「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

「ユダヤ人難民と北海道を救った将軍・樋口季一郎陸軍中将」顕彰碑と墓所(神奈川)

「ユダヤ人救出」「キスカ撤退」「占守の戦い」3つの奇跡を成し遂げた樋口季一郎陸軍中将。

ユダヤ人難民救出と言えば、「命のビザ」を発行した外交官・杉原千畝が有名であり、ユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」には、杉原千畝と樋口季一郎の2名の日本人の名前が記されている。

しかし、樋口季一郎の知名度は杉原千畝と比べ、圧倒的に低いが、樋口季一郎は、杉原千畝の「命のビザ」の発行の2年前に「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出ルートを手配しユダヤ難民の救出を実施している。

神奈川県に、そんな樋口季一郎に関連するモニュメントがあるので、足を運んでみた。


樋口季一郎之碑

鎌倉市山ノ内の円覚寺の塔頭・龍隠庵に、2023年5月21日に建立された顕彰碑。
建立されたばかり。

樋口季一郎碑

八風吹不動

日本国民に誇り伝えたい
陸軍中将樋口季一郎の功績

救国
昭和20年8月18日、終戦後にも拘わらず北海道占領を目論み占守島に進行したソ連軍を、第五方面軍司令官として撃破し、日本国の分断を未然に阻止した。
キスカ島救出作戦
昭和十八年、米軍に包囲されたキスカ島の日本軍将兵約五千人の救出を、北方軍司令官として大本営に意見具申し、同年七月、作戦は奇跡的に成功した。
ユダヤ難民の救済
昭和十三年三月、ナチスドイツの迫害を逃れオトポール駅(シベリア鉄道)に到達したユダヤ難民を、ハルピン特務機関長として救済した。この脱出路は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、その後も、多くの人命が救われた。

円覚寺龍隠庵の太田周文住職による、八風吹不動とは「八風(はっぷう) 吹けども 動ぜず」と読む禅語。

https://rarea.events/event/190387

円覚寺龍隠庵への参道

円覚寺


樋口季一郎

樋口季一郎(ひぐちきいちろう)
1888年〈明治21年〉8月20日 – 1970年〈昭和45年〉10月11日)
最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。
陸士21期、陸大30期。
歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官を務める。

「3つの功績」(3つの奇跡)。
1.ハルピン陸軍特務機関長であった樋口は、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れたユダヤ避難民に満洲国通過を認め、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路を用いて、亡命の手助けを実施(オトポール事件)

2.北部軍司令官として、北東太平洋の陸軍を指揮。大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦いで玉砕するも、キスカ島撤退作戦を成功させる。

3.ソ連対日参戦に対する徹底抗戦(樺太の戦い、占守島の戦いなど)を行い、8月15日以降も防衛戦を指揮しソ連軍の北海道上陸を阻止。北海道の赤化分断を挫くことに成功した。

戦後は隠棲し昭和45年(1970)老衰のために82歳で死去。


樋口季一郎の墓

神奈川県中郡大磯町東小磯の妙大寺。
ここに樋口季一郎の樋口家の墓がある。
樋口季一郎は居住地を転々としており、大磯にも住んでいた時期があった。

樋口季一郎の墓。

樋口家の墓としか、記載はない。

樋口季一郎の戒名は「真如院殿伯堂日季居士」
右から4番目。

墓碑は、1971(昭和46)年10月に樋口季一郎の長男の樋口季隆氏が樋口季一郎の死去に際して建立したもの。


ーーーーー

余談だが、妙大寺には、ほかにも著名人の墓がある。樋口季一郎の墓の隣は、福田恆存の墓。福田恆存(ふくだつねあり)の「私の國語教室」は昔、読んでいました。正字正仮名(歴史的仮名遣い)を学ぼうと思ったときもありましたので。

そして、ひときわに目立つのが、大磯の発展に寄与した松本順の墓。松本順に関しては、別記事を書く予定はある、、、

妙大寺


樋口季一郎の顕彰

神奈川以外にも、全国に樋口季一郎を顕彰するモニュメントがある。
機会があれば、足を運んでみたい。

  • 大垣城丸の内公園
    イスラエル大使館が樋口季一郎を顕彰し寄贈したオリーブの木がある。樋口季一郎は大垣に本籍を置いていた時期があった。(大垣の樋口家に養子となった)
  • 北海道石狩市「樋口季一郎記念館」
  • 兵庫県淡路市・伊弉諾神宮「樋口季一郎中将銅像」
    樋口季一郎は現在の南あわじ市出身。

大垣市「オリーブの苗木」

大垣出身の会社の後輩が帰省した際に、大垣市の丸の内公園にある「オリーブの苗木」の写真を撮ってきてくれました。
自分で行って撮影するまでのあいだは、後輩の写真を使用させていただきます。
ありがとうございます。

苗木No3,4
 平成21年12月8日に杉原千畝と同様にユダヤ人を支援した樋口季一郎が、大垣市に30年間籍を置いていたことを知った当時の「イスラエル駐日大使」から大垣市に寄贈されました。

※2024年6月に大垣に訪問したので、写真を追加。

場所

https://goo.gl/maps/VvcQj6zv7BuGfx787
※この項目のみ2023年8月撮影および2024年6月


大恩人(令和5年の「みたままつり」)

日本画家 佐藤宏三 氏 が、令和五年(2023)の靖國神社みたままつりに奉納した雪洞、なんと樋口季一郎陸軍中将でした。

制作過程の詳細が、公式サイトに掲載されております。

https://kozo-sato.art/mitama_festival_bonbori_2023/

ありがとうございます。
※撮影:2023年7月


関連

早稲田大学に、「命のビザ(杉原ビザ)」を発行した杉浦千畝のレリーフがある。

「霞ヶ浦駐屯地一般公開」その1(本部地区)・第一海軍航空廠跡地散策

令和5年度の「霞ヶ浦駐屯地開設70周年・関東補給処創立25周年記念行事」が2023年6月3日に開催されました。午前中は雨天ということもあり、いくつかのイベントは中止とはなったが、足を運んでみました。
この機会を逃すと、霞ヶ浦駐屯地内の戦跡散策は、また1年後になってしまうかもしれませんので。

本記事は「その1」となります。本部地区の野外展示を中心として掲載。
その2」「その3」はこちら。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立した航空隊。(横須賀、佐世保、霞ヶ浦)
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。


土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


第一海軍航空廠

第一海軍航空廠は、それまでの海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編して昭和16年10月に設立された。
海軍の航空機やエンジンなどの組立て・修理を実施。
霞ヶ浦は、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊、霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠など、大日本帝国海軍航空隊の一大拠点であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:UUSA-R2232-44
1948年12月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

第一海軍航空廠の部分を拡大


霞ヶ浦駐屯地

昭和28(1953)年に開設された霞ヶ浦駐屯地。
霞ヶ浦駐屯地は、旧日本海軍の「霞ヶ浦海軍航空隊」(霞ヶ浦飛行場)と「第1海軍航空廠」(海軍航空隊専用工場)の跡地でもある。

https://www.mod.go.jp/gsdf/eae/eadep/about.html

霞ヶ浦駐屯地の駐屯地司令は、関東補給処長が兼務。
現在は、陸上自衛隊東部方面隊関東補給処、陸上自衛隊航空学校霞ヶ浦校、そして航空自衛隊中部航空方面隊中部高射群第3高射隊などが配備されている。


霞ヶ浦駐屯地一般公開

まずは、本部地区から。

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地

陸上自衛隊関東補給処

記念行事マップ

霞ヶ浦駐屯地(本部地区)案内図

荒川沖駅と駐屯地間は、送迎バスを利用しました。

本部庁舎(庁舎A)

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 旧海軍関連史跡

広報センターに、「霞ヶ浦駐屯地 旧海軍関連史跡配置図」がありましたので、まずは本部エリアの散策を実施します。

駐屯地の史跡案内
●当駐屯地は、終戦によって設置されていた第一海軍航空廠跡に、昭和28年、東京都立川市から陸上自衛隊武器補給処が移転しました。平成2年に施設再配置工事が開始され、平成10年、現在の霞ヶ浦駐屯地の形になるまで第一海軍航空廠の施設を使用しておりました。
●施設再配置工事の際、旧海軍施設は取り壊されてしまったものの一部が当駐屯地に残存しており、歴史を感じることができます。

史跡配置図を参照にしながら、まずは散策を。


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

第一海軍航空廠時代の奉安殿が残る。貴重な遺産。

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

「霞ヶ浦神社」「海軍航空隊殉職者慰霊塔」などに関しては、上記のリンク先を参照で。

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

奉安殿に関しては、以下も参照で。

はじめに

合掌

霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿

かつては、菊の御紋章が掲げられていた


紀元二千六百年記念碑

皇紀2600年(昭和15年)を記念して建てられた記念碑。
慰霊殿の参道脇に。

紀元二千六百年記念碑

昭和十五年十一月十日
海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所有志建之

紀元二千六百年記念碑
昭和15年11月10日、皇紀2600年記念祝典が全国で執り行われました。皇紀年号は、初代天皇である神武天皇が即位(紀元前660年)してからを数える、日本独自の紀年法であり、この碑は海軍技術廠霞ヶ浦出張所(第一海軍航空廠の前身)有志が建てたものです。
余談ではありますが、零式艦上戦闘機(通称:零戦)はこの年に正式採用され、皇紀2600年の下二桁の00をとり、零(れい・ぜろ)式と命名されております。


兵站攻勢

慰霊殿の参道近くに。これは戦後のもの。

兵站攻勢

昭和58年6月建立。
第17代武器補給処長 陸将 中根新一謹書


飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報センターのエリアの展示物を。
飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑は、もともとは飛来着陸跡(霞ヶ浦駐屯地の飛行エリア南端付近)に設置されていいたが、平成20年現在地に移設。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑
 昭和4年(1929年)8月19日、世界最大のドイツ飛行船ツェッペリン伯号が世界一周飛行の途中、当時東洋一といわれたここ霞ヶ浦海軍航空隊に着陸した。5日間の滞在中に約40万人が見物、上野ー土浦間に臨時列車も運行し、阿見原(現阿見町)は人の波で埋まったという。格納庫は全長240mで第一次世界大戦の戦利品である「押収格納庫」を利用した。
 昭和6年にはリンドバーグ夫妻も飛来し、当時霞ヶ浦は世界的空港でもあった。
 昭和49年に係留石と係留環が発見されツェッペリン伯号がこの付近に着陸したことをうけ、昭和50年に記念碑を建立した。
 平成5年阿見町名所百選にも選ばれている。
 近年見学者が減少しつつあり、ツェッペリン来訪の歴史を忘れないため現在地に移設し展示するものである。
 平成20年6月18日
 第33代 霞ヶ浦駐屯地司令 陸将 藤野 毅

ツェッペリン伯号 飛来の地
昭和4年8月19日、世界最大のドイツ飛行船、ツェッペリン伯号が飛来しました。
シベリア上空を通り1万1千キロという距離を渡ってきたのです。滞在は4日間でしたが、新聞やラジオも大きく報じ、見物人はなんと40万人。
上野ー土浦駅間に臨時列車も運行されましたがそれでも乗車しきれず、飛行場にはこの光景を一目みるために野宿をする人もたくさんいたそうです。かつてこの場所に設置されていた飛来記念碑は、現在広報センター前に移設されております。


日独友好濫觴之地

日米友好の「濫觴=はじまり」の地を記念する碑。

ツェッペリン伯号交歓記念
日独友好濫觴之地

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地司令
 陸将 近藤 清秀 書

近藤清秀氏は技師として、61式や74式戦車開発に携わっていたことで著名。

ツェッペリン伯号係留環

由来
昭和4年8月19日は、当時世界最大の飛行船であったツェッペリン伯号が、世界一周早廻り飛行を目指して、祖国ドイツから一気に全人未翔のシベリア上空を超えて、最初の着陸地阿見原に安着した日である。滞在5日間にわたる地元をあげての歓待、就中巨大格納庫を擁する霞ヶ浦海軍航空隊の民族を超えた協力が、引き続く正規の大偉業完遂に貢献した役割は大きい。ドイツ側も駐日大使を始め多数の在留ドイツ人がこの地に交歓し、阿見原はまさに日独友好濫觴の地となった。
春秋幾星霜、今や辛うじて残されているツェッペリン伯号係留石等の他には、かつてこの地の果たした世界史的意義を想起させるものがないことは淋しい。
ここに記念碑を建立し、その誇りの継承を期する所以である。

係留環


大空の女神 歌碑

「大空の女神」とよばれた乙女。
茨城県水戸市の藤田多美子女史は、自らの身をもって戦闘機事故の根絶を願った。

大君の 御楯となれる 益荒男の
 空の勇士に この身捧げん

大空に産声挙げし吉田原
 この身捧げて 守りまつらん

「大空の女神」
大君の 御楯となれる 益荒男の 空の勇士に この身捧げん
大空に産声挙げし吉田原 この身捧げて 守りまつらん

この歌碑は、昭和15年相次ぐ戦闘機事故の根絶を願い、陸軍航空通信学校(水戸市住吉町)飛行場一隅の掘井戸で入水自決した藤田多美子女史の遺書に添えられていた歌だる。
 身を挺した行動が美談と称えられ、昭和16年陸軍航空通信学校にお堂を建立し「大空の女神」として女史の胸像と歌碑が祀られていた。
 戦後、遺族が引き取り安置していたがご意志を後世に広く伝えたく、72周忌にあたる平成24年11月以降支援者等の働きかけにより、飛行場を有する霞ヶ浦駐屯地に胸像と歌碑を移設し展示するものである。
 平成25年4月13日
  第37代霞ヶ浦駐屯地司令 陸将 櫻木 正明

藤田多美子女史の胸像は、広報センター内に展示されている。
「その2」で掲載。

もともとは、陸軍航空通信学校に祀られていた。
昭和13年6月に水戸陸軍飛行学校が新設。航空通信や戦技、火器などの教育や研究が行われた。
昭和14年に陸軍航空通信学校(吉田)が新設されたことにより、水戸陸軍飛行学校の航空通信教育も移管となった。


旧本部庁舎前 消火栓

海軍の消火栓

消火栓
旧軍第一海軍航空廠季題、本部庁舎前に設置されていたものである。

旧本部庁舎前 消火栓
昭和16年、海軍飛行機専用工場である「第一海軍航空廠」が現霞ヶ浦駐屯地の敷地に建てられました。
海軍航空廠は海軍航空隊基地近くにあり、戦闘機や練習機などの修理・補給・制作を担っておりました。この消火栓は、平成5年頃までは旧本部庁舎前にあり、現在使用しているA庁舎が建てられるに伴い広報センター前に移設・展示されることになったのです。
海軍のシンボルである「錨」のマークもしっかりと刻印されています。


木レンガ

第一海軍航空廠整備工場内に設置されていた木製レンガ。

木レンガ
旧軍第一海軍航空廠時代、大型航空機の整備工場の中に設置されていたものである。


総蹶起の月 記念碑

防火水槽の一部を保存。

総蹶起の月 記念碑
昭和19年、太平洋戦争の戦況は好転せず、山場を迎えようとしていました。この碑は、かつて航空廠内北東に存在した航空エンジン試験場裏に、防火水槽を作ったのを記念して北側外壁に刻み込んだものです。
この年、大都市では疎開が始まり、予科練製の大部分は特攻隊員となり、米軍がサイパンに上陸。学徒動員、女子挺身隊勤労令が発せられました。
総蹶起とはいいながら、この時期日本には十分に性能を発揮して戦える飛行機は残されていませんでした。

「総決起の月」記念碑
旧軍第一海軍航空廠時代、航空エンジン試験場の裏防火水槽を作ったのを記念して水槽北側の外壁に刻み込んだものである。


そのほかの戦跡

以下の2つは、立入禁止エリアでしたので、情報のみで。

飛行機係留環及び米軍爆撃跡地
大型機体組立工場に隣接していた、北東に延びるコンクリート製の飛行機係留場。現在も1/3程度が残されており、火器車両部が資材置き場として使用しています。
飛行機を繋ぐ係留環は地面にそのままの形で残されていますが、米軍により爆撃を受けた箇所は補修によって周囲のコンクリートと材質が異なっており、その威力と範囲をうかがい知ることができます。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚は下記にて


