥郡伏尾に赴任しており、鈴木貫太郎は、その関宿藩飛地の堺伏尾で生まれている。3年後の1871年(明治4年)、鈴木貫太郎は本籍地の関宿に居住を移している。

日清戦争

1884年(明治17年)、海軍兵学校に入校(海兵14期)。
1895年(明治28年)、日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦いに参加。水雷射出の失敗があり部下の上崎辰次郎上等兵曹は戦後に責任を感じ艇内で自刃。追悼碑「上崎上等兵曹之碑」が、今も海自第二術科学校(海軍水雷学校跡)に残っている。

日露戦争

1897年(明治30年)、海軍大学校入校。(海大1期)
1903年(明治36年)、ドイツ駐在中に海軍中佐昇進。イタリアで建造されていた装甲巡洋艦「春日」の回航委員長となり日本に向けて航行中に日露戦争が開戦。日本に到着した鈴木貫太郎は、そのまま春日副長に就任に黄海海戦に参戦。

1905年(明治38年)、第四駆逐艦司令として、高速近距離射法でもって、ロシア戦艦3隻に魚雷を命中させる活躍をする。この際の猛訓練から、鬼の貫太郎・鬼の艇長・鬼貫と渾名された。

1914年(大正3年)、海軍次官に就任し、シーメンス事件の事後処理を行う。
1915年(大正3年)、先妻とよ(1912年、死去)の後妻として、足立たかと再婚。足立たかは 裕仁親王( 昭和天皇)の年少期の教育係を勤めたこともあり、後に侍従長を務める鈴木貫太郎ともども、夫妻で 昭和天皇に仕えることとなる。
1923年(大正12年)、海軍大将に昇進。1924年に連合艦隊司令官、1925年に海軍軍令部長に就任。

侍従長

1929年(昭和4年)、 昭和天皇の希望があり、鈴木貫太郎は海軍を予備役となり、侍従長に就任。
「大侍従長」として、 昭和天皇の信任が厚かったが、1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮会議の政府案に反対する加藤寛治海軍軍令部長を説得するなどが、青年将校たちからは、のちに牧野伸顕とともに「君側の奸」として命を狙われることとなる。

二・二六事件

1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件が勃発。
鈴木貫太郎はたか夫人とともに、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの夕食会に参加し、2月25日11時過ぎに麹町三番町にあった侍従長官邸に帰宅
2月26日午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃。
下士官が兵士たちに発砲を命じ鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾。
安藤輝三陸軍大尉がとどめをさそうとすると、たか夫人が「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。
安藤は軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令し、たか夫人に「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と発し、侍従長官邸を立ち去っている。
反乱部隊が去った後、たか夫人は止血処置を行い、湯浅倉平内大臣に連絡。湯浅内大臣に鈴木貫太郎は、「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と話をするが、こののちに出血多量で意識を失い、近くの日医大飯田町病院に運び込まれている。
瀕死の重傷ではあったが、幸いにして急所を外れおり、快復した。

1937(昭和12年)1月に、鈴木貫太郎は、生地に鎮座する多治比売神社に、二・二六事件での負傷からの本快祝の参拝をしている。
「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました」と語られている。

終戦内閣総理大臣

1941年(昭和16年)12月8日、対米英開戦。大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発する。
1945年(昭和20年)戦況悪化の責任をとり辞職した小磯国昭内閣の後任として、内総理大臣に就任。 昭和天皇から頼まれ首相に就任する異例の事態であった。また、77歳2ヶ月での内閣総理大臣就任は戦前戦後を通じて日本最高齢の記録、江戸時代の生まれで非国会議員での就任は最後にあたる。

今日、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。

昭和20年4月7日、内閣総理大臣  鈴木貫太郎の表明

昭和20年の鈴木貫太郎内閣主要人物
内閣総理大臣:鈴木貫太郎
外部大臣:東郷茂徳
内大臣:木戸幸一
陸軍大臣:阿南惟幾
参謀総長:梅津美治郎
 参謀次長:河辺虎四郎
海軍大臣:米内光政
軍令部総長: 豊田副武
 軍令部次長:大西瀧治郎
内大臣:木戸幸一
枢密院議長 :平沼騏一郎

ポツダム宣言を黙殺する

1945年7月26日、イギリス・アメリカ・中華民国の名において発表された「ポツダム宣言」は、7月27日未明、外務省経由で宣言内容を把握。直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議を開始。

外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。」という意見で合意し、政府の公式見解は発表しないという方針に決まった。
しかし、継戦派の梅津美治郎・阿南惟幾・豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し押し切られる形で、28日午後におこなわれた記者会見で、鈴木貫太郎首相は「「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」とコメント。「ポツダム宣言を黙殺する」との発言には、鈴木貫太郎首相は「黙殺=ノーコメント(特に意見を言わない)」の意であったが、「黙殺する」が大きく取り上げられ、連合国側は拒絶と解し誤解を生むこととなってしまった。
鈴木貫太郎は、のちに「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している。

昭和20年8月9日・御前会議

広島そして長崎と新型爆弾(原子爆弾)が投下され、ポツダム宣言を受諾するしか道がない状況下での御前会議は、昭和20年8月9日に開催された。

これまで陸軍を代表して「一撃講和」、一線を交えてからの講和を(陸軍へのジェスチャーとしての側面もあったが)主張していた阿南惟幾陸軍大臣も、ここに至って、ポツダム宣言の受諾を受け入れる方向へとなりつつあった。

陸軍の声を代表する阿南惟幾陸軍大臣は、米内光政海軍大臣と激論を戦わせ、結論が出ず、ついに鈴木貫太郎首相は、最後の手段として、 昭和天皇のご臨席を仰ぐ御前会議を決断する。

昭和天皇ご臨席のもとに午後11時50分に開始された御前会議。

阿南惟幾陸軍大臣は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見をし、梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長は阿南の意見に賛同。
東郷茂徳外務大臣は「終戦やむなき」と意見し、米内光政海軍大臣と平沼騏一郎枢密院議長が賛同。
意見が出揃った8月10日深夜2時ごろ、鈴木貫太郎総理大臣は、自らは発言せずに「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が 陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と 昭和天皇の意見を求めた。終戦反対の強硬派は不意を突かれた形となった。
昭和天皇は身を乗り出すと
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」
「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との「ご聖断」を下した。

そうして、ご聖断が下された御前会議が終了した。
しかし、8月13日に、ご聖断があったにも関わらず、最高戦争指導会議は紛糾しており、翌日に再び 聖断を仰ぐことになった。

昭和20年8月14日・御前会議

8月14日午前11時、御前会議開催。
阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は、「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。阿南らにとって最期に死守すべき事項が「国体護持」(天皇制の継続)であった。
意見を聞いた 昭和天皇は、「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べられた。その瞬間、会議は慟哭に包まれ、鈴木貫太郎首相は、至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪した。

慟哭する阿南陸相に対して、 昭和天皇は「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いたという。

大東亜戦争終結ノ詔書

昭和20年8月14日、終戦の詔書の審議も無事に終わり閣僚たちが終戦の詔勅への署名する。

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

国立公文書館で公開のあった「終戦の詔書原本」。

こうして、日本の降伏が決まった。

鈴木貫太郎内閣閣僚の署名が終わり、総理大臣室を訪れた阿南陸相が、鈴木貫太郎に最後の言葉を発している。。
「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪。
同席していた迫水内閣書記官長は、陸軍の暴発を抑えるために心にもない強硬意見を発していた阿南の心情を理解しもらい泣きをしている。

鈴木首相は、阿南陸相の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意。

阿南陸相が部屋を離れた後に、鈴木首相は迫水に「阿南君は暇乞いに来たんだね」と。
鈴木貫太郎は阿南惟幾に最期の覚悟を感じ取っていた。
ちなみに昭和4年に、阿南惟幾が侍従武官に就任した際の、当時の侍従長は鈴木貫太郎であり、その時から阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。

私邸焼き討ち(宮城事件)

昭和20年8月15日の早朝、終戦反対派が決起し、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名が身柄を拘束され、宮中占拠、そして近衛第一師団長森赳中将を殺害する宮城事件が発生。
佐々木武雄陸軍大尉ら国粋主義者が宮城事件に連動して総理官邸及び小石川丸山町私邸、平沼騏一郎邸などを襲撃。
鈴木貫太郎も襲撃されるも、からくも私邸から脱出。そのときに鈴木貫太郎私邸は焼き討ちされた。今は石垣のみ残る。

鈴木貫太郎邸跡

8月15日の未明、阿南惟幾が自刃。
8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催。
まず鈴木貫太郎首相から冒頭に話があった。
「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります……謹んで、弔意を表する次第であります」との報告とともに、阿南の遺書と辞世の句も披露した。
同日、鈴木は昭和天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職。東久邇宮内閣が成立する8月17日まで職務は執行している。

永遠の平和、永遠の平和

1945年(昭和20年)12月15日に、枢密院議長であった平沼騏一郎が戦犯容疑で逮捕されたために、鈴木貫太郎が就任(2回目)。翌年の昭和21年6月3日に公職追放令の対象となったために辞職し、郷里の関宿に隠棲。

1948年(昭和23年)4月17日、肝臓癌のため関宿町で死去、享年81。
死の直前、鈴木貫太郎翁は危篤状態で口がきけなくなっていましたが、突然唇が動き、非常にはっきりとした声で「永遠の平和、永遠の平和」と二度繰り返し、再び口を開くことなくまもなく永眠したという。
墓所は関宿町の実相寺。
遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていたという。
遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館で管理されている。


鈴木貫太郎翁終焉の地

野田市関宿町。
鈴木貫太郎が晩年を過ごした邸宅跡に建つ鈴木貫太郎記念館の周辺には、関連する史跡が点在している。

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎翁終焉の地
吉田茂謹書

昭和33年2月 関宿農事研究会建立

正二位勲一等 鈴木貫太郎閣下経歴
 慶応三年     関宿須主久世大和守代官の長男として泉州境に生る
 明治二十年    海軍少尉
 明治三十九年   授功三級金鵄勲章
 大正三年     海軍次官
 同 七年     海軍兵学校長
 同十一年     呉鎮守府司令長官
 同十二年     海軍大将
 同十三年     連合艦隊司令長官
 同十四年     海軍々令部長
 昭和四年     侍従長兼枢密院顧問官
 同十一年     男爵
 同十九年     枢密院議長
 同二十年四月   内閣總理大臣
 同二十年十一月  萬世の為に太平を開き郷里関宿に帰山
 同二十一年十二月 枢密院議長再任
 同二十二年    青年有志を集め農事研究会を結成
 同二十三年四月  関宿に於て薨去八拾一歳
  日本青年協会理事 青木常盤撰文      
  関宿町教育長 奥原謹爾書

鈴木貫太郎翁邸跡

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎翁邸跡

 終戦内閣総理大臣鈴木貫太郎翁は、終戦処理の大任を果たし、昭和21年9月、郷里関宿に帰られました。
 時に80才であり、且つ2・26事件の時には、数発の弾丸を身に受け、その内の時の一発は体に残っていましたが、矍鑠として居られました。
 翁はこの地に農事研究会を発足させ、青年を指導され、将来酪農を農業経営に採り入れていくべきことを助言されました。
 「酪農の町関宿」の基礎は、翁がきずかれたといっても過言ではありません。
 昭和23年4月17日「永遠の平和」の一言を残し、82才で大往生されました。
 平成2年8月
  野田市教育委員会

鈴木貫太郎翁邸跡・門扉

鈴木貫太郎翁邸跡・井戸

鈴木貫太郎翁邸跡・戦没者慰霊碑

鈴木貫太郎翁の19回忌に85歳なった鈴木たか夫人が昭和42年に奉納したもの。
タカ夫人は貫太郎翁の没後も関宿に居住して、酪農の推進など関宿の発展に尽力し、昭和46年に逝去している。

萬霊供養塔

為 
日清日露両戦役・太平洋戦・戦死病没者諸霊・殉国出陣学徒・原爆・被災諸霊
追善菩提

大乗妙典一字一石寫経奉納

昭和42年4月17日
 願主 鈴木孝子
      85歳


鈴木貫太郎記念館

鈴木貫太郎記念館。
昭和38年(1963年)、吉田茂総理の提案などもあり開館。
令和元年(2019年)10月の東日本台風で被災、耐震診断でも建物強度不足が指摘され、長期休館(臨時休館)を余儀なくされている。
鈴木貫太郎記念館の補強改修が困難なために、記念館の再建を予定している。

「為萬世開太平」塔碑

「万世のために太平を開く」

大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送)の一節。
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
(堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す)

大東亜戦争終結ノ詔書(終戦詔書・玉音放送)は、8月14日付けで詔として発布された。
大筋を内閣書記官長・迫水久常が作成、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、更に14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が加筆して完成し同日の内に天皇の裁可があった。
大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名による。

安岡正篤が加筆した「以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」は、もとは、張横渠(ちょうおうきょ、1020~1077、張載とも、北宋の儒学者)が残した「四言教」という名文の一節からとられたという。

為萬世開太平
 鈴木貫太郎書

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎記念館
 迫水久常書

迫水久常は、鈴木内閣の内閣書記官長。
終戦詔書(いわゆる玉音放送)を起草した人物の一人。

 本館は故内閣総理大臣海軍大将男爵鈴木貫太郎の遺品を蒐集陳列しその事蹟を保存する
 鈴木貫太郎は慶應三年に生れ日清日露の両戰役には水雷艇長として威海衛の敵港深く突入し或は駆逐隊司令として日本海海戦に敵艦二隻を撃沈水雷戦術の第一人者であったが武運に恵まれ身に一彈も受けず部下に一人の戰死者も出さなかったという
 海軍軍人最高の栄誉たる軍令部長に就任在任中侍従長の下命を受け今上陛下の側近に奉仕せらる昭和十一年所謂二・二六事件勃発し反乱軍の撃った三彈は眉間心臓の急所を突いたが奇跡的に一命を取り止められた而して第二次世界大戰の終末史上未曽有の国難であった終戰内閣の宰相となり特に天皇陛下の萬世の為に太平を開くとの御聖旨を体し祖国を救う大勇猛心に一億玉砕民族滅亡への方途に追いつめられていた至難な戰局の収拾に身命をささげられ克く国体の護持と民族存続の大偉業を達成された即ちポツダム宣言の無條件受諾を敢行し昭和二十年八月十五日終戰詔勅の玉音放送を奏請して日本を今日に救い世界平和の礎を築いた功績は世界史上に燦として不滅の光を放つものである実にかくの如き行動は盡忠無私の人ならでは不可能事であって国民として何人も忘れ去ることが出来ない
 終戰後は郷里関宿に歸住村民古老と交わって農事を奨励し或は郷土青年の先頭に立って国民精神の
振興に専念されたが余生僅か一年有七ヶ月昭和二十三年四月十七日永遠の平和の一語を残してこの地関宿の自邸に眠るが如き大往生を遂げられた享年八十一歳菩提寺実相寺に葬る
 この不世出の偉人を顕彰し国民の亀鑑として永く後世に傳える為近郷市町村の有志が相図り當記念館を発起建立する
  昭和三十七年  財団法人 鈴木貫太郎記念会

入館料は、無料。しかし、閉館中。。。

お知らせ
 現在、諸事情により館内展示物がございません。ご来館の皆さまには申し訳ございませんが、ロビーでの資料映像(タカ夫人による2・26事件の証言)のみとなりますので、ご了承承りたく案内いたします。
 尚、説明希望の方は、担当までお申し出下さい。
  鈴木貫太郎記念館

鈴木貫太郎記念館の早期再建を期待しています。
再建は、やはり鈴木貫太郎ゆかりの関宿でお願い致します。


集乳所新設記念の碑

集乳所新設記念の碑が東側の駐車場にある。

以和為貴
関宿町酪農組合は去る昭和廿四年同志廿四名を以て創立し同廿六年事務所と集乳所を鈴木家邸内に設けその機能を拡充強化して発展の態勢を整へ同廿九年近代的集乳所を同邸内に新設して不動の基盤を確立した今や組合員八十名を数へその旺盛なる活動と合理的経営進歩的運営とはラヂオ放送に新聞報道に数次採擇せられて広く世の注視を浴びてゐる組合結成以来僅に五星霜真に驚異的な躍進と謂はざるを得ない按ずるに本組合の創設並に爾後の進展向上は一に元首相故鈴木貫太郎翁と孝子令夫人の薫化誘掖の賜で翁の遺訓「正直に腹を立てずに撓まず励め」の一語は組合員の信條であり全員その高諭を服膺し高風を欽慕して百折不撓千挫不屈の精神を堅持し夙夜精励してゐる更に本町酪農事業の創始者杉本峯蔵翁並に本町農事研究會に於ける有畜農業の提唱指導者岡本敏夫先生酪農経営の合理化近代化の教示啓発者楢原恭爾博士及び常に助言を惜しまざる浜野政三博士の懇志芳情は組合員の深く銘記する所である茲に集乳所新設に際し碑を建て由来を記してこれを記念する
 昭和二十九年五月十四日   鈴木孝子篆額  奥原謹爾撰文並書

以和為貴

鈴木孝子の名前が見える。

集乳所新設記念の碑
 晩年をこの地で過ごした鈴木貫太郎翁は、地元の農家の若者を教育するために、指導者を招いたり尽力しました。その影響もあり、関宿地域で酪農がさかんとなったといわれています。
 この碑は、昭和29年(1954年)、鈴木家の敷地に集乳所が新設されたのを記念して、関宿町酪農組合によって建てられた記念碑です。タカ夫人により書かれた貫太郎翁に日常訓「以和為貴(和をもって貴しとなす)」の文字が刻まれています。
 野田市教育委員会

