「近代建築」カテゴリーアーカイブ

「旧・横須賀海仁会病院」(202207解体)「禁廷水の碑」と「旧・横須賀海軍共済病院」散策

横須賀海仁会病院の建屋が、いよいよ解体という話があったので、慌てて見学に行ってきました。


横須賀海仁会病院

海軍の下士官及びその家族の診療を行う病院として昭和14年3月に開院。
45年の敗戦と同時に、米海軍に接収。
当時の米海軍横須賀基地司令官デッカー大佐が一般市民に開放することを決定。46年に現在の聖ヨゼフ病院として開院し、現在に至る。
モダニズム建築として石本喜久治氏の設計。弧を描くように湾曲した凹壁面が特徴的。

2020年に聖ヨゼフ病院新棟が完成し病院機能は移転済み。
コロナ禍で遅れていたが、2022年7月下旬に取り壊し工事が実施される。

https://www.townnews.co.jp/0501/2022/06/24/630638.html

聖ヨゼフ病院

聖ヨゼフ病院新棟

場所

https://goo.gl/maps/aBz8twjFySrKWsCt5


禁廷水

横須賀海仁会病院(聖ヨゼフ病院)の裏、崖下に、ひと目につかない状態で、井戸と記念碑があった。

明治天皇が横須賀に行幸した際に、差し上げる水を汲んだ井戸と、それを記念した「禁廷水の碑」が建っている。

加藤寛治海軍大将謹書で、昭和4年の建立。
禁廷とは、宮中・御所・禁裏の意。

禁廷水
加藤寛治海軍大将敬書

明治天皇の行幸は明治4年、明治6年と8年に、向山行在所で宿泊され造船所を見学されている。
向山行在所(横須賀行在所)は現在は幼稚園となっており「明治天皇横須賀行在所阯と聖蹟の碑」、上段には「明治天皇御駐蹕」の碑もある。
明治天皇行幸の際に食事などに使われたのが、この禁廷水であった。

昭和4年2月11日建之
雨峰敬書

草が。。。

井戸。

建物解体後に史蹟は再整備されるのだろうか。。。

明治天皇横須賀行在所関係の記事は、以下にもまとめていました。

場所

https://goo.gl/maps/4sTUkhkFYcYtm5MDA


横須賀の海軍病院つながりでの追記

横須賀海軍共済病院(現・横須賀共済病院)

明治39年03月 横須賀海軍工廠職工共済会医院として開設
明治42年04月 横須賀海軍工廠職工共済会病院と改称
大正07年04月 海軍共済組合横須賀病院と改称
昭和04年11月 横須賀海軍共済組合病院と改称
昭和18年04月 横須賀海軍共済病院と改称
昭和20年12月 終戦により横須賀共済病院と改称

昭和12年(1937年)竣工の第二病棟が残っている。

あれ、これは海軍時代の消火栓だ。
(現場では気が付かずに、写真チェックであとから気が付きました。。。)

こんど、きちんと撮影しよう。。。

※撮影:2022年5月

場所

https://goo.gl/maps/12EwFLeaMgqhFxacA


関連

横須賀海軍病院は、米軍基地内に。。。

日本の高さの基準点「日本水準原点」一般公開

かつて「陸地測量部」があった場所は、現在は「国会前庭」として整備されている。
その場所にあるのが「日本水準原点」。
日本水準原点と日本水準原点標庫は、測量分野では初の国指定重要文化財となり、監視用の附属水準点標石3点は附指定とされている。


測量の日

測量法が昭和24年6月3日に公布され、平成元年に満40年を迎えたことを機会に、測量の意義と重要性に対する国民の理解と関心を高めることを目的として、6月3日を「測量の日」として制定。

https://www.gsi.go.jp/kinki/survey_day-survey_day_index.html

https://www.gsi.go.jp/kanto/kanto40002.html

毎年6月3日を中心に「測量と地図のフェスティバル」「国土地理院技術研究発表会」「日本水準原点を始めとする各種施設公開」等の測量と地図に関する情報と知識を国民に啓発する運動を広範囲に展開されている。

2022年(令和4年)は、5月25日に「日本水準原点」の一般公開がありましたので、見学してきました。


水準原点(日本水準原点)

日本の高さ(標高)の基準点となる、水準の原点が一般公開されました。
普段は、扉が閉じられております。

重要文化財【建造物】
「日本水準原点」
  所在地 東京都千代田区永田町1-1-2
  指定 令和元年12月27日
 日本水準原点は、明治24年に創設された我が国の高さの基準になるもので、130年近くにわたり、我が国の測量の歴史を支えている重要な施設です。
 日本水準原点の歴史的及び技術的な価値が認められ、測量分野の建造物としては初となる国の重要文化財に指定されました。
日本水準原点 
 日本水準原点の零目盛りは、温度変化の影響を受けにくい水晶板に刻まれており、丈夫な花崗岩台石にはめ込まれ、固い岩盤まで達する約10mの基礎に支えられています。
日本水準原点標庫
 日本水準原点標庫は、ドーリス式ローマ神殿形式の古典的建築で、日本人建築家により設計された初期の洋風建築として、歴史的、建築学的にも貴重なものです。
  令和元年12月
   国土地理院

これが水準原点
目盛尺の材質:推奨(山梨県産)
 長さ25cm、幅5.5cm

水準原点

日本水準原点
 日本水準原点は、我が国の土地の標高を測定する基準となる点である。明治24年(1891)5月にこの場所に設置した。
 日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、24.500メートルと定めた。
 その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。
 平成23年10月21日
 国土地理院

開扉されています。はじめて開いているところを見ました。

このゼロ目盛(零位)が原点数値。
目盛りの部分は水晶。水晶版を花崗岩でしっかりと固定している。
ゼロ表示の高さ、原点数値は24.3900mとなっている。(2011年現在)

扉の模様も美しいのですが、開扉中はもちろん正面からは見えません。

扉をしめているときは、こんな感じ。

年に1度の一般公開は、平日にはなりますが、これは調整してでも見る価値ありますね。


水準原点(日本水準原点)裏側

水準原点の裏側も公開。

明治24年
辛卯5月建設
陸地測量部

明治24年は1891年。
ちょうど、1891年5月11日には、ロシア皇太子(ニコライ二世)来日中に、滋賀県にて警官に切りつけられ重傷を負った「大津事件」があった。

水晶版がはめ込まれた舟型台石(厚さ36cm、長さ2.7m)を花崗岩の正八角形台石(厚さ45cm)が支え、さらに台石の下を、10m下の岩石層まで達するコンクリートの基礎が支えている。

舟形台石の裏側(下部)には、関係者5名の名前が刻まれてる。

参謀総長陸軍大将大勲位 熾仁親王
参謀次長陸軍中将従三位勲三等 川上操六
陸地測量部長陸軍工兵大佐正六位勲四等 藤井包總
陸地測量部三角科長陸軍工兵中佐従六位勲六等 田坂虎之助
陸地測量部三角科班長陸軍工兵大尉正七位勲五等 唐澤忠備


日本水準原点標庫

保管庫として、「日本水準原点標庫」は以前に紹介をしておりました。

https://senseki-kikou.net/?p=5007

菊の御紋と大日本帝国の文字残っている。

大日本帝国

明治24年5月に、陸地測量部の庭園であった現在地に設置された。
現在も使用されている公的建造物において「大日本帝国」号を残している希有な建造物としても貴重。

設計は、佐立七次郎。
日本近代建築の父といわれた、ジョサイア・コンドルの一番弟子。
生涯で設計した建造物は34棟を数えるが、現存する建造物は、「日本水準原点標庫」と「旧日本郵船株式会社小樽支店」の2棟のみ。

日本水準原点の建物(標庫)は文化財
「特徴」
・小ぶりな石造
・ローマ風神殿建築 トスカーナ式
・明治期の数少ない近代洋風建築
・佐立七次郎の設計
  東大建築学科(現在)第1期生(4人)のひとり
「注目」
・装飾
・文字
・円柱の柱
・扉の模様
建築面積:14.93平方m 軒高3.75m 総高:4.3m

東京都制定有形文化財(建造物)
日本水準原点標庫
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。
 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
 平成9年(1997)3月31日建設  
 東京都教育委員会


機械台と一等水準点

陸軍参謀本部陸地測量部の敷地内に水準原点と一等水準点が設置されている。

甲・乙・丙・丁・戊
「丁」のみが地上に設置。それ以外は地中にある。
今回は「甲」も公開されておりました。

水準原点の前にあるのが「機械台」

記載台のさらに北の先に一等水準点「甲」がある。
普段は、鉄の蓋の下。

一等水準点「乙」

一等水準点「丙」

一等水準点「丁」
「丁」のみが地上にある。その他は鉄の蓋の下。

一等水準点「戌」は、今回は未確認。
憲政記念館の工事の影響で立ち入りできないエリアにある。


電子基準点

電子基準点の内部も公開されていました。

GNSS受信機、ルーター、バッテリー、電源監視装置、通信装置、UPS、傾斜計などが収納されている。
高さは7m。

電子基準点「東京千代田」
測位衛星で国土を測る位置情報インフラ

GNSS連続観測システム
GEONET
(GNSS Earth Observation Network System)
電子基準点を用いて高精度な測量や地殻変動の監視をしています。

国会前庭にある「日本水準原点」の隣に、電子基準点「東京千代田」を設置し、平成30年3月26日から、準天頂衛星システム(みちびき)やGPSなどの観測を始めました。都心での測量が効率化するとともに、全国の標高の基準である日本水準原点の変動をモニターできるようになり、大きな地殻変動が生じた場合でも円滑な測量が可能になります。

電子基準点「東京千代田」
 この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの衛星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。
 電子基準点「東京千代田」は、日本の基準となる日本水準点(明治24年(1891)設置)の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。
 平成30年3月
 国土地理院


