「近代建築」カテゴリーアーカイブ

「明治神宮外苑」と「青山練兵所跡」

明治神宮外苑。

もともと当地は、「青山練兵場」であった。
大正元年(1912)9月13日、  明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。

青山練兵場

以下を参照。


御観兵榎

御観兵榎の碑は、東郷平八郎書。大正15年7月、明治神宮奉賛会による。
この場所で、  明治天皇御台臨のもとに、明治22年2月11日の憲法発布観兵式、明治39年4月30日の日露戦役凱旋観兵式などが行われた。
明治天皇の御座所は、常にこの榎の大木の西側に設けられていたという。
現在の榎は2代目。

御観兵榎
伯爵東郷平八郎書

御観兵榎 について
 この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇 の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
 平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
  平成八年一月吉日 明治神宮外苑

「初代 御観兵榎」
 
 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。
 幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル
碑石 
 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
題字 
 東郷平八郎 書 
 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、
 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

場所

https://goo.gl/maps/neRxNAr38GfSDxot8


陸軍大学校跡

青山練兵場があったころの陸軍大学校は、現在の港区立青山中学校にあった。


明治神宮外苑の記

明治神宮外苑の記
石碑の題字 
  「明治神宮外苑之記」
  明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書
撰文  
  明治神宮奉賛会 会長 徳川家達
石材
  東北仙台産の板岩
  高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意
 明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治人外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の身心鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
  大正15年(1926)10月 
    明治神宮奉賛会 会長徳川家達

明治神宮外苑案内図。
かつて、「明治神宮外苑競技場」として明治神宮外苑に含まれていた競技場は、昭和31年に国立競技場として文部省に移管されたため、現在は明治神宮外苑の敷地には含まれない。

明治神宮外苑
銀杏並木

銀杏並木

手前が高く、奥が低い銀杏が植えられるという、巧みな遠近法が用いられている。
大正15年の明治神宮外苑に先立ち、大正12年(1923)に植樹。


明治神宮外苑
国旗掲揚塔

見事すぎる国旗掲揚塔。

台座には2頭の一角獣が。


日本最古級のアスファルト舗装
聖徳記念館絵画館前通り

近年(令和元年12月)、当時の舗装が保護のために覆われ、当時の舗装は、今ではほんの一角のみが見学できるようになっている。

明治神宮外苑の舗装
 明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本覚益那加熟アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。
 この工事は、我が国においてワービット(Warrenite-Bitulithicの略)工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械化施工が行われました。
 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。

  当時の工事概要
(1)発注者:明治神宮造営局
(2)施行面積:59,096㎡
(3)施行費用:167,135円
(4)工期:1924年5月~1926年1月
(5)監督者:工学博士・藤井眞透

土木学会選奨土木遺産
 特別区道43-650(霞ヶ丘町1番地先)の車道用アスファルト舗装は国内最古級の「ワービット舗装(ワーレナイト・ビチュリシック工法による舗装の略称)」であり、平成16年度に公益社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。
 完成から90年以上が経過し路面性状が良くない(ひび割れが生じている)ことから、土木学会及び東京都と協議し、ワービット舗装をインターロッキングブロック舗装(ILB舗装)で覆いました。
 こちらの展示スペースでワービット舗装をご覧いただけます。


聖徳記念絵画館

大正15年(1919)10月22日竣工。国指定重要文化財。
明治神宮による維持管理が行われている。


葬場殿趾(葬場殿趾円壇)

葬場殿址
明治天皇が明治45年(1912)7月30日にお亡くなりになり、その御葬儀が9月13日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行われました。
ここがその時に御柩車が置かれた葬場殿のあとです。
中央の大木はこのことを記念して植えられた楠の木です。
 明治神宮外苑

明治天皇の御柩車は、青山練兵場仮停車場から、京都桃山に向かわれた。

葬場殿趾


樺太国境画定標石(樺太島日露国境天測標)

日露戦争終結後、明治38年(1905)から昭和20年(1945)までの40年間、樺太島北緯50度以南は、日本の領土だった。日本としては陸地の国境線は以後に有していない。

樺太島を北緯50度で南北に分断し、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡まで132kmの間に、日露の紋章を刻した「天測境界標」と呼ぶ国境標石4基を設置、さらに平均6kmごとに小標石17基を置き、19か所に木標が建てられた。

明治神宮外苑にある「天測境界標」は第四天測点のレプリカ。
日本側には「菊の紋章」、ロシア側は「双頭の鷲の紋章」が刻まれている。

樺太国境画定標石
 時 明治39年6月~40年10月
 所 樺太日露境界

 明治37、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。
 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が国境標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
  昭和54年6月2日
    明治神宮外苑

大日本帝国
境界

上に「模造」と刻まれている。

天第四号
明治三十九年

ロシア国側。日本にとっては裏、ロシアにとっては表。


建国記念文庫

「建国記念の日」の祝日の制定を記念して建立。

建国記念の日 二月十一日

建国記念文庫
昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。
建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。
  昭和44年(1969)2月11日
  元建国記念日制定審議会長 菅原通済記

ちなみにこのエリアは夜間は立入禁止、だそうで。
建国記念の日を面白くない人々の襲撃を防ぐため、だとか。


青山練兵所の陸軍境界標石?

青山練兵所の南西付近。それっぽい標石が残っている。
ただし、記載されているであろう文字面が見えないために詳細は不明。

場所

https://goo.gl/maps/CCc8xhEvYAURs5fBA


明治神宮野球場

大正15年(1926)10月に明治神宮外苑に「明治神宮外苑競技場」とともに完成。
改修に次ぐ改修が行われているが、ベースは大正15年に建設された球場が使用されている。
再開発が予定されており、2027年以降に取り壊して、秩父宮ラグビー場と敷地を入れ替えて新球場が建設される予定という。秩父宮ラグビー場は明治神宮外苑第二球場の地に新設。


日本オリンピックミュージアム
MONUMENT AREA

オリンピックシンボルモニュメント、岸記念体育会館から移設した岸清一像、ピエール・ド・クーベルタン像、嘉納治五郎像、1964年東京オリンピック、1972年札幌冬季オリンピック、1998年長野冬季オリンピックの聖火台レプリカなどが設置されている。

「いだてん」な感じですね。

岸清一像

ピエール・ド・クーベルタン像

嘉納治五郎像

オリンピックシンボルモニュメント

1998年長野冬季オリンピック 縮尺1/2

1972年札幌冬季オリンピック 縮尺2/3

1964年東京オリンピック 縮尺3/4


国立競技場

前身は「神宮外苑競技場」。

大正13年(1924)に、明治神宮外苑競技場として開場。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月21日には学徒出陣壮行会会場ともなった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000&seg_number=002

戦後は、明治神宮から文部省に移管され、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)は昭和33年(1958)竣工。
そして、2019年に新・国立競技場として生まれ変わった。


学徒出陣壮行の地 記念碑

明治神宮外苑競技場の地から、一時的に移転された学徒出陣壮行の地 記念碑。新国立競技場に戻ってきました。
ただし、新国立競技場には自由に入れないので、これは後ろ姿ですね。。。。
(早く正面から見たい。。。

※訪問しました


近衛歩兵第四連隊跡碑
近衛歩兵第六連隊跡碑

国立競技場の隣、「都立明治公園」に、近衛歩兵第四連隊跡碑・近衛歩兵第六連隊跡碑があるというも、再開発とオリンピック絡みで立ち入りできず。。。

まあ、落ち着いた頃に再訪ですね。。。
なんか悪い予感がするんです、再開発で無くなっていなければよいのですが。。。


「学徒出陣壮行の地 記念碑」と「近衛歩兵第四連隊跡碑」「近衛歩兵第六連隊跡碑」と、確認できなかったものがあったのが心残り。また、再訪をしましょう。

※撮影は2020年8月

「御所トンネル」と「青山練兵場停車場跡」

東京都下を東西に結ぶ中央線。
その中央線の中でも最古のトンネルが「御所トンネル(旧御所トンネル)」。
このトンネルの建設には陸軍も関与しておりました。

鉄道遺産、そして戦跡として、ちょっと観察してみます。


甲武鉄道と陸軍

「中央線」の前身「甲武鉄道」。
甲武鉄道は明治22年(1889)4月に新宿~立川間、8月には、立川~八王子間を開業。
新宿から東京市内への路線延長に関しては、新宿~牛込・飯田橋間を甲州街道沿い(新宿御苑北側)で計画されていたが、明治27年(1894)日清戦争の勃発の影響などもあり陸軍側の強い要請で千駄ヶ谷~信濃町間を経由するルートで延伸が決定。これは「陸軍青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)からの軍隊輸送のために必要という側面があった。
陸軍が希望するルートで線路を敷設するためには、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを設けざるを得なかったが、そこは軍事優先で陸軍の後押しもあり、明治27年9月17日に新宿~青山軍用停車場が完成。
甲武鉄道はその後も着実に路線を延長し明治27年10月に新宿~牛込(飯田橋)」間、明治28年4月には牛込~飯田町間が開業。
明治28年に新宿~飯田町間を複線化、明治37年(1904)に御茶ノ水まで延伸。また、日本の普通列車としてはじめての電化運転(電車)を開始。
東のターミナルとして万世橋まで延伸が予定されていたが、明治39年(1906)に鉄道国有化法により国有化し、甲武鉄道としての歴史は終了した。(万世橋駅の開業は国有化後の明治45年)


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<丸ノ内線四ツ谷駅ホームより>

旧御所トンネル
明治27年(1894)、新宿~牛込(飯田橋)間を延伸するにあたって、陸軍の強い要望により青山練兵場を経由するルートで線路を敷設せざるを得なかった甲武鉄道は、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを敷設。(もちろん陸軍が承諾の後押しをしている)
これが、煉瓦造りで造られた全長317mの「旧御所トンネル」

新御所トンネル
大正時代末期に中央本線を複々線化する工事が始まり、旧御所トンエルの西側に3線を通す新しいトンネルが、昭和4年(1929)完成の「新御所トンネル」(鉄筋コンクリート・385m)

現在は、旧御所トンエルを総武線下りのみが利用。新御所トンネルを中央線と総武線上りが利用している。

地下鉄丸の内線・四ツ谷駅。荻窪方面行きホーム後方から、よく観察できます。

旧御所トンネル 317M

こちらは、新御所トンネル。3連です。
同じく、丸ノ内線ホームより。

明治のトンネルと昭和初期のトンネルで、煉瓦造から鉄筋コンクリート造に変化してます。

新御所トンネル 385M


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<中央線四ツ谷駅ホームより>

JR中央線の四ツ谷駅からは、新御所トンネルしか見えません。旧御所トンネルは死角。


御所トンネル(信濃町駅側)
<朝日橋より>

御所トンネルの新宿方面(信濃町側)も観察。
新御所トンネルと旧御所トンネル。
信濃町側は旧御所トンネルも鉄筋コンクリートになってますね。新御所トンネルが建造された際に統一されれたのでしょうか。


