「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」部分移設で保存となった観客席(取り壊し後)

2021年末、多摩川河川敷に開設された日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」観客席跡が取り壊しとなった。

当初は、全面的な解体が予定されていたが、観客席の保存活動を行っていた任意団体「多摩川スピードウェイの会」の尽力により、ほんの一部であるが、移築保存となった。

そうして、2022年7月に、3席分(幅約3.3m)の観客席(座面)と、2016年に設置した80周年記念プレートを移設し、2022年に新設された観客席について説明したプレートを追加し、往年の「多摩川スピードウェイ」を物語ることとなった。

「多摩川スピードウェイの会」

https://www.facebook.com/TamagawaSpeedwaySociety/

移設された観客席とプレートは堤防の上にある。


取り壊し前の「多摩川スピードウェイ」

取り壊し前の風景などは、以下の記事にて。


「観客席について」プレート

2022年7月に治水対策に伴う堤防強化工事が完了し、そして観客席の一部が移築保存された。階段状での移築は認められず、観客席のコンクリートの1段だけの移築。それでもここに、日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」があったということをなんらかの形あるもので伝承する大変貴重な遺構。
「多摩川スピードウェイの会」の皆さまのご尽力に頭が下がる。

実は、私もほんのささやかではございますが、縁があり。
「多摩川スピードウェイの会」にて、新しいプレートを作成するに当たり、写真の提供を行っておりました。

東急線車内から撮影されたこのアングルは、取り壊し寸前まで原型を保っていた観客席の拡がりや堤防と一体化した物量感を存分に表現しており、他にはない素晴らしい1枚です。

多摩川スピードウェイの会様のメールより

ありがとうございます。

写真提供後、忙しくなりメールを見逃してしまい、お披露目式のご連絡などもいただいておりましたが、参加すること叶わずとなってしまい、プレートを確認させていただいたのが9月になってしました。失礼しました。
この場を借りて、改めてではございますが、多摩川スピードウェイの活動に、ご協力できましたこと感謝しております。
ここに日本初の常設サーキットがあった!ということを、移築保存なった観客席とともに、ささやかであれども、長く後世に伝承していくことを、当記事でも引き続き協力させていただきます。

ありがとうございました。

プレートには特殊な顔料をタイルに焼成したもの、という。
下記は、「多摩川スピードウェイの会」より、いただいた写真より。

観客席について
1936年の開場時には、楕円形コースとあわせて長さ300mの階段状のコンクリート製観客席が堤防上に建設されました。コンクリート部分の厚みは、最大で30cm近くありました。
2016年に当会は、多摩川スピードウェイ跡地保存のシンボルとして、竣工当時のまま現存していた観客席に「開場80周年記念プレート」を設置し、川崎市に寄贈しました。
しかし、2021年に治水対策に伴う堤防強化工事により観客席は取り壊され、3席分のみをここに移設しています。
この観客席を、日本の自動差産業発展の礎としてだけでなく、85年以上にわたりこの地に存在した産業遺産・史跡として後世に伝えるべく、この碑に記します。
 寄贈:多摩川スピードウェイの会 2022年3月

2021年取り壊し前

2022年、取り壊し後


取り壊し後の「多摩川スピードウェイ」

以下、現地写真など。

多摩川スピードウェイ
多摩川スピードウェイは、日本初の常設サーキットとしてこの地に建設されました。階段状のコンクリート製堤防は、当時の観客席そのものです。
1936年6月の第1回大会以降、ここで第2次世界大戦前の数年間を中心に自動車・オートバイのレースが開催され、3万人の観客を集めていました。
若き日の本田宗一郎氏をはじめ、出場者・関係者の多くは、レースで得た技術・経験を活かし、戦後の自動車産業の発展において中心的な役割を果たしました。
開場80周年を機に、多摩川スピードウェイが果たした役割と、先人たちの功績を後世に語り継ぐべく、この碑に記します。
 寄贈 多摩川スピードウェイの会 2016年5月

は観客席の椅子を固定するものであった。

いたって、普通の堤防になってしまいました。。。

東急線の車窓から。

※撮影:2022年9月

「勿来の風船爆弾打ち上げ基地」跡地散策(福島県いわき市)

東京と仙台の中間地点にある「勿来」。
古来、この地には「勿来の関」が設置され、白河の関と並んで、関東と東北の境目であった。
太平洋戦争中、ちょうど「勿来の関」を挟んで南北に、「風船爆弾」の放球基地が設置された。
北は勿来で、南は大津港。
南の「大津港の放球基地跡」は、以前に取り上げていました。

一宮の放球基地跡は以下で。

今回は、北側の「勿来の放球基地跡」を散策してみます。


風船爆弾(ふ号)

太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した爆撃兵器。
日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図。
「風船爆弾」は、戦後の名称。当時の呼称は「気球爆弾」であり、防諜符号として「ふ号」「風船」などと呼称されていた。

千葉の気球聯隊が母体となり、ふ号差苦戦気球聯隊が編成され、連隊本部と第1大隊が茨城県大津、第2大隊が千葉一宮、第3大隊が福島勿来であった。
発射基地(放球基地)も、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の各海岸に設けられ、昭和19年11月から昭和20年3月までのあいだに、約9300発が放球されたという。
9300発のうち、アメリカ本土到達が300発前後。
1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

実戦に用いられた兵器として、約7,700 km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃。
また、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器であった。

風船爆弾は、登戸研究所第一科で開発されたものであった。
明治大学生田キャンパス内の「明治大学平和教育登戸研究所資料館」には、風船爆弾の復元展示や気球紙の作り方の説明などもある。

こちらは、江戸東京博物館に展示の風船爆弾復元模型。
気球部分を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して復元。

風船爆弾(復元模型)
縮尺:気球部:約約1/5、ゴンドラ部分:約1/2
 風船爆弾は、日本軍がアメリカ本土の攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で貼りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器である。陸軍によって秘密裡に開発されたこの兵器は、軍の施設のほかに、日本劇場や東京宝塚劇場、国技館といった大きな空間を持つ施設で製造された。製造にあたっては、学徒勤労動員によって集められた女学校の生徒たちが多数従事した。完成した風船爆弾は、太平洋沿岸の千葉県の一宮や茨城県の大津、福島県の勿来にあった各打ち上げ基地より、1944年(昭和19)11月から翌年4月にかけて9,000個あまりが打ち上げられた。そのうち300個弱がアメリカ大陸に到達し、オレゴン州では6人が犠牲になったという。
 この模型は、実物を保管しているアメリカ・ワシントンの国立航空宇宙博物館が作成した報告書などをもとに、気球部を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して制作した。
※江戸東京博物館展示資料より


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M205-A-7-143
昭和21年(1946年)7月24日、米軍撮影の航空写真。

拡大。

案内開設看板の地図を反転して比較。


「風船爆弾勿来基地」の跡地散策

JR勿来駅から風船爆弾の放球基地=勿来基地があった場所を眺める。
左側の山に「放球監視所」があり、放球基地は三方を山に囲まれた谷戸にあった。

常磐線。


風船爆弾勿来基地引込線の橋台跡

小さな小川をまたぐために、橋が設けられていた。引込線の橋台だけが、残っている。線路は複線だったのだろうか。2対の橋台がある。

駅側の内陸の橋台。

駅側の海寄りの橋台。

勿来基地側の内陸の橋台

勿来基地側の海寄りの橋台。

物理的には、この2対の引込線の橋台が、風船爆弾勿来基地を物語る唯一の戦跡かもしれない。

場所

https://goo.gl/maps/ejerQX7cFxNoKAwN7


勿来基地の引き込み線跡

山裾を引込線が曳かれていたと思われるが、特に何も残っていない。


風船爆弾勿来基地跡

風船爆弾基地図として、勿来基地跡図と、風船爆弾全体図の案内板が立っている。

隣にある石碑は、勿来基地とは関係ない歌碑であった。
山口茂吉の歌碑。斎藤茂吉の弟子。山口茂吉の妻である恭代子が少女時代にいわき植田で過ごしていた縁からの歌碑。

何度見渡しても、この看板以外に、風船爆弾を物語るものはありません。

風船爆弾勿来基地の衛兵所跡

さきに進んで見る。
右側に衛兵所があった。

風船爆弾勿来基地の本部跡

本部跡があったと思われる空間。なにもない。

ソーラーパネルがある。

風船爆弾勿来基地の兵舎跡

兵舎跡があったと思われる場所も何もない。

トンネルとかバイパスとか新しい道路が建築中。
これでますます風船爆弾勿来基地を物語る雰囲気は消失していくのかな。。。

風船爆弾勿来基地の放球台跡

放球台があったと思われる場所。

ソーラパネル、、、

風船爆弾勿来基地の引込線ホーム跡

道路の右手に線路があった、はず。

薮しかない、、、

道路を先に進めば、勿来の関。

風船爆弾勿来基地の火薬庫跡

道路の左側の高台に火薬庫があった、らしい。

うーん、なにもないですね。
この先の勿来関に行く時間的な余裕はないので、とぼとぼと勿来駅まで戻ります。。。


勿来駅

東北の駅百選

源義家さん

風船爆弾の跡地を散策するのであれば、勿来は引込線の橋台が物理的な見どころ。放球台は、南の大津基地に残っているので、勿来関の南側がおすすめ。


勿来基地は、ほぼなにもないということを確認した感じです。

※撮影:2022年8月

米沢の近代史跡散策・その1

山形県米沢市に赴く機会があったので、米沢城周辺を散策してみました。


招魂碑

米沢城址、上杉神社の境内の上杉謙信祠堂(御堂)跡に建立されている招魂碑。

招魂碑
 この招魂碑は、慶応4年(1866)に始まった戊辰戦争で、主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するために、明治11年4月に建てられました。その後、日清・日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀されています。この場所は、米沢城本丸の東南隅にあたり、藩祖上杉謙信公の遺骸を安置した御堂があったところです。毎年2月に開催される雪灯篭祭は、この地で執り行われます。
 碑は、凝灰岩で高さ約3.4メートル、総高約5.8メートル。碑銘は、戊辰戦争に従軍して参謀を務めた齊藤篤信(後の山形県師範学校初代校長)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いたものです。
 米沢市
 米沢観光協会

上杉謙信祠堂(御堂)跡

松が岬公園の南東の高台にある謙信公御堂跡(米沢城本丸南東)。ここは米沢城下で一番高い場所。


傷痍之碑

上杉神社境内社の春日神社敷地内に建立。

恒久平和祈念
傷痍之碑
米澤市傷痍軍人会
米澤市傷痍軍人妻之会

傷痍之碑
趣意書
 ああ 過ぎしいくさの日日を憶えは痛ましくも悲しく万感胸に迫る
 時まさに風雲急を告げ青春の血を燃やし国難に殉せんと祖国遥かに陸海空の戦陣に召されるや護国の大任に就き戦傷病を負い戦列を去ったわれら傷痍軍人は、昭和20年8月15日痛恨と慟哭の裡に終戦を迎えた
 国破れて山河あり 傷痍の身に生命の灯を点し帰郷したわれらは、以来耐え難き苦悩と心身の障害を克服 祖国再建 平和布求の決意も新たに再起し妻とともに相寄り相扶な生活を刻み心魂を傾け生きてきた生きざまを省みるとき 恒久平和 祖国郷土の発展 家運繁栄を衷心より記念して止まず 願わくはこの熱き思いを込めたわれらの志を永く伝えるべく 四季美しく神鎮まる城址の丘に傷痍の碑を建立 協賛会員一同の名を刻み 鎮魂のため 上杉神霊の加護を祈願奉納するものである
 昭和57年5月1日
  米澤市傷痍軍人会、
  米澤市傷痍軍人妻之会