霞ヶ浦駐屯地の記念碑

以下は、陸上自衛隊時代の記念碑。

武器補給処「追憶の碑」
武器補給処は昭和29年に霞ヶ浦駐屯地に移駐。平成10年に関東補給処と改編。47年間の歴史を追憶する記念碑。

煌(きらめき)
「煌」とは、首都防衛任務の要たる東部方面隊を支える駐屯地として「内から自ら煌く駐屯地」に変貌を遂げるべくとの期待を込め名付けられたもの。平成15年建立。霞ヶ浦駐屯地開設50周年記念。

90式戦車
石像の戦車。みごと。

90式戦車の本物。

10式戦車も。
2台とも土浦の武器学校から来たっぽい。ご近所さん。


厚生センター

日替わり定食を。天丼と蕎麦。

※撮影:2023年6月

「その2」では、広報センター内の展示資料など。


関連(茨城県)

はじめに

「清水海軍航空隊」清水三保の戦跡散策・その1

静岡県清水区三保。三保半島。
「三保の松原(三保松原)が有名な景勝地にも戦跡がある。

本編は「その1」として清水海軍航空隊を中心に掲載します。
「その2」では、格納庫跡の散策を掲載します。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R236-No.1-92
1947年10月01日、米軍が撮影した航空写真を参照。

一部編集。

Google航空写真


清水海軍航空隊

三保の松原の一角を軍用地に転用して展開された航空隊。
昭和19年9月1日。土浦海軍航空隊から海軍甲種飛行予科練習生(甲飛)第14期前期320名が新設の「清水海軍航空隊」に転入。
昭和20年4月1日。最後の予科練となる甲飛第16期入隊。水上及び水中特攻訓練の教程が実施。
教育訓練部隊のために、航空機の配属はなく、また14期15期16期の3期の教育において、航空機搭乗訓練はなく、特攻教育が主体であった。


甲飛予科練之像

甲飛予科練之像

碑文
太平洋戦争の末期ここ三保の地に清水海軍航空隊ありき
大空に雄飛せんと集いし若人海軍甲種飛行予科練習生が
日夜厳しき教育と訓練に明け暮れし所なり
往時の面影すでになし 
われら再び戦争の惨を起さず
今ここに久遠の平和を念じつつ記念の碑を建立す
 昭和63年8月吉日
  清水海軍航空隊所属
  第十四、十五、十六期海軍甲種飛行予科練習生一同
  清水海軍航空隊清空会 関係者一同

甲飛予科練之像記念碑案内
 「甲飛予科練」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のことであり、旧制中学3年生から、志願により選抜された者たちである。
 昭和19年9月1日、清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、予科練習生14、15、16期生2700名が航空兵を目指して、日夜厳しい教育と訓練に明け暮れた所である。
 当時、学業半ばにして国難に殉ぜんと、全国より馳せ参じた若人、未だ思慮分別も熟さず、心身も長じていない少年期の練習生が、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」と生還を期し得ない精神と技量を養成された。
 愛国心に徹した人生観、青春のひととき、苦楽を共に過ごした霊峰富士を眺める時、清水海軍航空隊がここにあり、甲飛練習生の跡であると、後世に戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願ってこの碑を建立した。
 記念碑保存会

富士山と甲飛予科練之像

鳩を抱きかかえた予科練生徒像。

場所

https://goo.gl/maps/8DSuJ1n1nGxymRJR8


清水海軍航空隊の門柱

「甲飛予科練之像」から三保灯台通りを挟んだ向かい側の建屋の脇に、門柱が残っている。この門柱は、清水海軍航空隊の門柱ともいわれている。
隊門としては貧相なので、裏門か通用門か、といったところ。


三保灯台(清水灯台)

三保半島の東端に建つ、八角形の白亜の小型灯台。
明治45年(1912)3月31日に設置された日本で最初のコンクリート造灯台。国指定重要文化財。日本国近代化産業遺産。土木学会推奨土木遺産。

場所

https://goo.gl/maps/ew1uM3imPfvuXuZu8


三保飛行場

「甲飛予科練之像」から富士山にむかって海岸を進んでいくと、荒れ地が広がっている。これが「三保飛行場」の滑走路。
滑走路は長さ500m、幅20mという超小型の飛行場で、災害救助専用の飛行場として場外離着陸場に分類されている。

かつてこの場所には「三保根岸飛行場」という民間飛行場があり、戦中に海軍に買い上げされ、戦後に払い下げとなっている。

かつては、「日本飛行連盟」「赤十字飛行隊」の管轄だったが、現在は静岡県が管理している(静岡県静岡土木事務所)

三保半島から望む富士山。

駿河湾フェリー「富士」が富士山をバックに航行。


三保の松原(三保松原)

せっかくなので観光ぽいことも。

三代目「羽衣の松」


御穂神社

むかし、神社フリークだったことに、来たことがありました。
記録によると平成16年(2004)だったので、ざっくり約20年前、、、ちょっと自分で驚きの時間軸、、、

御穂神社は、駿河国三の宮。延喜式内社。

主祭神:
大己貴命(おおあなむち命)、一説に三穂津彦命ともいう
三穂津姫命

由緒
大国主神が国を譲られ、高皇産霊尊の娘である三穂津姫命を大后とされ、二柱で羽車に乗って三保の浦に降臨され、三保の森に鎮座されたという。また当社は出雲国御穂埼より遷座した神ともされる。当社を「駿河国三の宮」とする説もある。
醍醐天皇の延喜式では式内社列格。
現在の社殿は寛文8年(1668)の落雷のあとに仮宮として建てられたもので、本殿は江戸中期の建築という。

御穂神社正面の松参道(約500メートル)先の海岸には「羽衣の松」、「三保松原」がある。


三保駅跡(三保ふれあい広場)

昭和19年(1944)7月1日に、貨物駅として開業。
同年9月に、日本軽金属清水工場が操業開始し専用線が運用開始。
同年12月に、清水港線として旅客営業を開始。
昭和59年(1984)に廃止。
三保駅跡は、一部プラットフォームが残され、公園として整備されている。

引込み線で使用されていた小型ディーゼル機関車と、日本軽金属のアルミナ輸送に使用されていた私有タンク車(タキ8450形タキ8453)が静態保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/gbPdDfo7DE766rYs6

※2023年5月撮影


関連

「伊保原飛行場」名古屋海軍航空隊跡地の戦跡散策(愛知豊田)

愛知県豊田市浄水町。名鉄でいうところの名鉄豊田線浄水駅。
ここにかつて、飛行場があったという。
近くに赴く機会がありましたので、足を運んでみました。


伊保原飛行場

1940年(昭和15年)に、愛知時計電機株式会社伊保工場の試験飛行場として建設され、軍民共用の飛行場として運用された。なお、愛知時計電機のちに飛行機部門は愛知航空機となる。

1941年に、愛知時計電機株式会社伊保工場の西側に「霞ヶ浦海軍航空隊 名古屋分遣隊」が開隊。
1942年(昭和17年)4月1日、名古屋分遣隊は「名古屋海軍航空隊」に改編となる。
名古屋空は艦爆の実用機教程・操縦訓練が追加され、1945年4月には名古屋空にて艦爆による特攻「神風特別攻撃隊 草薙隊」が編成され、沖縄の米軍艦隊へ特攻が実施されている。

戦後は、開拓地として払い下げられ、また愛知少年院や浄水場なども建設されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97I9-C4-85
1945年04月06日、日本陸軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

現在の様子。
不思議なもので、なんとなく滑走路のあった場所が浮かび上がってくる。


開豊神社

戦後に入植した人々により、昭和23年に伊勢神宮から分神を受けて、伊保原神社を造営。
昭和44年に「開豊神社」と改称。現在の社殿は平成29年(2017)建立。
隣には、浄水区民会館がある。
名古屋海軍航空隊時代には、まだ無かった神社。ちなみに、この近隣では北西に鎮座している「射穂神社」が古社(延喜式内社)として有名。

社地の東側に石碑が集まっている。


開拓碑

開拓碑

沿革
 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和二十一年七月六 人の人達によって開拓事業が始められた。県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し二十六年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。三十年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先に伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお三十三年和田ヶ池三十六年愛知用水の完成により水田十七ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積一七〇ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 
 昭和四六年一二月吉日建立之
  伊保原開拓農業協同組合


神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

名古屋海軍航空基地で錬成した神風特別攻撃隊「草薙隊」は、鹿児島の国分基地に進出。
そして昭和20年4月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入した。戦死56名。

合掌。

此の地は昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり 
昭和二十年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 四月五日 十二日の両日各二十機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出 菊水一号二号四号作戦に参加 同月六日十二日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還二十八機戦死五十六 
彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり有志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也
 昭和47年4月吉日
  豊田海友会

特別攻撃隊 機付整備員 追記碑


特攻花

特攻花 
 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 

慰霊五十年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 
 平成七年四月 草薙隊之碑保存会

「大金鶏菊(オオキンケイギク)」な「特攻花」は、ありませんでしたが、ちいさな黄色い花(たんぽぽ)が咲いていました。


三十二糎砲弾

三景艦砲弾(32糎砲弾)がおいてある。
終戦の詔勅の一節「万世の為に太平を開かん」が砲弾に添えられている。


錨と消火栓

詳細不明。錨は住友重機械工業の寄贈。

消火栓は、海軍の刻印がのこる。移築かと。


五省の碑

五省
無悖至誠乎
無恥言行乎
無缺氣力乎
無憾努力乎
無亘不精乎

左下が不自然に埋められている。
隠さねばならない揮毫者だったのだろうか。

五省とは、海軍兵学校において用いられた五つの訓戒。

十三塚は、室町時代末期のいわれ。これだけは戦争が関係ない。

場所

https://goo.gl/maps/t1EyPQpdsWidkU239


名古屋少年院の向かいにある駐車場の奥の竹藪。

名古屋海軍航空隊の通信壕

竹藪の中に、壕。

旧日本海軍名古屋航空隊 通信壕
 地下戦闘指揮所(通信施設)と考えられる遺構。コンクリート造の3か所部屋で構成され、通路を挟んで2つが並んで位置し、1つが向かい側にある。並んだ2つの部屋は幅4.1m、高さ2.7m、奥行き9.0mと6.6m。天井がアーチ形で、出入り口丈夫に経10cmの孔が弧を描いて開けられている。2つの部屋は連絡孔と鉄管でつながり、機器の配線用と推定される。向かいの部屋は幅5.0m、高さ1.8m、奥行き1.5mで、向かいの部屋に比べると狭い。

配線用の孔は入口上部に。
四角い凹みは屋根の梁か。

配管

隣の部屋と貫通している孔

上部の換気口。

名古屋少年院
かつての名古屋航空隊の中心にあたる。


名古屋海軍航空隊の門柱

片方のみ残っている。

珍しいデザインの門柱。

場所

https://goo.gl/maps/s7MixNC9UPrJh9Dr6


名古屋海軍航空隊(伊保原飛行場)の滑走路跡

浄水町伊保原北交差点から浄水町原山東交差点の先まで、まっすぐに伸びる道路。このあたりの真っ直ぐな区画が当時の滑走路の名残。

まっすぐな飛行場跡に、戦後、愛知県豊田浄水場が建設された。
昭和47年7月から給水を開始。

浄水駅
昭和54年(1979)の開業。

撮影:2023年4月


関連

板垣退助銅像と板垣退助墓所

青梅に赴いたときに、地図を見ていたら「板垣退助の銅像」と記載があり。
気になったので、赴いてみました。
板垣退助の墓所は、品川に何度か足を運んでいたこともありましたので、せっかくなので一緒に掲載。


板垣退助

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。
明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。
東アジアで初となる帝国議会を樹立。
「国会を創った男」。
伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。(国会議事堂内に3人の銅像もある。)
国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

板垣退助の銅像

全国に、板垣退助の墓は下記の6ヵ所であるが、芝公園は現存していないので、実質は5ヵ所となる。
・国会議事堂
・芝公園(戦時供出で焼失)
・青梅釜の淵公園(昭和36年建立)
・岐阜公園(板垣遭難の岐阜事件にちなむ、戦時供出され、現在は2代目)
・高知城(出身地、戦時供出され、現在は2代目)
・日光東照宮(戊辰戦争で戦禍を回避した縁、戦時供出され、現在は2代目)


板垣退助銅像(青梅)

青梅市の釜の淵公園に。

明治時代に三多摩自由党の有志が、党首板垣退助を対岸の大柳河原に招いて鮎漁を楽しんだという。
それを記念して、昭和36年(1961)5月3日に建立したもの。

板垣死すとも自由は死せず
 大野伴睦書

自由民権確立のため其の生涯を捧げ、今なお憲政の父と仰がるる板垣先生、かつてこの地に遊ぶ。多摩の老政客・岩浪光二郎翁つとに先生を景慕すること厚く、その偉業を顕彰。以て高風を永く後世に伝えんとす。
ここに先生ゆかりの地を卜し、同志協力してこの像成る。
 昭和三十六年五月
  板垣退助先生銅像建設会
   設計作成 松野伍秀

多摩川の上流。風光明媚な景観。

場所

https://goo.gl/maps/2pNjBG2e5sRiU2RS9


板垣退助像(日光)

戊辰戦争に際して、日光に立てこもった大鳥圭介ら旧幕府軍を説得し日光を兵火から守った。
昭和4年の像は、金属供出され、昭和42年に再建。
2023年9月撮影。

神橋の近く


板垣退助像(岐阜)

工事中でしたので、望遠にて。(2023年9月)

明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件。
岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

岐阜城の近く。


板垣退助像(国会議事堂)

あまり興味のなかった2017年の撮影。これは取り直し、しないといけません。。。。

大日本帝国憲法施行五十周年を記念して1940年の建立。北村西望作。


板垣退助墓

高源院飛び地。
わかりやすくいくと品川神社の裏。
むかしから何故に品川神社の裏にあるんだろと思っていたが、もともと高源院という寺院があったんですね。高源院は、品川東海寺の塔頭であったが、関東大震災で被災し、昭和14年に世田谷区に移転している。寺院が世田谷に移転したのちも、板垣退助の墓所はそのまま高源院の飛び地として品川に残されている。
そのため、品川神社とは関係ない。。。

板垣退助の地元の高知県にも墓所はあるけど、こちらは東京の墓所。

邦光院殿賢徳道圓大居士

大正八年七月十六日薨 享年八十三

従一位勲一等伯爵板垣退助之墓

板垣退助の墓は第4正妻・板垣絹子と並んで建てられている。

品川区指定史跡
 板垣退助墓
  所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社裏
  指定 昭和五十三年十一月二十に日(第四号)
 板垣退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一八八一)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧わかせた。明治二十九年(一八九六)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九○○)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
  平成七年三月三十一日  
    品川区教育委員会

板垣
 死すとも
自由は
 死せず
   自由民主党
    総裁佐藤栄作書

明治100年及び板垣退助50回忌を記念して建立。

https://goo.gl/maps/QBbxsNPNm3wpdvHd7


品川神社

現在、板垣退助の墓は品川神社を経由しないと訪れることができない。
しなし板垣退助の墓所は品川神社の境内ではなく、高源院の飛び地。

品川神社は関係ないけど、絶対の通り道なので、、、

戦跡として。もはや、板垣退助とはなんら関係ないけど。

忠魂碑(品川神社)

この忠魂碑は明治43年4月に品川町在郷軍人会が日清日露戦争における戦没者の慰霊のため乃木大将の揮毫により当時の東海小学校構内に建立された 其の後昭和7年9月に権現山公園(現城南中学校校舎前)に移し 日支事変・大東亜戦争の戦没者をも加えて慰霊を行なってまいりました。
 昭和20年終戦後占領軍の命令により撤去させられましたが 北品川三丁目田島卯之吉氏が引き取られ千葉県南行徳の源心寺に移され慰霊を行なってまいりました。
 この度源心寺及び田島孝作氏のご厚意により終戦50周年記念事業として品川神社に引き取らせて頂き戦没者の追悼慰霊祭を執り行い平和の尊さを後世に伝えて行きたいと存じます
 平成7年7月15日
   宮司 小泉和夫 識