四ツ谷駅眺望

総武線の先には、迎賓館が見える。

丸の内線は、ギリギリで御所の脇を通過するが、総武線は、ギリギリで御所の敷地を通過している。

旧御所トンネルの四ツ谷口が丸ノ内線車両の先に見える。


位置関係(御所トンネル)

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より (一部加工)

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.680682&lng=139.724132&zoom=16&dataset=kanto&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

赤坂離宮の敷地の下を・・・。
文字通り、赤坂御所(赤坂離宮)の下を通過する「御所トンネル」です。

Google航空写真(一部加工)

https://goo.gl/maps/ejmv9ZDX8argh34u9


迎賓館前

御所トンネルは、現在は迎賓館前の「新宿区立若葉東公園」の下を通過している。


青山練兵場停車場跡

甲武鉄道(現在の中央線)は、甲州街道ルートを目指していたが、陸軍の強い要請で南回りルート(千駄ヶ谷・信濃町ルート)での線路敷設に変更させられた。その理由は「青山練兵場」に軍用停車場を設置するため。
そしていまでも、青山練兵場に通じていた線路の名残が側線として、残っている。

線路と首都高速4号線の間に側線が見える。この側線が当時の青山練兵場停車場の名残。
首都高速4号線の左側が、明治神宮外苑(当時の青山練兵場)。

千駄ヶ谷駅ホームから、側線を望む。
右側の緑の茂みに伸びる側線が「青山練兵場停車場」の名残。

隣の駅、信濃町駅のホームも見える。


位置関係(青山練兵場停車場)

Goo地図-1907年(明治40年)を一部加工

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.43.18.149N35.40.38.381/zoom/11/?data=meiji

当時、青山練兵場の北側には「陸軍第一師団輜重兵第一大隊」があった。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営との間は、3つの跨線橋があったが、現在は1つのみ残されている。(跨線橋=大番町跨線橋は後述)

明治天皇が崩御された際に、大喪の義は青山練兵場で執り行われた。
葬場殿の後方にあった「青山仮停車場」で、東京の人々は、 明治天皇と最後のお別れを行い、そして 明治天皇のお棺は、京都桃山に鉄路で向かわれた。

また、陸軍第一師団輜重兵営の敷地は大正9年に慶應大学に売却され、現在は慶應義塾大学病院となっている。
当時の名残として「陸軍境界石」が残されている。

青山練兵場の北側にあった輜重兵営は、世田谷に移転している。

そして、青山練兵場は、代々木練兵場に移転している。

ちなみに都内の練兵場としては、日比谷→青山→代々木と移転している。


大番町跨線橋(大番町通跨線道路橋)

前述の青山練兵場停車場跡を上から撮影したのが、「大番町跨線橋」。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営の間には、3つの跨線橋があったが、現在は一つのみ残されている。

この橋の正式な名称は、「大番町通跨線道路橋」というのかもしれない。

しかし交差点では「無名橋」と記載。

青山練兵場とともにあった跨線橋が、当時を物語る戦跡。
いまでは「無名な橋」とされているが、今も昔も南北を往来する貴重な橋として名前は知られずとも活用されていた。

※本記事の撮影は、2020年8月及び2021年3月


明治神宮外苑

青山練兵場の跡地、明治神宮外苑など。

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所深谷工場跡地散策

埼玉県深谷市。
かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場」「櫛挽工場」の3工場が展開。
今回はそのうちの南西側にあった「原郷工場(深谷工場)」の戦跡を散策してみる。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

「櫛挽工場」は以下で。

「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」「明戸工場」は以下で。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-B-80
1947年11月04日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

GoogleMapにて補完。

今回の散策は深谷の中心部に位置する「深谷工場」跡地を散策してみる。


二造深谷製造所深谷工場跡地散策

当時の給水塔が住居として再利用されている。
現在は個人所有のため、立ち入りは不可。

ティーサロン詩季

喫茶店が営業している。

登録有形文化財

給水塔は文化財指定。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/116147

旧東京第二陸軍造兵廠深谷製造所給水塔
 この建物は第二次世界大戦(太平洋戦争)末期、1943年~1944年にかけて旧陸軍造兵廠が周辺の軍火薬工場に給水する為に建設したものです。1955年より個人所有となり現在は住居として利用しています。2002年10月18日登録有形文化財に指定されました。

構造   鉄筋コンクリート造5階建
     (最上部5階部分が水のタンクになっていた)
高さ   18m
延床面積 205.5平方メートル

住居としての記事が、以下のサイトに詳しい。
給水塔の家 → http://www.karasaki.org/top/top.html 

この建物は住居です。
敷地内に不法侵入した場合は警察に通報します。

1階と2階部分の天井が高く、3階4階までが住居。5階部分がかつての貯水槽。

4階からは外階段で屋上にアクセスする構造。

場所

埼玉県深谷市原郷1118

https://goo.gl/maps/5TtfpvV4Saem1wGp7


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所本部跡

現在の埼玉県立深谷第一高等学校に、東京第二陸軍造兵廠深谷製造所の「本部」が設けられていた、という。
(当時は、埼玉県深谷高等女学校)

埼玉県立深谷商業高等学校記念館

近くには、埼玉県立深谷商業高等学校もある。
国の登録有形文化財「埼玉県立深谷商業高等学校記念館」は1922年(大正11年)4月竣工。

中山道深谷宿

深谷宿は中山道で最大規模の宿場。
深谷市内には随所に、往時の賑わいを感じさせる佇まいが残っている。

「中山道深谷宿本舗」でレンタサイクルを借りました。
渋沢栄一関連なども交えて観光するには広域移動が必要なので、自電車必須です。

https://fukaya-tmo.com/project/

煉瓦の街、深谷って感じです。


造兵廠関係

東京第二陸軍造兵廠

https://senseki-kikou.net/?p=11875

埼玉県内にあった陸軍造兵廠のひとつ


深谷関係

都内最古の道路鉄橋「南高橋」(中央区)

昭和7年(1932)に架橋された「南高橋」。
もともとは明治37年(1904)に架橋された「両国橋」中央部を移築改良したもの。(「旧両国橋」)

現存する道路橋としては「都内最古の鉄橋」
都内に残る鋼鉄トラス橋としては「2番目に古い橋梁」。(最古は八幡橋(人道橋))
車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては「全国で6番目に古い橋梁」

中央区民文化財
南高橋 (みなみたかばし)
  所在地 中央区 新川2丁目/湊1丁目(亀島川)
 創架年代は 昭和6年(1931)に起工 同7年月3日に竣工
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正12年(1923)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀1丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
 東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治37年(1904)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の3連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで2番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で6番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
  平成14年3月
   中央区教育委員会

南高橋
 この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業の1つとして、昭和7年(1932)に架けられました。橋の主要部は、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては、最も古い橋です。
 また構造上の特徴は、トラスの1部材の端に丸い環のついた”アイバー”が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝える貴重なものとして、中央区民文化財に登録されています。
 平成28年(2016年)に、土木学会選奨土木遺産として認定されました。

「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけてて名月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には逗州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の声す。」
 (昭和9年7月・永井荷風「断腸亭日乗」より)

橋梁の諸元
型   式 : 下路式単純プラットトラス橋
橋   長 : 63.1m
有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
着   工 : 昭和6年1月
竣   工 : 昭和7年3月
総 工 費 : 76,600円
施 工 者 : 東京市
  平成28年11月 中央区

土木学会選奨土木遺産
2016
南高橋

南高橋をあっちこっちから観察。

上流から撮影

すぐ南側は、黒島川水門


場所

https://goo.gl/maps/crShkFe7FupLPaYQ7


都内最古の鉄橋 八幡橋

両国橋

鎌倉橋の機銃掃射弾痕(千代田区)

鎌倉橋

日本橋川に架かるコンクリート橋。
関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋。
名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによるという。
鎌倉橋の真上は首都高速の神田橋ジャンクション。

この鎌倉橋には弾痕や焼け焦げた跡が残っている。

まちの記憶
1944年 昭和19年
日本本土市街地への空襲が始まる
鎌倉橋欄干には、1944年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えている。

https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/kioku/kushu.html

場所

https://goo.gl/maps/SVZvKm1uDtGF5xq96


誠之堂と清風亭(深谷市)【渋沢栄一8】

渋沢栄一に関係する建物が、2棟、深谷市内の大寄公民館敷地に移築されている。
平成11年に東京世田谷区にあった銀行保養施設「清和園」から深谷市に移築。
「誠之堂」は平成15年、国の重要文化財に、「清風亭」は平成16年、埼玉県指定有形文化財に指定されている。

行ってみましょう。

見学は公民館の中にいるスタッフに声をかけると入場できます。

誠之堂

大正5年(1916)建立。国重要文化財。

誠之堂(せいしどう)
 この建物は大正5年(1916)年に第一銀行の創設者、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園」内に建てられました。設計は後に大正建築の名手と称される田辺淳吉、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。
 建築面積は113.30㎡、棟までの高さは4.230mを測ります。構造は補強煉瓦造、外観は焼きの異なる3色の煉瓦が組み合わせて積まれ、煙突の直下には煉瓦で描かれた「喜寿」の文字を見ることが出来ます。屋根には天然スレートが葺かれています。
 建物の雰囲気は栄一の希望を元にイギリス風農家をイメージしています。室内には暖炉上の栄一のレリーフや古代中国の画法による祝宴の様子を描いたステンドグラスがあり、さらに中国、朝鮮、日本のデザインが取り入れられています。平成9年(1997)、取り壊しの決定に伴って深谷市が譲り受け、平成11年(1999)当地に移築、平成15年(2003)5月30日、国の重要文化財の指定を受けました。

日本煉瓦製造株式会社のシンボルマークと似ていますね。

行幸啓がありました。

渋沢栄一レリーフ

暖炉上部の額

大正五季丙辰 青淵先生躋喜寿 
第一銀行初員胥議 新築一堂於清和園
祝之請先生命名曰誠之 又刻此像表敬愛之至情云

大正5年丙申、青淵先生喜寿に躋る。
第一銀行諸員胥議して、一堂を清和園に新築す。
これを祝い、先生に請いて命名して曰く「誠之」と。
又、此の像を刻し、敬愛の至情を表すと云う。

胸像レリーフと額
大正5年の創建時、暖炉の上の壁面には、当時男爵だった渋沢栄一の「横向き」の胸像レリーフがはめられた。
 大きさは60センチ強の円形で、彫刻家、武石弘三郎により原型が制作された。
 大正8年、4月、胸像レリーフを「正面向き」のものにし、丈夫に誠之堂建設の経緯を記したブロンズの額を掲げるなど、現在の形に模様替えがなされた。
 作り直された理由は、現在のところわからない。

渋沢栄一が愛読した「論語」

ステンドグラス

網代天井

ハーフティンバーの天井

大広間

イギリス積みとフランス積み。

風見鶏。東西南北が漢字で示されている。

3種類の色合いの違う煉瓦で、小口面を規則的な凹凸で積まれた外壁。

バルコニーがある側の屋根は一直線で美しい。

「喜寿」の文字が煉瓦で描かれている。
誠之堂は渋沢栄一の喜寿祝いで第一銀行行員らから贈られた建物。
(渋沢栄一は喜寿を契機に第一銀行頭取を辞任している)

