高崎に赴く機会があったので、高崎聯隊の名残を求めて散策をしてみました。

目次
歩兵第15聯隊
群馬県高崎市に創設。
日清日露戦争、満洲事変、上海事変、日中戦争、太平洋戦争のほぼすべての戦役に参加。パラオで終戦を迎えた。
明治17年、編成。明治18年、軍旗拝受。明治21年、第1師団隷下。
明治37年の日露戦争では、第2軍隷下として金州城攻略、南山攻略に参加、その後に乃木第3軍に移り、旅順包囲戦に参加。
明治40年、第14師団歩兵第28旅団(宇都宮)の隷下となる。
昭和2年、関東軍隷下となり、満洲旅順に駐留。
昭和7年、3月の第一次上海事変勃発とともに上海出征。5月の満洲事変勃発とともに北満に転戦。
昭和12年、日中戦争参戦。
昭和19年、南方に派遣、パラオに駐留。
昭和20年、パラオにて敗戦を迎える。
歩兵第15聯隊とペリリュー島の戦い
高崎歩兵第15聯隊の戦いのうち、著名なのがやはりペリリュー島の戦いとなる。
高崎歩兵第15聯隊第3大隊(千明大隊:大隊長は千明武久)は、水戸歩兵第2聯隊と共に、ペリリュー島の防衛に参加。千明大隊は、ペリリュー島南部「高崎湾」近くに布陣。
昭和19年9月15日にペリリュー島に上陸していたアメリカ海兵隊に対し高崎歩兵第15聯隊第3大隊は相手を一時大混乱に陥れる大奮戦をする。高崎歩兵第15聯隊第3大隊と対峙した海兵第1師団の戦いぶりは、後年に「太平洋戦争で最も激しくもっとも混乱した戦闘」と称されている。
昭和19年9月16日に大隊本部戦闘指揮所で陸軍大尉千明武久大隊長は戦死(最終階級は陸軍少佐)。大隊長戦死後も大隊は奮戦反撃をかさねるも、第15連隊第3大隊の残存部隊は、島南部でアメリカ軍の第7海兵連隊に追い詰められて、爆薬を抱いて戦車に突入するなど勇戦敢闘しつつも、最後は断崖から身を投じる兵士もいるなど、一兵残らず戦死して18日までに750名全員が玉砕した。
アメリカ軍上陸の1週間後に決行された、ペリリュー島逆上陸作戦では、高崎歩兵第15聯隊第2大隊(指揮官飯田義榮少佐)から先遣隊村堀隊として、第5中隊(指揮官村堀中尉)215名が9月22日夜半にペリリュー島上陸し、水戸歩兵第二聯隊と合流。翌23日に飯田義榮少佐の第2大隊主力総兵員570名も出撃。すでも先遣隊の動向を把握していた米軍によって、逆上陸部隊本体は米軍に捕捉攻撃をうけ、高崎歩兵第15聯隊第2大隊は飯田少佐ら100余名足らずとなり悪戦苦闘しながらも、9月28日に中川大佐の水戸歩兵第二連隊主力との合流に成功した。
ペリリュー島逆上陸を敢行した高崎第15聯隊第2大隊は最後まで、水戸第2聯隊と行動をともにする。
昭和19年11月24日に、水戸歩兵第2聯隊の聯隊長と、高崎第15聯隊第2大隊の飯田大隊長の司令部は自決を遂げ、11月27日には全員玉砕を遂げた。
歩兵第十五聯隊趾碑
歩兵第十五聯隊趾碑

