平成30年2月‐4月
世田谷区池尻・三宿・下馬、目黒区駒場・大橋界隈の散策
駒沢練兵場や陸軍騎兵学校、騎兵第一聯隊、陸軍獣医学校、糧秣廠、野砲兵第一聯隊など。
世田谷区の池尻・三宿・下馬や目黒区の駒場・大橋といったエリアはかつての陸軍軍用地であった。
以下に残存する面影を求めつつ散策した記録を。
なお本記事は平成30年2月及び4月の幾日かにエリアを分割して散策をしております。
目次
位置関係
参考地図
今昔マップ on the webさんをベースに、グーグル地図は実際に散策したエリア。それぞれに補足記載。駒澤練兵場(現在の三宿駐屯地)を中心に軍用地が広がっているのがわかります。
上目黒氷川神社
池尻大橋駅近くに鎮座しているのが「上目黒氷川神社」
まずはここから行きましょうか。
ん?戦跡散策ですよね、神社??
実は神社境内の裏側には「陸軍騎兵実施学校」(のちの陸軍騎兵学校)があったのです。
現在の駒場高校や目黒区立第一中学校、東邦大学医療センター大橋病院のあたり。
「上目黒氷川神社」境内社「稲荷神社」後方。
神社敷地の隣りの私有地にありました。
陸軍境界石(陸軍騎兵学校・上目黒氷川神社境内)
明治期に上目黒氷川神社の後方に展開されていた「陸軍実施学校」は、大正5年に習志野に移転し「陸軍騎兵学校」と改称。
目黒の騎兵学校跡地には陸軍輜重兵第一連隊が駐留。その名残。
仰光寮
神社から北へ。 都立駒場高校と目黒区立第一中学校の間の道路の突き当り、高校の敷地内。
「仰光寮」大正7年 香淳皇后が皇太子(後の 昭和天皇)妃に内定された大正7年に御実家の久邇宮邸内に建てられた建物。
当初は麹町一番町の久邇宮邸内にあったが昭和26年に現在地に移築という。(敷地外より撮影)
天覧台
都立駒場高校グランドを周回するように西側に。
このグランド、かつての「陸軍輜重兵第一連隊の射撃場」の地であり、さらには「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」の地でもあり。
そんなグランドと大橋住宅の間に「天覧台」という碑がある。
そして東側には前述の「仰光寮」の屋根も垣間見れる。
天覧臺(天覧台)
陸軍中将畑英太郎書 (畑俊六の兄)
由来記
記念碑天覧台は 明治天皇親しく此の台上より陸軍乗馬学校(後の陸軍騎兵学校)卒業馬術を明治25年(1892年)天覧なされてより延11回 大正天皇におかせられても4回行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が建立したものである
以来部隊の象徴として日夜心身の錬磨に努めていたが昭和20年8月復員発令に伴ない題字及び碑文を抹消放置したまま30有余年を閲した
此の碑を心の糧として軍の補給輸送に任じ祖国の平和を祈り異郷に散華された数多将兵の忠誠を顕彰し併せて陸軍輜重兵第一聯隊及び関連部隊の栄誉を永遠に伝えるため戦友相寄り相計ると共に明治神宮宮司高澤信一郎先生の題字復元を得て修理を完成した
昭和56年11月14日
天覧台保存会
記念碑天覧台は明治25年以来
明治天皇11回
大正天皇4回
に亙(わた)り陸軍乗馬学校卒業馬術展覧のため行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が之を建立した
天覧台周辺地図が掲示されてました。
大正5年(1916)に「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」が習志野に移転(陸軍騎兵学校)したのち、この地には「陸軍輜重兵第一聯隊」が駒場高校及び区立第一中学の地に、「陸軍輜重兵学校」が駒場東邦中学高校及び筑波大学附属駒場中学高校の地に展開された事がわかる。
馬神碑
天覧台から西に。「陸軍輜重兵学校」があった駒場東邦中学校・高等学校の南西、騎兵山とも呼称されている斜面(高層マンションが建ってます)に碑が残っておりました。
「馬神碑」(昭和5年7月建立)
戦没した馬たちを霊を祀る碑 騎兵にとって馬は何よりも大切な相棒 蹄鉄と人参が備えてありました
馬神碑のある騎兵山はすなわち「騎兵第一聯隊」の跡でもあり。
で、その聯隊跡を物語る跡地を探してプチ迷子。
慌てて検索してみると扉付きの階段の上に公園があるらしく、そこが聯隊跡を物語る碑の場所。行ってみます。(扉の開放しっぱなしはNG、立ち入りの制限はなし)
騎兵第一聯隊阯
戦死病没者表忠碑
明治二十七八年及三十七十八年戦役(日清戦争及び日露戦争)
「戦死病没者表忠碑」
陸軍中将大勲位功四級 載仁親王 書
裏
明治28年9月 陸軍騎兵中佐 秋山好古 建立
明治39年11月 陸軍騎兵中佐男爵 名和長憲 再建
騎兵第一聯隊阯
「戦死病没者表忠碑」脇石碑
征清之役戦死者哀
悼碑建設工ヲ竣ル
滋二其姓名ヲ勒シ
永ク後世ニ傳フ
明治29年6月30日 騎兵第一聯隊長 秋山好古 謹記
日清戦争時、秋山好古は陸軍騎兵少佐(戦中に中佐昇進)として出征。
明治29年8月には陸軍乗馬学校長(のち陸軍騎兵実施学校長)に就任。
騎兵第一聯隊阯
「騎兵第一連隊創設百年記念」
竹田恒徳(陸軍中佐)
昭和48年3月吉日 騎兵第一聯隊会
…昭和二十年一月今田義男聯隊長以下全員悉く国難に殉じ斃れて後已む壮烈真に鬼神も為に哭く…先人の英魂を弔い其遺烈と勲業とを永く後毘に伝えんが為、聯隊の旧阯駒場台上忠魂碑の傍に此碑を建つ
騎兵第一聯隊阯
満洲事変・支那事変・大東亜戦争
戦没者慰霊塔
木標に書かれた文字は風化しており辛うじて読み取れるものでした。
日清・日露戦争の表忠碑の隣に。
日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争…
厳粛な空間が保たれている騎兵山の慰霊碑で、心静かに哀悼と感謝を捧げる…
陸軍獣医学校跡
騎兵山から北上。突き当りにある学校が「駒場学園高等学校」、この地はかつての「陸軍獣医学校」 。
騎兵と馬、馬と獣医。深き関係。 秋山好古は明治31年に駒場の陸軍騎兵実施学校長に赴任し、翌年には陸軍獣医学校長を兼務している。
駒場学園高等学校の守衛さんの許可を得て入構し跡地の碑を見学。
陸軍獣医学校軍馬碑
過ぐる大戦において多くの俊馬が大陸にまた南方に徴発され一頭も帰還することなく彼の地に没した
人為による無謀とはいえそのいたみを忘れぬことこそ我らの務めである
軍馬と因縁浅からぬこの地に小碑を建立し永遠にその霊を慰める
平成2年5月1日 駒場学園高等学校 校長 笠原喜四郎
陸軍獣医学校にあった「動物慰霊之碑」は両国回向院に戦後に移転している。
陸軍境界石(陸軍獣医学校)
陸軍獣医学校のあった駒場学園高等学校の東側の道路に「陸軍境界石」がいくつか残っておりました。
保育園建設敷地に沿って2つ。これはこのまま残ってくれるかな、保育園の完成後にどうなるかは気になるところ。
※保育園完成後に撤去されました。。。現存してません。。。
駒場学園高等学校と隣接する富士中学校の東側にもありました。
「陸軍境界石」(陸軍獣医学校)
陸軍省と見えますね。
笹藪の中に唐突に境界石を見つけて、ちょっと嬉しくなりました。 陸軍軍用地であったことを物語る歴史の証人。
この場所からそのまま北上していくと「京王井の頭線」。
その北側は駒場東大。
駒場東大には東京帝大航空研究所があったり、駒場公園前田家本邸には中島飛行機本社が疎開してきたりしますが、それはまた別の機会に。
池尻稲荷神社
この神社の南方には「駒澤練兵場」が展開。
今昔マップ on the web に合わせてみると、駒澤練兵場は現在は世田谷公園・自衛隊中央病院・三宿駐屯地などになっていることがわかります。
駒澤練兵場の排水水路・排水溝跡
神社の脇にちょっとした空間が不自然に残っていて。
これが「駒澤練兵場の排水水路・排水溝」の跡といわれている暗渠。
神社の敷地に沿うようにウネウネと排水溝跡が残っておりました。
池尻稲荷神社から駒澤練兵場方面へは暗渠が通路として活用されている。
(写真1枚のバイクの先が神社)
練兵場方面に進んでいたら途中で暗渠は見失いましたが。
陸軍糧秣廠の馬糧倉庫
池尻稲荷神社と駒澤練兵場のあいだあたりに。
「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の転用倉庫が残っている。
現在は「ヤマト運輸 太子堂センター」と「生協パルシステム東京池尻センター」が利用している倉庫。
外装は今風だけれど、骨組は往時の基礎を活かしているようです。
かつての「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の近くに、今は「学校法人 食糧学院 東京栄養食糧専門学校」。
なんだかんだで食糧つながり。
食糧学院のルーツは大正7年発足の食糧問題研究会。 昭和14年に食糧学校が開校。初代学長は三井清一郎陸軍中将・貴族院議員。 戦後の昭和21年に現在地に移転している。
陸軍境界石(陸軍糧秣廠)
「食糧学院」かつての「陸軍糧秣廠」の敷地に沿って歩いていると、ありました。(サイト「帝都を歩く」さんの)案内つきです。
「陸軍用地」(陸軍境界石)
黒く塗っているのが斬新。わかりやすくはありますが。
このあたりが「駒沢練兵場」の北端。
野砲兵連隊の兵営
駒沢練兵場西側。駅的には池尻大橋駅より三軒茶屋駅のほうが近いです。
例のごとく今昔on the web で補完。
駒沢練兵場西側には野砲兵連隊の兵営が集中。
近砲=近衛野砲兵聯隊 →昭和女子大
野重砲八=第一師団野戦重砲兵第八連隊
野砲一=第一師団野砲兵第一連隊 →下馬アパート
第一師団野砲兵第一連隊兵舎跡
下馬アパート近く。野砲兵第一連隊兵営の地。今となっては時代錯誤感にあふれる木造平屋建造物が残っている。
東京世田谷某国会館 (写真見ればわかりますが某国と伏せます) かつての第一師団野砲兵第一連隊の兵舎跡。 戦後に某国会館として利用されるようになった経緯は不明。なんとなく複雑な気分。
馬魂碑(野砲兵第一聯隊)
都営下馬アパート近く。
このあたりは前述したとおり野砲兵第一連隊の兵舎があった場所。
都営団地に囲まれるように小さな公園があり、その公園の片隅に幾つかの石碑が集められていた。
軍馬慰霊の碑…
「馬魂碑」
(都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」)
昭和14年12月建立
(右の小碑は昭和44年12月に下馬史跡保存会建立)
野砲を牽引する為に馬の力が必要。砲兵と軍馬の繋がりも深く。愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。
裏面を見ると「野砲兵第一聯隊留守隊長陸軍砲兵中佐◯◯」と記載がある。
「馬頭観音」
都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」に。
ここでいう馬頭観音は仏教菩薩でもあり軍馬の仏でもあるのか。
軍馬慰霊の馬頭観音。
「軍馬梨山号 昭和十一年一月二十四日殉職」と書かれた慰霊碑もあった。
以下、2021年5月再訪
馬魂碑(再開発中)
都営下馬アパート再開発のために、馬魂碑のあった公園は封鎖されていました。