「上敷免製」の刻印のある煉瓦。
深谷市上敷免にある「日本煉瓦製造株式会社」の製造。

「論語の里」ご視察
天皇皇后両陛下行幸啓記念樹
平成29年9月21日

清和園

大正3年(1914)に設けられた第一銀行の運動娯楽場が「清和園」と名付けられた。

清風亭

大正15年(1926)建立。埼玉県有形文化財。

清風亭(せいふうてい)
 この建物は大正15年(1926)に第一銀行2代目頭取、佐々木勇之助の古希(70才)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園」内に建てられました。設計は銀行建築に活躍した西村好時、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。
 建築面積は168.48㎡、棟までの高さは5.836mを測ります。構造は鉄筋コンクリート造、外観は人造石掻落し仕上げの白壁にスクラッチタイル(ひっかき傷をつけたタイル)と鼻黒煉瓦(黒褐色のれんが)がアクセントをつけ、屋根には瑠璃色の釉薬をかけたスパニッシュ瓦(スペイン風を模した丸瓦)が葺かれています。大正12年(1923)の関東大震災を契機に建築構造の主流となった鉄筋コンクリート造の初期の事例として、建築史上貴重な建物です。
 平成9年(1997)、取壊しの決定に伴って深谷市が譲り受け、平成11(1999)当地に移築、平成16年(2004)3月23日、埼玉県の有形文化財の指定を受けました。

暖炉前の火除板

大広間

渋沢栄一翁ブロンズ像
この像は翁の喜寿を記念して作られ、佐々木勇之助氏に贈られたものです。

暖炉の隣にガチャが置かれていました。

煉瓦ペンダント

明治期は「上敷免製」、大正期は「日煉」と呼称された。

三連の出窓

泰山木
誠之堂開館時に渋沢栄一による記念植樹され、誠之堂移築とともに移植された。

場所

https://goo.gl/maps/3HfWCVKNS1gw6ZGX7

http://www.city.fukaya.saitama.jp/kanko/kanko/seisido_seifutei/1391497434025.html


関連

日本初の機械式煉瓦工場「日本煉瓦製造上敷免工場」と専用鉄道線跡【渋沢栄一6】

明治政府は急速な近代化整備を行うにあたり良質な煉瓦を必要としており、大量生産可能な煉瓦工場を必要としていた。
煉瓦需要を受けた渋沢栄一らによって煉瓦工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(深谷市)に創業した。「上敷免」は渋沢栄一の出身地「血洗島」と同じ榛沢郡であった。

日本で最初の洋式煉瓦工場は「小菅煉瓦製造所」(明治5年)
日本で最初の機械式煉瓦工場が「日本煉瓦製造工場」(明治21年)

日本煉瓦製造工場で生産された煉瓦は、日本の近代化の推進力となった。

  • 東京駅
  • 中央本線の鉄道高架橋(秋葉原の万世橋高架橋など)
  • 司法省(現在の法務省休館)
  • 日本銀行本店本館
  • 迎賓館赤坂離宮
  • 東京大学
日本煉瓦製造工場跡

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R3233-88
1949年10月03日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。

ファイル:USA-R256-No1-146
1947年10月30日、米軍撮影画像を一部加工。

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。


深谷駅

「日本煉瓦製造・上敷免工場」で製造された煉瓦で建築された東京駅を模した深谷駅から散策はスタート。
深谷駅から、「日本煉瓦製造・上敷免工場」までは約4キロ。かつては専用の線路で結ばれていた。民間工場の専用線路というのも、実は日本初であった。現在、廃線跡は「あかね通り」として整備されている。

※この日は、レンタサイクルを利用して深谷市内を散策しました。
※深谷駅に関しては別記事にて


旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
(日本初の専用鉄道)

深谷駅から廃線跡の遊歩道へ。線路にそって、唐沢川を渡る橋は「つばき橋」と呼称されていた。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一が中心となって、明治20年に設立した日本煉瓦製造株式会社は、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。ここで生産された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)、日本銀行本店本館、旧信越本線碓氷第三橋橋など多くの建造物に使用され、日本の近代化を支えました。市内にも数多くの煉瓦建造物が残っています。
 当初は舟により製品などが運搬されましたが、明治28年に、深谷駅から向上までの約4kmに、日本で始めてとなる民間工場のための専用鉄道線が引かれ、昭和40年代まで使用されました。
 現在は、あかね通り(自転車歩行者専用道)として利用されています。

唐沢川橋梁跡

つばき橋。

ボナール型プレート・ガーダー橋。
橋は、移設再構築されたものという。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 唐沢川に架かる長さ約13.4mの鉄橋は、チャールズ・アセトン・W・ボナールというイギリス人技師が設計した鋼板桁(プレート・ガーダー)橋です。当初は違う構造でしたが、大正時代以降にこの構造になったようです。ボナールは、明治15年に鉄道院が外国から招いた最後の技師で、ボナール型プレート・ガーダー橋は、明治28年から明治34年までに国内各地に架設されました。この橋桁自体は、以前に製作され使用されていたものを移設、又は再構成したものと思われます。

中山道

しばらく進むと、中山道と交差する。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 専用鉄道線は、明治初頭に建てられた中山道深谷宿東端(稲荷町)に建つ常夜灯のすぐ脇を通っていました。昭和50年に廃線となった後、歩行自転車専用道として整備されていきますが、それまで専用鉄道線は街の景観の一つでした。

中山道深谷宿の東端にたつ常夜灯。

そして国道17号と立体交差。

住宅地の合間を抜ける。

福川橋梁

そして、福川を渡ると「ブリッジパーク」。

ここには、福川橋梁が保存されている。
日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋、という。

旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
 福川には、長さ約10.1mの鉄橋と、洪水に備えた長さ約22.0mの避溢橋が架けられました。鉄橋は、イギリス人技師ボーナルが設計した銅板桁(プレート・ガーダー)橋です。河川改修に伴って移設されましたが、ほぼ明治28年に創設された当時のまま残っており、日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋です。また避溢橋は、5連の箱桁(ボックス・ガーダー)橋で、当時は木桁だったものが順次鉄になっていたようです。また、これより北の17号バイパス付近には、十二祖用水橋という長さ約3.3mの小さな鉄橋がありました。

福川鉄橋
深谷市指定文化財
昭和61年12月22日指定
 日本煉瓦製造株式会社専用線の福川に架設された鉄橋で、福川に架けられていたブレ―ト・ガーダー橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーダー橋からなっていました。プレート・ガーダー橋は、全長10.1mで、明治28年(1895)の建設当初の姿をほとんどそのままに伝えており、現存する日本最古のポーナル型プレート・ガーター橋です。
 ボックス・ガーダー橋は、全長22.9mで、洪水のときに福川から溢れた水の逃げ道をあけておくために設けられたものです。当初は木桁でしたが、順次鉄桁に変えていったようですポーナル型プレート・ガーダー橋は、イギリス人の鉄道技師、チャールズ・ポーナルの設計による鉄橋です。日本の近代産業革命期の明治28年から34年(1895~1901)に全国各地で建造されました。
 福川鉄橋は、日本の近代化を象徴する産業遺構として、極めて高い歴史的価値をもっています。
 深谷市 深谷市教育委員会

福川鉄橋

五連の福川避溢橋梁

福川

楡山神社

ちなみに福川橋梁の南近くには武蔵国延喜式内社「楡山神社」が鎮座している。
かつて2003年に武蔵国内の延喜式内社(=平安時代から信仰されている古社)を巡っていた頃に一度参拝したことがあり。今回が実に18年ぶりの参拝。

以下に2003年の参拝記録があるが、実にひどいもので、当時は「日本煉瓦製造の廃線跡」にさほどの興味も抱いていなかったようで。この記録の18年後に「廃線跡」を巡る記録を書いているのが実に皮肉めいている。

http://jinja-kikou.net/oosato.html#1

福川橋梁のある原郷は、深谷駅から2.5キロ。
あと1.5キロを進めば、煉瓦工場にたどり着く。

備前渠鉄橋

国指定重要文化財「日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設」の一部

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
工場の南には、江戸時代に開削された備前渠が流れ、イギリス人技師ボナールが設計した専用鉄道線最長(長さ15.7m)の鋼板桁(プレート・ガーター)橋、備前渠鉄橋が架けられました。
 また用水路には煉瓦アーチ橋が架けられています。これらは、旧煉瓦製造施設の一つとして、ホフマン輪窯6号窯、旧事務所、旧変電室とともに国重要文化財に指定されています。

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
備前渠鉄橋
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 煉瓦輸送専用に架設された鉄橋である。
 操業当初からの輸送手段であった利根川船運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するため建設されたのが本専用線であり、明治二十八年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。
 専用線には四箇所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道員技師、イギリス人チャールズ・アセトン・ボナールが基本定規を設計したI字形鋼板を橋桁とする「ボナール型プレート・ガーダー橋」が採用された。中でも本鉄橋は十五・七メートル(約五十フィート)と、専用線中最長の橋桁を有している。また分岐する用水路に架設された煉瓦アーチ橋は、長さ約二メートルと小規模ながら、完全な煉瓦構造と推定される貴重な構造物である。
 文化庁
 埼玉県教育委員会
 深谷市教育委員会

用水路に架かる煉瓦アーチ橋

備前渠に架かるボナール型プレート・ガーダー橋

備前渠用水路は埼玉県内最古の農業用水路。
慶長9年(1609)関東代官頭の伊奈備前守忠次によって計画されたことから「備前渠」と呼ばれている。「世界かんがい施設遺産」に登録。


日本煉瓦製造株式会社上敷免工場

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一が中心となって明治20年(1887年)に設立した、日本初の機械による煉瓦の大量生産が可能な工場。上敷免(じょうしきめん)に建設された。
のちに太平洋セメントの子会社となり、2006年に廃業。残されていた工場諸施設は深谷市に移譲され、専用鉄道跡とともに整備及び保存されている。
「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」が国指定重要文化財。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一翁が中心となって明治20年に設立された日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場では、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。約10万m2の広大な敷地をもち、明治40年ごろの最盛期には、6基の煉瓦窯が稼働しました。原料となる粘土(原土)は、周辺の畑地から採掘されてトロッコで工場まで運ばれ、採掘後の畑は、一段低くなって水田になりました。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所明戸工場

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。


造形が美しい。

国指定重要文化財
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館

ホフマン輪窯は保存修理工事中のため、公開休止。2024年頃に再開予定。

門扉には日本煉瓦製造株式会社のシンボルマーク

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 建物は明治二十一年頃の建設で、煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導に当たったナスチェンテス・チーゼ技師が住居兼工場建設事務所として使用したと伝えられている。地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれていた。
 日本煉瓦製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、煉瓦を大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心となって設立された。工場建設地は、当時政府に招かれていた建築技師ウィルヘルム・ベックマン、チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、良質の原土を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現深谷市上敷免 新井に決定された。チーゼは娘クララと共に明治二十二年十二月に帰国するまでここで生活し、彼の帰国後は会社事務所として使用された。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