阯碑之由来
上毛の三山を仰望し 烏の清流を俯瞰する此の地は 正長元年の昔 和田城が築かれて300余年を閲歴 後に名を高崎城と改め 中仙道を扼する要衝であった
明治5年国民皆兵令の施行に伴い東京鎮台第1大隊の屯営となり 明治17年5月歩兵第十五聯隊が創設され 翌18年7月軍旗親授の栄に輝き威容を充実 城内は一新されて外郭の城塁と烏川沿いの懸崖のみが依然古城の歴史を誇り 朝に嚠喨たる喇叭の響き夕べに勇壮なる練武の雄叫びは 坂東武士の流れを汲む郷土の人心と相和して精強高崎聯隊を育成した
宜なる哉 日清戦役以来国軍の赴くところ聯隊の征かざるなく 特に日露戦役の旅順においては死命を制する展盤溝を攻略して高崎山の名を残し 奉天大会戦においては其の天王山とも称すべき三台子の要衝に楔を打込み 大勝の端緒を開き以て上毛健児の心魂を天下に顕示した
而して其の偉大なる伝統は 後の歩兵第百十五聯隊を始め外征各郷土部隊及び常駐東部第三十八部隊に遍く継承発揮され今尚誇り高く語り継がれている
爾来 歩兵第十五聯隊は シベリヤ 満洲その他累次の征戦に勇名を馳せ 日支事変の勃発と共に黄河の南北に進攻後 チチハルに移駐して北辺に備え 太平洋戦争の急迫に因り急遽パラオの島嶼作戦に南征するや峻烈を極むる敵の攻撃はペリリュー島の第三大隊に集中され逆上陸を敢行した増援の第二大隊と共に死闘4ヶ月 凄絶無比の最期を飾って全員玉砕した
歩兵第百十五聯隊は 杭州湾の敵前上陸に引き続き南京 徐州の作戦後ダンピール海峡の死闘を経て ニューギニヤに転戦 ラエ サラモアの激戦に次いで標高4千5百米のサラワケット山系を越え ウエワクの激戦に
歩兵第二百十五聯隊は 中支方面の作戦後 ビルマに進駐 ラングーンの一番乗りを敢行し ビルマ及び苛烈極まるインパール作戦を経てイラワヂ河畔の激戦に
歩兵第二百三十八聯隊は 北支方面の作戦後 ニューギニヤに転戦 歩兵第百十五聯隊と呼応してラエ サラモアの激戦に次ぎサラワケット山系を越え アイタペの作戦に
歩兵第八十五聯隊は 中南支方面の作戦を経て仏印に進駐 ラオス タイ方面の作戦に
大要以上の如く 裏面記述の各郷土部隊も亦共に朔北より南溟に亙る広大且つ悪疫瘴癘 人跡未踏の戦野に身を挺して勇戦敢闘 想像に絶する困苦と飢餓に堪え 至誠一貫 身を捧げて郷土の負託に応えた
然るに 空前絶後の太平洋戦争は 昭和20年8月15日終戦の大詔を拝するところとなり 生存将兵慟哭の裡に各聯隊すべて軍旗を奉焼し 終焉となった
憶えば 此の地に兵営が創設されて72星霜 この間 練武の貔貅30数万 華と散った英霊実に5万2千余柱の多きを算う 寔に痛恨の極みである
茲に広く県内外の関係者相寄り相議り 嘗ての正門歩哨の位置に 聯隊創設の日を卜し 上毛の銘石を副えて趾碑を建立 史実の一端を録し 祖国鎮護の礎石となった英魂を慰め その往昔を偲び 以て戦禍の絶無と揺るぎなき人類の平和を冀求し祈念する
昭和51年5月25日
歩兵第15聯隊趾之碑建立委員会

高崎兵営編成部隊
郷土出身招聘従軍戦歿者之記
明治維新前後 戦没者 54名
東京鎮台高崎分営時代 熊本の乱・西南の役 131名
歩兵第十五聯隊創設以来従軍せる戦争・事変と戦没者の状況
明治二十七八年日清戦役 169名
日露三十七八年日露戦役 1506名
北清事変 3名
白湾、韓国事件 22名
大正3年乃至9年シベリア事変 142名
昭和3年山東出兵 4名
昭和6年上海、満洲事変 187名
昭和12年日支事変 5282名
日支事変につぐ太平洋戦争に兵営は東部第38部隊となり広大なる戦域に多数の部隊将兵を送った
主なる方面 部隊 方面別戦歿者の状況
中部太平洋 南洋諸島 パラオ諸島方面
歩兵第15聯隊 第14師団 第52師団 独立混成第53旅団 他
4125名
南太平洋 ニューギニヤ ソロモン諸島方面
歩兵第115聯隊 第51師団 高射砲大隊 歩兵第238聯隊 第41師団
独立混成第128旅団 第76兵站病院 船舶 海軍 航空 衛生諸部隊
9230名
印度 ビルマ タイ 仏印 マレイ方面
歩兵第215聯隊 第33師団 第33野戦道路隊 鉄道第10聯隊
混成第26旅団 歩兵第85聯隊 第22師団 他
4755名
比島 レイテ ミンダナオ島方面
独立混成第54旅団 第58旅団 第19 第23 第1 第26師団 他
6429名
ジャワ スマトラ ボルネオ方面
独立混成第25旅団 同第28旅団 遊撃第5大隊 第百飛行場大隊 他
884名
中国 朝鮮方面
独立機関銃第9大隊 支那駐屯歩兵第2聯隊 緬天部隊 第5航空群
戦車第3師団 鉄道隊 第417,第39,第63,第127師団 独立混成第5旅団
7574名
南西諸島 沖縄 台湾方面
第72中隊 第71師団 他
1819名
ソ連 千島 樺太 アリューシャン方面
満州 北鮮部隊 第89師団 他
917名
北太平洋 小笠原諸島方面
海軍 航空部隊 第109師団 他
1188名
日本本土 近海 その他の方面
本土防衛隊 赤城 常盤 護宇部隊
戦線からの還送戦傷病没者
5579名
その他県外出身郷土部隊従軍戦没者
2000名
歩兵第15聯隊趾之碑建立にあたり
本件関係戦没者5万2千余名の合同慰霊祭を実施し永えに英霊を弔う
昭和51年7月25日
歩兵第十五聯隊歩兵第十五聯隊趾之碑建立委員会


