2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)
戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。

日本飛行機山形製作所ゆかりの「日飛神社」(現在は鳥海月山両所宮の境内社の日枝神社)
目次
日本飛行機
日本飛行機(ニッピ)
創業は昭和9年(1934)10月11日。
日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
二代目社長が昭和11年11月から堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉は山本五十六連合艦隊司令長官とは海軍兵学校の同期で無二の親友。
三代目社長は、昭和16年11月から大野寛(海軍中将)、大野氏で終戦となった。
1934年から量産された九三式中間練習機(赤トンボ)の生産を担当。2733機を生産した。
九四式水上偵察機、特殊輸送機(兵員輸送用大型グライダー)、秋水局地戦闘機、彩雲艦上偵察機等を生産。また、九六式陸上攻撃機、零式小型水上偵察機の尾翼や燃料タンク、九九式艦上爆撃機、桜花の主翼など部分品も生産した。
戦後は川崎重工の100%子会社。
日本飛行機山形製作所
1942年7月、従業員3,000人規模で、山形県に「日本飛行機 山形製作所」を開設。
練習飛行場も併設された。
市長のやまがた自慢「日飛神社」
皆さんは、「日飛神社」をご存じでしょうか。多くの方が初耳ではないかと思います。宮町の鳥海月山両所宮の敷地内にある弁天池の傍らに社が2つ並んでおり、その右側が通称「日飛神社(正式には「日枝神社」)」です。
日飛は「ニッピ」と読み、日本飛行機という会社名を略した言い方です。実はかつて山形駅の南側、現在の山形西高等学校周辺に巨大な飛行機の製造工場がありました。戦後、その敷地内にあった社が移され、現在、日飛神社と呼ばれているというわけです。
雇用の確保は戦時期から重要課題だったようで、大沼保吉山形市長をはじめとした企業誘致運動が行われ、日本飛行機の誘致に成功しました。昭和17年3月から海軍の演習機の製造を始め、従業員数が3,000人だったといいますからすごい規模です。
さらに興味深いのが、終戦近くになって当時最新鋭だったロケット戦闘機「秋水」の試作機が、山形で製造されたというのです。ドイツから運び込んだ設計資料を基に、極秘で製造されましたが、実戦に投入される前に終戦を迎えました。大変ミステリアスな話ですね。
戦後、この工場はなくなりましたが、そこで働いていた方の多くが会社を創業し、戦後山形の経済の基盤のひとつとなりました。また、今でも神奈川県横浜市に本社のある日本飛行機株式会社の社員の方が日飛神社にお参りするために山形にお越しになるそうです。
航空機産業も平和産業となり、また、将来の成長産業でもあります。現在、山形市にも航空機関連の部品を製造している企業があり、さらに伸ばしていければと考えています。
両所宮では節分祭、例大祭、たたら・ふいご祭りなど、さまざまな行事も行われます。お越しの際にはぜひ日飛神社にもお立ち寄りいただき、隠れたエピソードに思いをはせてみてはいかがでしょうか。
(広報やまがた平成28年6月1日号掲載)
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/shicho/1006787/1006792/1005475.html
山形製作所は、山形駅の南、鉄砲町に山形西高等学校周辺にあった。
JR北山形駅から北東に約700m進むと、鳥海月山両所宮の境内に1mほどの小さなほこらがたたずむ場所があります。「日枝神社」の名で親しまれる社は、かつて「日飛(ニッピ)神社」と呼ばれていました。
「ニッピ」とは、戦闘機メーカーだった「日本飛行機」のことで、戦前、この場所から約4㎞南にあった日飛山形製作所の敷地内にまつられていた神社です。戦後の工場閉鎖に伴い、山形市宮町3丁目の鳥海月山両所宮の境内に移されました。
戦争の進展とともに市内の工場は厳しい統制でほとんどが破滅に近い打撃を受け、多数の失業者を出すようになりました。市では、軍備工場の誘致運動も積極的に進め、昭和17年3月には、横浜に本社のある日本飛行機が鉄砲町に山形工場を完成し、海軍演習機の製造を開始しました。また、漆山にある山形刑務所の辺りには日飛(漆山)飛行場も整備されていました。日飛工場は、最盛期には従業員3,000人が働くという、山形市としては空前の規模の工場で、ほとんど地元の人が採用されていました。
太平洋戦争末期、幻のロケット戦闘機「秋水」はこの日飛工場で作られていました。
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/495/marugoto-2-10.pdf
山形市の北にあった日飛の漆山飛行場。
漆山飛行場は、1945年8月9日早朝に、連合軍の空爆にて格納庫や滑走路が破壊され使用不能となり、戦後は、山形刑務所となった。
上記サイト「山形市>『ベニちゃんのまるごとやまがた』について(https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kosodatekyoiku/shakaikyoiku/1006733/1004495.html)」から、引用


なお、現在の山形飛行場とは、別。
渋沢社史データベース>
昭和16年(1941)5月
富岡製作所(旧称富岡工場)が、京浜地区に所在することに起因する地域的制限、人的資源確保の困難性、下請工場の不確実等の理由から工場の地方分散を企画し、山形県に山形製作所を開設し、当日その開所式を行なった。山形製作所は、12万坪の飛行場をもつ敷地6万坪の工場で、現在航空局の山形飛行場になっている。
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6910&page=2
現在の山形飛行場(山形空港)は、大日本帝国海軍が昭和19年に造成した練習飛行場。
谷田部航空隊の飛行隊を神町に移し、神町航空隊を開隊している。(神町飛行場)
そのため、日飛の飛行場とは、また別の話となり、渋沢社史データベースでの記載は誤記と思われる。
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M201-73
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

日飛の漆山飛行場界隈を拡大加工



ファイル:USA-M201-23
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

拡大加工

日飛山形製作所

前述の配置図(北を上に回転)も参照まで。

日飛神社(鳥海月山両所宮境内社・日枝神社)
日本飛行機山形製作所内で祀られていた神社「日飛神社」が、鳥海月山両所宮に日枝神社として遷座されている。
現地には、特に「日本飛行機」を物語る掲示などはされていない。




のんびりとした時間、のどかな昼下がり。

鳥海月山両所宮
鳥海・月山の両神を祀る。旧社格は県社。



随神門(山形県指定文化財)


場所
平和の碑(山形市宮町北部班の慰霊顕彰碑)
鳥海月山両所宮のある宮町北部班から出征した戦没者41名の慰霊顕彰及び従軍者の顕彰をする碑。昭和39年5月11日建之。
銘文は、真壁仁(山形市宮町出身の詩人)

われらいくさに従い大陸に海に離島に
身をすててたたかったもの
今ここに石ふみをおこし永遠の平和を誓う
民族の歴史にふかい傷跡を刻んだあの体験を
ふたたびくりかえさないために
無限に貴い人間の生命と生活のよろこびまもるために
不戦のねがいをあらたにする
いのち若くしてあたら戦場の花と散ったつわものたち
深夜の星を仰いで家郷を偲び肉親を思ったそのまなざしよ
けれども死者の聲はよみがえらず痛ましき沈黙に
残されたものの悲しみだけがいつまでもこだまする
いま仰ぐふるさとの空は澄み山は青い
不運の魂をいだく故山の平安よ永遠なれ
真壁 仁

※撮影:2026年3月
その3へ(準備中)



