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日本初の機械式煉瓦工場「日本煉瓦製造上敷免工場」と専用鉄道線跡【渋沢栄一6】

明治政府は急速な近代化整備を行うにあたり良質な煉瓦を必要としており、大量生産可能な煉瓦工場を必要としていた。
煉瓦需要を受けた渋沢栄一らによって煉瓦工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(深谷市)に創業した。「上敷免」は渋沢栄一の出身地「血洗島」と同じ榛沢郡であった。

日本で最初の洋式煉瓦工場は「小菅煉瓦製造所」(明治5年)
日本で最初の機械式煉瓦工場が「日本煉瓦製造工場」(明治21年)

日本煉瓦製造工場で生産された煉瓦は、日本の近代化の推進力となった。

  • 東京駅
  • 中央本線の鉄道高架橋(秋葉原の万世橋高架橋など)
  • 司法省(現在の法務省休館)
  • 日本銀行本店本館
  • 迎賓館赤坂離宮
  • 東京大学
日本煉瓦製造工場跡

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R3233-88
1949年10月03日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。

ファイル:USA-R256-No1-146
1947年10月30日、米軍撮影画像を一部加工。

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。


深谷駅

「日本煉瓦製造・上敷免工場」で製造された煉瓦で建築された東京駅を模した深谷駅から散策はスタート。
深谷駅から、「日本煉瓦製造・上敷免工場」までは約4キロ。かつては専用の線路で結ばれていた。民間工場の専用線路というのも、実は日本初であった。現在、廃線跡は「あかね通り」として整備されている。

※この日は、レンタサイクルを利用して深谷市内を散策しました。
※深谷駅に関しては別記事にて


旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
(日本初の専用鉄道)

深谷駅から廃線跡の遊歩道へ。線路にそって、唐沢川を渡る橋は「つばき橋」と呼称されていた。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一が中心となって、明治20年に設立した日本煉瓦製造株式会社は、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。ここで生産された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)、日本銀行本店本館、旧信越本線碓氷第三橋橋など多くの建造物に使用され、日本の近代化を支えました。市内にも数多くの煉瓦建造物が残っています。
 当初は舟により製品などが運搬されましたが、明治28年に、深谷駅から向上までの約4kmに、日本で始めてとなる民間工場のための専用鉄道線が引かれ、昭和40年代まで使用されました。
 現在は、あかね通り(自転車歩行者専用道)として利用されています。

唐沢川橋梁跡

つばき橋。

ボナール型プレート・ガーダー橋。
橋は、移設再構築されたものという。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 唐沢川に架かる長さ約13.4mの鉄橋は、チャールズ・アセトン・W・ボナールというイギリス人技師が設計した鋼板桁(プレート・ガーダー)橋です。当初は違う構造でしたが、大正時代以降にこの構造になったようです。ボナールは、明治15年に鉄道院が外国から招いた最後の技師で、ボナール型プレート・ガーダー橋は、明治28年から明治34年までに国内各地に架設されました。この橋桁自体は、以前に製作され使用されていたものを移設、又は再構成したものと思われます。

中山道

しばらく進むと、中山道と交差する。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 専用鉄道線は、明治初頭に建てられた中山道深谷宿東端(稲荷町)に建つ常夜灯のすぐ脇を通っていました。昭和50年に廃線となった後、歩行自転車専用道として整備されていきますが、それまで専用鉄道線は街の景観の一つでした。

中山道深谷宿の東端にたつ常夜灯。

そして国道17号と立体交差。

住宅地の合間を抜ける。

福川橋梁

そして、福川を渡ると「ブリッジパーク」。

ここには、福川橋梁が保存されている。
日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋、という。

旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
 福川には、長さ約10.1mの鉄橋と、洪水に備えた長さ約22.0mの避溢橋が架けられました。鉄橋は、イギリス人技師ボーナルが設計した銅板桁(プレート・ガーダー)橋です。河川改修に伴って移設されましたが、ほぼ明治28年に創設された当時のまま残っており、日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋です。また避溢橋は、5連の箱桁(ボックス・ガーダー)橋で、当時は木桁だったものが順次鉄になっていたようです。また、これより北の17号バイパス付近には、十二祖用水橋という長さ約3.3mの小さな鉄橋がありました。

福川鉄橋
深谷市指定文化財
昭和61年12月22日指定
 日本煉瓦製造株式会社専用線の福川に架設された鉄橋で、福川に架けられていたブレ―ト・ガーダー橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーダー橋からなっていました。プレート・ガーダー橋は、全長10.1mで、明治28年(1895)の建設当初の姿をほとんどそのままに伝えており、現存する日本最古のポーナル型プレート・ガーター橋です。
 ボックス・ガーダー橋は、全長22.9mで、洪水のときに福川から溢れた水の逃げ道をあけておくために設けられたものです。当初は木桁でしたが、順次鉄桁に変えていったようですポーナル型プレート・ガーダー橋は、イギリス人の鉄道技師、チャールズ・ポーナルの設計による鉄橋です。日本の近代産業革命期の明治28年から34年(1895~1901)に全国各地で建造されました。
 福川鉄橋は、日本の近代化を象徴する産業遺構として、極めて高い歴史的価値をもっています。
 深谷市 深谷市教育委員会

福川鉄橋

五連の福川避溢橋梁

福川

楡山神社

ちなみに福川橋梁の南近くには武蔵国延喜式内社「楡山神社」が鎮座している。
かつて2003年に武蔵国内の延喜式内社(=平安時代から信仰されている古社)を巡っていた頃に一度参拝したことがあり。今回が実に18年ぶりの参拝。

以下に2003年の参拝記録があるが、実にひどいもので、当時は「日本煉瓦製造の廃線跡」にさほどの興味も抱いていなかったようで。この記録の18年後に「廃線跡」を巡る記録を書いているのが実に皮肉めいている。

http://jinja-kikou.net/oosato.html#1

福川橋梁のある原郷は、深谷駅から2.5キロ。
あと1.5キロを進めば、煉瓦工場にたどり着く。

備前渠鉄橋

国指定重要文化財「日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設」の一部

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
工場の南には、江戸時代に開削された備前渠が流れ、イギリス人技師ボナールが設計した専用鉄道線最長(長さ15.7m)の鋼板桁(プレート・ガーター)橋、備前渠鉄橋が架けられました。
 また用水路には煉瓦アーチ橋が架けられています。これらは、旧煉瓦製造施設の一つとして、ホフマン輪窯6号窯、旧事務所、旧変電室とともに国重要文化財に指定されています。

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
備前渠鉄橋
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 煉瓦輸送専用に架設された鉄橋である。
 操業当初からの輸送手段であった利根川船運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するため建設されたのが本専用線であり、明治二十八年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。
 専用線には四箇所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道員技師、イギリス人チャールズ・アセトン・ボナールが基本定規を設計したI字形鋼板を橋桁とする「ボナール型プレート・ガーダー橋」が採用された。中でも本鉄橋は十五・七メートル(約五十フィート)と、専用線中最長の橋桁を有している。また分岐する用水路に架設された煉瓦アーチ橋は、長さ約二メートルと小規模ながら、完全な煉瓦構造と推定される貴重な構造物である。
 文化庁
 埼玉県教育委員会
 深谷市教育委員会

用水路に架かる煉瓦アーチ橋

備前渠に架かるボナール型プレート・ガーダー橋

備前渠用水路は埼玉県内最古の農業用水路。
慶長9年(1609)関東代官頭の伊奈備前守忠次によって計画されたことから「備前渠」と呼ばれている。「世界かんがい施設遺産」に登録。


日本煉瓦製造株式会社上敷免工場

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一が中心となって明治20年(1887年)に設立した、日本初の機械による煉瓦の大量生産が可能な工場。上敷免(じょうしきめん)に建設された。
のちに太平洋セメントの子会社となり、2006年に廃業。残されていた工場諸施設は深谷市に移譲され、専用鉄道跡とともに整備及び保存されている。
「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」が国指定重要文化財。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一翁が中心となって明治20年に設立された日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場では、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。約10万m2の広大な敷地をもち、明治40年ごろの最盛期には、6基の煉瓦窯が稼働しました。原料となる粘土(原土)は、周辺の畑地から採掘されてトロッコで工場まで運ばれ、採掘後の畑は、一段低くなって水田になりました。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所明戸工場

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。


造形が美しい。

国指定重要文化財
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館

ホフマン輪窯は保存修理工事中のため、公開休止。2024年頃に再開予定。

門扉には日本煉瓦製造株式会社のシンボルマーク

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 建物は明治二十一年頃の建設で、煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導に当たったナスチェンテス・チーゼ技師が住居兼工場建設事務所として使用したと伝えられている。地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれていた。
 日本煉瓦製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、煉瓦を大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心となって設立された。工場建設地は、当時政府に招かれていた建築技師ウィルヘルム・ベックマン、チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、良質の原土を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現深谷市上敷免 新井に決定された。チーゼは娘クララと共に明治二十二年十二月に帰国するまでここで生活し、彼の帰国後は会社事務所として使用された。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

正面に掲げられた日本煉瓦製造株式会社のシンボルマークが美しい。

裏には記念碑がふたつ置かれていた。
レールはかつての専用線のものだろうか。

創立70周年記念
昭和32年10月25日
日本煉瓦製造株式会社

昭和32年10月25日創立70周年記念日に当り我社70年に渉る歴史と伝統とを回顧し又我社の今日を築いた先覚者の精神と業蹟とを想起すると共に今後益々社業の発展を期するものである。仍って茲に記念の為この記念碑を建立する。
 昭和33年4月20日
  日本煉瓦製造株式会社
   専務取締役 諸井貫一

創立100周年記念

我社は昭和62年10月25日創業百周年を迎えた。創業以来幾多の変遷と苦難を超えて一世紀に亘る歴史を築き上げた二世紀への節目に当り先人の偉業を偲び新たな歴史に挑戦する決意をもってここに記念碑を建立する。
 昭和63年10月25日
 日本煉瓦製造株式会社
 取締役社長 松尾芳樹

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 明治三十九年頃の建造と言われている。室内には変電設備が設置されていた。
 日露戦争後の好景気による建築・土木事業の拡大がもたらした煉瓦需要の増加に対応するため、日本煉瓦製造株式会社は、設備投資の一環として電力の導入を開始した。諸産業への電力利用の普及もあり、従来より使用していた蒸気式原動機の電動機への転換に踏み切ったのである。
 明治三十九年八月、会社は高崎水力電気株式会社と契約を締結、電灯線を架設し、電動機を導入した。当時の深谷町に電灯が導入される一年前のことであり、先端技術を積極的に導入しようとする会社の姿勢をうかがうことができる。
 その設備自体はすでに失われているが、この建物だけが建造当時の姿をとどめている。当時の煉瓦業界の隆盛を物語る貴重な建物である。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館(旧事務所内)

何気なく積まれているのは、かつての線路のレール・・・?

