千葉県忠霊塔(千葉陸軍墓地跡・千葉公園)

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千葉公園は戦前は鉄道連隊の演習場や陸軍墓地があった。しばらく前までは千葉縣護國神社もあったが、令和4年に遷座している。

遷座前

平成29年8月20日参拝 ちょっとした時間が出来たので、脚を伸ばして千葉駅から護國神社へ参拝を。 令和4年に千葉縣護國神社は御...

遷座後

千葉縣護國神社(千葉県護國神社)が令和4年(2022年)に遷座しました。 ご遷座した千葉縣護國神社 千葉県出身...

また、千葉公園は下記の記事にも記載している。
千葉公園の鉄道連隊は以下から。

平成29年(2017)8月撮影 千葉縣護國神社から千葉公園に足を伸ばしてみました。 ...

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千葉県忠霊塔
(千葉陸軍墓地跡)

かつての「千葉陸軍墓地」
戦時中に忠霊塔の建設が始まっていたが、工事途中で終戦。戦後の昭和27年に工事が再開され 昭和29年4月建立。
日清戦争以降の戦没者を追悼するとともに恒久平和を祈念して千葉県が建設し管理している。(なお千葉公園そのものは千葉市管理、忠霊塔は千葉県の管理。)

千葉県陸軍合同碑

海軍の碑

謎の構造物

日中戦士鎮魂碑

由来記
 我が楓4256部隊(歩兵212聯隊)は、昭和14年陽春、佐倉57聯隊に於て第32師団管下の部隊として編成。
 軍旗を親授され、同年端午節屯営を出発北支派遣、山東省魯西道の治安警備に当たり、昭和19年壕北ハルマヘラに転進現地において軍旗を奉焼。 渡史数か月後には第1大隊、長田部隊長を始め数百名の戦死者を輩出、部隊は壊滅状態となる。所謂「梁山事件」である。各隊は駐屯地周辺における寧日なき作戦、討伐行は、日中彼我双方に幾多の戦死者を出す。 日中両国戦士の立場に相反し、砲火を交え、救国の美名の下、戦線に立ち散兵戦に散華した。
 日中両国戦士の遺族一統の心中を思う時正に断腸の感あり。
 日中国交正常化した今我が魯桜会有志は「永久不戦」を誓い両国戦没者の怒れる魂よ鎮まり給えと、「日中戦士鎮魂碑」を建立したものである。
  昭和52年4月吉日 建立


千葉県出身 陸軍少年飛行兵 慰霊之碑

千葉県出身 
陸軍少年飛行兵 
慰霊之碑
 千葉県知事 友納武人謹書

平和の翼(由来)
 戦火絶えて27年 いま私達の胸に去来するものは、大空に憧れ、大空に生き、そして大空に散って行った君達のあの林檎のような頬っぺと澄みきった眼差しだ。今日の平和な日本の繁栄は君達の尊い尊い死によって築かれたものなのだ。
 若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れぬために、再び戦争を繰り返さぬことを誓いながら、私達は「平和の翼」の碑を此の地に建てた。
 亡き友よ、安らかに眠り給え。そして、愛する日本を、美しい郷土を、永久に護り給え。
  昭和47年8月 建立
   元陸軍少年飛行兵 千葉県出身 生存者 一同


慰霊碑 支那駐屯地歩兵第三聯隊

墓碑
 この聯隊は北清事変以来北支に駐留した支那駐屯軍の伝統を継ぎ 昭和13年3月中国北京において編成され、その兵員は千葉県人を主体とし、東京埼玉山梨その他の各府県出身者により構成されていた。
 その後聯隊は北京保定附近の警備に任じ同年5月一部をもって徐州会戦に臨み 同年7月新たに編成された第27師団(極兵団)の基幹部隊として武漢攻略戦に参加し、赫々たる武勲を遺し 発祥の地北支に帰還し冀忠及び冀東地区の警備討伐に任じ 昭和18年戦力培養のため満州国錦県に移駐した。翌19年再び中国戦線に出動、京漢作戦、湘桂作戦に参加し、転じて江西省在支米空軍基地を覆滅し、さらに広東省に進出し三南作戦江西作戦を闘い、北上中、南昌南方地において終戦を迎えた。
 この間将兵は炎熱に耐え、酷寒を忍び峻嶮に挑み、困苦欠乏を極めたなかに常に勇戦して聯隊の名誉を高めた。不幸戦歿した2300余柱の英霊は故国の平和と繁栄を知ることなく今なお中国大陸の山野に眠っている。この尊い犠牲こそ今日の礎石であったことを銘肝し、ここ郷土の地に碑を刻んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和54年7月22日
  支駐歩三戦友一同 建立