6月3日の「測量の日」の前、5月最終週の水曜日あたりが毎年の一般公開日。
気になる人は、国土地理院の発表を気にしてみてください。

ちかくは国会議事堂。

桜田門も見える。
水準原点のある国会前庭は、かつての井伊家藩邸でもあった。

配布物


「日本水準原点」と「水位観測所・験潮場」

油壷験潮場と日本水準原点の間で、水準測量を毎年行い、原点の変動を把握している。

油壺験潮場の前身は、霊岸島水位観測所


日本経緯度原点

日本の高さの基準は、かつての陸軍の敷地にあったが、日本の位置の基準は、かつての海軍の敷地にあった。


場所

https://goo.gl/maps/nsfG9TqSGaz4xjGH9

※撮影:2022年5月

毛呂駅(昭和7年の駅本屋)

JR八高線。
文字通りに八王子と高崎を結んでいる鉄道。現在は八王子ー高麗川の南側は電化区間として電車が走り、高麗川ー高崎の北側は非電化区間として気動車(ディーゼル車)が走っている。非電化の鉄道としては埼玉県唯一。東京都内のJRとしては唯一の地方交通線。

八高線

昭和6年(1931)に、「東京府八王子ヨリ埼玉県飯能ヲ経テ群馬県高崎ニ至ル鉄道」として建設が開始。八高南線として八王子駅ー東飯能駅が開業。八高北線として倉賀野駅ー児玉駅間が開業。
昭和8年に南線は東飯能駅ー越生駅間、北線は児玉駅ー寄居駅間が延伸開業。
昭和9年3月に、南線は越生駅ー小川町駅まで延伸し、昭和9年10月6日に小川町駅ー寄居駅が延伸し、全線開通となる。

毛呂駅

昭和8年(1933)4月15日、八高線が東飯能駅ー越生駅まで開通とともに開業。
現在の駅舎は開業当時の姿を残しつつ、左側は増築なども施されている。

毛呂駅

毛筆を彫り込んだ駅名標。

三角形の屋根が可愛らしい。

座布団にぬくもりを感じる待合室。

入場券を購入しましてホームに。

いきなり、昭和感、全開ですよ。

駅長
STATIONMASTER

停第四号
驛本屋

開業 昭和八年四月十五日

建物財産標

本屋1号
昭和7年 月 日

ホーロー引きの行き先案内。
(琺瑯焼き付き)

ちょうど電車、、、もとい列車(気動車)が入線してきました。

首都圏近郊で貴重な昭和戦前の面影を残す木造駅舎。
機会がありましたら、是非に。


毛呂駅の近くには、武蔵国の古社がある。
界隈では、抜きん出た古社であり、オススメの神社でもあるので、あわせて是非に。

出雲伊波比神社

武蔵国入間郡延喜式内社・埼玉県内最古の神社建築・国重要文化財

http://jinja-kikou.net/tojyo.html#4

御祭神
大名牟遅神(おおなむちのかみ)
天穂日命(あめのほひのみこと)
品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと他16柱

出雲を中心として国土経営・農事・産業・文化を興され、全ての災いを取り除かれたオオナムヂ神、天孫のために出雲の国土を移譲する国譲りに奔走し、オオナムヂ神が杵築宮(出雲大社)に入られたのち、そのみたまをいわい祀る司祭となられたアメノホヒ命(アマテラスの御子)の二柱を主祭神とした神社である。
古くは出雲臣(いずもおみ)が祭祀する社であったという。景行天皇53年(123年)に倭建命(ヤマトタケル命)が東征凱旋の際に、景行天皇から賜った「比々羅木鉾(ひひらぎのほこ)」を神体として侍臣である武日命(タケヒ命=大伴武日)に命じて社殿を創建し、東北に向けて鎮座させたという。今も本殿内で鉾の先を東北にむけているという。
当社は宝亀3年(772)12月の太政官府に朝廷の奉幣が絶えたのを怒り雷神を率いて入間郡の正倉を焼いたとされている神社で、中世に活躍する毛呂氏や越生氏が祭祀した神社だろうとされる。
本殿建築は流造一間社で屋根は桧皮葺形式、大永8年(享禄元年=1528年)9月15日に毛呂三河守藤原朝臣顕重が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財である。
中世期には茂呂(毛呂)明神、飛来明神、八幡宮とも称されていた。ちなみに八幡宮は源頼義父子が当社を参詣後に凱旋し、八幡宮を相殿にまつったことに始まり、明治期まで二社併立していた。明治4年に八幡宮その他を合祀し明治6年に郷社列格。
当社は、埼玉県内で「流鏑馬」(11月3日)が唯一毎年奉納される神社でもある。

出雲伊波比神社
忠魂碑
招魂碑

忠魂碑は元帥陸軍大将伯爵奥保鞏謹書。

出雲伊波比神社。

※2022年2月撮影


関連(周辺)

世界無名戦士之墓

関連(駅舎)

はじめに

https://senseki-kikou.net/?p=6348

さいたま市に残る「奉安殿」流用建造物

大宮浦和のさいたま市に残っている、かつての奉安殿を流用した建造物を求めて散策してみる。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


宮原町二丁目自治会館神輿蔵
宮原尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区宮原町。
昭和14年建立。流造一間社。
宮原尋常高等小学校の奉安殿として建立された。
戦後、建築後6年しか経過していないことなどもあり、小学校から撤去するには惜しく、そのまま宮原二丁目の公民館脇に移築し、神輿等祭礼具の収蔵庫として活用することとなった。

屋根には、奉安殿のころから変わらずに、菊花紋章が掲げられたまま残されている。

場所

https://goo.gl/maps/W1Ng1ATYhVDVosZa9

※撮影:2022年2月


日進神社境内門客人神社
日進尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区日進町。
昭和8年頃建立の日進尋常高等小学校奉安殿。
日進尋常高等小学校(現・日進小学校)の奉安殿を戦後に移築し、日進神社境内社の門客人神社となった。

日進神社。
創建年代は不詳。大宮氷川神社からの勧進。日進村の村社。

場所

https://goo.gl/maps/4ByoXWN1pPEnBPcf9

※撮影:2022年2月


並木氷川神社本殿
三橋尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区三橋。
昭和13年頃建立の三橋尋常高等小学校奉安殿。鉄筋コンクリート造。
三橋尋常高等小学校(現・三橋小学校)の奉安殿を戦後に移築し、並木氷川神社本殿となった。

並木氷川神社。
創建年代は不詳。並木村の村社。

神社合祀の記念碑と、日清日露戦役記念碑。

日清日露戦役記念碑の碑銘は、山県有朋。

場所

https://goo.gl/maps/TmxmeiehtyKw3bb77

※撮影:2022年2月


楢姫稲荷神社本殿
大宮南尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区吉敷町。
昭和7年頃建立の大宮南尋常高等小学校奉安殿(大宮尋常高等小学校南分校奉安殿)。
大宮南尋常高等小学校(現・大宮南小学校)の奉安殿を戦後に移築し、楢姫稲荷神社となった。

場所

https://goo.gl/maps/nZ3rrSCQXNZAgwMP8

※撮影:2021年7月


起志乃天神社
浦和第一尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市浦和区岸町。
昭和7年頃建立の浦和第一尋常高等小学校奉安殿(浦和第一国民学校奉安殿)。
浦和第一国民学校(現・さいたま市立高砂小学校)の奉安殿を昭和二十一年に譲り受けて当社の社殿とした。

起志乃天神由緒
菅原道真卿を祭神とする太宰府の天満宮は文教の祖神として崇敬のまとであるが、天歴元年後村上天皇が京都の北野に天満宮を造営され一条天皇の車駕行以来歴聖の行幸二十数変に及び世人これを北野行幸と呼んだ。
當天満宮は青山家祖先藤原朝臣忠勝が京都より移り住むに當り永仁六年に北野より勧鎮座したものであり、今から約六百八十数年前である。
尓来当地方の天神様として広く敬愛され幾星霜を経た、明治四年名主青山貞勝により石祠殿が建立された昭和六年青山治作他世話人により石祠殿の修理があった。
その後住人の移り変りと支那事変、大東亜戦争と騒乱の時代を迎え文教の守護神である當社は次第に荒廃の度を加えた。
昭和二十一年当町内相川、佐久間、辻村、内田等の諸氏が実行となり高砂小学校にあった旧奉安殿の建造物を当処に移築し石祠は新社殿に内臓した。さらに境内地は浦和市児童遊園地に指定を受け今日に至ったものである。
昭和五十五年社屋の修築と周辺の整備を行うに当たり地域在住諸氏の協賛に感謝しここに由緒を誌す。
   昭和五十五年二月
  起志乃天神奉賛会
    会長 相川曹司
     他 役員一同

場所

https://goo.gl/maps/s6a7HPhFe7t44SBEA

※撮影:2020年9月


関連

二ヶ領用水久地円筒分水・昭和16年完成の円筒型自然分水装置(川崎・溝口)

武蔵溝ノ口駅・東急溝の口駅から北西に15分ほどの道のり。
駅前に紹介の看板があったので予備知識無しで興味本位で足を運んでみた。結果として、なかなか見ごたえのある曲線美のある建造物に出会うことができた。


二ヶ領用水久地円筒分水

昭和16年(1941)に完成した円筒分水装置。

今も昔も日本を支える稲作を欠かせないのが、農業用水。各村々に、平等に水を分けるというのが、欠かせないものであった。

国登録有形文化財 
二ヶ領用水久地円筒分水
 この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財になっています。

「土木学会選奨土木遺産2012」の認定
 二ヶ領用水は、江戸幕府の用水奉行 ・小泉次大夫 の指揮のもと、江戸時代直前の1597年(慶長2年)に開削着手されました。現在の多摩区から川崎区にわたる灌漑用水路として、14年におよぶ歳月をかけて、1611年(慶長16年)に完成しました。当時の川崎領と稲毛領の二つの領に水を引いたことが名前の由来とされています。
 現在では、農業用水の役割をほぼ終えつつありますが、都市化のなかで、憩いや安らぎを与えてくれる水と緑の空間として、また川崎市の発展の礎を築いた歴史のシンボルとして、多くの市民に愛され、親しまれています。
 本用水は、当時とは姿を変えていますが、多摩川流域では最古で最大の農業用水であり、現在にもその機能を残す貴重な土木遺産として、後世に保存すべきとの評価を得て、平成24年度に土木学会より認定されました。
 土木学会選奨土木遺産
 2012
 二ヶ領用水

