昭和9年(1934)に竣工した「軍人会館」は、戦後に「九段会館」と名称を変更して存続していたが、東日本大震災の影響などもあり、平成23年(2011)に廃業。
その後、令和4年(2022)10月1日に、旧九段会館を一部保存(腰巻建築)しながら新築された「九段会館テラス」が開業した。
建て替え前の「九段会館」の記録は、以下より。
目次
九段会館テラス外観
公式サイト
旧九段会館
建物前面の低層部分は昭和9(1934)年に「軍人会館」として作られたもので、戦後は「九段会館」として長く親しまれてきました。
建物のうち、正門にあたる北側と内堀通りに面する東側が保存されています。
そのデザインは「帝冠様式」と呼ばれ昭和初期の設計手法をよく示し、現在「登録有形文化財」に登録されています。
内堀通り
KUDAN-KAIKAN TERRACE
なんか、おしゃれ。。。
九段会館テラスは「免震建築物」となりました。
(旧九段会館は地震で天井が崩落し2名が死亡するという事故もありました。)
九段下の交差点から。
北の丸方向から。
昭和感の存在感。。。
九段会館テラス正面内部
正面から中に、はいってみます。
九段会館テラス屋上庭園
5階部分は、旧九段会館部分を活用した屋上になっている。
靖国神社の大鳥居もみえる。
九段会館テラス階段
行きはエレベーターを使用しましたが、かってがわかったので、帰りは階段で降りることにしました。
「一般財団法人 日本遺族会」事務局の入居するフロア(4階)
歴史の小径(九段会館テラス敷地)
歴史の小径
敷地内には戦前からある以下の記念碑等が保存されています。
1・軍人亀鑑碑
明治16(1883)年の建碑。陸軍伍長谷村計介(1853-1877)の功績が一面に記載されており、その功績を後世の軍人に伝えるために建てられました。
2・表忠碑
明治11(1878)年の建碑。西南戦争(1877)の戦没者のために建てられました。
3・楠公記念楠
武将楠木正成をしのんで植樹された楠が現在も残されています。石碑には、海軍大将東郷平八郎(1848-1934)の書により「楠公記念楠」と刻まれています。
4・乃木大将詠草碑
昭和12(1937)年の建碑。陸軍大将乃木希典(1849-1912)の歌碑で、「武士は玉も黄金もなにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ」と刻まれています。
5・西征陣亡陸軍士官学校生徒之碑
明治14年(1881)の建碑。西南戦争(1877)で殉職した陸軍士官学校生33名のために建てられました。
6・貝塚碑
昭和9(1934)年、軍人会館建設時に発見された貝塚の碑。「一部ヲ之ニ納メ」と記されており、当時は碑の下に貝の一部を展示していたことが窺えます。
7・弥助砲
薩摩藩士の砲兵大山弥助(のちの大山巌元帥 1842-1916)が明治18(1885)年に四斤山砲を改良し発明した弥助砲の砲身です。
九段会館解体部分に使用されていた以下のものが展示されています。
8・コンクリート杭先端部
旧九段会館解体部の地中から取り出したコンクリート杭。設計上の長さは5.5m。現在も、約1,900本の杭が保存部分を支えています。
9・鉄骨柱の柱脚部分
旧九段会館は、鉄骨鉄筋コンクリート造。展示されているのは、柱脚部分のコンクリート・鉄筋を取り除いた状態です。
貝塚碑
貝塚碑
軍人会館建築工事ノ際地下約八尺ノ処ヨリ掘出シタルモノナリ
其一部ヲ之ニ収メ記念トス
昭和九年五月
昔は、ここに貝が展示されていたのかな。。。
西征陣亡陸軍士官学校生徒之碑
明治14年(1881)の建碑。
乃木大将詠草碑
希典
武士は
玉も黄金も
なにかせむ
いのちにかへて
名こそをしけれ
昭和12(1937)年の建碑。
表忠碑
明治11(1878)年の建碑。西南戦争(1877)の戦没者のために建てられた。
軍人亀鑑碑
明治16(1883)年の建碑。陸軍伍長谷村計介(1853-1877)を讃える。
楠公記念楠
鉄骨柱の柱脚部分
鉄骨柱の柱脚部分
旧九段会館は、鉄骨鉄筋コンクリート造。展示されているのは、柱脚部分の鉄筋コンクリートを取り除いた内蔵鉄骨柱です。図は、創建時の構造計算書。柱脚部分の構造安全性を確認しています。
コンクリート杭先端部
コンクリート杭先端部
旧九段会館解体部分の地中から取り出した鉄筋コンクリート杭。設計上の長さは5.5m。現在も、約1,900本の杭が保存部分を支えています。
図は、創建時の構造計算書。杭の断面サイズ、配筋、支持力が記載されています。
弥助砲
弥助砲
薩摩藩士の砲兵大山弥助(のちの大山巌元帥 1842-1916)が明治18(1885)年に四斤山砲を改良し発明した弥助砲の砲身です。
弥助砲は、ちょっと展示がわかりにくい。当時のままっぽい。
弥助砲の下にある煉瓦造りの壁は、それこそ軍人会館時代のものだろう。目立たないけど、貴重。
生まれ変わった九段会館。
建造物としてまるで魂が抜かれてしまったかのようにもみえる腰巻建築への是非はあるが、まったく無くなるよりかは、少しでも往時をしのぶ景観が残ってくれたことは、せめてもの救い、ではある。
※撮影は2022年12月
コメント
たしかにその通りだと思います。
自分は建設業界に携わっていますが、この九段会館に代表される「帝冠様式」は、もう現代の日本人建築家には設計すら出来ませんし、ゼネコンも造れません。復原は出来ても創作が出来ないのです。なぜなら、もう技術が失われてしまったからです。
これらは、ロストテクノロジーなのです。外観は出来るのですが、内装が無理なのです。
特に九段会館の応接室の内装などは、今はもうつくれませんと東急不動産の担当者が言っていました。
国はこういった部分にも金を注ぎ込んで技法を次世代に継承していくべきでしたね。今更言っても詮無い事かもしれませんが。
富田様、貴重な情報とコメント、ありがとうございます。もう「帝冠様式」での建造物は、ロストテクノロジーになってしまっていたのですね。知りませんでした。九段会館の内装、すなわち高級軍人サロンとして応接室であった歴史を踏まえれば、往時の最先端の技術が施されていたことでしょう。そうと知ると、ますます残念です。近代建築に目を向けますと、戦前の建築の多くが耐震の問題とコンクリートの中性化に悩まされており、予算の兼ね合いもあり維持できるか、破壊するかの瀬戸際にきており、今後も近代建築の動向には、注視せざるを得ないと思っております。とはいえ、ささやかに記録することぐらいしか、できませんけど。。。