正面に掲げられた日本煉瓦製造株式会社のシンボルマークが美しい。

裏には記念碑がふたつ置かれていた。
レールはかつての専用線のものだろうか。

創立70周年記念
昭和32年10月25日
日本煉瓦製造株式会社

昭和32年10月25日創立70周年記念日に当り我社70年に渉る歴史と伝統とを回顧し又我社の今日を築いた先覚者の精神と業蹟とを想起すると共に今後益々社業の発展を期するものである。仍って茲に記念の為この記念碑を建立する。
 昭和33年4月20日
  日本煉瓦製造株式会社
   専務取締役 諸井貫一

創立100周年記念

我社は昭和62年10月25日創業百周年を迎えた。創業以来幾多の変遷と苦難を超えて一世紀に亘る歴史を築き上げた二世紀への節目に当り先人の偉業を偲び新たな歴史に挑戦する決意をもってここに記念碑を建立する。
 昭和63年10月25日
 日本煉瓦製造株式会社
 取締役社長 松尾芳樹

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 明治三十九年頃の建造と言われている。室内には変電設備が設置されていた。
 日露戦争後の好景気による建築・土木事業の拡大がもたらした煉瓦需要の増加に対応するため、日本煉瓦製造株式会社は、設備投資の一環として電力の導入を開始した。諸産業への電力利用の普及もあり、従来より使用していた蒸気式原動機の電動機への転換に踏み切ったのである。
 明治三十九年八月、会社は高崎水力電気株式会社と契約を締結、電灯線を架設し、電動機を導入した。当時の深谷町に電灯が導入される一年前のことであり、先端技術を積極的に導入しようとする会社の姿勢をうかがうことができる。
 その設備自体はすでに失われているが、この建物だけが建造当時の姿をとどめている。当時の煉瓦業界の隆盛を物語る貴重な建物である。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館(旧事務所内)

何気なく積まれているのは、かつての線路のレール・・・?

旧事務所から旧変電室を望む。

渋沢青淵先生像(渋沢栄一胸像)

煉瓦に刻まれる製造工場の刻印は、時代とともに異なっていた。
明治期「上敷免」
大正期「日煉」
昭和期「日本」

写真は、場所は変わって「誠之堂」で販売されていた「煉瓦ペンダント」

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
ホフマン輪窯6号窯

保存修理工事中。見学再開は2024年予定。
ホフマン輪窯6号窯は明治40年(1907)の建造。この窯で焼かれた煉瓦が東京駅の建設にも用いられた。
ちなみに東京駅を設計した辰野金吾は、日本煉瓦製造株式会社上敷免工場の建設にも関わっていた。

深谷の散策は、まだまだ続きますが本編は一旦ここで〆


日本煉瓦製造の煉瓦を使用した建物


渋沢栄一関連

晩香廬と青淵文庫(渋沢栄一旧邸・曖依村荘跡)【渋沢栄一1】

2024年度発行予定の1万円新紙幣の顔、そして2021年の大河ドラマの主人公でもある渋沢栄一の邸宅は飛鳥山にあった。


渋沢栄一

日本近代経済の父、日本資本主義の父、と称される。
1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)
旧幕臣、官僚、実業家。正二位勲一等子爵。雅号は青淵。

第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所、東京株式取引所を初めとし、500を超える企業や経済団体の設立・経営に関わる。
社会福祉事業、病院医療、実業教育、女子教育、私立学校等の設立、運営、支援等、700を超える社会事業にも尽力。

実業家としては、みずほ銀行・りそな銀行・埼玉りそな銀行・王子ホールディングス・東京ガス・IHI・いすゞ自動車・立飛ホールディングス・大日本印刷・日本経済新聞・東京海上日動火災保険・東日本旅客鉄道・日本郵船・東京電力ホールディングス・東洋紡・太平洋セメント・キリンホールディングス・清水建設・日産化学・東京製綱・帝国ホテル・サッポロホールディングス・アサヒグループホールディングス・大成建設・古河グループ(古河機械金属・古河電気工業・富士通・富士電機・横浜ゴム)・オーベクス・大日本明治製糖・川崎重工業・住友重機械工業・東京建物・京阪ホールディングス・東宝・東京会館・ニッピなど、500以上に及ぶ企業の設立や運営に関わる。

教育面では、一橋大学・東京経済大学・東京女学館・日本女子大学・同志社・早稲田大学・高千穂大学・二松学舎・国士館大などに関与。

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。


渋沢史料館

「飛鳥山3つの博物館」のひとつに、「渋沢史料館」がある。史料館本館とは別に、渋沢栄一の旧邸として大正期に建立され国指定重要文化財に登録されている建物が2棟ある。

  • 1878年(明治11年)
     渋沢栄一が飛鳥山に別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」を設ける。
  • 1901年(明治34年)
     本邸を飛鳥山に移す
  • 1917年(大正6年)
     晩香廬竣工
  • 1925年(大正14年)
     青淵文庫竣工
  • 1931年(昭和6年)
     11月11日 渋沢栄一死去。
     旧渋沢邸は栄一門下生が結成した竜門社に遺贈される
  • 1945年(昭和20年)
     4月13日 太平洋戦争時の空襲により建物の大部分を焼失
  • 1946年(昭和21年)
     財団名を渋沢青淵記念財団竜門社に改称
  • 1982年(昭和57年)
     渋沢史料館開館
  • 1998年(平成10年)
     3月 本館新築開館
  • 2003年(平成15年)
     11月 財団名を渋沢栄一記念財団に改称
  • 2019年(令和元年)
     9月1日 渋沢史料館休館
  • 2020年(令和2年)
     11月19日 渋沢史料館リニューアルオープン

青淵文庫

大正14年(1925)竣工。重要文化財(旧渋沢家飛鳥山邸)

後日、撮影をやり直しました。。。季節が変わると見え方も変わりますね。

旧渋沢庭園
開演時間のお知らせ
開演時間 3月1日~11月30日 9:00から16:30まで
     12月1日~2月末日 9:00から16:00まで
(以下略)

ようこそ旧渋沢庭園へ
曖依村荘跡
 飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘(あいいそんそう)」跡です。約28,000㎡の敷地に、日本館と西洋館をつないだ主屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部ともに、よく保存されています。

渋沢史料館
 渋沢栄一の1840(天保11)年から1931年(昭和6)年の91年におよぶ生涯と、携わったさまざまな事業、多くの人々との交流等を示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。

国指定重要文化財
晩香廬
青淵文庫

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
青淵文庫
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    中村田辺建築事務所・田辺淳吉
 建築年    1925(大正14)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日

 渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれている。

「寿」の字。

露台下より出土した「まぐさ」
露台基礎

晩香廬(ばんこうろ)

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
晩香盧
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    田辺淳吉(清水組技師長)
 建築年    1917(大正6)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日
 
 近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

渋沢栄一像

この像は、兜町の第一銀行本店中庭にあった。

後日、撮影をやり直しました。
足場もいつの間にかしっかりと。

山形亭跡

山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。
「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。

兜稲荷神社跡
 日本橋兜町の第一銀行内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。

茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられていたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。

茶席待合跡
 茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

無心庵跡
茶室「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台(ようげきだい)
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。

飛鳥山は近いので、また再訪します。


渋沢栄一関連


関連

順次追加。。。

荒川遊園煉瓦塀(荒川区)

都内唯一の区営遊園地「あらかわ遊園」。
「あらかわ遊園」のあった地は、明治から大正にかけて「煉瓦工場」があった場所でもあり。煉瓦工場から遊園地へと姿を変えた界隈を散策してみました。


荒川遊園煉瓦塀

明治期の隅田川河畔の、このエリアには煉瓦に適した土が採れたということと、船便・交通の便が良かったということから4つの煉瓦工場が立ち並んでいたという。
明治5年(1872)に、石神仲衛門によって、現在のあらかわ遊園のある場所に煉瓦工場が造営。
明治28年(1895)に、広岡勘兵衛(広岡幾次郎)に経営が譲渡され、広岡煉瓦工場となる。煉瓦塀が残っている場所は、広岡煉瓦工場で造られた煉瓦を干す場所だったという。
大正11年(1922)に、広岡勘兵衛は失火により操業を停止した煉瓦工場を閉鎖。荒川遊園を開園。その時に、工場にあった煉瓦で荒川遊園を囲う塀を造営したのが、今も残る煉瓦塀である。
大正12年の関東大震災での被害は少なく逐次拡充していくも、広岡勘兵衛没後の昭和初期の不景気により経営悪化。
昭和7年に遊園地の経営は王子電気軌道の手に委ねられるも、第二次世界大戦により休園。昭和16年には園内には高射砲陣地が置かれた。
昭和18年には王子電気軌道は戦時下の企業整備により東京市に事業譲渡。王子電気軌道株式会社は清算。軌道事業は東京市電となる。(現在の都電荒川線)
戦後、荒廃していた遊園地を荒川区が再整備し、昭和25年に荒川区立遊園地として開業させ、現在の「あらかわ遊園」となる。

荒川区登録有形文化財(建造物)
荒川遊園煉瓦塀
 この煉瓦塀は、荒川遊園を取り囲んでいた塀の一部です。南端には一対あった門柱の片方が残っています。煉瓦の積み方は、煉瓦の小口を見せる小口積みと、長手を見せる長手積みとを一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」です。古老の手記によると、大正11年(1922)、荒川遊園が開園した時に木の塀から煉瓦塀に改修されたといいます。
 かつて尾久地区の隅田川沿いには、材料の土が入手し易く、船運の便が良かったため、いくつもの煉瓦工場が設けられました。その一つ、広岡(後、王子に改名)煉瓦工場の跡地に、大正11年、荒川遊園が開園しました。広岡幾次郎をはじめとする地元有志により、市民の精神の慰安と身体の健康増進のために設置された嶺井遊園地です。
 その後、王子電車への乗客誘致を目的として、王子電気軌道株式会社が荒川遊園の経営に参入しました。戦時中は、閉園を余儀なくされましたが、昭和24年(1949)、荒川区立の遊園地として再スタートしました。
 敷地の一部は戦後間もなく宅地化され、以来、煉瓦塀は宅地の境界や盛土のための土留めとして利用され今日に至ります。
 荒川遊園煉瓦塀は、近代的な景観をとどめる遺構として歴史的価値が高い貴重な文化財です。また、連続する煉瓦塀が作りだす景観はこの地域独自の風景として長年親しまれており、貴重な風景遺産でもあります。
 令和2年(2020)3月
  荒川区教育委員会


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B29-C2-46
1936年06月11日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

王子電気軌道が経営をしていた昭和11年のころ。

ファイル:USA-M379-No2-27
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和22年。周辺住宅地が爆撃により焦土となっていることもわかる。
荒川遊園の中に置かれた高射砲陣地の跡もわかる。

ファイル:USA-R3163-49
1949年09月07日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和24年、荒川区立の遊園地として再スタート。
かつての敷地の一部に、整然と整えられた建物が建っている。ここのエリアは、煉瓦壁をそのまま活用して住宅地となっている。

