「横川省三」という人物がすこし気になっていた。
歴史上、日露戦争の片隅で決して目立つ人物ではなく、徐々に忘れ去られそうになっている人物。
そんな時流のなかで、六本木麻布台エリアの再開発に伴い、彼の住居跡である「横川省三記念公園」という小さな公園が、大都会のビル群の下で消失していた。
ところが、2025年に、その「横川省三記念公園」が復活したと聞き、最新状況を知るべく散策をしてみた。

復活後の公園は、新たに枕詞に「我善坊」というなにやら厳めしい名称が付与され、「我善坊横川省三記念公園」となっていた。
目次
横川省三
元治2年4月4日(1865年4月28日) – 明治37年(1904年)4月21日)
明治期の新聞記者。日露戦争時の軍事探偵(スパイ)。ロシア軍に捕縛され処刑された。
南部盛岡藩の出身。初名は「勇次」。
旧姓は「三田村」であったが、徴兵逃れの養子で「山田」姓に、結婚後に「横川」姓となっている。
1884年の加波山事件(栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件)で自由民権運動に関わり投獄。
1887年、保安条例施行により、皇居周辺三里から追放。
1889年、花巻の横川家に婿入りし、横川佳哉と結婚し、横川姓となる。
※花巻市東和町に「横川省三記念公園」がある。
1890年、朝日新聞の記者となり、妻子とともに上京。
郡司成忠の千島列島探検隊(1893年)の特派員となる。
1894年、日清戦争の従軍記者。
1897年、記者を辞め、サンフランシスコに渡米。邦字新聞となる『ジャパン・ヘラルド』(→「桑港日本新聞」→「日米新聞』)を創刊。
1901年(明治34)には勇治改め横川省三と改名。日露戦争に際して、北京公使館の内田康哉清国公使に招かれ中国に渡る。
青木宣純大佐率いる特別任務班のメンバーとなり、横川省三は特別任務班第六班班長として沖禎介とともに特殊工作に従事する。
1904年に、ロシア軍の東清鉄道爆破任務のためラマ僧に変装して満洲に潜伏。ロシア軍兵砧の大動脈である東清鉄道のチチハル雅児河鉄橋の爆破をくわだてるが、ツルチハ駅(隣駅)付近で発見され、横川省三は沖禎介とともにロシア軍に捕らえら、ハルビンに移送される。
裁判にかけられた際、検察官は絞首刑を求刑したが、横川は異議を唱え「どうか軍人に対する礼をもって、銃殺刑に処していただきたい」と嘆願。裁判長は、慎重な審議の末、二人を軍人として扱い、銃殺刑とすることを決めた。
銃殺刑の判決を聞いた二人は満足そうに笑みを浮かべ、裁判長と法務官に深々と一礼したという。
1904年(明治37年)4月21日、満洲ハルビン(哈爾浜・哈爾濱)にて。
銃殺刑の執行当日、死刑執行官は、射撃手に「射撃用意」と命じ、その後「愛をもって撃て」と付け加えた。尊敬すべき二人の日本人が苦しまないように、正しく心臓を狙えという指示であった。
二人は最期に「天皇陛下万歳」と叫び、横川省三は39歳の若さで刑場に露と消えた。
横川省三は、遺言で所持金をロシア赤十字社への寄付を申し出た。敵国の赤十字社に所持金全てを寄付するという前例のない行動は、ロシア人を驚嘆させ、感動させた。
なお、横川省三の銃殺刑のシーンは、映画「二百三高地」(昭和55年・東映)の冒頭でも描かれており、映画は、横川省三と沖禎介の両名が、銃殺刑で処刑されるシーンから始まる。
我善坊横川省三記念公園
2025年9月30日開園。六本木麻布台の再開発によって新設された公園。
「横川省三記念公園」
昭和12年(1937)12月、横川省三遺跡保存会により、横川省三邸宅跡地(麻布箪笥町24番地)を公園用地として東京市に寄付。
昭和13年(1938)11月、東京市営公園として開園。
昭和25年(1950)10月、東京市から移管され区立公園として開園。
昭和39年(1964)7月、首都高速整備事業により廃園。
昭和41年(1966)4月、麻布台1丁目4番6号に移設開園。
平成31年(2019)4月、麻布台地区再開発により廃園。
令和7年(2025)9月、麻布台1丁目4番12番にて移築開園。
移設開園時に公園名を「我善坊横山省三記念公園」と改称。
三度、場所を変えつつ、6年ぶりに移設開園した「横川省三記念公園」。