愛馬慰霊


鎮魂 シベリア強制抑留死没者慰霊碑

鎮魂
悲惨を極めた第2次大戦は、日本が連合国のポツダム宣言を受諾して終結した。
しかし、多くの将兵は酷寒のシベリアなどに抑留され、長期にわたり、労役に就かされた。
戦友の多くは、厳しい環境の中で病と戦いながら望郷の願いも空しく、凍土の中に永遠の眠りについている。
亡き同胞の昔日を偲び世界の恒久平和を祈念して、この碑を建立する。
 1996年3月吉日
 財団法人全国強制抑留者協会千葉県支部連合会 建立

大地

忠魂(鉄道隊創立80周年記念忠魂碑)

日本鉄道隊創立80周年記念忠魂碑改築由来
 我が鉄道隊の淵源は日清戦役直後中野に1大隊が創設されたのに始まる。爾来北清事変・日露戦役・青島戦役・シベリヤ出兵・満州事変と累次の征戦に参加し、赫々たる武勲を奏した。 此の間大隊は連隊に改編千葉津田沼に分屯していたが大正7年夫々鉄1、鉄2にかくちょうされ、更に満州事変後満州に第3・第4が新設常駐新たに装甲車の装備も加えられ名実共に野戦鉄道隊たるに至った。
 支那事変勃発するや鉄道隊は殆どその全力を以て北支に転戦常に軍の戦闘にあって活躍鉄緒戦を有利ならしめ爾来鉄一は中支に、鉄五は南支に、次いで仏印に転戦大東亜戦争突入と共に鉄五・鉄九は海陸相携えてマレー半島を席捲爾後鉄五はビルマに転進戡定作戦終了と共に反転鉄九と共に困難辛苦に絶する世紀の大作戦泰緬鉄道の建設等其戦力を遺憾なく発揮軍の作戦に貢献するところ頗る大であった。此の間或は剣電弾雨に斃れ、或は瘴癘病魔に斃れ名を鬼籍に列つれ、多くの英霊に対し、其の遺勲を伝え、追慕惜く能わざるものあり、茲に碑を建立し、其の遺勲を永遠に伝え、其の霊を慰めんとする次第である。
  昭和50年11月23日 建立
   地元発起人代表 鉄道聯隊会会長 藤原勝正 誌

「荒木大尉の脱線器装着戦闘場面の銅板額」について
 大東亜戦争が勃発して軍需物資が欠乏し、町内の金属類「火鉢、半鐘」と同様に大尉の銅像も供出されることになった。
 台座を壊す際に、この解体作業を担当した石屋の主人が大尉の武勲を語るこの銅板額の処分されるのを惜しみ、密かに自宅に持ち帰り保存していた。その後(昭和40年頃)旧鉄道第1聯隊の遺品として提出され、現自衛隊下志津高射学校資料室に保管されていた。
 この度、銅板額と銅像の除幕式に、当時学生で参列し、その後鉄道兵となり、また自衛隊のOBでもあり、現在、隊友会千葉県支部連合会の参与でもある私が、この銅板額をお預かりすることになった。今はその姿もない旧鉄道連隊の一部分の戦績に過ぎないかもしれないが、荒木大尉の武勲を語る貴重な記念品として、鉄道隊創立百周年迎えるに当り行事の一端として、千葉県護国神社境内に在る鉄道隊の忠魂碑の傍に建立し、後世に伝える。
  平成7年
   全国鉄道連隊連合会 千葉市 黒川日出松 記


忠魂塔からは、すこし離れた場所にあるが、同じ千葉公園内に追加された新しい保存展示。あわせて掲載しておきます。残念ながら2020年に解体された格納庫構造物の一部。

陸軍気球連隊
第二格納庫のダイヤモンドトラス

 陸軍気球連隊は、昭和2年(1927年)現在の埼玉県所沢市から千葉市稲毛区作草部に移転してきた日本陸軍で唯一の軍用気球を扱う連隊でした。気球連隊では敵地の偵察や砲弾の着弾点を観測するための訓練を行い、戦時中は気球部隊を戦地に派遣し、太平洋戦争末期には風船爆弾の実施部隊となりました。
 気球連隊には気球を入れる格納庫が2つあり、第二格納庫は昭和9年(1934年)に完成、大きさは間口38m、奥行き44m、高さ18.5m、かまぼこ屋根の巨大な建物でした。昭和20年(1945年)の千葉空襲で焼け残った第二格納庫は戦後長く民間の倉庫として使われましたが、令和2年(2020年)に老朽化のため解体されました。
 この鉄骨は第二格納庫で使われた「ダイヤモンドトラス」と呼ばれる立体構造物の一部で、解体時に切り出したものです。細い鉄骨材を三角形につくり、アーチ型に組み合わせることで、柱のない大きな空間を足場なしで建設することができる、構造技術者 野澤一郎氏による戦前の著名な発明でした。
 この展示はコンクリート基礎から斜めに立ち上がるダイヤモンドトラスを再現しており、外側には赤いサビ止め、内側は銀色のペンキで塗られていたものを復元しています。

https://www.city.chiba.jp/somu/shichokoshitsu/hisho/hodo/documents/220401-2-1.pdf

知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラスについて展示します

※撮影は2022年5月


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