聯隊歌
一.
三山天に連なりて
刀水岩に激しゆく
秀麗の地に生いたちし
阪東武士の血を承けて
立つや上州健男子
額の箭傷誇らなん
二.
翠色濃き和田城を
繞りて清き烏川
連隊此処に築かれて
王愾の師の動く毎
勲の歴史重ねつつ
誉れを競ふ幾千歳
三.
飛龍の松の枝蔭に
君が稜威を讃えつつ
心只管武を練れば
栄ある昔偲ばれて
堅き誓の一筋に
護国の任を果たさばや
四.
弾丸は霰ぞ展盤溝
剣は霜ぞ三臺子
堅壘我に何かある
見ずや硝煙消ゆる時
軍旗の光燦として
武勲を語る房の影
五.
倫安の夢圓らかに
平和の睡深きとき
異端の雲の遠近に
漲り亘る世の相
治乱の遷顧みて
我等の責めの重きかな
高崎歩兵第十五聯隊の聯隊歌は、いまは、高崎経済大学が応援歌としても使用している。




場所:
顕彰碑
顕彰碑
明治維新の大業成るや、明治6年旧高崎城内に兵営が置かれ、東京鎮台高崎分営となった。 郷土群馬を中心とした壮丁は徴されて兵士となり、国家防護の責に任じた。 ついで明治17年歩兵第15聯隊が創設され、以来太平洋戦争の終結まで60余年間、国家皆兵制度の下、郷土の健児はここに起居を共にして武を練った。明治、大正、昭和を通じてこれら健児が従軍した戦役は、明治維新の際をはじめとして熊本の乱、西南の役、日清戦役、北清事変、日露戦役、大正3年乃至9年戦役、済南、満洲上海事変、支那事変、太平洋戦争等枚挙にいとまないほどで、ことに太平洋戦争には東部第38部隊として、歩兵第15聯隊を始め、歩兵第115聯隊、435、521聯隊の基幹部隊及び大小数十部隊を編成送り出した。これた諸部隊の健児は、全国陸海空軍部隊に召された県出身将校と共にあるいは万里の波濤を乗り越した異郷に、あるいは国内の要所など広大な戦域にその身をささげ、ついに郷土関係戦歿者は52000余名を算するに至った。
昭和20年8月15日戦争は終止を告げ平和がよみがえった。その礎にはこれら健児の尊い犠牲があることを忘れてはならない。すなわち県内外の生存者相寄り、これらの事績を顕彰しその英霊を慰めたく、明治百年の記念の年に際し、兵営跡に碑を建立し、永遠に伝えようとするものである。
昭和43年10月23日
元不平第十五聯隊並郷土出身陸海空戦歿者合同慰霊祭実施期成連盟





場所:
場所乗附練兵場跡地
和田橋近くの烏川右岸土堤下に解説板がある。
乗附練兵場跡地
明治17年(1884)の歩兵連隊制により、歩兵第15連隊が高崎城跡に設置され、この一帯は、兵士や軍馬の演習場として活用され始め乗附練兵場と呼ばれました。規模は、現在の片岡町一丁目の北半分と八千代町一丁目のほぼ全域に当たります。
練兵場の北西部にトーチカが築かれ、付近には、幅・深さ1m位の塹壕が掘られており、木一本もない草原でした。また、連隊と練兵場を直接結ぶ振武橋という木橋が、現在の和田橋の辺りに仮設され終戦まで軍専用の橋として利用されていました。
昭和9年秋に 天皇陛下御臨席のもと陸軍の大演習が挙行され、演習後に観兵式が行われたと記録にあります。往時は一日中厳しい演習が行われ、ここで訓練された大勢の兵士は戦地に送り出されました。
戦後は田畑となり、昭和24年に片岡中学校が開設され一帯は住宅地となりました。




場所:
https://maps.app.goo.gl/syYCNiDNFHq18PiS6
演習場のあった方向。

高崎白衣大観音を垣間見る。
1936年(昭和11年)建立の平和観音。


射撃場があったことがわかる。
※撮影:2024年9月