旧事務所から旧変電室を望む。

渋沢青淵先生像(渋沢栄一胸像)

煉瓦に刻まれる製造工場の刻印は、時代とともに異なっていた。
明治期「上敷免」
大正期「日煉」
昭和期「日本」

写真は、場所は変わって「誠之堂」で販売されていた「煉瓦ペンダント」

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
ホフマン輪窯6号窯

保存修理工事中。見学再開は2024年予定。
ホフマン輪窯6号窯は明治40年(1907)の建造。この窯で焼かれた煉瓦が東京駅の建設にも用いられた。
ちなみに東京駅を設計した辰野金吾は、日本煉瓦製造株式会社上敷免工場の建設にも関わっていた。

深谷の散策は、まだまだ続きますが本編は一旦ここで〆


日本煉瓦製造の煉瓦を使用した建物


渋沢栄一関連

晩香廬と青淵文庫(渋沢栄一旧邸・曖依村荘跡)【渋沢栄一1】

2024年度発行予定の1万円新紙幣の顔、そして2021年の大河ドラマの主人公でもある渋沢栄一の邸宅は飛鳥山にあった。


渋沢栄一

日本近代経済の父、日本資本主義の父、と称される。
1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)
旧幕臣、官僚、実業家。正二位勲一等子爵。雅号は青淵。

第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所、東京株式取引所を初めとし、500を超える企業や経済団体の設立・経営に関わる。
社会福祉事業、病院医療、実業教育、女子教育、私立学校等の設立、運営、支援等、700を超える社会事業にも尽力。

実業家としては、みずほ銀行・りそな銀行・埼玉りそな銀行・王子ホールディングス・東京ガス・IHI・いすゞ自動車・立飛ホールディングス・大日本印刷・日本経済新聞・東京海上日動火災保険・東日本旅客鉄道・日本郵船・東京電力ホールディングス・東洋紡・太平洋セメント・キリンホールディングス・清水建設・日産化学・東京製綱・帝国ホテル・サッポロホールディングス・アサヒグループホールディングス・大成建設・古河グループ(古河機械金属・古河電気工業・富士通・富士電機・横浜ゴム)・オーベクス・大日本明治製糖・川崎重工業・住友重機械工業・東京建物・京阪ホールディングス・東宝・東京会館・ニッピなど、500以上に及ぶ企業の設立や運営に関わる。

教育面では、一橋大学・東京経済大学・東京女学館・日本女子大学・同志社・早稲田大学・高千穂大学・二松学舎・国士館大などに関与。

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。


渋沢史料館

「飛鳥山3つの博物館」のひとつに、「渋沢史料館」がある。史料館本館とは別に、渋沢栄一の旧邸として大正期に建立され国指定重要文化財に登録されている建物が2棟ある。

  • 1878年(明治11年)
     渋沢栄一が飛鳥山に別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」を設ける。
  • 1901年(明治34年)
     本邸を飛鳥山に移す
  • 1917年(大正6年)
     晩香廬竣工
  • 1925年(大正14年)
     青淵文庫竣工
  • 1931年(昭和6年)
     11月11日 渋沢栄一死去。
     旧渋沢邸は栄一門下生が結成した竜門社に遺贈される
  • 1945年(昭和20年)
     4月13日 太平洋戦争時の空襲により建物の大部分を焼失
  • 1946年(昭和21年)
     財団名を渋沢青淵記念財団竜門社に改称
  • 1982年(昭和57年)
     渋沢史料館開館
  • 1998年(平成10年)
     3月 本館新築開館
  • 2003年(平成15年)
     11月 財団名を渋沢栄一記念財団に改称
  • 2019年(令和元年)
     9月1日 渋沢史料館休館
  • 2020年(令和2年)
     11月19日 渋沢史料館リニューアルオープン

青淵文庫

大正14年(1925)竣工。重要文化財(旧渋沢家飛鳥山邸)

後日、撮影をやり直しました。。。季節が変わると見え方も変わりますね。

旧渋沢庭園
開演時間のお知らせ
開演時間 3月1日~11月30日 9:00から16:30まで
     12月1日~2月末日 9:00から16:00まで
(以下略)

ようこそ旧渋沢庭園へ
曖依村荘跡
 飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘(あいいそんそう)」跡です。約28,000㎡の敷地に、日本館と西洋館をつないだ主屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部ともに、よく保存されています。

渋沢史料館
 渋沢栄一の1840(天保11)年から1931年(昭和6)年の91年におよぶ生涯と、携わったさまざまな事業、多くの人々との交流等を示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。

国指定重要文化財
晩香廬
青淵文庫

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
青淵文庫
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    中村田辺建築事務所・田辺淳吉
 建築年    1925(大正14)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日

 渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれている。

「寿」の字。

露台下より出土した「まぐさ」
露台基礎

晩香廬(ばんこうろ)

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
晩香盧
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    田辺淳吉(清水組技師長)
 建築年    1917(大正6)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日
 
 近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

渋沢栄一像

この像は、兜町の第一銀行本店中庭にあった。

後日、撮影をやり直しました。
足場もいつの間にかしっかりと。

山形亭跡

山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。
「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。

兜稲荷神社跡
 日本橋兜町の第一銀行内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。

茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられていたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。

茶席待合跡
 茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

無心庵跡
茶室「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台(ようげきだい)
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。

飛鳥山は近いので、また再訪します。


渋沢栄一関連


関連

順次追加。。。

荒川遊園煉瓦塀(荒川区)

都内唯一の区営遊園地「あらかわ遊園」。
「あらかわ遊園」のあった地は、明治から大正にかけて「煉瓦工場」があった場所でもあり。煉瓦工場から遊園地へと姿を変えた界隈を散策してみました。


荒川遊園煉瓦塀

明治期の隅田川河畔の、このエリアには煉瓦に適した土が採れたということと、船便・交通の便が良かったということから4つの煉瓦工場が立ち並んでいたという。
明治5年(1872)に、石神仲衛門によって、現在のあらかわ遊園のある場所に煉瓦工場が造営。
明治28年(1895)に、広岡勘兵衛(広岡幾次郎)に経営が譲渡され、広岡煉瓦工場となる。煉瓦塀が残っている場所は、広岡煉瓦工場で造られた煉瓦を干す場所だったという。
大正11年(1922)に、広岡勘兵衛は失火により操業を停止した煉瓦工場を閉鎖。荒川遊園を開園。その時に、工場にあった煉瓦で荒川遊園を囲う塀を造営したのが、今も残る煉瓦塀である。
大正12年の関東大震災での被害は少なく逐次拡充していくも、広岡勘兵衛没後の昭和初期の不景気により経営悪化。
昭和7年に遊園地の経営は王子電気軌道の手に委ねられるも、第二次世界大戦により休園。昭和16年には園内には高射砲陣地が置かれた。
昭和18年には王子電気軌道は戦時下の企業整備により東京市に事業譲渡。王子電気軌道株式会社は清算。軌道事業は東京市電となる。(現在の都電荒川線)
戦後、荒廃していた遊園地を荒川区が再整備し、昭和25年に荒川区立遊園地として開業させ、現在の「あらかわ遊園」となる。

荒川区登録有形文化財(建造物)
荒川遊園煉瓦塀
 この煉瓦塀は、荒川遊園を取り囲んでいた塀の一部です。南端には一対あった門柱の片方が残っています。煉瓦の積み方は、煉瓦の小口を見せる小口積みと、長手を見せる長手積みとを一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」です。古老の手記によると、大正11年(1922)、荒川遊園が開園した時に木の塀から煉瓦塀に改修されたといいます。
 かつて尾久地区の隅田川沿いには、材料の土が入手し易く、船運の便が良かったため、いくつもの煉瓦工場が設けられました。その一つ、広岡(後、王子に改名)煉瓦工場の跡地に、大正11年、荒川遊園が開園しました。広岡幾次郎をはじめとする地元有志により、市民の精神の慰安と身体の健康増進のために設置された嶺井遊園地です。
 その後、王子電車への乗客誘致を目的として、王子電気軌道株式会社が荒川遊園の経営に参入しました。戦時中は、閉園を余儀なくされましたが、昭和24年(1949)、荒川区立の遊園地として再スタートしました。
 敷地の一部は戦後間もなく宅地化され、以来、煉瓦塀は宅地の境界や盛土のための土留めとして利用され今日に至ります。
 荒川遊園煉瓦塀は、近代的な景観をとどめる遺構として歴史的価値が高い貴重な文化財です。また、連続する煉瓦塀が作りだす景観はこの地域独自の風景として長年親しまれており、貴重な風景遺産でもあります。
 令和2年(2020)3月
  荒川区教育委員会


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B29-C2-46
1936年06月11日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

王子電気軌道が経営をしていた昭和11年のころ。

ファイル:USA-M379-No2-27
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和22年。周辺住宅地が爆撃により焦土となっていることもわかる。
荒川遊園の中に置かれた高射砲陣地の跡もわかる。

ファイル:USA-R3163-49
1949年09月07日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和24年、荒川区立の遊園地として再スタート。
かつての敷地の一部に、整然と整えられた建物が建っている。ここのエリアは、煉瓦壁をそのまま活用して住宅地となっている。

Google航空写真
現在の様子。南東部の「かつての荒川遊園の敷地部分」=「煉瓦塀の内部」が住宅地となっている。


荒川遊園煉瓦塀の散策

都電荒川線、最近は「東京さくらトラム」という愛称でも親しまれている。
「荒川遊園地前駅」で下車をして、あらかわ遊園に向かう。

工事中の入口の右手=東側より、住宅地の中を煉瓦塀が伸びている。

玄関先を、レンガ風装飾で景観を合わせている住宅もあった。

入口?にしては小さい。

日向ぼっこ中のお猫様

排水口のような孔

上部は、長手積み。
中間部は、イギリス積みをモルタルで保護。
下部は、イギリス積み。

ちょっと割れ目が。。。

上部がコンクリートと鉄網で改められいる空間。下部はそのまま有効活用。

この場所が南東部分の先端角。

ここnここには煉瓦造の小屋があったという。小屋の壁面部分が残っている。

通用口?コンクリで塞がれていた。

煉瓦壁。
積み方がよく分かる。
上部:長手積み
下部:長手積みと小口積みの繰り返し=イギリス積み

内側から。
長手積みの上部もところどころ、柱が組まれて強度が確保されている。中部帯から下部はイギリス積み。厚さがある。

中部帯と下部は、かなりの厚さが確保されている。
関東大震災を耐えた煉瓦壁。

中部帯から屋根へと積み方が変わる部分。

積み方が変わった。

切断部。イギリス積み。

積み方が変わった箇所の内側。

門柱。

門柱の一対が残る。左側は道路拡張で消滅か。
電信柱の位置をどうにかすれば、多少の移築で残せたような気もするが。どのみちこの幅では、車は通れない。。。

煉瓦塀の外側敷地は小台橋保育園。旧小台橋小学校。

隅田川川から。

住宅地に残る煉瓦塀。
住む人々にはとっては多少の不自由があるかもしれないが、100年近くここに有り続けた煉瓦塀は、関東大震災・東京大空襲・高度経済成長をくぐり抜けて、残存した歴史遺産。これからも大事に伝承してほしい空間。


あらかわ遊園

2018年12月よりリニューアル回収工事により長期休園中。再開は2022年春頃を予定、とのこと。


荒川区関連

元加賀公園と川南公園(震災復興公園・江東区)

大正12年(1923)の関東大震災ののち、帝都復興院総裁となった後藤新平が中心となって、地震発生時の防火帯設置を目的とした公園の確保が重要視されることとなった。

震災復興三大公園として「隅田公園」「浜町公園」「錦糸公園」が設置。
また、昭和5年(1930)に完成した横綱町公園には震災記念堂と震災記念館が建設された。

東京市公園課長に就任した井下清は、52箇所の東京市立公園を設計。小学校を不燃化・耐震化させた鉄筋コンクリート校舎とし、小公園を併設することにより防火帯と避難設備の役割を担った。
この井下清が設計した小学校とセットとなった小公園が東京市内52箇所に設置され「震災復興52小公園」となる。

戦後の再開発で当時の「震災復興公園」は消滅や縮小などもあり、往時の姿を完全に残すものはない。そんな「震災復興公園」の中で、文京区の町公園は「震災復興公園」の姿を復元している。


元加賀公園

東京都現代美術館(MOT)と木場公園の北側に。

江東区の2つの公園に、開園当初の面影を見ることが出来る。
江東区立元加賀小学校の隣。小学校と小公園。

江東区立 元加賀公園

開園 昭和二年八月三十一日

昭和2年(1927年)開園。

昭和2年開園当時からの壁泉付露床が公園内に残っている。

後方。

水道管はむき出し。


川南公園(せんなん公園)

江東区立川南公園。川南小学校の隣。
川南公園は、関東大震災後に作られた震災復興計画公園のひとつで、昭和6年(1931)に開園。

昭和6年(1931)開園当時からのすべり台が残る。貴重な当時の遺産であるとともに、今も現役の遊具として90年に渡り子どもたちに親しまれている。

2つのレリーフが側面にある。

非常に良き状態で残されている。

紀元二千六百年式典の式殿「光華殿」

東京都小金井市。都立小金井公園内。
江戸東京たてもの園ビジターセンター。
この建物は、国家的な祝事で使用された建物「光華殿」であった。


紀元二千六百年記念式典

昭和15年(1940)に神武天皇即位紀元2600年(皇紀2600)を迎え、その記念祝典などが開催された。

昭和15年(1940)11月10日、皇居・宮城前広場(皇居外苑)において、 昭和天皇 香淳皇后臨席のもと、近衛文麿内閣主催の「紀元二千六百年記念式典」が開催。
式典のために寝殿造の会場「光華殿」が設営。