集乳車が停まっている。

関連

https://www.city.noda.chiba.jp/shisetsu/bunka/1001064.html

https://www.city.noda.chiba.jp/kantaro_museum/index.html

場所

https://goo.gl/maps/qiGnabvYRPuF6sPz7


実相寺

鈴木貫太郎、鈴木孝雄兄弟のお墓がある。
関宿藩主久世家の菩提寺でもある寺院。

旧関宿藩主久世家
終戦内閣総理大臣鈴木貫太郎翁 菩提寺
日蓮宗 寶樹山 實相寺

寶樹山 實相寺
海軍大将
男爵 鈴木貫太郎書

報恩感謝
 この門柱は昭和18年2月、矢口米男・寛両氏の浄財により建立されました。「宝樹山 實相寺」の山号寺号は、終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎翁の直筆であります。建立当時、袖垣も取り付けられた姿を予定していましたが、戦中戦後の動乱期のため、完成することはできませんでした。(略

実相寺
 当山は、宝樹山本足院実相寺と称し、日蓮宗のお寺です。創建は神亀元年(724年)行基により、法相寺として茨城県総和町水海の地に開山したといわれています。
 その後、真言宗に改宗しましたが、応永16年(1409年)、日蓮宗の高僧の一人と言われる妙親院日英上人により、日蓮宗に再度改宗され現在に至っております。
 長禄元年(1475年)の頃、古河公方足利成氏の重臣であった簗田氏が関宿城に入場した時、当山は水海より関宿の地に移されました。
 境内には、中雀門と呼ばれる唐破風形式の山門、大きな袴をはいた鐘楼堂、そして明治4年(1871年)に関宿城本丸の一部の建物{宝歴6年(1709年)に建造}を移築した現在の客殿(千葉県では本丸の建物が現存するのはここだけです)があります。また、本山は江戸中期以後、明治まで関宿城主であった久世家の香華院(菩提寺)であったため、久世家歴代の城主と奥方の位牌が安置されています。
 墓地内には関宿藩の家老職を勤めた富田家・奥原家・亀井家など久世家関係の家臣を始め、終戦内閣総理大臣を勤めた、鈴木貫太郎翁(元海軍大将・元侍従長)夫妻、弟の鈴木孝雄翁(元陸軍大将・元靖国神社宮司)夫妻など鈴木家の墓もあります。 
 野田市教育委員会


海軍大将
終戦内閣総理大臣
 鈴木貫太郎翁墓所 左手奥
陸軍大将
 鈴木孝雄翁墓所 左手前


鈴木貫太郎墓所

鈴木貫太郎墓

鈴木貫太郎墓には、鈴木貫太郎と鈴木タカが眠る。

大勇院殿尽忠孝徳日貫大居士
 昭和23年4月17日 薨 (俗名 鈴木貫太郎)
貞烈院殿妙聞賢徳日孝大姉
 昭和46年9月23日 薨
  俗名 タカ 享年89

鈴木貫太郎墓の右隣には、両親である鈴木由哲・きよ夫妻の墓。
鈴木由哲は、幕末の関宿藩久世家の家老。晩年は関宿町町長を務めた。
鈴木家に子供がなかったため、由哲が倉持家から養子入り(倉持家は足利氏家臣の家柄で足利家管財文書係)。

鈴木家の墓

鈴木貫太郎の長男、鈴木一は、鈴木家の墓に眠る。

鈴木一(はじめ)
農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官等を歴任。鈴木貫太郎内閣では内閣総理大臣秘書官も勤めている。。

鈴木由哲家
長男
 鈴木貫太郎:海軍大将、内閣総理大臣
次男
 鈴木孝雄:陸軍大将、第14師団長、靖國神社宮司
三男
 鈴木三郎:関東都督府外事総長、久邇宮御用掛
四男
 鈴木茂(永田茂):永田家養子、陸軍中佐、40代で若死している


鈴木孝雄墓所

鈴木貫太郎の弟(鈴木由哲次男)の鈴木孝雄墓所も同じく実相寺にある。

鈴木孝雄家之墓

鈴木孝雄
明治2年10月29日(1869年12月2日) – 1964年(昭和39年)1月29日)
陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。
昭和10年(1935年)に現役を退いて、昭和13年から昭和21年までは靖国神社第4代宮司に就任。また、大日本青少年団長も務めている。戦後は、公職追放されるが、追放解除後の昭和29年(1954年)からは、旧陸軍将校たちで結成された偕行社会長となる。
昭和39年(1964年)1月29日死去。

鈴木武之墓

鈴木武は、鈴木孝雄の長男。
岡田啓介内閣の首相秘書官を勤めおり、2・26事件に際しては、岡田啓介首相救出や鈴木貫太郎侍従長遭難収拾などに功績があった。
昭和19年、北見航空機副社長に就任。
昭和20年には、叔父である鈴木貫太郎の内閣総理大臣秘書官を拝命。終戦工作に協力をする。

鈴木孝雄次男の鈴木英は、岡田啓介の次女を娶っている。義理兄にあたる岡田貞外茂と鈴木英は海兵同期。岳父の岡田啓介が襲撃された二・二六事件の際は横須賀海軍航空隊教官であった。鈴木英の海軍時代の最終階級は海軍中佐、海自では海将まで昇進している。

写真の右手に鈴木孝雄家墓所。
写真の突き当りに鈴木貫太郎家墓所。

実相寺。

明治4年(1871年)に関宿城本丸の一部の建物{宝歴6年(1709年)に建造}を移築した現在の客殿。
千葉県内に残る唯一の本丸建造物。

実相寺 場所

https://goo.gl/maps/o5qEcb2tZTNWDHA79


野田市郷土博物館

「令和4年度企画展 見て、見て、ハッケン! 野田の歴史」(令和4年6月11日から9月19日まで)にて、鈴木貫太郎の展示があるというので足を運んでみた。

実際には、関宿から公共機関では野田市内を縦断できず、関宿からは横の春日部まで戻ってからの東武線で南下して野田市駅まで赴くという、移動にかなりの手間が生じている。

https://www.city.noda.chiba.jp/eventinfo/bunka/1033892/1035100.html

https://noda-muse.jp/exhibition/schedule

鈴木貫太郎の展示資料(野田市郷土博物館)

鈴木貫太郎翁の生涯
 鈴木貫太郎翁は、慶応3年12月24日に関宿藩飛び地領の代官所で生まれました。その後は、江戸を経て明治5年に関宿に移り住むと、現在の野田市立関宿小学校に通います。幼少期の翁は心優しい性格で、よく泣くことから「泣き貫」とあだ名されました。その鳴き声は、大工町(現在の境大橋千葉県側のたもと付近)まで聞こえたと伝わります。
 貫太郎翁は、海軍に入ると日清・日露の両戦役に参加します。特に水雷の専門家として知られ、海軍大将まで出世すると、連合艦隊司令長官や軍令部長を歴任しました。その後は侍従長、枢密院議長を経て内閣総理大臣に就任し、日本を終戦へ導きます。戦後は、故郷の関宿に戻り地元の若手農家を中心に酪農を推奨するなど郷土の発展に尽くし、昭和23年4月17日、「永遠の平和」の言葉を残しこの世を去ります。

鈴木貫太郎海軍時代成績表
明治20年(1887)
鈴木貫太郎の海軍兵学校の成績表。成績表の中でも、5位佐藤鐵太郎(中将)は貫太郎へタカっを紹介し、結婚の仲立ちをした。38位小笠原長生(中将)は、鈴木貫太郎を顕彰する「鈴木貫太郎記念太平会」の顧問に就任するなど、後々まで交流を持っていた。

絵はがき
「帝国駆逐艦 朝霧」

当時、海軍中佐であった貫太郎翁が、日露戦争の日本海海戦において第四駆逐隊司令とし乗船していた駆逐艦・朝霧の絵はがき。

儀礼長剣
大正2年(1913)
鈴木貫太郎が海軍軍人として儀礼の際帯剣したもの。この剣は士官級の者が所持し、基本的に皆同じ形式であったが、明治29年の変更により将官級の者は金具に桐紋を付す事となった。本資料はこの桐紋が付され、少将任官以降に使用したことがわかる。また、他の者とほぼ同じ形式とはいえ上質なつくりとなっている。

鈴木貫太郎肖像
作者:安達真太郎
昭和40年(1965)
鈴木貫太郎の肖像。モデルとなった時期は海軍軍令部長時代と推測される。軍服などは現存するが、勲章は戦時中に焼損してしまったため、写真を元に描かれたと考えられる。この絵画は「8月9日の御前会議」などの絵画と共に、記念館拡充事業の中で制作された。

鈴木タカ肖像
作者:安達真太郎
昭和41年(1966)
鈴木タカの肖像。写真のモデルとなった時期は、昭和初期頃と推測される。タカは、昭和天皇の「養育掛」をつとめ、その中でも最も信頼された人物である。二・二六事件の際は、襲撃した安藤輝三大尉らにとどめを想い留まらせ、貫太郎翁の窮地を救った。
※現在、野田市鈴木貫太郎記念館では、二・二六事件を語るタカ夫人の肉声を公開中

礼用檜扇
大正期
鈴木タカが儀礼の際に使用したもの。元々は宮中で使用されたものだが、近代では、主に儀礼の際に使用されており、収納箱には「礼用」と書かれている。扇には、蝶や鳥が描かれている。

地元の英雄として
 鈴木貫太郎は関宿を離れた後も、小学校の式典や両親への近況報告などで、度々関宿に帰ってきていました。そのため、市内の小学校には貫太郎翁の書が残されている学校もあります。特に旧関宿町の人々は地元の著名人として捉え、貫太郎翁が二・二六事件で瀕死の重傷を負った際は、出身校の関宿小学校では児童と教職員が皆で快復を祈るほか、町内にはお百度参りをする人もいたと伝わります。また内閣総理大臣就任時には、関宿の食材を直接東京の邸宅へ届けるなど、物心両面で支えました。

鈴木貫太郎就任祝い作文
昭和20年(1945)6月頃
鈴木貫太郎の内閣総理大臣就任を祝い、東葛飾郡の小学生が書いた作文。各学校1名程度が選抜されて送られたと考えられる。児童が郷土の誇りや高齢であった貫太郎翁の身体を心配する内容が多いが、B29による爆撃など当時の様相についても書かれている。

子どもたちの感想文では、鈴木貫太郎が東葛飾郡出身で郷土のほまれと書かれているが、「関宿の飛び地」は「関宿」という解釈で問題ないということですね。

辞令(首相退任)
昭和20年(1945)8月17日
鈴木貫太郎の首相退任時の辞令。稔彦王は、貫太郎の後任で、皇族出身の唯一の内閣総理大臣東久邇宮稔彦親王のこと。首相就任時の辞令書は行方不明で戦災で焼失してしまったと考えられる。

鈴木貫太郎顕彰と記念館建設
 鈴木貫太郎記念館の建設は、貫太郎翁を顕彰する「洗心会」からはじまり、関宿町、野田市、流山町を巻き込みます。野田市が建設の主体となると中央財政会へ働き掛けを行い資金を集めました。建物は昭和38年には完成しますが、内装や展示物の充実を図るため、吉田茂や鈴木貫太郎内閣の元閣僚の力を借り、絵画の制作や松屋銀座を会場とした企画展を行います。その結果、昭和41年に開館式が行われ正式に開館しました。

鈴木貫太郎記念館建設会議(市民会館会議)
昭和三五年(1960)三月29日
鈴木貫太郎記念館建設に関する書類郡。鈴木貫太郎記念館建設を貫太郎翁の13回忌追悼会でPRするための会議を市民会館菊の間で行ったことが分かる。また、出席者の中には当時野田市郷土博物館の運営協議委員を務めた市山盛雄の名前も見られる。

パース図
昭和36年頃
鈴木貫太郎記念館の建設前のイメージ図。設計した創建設設計事務所は、旧関宿町役場など、町内の公共建築に携わっていた。

起工式木槌
昭和37年(1962)7月7日
起工式で使用された木槌。柄には、「昭和37年7月7日」と記載されており、「為」の字型木の裏にも「7月7日着工」と記載されていることから、同日が着工日であることがわかる。

「為」の字型木
昭和37年(1962)7月
鈴木貫太郎記念館の「為萬世開太平」の碑塔の「為」の字の型木。型木は塔の字を埋めるためのくぼみをつくるためのもので、ほとんどの型木は塔から剥がす際に壊れており、「為」が唯一原型のまま残った。長年、地元出身の工事関係者が保存していた。

扇子「為萬世開太平」
昭和41年(1966)8月
鈴木貫太郎記念館の開館式典で配布された扇子。印刷物。鈴木貫太郎翁が生前に揮毫した書をもとに作成し、落款を押したもの。関宿地域をはじめ複数の現存が確認されている。

開会式写真
昭和41年(1966)
記念館に入館する鈴木家と関係者の写真。左からタカ夫人、貫太郎長男の妻である布美、貫太郎の長男一と続いている。

内閣総理大臣からの花輪
昭和41年(1966)
当時、内閣総理大臣であった佐藤栄作は鈴木貫太郎記念会の名誉総裁を務めていた。この人選は名誉総裁であった吉田茂によるものと考えられる。

開会式の出席者
昭和41年(1966)
鈴木貫太郎記念館の開館の主体となった鈴木貫太郎記念会の役員ら。前列左から須賀清八(関宿町長)、戸邊鐵太郎(元野田市長)、茂木啓三郎(キッコーマン社長)、迫水久常(参議院議員)、太田耕造(亜細亜大学学長)の順で着席している。

鈴木貫太郎掛軸
昭和18年(1943)
貫太郎翁77歳の書。翁が好んだ「老子」の一節、「慈は、以て戦えば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。天将に之を救わんとす、慈を以て之を衛」が書かれている。「慈愛がある人は、それによって戦って勝利を収め、守っては攻略されがたい。天が(その国を)救おうとすれば慈愛をもって保護する」の意である。

鈴木貫太郎記念館再建へ

場所

https://goo.gl/maps/682ML43VsAhLT47TA

※撮影:2022年7月


靖國神社内苑「為萬世開太平碑」

靖國神社の境内内苑は、靖國神社の方針もあって記念碑のたぐいは少ない。そんななか、斎館の前に、人知れず石碑が有る。

為萬世開太平
 八十叟 貫太郎 書

昭和天皇御在位六十年奉祝の記念碑であるという。
鈴木貫太郎が昭和21年に揮毫した条幅をもとにとしている。
昭和61年建。

「万世のために太平を開く」

大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送)の一節。
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
(堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す)


「為萬世開太平」終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎の関連史跡1(誕生の地・大阪府堺市)

鈴木貫太郎。
日本の戦争を終わらせた総理大臣。

実は先日に、関西に出張がありました。
どこかに寄れないかな、と地図を見ていたら見つけたのが、「鈴木貫太郎生誕の地」。
これは、行ってみたい。
駅から離れているし、ちょっと不便な場所ではあるけども、そもそも「石碑」しかないのもわかっているけども。
それでも足を運んで見たいと思うのが、史跡オタクの性分。
そんなわけで足を運んでみました。

鈴木貫太郎は、千葉の関宿出身だと思っていました。
どうやら、関宿藩の飛び地が堺市内(大阪府堺市中区伏尾・和泉国伏尾)にあり、関宿藩家老であった父親が飛び地で代官をしていた時に、鈴木貫太郎が生まれたと。

本記事は「その1・誕生の地」です。
せっかく、誕生の地を訪れたのであれば、晩年の地もいかねばなるまい。
生誕の地を訪れた週末に、晩年の地へも足を運んできました。
「その2・晩年の地」では、関宿に触れます。


鈴木貫太郎誕生之地

海軍大将 侍従長
鈴木貫太郎誕生之地
第四師団長林弥三吉書

昭和4年6月建之

昭和4年に、大坂の第4師団長・林弥三吉陸軍中将が建立。昭和4年の鈴木貫太郎は、 昭和天皇の強い願いもあり、海軍を予備役編入され、侍従長に就任した年。
鈴木貫太郎が侍従長に就任したことを記念しての建立にしても、それを海軍ではなく陸軍が建立するということに、すでに鈴木貫太郎の存在感の凄さを感じることができる。終戦内閣など、まだその余燼も感じさせない時代に。

鈴木貫太郎

1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日。
海軍大将。終戦時の内閣総理大臣。
海軍士官として、海軍次官・連合艦隊司令官・海軍軍令部長などを歴任。
予備役後に侍従長・枢密院顧官・枢密院議長などを歴任。
小磯国昭内閣のあと、内閣総理大臣に就任。日本を終戦へと導いた。

1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾)に生まれる。伏尾は下総関宿藩の飛地であり、関宿藩久世家の家老であった父の鈴木由哲は、代官として和泉国大鳥郡伏尾に赴任しており、鈴木貫太郎は、その関宿藩飛地の堺伏尾で生まれている。3年後の1871年(明治4年)、鈴木貫太郎は本籍地の関宿に居住を移している。

その後の鈴木貫太郎は、「その2・晩年の地<関宿>」の記事で触れます。

久世関宿藩代官所跡

久世関宿藩代官所跡
この辺りは関宿藩の陣屋です。
鈴木貫太郎は慶応3年12月24日に関宿藩士で鈴木為輔(由哲)も長男として和泉国久世村で生まれました。
海軍兵学校を卒業し海軍大将、侍従長を経て第42代内閣総理大臣に任命され、徹底抗戦一色のなか鈴木内閣は戦争終結に導き昭和20年8月15日に太平洋戦争は終わりました。
戦後の復興を見守っていた貫太郎は、「為萬世開太平」を胸に永遠の平和を願って昭和23年4月17日、野田市関宿において80歳の生涯を閉じました。
 平成28年3月
  久世地区まちづくり協議会
  伏尾自治会