撮影:2022年3月及び2023年1月


関連

伊藤博文公墓所

「八丁八反の飛行場」児玉陸軍飛行場跡地の戦跡散策(埼玉児玉)

埼玉県は、本庄(児玉)・上里にあった陸軍飛行場。
往時を偲ぶものがいくつかあるというので、足を運んでみた。

児玉飛行場のあったあたりは、上里町・本庄市(旧児玉町)・神川町境の八町八反と地元で呼ばれた地域であったために「八町八反の飛行場」と呼称された。ちなみに「八」は末広がりとしての意味であり、実際の面積ではない。


児玉陸軍飛行場

昭和十八年十月、熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑として使用開始。
昭和十九年四月、学徒動員の陸軍特別操縦見習士官200名が入校し、児玉教育隊と改称。
昭和十九年十月、児玉基地と改称。第一四四飛行場大隊が配備される。
児玉基地には、第1航空軍の第27飛行団(飛行団長 野中俊雄)が配備。
特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃等の重要航空作戦の任に当たった。
昭和二十年八月十五日、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」(1967年版)にも登場する。(ただし内容はフィクションなので注意が必要。児玉飛行場からは8月15日に特攻出撃が実施していません。)
現在は、大部分が児玉工業団地となっている。

余談だが、児玉飛行場の第27飛行団長であった野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に部下とともに入植開墾し、その地を「靖国」としたと伝わっている。

https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-203
1947年11月3日に米軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

いまでも形がはっきりわかる。


児玉飛行場之跡碑

児玉飛行場跡地の北東側に、慰霊碑を設けた区画がある。

児玉飛行場之跡碑

鎮魂

合掌

碑文
第二次世界大戦の苛烈な戦局下、当地に建設された児玉飛行場の生涯は、まさに戦いの歴史であった、即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として、日本々土に来襲する敵軍の勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ、各種団体から小学校児童に至るまで、困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し、昭和十七年春より約一年有半の歳月を経て完成した。昭和十八年十月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大尉)として使用開始し、同校の九十五式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。先ず、暁部隊の将校、下士官学生十五名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。続いて、昭和十九年四月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官二○○名が入校し、児玉教育隊と改称され、三ヶ月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。又同年八月、第一練習飛行隊の編成を見るや全将兵は、児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移駐した。同年十月児玉基地と改称、第一四四飛行場大隊が配備され、各分科飛行部隊及び、特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃、或いは太平洋近海を遊弋する敵機動艦隊に対する攻撃等、重要航空作戦の任に当たった。昭和二十年八月十五日大詔を拝し戦局を結ぶ、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられたが、祖国日本の栄光を背負って戦った、児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残して、その思い出だけを住民、軍関係の記憶に止どめて日本と運命を共にし、三年有余の歴史を閉じた。我が民族の限り無い雄叫は、歴史の試練に苛なまれ乍らも、同年秋、百十余名の開拓団員の入植となり、農耕地にすると同時に一部は工業団地として再生し今日に至る。戦後三十五年を閲し、往時の留魂、姿を偲ぶ何物もなく、追想のみ錯綜し物心共に漠々たるものを覚ゆる時此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声こんこんとして湧くが如く起る。幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と更に碑建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことはまさに天佑神助と信じ共に感謝するところである。茲に熊谷陸軍飛行学校、第一練習飛行隊第一四四飛行場大隊の関係者並びに地元有志の発願により、児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士を始め教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り、再び戦争を繰返さないことを願いつゝ世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。
 昭和五十五年十一月十五日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会

「八丁八反の飛行場」

観世音菩薩

第四教育飛行隊鎮魂碑
児玉飛行場跡に、護国生死を共にと集いたる第四教育飛行隊に在籍の士が、今茲に訓練中、不幸その任に殉ぜし者、或は米機襲来に斃れし者を部隊終焉の地に、永えに眠られん事を願い、この碑を建立する。
部隊は昭和十七年滋賀縣八日市に飛行第三戰隊北方進出の後を享け軽爆撃機操縦者の戰技訓練を主務とした新設部隊であったが、戰局の推移に鑑み、南方補給作戰更に名阪神地区の要地防空戰斗等の戰斗行動に参加、昭和二十年三月部隊はこの地に移駐、戰局漸く悪化するや本然の任務たる教育訓練から特別攻撃隊の養成へと変遷を経て、振武第二九九隊、三○○隊、三○一隊、三○二隊、三○三隊、三○四隊を編成、沖縄特攻作戰の為南下征途に就かしめた。此の間の訓練においても幾多の尊き命が失われたが屍を越え国の護持に訓練は日夜を分かたず続けられた。 
二十年八月に入るや米機の空襲も熾烈を極め対空戰斗においても戰死者が出るに至った。斯くして頽勢の挽回ならざるまゝに終戰の日を迎えたが、青春の血滾る憂国の至情も詔勅の渙発に旬日を出ずして敗戰の處理を完了、茲にこの児玉において部隊の歴史は閉ざされた。短期間乍ら苛酷な情勢下における児玉飛行場での生活の一日一日は終生忘れ得ぬものがあり、更に幽明境を異にした幾多の戰友をこの地に残したまま家郷に戻らねばならなかつたことは断腸の思であつた。離散の日より三十七年を歴し、今漸く兄等の安住と、兄等に心の再開を願える地を、児玉飛行場之跡碑奉賛会の御厚志により得ることが出来、この碑の建立される日を迎え得た。
庶幾兄等観世音菩薩の慈悲に抱かれ永えに此の地に鎮まらんことを。
 昭和五十七年十月十日 合掌
  八日市会 冲之原会 児玉会

第十五輸送飛行中隊発祥の地

第十五輸送飛行中隊
 発祥の地記念碑
  内閣総理大臣 中曽根康弘

第十五輸送飛行中隊戦死者 
  大松少佐  中田少尉  萩野曹長
  国分中尉  若林准尉  小南曹長
  西田准尉  加納准尉  西沢伍長
  山崎准尉  岡辺曹長  武川兵長
  門屋准尉  遠藤曹長  加藤候補生 
   中隊戦友会建之

却火
大東亜戦争末期の昭和二十年五月から七月に遠く太平洋の波頭を超えて来襲した米機動艦隊のグラマン機によって児玉飛行場は爆撃や機銃掃射の攻撃を受けた。
この爆弾は、戦後の昭和三十五年児玉飛行場跡北西隅の地下二メートルから出土した三発である。
犠牲者の冥福を祈り、久遠の平和を祈念する。
 昭和五十五年一月十五日 
  児玉開拓 岩田七郎

児玉飛行場を空襲した焼夷弾の欠片。

場所

https://goo.gl/maps/vxRECE83L5YCmxw28


立野南公民館(兵舎流用)

児玉飛行場にあった兵舎の一部を移築し再利用した公民館。
なお、出入り口は増築したもの。

拓魂
開拓30周年記念之碑
 
埼玉県児玉開拓農業共同組合

碑文
開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である 
戦後緊急食料増産対策として、基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者開拓者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した 
以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る 
ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである 
 昭和五十二年四月二十日
  児玉開拓農業協同組合

西瓜記念碑

昭和38年建立。
昭和20年10月に、児玉飛行場跡地に入植した開拓農家がスイカの栽培を初め、児玉スイカとして特産品になった。

場所

https://goo.gl/maps/xcSmcLAFzcEGZu5Q6


上部を伐採されたマキの大木

児玉飛行場の北西。

マキの大木。児玉飛行場を離着陸する飛行機の妨げになるということで、上部をばっっさりと切り取られてしまった。
それでも立派に存在感を発揮しているマキの大木。

上里町指定の天然記念物。 樹齢800年という。

マキの大木の向こうを飛ぶ飛行機。

場所:

https://goo.gl/maps/i7XV1d3iA4UMHNzBA


宝蔵寺の被災石灯籠

マキの大木の隣にあるのが宝蔵寺。
機銃掃射の弾痕が残る石灯籠がある。

無数の弾痕。

場所

https://goo.gl/maps/2Y9BoEQvibjJrf7J6


児玉飛行場の滑走路跡(西側)

飛行場滑走路があった西側から、東に向けて歩いてみます。

このあたりが西端。

場所

https://goo.gl/maps/sQhcYm2TLoc6abe38

滑走路跡の道路。

場所

https://goo.gl/maps/aEAJ42jNSePxbTeb7


児玉工業団地造成事業完成記念碑(共栄公園)

共栄公園は、工業団地の真ん中辺りにある。
すなわち、児玉飛行場の真ん中あたり、滑走路のあったあたりともいえる。

児玉工業団地造成事業
完成記念碑

完成記念碑建立の由来
 この工業団地は、児玉郡市広域市町村圏の地域振興と既成市街地の土地利用の純化を図るため、埼玉県企業局が造成したものである。
 昭和四十七年に事業を開始以来三百六十五名の土地所有者をはじめ、本庄市、児玉町、神川村および上里町その他多数の関係者の深い御理解と御協力を得て、十三年の歳月と約百九十六億円の事業費を投じて一〇六・五ヘクタールの団地造成を昭和五十九年十一月に完了したものである。
 この地域は、かつての共和村、七本木村、長幡村、丹荘村の村境に位置し、通称八丁八反と呼ばれていた。第二次世界大戦末期の昭和十九年には、一部集落の移転を行い、陸軍飛行場が建設されたが、戦後は開拓地として入植農民による野菜栽培等の農業振興が図られ、特に西瓜の特産地であった。
 造成以前は、児玉丘陵を南に望み、上毛の山々や秩父連峰を遠望するのどかな農村地帯であったが、時代の要請により自然環境と調和のとれた近代的な工業団地として生れ変わったものである。
 ここに工業団地造成事業の完了に当たり、この地の由来と土地提供者の氏名を彫刻した記念碑を建立し、永く後世にこれを伝えるものである。
 昭和五十九年十一月吉日
  埼玉県企業局

場所

https://goo.gl/maps/fvxcT98mjiWKcCVA7


児玉飛行場の滑走路跡(東側)

東側は、工業団地となるまえに、入植していた開拓民の集落がそのまま住宅地となっている。

歩いていて、不自然に感じたのが、アスファルトの盛り方。
左右が低くなっていて、じつに歩きにくい路肩であった。

ちなみに当時の滑走路は、マカダム工法で造られたために、いまでも掘ると砂利が出てくるという。

場所

https://goo.gl/maps/oEj8QYSWzfGeVC8d7

児玉飛行場の外周。東端。

セブンイレブン本庄共栄店のあるあたりが、飛行場エリアの北東端。

一昔前は、側溝のコンクリート蓋が往時のまま残っていたが、消失した。


児玉飛行場入口跡(推定)

現在のエステー埼玉工場のあたりが、飛行場エリアの入口であったと推定。
ここより北側は、飛行場エリアに付属する施設エリア。

飛行場の入口からまっすぐに伸びる道路。


児玉飛行場正門跡(推定)

嘉美の信号のあるあたり。
児玉飛行場の正門はこのあたりにあったのではと推測。

場所:

https://goo.gl/maps/Hb5MuGArPVBmSTLw6

近くには、嘉美神社がある。
児玉飛行場のある嘉美の鎮守様。

児玉飛行場に付属する施設エリアの北東端。

児玉飛行場跡地は、公共交通機関のアクセスは芳しくない。
すくないバスをうまく利用して、散策を実施。

ちなみに徒歩7キロで2時間15分歩いていたようです。

※撮影:2023年5月


関連

宇都宮駐屯地創立73周年記念行事(宇都宮駐屯地一般公開その1)

宇都宮駐屯地の一般公開。
最近は、各地の自衛隊駐屯地などに、機会があれば足を運んでいる。
駐屯地内にも、もちろん戦跡や近代史跡が点在しており、そして資料館もあったりで、見どころ満載なのだ。

本編は、「その1」。歴史的なものを中心に。
いまどきな話題は「その2」で。


宇都宮駐屯地

陸上自衛隊の中央即応連隊や東部方面特科連隊第2大隊等が駐屯。
昭和25年(1950年)に、軍需工場であった関東工業跡地に警察予備隊宇都宮官舎が創設したことに始まる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M83-A-6-71
1946年3月24日に米軍が撮影した航空写真を加工。

拡大

現在の様子(Google航空写真)


宇都宮駐屯地正門
(旧・関東工業雀宮工場正門)

軍需工場であった「関東工業株式会社 雀宮工場」の跡地に現在の宇都宮駐屯地はある。
昭和19年に関東工業雀宮工場は操業を開始している。主に20ミリ機関砲弾薬などを生産。雀宮駅とは専用の引込線路も引かれていた。

関東工業雀宮工場の門柱が、現在も正門門柱として活用されている。

陸上自衛隊 宇都宮駐屯地
中央即応連隊

東部方面特科連隊第2大隊
第307施設隊

宇都宮駐屯地北門
(旧・関東工業株式会社北門)


旧歩兵第59連隊門柱

歩兵五十九聯隊の営門門柱と哨舎(歩哨舎)が移設保存されている。

旧歩兵第59連隊門柱
明治42年5月21日、旧歩兵第59連隊が、習志野より宇都宮宝木(現 若草)へ移駐した際、新兵舎とともに建築された門柱である。
かねてから門柱の移設については、旧軍関係者の強い要望もありこのたび第四施設群の協力で復元された。
 平成2年3月27日

旧歩兵第五十九聯隊営門


38式野砲

38式野砲
諸元
 口径 75mm
 重量 947Kg
 弾量 6,8Kg
 初速 520/秒
 最大射程 10,700m

特性
この野砲は満州事変、支那事変、大東亜戦争等に主力野砲として参加し優秀性を誇った。機動は馬6頭で索引し日本最初の砲身後座式を採用、明治38年制式化された。
※この砲は戦後米軍が富士重工太田工場に進駐戦利品として展示されていたが米軍引揚げ後富士重工社長横田信夫氏の好意により出品されている。

車輪は木材も使われている。


宝の木

宝の木(学名・猿の手柏)
由来
本木は宇都宮第十四師団司令部設置の際に司令部前庭木として移植されたものである。
現宇都宮市宝木町の町名の由来となった花木の種子より育ったものである。


南京占領記念碑

南京占領記念碑
由来
現NHK宇都宮放送局からこの地に移したものである。

南京戦に際して、中支那方面軍の隷下にあたる第10軍に、第114師団(宇都宮)が参戦していた。
第114師団は、宇都宮第14師団からの特設師団。

摩耗していて判別不可能


宇都宮歩兵第五十九連隊記念碑

宇都宮歩兵第59連隊記念碑
由来
現宇都宮共同高等産業技術校からこの地に移したものである。

第59連隊碑。題字は第17代連隊長の萩原直之。
宇都宮歩兵第59連隊長で著名なのは、第6代聯隊長の松尾伝蔵。二・二六事件で岡田圭右首相の身代わり犠牲となっている。


軍道桜植樹記念碑

軍道桜植樹記念碑
由来
旧第十四師団長官舎前 現栃木地方協力本部(合同庁舎)からこの地に移したものである。

明治四十四年建立。
扁額は、宇都宮の第十四師団長を勤めた鮫島重雄(陸軍中将、最終階級は陸軍大将)
宇都宮グランドホテルのあった場所が、宇都宮師団長時代の鮫島重雄の別邸であった。庭園は別邸時代の名残を残していたが、宇都宮グランドホテルの廃業と再開発で名残も失われることとなった。


防衛資料館

宇都宮駐屯地の資料館。

防衛資料館内部は撮影禁止

陸軍第14師団をはじめとする宇都宮駐屯部隊(第51師団や214聯隊など)のコーナーや、栃木にゆかりのある大山巌元帥関連のコーナーなど、見どころは多数。

参考>

https://www.mod.go.jp/gsdf/utunomiya/utsunomiyahp/siryoukann.html

74式戦車、ほか


防衛資料館前庭の記念碑群

自衛隊関係の記念碑も多数。

守死善道

宇都宮駐屯地愛唱歌
宇都宮の防人

作曲は、船村徹氏。

部隊の歴史

盡忠制海

第307施設隊の歩み

第4施設群


本部庁舎

宇都宮の防人
 平成22年4月吉日

宇都宮駐屯地
創立60周年記念

石灯籠


礎(慰霊の碑)


 栃木県知事
  横川信夫謹書

合掌

慰霊の碑建立のことば
 昭和25年警察予備隊として発足以来自衛隊の今日に至るまで我が国の安全と平和のため陸に海に空に旺盛な責任感と不撓不屈の精神をもって任務遂行中旬職された不滅の霊魂に対し深甚なる敬意を捧げ自衛隊の礎としてその偉勲を永久に顕彰する
 昭和47年10月27日
 栃木県自衛隊駐とん部隊代表
  第十二特科連隊長一等陸佐 今西 四
 慰霊の碑建立委員長
 駐とん地業務隊長二等陸佐 谷中 光雄

駐屯地慰霊碑
 移設記念
  平成2年11月2日

そのほか石碑群。

䢖施乃絆

鈴見池

池?