昭和16年8月(1941)、式典終了後に光華殿が小金井緑地(小金井公園)に移築。国民錬成所として使用された。
戦後に、空襲で被災した学習院中等科が教室として使用。 皇太子(当時の皇太子は 上皇陛下)の御仮遇も設けられていた。

昭和29年、小金井公園が開園。武蔵野博物館が井の頭恩賜公園から移転し、武蔵野郷土館として開園し、当建物も活用。
その後、平成5年(1993)の江戸東京たてもの園開館とともに、当建物はビジターセンターとして使用されている。


日本ニュース 第15号(1940年9月) 式殿棟上式

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300400_00000&seg_number=003

日本ニュース 第23号(1940年11月) 紀元二千六百年式典

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300408_00000&seg_number=001

紀元二千六百年式典

近衛文麿総理大臣 奏上
「臣文麿、謹みて申す。伏して惟(おもん)みるに、皇祖国を肇(はじ)め統を垂れ、皇孫をして八洲に君臨せしめ、たもうに神勅(しんちょく)をもってし、授くるに神器をもってしたもう。宝祚(ほうそ)の隆(さかえ)、天壌と窮(きわま)りなく、もって神武天皇の聖世に及ぶ。すなわち天業を恢弘(かいこう)して皇都を橿原(かしわら)に定め、宸極(しんきょく)に光登して、徳化を六合(りくごう)に敷き賜ひ。歴朝相承(う)けて、ますます天基を鞏(かた)くし、洪猷(こうゆう)を壮(さかん)にし、一系連綿、正に紀元2600年を迎ふ、国體(こくたい)の尊厳(そんごん)、万邦固(もと)より比類なし。皇謨(こうぼ)の宏遠、四海豈(あ)に匹儔(ひっちゅう)あらんや。」

日本ニュース 第23号(1940年11月)より
日本ニュース 第23号(1940年11月)より

奉祝国民歌『紀元二千六百年』

金鵄(きんし)輝く 日本の
栄(はえ)ある光 身にうけて
いまこそ祝へ この朝(あした)
紀元は二千六百年
ああ一億の 胸はなる

歓喜あふるる この土を
しつかと我等 ふみしめて
はるかに仰ぐ 大御言(おおみこと) 
紀元は二千六百年
ああ肇国(ちょうこく)の 雲青し

荒(すさ)ぶ世界に 唯一つ
ゆるがぬ御代(みよ)に 生立ちし
感謝は清き 火と燃えて
紀元は二千六百年
ああ報国の 血は勇む

潮ゆたけき 海原に
桜と富士の 影織りて
世紀の文化 また新た
紀元は二千六百年
ああ燦爛(さんらん)の この国威

正義凛(りん)たる 旗の下
明朗アジア うち建てん
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
ああ弥栄(いやさか)の 日はのぼる

ちなみに、
2040年(令和22年)が紀元2700年(皇紀2700年)。
さて、その時の日本はどうなっているのか。。。


光華殿

昭和15年竣工。
大蔵省営繕部管財局の設計、清水組の施工。
木造平屋建てで、竣工当時は杉皮葺きであった。正面に萬歳額を掲げ、三面を吹き放ちの構造。
小金井に移築後に、ガラス戸が設けられ、屋根も葺き直しされた。
近代の和風建築として貴重な建物。
現在は、江戸東京たてもの園入口(ビジターセンター)として使用されている。


皇太子殿下小金井御仮遇所跡

上皇陛下は戦時中に焼失し小金井に移転した学習院中等科にこの御仮寓所から通学なされた。

皇太子殿下小金井御仮遇所跡
 この場所の西側にあた文部省(当時)所管の建物などが宮内庁に移管され、1946年(昭和21)から3年間、学習院中等科の校舎となった。そのため、ここに東宮御仮寓所が造られ、中等科在学中だった皇太子殿下(現上皇)が住まわれた。其の建物は1949年(昭和24)12月に焼失した。

1962年(昭和37)設置


皇太子殿下御勉学の地


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-33
1947年11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

中央に移築された光華殿。北部及び北西部にはゴルフ場が広がっていた。


江戸東京たてもの園

せっかくなので、近代史目線で園内を散策してみる。

高橋是清邸

高橋是清邸宅が、移築されている。2・26事件の舞台でもあり。

午砲

 1871年(明治4)9月9日から、皇居内旧本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射された。大砲による正午の通報は、今の東京都区部の大部分で聞こえ、その音から「ドン」と呼ばれて人びとに親しまれた。江戸時代には、江戸市中に時刻を知らせるために鐘を鳴らしたが(時の鐘)。明治時代以降はこの午砲となり、正午を知らせた。1929年(昭和4)5月1日に正午の通報は午砲からサイレンにかわり、その役目を終えた。
 年代:明治時代
 旧所在地:千代田区(皇居内旧本丸跡)


皇居正門石橋飾電燈

 皇居前広場から皇居に向かって左手前に見える石橋に設置されていた飾電燈。橋の欄干両側にある男柱石に計6基設置されていたもののひとつである。
 石橋は長さ百六尺四寸(約35.3メートル)、幅四十二尺二寸(約12.8メートル)で、江戸時代に架けられた「西の丸大手橋」といわれる木橋に替わり、1887年(明治20)12月に架けられた。飾電燈は1886年(明治19)、東京電燈会社へ発注されたものであるが、完成日・設計者・鋳造場所など不明な点が多い。
 年代:明治20年代
 旧所在地:千代田区千代田

万世橋交番

 これは神田の万世橋のたもとにあった交番である。名称を須田町派出所といい、万世橋駅のそばにあった。1923年(大正12)の関東大震災により、駅とともに大きな被害を受けたが、のちに以前のとおりのデザインに修復された。
 震災以前の万世橋駅は、1911年(明治44)に設けられた甲武鉄道(現在の中央線)の起点としてたいへんににぎわっていた。しかし、万世橋駅-東京駅間の開通や、震災後の区画整理などによって利用者が急激に減り、1943(昭和18)に廃止された。万世橋交番も昭和初期にはその役目を終え、以後は主に巡査の休憩所や交通係詰所として利用された。
 建築年:明治時代末期(推定)
 旧所在地:千代田区神田須田町1丁目
 寄贈者:警視庁

子宝湯

1929年(昭和4)竣工。

村上精華堂

1928年(昭和3)竣工。

常盤台写真場

1937年(昭和12)竣工。

東京都交通局7500形電車 7514号

1962年製造の都電車両(1978年廃車)

ボンネットバス いすゞTSD43

1968年式

C57蒸気機関車
スハフ32客車

C57機関車は製造初年が昭和21年。スハフ32客車は製造年が昭和7~16年。


江戸東京たてもの園

https://www.tatemonoen.jp/

「国産第1号の鉄橋・都内最古の鉄橋」旧弾正橋(八幡橋)

富岡八幡宮の東側、かつて八幡堀川という川に架かっていた「八幡橋」。
もともとは中央区宝町付近の楓川に架かっていた「弾正橋」という橋であった。

旧弾正橋(八幡橋)

「東京最古の鉄橋」
「国産鉄の鉄橋として日本最古の鉄橋」

「国重要文化財指定」
「米国土木学会栄誉賞」

明治11年(1878)11月に京橋区の楓川に「弾正橋」として竣工。
大正2年(1912)に新「弾正橋」が架橋され「元弾正橋」と改称。
大正12年(1923)関東大震災後の震災復興計画により廃橋。
昭和4年(1929)5月に現在地に移転し「八幡橋」として架橋。

国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7 
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ15.2メートル、有効幅員2メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(1913)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和四年(1929)5月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので、八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋でありかつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

橋を渡って、遊歩道に移動してみる。

八幡堀遊歩道

遊歩道はかつて八幡堀側という川であった。

八幡橋(旧弾正橋)
由来
 旧弾正橋は、明治11年(1878)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が制作した国産第1号の鉄橋です。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称し、以来人道橋として活躍してきました。昭和52年(1977)近代橋梁技術市場価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技師スクワイアー・ウィップルの特許を基本としたところから、平成元年10月、国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。

ピンの接合部に「菊の紋形の花弁装飾」が施されている。

国指定重要文化財 
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、東京市で最初に架けられた鉄橋である。長さ15.2m、幅2m、単径アーチ橋の形式をとる。アーチは鋳鉄製で5本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋である。もとは、京橋区(中央区)の楓川(もみじがわ)に架けられていたものである。経緯については「八幡橋新橋来歴」に詳しく記されている。この橋は明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正年(1913)の市区改正により新しい弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣りであるため、名称も八幡橋と改められた。現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工されてあり、技術史の上でも価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

記念碑がある。
米国土木学会栄誉賞受賞記念など。

八幡橋鉄構来歴
本橋ノ鉄構ハ東京市最初ノ鉄橋タリシ弾正橋ノ古構ヲ再用セルモノニシテ明治十一年東京府董工ノ下ニ工部省赤羽製作所ニ於テ鋳造セラレシモノナリ
其ノ後大正二年市区改正ニヨリ附近に新ニ弾正橋架設セラレタル結果之ヲ元弾正橋ト改名シ近年ニ及ヘルモノナリシカ帝都復興事業区画整理ニ依リ元弾正橋ハ廃橋トナリタルニ付東京市最古ノ鉄橋ヲ記念センカ為其ノ鉄構ヲ取外シ昭和四年此処ニ新設セラルル八幡橋ニ架設セルモノトス
 東京市

米国土木学会栄誉賞受賞記念

JAPAN HISTORIC CIVIL ENGINEERING LANDMARK

AMERICAN SOCIETYY OF CIVIL ENCINEERS
FOUNDED 1852

“THE HACHI MAN BRIDGE”
THE FIRST BRIDGE BUILT OF IRON MANUFACTURED IN JAPAN

PRESEBTED BY THE JAPAN SECTION, ASCE 1989

(和訳)
日本の歴史的土木ランドマーク
 米国土木学会 (1852年創業)
“ハチマンブリッジ” 日本初の鉄製の橋
米国土木学会 1989年、日本部門発表

 八幡橋は、明治11年(1878)わが国において、最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋となっています。
 橋の形(ウイップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウイップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
 ウイップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技法に対して、平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。

人力車のモニュメントにも、八幡橋の解説がある。

八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋は、明治11年(1878)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川を結ぶ主要街路の1つで、文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和4年(1929)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会(三ツ橋の現況)には、明治34年(1901)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。
弾正橋・白魚橋・真福寺橋とをあわせ三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。

八幡堀遊歩道から八幡橋を望む。

橋下では、猫様がくつろいでおられた。

「みんな(猫)の住みやすいまちに」

八幡堀遊歩道の北に、もうひとつ橋梁があった。

旧新田橋

平成12年(2000)の護岸整備により新田橋は架替えられ、昭和7年に竣工した旧新田橋は、八幡堀遊歩道に移設保存。

旧新田橋
 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。

現在の新田橋。


弾正橋
弾正橋公園(楓川弾正公園)

八幡橋は、かつては弾正橋として楓川に架けられていた。
中央区の宝町と八丁堀のあいだ、あたり。
現在は、楓川は埋められており、弾正橋も橋があった名残のみが残っている。

弾正橋
 弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
 その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等どの歴史的貴重さを増している。
 現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。

橋梁の諸元
形式:ラーメン橋台橋 橋長:33m 有効幅員 23.2m(車道16m、歩道3.6m×2) 建設年次:大正15年12月 復興局施工

公園として整備されている。
モニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものというが、じっくりと見学するのが難しい。「菊の紋形の花弁装飾」も復元。よくできている。やはり、じっくり観察ができない環境が惜しい・・・


都内最古の道路鉄橋 南高橋(旧両国橋)


関連

旧東京市深川食堂(深川東京モダン館)

深川。門前仲町の交差点の近くに東京大空襲をくぐり抜けた建物が残っていた。

現在でも通用するモダンなデザインの建物が昭和7年竣工というのだから、驚きを感じてしまう。

旧東京市深川食堂

昭和6年(1931)に着工、翌7年3月に竣工。関東大震災復興事業として建設された東京市設食堂。

旧東京市深川食堂
江東区登録有形文化財 (建造物) 国登録文化財
門前仲町一-一九-一五
 東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正九年(一九ニ〇)から順次設置した一六カ所の市設食堂 のひとつです。延床面積は一〇六坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和六年(一九三一)に着工、翌七年三月に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。一一年に閉鎖されましたが、一三年に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬがれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、三二年には授産機能、三六年には福祉機能が追加されました。五四年に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成一八年に閉鎖されるまで利用されました。
 構造は二階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、二階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建築物としての希少性が認められ、平成二〇年に国登録文化財に登録されました。
平成二十一年九月
江東区教育委員会