Google航空写真
現在の様子。南東部の「かつての荒川遊園の敷地部分」=「煉瓦塀の内部」が住宅地となっている。


荒川遊園煉瓦塀の散策

都電荒川線、最近は「東京さくらトラム」という愛称でも親しまれている。
「荒川遊園地前駅」で下車をして、あらかわ遊園に向かう。

工事中の入口の右手=東側より、住宅地の中を煉瓦塀が伸びている。

玄関先を、レンガ風装飾で景観を合わせている住宅もあった。

入口?にしては小さい。

日向ぼっこ中のお猫様

排水口のような孔

上部は、長手積み。
中間部は、イギリス積みをモルタルで保護。
下部は、イギリス積み。

ちょっと割れ目が。。。

上部がコンクリートと鉄網で改められいる空間。下部はそのまま有効活用。

この場所が南東部分の先端角。

ここnここには煉瓦造の小屋があったという。小屋の壁面部分が残っている。

通用口?コンクリで塞がれていた。

煉瓦壁。
積み方がよく分かる。
上部:長手積み
下部:長手積みと小口積みの繰り返し=イギリス積み

内側から。
長手積みの上部もところどころ、柱が組まれて強度が確保されている。中部帯から下部はイギリス積み。厚さがある。

中部帯と下部は、かなりの厚さが確保されている。
関東大震災を耐えた煉瓦壁。

中部帯から屋根へと積み方が変わる部分。

積み方が変わった。

切断部。イギリス積み。

積み方が変わった箇所の内側。

門柱。

門柱の一対が残る。左側は道路拡張で消滅か。
電信柱の位置をどうにかすれば、多少の移築で残せたような気もするが。どのみちこの幅では、車は通れない。。。

煉瓦塀の外側敷地は小台橋保育園。旧小台橋小学校。

隅田川川から。

住宅地に残る煉瓦塀。
住む人々にはとっては多少の不自由があるかもしれないが、100年近くここに有り続けた煉瓦塀は、関東大震災・東京大空襲・高度経済成長をくぐり抜けて、残存した歴史遺産。これからも大事に伝承してほしい空間。


あらかわ遊園

2018年12月よりリニューアル回収工事により長期休園中。再開は2022年春頃を予定、とのこと。


荒川区関連

元加賀公園と川南公園(震災復興公園・江東区)

大正12年(1923)の関東大震災ののち、帝都復興院総裁となった後藤新平が中心となって、地震発生時の防火帯設置を目的とした公園の確保が重要視されることとなった。

震災復興三大公園として「隅田公園」「浜町公園」「錦糸公園」が設置。
また、昭和5年(1930)に完成した横綱町公園には震災記念堂と震災記念館が建設された。

東京市公園課長に就任した井下清は、52箇所の東京市立公園を設計。小学校を不燃化・耐震化させた鉄筋コンクリート校舎とし、小公園を併設することにより防火帯と避難設備の役割を担った。
この井下清が設計した小学校とセットとなった小公園が東京市内52箇所に設置され「震災復興52小公園」となる。

戦後の再開発で当時の「震災復興公園」は消滅や縮小などもあり、往時の姿を完全に残すものはない。そんな「震災復興公園」の中で、文京区の町公園は「震災復興公園」の姿を復元している。


元加賀公園

東京都現代美術館(MOT)と木場公園の北側に。

江東区の2つの公園に、開園当初の面影を見ることが出来る。
江東区立元加賀小学校の隣。小学校と小公園。

江東区立 元加賀公園

開園 昭和二年八月三十一日

昭和2年(1927年)開園。

昭和2年開園当時からの壁泉付露床が公園内に残っている。

後方。

水道管はむき出し。


川南公園(せんなん公園)

江東区立川南公園。川南小学校の隣。
川南公園は、関東大震災後に作られた震災復興計画公園のひとつで、昭和6年(1931)に開園。

昭和6年(1931)開園当時からのすべり台が残る。貴重な当時の遺産であるとともに、今も現役の遊具として90年に渡り子どもたちに親しまれている。

2つのレリーフが側面にある。

非常に良き状態で残されている。

紀元二千六百年式典の式殿「光華殿」

東京都小金井市。都立小金井公園内。
江戸東京たてもの園ビジターセンター。
この建物は、国家的な祝事で使用された建物「光華殿」であった。


紀元二千六百年記念式典

昭和15年(1940)に神武天皇即位紀元2600年(皇紀2600)を迎え、その記念祝典などが開催された。

昭和15年(1940)11月10日、皇居・宮城前広場(皇居外苑)において、 昭和天皇 香淳皇后臨席のもと、近衛文麿内閣主催の「紀元二千六百年記念式典」が開催。
式典のために寝殿造の会場「光華殿」が設営。

昭和16年8月(1941)、式典終了後に光華殿が小金井緑地(小金井公園)に移築。国民錬成所として使用された。
戦後に、空襲で被災した学習院中等科が教室として使用。 皇太子(当時の皇太子は 上皇陛下)の御仮遇も設けられていた。

昭和29年、小金井公園が開園。武蔵野博物館が井の頭恩賜公園から移転し、武蔵野郷土館として開園し、当建物も活用。
その後、平成5年(1993)の江戸東京たてもの園開館とともに、当建物はビジターセンターとして使用されている。


日本ニュース 第15号(1940年9月) 式殿棟上式

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300400_00000&seg_number=003

日本ニュース 第23号(1940年11月) 紀元二千六百年式典

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300408_00000&seg_number=001

紀元二千六百年式典

近衛文麿総理大臣 奏上
「臣文麿、謹みて申す。伏して惟(おもん)みるに、皇祖国を肇(はじ)め統を垂れ、皇孫をして八洲に君臨せしめ、たもうに神勅(しんちょく)をもってし、授くるに神器をもってしたもう。宝祚(ほうそ)の隆(さかえ)、天壌と窮(きわま)りなく、もって神武天皇の聖世に及ぶ。すなわち天業を恢弘(かいこう)して皇都を橿原(かしわら)に定め、宸極(しんきょく)に光登して、徳化を六合(りくごう)に敷き賜ひ。歴朝相承(う)けて、ますます天基を鞏(かた)くし、洪猷(こうゆう)を壮(さかん)にし、一系連綿、正に紀元2600年を迎ふ、国體(こくたい)の尊厳(そんごん)、万邦固(もと)より比類なし。皇謨(こうぼ)の宏遠、四海豈(あ)に匹儔(ひっちゅう)あらんや。」

日本ニュース 第23号(1940年11月)より
日本ニュース 第23号(1940年11月)より

奉祝国民歌『紀元二千六百年』

金鵄(きんし)輝く 日本の
栄(はえ)ある光 身にうけて
いまこそ祝へ この朝(あした)
紀元は二千六百年
ああ一億の 胸はなる

歓喜あふるる この土を
しつかと我等 ふみしめて
はるかに仰ぐ 大御言(おおみこと) 
紀元は二千六百年
ああ肇国(ちょうこく)の 雲青し

荒(すさ)ぶ世界に 唯一つ
ゆるがぬ御代(みよ)に 生立ちし
感謝は清き 火と燃えて
紀元は二千六百年
ああ報国の 血は勇む

潮ゆたけき 海原に
桜と富士の 影織りて
世紀の文化 また新た
紀元は二千六百年
ああ燦爛(さんらん)の この国威

正義凛(りん)たる 旗の下
明朗アジア うち建てん
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
ああ弥栄(いやさか)の 日はのぼる

ちなみに、
2040年(令和22年)が紀元2700年(皇紀2700年)。
さて、その時の日本はどうなっているのか。。。


光華殿

昭和15年竣工。
大蔵省営繕部管財局の設計、清水組の施工。
木造平屋建てで、竣工当時は杉皮葺きであった。正面に萬歳額を掲げ、三面を吹き放ちの構造。
小金井に移築後に、ガラス戸が設けられ、屋根も葺き直しされた。
近代の和風建築として貴重な建物。
現在は、江戸東京たてもの園入口(ビジターセンター)として使用されている。


皇太子殿下小金井御仮遇所跡

上皇陛下は戦時中に焼失し小金井に移転した学習院中等科にこの御仮寓所から通学なされた。

皇太子殿下小金井御仮遇所跡
 この場所の西側にあた文部省(当時)所管の建物などが宮内庁に移管され、1946年(昭和21)から3年間、学習院中等科の校舎となった。そのため、ここに東宮御仮寓所が造られ、中等科在学中だった皇太子殿下(現上皇)が住まわれた。其の建物は1949年(昭和24)12月に焼失した。

1962年(昭和37)設置


皇太子殿下御勉学の地


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-33
1947年11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

中央に移築された光華殿。北部及び北西部にはゴルフ場が広がっていた。


江戸東京たてもの園

せっかくなので、近代史目線で園内を散策してみる。

高橋是清邸

高橋是清邸宅が、移築されている。2・26事件の舞台でもあり。

午砲

 1871年(明治4)9月9日から、皇居内旧本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射された。大砲による正午の通報は、今の東京都区部の大部分で聞こえ、その音から「ドン」と呼ばれて人びとに親しまれた。江戸時代には、江戸市中に時刻を知らせるために鐘を鳴らしたが(時の鐘)。明治時代以降はこの午砲となり、正午を知らせた。1929年(昭和4)5月1日に正午の通報は午砲からサイレンにかわり、その役目を終えた。
 年代:明治時代
 旧所在地:千代田区(皇居内旧本丸跡)


皇居正門石橋飾電燈

 皇居前広場から皇居に向かって左手前に見える石橋に設置されていた飾電燈。橋の欄干両側にある男柱石に計6基設置されていたもののひとつである。
 石橋は長さ百六尺四寸(約35.3メートル)、幅四十二尺二寸(約12.8メートル)で、江戸時代に架けられた「西の丸大手橋」といわれる木橋に替わり、1887年(明治20)12月に架けられた。飾電燈は1886年(明治19)、東京電燈会社へ発注されたものであるが、完成日・設計者・鋳造場所など不明な点が多い。
 年代:明治20年代
 旧所在地:千代田区千代田

万世橋交番

 これは神田の万世橋のたもとにあった交番である。名称を須田町派出所といい、万世橋駅のそばにあった。1923年(大正12)の関東大震災により、駅とともに大きな被害を受けたが、のちに以前のとおりのデザインに修復された。
 震災以前の万世橋駅は、1911年(明治44)に設けられた甲武鉄道(現在の中央線)の起点としてたいへんににぎわっていた。しかし、万世橋駅-東京駅間の開通や、震災後の区画整理などによって利用者が急激に減り、1943(昭和18)に廃止された。万世橋交番も昭和初期にはその役目を終え、以後は主に巡査の休憩所や交通係詰所として利用された。
 建築年:明治時代末期(推定)
 旧所在地:千代田区神田須田町1丁目
 寄贈者:警視庁

子宝湯

1929年(昭和4)竣工。

村上精華堂

1928年(昭和3)竣工。

常盤台写真場

1937年(昭和12)竣工。

東京都交通局7500形電車 7514号

1962年製造の都電車両(1978年廃車)

ボンネットバス いすゞTSD43

1968年式

C57蒸気機関車
スハフ32客車

C57機関車は製造初年が昭和21年。スハフ32客車は製造年が昭和7~16年。


江戸東京たてもの園

https://www.tatemonoen.jp/

「国産第1号の鉄橋・都内最古の鉄橋」旧弾正橋(八幡橋)

富岡八幡宮の東側、かつて八幡堀川という川に架かっていた「八幡橋」。
もともとは中央区宝町付近の楓川に架かっていた「弾正橋」という橋であった。

旧弾正橋(八幡橋)

「東京最古の鉄橋」
「国産鉄の鉄橋として日本最古の鉄橋」

「国重要文化財指定」
「米国土木学会栄誉賞」

明治11年(1878)11月に京橋区の楓川に「弾正橋」として竣工。
大正2年(1912)に新「弾正橋」が架橋され「元弾正橋」と改称。
大正12年(1923)関東大震災後の震災復興計画により廃橋。
昭和4年(1929)5月に現在地に移転し「八幡橋」として架橋。

国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7 
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ15.2メートル、有効幅員2メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(1913)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和四年(1929)5月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので、八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋でありかつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

橋を渡って、遊歩道に移動してみる。

八幡堀遊歩道

遊歩道はかつて八幡堀側という川であった。

八幡橋(旧弾正橋)
由来
 旧弾正橋は、明治11年(1878)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が制作した国産第1号の鉄橋です。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称し、以来人道橋として活躍してきました。昭和52年(1977)近代橋梁技術市場価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技師スクワイアー・ウィップルの特許を基本としたところから、平成元年10月、国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。

ピンの接合部に「菊の紋形の花弁装飾」が施されている。

国指定重要文化財 
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、東京市で最初に架けられた鉄橋である。長さ15.2m、幅2m、単径アーチ橋の形式をとる。アーチは鋳鉄製で5本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋である。もとは、京橋区(中央区)の楓川(もみじがわ)に架けられていたものである。経緯については「八幡橋新橋来歴」に詳しく記されている。この橋は明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正年(1913)の市区改正により新しい弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣りであるため、名称も八幡橋と改められた。現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工されてあり、技術史の上でも価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

記念碑がある。
米国土木学会栄誉賞受賞記念など。

八幡橋鉄構来歴
本橋ノ鉄構ハ東京市最初ノ鉄橋タリシ弾正橋ノ古構ヲ再用セルモノニシテ明治十一年東京府董工ノ下ニ工部省赤羽製作所ニ於テ鋳造セラレシモノナリ
其ノ後大正二年市区改正ニヨリ附近に新ニ弾正橋架設セラレタル結果之ヲ元弾正橋ト改名シ近年ニ及ヘルモノナリシカ帝都復興事業区画整理ニ依リ元弾正橋ハ廃橋トナリタルニ付東京市最古ノ鉄橋ヲ記念センカ為其ノ鉄構ヲ取外シ昭和四年此処ニ新設セラルル八幡橋ニ架設セルモノトス
 東京市

米国土木学会栄誉賞受賞記念

JAPAN HISTORIC CIVIL ENGINEERING LANDMARK

AMERICAN SOCIETYY OF CIVIL ENCINEERS
FOUNDED 1852

“THE HACHI MAN BRIDGE”
THE FIRST BRIDGE BUILT OF IRON MANUFACTURED IN JAPAN

PRESEBTED BY THE JAPAN SECTION, ASCE 1989

(和訳)
日本の歴史的土木ランドマーク
 米国土木学会 (1852年創業)
“ハチマンブリッジ” 日本初の鉄製の橋
米国土木学会 1989年、日本部門発表

 八幡橋は、明治11年(1878)わが国において、最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋となっています。
 橋の形(ウイップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウイップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
 ウイップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技法に対して、平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。

人力車のモニュメントにも、八幡橋の解説がある。

八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋は、明治11年(1878)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川を結ぶ主要街路の1つで、文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和4年(1929)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会(三ツ橋の現況)には、明治34年(1901)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。
弾正橋・白魚橋・真福寺橋とをあわせ三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。

八幡堀遊歩道から八幡橋を望む。

橋下では、猫様がくつろいでおられた。

「みんな(猫)の住みやすいまちに」

八幡堀遊歩道の北に、もうひとつ橋梁があった。

旧新田橋

平成12年(2000)の護岸整備により新田橋は架替えられ、昭和7年に竣工した旧新田橋は、八幡堀遊歩道に移設保存。

旧新田橋
 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。

現在の新田橋。


弾正橋
弾正橋公園(楓川弾正公園)

八幡橋は、かつては弾正橋として楓川に架けられていた。
中央区の宝町と八丁堀のあいだ、あたり。
現在は、楓川は埋められており、弾正橋も橋があった名残のみが残っている。

弾正橋
 弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
 その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等どの歴史的貴重さを増している。
 現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。

橋梁の諸元
形式:ラーメン橋台橋 橋長:33m 有効幅員 23.2m(車道16m、歩道3.6m×2) 建設年次:大正15年12月 復興局施工

公園として整備されている。
モニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものというが、じっくりと見学するのが難しい。「菊の紋形の花弁装飾」も復元。よくできている。やはり、じっくり観察ができない環境が惜しい・・・


都内最古の道路鉄橋 南高橋(旧両国橋)


関連

旧東京市深川食堂(深川東京モダン館)

深川。門前仲町の交差点の近くに東京大空襲をくぐり抜けた建物が残っていた。

現在でも通用するモダンなデザインの建物が昭和7年竣工というのだから、驚きを感じてしまう。

旧東京市深川食堂

昭和6年(1931)に着工、翌7年3月に竣工。関東大震災復興事業として建設された東京市設食堂。

旧東京市深川食堂
江東区登録有形文化財 (建造物) 国登録文化財
門前仲町一-一九-一五
 東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正九年(一九ニ〇)から順次設置した一六カ所の市設食堂 のひとつです。延床面積は一〇六坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和六年(一九三一)に着工、翌七年三月に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。一一年に閉鎖されましたが、一三年に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬがれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、三二年には授産機能、三六年には福祉機能が追加されました。五四年に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成一八年に閉鎖されるまで利用されました。
 構造は二階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、二階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建築物としての希少性が認められ、平成二〇年に国登録文化財に登録されました。
平成二十一年九月
江東区教育委員会

外観

2階建て鉄筋コンクリート。
スチールサッシュ窓が特徴的。

深川東京モダン館。
街歩きの拠点となっている。

館内

玄関から階段にかけてのモザイクタイルが特徴的。

昭和の生き証人「深川モダン館」
国登録有形文化財(建造物)「旧東京市深川食堂」
 深川東京モダン館は、東京市が社会事業として順次建設をすすめていた市設食堂で、震災復興事業の一環として昭和7年(1932)に建築された東京市深川食堂を改修した建物です。大正12年(1923)に起きた関東大震災は、死者約9万2千人、全壊・焼失約47万戸という未曾有の大災害をもたらしました。震災で住む場所を失った人びとに、安くて栄養のある食事を提供するためには公共の食堂が是非とも必要でした。そのため東京市(1944年に東京都となる)では市内の数カ所に食堂を増設しました。この深川東京モダン館の前身である「深川食堂」は、最後に造られた市設食堂でした。
 深川食堂は震災復興が一段落した後も、社会事業の役割をになう公営食堂などとして運営されてきましたが、第二次世界大戦末期の空襲で建物の内部が焼けてしまいました。戦後は職業安定所や内職補導所、障害者通所授産施設として活用されてきましたが、平成18年(2006)にその役割を終え、解体を含め建物をどうするのかが問題となりました。
 専門家による調査で、この建物は昭和初期の近代建築の姿を今日に伝える貴重な文化遺産であるとの評価を受け、江東区は保存と活用を決めました。また平成20年(2008)には、国登録の有形文化財(建造物)として認定されました。
 昭和の初めに、新鮮な驚きを与えて人々を魅了したモダンスタイルを今日に伝えるこの建物は、また、激動の昭和の歴史の生き証人でもあります。今後は保存され、江東区の観光と文化の拠点「深川東京モダン館」として装いを新たにし再出発します。

建物の概要
●所在地:深川區門前仲町17番地
     (現 江東区門前仲町1-19-15)
●用途:市設食堂(社会事業施設の復興計画)
●工事管理者:東京都社会局/設計 東京市建築課
●敷地面積:敷地298.9㎡、延床面積370.58㎡
●竣工:昭和7年3月下旬
●1階:事務室、調理室、倉庫、嗜好食を売る食堂
 2階:定食室、外従業員寝室
 ※嗜好食=一般市民向け、定食=少額所得者向け

建物の特徴
 深川東京モダン館は、昭和初期に建築された建物の姿を今日に伝える貴重な文化遺産です。昭和初期の1930年代には、建物から装飾を取り去って、できるだけシンプルで単純な形を追求した建築が時代の最先端として登場し世界中に広まりました。「単純なものは美しい」という言葉に象徴されるこの傾向は、建築だけでなく美術や音楽の世界にも見られ「モダニズム」とか「モダンスタイル」と呼ばれました。モダニズムは近代の合理主義精神が形となったものとされています。
近接時期の特徴
・関東大震災復興事業として着工された現存する数少ない建築である。
構造上の特徴
・耐震耐火の性能を満たすべく当時の最先端の技術である鉄筋コンクリート造として建設された。
デザイン、建築材料の特徴
・入口に続く階段空間が2階天井までを全面窓とした吹き抜け空間となっていて明るく開放的である。
・2階の南側の窓がモダンデザインの特徴である水平に連続するスチール・サッシになっている。
※窓枠はすでに位置を変え付け替えられていたため、改修工事により、位置について復元をした
・昭和初期のモダン建築に多く見られる丸窓がある。この6つの丸窓は大通りから真っ直ぐに見え、本建造物を強く印象づける役割を果たしている。

戦前の牛乳瓶
平成20年の建物改修工事時に出土。

改修前の外壁
南満鑛業株式会社製のリソイド仕上げ外壁。

昭和7年の竣工時の面影を伝える床面タイル・壁面タイル。

モザイクタイルが貼られた階段と壁面。竣工当時の面影を残す。

2階は、イベントスペース。


戦災殉難者慰霊碑

近くには門前仲町の町会で建立された「戦災殉難者慰霊碑」があった。(モスバーガーの隣)

戦災殉難者慰霊碑
 平成2年7月吉日
  門前仲町一丁目町会建之


※撮影:202007及び202101


関連

東京大空襲・慰霊

飯能市大河原の監的壕


埼玉県飯能市の山に「射撃場の跡」があるというので脚を運んでみた。


監的壕(かんてきごう)
飯能町在郷軍人分会常設射撃場

射撃の着弾点や命中率を確認するために造られた施設。
飯能市に残る監的壕は、飯能の在郷軍人会によって、昭和16年に11月3日に竣工したもの。石垣積み・コンクリート築造。

射撃訓練として「的」に向かって射撃を行う。おそらくは、「三八式歩兵銃」での射撃。壕の下に控える監視者が、的の様子を確認出来る構造となっている。
すなわち「的を監視する壕」「監的壕」か?

射撃訓練ということもあり、安全を考慮して人里離れた山裾に設けられたものと思われる。

石垣が築かれたコンクリート製の「監的壕」がみえてきました。
周辺に、射撃場の面影はなく「監的壕」のみがきれいに残っていました。

昭和十六年十一月三日竣工

飯能町在郷軍人分會常設射撃場
監的壕

監的壕の入り口には、扉があったことがわかる。

左側(渓流の下流側)のコンクリート壁がせり出している。
射撃者は、下流側から、この監的壕を狙ったものと思われる。

奥が若干だが広くなっている。

鉄の棒が飛び出ている。ここに「的」を設置したのか。

「鉄の棒」の下には、腰掛けるのに丁度よいコンクリートがあった。
的の下に控えた観測員が、ここに腰掛けたのか。

鉄の棒と、コンクリートの椅子はふたつ。
つまり、射撃の「的」はふたつ。
飯能町在郷軍人会の施設のため、小規模な射撃場。

上に上がってみた。

右側が渓流下流。射撃者は、右側から「的」をめがけて撃ち込みをした。

使われなくなって75年も経てば、樹木も茂る。コンクリートのギリギリまで植林されたようだ。

思った以上に、きれいに残っている戦跡でした。
なかなかの見応え。これは大切に残してほしい戦跡です。


位置関係・アクセス方法

まず最初に。

現地は湿地帯となります。湿地帯のぬかるみを突破しないといけないために、長靴やハイキングブーツ、登山靴など厚底の靴がおすすめです。
どちらかというと、夏場よりも冬場。それも晴れの日が続いた冬場が、ぬかるみもおさまり、脚が運びやすいかと思われます。

場所→だいたいこのあたり

https://goo.gl/maps/Cz1kWUK5jqWdKG8a8

南の「美杉台」のほうが近そうに見えますが、沢を登っていきますので、北側の「大河原」からアクセスとなります。

飯能駅から西に歩いていきます。
割岩橋にて入間川を横断します。

飯能河原

そのまま道なりに西に。

交差点が見えてきました。

「大河原」交差点。飯能駅からここまでは、徒歩で約25分前後。

渓流の名前は「小山入川」。
渓流に沿って登っていきます。

このあたりは休耕田、ですね。

射撃場跡へと。

道が二手にわかれますが、渓流に沿って左側へ。

休耕田エリアが終わると、本格的に山となります。ところどころに湿地も混じっておりますので、足元に気を配りつつ。

倒木も多数。

大きな岩が見えてきたら、この左側に目的地があります。
先に進むことに夢中になっていると、通り過ぎてしまいますのでご注意を。
(うっかり通り過ぎるところでした。)

「大河原」交差点から、「監的壕」までは約10分。
飯能駅からはトータルで、約35分、でした。

ちなみに、飯能駅から割岩橋に向けて歩いてきた道が「幻の表参道」だったそうです。明治神宮建設に際しての誘致が飯能でも行われていた、と。
飯能の天覧山に 明治天皇が明治16年に近衛兵春季小演習の展覧のために登られた縁もあり。天覧山は、最近ではヤマノススメの聖地になってますね。


本記事を作成するにあたり、以下のブログを参照させていただきました。

https://ameblo.jp/ibukoma2000/entry-12544104231.html

JR両国駅と両国橋散策

両国駅

明治37年(1904)4月5日に、千葉方面に鉄道を展開していた私鉄・総武鉄道によって「両国橋駅」として開業。総武鉄道は千葉県内初の鉄道。
本所駅(錦糸町駅)と両国橋駅(両国駅)の1.5キロは、日本の鉄道として最初の高架区間でもあった。総武鉄道単独では隅田川を渡ることが難しく、両国橋駅が千葉県から都心方面のターミナル駅として機能することとなった。
総武鉄道は明治40年(1907)に買収され国有化。官設鉄道の総武本線となった。

昭和4年(1929)12月30日に増大する輸送量に対応するために、現在の新駅舎が竣工。昭和6年に「両国駅」に改称。
平成28年(2016)11月25日、旧駅舎再改装。

関東の駅百選
「鉄筋2階建ての駅舎で相撲とともに歩んだ下町の代表となる駅」。

※2020年8月撮影

※2021年3月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C29C-C1-55
1942年3月18日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

両国駅の貨物エリアが再開発で、のちに国技館と江戸東京博物館、となった。
震災記念堂(東京都慰霊堂)と復興記念館は戦災をまぬがれた。


両国橋

隅田川にかかる橋。かつては武蔵国と下総国の国境であったことから「両国」と呼称。貞享3年(1686)に国境が変更されて武蔵国内となった。

現在の両国橋は昭和7年(1932)竣工。柱部は両国国技館の屋根を模った飾りを配する。

隅田川にかかる両国橋の西側には神田川と柳橋。両国橋で、神田川と隅田川が合流する。

旧両国橋は、黒島川の南高橋に移築されている。


柳橋

神田川最下流の橋。関東大震災復興事業として昭和4年(1929)竣工。

昭和4年の復興記念碑。


表忠碑

両国橋の東側に鎮座している。

表忠碑
元帥侯爵大山巌書

明治三十七八年役戦病死者
明治四十年一月一日建之

※2018年5月撮影


両国関連

東京大空襲・慰霊

浅草の近代建築散策

浅草界隈の近代建築散策などを。


東武鉄道浅草駅ビル

東武鉄道の浅草駅ビルは昭和6年(1931)竣工。
地上7階・地下1階の建物は、鉄道省の初代建築課長であった建築家久野節が設立した久野建築事務所が設計、清水組により施工。関東初の本格的な百貨店併設ターミナル駅ビルとして開業。関東では唯一のJR.地下鉄以外の他社民鉄と接続していないターミナル駅。
昭和初期のアール・デコ様式の建造物。平成24年に開業時の姿に復元リニューアル。

関東の駅百選「浅草駅」
「昭和6年「浅草雷門駅」として開業、駅の上はデパート」(東武鉄道)

内部も(電車のとこだけだけど)


東京メトロ浅草駅上屋(4番出入口)

昭和2年(1927)竣工。日本初の地下鉄駅のひとつ。戦前の地下鉄関連遺産として近代化産業遺産に認定。
大正6年(1917)に早川徳次が東京軽便地下鉄道を設立。関東大震災によって資金繰りが悪化し、建設区間を短縮。東京一番の繁華街であった浅草と国鉄ターミナルの上野を結ぶ路線の建設に着工し、昭和2年12月30日に、日本初にして東洋初の地下鉄として東京地下鉄道の浅草駅が開業した。

関東の駅百選「浅草駅」
「浅草寺を考慮し、浅草の土地柄に馴染んでいる仏閣デザインの地下鉄の長老駅」(営団地下鉄)


神谷バー

大正10年竣工。国登録有形文化財。
日本最初の「バー」。「電気ブラン」で有名。

明治13年(1880)、神谷伝兵衛が酒屋を開業。明治14年には輸入葡萄酒の販売を開始し、明治15年に「電気ブラン」の製造販売を開始。神谷伝兵衛は輸入葡萄酒を原料に日本人向けに明治18年に「蜂印葡萄酒」、明治19年に「蜂印香竄葡萄酒」(ハチブドー酒)を売り出し成功。日本製ワイン黎明期を支えた。
明治45年(1912)、酒屋を改装し「神谷バー」を開業。
大正10年(1921)、現在の建物を建造。浅草地区で最古の鉄筋コンクリート造の建造物。

電氣ブラン(電気ブランデー)

神谷伝兵衛が明治26年(1893)頃に、輸入ブランデーにワインやジン・ベルモットなどをブレンドした「電気ブラン(電気ブランデー)」を発表。
電気が珍しかった明治の頃、目新しいものは「電気◯◯」と呼ばれ、この新しいハイカラなブランデーベースのカクテルも流行りに乗ったお酒となる。
ビリリとした味わいも電気のイメージにぴったりだったとか。

久しぶりに飲みたくなりました。。。(今度、買ってこよう)

ハチブドー酒も神谷バーと神谷伝兵衛ゆかりのお酒。


ライオンビル
(旧井阪屋本店河合ビル )

昭和10年(1935)竣工。国登録有形文化財。
鉄筋コンクリート造三階地下一階建。
現在は、撮影スタジオ 「LION BUILDING(ライオンビル)」として活用されてる。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/398545


浅草地下街

現存する日本最古の地下街。昭和30年(1955)1月の開業。

浅草地下街は戦前ではないけど、昭和情緒が色濃く残る貴重な空間。


浅草を広義に捉えた場合は、まだまだ近代建築が点在しているようだけど、指し急ぎは浅草寺周辺の散策でした。
界隈の近代建築を記録しましたら、追記していきます。

※2020年9月撮影ほか


浅草寺

和泉町ポンプ所(千代田区・2023年解体)

2023年5月16日から解体工事となり消失しました


東京都下水道局「和泉町ポンプ所」

大正11年竣工の鉄筋コンクリート2階建ての建造物。
大正11年(1922)8月に稼働開始。現存する日本初のポンプ場のひとつ(だった)。
大正11年3月に運用開始となった三河島処理場(旧三河島汚水処分場喞筒場施設)とともに整備された。
関東大震災と東京大空襲の猛火をくぐり抜け、今日まで約100年近く現役の施設(だった)。近隣の汚水をポンプで吸揚し、三河島の水再生センター(三河島汚水処分場)に送水をしていた。
なお、数年前までは、古い煉瓦壁が道路沿いに残っていたが2018年以降に撤去されている。

大正11年竣工。翌年大正12年9月1日には、関東大震災が発生。周辺が焼け野原になる中で、この神田和泉町・神田佐久間町周辺は、周辺住民の消火活動により防火に成功。押し寄せる猛火を、前年に竣工したばかりの和泉町ポンプ場の水などを活用して、延焼防止に役立てたという。
旧神田区では関東大震災で94%が焦土となる中で、神田和泉町周辺の1630戸は奇跡的に焼け残った。
昭和14年には、和泉町ポンプ所は「関東大震災 町内協力防火守護の地」として顕彰されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/business/kanko/newstokyo/240/5/index.html

東京都下水道局ではペーパークラフトも用意されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/living/kids/corner/paper/index.html

※解体となり、上記のリンクはすべて削除された模様。。。


2021年1月訪問時の写真

※クリックで拡大可

場所は秋葉原駅のほど近く。

https://goo.gl/maps/gUAR1EumivajZYWU8


解体前の2023年4月再訪

解体ときいて、直前に再訪して記録写真を。

解体工事のお知らせ
この建築物を、下記の通り解体します。
解体工事の名称:旧和泉町ポンプ所解体工事
工期:令和5年5月16日から令和5年9月29日まで

以前(2021年)に門扉に掲げてあった「神田和泉町思い出マップ」は既に撤去されていた。。。

いろいろと思うところはあるが、ポンプ場は役目を終えて、いまは解体を待つ状態であった。

※追加撮影:2023年4月


関連(近隣の史跡)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その1)

十条の造兵廠は掲載しておりましたが、板橋の造兵廠は未掲載でした。
板橋の二造は公園整備が行われることも決まり、そのために記録が鈍化していたというのもありました。
ひとまずは、整備前の写真を中心としたレポとなります。
整備が終りましたら再訪は必須ですが。