鈴木貫太郎誕生之地碑の隣に、最近建立された「久世関宿藩代官所跡の石碑」ではあれど、内容がほぼ鈴木貫太郎に関するものであった。
少しだけでも久世関宿代官所時代の話なども知りたいものではあるが。

場所

https://goo.gl/maps/ERXdgTuYpRNR1Lhr8


このまま街道を南下すると地蔵尊が見えてきた。街道の辻に建立された地蔵尊は道祖神的な立ち位置でもあり。

上神谷街道

歴史の道 上神谷街道(にわだにかいどう)
 伏尾、和田、宮山台など、この地域の歴史は古く、古墳時代の伏尾遺跡や小阪遺跡があり、一説によると奈良時代の高僧行基(668年~749年)が築造した「茨池」は原池とも考えられており、これによる感慨が地域の発展に寄与しました。
 また宝永2年(1705)から明治2年(1869)までの間は、現在の千葉県野田市を拠点とした関宿藩の支配下にありました。関宿藩は、伏尾に陣屋を置き、泉州の多くの村々を統治していました。
 そして、明治22年(1889)に市町村制が施行された際、関宿藩主であった「久世氏」に因み、この地域は「久世村」と呼ばれるようになりました。
(略)
 令和3年3月 堺市中区役所

伏尾地蔵尊

伏尾の集落。

場所

https://goo.gl/maps/PazA5myNwzLiTaxA8


伏尾の辻から更に南下をしていくと、「荒山公園」に到達する。
この荒山公園の中に、次の目的地である「多治速比売神社」が鎮座している。鈴木貫太郎が崇敬をしていた産土の神社、である。

多治速比売神社

大阪府堺市南区宮山台にある神社。
延喜式神名帳に記載されている和泉国大鳥郡の式内社。(和泉国大鳥郡の延喜式内社二十四座のひとつ)
旧社格は郷社。
荒山宮とも呼ばれ、境内の周りは荒山公園として整備されている。
宣化天皇の時代(530年頃)の創建。
 主祭神 多治速比売命(たじはやひめのみこと)
 合祀神 素盞嗚尊、菅原道真公
本殿は室町時代の建造物で国の重要文化財に指定。天文8年(1539年)から天文12年(1543年)の間の再建という。
延喜式内社としては、鴨田神社、阪上神社も合祀されている。

鈴木貫太郎と多治速比売神社
和泉国大鳥郡伏尾で生まれた鈴木貫太郎は、産土神として、多治速比売神社を崇敬していた。その崇敬心は篤く海軍中佐時代(日露戦争時)にも参拝をしている。
また、二・二六事件で重症を負った時、多治速比売命が枕元にお立ちになり命を救われたとして、翌年一月に、鈴木貫太郎は、たか夫人とともに本復祝の参拝をしている。
戦後、鈴木貫太郎の長男であった鈴木一を中心として「鈴木神社」創建の話が出た際は、(実現はしなかったが、)鈴木貫太郎の生まれ故郷で敬神の念が深かった多治速比売神社の境内が建立に適していると、当時の宮司との相談もあったという。

本殿は国指定重要文化財。


金高稲荷社(多治速比売神社境内摂社)

大正12年3月の境内摂社稲荷社の本殿改築及玉垣新築に際して、海軍中将鈴木貫太郎の名で奉納した玉垣石が残されている。

大正12年3月は、鈴木貫太郎は、呉鎮守府司令長官であった。
大正12年8月3日に、海軍大将に昇進している。

海軍中将
 鈴木貫太郎

場所

https://goo.gl/maps/KGuwbDPm3BvDqCBeA

鈴木貫太郎の関連史跡2・晩年の地(野田市関宿町)」に続く。

※撮影は2022年7月


行程

泉北高速鉄道「深井駅」
↓ 徒歩30分(約2.5キロ)
鈴木貫太郎誕生生誕之地之碑
↓ 徒歩7分(約500メートル)
伏尾地蔵尊
↓ 徒歩20分(約1.5キロ)
多治速比売神社
↓ 徒歩25分(約2.0キロ)
泉北高速鉄道「泉ヶ丘駅」


関連

鈴木貫太郎邸跡



晩年を横須賀で過ごした坂本龍馬の妻・お龍(おりょうさんの胸像とお墓)

坂本龍馬の妻「おりょう」は、晩年を横須賀で過ごしていた。横須賀に胸像とお墓があるので足を運んでみた。

坂本龍馬の海援隊は日本海軍のルーツの一つ。そんな縁もあってか、晩年のおりょうさんには、海軍の支援があった。


楢崎龍(お龍・坂本龍子・西村ツル)

天保12年6月6日(1841年7月23日) – 明治39年(1906年)1月15日)
坂本龍馬の妻。
慶応2年(1866)1月22日に薩長同盟が成立した翌日、寺田屋騒動(寺田屋遭難)が勃発。多数の捕吏に気づいたお龍は入浴中ではあったが、機転を気転をきかして坂本龍馬の危急を救っている。
寺田屋騒動で負傷した坂本龍馬は、お龍を伴い療養のために薩摩に趣く。この薩摩旅行が日本初の「ハネムーン(新婚旅行)」とされている。
慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬は近江屋事件にて暗殺。お龍は長州下関で訃報に接した。

坂本龍馬亡き後のお龍は、龍馬の実家、妹の実家、京都、東京などを転々とし、西郷隆盛や勝海舟の世話になっていたという。
明治8年(1875年)に呉服商の若旦那で寺田屋時代の知り合いであっった西村松兵衛と再婚し、西村ツルとして横須賀に居住した。
明治39年(1906年)1月15日、お龍は66歳で死去した。
危篤に際しては、皇后大夫皇后大夫香川敬三(元陸援隊士)から御見舞の電報が送られ、井上良馨大将(長く横須賀鎮守府司令長官を勤めていた)が救護の募金を集めている。
死後、横須賀市大津の信楽寺に葬られた。長く墓碑を建てることができなかったが、田中光顕(元陸援隊士・のちの宮内大臣)や香川敬三(皇后宮大夫・日露戦争の際には、皇后の夢に坂本龍馬が出たという喧伝を行い、国民を鼓舞)の援助を受け、死から8年後の大正3年(1914年)8月、妹の中沢光枝が施主、夫の西村松兵衛らが賛助人となり墓を建立。墓碑には夫の松兵衛の名ではなく、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。


おりょうさんの胸像

坂本龍馬の妻
 おりょう

「おりょうさん」
天保12年(1841年)京都に生まれる。
幕末の動乱の最中、坂本龍馬と出会う。
幕史の寺田屋襲撃のおり、入浴中にもかかわらず、龍馬に急を告げ、その脱出を助けたことは良く知られている。
その後彼の妻となるが、愛と光芒に満ちた日々は短かった。
龍馬の死後幾多の曲折を経て横須賀に至り当地にて後半生を送った。
明治39年(1906年)没す。享年66歳

おりょう会館という葬祭場(斉場)が、おりょうさん終焉の地であり、そして胸像がある。
おりょうさんは、この横須賀の地で晩年を過ごした。

場所

https://goo.gl/maps/yFsCBRGJvQnk6sXq6


坂本龍子の墓

京急大津駅最寄りの「信楽寺」に坂本龍子の墓がある。

信楽寺(浄土宗)
<前略>
 墓地には幕末の志士・坂本龍馬の妻があります。龍子は龍馬の死後、再婚し西村ツルの名で横須賀・米が浜に住んでいました。毎年秋には墓前祭にあわせて龍子を偲び「おりょうさんまつり」が催されます。

市制施行70周年期記念  
横須賀風物百選 
坂本龍子の墓
江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、坂本の危急を救った女性として広く知られています。
龍子は、京都の町医師楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保十一年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永3年(1850)六月六日となっています。名は「りょう」とか「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが確かなことは不明です。
坂本龍馬は、慶応3年(1867)11月15日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、33歳の若さで絶命しました。
未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが、長続きはしませんでした。その後、京都、大阪、東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは定説がありません。ただ、はっきりしていることは、明治8年(1875)7月2日、三浦郡豊島村深田222番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治39年(1906)1月15日の午後11時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で、明治39年(1907)10月20日にささやかに営まれました。また、遺骨は当時の信楽寺住職新原了雄師の御好意により、この地に葬られたとのことです。

贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓

夫である西村松兵衛は、西村ツルとしてではなく「坂本龍子」として墓石を建立している。

また、墓石は海軍工廠が寄贈したドッグ建設用の物が使用されており、建立にあたっては海軍の協力も大きかった。

永代寄付
(略) 
 中沢光枝建之 

大正3年(1914年)8月、妹の中沢光枝が建立したことがわかる。

信楽寺

※撮影:2022年5月

場所

https://goo.gl/maps/283DUHZzW7eys3xS7

https://ootsu.yokosuka-kanko.com/tourist/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E5%A6%BB%E3%80%80%E9%BE%8D%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A2%93-2/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2750/walk_ootsu/b10139.html


関連

坂本龍馬も学んだ神戸海軍操練所

坂本龍馬の海軍の師匠にあたる勝海舟

松井石根大将ゆかりの神社(椿神明社・名古屋)

愛知県名古屋市中村区牧野町。
名古屋駅の駅裏(駅西)、つまり名古屋駅の西側には、牧野公園や牧野小学校など牧野の名前を残した場所がある。

椿神社は牧野村の北端。
この牧野村で、松井石根は明治11年(1878年)7月27日に生まれた。


神明社(椿神明社)

祭神は、豊宇気比売神。創建年代は不詳。旧社格は村社。
伊勢の神宮の神領地であった牧野村で、椿神明社は外宮とされ「上ノ宮」、牧野神明社は内宮とされ「下ノ宮」と呼称されていたという。

JR東海が施行するリニア中央新幹線(品川・名古屋間)の事業用地として椿神明社の境内北側を一部譲渡することとなり、境内整備が実施された。工事は2020年4月 ~ 2022年3月。
私の参拝は2022年6月。工事完了後の参拝。

社号標の銘は削り取られていた。
昭和9年10月建立。

境内の随所に柵が設けられ、立ち入りできる空間が少ない。


松井石根ゆかりの石碑(池に沈めた大将の碑)

石碑がある。
これが、松井石根ゆかりの石碑。近くで見ることができないのが残念。

松井石根は、椿神社のある牧野村の出身であった。
昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件により支那事変(日中戦争)が勃発。
第二次上海事変に際し、予備役の松井石根は召集され上海派遣軍司令官として陣頭指揮を取ることとなり、昭和12年(1937年)12月、中支那方面軍司令官として南京攻略戦が開始。12月13日に南京陥落。
昭和13年1月、近衛文麿首相の近衛声明「蔣介石を対手とせず」宣言で、中国寄りであった松井石根は考え方の相違もあり更迭され予備役とり、昭和13年3月に帰国。

昭和14年(1939年)12月に、地元の有力者が石碑を建立。
石碑の内容は、地元の英雄であった松井石根大将が南京入城後に作った漢詩。
「南京入城之感」

松井石根は昭和15年(1940年)2月、支那事変(日中戦争)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

昭和21年5月、松井石根は、いわゆる南京事件の責任者として戦争犯罪人(BC級)逮捕。極東国際軍事裁判において起訴され巣鴨プリズンに収監。東京裁判において、11月12日に死刑判決。
昭和23年12月23日に死刑が執行された。享年70歳。

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

松井石根の石碑は、この判決よりも前に、GHQに見つかることや戦犯と関わり合いになることを恐れた人々によって、中村公園近くの池に放り込まれたという。
その後、松井石根の石碑は引き上げられ、再び椿神明社に建立されたという。

南京入城之感
燦矣旭旗颺石城江南風色
忽澄清豼貅百萬軍容肅
仰見 皇威輝八綋
 陸軍大臣 松井石根

昭和十二年七月支那事変起也皇国直進膺懲之師
吾郷英傑陸軍大将松井石根閣下為上海方面軍最
高指揮官督戦於江南之地撃破頑敵不出九旬而陥
其首都南京此詩即将軍陣中之作讀者宜相傳唱以
仰皇軍威武乎不朽也昔豊太閤裂明之封冊也其意
欲席捲四百余州而不果焉今経三百有余年豊公之
霊有知同郷英傑偉績如此其感喜果如何必應含会
心之笑於泉下也矣
 昭和十四年十二月
    陸軍中将    大塚堅之助 撰
    陸軍軍医中将  石黒大介  書
        幼友  恒川増太郎 建立

大塚堅之助陸軍中将も石黒大介陸軍軍医中将も愛知県出身。恒川増太郎氏は、松井石根陸軍大将の幼友達で地主。恒川増太郎氏が音頭を取って建立したものと思われる。

「南京入城之感」の隣の碑も、松井石根の謹書であった。
一緒に、池の中に投げ込まれたものかどうかは不詳。

大津武五郎直行君頌徳碑
 陸軍大将 松井石根書

大津直行は、尾張藩士。明治維新後は、鳥取県権参事などを努めている。大正14年に84歳で没。

手水石は昭和10年。
狛犬は昭和14年。

昭和14年に郷土の英雄として讃えられていた松井石根大将。
南京陥落の英雄は、8年後には、いわゆる南京事件の責任者として死刑となり、建立された記念碑は、関わりたくないものとして、池の中に沈められてしまった。
戦後、松井石根大将の石碑はもとのように神社に戻ってきたが、昨今の政治的事情もあり、(偏った歴史感を持った方々による)神社自体に対する不貞な行為などもあり、その保護のために松井大将の石碑は、金網に囲まれてしまった。そうして貴重な石碑が、多くの人々にとっては「よくわからない石碑」になってしまったことが、申し訳なく。

場所

https://goo.gl/maps/rdjUFoaLJPqxyCzXA

※撮影は2022年6月

「軍艦と愛国」日本の行進曲の父・瀬戸口藤吉の墓(横須賀)

瀬戸口藤吉。
日本の行進曲の父。
日本が世界に誇る名行進曲「軍艦」(軍艦行進曲・軍艦マーチ)を作曲した軍楽師。

その瀬戸口藤吉の墓が横須賀にあるというので足を運んでみた。
(愛国行進曲が大好きだという思い入れもあり。)

瀬戸口藤吉

1868年6月29日(慶応4年5月10日) – 1941年(昭和16年)11月8日)
作曲家、海軍軍楽師。
軍艦行進曲や愛国行進曲を手掛けた「日本の行進曲の父」

瀬戸口藤吉は、明治28年に「海軍軍楽師」に任官。29歳であった明治30年頃に「軍艦」を作曲。
明治37年(1904)に海軍軍楽長(軍楽隊長)に昇進。この年から始まった日露戦争には出陣せず、明治38年の日本海海戦後の6月に連合艦隊旗艦の三笠に乗艦。その後、三笠は佐世保港で爆沈するが、瀬戸口藤吉は直前に上陸していて難を逃れている。
大正6年(1917)に、海軍軍楽特務少尉を定年退官、翌年に後備役となる。

第一線を引退していた瀬戸口藤吉であったが、昭和12年(1937)に、瀬戸口藤吉の曲が公募のあった「愛国行進曲」の作曲公募第一位(応募点数約10,000点)となる。
この「愛国行進曲」は「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として、そして「第二の国歌」(国民愛唱歌)として、広く歌われる名曲となった。

昭和16年11月8日、東京都麻布区の自宅にて死去。74歳。音楽葬として日比谷大音楽堂で本葬が行われた。
代表作は「行進曲軍艦」「敷島行進曲」「日本海海戦記念行進曲」「愛国行進曲」「野球行進曲」「ラジオ行進曲」「東京行進曲」「行進曲体育大行進」など。

2018年には、瀬戸口藤吉の生誕150周年を記念して、出身地とされる鹿児島垂水市に「記念碑」が建立され顕彰碑「瀬戸口藤吉翁之碑」とあわせて瀬戸口翁の偉業をたたえている。(私は未訪問ですが。)


行進曲「軍艦」(軍艦行進曲・軍艦マーチ)

軍艦
 作詞:鳥山啓 作曲:瀬戸口藤吉
海行かば トリオ(中間部)
 作詞:大伴家持 作曲:東儀季芳

守るも攻めるも 黒鉄の
浮かべる城ぞ 頼みなる
浮かべるその城 日の本の
皇国の四方を 守るべし
真鉄のその艦 日の本に
仇なす国を 攻めよかし

石炭の煙は 大洋の
竜かとばかり 靡くなり
弾撃つ響きは 雷の
聲かとばかり 響むなり
万里の波濤を 乗り越えて
皇國の光 輝かせ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

守るも攻めるも 黒鉄の
浮かべる城ぞ 頼みなる
浮かべるその城 日の本の
皇国の四方を 守るべし
真鉄のその艦 日の本に
仇なす国を 攻めよかし


愛国行進曲

 作詞:森川幸雄 作曲:瀬戸口藤吉

見よ東海の空明けて
旭日高く輝けば
天地の正氣潑剌と
希望は躍る大八洲
おお淸郞の朝雲に
聳ゆる富士の姿こそ
金甌無缺搖ぎなき
我が日本の誇なれ

起て一系の大君を
光と永久に戴きて
臣民我れら皆な共に
御稜威に副はん大使命
往け八紘を宇となし
四海の人を導きて
正しき平和打ち建てん
理想は花と咲き薰る

今幾度か我が上に
試練の嵐哮るとも
斷乎と守れ其の正義
進まん道は一つのみ
ああ悠遠の神代より
轟く步調 受け繼ぎて
大行進の 往く彼方
皇國常に 榮在れ


瀬戸口藤吉の墓

横須賀の常光寺。墓所の石段を登っていった先のしだれ桜の近くに、瀬戸口藤吉の墓があった。

先祖歴代之墓

瀬戸口氏

天樂院釋國芳吉祥居士
昭和16年11月8日 
瀬戸口藤吉

枝垂れ桜の下に。

常光寺

場所

https://goo.gl/maps/nJNby9GzLgR3GhGd7


行進曲「軍艦」の碑

行進曲 軍艦
碑文
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長 瀬戸口藤吉氏によって作曲された 日本の勃興期における行進曲として親しまれ 未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである 世界3大行進曲の一つとして 音楽史を彩る稀有の名曲で 作曲されてから一世紀を迎える年にあたり 瀬戸口軍楽長がこよなく愛し 青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである 
 行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会