外観

2階建て鉄筋コンクリート。
スチールサッシュ窓が特徴的。

深川東京モダン館。
街歩きの拠点となっている。

館内

玄関から階段にかけてのモザイクタイルが特徴的。

昭和の生き証人「深川モダン館」
国登録有形文化財(建造物)「旧東京市深川食堂」
 深川東京モダン館は、東京市が社会事業として順次建設をすすめていた市設食堂で、震災復興事業の一環として昭和7年(1932)に建築された東京市深川食堂を改修した建物です。大正12年(1923)に起きた関東大震災は、死者約9万2千人、全壊・焼失約47万戸という未曾有の大災害をもたらしました。震災で住む場所を失った人びとに、安くて栄養のある食事を提供するためには公共の食堂が是非とも必要でした。そのため東京市(1944年に東京都となる)では市内の数カ所に食堂を増設しました。この深川東京モダン館の前身である「深川食堂」は、最後に造られた市設食堂でした。
 深川食堂は震災復興が一段落した後も、社会事業の役割をになう公営食堂などとして運営されてきましたが、第二次世界大戦末期の空襲で建物の内部が焼けてしまいました。戦後は職業安定所や内職補導所、障害者通所授産施設として活用されてきましたが、平成18年(2006)にその役割を終え、解体を含め建物をどうするのかが問題となりました。
 専門家による調査で、この建物は昭和初期の近代建築の姿を今日に伝える貴重な文化遺産であるとの評価を受け、江東区は保存と活用を決めました。また平成20年(2008)には、国登録の有形文化財(建造物)として認定されました。
 昭和の初めに、新鮮な驚きを与えて人々を魅了したモダンスタイルを今日に伝えるこの建物は、また、激動の昭和の歴史の生き証人でもあります。今後は保存され、江東区の観光と文化の拠点「深川東京モダン館」として装いを新たにし再出発します。

建物の概要
●所在地:深川區門前仲町17番地
     (現 江東区門前仲町1-19-15)
●用途:市設食堂(社会事業施設の復興計画)
●工事管理者:東京都社会局/設計 東京市建築課
●敷地面積:敷地298.9㎡、延床面積370.58㎡
●竣工:昭和7年3月下旬
●1階:事務室、調理室、倉庫、嗜好食を売る食堂
 2階:定食室、外従業員寝室
 ※嗜好食=一般市民向け、定食=少額所得者向け

建物の特徴
 深川東京モダン館は、昭和初期に建築された建物の姿を今日に伝える貴重な文化遺産です。昭和初期の1930年代には、建物から装飾を取り去って、できるだけシンプルで単純な形を追求した建築が時代の最先端として登場し世界中に広まりました。「単純なものは美しい」という言葉に象徴されるこの傾向は、建築だけでなく美術や音楽の世界にも見られ「モダニズム」とか「モダンスタイル」と呼ばれました。モダニズムは近代の合理主義精神が形となったものとされています。
近接時期の特徴
・関東大震災復興事業として着工された現存する数少ない建築である。
構造上の特徴
・耐震耐火の性能を満たすべく当時の最先端の技術である鉄筋コンクリート造として建設された。
デザイン、建築材料の特徴
・入口に続く階段空間が2階天井までを全面窓とした吹き抜け空間となっていて明るく開放的である。
・2階の南側の窓がモダンデザインの特徴である水平に連続するスチール・サッシになっている。
※窓枠はすでに位置を変え付け替えられていたため、改修工事により、位置について復元をした
・昭和初期のモダン建築に多く見られる丸窓がある。この6つの丸窓は大通りから真っ直ぐに見え、本建造物を強く印象づける役割を果たしている。

戦前の牛乳瓶
平成20年の建物改修工事時に出土。

改修前の外壁
南満鑛業株式会社製のリソイド仕上げ外壁。

昭和7年の竣工時の面影を伝える床面タイル・壁面タイル。

モザイクタイルが貼られた階段と壁面。竣工当時の面影を残す。

2階は、イベントスペース。


戦災殉難者慰霊碑

近くには門前仲町の町会で建立された「戦災殉難者慰霊碑」があった。(モスバーガーの隣)

戦災殉難者慰霊碑
 平成2年7月吉日
  門前仲町一丁目町会建之


※撮影:202007及び202101


関連

東京大空襲・慰霊

飯能市大河原の監的壕


埼玉県飯能市の山に「射撃場の跡」があるというので脚を運んでみた。


監的壕(かんてきごう)
飯能町在郷軍人分会常設射撃場

射撃の着弾点や命中率を確認するために造られた施設。
飯能市に残る監的壕は、飯能の在郷軍人会によって、昭和16年に11月3日に竣工したもの。石垣積み・コンクリート築造。

射撃訓練として「的」に向かって射撃を行う。おそらくは、「三八式歩兵銃」での射撃。壕の下に控える監視者が、的の様子を確認出来る構造となっている。
すなわち「的を監視する壕」「監的壕」か?

射撃訓練ということもあり、安全を考慮して人里離れた山裾に設けられたものと思われる。

石垣が築かれたコンクリート製の「監的壕」がみえてきました。
周辺に、射撃場の面影はなく「監的壕」のみがきれいに残っていました。

昭和十六年十一月三日竣工

飯能町在郷軍人分會常設射撃場
監的壕

監的壕の入り口には、扉があったことがわかる。

左側(渓流の下流側)のコンクリート壁がせり出している。
射撃者は、下流側から、この監的壕を狙ったものと思われる。

奥が若干だが広くなっている。

鉄の棒が飛び出ている。ここに「的」を設置したのか。

「鉄の棒」の下には、腰掛けるのに丁度よいコンクリートがあった。
的の下に控えた観測員が、ここに腰掛けたのか。

鉄の棒と、コンクリートの椅子はふたつ。
つまり、射撃の「的」はふたつ。
飯能町在郷軍人会の施設のため、小規模な射撃場。

上に上がってみた。

右側が渓流下流。射撃者は、右側から「的」をめがけて撃ち込みをした。

使われなくなって75年も経てば、樹木も茂る。コンクリートのギリギリまで植林されたようだ。

思った以上に、きれいに残っている戦跡でした。
なかなかの見応え。これは大切に残してほしい戦跡です。


位置関係・アクセス方法

まず最初に。

現地は湿地帯となります。湿地帯のぬかるみを突破しないといけないために、長靴やハイキングブーツ、登山靴など厚底の靴がおすすめです。
どちらかというと、夏場よりも冬場。それも晴れの日が続いた冬場が、ぬかるみもおさまり、脚が運びやすいかと思われます。

場所→だいたいこのあたり

https://goo.gl/maps/Cz1kWUK5jqWdKG8a8

南の「美杉台」のほうが近そうに見えますが、沢を登っていきますので、北側の「大河原」からアクセスとなります。

飯能駅から西に歩いていきます。
割岩橋にて入間川を横断します。

飯能河原

そのまま道なりに西に。

交差点が見えてきました。

「大河原」交差点。飯能駅からここまでは、徒歩で約25分前後。

渓流の名前は「小山入川」。
渓流に沿って登っていきます。

このあたりは休耕田、ですね。

射撃場跡へと。

道が二手にわかれますが、渓流に沿って左側へ。

休耕田エリアが終わると、本格的に山となります。ところどころに湿地も混じっておりますので、足元に気を配りつつ。

倒木も多数。

大きな岩が見えてきたら、この左側に目的地があります。
先に進むことに夢中になっていると、通り過ぎてしまいますのでご注意を。
(うっかり通り過ぎるところでした。)

「大河原」交差点から、「監的壕」までは約10分。
飯能駅からはトータルで、約35分、でした。

ちなみに、飯能駅から割岩橋に向けて歩いてきた道が「幻の表参道」だったそうです。明治神宮建設に際しての誘致が飯能でも行われていた、と。
飯能の天覧山に 明治天皇が明治16年に近衛兵春季小演習の展覧のために登られた縁もあり。天覧山は、最近ではヤマノススメの聖地になってますね。


本記事を作成するにあたり、以下のブログを参照させていただきました。

https://ameblo.jp/ibukoma2000/entry-12544104231.html

JR両国駅と両国橋散策

両国駅

明治37年(1904)4月5日に、千葉方面に鉄道を展開していた私鉄・総武鉄道によって「両国橋駅」として開業。総武鉄道は千葉県内初の鉄道。
本所駅(錦糸町駅)と両国橋駅(両国駅)の1.5キロは、日本の鉄道として最初の高架区間でもあった。総武鉄道単独では隅田川を渡ることが難しく、両国橋駅が千葉県から都心方面のターミナル駅として機能することとなった。
総武鉄道は明治40年(1907)に買収され国有化。官設鉄道の総武本線となった。

昭和4年(1929)12月30日に増大する輸送量に対応するために、現在の新駅舎が竣工。昭和6年に「両国駅」に改称。
平成28年(2016)11月25日、旧駅舎再改装。

関東の駅百選
「鉄筋2階建ての駅舎で相撲とともに歩んだ下町の代表となる駅」。

※2020年8月撮影

※2021年3月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C29C-C1-55
1942年3月18日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

両国駅の貨物エリアが再開発で、のちに国技館と江戸東京博物館、となった。
震災記念堂(東京都慰霊堂)と復興記念館は戦災をまぬがれた。


両国橋

隅田川にかかる橋。かつては武蔵国と下総国の国境であったことから「両国」と呼称。貞享3年(1686)に国境が変更されて武蔵国内となった。

現在の両国橋は昭和7年(1932)竣工。柱部は両国国技館の屋根を模った飾りを配する。

隅田川にかかる両国橋の西側には神田川と柳橋。両国橋で、神田川と隅田川が合流する。

旧両国橋は、黒島川の南高橋に移築されている。


柳橋

神田川最下流の橋。関東大震災復興事業として昭和4年(1929)竣工。

昭和4年の復興記念碑。


表忠碑

両国橋の東側に鎮座している。

表忠碑
元帥侯爵大山巌書

明治三十七八年役戦病死者
明治四十年一月一日建之

※2018年5月撮影


両国関連

東京大空襲・慰霊

浅草の近代建築散策

浅草界隈の近代建築散策などを。


東武鉄道浅草駅ビル

東武鉄道の浅草駅ビルは昭和6年(1931)竣工。
地上7階・地下1階の建物は、鉄道省の初代建築課長であった建築家久野節が設立した久野建築事務所が設計、清水組により施工。関東初の本格的な百貨店併設ターミナル駅ビルとして開業。関東では唯一のJR.地下鉄以外の他社民鉄と接続していないターミナル駅。
昭和初期のアール・デコ様式の建造物。平成24年に開業時の姿に復元リニューアル。

関東の駅百選「浅草駅」
「昭和6年「浅草雷門駅」として開業、駅の上はデパート」(東武鉄道)

内部も(電車のとこだけだけど)


東京メトロ浅草駅上屋(4番出入口)

昭和2年(1927)竣工。日本初の地下鉄駅のひとつ。戦前の地下鉄関連遺産として近代化産業遺産に認定。
大正6年(1917)に早川徳次が東京軽便地下鉄道を設立。関東大震災によって資金繰りが悪化し、建設区間を短縮。東京一番の繁華街であった浅草と国鉄ターミナルの上野を結ぶ路線の建設に着工し、昭和2年12月30日に、日本初にして東洋初の地下鉄として東京地下鉄道の浅草駅が開業した。

関東の駅百選「浅草駅」
「浅草寺を考慮し、浅草の土地柄に馴染んでいる仏閣デザインの地下鉄の長老駅」(営団地下鉄)


神谷バー

大正10年竣工。国登録有形文化財。
日本最初の「バー」。「電気ブラン」で有名。

明治13年(1880)、神谷伝兵衛が酒屋を開業。明治14年には輸入葡萄酒の販売を開始し、明治15年に「電気ブラン」の製造販売を開始。神谷伝兵衛は輸入葡萄酒を原料に日本人向けに明治18年に「蜂印葡萄酒」、明治19年に「蜂印香竄葡萄酒」(ハチブドー酒)を売り出し成功。日本製ワイン黎明期を支えた。
明治45年(1912)、酒屋を改装し「神谷バー」を開業。
大正10年(1921)、現在の建物を建造。浅草地区で最古の鉄筋コンクリート造の建造物。