春日神社は、上杉鷹山公が学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納した神社。


慰霊の碑

松が岬公園内。

ふるさとの父母想い 
 妻や子の 
やすらかなれと
 祈りつつ
平和を願い
 散りし魂

戦後50年の節目の年に当り、あらためて、あの太平洋戦争を顧みながら、世界の恒久平和と、御霊の永遠の安寧を願うとともに、あの痛ましい悲惨な戦争体験を風化させることなく、戦争を二度と起こさない証として、ここに慰霊碑を建立する
  平成7年9月
   米沢市遺族連合会  
   米沢市遺族共励会
     婦人部
     青壮年部


建国記念の日碑

松が岬公園内。

上杉鷹山が米沢に迎え入れられた際に、義父の上杉重定は、歓迎の意を表して米沢城大手門前広場の前を流
れる御入水川(上水道)に架かる橋を、新しく石橋に架け替えた。上杉鷹山は、この新しい橋に気が付き、下馬をして橋の前で頭を下げて徒歩で橋を渡ったという。人々は鷹山の人柄に触れ、この石橋を「いただき橋」と名づけました。のちにこの石橋が割れてしまうが、その石で「建国記念の日」碑を建てて、形を変えつつ鷹山の人柄を伝承している。

建国記念の日
2月11日


以下、近代史に限らずで、米沢城址・松が岬公園の散策を。

従三位上杉曦山公之碑

第12代上杉斉憲公。
正面の題字は、陸軍大将兼参謀総長で書道に優れた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆。
裏面の斉憲の経歴は勝安房(かつあわ)(勝海舟)の撰文。


稽照殿(上杉神社宝物殿)

稽照殿は、大正8年の米沢大火による大正12年の上杉神社再建に際し、宝物殿として創設。
設計は米沢市出身の建築家・伊東忠太。
平成10年に登録有形文化財に認定。


赤穂事件殉難追悼碑

吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘であり、赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、吉良上野介の実子(上杉綱憲)が上杉家に養子入りして藩主となっていた。


上杉神社

松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。
現在に残る社殿は、大正12年に竣工。設計は米沢出身の伊東忠太によるもの。


米沢城

伊達政宗公生誕の地

伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生誕している。

上杉鷹山公之像(上杉神社参道)

天地人
上杉景勝公と直江兼続公主従像

上杉謙信公


逸三之像

日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人の前身)共同設立者。


明治天皇行在所遺趾

明治天皇が明治14年9月に東北地方を巡幸した際、米沢に宿泊した場所(行在所)。当時新築の南置賜郡役所がこの地にあった。
南置賜郡役所は大正8年の米沢大火で類焼。大正10年に 明治天皇ゆかりの遺蹟があったことを記念して石碑が建立された。


米沢牛の恩人
チャールズ・ヘンリー・ダラス碑

1842年(天保13)、英国の首都ロンドン市で生まれる。1862年頃(文久2)、鉱物商として中国大陸に渡り、1865年(慶応元)に初来日した。
明治4年10月、米沢興譲館洋学舎で教鞭をとり、明治8年に任期を終え横浜の居留地に戻る折り、お土産として米沢の牛を持ち帰ったとされている。その米沢肉をイギリス人仲間に食べさせたところ、その食味の良さに驚き大好評であったといわれ、米沢牛が有名となった。


上杉鷹山公之像(松が岬第2公園)


草木塔

石碑草木塔。草木の魂を供養する碑。


松岬神社

松岬神社(まつがさきじんじゃ)。
上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る。
上杉謙信の祠堂を改めた上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、米沢城二の丸世子御殿跡に設けた摂社「松岬神社」に遷座された。
旧社格は県社。上杉神社摂社。

上杉景勝公

松が岬公園

場所

https://goo.gl/maps/Cv3Xb6aPnNzMLBDG7

撮影:2022年5月


関連

米沢出身の建築家・伊東忠太

適塾の流れをくむ「大阪仮病院」と「蘭医ボードウイン」の史跡散策

大阪の医学は、「適塾」から始まった。
もっとも「適塾」と言ってしまうと、日本の医学にも多大な影響を残しており、大坂だけの話ではなくなってしまうが。


適塾から浪華仮病院へ

緒方洪庵が、大阪船場で開塾した適塾(1838-1868)は、幕末から明治にかけての名士を多く輩出していた。福沢諭吉や大村益次郎なども適塾頭を務めていた。門下生にも、大鳥圭介、高松凌雲、佐野常民、池田謙斎、杉亨二、高峰譲吉など錚々たる名が連なっている。
緒方洪庵は1862年(文久2年)に、大坂の適塾を養子の緒方拙斎に委ね、江戸幕府奥医師および西洋学問所頭取就任のために江戸に移住。
1863年(文久3年) 洪庵が江戸の医学所頭取役宅で客死。
緒方洪庵の墓は、大坂の菩提寺であった大阪市北区の龍海寺と、客死した先の東京都文京区の高林寺にある。

1868年(明治元年) 適塾閉鎖。
1869年(明治2年)後藤象二郎大阪府知事、参与小松清廉の尽力により、現在の大阪市天王寺区上本町四丁目の大福寺に「浪華仮病院」および「仮医学校」が設立。
設立にあたっては、適塾関係者が多く採用された。

「浪華仮病院」院長は緒方惟準(洪庵の次男)
主席教授としてオランダ軍医ボードウィン(長崎ではボードウィンのもとで緒方惟準は生徒でもあった)を招き、大福寺の施設の提供を受けて、一般の病気治療と医師に対する新治術伝習のために「仮病院」が設立された。
半年後に、現在の法円坂の大阪医療センター付近(大坂代官所跡)に移転し「大坂府医学校病院」となる。緒方惟準、緒方郁蔵(義弟)、緒方拙斎らがこれに参加。
京都で刺客に襲われた大村益次郎が担ぎ込まれたのも、この「大坂府医学校病院」であった。医学校病院は当時は、長崎・大坂・東京のみ。

「浪華仮病院・仮医学校」は、「大坂府医学校病院」となり、その後も改組・改称を経て「大阪帝国大学」へと発展し、現在の国立大学法人「大阪大学」となっている。
つまり、大阪大学医学部の前身にあたる。


大村益次郎と緒方洪庵

大村益次郎の話と、緒方洪庵の墓などは以下の記事にて。

緒方洪庵

「緒方洪庵旧宅及び塾」として史跡となっている。

緒方洪庵の適塾

適塾

https://goo.gl/maps/4QvDxDc5sN4twULt9


大坂の假病院跡(大福寺)

大坂の假病院跡
 大福寺は、明治元年春から明治貳年秋まで、大坂の假病院にあてられた。大阪大學の醫學教育はここからはじまる。
 明治元年参月、ようやく平和を恢復した大坂の街に、明治天皇は行幸されたあと、恵まれない人のために病院をたてるべきとの御沙汰書を出された。これをうけて明治政府と大坂府は直ちに準備にとりかかり、大福寺の建物を利用して診療をはじめたが、明治貳年貳月、緒方惟準は恩師蘭醫ボードウインとともに、假病院の診療と醫学教育に専念した。
 その後、鈴木町代官屋敷、いまの法円坂町国立大阪病院敷地に大坂醫学校と病院ができたので、この假病院の使命はおわった。
 ここに、百年の歴史をかえりみて、これをたてる。

A.F.Bauduin
(1822-1885)

アントニウス・フランシスクス・ボードウィン
Anthonius Franciscus Bauduin
1820年6月20日 – 1885年6月7日
オランダ軍の軍医。
1862年(文久2年)、江戸幕府の招きを受けて来日。
ポンペ(日本に近代西洋医学教育をもたらした)の後任として長崎養生所の教頭となる。その間、東京、大阪、長崎で蘭医学を広める。
1866年(慶応2年)に、緒方惟準らオランダ留学生を伴ってオランダに帰国。
1867年(慶応3年)に再来日。
1869(明治2年)に、緒方惟準が浪速仮病院の院長となり、ボードウィンも病院の運営に関与。
1870年、大阪仮学校、大阪陸軍病院に務め、オランダに帰国。
1873年にオランダ陸軍に復帰。1884年に退役。

緒方惟準
(1843-1909)

緒方惟準(おがたこれよし・いじゅん)
緒方洪庵の次男。
慶応元年(1865)にオランダ留学。明治元年(1868)に帰国し、 明治天皇の侍医となる。
明治2年(1869)に浪速仮病院の院長となり、オランダの軍医ボードウィンらとともに病院の運営する。
明治4年(1871年)から陸軍の軍医となる。
明治18年(1885年)には、陸軍軍医学会長兼近衛軍医長として脚気の予防策に麦飯給食を勧めたが、軍上層部と対立。
明治20年4月陸軍を辞して大阪にて緒方病院を開設した。
明治42年没。

ちなみに、陸軍部内での脚気問題は、その後の明治37年-38年の日露戦争でも多数の脚気患者が発生。陸軍手動(陸軍省医務局長の森林太郎・森鴎外)で明治41年(1908)に臨時脚気病調査会が設立され、大正13年(1924)にビタミン欠乏説が確定し、臨時脚気病調査会が解散するまで続いた。

浪華假病院跡

大福寺

場所

https://goo.gl/maps/jzDxuN4Xwa5hUywA6

資料

https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009681.html

https://juken.y-sapix.com/articles/5945.html


ボードウィン顕彰碑
蘭医者ボードウィン逗留の寺(大坂・法性寺)

大坂の法性寺には、「ボードウィン顕彰碑」がある。
大坂仮病院で教師をしていたボードウィンは、法性寺に居住していた。

ボードインゆかりの地

蘭医ボードウィン逗留の寺
明治元年大阪に行幸された明治天皇が、知事後藤象二郎に病院建設を命じ、大福寺(現天王寺区上本町)に大阪仮病院が設置された。
院長は緒方洪庵の次男惟準で、教師はオランダから招聘された蘭医ボードウィンであった。惟準はボードウィンの身の回りの世話を「適塾」の門下生で薩摩藩出入御用商人薩摩屋半兵衛広長に頼み、法性寺がその寓居となった。
ボードウィンは、生活習慣の違いから豚を寺内で飼育したりして周囲を驚かせもしたが、熱心な法華信仰者の半兵衛の教化を受け、南無妙法蓮華経の題目を唱えるようになったという。
適塾と大阪仮病院は、阪大医学部の前身である。
またボードウィンは日本最初上野恩賜公園生みの親でもある。
A.F.Bauduin (1820-1885)

法性寺。袖門の脇に顕彰碑がある。

場所

https://goo.gl/maps/WP6ZsuubKDgafEFw6

距離感は、700m


ボードワン博士像(上野恩賜公園生みの親)

ボードワン博士像が上野公園内にある。

ボードウィン(ボードワン)は、明治2年に緒方惟準が院長となった大阪仮病院の教師に就任する。明治3年に任期が切れたボードウィンは帰国直前であったが、普仏戦争の勃発で就任予定だったドイツ人医師の着任がおくれていたため教師が空席だった東京の「大学東校」(医学校兼病院・のちの東大医学部)のショートリリーフとして2ヶ月間だけ講義を実施。その際に「大学東校」の校地として上野の山が候補にあがっていたのを、ボードウィンは大反対をし、「東京一の公園にすべきだ」と主張。オランダ大使館を通じて政府にも忠告書を提出し、明治政府はボードウィンの主張を受け入れて、「大学東校」の上野認可を取り消し、上野に公園を建設することに決定した。「大学東校」は上野から本郷加賀屋敷跡に変更。結果として、上野には東京一の「上野公園」が建設され、本郷には「東京大学」が設置された。
ちなみに、ボードウィンが日本に持ってきた健胃剤が、太田胃散のもとともなっている。