行進曲 軍艦  
 鳥山啓作詞 
 瀬戸口藤吉作曲
一.守るも攻めるも黒金(くろがね)の
  浮かべる城ぞ頼みなる
  浮かべるその城日の本(もと)の
  皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
  真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
  仇なす国を攻めよかし
二.石炭(いわき)の煙は太洋(わだつみ)の
  龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
  弾丸撃(たまう)つ響きは雷(いかづち)の
  声かとばかりどよむなり
  万里の波濤を乗り越えて
  皇国の光輝(かが)やかせ
   平成十五年3月横須賀水交会修復

三笠には、瀬戸口藤吉自筆の「軍艦」譜面も保管されいると古い資料には記載があったが、2022年5月に訪ねたところ、譜面の陳列はなかった。三笠スタッフにも聞いてみたが責任者(三笠保存会の事務局)不在のために詳細不明という。後日、詳細が分かり次第で追記したいと思う。

撮影:2022年5月


関連

椿山荘(山縣有朋邸跡)

山縣有朋は、数カ所に邸宅を持っていた。

本サイトでは、以前に、「山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所)」を掲載していた。

他にも、山縣有朋は多くの邸宅を有していた。


 椿山荘 東京都文京区
  明治11年
 山縣有朋私邸 東京都千代田区
  明治18年
 無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
  明治27~29年
 古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
  明治40年 
  70歳の古希を迎えた晩年の別荘

今回は、縁あって「椿山荘」に赴く機会がありましたので、夜でしたが庭園を(さくっと)見学してみました。


椿山荘

この地は、かつては椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていた。

明治の元勲で日本軍閥の祖でもある山縣有朋が、明治11年(1878年)に、私財を投じて「つばきやま」を購入し庭、邸宅をつくり、「椿山荘」と命名。
椿山荘には、山県有朋自らが庭園を計画し高低差のある回遊式庭園が造られた。
山縣有朋の名庭園には、京都の無隣庵、小田原の古稀庵、そして、この椿山荘があり、この三園をあわせて「山縣三名園」とも呼称されている。

ホテル椿山荘東京公式サイト
ホテル椿山荘東京の歴史

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/history/

現在のホテル椿山荘東京の庭園は、太平洋戦争で多くが焼失した後に1万本以上の樹木を植栽して新たに生まれ変わったもの。


椿山荘の碑

この碑は、山縣有朋公爵がこの地を気に入り、入手し、椿山荘の造営に着手し始めた当時を振り返り、(明治11年に)椿山荘と命名した際の感慨を刻んだ碑。

椿山荘の碑の内容
「明治10年の西南戦争は既に平定され、国内が平穏となって暇になった日にはしばしば城北の目白に出かけ、その大地におもしろさを感じた・・・」という内容から始まり、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と締めくくられているこの碑は、明治30年に創られました。

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/historic_site/

椿山荘の碑
風光明媚なこの地を気に入った山県有朋公は、明治11年(1878年)に土地を入手し、本邸と広大な庭園を造り「椿山荘」と名付けました。明治30年(1897年)に創られた「椿山荘の碑」には、この地と出会い、この地を愛した山縣公の感慨が刻まれています。(総高2m70cm、碑の幅90cm)

椿山荘記

椿山荘主山縣有朋撰


椿山荘庭園

霧というか雲海が凄い。。。
山縣有朋公もびっくりだろう。
この東京雲海の演出はコロナ渦で客足の鈍っていた2020年10月にスタートした新しい演出。

椿山荘の碑には、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と最後に刻まれている。

椿山荘の庭園は山縣公の故郷である山口・萩の風景を再現したものであるという。
いま、ホテル椿山荘東京は、山縣有朋が愛した郷里・萩に流れる阿武川にかかる雲海の雲海を再現したかのように、国内最大大規模の霧噴霧で雲海を演出している。

東京雲海

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/unkai_lightup/


実は、椿山荘で会社の忘年会でした。
そうでもないと、椿山荘に行く機会はそうそうありません。

※撮影は2021年12月


川端龍子と「爆弾散華の池」(大田区)

大田区立龍子記念館に脚を運んでみました。

川端龍子

川端龍子(かわばた りゅうし)
1885年〈明治18年〉6月6日 – 1966年〈昭和41年〉4月10日)
日本画家、俳人。
1959年(昭和34年)、文化勲章受章。
本名は川端 昇太郎。

臼田坂下に画室を新築した
川端龍子(かわばたりゅうし:1885~1966)
日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24歳の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計を立てていました。
大正2年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転機を決意します。翌3年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを摑みました。その後はつぎつぎと作品が認められ、大正9年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘(おぎょうそう)と名付けました。
一 画人生涯筆菅 龍子 一 、という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠によるものです。
 参考文献 集英社「現代日本の美術」 
  大田区


大田区立 龍子公園

一日に3回の公開が行われている。この時間以外は見学不可。
この龍子公園内に、「爆弾散華の池」やアトリエ、旧宅などがある。


爆弾散華の池

龍子公園に入ったすぐ左手に池がある。
この場所には、大正9年(1920年)に建てられた龍子の居宅があった。しかし昭和20年8月13日に爆撃を受け、居宅は倒壊。使用人が2人死亡している。

爆弾散華の池
昭和20年(1945)8月13日、米軍機の爆撃により龍子旧宅は全壊に近い被害をうけました。その体験から制作された作品が「爆弾散華」です。「爆弾散華」には、食糧難の中で栽培された野菜が、爆風によってもの悲しく散っていく光景が描かれています。
終戦後の10月に龍子は第17回青龍展を開催し、この作品を出品しています。また、爆撃跡の穴からは水が湧き出してきたため、龍子の発案によって「爆弾散華の池」として整備されました。
 大田区立龍子記念館

龍子のアトリエ

川端龍子のアトリエは昭和13年(1938年)の建造。
竹が多く用いられた龍子デザインの建屋。

龍子の旧宅

終戦後の昭和23年(1948年)の建造。


大田区立龍子記念館

龍子記念館とは
龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立されました。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともない、1991年から大田区立龍子記念館としてその事業を引き継いでいます。当館では、大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群をお楽しみいただけます。
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されており、画家の生活の息づかいが今も伝わってきます。

大田区立龍子記念館 https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi


川端龍子 作品

川端龍子の絵画のうち、いくつか私が興味を持った作品を紹介。

「香炉峰」

昭和14年(1939)の作。幅は727.2cmにも及ぶ大作。
飛行する九六式艦上戦闘機が半透明に表現されたインパクトのある作品。

川端龍子は海軍省嘱託画家として支那事変に従軍。中支の廬山上空を海軍機に便乗し、俯瞰した廬山主峰の香炉峰を中心に連峰と長江の大景観を取材した。

白居易が「簾をかかげて看る」と詠んだ香炉峰を、川端龍子は戦闘機という近代兵器で透かして見せた。戦闘機を透視的に扱ったのが龍子のウィットに富んだ秀逸な技法。

中央に日の丸。ほぼ、戦闘機を原寸大で描かれたものという。

川端龍子の自画像という。

ただ透明にしているのではなく、きとんと戦闘機の骨組みを踏まえた透明感が凄い。

※このとき(2021年10月)は香炉峰のみ撮影可、でした。
※展示会の内容により、作品は入れ替わりがあります。

絵葉書を購入しました。

「越後(山本五十六元帥)」

昭和18年(1943年)の作品。4月に戦士した山本五十六の鎮魂の作品。
川端龍子作品では珍しい肖像画。
山本五十六が長岡出身であったことから、人物から「越後」を表すことを試みた作品。
龍子は「五十六の写真」をヒントに描いたという。
しかし写真の第一種軍装の山本五十六と違い、龍子は、ソロモンの南東海域で亡くなった五十六を踏まえ、熱帯で着用されていた白い軍服(第二種軍装)の姿で描いている。

地図を見入る山本五十六の写真

絵葉書を購入しました

「水雷神」

昭和19年(1944年)の作品。
作品が発表された昭和19年の南方戦線は壊滅的な戦況となっていた。その南方海域を感じさせる熱帯魚が泳ぐ海での、特攻と精神的苦悩の様を造形で記録した作品。
海中で忿怒の表情を呈す3人の青年が、敵陣に突入する爆弾三勇士のように、魚雷を突き動かしつつ悲痛な叫びを上げている。
一方で、魚雷の先端に金剛杵を描くことで魚雷そのものを宝具と化し、それを突き動かす青年三体を神格化している仏教的な試みもされ、兵器としての水雷の神格化も踏まえ「水雷神」と銘し、軍部の期待にも龍子なりに応えている。

絵葉書

爆弾三勇士

「爆弾散華の池」

絵葉書は、「香炉峰」「越後(山本五十六元帥)」「水雷神」「爆弾散華の池」の都合4枚をいただきました。

実は、川端龍子のこと、ほとんど知りませんでした。
たまたま「爆弾散華の池」というフレーズを知り、ちょっと気になったので脚を運んだ次第でしたが、記念館で圧倒的な迫力で「香炉峰」を目にして、一気に興味を持った次第。

場所

大田区立龍子記念館
〒143-0024 東京都大田区中央4丁目2−1

https://goo.gl/maps/SD3uzoqfLhpopYxY6

大森駅からは歩いて25分くらい。バスだと15分くらい。


大森駅の東側にある入新井公園に戦争の慰霊碑があるので、あわせて参拝。

入新井萬霊地蔵尊

入新井萬霊地蔵尊
為昭和昭和二十年一月 十一日
        五月二十三日
        五月二十九日
               大空襲戰災死者

入新井萬霊地蔵尊の由来
 この辺りは、太平洋戦争下の昭和二十年五月二十九日の東京大空襲にて、不幸にも三・三平方メートル(一坪)当り六、七発の大量油脂焼夷弾が落され、大勢の尊い犠牲者が出ました。
 戦後、区画整理も整い入新井公園が設けられるに及び、昭和三十二年住民の声にて、今は亡き肉親を偲び、在りし日の隣人を追慕してご冥福を祈ると共に永遠の平和を祈念し、故広瀬定光氏他有志が発起人となり、住民の浄財をあおいで地蔵尊が建立されました。
 その後永年の風雪に破損がひどく、今回三十三回忌を記念して再び広く浄財を募り再建したものであります。近隣の方々のお力により、毎日お花や線香の絶える時がございません。
 昭和五十一年五月二十九日
 入新井萬霊地蔵尊奉賛会

場所

https://goo.gl/maps/cCBUbWuQyH9ptFtD6


※撮影は2021年10月

「鉄道紀行文学の御三家」内田百閒・阿川弘之・宮脇俊三の墓

近代化とともに発展してきた鉄道。そんな鉄道を舞台とした旅物語を作家たちが綴り、そして鉄道紀行文学が確立された。

日本の近代を鉄道を介して旅してきた日本を代表する御三家の墓詣でを。

合掌。


内田百閒(うちだ ひゃっけん)

本名は内田榮造。
1889年〈明治22年〉5月29日 – 1971年〈昭和46年〉4月20日。
別号は百鬼園(ひゃっきえん)。

夏目漱石門下生。 東京帝国大学独文科卒。
1916年(大正5年)、陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)
1918年(大正7年)、海軍機関学校英語学教官であった芥川龍之介の推薦により、海軍機関学校のドイツ語学兼務教官嘱託となる。
1920年(大正9年)、法政大学教授(予科独逸語部)に就任。
1923年(大正12年)、陸軍砲工学校附陸軍教授に任官。
しかし、同年に関東大震災に罹災。海軍機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。1925年(大正14年)陸軍士官学校教授を辞任、陸軍砲工学校教授依願免官。
1929年(昭和4年)、法政大学航空研究会会長に就任、航空部長として、学生の操縦による青年日本号訪欧飛行を計画・実現。
1934年(昭和9年)、いわゆる「法政騒動」を機に法政大教授を辞職。
以後、本格的に文筆業に専念。

1922年(大正11年)、処女作品集『冥途』刊行。
1933年(昭和8年)、随筆集『百鬼園随筆』刊行。
1939年(昭和14年)、日本郵船嘱託。
1945年(昭和20年)、東京大空襲により自宅焼失。
1950年(昭和25年)、大阪へ一泊旅行。これをもとに随筆「特別阿房列車」を執筆、以後『阿房列車』としてシリーズ化し戦後の代表作となる。
1952年(昭和27年)、鉄道開業80周年を記念して,東京駅一日駅長に就任。
1957年(昭和32年)、愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆。
1970年(昭和45年)、最後の百鬼園随筆である「猫が口を利いた」発表。これが絶筆となる。
1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳。

代表作
『冥途』1922年2月
『百鬼園随筆』1933年10月
『旅順入城式』1934年2月
『贋作 吾輩は猫である』1950年4月
『阿房列車』1952年6月
『禁客寺』1954年10月
『東京焼盡』1955年4月
『ノラや』1957年12月
『クルやお前か』1963年7月
『日没閉門』1971年4月

映画
『まあだだよ』(1993年、大映、監督:黒澤明、主演:松村達雄)
百閒と法政大学教授当時の教え子の交流を描いた作品。
毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の名は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。

阿房列車
『阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きの知られ、酒宴では「鉄道唱歌」を熱唱することでも知られていた内田百閒。
全く無目的に、ただひたすら大好きな汽車に乗るためだけの旅を実行、それを『阿房列車』という鉄道紀行シリーズにまとめた。

「なんにも用事はないけれども、汽車に乗って大阪に行つて来ようと思ふ。用事がないのに出かけるのだから三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。これからは一等でなければ乗らないときめた。そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかも知れない。しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。…今度は用事はないし、だから一等車で出かけようと思ふ。…行く時は用事はないけれども、向こうに著いたら、著きつ放しと云ふわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから…さう云ふ用事のある旅行なら、…三等で帰ってこようと思ふ。」(内田百閒「特別阿房列車」)

大手饅頭
岡山出身の内田百閒は郷里の名物、大手饅頭伊部屋「大手まんぢゅう」をこよなく愛していた。
「私は今でも大手饅頭の夢を見る。つひこなひだの晩も同じ夢を見たばかりである。東京で年を取つた半生の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。」(古里を思ふ)と随筆し、そして大手まんぢゅうになら「押しつぶされてもいい」とまで書いている。

大手饅頭伊部屋
https://www.ohtemanjyu.co.jp/

大手まんぢゅう、たまに食べたくなるです。。。


内田榮造之墓(内田百閒の墓)

内田百閒の墓は、東京都中野区の金剛寺と、岡山県の安住院にある。
今回は中野区金剛寺のお墓を参拝。

内田榮造之墓

本名が刻まれている。

側面には戒名。

覺絃院殿随翁榮道居士
昭和四十六年四月廿日没 行年八十三歳

背面には建立日、そして摩阿陀會。

昭和四十八年四月廿日之建 摩阿陀會

内田百閒の家紋は、「丸に剣片喰」

木蓮や塀の外吹く俄風 百間

内田百閒没2年後の1973年(昭和48年)には、摩阿陀会有志により墓の脇に句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」が建立。
この句碑から、忌日の4月20日を木蓮忌とも言われている。

内田百閒の最初の妻は、中学時代の親友であった堀野寛の妹、堀野清子であった。内田百閒40歳の頃(昭和4年・1929年)に家族と別居し合羽坂に転居した際に、佐藤こひと同居。愛人でもあった。
昭和39年(1964)に、妻・清子が72歳で死去。翌年、75歳だった内田百閒は、佐藤こひと入籍している。そうして、内田こひは内田百閒の隣の墓で眠っている。

内田こひ、昭和62年8月5日没 行年80歳。

なお、内田百閒の最初の妻であった清子夫人は、内田百閒の岡山の墓で一緒に眠っている。

場所は金剛寺の奥にある金剛寺墓所。寺院とは離れた場所なので、ちょっとわかりにくい。駅からちょっと遠い。

https://goo.gl/maps/V8vs88FmtjM9tZVp6

サイト内で内田百閒に関連する記事。


夏目漱石の弟子であった内田百閒は、師を敬愛し「贋作」を書いた。
『贋作吾輩は猫である』
阿川弘之は、鉄道好き作家であった内田百閒に敬意を評して、阿房列車を再び走らせた。
『南蛮阿房列車』

阿川弘之

1920(大正9年)12月24日-2015(平成27年)8月3日
94歳没

東京帝国大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)9月に海軍予備学生として海軍入隊。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務。大学在学中に中国語の単位を取得していたことから対中国の防諜担当班に配属される。
1944年、海軍中尉に進級し、8月に支那方面艦隊司令部附となる。
1945年8月15日の終戦は中国大陸で迎える。終戦に伴う進級で阿川弘之は海軍大尉となる。いわゆる「ポツダム大尉」。
1946年(昭和21年)2月、復員。

戦後は、志賀直哉に師事して小説家となる。

代表作は、
予備学生の特攻を描いた「雲の墓標」
海軍提督三部作「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
海軍のシンボルであった戦艦の姿を描いた「軍艦長門の生涯」
志賀直哉最後の弟子として師匠を伝記した「志賀直哉」
鉄道物として絵本「きかんしゃ やえもん」の原作
内田百閒に薫陶を受けた「南蛮阿房列車」など、
戦記文学・記録文学・紀行文学・随筆など多数の作品を残す。

広島県名誉県民・日本芸術院会員・日本李登輝友の会名誉会長・文化勲章受章。

南蛮阿房列車
鉄道好き作家としても知られる阿川弘之は、内田百閒を敬愛していた。

「お目にかかったことは無いが、内田百閒先生に私は敬愛の念を持っている。理由はいろいろあるけれども、その一つは百閒先生が非常な汽車好きだからで、小説家の中で汽車のことに異常な関心を持っているのは、百閒老先生を除いては、おそらく自分一人だろうという、いわばそういう親愛感である。」(お早く御乗車ねがいます・昭和33年)

「内田百閒先生が最初の阿房列車に筆を染められてから四半世紀の時が経ち、亡くなられてからでもすでに五年になるが、あの衣鉢を継ごうという人が誰もあらわれない。年来私はひそかに心を動かしていたが、我流汽車物語は贋作でないまでも、少しく不遜なような気がして、なかなか実行に移せなかった。
生前、お近づきは得なかったが泉下の百鬼園先生に、貴君、僕も『贋作吾輩は猫である』なる作物がある。二代目阿房列車が運転したければ、運転しても構わないよと言われているような気がしないでもない。」(南蛮阿房列車・昭和52年)


阿川弘之の墓(阿川家之墓)

北鎌倉の浄智寺に阿川弘之は眠る。

阿川家之墓

阿川弘之

場所

https://goo.gl/maps/aCUioiPJdfZsKvVc9

阿川弘之さんのお別れ会(以下のサイトで様子が詳細に記載されている)

http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/owakarekai.htm

サイト内で阿川弘之に関連する記事。


内田百閒と阿川弘之が確立した鉄道紀行を文学として高めたのが宮脇俊三であった。
編集者として阿川弘之と親交も深かった。

宮脇俊三

1926年12月9日 – 2003年2月26日。76歳没。
編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。
阿川弘之の『お早くご乗車願います』担当編集なども務める。

父は宮脇長吉。
宮脇長吉は陸軍航空兵大佐を最後に衆議院議員となる。
1938年の帝国議会では、国家総動員法の委員会審議で横柄な演説をした説明員の佐藤賢了陸軍中佐に対して野次を飛ばし、佐藤に「黙れ!」と怒鳴られるという事件が起きた(黙れ事件)。佐藤賢了は陸軍時代の教え子であった。

宮脇俊三は、1945年(昭和20年)、東京帝国大学理学部地質学科に入学。父である宮脇長吉は軍需工場の経営なども行っており、ちょうど東京から山形に父親と共に鉄道で移動している最中、8月15日正午、米坂線今泉駅前で玉音放送を拝聴する。
戦後、東京大学文学部西洋史学科に入学し、1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。
中央公論では「婦人公論」編集長、また「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」などにも関わる。
1978年(昭和53年)6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社。
1999年(平成11年)気力・体力に限界を感じ、休筆を宣言。
2003年(平成15年)2月26日、肺炎のため没する。享年76。戒名「鉄道院周遊俊妙居士」。宮脇俊三の命日は「周遊忌」と称されている。

代表作
時刻表2万キロ(1978年7月10日)
最長片道切符の旅(1979年10月)
時刻表昭和史(1980年7月)
終着駅は始発駅(1982年8月)
殺意の風景(1985年4月)

時刻表昭和史
「正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つづいて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。固唾を呑んでいると、雑音の中から
「君が代」が流れてきた。
天皇の放送がはじまった。雑音がひどく聞き取りにくく、難解であった。けれども、「敵は残虐なる爆弾を使用し」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は、なまなましく伝わってきた。放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。
時は止まっていたが汽車は走っていた。 
まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入ってくるのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。 
けれども、坂町行109列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。
機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか。あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。」 (時刻表昭和史)


宮脇俊三の墓(宮脇家の墓)

青山霊園に眠る。
父親である宮脇長吉も同じ墓。

宮脇家之墓

鉄道院周遊俊妙居士
平成15年2月26日去
宮脇俊三 76歳

宮脇俊三が愛していた「大井川鉄道の関の沢鉄橋」が刻まれた記念碑

終着駅は始発駅

 宮脇俊三
  鉄道院周遊俊妙居士

場所は、青山霊園1種ロ7号15側2番 

https://goo.gl/maps/rDViBcS6jTRwAt6T6


関連

空母「飛龍」と共に散った名将・山口多聞

ミッドウェー海戦で、孤軍奮闘し散った名将、山口多聞海軍中将の墓は、青山霊園にある。


山口多聞(やまぐち たもん)

1892年(明治25年)8月17日 – 1942年(昭和17年)6月5日)
海兵40期次席・海大24期次席
ミッドウェー海戦において空母飛龍沈没時に戦死。49歳であった。
最終階級は海軍中将。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TamonYamaguchi.jpg



海軍兵学校40期の同期には、福留繁、宇垣纏、大西瀧治郎、醍醐忠重、左近允尚正、寺岡謹平などがいる。海兵40期の主席は、岡新。山口多聞は次席卒業。海軍大学校甲種学生24期も次席卒業。

第二航空戦隊司令官
昭和15年(1940)11月1日、第二航空戦隊司令官に着任。
昭和16年4月10日に第二航空戦隊は第一航空艦隊に編入。通称「南雲機動部隊」。

昭和16年12月8日、開戦。真珠湾攻撃に参戦。大戦果を収める。

第一航空艦隊
第一航空戦隊( 一航戦 )赤城、加賀
司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、参謀源田実中佐等

第二航空戦隊( 二航戦 )蒼龍、飛龍
司令官山口多聞少将

昭和15年6月5日 ミッドウェー
6月上旬、ミッドウェー作戦に二航戦司令官(旗艦「飛龍」)として参加。
ミッドウェー島基地攻撃中に、敵空母発見の知らせを聞いた山口多聞は、一刻を争うものとして、基地攻撃用で装備を進めていた陸用爆弾のままで、今すぐに攻撃隊を発進させるように南雲司令部に進言した。
「直チニ攻撃隊ヲ発進ノ要アリト認ム」
しかし、第二次攻撃隊発艦準備中、南雲機動部隊はSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲により、空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が大破、炎上。
山口多聞は、次席指揮官の第八戦隊旗艦「利根」(司令官阿部弘毅少将)の命令を待たず、航空戦を敢行を決意。
第八戦隊と機動部隊全艦に対し、山口多聞は発光信号を発する。
「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」
「飛龍」艦内に山口多聞が通報する。
「飛龍を除く三艦は被害を受け、とくに蒼龍は激しく炎上中である。帝国の栄光のため戦いを続けるのは、一に飛龍にかかっている」
「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」

友永丈市大尉指揮のもと米空母ヨークタウンを攻撃し航行不能まで追い詰めるなど、飛龍は、ただ一隻で奮戦するも、米軍機の急降下爆撃を受け炎上。
飛龍は懸命の消火活動を行うも、機関部などを損傷し、放棄を決定。

山口多聞司令は総員を飛行甲板に集合され訓示する。
皆が一生懸命努力したけれども、この通り本艦もやられてしまった。力尽きて陛下の艦をここに沈めなければならなくなったことはきわめて残念である。どうかみんなで仇を討ってくれ。ここでお別れする」

一同水盃をかわし皇居を遥拝し聖寿の万歳を唱え軍艦旗と将旗を降納。

「提督の最後」 北蓮蔵画
東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国より無期限貸与)
1943年(昭和18年)山口の最期を描いた戦争画。
画面中央での罐の蓋で水を受けるのが山口多聞、その向かって右奥は飛龍艦長・加来止男で、右手前から参謀が降ろされた軍艦旗を掲げ持って歩み寄る。
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Renzo_Kita,_Last_Moment_of_Admiral_Yamaguchi.jpg

午後11時50分、軍艦旗降下。
6月6日午前0時15分、総員退去命令。
午前2時10分、巻雲の発射した魚雷2本のうち1本が命中し、沈没。

山口多聞少将と加来止男飛龍艦長は、飛龍と運命を供にした。

山口多聞は昭和17年6月5日付で海軍中将に進級。
10月10日、昭和天皇は侍従の徳川義寛を勅使として差遣し、祭祀料を下賜。
翌日の10月11日、山口の葬儀が青山斎場で執り行われた。


「余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり」
宇垣纏「戦藻録」

このとき、連合艦隊の参謀長であり、海軍兵学校の同期でもあった宇垣纏は、日記「戦藻録」に、山口多聞の死について、以下のような記述を残し、最大限の賛美を送っている。

六月六日
 山口少将は剛毅果断にして識見高く、潜水艦勤務を専務としたるが、後、聯合艦隊専任参謀、大学校教官、米国駐在、第二聯合航空隊司令官等を歴任し、現職に在る事二年有半なり。余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり。
 けだし蒼龍先に沈み、航空艦隊唯一の空母として奮戦、逆に敵空母二を仕留めるも、飛龍自らもまた刀折れ矢尽きて遂に沈没するに至る。司令官の責任を重んじ、ここに従容として艦と運命を共にせり。その職責に殉ずる崇高の精神、正に至高にしてたとゆる物なし。

宇垣纏「戦藻録」

戦時録音資料

昭和18年4月24日に行われたラジオ資料が残されている。
大本営海軍報道部の海軍大佐・平出英夫報道課長がラジオでおこなったもので、前年の昭和17年6月のミッドウェー海戦で、沈没する空母「飛龍」とともに死を共にした、第二航空戦隊司令官 山口多聞中将と「飛龍」艦長 加来止夫大佐(死後少将)の二人の奮闘ぶりを伝えた記録。

山口と加来の戦死は、この昭和18年4月24日夜に放送された『提督の最期』と題するラジオ番組で日本国民に対して公表された。少々長いが、当時の克明な記録でもあるので、以下に引用する。

精神教育資料 提督の最期(一)
近代戦は科学戦と言われます。従いまして、各種艦船、兵器、機関、装備などが戦闘の勝敗を決する重大な要素であることは申すまでもありません。しかし古来の戦争を見ましても、軍隊、なかんずくこれが上に立つ指揮官の素質と、至誠奉公の精神如何等の要素が、かかる物質的威力を凌駕するものであることは、万古不変の鉄則であります。今や我が将兵は、大御稜威をいただき、卓越せる指揮官の下、全軍一体となって物的優勢を頼みとする敵戦力を、徹底的に撃砕致しております。物的要素は、もとよりいささかも軽く見てはなりませんが、精神的無形の要素が無限の戦力を形成するものであることを、特に明記すべきであります。私はこのたび、北支勇将の御名に浴しました山口多聞中将、加来止男少将の東太平洋における壮烈なる奮戦と、陛下の御船と運命をともにした、鬼神も哭くその最期を申し述べ、我が前線指揮官が敵撃滅の中心となって、いかに戦っているかをしのびたいと存じます。本日は畏くも天皇陛下、靖国神社へ御親拝あそばされたのでありますが、その夜、両提督の最期をお話し申し上げることは、ひとしお感慨深いものがあります。

山口中将は、支那事変にありましては、あるいは艦船部隊、あるいは航空部隊の指揮官として各地に転戦し、その功、抜群だったのでありますが、特に航空部隊指揮官としては重慶空軍の撃滅、並びに敵軍事施設の攻撃に偉功を奏し、軍令部総長の宮殿下よりその功績を嘉尚せられ、御言葉を伝達せらるるの光栄に浴したほか、支那方面艦隊長官より、感状を授与せられております。大東亜戦争におきましては、中将は開戦劈頭のハワイ海戦に参加され、かの赫々たる大戦果の一半は、実に中将の卓越せる兵術、烈々たる実行力の功に帰するというも過言ではありません。

その後、中将は各作戦に参加され、数々の偉勲を立てられたのでありますが、東太平洋方面の作戦におきましては、敢然として敵方に進出、反復猛烈なる攻撃を加え、部下航空部隊の最後の1機に至るまで奮戦し、敵航空母艦、大型巡洋艦、各々1隻を屠り、他の航空母艦1隻に大損害を与え、敵基地に甚大な打撃を与えるという大戦果を挙げられたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400264_00000

精神教育資料 提督の最期(二)
また、加来少将は、多年航空関係の要職を歴任され、支那事変におきましても、航空隊指令として各地に転戦、赫々たる武勲を立てられ、大東亜戦争勃発いたしまするや、 山口中将の麾下として、ハワイ海戦に参加以来、各作戦に参加され、東太平洋方面の作戦には、敵の反撃を一手に引き受け、奮戦力闘、遂に矢折れ、弾尽きるや、救援のため来着いたしました駆逐艦に、部下総員を無事移乗せしめました後、山口中将とともに艦上に踏みとどまり、従容として船と運命をともにいたされたのであります。

次に、当時の状況をそば近くともに戦い、その実情を目の当たりにした将士の記憶によって申し述べたいと思います。

昭和17年6月のことであります。東太平洋方面に作戦が実施されまするや、山口中将指揮の我が航空部隊は、整斉と予定の行動に移り、洋上の基地奥深く潜む敵、本艦艦隊のおびき出しを計りながら、次々と艦載機を飛ばしました。この日、層雲は2000メートルの上空を込め、東南東の風強く、同方面特有のうねりは大きく、艦載機の飛び立つのにも困難を感ずるほどでありました。索敵機が進発してから約2時間、航空母艦○(まる)隻を根幹とする敵艦隊の北上を発見す。その快報がもたらされました。時に日本時間の早朝、洋上の時差がありますので、太陽は既に中天に近いころであります。我が軍艦○○(まるまる)は、山口司令官これを直率、加来艦長指揮の下に、既に戦闘配備にあり、将士の意気、また既に敵を呑むの概があります。戦機まさに熟す。我が戦隊は敢然挺身、有力なる基地航空兵力の援護下にある敵航空母艦群、及び飛行機集団と火蓋を切ります。かくて激戦力闘数時間に及び、我が方はついに敵航空母艦高級巡洋艦各1隻を撃沈。他の航空母艦1隻を大破せしめました。そればかりではなく、この日、明け方から粉砕、撃墜し続けてきた敵飛行機は、既に百数十を数えましたが、戦意旺盛な海の勇士たちは、なおも残る敵航空母艦に対して猛襲を続けたのであります。しかし我が方は、夜来敵基地の奥深くに迫って、奮戦十数時間に及び、既に砲身は焼け、飛行機も傷つき、すべての力を出し尽くしたかの感がありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400265_00000

精神教育資料 提督の最期(三)
あくまで敵を撃滅せずんば止まぬ勇士たちは、一面整備、一面激戦。さらに猛攻撃に当たらんとする、ちょうどその時であります。刻々数を増してきた敵急降下爆撃機群は、我が艦上を覆い、めくらめっぽうに投下する魚雷、爆弾のしぶきに艦影は覆い隠されるほどでありました。実にこの日、敵の猛襲は熾烈を極め、払暁以来、我が軍艦○○(まるまる)めがけて突撃を試みた敵機115機。回避した魚雷だけでも26本。爆弾約70発であります。敵の来襲は、早朝より午後にかけて4回に及び、最後の来襲により、敵の数発の爆弾は遂に我が艦橋前方の飛行甲板に命中いたしました。

山口司令官、加来艦長、以下幕僚はその時艦橋にありましたが、ものすごい爆風が四方のガラス窓を打っただけで、概ね無事でありました。だが前部飛行甲板には大小丘のような鉄板の波。大きな爆弾の穴が開けられ、格納庫はすさまじい火炎を噴き出し、別の至近弾による火災もたちまち艦橋をめぐる防弾幕に燃え移って、みるみるその火勢を広げていきます。応急処置の命令は次々に下されました。艦内各要所への注水はもとよりのこと、勇士たちは持ち場、持ち場を守って消火に全力を挙げたのであります。船破るるも軍規乱れず、沈着に機敏に処置が講ぜられました。だが、一波静まれば、一炎またみなぎるありさまです。巨体は勇士たち必死の努力にもかかわらず、漸次全面的に灼熱化し、延々と燃え広がる火勢は夕闇の空を焦がし、海水もために滾るかと思われました。勇士たちはなおも絶望を絶望とせず、豪炎烈火の中になお氷のごとき沈着さをもって鎮火に努めましたが、火勢はいよいよ激しく、たちまち機械室、釜室の上部前面は火の海と化し、舵取り機械の操作も遂に不能に陥りました。

この時、なお艦艇深い部署にあって、阿修羅のごとき操作を続けておりました機械釜部員は、上層鉄板の熱気、四方を巡らす鉄壁の焦熱のうちに最後万歳を唱え、あるいは死すとも敵を撃たでは止まじと絶叫し、相次いで斃るとの知らせが頻々として伝声管をもって艦橋に伝えられるのであります。それよりも早く、救出決死隊の手は猛火と猛煙をおかして機械室と釜室との連絡を図っていたのであります。万策功なく、また救い出しの手も多くに及ばず、船は次第、次第に轟々たる鳴動のうちに左に傾斜して、約19度に瀕していたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400266_00000