我善坊横川省三記念公園
公園名のインパクトがちょっと強い。
背景を知らなくても、なんとなく「横川省三」は人名と察することができとしても、「我善坊」って?なりそうな。

麻布我善坊町
町域に我善坊谷があるので谷の名前をとって我善坊町と名付けられました。我善坊谷の由来については、座禅をする僧侶がいたから、あるいは二代将軍徳川秀忠の夫人崇源院の火葬の際の龕前堂があったからなど諸説があります。
もともと、この地が「我善坊町」だったとのことで。
場所
以前の様子>日本1000公園様
プレートのみではなく、この時の記念碑のまま、残してほしかった、、、が、逆にプレートだけでもきれいに残してくれたことに感謝すべきか。
横川省三記念公園の記念碑
我善坊横川省三記念公園には、旧横川省三記念公園時代に設けられた記念碑(記念プレート)が移設されている。
プレートのみなので、ちょっと味気ない。


横川省三記念公園
勲五等
横川省三
岩手県盛岡市出身
行年四十歳
同行国士
勲五等
沖禎介
長崎県平戸市出身
行年二十八歳
同行国士
勲六等 脇光三
滋賀県彦根市出身 行年二十四歳
同 松崎保一
宮崎県宮崎市出身 行年三十歳
同 中山直熊
熊本県熊本市出身 行年二十四歳
同 田村一三
宮崎県宮崎市出身 行年二十二歳
寄贈者 横川省三遺跡保存会世話人代表
吉澤照英司・吉澤てる(故黒川茂隆長女)
平成三年九月吉日補修
脇光三、松崎保一、中山直熊、田村一三の4氏は、鉄橋爆破作戦の失敗で戦死している。

横川省三略傳
明治三十七八年戰役ニ特別任務ヲ帯ヒ
北満ノ野ニ壮烈ナル最後ヲ遂ケタル志
士横川省三君ハ南部盛岡ノ人ナリ歳甫
メテ十九東京ニ來リ自由黨ニ投シ後操
觚界ニ入リ雄健ノ筆ヲ以テ盛名ヲ謳ハ
レシカ明治三十年移民開拓ノ為北米ニ
航シ三十四年歸朝ス偶暗澹タル日露ノ
風雲ニ際會シ敵状探知ノ重命ヲ荷ヒテ
北京公使館嘱託トナリ日夜東奔西走ス
ル事三年時恰モ明治三十七年二月 大
詔下ルヤ輙チ擢テラレテ敵後方輸送路
遮断ノ命ヲ拜シ嫩江鐵橋爆破ニ赴キシ
ガ遂ニ敵兵ノ為ニ捕ヘラレ四月二十一
日同志沖禎介ト共ニ哈爾賓ニ於テ銃殺
セラル
君ハ性剛毅恬淡ニシテ機略アリ身軍籍
ニ非ルモ敵地深ク突入シテ國難ニ殉ス
其忠勇義烈真ニ國士ノ龜鑑タリ後年其
功ニヨリ勲五等ヲ授ケラレ特旨ヲ以テ
靖國神社ニ合祀セラル
<横川省三 略伝(現代語・意訳>
明治三十七・八年の役(日露戦争)において、特別な任務を帯び、北満州の野で壮絶な最期を遂げた志士、横川省三君は、南部盛岡(現在の岩手県盛岡市)の人である。
十九歳の時に上京して自由党に加わり、のちに文筆の世界(新聞記者)に入ると、力強い文章によってその名を世に広く知られるようになった。明治三十年には移民開拓のために北米へ渡り、同三十四年に帰国。ちょうど日露の関係が緊迫し、暗雲立ち込める時期にあたって、敵国の情勢を探知するという重大な使命を担うこととなった。北京公使館の嘱託として、日夜、東奔西走すること三年に及んだ。
時あたかも明治三十七年二月、宣戦布告の詔勅が下されるや、ただちに抜擢されて「敵の後方輸送路を遮断せよ」との命を受けた。嫩江(のんこう)鉄橋の爆破に向かったが、ついに敵兵に捕らえられ、四月二十一日、同志である沖禎介(おき ていすけ)と共にハルビンにおいて銃殺された。
君の人となりは、剛毅で執着がなく(さっぱりしており)、機略に富んでいた。軍籍に身を置いていたわけではないが、敵地の深くへ突入して国難に殉じたその忠勇義烈な振る舞いは、まさに「国士の模範」というべきものである。後年、その功績によって勲五等を授けられ、特別な計らい(特旨)によって靖国神社に合祀された。