ボードワン博士像
Dr.A.F Bauduin
 オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。

実は、1937年に建立されたボードウィン像は、弟の写真をベースにした像であったことが判明したため、2006年にボードウィンゆかりの大坂法性寺の寄贈で、現在の兄のボードウィン像に改められた。
撤去された弟のアルベルト・J・ボードウィンの像は、オランダ大使館を経て、神戸市ポートアイランド北公園に設置されている。これは、アルベルト・J・ボードウィンが、神戸初代領事であったゆかりによる。

東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館
1973年10月

東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館
大阪市 法性寺
2006年10月


※撮影:2022年7月

次回の大坂では、適塾跡と法性寺に行かないと、です。

2022年9月に再訪分追記しました。

機銃掃射弾痕が残る黒門町架道橋(JR大阪環状線玉造駅)

JR大阪環状線玉造駅のすぐ隣の鉄橋。ここに無数の穴が開いている。
この無数の穴は、機銃掃射の弾痕、という。

中央の柱に残る、強烈な痕跡。H鋼の2枚を貫通した弾痕に、すさまじい威力を感じるとともに、恐怖と悲劇も思い起こさせるものがある。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

大阪城には陸軍第四師団司令部が置かれ、そして大阪城の西側、森ノ宮駅の北側には「軍需工場」(大阪砲兵工廠・大阪陸軍造兵廠)が展開されていた。

大阪陸軍造兵廠は、空襲により、80%を焼失している。
このエリアが重要な軍事拠点であり、逆に言うと、米軍からすれば重要攻撃拠点であったことがわかる。


黒門町架道橋(橋脚)

道路の真ん中にある、黒門町架道橋の橋脚部分。
大きくえぐられた穴がある。なかなかに衝撃的な穴である。

機銃弾痕は、東側から西側に銃弾が飛んだことを予想させる痕跡を残していた。

東側。

交通量が多いため、なかなかじっくりと写真を撮ることも難しいため、グーグルストリートビューの画像を借ります。

https://goo.gl/maps/vj9pm79fqNTXqn8v5

東側。

機銃痕をマークしてみた。

実は、ひとつ謎がある。

銃痕が下から上って、どういうことでしょうか?

国土地理院の地図で高低差を見てみると、大阪城南部の高低差がわかってきます。

https://maps.gsi.go.jp/#15/34.674529/135.533202/&base=std&ls=std%2C0.72%7Cslopemap%7Chillshademap%2C0.23%7Crelief%2C0.59&blend=101&disp=1111&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

それこそ大阪城のの東側は低地、南の高台には「真田丸」もありました。
この高低差は、今も昔も変わりません。

つまり、米軍の戦闘機(P-51 マスタング)は、あり得ないほどの超低空飛行で長堀通り上を飛行し、地表スレスレの位置から、黒門町架道橋を機銃掃射したことが予想されます。
長堀通りの高低差に合わせて超低空飛行での機銃掃射であれば、「黒門町架道橋」の部分が下から上ということも理解はできます。行為そのものに理解出来るかはまた別ですが。

https://www.google.com/maps/place/%E7%8E%89%E9%80%A0/@34.6742724,135.5364859,30a,35y,276.45h,79.32t/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x6000e0b04f5c6103:0x48697e6491d73e8!8m2!3d34.673469!4d135.532835


黒門町架道橋(橋桁)

橋桁部分にも無数の機銃掃射痕跡がありました。

位置関係

https://goo.gl/maps/iFTn7Rb3jkfckGAo9


東成警察署 中道本通警ら連絡所

玉造駅からほど近いので、脚を運んでみた。
建設は、昭和12年(1937年)。暗越奈良街道の細い道に面している。
この界隈は、ほぼ空襲で焼失したなかで、残った戦前の建造物。
「警ら連絡所」は、警察官は常駐せず、主にパトロール中に立ち寄る、といういうもので、どうやら大阪のみで使用されている名称のようで。

場所

https://goo.gl/maps/xMDE5tJeF7WuS3W6A

※撮影:2022年7月


関連

日本の高さの基準点「日本水準原点」一般公開

かつて「陸地測量部」があった場所は、現在は「国会前庭」として整備されている。
その場所にあるのが「日本水準原点」。
日本水準原点と日本水準原点標庫は、測量分野では初の国指定重要文化財となり、監視用の附属水準点標石3点は附指定とされている。


測量の日

測量法が昭和24年6月3日に公布され、平成元年に満40年を迎えたことを機会に、測量の意義と重要性に対する国民の理解と関心を高めることを目的として、6月3日を「測量の日」として制定。

https://www.gsi.go.jp/kinki/survey_day-survey_day_index.html

https://www.gsi.go.jp/kanto/kanto40002.html

毎年6月3日を中心に「測量と地図のフェスティバル」「国土地理院技術研究発表会」「日本水準原点を始めとする各種施設公開」等の測量と地図に関する情報と知識を国民に啓発する運動を広範囲に展開されている。

2022年(令和4年)は、5月25日に「日本水準原点」の一般公開がありましたので、見学してきました。


水準原点(日本水準原点)

日本の高さ(標高)の基準点となる、水準の原点が一般公開されました。
普段は、扉が閉じられております。

重要文化財【建造物】
「日本水準原点」
  所在地 東京都千代田区永田町1-1-2
  指定 令和元年12月27日
 日本水準原点は、明治24年に創設された我が国の高さの基準になるもので、130年近くにわたり、我が国の測量の歴史を支えている重要な施設です。
 日本水準原点の歴史的及び技術的な価値が認められ、測量分野の建造物としては初となる国の重要文化財に指定されました。
日本水準原点 
 日本水準原点の零目盛りは、温度変化の影響を受けにくい水晶板に刻まれており、丈夫な花崗岩台石にはめ込まれ、固い岩盤まで達する約10mの基礎に支えられています。
日本水準原点標庫
 日本水準原点標庫は、ドーリス式ローマ神殿形式の古典的建築で、日本人建築家により設計された初期の洋風建築として、歴史的、建築学的にも貴重なものです。
  令和元年12月
   国土地理院

これが水準原点
目盛尺の材質:推奨(山梨県産)
 長さ25cm、幅5.5cm

水準原点

日本水準原点
 日本水準原点は、我が国の土地の標高を測定する基準となる点である。明治24年(1891)5月にこの場所に設置した。
 日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、24.500メートルと定めた。
 その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。
 平成23年10月21日
 国土地理院

開扉されています。はじめて開いているところを見ました。

このゼロ目盛(零位)が原点数値。
目盛りの部分は水晶。水晶版を花崗岩でしっかりと固定している。
ゼロ表示の高さ、原点数値は24.3900mとなっている。(2011年現在)

扉の模様も美しいのですが、開扉中はもちろん正面からは見えません。

扉をしめているときは、こんな感じ。

年に1度の一般公開は、平日にはなりますが、これは調整してでも見る価値ありますね。


水準原点(日本水準原点)裏側

水準原点の裏側も公開。

明治24年
辛卯5月建設
陸地測量部

明治24年は1891年。
ちょうど、1891年5月11日には、ロシア皇太子(ニコライ二世)来日中に、滋賀県にて警官に切りつけられ重傷を負った「大津事件」があった。

水晶版がはめ込まれた舟型台石(厚さ36cm、長さ2.7m)を花崗岩の正八角形台石(厚さ45cm)が支え、さらに台石の下を、10m下の岩石層まで達するコンクリートの基礎が支えている。

舟形台石の裏側(下部)には、関係者5名の名前が刻まれてる。

参謀総長陸軍大将大勲位 熾仁親王
参謀次長陸軍中将従三位勲三等 川上操六
陸地測量部長陸軍工兵大佐正六位勲四等 藤井包總
陸地測量部三角科長陸軍工兵中佐従六位勲六等 田坂虎之助
陸地測量部三角科班長陸軍工兵大尉正七位勲五等 唐澤忠備


日本水準原点標庫

保管庫として、「日本水準原点標庫」は以前に紹介をしておりました。

https://senseki-kikou.net/?p=5007

菊の御紋と大日本帝国の文字残っている。

大日本帝国

明治24年5月に、陸地測量部の庭園であった現在地に設置された。
現在も使用されている公的建造物において「大日本帝国」号を残している希有な建造物としても貴重。

設計は、佐立七次郎。
日本近代建築の父といわれた、ジョサイア・コンドルの一番弟子。
生涯で設計した建造物は34棟を数えるが、現存する建造物は、「日本水準原点標庫」と「旧日本郵船株式会社小樽支店」の2棟のみ。

日本水準原点の建物(標庫)は文化財
「特徴」
・小ぶりな石造
・ローマ風神殿建築 トスカーナ式
・明治期の数少ない近代洋風建築
・佐立七次郎の設計
  東大建築学科(現在)第1期生(4人)のひとり
「注目」
・装飾
・文字
・円柱の柱
・扉の模様
建築面積:14.93平方m 軒高3.75m 総高:4.3m

東京都制定有形文化財(建造物)
日本水準原点標庫
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。
 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
 平成9年(1997)3月31日建設  
 東京都教育委員会


機械台と一等水準点

陸軍参謀本部陸地測量部の敷地内に水準原点と一等水準点が設置されている。

甲・乙・丙・丁・戊
「丁」のみが地上に設置。それ以外は地中にある。
今回は「甲」も公開されておりました。

水準原点の前にあるのが「機械台」

記載台のさらに北の先に一等水準点「甲」がある。
普段は、鉄の蓋の下。

一等水準点「乙」

一等水準点「丙」

一等水準点「丁」
「丁」のみが地上にある。その他は鉄の蓋の下。

一等水準点「戌」は、今回は未確認。
憲政記念館の工事の影響で立ち入りできないエリアにある。


電子基準点

電子基準点の内部も公開されていました。

GNSS受信機、ルーター、バッテリー、電源監視装置、通信装置、UPS、傾斜計などが収納されている。
高さは7m。

電子基準点「東京千代田」
測位衛星で国土を測る位置情報インフラ

GNSS連続観測システム
GEONET
(GNSS Earth Observation Network System)
電子基準点を用いて高精度な測量や地殻変動の監視をしています。

国会前庭にある「日本水準原点」の隣に、電子基準点「東京千代田」を設置し、平成30年3月26日から、準天頂衛星システム(みちびき)やGPSなどの観測を始めました。都心での測量が効率化するとともに、全国の標高の基準である日本水準原点の変動をモニターできるようになり、大きな地殻変動が生じた場合でも円滑な測量が可能になります。

電子基準点「東京千代田」
 この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの衛星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。
 電子基準点「東京千代田」は、日本の基準となる日本水準点(明治24年(1891)設置)の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。
 平成30年3月
 国土地理院


