平成29年8月撮影
茨城県北茨城市に点在する「震洋基地跡」と「風船爆弾放球台跡」。
あわせて平潟港と大津港の鎮守様も。
平成29年8月13日。
常磐線にて大津港駅へ。 茨城県最北端の地・北茨城市で、ちょっとした戦争関連の史跡とあわせて平潟港・大津港の鎮守神社2社を散策して参りました。
目次
大津港
午前9時20分。大津港駅到着。1時間に1本クラスだと接続も悩ましいですね。 当地は観光地的には「岡倉天心」と「六角堂」などが有名。
大津港駅
大津港駅は平成25年リニューアルし「六角堂」を模すデザインに。(六角堂は東日本大震災の津波直撃で土台のみをのこして消失。その後平成24年に再建) 駅は平成27年3月ダイヤ改正で特急通過駅に。翌年には駅前にあった大津港駅前観光案内所(&レンタサイクル)も撤退。
つまりレンタサイクルはない。バスもない。
歩くしか無いわけです。
(財力があればタクシーという選択肢もありますが…)
駅前の観光案内図を見ればちゃんと「風船爆弾打上跡地」と記載ありますね。 目的地が記載してあって安心。
ざっくり30分くらい歩けばいいのかな。
大津港駅前
のっけから駅前にあるレンガ造り建物に吸い寄せられてしまい。
なんですか、この美しい造形は。
大正元年(1912)に造られた大津港駅で貨物業務を請け負っていた倉庫らしく。
※2016年に大津港駅前から撤退した観光案内所はここにありました。
平潟港へ歩いていると道標を見つけました。
「記念御成婚」とあります。
昭和天皇(大正当時は摂政)の御成婚ですね。
大正13年8月30日建立。 現在の陸前浜街道から関本駅(大津港駅)・平潟町・大津町への道しるべ。
ずいぶん遠くに来たような気がします。
「仙台」とか「いわき」とか書いてあります。
どうしてこんなところを歩いているんだろ、と我に返ってはダメです。
無心で歩いていたら平潟の集落を通り抜けてしまい。
よき港町だったのに写真に納めるのを忘れてしまいました。
平潟港
茨城観光百選「平潟港」 昭和60年に「つくば科学万博」関連事業で制定。 鮟鱇像(あんこう) 東北地方太平洋沖地震で被災した北茨城市。 このモニュメントは北茨城市の魚であるアンコウをシンボルとし被災地の安寧と明るい未来に向けた復興に願いを込め建立。
湾内を一望する。
むかって北西側に小高い丘、南東側にもちょこっと小高い丘。
南東の島のような丘が震洋基地跡という。(のちほど)
小さいけれども良い港。
北側の高台に穴が覗いていたり、神社が鎮座していたり。
やはり気になりますね。まずは神社に行ってみましょう。
|-`).。oO(真似する人がいるかどうか知りませんが参考情報。
ちなみに大津港駅から平潟港までは徒歩25分でした。
この日は港に着いたら雨が降ってきまして・・・
平潟八幡神社
平潟港を見下ろす平潟町の鎮守様
平潟港は仙台江戸間で唯一の自然港として仙台藩によって整備され河村瑞賢により築港(行政は棚倉藩)
八幡神社は寛和元年(985)に鎌倉より分霊し鎮座
現在地には延宝9年(1681)に遷座
嘉永6年(1853)棚倉藩により再建という
社頭の狛犬は昭和2年4月。ブロンズ製の狛犬。なかなか格好良い。
後述しますがこの平潟港には戦中に海軍特攻艇「震洋」訓練基地として平潟基地が展開されていた。
往時の震洋隊員たちも、きっと平潟港鎮守たる八幡様に武運長久を祈ってお参りし狛犬達が出迎えた事でしょう…
この神社、何やら凄い。
港から約50メートル高い台の崖の上に鎮座。
社殿後方の崖に幾つか穴が掘られており・・・
御社殿後方に「虎像」が奉納されておりました。
恵比寿様やら稲荷様なども鎮座しておりました。
境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
奥社のような佇まい 。
境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
予備知識無しでの参拝でしたが、予想以上の空間に驚きました。
山道が更に奥に続いているようでしたので、その気になればもっと探索できそうでしたがこれ以上は自粛。
神社境内から平潟湾を見下ろす。
対岸の小島のようにポッコリとした丘が、海軍特殊攻撃艇「震洋」が秘匿された平潟基地跡という。
灰色の蓋はされているが、確かに幾つかの穴が遠望でも確認できる。
忠魂碑
元帥子爵川村景明書
大正10年10月建立
川村景明は元帥陸軍大将。日露戦争時は鴨緑江軍司令官として明治38年に奉天会戦に参戦。
平潟町の犠牲者を慰霊。
川村が帝国在郷軍人会会長在任中に書に応じたものと思われる。
ご神木スギ
推定樹齢約300年
このあたり平潟八幡神社の鎮座している丘の先は「鵜ノ子岬」と呼ばれているそうで。
この岬の北側は「福島県」。まさに関東と東北の境目。
穴が開いていました。(近寄れず)
平潟港はアンコウ鍋の発祥の地とされていて時間があればゆっくりしたかったのですが(ムリでした…
震洋・海軍平潟訓練基地跡
平潟港には海軍特殊攻撃艇「震洋」の訓練基地が展開されていた。
昭和20年6月25日に小名浜基地に編成された141震洋隊が翌月下旬頃に平潟訓練基地に移動。搭乗員50名を含む173名であったという。
当部隊は出撃はせずに終戦を迎え9月20日に解隊。
※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。
震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という
原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型
幸いにして平潟港で訓練を重ねていた震洋隊は出撃せずに終戦を迎えた。
が、終戦の翌日に1隊員が猛スピードで震洋を乗り回し沈没したという逸話が残っている。(※「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」による)
静かに往時を偲びしとき…
東日本大震災記録碑
2011年3月11日14時46分
北茨城市でも震度6弱を記録し15時31分に到達した津波は最大6.7mを記録。 死者5名、行方不明1名の尊き命を奪い、全壊半壊家屋は2400戸を越したという。
この場所は幾多の歴史が重なりし場所であった…合掌
風船爆弾放球台跡( 北茨城大津)
平潟港から南に歩むこと25分ほど。五浦海岸にアクセスする県道354号線の脇に不思議な空間(円形の何か)があるのが地図上でもわかります。
これが「いわゆる風船爆弾」を放球した台座の跡。
「風船爆弾放流大津基地」跡
夏場なので草が心配でしたが放球台座跡は整地されており見学は容易でした。 (助かりました)
直径約16m円形のコンクリート台座が残っておりました。
放球台座の円周縁に設けられている2箇所の四角い台座は気球を飛ばすための水素を充填する水素ボンベを設置した跡とされている。
「風船爆弾」は戦後の俗称。
往時は「気球爆弾」と呼称されており秘匿名称は「ふ号兵器」
第二次世界大戦で使用された兵器としての到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器でもある。
昭和19年11月に「ふ号兵器」として実用化。ジェット気流を利用し気球に爆弾を乗せ日本本土から米本土空襲を行うもので、茨城県大津(最大規模→18基の放球台があった)・千葉県一宮・福島県勿来の基地から19年11月から20年春までの間に約9300発が放球されたという。
9300発のうち米本土に到達したのは約300~1000程度(資料にブレあり)。 被害としては1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。
風船爆弾を開発した登戸研究所
大津の北にある勿来の放球基地跡
一宮の放球基地跡
風船爆弾犠牲者鎮魂碑
「風船爆弾放球台」の向かい側にひっそりと鎮魂碑が建立されている。
昭和19年11月3日「明治節」に大津基地で最初の風船爆弾放球を行う際に誤爆事故が発生。3人が犠牲となり、のちに鎮魂碑が建立された。 この誤爆事故により放球は11月7日に延期。
風船爆弾放流地跡「わすれじ 平和の碑」
新しい誓い
海のかなた 大空のかなたへ 消えて行った 青い気球よ
あれは幻か 今はもう 呪いと殺意の 武器はいらない
青い気球よさようなら さようなら戦争
鈴木俊平作・書
場所→https://goo.gl/maps/KUdRHetRF1x …
風船爆弾放流地跡
この辺一帯は、昭和19年11月から昭和20年4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です。…大本営直属の部隊本部はこの地にあり、作戦の中心でした。…永遠の歴史の片隅で人目を忍び、いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です。昭和59年11月25日建之
五浦海岸ジオサイト
海を渡ってアメリカへ…戦争の記憶を将来へ伝える地
青い青い海を見ながら、
歴史の一幕に感じつつ、
往時を偲ぶ…
放球台跡から山道に入った所に「水素ガス製造の為にケイ素鉄を粉砕した工場跡」遺構があるというが
うん、夏場に探索はムリです…
一宮基地・勿来基地では水素供給工場が被災し途中で作戦遂行不可になる中で大津基地のみは工場は無事で最後まで作戦が遂行されたという
山道を踏破はしました、なんとか。
白丸が風船爆弾放球台跡。
赤丸が風船爆弾放流地跡石碑。
青丸が水素生成ケイ素鉄粉砕工場跡推定(夏はムリw
のどかでした。
水田の緑が眩しい。黄金色に輝くときが楽しみです。
今日の安寧に感謝する。
さて、ここで駅に向かうか寄り道をするかの二択を迷う。
散策を開始して約8キロ2時間半経過。
電車は1時間に1本。寄り道すれば次は13時18分。
うん、寄り道してみるか
ここからは寄り道。戦跡とは離れます。
大津港に鎮座している「佐波波地祇神社」を目指します。
常陸国延喜式内論社
この前述の場所からは歩いて30分位かかりそうです… https://goo.gl/maps/ZJeZJBz93h12 …
道途中に「おおっ??」と反応してしまいました。
「聖徳太子碑」 大津平潟桶師組合・大正4年建立
「即位紀念」とありますが、 どうして「聖徳太子」と刻んだのか。
それも「桶師組合」が。
謎です。
場所→https://goo.gl/maps/xezpWnmm2Bo …
佐波波地祇神社
大津港駅からは徒歩約40分の道のり。現実的に歩いて行く距離ではないのですが、戦跡巡りで歩き続けていた私には誤差になっていたようで。無駄にテンション上げて歩いておりました。
場所→https://goo.gl/maps/yoKw6u77aTP2 …
さすがにもう石段はつらいですね。
やっとの思いで登ると、海が見えました。
大津の港。
地図で見るとわかるとおり阿字ヶ浦から小名浜にかけての海岸線でちょこっと突き出た五浦の北の平潟港と南の大津港は良港であったことがわかる。 高台に鎮座した大津港の鎮守様。
延喜式内社の古社。常陸國二十八座多珂郡一座小「佐波波地祇社」
古くは佐波波神また六所明神と尊称。
元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して大宮大明神と尊称。
鎮座の丘は「唐帰山」(からかいさん)と称され航海の目標となっている。
御本殿は享保12年(1727)造営とされている。
海上守護の神として崇敬されており、御社殿の脇には「錨」が多く奉納されていることからも崇敬の篤さが伝わってくる。
航海故事としては東征時の日本武尊や水戸光圀公の逸話も残っている。
「唐帰山の御神水」
鎮座地の台地は宮平と呼称され唐帰山は海抜55m。
この井戸は享保年間以前に掘られており爾来300年以上に渡り地下30mの水脈より枯れることなく汲み上げている。
わざわざ歩いて登ってきただけある良き佇まいの古社でした。
帰路。
あとはもう駅への道を真っ直ぐに。
なにげない橋だけど「昭和9年2月竣工」
場所→https://goo.gl/maps/A5R6pyNK3tz …
歴史重ねし建造物が、今も何食わぬ顔してこうして縁の下を支えていると思うと感慨深いものがあります。
この日の行程。
午前9時20分に大津港駅に到着。
平潟港には午前9時50分着。
平潟港の散策を約1時間行ない10時45分に南下開始して風船爆弾放球台跡には11時10分到着。大津港を経由して駅に戻ってきたのは13時10分。
約13キロ約4時間所要の散策でした。
〆