此地ハ明治三十七八年戰役ニ際
シ特命ヲ帯ヒテ敵地深ク侵入シ
北満ノ野ニ於テ國難ニ殉シタル
志士横川省三氏カ寓居ノ遺阯ト
シテ知ラレタリシカ同氏ノ赫々
タル英名ヲ永ク追慕シ其ノ光輝
アル舊蹟ヲ後世ニ傳ヘンカ為ニ
地元横川省三遺跡保存會代表者
黒川茂隆氏ハ之ヲ本市公園用地
トシテ昭和十二年十二月附近ヲ
併セ百二十餘坪ノ地ヲ寄附セラ
レタリ本市ニ於テハ寄附者ノ厚
意ヲ享ケ英靈ヲ偲フ記念公園ト
ナシ諸施設ヲ完了シタルヲ以テ
茲ニ開園ニ臨ミ來歴ヲ敍シ以テ
地元ノ芳志ヲ銘記ス
<横川省三 遺址記念公園 開園の辞(現代語・意訳>
この地は、明治三十七・八年の役(日露戦争)に際して、特別な命令を帯びて敵地の深くへ侵入し、北満州の野において国難に殉じた志士、**横川省三氏がかつて住んでいた場所(寓居の遺址)**として知られています。
同氏の輝かしい勇名を末永く慕い、その光輝ある旧跡を後世に伝えるため、地元「横川省三遺跡保存会」の代表者である黒川茂隆氏は、ここを本市(当時の東京市、現在の東京都など)の公園用地とするべく、昭和十二年十二月、付近の土地と合わせて百二十余坪を寄附されました。
本市においては、寄附者の厚意を受け、英霊を偲ぶための記念公園として諸施設の整備を完了いたしました。ここに開園を迎えるにあたり、その来歴を記し、地元の皆様の尊い志を記録にとどめるものとします。

壁にプレートが埋め込まれている。


公園自体は、麻布台の新しい公園。とてもきれい。

麻布台の高層ビル群。

最寄り駅は、六本木一丁目。

※2025年12月撮影
横川省三墓跡(青山霊園)
横川省三の墓は、青山霊園にあった。
場所は、青山霊園1種イ16-1
訪れたら、その番地には何も無かった。移転したのか、墓仕舞いしたのか。。。
少し調べてみたら、2023年には、どうやら既に無かったようで。うーむ。

ここに、横川省三の墓があった。
あったという記録として、ここに、いまの状況を残しておく。


いまは、何もない。
こうして、忘れ去られていく、歴史の軌跡。
寂しくもあるが、致し方がない側面もあり。
※2026年1月撮影
横川省三墓(盛岡・聖寿禅寺)・未訪問
盛岡の聖寿禅寺。
盛岡藩主南部家の国元の菩提寺、盛岡五山の一山。
未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。
場所
横川省三墓(花巻東晴山・横川省三記念公園)・未訪問
岩手県花巻市東和町東晴山にある。
花巻の横川省三記念公園。
未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。
場所
横川省三像台座と六烈士弔霊塔
盛岡に赴いていた際に、この近くに散策ポイントがあったので、奇跡的に記録を取っていました。
陸軍墓地跡、が台座のちかく、だったのです。
横川省三像台座と六烈士弔霊塔
昭和7年6月26日建立。
当時の盛岡市長によって「高松池」のほとりに、横川省三の銅像と六烈士弔霊塔が建立された。
11年後の昭和18年に金属供出で銅像は撤去され、現在は台座のみが残っている。