6月3日の「測量の日」の前、5月最終週の水曜日あたりが毎年の一般公開日。
気になる人は、国土地理院の発表を気にしてみてください。

ちかくは国会議事堂。

桜田門も見える。
水準原点のある国会前庭は、かつての井伊家藩邸でもあった。

配布物


「日本水準原点」と「水位観測所・験潮場」

油壷験潮場と日本水準原点の間で、水準測量を毎年行い、原点の変動を把握している。

油壺験潮場の前身は、霊岸島水位観測所


日本経緯度原点

日本の高さの基準は、かつての陸軍の敷地にあったが、日本の位置の基準は、かつての海軍の敷地にあった。


場所

https://goo.gl/maps/nsfG9TqSGaz4xjGH9

※撮影:2022年5月

日本の高さの出発点「霊岸島水位観測所」と一等水準点「交無号」

日本の国土の基点となっている場所がある。今回は「高さ」のスタート地点を散策。

国会議事堂前庭にある「日本水準原点」の標高は、霊岸島で水位を観測し定められた水準点「交無号」からの測量で決定している。

日本水準原点

油壷験潮場


一等水準点「交無号」

花壇にかこまれて「水準点」があった。
ここが日本の「高さ」の出発点。

大切にしましょう
水準点
国土地理院関東地方測量部

一等水準点「交無号」
 標高3.24m

 水準点とは、精密に測られた高さの基準点です。全国の主要道路に約2キロメートルおきに設置されており、各種測量の基準や地殻変動の検出に利用されています。
 日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)は、明治6年から12年の間に霊岸島で行われた潮位観測によって決定されました。この結果は、潮位観測に用いられた量水標近傍の「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)」に取り付けられましたが、明治24年に新しい基点として、この「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年、国会議事堂前の地に建設された日本水準原点の標高は、この水準点からの測量で決定されています。
 水準点番号「交無号」の由来は、水準路線が交差する点であることを示す「交」と、「0」を意味する「無号」を合わせたものです。
 この水準点は、まさに日本の高さの出発点として歴史あるものです。
 現在の水準点は、平成18年にこの地に移転されました。標石は昭和5年の移転時に作られたもので、小豆島産の花崗岩が用いられています。
 平成21年2月
  国土地理院関東地方測量部

すぐ近くに水位観測所がある。


霊岸島水位観測所

日本水準原点と霊岸島水位観測所
 国土交通省関東地方整備局
 荒川下流河川事務所
1.水準原点とは
 現在日本の水準原点は、測量法施行令第2条により東京都千代田区永田町1丁目1番地内にある日本水準点で、その高さは東京湾平均海面上24.4140mと定められています。
(東京湾平均海面をT.P.0mとして算定しています。)
この水準原点の高さに基づいて、例えば、山の高さや土地の高さが「標高〇〇m」というように求められているのです。

2.日本近代測量と霊岸島水位観測所について
 日本の近代測量は明治初期に始まりました。当時の測量方法は所要河川の河口部に水位を測るための「量水標」を設け測量を行うときには近くの「量水標」の平均海面データを用いていました。「量水標」の主なものは、明治5年に利根川河口の「銚子量水標」が日本初で、翌明治6年にここ霊岸島に、明治7年に江戸川と淀川の河口にと、全国の主要河川でそれぞれ設置されました。
 霊岸島水位観測所の零位は、A.P.0m(エーピーゼロ、A.P.はArakawa Peilの略、Peliはオランダ語で「基準」あるいは「標準」の意)と呼ばれるようになりました。
 その後、測量技術などの進歩に伴い、平均海面のデータの全国統一が考えられ、そのときに選ばれたのがここ霊岸島水位観測所だったのです。

3.東京湾平均海面と日本水準原点
 平均海面を算出するために霊岸島水位観測所で明治6年6月から明治12年12月の間、4ヶ月間の欠測を除き6年3ヶ月の毎日の満潮位と干潮位を測定しその平均値を求め、さらにその平均値を算出したのです。このときの値が霊岸島水位標の読み値で1.1344mでした。これを東京湾平均海面すなわちT.P.0mとし全国の高さの基準として定めたのです。そしてその後の明治24年5月に東京都千代田区永田町に「日本水準原点」が設置され、このとき霊岸島水位観測所から原点までの水準測量を行い、日本水準原点の高さ24.5000mを基準点としたのです。しかしこの値は、大正12年に起きた関東大震災の影響により昭和3年に24.4140mに改定され現在に至っています。

4.現在の霊岸島水位観測所
 日本の水準原点を生んだ令官島水位観測所も、その後の東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
 現在の霊岸島水位観測所は荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改訂のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。
 元の観測所の位置には、その歴史的経緯を永く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。また新しい観測所の3角形のフレームは、土木や建築の設計図などに高さを表す記号として用いられる▽をイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その1辺の長さは観測所位置のある東経139°47’にちなみ13.947mとしています。
 観測室については、斜方十二面体という形で立方体それぞれの面に後輩45°の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。

霊岸島検潮所・量水標跡

護岸工事で観測地点が移転したため、もともとの観測所があった場所には、観測柱がモニュメントして設置されている。

亀島川水門。水門の向こうには、南高橋がある。

防潮堤の耐震補強工事中でした。

江戸港発祥跡

近くには江戸港発祥跡がありました。

江戸港発祥跡
慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和11年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった。
  東京京橋ライオンズクラブ
  結成35周年記念
  平成11年1月吉日建立

離島への汽船発着所として
東京湾汽船は明治22年、この地に設立された
町には6軒の旅館があ、島の人々で賑わった
 旧町名越前堀は越前松平家の周囲に堀があったことに由来する
 地名将監は幕府奉行職御船手(海兵団)向井将監の屋敷跡に由来する
 霊岸島検潮舎は、海抜の原点で、この大川のテラス内にある
     越前堀将監21号住民建立


場所

https://goo.gl/maps/ui5sXHkt3r6k82mi8

https://goo.gl/maps/QYe1iemx9angQmMV9

https://goo.gl/maps/okvmLTa7kxfEDKLt8

※撮影は2022年5月

松脂油採取の跡(井の頭自然文化園)

戦争末期。
苦肉の策として航空燃料原料としての利用が試みられたのが「松から採取された油」であった。
しかし労力と効率の割が悪く、また粗悪のために実用には至らず。
松の根からは「松根油」、樹皮からは「松脂油」が採取されたという。

その痕跡を「井の頭自然文化園」で探してみました…


井の頭恩賜公園(井の頭公園)

吉祥寺駅の南に広がる、井の頭池を中心とした公園。神田川は井の頭池を源としている。徳川家光が鷹狩りの際に休息した御殿を造営した場所でもあり、地名として「御殿山」と呼称されている。

井の頭自然文化園

当地には、明治38年(1905年)、渋沢栄一が、井の頭御殿山御料地の一角(現在の自然文化園本園)を皇室から拝借して、非行少年を収容する東京市養育院感化部(のちの「井の頭学校」)を創設したことにはじまる。
大正6年(1917年)御料地全体が東京市に下賜され「井の頭恩賜公園」となる。
昭和9年(1934年)「中之島小動物園」が開園。
昭和14年(1939年)「井の頭学校」移転。「中之島小動物園」を上野動物園規模の大動物園にする計画が立ち上がるが、戦時中ということもあり、予算も物資も不足。
昭和17年(1942年)5月17日に「井の頭自然文化園」が開園する。
昭和18年には、猛獣処分が井の頭自然文化園でも実施されていおり、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。
昭和20年には、事実上の救援状態となる。
昭和22年、水生物園が再開。昭和26年に移動動物園が開催、昭和28年に北村西望がアトリエを設置。昭和29年、アジアゾウはな子が来日。昭和33年、北村西望から平和祈念像の原型や作品、アトリエなどが寄贈される。


松脂油採取の跡(井の頭自然文化園)

井の頭自然文化園の中心に位置する「大放飼場」のあたりにある松の木。
根本を見てみれば、人工的に削られた痕跡がありました。

今どきの感覚でいうと「ハート型」でかわいい、となるかもしれません。
この松の木の傷が、戦時中に油を採取した名残といっても、ピンと来ないかもしれませんが、これも立派な戦跡、です。

東京都井の頭自然文化園

小動物中心の動物園。


アジアゾウ はな子

終戦時、日本には名古屋東山動物園に2頭、京都市動物園に1頭のゾウが生き延びていただけであった。
1947年にタイ王国で生まれたアジアゾウの「はな子」は、戦後日本で、再びゾウの姿をみたいという声に応えるかたちで1947年に来日。
戦後にはじめて来日した像であった。
「はな子」は、公募で決まった名前であったが、これは戦争中に猛獣処分(餓死処分)された上野動物園の「花子」(ワンリー)に因んだ名前であった。

なお、昭和18年に「井の頭自然文化園」でも、猛獣処分により、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。

はな子は2016年5月26日、69歳で永眠。


北村西望「アトリエ館」「彫刻館」

北村西望は、昭和を代表する彫刻家。
代表作は、長崎平和公園の「平和祈念像」、国会議事堂内「板垣退助翁像」など。

「平和祈念像」を作成するにあたり、大きなアトリエが必要となり、東京都が井の頭自然文化園内の敷地を提供。北村西望はアトリエ施設や作品を寄付という縁から、井の頭自然文化園内に北村西望作品が展示されることとなった。

「将軍の孫」と北村西望アトリエ

「将軍の孫像」の軍靴と、「橘中佐像」の軍靴は同一のものという。

加藤清正像

若き日の織田信長像

聖観世音菩薩

咆哮


彫刻館B館には、興味深い作品がいくつか集まっているので、是非とも足を運んでみてほしい。なお、館内は写真撮影は禁止。以下はテキスト紹介のみで。

橘中佐
1919年
北村西望の初めての公共彫刻。橘中佐は故郷の隣町出身。日露戦争で戦死。その死が惜しまれ、橘神社も建立されている。

寺内正毅元帥騎馬像
1921年
北村西望がはじめて制作した騎馬像でもある。赤坂の三宅坂に設置されていたが、像は失われ現在は台座のみ残されている。

山県有朋公騎馬像
1929年
当初は永田町の陸軍省前に置かれていたが戦後に撤去。
現在は山県の出身地である山口県萩市に復元されている。

閑院宮馬上像
1937年
閑院宮載仁親王殿下の騎馬像。

児玉源太郎大将騎馬像
1938年
北村西望最大の騎馬像で高さ5m。満洲に設置されていた。


松脂油から北村西望まで、目線を変えた見どころも豊富な井の頭自然文化園。
ちょっとしたスキマ時間に足を運んでみるのも楽しいかもしれません。

※撮影:2022年6月


参考リンク

https://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=ino&link_num=26636

https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ino/history.html


関連

松脂油採取の跡。

兼六園の戦跡散策

 「八清住宅」陸軍航空工廠従業員の集団住宅地(昭島)

東中神駅の南側に「八清」と呼ばれる住宅街がある。
地図を見てみると、円形のロータリーが住宅地の中に今も残っている。

八清の由来

八清の由来
 日中戦争から太平洋戦争へと軍国主義の道を歩む頃、我が国の軍需産業は飛躍的発展を遂げた。昭和13年、当地に設立された名古屋造兵廠立川製作所(後の陸軍航空咬傷)も拡張につぐ拡張という有様で翌14年には従業員2万余を数える大軍需工場へと急成長した。こうした状況下、同工廠では早急なる従業員住宅建設の必要にせまられ当時一面の桑畑であった福島827番地付近、約3万坪の地を買収、その建設に着手した。
 工事は軍の協力下、八日市屋清太郎氏によって進められ、同16年10月までに約500戸の住宅と集会所、市場、映画館、浴場、神社、公園などの福利施設が竣工。ここにロータリーを中心として放射線状にに区画された大規模な住宅街が誕生した。即ちこれが八清住宅の起源であり八清という名称は工事をした八日市屋清太郎氏の名に由来するものである。
 戦後、これらの住宅は住民に払い下げられ、また市場(マーケット)を中心に商店街としての新たな街づくりも進められ、その結果今日見られるような市内屈指の住宅商店街”八清”が生まれたのである。
ここに恒久の平和を念願し建立したものである。

八日市屋清太郎は博覧会の仮設建築を得意としていた「ランカイ屋」。
「博覧会の八日市屋」で著名であったという。
初代八日市屋清太郎と二代目八日市屋清太郎がいる。
数々の博覧会をこなし仮設建築のノウハウで、軍部に依頼に答えるべく驚くべき速さで工場従業員住宅の建設をした人物。