電氣ブラン(電気ブランデー)

神谷伝兵衛が明治26年(1893)頃に、輸入ブランデーにワインやジン・ベルモットなどをブレンドした「電気ブラン(電気ブランデー)」を発表。
電気が珍しかった明治の頃、目新しいものは「電気◯◯」と呼ばれ、この新しいハイカラなブランデーベースのカクテルも流行りに乗ったお酒となる。
ビリリとした味わいも電気のイメージにぴったりだったとか。

久しぶりに飲みたくなりました。。。(今度、買ってこよう)

ハチブドー酒も神谷バーと神谷伝兵衛ゆかりのお酒。


ライオンビル
(旧井阪屋本店河合ビル )

昭和10年(1935)竣工。国登録有形文化財。
鉄筋コンクリート造三階地下一階建。
現在は、撮影スタジオ 「LION BUILDING(ライオンビル)」として活用されてる。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/398545


浅草地下街

現存する日本最古の地下街。昭和30年(1955)1月の開業。

浅草地下街は戦前ではないけど、昭和情緒が色濃く残る貴重な空間。


浅草を広義に捉えた場合は、まだまだ近代建築が点在しているようだけど、指し急ぎは浅草寺周辺の散策でした。
界隈の近代建築を記録しましたら、追記していきます。

※2020年9月撮影ほか


浅草寺

和泉町ポンプ所(千代田区・2023年解体)

2023年5月16日から解体工事となり消失しました


東京都下水道局「和泉町ポンプ所」

大正11年竣工の鉄筋コンクリート2階建ての建造物。
大正11年(1922)8月に稼働開始。現存する日本初のポンプ場のひとつ(だった)。
大正11年3月に運用開始となった三河島処理場(旧三河島汚水処分場喞筒場施設)とともに整備された。
関東大震災と東京大空襲の猛火をくぐり抜け、今日まで約100年近く現役の施設(だった)。近隣の汚水をポンプで吸揚し、三河島の水再生センター(三河島汚水処分場)に送水をしていた。
なお、数年前までは、古い煉瓦壁が道路沿いに残っていたが2018年以降に撤去されている。

大正11年竣工。翌年大正12年9月1日には、関東大震災が発生。周辺が焼け野原になる中で、この神田和泉町・神田佐久間町周辺は、周辺住民の消火活動により防火に成功。押し寄せる猛火を、前年に竣工したばかりの和泉町ポンプ場の水などを活用して、延焼防止に役立てたという。
旧神田区では関東大震災で94%が焦土となる中で、神田和泉町周辺の1630戸は奇跡的に焼け残った。
昭和14年には、和泉町ポンプ所は「関東大震災 町内協力防火守護の地」として顕彰されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/business/kanko/newstokyo/240/5/index.html

東京都下水道局ではペーパークラフトも用意されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/living/kids/corner/paper/index.html

※解体となり、上記のリンクはすべて削除された模様。。。


2021年1月訪問時の写真

※クリックで拡大可

場所は秋葉原駅のほど近く。

https://goo.gl/maps/gUAR1EumivajZYWU8


解体前の2023年4月再訪

解体ときいて、直前に再訪して記録写真を。

解体工事のお知らせ
この建築物を、下記の通り解体します。
解体工事の名称:旧和泉町ポンプ所解体工事
工期:令和5年5月16日から令和5年9月29日まで

以前(2021年)に門扉に掲げてあった「神田和泉町思い出マップ」は既に撤去されていた。。。

いろいろと思うところはあるが、ポンプ場は役目を終えて、いまは解体を待つ状態であった。

※追加撮影:2023年4月


関連(近隣の史跡)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その1)

十条の造兵廠は掲載しておりましたが、板橋の造兵廠は未掲載でした。
板橋の二造は公園整備が行われることも決まり、そのために記録が鈍化していたというのもありました。
ひとまずは、整備前の写真を中心としたレポとなります。
整備が終りましたら再訪は必須ですが。

十条…東京第一陸軍造兵廠(一造)
板橋…東京第二陸軍造兵廠(二造)


東京第二陸軍造兵廠(東二造・二造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

明治3年、兵器工場として造兵司が新設。
明治4年、小石川に東京工場として「東京造兵司火工所」が新設。
明治8年、東京造兵司は「砲兵本廠」と改称。

明治9年(1876)
砲兵本廠板橋火薬製造所」として、加賀藩江戸下屋敷跡地に石神井川の水力を生かした火薬製造所が発足。これが明治政府が初めて設置した火薬製造所となる。当時の工場は水力を軸としており、小石川の板橋火薬製造所をはじめ、赤羽火薬庫なども水運を想定した位置関係であった。

明治12年(1879)
東京砲兵工廠と改称。「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」となる。

大正12年(1923)
「陸軍造兵廠」が設置。「陸軍造兵廠板橋火薬製造所」となる。

昭和11年(1936)組織改編
陸軍造兵廠火工廠から十条兵器製造所が分離し、小石川の東京工廠が十条に移転。十条に置かれていた陸軍造兵廠火工廠本部は板橋に移転。
板橋が「陸軍造兵廠火工廠本部」となる。火薬製造所は再編により加工廠管轄下となる。「陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所

昭和15年(1940)組織改変
陸軍造兵廠と陸軍兵器廠を統合。兵器本部が新設。
 十条の東京工廠「東京第一陸軍造兵廠」(東一造・一造)
 板橋の火工廠 「東京第二陸軍造兵廠」(東二造・二造)
板橋火薬製造所は「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」となる。

2008年に「旧東京第二陸軍造兵廠建物群(東京家政大学構内)」が板橋区登録有形文化財に指定。
2017年(平成27年)10月13日に「陸軍板橋火薬製造所跡」として国指定史跡に指定。
2018年(平成30年)3月29日付で板橋区登録記念物(史跡)に登録。
史跡範囲は「旧野口研究所跡・旧理化学研究所板橋分所跡・区立加賀公園」

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/bunkazai/1004848.html

現在は、、史跡公園に向けて整備となる。

板橋区史跡公園(仮称)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/1021974/1023606.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-129
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※航空写真はクリックして拡大可

上記を拡大。
こうしてみると、板橋十条の軍事施設は思ったよりかは建屋が残っているのがわかる。逆に周辺の住宅地が白くなっており建屋が焼失しているので、軍事施設を狙った爆撃が工場周辺に外れてしまった様子を想像することもできる。

上記とほぼ同じエリアの現在の様子。
こうしてみると、軍事区画であった場所が今でもかなりわかりやすい。

前述の航空写真より東京第二陸軍造兵廠の部分を拡大。

現在の様子と並べてみる。
黄色は「その1」での掲載箇所。
紫色は「その2」での掲載箇所。

前述の航空写真(USA-M380-129)の南東部をさらに拡大。

黄色は愛誠病院・愛世会関連施設
橙色は旧理研
赤色は加賀公園・旧野口研究所


関連記事

上記の位置関係でも記載のある周辺エリアは別記事にまとめてあるので、それぞれリンク掲載。

東京第一陸軍造兵廠

陸軍兵器補給廠と稲付射場・赤羽火薬庫道


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策

軍用鉄道跨線橋台座跡
(トロッコ・電気軌道)

埼京線にかかる十条台橋から見えるのが、往時の軍用鉄道跨線橋(トロッコ)の台座跡。金網の向こうを覗く。両側に台座が残っているのがわかる。

明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡。

場所

https://goo.gl/maps/ps6TZ6ThbeHo3tpm9


東京家政大学構内

北側に広がる「東京家政大学」も東京第二陸軍造兵廠板橋製造所時代の建物が残っているが、女子大となるので構内は未見学。
煉瓦造平屋が3棟現存という。
 旧220号棟 (現板橋校舎21号棟)
 旧225号棟 (現板橋校舎22号棟)
 旧261号棟 (現板橋校舎58号棟)
上記が板橋区登録有形文化財(建造物)に指定されている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・板橋区立加賀公園)
(旧野口研究所跡)

加賀公園と、その西側にあった旧野口研究所跡。
周辺が「板橋区史跡公園」(仮称)として整備される予定。

加賀公園は、もともとは加賀前田家下屋敷であった。明治期にこの地に火薬製造所が置かれたことに始まる。

建屋の情報は板橋区の資料に詳しい。

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/res/projects/default_project/_page/001/023/606/noguchikenmap.pdf

爆薬製造実験室

建築年代は昭和10年1月。構造は鉄筋コンクリート造の平屋建築、屋根は切妻屋根。トタンによって外壁が補修されている。
もともとは後方のマンションの位置にあったが、保存のために平成29年に主要部(全体の1/3部分)の曳家工事を実施。

常温貯蔵室
地下貯蔵庫

常温貯蔵庫は昭和9年以前には建設されていたと推定。
構造はコンクリート造で、上下2段8列の棚構造で、16の鉄製扉を有している。扉は現在、8面のみ現存するも固着しており開閉は困難という。

常温貯蔵庫の手前には地下貯蔵庫がある。
地下貯蔵庫には蓋がされている。水槽として使用されていたという。

加温貯蔵室

昭和9年以前には建造か?

加温貯蔵室試験火薬仮置場基礎

加温貯蔵室に併設されていた建物。基礎のみ現存。平姓18年までは建物が確認できたが、平成26年までのあいだで撤去。

銃器庫

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、内部は木造二階建の棚床が設置。
昭和18年以降の改築か?

土塁

燃焼実験室
試験室
弾道管

燃焼実験室の構造は鉄筋コンクリート造2階建。
昭和18年以降の建築か?

弾道管は、約30m現存。

「燃焼実験室」から弾道管が一直線に伸びている。
コンクリートの2棟は「試験室」。

試験室No.672

試験室No.552

弾道管

弾道管

試験室

試験室No.552

試験室No.672

弾道検査管(爆速測定管)の標的
 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家 の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=ニ造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前のニ造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵 が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場 時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。 

擁壁

軽便鉄道の軌道と北側の試験室や弾道管等の試験施設との間を隔てる役割を担っていた。
鉱滓煉瓦壁が4スパン、コンクリート壁が1スパン、合計5スパンが現存。

射垜

露天式発射場の的である射垜と、弾道管と接続する隠蔽式発射場の射垜が存在していた。隠蔽式発射場の射垜は昭和46年の加賀公園造成工事の際に一部撤去。遺構が埋蔵している可能性あり。
露天式発射場の射垜の下方部構造は埋蔵されており不明。
レンガ積にモルタルが塗布。

コンクリート擁壁

昭和46年の加賀公園造成工事で撤去された常温貯蔵庫が隣接していた。また防火壁も設置されていたという。

電気軌道線路敷跡

電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。


加賀公園の北側を流れる石神井川の対岸エリア。
現在は「愛誠病院」など愛生会関連の建物が展開されているエリアにも、当時の建屋が残っている。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛歯技工研究所)

最近まで愛歯技工専門学校として使用されていたが2019年3月で閉校。
愛歯技工研究所は存続しているが、今後の扱いが気になるところ。

試験室(140号棟)

煉瓦造建造物。
愛歯技工専門学校時代の内部は体育館兼倉庫として使用。

仕上収函仮置場(13号棟)

煉瓦造建造物か?だいぶ改良されている外観であるが、建屋下部には面影が残っている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛誠病院)

愛誠病院内にもいくつかの建屋が残っている。
愛生会病院は、昭和22年に二造の敷地と建物の使用を開始したという。

現存する建物
 煉瓦造の旧 36 号家 ( 現第 1 病棟 )
 煉瓦造の旧 35 号家 ( 現第 2病棟 )
 煉瓦造で一部二階の旧 168 号家 ( 現精神神経科外来棟 )
 煉瓦造の旧 164 号家 ( 現本部事務棟および第 3 病棟 )
 煉瓦造の旧 256 号家 ( 現作業療法棟 )
 鉄筋コンクリート造の旧 438 号家 ( 現第 11 病棟 )

病院敷地の見学は、言わずもがなですが、常識の範囲内で静粛に。

化学実験室(438号棟)
現・愛誠病院第11病棟

鉄筋コンクリート造。

駆水室(35号棟)
現・愛誠病院第2病棟

煉瓦造

綿薬配合室(36号棟)
現・愛誠病院第1病棟

煉瓦造

混合室(168号棟)
現・愛誠病院精神科外来棟

煉瓦造

爆薬理学実験室(256号棟)
現・愛誠病院作業療法棟

煉瓦造

物置(164号棟)か?
現・愛誠病院デイケア棟

煉瓦造

煉瓦の気配。

なお、板橋区の資料によると「愛誠病院本部事務棟/第 3 病棟」(下の写真)が煉瓦造の164号棟と記載あるが、どうみてもデイケア棟が煉瓦造建造物。事務棟/第 3 病棟は、逆に煉瓦造建造物には見えず。