十条…東京第一陸軍造兵廠(一造)
板橋…東京第二陸軍造兵廠(二造)


東京第二陸軍造兵廠(東二造・二造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

明治3年、兵器工場として造兵司が新設。
明治4年、小石川に東京工場として「東京造兵司火工所」が新設。
明治8年、東京造兵司は「砲兵本廠」と改称。

明治9年(1876)
砲兵本廠板橋火薬製造所」として、加賀藩江戸下屋敷跡地に石神井川の水力を生かした火薬製造所が発足。これが明治政府が初めて設置した火薬製造所となる。当時の工場は水力を軸としており、小石川の板橋火薬製造所をはじめ、赤羽火薬庫なども水運を想定した位置関係であった。

明治12年(1879)
東京砲兵工廠と改称。「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」となる。

大正12年(1923)
「陸軍造兵廠」が設置。「陸軍造兵廠板橋火薬製造所」となる。

昭和11年(1936)組織改編
陸軍造兵廠火工廠から十条兵器製造所が分離し、小石川の東京工廠が十条に移転。十条に置かれていた陸軍造兵廠火工廠本部は板橋に移転。
板橋が「陸軍造兵廠火工廠本部」となる。火薬製造所は再編により加工廠管轄下となる。「陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所

昭和15年(1940)組織改変
陸軍造兵廠と陸軍兵器廠を統合。兵器本部が新設。
 十条の東京工廠「東京第一陸軍造兵廠」(東一造・一造)
 板橋の火工廠 「東京第二陸軍造兵廠」(東二造・二造)
板橋火薬製造所は「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」となる。

2008年に「旧東京第二陸軍造兵廠建物群(東京家政大学構内)」が板橋区登録有形文化財に指定。
2017年(平成27年)10月13日に「陸軍板橋火薬製造所跡」として国指定史跡に指定。
2018年(平成30年)3月29日付で板橋区登録記念物(史跡)に登録。
史跡範囲は「旧野口研究所跡・旧理化学研究所板橋分所跡・区立加賀公園」

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/bunkazai/1004848.html

現在は、、史跡公園に向けて整備となる。

板橋区史跡公園(仮称)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/1021974/1023606.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-129
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※航空写真はクリックして拡大可

上記を拡大。
こうしてみると、板橋十条の軍事施設は思ったよりかは建屋が残っているのがわかる。逆に周辺の住宅地が白くなっており建屋が焼失しているので、軍事施設を狙った爆撃が工場周辺に外れてしまった様子を想像することもできる。

上記とほぼ同じエリアの現在の様子。
こうしてみると、軍事区画であった場所が今でもかなりわかりやすい。

前述の航空写真より東京第二陸軍造兵廠の部分を拡大。

現在の様子と並べてみる。
黄色は「その1」での掲載箇所。
紫色は「その2」での掲載箇所。

前述の航空写真(USA-M380-129)の南東部をさらに拡大。

黄色は愛誠病院・愛世会関連施設
橙色は旧理研
赤色は加賀公園・旧野口研究所


関連記事

上記の位置関係でも記載のある周辺エリアは別記事にまとめてあるので、それぞれリンク掲載。

東京第一陸軍造兵廠

陸軍兵器補給廠と稲付射場・赤羽火薬庫道


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策

軍用鉄道跨線橋台座跡
(トロッコ・電気軌道)

埼京線にかかる十条台橋から見えるのが、往時の軍用鉄道跨線橋(トロッコ)の台座跡。金網の向こうを覗く。両側に台座が残っているのがわかる。

明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡。

場所

https://goo.gl/maps/ps6TZ6ThbeHo3tpm9


東京家政大学構内

北側に広がる「東京家政大学」も東京第二陸軍造兵廠板橋製造所時代の建物が残っているが、女子大となるので構内は未見学。
煉瓦造平屋が3棟現存という。
 旧220号棟 (現板橋校舎21号棟)
 旧225号棟 (現板橋校舎22号棟)
 旧261号棟 (現板橋校舎58号棟)
上記が板橋区登録有形文化財(建造物)に指定されている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・板橋区立加賀公園)
(旧野口研究所跡)

加賀公園と、その西側にあった旧野口研究所跡。
周辺が「板橋区史跡公園」(仮称)として整備される予定。

加賀公園は、もともとは加賀前田家下屋敷であった。明治期にこの地に火薬製造所が置かれたことに始まる。

建屋の情報は板橋区の資料に詳しい。

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/res/projects/default_project/_page/001/023/606/noguchikenmap.pdf

爆薬製造実験室

建築年代は昭和10年1月。構造は鉄筋コンクリート造の平屋建築、屋根は切妻屋根。トタンによって外壁が補修されている。
もともとは後方のマンションの位置にあったが、保存のために平成29年に主要部(全体の1/3部分)の曳家工事を実施。

常温貯蔵室
地下貯蔵庫

常温貯蔵庫は昭和9年以前には建設されていたと推定。
構造はコンクリート造で、上下2段8列の棚構造で、16の鉄製扉を有している。扉は現在、8面のみ現存するも固着しており開閉は困難という。

常温貯蔵庫の手前には地下貯蔵庫がある。
地下貯蔵庫には蓋がされている。水槽として使用されていたという。

加温貯蔵室

昭和9年以前には建造か?

加温貯蔵室試験火薬仮置場基礎

加温貯蔵室に併設されていた建物。基礎のみ現存。平姓18年までは建物が確認できたが、平成26年までのあいだで撤去。

銃器庫

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、内部は木造二階建の棚床が設置。
昭和18年以降の改築か?

土塁

燃焼実験室
試験室
弾道管

燃焼実験室の構造は鉄筋コンクリート造2階建。
昭和18年以降の建築か?

弾道管は、約30m現存。

「燃焼実験室」から弾道管が一直線に伸びている。
コンクリートの2棟は「試験室」。

試験室No.672

試験室No.552

弾道管

弾道管

試験室

試験室No.552

試験室No.672

弾道検査管(爆速測定管)の標的
 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家 の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=ニ造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前のニ造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵 が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場 時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。 

擁壁

軽便鉄道の軌道と北側の試験室や弾道管等の試験施設との間を隔てる役割を担っていた。
鉱滓煉瓦壁が4スパン、コンクリート壁が1スパン、合計5スパンが現存。

射垜

露天式発射場の的である射垜と、弾道管と接続する隠蔽式発射場の射垜が存在していた。隠蔽式発射場の射垜は昭和46年の加賀公園造成工事の際に一部撤去。遺構が埋蔵している可能性あり。
露天式発射場の射垜の下方部構造は埋蔵されており不明。
レンガ積にモルタルが塗布。

コンクリート擁壁

昭和46年の加賀公園造成工事で撤去された常温貯蔵庫が隣接していた。また防火壁も設置されていたという。

電気軌道線路敷跡

電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。


加賀公園の北側を流れる石神井川の対岸エリア。
現在は「愛誠病院」など愛生会関連の建物が展開されているエリアにも、当時の建屋が残っている。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛歯技工研究所)

最近まで愛歯技工専門学校として使用されていたが2019年3月で閉校。
愛歯技工研究所は存続しているが、今後の扱いが気になるところ。

試験室(140号棟)

煉瓦造建造物。
愛歯技工専門学校時代の内部は体育館兼倉庫として使用。

仕上収函仮置場(13号棟)

煉瓦造建造物か?だいぶ改良されている外観であるが、建屋下部には面影が残っている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛誠病院)

愛誠病院内にもいくつかの建屋が残っている。
愛生会病院は、昭和22年に二造の敷地と建物の使用を開始したという。

現存する建物
 煉瓦造の旧 36 号家 ( 現第 1 病棟 )
 煉瓦造の旧 35 号家 ( 現第 2病棟 )
 煉瓦造で一部二階の旧 168 号家 ( 現精神神経科外来棟 )
 煉瓦造の旧 164 号家 ( 現本部事務棟および第 3 病棟 )
 煉瓦造の旧 256 号家 ( 現作業療法棟 )
 鉄筋コンクリート造の旧 438 号家 ( 現第 11 病棟 )

病院敷地の見学は、言わずもがなですが、常識の範囲内で静粛に。

化学実験室(438号棟)
現・愛誠病院第11病棟

鉄筋コンクリート造。

駆水室(35号棟)
現・愛誠病院第2病棟

煉瓦造

綿薬配合室(36号棟)
現・愛誠病院第1病棟

煉瓦造

混合室(168号棟)
現・愛誠病院精神科外来棟

煉瓦造

爆薬理学実験室(256号棟)
現・愛誠病院作業療法棟

煉瓦造

物置(164号棟)か?
現・愛誠病院デイケア棟

煉瓦造

煉瓦の気配。

なお、板橋区の資料によると「愛誠病院本部事務棟/第 3 病棟」(下の写真)が煉瓦造の164号棟と記載あるが、どうみてもデイケア棟が煉瓦造建造物。事務棟/第 3 病棟は、逆に煉瓦造建造物には見えず。

本記事の冒頭に記載した位置関係でもデイケア棟と当時の建屋の場所が一致する。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(理化学研究所板橋分所跡)

石神井川の北側。旧・理化学研究所板橋分所エリア。

物理試験室

東西に3棟が連結。
東から昭和13年、明治40年、昭和6年の建造。中央部が一番古く、東西が増設されたことがわかる。
理研時代は湯川秀樹や武井武、朝永振一郎が使用していた。

中央の煉瓦棟は明治40年の建造。

東の棟は昭和13年。

西側の棟は昭和6年。

南側、石神井川側より。

爆薬理学試験室

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、地下一階建。
昭和9年から昭和12年にかけて建造か。

理研跡地も板橋区によって加賀公園・野口研究所跡地ともども、「史跡公園」として再整備予定。
この辺のエリアは整備されたら改めて訪問したいと思う。


陸軍工科学校板橋分校跡

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の南東におかれていた陸軍学校。
現在の「加賀公園」の南側に設置された石碑。
陸軍工科学校の卒業生によって組織された工華会による設置。

花匂ふ桜ヶ丘
永遠の平和を祈る
 工科学校
 板橋分校跡
  工華会建之

板橋区立板橋第五中学校の敷地は、明治41年から昭和15年まで陸軍工科学校板橋分校(通称「桜ケ丘」)が位置していた。

明治41年9月に砲兵工科学校分校として砲兵工科学校の火工学生が小石川本校から板橋分校に移転。大正9年に陸軍工科学校板橋分校と改称。
昭和15年7月に小石川本校とともに陸軍兵器学校と解消され、神奈川県相模原市に移転。
その後、終戦までは「一造の板橋宿舎」として使用。終戦後は昭和30年までGHQの情報機関CIC(対敵諜報隊)が置かれていた。
昭和30年4月に板橋区立板橋第五中学校が開校。


陸軍工科学校板橋分校の陸軍境界石

加賀公園の南、板橋第五中学校の南東に残る境界石。
板橋第五中学校の界隈が、陸軍工科学校板橋分校であった。

「陸軍省」の文字が残る。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の西側は、その2、にて。

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月