2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)
戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。
目次
歩兵第三十二聯隊
明治29年(1896)に秋田市に聯隊本部を設置。
明治31年(1898)に軍旗拝受。
明治37年(1904)日露戦争に参戦。戦後に、秋田市から山形城に転営。
本拠地にちなみ「霞城聯隊」とも称された。
大正7年(1918)シベリア出兵、大正11年に帰還。
昭和14年(1939)10月、第8師団から満洲で新設された第24師団に所属変更。
昭和19年(1944)満洲から南方戦線に兵力転用となり、歩兵第32聯隊は1個大隊はサイパンに派遣となり、連隊主力は沖縄に派遣となった。
歩兵第32聯隊の沖縄戦
沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。
歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。
歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。
山形歩兵第三十二聯隊之跡
山形城(霞城)に駐屯した歩兵第三十二聯隊

山形歩兵第三十二聯隊之跡
昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会建之



歩兵第32聯隊足跡の大要
聯隊は、明治31年3月24日、宮中にて軍旗を拝受。最上義光公の居城であったこの地に誕生し、國防の一翼を担い、霞城聯隊とも称した。
日露戦争では、明治38年、緒戦の黒溝台会戦に抜群の勲を樹て、勇名を馳せた。
満州事変では、昭和7年、熱河作戦に参加し万里の長城の古北口、南天門等の戦闘で活躍。12~19年の間、満州東部國境の防衛に任じた。
大東亜戦争の戦況急迫に伴い、19年、聯隊は一個大隊をメレオン島に急派、主力は転進して沖縄防衛第32軍の指揮下に入った。
昭和20年3月末から沖縄本島は、圧倒的優勢な米陸海空軍の猛攻を受け、各部隊は勇戦敢闘したが、逐次壊滅、6月23日、軍司令官の自刃により組織的抵抗を終えた。
しかし、我が聯隊だけは、軍旗を奉じ、残存二百五十名が、沖縄南部の國吉台とウテル原台一帯を死守した。8月末終戦の大命を知り、26日夜軍旗を奉焼し翌日聯隊は終焉を迎えた。
ここに恒久平和を願い、聯隊創設以来の戦没者の遺徳を偲び哀悼の誠を捧げる。
平成十九年四月
山形歩兵第三十二聯隊会・関係者一同

建碑由来
霞ヶ城は最上義光の居城にして歩兵第三十二聯隊は明治三十一年三月軍旗親授とともにここに創設され爾来鋭意国防訓練に励み霞城聯隊と称す。
明治三十七八年日露戦役には黒溝台の戦闘に勇名をはせ、大正七年朝鮮守備、同十一年サガレン派遣、こえて昭和七年満洲事変には万里の長城古北口等の戦闘に参加して数々の功績を樹てり、同十二年再度渡満しソ満国境警備の任につき田原山ノモンハン事件に出動し同十六年遂に大東亜戦争を迎う同十九年主力は沖縄本島に転進し歩兵一ヶ大隊をメレオン島に派遣す。翌二十年三月十数倍の敵機動部隊の攻撃を受け勇戦敢闘し多大の損害を与えたるも聯隊もまた死傷続出し将兵の大半を失ない寡兵克く敵の重囲下死闘を続けること五ヶ月余、遂に終戦の大命を拝し同年八月二十八日夜軍旗を奉焼して終る。
ここに異国の丘に眠る幾多戦友の武勲をしのび恒久平和の願いをこめて霞城聯隊跡にこの碑を建て永久に伝う
昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会

歴代の聯隊長
初代 岩元 貞英
二代 安村 範雄
三代 森川 武
四代 高山 公通
五代 山本 延身
六代 森川 武
七代 岡沢 慶三郎
八代 柴 豊彦
九代 大川 盛行
十代 山田 留太郎
十一代 宮地 太郎
十二代 倉茂 三蔵
十三代 堀之内 直
十四代 佐藤 正三郎
十五代 田中 清一
十六代 阿部 規秀
十七代 山本 源右衛門
十八代 野地 嘉平
十九代 川村 脩
二十代 泉 可畏翁
二十一代 北郷 格郎

歴代の知事
初代 三島 通庸
(以下略)

場所:
山形城(霞城・霞ヶ城)
国史跡、日本100名城。
最上義光が整備し、出羽57万石の本城となる。
三の丸の内側の面積は、日本国内で5番目の広さを誇り、奥羽地方では最大の城であった。
最上57万石時代から藩主交代と石高削減に伴い、幕末の水野氏5万石時代には、広大な城を維持するのが難しい状態であったという。
明治に、山形市が城跡を取得し、陸軍を誘致。歩兵第三十二聯隊の兵営となった。




最上義光像

山形城主最上義光顕彰詞







霞城聯隊(山形市郷土館・済生館)
山形市郷土館にある「霞城聯隊(かじょうれんたい)」に関係する展示と解説など。

血染めの桜


霞城連隊の発足
明治時代以降、急速な近代化政策に伴う軍備増強のため、旧山形城内に陸軍が駐屯するなど、山形も国の政策とそれに伴う戦争に巻き込まれていきました。
1894(明治27)年に始まった日清戦争は日本の勝利に終わり、戦後調停された下関条約により、日本は新たな領土と多額の賠償金獲得しました。しかし、三国干渉により遼東半島の返還を余儀なくされ、また本土から離れた台湾統治の必要があり、国内における軍備増強が急務となりました。
そのような背景から、山形県にも連隊が設置されることが決定しました。それを受けて、山形市は旧山形城本丸·二ノ丸の跡地を買収して国に寄付することを決議しました。連隊の誘致が成功し、1897(明治 30)年から駐屯したのが、第八師団管下の歩兵第三十二連隊(通称、霞城連隊)です。
連隊入隊のため、山形県内の青年が二千人近くも山形市に集まり、市経済は大いに潤いました。連隊は、日露戦争で活躍を見せ、その後も朝鮮、樺太、満州に派遣されたほか、ソ満国境にも駐屯しました。太平洋戦争末期には、満州から沖縄への移動を命ぜられ、力戦の末、終戦を迎えました。