本記事の冒頭に記載した位置関係でもデイケア棟と当時の建屋の場所が一致する。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(理化学研究所板橋分所跡)

石神井川の北側。旧・理化学研究所板橋分所エリア。

物理試験室

東西に3棟が連結。
東から昭和13年、明治40年、昭和6年の建造。中央部が一番古く、東西が増設されたことがわかる。
理研時代は湯川秀樹や武井武、朝永振一郎が使用していた。

中央の煉瓦棟は明治40年の建造。

東の棟は昭和13年。

西側の棟は昭和6年。

南側、石神井川側より。

爆薬理学試験室

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、地下一階建。
昭和9年から昭和12年にかけて建造か。

理研跡地も板橋区によって加賀公園・野口研究所跡地ともども、「史跡公園」として再整備予定。
この辺のエリアは整備されたら改めて訪問したいと思う。


陸軍工科学校板橋分校跡

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の南東におかれていた陸軍学校。
現在の「加賀公園」の南側に設置された石碑。
陸軍工科学校の卒業生によって組織された工華会による設置。

花匂ふ桜ヶ丘
永遠の平和を祈る
 工科学校
 板橋分校跡
  工華会建之

板橋区立板橋第五中学校の敷地は、明治41年から昭和15年まで陸軍工科学校板橋分校(通称「桜ケ丘」)が位置していた。

明治41年9月に砲兵工科学校分校として砲兵工科学校の火工学生が小石川本校から板橋分校に移転。大正9年に陸軍工科学校板橋分校と改称。
昭和15年7月に小石川本校とともに陸軍兵器学校と解消され、神奈川県相模原市に移転。
その後、終戦までは「一造の板橋宿舎」として使用。終戦後は昭和30年までGHQの情報機関CIC(対敵諜報隊)が置かれていた。
昭和30年4月に板橋区立板橋第五中学校が開校。


陸軍工科学校板橋分校の陸軍境界石

加賀公園の南、板橋第五中学校の南東に残る境界石。
板橋第五中学校の界隈が、陸軍工科学校板橋分校であった。

「陸軍省」の文字が残る。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の西側は、その2、にて。

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場跡地散策

埼玉県深谷市。
かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場」「櫛挽工場」の3工場が展開。
今回はそのうちの南西側にあった「櫛挽工場」の戦跡を散策してみる。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

「深谷工場」(原郷工場)

「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」「明戸工場」は以下で。

https://senseki-kikou.net/?p=13059


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-B-80
1947年11月04日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

GoogleMapにて補完。

今回の散策は深谷の南西部に位置する「櫛挽工場」跡地を散策してみる。


櫛挽地区(櫛引地区)へ

立地場所は公共交通機関ではかなりアクセスのしにくい場所。
北東の深谷駅からではなく南を走る秩父鉄道を利用して近くに向かうことにする。

ちなみに櫛挽(櫛引)で、「くしひき」と読む。

「次はオマエダ」
これが見たかった、とも。

秩父鉄道「小前田駅」から歩く。
約6キロの距離を約1時間20分ほどかけて歩く。

二造深谷製造所櫛挽工場跡地散策

「櫛挽ヶ原」と呼ばれていた深谷市櫛挽地区(櫛引地区)は、周辺集落の入会地・秣場的林地として使用されており、野水が停滞する農地には向かない土地であった。
戦後に開拓地として平地林が広がる原野を開墾し、排水の便を整備。赤城おろしの北風が吹き下ろす土地であったため、防風林とする林を残しながらの開拓が行われた。

開拓前の櫛挽地区は平地林が広がっており、そんな中に、「二造深谷製造所櫛挽工場」が展開された。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M105-A-5-106
1946年04月15日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

「櫛挽ヶ原」を拡大。
戦後の開拓が始まっており、「櫛挽工場」の区画も、いまいちはっきりしない。なんとなく平地林であったことはわかるが。

GoogleMap航空写真。
櫛挽ヶ原の名残を防風林に残しつつ、開拓された様子がわかる。
ピンを立てた場所が唯一残る「櫛挽工場」名残の廃屋。

1時間以上歩いて、流石に歩くのに飽きてきた頃、畑の真ん中に唐突にコンクリートの建物が見えてきた。
「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場」の弾薬庫跡とされる建物。

2階建コンクリート。屋根も扉もなく、風雨にさらされている。

農地に忽然と現れたコンクリート建造物。

建物の周辺にもコンクリートの基礎が残っている。

鉄筋。

1階部分。覗いてみましょう。

思ったよりもきれいな空間。

階段があります。2階に登ってみましょう。

踊り場に生えた緑。
コンクリートに根を生やした草木。

二階部分。

一階に通じる穴。

屋根はない。
空が近いような気がする。

踊り場

そびえ立つコンクリート。

ちょっと離れたところにある基礎。
高射砲台座?か。

ちなみに晴天時・乾燥時は心配ないが、雨天後の湿っている時などは、周辺が牛糞系肥料のぬかるみで大変なことになっているそうです。幸い、私が訪れた時は乾燥してましたが、この茶色い土のエリア=肥料のぬかるみ、となるそうです。

場所

https://goo.gl/maps/sCQKogFwFFX3LCxy8

さて、駅に向かいましょう。

行きは秩父鉄道・小前田駅から6キロ80分を歩いてきました。
ちょうど電車の接続がよかったので、帰りは4キロほどを歩いて八高線用土駅まで向かいました。
ちなみに、改めて記載するが、周辺に駅は、無い、、、

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場弾薬庫跡
アクセス方法(駅起点)

  • JR八高線 用土駅 約4キロ
  • 秩父鉄道 永田駅 約5キロ
  • 秩父鉄道 小前田駅 約6キロ
  • JR高崎線 深谷駅 約7キロ

あくまで、公共交通機関を軸にした場合ですが、秩父鉄道も八高線も本数がかなり少ないので接続が悪い場合は、深谷駅から往復アクセスするのが時間的にも無駄がないかもしれません。
深谷駅であればレンタサイクルを活用するという手段もあります。
(私は歩いてしまいましたが・・・)

八高線・用土駅。

八高線。キハ110。

行程記録。
小前田駅から約6キロを約1時間20分。
用土駅へ約4キロを約50分、でした。
まあ、良い運動です。

※202008撮影


造兵廠関係

東京第二陸軍造兵廠

埼玉県内にあった陸軍造兵廠のひとつ

関連

深谷の隣町、熊谷

深谷関係

「弾薬庫から女子大へ」大塚弾薬庫跡散策

東京都文京区大塚。
JR大塚駅は本来の「大塚」からは遠い。丸ノ内線の新大塚駅から茗荷谷駅にかけて、そして有楽町線の護国寺駅から東にかけてのエリア。
具体的には「お茶の水女子大学」「跡見学園女子大学」のある周辺を散策してみた。「女子大の周辺を散策」という表現はいささか語弊を招きそうなので、「女子大に昔あった弾薬庫の周辺を散策」と言い直してみる。

2022年3月現在、一部の遺構の消失を確認しました

大塚陸軍弾薬庫

江戸時代は、譜代大名であった磐城平藩安藤家下屋敷。
安藤家10代安藤信正は、老中首座として公武合体を進め、水戸浪士ら尊王攘夷派に襲撃された「坂下門外の変」で知られている。

明治期には安藤家下屋敷はそのまま陸軍用地となっている。

  • 明治13年(1880) 陸軍病馬厩分廠が設置
  • 明治23年(1890) 大塚陸軍弾薬庫が設置
  • 明治41年(1908) 東京陸軍兵器支廠大塚弾薬庫に改称
  • 昭和3年(1928) 大塚弾薬庫が板橋陸軍兵器廠(東京第二陸軍造兵廠)内に移転
  • 昭和7年(1932) 東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)が当地に移転
  • 昭和8年(1933) 跡見学園が当地に移転
  • 昭和8年(1933) 東方文化学院東京研究所(東京大学東洋文化研究所)が建設
  • 昭和15年(1940) 東京高等師範学校附属中学校(筑波大附属中高)が当地に移転

明治期は陸軍用地であったが、昭和3年以降この地は文教地区として再開発されそのまま現在に至っている。


位置関係

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」を参照。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.717689&lng=139.732136&zoom=17&dataset=tokyo50&age=9&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

1/25000「東京西部」
昭和4年二修・昭和6.6.30発行

「大塚兵器庫」の敷地が広がっている。

1/25000「東京西部」
昭和20年部修・昭和22.7.30発行

兵器庫跡地は南北に分断。
北部を「お茶の水女子大学」が使用。兵器庫を東西に横断する道路も新設されている。

現在の様子。
北部をお茶の水女子大学、南東部を跡見女子大学、南西部を筑波大付属高校などが利用。

国土地理院・地理院地図(電子国土Web)

https://maps.gsi.go.jp/#17/35.718116/139.731771/&base=pale&ls=pale%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

大塚火薬庫のあたり=お茶の水女子大学がちょうど良い大地になっているのがわかる。

googleMapに「大塚火薬庫」の推定位置を描いてみた。
見どころポイントは「北部」と「北西部」。

下記が当日のロガー。
護国寺駅を起点に一周してみましたが、北部と北西部以外は、再開発などで当時の面影を感じることはできませんでした。


大塚弾薬庫跡地(北西部)

現在の「お茶の水女子大学西門」付近。
弾薬庫時代の壁=軍用地境界壁がほんの僅かに残っている。

訪れたのが年の瀬のタイミング。門松がバリケードを作っているかのようで。

別の季節に。。。(2022年12月)

境界壁

境界石(境界標石)の消失を確認しました(2024年1月)

陸軍境界石もありました。文字は摩耗してもう読めません・・・

こちらも境界石ですね。

消失確認後の写真(2024年1月)

切り取られました。。。

塗り固められました

陸軍時代の境界壁が残る。

お茶の水女子大学新学生宿舎が建築されるそうで。この古い壁はどうなってしまうのかな。。。


大塚弾薬庫跡地(北部)

お茶の水女子大学の北門、のあたりにも古い壁が残っていました。
こちらも弾薬庫時代の壁=軍用地境界壁、ですね。
亀裂なども発生しており、もしかしたら再開発されるかもしれない雰囲気。

2022年3月 北部の境界壁の消失を確認しました

このあたりの門柱は当時からのものか?

こちらは、欠けておりますが陸軍境界石、ですね。

ここにもお茶の水女子大学新学生宿舎建築のお知らせが貼ってありました。

北側の角で、壁は強引に分断されて新しい柵が取り付けられていました。

2022年3月、壁が改修されました。遺構消失、です。


大塚弾薬庫跡地(東部)

北側から春日通り側を、Googleストリートビューにて。
新しい建物の脇の細い道を進んでいくと、陸軍時代の壁を見ることができます。

https://www.google.co.jp/maps/@35.7202333,139.732885,3a,75y,206.79h,103.39t/data=!3m6!1e1!3m4!1sOt0aOy0ezgPq78yxW4utpA!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja

春日通り側は新しい柵と新しい建物、ですね。春日通り側の再開発は一段落したようです。

https://www.google.co.jp/maps/@35.7197044,139.7336597,3a,75y,244.25h,90.59t/data=!3m6!1e1!3m4!1s6Ovz9bAhLxdhhYXwroLj5Q!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja

お茶の水女子大学の正門


大塚弾薬庫跡地(南東部)

そのまま南下しますと「新大塚公園」に到着。
この公園は当時の弾薬庫の敷地内。東側にある「跡見女子大学」も西側にある「筑波大付属中学・高校」も弾薬庫の敷地内。


新大塚公園の南側にある建物。

東方文化学院東京研究所
(拓殖大学国際教育会館)

1933年(昭和8年)竣工。内田祥三設計。
大塚陸軍弾薬庫が移転後の建設。内田祥三は東大の安田講堂をはじめとした東大構内を再建し「内田ゴシック」で著名。
鉄筋コンクリート造の和風表現。
義和団の乱の賠償金により東方文化学院東京研究所(現:東京大学東洋文化研究所)として建設された建物。
第二次世界大戦後は外務省の外務省研修所も入居、東京大学と外務省が共同で管理運営。1967年に東京大学東洋文化研究所が東京大学本郷キャンパスに移転。その後、外務省研修所として使用されていたが、外務省研修所も1995年に移転となったために、近隣にキャンパスがあった拓殖大学が建物保存を条件に払い下げを受けた。


大塚弾薬庫跡地(南西部)

弾薬庫の南西部。現在、「鼠坂」と呼ばれている坂道というか石段。
弾薬庫時代の地図でも、この場所は変わらずに道が掲載されている。


大塚弾薬庫跡地(西部)

弾薬庫を東西に横断する道は、弾薬庫移転後に造られた道。
高台にあった弾薬庫跡地を削って道路を新設したことがわかりますね。

弾薬庫のあった台地を削って新設された道路。

こちらは弾薬庫の西側。結構な段差が今も残っている。この高台の上に弾薬庫があった。


「大塚弾薬庫」の西側、音羽通りに古い建物が残っている。
散策ついでに、あわせて掲載。

講談社本館(大日本雄辯會講談社)

1933年(昭和8年)竣工。前述の「東方文化学院東京研究所」と同じ時期の建設。
設計は曽禰中條建築事務所。曽禰達蔵と中條精一郎の共同設計。


一昔前は、もうすこし見どころがあったらしいが、徐々に当時の面影が失われているようで。今も残る北部と北西部の弾薬庫時代の境界壁もいつまで残るものか。。。
特に2019年に発生した「お茶の水女子大学附属中学校への不審者侵入事件」以来、いろいろと変わりつつあるようです。


近くには、池袋や護國寺がある。

「日本建築史のパイオニア」伊東忠太作品と伊東忠太墓 

日本の近代建築を巡っていると、知らず知らずに出会っているのが「伊東忠太」が手掛けた建造物。日本近代建築において、欠かすことができない人物。
そんな伊東忠太の墓が、鶴見・総持寺にあると聞いたので脚を運んでみた。


伊東忠太

1867年11月21日-1954年(昭和29年)4月7日(享年87歳)
正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・米沢市名誉市民第1号。早稲田大学教授。辰野金吾の弟子。

日本建築を学問的に見直した第一人者。「日本建築史の創始」。
また明治27年当時は「造家」と約されていた「Architecture」を「建築」と訳すように提唱したの伊東忠太であった。それを受けて、明治30年に「造家学会」が「建築学会」に改称し、明治31年には東京帝国大学工科大学造家学科が建築学科に改称している。
昭和18年(1943年)に建築界ではじめての文化勲章を受賞。

伊東忠太が手掛けた建造物は枚挙にいとまがない。
以下、現存している代表的なものを。

  • 橿原神宮 1890年/重要文化財
  • 平安神宮 1895年/重要文化財
  • 東京大学正門 1912年/登録文化財
  • 弥彦神社 1916年/登録文化財
  • 明治神宮 1920年
  • 上杉神社 1923年
  • 総持寺放光観音台座 1923年/登録文化財
  • 東京商科大学兼松講堂(一橋大学) 1927年/登録文化財
  • 震災祈念堂(東京都慰霊堂) 1930年
  • 靖國神社遊就館 1930年/登録文化財
  • 靖國神社神門 1930年
  • 靖國神社石鳥居 1934年
  • 築地本願寺 1934年/重要文化財
  • 湯島聖堂 1934年
  • 神田神社 1934年/登録文化財
  • 高麗神社 1935年
  • 総持寺大僧堂 1937年/登録文化財

伊東忠太墓

総持寺の「伊東忠太の墓」は「石原裕次郎の墓」の4つ南に鎮座している。
石原裕次郎という目印がないとしょうしょうわかりにくい。

伊東忠太の墓は大谷石で造られているため年月とともに風化している。風化することを踏まえているのであれば、なおさらに奥深いものがある。

伊東家之墓

昭和15年3月建 
 伊東忠太

生前に設計した墓。
伊東忠太は昭和29年4月に亡くなっている。

総持寺の墓地担当者による立て看板が建っていました。
総持寺が伊東忠太の御子孫と連絡が取れない。。。と

大谷石で造られた外柵は一部崩壊していた。

伊東忠太の墓の場所は、「西望一 5-1」
(ちなみに石原裕次郎の墓は隣の「西望一 6-1」

大本山總持寺、墓地はかなりの広さ。

総持寺にある「浅野家墓所」の設計は伊東忠太。
伊東忠太は東京三田の浅野邸「紫雲閣」(戦災焼失)の設計も行っていた。

浅野総一郎墓所

伊東忠太設計。詳細は下記記事にて。

そのほか総持寺には、伊東忠太とは関係ないが、下記で記事にした「小野光賢と小野光景父子」や「大西瀧治郎」の墓がある。高橋三吉海軍大将の墓もあるというが未訪問(場所不明です・・・)

大西瀧治郎を偲ぶ

伊東忠太が眠る総持寺境内には、伊東忠太の作品が2つある。(ほかにも境内には伊東忠太が関わっている墓がいくつかあるが、浅野家以外の個人墓は割愛。)

総持寺・放光観音台座

大正12年(1923年)建立。花崗岩製の台座。台座の設計は伊東忠太。
登録有形文化財。

総持寺・大僧堂

昭和12年(1937年)建立。伊東忠太の設計。登録有形文化財。


伊東忠太作品

そのほか、私の写真フォルダから伊東忠太作品をいくつか掲載。

上杉神社

伊東忠太は米沢出身。
大正8年に米沢大火で焼失した社殿を、伊東忠太が設計し大正12年に竣工。

稽照殿(上杉神社宝物殿)

一橋大学兼松講堂(東京商科大学)

昭和2年(1927年)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

入澤達吉邸(近衛文麿邸)

昭和2年、伊東忠太設計。

東京都慰霊堂(震災祈念堂)

昭和5年(1930)、伊東忠太設計。

東京都復興記念館

昭和6年、伊東忠太設計。

東京大空襲・慰霊

築地本願寺

昭和9年(1934)、重要文化財、伊東忠太設計。

東郷寺山門

昭和15年、伊東忠太設計。

児玉神社

明治45年(1912年)、伊東忠太設計。


明治神宮

大正9年(1920)、伊東忠太設計。戦後再建。

平安神宮

明治28年(1895)、重要文化財、伊東忠太設計。

弥彦神社

大正5年(1916)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

神田神社(神田明神)

昭和9年(1934)、権現造鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

湯島聖堂

大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建。寛政年間の旧制をもとに復元再建したもの。

高麗神社

昭和10年(1935年)、伊東忠太設計。

靖國神社遊就館

昭和5年(1930)、登録文化財、伊東忠太設計。

靖國神社神門

昭和8年、伊東忠太設計。

靖國神社石鳥居と狛犬

昭和8年。長野の片倉財閥の奉納。伊東忠太設計。

靖國神社大灯籠

昭和10年、設計は伊東忠太。

大燈籠に関しては、別記事を作成予定。


伊東忠太作品に出会ったら追記していきます。。。

JR国道駅に残る機銃掃射弾痕(鶴見線)

初出は2020年12月の写真。2024年5月再訪の上で写真及び記事を追加。

昭和17年4月18日、ドーリットル空襲において、横浜・川崎地区は初空襲を受けて以来、大小30回にも及ぶ空襲を受けてきたという。

昭和19年12月25日、横浜地区において、B-29 による初空襲。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/ks-nenpyou3.html

昭和20年4月4日、川崎地区において、B-29 による初空襲。
そして4月15日には、B-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲された。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

昭和20年(1945)5月29日の昼間、アメリカ軍はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機という大編隊でもって横浜を空襲。約8000人から10000人という死者をだした。この「横浜大空襲」では、京急平沼駅が壊滅、神奈川県護國神社は焼失、している。


鶴見線・国道駅

鶴見線国道駅が、いつ機銃掃射されたかは明らかではないが、壁面に機銃掃射の弾痕が今も残されている。
米軍のP-51(マスタング)によるもの、とされている。空襲に際して、B-29爆撃機の護衛として、空母艦載機P-51は、B-29と行動をともにしていたが、戦争末期になると日本軍の迎撃も組織的には行うことができなくなており、P-51は爆撃機護衛に任務から対地攻撃に変更し、重要拠点のみならず民間人を機銃掃射するようになっていた。
国道駅の弾痕も、そのようなP-51戦闘機による機銃掃射の弾痕とされている。

昭和5年10月28日、鶴見臨海鉄道の駅として開業。
昭和18年7月1日、鶴見臨海鉄道は国有化され、鉄道省鶴見線となる。

なお、鶴見線の大川支線にも機銃掃射の弾痕が残っている。

国道駅に残る機銃掃射の弾痕を観察してみる。

南口にある、この凹みがP-51戦闘機による機銃掃射の弾痕、という。

コンクリートの側面にも弾痕が。

看板の周辺にも、いくつか弾痕が残っている。

高架下

北口

東口?

2020年は営業していた焼き鳥屋(下記写真)は、2024年に再訪したら閉店していた。

昭和のまま、時を止めた空間。
有効期間は、昭和82年・・・

ホームに上る

「すきま注意!」のみが新しい

国道駅ホーム

2020年12月は205系で運行。

以下は2024年5月。

新車のE131系1000番台で運行。

「すきま注意!」のデザインだけが細心な雰囲気。

昭和5年の開業以来、大きな改良等もなく、昭和の姿を留めている国道駅。
昭和の戦争の爪痕も、昭和の歴史の一つとして、ここに残されていた。。。


鶴見駅

鶴見線は全身の鶴見臨海鉄道が大正15年に、弁天橋ー浜川崎間で開業。鶴見駅には昭和9年に乗り入れとなっている。


浅野総一郎

あとは、鶴見線といえば。


関連

「最後の空襲」熊谷の戦跡散策

昭和20年8月14日から8月15日にかけて。結果論的にいうと8月15日正午に「終戦の詔」が発せられる、その12時間前に、埼玉県熊谷市に空襲があった。
これが太平洋戦争最後の空襲であり、埼玉県内最大規模の空襲であった。
この最後の空襲の被害は甚大であり、この空襲によって熊谷市は埼玉県内唯一の戦災都市に指定されることとなった。(戦災都市は全国115都市)

この8月14日から15日にかけての日本最後の空襲被害は、埼玉県の「熊谷空襲」、群馬県の「伊勢崎空襲」、そして秋田県の「土崎空襲」(日本石油製油所)の3箇所となっている。

熊谷空襲

当時の熊谷市は中島飛行機の部品製造を担っていた「熊谷航空工業」「理研工業熊谷工業」など、中島飛行機太田製作所や小泉製作所、大宮製作所などの中島飛行機主要工場に付属関連する施設があり、また熊谷陸軍飛行学校もあり、海軍艦政本部も疎開しているなど、重要拠点の一つであったが、熊谷市はこれまで空襲被害がなかったということから、米軍によってマークされており、それが最後の空襲の候補地となった理由でもあった。

昭和20年8月15日0時頃。B-29 爆撃機89機が熊谷市上空に到達。
米軍は、熊谷市に対し4,000ポンド爆弾6発、M17焼夷弾356発、M19焼夷弾1,372発、M47焼夷弾6,321発を投下。
熊谷市街地の74%に相当する35万8000坪、全戸数の40%に相当する3630戸が焼失。全人口の28%に相当する1万5390人が被災し266人が死亡、約3000人が負傷。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_05.html

秩父鉄道上熊谷駅から散策スタート。


平和地蔵尊

熊谷厄除子育地蔵尊

熊谷空襲にちなむ、「平和地蔵尊並火伏地蔵」という。

すでに読めなくなっておりますが、記録によると以下の記述があるという。

舌代
顧るに昭和二十年八月十四日夜半より
翌15日に亘り、 吾が熊谷全市
は火の海と化し、言語に絶する
混乱状態となりたり。
折しも星川の流れに身を投じて
避難せる人々は、川の両側に並ぶ家屋
の焼落ちる火と火との間にて、哀れ
にも狂い死をなしたる者多大なり。
又無残や大火傷を受け、薬石
効無く遂に尊い一命を失った者驚く
勿れ全市に於て其の数実に二百
有余命なり。
そのお気の毒な方々の最後
を思いやり、情厚き全市有志の
皆名様と共にここに平和地蔵尊並火伏地蔵
と唱えて建立せしものなり、斯くのごとき
死亡者の中には身寄り頼り無く不幸
此の上も無き霊魂の為に何卒一片の香花を
手向け下さる様御願い申上げます。
 昭和三十二年一月 熊谷市有志一同
  堂守 杵屋二十五代目 新井龍吉