台座の銘板は削られており、この台座は由縁を知らないと、ぱっと見で謎の建立物となっている。



六烈士弔霊塔
横川省三の台座のとなりに、六烈士弔霊塔が建立されている。

弔霊塔
大纛斯発軍勢
愈揚偉矣六士
遠人氈郷伐課
不果子涂而僵
一死慘烈千載
流芳神庭山上
建像焚香櫻華
萬朶浴以朝陽
北田親氏誌
遠い地で犠牲となった6人の士(六士)の惨烈な死を悼み、その芳名を後世に伝えるために神庭の山上に像を建て、桜の舞う下で朝陽を浴びて祀っている様子を詠んだ漢詩。
<現代語・意訳>
大本営を進発し、ますます偉大さを高めた六人の士よ。
遠く氈(せん)の郷(北方の異郷・異民族の土地)へ遠征したが、目的を果たせず、その地に倒れ伏した。
その惨烈な死は千年の時を超えて語り継がれ、その香しい名(流芳)は神庭(かみにわ)の山上に残る。
像を建て香を焚いて、桜の花が咲き誇る中で、朝日をいっぱいに浴びて(祀られている)。

六烈士氏名
盛岡 横川省三 四十歳
長崎 沖禎介 二十八歳
延岡 松崎保一 三十歳
宮崎 田村一三 二十四歳
滋賀 脇光三 二十三歳
熊本 中山直熊 十八歳
昭和七年六月二十六日建
山口剛介書
高橋仁助刻
六烈士の名前が刻まれている。

高松池

※2023年8月撮影
場所:
横川省三像(報恩寺)
横川省三像
堀江尚志の作 (原像の鋳型である)
高松公園の神庭山に設置されていたものの鋳型。
戦時中の金属供出で失われ、立派な台座だけが残されている。
未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。
報恩寺(岩手県盛岡市名須川町31-5)
https://maps.app.goo.gl/MR8UX634KjgkKfpz7
沖禎介(青山霊園)
沖禎介(おきていすけ)
1874年(明治7年)6月8日 – 1904年(明治37年)4月21日)
明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。
1904年(明治37年)、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。
横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑される。
墓所は青山霊園(1イ1-41)。
長崎県平戸市の亀岡神社に沖禎介胸像がある。
また、平戸の居宅跡に大イヌマキが残っている。
平戸は将来の訪問のためのメモ、ですね。