日露戦争・血染の桜
1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、しばらくして歩兵第三十二連隊にも出征の要請がかかりました。連隊が属する第八師団は、初め遼陽の警備にあたっていましたが、翌年1月、ロシア軍の攻撃を受け壊滅の危機に瀕していた黒溝台に進軍し、多大な犠牲を出しながらも同地を死守し、日本の勝利に貢献しました。日露戦争の勝敗を分ける要因となったといわれる黒溝台会戦です。
日露戦争終結後も遼東地方で警備を続けた連隊は、1906(明治39)年に帰還しました。生存者の中では、凱旋したら兵営に記念の桜を植えようという話が持ち上がっており、それが実現して植えられたのが、現在の霞城公園の桜といわれます。
日露戦争以前から、連隊のシンボルとなっていた桜の木がありました。「血染の桜」です。この名前は、最上義光が病気を装い、敵対していた谷地(現在の山形県河北町)城主、白鳥十郎長久を山形城に呼び寄せて斬った際に、桜が返り血で染まったという伝承に由来します。戦後、霞城公園内の野球場建設のために移植されて枯れるまで、山形城及び霞城公園のシンボルでした。

第二次世界大戦と山形の生活
1920年代の日本は、第一次世界大戦後の戦後恐慌や昭和恐慌という慢性不況に陥っていましたが、それを打破すべく中国大陸に新領土を求めました。
1931(昭和6)年、満州事変で日中両軍は衝突し、1937(昭和 12)年に日中は本格的な戦争状態に突入しました。満州事変以降、経済統制が進み、日本は軍需·戦時経済へ移行しました。
市内でも軍需産業への転換が起きました。1938年、金属工業の軍需品以外への原材料使用が禁止されると、銅町の銅鉄器鋳物工業は鉄瓶製造を禁止されました。それにより失業した者の一部は、軍需品製造の下請けとして職を得ました。また戦闘機の生産を手掛ける日本飛行機株式会社の山形工場が1942(昭和17)年に設置され、統制経済による地元の廃業失業者を吸収しました。さらに民間の銅鉄器供出も始まり、公共施設の門扉·鉄柵のほか、豊烈神社境内の水野三郎右衛門元宣銅像も供出されてしまいました。
1944年以降、空襲激化により学童集団疎開が進み、山形市は6月30日に東京都豊島区から小学生600名以上の集団疎開を受け入れました。

戦禍を免れた山形市
1945(昭和20年)3月10日の東京大空襲の後、山形市には多くの疎開者が流入し、深刻な食糧不足に陥りました。そのような中で6月29日、山形市上空に初めてB29機が飛来しました。その後7月10日、ついに隣県宮城県仙台市で米軍による大規模な空襲が行われ、山形においても空襲を免れえないという危機感が強まりました。山形市では急ぎ防空壕を作り、分散備蓄や建物疎開を進めました。旧済生館本館は、当時県内で最も高い建物であり、空襲の標的とされる恐れがあったため、最上階部分を撤去し、低くする工事が行われました。
戦時中、現在の市内漆山駅付近(当時は出羽村、楯山村)に設置されていた日本飛行機の飛行場では、市内工場で生産した戦闘機の飛行実験をしていました。それにより、8月9日、米軍による空襲を受けました。
済生館病院の医師看護師たちは、8月15日の終戦を中庭で聞いたそうです。山形市は、無差別爆撃を受けずに終戦を迎えた数少ない県庁所在地です。城下町特融の丁字路やかぎ形路、食い違い道路などが残っているほか、歴史的建造物など文化財も多く残っています。


昭和8年作
七生報国


陸軍用地境界標杭(山形城周辺)
山形城址の北にいくつか境界標杭が残っている。

「四六」とありますね。




場所:

こっちは「四五」



埋もれてますね。



これは?


山形市郷土館・済生館
旧済生館病院本館
1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。
全国的に見ても唯一の明治初年の病院遺構として貴重であり、明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作として、国の重要文化財に指定。
戦後、病院としては役目を終えて、1969年に霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されている。



明治11年(1878年)太政大臣三条実美により「済生館」と命名された。


3層楼なのに実は4層。
1階部は、ドーナツ型。
2階部は16角形の直径10メートルほどの柱のないホール。
トラス構造で、中3、4階を支え、8角形へと楼の形を変え、そして螺旋階段で上階へとつながっている。




1階から





1階から2階への階段


ステンドグラス


3階へは螺旋階段







中庭で終戦の玉音放送を聞いたという。

明治洋風建築系統図
これは興味深い


ローレツ先生
明治に来日したオーストリアの医師。山形県公立病院済生館医学寮に教頭に就任した。


木村逸堂は、明治時代初期に山形公立病院(のちの済生館)で働いていた医師。


場所
霞城セントラル展望台
おー、霞城がよく見える!

済生館

蔵王山もよく見える!

山形駅。四方を山に囲まれているのがよく分かる。

1階には、日本酒の利き酒エリアも!

500円で3コイン、1000円で6コイン


6杯いただきました!

山形駅のうしろに見えるのが、霞城セントラル
※撮影:2026年3月
その4へ(準備中)