尚武園

園?

伝統讃えて
第104建設大隊廃止
第4施設群創設   記念
 昭和47年8月1日


そのほか

ちょっと古そうなもの。航空写真と照合してみたけど、戦後かな。

なぞの門柱。。。


四季桜

宇都宮に駐留していた第12特科隊のラベル
第12特科隊は2023年3月廃止され、東部方面特科連隊第2大隊に改編された。

四季桜 特別純米酒
宇都宮酒造

※撮影:2023年5月


関連

宇都宮駐屯地公式

https://www.mod.go.jp/gsdf/utunomiya/utsunomiyahp/

雀宮駅

北宇都宮

東郷神社で海軍ゆかりの戦跡散策

元帥海軍大将 東郷平八郎 を祀る東郷神社。
海軍ゆかりの史跡戦跡を求めて、境内を散策してみました。


東郷神社関連の記事

以下も参照で。いろいろ記事が重複しますが。


第一駆逐隊奉納の大燈籠

第一駆逐隊に所属した戦没者を慰霊するために奉納された大灯籠。
東郷神社の参道に。

第一駆逐隊
第一駆逐隊は日露戦争直前の明治三十六年(一九〇三年)我国最初の駆逐隊として編成され 日露戦争に参加ののち 大正九年迄艦隊第一線で活躍後 一旦 解隊された  大正十一年(一九二二年)改めて第一駆逐隊が野風 沼風で編成され 続いて波風 神風が加わり 昭和初期まで 聨合艦隊の新鋭駆逐隊として活躍した その後は主に大湊(むつ市)を基地としてオホーツク海及び千島列島 カムチャッカ半島沿岸の漁業保護に尽力その発展に大きな力となった  大東亜戦争では北はアッツ キスカ方面から南は印度洋ジャワ方面まで幾多の戦闘に参加 野風 沼風は勇戦空しく沈没したものの神風 波風は一部損傷を受けたが最期迄戦い抜き 神風はシンガポールにおいて 波風は瀬戸内海で終戦を迎えた この間渡辺保正司令 山下喜義沼風艦長外五百四十名の方々が国に殉じられた この燈篭は青春を国に捧げ 若くして戦に殉じた勇敢な戦友と 最後まで海上で戦い抜き 戦後の復興に尽力 物故した乗員の霊を慰め 我が国永遠の平和を念願して 駆逐艦神風会が 駆逐艦波風会有志及び司令各艦乗員御遺族ならびに この主旨に賛同の方々の協力をえて建立 奉納したものである
 昭和六十二年六月二十日  
  駆逐艦神風会

第一駆逐隊

駆逐艦
神風 
野風 
波風 
沼風

昭和六十二年六月吉日 
奉納 
第一駆逐隊

昭和六十二年六月吉日 
奉納 
神風会


水交神社鳥居

東郷神社の庭園に移築保存されている。
水交社の後進にあたる水交会の本部は、東郷会館にあった。

水交神社鳥居の由来
この鳥居は、もと築地・海軍用地(現在の東京中央卸売市場)の水交社敷地内にあった水交神社の二代目の鳥居です。 水交神社は、日清戦争に際し、海軍の戦勝を祈願し全国から寄せられた神符・護符を奉安し、また同戦役以後の戦没社員の霊を合祀するため創建された神社で、その初代の鳥居は戦利品の魚雷で作った異形のものであったため、明治四十四年に神明鳥居に建替えられました。 水交神社とその鳥居は、関東大震災の災禍をまぬがれ、昭和三年に水交社が芝区栄町(現在の東京タワー北西隣)に移転した際、同地に遷座されました。その后社殿は昭和二十年三月の東京大空襲で焼失しましたが、この鳥居だけは毀損をまぬかれました。しかし戦後、東京水交社の建物と共に進駐軍に接収され、その後曲折を経て昭和五十六年、同地に新しくビルが建てられることになったので、鳥居は(財)水交会に返還され、同年六月十五日、由縁深い東郷神社へ奉納されたものであります。 この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめつづけ、二度の大災禍にも堪えてきたものであります。そして皇族方や海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、この鳥居をくぐった人々は数えきれません。
  以上

水交神社鳥居は、築地の水交社にあった明治44年造の二代目鳥居。
昭和3年に水交社とともに芝に移転。
その後は東京水交社とともに進駐軍に接収され、昭和56年に現在の(財)水交会に返還。
同年に東郷神社に奉納された。
この鳥居は日本海軍の栄光と苦難をともに歩んできた往時を知る貴重な鳥居。

水交社

明治四十四年十月建之


東郷元帥を讃える歌の歌碑

東郷元帥を讃える歌
「天地日月のむた大き洋の大きいさをは輝きとほる」
佐佐木 信綱


大正12年に開設された我が国初の公園墓地多磨霊園名誉霊域開設時、最初に葬られたのが東郷元帥。
霊園表門を入って直ぐのところに佐佐木信綱氏の東郷元帥を讃える歌の歌碑が建っていました。
元帥国葬から約1年の間、大森すみ子氏が墓守をしており、師事していた歌人佐佐木信綱氏に染筆を願い、昭和14年に建立したものです。
多磨霊園休憩所大森茶屋の大森和夫氏(大森すみ子氏の御令孫)より令和2年12月東郷神社に奉納されました。

こは東郷元帥を偲ひまつりて
 佐佐木信綱博士の詠せられしを博士に染筆を請ひたるなり
  昭和14年 大森すみ子誌


手水・洗心

洗心
 野村直邦謹書

野村直邦は、海軍大将。東郷内閣末期の海軍大臣(嶋田繁太郎の後任)であったが、就任の翌日に東郷内閣は退陣。後継の小磯内閣では米内光政が海軍大臣となったため、野村は合計6日間のみの海軍大臣であった。

瀬戸海のもづくの
幸のめでたさを祈り
祝ひて水屋捧げむ
 廣島縣 倉橋堀榮助

食糧難に際して、モズクの採取で貢献したという倉橋の堀榮助。


海軍経理学校正門敷石

東郷神社の手水舎の前に移設された旧海軍経理学校の正門敷石。

御水舎の前の敷石は 海軍經理學校正門の敷石として使用されたものであります

海軍經理學校正門敷石
海軍經理學校の沿革
 明治七年十月、芝山内天神谷に設けられた海軍會計學舎は幾度かその名稱を変え明治四十年に海軍經理學校となった。  この間校舎も数度位置を変えて、明治二十一年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和七年同じ築地の隅田河畔(現在の勝鬨橋右岸)に移築された。  昭和二十年九月、七十一年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戦力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。その間諸戦役事変に際會して國に殉じた者も数多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆發展に多大の貢献そしている。
 昭和五十五年五月  
  浴恩會(海軍經理學校同窓會)


海軍特年兵之碑

海軍特別年少兵(特年兵、14歳からの志願兵)の碑。
昭和46年5月16日、高松宮同妃殿下の御台臨を仰いで除幕式が挙行された。

海軍特年兵之碑

昭和の白虎隊
海軍特年兵の説明が碑の裏側に記されています
是非御覧下さい
 海軍特年会

香淳皇后御歌
 やすらかに
  ねむれとぞ思ふ
 君のため
 いのちささげ志
  ますらをのとも

あゝ特年兵
  作詞 山口純
  作曲 三島秀記
時代はどんなに変わっても
胸にながれる 魂は
いついつまでも 咲き香る
真実の平和を 祈りつゝ
燃えた生命よ あゝ 特年兵

戦争のこわさも その意味も
知らないまゝで 童顔に
お国のため の 合言葉
一ずに抱きしめ 散った花
十四才の あゝ 夢哀し

海軍特年兵
 あゝ十四才 大日本帝国海軍史上 最年少の勇士である 少年兵より更に二才も若く しかも特例に基ずいたものであつたため 特別年少兵 特例年令兵の名があり 特年兵と略称された
 昭和十六年 帝国海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを創設した
 太平洋戦争の時局下に 純真無垢の児童らが一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じた その数は十七年の一期生三千二百名をはじめ 二期生約一万七千二百名におよんだ 横須賀 呉 佐世保 舞鶴の四鎮守府に配属されて活躍した 戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは 昭和の白虎隊と評価された だが反面 幼いだけに犠牲者も多く 五千余名が 南溟に或は北辺の海に短い生命を散らした しかし 特年兵の存在は戦後 歴史から忘れられていたため 長い間 幻の白虎隊という数奇な運命をたどつていた このままでは幼くして散つた還えらぬ友が余りにも可哀想であり その救国の赤誠と犠牲的精神は 日本国民の心に永遠に留め 讃えねばならない 英霊の声に呼び覚まされたかの如く 二十五回目の終戦記念日を迎え
た四十五年 俄に特年兵戦没者慰霊碑建立運動が高まつた 戦火は消えて二十六年の長い歳月の後に 多くの人たちのご協力によつて碑が こゝ東郷神社の聖域に建立されるに至つた そして幻の
特年兵はようやく蘇つた そのうえ 特年兵たちが 国の母と崇めた皇后陛下の御歌を碑に賜わり母と子の対面の象徴として表わしこゝに刻む
 除幕式には 特年兵にもゆかりの深い高松宮両殿下の御台臨を仰ぐ栄誉に浴した また 全国の生存者が亡き友の冥福を祈るため それぞれ各県の石四十七個を持ち寄り 碑の礎に散りばめた
 吾々は 今は還えらぬ幼い戦友の霊を慰め 永遠に安らぎ鎮まらむことを願うと共に 特年兵を顕彰し その真心と功績を後世に伝え 祖国繁栄世界平和を祈願しながら尽力することをこゝに誓う
 昭和四十六年五月十六日
  海軍特年兵生存者一同
  建立委員長小塙清春撰文謹書

碑銘 揮毫 
昭和四十六年五月十六日  
元 海軍大臣 海軍大将 野村直邦敬書

こちらも野村さんの揮毫でした。


東郷蔵

東郷蔵由来
昭和20年5月の戦災に依り麹町三番町の東郷邸も土蔵一棟を残して一切焼失しました。同23年5月麹町区はこの土蔵を東郷神社境内に移築して30数年が経過し損傷も激しくなったので元帥の50年祭に当り従前の蔵の姿を模して少し大きく不燃建物にて新築した記念の蔵です。
 昭和59年5月28日 社務所


潜水艦殉国碑(伊33潜潜望鏡)

太平洋戦争中に亡くなられた全ての潜水艦関係者の英霊を慰霊する。
殉国の碑。
潜水艦横断面を型どった碑の司令塔部分には、伊号33の潜望鏡が取り付けられている。

殉國

潜水艦勇士に捧ぐ
 太平洋戦争中百二十餘隻の潜水艦と共に戰没された一万餘人の乗員諸君 特殊潜航艇及び 回天決死隊諸君 また諸公試 演練に殉難された諸君 諸君の遺骨は海底深く沈んで之を回収 する途がない
しかし それは国難に赴いた諸君の忠誠が そのまま其戰場に在ることを意味する 民族の急 を救うべく戰った犠牲の精神は永えに其処に活きている 
 残された潜水艦関係の吾等は個人と法人と併せて幾千常に諸君の英霊の坐する海底を見 つめている 願わくは日本国民の全部も ありし日の諸君の勇姿と奮戰激闘の光景と護国の 屍となった戰場とを緬想して敬弔の誠を伸ぶると共に 祖国再興の心の糧とすることを祈願し て巳まない
 茲に曽て戰友潜水艦建造関係者外有志一同相計り小碑を東郷神社の靈域に建立して諸君不滅の忠魂に捧ぐ
 昭和三十三年五月二十五日

搭載用 魚雷模型
旧海軍館(平成四年解体)の庭にあったもので実物に似せてあるが寸法は実魚雷より小さい。
実魚雷の寸法
 巡洋艦・駆逐艦用 径61㎝ 長さ8.5m
 潜水艦用 径53㎝ 長さ7.2m
 航空機用 径45㎝ 長さ5.7m

伊33潜はトラック島で事故のため沈没、呉で修理後の昭和19年、伊予灘で訓練中再び沈没。
昭和28年に引き揚げられた。


東郷神社の狛犬(獅子)

東郷神社の狛犬は、獅子(ライオン)でいわゆる狛犬とは違う。
1921(大正10)年、彫刻家 新海 竹太郎 (1868-1927)により東京築地の国立がんセンター(東京築地の海軍大学校の敷地)の所に建っていた「有栖川宮威仁親王の御銅像」の台座の四隅にあったもの。

戦災を免れた後、高松宮殿下から東郷神社に下賜された歴史ある獅子。
ちなみに、1984(昭和59)年、「有栖川宮威仁親王像」本体は福島県の猪苗代湖畔にある有栖川宮威仁親王ゆかりの別荘「天鏡閣」に移設されている。

庭園と潜水艦殉国碑に、4体ある。


東郷神社

東郷神社周辺や東郷会館は2020年頃に大幅にリニューアルした。(東郷会館は2022年再開)

由緒

https://togojinja.or.jp/gosaijin

東郷神社由緒沿革


海の宮

奉斎の趣
神を敬い、祖先を祟び、先覚を敬慕してその霊を祀ることは、わが国古来の美風であります。
東郷神社におきましては、敬神・崇祖の信仰厚い人々と共に、その精神を実践するため、昭和四七年に境内霊社「海の宮」を創建、御斎神として海軍・海事・水産関係者また崇敬者の諸霊を合祀奉斎しております


砲弾

詳細不明。御祭神ゆかりのものだろうか?