精神教育資料 提督の最期(四)
誘爆はなおも続き、あまつさえ全艦の火は潮風を合わせて、波頭をなめんばかりであります。この中にあって、船の左舷側には、大胆にも駆逐艦○○(まるまる)がその舷側をぴったりと横付けにしていました。ともに消火に当たり、死傷の戦友を抱えうつなど必死となって協力いたしたのであります。それはちょうど猛火の中に親子相擁し相呼ぶがごときありさまであります。船の将士をして熱涙を震わせたのでありました。この間にあって、なお騒がず、乱れず、数名の将士の歩み謹厳にして、一挙一動、礼儀正しくは何事かと見えました。それは防御甲板下部の奉安室に、鉄壁鉄心を持って奉安し参らせてある御真影を奉遷し奉る姿だったのであります。一員がうやうやしく奉遷箱に移し奉ります。身を以てしかと背に負い、ひとまず前甲板に奉安申し上げ、さらに命によって駆逐艦に移しまいらせたのであります。陛下の見つめたり御船、今ここに御真影の御移乗を了したてまつる。死んだ全員の努力もなお忠誠に足らざるなきかと、忠勇の士、みな恐れ思うて悲憤の涙は抑えんとして抑えがたく、加来艦長は、今や総員退去のやむなしと判断いたしました。その決意を山口司令官に報告いたしました。司令官も、これに同意され、この旨を艦隊司令部に報告せよと命ぜられました。この報告は、いったん付近にあった駆逐艦に、懐中電灯のかすかな光りによって伝えられ、さらに艦隊司令部に伝えられました。時に東太平洋の夜は既に深かったのであります。この時、なおも機械室、釜室にある戦友に対する決死の救出作業は依然として続けられておりましたが、厚い煙に阻まれまして、今は万策、全く尽き果ててしまいました。戦友たちがこもごも、声を限りに熱涙を込めて呼びますが、轟々と渦巻き上る噴煙がその面を打ってくるのみでありました。

「総員、飛行甲板に集まれ」「飛行甲板に集合」。ついに最後の命令は発せられました。叫ぶような号笛の伝令。喉も破れて出ぬ声を振り絞りながら、その命令はたちまち全部署に伝えられました。総員の集まりました飛行甲板は、あたかも坂のように傾き、亀裂、凹凸、弾痕で惨憺、目も当てられぬ有様であります。また集合した総員の顔という顔は、終日の奮戦を物語る油と汗で黒くまみれておりましたが、どの目もらんらんと不屈の戦意に燃え輝いて、一人として失望落胆の気配すら伺われません。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400267_00000

精神教育資料 提督の最期(五)
全員の瞳は、期せずして艦橋に注がれました。艦橋の一方に屹立するは山口司令官、及びその幕僚。左のほうに加来艦長、副長、その他の影濃く、燃えさかる炎と月の光りに、その1つ1つの横顔が染め分けられていました。ああ、我が司令官、我が艦長もまた健在なりしかと、全員の瞳に一瞬、歓喜の色輝くのを見まするのは、なおこの期においても、自己なく生死なく、身命ただ1艦とともに在りの姿でなくてなんでありましょう。各分隊長は直ちに人員点呼を行いまして、上官に伝え、上官は艦長に報告いたします。この報告が終わりますと、加来艦長は山口司令官に敬礼し、ともに艦橋から飛行甲板に降り立ちました。降り立ったその足下に、数個のビスケット箱があります。それは消火に協力した駆逐艦から応急糧食として運び上げてくれたものでありますが、全員、誰一人としてそのビスケッ
トの一片だにも口にしたものはありません。のみならず、その日の暁から、この時まで、司令官以下、総員戦闘配食のにぎりめし1個を形につかんだことがあるだけで、1杯の水すら飲む者はなかったのであります。加来艦長は、そのビスケット箱の上に立ちました。そして粛然、次の如く訓辞されました。

「諸氏、諸氏は乗艦以来、ハワイ空襲その他においても、もちろん今日の攻撃に当たっても、最後まで実によくその職を尽くしてくれた。皇国海軍軍人たるの本分をいかんなからしめてくれた。艦長として、最大の満足を感ずるとともに、実に感謝に堪えない。あらためて礼を言う。ただ、ともに今日の戦いに臨みながら、ともにただ今ここであい見ることのできない幾多戦友の英霊には、多感言い表せないものを覚える。同時に、その尊い赤子を多く失ったこと、陛下を始めたてまつり、一般国民に対し、深くお詫び申し上げる。今時、出撃の際にも各員に申し述べたとおり、戦いはまさにこれからだ。諸氏の同僚はこの海底に神鎮まるも、ここの海上は敵アメリカへの撃滅路として、無数の英魂が万世(よろずよ)かけて我が太平洋を守るであろう。諸氏もどうか一層奮励して、さらにさらに我が海軍に光輝を加えてくれ。敵を撃滅し尽くさずんば止まじの魂を、いよいよ鍛え合ってくれ。切に諸氏の奮闘を祈る。では、ただ今より総員の退去を命ずる。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400268_00000

精神教育資料 提督の最期(六)
力強い語尾でありました。艦長に代わって、すぐに山口司令官が台上に立たれました。

「ただ今の艦長の訓辞にすべて尽くされたと思う。私からはもう何も述べることはない。お互いに皇国に生まれてこの会心の一戦にあり、いささか本分を尽くし得た喜びがあるのみだ。皆とともに宮城を遙拝して、天皇陛下万歳を唱え奉りたい。」

司令官の声にも、態度にも、平生と少しも異なるところは見られませんでした。ただ無言不動のうちにも、全将兵の列を貫く強い感激のうねりは、目にも見えるほどでありました。誘爆のものすごい音響の中に、縦横にひらめく猛煙の中に、その轟音も熱風も裂けよとばかり、万歳を奉唱し終わりまするや、加来艦長はさらに大声で令しました。「今から軍艦旗を下ろす。」全員、不動の姿勢に、燃える感情も、峻厳秋霜たる軍旗の前に、烈火も熱風もありません。やがて君が代のラッパ吹奏時に、我が軍艦旗もまた、なお戦場の空にとどまらんと願うか、霊あるもののごとく、赤き月の夜空を寥々の音にひかれて下りてまいりました。将旗もともに降ろされます。仰ぎ見る全員の面は、涙に濡れざるはありません。この時既に総員は、山口司令官、加来艦長の決意が奈辺にあるかを推察していましたので、副長は各科長を集めて、ともに船にとどまりたいと申し出たのであります。

艦長は言下に「いけない。それはいかん。自分は船の責任者として船と運命をともにするの名誉を担うものであるが、ほかの者は許さん。重ねて言う。戦争はまさにこれからだ。諸氏の忠誠に待つ百難の戦場は、果てしなくあろう。諸氏は今日の戦訓をよく将来に生かし、一層強い海軍をつくってくれ。敵米英を完膚なきまでにたたきつぶせ。いよいよ奮戦努力してもらいたい」と、この申し入れを厳然と退け、さらに司令官を省みて申されました。

「司令官、ご退艦ください。これにとどまるは1人、不肖艦長の任にあります」これに対しまして山口司令官は、いやとも言わず、しかりとも答えず、ただにっこり頷いたのみでありましたが、眉の色、態度、既に固く自ら信ずるところを持して他より動かすに由なきを無言に示しておられたのであります。この日、終日艦橋にあって、悠々常に迫るなく、一笑すれば春風を生じ、一礼すれば秋霜の厳たるを思わすの慨は、実に山口司令官の英姿そのものでありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400269_00000

精神教育資料 提督の最期(七)
外は穏和快活でありながら、内は剛毅不屈。武人の死は、なお呱々の声を挙げて世に生まるる日に等しとは、常に語っておられたところでありました。司令官の日常をよく知っておりました加来艦長は、司令官の微笑を仰ぎましては、あえて一度は退艦を勧めましたが、二度と勧める気にはなれなかったのであります。ただ黙然とその傍らに持して立つのみであります。なおまた専任参謀以下幕僚も、皆ともにその周囲にありまして、一歩も動かないでいるのを見ますと、山口司令官は一同に、厳かに「退去を命ずる」と命令されました。この時、船の傾斜はいよいよ加わりまして、もう手を何かに支えなければ、立っていることさえ難しくなっておりました。依然、誘爆は止まず、死期は既に秒間にあるを思わせたのであります。「早く行け、退去しないか」司令官の温容は凜として一喝しました。しかし自身は悠々自若。ただ全員の上に深い瞳を注いでおられます。今はやむなく、総員一斉に挙手の敬礼をいたしました。万感の別辞に代え、駆逐艦2隻に移乗を開始いたしました。第1に負傷せる船員。第2に同乗せる他の船の乗員。以下、順次に秩序整然として、光輝ある海の砦に決別を告げていった。総員が退官し終わるわずかの間を、なお残った幕僚や船の幹部は、短艇用の小さな水樽を囲み、その栓を抜いていました。この水樽も、先にビスケット箱とともに僚艦から消火作業中に贈られたものでありましたが、その水栓は、今初めて抜かれるのであります。あり合わせの石油空き缶の蓋を杯に代え、まず司令官、艦長の前に捧げました。それから次々に飲み交わしては、相別るる人の影を心の内に伏し拝んだのであります。しかし山口司令官と加来艦長とは、一掬の水に終日の渇を潤しますと、もう辺りの嗚咽も涙声も素知らぬように、淡々と語り合っておられました。

「いい月だな、艦長」
「月齢は21ですかな」
「2人で月を愛でながら語るか」
「そのつもりで先ほど、主計長が金庫の措置を聞きに来ましたから、そのままにしておけと命じました」
「そうそう。あの世でも渡し銭がいるからな」。

よそながらこの対話を聞く者は、熱鉄を飲む思いが致したのであります。司令官はつと目を向け直しますと、専任参謀と副長を特に招き寄せて申されました。

「こういう作戦の中だから、君たちの身も明日は計り知れない。ゆえに、特に依頼しておくわけだが、艦隊長官へ伝言を頼む。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400270_00000

精神教育資料 提督の最期(八)
それは、急にその姿勢を正し、言葉も厳かに「陛下の御船を損じましたことは、誠に申し訳ありません。しかし、やるだけのことはやりました。ただ敵の残る1艦に最後のとどめを刺す前に、かくなったことは残念に存じます。どうかこの仇をうち晴らしてください。長官の御武運長久をお祈りいたします。以上だ、頼むよ」と言い終わるや、山口司令官は静かに艦橋にその歩みを移されました。加来艦長も、またやや足早に艦橋に上っていきます。「司令官、なんぞお形見をください」。専任参謀は追いすがるように両手を挙げて艦橋を振り仰ぎました。その手の上へ、山口司令官の戦闘帽がふわりと軽く投げられました。副長は、軍艦旗を肌身につけ、専任参謀は将旗と形見の戦闘帽を抱きまして、最後に2人とも遂に船を去ったのであります。軍艦の舷側を離れました後も、2隻の駆逐艦は近くを去らず、逡巡、幾度かめぐり、幾度か短艇を下ろし、あるいは艦上の諸声を合わせて呼び合い、手を挙げ、帽を打ち振るなど、ほとんど子が親を呼ぶにも勝る哀惜の絶叫と衷情を表し続けたのであります。だが司令官と艦長の牢固たる決意の姿にはいささかの揺るぎも見えず、ただ彼方の艦橋に立てる2つの影も、我に答えて手を振っておるのが見えるだけありました。刻々、その2つの影は、神かのごとき崇高さを顕現しておりました。一瞬、艦橋もろとも黒煙に覆われ去ったかと思えば、また次の一瞬、炎々たる炎は神の像のごとく、その影を栄え照らしました。なお振り続けている手の線まで赤々と見えます。やがて驚くべき海面の変化が予想されます。広く大きい海の洞穴が突如として生じるかのごとき、大渦のもたらし来たった潮鳴りであります。それが先か、後か、轟然、一大音響とともに、彼方の軍艦は裂けておりました。たちまち見るその左舷は、急傾斜して洋中に没し、刹那に深く沈みゆく艦橋には、人なく焔なく煙もなく、まさに中天一痕の月落ちて遙深へ神鎮まったかのようにしか思われません。その渦潮を急に避けながらも、2隻の駆逐艦上から、その有様を目撃しておりました全将兵の目には、既に常時の人間、山口司令官、加来艦長の影はなく、2人にして全く1つなる、我が海軍魂。その一閃の神の光りを明らかに、目で見た心地だったのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400271_00000


山口多聞墓

青山霊園1種ロ8-1
このエリア、青山霊園1種ロ8号(警視庁墓地のとなり)界隈は有名人、著名人のお墓が集中している。ゆくゆくはまとめてみたいとは思ってます。。。

山口多聞の墓に参拝。
日本海軍が誇る名将に合掌。

海軍中将
正四位勲一等功一級
山口多聞墓

裏面
昭和十七年六月五日戦死
 元帥海軍大将永野修身書

山本五十六の詠んだ石碑が建立されている。


佐世保海軍墓地には飛龍の慰霊碑がある。あわせて掲載。

航空母艦 飛龍 戦没者慰霊碑

昭和49年6月5日建立
源田実書

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦。
南雲機動部隊(第一航空艦隊)直下の第二航空艦隊にて山口多聞少将の旗艦として出撃。最後の一艦として奮戦するも飛龍は6月6日午前0時15分総員退去、沈没。山口司令官、加来艦長以下800余名を祀る。

慰霊碑建立の記
航空母艦飛龍(17,300噸)は昭和14年7月横須賀海軍工廠にて竣工、支那事変の際は支那沿岸各地に於いて戦功を樹て昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭僚艦と共に真珠湾奇襲に成功し更に「ウエーキ」島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦に武勲を樹て昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於いては敵陸上基地を猛攻し赤城加賀蒼龍の三航空母艦被弾後は飛龍只一隻孤軍奮戦敵空母「ヨークタウン」を撃破し、更に攻撃準備中武運拙なく被弾大破し火焔に包まれ必死の消火作業も其の効なく遂に総員退去の止むなきに至り第二航空戦隊司令官山口多聞中将、艦長加来止男少将は従容として艦に止どまり多数の戦没者と運命を共にさる
茲に三十三回忌を期し慰霊碑を建立して航空母艦飛龍の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念す
 昭和49年6月5日
 航空母艦飛龍遺族生存者有志一同

在天の 山口司令官
加来艦長はじめ たくさんの戦友たちよ
あの日のことども ともに語りたい
その後のことも 聞いてほしい
だが今日は それもかなわず
とこしえに この聖地に
み霊安らかに 眠れかしと
ただ祈るのみ

佐世保海軍墓地

山口多聞の墓の隣は、高須四郎の墓もある。
広大な青山霊園の中でも、海軍軍人同士が並んでいるのは珍しいので、山口多聞とは直接的には関係しないが、あわせて掲載。

高須四郎

1884年10月27日 – 1944年9月2日
海兵35期。海軍大将。
昭和16年の開戦時は、第一艦隊司令長官。昭和17年に南西方面艦隊司令長官。兼第二南遣艦隊司令長官。昭和18年、兼第十三航空艦隊司令長官。昭和19年3月1日、海軍大将に昇進。
昭和19年4月2日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将が行方不明になる事件(海軍乙事件)が起こり、次席指揮官である南西方面艦隊司令長官の高須が一時的に連合艦隊の指揮をとっている。
昭和19年6月18日に軍事参議官に就任し、9月2日に病没。

高須家之墓

(裏面)
昭和19年5月
高須四郎建之

海軍大将 高須四郎
海軍主計少佐 高須一郎(長男・昭和18年7月に南方海域で戦死)
日本大学名誉教授 高須敏行(次男・平成22年1月没)

山口多聞の墓と、高須四郎の墓はご近所さん。


関連

宇垣纏を偲ぶ
大西瀧治郎を偲ぶ
嶋田繁太郎を偲ぶ

「一死以て大罪を謝し奉る」陸軍大臣・阿南惟幾

終戦時の陸軍大臣・阿南惟幾。多磨霊園に墓所があり、三鷹に邸宅跡がある。
関連する史跡などを徒然に記載していきたいと思う。


阿南 惟幾(あなみ これちか)

1887年(明治20年)2月21日 – 1945年(昭和20年)8月15日
日本帝国陸軍軍人。陸軍大将勲一等功三級。
1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。終戦直前の陸軍の暴発を抑え、そして終戦の詔が発布される前、8月15日早朝に自決をした。


昭和20年8月9日・御前会議

広島そして長崎と新型爆弾(原子爆弾)が投下され、ポツダム宣言を受諾するしか道がない状況下での御前会議は、昭和20年8月9日に開催された。

これまで陸軍を代表して「一撃講和」、一戦を交えてからの講和を(陸軍へのジェスチャーとしての側面もあったが)主張していた阿南惟幾陸軍大臣も、ここに至って、ポツダム宣言の受諾を受け入れる方向へとなりつつあった。

昭和20年の鈴木貫太郎内閣主要人物
内閣総理大臣:鈴木貫太郎
外部大臣:東郷茂徳
内大臣:木戸幸一
陸軍大臣:阿南惟幾
参謀総長:梅津美治郎
 参謀次長:河辺虎四郎
海軍大臣:米内光政
軍令部総長: 豊田副武
 軍令部次長:大西瀧治郎
内大臣:木戸幸一
枢密院議長 :平沼騏一郎

陸軍の声を代表する阿南惟幾陸軍大臣は、米内光政海軍大臣と激論を戦わせるも、結論が出なかった。そして、ついに鈴木貫太郎首相は、最後の手段として、 昭和天皇のご臨席を仰ぐ御前会議を決断する。
昭和天皇ご臨席のもとに午後11時50分に開始された御前会議。

阿南惟幾陸軍大臣は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見をし、梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長は阿南の意見に賛同。
東郷茂徳外務大臣は「終戦やむなき」と意見し、米内光政海軍大臣と平沼騏一郎枢密院議長が賛同。
意見が出揃った8月10日深夜2時ごろ、鈴木貫太郎総理大臣は、自らは発言せずに「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が 陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と 昭和天皇の意見を求めた。終戦反対の強硬派は不意を突かれた形となった。

