2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)
戦跡散策として、初の山形市となります。
目次
山形縣護國神社(山形県護国神社)
山形県関係の戦没者40,845柱を祀る。
明治2年(1869年)1月、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀るために山形市八日町に社殿を造影したことに始まる。
明治8年、官祭「山形招魂社」となり、以後は、山形県関係者の戦没者を祀る。
明治22年、山形市宮町に遷座。明治44年の山形市の大火で社殿焼失、大正3年に再建。
昭和9年(1934)に千歳公園内の現在地に遷座。昭和14年に、内務省指定護國神社となり、「山形縣護國神社」と称した。
GHQ占領下の昭和22年から昭和27年は、「千歳宮」と称していた。
現在の社殿は、平成6年(1994)に改築。
山形県内では、初詣参拝客1位を誇る(約13万人)

青銅日本一の狛犬。
平成29年8月15日の終戦記念日に奉納。
高さは7尺(2m10㎝)。


大鳥居から一直線に社殿まで伸びる参道

社号標
山形縣護國神社
陸軍大臣 小磯国昭 謹書
昭和十四年九月十八日
小磯国昭は山形県出身。東条英機の次の総理大臣でもある。



さくら陶板

さくら陶板
靖國神社は令和元年に御創立150年を迎えられ、その記念事業として「さくら陶板」が作製されました。この陶板は47都道府県の土を使い、各地の著名な陶工の方々が奉納したものです。山形県の陶板は山形の土を使い、長井市出身の陶芸家和久井修氏が作成されました。「さくら陶板」には慰霊の心とそれを次世代に伝えることが祈念されております。
和久井氏は当神社にも同じ陶板を奉納したいと希望され、山形建設株式会社の協力により、靖國神社に建立されている陶板と同じく山形県の土を使った「さくら陶板」が奉納されることとなりました。
靖國神社と当神社がこの陶板を通してつながることで、御祭神もお喜びのことでしょう。この陶板を通じて御祭神の慰霊と平和への祈りが届くものと思っております。



社号標
山形縣招魂社
海軍大将 正二位勲一等功二級子爵 齋藤實 謹書
昭和九年十月三十日
昭和九年十月に、山形県招魂社は現在地に遷座している。



御社殿

みたまやすらかに


蔵王山は南東に。(社殿は南面)


山形県護国神社
御朱印

「祈りの塔」
巫女さんの像


祖国の安泰を念じて尊い生命を捧げたご英霊のお陰で今日の平和と繁栄があることを忘れてはなりません。
山形県護國神社 宮司 宮舘厚悦



御本殿

山形県神社庁

「建国記念塔」が境内にあるはずなのだが、あるべき場所に見当たらず。
うーん?
山形招魂社 社号標(薬師公園)
山形招魂社時代の社号標。
大正2年六月建立。
「官祭」の文字は塗りつぶされている。


雪部隊・戦没者慰霊碑(薬師公園)
山形県護国神社には、慰霊碑はなく、隣の薬師公園(出羽国分寺薬師堂・千歳公園)にいくつかの慰霊碑があるので、足を運んでみる。

雪部隊
戦没者慰霊碑
雪部隊慰霊会長
山形県知事 板垣清一郎 謹書



碑文
雪部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
雪部隊は昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。 当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、連合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。 部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。 この島は密林(ジャングル)と湿地帯とそしてマラリヤの猛威をふるう全くの未開地であった。 時既に戦局は我に不利、上陸後戦備を整える暇もなく昭和19年4月頃より敵はサルミ地区に対し圧倒的な空軍と海軍により攻撃を開始して来た。 わが雪部隊はマッカーサーの指揮する南東太平洋方面連合軍をこの地に迎撃して血みどろの激戦となったのである。 日本陸軍でも最強とうたわれたわが雪部隊は、悪条件にもかかわらず、よく善戦奮闘し、遂に敵上陸部隊を撃退したが、物量に物をいわせる連合軍の連日の猛爆撃と艦砲射撃、制空権と制海権を完全に奪われたわが軍は、密林と湿地帯に阻まれて作戦行動ままならず加えて赤道直下の炎熱と食糧不足、マラリヤ、栄養失調、脚気等により悪戦苦闘その極に達し、戦場は正にこの世の生地獄の様相を呈し、生残る戦友数うるに足らず、ワクデ島守備の石塚隊玉砕、そしてまたビアク島の雪3523部隊(葛目聨隊)も玉砕、雪部隊はその主力を失なってしまった。 ニューギニアに上陸した雪部隊隷下の将兵14,000名戦没者11,794名、生存して帰還したる者僅かに2,000余名に過ぎず。
戦後昭和31年(遺族代表神保氏参加)と昭和46年(戦友代表鈴木健三郎氏・中沢農夫氏参加)にニューギニア遺骨収集団が派遣され多数の遺骨を故国に持ち帰ることができたが未だ南海の果、ジャングルの中には無数の戦友の遺骨が眠っている。
九死に一生を得て僅かに帰還したる者われら断腸の思い、誠にしのびざるものある。 山形在住の雪部隊生存者による雪部隊慰霊祭実行委員会が中心となり、寄付を募り再度遺骨収集を計画したが現地政府の許可なく断念するのやむなきに至る。 よってこの地に雪部隊戦没者慰霊碑を建立し、純粋なる祖国愛に殉じた戦友の英霊を慰め心から冥福を祈るものである。
昭和53年9月2日 謹日

異国の地で散華された13,249名の、戦没者名簿、雪部隊史並びに聨隊史をカプセルにし、生存者の赤誠の鎮物として、慰霊碑の奥深きに納め埋蔵し、永久に慰めるものである。
安らかにお眠り下さい。

戊辰薩藩戦死者墓(薬師公園)
山形県護国神社の前身である招魂社は、戊辰戦争での薩摩藩の戦死者を祀ることから始まっていた。

戊辰
薩藩戦死者墓
大勲位公爵 松方正義 書
大正4年11月合葬

戦死者名

出羽国分寺薬師堂(薬師堂)
聖武天皇の国分寺建立の詔により、天平13年(741)の建立に基づく。創建時は酒田の城輪柵の近隣に位置していたが、平安後期以降、国府が内陸の山形市に移転するとともに国分寺も移転。薬師堂が出羽国分寺の後継寺院とされている。

薬師堂
明治初期に山形県会の仮議事堂となり、山形県指定史跡「旧山形県会仮議事堂」でもある。
現在は、柏山寺が管理。


宮城浩蔵顕彰碑
明治大学の創設者


扁額は、西園寺公望
選文は、中江兆民

陣没軍馬慰霊塔(薬師公園)
軍馬を祀る慰霊塔。創建団体や創建時期は不詳という。
建立にいたる銘記や碑誌もなく。

陣没軍馬慰霊塔
陸軍大将 小磯国昭 書
「陣没軍馬慰霊塔」の創建時期は不明というが、ある程度の推測で絞り込みは出来そうだ。
謹書している小磯国昭は、山形県新庄市の出身。山形出身の代表的な軍人として謹書したのであろう。肩書として「陸軍大将」と記載している。小磯は戦後はGHQに拘束され昭和25年に巣鴨拘置所で亡くなっているために、確実に戦前の建立であることは予想できる。
小磯国昭は、昭和12年7月21日に陸軍大将、昭和13年7月29日に予備役に編入となっている。
そして昭和14年に平沼騏一郎内閣の拓務大臣、昭和15年に米内光政内閣の拓務大臣をつとめ、昭和16年の開戦時は満洲移住協会理事長であった。
昭和17年5月29日から朝鮮総督、そして昭和19年に東條英機の次の総理大臣に就任している。
時局や情勢を考えると、昭和12年から昭和16年にかけての建立でないかと推測。朝鮮総督に就任した昭和17年以降は、軍馬のために慰霊塔を建立する時勢ではなく。

東日本大震災後は倒壊の恐れがあり、近づけなくなっている。

今にも飛び出してきそうな躍動感ある軍馬のレリーフ。
取り囲む銘板の刻は判別不能。なにかが刻まれていたかもしれないが。


山形陸軍墓地(千歳山霊苑)
山形陸軍墓地の地。
閉門の為、敷地外から遥拝する。
みたまやすらかに

千歲山霊苑

千歲山霊苑沿革
一、明治二十九年十一月この地に始めて陸軍墓地が設置されました。
一、明治三十九年十一月
日露戦役戦没者墓碑建立
一、昭和八年一月
満洲事変戦没者慰霊塔建立
一、昭和二十七年八月
靖霊塔建立
一、昭和二十八年以後山形県が奉祭維持管理にあたっている。
昭和三十四年三月 山形県

千歲山霊苑の沿革
本霊苑は明治二十九年に設置された旧陸軍墓地であって、終戦に伴い昭和二十年十月陸軍省から大蔵省へ移管さらに昭和二十八年県において無償譲与を受けたものであり、昭和三十四年に名称を「千歳山霊苑」と改め今日に至っている。
霊苑内には、日露戦争戦没者の各墓碑、満洲事変戦没者慰霊塔並に昭和二十七年に県民有志からの寄附と国費、県費を併せて建立した太平洋戦争の英霊分骨約六千柱の納骨施設たる靖霊塔があリ、その後弘前佛舎利塔に納骨されていた日露戦争当時の県出身英霊約二百柱の分骨並びに南方戦域から収集された遺骨を併せ納めている。
毎年四月には県内の戦没者遺族代表参列のもと慰霊条を挙行するほか、彼岸等には供養拝礼式を行うなど県が奉系維持管理にあたっている。
昭和六十三年三月再建 山形県

うーん。開門は「月」「水」「金」のみ。
(訪れたのは木曜日でした、惜しい)

陸軍軍人合葬之墓

陸軍軍人合葬之墓

拓魂碑

靖霊塔

満州事変戦没者慰霊塔は、敷地外からは見えず
盛岡の久昌寺と同じ形状の慰霊塔があるという。
場所
※撮影:2026年3月
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