東郷神社回廊絵画

御祭神である東郷平八郎命の一生がわかる絵画


御神木

北参道にご神木がある。


水交会

ちかくには、「水交会」がある。

水交会に関しては、下記にて。


※撮影:20210527および20230528

東京都戦没者霊苑

礫川公園の奥に東京都戦没者霊苑がある。
以前にも掲載していたが、独立したページとして改めて掲載。


東京都戦没者霊苑

さきの大戦における16万余にのぼる東京都関係戦没者の慰霊と都民の平和への願いをこめて、昭和35年6月に建立。
敷地は、小石川台地にあり、古くは水戸藩上屋敷の一部でした。その後、陸軍砲兵工廠・諸工伝習所敷地となり、戦後は、財団法人東京都慰霊協会が戦没者・戦災者慰霊施設として管理し、昭和28年に戦没者慰霊施設用地として、東京都に寄付されたもの。
現在の戦没者霊苑は、全面改修が施され、昭和63年3月に竣工したもの。

合掌

東京都戦没者霊苑
この霊苑は、先の大戦において尊い犠牲となられた東京都関係の戦没者をお慰めするとともに、平和を願う都民の強い決意を表すため、建立されたものです。


東京都戦没者鎮魂の碑

広場正面に池(水盤)を配置し、池の中に高さ3.36メートルの人工滝がある。滝を背景に、その中心の水面に浮かぶ形で、高さ1.59メートルの門形の白御影石に囲まれた黒御影石の「東京都戦没者鎮魂の碑」があり、鈴木俊一都知事(当時)の書による「鎮魂」の文字が刻まれている。

東京都戦没者霊苑
鎮魂

山本健吉氏撰書による平和への願いを記した文章がある。
山本健吉は、文芸評論家。

碑文
あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声を聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。 あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。 この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
 山本健吉

由来文
 東京都戦没者霊苑は昭和六年の満州事変から日中戦争を経て、昭和二十年(一九四五年)八月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約十六万人の霊をまつる。
 敷地は、昭和十五年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
 昭和三十五年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
 そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い昭和六十三年(一九八八年)三月に完成した。
 設計は、建築家相田武文、碑文は、芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑名の揮毫は東京都知事鈴木俊一による。
 私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争とは何であったかを深く考えたい。
 戦没者の御霊にお願い申し上げる。
 お声を風に託して、戦争の実態を私たちに語り聞かせていただきたい。 そして私たちが強い意志と英知をもって、平和を守るという至上の命題にとり組めるよう、お導きいただきたい。
 霊苑が戦没者の御霊と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
 角田房子

角田房子氏は近現代史をテーマとした題材を多く発表されたノンフィクション作家。


御製(日本遺族会創立30周年記念式典)

侍従長入江相政謹書。
昭和55年11月17日の日本遺族会創立30周年記念式典での御製。

みそとせを 
 へにける今も 
  のこされし 
うからの幸を 
 ただいのるなり


太平洋戦争における地域別戦没者数一覧

東京都遺族連合会
1989年8月15日


御製(民生委員・児童委員顕彰碑)

同じく、侍従長入江相政謹書。

前面の碑に刻まれた御製は、民生委員制度創設50周年を記念する全国社会福祉大会に出席された天皇・皇后両陛下から民生委員に対し多年の労をねぎらう励ましのお言葉を賜ったもの

いそとせも
 へにけるものか
    このうえも
  さちうすき人を
    たすけよといのる

民生委員制度創設50周年を記念して、過去50年にわたり、社会福祉の増進のため活躍した民生委員・児童委員の遺徳をしのび、その業績を顕彰する目的で、昭和42年11月東京都民生委員連合会にとって建設。


東京都戦没者霊苑展示室

訪れたときは休館中でした。
※令和5年3月再開予定

東京都戦没者霊苑

https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/seikatsu/senso/reien.html

場所

https://goo.gl/maps/cRoupNhXbVMBTkVq7


陸軍砲兵工科学校・工科学校跡
諸工伝習所跡記念碑

隣接地にて以前にも掲載したので詳細は割愛。

礫川公園

東京砲兵工廠跡の公園。
同じく以前にも掲載したので詳細は割愛。

射撃場跡

※撮影:2022年12月


東京大空襲と下町(江東区砂町周辺)

東京大空襲と下町。
江東区砂町地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


戦災殉難者供養之碑(砂村新田六地蔵)
南砂町1丁目・南砂町3丁目

江戸時代のことから、砂村新田六地蔵尊が祀られていたという。昭和20年3月9日夜半からの東京大空襲によって、六地蔵は瓦礫と化し戦災焼失。
昭和27年頃に「戦災殉難者慰霊」を兼ねて再建。

昭和20年3月10日歿
戦災殉難者供養之碑
起縁南砂町1、3丁目

砂町新田六地蔵
(前略)
さても恐ろしいのは戦争である。昭和20年(1945)3月9日、あの夜半からの大空襲のため、六地蔵は瓦礫と化し江戸時代からの文化財が一つ消えて行ってしまった。
 この地蔵は、戦災で焼失したため、昭和27年(1952)頃に戦災殉難者慰霊も兼ねて再建された。現在は「六地蔵尊奉賛会」によって守られている。

場所:

https://goo.gl/maps/QEi531KqViBth1cMA


戦災殉難者供養碑・波除地蔵尊

江東区南砂。
南砂2丁目町会会館に隣接。
大正6年(1917)10月の大津波によって砂村新田で亡くなった方を供養する波除地蔵尊とともに、東京大空襲の殉難者を供養する碑が建立されている。

地蔵尊の左側、お供えの花に埋もれているが、供養碑がある。
左側の石碑は地蔵尊の由来碑。

手前の線路は、貨物専用の越中島支線。

場所

https://goo.gl/maps/yPykKbWJf7sSmdr2A


戦災殉難者供養碑(妙久寺)

江東区北砂。
砂町地区での戦災殉難者を供養する。

寺院境内墓地内には、空襲で破損した墓石や焼けた墓石も多数残っている。

場所

https://goo.gl/maps/ovFeZKhaPobQMPg37


江東馬頭観世音(武州妙安禅寺)

江東区南砂。
当時、界隈では、荷車を引かせる馬=輓馬の業者が集中していた。東京大空襲では、輓馬3,000頭が焼死。また輓馬も軍部によって軍馬としても徴用され、多く戦死している。
昭和28年9月に、愛馬の霊を弔うために、地元の運送業者の手によって馬頭観世音が建立された。

なお、武州妙安禅寺は、東松山市に鎮座する「慈雲山妙安寺」のこと。境内の馬頭観世音は「武州上岡観音」として古くから牛馬と関わる農家から信仰され、関東随一の馬頭観音の霊場とされている。

碑面裏の趣旨書は漢文での記載。

江東馬頭観世音由来之碑
 昭和20年(1945)3月9日夜半の大空襲により江東方面は焦土と化し殉難者は目を覆うばかりの惨状を呈した。また戦局が激しさを加えるに伴い石油が欠乏し国内の輸送は専ら牛馬車のみに大きく依存された。江東地区特に砂町大島亀戸深川一帯は東京都内において当時最も多くの輓馬業者が集中し牛馬の頭数3千有余居りその大半が空襲で厩舎や路上で焼死しさらに戦時中は軍馬として江東方面から多数徴用され大陸や南方において数多くの馬が戦死をとげたのである。
 昭和28年(1953)9月輓馬による運送業者が中心となりこれら愛馬の諸霊を弔い平和祈願をこめてこの地に江東馬頭観世音を建立したものである。
 大空襲後33回忌を迎えるにあたりこの志を継ぐ者が相寄り慰霊の由来を記し、ここに碑を建立して永く世にこれを傳えることになった。
 昭和52年(1977)3月10日 
  江東馬頭観世音講

馬蹄や人参が奉納されている。今でも手厚く崇敬されていることがわかる。

江東馬頭観世音

武州妙安禅寺

となりには「東京トラック同盟協同組合」。
いまも縁がある。

場所

https://goo.gl/maps/xVoRNtDXxWkKXXHP9


殉職者慰霊碑「礎」(小名木川駅跡)

江東区北砂。
旧国鉄小名木川駅跡の「アリオ北砂」
入口にある慰霊碑。


日本国有鉄道総裁
十河信二

時太平洋戦争も䦨(たけなわ)昭和20年3月10日未明米国重爆撃機B29型百数十機の大空襲により江東地帯は壊滅的被害を受け特に当駅は五百数十両の貨車、数千屯の貨物と共に駅施設は烏有に帰す。この日勤務者二十四名中実に十二名が壮烈その職に殉す。
又昭和4年開業以来職に殉せし者四名を数うここに十六名の霊を慰むべく駅員の総意により広く国鉄部内外の協力を得て本碑を建立す。
 昭和37年3月10日

小名木川駅は昭和4年開業の貨物専用駅。
交差点はまだ「小名木川駅前」表示のまま。

場所

https://goo.gl/maps/mBECHTGgdLW1TQ7F6


北砂二丁目公園(小名木川駅跡)

小名木川駅の歴史
 江東地区の工業地帯の輸送需要の増加に対応するため昭和4年3月20日、小名木川河畔14,000平方メートルのドッグを備えた水陸連絡貨物専用駅として、小名木川駅が開業した。
 初め貨物取扱量50万トンの規模であったが、第2次大戦中の昭和18年(1943)には130万トンの貨物取扱量を記録。
(以下略)

小名木川駅は、平成12年(2000)に廃止となっている。
再開発のアリオ北砂は2010年に開業。

場所(北砂二丁目公園)

https://goo.gl/maps/FtFGnd13aLyn53fD6


地蔵尊(羅漢寺)

江東区大島。西大島駅の交差点の北東。
東京大空襲で火の海から逃れた住職が発起人となり、大島町の町会の寄付もあり昭和26年に7回忌として建立。
東京大空襲で焼けた庫裏跡に700名以上の遺体が仮埋葬されており、昭和24年に遺体を火葬し東京都慰霊堂に改葬した際に、分骨した5人遺骨を地蔵下に埋め、開眼供養としたという。

場所

https://goo.gl/maps/vpJ8witZJeaiqFpP7

撮影:2022年1月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(墨田区菊川・立川、江東区森下周辺)

東京大空襲と下町。
菊川・立川地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


榎稲荷神社

墨田区立川。
稲荷神社の御神木の榎の大木は空襲によって真っ二つに裂かれた被災樹木。

榎稲荷は天和3年(1682)に菊川の土手に建立され、元禄9年(1696)に菊川という河の名を取り「菊川」という町名になり、溝中が作られたという。

被災した榎。

榎稲荷神社由緒書
(前略)
明治11年11月2日本所区菊川1丁目と称し、大正12年9月1日の関東大震災にて焼失、その後区画整理にて現在地に移転し、昭和7年町名変更にて竪川4丁目となる。
昭和20年3月10日第2次世界大戦の際、東京大空襲にて再度焼失したる(攻略)
※カタカナはひらがなに置き換え、句読点を補完

場所

https://goo.gl/maps/nfn6bw8Ap56sid2E7


堅川地蔵尊

墨田区立川。
昭和21年5月、堅川地蔵尊が、東京大空襲の犠牲者の冥福と恒久平和を願って建立。
竪四会館と同居している。

竪川地蔵尊戦災震災殉難者諸霊位供養之塔

地蔵尊の由来
 大東亜戦争中昭和二十年(西暦一九四五年)三月十日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け下町一帯は壊滅状態となり尊い人命を数多く亡くし其の数実に10万人と言います。
 攻撃に参加した敵爆撃機二九八機、投下焼夷弾一七八三t、被災者数100万人、焼失家屋二十七万戸、負傷者数14万人、当、菊川公園に埋めた人4515人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免かれ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり動詞の浄財により昭和二十一年五月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和四十年四月菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年三月十日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。
  昭和五十九年三月十日 
   立川四丁目町会

戦災者供養

場所

https://goo.gl/maps/DL8oQJBZY2GKC19w6


菊川公園

竪川地蔵尊と榎木稲荷神社の隣。
東京大空襲に際して、避難民で溢れた「菊川国民学校」も火の海に包まれ、学校も路上も遺体で溢れ、隣接する「菊川公園」に4,515名にも及ぶ犠牲者が、菊川公園に仮埋葬された。

場所

https://goo.gl/maps/gRTo6ogmGBZ6Ug5D7


夢違之地蔵尊夢違地蔵尊

墨田区菊川。
約3,000人の犠牲者が菊川橋の周辺であったという。
弥勒寺住職が書かれた縁起には、以下のような惨劇が綴られている。

  まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥
に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。

夢違地蔵尊縁起

夢違地蔵尊縁起
 一九二三年(大正十二年)関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者五万八千名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月一日を記念日と定め 官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。一九四一年(昭和十六年)太平洋戦争勃発し、戦局利にあらず、殊に一九四五年(昭和二十年)三月九日より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した広島 長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。
 まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。
 この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない聖域である。而して復興なり一九八三年(昭和五十八年)三月十日、誠心集い浄財を集め仏縁深き弥勒寺住職の教示を得て、これか悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。
 時移り再び多大なる協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うものである。
                     合掌
  一九八五年三月十日
   弥勒寺第五十七代住職 岩堀真至謹書
    夢違之地蔵尊縁起史碑建立 協賛者一同

夢違之地蔵尊

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city003/index.html

菊川橋の北西にある菊川橋児童遊園 (北側)に地蔵尊はある。

場所

https://goo.gl/maps/EG8bQsf7WcwEwiP66


八百霊地蔵尊(やおだま地蔵尊)

江東区森下5丁目。
この地の戦災犠牲者約800名を慰霊するために、昭和21年に建立。

八百霊地蔵尊
由来記碑
昭和二十年三月十日大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋五丁目の町民八百余名の霊を慰めるため昭和二十一年生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立された
この由来を後世に伝へ併せて恒久の平和を祈るため三十周忌を記念してこの碑を建てた
 昭和四十九年三月十日
  江東区森下五丁目町民有志

猿江橋の北西角地。

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city011/index.html

場所

https://goo.gl/maps/aNk1i3Z5Fn4xjnM26

※2022年1月撮影


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(江東区白河・平野・三好周辺)

東京大空襲と下町。
清澄白河地区も大きな被害を被っている。
慰霊巡拝を。


白河戦災地蔵尊(延命地蔵尊)

江東区白河。
戦前に、朝鮮から来日し白河町で食堂を開いていた李夫妻。東京大空襲後に、無料宿泊所をつくり、洋裁教習所などうをもうけ、女性や子供の自立支援をおこなっていた。昭和33年に、白川2丁目の延命地蔵尊の右端に、白河町で犠牲となった700余名り追悼地蔵尊を建立。

場所

https://goo.gl/maps/Fs8fv9edhT2q8z2J8


平和祈念慰霊碑(東深川橋脇の慰霊碑)

江東区白河。
上記の白河地蔵尊を建立した李氏が帰国に際し、白河2丁目有志が昭和46年に建立した慰霊碑。

昭和二十年三月九日夜の大空襲により首都東京は一瞬にして火の海と化し我白河二丁目もまた灰燼となる
その夜の焼死者実に七百余名の多きに及ぶ 其惨状は筆舌につくし難い同年八月十五日終戦となる
我々町民は全くの無一物焦土の中より起上り復興の為凡ゆる困苦と闘ひ欠乏に耐えて廿六年今日戦前にもました未曾有の繁栄を遂ぐるに至る顧みて幾多の尊き犠牲者の冥福を祈り今後戦争の絶滅を期すると共に我町会の復興を記念して茲に相計り記念碑を建立する
 昭和四十六年八月十五日  町会長 平谷章 記
  在日五十四年帰国記念為建之

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city001/index.html

場所

https://goo.gl/maps/DE719L4aG89GNHLD7


平和地蔵尊・戦災殉難者供養塔(良信院)

江東区三好。
良心院にある平和地蔵尊。

地蔵尊とともに、「戦災殉難者供養塔」もある。
50回忌に建立。

平成6年3月、50回忌供養での建立。

現代的な寺院。

場所

https://goo.gl/maps/TTXtN3RffiMBHYcU6


観音像・戦災殉難有縁無縁各霊供養塔(善徳寺)

江東区三好。
東京大空襲での江東地区の犠牲者を供養する観音像。
昭和32年建立。

昭和20年3月9日夜半より10日未明に至る初の帝都夜間大空襲は全都に多大の被害を与え、江東地帯も一夜にして焼土と化し、多数の犠牲者を出し、私達にとり忘れ得ぬ悲しい出来事となりました。
同年8月15日戦争は終了を告げ爾来十有余年、人々の努力に依り町は以前にもまして復興しましたが、今は再び帰らぬ殉難の方々の永遠の冥福を祈念し、この供養塔を建立致しました。
 昭和32年10月13日
 当山19世 俊道 識

戦災殉難
有縁無縁
各霊位供養塔

場所

https://goo.gl/maps/CwmJTEGNDU36mKye7


平和観音像(成等院)

江東区三好1丁目。
成等院にある紀伊国屋文左衛門の墓域に建立されている。
なお、紀伊国屋文左衛門墓域は、東日本大震災の影響で立入禁止。

三好1丁目
平和観音

平和観音由来
昭和20年3月10日戦災により当町内は全焼し百名近くの方が亡くなられました。本年37回忌に当り、又町内で亡くなられた方々のご冥福を永久に祈り、町内各位の御清栄と国の平和を願って平和観音を造立しました。
 昭和56年3月10日
 三好1丁目町会造立