昭和天皇は身を乗り出すと
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」
「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との「ご聖断」を下した。

そうして、聖断が下された御前会議が終了した。

聖断が下されたのちの、阿南惟幾陸軍大臣の切り替えは見事であった。
なおも終戦に反対する陸軍将校を統制し、出来得る限り暴発を防ぐべく尽力をした。

8月12日には、三鷹の私邸に戻り、家族とつかの間の時間を過ごした。
すでに自決を決意していた阿南としては、家族との最期の別れ、でもあった。

8月13日、 聖断があったにも関わらず、最高戦争指導会議は紛糾しており、翌日に再び 聖断を仰ぐことになった。

昭和20年8月14日・御前会議

8月14日午前11時、御前会議開催。
阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は、「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。阿南らにとって最期に死守すべき事項が「国体護持」(天皇制の継続)であった。
意見を聞いた 昭和天皇は、「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べられた。その瞬間、会議は慟哭に包まれ、鈴木貫太郎首相は、至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪した。

慟哭する阿南陸相に対して、 昭和天皇は「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いたという。

陸軍省に戻った阿南陸相は、御前会議での 昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」「 陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」と説いた。

大東亜戦争終結ノ詔書

昭和20年8月14日午後4時より、終戦の詔書の審議が始まった。
原案では「戦勢日ニ非ニシテ」と記載有る箇所に関して、阿南陸相は、「身命を投げ出して戦ってきた将兵が納得しない」として「戦局必スシモ好転セズ」との穏やかな表現にして欲しいと主張。
対して、米内光政海相は、「陸軍大臣はまだ負けてしまったわけではないと言われるが、ここまで来たら、負けたのと同じだ」「ありのままを国民に知らせた方がよいと思うので、私はまやかしの文を入れないで、原案のままがよいと思う」と反論。
それでも阿南陸相は、交渉を続け、「まだ最後の勝負はついていないので、ここはやはり“戦局必スシモ好転セズ”の方が相応しいと思う」と主張。陸軍将兵の心情を重んじる表現を譲らずに、この点に関しては米内海相が折れて、阿南陸相の修正案に賛同。


これが、陸軍大臣・阿南惟幾の最後の務めであった。

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

以下は、2016年に国立公文書館で公開のあった「終戦の詔書原本」。

「戦局必スシモ好転セズ」 の修正は、阿南の強い要望で修正された。
紙を削って修正されたという箇所がよく分かる。

陸軍大臣として阿南惟幾が公的書類へ署名した最後の文書。

終戦の詔書の審議も無事に終わり閣僚たちが終戦の詔勅への署名する。

阿南惟幾陸相は、閣僚たちに最後の挨拶を取り交わす。

阿南陸相は、東郷外相のそばに歩み寄り、最敬礼で「さきほど保障占領及び軍の武装解除について、連合国側に我が方の希望として申し入れる外務省案を拝見しましたが、あの処置はまことに感謝にたえません。ああいう取り扱いをしていただけるのなら、御前会議であれほど強く言う必要はありませんでした」と謝罪。
東郷外相は「いや、希望として申し入れることは外務省として異存はありません」と答えると、阿南陸相は「いろいろと本当にお世話になりました」とさらに丁重に腰を折って礼をしたので、東郷外相はあわてて「とにかく無事にすべては終わって、本当によかったと思います」と返答している。

次に、総理大臣室を訪れた阿南陸相は、鈴木首相に「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪。同席していた迫水内閣書記官長は、陸軍の暴発を抑えるために心にもない強硬意見を発していた阿南の心情を理解しもらい泣きをしている。

鈴木首相は、阿南陸相の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意。

阿南陸相が部屋を離れた後に、鈴木首相は迫水に「阿南君は暇乞いに来たんだね」と。最期の覚悟を感じ取っていた。
ちなみに昭和4年に、阿南惟幾が侍従武官に就任した際の、当時の侍従長は鈴木貫太郎であり、その時から阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。

自決

8月14日の夜11時すぎに陸軍大臣官邸に戻ってきた阿南陸相。自決の意志は陸軍大臣官邸に帰宅する前から固まっていた。

8月15日深夜1時、阿南の義弟であった竹下正彦中佐が陸軍大臣官邸を訪れた。竹下はクーデター決起(宮城事件)に際して阿南陸相を説得するために、阿南のもとを訪れたが、奇しくも阿南の最期に立ち会うこととなった。

阿南が竹下に「もう暦の上では15日だが、14日は父の命日だから、この日に決めた。15日には玉音放送があり聴くのは忍びない」と遺書の日付を14日とした理由を話した。

会話の最中に銃声が聞こえ始め、宮城事件が勃発。決起した青年将校は近衛師団長森赳中将を殺害。井田正孝中佐が報告のための阿南陸相のもとを訪れると、「そうか。森師団長を斬ったのか、お詫びの意味をこめて私は死ぬよ」と短くもらしただけであったという。

宮城事件に関係する慰霊碑は青松寺にある。
「國體護持 孤忠留魂之碑」


宮城事件が発生しているさなかの、ちょうど同じころの陸軍官邸。
阿南は、竹下と井田を囲んで3人で酒盛りをし、最期の宴を興じ、そして夜明け間近に二人を下がらせた。

阿南は侍従武官時代に昭和天皇から拝領した白いシャツを身につけ、軍服を床の間に置き、昭和18年に戦死した惟晟(次男)の遺影を置いて、ひとり縁側で割腹自決した。

義弟の竹下が阿南の手から短刀を取り介錯。井田は官邸の庭の土の上に正座し、阿南がいる縁側の方を仰ぎ慟哭していた。

「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」と記録されている

阿南陸相は、8月15日正午のラジオでの玉音放送を聴取することもなく、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前の自決となった。

8月15日夜、阿南の遺体は市ヶ谷台で荼毘に付された。

阿南惟幾 遺書

阿南 惟幾 遺書

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル

昭和二十年八月十四日夜
 陸軍大臣 阿南惟幾 花押

神州不滅ヲ確信シヽ

「一死以て大罪を謝し奉る」
阿南惟幾は、この一言の遺書に、 陸軍の責任者として、大東亜戦争責任の「大罪」を一死でもって「謝し奉る」覚悟を記した。

阿南惟幾の遺書(血染めの遺書)は、遺族から靖國神社に奉納され、遊就館にて保存されている。

画像引用:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anami’s_will.jpg

阿南惟幾 辞世の句

阿南惟幾 辞世の句

大君の
 深き恵に
  浴みし身は
言ひ遺こすへき
 片言もなし

辞世の句は、昭和13年(1938)に、第109師団長として転出するにあたり、 昭和天皇と二人きりで陪食した際に、その感激を詠んだ歌であり、国体護持に最後まで拘った、阿南惟幾の心意でもあった。

死後

8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催。
閣議に先立ち、空席となった陸軍大臣席を前に、鈴木首相から話があった。
「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」
「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります……謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句もその場で披露された。

また、阿南陸相がとった最後の手段、自らの自決という行為は全陸軍に衝撃を与え、終戦という事実を強烈に全陸軍に伝えるここととなった。

阿南が最期まで身を挺して護り抜こうとした「国体護持」の象徴である 昭和天皇は、阿南が自決したという知らせを聞くと、「あなんはあなんとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした……」と漏らされた。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。

阿南と陸大同期生であった石原莞爾は、ご聖断による終戦を聞くと、まずは阿南の身を案じて「阿南の気持ちは俺がよく知っている。きっと阿南は死ぬだろう。」と知人に話している。

なお、日本の内閣制度発足後、現職閣僚の自殺はこれが初めてのことであった。


阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國神社遊就館にある。
以下は市ヶ谷記念館にて。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

8月15日の夜に阿南大将の遺体は、自決をした陸軍大臣官邸から、大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部のあった陸軍の中枢たる市ヶ谷台に運ばれ、そこで荼毘に付くされた。

市谷台の防衛省メモリアルパーク内に、「陸軍大臣陸軍大将 阿南惟幾 荼毘之跡碑」がある。
(通常非公開)

以下は、市ヶ谷台ツアーでかつて配布のあった「メモリアルゾーンのご案内」パンフレットより


阿南惟幾之墓

多磨霊園に阿南惟幾は眠る。場所は、13区1種25側。

阿南惟幾之墓

合掌

阿南惟幾の辞世の句が碑に刻まれている。

大君の深き恵に
  あみし身は
言ひ遺こすへき
 片言もなし
昭和20年8月14日夜
陸軍大将 惟幾(花押)

故 大将追慕の念已み難く 友人舊部下教へ子親威相集り 卿を同じくする朝倉文夫氏に嘱して 之の碑を建つ 
 昭和二十八年八月十四日

多磨霊園には、阿南惟幾ほか、一族が眠る。

場所

https://goo.gl/maps/mxdhnKMC3VWHcr2r9


阿南惟幾邸宅跡

三鷹市下連雀に、阿南惟幾の私邸があった。現在は、平和通りと呼称されている。

阿南家
長男・阿南惟敬(1921年生まれ、元防衛大学校教授)
次男・阿南惟晟(1923年生まれ、陸軍少尉、1943年〈昭和18年〉戦死)
三男・阿南惟正(1933年生まれ、元新日本製鐵副社長、靖国神社氏子総代)
四男・野間惟道(1937年生まれ、野間家へ養子、野間佐和子の夫、元講談社社長)
五男・阿南惟茂(1941年生まれ、元駐中国大使)
長女・喜美子
次女・聡子(大國昌彦元王子製紙社長の妻)

現在、阿南惟幾邸宅跡は、今はふたつの阿南家の邸宅となっていた。

阿南惟茂
阿南惟幾の五男(末っ子)。外交官として活躍し中国大使などを勤めた。

南隣にも阿南家。

阿南惟正
阿南建太

阿南惟正は、阿南惟幾の三男。実業家として新日本製鐵副社長などを勤めた。また、靖國神社氏子総代も勤めていた。2019年3月に86歳で没している。
阿南建太は、阿南惟正の長男。

すぐ近く、おなじ通りに太宰治の邸宅もあった。

太宰治のゆかりの「さるすべり」が花を咲かしていた。

阿南惟幾と太宰治は、ご近所ではあったが、生きていた世界が異なるために、お互いを知っていたかどうかは不詳。。。

場所

https://goo.gl/maps/gRvzeMJPaiAk93pt6


阿南一族の出身地、大分県竹田市の広瀬神社(御祭神:広瀬武夫)には「阿南惟幾顕彰碑」が建立され、「阿南惟幾胸像」も建立されている。未訪問。いつの日か、訪れたい。

以上、阿南惟幾関連の史跡、でした。


関連

「日本の飛行機王」東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平(太田の戦跡散策1・銅像、邸宅、墓所)

日本一にして東洋一の航空機メーカーが戦前の日本にはあった。
「中島飛行機」
その創業者が、日本の飛行機王と称せられた「中島知久平」であった。


中島知久平と中島飛行機

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月11日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

帝国海軍
明治36年(1903)10月に、海軍機関学校(海軍兵学校機関科)入学(第15期生)。
明治40年(1907年)4月25日、海軍兵学校卒業。明治45年、海軍大学校卒業。
海軍中尉となった中島知久平は明治45年に米国に派遣され、さらに大正3年にフランスに出張し、飛行術・機体整・飛行機製作技術などを会得。
大正3年、中島知久平(機関大尉)は横須賀海軍工廠飛行機工場長として設計試作などに従事。

飛行機研究所
大正6年、中島知久平は、航空機の将来に着目し「航空機は国産すべき」「それは民間製作でなければ不可能」と結論し、「飛行機研究所」を設立。海軍を大尉で退役した。(予備役編入)

「飛行機研究所」は、群馬県新田郡尾島町(現・太田市)にて創業(大正6年・1917)。
中島邸宅のすぐ近くの河川敷に滑走路が設けられた。

中島飛行機製作所
「飛行機研究所」 は、大正7年に「日本飛行機製作所」に改称し、さらに大正8年に「中島飛行機製作所」と改称。
大正13年(1924)に「中島飛行機東京工場」(後の東京製作所・杉並区桃井)を建設し、翌年より東京工場にてエンジンの本格生産を開始。

昭和12年には、中島知久平は近衛内閣の鉄道大臣に就任。群馬県人として初の大臣であった。

そして昭和13年(1938)に陸軍の増産要請により陸軍専用のエンジン工場として「中島飛行機武蔵野製作所」(武蔵野市緑町)を開設。
昭和16年(1941)、陸軍専用エンジンを製造していた「武蔵野製作所」の西側に、海軍専用のエンジン工場として「多摩製作所」が開設。
昭和18年に軍需省より増産命令を受け両製作所を統合し陸海軍機の生産を一元化された「中島飛行機武蔵制作所」が成立。
国内エンジン生産シェア4分の1を誇るものとなる。

昭和18年12月、軍需会社法により中島飛行機は軍需省管理下の軍需会社に指定。

武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所を中心に西東京田無には中島航空金属田無製造所、三鷹には中島飛行機三鷹研究所などが展開。また周辺には立川飛行機や陸軍立川飛行場、陸軍調布飛行場、府中陸軍燃料廠など軍事施設が集中する一大航空産業地区が出来上がっていた。

昭和19年(1944)11月24日。
マリアナ諸島を発進したB29の東京初爆撃の目標地点は「中島飛行機武蔵製作所」であった。
米軍は武蔵製作所を標的とし高度8000メートル以上の高高度爆撃を行うも、この初空襲での命中率は高くなかった。武蔵製作所は1箇所の工場としては例を見ない計9回に及ぶ爆撃を受ける。

爆撃による壊滅的な被害を受けた中島飛行機武蔵製作所は、各地に工場機能を移転。(工場疎開)
八王子浅川では地下壕にて浅川工場、栃木宇都宮では大谷石採石場跡を利用した大谷工場、福島信夫山に福島工場など30ヶ所以上に分散疎開工場を展開したという。

昭和20年4月に中島飛行機は国営化され「第一軍需工廠」となり、武蔵製作所は「第十一製造廠」に指定。
疎開先の工場は本格稼働も出来ず、特に地下壕の浅川工場は湿気による金属腐敗や内外の温度差などが生産に不向きな環境であり、結局終戦までに10数個のエンジンが完成しただけだったという。

戦後
昭和20年8月16日、中島飛行機は社名を「富士産業株式会社」に改称。中島知久平は代表取締役社長を辞任。弟の中島乙末平が富士産業株式会社社長就任。
中島知久平は、昭和20年8月終戦直後の東久邇宮内閣で、軍需大臣及び商工大臣に就任し敗戦処理に当たる。
(中島知久平は、昭和5年(1930)以降衆議院議員として連続5回当選し、昭和6年に犬養内閣の商工政務次官に、同12年には近衛内閣の鉄道大臣に、同20年に東久邇内閣の軍需大臣(後の商工大臣)を歴任している。)

昭和20年12月に中島知久平はGHQよりA級戦犯に指定。病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘にて自宅拘禁扱いとなり、昭和22年9月にA級戦犯指定解除。
昭和24年10月29日に脳出血のため泰山荘にて死去。65歳没。

昭和20年11月16日、富士産業株式会社は財閥指定を受け解体を命じられ昭和25年に解散。

以下は中島飛行機が解体したのちに設立された主な会社

  • SUBARU (旧富士重工業・東京富士産業)
  • THKリズム(旧リズム・富士精密工業)
  • 富士機械(旧富士機器)
  • 輸送機工業(旧愛知富士産業)
  • マキタ(旧富士機械産業・富士発動機)
  • GKNドライブライントルクテクノロジー(旧栃木富士産業)
  • イワフジ工業(旧岩手富士産業)

中島飛行機の主要な航空機と航空エンジン

陸軍

  • 1931年(昭和6年) 九一式戦闘機
  • 1934年(昭和9年) 九四式偵察機
  • 1936年(昭和11年)九七式輸送機
  • 1937年(昭和12年)九七式戦闘機
  • 1940年(昭和15年)一〇〇式重爆撃機 「呑龍」
  • 1941年(昭和16年)一式戦闘機 「隼」
  • 1942年(昭和17年)二式戦闘機 「鍾馗」
  • 1943年(昭和18年)四式戦闘機 「疾風」
  • 1945年(昭和20年)キ87 高々度戦闘機(試作)
  • 1945年(昭和20年)キ115特殊攻撃機「剣」(試作)
  • 1945年(昭和20年)キ201戦闘爆撃機「火龍」(試作)

海軍

  • 1928年(昭和3年) 三式艦上戦闘機
  • 1930年(昭和5年) 九〇式艦上戦闘機
  • 1936年(昭和11年)九五式艦上戦闘機
  • 1936年(昭和11年)九五式水上偵察機
  • 1937年(昭和12年)九七式艦上攻撃機
  • 1938年(昭和13年)十三試陸上攻撃機「深山」(試作)
  • 1942年(昭和17年)二式水上戦闘機
  • 1942年(昭和17年)二式陸上偵察機
  • 1943年(昭和18年)夜間戦闘機「月光」
  • 1943年(昭和18年)艦上攻撃機「天山」
  • 1943年(昭和18年)十八試陸上攻撃機「連山」(試作)
  • 1943年(昭和18年)十八試局地戦闘機「天雷」(試作)
  • 1944年(昭和19年)艦上偵察機「彩雲」
  • 1945年(昭和20年)特殊攻撃機「橘花」(試作)