そのまま公園として復してくれるとよいのですが。
2024年 移築保存されていることを確認しました
東山の馬頭観音
馬頭観世音。軍馬を慰霊する馬頭観音。
東山の馬頭観音
かつて、このあたり一帯は旧駒沢練兵場の跡で、旧陸軍の近衛第一師団5000人の将兵と1300頭の軍馬が日夜訓練に励んでいたところです。特に東山の傾斜地での急坂路訓練は大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて坂を駆け上がり下りをくりかえす人馬一体となっての厳しい訓練でした。
この馬頭観音は軍馬を愛し大切にしていた旧軍隊の兵士が訓練に倒れた2頭の軍馬の供養碑として建てたものです。正面に馬頭観音の文字を刻み、背面には「〝苫良号〟腰椎骨折、大正11年5月22日供養、第3中隊」と由来が書かれています。東山中学生や地元の人々の善意で屋架が大切に保存されています。
平成4年3月
目黒区教育委員会
結構な坂道。かつて軍馬もこの地で訓練に明け暮れ、そして斃れた。
場所
記事追加(2021年5月)
陸軍境界石
都営下馬二丁目アパートの南側に、境界標石が2つ確認できた。
ひとつめ。
ふたつめ
場所
三軒茶屋と池尻大橋界隈。
この界隈は、軍馬との繋がりを深く感じる散策でした。
〆
コメント
初めまして 偶然ページを拝見しました 私の育った場所が重砲兵第八連隊跡でした世田谷公園の向こうに自衛隊の中央病院が有る場所で拝見する写真は殆ど見た事が有ります その後付近は都営住宅に建て替えられ入居した建物の脇に 軍馬梨山号の石碑が有りました。
そしてまた住んで居た18号館も建て替えられるそうです。
はじめまして。コメントありがとうございます。下馬界隈もだいぶかわりつつあるようですね。慰霊碑が建立された梨山号は、持ち主にさぞかし愛された軍馬だったのだろうな、と。あの界隈を歩くと馬と人との心からの信頼関係を感じ取ることができる慰霊碑も多く感じられました。昭和女子大や三宿駐屯地内にも往時を偲びしものがあるということですので、また機会あれば散策したいと思っております。
こんにちは、調べ物して偶然辿り着いた者です。
なるほどー、あの辺りは練兵場なんかがあった訳ですね。
実は私、あの辺りはちょくちょく行ったことがあります。
行き先は国立小児病院でした。中に入った印象は、病院の構造にしては妙だと思っていました。
地下に食堂や理髪店があったり、病院内を行き来するモノレールのような物
(カルテなんかを輸送する物かな?最初の頃は無かったような)があったりしました。
今昔マップで調べた所、衛戍病院となっていたので、恐らく練兵場関連で設立されたものと思われます。
Ryks様、コメントありがとうございます。太子堂中学校の東側の高級マンションが聳えている場所にあったのが、「東京第二衛戍病院」(のちの東京第二陸軍病院)でした。この場所が、のちの国立小児病院、ですね。今では当時の病院の面影はありませんが、あの界隈は、練兵場を始めとして、三宿地区と隣り合っており、陸軍とのゆかりが深かった場所でした。
お久しぶりです 再訪されたのですね 私はコロナの影響で暫く行きませんでした 第八連隊の跡地の場所から第一連隊の跡地が都営住宅に成り其の18号館に住み それも取り壊されてしまい 少し残念な気持ちでいっぱいです 最近大手町でワクチン接種を受け 対応してくれた方が中央病院から来ていました少し嬉しくなりました。
jha141blog様、ご無沙汰のコメントありがとうございます。はい、再訪してみたら、取り壊しやら、軍馬梨山号の石碑のあった公園は封鎖やらで、ちょっとびっくりしてしまいました。
再整備が終わったあとで、石碑などの記念碑は、変わらずに残していただけると良いのですが。。。