名古屋陸軍工廠熱田製造所の飛行機製造設備と千種の発動機製造施設が立川に移転するにあたり、新工場予定地の近くに、短納期で住宅建設を行うことが必要となり、二代目八日市屋清太郎が、23歳の時に陸軍施設の移転協力を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C23-C7-138
昭和16年(1941年)06月25日、日本陸軍撮影の航空写真。

中央上「陸軍航空工廠」
右上 「陸軍航空技術研究所」
右  「陸軍航空工廠立川支廠」

八清住宅を拡大。昭和16年。

こちらは戦後。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R360-115
昭和22年(1947年)10月24日、米軍撮影の航空写真。

昭和16年の頃と比べるとだいぶ密度が上がってきている。

八清住宅を拡大。昭和22年。

Google航空写真で八清住宅の現在の様子を見てみる。
八清公園の円形もよく残っている。


八清住宅のロータリー

昭和16年に開発された八清住宅。最寄りとなる東中神駅は昭和17年7月に開業。戦時下の開業は軍需工場と従業員向け住宅の性質を考えれば、なっとくの開業。

中央円形部は防火水槽のような噴水のような水たまりと花壇。
そこを中心に八差路に道が伸びている。ちょっとおもしろい。

郵便局は今も昔もこの場所。

ベンチもある。

昭島市立玉川会館(東部出張所)は、元々は八清住宅管理事務所があった場所。
戦後の昭和町警察署もあったという。

隣のメインストリートたる「八清通り」には商店があつまっている。
食堂は昔からの佇まいがある。

年季の入ったコンクリート建屋もある。

八清通りには、住民の生活を支えるスーパーもある。

ありゃ、すずさんだ。
片渕須直監督の劇場版アニメ4作品の紹介があった。
八清通りの写真館さんにて。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceD/D14.html#:~:text=%E3%80%8C%E5%85%AB%E6%B8%85%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%90%8D%E7%A7%B0%E3%81%AF,%E3%81%8C%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

場所

https://goo.gl/maps/VGTdmi8s5ceCbj1x6

撮影:2022年5月


関連

中神坂の防空壕跡(昭島)

昭島市の南側を走る「奥多摩街道」。
ざっと中神駅から南に1キロ。
そこに防空壕跡があるというので足を運んでみた。


中神坂の石垣

中神坂交差点周辺は見事な石垣が造成されている。
多摩川の玉石を使った石垣は、東京府が昭和6年に奥多摩街道の旧道の蛇行と急坂を直す改良工事の際に、工事を請け負った地元土建業者が造成したもの。

中神坂の防空壕跡

福巌寺南面の石垣には「防空壕」の入り口が残っている。昭和19年(1944年)ごろに地元の警防団が掘ったものという。当時は西角にあった別の防空壕と奥でつながっていたというが、現在は南側の入口跡しか残っていない。
昭和20年4月4日の空襲によって、防空壕入口付近で、警防団員が1名死亡しているという。

警防団は昭和14年(1939年)に「警防団令」施行で持って「空襲あるいは災害から市民を守る」ために組織された団体。警察及び消防の補助組織として機能していた。昭和22年(1947年)に警防団は廃止され、消防団に改組移行された。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceC/C8.html

場所

https://goo.gl/maps/JTCKBiP3sNHeeXfp9

中神坂、奥多摩街道の石垣。
左手は中神日枝神社。

石垣が連なる奥多摩街道。


関連

「初雁公園のラジオ塔と国旗掲揚台」(川越)

小江戸川越として著名な観光地。
小江戸といえば近世的な見どころが多数ではあるが、近代目線でも見どころが豊富。実は、川越には、大きな空襲が無かったことも幸いして、近代建築物も多数残されている。
(ゆくゆくは川越の近代建築物の散策記録も掲載していく予定だが、まだ準備中、、、)

※川越市における戦災の状況(総務省)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_04.html

川越の「初雁公園」は、「現存2つのうち、東日本唯一現存の川越城本丸御殿」や「とおりゃんせにゆかりのある三芳野神社」などがあり、川越観光で足を運ぶ機会も多い場所。
初雁公園にある「川越市営初雁公園野球場」には、戦前のラジオ塔と国旗掲揚台が残されているというので足を運んでみた。


初雁公園のラジオ塔

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。

初雁公園のラジオ塔は、建立年月は不詳であるが、後述する国旗掲揚台が昭和13年(皇紀2598年)6月建立であることから同年代と推定。

初雁公園野球場の一塁内野側に。
はたから見ると、野球場内にある不自然な灯籠。それでも違和感を感じさせないのは「小江戸川越」のイメージ感だからか。

前後に開口しているが、左右は壁がある。
通常の灯籠は、四方に開口しているが、ラジオ塔として音の広がりを意識していたのかもしれない。


初雁公園の国旗掲揚台

階段状のモニュメントを持つ国旗掲揚台。
初雁球場の1塁側フェンスに沿った駐車場にある。

建立は昭和13年6月。銘板には「皇紀二千五百九十八年六月」の文字をみることもできる。
高さの異なる5本の杭は、一部が色あせているが左から「青」「黄」「黒」「緑」「赤」となっている。
この5色はオリンピックのシンボルカラー。色の並びも同じく。

幻となった昭和15年(皇紀2600年、1940年)の東京オリンピック(東京五輪)を前に、盛り上がっていた地元有志の寄付でもって、オリンピックの五色を意識した国旗掲揚台が建立されたという。
なお、建立翌月の昭和13年7月に日中戦争(支那事変)の影響などもあり軍部の反対などから日本政府は東京五輪の開催権を返上している。

建立時に多額の寄付をした中心人物が前川道平氏。
川越出身で、のちの伊勢丹社長。昭和8年の第二回東京優駿(日本ダービー)優勝馬カブトヤマの馬主としても有名。

青は色あせており、わかりにくい。。。

本グランド施設ニ際シ前川道平氏ハ特志ヲ以テ金員ヲ寄與セラル
誠ニ時宜ニ適シ工備ヲ促進スルヲ得タリ
茲ニ厚ク其ノ行為ヲ録ス
 皇紀二千五百九十八年六月十日

川越市初雁公園野球場

場所

https://goo.gl/maps/3SLfJV7bwkei4A8b7

川越城本丸御殿

※撮影:2022年4月及び5月


川越関連

ラジオ塔関連

靖國信仰~人を神に祀るということ~


  • はじめに
  • 人を神に祀るということ
  • 御霊信仰と顕彰信仰
  • 祖霊信仰と靖國神社
  • みたままつり
  • 靖國のみたまへの想い 

はじめに 

 「靖國神社という神社」は、数多くの神社のなかでも、異彩を放っている。 

 異彩の一つとしては、その過程がそのまま「近代日本の具現化」であり、国家のために殉じた「英霊」が御祭神であることだろう。あまりにも強く明治維新以後の歴史に絡みつつ、またそれが定期的に政治イデオロギーに起因することも多く、そもそも「靖國神社とは何か?」と疑問符を抱くことも多い。 

 ここでは世の中に溢れる「靖國論争」ではあまり触れられることのない、「信仰」の側面から「靖國神社」を紐解いてみようと思う。 


人を神に祀るということ 

 靖國神社は明治二年(1869)六月二十九日に「東京招魂社」として設立している。 

 文字通りに「靖國神社は招魂社である」という大前提がこの創立起源にある。 

 東京招魂社の意義は一言でいうなれば「戦禍で斃れた者達の霊を慰め、その遺志を長く祈念するための社」である。 

 戦没将兵の慰霊鎮魂の為に、それが各藩ごと(官軍・幕府軍側問わず)であれ民間であれ明治政府であれ、慰霊・鎮魂・招魂の祭祀が各地でとりおこなわれたことは日本の文化側面的に何等おかしなことではない。これは自然な風習であり、何等「人工的」でも「作為的」なものでもない。 

 例えば、明治政府が主宰した「靖國神社」がこのような伝統的な「人を神に祀る風習」に反して、抑圧的なものであったならば、日本国民の信頼は決して得られるものではない。またこのような「信仰」が強制されたというなら靖國神社創立以来約150年も祭祀が休むことなくとりおこなわれ、確固たる民間によって維持されていることは何を意味しているのだろうか。 

 そこには民間風習が伝統として生きており、靖國の信仰が深く民間に根付いているからではないだろうか。では、その「靖國の信仰」に連なる「民間信仰・民間風習」とは何であろうか。 

 この世に生をうけ、そして亡くなった者を「カミ」として祀り上げる事は古くからの風習の一つであった。人を神に祀った施設で圧倒的に多いのが「神社」である。当然これらの祀り上げの儀式は、古俗に基づく「鎮魂(たましずめ・おおみたまふり)」に基づく神道式でとりおこなわれた。 

 本来の初期仏教・原始仏教は「魂」の存在自体を認めていなかったが、日本古来の風習や神道と巧みに融合してきた仏教は、「誰でも彼でも死ねばすべてホトケ」「死者を無差別に皆ホトケといふやう」(柳田國男『先祖の話』)になり、死せる霊を「成仏」という形で遠方(極楽浄土)に送りつけようとばかりし(柳田國男によれば霊は国土にとどまるという)、さらに祖霊の融合を認めず、古代以来培ってきた魂思想を機能神(守護神)信仰にねじまげ、家々の先祖祭や死者の霊の管理・葬送儀礼に関与しだした。 

 その結果、「人を祀る神社」とは別に「霊堂・霊廟・供養卒塔婆」等に「霊」が祀り上げ「人を祀る寺院」の例も多くなった。 

 仏教でも東南アジアに波及した部派仏教(=小乗仏教。近年の仏教界では小乗仏教とは呼称しない)系の生死観は「輪廻転生」、つまり生まれ変わりの精神であるので、そこには慰霊の精神は存在しない。同じく日本国内でも浄土真宗(真宗・一向宗)系は、その開祖である親鸞が先祖供養は不要だと主張している。(亡き人は諸仏となる。迷いなく即時転生。) 

 またシャマニズムや霊魂等をそもそもないキリスト教が靖國の慰霊行為に納得行かないとするのも宗教観的には理解できる。そこはお互いの文化が培ってきた伝統を尊重する必要があるだけであり、互いの宗教論で否定するのは無意味に等しい。 

 カミ・ホトケ・霊・魂と呼び名は様々にせよ「人を祀る」という根底には大差はない。「人を祀る」延長線上に「靖國信仰」がある以上、この古来の風習の起源を探っていく必要があるだろう。 

 柳田國男翁は人を祀る風習の根源について「最初に外から持ち込まれたと認むるべき証拠が無い」「民族固有のものだとする」理由も積極的には明確ではない、としている。「単に外から入つたもので無いならば、元から在つたと見るべきだと謂ふに過ぎぬ」ので、その「元から」が容易ではないが「永い年月の間に極めて徐徐として、所謂人格崇敬の思想は養はれて来たのである」としている。つまり根源を明確に出来ないほど身近なことであり死者の霊魂は生者が慰め供養するしかないという観念を日本人は伝統的に培ってきたのである。しかし柳田翁は人が祀られるのにかつては制限があったとし「弘く公共の祭を享け、祈願を聴容した社の神々の、人を祀るものと信ぜられる場合には、以前は特にいくつかの条件があった。即ち年老いて自然の終りを遂げた人は、先ず第一に之にあづからなかった。遺念予執といふものが、死後に於てもなほ想像せられ、従ってしばしばタタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることであつた」(柳田『人を神に祀る風習』)とされている。本来、死後に祀られる霊魂は「祟り」という観念に基づいており、とりわけ祟ることがない一般の死者の霊魂は「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の氏神信仰・祖霊信仰に基づく霊魂観念となり(柳田『先祖の話』)、これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であった。 

 同じ「カミ」でも「遺念予執の人を神に祀る」はその多くが御霊信仰(怨霊信仰)であり、一方で「先祖を神に祀る」は祖霊崇拝(祖先祭祀)といえる。「人を祀る」という古来風習も歴史が経つと「生前に傑出した業績を残した人物を祀る」という「勲功顕彰信仰」というべき風習が出来あがる。いわば、三種の「人を祀る」信仰があるといえる。 

三種類の「人をまつる信仰」
 御霊信仰(怨霊信仰) 遺念予執の人を神に祀る
 祖霊信仰(祖先祭祀) 先祖を神に祀る
 勲功顕彰信仰     生前に傑出した業績を残した人物を祀る


御霊信仰と顕彰信仰 

 祟り神系は一般的には御霊信仰(怨霊信仰)とされる。この世に怨みを残して死んだ者の霊魂は、生者に祟りをなすと考えられ、これらの怨霊・亡霊は御霊・物の怪と恐れられてきた。本来の「たたり」という言葉は神の示現をいう意味にすぎなかったが、「巫蠱(ふこ)の幣なるもの」が「たたり」を変容させたという。。(柳田『先祖の話』)この巫蠱=呪術者が「たたり」を「祟り」として恐怖の世界の怨霊として明確化させ、本来は霊魂に関して沈黙していた仏教(密教)による呪術と古来の鎮魂儀礼の融合によって奈良末期から平安時代(最澄や空海が帰朝し密教を導入した後)に急速に「御霊信仰」が広がっていった。本来は天皇家の死者の霊を特別に御霊と呼んだが、このころには非業の死を遂げた人々の霊魂を御霊と呼ぶようになり、平安時代には疫病・飢饉・地震・雷等のあらゆる災害が、御霊の仕業とされ、これらの怨霊を鎮魂するための儀礼が必要となっていた。 

 古来、怨霊とされる霊も「神」として祀り祭礼儀式を行うことによって常に鎮魂してきた。その供養の結果、祭神の業績や伝説が世に語り継がれていくにつれて怨霊の力は弱まり祭神の性質がマイナスからプラスへと転換されていくことになる。有名な菅原道真が死後四十数年後に北野神社にまつられ、その後「文筆・学問の神」として祭神が顕彰されるように。 

 この顕彰化ということが後世に着目され「顕彰神」という人神が発生することになる。これが「勲功顕彰信仰」へのシフトといえる。一般的に「一定の年月を過ぎると、祖靈は個性を棄てゝ融合して一体になるものと認められて居た」(柳田『先祖の話』)といわれており神になれない「霊」というものは三十三年忌(もしくは四十九年忌・五十年忌)で最期の法事を行い「先祖」になるといわれている。つまりある程度の年月がたつと故人は先祖という枠の中に埋没して忘れ去られ記憶として残らなくなってしまう。しかし人を神に祀るということはその人物が永遠に記念として記憶され伝承されることを意味する。遺念予執がまったくなく祟り神とは到底思えない権力者や偉人が神として祀られる理由の一つにはこの記憶・記念される「顕彰」という機能が働いているといえる。つまり「祟り神」も時と共に「顕彰神」に転化するという根本があり、祭神が記憶・記念される場として神社が存在している。それもその神社が後世まで永続祭祀・信仰されていくという根本があって記憶され記念されるのである。このように「御霊信仰」と「顕彰信仰」というものは対極線上にあるもののようにみえて実は非常に近い関係にあるということがわかる。 

 また、天変地異等が「祟り」として認知認識されるときは得てして「政情不安定」な時である。誰かが「あれは祟りだ」と認定して「祟り神」を捜してこない限り「怨霊」は表面化して来ない。その「怨霊」を祭祀する役割は為政者や民衆が担っている。特に為政者にとっては政情安定化のために政治的目的で神社建立をするのが最良であった。つまり怨霊の転化ではなく最初から顕彰目的で建立された神社には政治的効果が大きいとされる。明治期の神社建立の動きを「国家神道のもとで、天皇崇拝を主軸に神社を再構築し、人為的作為的に改変し、国家神道の思想に立つ神社を次々と創建した」(村上重良『慰霊と鎮魂』)とみる見方もあるが、顕彰すべき必要性がない神というものもありえず、もし作為的作られた「顕彰に値しない神々」なら、少なくとも今の世の中では信仰されなくなるはずだが、明治以来の神社も今日多くの信仰を集めている。 


祖霊信仰と靖國神社 

 「人を神に祀る」概念を冒頭に三種類あげたが、一番最初に取りあげた「祖霊信仰(氏神信仰)」に関しては未だ詳述していない。

 「祖霊信仰」とは先に触れたように「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の霊魂観念のことを指し、本来これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であり、子孫が先祖の霊を敬虔に祀り、それに対して「先祖の霊」は子孫の守護神として応えてくれるというものである。 

 以下、加地伸行氏の意見を参考にする。東北アジア(儒教文化圏)では亡霊を招き慰霊するシャマニズム(魂降ろし)が基本的宗教感覚であり、死者と生者とのきずなを断ち切ることのない祖先祭祀(仏教的には祖先供養)という宗教感覚が儒教によって体系化されてきた。日本古来の神道の根底はシャマニズムであり、印度から中国に波及した仏教(大乗仏教系)も儒教的慰霊観を取り入れ先祖供養重視の日本仏教に発展した。日本の古来神道は仏教・儒教体系や道教理論が伝来するにつれて原始信仰的なものから徐々に体制を整えていったが、ただ日本の神道は儒教にはない「穢れを忌む」思想があった。死に際しての火葬は禊的浄化であり、日本人にとっては「死」そのものは穢れである。しかし葬儀以降は「死」という厳粛な大事が聖化し、死者はカミもしくはホトケとなる。そしてこのように浄化された死者の生前のできごとを問うことは一切しない。死者は「死」という大事によって人間界の責任をすべて果たされ、あとは「カミ・ホトケ」となり人間界の子孫を護る存在となったと加地氏はいう。 

 例えば靖國神社で見てみれば「東京国際軍事裁判」という名の判決で裁かれたABC級戦犯の方々(便宜上「戦犯」と呼称)は、現世では「法務死」という一番重い刑で責任を果たされ「カミ・ホトケ」として祀られるべき存在といえる。 

 「祖霊信仰」は極めて儒教的なものであるが、そこに日本的な思想・伝統が加味されて「靖國信仰」が形成されてきた。私はそれらの昭和受難者たちが現世での罪を裁かれ「カミ・ホトケ」となったからには、もはや現世の罪を問うことはせず(問うこともできない)、ただ慰霊の一心で向き合うだけである。それが日本の伝統的な信仰のはずであるから。 

 彼らの御霊を後世の我々はどう祀ればよいのだろうか。以下、柳田國男翁・小堀桂一郎氏の見解を参考にしたい。御霊を祀れないという事態は、家が断絶して祀る人の無い霊が出来る場合もあれば、戦火で斃れ家の跡を継ぐものがいなくなる場合もある。柳田翁によれば、それらの「不祀の霊」の増加というものは、大きな恐怖であり、盆の先祖祭にてさまざまな外精霊や無縁ぼとけ(仏教呼称)等の為に、特別に外棚・門棚・水棚と呼ばれる棚(不祀の霊を祀るための棚)を設け、供物を分かち与えることをしなければならなかったという。これが古来の家の構造であり信仰であった。『先祖の話』の末尾で柳田翁は記す。「國家の為に戦つて死んだ若人だけは、何としても之を佛徒の謂う無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ。」とし、子孫が絶え祭祀が行われなくなってしまうと「程なく家無しになつて、よその外棚を覗きまはるやうな状態にして置くことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途では無く、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思ふ」と切実に記している。この言葉こそが「靖國信仰」の原核精神を示しているだろう。 

 靖國神社の祭神も個々の家々の墓に祀られている。それは柳田翁のいう両墓制のうち「いけ墓・上の墓・棄て墓」という、やがては記憶されなくなり(先祖と同化)、忘れ去られてしまう墓(所在不明になるのが良いとされる地域もある)であり、その地に死者の「魄」(肉体の象徴)は祀られる。一方で「参り墓・祭り墓」と呼ばれる参拝に都合の良い、社会的な霊魂の逗留地(招魂の祠)に死者の「魂」(精神の象徴)が祀られ、元の天に帰って、子孫の安寧を護ると考えられたきた。つまり、それらの招魂祭祀を司る場が「靖國神社」等であり、たとえ「いけ墓」での祭祀が廃れたり、または祭祀を司る子孫のない若い戦死者等の「不祀の霊」は、社会的立場ある「参り墓」での祭祀によって絶えることなく記憶され、霊は安んじてその祠にとどまり、それらの霊が「祀る者」を加護する。小堀桂一郎氏によれば「戦死者の霊を祀り、祭を営んだ人々と共鳴者が、恰も氏子が氏神に対する如き感情を自らのうちに育んでその神霊を尊崇し、かつその加護を祈るという信仰形体」が靖國神社・護国神社であり「霊(参い墓の霊=靖國・護国神社の霊)が加護を垂るべき子孫とは共同体の成員全体であると考えられる。祀る者と護る神とに関係が氏族の子孫と祖先という私的な関係から、共同体を軸とする公的な関係に移して考えられる様になる。祭神はその遺執を国を靖からしめんとの志に示現し、祀る氏子等は我等の安寧を守り給えと祈る。」とし、これこそが靖國信仰の形でもある。「いけ墓=私的な祭祀場」に対する「参い墓=公的な祭祀場」という考えによって招魂社は公的なものとして出発し、国家が主宰する祭祀によって公的な「国事殉難者」が祀られているのもなんら問題はなく自然の帰結である。 

 「靖國神社こそ国営にすべきだ」という声がある。本来なら靖國神社は国家機関たるべきだろう。いや根本の「神道」という信仰こそ「日本人の公的な信仰」とすべきだろう。(あくまで「宗教」とはせずに「信仰」というが。)ただ、そのようなことは現実には夢物語でしかない。ではどうするべきか。昭和五十三年七月から平成四年三月までの靖國神社の六代目宮司を務めていた松平永芳氏の意見が一番賛同的であると思う。以下一部抜粋する。「靖國神社は政府の維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(略)政府から庇護を受けていると、一時的にせよ、どんな政権が出現するかわからない。その時の不安があるから絶対に政府からお金は貰わない方がよいと考えているのです。仮に国家護持ということになると政府がお金を出せばよいと思うようになり、国民はノホホンとして靖國の存在を忘れ去ってしまうかもしれません。(略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分たちの今日の平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。」(『靖國神社創立百二十年記念特集』)たしかに、靖國神社がなんたるかすら理解できてない政府や国に、今後万が一でも委せる自体が発生する可能性はゼロではないとすれば、あとあとの不安が大きくなるばかりである。やはり小堀氏や松平氏のいう、この「祀る者と護る神」の関係を大切に、靖國神社を日本国民の氏神とした「国民総氏子」というのが理想ではなかろうか。 


みたままつり 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」 

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 


靖國のみたまへの想い 

 今回、信仰という側面から靖國神社を紐解いでみた。 

 世間的なイメージで言えば、靖國神社への参拝は慰霊・鎮魂・顕彰・感謝などの側面が多いが、その根底には「日本人の伝統的な民俗意識」があることもわかった。その「民俗的な先祖の祭り」を戦後改革の中で一宗教法人となり「神社神道形式」で伝承しているのが現在の靖國神社となる。 

 この信仰の根底を気にもしないような政治的なイデオロギーに巻き込まれるのも現在の靖國神社の一つの姿であり、嘆かわしい自体ではあるが、そんな事は関係なく心静かに拝する人々の願いとともに、これからも御霊の御心を伝承を願っていきたいと思う。 

 靖國信仰とは? 

「靖國神社・靖國信仰は日本人の心であり、日本人が築いてきた民俗文化である」ということも出来るかも知れない。 

 後世に生きる我々の多種多様の想いのなかでも不動のものがある。それが御霊への鎮魂と感謝の祈りであり、その行為は日本人の伝統でもあり伝承されるべき風習でもある。 

 彼ら御霊の想いと願いを記憶し、御霊を未来永劫に祈念し回想する。幕末以来今日まで246万6500余柱もの英霊たちが国家のために殉じられ、幾多の無名人が国難に立ち向かっていった。 

 後世の我々は彼らが身を挺して護り抜いた「日本」に生きるものとして残された義務がある。「家=国」を身を挺して護った彼らの想いを、「家=国」に残された子孫が引き継ぐ。御霊の遺志を後世に伝え続ける。そして先祖の御霊は子孫の「守護神」となり、国靖らかであることを願う「靖國の想い」へと導き、未来を馳せていく。 


主な参考文献(順不同) 

靖國及び周辺事項 

小堀桂一郎『靖国神社と日本人』PHP新書・1998年 

神社本庁編『靖国神社』PHP研究所・2012年 

加地伸行・新田均他『靖国神社をどう考えるか』小学館文庫・2001年 

村上重良『慰霊と鎮魂 靖国の思想』岩波新書・1974年 

神道及び思想全般 

柳田國男「先祖の話」昭和21年/「人を神に祀る風習」大正15年 

(『定本柳田國男集第十巻・新装版』所収 筑摩書房・昭和44年) 


初 稿 :平成14年(2002)5月
一次改訂:平成14年(2002)11月
二次改訂:平成28年(2016)7月 (みたままつり項目を追記)
三次改訂:令和04年(2022)4月 (Web掲載用に表記微修正)

学生の頃に、とある同人誌に寄稿した論文。
読み直せば、若気の至りも多数はあるが、基本的な考え方としての根底は今も変わりない。
うっかり発掘してしまったので、せっかくなのでWeb用に再構築して掲載しました。 


関連

霊璽奉安祭

都内現存唯一のラジオ塔「聖蹟公園とラジオ塔」(品川)

戦前の日本。まだまだ一般家庭にラジオが普及していなかった時代。
ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。「公衆用聴取施設」として各地にラジオ等が建設された。


聖蹟公園のラジオ塔

品川聖蹟公園のラジオ塔は、公園の開園と同じ年の昭和13年(1938年)に建設された。現在は聖蹟の記念碑とともに並んでいる。
公園内の看板には「灯籠」としか記載されておらず、これが歴史的な意義のある「ラジオ塔」であることが明記されていないのが残念。

寄贈
日の丸奉仕團


品川聖蹟公園

情報量が多い公園。
江戸時代は、東海道品川宿本陣。明治には 明治天皇の行在所となり、昭和には聖蹟公園と。

品川区指定史跡
東海道品川宿本陣跡
 品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、 品川三宿の中央に位置していた。 東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
 現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。
 平成14年3月28日
  品川区教育委員会

聖蹟公園の石碑案内
聖蹟公園由来の碑
昭和13年(1938年)聖蹟公園として整備開園するに当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
灯籠
聖徳の碑
東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記録した碑。
御聖徳の碑
明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和十三年(1938年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。
旗台
石井鐵太郎氏胸像
常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽くし、昭和五十年に社会福祉国労を検証し名誉区民となった。
夜明けの像
昭和二十四年に二宮尊徳像が建立さられたが、昭和四十二年に石井鉄太郎によって、現在の子どもたちが親しみやすい像ということであらためて新聞少年の像が贈られた。

「灯籠」としか記載されていない「ラジオ塔」。
ちょっと寂しい。

東京市
品川聖蹟公園
昭和13年11月開園

聖蹟公園由来の碑

昭和13年に東京市によって建立された「聖蹟公園由来の碑」。摩耗していて判読不能。。。

御聖徳の碑

昭和13年11月15日建立。聖蹟公園の開園に際し、 明治天皇の御聖徳を記念する碑。

御聖徳の碑

御聖蹟

ボール遊びの弊害かもしれないが、激しく摩耗しており、判別不能。畏れ多いことではある。

旗台

のちに両サイドが増設されたのか、寄贈〇〇、読めなくなっている。

石井鐵太郎氏胸像

品川区名誉区民第一号、という。

夜明けの像

聖蹟公園。
江戸の品川宿から明治の行在所、昭和のラジオ塔まで、地味に歴史が詰まった公園。面白い。

品川区立聖蹟公園

品川宿本陣跡

もちろん本陣跡ゆえに、東海道に面している。

場所

https://goo.gl/maps/q1jUwoM7U1QtX12x7


関連

殉職救護員之碑・日本赤十字社埼玉県支部(浦和)

浦和の調神社の隣の調公園の隣に、日本赤十字社埼玉県支部がある。
その駐車場の片隅に、従軍看護婦を顕彰する慰霊碑がある。

殉職救護員之碑

日本赤十字従軍看護婦(第一種服装)の銅像。見事な造形。

殉職救護員之碑
博愛人道の赤十字の旗のもと、身を捨て、家を忘れて、召に応じ不眠不休、自愛懇切に、ひたすら戦傷病者の救護に奉仕する姿は、崇高の限りである。然も大陸の曠野に太平洋上の孤島に、或いは人跡未踏のジャングルに、その若き一生を捧ぐるに至っては実に一死仁を成すと謂うべきである。
茲に同志相謀り、殉職救護員のため、その徳を頌し又もつて永く吾等の師表として敬仰する姿となす
 昭和31年3月31日
  殉職救護員慰霊碑 建立委員会

「 殉職救護員之碑 」のプレートの左右に、32名の殉職救護員の名が刻まれている。
救護員、救護看護婦副監督、救護看護婦長、そして救護看護婦のお名前。

合掌

裏面。

精密な造形。

日本赤十字社 埼玉県支部

場所

https://goo.gl/maps/ojZMpUyhTotduBzJ9

※撮影2022年2月


関連

「日本の近代化を支えた砂利鉄道」西武安比奈線廃線跡の散策・その2(川越)

埼玉県川越市。
西武川越線「南大塚駅」から「安比奈駅」を結んでいた貨物線。
日本の近代化を支えた砂利鉄道の跡を散策してみる。

本記事は、「その2」です。「その1」は以下から。

「砂利鉄道」と「西武安比奈線」

入間川で採取した砂利運搬を目的とした「砂利線」として、1925年(大正14年)2月15日に開業。
砂利の需要減や採取規制強化により、1963年(昭和38年)休止。2017年(平成29年)に正式に廃線となった。

1900年代初頭に河川敷で採取した砂利を首都圏でのコンクリート建設資材などで活用するために「砂利鉄道」の敷設が相次いだ。東京近郊では入間川や多摩川などで砂利採取が活発であった。
しかし砂利採取は、堤防の破壊、河床面の低下、水質汚染などを巻き起こすこととなった。
戦後、1964年に多摩川、相模川、入間川、荒川などの主要河川での砂利採取は全面禁止され、近代化を支えていた砂利鉄道の役目も終わった。

ちなみに、安比奈は「あひな」と読む。

西武安比奈線では、かつて鉄道聯隊で活躍していた蒸気機関車も戦後、「安比奈のコッペル」として走っていた。


西武安比奈線廃線跡の散策

西武池袋線「南大塚駅」。北東方面にかつての線路跡が伸びている。
沿線に沿って歩いてみようと思う。

続きの場所はここから、

https://goo.gl/maps/koorCr847N5jWNwd6

廃線跡近くの小路から線路が見えた。ちょっと覗いてみる。

あぁ、これは良いですね。

道路と交差。

橋が見えた。

かつて、遊歩道として公開されていたらしいが、いまは再び封鎖。

再度の木枠は遊歩道時代の名残。

そのまま廃線跡を意識しながら、脇のあぜ道をあるく。

廃線跡と交差しながら。

良いカーブ。木の成長が根っこでレールを持ち上げている。

レールが盛り上がってる。。。

場所

https://goo.gl/maps/3AhMxL8JLKDvB5wP7

廃線跡は、川越越生線「八瀬大橋」によって分断。

八瀬大橋をくぐって、反対側に。

入間川の河川敷へ。

バイクの講習コースがとなりに。

場所

https://goo.gl/maps/k89R2Q6CUCm612CEA

切断時に、変な力が加わったのか。すごい曲がり方をしている。

SKマテリアル安比奈工場が、今も砂利を採掘しており、入間川の南北にパイプラインが渡されている。

その下を、安比奈線の廃線跡が伸びる。

伐採されていた。

根っこがすごい。

根っこの力で、レールが浮いている。

しかし、力強い根を這わせていた樹木は伐採されてしまった。

安比奈駅にむかってレールが分岐している。その後、分岐点を遮るかのように、大木が立ちふさがり、そしてその大木は伐採され、分岐するレールと切り株が、無用のものとして残った。
すごい光景。

レールを遮る切り株。正直いってわけがわからない。

この先は、安比奈駅跡。

場所

https://goo.gl/maps/pmYCiSwDfNNfZGPn6

安比奈駅跡。

砂利鉄道として、近代化を象徴するコンクリート建材を運び出していた鉄道は、戦後に需要が低下し、そして、廃線。廃線跡のレールを押しのけるかのように成長した樹木も伐採され、不思議な空間が目の前に広がっていた入間川河川敷の安比奈線。なかなかの見応えでした。

11時に南大塚駅を散策開始し、12時30分に安比奈駅跡に到着。
そこから南大塚駅に戻ってきたのが、13時15分。

約8キロで2時間15分、でした。

※撮影:2022年2月

「日本の近代化を支えた砂利鉄道」西武安比奈線廃線跡の散策・その1(川越)

埼玉県川越市。
西武川越線「南大塚駅」から「安比奈駅」を結んでいた貨物線。
日本の近代化を支えた砂利鉄道の跡を散策してみる。


「砂利鉄道」と「西武安比奈線」

入間川で採取した砂利運搬を目的とした「砂利線」として、1925年(大正14年)2月15日に開業。
砂利の需要減や採取規制強化により、1963年(昭和38年)休止。2017年(平成29年)に正式に廃線となった。

1900年代初頭に河川敷で採取した砂利を首都圏でのコンクリート建設資材などで活用するために「砂利鉄道」の敷設が相次いだ。東京近郊では入間川や多摩川などで砂利採取が活発であった。
しかし砂利採取は、堤防の破壊、河床面の低下、水質汚染などを巻き起こすこととなった。
戦後、1964年に多摩川、相模川、入間川、荒川などの主要河川での砂利採取は全面禁止され、近代化を支えていた砂利鉄道の役目も終わった。

ちなみに、安比奈は「あひな」と読む。

西武安比奈線では、かつて鉄道聯隊で活躍していた蒸気機関車も戦後、「安比奈のコッペル」として走っていた。


西武安比奈線廃線跡の散策

西武池袋線「南大塚駅」。北東方面にかつての線路跡が伸びている。
沿線に沿って歩いてみようと思う。

南大塚駅北口。
11時散策スタート。

コンクリート枕木が山積み。

道路部分に線路が残る。

場所

https://goo.gl/maps/c86ndHKjifRoMcx87

レールが端に寄せられている。

場所

https://goo.gl/maps/mhy88LYFuRsmaSUFA

国道16号と交差。渡りたいけど、渡ってはだめ。迂回する。

横断禁止 わたるな危険!

国道を迂回して北側に。
廃線跡は立ち入り禁止なので、迂回しながら廃線跡を辿る。

ここから北はレールが残っている。

歩行者用の通路。車は入れないように意図的に細くしているのかも。

https://goo.gl/maps/XM2aP6XwttTy6PDBA

柑橘と廃線。絵になる組み合わせ。

焼団子屋さん。入間川街道と交差。

場所

https://goo.gl/maps/gKTQgJ6qBNnPZte87

住宅地が終わり、目の前がひらけた。
この先に新河岸川。

場所

https://goo.gl/maps/V7pMRxUwDh9H5rS2A

用水にかかる小さな鉄橋が見える。

畑のあぜ道から回り込めた。枕木も残っている。

もうひとつ鉄橋がある。

場所

https://goo.gl/maps/XeEf7y8vT1eT3cCW6

新河岸川にかかる鉄橋。こちらも枕木が残っている。

鉄橋。

新河岸川。ここでは小さな小川。下流の岩淵水門で隅田川と合流している。

田んぼのなかを伸びる廃線跡。

場所

https://goo.gl/maps/DyxkXffgo7U84ehm8

場所

https://goo.gl/maps/EysDKQ6c35nWy7Dp8

この先の森がトンネルのようになっている。

場所

https://goo.gl/maps/3d8WY4muT2Vy5RwY7

場所

https://goo.gl/maps/TRnsH9g5MTNaAWtr9

森の中へ。

この先は、「その2」で。

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(横浜・川崎)

神奈川県と千葉県に、砲弾を抱えた狛犬がいる。

なんでも、神奈川県横浜市内の2社、川崎市内の2社、千葉県館山市内の1社の合計5社にて、境内に「砲弾を抱えた狛犬」こと通称「砲弾狛犬」が現存しているという。

いずれも明治34年(1904)から明治35年にかけて日本とロシアの間で勃発した日露戦争での戦勝記念で建立奉納されたもの。
神社において伝統的であった「狛犬」が、近代の熱狂の中で、砲弾を抱え始めたという、ひとつの時代の象徴的な姿、でもある。

そんな「砲弾狛犬」の姿を、今回は、横浜と川崎に見に行ってみようと思う。

※千葉館山にも行きました。


本牧原の吾妻神社「砲弾狛犬」(横浜市)

神奈川県横浜市中区本牧原の鎮座。旧社格では村社。
御祭神は日本武尊。

南北朝期の文和3年(1354年)、新田義貞の家臣であった篠塚伊賀守平重広が勧請したという。

社頭の左右には獅子山があり、砲弾を抑えつけた狛犬がいる。
狛犬は、明治39年(1906)5月の建立。日露戦争戦勝記念で建立された。

阿行(開口)の狛犬は「戦捷」の球型砲弾、吽行(閉口)の狛犬は「祈念」の椎実型砲弾を抑えつけている。

戦捷 ( 球型砲弾 )

祈念 ( 椎実型砲弾 )

りっぱな獅子岩。子獅子を従える。

王師渡海 屡戰屡克 豈獨人力 惟神之徳

嗚呼神徳 何以永憶 爰設狻猊  撰文以刻

場所

https://goo.gl/maps/8i5z5svQ19rydqLN8


お三の宮日枝神社「砲弾狛犬」(横浜市)

神奈川県横浜市南区山王町の鎮座。旧社格は村社。


日露戦争戦勝記念として、明治40年10月建立。
本牧原の吾妻神社に遅れること1年半後に奉納された。おそらくは同じ石工に手によると思われる。
昭和11年9月再建。

マスクをしているので、阿吽がわからないが。。。
阿行(開口)の狛犬は「戦捷」の球型砲弾、吽行(閉口)の狛犬は「祈念」の椎実型砲弾を抑えつけている姿は、本牧原の吾妻神社と同じ。

戦捷 ( 球型砲弾 )

祈念 ( 椎実型砲弾 )

日露戦戦捷為記念
 明治40年10月之建

皇徳溢内 威稜耀外 海表萬里 遠掲大旆

維勇維武 献靖報國 凱歌髙揚 ■■神徳

公式サイト

http://www.osannomiya-hie.or.jp/

場所

https://goo.gl/maps/wdz5KeAWbvGFoD1J6


川崎大島の八幡神社「砲弾狛犬」(川崎市)

川崎市川崎区大島の鎮座。
川崎市大島地区の鎮守様。

砲弾狛犬は明治39年10月建立。
阿吽の狛犬のうち、口を閉じた吽行の狛犬の脚下に「椎実型砲弾」がある。
阿行の狛犬は球体だが、何やら違和感がある。もしや、この部分だけ後世の作り変え?

台座には、陸軍を表す「小銃」と海軍を表す「錨」が刻まれている。

凱旋記念の砲弾狛犬。

凱旋

紀念

明治39年10月建之

阿行の狛犬は顔が破損。そして、球体が不自然。

台座には、旭日旗。

旭日旗の台座。

場所

https://goo.gl/maps/FzFLGeEaYqf7EK6x5


大戸神社の「砲弾狛犬」(川崎市)

川崎市中原区下小田中の鎮座。
戦国時代の永正年間(1504年-1521年)に、世田谷吉良氏家臣の内藤豊前の舎弟にあたる内藤内匠之助が信濃国戸隠大明神を勧請したことにはじまるという。
御祭神は、手力雄命、ほか。

砲弾狛犬は、明治40年(1907年)10月吉日建立。日露戦争戦勝記念。
阿吽の狛犬が対で砲弾(椎実型砲弾)を抱えている。砲弾には金属の輪が施されており、意匠に富んでいる。

閉口している吽行の砲弾狛犬は、砲弾を体側に傾けている。

日露戦捷紀念

一方、開口している阿行の砲弾狛犬は、砲弾を外側に傾けている。

日露戦捷紀念

境内には、「平和の礎」碑があった。昭和43年建立の慰霊碑。

平和の礎
 川崎市長 金刺 不二太郎 書

 今は昔昭和6年満州事変に始まる一連の大東亜戦争が20年8月痛ましくも玉音放送を以て終結する迄日本は実に有史未曾有の非常時でありました。此の間祖国の平和の為に氏神大戸神社社頭より聖戦に従軍したる者百有余名万里の波濤を越えて各地に勇戦したがあゝ悲しい哉内30余名の人々は酷寒の大陸に灼熱の孤島に草むす屍水つく屍とあたら若き生命を散華して再び故国の土を踏むことは無かったのであります。
 やがて星移り年は変わって戦後の混乱も漸く治まり独立日本に平和甦る此の時恰も明治百年を記念し従軍生存有志一同を以て戦歿者慰霊碑平和の礎を縁の大戸神社境内に建て、国に殉じた今は亡き友人たちの霊を慰め永しへに日本よ平和であれと切に祈念するものであります。  昭和43年9月 建立
   従軍有志

場所

https://goo.gl/maps/KyLSoGE8QbWK28zk9


付記
砲弾狛犬とは関係ありません。。。
川崎をうろうろして、立ち寄りついでに。

稲毛神社(稲毛公園)の「平和の塔」

稲毛神社の瑞垣は皇紀2600年記念。昭和15年’(1940年)。

稲毛神社の隣にある稲毛公園にひっそりとある「平和の塔」。
もともとは、「忠魂碑」であったという。

平和の塔としては昭和43年竣工。
しかし、いわれてみれば「台座」の造りは、昭和43年のデザインではないだろう。戦前の忠魂碑の台座が流用されたことが推測される。

平和の塔の裏面。何かを無理矢理に剥ぎ取ったような跡がある。

場所

https://goo.gl/maps/AkN9o7RZMqenykeR9

※撮影:2022年2月


砲弾狛犬5社

神奈川県横浜市南区山王町5-32
 お三の宮日枝神社

神奈川県横浜市中区本牧原29-18
 吾妻神社

神奈川県川崎市中原区下小田中1-2-8
 大戸神社

神奈川県川崎市川崎区大島3ー4ー8
 八幡神社

千葉県館山市長須賀406
 熊野神社

広島陸軍被服支廠倉庫跡

広島に出張があった際に、スキマ時間で散策をしてみました。
時間が捻出できなかったのでピンポイントの散策になりましたが。


広島陸軍被服支廠倉庫(出汐町倉庫

現存する4棟のうち、第 1~3 号棟は広島県所有。第 4 号棟は国所有(中国財務局)。
最大級の被爆建物。
国内に現存する最古級の鉄筋コンクリート造建築物として建築史上でも貴重。解体方針も打ち出されていたが、保存活動により、広島県は保有する3棟を耐震補強し保存する方針を示した。

大日本帝国陸軍の被服工場として建設された施設。
兵員の軍服や軍靴などを製造していた。

1905年(明治38年)4月陸軍被服廠広島出張所として開設。
現存する10-13番庫は、1913年(大正2年)8月竣工。
1907年(明治40年)11月に陸軍被服廠支廠に昇格。

1945年(昭和20年)8月6日。
原子爆弾により広島市は壊滅。爆心地から約2.7km離れていた被服支廠は外壁の厚みが60cmと厚かったこともあって焼失や倒壊は免れ救護所として使用。多くの避難民がこの地で息を引き取った。このとき爆風により大きく歪んだ窓の鉄製扉は、現在もそのまま残されている。

戦後、旧被服廠の敷地や建物などは徐々に解体され、現存は4棟のみとなっている。
南の1棟は広島大学が学生寮として使用したのちに国の管理に、西の3棟は日本通運出汐倉庫(旧日本通運出汐倉庫1-4号棟)として使用していたが、1995年に日通は使用を停止し県に譲渡されている。

現存する4棟、広島陸軍被服支廠10-13番庫は1913年(大正2年)8月に竣工。L字型に並んでいる。現在、1-3号棟は県が、4号棟のみ中国財務局が所有し、4棟とも県が一括管理。


詳細情報は、いかに詳しい。
アークウォーク広島

https://www.oa-hiroshima.org/buildings/buildings05.html

旧被服支廠の保全を願う懇談会

http://hifukushisho.jp/index.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B26-C2-21
昭和14年(1939年)12月6日、日本陸軍撮影の航空写真

被爆前。

中央の山が「比治山」。「陸軍墓地」がある。
比治山の南西が「広島要塞砲兵聯隊(電信第2聯隊)」
比治山の南が「広島陸軍被服支廠」
比治山の南東が「広島陸軍兵器支廠(広島陸軍兵器補給廠)」

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M251-46
昭和22年(1947年)4月14日、米軍撮影の航空写真

被爆後。

下記写真の北東が爆心地。京橋川より西側が、。。

合掌

上記の写真から、それぞれ 広島陸軍被服支廠倉庫 を切り取り。

北から並んでいる3棟が「1号棟」「2号棟」「3号棟」。広島県所有。
南側で横になっているのが「4号棟」。国(中国財務局)所有。


広島陸軍被服支廠倉庫跡の散策

敷地内の立入りは広島県庁へ事前申込みで、広島県財産管理課まで見学申請が必要。(平日のみ)
当日は県庁まで鍵の受取と返却が必要。建物内見学は不可。

私は、さすがに時間がなかったので、敷地外の道路からの見学を。
敷地外からでもわかるレンガ建造物に圧倒的な重厚感に圧巻。
そして、爆風の衝撃を残す痕跡に、静かに手を合わせる。

被爆建物
A-Bombed Buildings

被爆時の名称 
広島陸軍被服支廠
(爆心地から2,670m)
この建物は、1945年(昭和20年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。被爆直後は臨時救護所となり。避難してきた多くの被爆者が次々と力尽きていきました。爆心地の方向に面していた西側の鉄扉のいくつかは、被爆時の爆風で変形した痕跡をとどめています。
 広島市

以下、写真にて。

爆風の圧で押し曲げられた鉄扉。

時間にあるときに、比治山を交えて、また改めて足を運びたいと思います。

※撮影:2021年4月


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