二ヶ領用水 400年・久地円筒分水70年記念 
平賀柴治 顕彰碑
 この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治 (ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水された二ヶ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
 平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は、1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた。
 2010(平成22)年3月27日
 寄贈 川崎西ライオンズクラブ
 結成 45周年記念事業

円筒分水
中野島と宿河原の取入れ口から流れ込んだ水は久地で合流し、分量樋へ導かれていた。「久地分量樋」は、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設。それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋が使われていたが、水量をめぐる争いが絶えず、より正確な分水が望まれていた。
この円筒分水がつくられたのは昭和十六年。サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を調節するしくみになっている。農業用水の施設としては、当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものだった。

正確な自然分水を目的としており、平瀬川の下を潜ってきた用水は、直径8mのコンクリート製円筒から吹き上がり、その外側にある直径16mの円周を、それぞれの灌漑面積に合わせた比率で水量を分ける、当時としては最も理想的で正確な自然分水方式であった。

二ヶ領用水 久地分量樋 
 稲毛川崎ニヶ領用水は、徳川家康の命を受けて小泉次大夫が、慶長 ニ(1597)年から東京側の六郷用水とともに工事に着手し、十四年の歳月をかけて慶長一六(1611)年に完成させた神奈川県最古で最大の農業用水 です。この用水の完成により、米の収穫量は飛躍的にのびていきました。
 その後、百年あまり経た頃、荒廃したニヶ領用水を蘇らせたのは、川崎宿の名主であった田中休愚 (丘隅)です。休愚は水争いをなくすために、多摩川から上河原と宿河原のニケ所で取水し、久地で合流したニヶ領用水の水を、決まった水量に分けるための施設として、久地分量樋を樋を作りました(写真は明治四三年撮影のものです)。
 昭和一六(1941)年、多摩川右岸農業水利政良事務所長であった平賀栄治の設計建設により、水害防止のための新しい平瀬川の開前とニヶ領用水の伏せ越し、そして久地円筒分水が完成しました。これに伴い、久地分量樋は、ニヶ領用水の水量調節と分量を洪水から守るための施設・久地大樋とともに役目を終えました。
 久地分量樋があった場所は、ここより二百メートルほど上流に御影石で示されています。

ニヶ領用水知絵図
ニヶ領用水知絵図は、川崎の地を四百年にわたって流れるニヶ領用水のことを市民の皆さんに、もっと知っていただくために、平成四年度に作成された「ニヶ領用水総合基本計画」に沿って、過去、現在、未来の視点から用水の姿をとらえて描いたものです。
 左の図は、ニヶ領用水水路網が最も広く張りめぐらされた時期である江戸時代後期~明治時代初期の姿と、都市化が進んだ現在の姿を対比して図示してあります。
 久地分量樋と久地円筒分水の位置も示してあります。

円形の造形が美しい。手前は「川崎堀」

奥は「根方堀」、手前は左が「六ヶ村堀」と右が「久地堀」。

二ヶ領用水の右側の堰から、二ヶ領用水久地円筒分水へと用水を引き込む。

二ヶ領用水の本流は平瀬川と合流する。
二ヶ領用水久地円筒分水向けの用水は、平瀬川をアンダークロスする、

川崎堀の流れ。

国道246号(大山街道の新道)を、二ヶ領用水はアンダークロスし、人は歩道橋でオーバークロスする。

場所

https://goo.gl/maps/VrTf7xgi2H9SZ9i68

※撮影は2022年2月

溝口神社境内稲荷社・高津尋常高等小学校奉安殿(川崎・溝口)

溝口の鎮守、溝口神社の境内稲荷社は、かつての奉安殿であった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


溝口神社境内稲荷社
高津尋常高等小学校奉安殿

戦前に、高津尋常高等小学校(現在の高津小学校)で使用されていた「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物「奉安殿」が、昭和21年1月に、現在の稲荷社として移築され、御社殿として再活用された。


溝口神社

創建年代は不明。江戸時代には、神仏習合のお社として、大山街道の溝口宿近在の村々の総鎮守として赤城社と称された。
旧社殿は、関東大震災で倒壊。
昭和8年(1933)に新社殿建設が起工され昭和9年11月完成。

本殿は土蔵造。昭和9年築。
同じく拝殿も昭和9年築。

拝殿に掲げられた「溝口神社」の社名額は、元帥海軍大将東郷平八郎の書。昭和8年9月に新社殿完成を記念して奉納。
東郷平八郎が直接に揮毫し彫刻されたもので大変貴重な扁額。

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっているため、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる1年前ということになり、最晩年の揮毫としても貴重。

東郷平八郎謹書
ご朱印符

東郷平八郎直筆の書体を転写し、ご朱印符として奉製いたしました。

東郷平八郎に関しては、以下も参照で

奉安殿に関してば、以下を。

はじめに

※撮影:2022年2月

「日本初の短波標準電波送信所」東京無線電信局検見川送信所跡(千葉)

検見川送信所。
解体話も飛び交っていたが保存の声が高まり「保存する」というところまでは、話を聞いていた建物。その後の話題を聞くこともなく、そういえば、で思い出しての訪問。
訪問は、日本戦跡協会さんと合同で実施しました。

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
 日本戦跡協会サイト
  https://www.sensouiseki.com
 日本戦跡協会Twitter
  https://twitter.com/sensouiseki
 日本戦跡協会Facebook
  https://www.facebook.com/sensouiseki/

訪問は夕刻。夕日の照り返しが、建物を彩る。


東京無線電信局検見川送信所

検見川送信所は1926年(大正15年)竣工。関東大震災以降に、これまでの木造やレンガ造から、堅牢であった鉄筋コンクリート造へと変遷していった大正期の建造物。

設計は逓信省の吉田鉄郎。吉田鉄郎はのちに東京中央郵便局の設計も手掛ける。
吉田鉄郎や山田守などが所属していた逓信省営繕課は、優秀な建築家があつまり「逓信建築」と称される公共建築を数々と手掛けていた。

検見川送信所は初期モダニズム作品として日本の近代建築の過渡期の時代として貴重なものとなる。

大正15年に、「東京無線電信局 検見川送信所」と、「東京無線電信局 岩槻受信所」が竣工。「東京無線電信局 東京中央通信所」が統括した。こうして、検見川送信所は、日本の無線通信の黎明期を支えてきた。

  • 昭和2年(1927) 日本初の標準電波発射
  • 昭和4年(1929) ドイツ飛行船ツエッペリン号と交信成功
  • 昭和5年(1930) 日本初の対航空機通信
  • 昭和5年(1930) 日本初の国際放送
    →浜口雄幸首相のロンドン軍縮会議締結記念放送
  • 昭和7年(1932) ロサンゼルスオリンピック中継放送
  • 昭和15年(1940) 標準電波業務を正式に開始
    →米国に継いで世界2番目の短波標準電波局を開設

戦中は、日本外地(南方地域)との通信拠点として活用。
戦後は、日本電信電話公社の無線交信所として使用され、昭和54年(1979年)に施設利用を廃止。
千葉市が敷地を取得し、取り壊し予定であったが、平成19年(2007年)に発足した「検見川送信所を知る会」が保存運動を開始。千葉市も保存の方針に意向を示すが、今後の方針は未定のまま。。。

検見川送信所を知る会

http://kemigawaradio.web.fc2.com/index.html

https://www.facebook.com/kemigawaradio/

不定期に内部公開なども行われている模様。。。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M58-A-6-88
昭和21年(1946年)02月28日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

埋め立てが多すぎて、川も流路が変わっており、様相が全く異なる。。。

検見川送信所はのちに増築されている。現在、増築部分はすべて解体済み。


東京無線電信局検見川送信所の散策

敷地外より見学。いたずら防止などの観点から窓や出入り口などはすべて鉄板で塞がれている。

写真は2022年1月撮影。

「検見川無線送信所記念碑」は昭和59年(1984)に建立されたが、荒れるがままの状態。無残にも放置された記念碑ほど悲しいものはない。。。

「検見川無線送信所記念碑」 に掲げられていた銘板「検見川無線局跡」は剥がれ落ち、そして行方不明になったとのことで。。。

拡大。記念碑の面影はない。。。

以下に建立時の写真が掲載されている

http://kemigawaradio.web.fc2.com/cont/archive/monument01.html

給水塔。

建物背後には中央の出入り口から増築がされていた。増築部分の名残が中央に接続部として跡が残っている。

※撮影:2022年1月


関連

海軍無線電信所船橋送信所跡

東京消防庁 高輪消防署 二本榎出張所(昭和8年・東京都選定歴史的建造物)

昭和8年(1933年)に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)は、平成22年に「東京都選定歴史的建造物」に選定されている。
建築様式としては、第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計。レトロな外観が特徴的な消防署は、現役で地域の消防活動を担っていた。

東京消防庁高輪消防署二本榎出張所

訪問は2021年11月の某日。受付で見学を申し込む。
消防署員が時間を割いて付き添いで署内の説明をしてくれました。所要はざっと30分くらいだった。
お時間をいただきまして、ありがとうございました。

https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/hp-takanawa/building/index.html

東京都選定歴史的建造物
Tokyo Metropolitan Government Selected Historical Strictures
東京消防庁 高輪消防署 二本榎出張所
Tokyo Fire Department Takanawa Fire Station Nihonenoki Fire Station Branch
  所在地 港区高輪二丁目6番17号
  設計者 越智 操
  建築年 昭和8年(1933)

 明治41年7月1日、第二消防署二本榎派出所として発足、昭和8年12月28日に現庁舎が竣工した。
 建物は、鉄筋コンクリート造りの地上3階建てで、海抜約25メートルの位置にあり、当時は周囲に高い建物もなく、東京湾を眼下に眺望できた。
 1階の腰壁は御影石(花崗岩)の切り出し積みで、ひさしや窓台は左官洗い出し仕上げとなっている。また、外壁はクリーム色の磁器タイルで覆われ、玄関部分はすべて御影石で造られており、扉は木製となっている。
 3階の円形講堂は8本の梁(はり)が中心に集まり、10個の窓部アーチと一体になった独特の意匠である。
 第一次世界大戦後の近代的なドイツ表現主義 という建築様式で、曲線と曲面をモチーフとした力強く流れるような躍動感のあるデザインを特徴としている。
 3階から上は円筒形の望楼(ぼうろう)となっており、昭和46年まで火災の見張りに使用されていた。
   東京都
   TOKYO METROPOLITAN GOVERNMENT

外観

戦艦三笠をモチーフにしたとも言われている消防署は、戦争の空襲を生き延び、戦後の解体を免れ、昭和初期の「ドイツ表現主義」の意匠を今に伝えている。

曲線美にあふれている造形は、見ていて飽きが来ない。ずっと見ていられる。。。

高輪消防署

かつては高輪消防署の本署でもあった。消防署本署機能は、、1989(昭和59)年、港区白金2丁目に現在の高輪消防署が新たに建てられると移転。古くなった建物は取り壊しの危機もあったが、反対の声多数で、結果として「高輪消防署二本榎出張所」として残ることとなった。

道を挟んで隣は、警視庁高輪警察署。
建設当時、警察署は「三笠」の操舵室を、高輪消防署は「三笠」の船尾をイメージしてデザインされた、ともいう。(警察署は昭和52年に建て替え。)

建物内

3階が資料室になっている。

庁舎について

「東京都選定歴史的建造物」について
 「東京都選定歴史的建造物」は、歴史的な価値の高い建造物のうち、景観上重要なものとして東京都景観条例に基づいて知事が選定します。
 地域の歴史的景観を特徴付けていること、地域のランドマークとしての役割を果たしていること、できるだけ建設当時の状態で保存されていることなどが選定基準となっています。
 市政会館・日比谷公会堂、東京都慰霊堂、両国橋、港区高輪台小学校など99の建造物が選定されています。(2019年現在)

概要
・建設年:1933(昭和8)年
・設計者:越智操(警視庁総監会計科営繕係)
・構造:鉄筋コンクリート3階建
・延べ面積:598㎡
・高さ:約30m(シンボルタワーを含む)
・2010(平成22)年「東京都選定歴史的建造物」に選定

外観
 クリーム色磁器タイル張りの外壁と、円筒形の望楼が特徴の建物です。
 1階の腰壁は御影石(花崗岩)の切り出し積みで、ひさしや窓台は左官洗い出し仕上げ、玄関は御影石に木製の扉がついています。

階段
 階段の床と腰壁は、大理石とセメントを練って固めたものを研磨した研ぎ出し仕上げで、曲線的な空間を持った階段になっています。

円形講堂(3階)
 8本の梁が中心に集まり、10個のアーチと一帯になった独特の意匠です。
 第一次世界大戦後の「ドイツ表現派」というデザインで、曲線や曲面をモチーフにして力強く流れる躍動感ある設計が特徴です。

望楼
 高さは約21mで、庁舎落成時は最長部分に鉄塔がありました。
 昭和60年の改修時に見張所より上部を復元し、頭頂部には東京芸術大学・前野教授の設計で、東京都の「文化デザイン」事業を踏まえたシンボルタワーを設けました。

コーニンス・モールディング
 階段ホールの円柱と壁・天井の間に3段の「コーニス」が見られます。
 2階事務室の天井と壁の間には「モールディング」が施されています。

ガス灯
 アールヌーボー調(花や植物などをモチーフにした曲線的なデザインが特徴)のガス灯は、この庁舎が落成した時に停電時の照明として、車庫、1階食堂、2階事務室、3階講堂に設置されました。

丸太梯子
 大正時代初めに制作されたもので、ポンプ車に積載し、火災現場で留め金をはずして梯子として使用しました。
 見た目が1本の棒であることから「一本梯子」と呼ばれていました。

龍吐水
 江戸時代から使われた消防ポンプで、龍が水を吐くように放水するところからこの名前が付けられました。
 この龍吐水は、1985年(昭和60)年に東禅寺から寄贈されたものです。

水鉄砲
 龍吐水の補助具

半鐘
 火災の発生を知らせるために、江戸時代の火の見櫓や消防署の望楼に設置されたもので、日本榎派出所と高輪消防署の望楼に下げられていたものです。
 望楼は、1973(昭和48)年まで使われていました。

手榴弾消化器
 ガラス球型の消化器で、炎に投げ込みガラス球が割れると中にはいっている薬剤で消化することができます。
 戦時中から昭和30年代に使われていました。

大きな窓が美しい。

八本の梁が中心に集まる円形の天井。

ガス燈
 昭和8年12月、現在の庁舎が完成した時に、停電用の照明として設置されました。

8本の梁と大きな窓が曲線を彩る。美しい、、、

火の見櫓に繋がる階段。

急階段で危険なため、望楼(火の見櫓)の見学はお断りしています。

同行案内してくれた消防署員も、望楼には一度も登ったことがないらしい。。。

屋上

屋上の見学をさせていただきました。

これは、たしかに軍艦みたいだ。艦橋っぽい。

丸窓が可愛い。

3階から1階に戻ります。

車庫

ものすごく貴重な車両がいました。貴重な建物と貴重な車両。これは素晴らしい展示コラボ。

ニッサン180

ニッサン180 消防ポンプ自動車
NISSAN 180 POMPER
車両寸法:全長5,570mm x 全幅2,300mm
出力:80馬力 最高速度:100km/h
放水量:1,700リットル/min

本格的な国産消防ポンプ自動車の第1号といわれています。
昭和16年(1941)年に制作した後、高輪消防署に配置され、昭和20年5月から昭和39年10月までの19年間、チキの安全を守り続けました。
戦時中には、空襲火災の消火活動でも活躍しました。

今と昔と、はしご車の原理はそんな変わっていない。

貴重な見学が出来ました。
お忙しい最中で、見学のためのお時間をいただきまして、ありがとうございました!

場所

https://goo.gl/maps/cxa1MfiUZnhCsFgp9


せっかくだから、近所の近代建築物をあわせて見学。

高輪教会

現在の礼拝堂は1933年(昭和8年)に建設。
「高輪消防署 二本榎出張所」と同じ年の建築ですね。

旧帝国ホテルの設計者として有名なフランク・ロイド・ライトの門下であった教会員の岡見健彦の設計によるもの。日本で最初に建てられたライト式建築の会堂。
2004年(平成16年)に)東京都歴史文化財団の「東京たてもの百選」に選ばれた。


高輪台小学校

関東大震災以に建設された復興小学校の最後期ににあたる校舎。東京都選定歴史的建造物。

東京都選定歴史的建造物
港区立高輪台小学校
(旧東京市立高輪臺尋常小学校)
 所在地 港区高輪2-8-24
 設計者 東京都土木局建築課(鈴木忠雄)
 建築年 昭和10年(1935年)

 都内の公立小学校は、震災復興を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎に建て替えられるようになった。昭和初期の公立小学校校舎には、装飾性を加味したスタイルと、機能を重視したインターナショナル・スタイル(国際建築様式)と呼ばれる二つの傾向があった。この校舎は、校舎の代表作であり日本の新建築の代表例の一つに数えられ、戦後の小学校建築のデザインに大きく影響を与えた建物である。
 大きな窓は、水平美を強調したすっきりとした明るい外観を呈している。地上3階一部地下1階の建物の内部は、天井が高く、広い窓から明るい陽光が差し込み、児童たちがのびのびと育つにふさわしい環境を創り出している。
 敷地を巧みに生かして配された校舎は、今では地域の象徴的な存在であり、地域の人々にも親しまれ大事にされている。
 東京都生活文化局
  平成9年3月


高輪台には、造形美しい近代建築が三者三様に残っていました。
高輪ゲートウェイ駅も開業し、アクセスもしやすくなりましたので、ちょっとした散歩をおすすめ。

※撮影は2021年11月


関連

高輪ゲートウェイ駅も少しだけ登場。

名古屋城周辺の戦跡と近代建築

本記事は2017年1月と2018年6月に名古屋方面を散策した際の記録をまとめたものになります。
2022年現在とは様相が異なる可能性濃厚ですが、往時の記録としてご参照いただければ幸いです。

なお、このころの散策はムラが多いので見逃し多数ですが、まあ、そのうち再訪するということで。。。


騎兵第三聯隊跡

名古屋市役所の北西角にある石碑。

騎兵第三聯隊跡
 名古屋市長 杉戸清書

騎兵第三聯隊は明治二十五年十一月創設以来昭和三年三月守山に移転する迄此の地に駐留せり
茲に往時を偲び明治百年を記念し之を建つ
 昭和42年4月 騎三会

場所

https://goo.gl/maps/rMq48pch1osUXDyq5


松脂採取跡

名古屋市役所の北側には松並木がある。
松脂採取跡。これも戦争の名残。


加藤忠四郎翁之碑

加藤忠四郎翁之碑
 陸軍大将 宇垣一成書

昭和6年4月建立。撰文は陸軍歩兵大佐津田次郎。
加藤忠四郎翁は第三師団に大きな貢献をし、雑役の元締として60余年奉仕的に勤め名古屋の第三師団では知らないものがいないほどの有名人であったという。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。


愛知県庁

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

名古屋市役所と愛知県庁。
帝冠様式・国重要文化財コンビ。

巨大な帝冠様式建造物がドーンっと並んでいるさまは圧巻の一言。
この日本趣味丸出しの昭和初期を代表する建造物たちに歴史的重みと風格を感じます。
見ていて飽きませんね。


野砲兵第三聯隊跡
(旧・名城東小公園)

かつてここに公園があり、その公園の中には「野砲兵第三聯隊跡碑」があった・・・という。
2018年現在では公園は閉鎖され再開発中でした。
碑は・・・どうなったのだろうか(不明


第三師団司令部跡の煉瓦塀

二の丸交差点の北西角に煉瓦壁が残る。
レンガはイギリス積み。

場所

https://goo.gl/maps/adTLjZkUhCiKegEk8


名古屋城二の丸

ここにかつて歩兵第六聯隊が展開されていた。


歩兵第六聯隊

二の丸の敷地。

歩兵第六聯隊之由来
抑々明治4年8月、東京鎮台第3分営を名古屋に設置せられたのが起源で、その後明治6年第3分営を名古屋鎮台と改め、歩兵6番大隊と称した。
この年わが国に徴兵令が施行され、翌年3月壮丁を愛知、三重、岐阜の県から徴集し、歩兵第6聯隊を創設し、此の地名古屋城二の丸に兵営を新築し、12月27日軍旗を拝授し衛戌した。
以来精強な軍隊の練成に励み国威の宣揚に尽した。
健軍早々にして明治10年西南の役に初陣し、熊本城の圍を解き本営を護衛し干城の任を尽した。
その後日清戦役に出陣し、九連城海城の戦闘で勇名を挙げ、明治37、8年の日露戦争にては首山堡、沙河、于洪屯の戦闘で武勲を樹てた。
大正7、8年のシベリア派遣、昭和初期における山東派兵及び満洲に加わりて、克く護国の大任を完うせり。
昭和12年支那事変勃発するや上海方面に急派せられ、幾多の辛酸をなめ威武堂々、南京、武漢に転進、次いで応山浙河地区に進駐し警備地の治安確保に任じつつ大東亜戦争に突入し、専ら大陸にありて長沙、常徳、湘桂など累次の会戦に加わりて、東亜新秩序の建設に邁進した。
然れども大勢我に利なく終戦となり、命により武装を解除し国軍は解散するの憂き目に遭い、今や郷土の誇りを継ぐ軍隊なきは誠に遺憾に堪えない。
茲に戦友相計り由縁の地に碑を建て、由来を刻み先人の偉績を顕彰し、併せて殉国の英霊を弔慰し其の功勲を不朽に伝う。
 昭和55年3月10日
  元歩兵第6聯隊戦友生存者有志建之

歩兵第六聯隊之跡
 河辺正三 書

明治4年8月20日創設
昭和20年8月15日解隊
昭和39年軍旗親授90周年記念建立

忠霊

馬魂碑

軍役動物の慰霊のために
昭和55年3月10日 歩六会建之

勅諭下賜五十周年記念碑

昭和7年

場所

https://goo.gl/maps/Sir2v3PCQNZ6ssmJ6


名古屋城

訪れたときは、改修工事中でした。(2018年)


天守礎石

天守礎石
昭和20年(1945年)の名古屋空襲で焼失した旧国宝天守の礎石。
焼け焦げた様子が今も残る。

場所

https://goo.gl/maps/CMx7uidECJteMvib8


乃木倉庫(弾薬庫)

乃木倉庫
 登録有形文化財(平成9年)
 乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいうとなく「乃木倉庫」と呼ぶようになった。
 当建物は、煉瓦造平屋建で旧陸軍の弾薬庫であった。昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が消失したが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取りはずしてここに保管していたため被災を免れた。のちに煉瓦の保全のため白亜塗りにした。
 なお、被災を免れた障壁画等は重要文化財に指定されている。
  名古屋市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/XRC3zKxLBwf6RU6c6


戦争に関する資料館
愛知県庁大津橋分室

愛知県庁大津橋分室。建物としては1933年(昭和8年)に竣工。

場所

https://goo.gl/maps/S1DzhcXZjkwXGvh57

名古屋は、再訪して、がっつり歩きたいですね。。。

撮影:2017年1月と2018年6月


関連

愛知縣護國神社
豊橋の戦跡散策

旧日立航空機立川工場変電所(補修完了後の再訪)

2017年に訪れた際は、1階のみの公開で、2階部分は非公開エリア、でした。
2020年に改修工事が行われ、問題となっていた耐震補強や老朽化による雨漏りの補修を実施。
2021年10月に、2階部分も一般公開される運びとなった。そのため、改めて脚を運んでみた次第。

前回の様子はこちら。

旧日立航空機立川工場変電所

戦災建造物 東大和市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所

公開日:毎週水曜日・日曜日
公開時間:午前10時30分~午後4時
入場料:無料
 東大和市立郷土博物館

市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所見学入口

東大和市文化財 
史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所

 この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
 北隣にあった設備で受電した66000ボルトの電気を33000ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
 工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
 この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
 都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
 戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
  平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会

変電所
関係者以外立入禁

昭和13年(1938)竣工。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。
昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

機銃掃射の銃撃痕が壁一面に残る。

内階段に残る銃撃痕
 内階段には、木製の手すりや階段面、階段の裏側と、いたるところに多くの機銃掃射の銃撃痕が残されています。
 手すりにある2ヶ所の傷痕のうち、上方のものはすぐ横のコンクリートにも傷が残っています。窓から飛び込んできた弾丸には、手すりを傷つけたあとも、コンクリートを破壊する威力があったことを物語っています。
 令和2(2020)~3年の工事で、内階段を保護し弾痕もみえるようにした上で、階段に負荷がかからない構造のガラス階段と手すりを設置しました。

保存のため、弾痕が残る木製の手すりには触れないようお願いいたします。

手すりをえぐり、コンクリートをも破壊した機銃掃射の銃撃痕を間近で見ることができる。

コンクリートの階段も破壊された。

従来のコンクリートの階段は、新たに設置されたガラス階段で補強され、2階への見学が可能となった。

2階部分は初めて見学。

木製の小屋は仮眠室。

変電の設備が残っている。

変電所について
 変電所は、昭和13(1938)年に建てられ、戦後も富士自動車(株)や小松ゼノア(株)などで、設備を更新しながら平成5年(1938)年まで使われていました。
 2階には受変電設備のほか、24時間体制に対応するための仮眠スペースがありました。
 野外に主変圧器や遮断器(スイッチ)などの主要設備、屋内に受電・配電設備などの監視・制御装置を、この変電所では配置していました。
 八ツ沢発電所(現:山梨県上野原市)で発電された電力は、府中変電所を経て、この変電所に供給されていました。66kV・2回戦で送られてきた電力を、この変電所で3.3kVに変電して、工場内の各施設に供給していました。

配電盤について
 前面パネルに、「第1パネル」「第2パネル」「第1~9号高圧配電盤」と記されています。バンクとは主変圧器のことで、野外に2台設置されていました。この変電所では、主変圧器で受けた電力を、9個の配線で各工場に供給していました。配電盤には、電力の流れが分かるように矢印が表示されています。
 向かって一番左側の低圧配電盤は、変電所が建設された当時のものです。脇に「昭和14年製」と記載があります。
 この低圧配電盤には、複数の銃撃痕が残されています。空襲の際に、南側の窓から、金属でできた盤を貫通する威力で、銃弾が飛び込んできたことがわかります。

貫通した銃撃痕が2箇所。

配電盤の後方の壁にも銃撃痕。

受変電設備の配置(電力の流れ)

特別高圧受電盤

油入遮断器

木製のアナログ式の計測器。一番左の絶縁抵抗測定機は昭和13年製。

変電所の計測器類

外階段
 この建物は、もともと1階が倉庫、2階が事務所として使用されており、変電所稼働当時、従業員は外階段から出入りしていました。
 外階段やテラスにも数多くの銃撃痕が残っています。外階段保護のため、現在は立ち入りを制限しています。
 外階段保護のため、ここから外にはでられません。

このさきは、1階部分の展示をメインに。

製造していたエンジン
 工場では、陸軍用の航空機のエンジンを製造していました。会社全体の製造状況のうち、陸軍用のエンジンは表のとおりです。

エンジン種類 製造台数 製造期間
ハ‐12      895    昭 8~19
ハ‐13     3,116    昭10~18
ハ‐13甲    7,086    昭12~20
ハ‐26      758    昭19~20
ハ‐42      77    昭 8~18
ハ‐112      47    昭19~20
昭和14年以前は大盛り工場で製造された分を含みます。
 出典:「小松ゼノア社報 創業80周年記念号」平成2年

ハ‐13甲エンジンを使用した代表機種
95式練習機
昭和10年(1935)年に実用化され、長く使用された機種です。鮮やかなだいだい色の塗装から「赤とんぼ」と呼ばれました。

九五式一型練習機乙型
エンジン:ハ-13日立九五式350馬力空冷星型9気筒

米軍500ポンド爆弾(226.7kg)実物大模型
東大和市内でも過去にいく度か戦時中の不発弾処理が行われました。
そのすべてが500ポンド爆弾でした。
B-29爆撃機から落とされた大型爆弾は、東日本では500ポンド爆弾、西日本では1000ポンド爆弾が中心だったとも言われています。

蓄電池室
 室内にある蓄電池は、非常用とうよう電源として使われていました。停電時には、2階の直流電源装置に電力を供給し、変電所の設備が停止することないようにしていたのです。
 鉛蓄電池を使用していたので、安全対策として、壁には耐酸性能のある塗料が塗られ、野外への換気も行われれています。(塗装の詳しい成分をご存じでしたらお知らせください。)
 蓄電池室内の壁面にも、2か所の銃撃痕が残されています。1か所は貫通していませんが、外壁に当たった機銃掃射の弾丸(12.7mm弾)の衝撃で壁の内側もすり鉢状にえぐられたのだと思われます。
 外壁の銃撃痕は、外階段沿いに見ることができます。

東洋陶器の洗面台
 変電所の1階と2階に残る洗面台は東洋陶器(現在のTOTO)製のもので、全面に鷲のトレードマークがあります。
 このマークが使われたのは、昭和7年(1932)から昭和36年(1961)までで、戦時中は「敵性語」である「CO LTD.」を「KAISHA」にかえた時期もありました。
 TOTOミュージアム(北九州市)への問い合わせの結果、洗面台の形式は「L-92」で、これも戦前・戦後を通じて生産されており、残念ながら変電所建設当初からあるものか、戦後新たに設置されたものかは特定できませんでした。

こちらは1階の洗面台。

こっちは2階の洗面台。


旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

111名の方々が亡くなられた。合掌。

旧日立航空機株式会社 立川発動機製作所
太平洋戦争
戦災犠牲者
慰霊碑
  戦災犠牲者慰霊碑建立委員会
  平成七年四月吉祥日建之

慰霊碑建立の由来
  旧日立航空機立川発動機製作所戦災犠牲者の慰霊碑は、一九九四年( 平成六年) 夏、元同社々員小川準一氏(九十四才)の提唱により、コマツゼノア立川OB会がその推進母体となり、戦後五十周年を期して建立する運動を開始し、五十年忌にあたる翌一九九五年(平成七年)四月二十三日に除幕式ならびに慰霊祭を執り行うにいたったものである

昭和20(1945)年の空襲
 戦争末期になると、軍需工場が集まる多摩地域は、多くの空襲を受けました。当工場も、計3回の攻撃を受け工場の8割が破壊され、従業員やその家族、勤労動員された学生など100人を超える方が亡くなられました。

2月17日(土)10:30すぎ(諸説あり)
グラマンF6FやカーチスSB2Cなど50機以上による爆撃と機銃掃射
(略)

4月19日(木)10:00ごろ
P-51マスタング数機による機銃掃射
(略)

4月24日(火)9:00ごろ
B29の101機編隊による1800発余りの爆弾投下
(略)

日立航空機株式会社立川工場空襲死没者一覧
2月17日 78名死亡
(個人名略)
4月19日 5名死亡
(個人名略)
4月24日 28名死亡
(個人名略)
以上 111名

遷座の由来
 旧日立航空機株式会社(現在の小松ゼノア(株)の前身)は、太平洋戦争中、航空機のエンジンを製造していた軍需工場であったため、数回にわたり米軍機の空襲を受け、多くの従業員がその犠牲となりました。
 この慰霊碑は、元従業員の方々が戦後50年を節目に、多くの市民やそのゆかりのある方々からの寄付により、小松ゼノア(株)の構内の一隅に建立されたものです。(平成7年4月23日除幕式)
 その後、平成12年に同会社が移転することとなり、この慰霊碑をこの場所に移設したものです。
 東大和市では、慰霊碑を被爆工場に近いこの地に移設し、戦災建造物の変電所とともにまちの歴史の証しとして、また、恒久平和を願い保存することとしました。
 平成12年8月 
  東大和市

防護壁

防護壁
 旧所在 東大和市桜が丘2丁目

 昭和13(1938)年、東京瓦斯電気工業株式会社の工場が建設され(翌年日立航空機株式会社と改名)、その施設のひとつとして変電所とその北側に受電施設が建設されました。この防護壁は高圧電流を取り入れる受電施設の東西にあり、外部との分離をするためのものです。
 昭和20(1945)年、3回の爆撃を受けたあとも、変電所とともに長く工場内にあった防護壁は、変電所が稼働を止め、公園の中に保存されることになったときに、受電施設ととともに解体されてしまいましたが、爆撃跡を残す一部を切り取りこの地に保存し、長く変電所とともにあった壁の記憶を残していくこととしました。
 東大和市教育委員会

被爆アオギリ二世
2011年植樹。

給水塔

給水塔
 旧所在 東大和市桜ケ丘2丁目

 変電所の西方約230メートルのところにあった給水塔は、高さが約25メートルあり、工場内のほぼ全ての水をまかなっていました。太平洋戦争中の昭和20年(1945)、三回にわたる米軍機の空襲を受けましたが、戦後もずっと工場内に水を送り続け、工場の移転により、操業も停止するまで、給水塔も働き続けました。
 戦争中に施された迷彩が、長い年月の間に色が薄れ、濃淡がやっとわかる程度になってしまった給水塔は、変電所同様戦災建造物として歴史的価値が高いものですが、老朽化に伴う維持管理や用地取得などの問題から、平成13年(2001)3月やむなく取り壊されることになりました。その際、爆撃の痕跡を顕著に残す部分を切り取り、ここに保存することにしました。
 東大和市教育委員会


位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集


玉川上水駅

多摩モノレールにも、旧日立航空機株式会社変電所(戦災建造物)として、掲載があります。

※撮影は2021年12月


関連

六郷水門(昭和6年・大田区)

多摩川の下流域を散策していた際に出会った史跡。

六郷水門

昭和6年(1931年)竣工の六郷水門。
2021年(令和3年)に、土木学会推奨土木遺産となる。

六郷水門
名称
 六郷水門
所在地
 東京都大田区
竣工年
 1931(昭和6)年 
選奨年
 2021年 令和3年度
選奨理由 
 六郷水門は、今もなお水門としての機能を保ち、多摩川改修工事や六郷用水の記憶を物語る地域のシンボルとなっており、貴重な土木遺産です。

土木学会推奨土木遺産 https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/1160

以下、写真多めで。

六郷水門
昭和6年3月竣工

「郷」の字を「ロ」の字が囲むデザインは、地元である旧六郷町の町章を用いたもの。

六郷排水機場

レンガ造の六郷排水機場。
昭和18年(1943)に生活排水を機械的に排出させるために設置された。

雑色運河

今は公園に組み込まれた船溜まり。

堤内地の舟だまりは、かつては舟運にも利用され、雑色運河と呼ばれたころの雰囲気を残す。

大田区立南六郷緑地

トイレが「六郷水門」の形を模していた。なかなか粋ですね。

※撮影は2021年11月


関連

羽田の赤レンガの堤防(レンガ胸壁)

羽田の平和大鳥居から多摩川を上流に向けて歩いていくと、昔の堤防跡が残っている。
それも赤レンガで造られた堤防。
弁天橋から大師橋の約1.6kmほどの距離に、とぎれとぎれながもレンガの堤防が残っている。

赤レンガの堤防(赤煉瓦の堤防)

かつての多摩川は暴れ川であった。

大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案。
河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)
1632mの築堤は、 イギリス積み工法による鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)となった。

昭和20年4月15日に、東京都大田区のほぼ全域が対象となった城南大空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができた。
赤レンガ堤防は、多摩川の水害だけではなく、空襲による戦災からも多くの人々の生命財産を守った。

平和大鳥居から弁天橋を渡って多摩川沿いに歩けば、「赤レンガの堤防」の案内地図があります。

赤レンガの堤防と五十間鼻
 羽田のレンガ堤防は、洪水対策として大正から昭和初期にかけて行なわれた多摩川改修工事で建設された。自然堤防上、道路面から腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、堤内外を日常的に往来する羽田猟師町の土地柄への配慮であった。イギリス積み工法による堤防は「赤レンガの堤防」と親しまれ、羽田の原風景ともいえる。そのレンガ堤防の突端、多摩川と海老取川の合流地点には、長さ50間(約90m)の石積みの沈床があり「五十間鼻」と呼ばれる。新防潮堤が完成し隠れてしまったが、今も昔も初日の出の絶景スポットである。

現在の堤防は左側。右の道路に行けば、旧堤防が残っています。

多摩川弁財天は旧堤防の内側に鎮座。

住宅地に連なる煉瓦造りの堤防。これはなかなか圧巻。

ところどころに石段も残っています。

利便性の都合で、ところどころは切断。

防潮板を嵌めたであろう凹み。

陸閘。
当時の出入口のまま、今も出入口で使用している箇所もあります。

住宅を新築しても、赤レンガ堤防を切断しつつも残せるところはわずかでも残していた。

大田漁業協同組合がありました。

断面図。

上部は砂利まじりのコンクリ。鉄筋も見える。

うねり具合が見事で美しすぎる。

曲線美。

ここの防潮板は、だいぶ厚め。二重ですね。

境界杭。

レンガ堤防を撤去した跡。

首都高(横羽線)が見えてきました。
この部分は、レンガをコンクリで塗り固めていますね。

首都高をくぐった先にも、レンガ堤防が伸びています。

羽田の渡しの石碑がありました。

羽田の渡し
 古くから, 羽田漁師町(大田区)と 上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が 存在していたという (現在の大師橋下流, 羽田3丁目で 旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは, 小島六左衛門組が営んでいたので, 「六左衛門の渡し」 とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は 約40間(約80m)ぐらいで, 「オーイ」と呼ぶと 対岸まで聞こえたという。
 その昔, 徳川家康が狩りに来た帰りに, お供の者と別れて 一人でこの渡し場に来たところ, 船頭は 家康とは知らずに 馬のアブミを取った という伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は, 20~30人の人々が乗れる かなり大きなもので, この船を利用して 魚介類, 農産物, 衣料品など, 生活に必要な品々が 羽田と川崎の間を 行き来していた。
 江戸の末には, 穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が, のどかで野梅の多かった 大森から糀谷, 羽田を通り 羽田の渡しを利用するため, 対岸の川崎宿では 商売に差しつかえるので, この渡しの通行を禁止してほしいと 公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また, 明治後期から昭和初期にかけて, 川遊びする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく, 人々の生活, 文化の交流など 大きな貢献をしてきた羽田の渡しは, 時代の変化とともに多くの人々に利用されたが, 昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。
 大田区

赤レンガ堤防の一部も保存されていました。

羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区
 羽田は多摩川河口の砂州の上にあったことから、たびたび水害が発生しました。天正17年(1589年)から安政6年(1859年)の間に62回の大洪水があったことが記録されています。明治以降の水害は、明治11年(1878年)、17年(1884年)、40年(1907年)、43年(1910年)の洪水は甚大な被害をもたらしました。

2 羽田レンガ堤の建設
 「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)しました。
 「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所、昭和10年10月発行)には、「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して、工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)を築き、所々に陸閘(りくこう)を設け、堤上は道路に利用することとして、河川住民及び一般の利便を増進させた。」と記されています。また人が堤防をまたぐ為の階段も設けられました。

3 羽田レンガ堤と人々の暮らし
 レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ、桟橋、造船所、生簀、材木置き場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などがなどが住んでおり、船宿や筏宿もありました。昭和20年(1945年)9月21日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
 レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水被害も無く安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20年4月15日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
 昭和48年(1973年)、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。

出典:羽田レンガ堤調査報告書(大田区教育委員会 平成23年3月より)』

旧大師橋の親柱もあった。

場所

https://goo.gl/maps/W2MFCASaB7a3dYm78

羽田第二水門の内側は、赤レンガ堤防が「堤防としてわかりやすく」残っています。

多摩川側は、レンガがそそり立っています。

場所

https://goo.gl/maps/SdjLL1ihuZjkg757A

大師橋をくぐり、歩みをすすめます。この先もレンガ堤防が残っていますね。

羽田神社は、中央の杜。

ここが、レンガ堤防の残っている部分のラスト。

本羽田公園にたどり着きました。

本羽田公園の先には、赤レンガはありませんでした。

1.6キロの赤レンガ散策。なかなか良きものを見ることができました。

※撮影:2021年11月


関連

ケルンの眺めと「萬年橋」

萬年橋(江東区)

昭和5年(1930)開通。鉄筋アーチ橋。

萬年橋は小名木川にかかる橋。萬年橋のすぐ西側で、小名木川は隅田川と合流する。合流先には清洲橋がある。そして萬年橋の東側には新小名木川水門が設置されている。
また北側は松尾芭蕉が居を構えていた場所でもあり江東区芭蕉記念館もある。

隅田川の南にある清須川は、萬年橋のたもとからの長めが最も美しく見える角度と言われており、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を連想させることから、「ケルンの眺め」と呼ばれている。

萬年橋

ケルンの眺め
 ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。
 この場所からの眺めが一番美しいといわれていおります。

新小名木川水門

※撮影は2021年11月


関連

博物館動物園駅跡(上野・京成電鉄)

上野公園周辺には、意外と近代建築物が残っている。

国立博物館内には、旧東京帝室博物館本館と表慶館、上野公園内には、国立科学博物館と旧東京音楽学校奏楽堂、そして、帝国図書館、黒田記念館、東京藝術大学などにも戦前の建造物が残っている。

そのなかでも、今回は、京成電鉄の駅舎入口部分の建造物を眺めてみる。

博物館動物園駅跡(京成電鉄株式会社)

昭和8年(1933)の京成本線開通にあわせ、東京帝室博物館・東京科学博物館・上野恩賜公園・東京音楽学校・東京美術学校などの最寄駅「動物園前停留所」として開業。
平成9年(1997)に営業休止され、平成16年(2004)に廃止された。
廃止後も駅舎やホームは現存しており、不定期に一般公開もされている。
平成30年(2018)には、駅舎が鉄道施設としては初めての東京都選定歴史的建造物に選定。

地下ホームの出入り口は2箇所ある。

博物館動物園駅跡・博物館側

中川俊二設計。1931年竣工の駅地上口。
皇室用地であった東京帝室美術館(現在の東京国立博物館)の敷地内に建てられることとなったため、昭和天皇出席の御前会議でデザインが決定されたという。
国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古い。

博物館動物園駅跡
京成電鉄株式会社

博物館動物園駅 照明復元事業
 この博物館動物園駅は、1933年(昭和8年)に竣工しました。6灯の壁付照明器具が、3方に開いた出入口を照らしていましたが、第2次世界大戦の金属供出により取外され、永く失われていました。この駅舎と地下駅空間の保存と再生を願い20年間にわたる活動を続けてきた市民グループ、NPO法人〈上野の杜芸術フォーラム〉による企画と募金活動により、2010年、漸く1灯の復元が成りました。
 芸術の中枢機能が集積するこの交差点〈アートクロス上野〉に向けた光を復活させるものです。

照明復元企画・プロデュース:NPO法人 上野の杜芸術フォーラム
代表:森 徹/副代表:熊井千代子
理事:植野糾/臼田浩之/熊井芳隆/溝内公洋/若松久男
復元型デザイン・制作:宗政浩二
復元器具・鋳造:池田東央(池田美術)
照明メカニック:吉原義夫(東芝ライテック)

東京藝術大学から、博物館動物園駅舎を望む。

博物館動物園駅跡・動物園側

昭和42年(1962)から始まった上野動物園大改造計画に基づく工事によって、動物園正門の位置が変更されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。
閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。

一般公開のタイミングがあえば、内部も見学したいものです。

※撮影:2021年11月


恩賜上野動物園 旧正門

上野動物園は明治15年(1882)開園。日本最古の動物園。

旧正門は、明治44年建立。
昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。

右奥に、京成電鉄の博物館動物園駅跡が見える。

内側は、 令和元年(2019)11月に撮影していました。
以下は内側の写真。

上野公園周辺の近代建築物は、また別記事にて。


上野関連

東京大空襲の傷跡を残す「日本橋」

日本橋

国指定重要文化財。明治44年(1911)に石造2連アーチ橋として架設。
全長は49メートル、幅は27.3メートル。

現在の日本橋は、20代目。19代目までは木橋であったが、明治44年(1911年)に改築された際に、石橋(コンクリート&煉瓦)へと変更された。

そして、明治以来の姿を残す「日本橋」は、戦争の爪痕も色濃く残す。

よく見ると、歩道には凹みが有り、そして至るところに焦げ跡が残っている。これは昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲での焼夷弾によるもの。空襲の跡。
平成22年(2010年)には、日本橋は大規模な補修工事と洗浄が行われたが、戦争の傷跡は、歴史の生き証人として、そのまま残されたという。

欄干も焼けたような黒ずんだ焦げ跡を残している。

よくみれば、所々が黒ずんでいる。

ちなみに、首都高速にかかげられた「日本橋」の筆跡は、徳川慶喜のものになる。

日本橋の中央には、「日本国道路元標」(佐藤栄作の筆)が埋め込まれている。これは昭和47年(1972)の改修によるもの。道路の中央部のために、近くで見物することは危険を伴う。

歩道をよく見れば、凹みが多いこともわかる。
これも戦争の爪痕。東京大空襲の痕跡。


重要文化財
日本橋 附東京市道路元標(二基)
     所在地 中央区日本橋室町一丁目~日本橋一丁目(日本橋川)

 日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気のある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。

 現在の日本橋は、明治四十四年(一九一一)ごに架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長四九・五メートル、幅員二七・五メートルの橋には、照明灯のある跨銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています.中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子ブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。
 また、附指定を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。
 平成三十一年三月
 中央区教育委員会

日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
 昭和十一年四月
  日本橋區

日本国重要文化財
日本橋

構造 形式
 石造二連アーチ橋 高欄付(青銅製照明灯を含む)
 附 東京市 道路元標 一基
所有者
 国 (建設省)
指定年月日
 平成十一年五月十三日
指定の意義
 明治期を代表する石造アーチ道路橋であり 石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である
 また 土木家 建築家 彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり ルネサンス式による橋梁本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており 意匠的完成度も高い
 建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定

「日本橋」親柱の橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆 。

東京市道路元票

日本国 道路元票複製

「東京市道路元標」は、昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていた。
昭和47年(1972)の改修によ って日本橋北西の橋詰広場に移設。
かわりに日本橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれた。

※撮影は2021年11月及び3月


関連

東京大空襲・慰霊

東京の北の玄関口「上野駅」

北の玄関口、上野駅。
現在の駅舎は3代目。昭和7年(1932年)に建造された駅舎が、戦争をくぐり抜けて、今もその姿を伝えている。

写真メインで近代建築としての上野駅の記録を。


上野駅

上野駅は、明治16年(1883年)7月28日に日本鉄道の上野-熊谷間開業にともない仮駅舎として開設された。明治18年に正式な駅舎が竣工。
大正12年(1923年)の関東大震災で駅舎は焼失。仮駅舎で営業を再開。そして昭和7年に3代目の駅舎が竣工した。

上野駅三代目駅舎
 関東大震災(1923年・大正12年)にて二代目の駅舎や主要な建物は破壊・焼失してしまいました。同年より仮駅舎にて営業し、その復興に力を注ぎ正面玄関口・広小路口駅舎は1932年(昭和7年)に3代目として完成した駅舎です。
 建設当時は、正面口が2階構造になっており、上層は乗車口で自動車から降りて直接駅に入ることが出来ました。下層は降車口で改札をでて大寒暖で地下へ降り降車口から自動車に乗ることが出来ました。
 乗車客と降車客の動線が分離されれた構造の駅舎でした。

正面玄関口駅舎。
かつての乗車口=2階には、今は車では乗り入れができない。
車は、かつての降車口=1階のみ。

上野駅貴賓室跡地
 1932年(昭和7年)に現在の上野駅舎が完成した際、この場所に貴賓室が造られました。
 以後、天皇陛下および皇族方が東北方面へお出かけになる際には、たびたびこの貴賓室をご使用になられたということです。
 当時の写真を見ると、大理石造りの風格ある入口の様子や、絨毯が敷かれ、暖炉やシャンデリアなどの豪華な調度品が配置された、室内の優雅な雰囲気が見てとれます。

貴賓室入口

正面玄関口。

一階部分から。

正面玄関口

上野駅広小路口。

上野山から


石川啄木の歌碑

上野駅15番ホームには、石川啄木の歌碑がある。

ふるさとの 訛なつかし
 停車場の 人ごみの中に
そを 聴きにゆく
         啄木

「あゝ上野駅」の歌碑

上野広小路口に建立されている碑。建立は2003年。
高度成長期の 1964 (昭和 39) 年に大ヒットした井沢八郎が歌った歌謡曲「あゝ上野駅」に基づく。
C62 23 号機が上野駅 18 番ホームに到着し、集団就職者が下車した情景をレリーフに描く。
「ようこそ東京へ」

あゝ上野駅
  作詞 関口義明
 作曲 荒井英一
  歌  井沢八郎

一、どこかに故郷の 香を乗せて
  入る列車の なつかしさ
  上野はおいらの 心の駅だ
  くじけちゃならない 人生が
  あの日ここから 始まった

二、就職列車に ゆられて着いた
  遠いあの夜を 思い出す
  上野はおいらの 心の駅だ
  配達帰りの 自転車を
  止めて聞いてる 国なまり

三、ホームの時計を 見つめていたら
  母の笑顔に なってきた
  上野はおいらの 心の駅だ
  お店の仕事は 辛いけど
  胸にゃでっかい 夢がある

歌碑の由来
高度成長期の昭和30~40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。
親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。彼らを支えた心の応援歌『あゝ上野駅』は、昭和 39年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。
この歌の心を末永く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に『あゝ上野駅』の歌碑を設立するものである。
 平成15年(2003年)
 歌碑設立委員会・発起人
 総括責任者 深澤 寿一

歌碑はレールの上に乗っていた。

※撮影は2019年1月及び2020年6月


関連

旧三ノ輪王電ビルディング(王電ビルヂング)

都電荒川線に乗る機会があったので、終点の三ノ輪橋駅(三ノ輪橋電停・三ノ輪橋停留場)まで脚を伸ばしてみた。

三ノ輪橋駅からまっすぐに歩くと、ビルの下、アーチのような通路を抜け「日光街道」に。
今回は、この建物が主役。

ちょっと観察してみましょう。


三ノ輪王電ビルディング
(王電ビルヂング)

都電荒川線の前身である「王子電気軌道」により昭和2年(1927年)に建てられた、 王子電気軌道の本社ビル。
王子電気軌道は、電気事業(電灯電力事業)と軌道事業(路面電車)、路線バス事業を行っていた。「王子電車」「王電」とも故障され、この本社ビルも「王電ビル」と呼ばれていた。
昭和2年当時は高い建物も少なく、この4階建ての王電ビルの存在感は圧倒的であった。

昭和17年(1942年)に王子電気軌道の軌道部門が東京市電気局に引き継がれ会社消滅。「王電ビルヂング」は売却。
軌道部門は「東京市電」となり、そして「都電荒川線」として唯一現存している軌道線となる。
また 「王電ビルヂング」 も現在は「梅沢写真会館」として、戦争をくぐり抜け、往時の姿のまま現存している。

王子電気軌道は会社としては、無くなったが、形を変え、都電荒川線として軌道を残し、そして本社ビルも、当時の姿を今尚伝えている。

現在は、「梅沢写真会館」

そして「三ノ輪橋商店街」の一部。

レトロな昭和の佇まいを残すビルの下。

ビルの先には、三ノ輪橋電停。

梅沢写真会館。

地下鉄の三ノ輪駅はちょっと離れている。

都電荒川線の三ノ輪橋駅。
最近は、「東京さくらトラム」と愛称もつけられた。

昭和、ですね。

たまには、都電荒川線に揺られて、のんびりボーッとするのもありですね。

※撮影は2021年9月


参考

以下のサイトに、戦前の「王電ビル」の写真が掲載されている。

https://smtrc.jp/town-archives/city/senju/p03.html


関連

川端龍子と「爆弾散華の池」(大田区)

大田区立龍子記念館に脚を運んでみました。

川端龍子

川端龍子(かわばた りゅうし)
1885年〈明治18年〉6月6日 – 1966年〈昭和41年〉4月10日)
日本画家、俳人。
1959年(昭和34年)、文化勲章受章。
本名は川端 昇太郎。

臼田坂下に画室を新築した
川端龍子(かわばたりゅうし:1885~1966)
日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24歳の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計を立てていました。
大正2年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転機を決意します。翌3年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを摑みました。その後はつぎつぎと作品が認められ、大正9年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘(おぎょうそう)と名付けました。
一 画人生涯筆菅 龍子 一 、という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠によるものです。
 参考文献 集英社「現代日本の美術」 
  大田区


大田区立 龍子公園

一日に3回の公開が行われている。この時間以外は見学不可。
この龍子公園内に、「爆弾散華の池」やアトリエ、旧宅などがある。


爆弾散華の池

龍子公園に入ったすぐ左手に池がある。
この場所には、大正9年(1920年)に建てられた龍子の居宅があった。しかし昭和20年8月13日に爆撃を受け、居宅は倒壊。使用人が2人死亡している。

爆弾散華の池
昭和20年(1945)8月13日、米軍機の爆撃により龍子旧宅は全壊に近い被害をうけました。その体験から制作された作品が「爆弾散華」です。「爆弾散華」には、食糧難の中で栽培された野菜が、爆風によってもの悲しく散っていく光景が描かれています。
終戦後の10月に龍子は第17回青龍展を開催し、この作品を出品しています。また、爆撃跡の穴からは水が湧き出してきたため、龍子の発案によって「爆弾散華の池」として整備されました。
 大田区立龍子記念館

龍子のアトリエ

川端龍子のアトリエは昭和13年(1938年)の建造。
竹が多く用いられた龍子デザインの建屋。

龍子の旧宅

終戦後の昭和23年(1948年)の建造。


大田区立龍子記念館

龍子記念館とは
龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立されました。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともない、1991年から大田区立龍子記念館としてその事業を引き継いでいます。当館では、大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群をお楽しみいただけます。
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されており、画家の生活の息づかいが今も伝わってきます。

大田区立龍子記念館 https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi


川端龍子 作品

川端龍子の絵画のうち、いくつか私が興味を持った作品を紹介。

「香炉峰」

昭和14年(1939)の作。幅は727.2cmにも及ぶ大作。
飛行する九六式艦上戦闘機が半透明に表現されたインパクトのある作品。

川端龍子は海軍省嘱託画家として支那事変に従軍。中支の廬山上空を海軍機に便乗し、俯瞰した廬山主峰の香炉峰を中心に連峰と長江の大景観を取材した。

白居易が「簾をかかげて看る」と詠んだ香炉峰を、川端龍子は戦闘機という近代兵器で透かして見せた。戦闘機を透視的に扱ったのが龍子のウィットに富んだ秀逸な技法。

中央に日の丸。ほぼ、戦闘機を原寸大で描かれたものという。

川端龍子の自画像という。

ただ透明にしているのではなく、きとんと戦闘機の骨組みを踏まえた透明感が凄い。

※このとき(2021年10月)は香炉峰のみ撮影可、でした。
※展示会の内容により、作品は入れ替わりがあります。

絵葉書を購入しました。

「越後(山本五十六元帥)」

昭和18年(1943年)の作品。4月に戦士した山本五十六の鎮魂の作品。
川端龍子作品では珍しい肖像画。
山本五十六が長岡出身であったことから、人物から「越後」を表すことを試みた作品。
龍子は「五十六の写真」をヒントに描いたという。
しかし写真の第一種軍装の山本五十六と違い、龍子は、ソロモンの南東海域で亡くなった五十六を踏まえ、熱帯で着用されていた白い軍服(第二種軍装)の姿で描いている。

地図を見入る山本五十六の写真

絵葉書を購入しました

「水雷神」

昭和19年(1944年)の作品。
作品が発表された昭和19年の南方戦線は壊滅的な戦況となっていた。その南方海域を感じさせる熱帯魚が泳ぐ海での、特攻と精神的苦悩の様を造形で記録した作品。
海中で忿怒の表情を呈す3人の青年が、敵陣に突入する爆弾三勇士のように、魚雷を突き動かしつつ悲痛な叫びを上げている。
一方で、魚雷の先端に金剛杵を描くことで魚雷そのものを宝具と化し、それを突き動かす青年三体を神格化している仏教的な試みもされ、兵器としての水雷の神格化も踏まえ「水雷神」と銘し、軍部の期待にも龍子なりに応えている。

絵葉書

爆弾三勇士

「爆弾散華の池」

絵葉書は、「香炉峰」「越後(山本五十六元帥)」「水雷神」「爆弾散華の池」の都合4枚をいただきました。

実は、川端龍子のこと、ほとんど知りませんでした。
たまたま「爆弾散華の池」というフレーズを知り、ちょっと気になったので脚を運んだ次第でしたが、記念館で圧倒的な迫力で「香炉峰」を目にして、一気に興味を持った次第。

場所

大田区立龍子記念館
〒143-0024 東京都大田区中央4丁目2−1

https://goo.gl/maps/SD3uzoqfLhpopYxY6

大森駅からは歩いて25分くらい。バスだと15分くらい。


大森駅の東側にある入新井公園に戦争の慰霊碑があるので、あわせて参拝。

入新井萬霊地蔵尊

入新井萬霊地蔵尊
為昭和昭和二十年一月 十一日
        五月二十三日
        五月二十九日
               大空襲戰災死者

入新井萬霊地蔵尊の由来
 この辺りは、太平洋戦争下の昭和二十年五月二十九日の東京大空襲にて、不幸にも三・三平方メートル(一坪)当り六、七発の大量油脂焼夷弾が落され、大勢の尊い犠牲者が出ました。
 戦後、区画整理も整い入新井公園が設けられるに及び、昭和三十二年住民の声にて、今は亡き肉親を偲び、在りし日の隣人を追慕してご冥福を祈ると共に永遠の平和を祈念し、故広瀬定光氏他有志が発起人となり、住民の浄財をあおいで地蔵尊が建立されました。
 その後永年の風雪に破損がひどく、今回三十三回忌を記念して再び広く浄財を募り再建したものであります。近隣の方々のお力により、毎日お花や線香の絶える時がございません。
 昭和五十一年五月二十九日
 入新井萬霊地蔵尊奉賛会

場所

https://goo.gl/maps/cCBUbWuQyH9ptFtD6


※撮影は2021年10月