紀伊国屋文左衛門之碑は昭和33年(1958)建立。

敷地外からなので、わかりにくいが、上記碑の左側に墓石がある。

立ち入り禁止。

場所

https://goo.gl/maps/71UjHnKefubq5XYY9


慰霊碑(浄心寺)

江東区平野2丁目。
関東大震災の慰霊碑と並ぶ、戦災慰霊碑。
東京大空襲で掘割で水死した犠牲者をはじめとする万物供養の慰霊碑。
昭和21年に洲崎弁天町町会が建立し、都営住宅建設に伴い、浄心寺に移転。

昭和20年3月10日の空襲に殉難せる町会内緒霊の為、茲に碑を建て永久に其の英魂を弔う 
 昭和21年3月10日
  東京都深川区州崎弁天町会

※旧仮名遣いを現在仮名遣いに改めました

となりのおおきなモニュメントは、関東大震災慰霊碑。

蔵魄塔・関東大震災殃死者慰霊塔(浄心寺)

関東大震災では、浄心寺の境内も臨時の火葬場に当てられ、約3,000の遺体が荼毘に付された。
大正12年10月5日に深川区主催で、浄心寺にて大震災横死者追悼大法要が営まれた。
大正14年8月30日、大震災犠牲者の遺灰を納めた供養塔が建立。
(その後、遺灰は東京都慰霊堂に移されている。)
供養塔の作者は、日名子実三。(朝倉文夫門下塾頭)
蔵魄塔と名付けられ、半球ドーム型の白いコンクリート像の墳墓。悲しみに暮れる女性が抱きしめいている姿をモニュメントしている。

ちなみに、石灯籠は、仙台伊達藩六代目藩主の伊達宗村(仙台少将藤原宗村)が享保四年(1719)に奉納したもの。

浄心寺。

場所

https://goo.gl/maps/q1pHQeEqKdf8cVtb6

※撮影2022年1月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

軍都佐倉の戦跡散策・その2(佐倉陸軍墓地跡と歴博)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その2」となります。
その2では、佐倉城址以外の話題を軸にします。

その1は、こちらにて


忠霊塔(佐倉陸軍墓地跡)

佐倉市役所の駐車場奥に忠霊塔がある。
この場所が、かつての佐倉陸軍墓地であるという。

忠霊塔
ここには、過去の戦争による戦没者の遺骨・遺品が安置され、一万有余の御霊が祀られております。
 印旛郡市町・八千代市
  遺族会

平和之礎

合掌

佐倉霊園

傷痍軍人 顕彰碑

昭和36年1月 印旛地区傷痍軍人会 建立

佐倉市役所

場所

https://goo.gl/maps/Cw4Pgvb4ZTsaFAJ29


児玉源太郎旧宅跡

往時の土塁と生垣が残る。
佐倉藩の上中級の武家屋敷があつまっていたエリア。

この地には、佐倉連隊長の借家がありました。児玉源太郎(後の大将)は、佐倉歩兵第2連隊長として、1880(明治13年)から1885(明治18)年までこの地に住んでいました。
佐倉において中佐から大佐へ昇進しています。陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエプソードは大変有名です。江戸時代から続く土塁と生垣は、児玉の借家の時代にも存在しており、往時の面影を今に伝えています。

※児玉源太郎 嘉永5(1852)年~明治39(1906)年
旧陸軍軍人。箱館戦争、佐賀の乱へ従軍後、明治9(1876)年には神風連の乱を鎮圧する。台湾総督を勤める。日露戦争(明治37(1904)年~明治38(1905))全体の戦略を立案した人物である。実際の戦闘指揮だけでなく、戦費の調達、アメリカの仲立による講和の画策、帝政ロシアへの革命工作などを行っている。戦争遂行に己のすべてを注ぎ込んだためか、日露戦争終戦後しばらくして亡くなっている。

場所

https://goo.gl/maps/27BjD7DJKYVvEPat7


成徳書院跡

佐倉市民体育館の近く。かつて佐倉上大手門あったあたり。

佐倉藩校があった。

場所

https://goo.gl/maps/KQ7DYFspwptuLNP29


西村勝三翁像

銅像があるなと思って、近寄ってみましたら「西村勝三さん」でした。
「明治の工業の父」「製靴業の祖」
佐倉でした、そういえば。

以下も参照

西村勝三翁の業績
 この地を下った所には、曽て佐倉藩の士魂を磨いた「成徳書院」の武道場があった。
その武道場を、断乎改造して、製靴の業を教えたのが、西村茂樹(1828~1902)・勝三(1836~1907)の兄弟である。
大塚岩次郎(大塚製靴創始者)もここでその業を習った一人であった。
時に明治4年7月であり、この月には「廃藩置県令」が出されている。
佐倉藩の士族授産行政は、この様にまさに間髪を入れぬ素早さと、先見に富んだ大胆なものであった。
茂樹は当時佐倉藩大参事であり、勝三はその前年3月15日日本初の製靴工場を築地入船町5丁目1番地に建てていた。
 父西村芳郁は、成徳書院の前身「温故堂」の頭取となり、又支藩佐野藩への附家老も勤めた有能の士で、母楽子は、佐倉藩士荒井宗輝の長女であった。
 勝三は初め佐野藩の禄を喰んだが、安政3年(1856)脱藩し、その後武士も捨てて、佐野の豪商正田利右衛門と横浜に出て貿易に従事した。
やがて明治2年(1869)大村益次郎から製靴をすすめられ、弟の綾部平輔と製革製靴事業創始を決意して断髪した。
断髪令に先立つこと2年であり、この決意に感動して、高見順は「日本の靴」を著したほどである。
 勝三翁の創業は「伊勢勝製靴場」といったが、その後「桜組」と改称、更に大同合併して皮革は「日本皮革株式会社」、靴は「日本製靴株式会社」として今日の大をなす源となった。
 翁は又、正田利右衛門から製鉛法の研究を託され、それが耐火煉瓦の研究となり、明治8年「伊勢勝白煉瓦製造所」に結実し、之が後「品川白煉瓦株式会社」となり、今日の盛業を見るに至った。
本碑及び像周辺の煉瓦は、特に寄贈された同社製の耐火煉瓦である。
 翁は又、ガス・ガラス・靴下・洋服等々の事業も手がけ、夫々の業界の先達と仰がれている。
 この様に勝三翁の生涯は、日本工業の創業の苦闘の歴史そのものであった。
 翁の無二の理解者であり、且つ最大の協力者であった渋沢栄一は「西村翁はいつも国益を優先し、自己の利害を顧みず、百難を排して日本の工業を創始した。」と、その士魂商才の面目を絶賛している。

場所

https://goo.gl/maps/kqth9g9kFWquEtSs7


浜野昇と済生病院

佐倉の藩医の出身であった浜野昇。陸軍軍医として西南戦争に従軍したのちに、佐倉で市立病院を開業。第一回衆議院委員選挙で全国唯一の医学士・医師としての初めての衆議院議員であった。

場所

https://goo.gl/maps/DnXxbnnvrTBc2o6g8


国立歴史民俗博物館

言わずとしれた「歴博」。歴史を俯瞰的に見ると充実しすぎて1日あっても足りませんし、見どころ多数ですし、原始宗教としての民俗史として見るべきものも多数ですが、佐倉の連隊、佐倉の陸軍に関する展示もありますので、ここも足を運んでおくべきかと。歴博、やばいですね、好きです。

近現代。
(民俗学のコーナーもありますし、歴史学だって時系列にそった展示は興味深く、全部紹介したいぐらいではありますが、逸脱してしまうので、ここでは、それ以外は省略します。。。)

佐倉兵営

忠霊塔の建設要領
中身が気になります。。。

B29ですね。

横浜の赤レンガの模型も

国産第一号機関車の話。

昭和の街並み再現も。

場所

https://goo.gl/maps/8riCuYwbTwnXv9wf6

佐倉城址に点在する戦跡は「その1」にて。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


軍都佐倉の戦跡散策・その1(歩兵第二聯隊佐倉兵営跡地散策)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その1」となります。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1828-72
1948年9月26日、米軍撮影の航空写真を加工。

上記から佐倉城址界隈を切り抜きし、画像を回転。
本丸を上にしてみる。

下図は佐倉連隊跡関連位置図。
上記の航空写真と位置合わせ。

みてのとおり、「佐倉連隊跡関連位置図」という便利な案内看板が随所にあります。戦跡散策も快適ですね。


佐倉連隊案内図

これは、歴博の入口正面、愛宕坂の下に。

明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争にこの地から出生されました。明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第五七連隊が移転し、昭和19年のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅しました。


佐倉兵営跡の碑

散策順は、番号順ではなく。
なぜなら、佐倉城の大手門から、入城したので、番号順に散策するのが困難だったのです。番号は、歴博からの順路、ですね。

佐倉兵営跡の碑
佐倉市城址公園自由広場の南側にある。昭和41年に建立、現在地に移ったのは歴博建設後。題字は連隊長をつとめた今村均陸軍大将の書。

今村均は、陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。
1932年4月、佐倉の歩兵第57連隊長を拝命している。
開戦時は、蘭印作戦を指揮。
昭和17年意向は、ラバウルの第八方面軍司令官として陸軍を統率し、海軍の草鹿任一中将以下の南東方面艦隊と共に、終戦まで孤立する中でラバウルを維持している。

佐倉兵営跡
 元聯隊長 今村均謹書

歴代聯隊長名(23代目まで)が、裏面に刻まれています。
今村均は、第17代聯隊長。

歩兵第二聯隊長佐倉兵営全図
「佐倉兵営跡の記念碑」は昭和41年に旧佐倉57連隊本部跡付近に設置されたものです。
国立歴史民俗博物館が明治100年記念事業として建設されるにあたり昭和51年5月ここに移設しました。

皇紀二千六百年奉祝記念

桜 壱百本
躑躅 参拾本

明治天皇御駐蹕記念碑
 陸軍大臣 林銑十郎 敬書

背面は、削られていました。。。

 こゝは、旧佐倉城二乃丸の入口で連隊になってからは、この前後に連隊本部及び兵舎十数棟があった。佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和3年(1617年)完成以後延享3年(1746年)以来堀田氏の所領したものであるが、明治6年ごろ(1813年)建造物はすべて取りこわされた。同7年歩兵第2連隊がおかれた。後、明治42年第1師団歩兵第57連隊となり、以来昭和20年(1945年)8月15日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
 この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
 本連隊乃主力は、昭和11年乃2.26事件以来満洲に移駐し、同19年7月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年11月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と50日にわたり激戦し玉砕した。こ乃内第3大隊はグアム島において奮戦した。
 別に第57連隊を母胎として動員編成された歩兵第157連隊は、昭和12年9月より福井部隊(後に南部、赤松)として上海に上陸、大場鎮、杭州、廬山、修水、南昌、高安、江南の中支戦線において活躍し、又別に歩兵第212連隊は、山口(信)部隊として昭和14年4月より中国山東省、山西省において房総健児の勇名を輝かせた。
 このたび連隊関係有志相語らい、軍旗の下に祖国乃ため散華せられた方ゝ乃御めい福を祈り兵営跡が永久の平和公園としてよみがえる事を祈念し佐倉連隊乃いわれを伝えるものである。
 昭和41年10月吉祥日

皇太子殿下御野立所

明治44年5月21日

大将5年5月21日建設

ちかくに空堀

場所

https://goo.gl/maps/JCHfCL8VCDuxjxj19


車道の碑

車道の碑
大正9年建立。兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。

第1師団経理部員の名前が刻まれていた。
大正9年8月の銘あり。

場所

https://goo.gl/maps/JzzfBtg1UqF4wJEy7


旧佐倉連隊脂油庫

旧佐倉連隊脂油庫
旧陸軍(歩兵第五十七連隊等通称佐倉連隊)が小銃、機関銃等の手入れ用の油を保管していた倉庫です。
この倉庫は、昭和9(1934)年発行の「営内配置図」においてその存在を確認することができます。昭和20(1945)年の終戦まで使用されていたと推定されます。
佐倉連隊のうち歩兵第57連隊は、その一部が昭和19(1944)年8月にグアム島にて壊滅(玉砕)しました。また主隊は、同年11月のフィリピンレイテ戦でその大部分を失い、セブ島にて終戦を迎えました。
佐倉連隊の戦争遺構として大変貴重です。
※油脂庫ともいいますが、、「営内配置図」においては『脂油庫』と記載されております。

場所

https://goo.gl/maps/hWzbZwHMVHTx4TdW9


弾薬庫の跡

弾薬庫の跡
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にあった。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。

場所

https://goo.gl/maps/UK2ru9Xboejt5RTo6


姥が池

佐倉城址に古くある池。伝説も多く残っている。


訓練用の12階段

訓練用の12階段
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。

場所

https://goo.gl/maps/uYanydKxvTkJ4Uyx9


軍犬・軍馬の墓

軍犬・軍馬の墓
軍曹安藤一能が建てた軍犬房号之墓(昭和7年)、近衛歩兵第五連隊第二機銃隊が建てた軍馬北盤之墓(昭和18年)が並んで立つ。連隊の敷地内には、犬舎・鳩舎・厩舎がありました。

場所

https://goo.gl/maps/DHHZSfCMVinQWkLE6


佐倉陸軍病院跡

佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戍病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

場所

https://goo.gl/maps/eZ3zguDiqA1ijDf27


東京鎮台佐倉営所病院跡の碑
(東京鎮台佐倉営所病院記念碑)

明治・大正・昭和・平成の
 四世に亘る
  佐倉醫のこころ 
   茲に遺す 
    仁の心を腎に

病院・療養所の変遷
明治 7年 5月 
 東京鎮台佐倉営所病院として創設される
明治20年11月
 佐倉衛戍病院となる
昭和11年11月
 佐倉陸軍病院となる
昭和20年 8月
 軍事保護院佐倉病院となる
昭和20年12月
 国立佐倉病院となる
昭和25年 4月
 国立療養所佐倉病院となる
昭和28年 4月
 国立佐倉療養所となる
昭和52年 4月
 腎不全対策の基幹施設 
 腎移植センターとして機能付与される
昭和54年 4月
 国立佐倉病院となる
 江原台に移転する
平成16年 3月
 国立病院・療養所再編計画により
 国立千葉東病院に経営統合される

記念碑の建立に際して
 この地には、かつて病院が存在しておりました。当時の建物は、国立歴史民俗博物館の建設に伴いすべて解体され、元の敷地に残る樹木にのみ往時を偲ぶことができます。
 この病院は、戦前戦後の百年余りにわたり、国策や社会動向と密接不離に変転し続ける舞台となり、その軌跡は今も多くの人々の記憶に刻まれています。
 私たちは、佐倉城跡に連綿と息づいた病院の歴史を将来に語り継ぐ為、多くの方々のご支援をいただき記念碑を建立致しました。
 平成19年3月
  東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会建之

病院時代の往時を偲びし樹木。

場所

https://goo.gl/maps/E5uXPwtkyDFJxkFC9


佐倉城の礎石(兵舎の礎石)

あたりまえですが佐倉城の史跡もあります。

佐倉上の礎石
 昭和59、60年(1984、1985)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
 兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。
 佐倉上は、江戸時代初期の元和年間(1610年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(1873)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。

場所

https://goo.gl/maps/w2tKMjtfpZgwpCad8


兵士が文字を彫り込んだモッコク

兵士が文字を彫り込んだモッコク
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが掘られています。

あっ、わかりますね。

「昭十八年十月」「砲隊」って、いまでも刻んだ跡が残っています。

場所

https://goo.gl/maps/xoxBfQqQYisVqYsx6


佐倉城天守跡

場所:

https://goo.gl/maps/kEgemPL2LBB3X9g59


土塁

場所

https://goo.gl/maps/C9Coo6mMyDkNE1Gn7


兵営の便所跡

兵営の便所跡
雨天休憩所近くに土台のみが残る。江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

これは、良い感じに、残ってますね。

往時は、なかったであろう樹木も、戦後七十年以上ともなれば、コンクリートを破壊する根力でもって、存在感をアピール。

樹木の力って凄いなを実感。。

ここは、良いですね。写真を撮り続けてしまいます。

場所

https://goo.gl/maps/d2jRzP7Dkivfnp9L8


佐倉城馬出跡

場所

https://goo.gl/maps/hoabJzFtnN9LMrZz8


椎木曲輪(侍屋敷)【兵舎跡】

椎木曲輪(侍屋敷)
 歴博があるのは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区で、連隊時代は兵舎がありまいsた。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社がありました。


円勝寺跡・愛宕神社跡

円勝寺跡・愛宕神社跡
 円勝寺は城内にあった真言宗の寺院でしたが、明治の廃仏毀釈で消滅しました。奥には愛宕神社があり、田町の氏神でもありましたが、連隊建設後は立ち入りが禁止されたため、移転しました。

場所

https://goo.gl/maps/8x6kXFbi4VvpUCw39


衛兵所跡

衛兵所跡
 ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していました。

場所

https://goo.gl/maps/rRdXy23TxMVGNmBd6


田町門跡・愛宕坂

田町門跡・愛宕坂
 成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町から現ザウ歴博のある椎木曲輪へ上がる坂は、愛宕神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入りできるよう変更されたものです。

歴博正面

佐倉連隊跡&佐倉城址&歴博、これは面白い良いですよ。戦跡散策の入門編としてもおすすめ。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


関連

第二連隊は、水戸に。。。

佐倉界隈

第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事(2023年・練馬駐屯地一般公開その1)

令和5年(2023)4月9日(日曜日)
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

倉庫時代の往時を物語るものはない。。。
しかし、「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」は、「大日本帝国陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の伝統を受け継いでおり、一般公開の機会がありましたので、散策してきました。


練馬駐屯地

昭和5年(1930)、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が完成し、陸軍用地となる。
昭和18年(1943)、東武鉄道(東上線)の上板橋駅より陸軍第一造兵廠構内駅(東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫・練馬倉庫駅)まで線路もむずばれていた。(のちの啓志線)

戦後、昭和26年に警察予備隊が進駐し練馬駐屯地となり、保安隊を経て、昭和29年(1954)より、陸上自衛隊となる。
第1普通科連隊は、23区内唯一の普通科連隊。


歩兵第一聯隊軍旗

「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」に、受け継がれている、「旧陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の軍旗

歩兵第1聯隊軍旗経緯

主旨:本軍旗は、旧軍の軌跡を後世に残すため、歩一会が第1普通科連隊に管理を強く委託したもの。よって、連隊はこの意向を尊重し、経緯を理解して大切に直接保管しなければならない。

・明治7年 
日比谷操練場において明治天皇より軍旗を親授せられる。
・昭和20年
8月15日停戦に伴い全軍軍旗焼却命令があったが、片岡薫第1師団長が旗竿だけを焼き、御紋章と紫穂は裁断のうえ、多人数でお守り袋に偽装して持ち帰るよう命令した。
終戦に伴い、歩兵第1聯隊軍旗フィリピンセブ島から日本本土帰着
・時期不明
歩兵第1聯隊関係者により構成された後の「歩一会」のそれぞれの聯隊員により継ぎ合わされて3旒(本来1旒としたかった。)となったものの戦後の混乱や交通事情等から各々の考えで乃木神社(安川氏等が保管依頼)、練馬駐屯地資料館及び靖國神社に3箇所に別れて保管された。
・昭和32年
4月28日の築地本願寺での「全国戦没者慰霊大祭」挙行されたおりに歩兵第1聯隊出身者約700名が集結、当日「歩一会」結成を全員一致で決議、事後「歩一会」として活動を開始し、毎年5月の総会及び12月の軍旗祭(乃木神社保管の1旒を借り出し、練馬駐屯地保管の1旒と併せて聯隊機を一つとして飾り、物故した創立以来の亡き戦友の慰霊と会員の親睦の会合)を開催、第1普通科連隊と関係を深めていく。(歩一会は、永代、歩兵1聯隊軍旗を第1普通科連隊に保管してもらいたいとの意向を徐々に強くしていた。
・平成22年
3月、戦史に関心のあった中川師団長OBの寺島氏と懇談したのを契機として歩兵1聯隊軍旗の1本化が語られ、6月14日歩一会の安川氏のご尽力により乃木神社で保管されていた歩兵第1聯隊軍旗が第1普通科連隊室に移管された、なお、歩一会の意向として軍旗を1つにしたいとの意向から靖國神社に保管されている分旗もと調整したものの登記しているため不可能と断られた。
・平成23年
頭号連隊顕彰室新設に伴い、一時的に練馬駐屯地資料館で保管されていた軍旗及び第1普通科連隊室で保管されていた軍旗が1つになり頭号連隊顕彰室で保管展示されることとなった。
・令和3年
平成30年、一時的に練馬駐屯地資料館で展示されることとなったが、70周年を控え、舞台の帰属意識を高めて団結を強化するため、大庭師団長の許可を得て、再び第1普通科連隊が保管することになった。なお、安川氏に確認したところ、平成22年当時、歩一会の総意として第1普通科連隊が軍旗を直接管理することを強く要望している由。

歩兵第一聯隊軍旗記
歩兵第一聯隊軍旗は、明治7年12月19日日比谷操練場特設式場において、親しく臨御せられたる 明治天皇より 初代聯隊長 長谷川好道中佐に親授せられたるものなり。
爾来、日清・日露両役をはじめ、日支事変、大東亜戦争等、累次の国難に當り、常に陣頭に立ち誉高き武勲の象徴なりしが、昭和20年8月15日、フィリピン セブ島 アンガラン河畔において、聯隊とその運命を倶にす。
奉焼に際し、御紋章・紫房・鐓・旗竿覆金属片及び残灰を招聘に分ち、ひそかに故国に奉持して奉還せんとす。然るに時に利なく戦争は敗北に終る。幸に任に當れる将兵身を以て軍旗の残片を奉持し辛苦を重ねてそれぞれ故国に皈還するを得たり。
時巳に国家の諸制度革り軍旗を奉還するに由なく、しかもその所在久しく不明なりしが、最近に至り判明せるを以て、宮内庁保管分を中心に可能の限り復元して、在りし日の軍旗を偲ばんとす。
 昭和47年12月19日
  平野斗作撰文
尚軍旗残片の一部は靖國神社及び乃木神社に奉安しあり

練馬駐屯地資料館で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗

乃木神社で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗


練馬駐屯地内の慰霊碑

慰霊碑エリアは、西門近くに集められている。

合掌

歩兵第1連隊の追悼碑である「明治二十七・八年の役 陣歿者追悼の碑」と「忠勇八士の碑」が練馬駐屯地内にある。
これは、戦後、神奈川県溝の口にあった歩兵第1聯隊留守担当部隊跡に放置されていたものを、1965年(昭和40年)にこれを見かねた歩兵第1連隊を母体とする「歩1会」が第1普通科連隊に要請し、練馬駐屯地へ両石碑を移設したものである。

歩兵第一聯隊の留守部隊が、歩兵第101聯隊として改編され、そして東部62部隊として川崎宮崎台に駐留していた。
宮崎台の戦跡は以下。

明治三十七・八年之役陣歿者追悼碑 忠勇八士の碑 由来

 この両碑は、旧陸軍第一師団歩兵第一聯隊の営庭にありました。同聯隊は明治6年5月、赤坂区桧町(現在の防衛庁所在地)に創設され、昭和11年5月満州へ移駐、昭和19年10月から比島レイテ島作戦に参戦中終戦となり74年の歴史を閉じました。
 終戦と共にこの両碑は神奈川県溝ノ口の歩一留守業務担当部隊跡の畑地に放置されており、聯隊の戦友会である歩一会はこれを見るに忍びず、第一普通科連隊御当局(森山高士一佐)に、頭号部隊の誼をもつて両碑の同隊構内への移設を懇請致しましたところ、ご承諾を得て一切の作業力御提供のもとに完了し昭和40年12月26日落成式を挙行することが出来ました。殉国勇士の慰霊碑が安住の地を得ましたことはえに連隊御当局の御厚志の賜であり深く感謝の意を表するものであります。
 ここに由来を記して後年に留める次第であります。
  昭和59年12月19日
   歩一会
    会長 横田 洋

明治二十七・八年之役陣歿者追悼碑

明治二十七・八年の日清戦争で殉職した126名を追悼

明治二十七八年之役陣歿者追悼碑
 陸軍中将従三位勲一等功三級子爵 山地元治 書

忠勇八士の碑

歩兵第1連隊による富士演習の日射病で殉職した8名を慰霊。

生気放光

扁額は、陸軍大臣陸軍中将の 荒木 貞夫 の謹書

忠勇八士之碑

忠勇八士之碑は、陸軍歩兵大佐 渡 久雄 の謹書

渡 久雄 は、1932年(昭和7年)8月から33年7月まで、第26代目の歩兵第一聯隊長であった。ちなみに前後で、24代は東條英機、27代目は本間雅晴、29代目は牛島満であった。

(8柱 指名略)
右者昭和8年7月2日富士裾野ニ於ケル歩兵第一旅団諸兵連合演習ニ参加シ苦熱ヲ冒シテ任務ニ邁進シ遂ニ軍旗ノ下ニ斃ル茲ニ遺烈ヲ後世ニ傳へテ鑑ト為ス
 昭和8年7月30日建之
  歩兵第一聯隊将兵一同

馬魂

軍馬慰霊碑

殉職隊員 留魂の碑

陸上自衛隊殉職隊員を追悼する慰霊碑

そのほか石碑

戦後の陸自関係の記念碑など。


広報史料館

基地公開日の楽しみの一つが、各駐屯地にある史料館の見学。

安倍さんの国葬儀の写真も掲載されていました。

レイテ島遺品

乃木希典大将の遺品

乃木希典は、陸自第一普通科連隊の前身である「歩兵第一聯隊」の2代目聯隊長であった。

乃木希典が使用した湯呑み

水師営でステッセル将軍と会見したした際に、使用された湯呑み。これは、歴史の一幕を物語る貴重なもの。

歴代の第一師団長と、歩兵第一聯隊長

三十八年式歩兵銃

よね山丸の遺留品
日露戦争の第二次旅順港閉塞作戦で閉塞隊輸送船として出撃。

この手の史料館によくある、軍服コーナーだなと思ったら、、、
由緒のある軍服が混じってまして、びっくり。

陸軍大将 山下奉文 外套

陸軍大将 東條英機 国民服

99式短小銃と38式歩兵銃

啓志線の車輪

啓志線の車輪・線路
昭和十八年、上板橋~東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫(練馬駐屯地間)が開通した。
当時は、現在の練馬駐屯地内練風館付近に積み下ろしの駅が存在しており、戦後は光が丘に米軍が進駐し、住宅(グランドハイツ)として利用されたのを機に啓志線は、光が丘まで延長、気動車も運行し、昭和34年に廃止された。
展示してあるこの車輪と線路は、当時練馬駐屯地内で入れ替え作業をしていたトロッコに使用されていたもので、グランドハイツ延長とともに撤去された。
軌道の幅は、60mmで、一般的には軽便鉄道の幅と同じで、急なカーブにも対応できた。隊舎改修の際、練馬駐屯地において偶然発見され展示された。


歩哨舎・連隊門哨所
(警察予備隊普通科第一連隊)

練馬駐屯地の外、西門にある歩哨舎。警察予備隊時代から約20年間は、この場所が正門であった。
一瞬、戦前からの歩哨舎に勘違いしたが、これは昭和26年竣工の先gのの歩哨舎。

連隊門哨所のいわれ
 第一普通科連隊の前身「警察予備隊普通科第一連隊」は、昭和26年9月28日に久里浜駐屯地から練馬駐屯地に移駐した。
 この哨所は、移駐から約2ヶ月後の昭和26年11月15日に竣工して以来、昭和46年11月にこの連隊門(西門)が閉門するまでの約20年間、駐屯地警備に使用された。

歩哨舎を冊得していたら、西門からは、星2つの車が続々と3台続けて出発して行きました。
陸将補クラスかな。

陸自関連の練馬駐屯地の写真は、「その2」にて

※撮影:2023年4月


関連

歩兵第一聯隊碑(歩一の跡碑)は、港区立桧町公園にある。

東京第一陸軍造兵廠の本廠は十条にあった。

「空自・熊谷基地さくら祭」熊谷陸軍飛行学校跡地散策

令和5年(2023年)4月2日。
熊谷市の航空自衛隊熊谷基地(航空自衛隊第4術科学校)にて、「令和5年度 熊谷基地さくら祭」が開催されましたので、足を運んでみました。
かつての熊谷陸軍飛行学校跡地、です。


熊谷陸軍飛行学校
(三尻飛行場・熊谷飛行場・稜威ケ原飛行場)

昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。
翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。
主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
昭和13年10月に昭和天皇行幸。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校の跡地は1945年九月に進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され米軍キャンプ「U.S.ARMY CAMP WHITTINGTON」として使用。昭和33年(1958)返還され、同年8月より「航空自衛隊熊谷基地」となっている。

熊谷陸軍飛行学校に関しては、航空自衛隊熊谷基地の記事も参照で。

https://www.mod.go.jp/asdf/kumagaya/Base_tour.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-78
1947年11月3日、米軍撮影の航空写真を加工。

庁舎や格納庫のあったエリアを拡大。

黄丸が陛下行幸の御野立所があった「御稜威ヶ原の碑」
赤丸が「給水塔」

GoogleMapで現在の航空写真と照合。
格納庫の位置関係もよく分かる。


御稜威ヶ原の碑(みいづがはら)

昭和13年10月10日(月)
天皇陛下が熊谷陸軍飛行学校に行幸され教育状況を御覧になられた。
学校長である江橋陸軍中将は、この日を記念して、この地を「御稜威ケ原(みいづがはら)」と命名して、記念碑を中央格納庫と第二格納庫の間の中央道路の真中(御野立所となった場所)に設置した。

御稜威ヶ原
 昭和13年10月10日
 御臨幸記念
 
  さしつけに
   仰ぎまつれる
大御稜威 
 伝えてはげめ 
  空の益良雄

熊谷陸軍飛行学校長陸軍中将
従四位勲二等功五級 江橋英二郎 選書

中央道路の真ん中に。

御稜威ヶ原の碑
昭和13年10月
昭和天皇の行幸を記念し、御野立所となった場所に建立

昭和初期まで、現在の基地及びその一帯は赤松・くぬぎ等の樹木が生い茂る森林であったが、昭和10年2月に突如として陸軍の飛行場が建設されることとなり、その秋までに森林は伐採され飛行場に変わった。飛行場としての工事も完了に近い昭和13年10月10日天皇陛下が行幸され、平の訓練状況や高等飛行などを観閲された。時の熊谷陸軍飛行学校長江橋英二郎中将は、この感激を後世に伝えようと「さしつけに 仰ぎまつれる 大御稜威 伝えてはげめ空の益良雄」と歌い、当時の飛行場を「御稜威ヶ原」と名付けた。行幸の際、御野立所となった地点に建てられた江橋中将自筆のこの碑は、今なお当時を偲ぶよすがとなっている。

現代略:直接に見申し上げた天皇陛下の御威光を、皆に伝えては空の勇者たちよ


方位盤

当時のものと思われる方位盤。

かすれていて、細かくは不明であるが、方位盤とおもわれる。


荒鷲之碑

昭和50年5月、航空自衛隊熊谷基地内に、荒鷲の慰霊碑が建立された。揮毫は、菅原道大。

荒鷲之碑
菅原道大書

昭和50年5月建立

由来
昭和十年この地に熊谷陸軍飛行学校が誕生した。爾来、万を数える若鷲が巣立っていった。戦いの場は遠く洋の南北に拡がり勇士は荒鷲となり愛機と共に生死し昭和二十年歴史を閉じた。散華した荒鷲の霊を慰め勲を顕彰し事実を後世に永く伝える為、残りし者、相集って、この碑を建てる。
 昭和50年5月5日

由来碑
昭和33年8月航空自衛隊熊谷基地発足以来任務遂行中殉職され基地発展の礎となった自衛隊員を慰霊するため「荒鷲の碑」を奉祀し永くその栄誉を伝承するものである

平成12年4月8日
航空自衛隊熊谷基地司令 空将補 原充男

熊谷陸軍飛行学校
荒鷲之碑奉賛会
平成11年3月建之

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

関連では、熊谷陸軍飛行学校のほか、下志津陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校の跡地に、菅原道大の碑がある。


給水塔

推測の域を出ないが、かもし出す雰囲気からして往時のものと思われる給水塔。前述の位置関係の航空写真でも照合したが、場所も適合している。近寄れないので望遠で。

給水塔の手前は、「基地補給倉庫」。


格納庫跡

かまぼこ型の格納庫のような建屋がある。手前は「武道場」、そして格納庫型の「基地体育館」と「基地補給倉庫」。位置関係は、熊谷陸軍飛行学校時代と同じ場所。
ここだけ切り取ると飛行場な雰囲気。


教育参考館

熊谷陸軍飛行学校や航空自衛隊航空生徒隊の資料を展示。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の玄関扉

本部庁舎で実際に使用されていた玄関扉が、移設保存されている。

 この扉は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎玄関で使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するため、当施設に移設し保存しました。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段

おなじく、熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段の一部が移設保存されている。

 この階段は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎の中央階段として使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するために、当場所に下側3段部分を移設し保存しました。
 基地司令室が2階にあったため、赤絨毯が敷かれていました。
 昭和13年10月昭和天皇が行幸された際、この階段を登られた由緒ある階段です。
 木材:ケヤキ材使用


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の一部

とくに説明はなかったが、取り壊しの旧庁舎の一部かと。


熊谷基地展示エリア

旧軍資料

通信機材など。

戦争末期のドラム缶。竹製、、、ですね。

図書館戦争コーナー?


公募空士第1期生入隊20周年記念

歴代航空幕僚長の名前もある。

この寄せ書きは、公募空士第1期生の20周年を祝って書かれたものです。
寄せ書きには、歴代の航空幕僚長「源田実元空将」「白河春元元空将」「角田義隆元空将」の名前があります。

源田実
帝国海軍では、海兵52期を卒業し最終階級は海軍大佐、航空参謀を経て、松山の第343海軍航空隊司令で終戦を迎える。
空自では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長、ブルーインパルス創設、航空自衛隊育ての親。また、参議院議員を4期24年努めている。

白川元春
白川義則の三男。白川義則は、上海天長節爆弾事件で死去。
白川元春は陸士51期、陸大58期卒。最終階級は陸軍少佐。
航空自衛隊では第11台航空幕僚長

角田義隆
帝国海軍では海軍機関学校卒。最終階級は海軍大尉。
航空自衛隊では、第12代航空幕僚長。
海軍機関学校出身者が大将(幕僚長たる将)に相当する地位まで昇進したのは、帝国海軍・自衛隊を通じて角田が唯一の事例となる。


生徒隊展示エリア

航空自衛隊生徒隊の展示エリア。2006年に募集が停止され、2011年に生徒隊は廃止となっている。
虚空自衛隊航空教育隊生徒隊で採用時は、3等空士となり4年間の教育修了後は3等空曹として、通信、レーダー操作及び整備などに補職されたという。


航空自衛隊生徒隊創立50周年記念モニュメント

負けじ魂

流れも清き大利根の
 岸辺に緑の色染めし
練武の庭に都度至る
 若人の任いや重し
  誇りに満てり
   航空生徒隊

このモニュメントは生徒隊創立50周年記念を機に教育環境整備の一環として、第8航空団からF-1垂直尾翼を譲り受け、表面は生徒隊歌詩を裏面は第8航空団(築城)第6飛行隊のマーク等を遺して、第4術科学校の支援を得て建立したものである。
なお、表面のデザインは生徒隊生活4年間で培った「負けじ魂」に代表される不撓不屈の精神を持って巣立っていく生徒の翼をイメージしてデザインしたものである。
 平成17年5月吉日


熊谷基地 友縁の酒「空の華」

基地内の売店にて購入(熊谷基地厚生棟ミニストップ熊谷基地店)

空の華
ソラノハナ 
勲業赫々 輝萬國
埼玉縣大里郡三ヶ尻
権田酒造店吟醸

赤とんぼ

空の華
 昭和10年、熊谷陸軍飛行学校が当地に創立されたことを記念して発売した「空の華」を平成14年秋、約60年ぶりに復刻させて頂きました。
 熊谷の研究所で開発された酵母で醸し、熊谷の水と大気の中で育んだ熊谷基地の地酒です。
 上質の旨味を湛えた柔らかな香味、冷やしても温めても美味しくお召し上がり頂けます。


熊谷基地さくら祭

令和5年(2023)は、4月2日の公開でした。

以下は、さくら祭の写真を。

熊谷基地庁舎。平成15年(2003)新設。

桜並木が気持ち良い。

桜とトラック

熊谷基地には、「第1移動通信隊」が所在している。

御稜威フィールド

現在、航空自衛隊熊谷基地には、滑走路はない。
運動場にヘリが着陸することは可能。

草刈り機。パイロット座乗。

来年もおいでをお待ちしています

なかなか楽しめました熊谷基地。
熊谷陸軍飛行学校の名残もあり、興味ある方はこれは必見ですね。

※2023年4月撮影


熊谷関連

陸軍飛行学校関連

銚子の戦跡散策

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その2・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

なお、本編は「その2」となります。

歴史的な説明は「その1」で。

また、下記も参照で。


予科練平和記念館

土浦駐屯地のとなりに「予科練平和祈念館」がある。

http://www.yokaren-heiwa.jp/

買い物など


予科練の碑(予科練之碑)

土浦武器学校内の雄翔園に。

予科練出身者の同窓生が全予科練戦没者の遺徳を顕彰するため、昭和41年5月27日に建立。

予科練之碑

題字は寺岡謹平。海軍中将。

高松宮妃電化御歌
霞ヶ浦に立ちて海軍飛行
予科練習生を偲びてよめる

海はらに
 はたおほそらに
  散華せし
きみら声なく
 いく春やへし
      喜久子

昭和41年5月27日、この御歌は、高松宮喜久子妃殿下のご直筆。

碑文
 予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ヶ浦の湖畔に移った。
 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね太平洋戦争においては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或いは航空母艦から或いは潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
 創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一辺の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛ために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を建つ。
昭和41年5月27日
 海軍飛行予科練練習生出身生存者一同
 撰文 海軍教授 倉町秋次

雄翔園・雄翔館(予科練記念館)

こちらは陸自土浦駐屯地武器学校内に開設。
予科練平和記念館開館時に見学可能。

http://www.yokaren-heiwa.jp/04guide/04yusyokan.html

今回は、土浦駐屯地開放日だったので、それはそれで問題なく開放。


旧海軍道路桜並木

「海軍道路」 茨城県下で初めての舗装道路。
1921年(大正10)開通。
当時「東洋一」と称された霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班(のち鹿島空に移設し土浦空が開設)をむすんだ道路。

旧海軍道路桜並木
この坂道は、昔「海軍道路」と呼ばれ、茨城県下ではじめて舗装された道路です。
1921年(大正10年)に開かれて、当時「東洋一」の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班を結ぶもので、見事な桜並木で知られていました。
 現在残っている三本は、予科練※揺籃の地である土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊土浦武器学校)で訓練にはげむ多くの予科練生たちを見守り、1945年(昭和20年)6月10日の阿見空襲にも耐えた桜です。

現在残っている三本の桜は土浦空で励む予科練生達を見守り1945年6月10日の阿見空襲にも耐えた桜。
ちょうど桜咲く季節に訪問。

海軍用地の境界標石。

https://goo.gl/maps/xhJKsb2EaJRJGEua7

場所

https://goo.gl/maps/UEmVQR16HtL1zot18


続きは「その3」で。

※2023年4月1日撮影

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その1・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

まずは、海軍編その1として、海軍関連を中心に紹介をしていきます。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立。
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。

土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:USA-R401-No1-3
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

土浦海軍航空隊の跡地。

現在の航空写真。


陸上自衛隊土浦駐屯地

陸上自衛隊武器学校等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。
駐屯地司令は、武器学校長が兼務。
陸上自衛隊で使用される装備の教育用装備や車両が配備。また展示場が設けられており、旧日本陸軍の戦車や戦後の米軍からの貸与車両、国内での開発車両、試作車などが多く展示されている。


旧土浦海軍航空隊正門

現在は、新しい門柱となっている。
それでは、土浦駐屯地内の戦跡散策を実施しましょう。

駐屯地配置図。


旧土浦海軍航空隊医務科第一病棟(病舎)

昭和15年の開隊時に医療施設として建設された建物。
元々は4棟あった。
南側の第三・第四病棟は空襲で焼失。
第二病棟、北側の渡り廊下と附属建物(便所)は戦後に取り壊しされ、「第一病棟」のみが現存している。
手前のトタン板で覆われている部分は旧手術室。

この部分に、渡り廊下があった。

病舎前。土浦海軍航空隊時代も、円形のロータリーがあった。


広報史料館

土浦海軍航空隊関連から土浦駐屯地、武器学校時代までの歴史を紹介。

駐屯地紹介コーナー

予科練第三兵舎解体記念

5/1模型。第一海軍航空廠では約600機が生産された。
元第一海軍航空廠飛行機部で勤務されていた方が奉納。

旧海軍時代から使用されていた燃料タンクの一部


弾薬展示コーナー

小火器コーナー

九八式射爆照準器

覗いてみる。おもしろい。

95式射爆照準器

こっちも覗いてみた。おもしろい。

豊川海軍工廠製の機銃銃架三脚架

一式旋回機銃二連(航空機銃)

旧軍関連の小火器

対空機銃、旋回機銃、航空機固定機銃

砲隊鏡

拳銃

指揮刀


初代・山本五十六元帥像の左手

昭和一八年にコンクリート製の山本五十六元帥像(初代像)が土浦海軍航空隊本部前に建立された。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。そして下半身や左手などがは平成14年に発掘。
平成16年に、雄翔館前に、2代目山本五十六元帥像が復元され、礎石として下半身は砕いて埋められ、そして左手は、現存し、展示されている。

ちょっと話題を寄り道して。
2代目山本五十六元帥像

雄翔館前の二代目・山本五十六元帥像

桜賑わう霞ヶ浦湖畔。

この角度は、普段はみれない。(土浦駐屯地側から)
空母を模している雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)。
その2でも記載予定。

土浦駐屯地内に戻ります。


行幸記念

(表)
行幸記念

(裏)
昭和17年7月15日
奉仰聖籠
海軍中将戸塚道太郎謹書

戸塚道太郎は、昭和16年4月から第11海軍連合航空隊司令官。
横須賀鎮守府第11連合航空隊が、土浦海軍航空隊であった。

天皇行幸記念の碑
 この碑は、昭和17年7月13日、昭和天皇が霞ヶ浦海軍航空隊及び土浦海軍航空隊に行幸され、予科練習生が実施する海軍体操等を視察されたのを記念して建立(昭和18年1月28日)されました。
 石碑には、昭和20年6月10日の空襲で受けた機銃の跡が残っています。

機銃の跡。

土浦海軍航空隊時代の本庁は解体されたが、現在は土浦駐屯地本部庁舎が、行幸記念碑の後方に同じように建っている。


旧土浦海軍航空隊号令台

号令台跡
 この建物は、昭和15年、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部が土浦海軍航空隊として独立、開隊した時に、軍艦掲揚塔と共に建設された。
 毎朝、航空隊司令以下全員が、この号令台前に集い、朝礼や海軍体操が行われた。
 また、休日には外出する予科練習生が全員集合し、当直将校の外出点検や指導を受けたり、司令訓辞が行われた場所である。

号令台の上から。


常在戦場の碑

山本五十六の常在戦場

常在戦場
昭和十年四月 山本五十六

昭和十九年九月
第十三期二次甲種飛行豫科練習生建之

 この碑文は、昭和14年4月、山本五十六元帥(当時中将)によって揮毫されたものであるが、昭和18年4月18日ソロモン群島ブーゲンビル島上空において戦死された際、元帥の遺徳を偲び同年9月、当時土浦海軍航空隊司令であった森啓吉大佐により、土浦海軍航空隊神社境内に石碑として建立されやものである。
 この台座には、元々、昭和18年12月に建立された元帥の銅像が安置されていたが、終戦直後、像が汚されることを恐れた予科練習生達の手により胸部と下部に2分され、霞ヶ浦の湖底に沈められた。昭和23年、地元有志により胸部が引揚げられ、一旦元帥の出生地である長岡市に移管された後、昭和45年、江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館に寄贈、安置されている。
 昭和30年、主のいないまま放置されていた台座に「常在戦場の碑」が移築され、現在に至っている。

台座は、もともと山も五十六元帥像が立っていた。


皇太子殿下行啓記念碑

皇太子殿下行啓記念の五葉松
 この五葉松は、昭和18年6月1日、平成の天皇陛下が皇太子の時、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊に行啓された際、予科練習生達の錬成ぶりをご覧遊されたことを記念して植樹(昭和18年6月1日)されました。


本庁跡(土浦駐屯地本部庁舎)と「雄飛の松」

土浦海軍航空隊時代の本庁は、解体。
現在は土浦駐屯地本部庁舎が、往時の土浦海軍航空隊本庁を模すようにして、同じように建っている。

2代目「雄飛の松」が本部庁舎前に植えられている。

「雄飛の松」由来記
 霞ヶ浦の波静かに寄せるこの地に、大正9年霞ヶ浦海軍航空隊水上機班が誕生、その後土浦海軍航空隊となり七つ釦の予科練習生育成の地となった。
 初代「雄飛の松」は、皇紀2600年を記念して昭和15年12月22日、新治郡関川村の名主から譲り受けた名木を筏をもって霞ヶ浦を渡し、困難な作業の末、当地に移植され、後日、当時の航空隊副長であった成富武光中佐が「雄飛の松」と名付け、海の若鷲達の象徴として愛された。
 戦後は陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)のシンボルとしてその勇姿を誇っていたが、平成5年頃より樹勢が頓に衰え、翌平成6年4月22日、名残を惜しまれつつ伐採され、推定樹齢130余年の生涯を閉じた。
 伐採後調査したところ、昭和20年6月10日の空襲時に被弾し、折切した上部枝の付根部分から腐食がはじまり根元の部分に至るまで、幹の中心部が侵食され完全に空洞化していた。「雄飛の松」もまた、戦争の尊い犠牲であったと云える。
 2代目「雄飛の松」は、昭和18年頃、かっての霞ヶ浦海軍航空隊本部前に構築された防空壕を偽装するため旧海軍の人達により植樹された樹木の1本であるが、幸いにも戦火を免れ、戦後は他所に移植され、専門の剪定師により大切に管理されてきたものを譲り受け、当地に移植したものである。
 平成7年2月22日

昭和20年6月10日の空襲で被弾した折損部分から腐食がはじまり、空洞化してしまった雄飛の松です。
(推定樹齢 約130年)

2代目「雄飛の松」


旧土浦海軍航空隊裏門跡

かつての裏門のあたり。いまも裏門ですね。

そのまま歩けば、雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)と予科練平和記念館との間に到着。

この日は、土浦駐屯地と直結するために、手荷物検査のゲートが設置。


霞ヶ浦

土浦駐屯地からみる、霞ヶ浦。
水上機が飛翔した場所。
湖畔は立入禁止でした。


旧土浦海軍航空隊スロープ跡

武器学校開設記念の公開日に撮影(2023年11月)


正門前の「海軍用地」境界標石

別日に撮影(2023年11月)。正門前の道路脇に。


雄翔園そのほか海軍系は、その2で。

旧軍戦車と火砲は、その3で、

陸自の戦車は、その4で。

※2023年4月1日撮影