地蔵としては珍しく、眼を開けられているのが特徴という。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/saitama_kumagaya_city002/index.html

場所

https://goo.gl/maps/HSt7N1qkKD1TiV359


石山寺(せきじょうじ)

本堂前のケヤキは熊谷空襲にて被災。戦後75年をかけて幹周りを自己修復している。

平和地蔵尊から道を挟んだ東側に鎮座。

場所

https://goo.gl/maps/3ewphusXdwHZSb68A


熊谷聖パウロ教会

登録有形文化財。
1919年、アメリカ人ウィルソンの設計・監督により建設された総レンガ造りの教会。

昭和20年8月15日の熊谷空襲をくぐり抜けた建物。

 熊谷で聖公会によってキリスト教の伝道がはじめられたのは、明治15(1882)年ころで、明治21年には石原町に聖堂が建設されました。
 現在の地に聖堂が建ったのは、大正8年(1919)年です。
 平成17(2005)年には聖堂と門が登録文化財として文化庁に登録されました。

場所

https://goo.gl/maps/biFRBJYJYg1V6zWE7


熊谷寺・千形神社・高城神社

周辺には寺社も多い。寺社の樹木で戦火を免れた建物も多いという。

熊谷寺(ゆうこくじ)

場所

https://goo.gl/maps/fkdLutqrT718serA6

千形神社

場所

https://goo.gl/maps/Mp4p9G9aw1XZEbkx6

高城神社

場所

https://goo.gl/maps/xVVdF9vT65zgW6pTA


戦災者慰霊の女神

建立は昭和50年8月16日。北村西望による。
熊谷空襲慰霊の女神。熊谷空襲で行き場をなくした多くの人々が飛び込んだという星川に鎮座する。

戦災慰霊の女神
 北村西望作
 終戦前夜の大空襲で熊谷市は、焼土と化し、多くの尊い命も失われました。
 昭和50年、戦災30周年に完成したこの等身大の像は、高純度アルミニウムで作られていて、静かな銀色は慈悲に満ち、戦災の悲しみを再び繰り返してはならないとの祈りがこめられています。

慰霊碑 建立について
熊谷市は昭和二十年(一九四五年)
太平洋戰争終戰前夜の
八月十四日空襲をうけ一夜
にして當時の市の三分の二
が焼土と化し二百六十余名
の方が悲惨な最後を遂げま
した。
特に市の中央部を流れる星川
には一齊にあがった火の
手に逃げ場を失った人人が
飛び込み焼け崩れた家の下敷
となり百人近い方が焼死
しました。けれどもあの痛ましい
戰災の記憶や思い出
は年と共にうすれ忘れられ
てまいります。
よって被災三十周年を迎え
るに當り由緒ある星川上に
碑を建立して永く慰霊と平和
を祈る灯といたします。
 昭和五十年八月十六日
  慰霊碑建立奉賛會

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/saitama_kumagaya_city001/index.html

星川の上に鎮座している。

場所

https://goo.gl/maps/yt9ahvh4N178Cbgk6


身代わり地蔵

熊谷空襲で焼失した久山寺の跡地一画に、空襲や戦地で亡くなった戦争犠牲者の異例のために建てられたお地蔵様。熊谷空襲で多くの犠牲者を出した星川のそばに鎮座している。

場所

https://goo.gl/maps/EFiFWTi43bvrR5nX9


熊谷市慰霊塔

昭和37年3月建立。荒川公園。

建立の経緯
西南の役より太平洋戰争に至る戰役事変にお
いて祖國日本の安危を担い勇躍征途につかれ
果なき昿野に怒濤逆巻くわだつみにあるいは
乱雲の大空にその勲しも髙く散華せられた本
市出身軍人軍属一千九百余柱の英靈を追悼し
ここに招魂鎮祭の願いを果さんとする
昭和二十年八月終戰の混乱と廃?の中にあっ
て祖國再建の悲願に燃え世界恒久の平和を念
じてここに十有七星霜今や新日本として飛躍
的な發展を遂げ本市も又大熊谷への進展の冥
途を辿りつつある時殉國の英靈に對求る追慕
の情いよいよ深く市民の総意として英霊の冥
福を祈念しその功績を永?に傅うるに足る慰
霊塔建立の議が發願されるに至ったここにお
いて本市は昭和三十六年一月熊谷市慰霊塔建
設協力委員会を設置し市遺族會の寄附金を始
め広く市民の浄財を市費とをもつて名勝櫻堤
のあたり遠く秩父連峯を望むこの地をトし昭
和三十六年十二月起工本年三月その完成をみ
たのである
我等は今この聖塔を前にして英霊の遺志を顕
彰し人類の平和と国家の興隆を念じ郷土の發
展とご遺族の援護に一層の努力を誓う次第で
ある願わくは諸霊とこしえに鎮まりご遺族と
全市民に加護を給わらんことを
ここに建立の経緯を略記しもつて後世に傳
えんとする
 昭和三十七年三月
  熊谷市長 栗原正一撰
  岡 翠雪書

工事記録
起工 昭和三十六年十二月
竣工 昭和三十七年三月
工費 金四百七拾萬圓也
建設管理 熊谷市建築課
施工 株式会社小林組
慰霊塔の規模
構造 鉄筋コンクリート造
塔の高さ 一五・五米
述面積 二八一二平方米

奉仕の理想で世界の平和を

熊谷ロータリクラブ
創立15周年記念
 昭和42年10月建設

戦前に建造されたSLが静態保存されている。

D51 140号蒸気機関車について
新製年月日 昭和13年11月6日 製作所 日本車両製造株式会社

場所

https://goo.gl/maps/BYE29bvqjb52Dggk8


中家堂の石灯籠

熊谷名物の瓦せんべい・軍配せんべいで有名な和菓子屋さん。
軍配本舗・中家堂

熊谷空襲と石灯籠のこと
 昭和20年(1945年)8月14日、ここ熊谷の町はアメリカの戦闘爆撃B29からの爆撃を受け、辺り一面が焼け野原となった。
 あれから幾星霜、見事に復興を遂げた町中には、あの日の惨禍を物語る遺構は全くと言っていいほど残っていない。
唯一つ、この石灯籠のみがここに立つ。
 空襲を受けた暁、当店の看板であった石灯籠は、土蔵が軒並み崩れる程の業火に炙られた。明治中期に造作された石の灯篭は、宝珠・笠・火袋・中台・棹・露盤の6部から成っていたが、これらは全て紅蓮の炎と熱風に倒れ散った。宝珠と笠に残る黒い焦げ痕は、焼夷弾によるものである。
 時を経て再建の際、失った中台と棹が新しく造られた。大規模な区画整理が行われたこの場所に、元の姿で戻ってこられたことをさぞかし喜んでいるに違いない。
 今日、戦の痕跡を留める石灯籠は昔日の姿の儘、物言わぬ語り部となる。
 未来永劫、あの夏の記憶をここに結ぶ。
  某年8月 中家堂

場所

https://goo.gl/maps/2jpVd9193NRnbsSq7


中央公園

熊谷市役所隣の中央公園内には、熊谷空襲を生き延びた欅が8本ほど移築されている。

平和の鐘

熊谷ライオンズクラブ寄贈。

場所

https://goo.gl/maps/K4gnUFLmdcLq8Bnq6


埼玉県立熊谷女子高等学校

明治44年(1911)に埼玉県立熊谷高等女学校として開校。
戦争末期には、熊谷高等女学校構内に理研学内工場が設置されピストンなどを製造。また中島飛行機小泉製作所技術部第二設計課(長距離爆撃機「連山」設計試作部隊)や海軍艦政本部が当校に疎開している。

埼玉県内で唯一戦災被害を受けた高等女学校。焼け残った校門は、現在も北門として利用されている。

場所

https://goo.gl/maps/41szxm2ah2sS8aAV8


熊谷駅前。戦跡とは関係ないが、熊谷次郎直実銅像をみながら、熊谷をあとにする。


法務省旧本館(旧司法省庁舎)

「中央合同庁舎第6号館赤れんが棟」、とも呼称。
明治期に造られた官庁集中計画建造物で唯一現存する建物。
国重要文化財指定(外観のみ指定、内装は除く)

1895年(明治28年)、旧司法省庁舎として竣工。
ドイツ・ネオバロック様式。歴史主義建築。

1923年(大正12年)の関東大震災をほぼ無傷で乗り切るも、1945年(昭和20年)の東京大空襲にて内装と屋根を焼失。
1950年に法務府庁舎・法務省本館として再利用。
1994年の改修工事で文化財として創建時の外観に戻され、現在は法務総合研究所・法務図書館として利用されている。
1995年には「法務史料展示室」が開設され、平日のみ一般公開されている。

重要文化財 法務省旧本館
 この建物は、明治政府が招聘したドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により実施設計・工事監理には河合浩蔵が参画し、1895年(明治28年)に旧司法省庁舎として完成した。
 その後、1923年(大正12年)の関東大震災では、れんが壁が鉄材で補強されていたため、ほとんど被害を受けなかったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲により、れんが壁を残して焼失した。そのため、屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事が行われ、1950年(昭和25年)法務省本館として利用されるようになった。
 中央合同庁舎第6号館の整備に伴い、村松貞次郎、堀内正昭両氏の監修のもと建設大臣官房官庁営繕部により、1994年(平成6年)外観が創建時の姿に復原され、法務総合研究所及び法務図書館として活用されることとなった。
 本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で歴史的価値が高いため、1994年(平成6年)12月27日に重要文化財の指定を受けた。
 平成7年5月

法務史料展示室
メッセージギャラリーのご案内


公開日 月曜日から金曜日まで/入場無料(土曜日・日曜日・祝日などはお休み)
公開時間 午前10時から午後6時まで(入室は午後5時30分まで)

重要文化財(建造物)
法務省旧本館
(指定:平6.12.27)
 明治政府は、最大の外構課題であった不平等条約改正交渉に先立ち、近代国家としての体制を整えるため、明治19年(1886)から官庁集中計画に着手しました。計画立案には当時のドイツ建築界を代表するヘルマン・エンデとヴェルヘルム・ベックマンを招聘し、司法省の庁舎として企画されました。工事監理はベルリン工科大学に留学経験のある河合浩蔵が務め、明治21年(1888)に着工し、明治28年(1895)12月に竣工しました。東京大空襲で煉瓦造の躯体と防火床の一部を除いてほぼ全焼しました。平成3年から6年にかけて行われた保存改修工事により創建当時の姿に復元しました。建物は、1階を低く抑え、2・3階を高くした3階建で、屋根はスレート葺、外壁は赤煉瓦を基調に柱や窓周りに白い石材を用いています。
 明治の官庁集中計画による建物で現存する唯一のものであり、本格的なドイツ・ネオバロック様式を用いた外観に特徴があります。


位置関係など

国土地理院公開の航空写真より
ファイル:USA-M871-58
1948年03月29日-米軍撮影。

司法省の建物が外壁を残して焼失している姿がよく分かる。
海軍省や参謀本部なども同様に外壁を残すのみ。


法務省旧本館

正門の守衛さんに、見学したい旨を申し出ると、見学可能。その際に見学に際しての諸注意が守衛さんより説明がある。

  • 写真撮影は決められたエリアのみ可能。
  • 館内は撮影禁止
  • 飲食禁止
  • 歩く場所
  • 館内は業務中のために静粛に

以下、外観を決められたエリアから撮影。正面向かって右側のエリアからのみ撮影可能。

史料展示室とメッセージギャラリーにて、日本の法務史と旧司法省本館の歴史が学べるので、平日限定公開だけど、興味ございましたら足を運んでみるのをおすすめします。結構面白いです。


法務史料展示室・メッセージギャラリー

http://www.moj.go.jp/housei/tosho-tenji/housei06_00004.html

法務史料展示室・メッセージギャラリーご利用案内(見学・アクセス)

  • 月曜日から金曜日まで(土曜日,日曜日,祝日等はお休み)
  • 午前10時から午後6時まで(入室は午後5時30分まで)
  • 無 料

http://www.moj.go.jp/housei/tosho-tenji/housei06_00009.html


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