※中島飛行機では三菱の零戦のライセンス生産も行っており、設計元の三菱を上回る全体約2/3(約6000機)を中島飛行機で量産している。

航空エンジン

  • 空冷式単列星型9気筒 
     海軍名称「 寿」
     陸軍名称「ハ1」「ハ24(性能向上型)」
  • 空冷式複列星型14気筒
     陸軍名称「ハ5」「ハ41」「ハ109」
     陸海軍統一名称「ハ34」
  • 空冷式複列星型14気筒 → 零戦/隼のエンジン 
     海軍名称「栄」
     陸軍名称「ハ25」「ハ105(性能向上型)」「ハ115(性能向上型)」
     陸海軍統一名称「ハ35」
  • 空冷式複列星型18気筒 → 銀河/彩雲/紫電改/疾風のエンジン 
     海軍名称「誉」
     陸軍名称「ハ45」
     陸海軍統一名称「ハ45」

太田市

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/manga-19.html


中島知久平之像

中島知久平生誕百周年記念として、中島知久平の出生地である尾島町に昭和59年10月建立。

巨人中島知久平先生顕彰之碑に讃ず
 名誉町民、中島知久平先生は明治17年1月11日群馬県尾島町押切の徳望家中島粂吉翁の長男として出生す。同31年尾島町立尋常高等小学校を卒業。向学心に燃え独学で見事専門学校検定試験に合格。引き続き海軍機関学校、海軍大学に学び優秀な成績をもって卒業す。此の間、飛行機の研究に着目する。その後、欧米の航空界の実情を視察し民営の航空機工場の必要性を提唱すると共に、自ら海軍を退官して飛行機の製作を郷里尾島町前小屋を発祥の地として志し後に、現在の太田市に中島飛行機製作所を創設し、我が国の航空機工業に絶大の貢献をもらたす。また政治家としても昭和5年衆議院議員として初当選を機に政界に入り、鉄道、軍需、商工の各大臣を歴任しこの間第八代政友会総裁に就任するなどその経世の才は世界の飛行機王の名と共に今になお高く評価せらる。
 尚今日の富士重工業、三菱電機、東京三洋等をはじめとして東毛の工業発展の礎を創り、かつ平和産業の基盤を残した足跡は誠に偉大にして郷土の誇りとするところであり、ここに巨人中島知久平先生の生誕百年を記念し関係者有志の発起により町内外多くの方々の浄財を基に生誕の地を選び顕彰事業として記念像を建設し先生の偉業を永く後世に伝えんとするものなり。
 昭和59年10月吉日
  尾島町長 小出由友撰之

雄飛

雄飛
それは中島知久平翁が最も好んだ座右の銘であり、翁が若くして雄々しくはばたき人生の夢を描きつづけその全生涯を宇宙への先駆者として生きつづけた指標です。今日も尚若者たちの変わらざる永遠の指針でもあります。
 昭和59年10月27日
  中島知久平翁生誕百年記念
   顕彰事業推進委員会

中島知久平之像

元内閣総理大臣 岸信介

威風堂々とした中島知久平の立像

中島知久平像の後方には女の子の像があった。。。
女の子の像は艶めかしい。「婉然」と名付けられていた。

かつての尾島町役場。旧新田郡尾島町が太田市が合併してからは「太田市尾島総合支所
総合支所としては2008年に廃止。現在は、「太田市尾島行政センター」

場所
太田市尾島総合支所(町民の森公園)

https://goo.gl/maps/ix7xM2HGKQxL28wP9

※中島知久平像(中島知久平先生像)は、この他に、群馬県太田市の金山城跡に胸像がある。(未訪問)

https://goo.gl/maps/sAqGEZgJVmwFZoij9


旧中島家住宅
中島知久平邸地域交流センター

国指定重要文化財。
中島知久平が両親のために築いた邸宅。来客を迎える重厚な車寄せやステンドグラスやシャンデリアなどの高貴な装飾が施された応接室、客間から見渡せる前庭など、宮殿建築としての特徴が随所に見られる近代和風建築物。
大正15年に図面が作成され、昭和4年10月12日に地鎮祭、昭和5年4月17日に主屋上棟、12月5日に屋敷神社殿地鎮祭が執り行われている。

資料(太田市教育委員会)

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/files/nakajimapanhu.pdf

太田市

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunkazai/shinotabunka04nakajimatei.html

中島知久平邸を、見学。

正門と門衛所。門衛所は昭和6年(1931)の上棟。

主屋は昭和5年(1930)の上棟。主屋の設計監督は宮内省内匠寮出身の伊藤藤一。

中島家の家紋「下がり藤」が施された彫刻。

氏神社は昭和5年に地鎮祭が祭行されている。

重要文化財指定書
旧中島家住宅 4棟

現在、主屋4棟のうち、車寄せのある建物のみが耐震補強整備が完了し公開されている。
その他の建屋は未公開。

電気ストーブの据えられた大理石の暖炉。

電気ストーブは当時、使用されていたもの。

電気ストーブ側のコンセント。

暖炉に備え付けられたコンセント。

ステンドグラスが施された窓

当時この窓から利根川河川敷の滑走路を離着陸する飛行機を眺望することができたようです。

シャンデリアが高級感を引き立てる。

各部屋や玄関には電鈴が設置されていた。
電鈴は女中室外側の壁に集中端末が設置されており、どこで鳴らされたかがわかるようになっていた。

中庭。車寄部の北側には食堂部がある。

外から庭に足を運ぶ。庭からは客室部や居間部の各部屋を見学することができる。

主屋のなかで居間部のみ2階建て。そのとなりには2階建ての土蔵もある。

居間部と土蔵。

左から車寄部、客間部、居間部、土蔵

敷地は四方を塀で囲まれている。

北側の通用門。

旧中島家住宅を南から遠望。

利根川の堤防から。

中島家住宅の南側、利根川の河川敷。かつてこの河川敷から中島知久平の飛行機が飛んでいた。

場所

https://goo.gl/maps/4xEZgJiUQA1cpqCF6


中島知久平墓(徳性寺)

群馬県太田市押切町。中島家住宅のすぐ近く。
中島知久平の出生地である、この地にも分骨され墓がある。

中島知久平の墓

知空院殿久遠成道大居士

昭和二十四年十月二十九日卒 中島知久平
 享年 六十六

墓石は、昭和30年10月に、中島知久平の長男である中島源太郎によって建立されている。

右が中島知久平の墓。
左は中島知久平の妹である中島あやの墓。
中島家住宅は戦後にGHQにより将校倶楽部として接収されている。昭和33年頃に進駐軍も撤退し空き家となり、中島あやが居住していた。

中島家代々之墓。中島知久平の両親(中島粂吉と中島いつ)もこの地で眠る。

場所

https://goo.gl/maps/JHH5jthBReBNBu9z9

※撮影は2021年9月
※群馬県太田市の中島知久平関連の史跡は公共機関のアクセスが悪いので、埼玉県深谷市でレンタサイクルにてアクセスしましたが、利根川(新上武大橋)を渡り、流石に移動距離が尋常ではないので最良の方法ではありません。。。


中島知久平墓(多磨霊園)

多磨霊園9区1種2側。正門から名誉霊域の古賀峯一・山本五十六・東郷平八郎を拝しながら北上していくと、9区に到達する。ここに中島知久平が眠る。

多磨霊園の東には中島飛行機三鷹研究所と、中島知久平が晩年を過ごした泰山荘がある。北東には中島飛行機武蔵工場、そして南東には調布飛行場。

左に「中島知久平墓」、右に「中島家之墓」

中島知久平墓

知空院殿久遠成道大居士
 昭和二十四年十月二十九日卒 享年六十六

中島家の家紋「下がり藤」

中島知久平には大空が映える。

中島知久平墓の向こうを航空機が飛び抜ける。

墓誌

中島知久平、中島ハナ、中島源太郎、嬰児(中島弘仁郎)、中島洋次郎、の名が刻まれている。中島知久平は正妻を設けていなかったが、内縁の小島ハナが、実質の妻として、中島ハナとして刻まれて中島家の墓に眠っている。

場所

https://goo.gl/maps/i3tEsMzetUiGcFbx6



中島飛行機関連

中島飛行機武蔵製作所

中島飛行機三鷹研究所

中島飛行機東京製作所(中島飛行機発動機)

中島飛行機武蔵製作所疎開工場(中島飛行機浅川地下工場)

中島飛行機大宮製作所疎開工場(中島飛行機吉松地下工場)

中島飛行機田無試運転工場
中島航空金属田無製造所(田無鋳鍛工場)

中島飛行機半田製作所

中島飛行機(第一軍需廠)エンジン工場

「帝国海軍きっての知性」最後の海軍大将・井上成美

井上成美海軍大将。
日本帝国海軍史上、最後に海軍大将に昇進した軍人は二人いた。
ひとりは、塚原二四三、そしてもうひとりが井上成美、であった。


井上成美(いのうえ・しげよし)

1889年〈明治22年〉12月9日 – 1975年〈昭和50年〉12月15日
日本帝国海軍の海軍大将。

海軍兵学校第37期。
卒業順位は2位であったが、明治43年(1910)に海軍少尉に任命され最先任者(クラスヘッド)となる。
通常は同期生は揃って少尉任官するものであるが、第37期のみは唯一、任官が揃わなかった。37期席順1位の小林万一郎は病気のために任官が遅れ、そのために2番の井上成美がクラスヘッドとなている。
兵37期は、井上成美が大将となったほかは、大川内傳七・ 小沢治三郎・ 草鹿任一などが中将となっている。

昭和4年、海軍大佐に任命。
昭和5年、海軍大学校教官。
昭和7年、海軍軍務局第一課長。
昭和8年、練習戦艦「比叡」艦長に就任。
昭和10年、海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。
昭和12年、海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。
昭和14年、支那方面艦隊参謀長に就任。海軍中将に任命。支那方面艦隊司令長官は嶋田繁太郎中将。
昭和15年、海軍航空本部長に就任。このときの海軍大臣は及川古志郎。

昭和16年(1941)、第四艦隊司令長官(4F長官)に親補される。トラック「夏島」を拠点とする第四艦隊旗艦は「鹿島」。
昭和16年 12月8日に太平洋戦争が開戦。第四艦隊は第一段作戦において、ウェーク島攻略を担当。第一回の攻撃(12月11日)は、大発動艇の発進に手間取るうちに夜明けとなり、陸上砲台と残存航空部隊の反撃により駆逐艦2隻(疾風、如月)を喪失して失敗。真珠湾攻撃から帰投する途中の南雲機動部隊から分派された(重巡2、空母2(蒼龍・飛竜、駆逐艦2)の協力で、同島上空の制空権を確保しての第二回攻撃(12月23日)を」行い攻略に成功。

昭和17年5月7日、第四艦隊(南洋部隊)はMO作戦を担当し、珊瑚海海戦が発生。空母「祥鳳」を失い、「戦下手」を自認することとなる。
7月、海軍料亭「小松」の支店がトラック島に開業。これは、井上が横須賀で「小松」を経営する山本直枝夫婦に出店を依頼したものであった。(敗戦時にトラック島の小松は消滅し、女子従業員6名が犠牲となり、井上は戦後、小松に謝罪をしている)

昭和17年10月、海軍兵学校長に就任。トラックから内地に帰還。英語教育廃止論を退け、「自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。」として英語教育を推進。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。

昭和20年5月15日、海軍大将に親任され海軍次官を免じ、軍事参議官に親補された。
昭和20年8月10日、ポツダム宣言を受諾。
井上成美海軍大将は、海軍での最後の仕事として9月10日付けで司令官宇垣纏を失った第五航空艦隊の「査閲」を実施し、各基地において終戦処理を推進し、帝国海軍の有終の美を飾るように説いて回った。
昭和20年10月15日、予備役となり39年間の海軍生活を終えた。満55歳であった。

戦後は、横須賀長井に隠棲し、近所の子供達に、得意の英語を教えるなどして余生を過ごしていたが困窮していた。戦前は海軍料亭として賑わっていた料亭「小松」の山本直枝も、井上の支援を行い、小松従業員に英語指導を依頼するなどして、井上の生活を支えていた。

1975年(昭和50年)12月15日午後5時過ぎに老衰で死去。86歳没。
最期の言葉は、「海が…、江田島へ…」だったという。


井上成美墓

多磨霊園に眠る。場所は21区1種3側。

井上成美
ここに眠る

1889-1975
 井上成美伝記刊行会

合掌

井上家家之墓

昭和13年5月
 井上秀二建之

井上秀二は井上家の長兄。土木技師。
井上家は13人兄弟(12男1女)であり、夭折などもあり事実上の長男が4男の秀二であった。井上成美は11男。

墓誌

父、井上嘉矩や成美の最初の妻であった井上喜久代、最後を看取った二番目の妻である井上富士子、兄である井上秀二などの名が刻まれている。

つまり、井上本家(井上秀二)の墓に、弟の井上成美と二人の妻も一緒に眠っているということになる。

場所

https://goo.gl/maps/wzAtoNUMCSpD2Skj8

※参拝・撮影は2021年9月


井上成美旧宅(井上成美記念館・閉館)

かつての井上成美邸宅は、損傷が激しかったために改装がおこなわれており、井上が住んでいた頃の名残をとどめるのは、暖炉などの一部だけとなっている。
小規模ながら「井上成美記念館」として公開されていたが、東日本大震災の被害により閉館。現在に至る。

閉館中のため、敷地外より遠望。敷地内は立入禁止。

井上記念館は
閉館
しました!

ここが井上成美記念館であった、わずかな証。

今も昔も、井上提督が愛した海を望む高台。窓から見える風景は変わっていないという。

場所

https://goo.gl/maps/SNED1EUuEUTc4jaa6


※撮影は2018年8月

昔の写真が出てきました。以下は2009年の撮影。。。

このときもすでに閉館でしたが。


軍艦鹿島 有終之碑

呉海軍墓地にて。
井上成美は、太平洋戦争開戦時に、第四艦隊司令長官であった。
「鹿島」は、開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦を務める。

関連

※撮影は2017年3月


料亭 小松

全焼する前に来たかった場所でした・・・

海軍料亭「小松」
平成28年(2016)5月16日、火災により全焼。
板塀と看板が残る空間が苦しい…

横須賀の海軍ゆかりの料亭「小松」の母屋から出火、正面左手の奥「松風の間」を残し、木造母屋全焼…
海軍提督の書、あるいは海軍、海自からの記念品は、残念ながらほとんど焼損してしまった。

井上成美は、小松の女将・山本直枝とは親しく、山本直枝は、困窮する戦後の井上成美を支えた一人でもあった。

場所

https://goo.gl/maps/To6CqCJhoyvSnC1V9

※撮影は2018年4月


井上成美
井上成美伝記刊行会

井上成美の伝記。1982年刊行。

題字は、井上成美の筆。

海軍中将時代の井上成美。
自ら進級に反対していたため、海軍大将として独りで撮影された写真は無い。

横須賀鎮守府時代。
鎮守府長官は米内光政。参謀長が井上成美。


井上成美の肉声

海自第2術科学校には井上成美の肉声テープが保管されている。

https://www.mod.go.jp/msdf/twomss/sp/sp_index.html

海自第2術科学校、オープンスクール。


海上自衛隊第2術科学校オープンスクール(2019年)

海自第二術科学校の「井上成美」公開講座が2019年にありました。

「井上成美のしおり」を戴きました。
挟むべき「本」を迷います・・・

偲ぶ
IN LOVING MEMORY OF
May He Rest In God’s Loving Arms
海軍大将 
井上成美
1889年12月9日~1975年12月15日(86歳)

英語教育廃止論を退けた人

明治22年 仙台市に出生
明治42年 海軍兵学校卒業
昭和 2年 イタリア駐在武官
昭和10年 横須賀鎮守府参謀長
昭和12年 海軍省軍務局長
昭和17年 海軍兵学校長
昭和19年 海軍次官
昭和20年 海軍大将、軍事参事官
8月終戦  横須賀市長井の自宅に隠棲後英語塾を始める
昭和50年12月15日 長井の自宅で死去

日本海軍きっての知性といわれた最後の海軍大将。
戦後30年間、清貧を貫いて逝ったこの人の先見性、識見の高さ、事績の正しさは歴史が証明した。
敗戦前夜一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭した井上成美だった。
開戦前、米内光政、山本五十六とともに日独伊三国同盟に反対し、無謀な対米戦争回避を主張、戦時下にあっては兵学校長として英語教育廃止論を退ける等、時流に抗して将来を見通す全人教育を目指した。
 阿川弘之

井上成美が艦長を務めた練習戦艦「比叡」


二・二六事件と井上成美

井上成美が横須賀鎮守府参謀長の際に、二・二六事件が勃発。
米内井上コンビが横須賀から陸軍に対抗する。

「二・二六事件と海軍」


小沢治三郎(小澤治三郎)

小沢 治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう)
1886年(明治19年)10月2日 – 1966年(昭和41年)11月9日)
日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。

海軍兵学校37期生。卒業順位は45番。 井上成美と同期。


塚原二四三

塚原 二四三 (つかはら にしぞう)
1887年(明治20年)4月3日 – 1966年(昭和41年)3月6日)
日本の海軍軍人。海兵36期・海大18期。最終階級は海軍大将。
日本海軍で最後に大将に昇進したのが、井上成美と塚原二四三の二人であった。

墓は井上成美と同じく多磨霊園にある。


阿川弘之

「井上成美」
昭和五十年暮、最後の元海軍大将が逝った。帝国海軍きっての知性といわれた井上成美である。彼は、終始無謀な対米戦争に批判的で、兵学校校長時代は英語教育廃止論をしりぞけ、敗戦前夜は一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭し、戦後は近所の子供たちに英語を教えながら清貧の生活を貫いた。「山本五十六」「米内光政」に続く、著者のライフワーク海軍提督三部作完結編。

https://books.google.co.jp/books/about/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E.html?id=TArVCwAAQBAJ&source=kp_book_description&redir_esc=y