沖君禎介之碑
乃木希典の篆書。
明治42年10月の建立。


沖君禎介之碑
殉國志士沖君禎介碑 法學博士戸水寛人譔文
君諱禎介姓沖氏肥前平戸人為人慷慨尚氣節讀書不事章句薄遊東京鬱鬱不
得志乃航到清國北京創私學教育清人子弟會満洲事件我海陸兵陸續北進君
奮然與死士數人變表為喇嘛僧経蒙古入満洲渉幕漠無人之境淩冒氷雪僃嘗
艱苦欲出露軍背後以毀壊鐵路橋梁為哨騎所獲并佗一人押送於哈爾賓君既
被囚禁眠食如平常露人服其膽勇屢以甘言誘降一日間君曰露人在日本犯如
此罪其刑如何曰殺之耳露人曰公若告我以日本事清吾宥公臥君笑不應露人
和君終不可奮乃銃殺之哈爾賓城外其就死露人取白布授君令蔽其眼君摽太
不受神色自若賭者莫不感嘆焉時明治三十七年四月二十一日也年三十有一
父名荘蔵那覇地方裁判所部長判事有二弟曰順次病死曰三雒陸軍歩兵中尉
頃者 官追賞君功授以勲章合祀于靖國神社而有志者又醵金為君建碑徴文
於余嗚呼古來捐身殉國者不為少矣而従容就義遺芳異惑如君者果幾人余雖
不文以與君相識之故不辭而誌之庶幾百垂之下有聞風而興起者矣乎
明治四十年六月 陸軍大将伯爵乃木希典篆額 本田定季書
鱸猛麟刻
<現代語・意訳>
殉国志士 沖禎介之碑
沖君は名を禎介(ていすけ)、姓を沖といい、肥前国平戸(現在の長崎県)の人である。 人柄は気力に溢れ、節義を重んじる性格であった。読書をしても単なる字句の解釈にこだわらず(常に実践を重んじ)、東京に遊学したものの、思うように志を遂げられず鬱々としていた。
そこで清国の北京へと渡り、私塾を創設して現地の若者たちの教育にあたった。やがて満洲事件(日露戦争)が起こり、我が国の陸海軍が続々と北進するに及び、君は奮い立った。決死の志士数人とともに、姿をラマ僧に変装させ、モンゴルを経由して満洲へと潜入したのである。
人影のない砂漠を渡り、激しい氷雪をしのぎ、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦をなめながら、ロシア軍の背後に出ようと試みた。その目的は鉄道や橋梁を破壊することにあったが、敵の偵察兵に見つかり、他の一名(横川省三)とともにハルビンへ押送された。
囚われの身となっても、君の寝食の様子は普段と変わらず平然としていた。ロシア兵はその度胸に感服し、何度も甘い言葉で投降を促した。 ある日、ロシア兵が「もし日本で、ロシア人が同じような罪を犯せば、どのような刑に処されるか」と問うた。君は「ただ殺されるだけだ」と答えた。ロシア兵は「もし公(君)が、日本の軍事機密を我々に教えるならば、命を助けよう」と誘ったが、君はただ笑って応じなかった。
ロシア側も、ついに君の意志を翻すことはできないと悟り、ハルビン城外にて銃殺に処することとした。 死に臨み、ロシア兵が目を覆うための白布を渡そうとしたが、君はそれを投げ捨て、全く恐れる様子もなく、落ち着き払った態度でいた。その最期を見届けた者は、敵味方問わずみな感嘆したという。
時は明治37年(1904年)4月21日。享年31歳であった。 父の荘蔵氏は那覇地方裁判所の部長判事である。二人の弟がおり、一人の順次は病死、もう一人の三雒(さぶらく)は陸軍歩兵中尉である。
このたび、国は君の功績を称えて勲章を授け、靖国神社に合祀した。さらに志を同じくする者たちが寄付を募り、君のためにこの碑を建て、私(戸水寛人)に文章を依頼したのである。
ああ、古来より身を捨てて国に尽くした者は少なくない。しかし、これほどまでに落ち着いて義に就き、異国の地にまでその誉れを残した者が、果たして君のほかに何人いるだろうか。私は文才に乏しいが、君と旧知の仲であった縁から、辞退せずにこの事実を記録する。願わくば、百代の後の人々がこれを聞き、その志に深く感銘を受けることを。
明治40年6月
題字(篆額):陸軍大将 伯爵 乃木希典
撰文:法学博士 戸水寛人
書:本田定季
刻: 鱸猛麟

建碑総代には、「頭山満」も名を連ねている。


※2026年1月撮影
場所:
報国六烈士碑(護国寺)
日露戦争戦後3年の1908年(明治41年)に建立された慰霊碑。
扁額は陸軍元帥・大山巌(日露戦争時は満洲軍総司令官)、撰文は陸軍中将・福島安正(日露戦争時は万種群総司令部参謀)。
六烈士、すなわち横川省三、沖禎介、脇光三、松崎保一、中山直熊、田村一三の6名を慰霊する。
報国六烈士碑
碑文には、青木宣純(日露戦争では満洲軍総司令部付として特別任務班を組織した責任者・最終階級は陸軍中将)、橋口勇馬(日露戦争では満洲軍総司令部付として、馬賊を率いて、ロシア軍の広報を撹乱、最終階級は陸軍少将)、井戸川辰三(日露戦争では兼大本営付、特別任務従軍、満州軍総司令部付、兼新民府軍務官、最終階級は陸軍中将)らによって、烈士たちの功績を不朽のものとすべく建碑した旨、横川班の活躍と殉難、戦後の叙勲や靖國合祀の旨などが記載されている。



撮影:2026年1月
場所:
芳流 烈士脇光三碑
拓殖大学八王子キャンパスにある。
未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。
場所:


