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東幼観音と東京陸軍幼年学校(八王子)

八王子市長房町地区。
多摩御陵の東側にかつて陸軍の学校があった。

「東京陸軍幼年学校」
学校の近くにある「東照寺」には、当時を偲ぶものがあるというので、脚を運んでみた。


東京陸軍幼年学校

陸軍のエリート養成学校。
前身は明治29年(1896)に設置された「東京陸軍地方幼年学校」。
東京陸軍地方幼年学校では13歳から16歳までの少年が入学し3年間の教育を受け卒業後は「中央幼年学校」に進学しさらに2年間の教育を受け士官候補生となった。

東京陸軍幼年学校
大正9年(1920)に陸軍幼年学校令が制定され、陸軍中央幼年学校本科を「陸軍士官学校予科」に、陸軍中央幼年学校予科を「東京陸軍幼年学校」に改称。
入校年齢は13歳から15歳までで3年間の教育を受けた。昭和12年以降の卒業生は「陸軍予科士官学校」に無試験で進学できた。
昭和19年に早稲田戸山から八王子長房町の「建武台」に移転。終戦に伴い廃止解散。
終戦時には第47期(180名)・第48期(333名)・第49期(362名)の生徒が在学していた。


位置関係

国土地理院航空写真:USA-R556-No1-174より。
1947年11月14日-米軍撮影。

一部加工。
終戦後の写真のため、東京陸軍幼年学校は空襲焼失後。

昭和20年8月2日の八王子空襲によって、東京陸軍幼年学校や多摩御陵前駅が空襲により消失している。

八王子空襲前の航空写真も掲載。
東京陸軍幼年学校の校舎の様子などがわかる。

国土地理院航空写真:94C7-C15-248を一部加工。
昭和19年(1944)12月21日-帝国陸軍撮影。


東幼観音

八王子市長房町に鎮座している「東照寺」。
東照寺の墓地の一角に「東幼観音」が鎮座していた。

東照寺の東側に、現在は長房団地が造成されているが、当時は「東京陸軍幼年学校(東幼校)」が展開されていた。

白玉の東幼観音
八王子空襲で散華した東京陸軍幼年学校の職員3名と生徒7名の計10名を慰霊する。

東幼観音

 この東照寺の東の台地にはかつて東京陸軍幼年学校があったが、昭和二十年八月二日の米軍空襲により大量三万発もの焼夷弾攻撃を受けて全焼した。同校は陸軍の禎榦となるべき将校を養成するために明治三十年東京市谷台に開校、戸山台時代を経て昭和十九年春八王子市西郊に移転していた。
 当時の在校生徒は約八百七十名で、消火に挺身して勇敢に任務を遂行、散華した職員と生徒が芳名碑の方々である。春秋に富み、大きな可能性を秘めた十名であった。この痛恨事を伝え、歳若くして戦死した御霊を末永く供養するため、当寺と地元関係者の御理解を得て、白玉の東幼観音を東方に向けて建立し、謹んで慰霊の誠を捧げる。
 昭和六十二年八月二日
 東京陸軍幼年学校旧職員生徒有志建立委員会
  松本筑放峯書


建武台之碑

東京陸軍幼年学校は市ヶ谷台から戸山台を経て昭和19年に当地「建武台」へと移動してきた。
昭和二十年三月十三日、朝香宮鳩彦王殿下により「建武台」と命名。
この碑はもともとは横山橋の南に建立されていたが、橋と道路の拡張に伴い東照寺に移転されてきたという。
この碑の台座には、東幼本部建物の正面に掲げられていた「菊花 御紋章」と
「校門標札」が埋められているという。

碑文
 この碑の北方約五百メートルの台地に、かつて東京陸軍幼年學校があった。昭和二十年八月二日未明の空襲で職員生徒十名が戦死、校舎は全焼。八月十五日の戦争終結により、五十年の校史を閉じた。
 本校は日清戰争後日本陸軍の中核となる將校を養成するため、明治三十年に東京市牛込区本村町の市ヶ谷台に誕生。大正十年からの戸山台時代を経て、昭和十九年春、南多摩横山村のこの地に移った。約十万坪のこの台上に學んだ生徒は、第四十六期から第四十九期生まで千二十三名。四十六期生卒業式の昭和二十年三月十三日、朝香宮鳩彦王殿下により、建武台と命名された。
 多摩丘陵から健児の雄叫が絶えて三十有六年。國敗れて山河ありとはいいながら、台上は全く変貌した。ここに戰死者の靈を悼み、我々の足跡をとどめるため、柴田孝夫教官のご好意によって碑を建てるものである。
 昭和五十六年八月二日
 東京陸軍幼年学校職員生徒有志
 題字は石橋犀水教官筆

 建武台之碑はかつて長房団地入口の南浅川に架かっている横山橋(御楯橋)の南側に建立されていた。
 その後、道路と橋の拡幅に際し移転の必要が生じたため、東幼校の西側に所在している長房山 東照寺にお願いしたところ、ご好意を頂き此処に移築された。
 この移築により碑文中の「この碑の北方」は「この碑の東方」ということになる。
 東方の大地とは眼下に広がる長房団地一帯のことである。
 なお、この碑の台座に東幼本部建物の正面に掲げられていた「菊花 御紋章」と「校門標札」が納められている。
  平成十六年四月 
  東京陸軍幼年学校職員生徒有志


放鯉記念碑

東京陸軍幼年学校は当地(八王子)に移転する前は戸山台にあった。その戸山台時代の石碑も縁あって当地に移転。

放鯉記
夫レ鯉ハ三十六鱗ヲ有シ龍門ノ水ヲ遡リテ龍ニ化スト云フ
今ヤ母校ヲ去ルニ臨ミ胥謀リテ曰ク我等カ三十六期ニ因ミ彼ノ溌剌タル姿ニ青雲ノ意氣ヲ留メハヤト乃チ鯉魚
三十六尾ヲ日夕我等カ親シメル此ノ琵琶湖ニ放ツ
此ノ學ニ遊フ者樹影ヲ碎キテ游躍シ波紋ヲ眙シテ跳盪スル健鯉ニ我等カ越え聲氣ヲ偲ヘカシ
 昭和十年春三月

放鯉記念碑   
 放鯉記念碑は都内新宿区戸山町にかつて所在した東京陸軍幼年学校を昭和10年3月に卆業した第36期生(陸軍士官学校第51期生)が東幼を卆業するに当り、校庭内の池塘(琵琶湖)に記念として36匹の鯉を放魚
したことを記念した碑である。
 戦後戸山町の東幼校旧地は都営住宅用地となった。琵琶湖はそのまま公園とされたが碑は旧軍の施設ということで撤去を求められたため、此処長房山東照寺のご好意によって移築したものである。
 平成16年4月
 東京陸軍幼年学校第36期生

実は東照寺を訪問した際、東幼観音がどこに有るか分からず墓苑をぐるぐると回ってしまった。性質上、区画から隔離されているかと思ったためでしたが、結果としては普通に墓苑に馴染むように鎮座しておりました。
東幼観音の扉は幸いにして施錠されていなかったため、開扉してご尊顔を仰ぐことができました。拝し終えた後は、もとのように閉扉を。

長房山東照寺(曹洞宗)


十二社神社

東京陸軍幼年学校のあった長房町より南の地に。
八王子市東浅川町の三田公園に鎮座している「十二社神社」という神社が鎮座している。

八王子空襲により東浅川町の十二社神社は全焼、同じ空襲で東京陸軍幼年学校も焼失するも奇跡的に焼失を免れた「東京陸軍幼年学校の神社=雄健神社」の社殿を戦後に奉遷鎮座させて奥殿とした。幼年学校の建造物として唯一のもの。
この奥殿を直接拝むことができるのは5月3日の十二社祭礼「十二社御燈明祭」のときに限られるという。

次回は祭礼の際に「東京陸軍幼年学校時代からの御本殿」を拝みたいものです。

関連

市ヶ谷台

戸山台

振武台

南浅川橋と東浅川駅跡

ドーリットル空襲と東京初空襲の地(荒川区)

都電荒川線「熊野前停留場」、日暮里舎人ライナー「熊野前駅」より北側、隅田川の方に向かって5分ほど歩く。
熊野前保育園の壁に沿って案内板が立っていた。


ドーリットル空襲

昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。

日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

尾久初空襲(尾久本土初空襲)

ドーリットル隊長自らが機長となった1番機は、米空母ホーネットを8時15分に発艦。「十条の東京第一陸軍造兵廠」をターゲットとしたが、目標を外れてしまい早稲田に焼夷弾を4発投下、早稲田中学の学生が直撃弾で死亡している。

2番機のフーバー機は8時20分に発艦。途中で1番機を追い抜き「赤羽の陸軍造兵廠兵器庫」を目指していたが、目標が確認できず、目についた施設「尾久の旭電化工業尾久工場」を爆撃。爆弾は工場をそれて周辺に落下。

大日本帝国「帝都・東京」への最初の投下となった爆撃は、荒川区尾久町であったため「尾久初空襲」とも呼称。尾久での死者は10名、重軽傷者48名、全半焼38棟といわれている。

なお、3番機は王子や川口を爆撃するとともに、葛飾の水元国民学校に対し機銃掃射なども行っている。


東京初空襲の地

真珠湾から4ヶ月後。
勢いを失わない日本軍に対するアメリカ軍が決行した起死回生の一手「ドーリットル空襲」。
ドーリットル爆撃隊による大日本帝国「帝都・東京」に対する最初の爆弾投下が、ここ荒川区東尾久の地となり、この場所が「東京初空襲の地」「日本本土初空襲の地」となった。

東京初空襲の地
 昭和17年4月18日正午過ぎ、日本の本土が初めてアメリカ軍による空襲を受けた。昭和16年12月8日の日本軍の真珠湾攻撃から約4ヶ月後のことである。中でも、最初に被害があったのが、この付近の尾久町八、九丁目で、12時20分頃、ドーリットル隊(ドーリットル空襲)の2番機が爆弾3個と焼夷弾1個を投下した。
 『荒川区史』所収の警視庁警備係の調査によれば、尾久では、死亡10人、重傷34人、軽傷14人、全焼43戸、全壊9戸、半焼1戸、半壊13戸の被害があったという。落下地点では、直径10メートル、深さ5メートルもの穴があき、家屋が倒壊し、上下水道やガス管も破壊された。また、焼夷弾による火災で全焼した家屋もあった。当時、干潮時で、消火に隅田川の水を利用することはできなかったが、地域の人々の尽力により、13時50分に鎮火した。
 この空襲を契機に翌5月には、熊野土地区画整理組合が設立され、電化通りから北側の現尾久橋通りが整備された。
 荒川区教育委員会

爆弾の着弾地点は3箇所。
荒川区東尾久8丁目の熊野前保育園の近くに2箇所、着弾。
荒川区東尾久7丁目のADEKA前に着弾。

着弾地点は、いまは静かな住宅街。


ドーリットル爆撃隊3番機が爆撃目標としたという旭電化工業尾久工場(ADEKA)の方に向かって歩くと、高架の向こうに既視感のある光景が。

これは、、、

付記:TRICK(トリック)の池田荘

ドラマ「TRICK(トリック)」で山田奈緒子が住んでいた「池田荘」。
(実際には「あおい荘」という)


山田奈緒子の池田荘の先に、一際に大きなビルが見える。

旭電化尾久工場跡

かつてこの地には「旭電化工業株式会社尾久工場」があっった。
旭電化工業(ADEKA)は、古河財閥・古河グループの流れを組む企業。大正4年(1915)に、日本のソーダ工業の創業・電解ソーダ法によるソーダ製品製造を目指して創業された「東京電化工業所」に端を発する。化学品・日本の電解ソーダメーカーとしての先駆者であった。

大正7年(1918)に旭電化尾久工場が竣工。
以来、当地は一大化学工場であった。
昭和40年(1965)に工場転出が決定し、昭和52年(1977)に東京都が跡地を買収。

株式会社ADEKA

旭電化工業株式会社は、平成18年に「株式会社ADEKA」に社名変更。工場転出後に敷地を縮小して当地には本社機能と研究機関が残っているのみ。

都立尾久の原公園

旭電化工業尾久工場跡地を東京都が買収。
買収地の西側には「東京都立大学荒川キャンパス」「東尾久運動場」「東尾久浄化センター」となり、東側が「都立尾久の原公園」

都立尾久の原公園は平成5年(1993)開園。

なお、東尾久浄化センター敷地内の土壌でダイオキシン類及び重金属等の濃度が環境基準値を超過という発表もあったり。(化学工場跡地ゆえの因果関係は・・・

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a024/kankyou/kougai/5_30.html

尾久の原公園の水辺の案内
尾久の原公園の水辺は工場跡地に生まれた湿性地の保護に重点を置いて多様な生物生育環境の創出を図るのを目的として、公園の整備をしています。(以下略

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M379-No2-26
1947年07月24日-米軍撮影

上記の航空写真を一部加工
赤星が「ドーリットル爆撃隊2番機」が投下した爆弾着弾地点。


以上、「東京初空襲の地」であり「日本本土初空襲の地」でもある場所の散策でした。


関連

ドーリットル空襲をきっかけに帝都防空の飛行場として突貫工事が行われたのが、「成増飛行場」

昭和17年4月のドーリットル隊B-25爆撃機による東京初空襲から2年半後となる昭和19年11月のB-29による東京初空襲の目的地は「中島飛行機武蔵製作所」でした。

そして昭和20年3月

東京大空襲・慰霊

閘門橋(弐郷半領猿又閘門)

閘門橋というレンガ造りのアーチ橋があるときいて、ちょっと脚を伸ばしてみました。
訪れてみたら、予想以上に素晴らしい橋で、これはちょっと興奮物。


閘門橋

葛飾区登録文化財

1909(明治42)年に完成した閘門橋は、上流と下流の水量を調整して、洪水を防ぐための当時最先端の水門であった。
都内に現存する貴重なレンガ造りのアーチ橋。
レンガは金町でつくられたものを使っている。

閘門橋(明治42年完成)
 閘門橋は、レンガ造アーチ橋としては、東京に現存する唯一の貴重な橋です。
 橋名の閘門というのは、水位・水流・水量等の調節用の堰のことをいいます。
 江戸時代(宝永年間)この辺りは、古利根川(現在・中川)、小合川(こあいがわ:現在の大場川、小合溜)が入り込んだ、複雑な地形を有しており古利根川の氾濫地域でありました。この古利根川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路として閘門と橋が造られたと言われております。
 現在の橋は、明治42年、弐郷半領用悪水路普通水利組合によって「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造アーチ橋が造られました。
 その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割を終え、また隣接する葛三橋(かつみばし)に車道を譲り、歩行者・自転車道に移り変わりました。
 この改修に当たって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました。アーチの橋脚部のブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿です。
 閘門橋は、こうした人々の水との生活史を今に伝えるものです。
  平成2年3月
  東京都

弐郷半領(にごうはん)とは、現在の埼玉県吉川市、三郷市付近のことをいう。橋は東京都ではあるが、建設したのは「弐郷半領用悪水路普通水利組合」。これは埼玉県の水利組合。用悪水路とは用水路と排水路という意味。

土木学会選奨土木遺産
閘門橋 (旧二郷半領猿又閘門)

名称
 閘門橋
所在地
 東京都葛飾区
竣工年
 1909(明治42)年
選奨年
 2013年 平成25年度
選奨理由
 閘門橋は、明治時代に建造された都内に現存する数少ないレンガアーチ橋であり、上流側と下流側でアーチの門数が異なる非常に珍しい構造の橋梁だけでなく、樋門としても貴重な土木遺産であります。

土木学会選奨土木遺産 http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/765

南側の葛飾側より。

「こうもんばし」

「閘門橋」

閘門橋と並走するのは「葛三橋」(かつみばし)
道路は「岩槻街道」。(「日光御成道」の別名。)
大場川にかかる。

シンボルマークは何をあらわしているのだろうか。

モニュメント。

閘門橋の下流側の橋脚部堰柱には「ブロンズ像」が二体設置されてる。
荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿を表現。
なお、ブロンズ像は後世に追加されたもの。

こちらは閘門橋の上流部分。
下流側と比べると静かな水面。

バルコニー(張り出し)部分は後年の増築という。

銘板には「明治42年4月竣工」と記載あり。

北側から。(三郷側)

これは一見の価値あり、です!

場所

こちらとセットで散策でした。

ドーリットル空襲と石出巳之助之墓

ドーリットル空襲

昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本本土初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。

日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

水元小学校と石出巳之助君

昭和17年4月17日(土曜日)
この日は土曜日だったので半ドン、つまり午前中で学校の授業は終わりだった。

4月に入学したばかりの東京都水元国民学校学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君(13歳)たちは午前の授業を終え、12時過ぎに校門を出たところで「空襲警報」が鳴ったという。
空襲警報を聞き、石出巳之助君たちは日頃の訓練どおりに急いで校舎に引き返し教室の机の下に潜ろうと廊下を走っていたところで、B-25の機銃掃射を受け背中に命中。応急処置を施すも、午後2時に命を引き取った。

石出くんを機銃掃射したB-25は、米空母ホーネットを8時30分に発艦したドーリットル隊3番機であった。3番機は水元国民学校に15発の機銃掃射を行ったという。

日本発空襲の被害は、東京だけで死者は39名であった。

翌日の新聞(朝日新聞)は、「鬼畜の敵、校庭を掃射」等、報じている。
また実際にはB-25を1機も撃墜していないが「けふ帝都に敵機来襲 9機を撃墜、わが損害軽微」との報道もなされた。

東部軍司令部発表(昭和17年4月18日午後2時)
「午後零時30分頃、敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり。現在までに判明せる敵機撃墜数は9機にして、我が方の損害、軽微なる模様。皇室は御安泰で渡らせらる。」

石出巳之助之墓

戒名は「悲運銃撃善士」
石出君の死は、軍部による国威発揚に利用されたのだ。

墓前にて合掌。

(表) 石出巳之助之墓
(左) 悲運銃撃善士 昭和十七年四月十八日
(右) 昭和十七年四月十八日
    米國敵機ノ機銃彈ヲ受ケテ死亡ス
    性温和至純至孝身體強健ニシテ
    將來ヲ囑望セラレシニ此ノ災禍ニ遭ヒテ殉難ス 
    享年十四歳
(裏) 昭和十七年八月
    施主 石出文五郎建之

石出巳之助之墓

第2章 葛飾の歴史
第9節 昭和時代

■葛飾区への空襲 :
初めは勝利を重ねた日本でしたが、だんだん負けることが多くなりました。そして、日本は空襲を受けるようになり、沖縄では上陸したアメリカ軍との激しい戦いがありました。

空襲による犠牲者  
 1942(昭和17)年4月18日、東京がはじめてアメリカ軍による空襲を受けました。飛行機が飛んできて爆弾を落とし、空から銃をうったのです。この空襲では、葛飾区も被害を受け、水元国民学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君がうたれて亡くなっています。当日は、土曜日で午前中に授業がありました。家に帰ろうと校門を出たときに空襲が始まり、日ごろの訓練どおりに校舎に引き返しましたが、1階のろう下でうたれたのです。亡くなった後、学校では石出君の写真を校舎内にかかげて、毎朝手を合わせました。  
 1944(昭和19)年にサイパン島がアメリカの手にわたると、そこからくる飛行機による空襲が本格化し、葛飾区でも被害がありました。

葛飾区史(葛飾区総務部総務課)http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-9-4-86.html

上記、葛飾区史(葛飾区総務部総務課)のサイトより写真を引用。

石出巳之助君の墓(1943〔昭和18〕年)
水元国民学校の校舎に残った銃弾のあと(葛飾区郷土と天文の博物館所蔵)
石出巳之助君が亡くなった空襲のときに、学校に残った銃弾による傷です。
なお、砲弾は後日、寄贈されたものです。

石出くんのお墓は「法林寺」にある。

浄土宗寺院の見池山法林寺

総務省>一般戦災死没者の追悼>石出巳之助之墓

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_katsushika_city001/index.html


旧水元小学校

石出くんが通っていた水元国民学校の校舎の一部が今も残されている。
現在は、葛飾区強度と天文の博物館の管理ではあるが、耐震性の問題があり平成28年で「教育資料館」としては閉館。立入禁止となっている。

葛飾区指定有形文化財
水元小学校旧校舎 1棟
 所在地 葛飾区水元4丁目21番1号
 指定年月日 昭和59年(1984)2月27日

 この建物は、水元村立水元尋常高等小学校の増築校舎として、大正14年(1925)7月20日に竣工しました。
 大正12年(1923)に発生した関東大震災の影響で材木が不足していたことから、アメリカから輸入した松材を用いて建築、当時としては構造上の強化も図られています。
 竣工当時は、廊下に沿って4部屋の教室がありましたが、現在の校舎新築に伴い昭和40年(1965)に北側の教室2部屋が撤去されました。この際に発見された棟札には、棟上げ日(大正14年5月16日)の他、当時の関係者の名前が記載されています。その後も、南側の2教室は昭和57年(1982)まで校舎として使用されました。
 昭和58年(1983)に現在地に曳家のうえ、建設当初の状態に復元されて、平成28年(2016)3月まで葛飾区教育資料館として使用されました。
 大正時代に建てられた校舎として貴重なことから、昭和59年2月に、葛飾区指定有形文化財に指定されています。
 葛飾区教育委員会

葛飾区郷土と天文の博物館>旧教育資料館 関連展示

https://www.museum.city.katsushika.lg.jp/exhibition/permanent/shiryokan.php


位置関係

国土地理院
ファイル;C36(8913)-C1-297
1944年10月24日-日本陸軍撮影。

水元小学校が上空からでも目立つのがわかる。
(機銃掃射すべき対象物でないこともわかるはずだが。)

現在の様子。水元公園は戦前は水田地帯であったのが意外。

以上、
ドーリットル空襲と、本土空襲最初の犠牲者の一人であった石出巳之助さんにまつわる話でした。

旧岩淵水門(赤水門)

大正13年(1924)竣工の水門。現在は近代化産業遺産として保存されている。

位置関係

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:USA-M380-30
1947年07月24日-米軍撮影

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT794-C4A-27
1979年11月14日-国土地理院撮影

青水門の建設途中。青水門は1982年(昭和57年)竣工。

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT843-C4-28
1984年10月22日-国土地理院撮影

青水門の運用開始後。昭和59年。

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT921-C1-33
1992年11月02日-国土地理院撮影

赤水門のところが島に。

GoogleMAPを一部加工。
現在の様子。

かつて荒川放水路と呼ばれた人工河川が「荒川」に。
かつての荒川が「隅田川」に。
岩淵水門は、荒川と新河岸川・隅田川の分岐点に当たる。

旧岩淵水門(赤水門)

東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門

 所在地 東京都北区市も5丁目地先
 設計者 青山 士
 建設年 大正13年(1924)

 旧岩淵水門は明治43年(1910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川との分派点に設けた。
 水門はローラーゲート構造で、幅約9mの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103mの大型構造物となっている。本体は煉瓦構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し同13(1924)に竣工した。
 昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により本水門も沈下してきたため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。
 その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982)に約300m下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。

 東京都

旧岩淵水門

旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅が狭く、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口まで約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
現在の荒川と隅田川の分れる地点に、大正5年から13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に作られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
長年、地域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子供たちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。

近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成19年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成20年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩渕水門及び荒川放水路」が認定されました。
このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。

 国土交通省荒川下流河川事務所

岩渕水門改造工事
 竣工 昭和35年3月
 施工 大同機工株式会社

表記が「岩渕」になっていますね。


草刈の碑

赤水門の先の島に、大きな石碑が建立されていた。
全日本草刈選手権大会を記念して作られた碑。

草刈の碑
農民魂は 先ず草刈から

由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。
金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので、有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから、草刈奨励の為め有志相図り幾多の曲折を経て、漸く男女青年団農学校壮年団と四組に分ち、全国に亘って町村大会郡大会都道府県大会と選手を選抜し、最後に全日本草刈選手権大会を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。
鎌を競う選手四万余名、熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なびいて一世の壮観であった。
大東亜戦のためやむなく中止したが、草刈魂を永達に伝ふるため農業国体其他篤志家の寄付を仰ぎ、茲に草刈の碑を建立した。
蓋し農は国の大本草刈、堆肥は土を作る農業の根本だからである。
 昭和三十二年十月
 全日本草刈選手権大会理事長 横尾堆肥居士撰


赤水門の脇に。

攝政宮殿下御野立之跡

大正13年10月25日に荒川放水路通水後の様子を、 
攝政宮殿下(昭和天皇)がこの場所から視察された。

攝政宮殿下御野立之跡
大正13年10月25日


青水門

旧岩淵水門に代わり、新しく建設された水門。洪水時には扉を閉め、荒川から隅田川への水の流入を防ぐ。これより下流が隅田川となる。
昭和57年(1982)完成。


荒川放水路完成記念碑

荒川知水資料館の前に。

此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ 
神武天皇紀元二千五百八十年 
荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ

荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。
荒川下流改修工事事務所主任技師(現 工事事務所長)であった青山 士および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合ったものである。
台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。

銘板に咲く桜草(サクラソウ)模様。

日本の近代化とともに、荒川を抑え込み首都圏の防水をつかさどってきた「岩淵水門」でした。

「陸軍兵器補給廠跡・稲付射場跡」北区西が丘の戦跡散策

赤羽と十条の界隈。
当時の北区は軍事施設の集中地帯であった。

今回は十条の北西側に位置する「北区西が丘エリア」の戦跡散策。
「陸軍兵器補給廠跡」と「稲付射場跡」がこのエリアにはあった。

稲付射場跡

位置関係

国土地理院航空写真:USA-M470-10
1947年09月16日-米軍撮影

加工

拡大

現在の様子。オレンジ色が今回の散策ポイント。

十条駅

十条駅から散策をスタート。
上条駅から南に赴けば、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」関連の戦跡が多数ではあるが、今回は南ではなく北西に。

赤羽火薬庫道

真っ直ぐな道は「陸軍火薬製造所」(のちの陸軍兵器廠東京第二陸軍造兵廠)と「赤羽火薬庫」を結んでいた道。

陸軍境界石(東京第二陸軍造兵廠)

「帝京大学板橋キャンパス」の通りに「陸軍境界石」が横たわっていた。
南は「東京家政大学」、かつては「東京第二陸軍造兵廠」があった。

戦跡密度豊富な南の記録はまたそのうち。今日は、ここより北上します。

折れて横たわったまま固定された「陸軍境界石」(境界標石)

帝京大学板橋キャンパス

そのまま道なりに歩みを進めていく。
稲荷台の交差点を過ぎ、「稲荷台レジデンス」という建屋の前にも、ありました。

陸軍境界石(陸軍兵器補給廠)

北側には、「陸軍兵器補給廠」がある。
この境界石は道に対して背中を向けて「陸軍」文字が刻まれていた。

陸軍境界石(陸軍境界標石)

出入り口脇の標石。なんとなく落ち着かない。

そのまま姥ヶ橋の交差点をさらに北上。

東京陸軍兵器支廠
(陸軍兵器補給廠)

明治19年に設けられた「東京鎮台武器庫」が前身。
のちに「陸軍省板橋兵器庫」となり、昭和3年に「東京陸軍兵器支廠」と改称。
戦後は米軍の兵器補給廠となり、変換後に西が丘町が成立。
現在は跡地に、味の素フィールド西が丘や味の素ナショナルトレーニングセンター、国立スポーツ科学センター、東洋大学総合スポーツセンター、東京都立赤羽商業高等学校、警視庁第十方面本部、西が丘住宅(公務員宿舎)などが展開されている。

東京陸軍兵器支廠跡
(陸軍兵器補給廠跡)

西が丘住宅(公務員宿舎)の手前にちょっとした空間があった。
陸軍兵器補給廠のレンガ(煉瓦)を再利用した広場。

この場所より北側の西が丘エリアに、当時「陸軍兵器補給廠」があった。北端は、「味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)」にあたる。

陸軍兵器補給廠跡のレンガ広場の東側に「稲付射場」があった。


稲付射場(稲付射撃場)

明治38年に「陸軍火工廠稲付射場」設置。
所属は板橋火薬製造所(陸軍砲兵工廠・東京第二陸軍造兵廠)。
火薬火器の爆破や発射の実験訓練場として活用されていた。
戦後は、梅木小ほかに転換。


稲付射場境界塀

唐突に現れる古めかしいコンクリート壁。
稲付射場の境界塀。ところどころ剥がれかかっていた。

一部が民家の勝手口扉になっていた。

鉄筋が見える。

反対側は個人宅。きれいな真っ白塗装。
こちらからは、この壁が戦前からの境界壁には見えない。

稲付射場境界壁は梅木小学校の方まで伸びている。

梅木小学校が「稲付射場」の中心。

学校の境界壁は、往時の「稲付射場境界壁」そのもの。
小学校なので外からチラ見。


陸軍境界石(稲付射場

「陸軍用地」の標石。左部分が欠けていた。現在は小学校の境界であれ、当時は「稲付射場」の境界。

陸軍兵器補給廠跡と稲付射場跡の散策は以上。

このエリアは、見どころ多し。
北部は赤羽エリア、南部は板橋エリアと十条エリアと、当時は軍事施設の集中地帯。


参考

北区平和マップ

https://www.city.kita.tokyo.jp/somu/bunka/gakushu/bunka/documents/attachment.pdf


関連

赤羽台の戦跡散策

赤羽台の戦跡散策

東京都北区赤羽台

軍都赤羽

赤羽台。
現在の赤羽八幡神社の裏手や星美学園、東京北医療センター界隈には2つの工兵大隊が駐留をしていた。
「第一師団工兵第一大隊」と「近衛工兵大隊」、2つの部隊を合わせて「赤羽工兵隊」と呼んだという。

そんな赤羽台と赤羽工兵隊ゆかりの史跡を探して散策をしてみたいと思う。

赤羽招魂社(赤羽八幡神社境内社)

位置関係

国土交通省国土地理院航空写真 ファイル:893-C1-191
1944年9月27日に陸軍撮影

上記を一部加工。クリックで拡大。


赤羽招魂社
 陸軍第一師団工兵第一大隊営内神社

赤羽駅から線路沿いに北上する。
ちょうど線路がYの字に分岐する狭間に鎮座するのが赤羽八幡神社。
その赤羽八幡神社の境内に鎮座しているのが「赤羽招魂社」。このお社は、陸軍第一師団工兵第一大隊の営内神社の流れをくんでいる工兵隊ゆかりの神社。

「営内神社」は、東京の赤羽神社を嚆矢とする。明治三十一年(1898)、東京赤羽工兵隊第一大隊構内に天照大神、歴代皇霊、天地地砥を祀った社祠を設け、将校以下兵士までに拝礼させることにした。これが軍隊内に神を祀った最初とされ、以後全国に広まったものという。(注65)
 (注65)『工兵第一大(連)隊史』赤羽招魂社奉賛会編刊、一九八四年。

営内神社と地域社会 本康宏史
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1654&file_id=22&file_no=1

社号標
正面 赤羽招魂社
右面 營内神社
左面 工兵第一大隊
裏面 明治三十一年四月鎮座

忠魂
工兵第一大隊は皇軍の創設と共に発祥し、明治廿年桜田門より赤羽台上に転営し後聯隊となり、昭和十一年留守部隊に後を託して北満孫呉に移駐。軈て大東亜戦争に際会して遠く南方に転進し、昭和廿年比島にて玉砕して諸兵悉く国難に殉す。この間凡そ六十年赤羽工兵の声価は広く、人口に膾炙し、特に地元に親愛せらる。即ち幾多の当隊編成部隊と共に累次の戦役、事変に出陣し、各地に勇戦奮斗毎に赫々たる偉勲を樹て燦然たる光彩を発揮し又内地に在りては、関東大震災を始め、数次の災害に出動し、警備援護の任を全うし、克く公衆の信倚に応えたり。この間護国の華と散りし、幾百先輩の英霊を祀る営内神社は明治三十一年以来敬仰団結の核心として鎮座し、終戦と共に八幡神社の神域に奉遷、更に赤羽町戦没英霊を合祀して赤羽招魂社と崇め、毎年桜花四月の交慰霊祭を奉仕して今日に至る。然るに兵営の跡既に変貌して旧記念碑亦散逸して往時を偲ぶ由なきを憂い、茲に生存戦友遺族及び地元有志相図りて本碑を社頭に建立し、以て聯隊の功績と先輩の偉勲を顕彰し、永く之を後世に伝えんとするもの也。
 昭和42年4月29日
 赤羽招魂社奉賛会長 大河原 鉄之助 謹書

戦歿英霊合祀
明治十年戦役    27柱
明治二十七八年戦役 52柱
明治三十七八年戦役 238柱
日独戦争      14柱
支那事変      427柱
大東亜戦争     戦没者英霊
赤羽町出身者    戦没者英霊 
公務殉職者     11柱

戦没者神霊
明治十年西南戦役    27柱
明治二七・八年日清戦争 52柱
明治三七・八年日露戦争 238柱
大正三年日独戦争    1柱
大正七年西伯利亜出兵  13柱
大正・昭和演習殉難者  9柱
満州事変・支那事変   465柱
大東亜戦争       5660柱
赤羽八幡神社氏子    92柱
           計6557柱   

戦後50年奉賛会記念事業として玉垣を造成奉納する
 赤羽招魂社奉賛会
   会長 年代 茂
      役員一同
平成9年4月29日
   関係部隊有志一同

工兵第一大隊動員編成野戦部隊
工兵第一大隊
工兵第一連隊
 (以下略

工兵第一大隊の営内神社であった当社は、戦後に赤羽八幡神社に遷座し、地元赤羽の戦没者も合祀し、赤羽招魂社となった。営内神社の歴史から連なる貴重なお社。戦没者の御霊に深く拝する。


赤羽八幡神社

東京都北区赤羽台に鎮座。旧赤羽村の総鎮守。
延暦3年(784)に、坂上田村麻呂が当地に陣を張り、八幡三柱を勧請したことにより創建。

赤羽台の当地の下、正確には赤羽八幡神社社務所の下を東北新幹線が通過している。

赤羽八幡神社の入り口近くに日露戦争の紀念碑が2つ鎮座していた。

日露戦役紀念碑
明治三十七年二月乃十日刀云布日尓天皇乃大詔以上露西亜国止戦乎開幾給比志興里軍人等諸波皇我大命平畏美上海行加波水清久屍山行加婆草生須骸刀御国乃為大君乃御為刀一向尓大和心平振比起之上海外陸尓進美戦比志功波弦久二年尓満多奴尓海陸乃戦波光輝介留終乎曽告介留敵後乃世乃人等乃紀念ホ湿久此郷乃人等乃此御軍尓加波里上忠心平蓋志々大伎功清伎名平萬世末上尓伝辺牟止上哀尓如名平彫刻牟尓南牟

東京帝國大學史科大學講師 佐々木信綱識  弟子朝日重光謹書

 明治39年 赤羽兵事義会々員建立

日露戦役紀念碑
後備陸軍歩兵軍曹沼野佐吉君以明治三十七年六月十四日召集干第一師団司令部命第二兵姑司令部附仝二十日出発東京七月十一日上陸清国盛京省南尖入第四軍戦斗序列爾来或参加千戦斗或従事千兵姑開設十月十日任陸軍歩兵曹長、三十八年十二月十日任陸軍歩兵特務曹長命第四師団第二補助輪卒隊附翌三十九年二月二十六日凱旋第四師団之本営二月三日召集解除為
豫備陸軍砲兵伍長丸峰萬五郎君以明治廿七年二月八日召集干近衛野砲兵聯隊第五中隊二月十一日発東京向戦地二月丗日初鳴緑江九里島之戦而爾来転戦干各處六月一日任陸軍砲兵軍曹七月二十一日苦戦於様子嶺八月廿一日砲撃孟家房之際―戦傷送還千本国既而癒命臨時軍用鉄道監部附復赴清匡廿九年二月廿匹日凱掟於東京召集隼除為

赤羽八幡神社にも拝礼。

高台の神社は鉄道スポットでも有名。

むかし、御朱印と御朱印帳を頂いておりました。
「下元八運」の「8」が、関ジャニ∞ファンにも好評だとか。

御朱印は平成27年ですね。
実はこのころは、ここが陸軍工兵隊ゆかりの神社とは全く知らず、でした。
3年後ぐらいに戦跡としての赤羽八幡神社を知って、そして再訪したというわけです。興味の方向性がどこにあるかで感じることは全く違いますね。

高架線路に挟まれた赤羽八幡神社。


師団坂

赤羽八幡の脇の坂道、赤羽台に登っていく坂を「師団坂」という。文字通り、この坂を登っていくと、坂の上には「近衛師団」と「第一師団」に所属した「二つの師団の工兵大隊」が展開されていた。

師団坂
 この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治二十年(一八八七)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので、坂はつくられました。
 この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は、『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。
 現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。


師団坂通りバス停と星美学園
(陸軍第一師団工兵第一大隊兵営跡)

師団坂を登りきったところに「師団坂通りバス停」があり、そこには「星美学園」がある。
この星美学園の場所に、当時は「陸軍第一師団工兵第一大隊」の兵営があった。

師団坂通り
(共用練兵場跡)

星美学園と東京北医療センターの間の住宅地は、両工兵隊共用で使用していた練兵場であった。突き当りが近衛工兵大隊(現在の東京北医療センター)


東京北医療センター
(近衛工兵大隊兵営跡)

現在の東京北医療センターはかつては近衛工兵大隊の地であった。

近衛工兵大隊ゆかりの石碑群

東京北医療センターと赤羽台さくら並木公園との境目あたりに、木々に埋もれるようにして、4つの石碑が集められていた。

(表面)
御幸松
(裏面)
大正4年乙卯夏6月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武謹識

(表面)
白楊坐記
 (漢文略)
大正9年4月7日
(裏面)
近衛工兵大隊第三中隊大正6年兵
満期除隊者植白楊樹三百株
并36名各刻碑面文字

(表面)
澄宮
御手植松
(裏面)
昭和2年5月2日
近衛工兵大隊長?原允長謹識

澄宮とは 三笠宮崇仁親王のこと。

(表面)
皇太子殿下
御手植松
(裏面)
大正4年5月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武建之
 陸軍工兵二等卒重田昌司謹刻

ここでいう皇太子殿下とは、のちの 昭和天皇

近衛工兵大隊時代の石碑がこの一箇所にあつめられていた。それぞれ御手植碑だったり植樹碑だったりするが、その肝心の木々はどこにあるのだろうか。


陸軍境界石(陸軍境界標石)

東京北医療センターの東南、赤羽台さくら並木公園の北東
ごみ集積場の陰に隠れるように石柱が残っていた。
近衛工兵大隊の境界石。

陸軍用地


赤羽台さくら並木公園
 (射撃訓練場跡)

この細長い公園は当時は射撃場であったという。

防空壕跡

当時は射撃場があった赤羽台さくら並木公園の中に、ひっそりと残されていた防空壕。


浮間橋

北赤羽駅ちかくの浮間橋まで移動。

新河岸川にかかる浮間橋の脇に、近衛工兵大隊にちなむ石碑が残されている。

当時の浮間地域は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得ない場所でした。
そこで浮間地域の人々が、建設費用として6,000円を用意し橋の建設を「近衛工兵大隊(近衛師団工兵隊)」に相談。そうして昭和3年(1928)5月に木造の橋が完成したことを記録する石碑。
当時の6,000円は1000万円ぐらいか。

浮間橋の碑
北区浮間1-1(左岸)
 荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治43年(1910)8月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。
 改修では、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
 しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年(1928)5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
 橋は昭和9年(1934)に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和60年(1985)9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
 地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝えています。
 平成8年3月(平成17年一部改訂)  
  東京北区教育委員会

旧浮間橋建設記念碑

浮間橋
郊外浮間里有名櫻草鮮
北方隔水路對横曾根邊
西南挟清流望志村翠煙
曩離北足立新併合岩淵
此地如孤島交通常乗船
憂慮萬一事頻希架橋便
里民咸應分醵出金六干
本町請軍衙以實情開陳
近衛工兵来施工盡力研
今日橋梁成如長蛇横川

昭和三年四月二十六日
建於岩淵町大字浮間
小柳通義撰文併書

旧浮間橋建設記念碑が国鉄建設工事に伴い、移設されることになり
国鉄当局と地元代表との話し合いの結果、新幹線工事完了の暁、新浮間
橋際に建設されることになった。
今般旧浮間橋建設記念碑移設工事が完了したことを記念した碑を立てる。
 昭和60年9月 浮間橋記念碑保存会

当時の浮間地域の人々の架橋の思いと近衛工兵隊への感謝が込められた石碑は橋は変われど、今も浮間橋の脇で大切にされておりました。

赤羽から北赤羽へ工兵隊を廻る散策から、ちょっと南の方に足を伸ばしてみます。


陸軍火薬庫の陸軍境界石

東京都北区桐ケ丘。都営桐ケ丘アパート界隈。
「近衛工兵隊」の南、前述の位置関係では「作業場」の南西に「陸軍火薬庫」があった。
その陸軍火薬庫のあった場所に残る「陸軍」と銘のある境界石は電信柱の後ろに隠れるように残っていた。


師団坂・軍用鉄道のあったエリアの南側

陸軍被服本廠の陸軍境界石 

陸軍被服本廠は大正8年(1919)に本所から赤羽台に移転してきた。本所の跡地は関東大震災で大惨事となりのちに東京都慰霊堂が建立された。
赤羽台の陸軍被服本廠は、戦後は米軍東京兵器補給廠所属地となり米軍住宅赤羽ハイツが建設。変換後は赤羽台団地が造成。また小中学校も建設された。そのときに建設された赤羽台中学校も廃校となり、跡地には「東洋大学赤羽台キャンパス」が開設。東洋大学赤羽台キャンパス北側の墓地ちかくに「陸軍用地の境界石」が残されていた。

東京大空襲・慰霊

陸軍兵器補給廠線跡(軍用線路跡)

再び赤羽八幡神社に。
この赤羽八幡神社の参道からナショナルトレーニングセンターまで、かつて軍用鉄道が走っていた。

北区赤羽緑道公園
(陸軍兵器補給廠線跡)

巨大な構造物。なんとなく鉄道があったことをイメージさせる。

遊歩道は線路をイメージ

鉄橋ぽいのも。

赤羽緑道公園から赤羽自然観察公園を抜け、住宅地の先に、赤羽リハビリテーション。その先には国立西が丘サッカー場。

味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)や味の素ナショナルトレーニングセンターのある界隈が、かつての「陸軍兵器補給廠」

このさきには、「東京陸軍兵器補給廠」があり「陸軍稲付射場」もある。そして、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」という大きな見どころがあるが、それはまた別の記事にて。

関連

旧大井町変電所

品川区

JR品川駅とJR大井町駅の間に。京浜東北線に乗っていると車窓から見えるレンガ造りの建物が目に付き、気になったので脚を運んでみました。

旧大井町変電所(JR東日本)

竣工は大正3年(1914)という。
大正3年(1914)12月20日に東海道本線の起点として東京駅が開業。
東京駅-高島町駅間で電車運転(京浜電車、現在の京浜東北線)開始に際して変電所設置。

※初代横浜駅 → 現在の桜木町駅
 2代目横浜駅 → 高島町駅 →廃駅(現在の高島町駅付近)
 3代目横浜駅 → 現在の横浜駅

現在は、株式会社JR東日本運輸サービス山手事業所として現役で使用されている。

以下はGoogle航空写真

大正3年以来、100年以上に渡り現役で使用されている建屋。

海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)


歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。


そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


関連

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。


平和観音と平和島(大森捕虜収容所跡)

大森捕虜収容所跡地に建立された平和観音

平和島は、昭和14年(1939年)1月31日に京浜第2区埋立地として免許取得。東京都が事業主体として埋め立てを開始。

しかし、埋め立ては第二次世界大戦により一時中止。

戦時中は、埋め立てが進んでいた一部(現在の平和島一丁目付近)にアメリカ合衆国などの連合国側の捕虜を収容する場所(東京捕虜収容所)が設けられた。そのまま戦後は、東條英機ら戦犯の一時収容所にもなっていた。

そのような経緯から、平和への祈りを込めて「平和島」と呼称されるようになり、昭和42年(1967年)7月18日に埋立人工島「平和島」が竣工。同年9月に東京都大田区に編入され10月に町名が「平和島」に確定する。

東京俘慮収容所(大森捕虜収容所)

東京俘虜収容所(東京捕虜収容所)
昭和16年(1942)9月25日開設。
当初は品川区東品川3丁目の京浜運河建設事務所の建物を流用して「品川俘虜収容所」として9月12日に開設。9月25日に東京俘虜収容所本所と改称。
昭和17年(1943)7月20日、現在の平和島に移転。当時の住所は大森区入新井町の東京第2埋立地。
終戦時収容人員606人(米437、英115、蘭28、他26)、収容中の死者41人。

戦後は、東條英機をはじめとするA級戦犯が、 巣鴨刑務所に移送されるまでの間この収容所に収容。
横浜BC級裁判では、初代本所長鈴木薫二大佐、 2代目本所長酒葉要大佐ともに死刑判決。(両者ともに巣鴨で獄死)

参考:POW研究会
ttp://www.powresearch.jp/jp/archive/camplist/index.html

位置関係

国土地理院航空写真「USA-M58-A-6-135」(1946年2月28日-米軍撮影)より。
埋め立ては陸地側の一部分のみで、そこに大森捕虜収容所が設けられていることがわかる。

その後、平和島は埋め立てが進み、昭和57年(1982)の「平和の森公園」の開園でもって、陸続きとなった。


平和観音

大森捕虜収容所 跡地に建立された「平和観音」
平和島劇場の前、ボートレース平和島の隣に鎮座している。
このあたりが、かつての大森捕虜収容所跡地。

平和観音由来記
 昭和三十五年七月十九日 建立 
  長沼孝三 作

人類最高の希いは「平和」であります。そして平和を祈り念ずる心が宇宙の慈悲をもとめます。地上永遠の平和を祈り続ける為に平和観音の建立を思いたったゆえんが此處にあります。
観音さまは人類の誠のねがいをきいて、いちばんよい方法でおすくい下さる佛さまであります。佛さまとは宇宙不変の理をあがめたお姿であり、その理をさとって大きな力を得た方の呼び名であります。
佛さまのなかで観音さまは災禍に苦しむ人々に宇宙の慈悲を示してすくいの手だてをとって下さる菩薩であります。
平和観音像が建立された平和島はさきの大戦中相手国の俘虜収容所があった處、戦後はわが国戦犯が苦難の日々を送った請わば「戦争と平和」の因縁の地であります。
大慈悲の御姿を建立して、地上変わることなき平和を念ずる一人一人の小さなまごころからの祈願をみのらせ給え。

平和観音の隣では、猫さんがお休みをされておりました。

ボートレース平和島
かつて、この界隈に大森捕虜収容所があった。


いわゆるA級戦犯と呼称された昭和受難者の方々は、大森捕虜収容所から巣鴨拘置所・巣鴨プリズンへ移送される。

東条英機邸跡

「明治の工業の父」近代硝子工業発祥之地と西村勝三墓

品川の東海寺大山墓地の入口にある史跡。
「史蹟 官営品川硝子製作所跡」「近代硝子工業発祥之地」

日本の近代ガラス工業は、この品川からはじまったのだ。

史蹟 官営品川硝子製作所跡

近代硝子工業発祥之地

明治維新後の文明開化に伴い、莫大な輸入超過に陥っていた明治政府は、西洋技術を取り入れて産業の国産化を目指していた。

明治6年(1873)太政大臣三条実美は、家令丹羽正庸の提案により、東海寺境内に日本初の板ガラス製造工場「興業社」を設立するも失敗。

明治9年(1876)、工部省」は興業社を買収し、官営「品川硝子製作所」として再生。産業育成と技術者養成を目的とし、赤字覚悟の出資をすすめ、ガラス製造や洋食器の製造を推進。

明治17年(1884)、大量の在庫をかかえ、板ガラス製造に失敗し経営不振が続いていた明治政府は、「品川硝子製作所」を西村勝三に貸し下げ、翌年には払い下げを行い、民営工場となる。

明治21年(1888)に、「品川硝子製造所」は業務拡張に伴い「品川硝子」として新たに発足。麒麟麦酒の発売に伴い、日本で初めてビール瓶の大量生産を手掛ける。
しかし世界恐慌と板ガラス製造失敗の影響により、明治25年(1892)11月に解散。
品川硝子のガラス工場としての命運は20年でしかなかったが、この工場が日本のガラス産業に与えた影響は大きく、のちに日本初のステンドグラスを製造した岩城硝子(iwaki/AGCテクノグラス)の岩城滝次郎や、品川硝子では完成できなかった日本初の板ガラスの商品化を明治35年に完成させた島田硝子(東洋ガラス)の島田孫市も、この品川硝子の出身者であった。
当時の品川硝子のレンガ造りの建物は愛知県の明治村に移築されている。

近代硝子工業發祥之地
 此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三條實美ノ家令丹羽正庸等ノ發起ニヨリ我國ニ始メテ英國ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ廣大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル
 然ルニ最初ハ技術至難ノタメ經営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官營ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民營ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ己ムナキニ至ツタ
 其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開發ニ貢獻シ本邦硝子工業今日ノ基礎原動力トナリ我國産業ノ興隆ニ寄與スル所顧ル大ナルモノガアッタ
 吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ圖ッタガ會々此ノ擧ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ツテ今茲ニ由緒アル發祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ傅フルヲ得タノデアル
 昭和四十年十二月

品川区指定史跡
官営品川硝子製造所跡
  所在 北品川四丁目十一番五号 三共株式会社
  指定 昭和五十三年十一月二十二日 (第八号)
 日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(一八七三)に東海寺境内に創設された興業社である。
 興業社は、明治九年(一八七六)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり、全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(一八八五)には西村勝三 らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(一八九ニ)に解散した。
 昭和三十六年(一九六一)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は、明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。
 平成六年三月三十一日
  品川区教育委員会

珪石 ガラス原料

西村勝三

「明治の工業の父」「製靴業の祖」とも称される西村勝三(1837-1907)

  • 明治3年、日本初の西洋靴を制作(伊勢勝造靴場)
  • 明治4年、日本初のニット工業機械編み(靴下)の製造開始
  • 明治5年、日本初の近代クラブを開設(ナショナル・クラブ)
  • 明治8年、耐火煉瓦の製造開始(品川白煉瓦)
  • 明治21年、日本初のビール瓶大量生産(品川硝子/麒麟麦酒向け)

西村勝三は、天保7年12月9日(1837年1月15日)佐倉藩支藩の佐野藩付家老の子として生まれる。兄はのちに貴族院議員となる西村茂樹。
佐野藩で砲術助教を勤め、幕府の海軍伝習所へ応募するも不合格となり脱藩。幕末の動乱のなかで銃砲弾薬商として銃器の売買を行うなかで実業家へと目覚めていく。
慶応元年(1865)、日本橋に鉄砲店を開業。屋号を「伊勢屋」とし伊勢屋勝三と改名。幕府側・幕臣にしか銃を売らないことが大村益次郎の目にとまり、大村益次郎の信頼を得る。

明治3年(1870)、かねてより懇意であった大村益次郎に軍政改革の一環として日本人向けの西洋靴の開発相談を受けていた勝三は、日本人の脚にあう西洋靴の開発に成功し、東京築地に近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を開業。この開業日3月15日は「靴の記念日」となっている。また靴工場とあわせて「伊勢勝製革所」も開設。

大村益次郎は日本の近代靴が大量生産される前に、明治2年11月5日に不慮の死を迎えてしまう。大村益次郎が目指した軍政改革は着実に進み、「伊勢勝造靴場」の軍靴は明治22年に陸軍省検査合格品となり、日本の軍靴は舶来靴全廃へと繋がり、「伊勢勝造靴場」は一躍発展をしていくことになる。
「伊勢勝造靴場」は、明治17年に西村勝三の出身地であった佐倉から「佐倉組製靴」と改称。
明治35年に「伊勢勝造靴場」は「日本製靴株式会社」となり、現在の「株式会社リーガルコーポレーション」へ。
明治40年に「伊勢勝製革所」は「日本皮革株式会社」となり、現在の「株式会社ニッピ」へ。
いずれも西村勝三が創業したニッピとリーガルコーポレーションは、今も相互がそれぞれの筆頭株主の関係。

明治4年(1871)、西村勝三が数台の編機を輸入して、メリヤス(靴下)を製造したのが、日本におけるニット工業機械編みの始まりでもあった。

明治5年(1872)、西村勝三はヨーロッパのクラブを模範とし、築地に開設した「ナショナルクラブ」が日本におけるクラブの最初という。

明治8年(1875)、いくつかので成功をしていた西村勝三は、文明開化の象徴であった「瓦斯燈(ガス灯)」のためのガス発生炉用耐火煉瓦を国産品で賄うために、東京芝浦に「伊勢勝白煉瓦製造所」を設立。
明治17年「官営品川硝子製作所」の払い下げを受け、明治20年に品川硝子製作所に「品川白煉瓦」を移転設立。(白煉瓦とは耐火煉瓦のこと。建築用煉瓦は赤煉瓦と呼称。)
品川白煉瓦は、耐火煉瓦の国産化をすすめるとともに、建築用の装飾煉瓦も製造し、東京駅の赤レンガ外壁部を品川白煉瓦が納入している。(構造部の煉瓦は日本煉瓦製造株式会社・深谷市。平成24年の再建時のレンガはLIXILが納入。)
品川白煉瓦株式会社は、現在の「品川リフラクトリーズ株式会社」

明治9年、東京瓦斯局副事務長に西村勝三が就任。事務長は渋沢栄一。ガス事業は東京府から明治18年に民間に払い下げられ、現在の東京ガス株式会社へ。

明治40年、盲腸炎がもとで逝去。享年72歳。明治の近代化経済を支えた男は、東海寺大山墓地に墓所がある。
また、出身の佐倉市の佐倉市民体育館前に銅像もある(未訪問)

西村勝三墓

墓はガラス工場とゆかりのある品川東海寺大山墓地にある。

 

西村勝三に関しては、以下のサイトが良くまとまっている。

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-01-31-001/

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-03-19-001/

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-05-09-001/


靴業発祥の地

明治3年(1870)3月15日に、西村勝三が日本初の近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を創建したのが、この地であった。現在の地下鉄有楽町線の新富町駅・7番出入口の隣。

靴業発祥の地
 明治三年(一八七〇)三月十五日、西村勝三が 伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町五丁目一番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫並びに渋沢栄一の支援を得て靴工業を創成しこれを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業の原点であるのでこゝに建碑事績を記す
  昭和六十年(一九八五)三月十五日
   日本靴連盟
    題字 堀田正久 書


銅像堀公園

かつて、西村勝三の像が隅田川の近くの公園にあったという。
明治40年に、功績を讃えて銅像が建立されたというが、戦時供出で撤去され戦後に石像が再建されるも昭和40年に撤去され、今は銅像があった名前だけが残っている。

https://goo.gl/maps/WrmnXTUsZmK9JSVx5


東海寺大山墓地

なお、東海寺大山墓地には、沢庵和尚や賀茂真淵の墓もあるので、簡単に写真だけご紹介。

沢庵和尚 沢庵墓


賀茂真淵墓

荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに国学の四大人のひとり。


東海寺大山墓地にある井上勝墓は別記事にて。

「日本の鉄道の父」井上勝像と井上勝墓

東京駅丸の内駅前広場北西端に井上勝像がある。

井上勝

天保14年8月1日(1843年8月25日) – 明治43年(1910年)8月2日
長州藩士。政治家。正二位勲一等子爵。
鉄道庁長官などを歴任し日本の鉄道発展に貢献。「日本の鉄道の父」と称される。
墓所は東海寺大山墓地。鉄道記念物指定。

井上勝像

1914年(大正3年)に、本山白雲(代表作は坂本龍馬像)の原型制作により東京駅丸の内側の駅前広場に銅像が設置。
しかし戦時中の金属供出に伴い撤去。
のち井上勝の没後50年を機に、1959年に朝倉文夫の制作により再建。

その後工事での一時撤去もありながら、1987年からは東京駅正面から皇居を向く形で立ち2007年には東京駅復元工事に際し一時撤去され、2017年12月7日の駅前広場リニューアルに伴い初代像の位置に近い駅前広場の北西端から駅舎中央を向く形で再設置された。

建立時の銅像身長は12尺5寸、台座の高さは24寸5寸。
1914年(大正3年)12月6日に銅像除幕式が執り行われた。

正二位勲一等 子爵 井上勝君像

君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃
而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云
大正3年11月建

大正3年11月  建立
昭和34年10月 再建
昭和38年4月  移転
平成29年12月 移設

井上勝像の後方は、一部が保存された「日本工業倶楽部会館」(大正/1920竣工)

井上勝像の先には、東京駅。


東京駅から品川駅に。
南側の東海道新幹線や山手線や東海道本線がちょうど分岐するあたりの場所に東海寺大山墓地がある。そこに井上勝墓がある。

井上勝墓

(表)
正二位勲一等 子爵 井上勝

子爵夫人 井上宇佐子
故陸軍工兵大尉 正五位勲五等 井上亥六

(裏) 
明治四十三年八月二日 薨

明治四十年一月五日 逝
明治三十九年五月二日 逝 

初代鉄道頭
井上 勝 1843(天宝4)年~1910(明治43)年
”鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年 井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。

鉄道記念物 井上 勝 墓
昭和39年10月14日指定
 建植年月日 平成10年10月14日
  東日本旅客鉄道株式会社

井上家祖先之墓

井上勝墓のすぐ脇を、東海道新幹線や山手線・横須賀線・京浜東北線・東海道本線、そしてリニア中央新幹線などが通過する鉄道大動脈となっている。

ちなみに余談ですが、井上勝墓の向かいには、島倉千代子墓がある。未撮影ですが。
そのほか、東海寺大山墓地は、沢庵和尚・賀茂真淵・渋川春海・西村勝三の墓がある。


新幹線の父

地下鉄の父

元町公園-震災復興公園(文京区本郷)

大正12年(1923)の関東大震災ののち、帝都復興院総裁となった後藤新平が中心となって、地震発生時の防火帯設置を目的とした公園の確保が重要視されることとなった。

震災復興三大公園として「隅田公園」「浜町公園」「錦糸公園」が設置。
また、昭和5年(1930)に完成した横綱町公園には震災記念堂と震災記念館が建設された。

東京市公園課長に就任した井下清は、52箇所の東京市立公園を設計。小学校を不燃化・耐震化させた鉄筋コンクリート校舎とし、小公園を併設することにより防火帯と避難設備の役割を担った。
この井下清が設計した小学校とセットとなった小公園が東京市内52箇所に設置され「震災復興52小公園」となる。

戦後の再開発で当時の「震災復興公園」は消滅や縮小などもあり、往時の姿を完全に残すものはない。
今回訪れた「元町公園」は昭和57年(1982)に原型に忠実な改修が行われたことにより、開園時の井下清の設計思想を伝える小公園として復元をされている。


元町公園

昭和5年開園。設計は東京市公園課長の井下清。
モダンデザインな擁壁や壁泉、太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)、左右対称の2連式滑り台など、当時の特徴的な様式を伝える小公園。

正門

文京区立
 元町公園

開園年月日
 昭和5年1月25日

壁泉

カスケード(水階段)

トイレ建屋もモダンな雰囲気

裏門

滑り台と砂場はシンメトリーなデザイン

全体的にモダンな空間

公園を見守る鷲像

旧元町尋常小学校

元町公園の隣には、元町小学校があった。
関東大震災で建て替えられた復興小学校の一つ。
昭和2-3年頃(1927-8年頃)竣工という。
1998年(平成10年)3月31日で閉校。

現在、文京区は旧元町小学校の整備と元町公園との一体的活用事業をおこなっており、学校法人順天堂を軸に保全整備が行われることになっている。

東京大空襲・慰霊

汎太平洋の鐘と南洋群島平和慰霊像(源覚寺)

東京都文京区小石川
源覚寺

「こんにゃくえんま」(こんにゃく閻魔・蒟蒻閻魔・身代わり閻魔)で知られる小石川の「源覚寺」に、サイパンゆかりの釣鐘があると聞き、足を運んでみました。
後楽園駅・春日駅のすぐ近く。

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

1690年 元禄3年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納された。
1937年 昭和12年 サイパン島南洋寺に転出、南太平洋にひびきわたる。
1944年 昭和19年 サイパン島軍民玉砕して、以後消息不明となる。
1965年 昭和40年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
          発見者 ミツエ・ヘスター
1974年 昭和49年 カリフォルニア州オークランド市居住 D.V.クレヤー氏によって、サンフランシスコさくら祭りに展示され、その後当山に寄贈される。

元禄3年(1690)に鋳造された釣り鐘が、昭和12年(1937)にサイパン島の中心都市(「南洋の東京」とも呼称)であったガラパン郊外に建立された「南洋寺」(浄土宗 多寶山 南洋寺)に転出。

南洋寺は、現在の「フィエスタリゾート&スパホテル」あたりに鎮座しており、リゾートホテル南東に、往時の「南洋寺門柱」が残っているという。

https://goo.gl/maps/LU7HSQePQuP1Gdvy7

昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。
ガラパンの街も荒廃に帰し日本軍民は玉砕。

サイパンの激戦を物語る銃痕跡


南洋群島物故者慰霊像

第二次世界大戦において、サイパンをはじめとする南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像

合掌

南洋群島物故者慰霊像建立の趣旨
 かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために、南洋群島とゆかりの深い此の源覚寺境内に遥拝所としてこの慰霊像を建立したものである。
  昭和50年7月18日
  財団法人 南洋群島協会

慰霊像の脚下には、南洋諸島を思い起こさせる貝殻…

歌碑
 サイパンの夜のしじまの洞窟に
  ねむりしあらん友をしぞ思ふ

汎太平洋の鐘 と 南洋群島物故者慰霊像 


鎮魂 南洋諸島海没者 慰霊碑

南洋諸島海没者
亜米利加丸 494名
千代丸 97名
白山丸 277名
赤城丸 512名
泰南丸 1名
総洋丸 7名
龍田川丸 2名
ぱたびあ丸 18名
ぶらじる丸 1名
青森丸 4名
門司丸 5名
神島丸 54名
第三大栄丸 43名
美山丸 27名
ジョクジャ丸 7名
広順丸 15名
三池丸 7名
靖国丸 6名

総計 1,580名

平成20年8月吉日
南洋群島在島者有志


第十四期飛行予備学生記念碑

第十四期飛行予備学生記念碑

雲ガハシル
 学徒ガ征ク
  空ニ
同期ノ華
 参千六百

 昭和63年戌辰8月15日建立
  廿四世徳誉叢願 廿五世真誉代


源覚寺

浄土宗 常光山 源覚寺
通称「こんにゃくえんま」
寛永元年(1624)に創建。
小石川七福神のひとつでもあり毘沙門天を祀る。

こんにゃくえんま像は鎌倉時代の作と推定。文京区内で最も古い仏像に属しており文京区市指定有形文化財。


都内には、サイパン観音もあります。

いつの日か、サイパンへ慰霊に訪れることは出来るだろうか・・・

旧・醸造試験所第一工場

国指定重要文化財(建造物)

王子駅から飛鳥山・音無橋の方へ歩いていくと、赤レンガの建物がみえてくる。

旧醸造試験所第一工場
(通称・赤煉瓦酒造工場)

国重要文化財(建造物)
明治35年(1902年竣工)
明治37年5月に創設された大蔵省醸造試験所の清酒醸造試験工場として設立。
設計は、明治三大建築家のひとり、妻木頼黄。
大蔵大臣所管としてはじまった国立醸造研究所は平成13年(2001)に、独立行政法人酒類総合研究所へ移行。2015年に東京事務所を本部(東広島市)に統合。

醸造試験所跡地公園は、醸造研究所が広島県に移転したことに伴い、その跡地に設けられた公園。
跡地公園からも外観を見ることはできるが、秋の東京都文化財ウェークや不定期に開催されるイベントの際には内部に入ることも可能。

国指定重要文化財(建造物)
旧醸造試験所第一工場
 北区滝野川2-6

 醸造試験所は、醸造方法の研究や清酒の品質の改良を図ること、講習により醸造技術や研究成果を広く普及させることなどを目的に設立された国の研究機関です。創立は、明治37年(1904年)5月で、酒税とも密接なかかわりを持つことから、大蔵省が所管することになりました。
 醸造試験所が設置された場所は、幕末に滝野川大鳳製造徐が置かれた敷地の一部で、水利が良く、王子停車場(今の王子駅)も近いことなどから「まことに得難き好適地」として選定されました。
 第一工場は、試験所の中核施設として、蒸米、製麴(せいきく)、仕込み、発酵、貯蔵などの作業が行われていました。建物の設計および監督は、、大蔵省技師の妻木頼黄(つまきよりなか)が担当しています。一部三階建、地下階に貯蔵室を持つ煉瓦造りで、外観を化粧レンガ小口積みとし、外壁上部はレンガを櫛形に並べたロンバルド帯風の意匠となっています。躯体のレンガ壁の一部に中空部分を設けて外部の温度変化の影響を受けにくくし、またリンデ式アンモニア冷凍機を用いた空調設備を備えるなど、一年を通して醸造の研究が行えるように、ドイツのビール醸造施設を大様した設計がなされています。製麴室の白色施釉(せゆう)煉瓦積みの壁や、鉄骨梁に半円形状にレンガを積んだ耐火床など、屋内にも特徴的な煉瓦造りの部分を見ることができます。
 昭和20年(1945年)に空襲で被災し、屋根部分は葺き直されていますが、その他は当時の様子をよくとどめています。
 平成29年3月 東京都北区教育委員会 

醸造試験所跡地公園より

3階建ての建屋には地下室もある。
試験室や貯蔵室、発酵室や倉庫などが設けられている。

こちらは南側の平屋の建屋。蒸米冷却室などはこちら。


旧醸造試験所第一工場(内部)

廊下

赤煉瓦酒造工場の旧麹室
白色施釉煉瓦を使用。

旧麹室はライティングイベント会場となっておりました。

松尾大社の神符

イギリス積みとドイツ積みと。

妻木頼黄の代表作。
「横浜正金銀行」と「横浜赤レンガ倉庫」


矢部博士寿像(矢部規矩治博士胸像)

清酒酵母の発見者
矢部規矩治(やべ・きくじ)

醸造試験所構内に、矢部規矩治博士の功績を称えるために制作されていた寿像の除幕式が11月20日に予定されていたが、その直前の昭和11年10月2日に急性心臓発作にて永眠。享年69歳。

矢部博士寿像

碑文
正三位勲二等農学博士矢部規矩治氏
明治元年前橋市二出生シタリ
明治二十七年東京帝国大学農科大学ヲ卒業シ明治二十九年大蔵省二奉職スルヤ或ハ大蔵省鑑定官トシテ又ハ関税訴願審査委員特許局審査官トシテ我国鑑定事務ニ関シテ多大ノ功績アリ
更ニ明治三十六年醇造試験所設立準備委員ヲ命ジラルルヤ幾多ノ研究ヲ遂ゲテ同所ノ設立ニ参劃シ翌年其ノ設立成ルヤ事業課長トシテ醸造ノ学術技術二関スル研究ヲ計画指導シ大ニ斯界ノ発達ニ貢献スル処アリ
昭和六年十二月退官スルマデ実ニ三十有四年一意専心税務並ニ醸造界ノタメ尽痒シ其ノ間門下ヨリ数多ノ学者技術ヲ輩出セリ
尚同氏ハ大正四年九月社団法人日本醸友会ヲ設立シ自カラ選バレテ会長トナリ
醸造技術ノ研讃ヲ唱導シ或ハ醸造試験所商議員トシテ又ハ全国酒造組合中央會顧問トシテ酒造界ノ発達ニ尽スコト大ナリ
実ニ氏ノ如キハ我国醸造界ノ先覚者タルト共ニ人格高潔ノ士トシテ後人ノ模範トスベキモノト謂フベシ
昭和十一年門下生一同資ヲ蒐メテ同氏ノ寿像ヲ建設センコトヲ図リ居リシ際同年十月二日突如薨去セラレタリ
時ニ享年六十九歳
 昭和十一年十一月二十日
 矢部博士寿像建設會発起人

(読みやすいように適宜改行しました)

矢部規矩治博士
Dr. Kikuji Yabe
1865-1936

 矢部規矩治博士は、明治27年(1894年)東京帝国大学農家大学を卒業、明治28年(1895年)世界で初めて清酒酵母を分離した。明治29年(1896年)大蔵省に入省、明治37年(1904年)の醸造試験所設立に尽力し、醸造技術の発達、また、わが国の関税制度の確立に多大な功績を残した。昭和6年(1931年)退官までの34年間、税務並びに醸造界のために尽力し、門下より数多くの学者技術者を輩出した。
 設計・塑像 大野明山


錐台銘

錐台銘
 元治元年(1864年)江戸幕府はこの地を王子村名主より買い上げ、大砲鋳造の用地とし反射炉と錐台(砲身の穴あけ)を置いた。
 明治時代に入りこの用地は大蔵省印刷局王子抄紙部付属工場にあてられたが、明治35年(1902年)10月大蔵省醸造試験所設立に際し移譲され、現在は錐台の一部だけが残っている。
 昭和48年1月

 平成7年7月東広島市への移転に伴い、ここに移設した。
  平成7年7月

今回はイベント公開での見学だったため、建屋内をゆっくり拝見することができませんでしたが、秋の文化財ウィークの際は比較的ゆっくりと見学できるそうなので、そのときにまた再訪したいですね。

陸軍航空士官学校高萩飛行場跡(陸軍高萩飛行場跡)

埼玉県坂戸市及び日高市
 東武越生線・一本松駅及び西大家駅
 JR川越線・武蔵高萩駅

陸軍高萩飛行場
(陸軍航空士官学校高萩分教場)

高萩飛行場は、昭和13年12月、陸軍航空士官学校高萩分教場として使用開始された。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

今回の散策は、そのうちの陸軍航空士官学校高萩飛行場にあたる。
高萩飛行場の規模は、東西1700メートル、南北1300メートル、面積は約220ヘクタール。
飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
陸軍航空士官学校高萩分教場の飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和20年2月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として活用され、その後、昭和20年4月より中島 キ84 四式戦闘機「疾風」を配備した飛行第一戦隊が展開。首都防衛の一翼を8月の終戦を迎えた。

位置関係

国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工
国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工

飛行第一戦隊納翼の地
(飛行第一戦隊納翼の碑)

東武越生線一本松駅の北に鎮座している「大栄寺」
昭和20年4月から8月の終戦まで、飛行第一戦隊が当寺に兵舎を設けた所縁で、境内に「飛行第一戦隊納翼の碑」が建立されている。

飛行第一戦隊納翼の地
 本隊は、日本陸軍最初の戦闘機隊として、大正・昭和にわたり、幾度か編成を繰返し、古い伝統と輝かしい戦績に飾られている、誇り高い部隊である。
 満州事変・日華事変・及びノモンハン事変では、多くの戦果を収め、昭和16年大東亜戦争の際は、マレー半島に進出し、東南アジア・ビルマ方面の制空に任じ、ガダルカナル島撤収に従事した。
 昭和19年、主力部隊はフィリピン作戦に飛翔し、熟練の飛行士は、わが国の未来を信じて、特攻隊として出撃し、また地上将兵は、異国の山谷で精魂盡きて散華した。
 昭和20年4月、残留部隊と再編し、入間高萩飛行場に於いて四式戦闘機(可動20機)を配備し、帝都防空の任務を遂行した。
 戦闘本部を旧大家村に置き、清水山大栄寺も兵舎に当てられたが、昭和20年8月、終戦を迎えた。
未だ天空をさまよい、平和の礎となった戦友の功績をしのび、御霊を癒し、恒久平和への願いをこめ、納翼の碑を建立する。
 平成12年8月15日
  飛行第一戦隊戦友会

戦隊長
 四至本広之烝 大阪
整備隊長
 壁谷利之 神奈川
(略)
後援 清水寺大栄寺
 高萩の 空に舞いたる 銀翼に
  想いもあらたに 平和噛みしむ
   大栄寺 小住 志村巧人
(略) 

中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

元高萩飛行場跡地発見
機体(キの84)炎上融解片

清水山大榮寺

大栄寺から、一本松駅の隣、西大家駅に向けて歩く。
大谷小学校の近くに鎮座している「西光寺」も、飛行第一戦隊が兵舎を展開した場所であるという。

西光寺

JAいるま野サービス北部店のある辺りが、かつての陸軍飛行第一戦隊の本部があった場所という。

そして、西大家駅近くの「国渭地祇神社(森戸神社)」には陸軍第一戦隊の炊事場が設けられたという。

国渭地祇神社(森戸神社)を訪れたのは実は2回目。15年ほど前に「武蔵国延喜式内社」の論社を巡っていたとき(当時のレポート)は、この神社が戦争に関係していたと知る由もなく。
陸軍第一戦隊が炊事場で使用していたと知ったのは、今回の散策のための調査で、でした。

国渭地祇神社(森戸神社)の社号標は大正2年建立。往時を見てきた社号標ですね。

東武越生線西大家駅
昭和11年(1936)開業。

西大家駅から日高川島線を南西に30分ほど歩く。
「醤遊王国」という施設の近くに戦没者慰霊碑が建立されていた。

大東亜戦争戦没者慰霊碑

千手観世音のお堂の隣にある「戦没者之碑」

大東亜戦争戦歿者之碑
元陸軍中将 遠藤三郎書

陸軍第一飛行戦隊の戦死者8名を祀る慰霊碑。1953年建立。
遠藤三郎は、第3飛行団長、陸軍航空士官学校幹事などを経て、昭和17年12月に陸軍中将となり陸軍士官学校第4代校長に就任。その後は陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任。昭和22年から約1年、戦犯として巣鴨プリズンに収監され、その後は陸軍航空士官学校跡地に入植し農業に従事。その頃に遺族の要望で揮毫に協力したと思われる。

高萩飛行場方面に。

陸軍高萩飛行場跡地(北西端)

「中東京変電所」のあたりが。高萩飛行場の北西端。そこから西端を歩く。

高萩飛行場の中心部へ。

高萩飛行場跡の碑

「旭ヶ丘神社」「旭ヶ丘公会堂」の敷地内に、飛行場を物語る石碑が「建立されていた。

高萩飛行場跡碑
開拓碑
自治会組織法人化と経緯碑

高畑飛行場跡
 日高市長 大沢幸夫書

高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域及び一部森戸新田を含む 

昭和四十四年旭ヶ丘開拓農業協同組合の解散にともない、精算開始。
総会により現状の道路C号線五本と開拓事務所敷地等を共有とすることに決定する。
その後推移を経たが、旭ヶ丘地主会を結成して今日に至る。
ここに開拓地以前の高萩飛行場の碑を建て後世の遺文とするものである。
 平成二十年十月吉日 旭ヶ丘地主会建立

開拓碑
碑文
 昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
 当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
 当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
 更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
 昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
 茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる 
 昭和五十三年十二月一日

飛行場跡地のあった旭ヶ丘神社は、かつての高萩飛行場のほぼ中心部。
ここから東に歩いていくと、格納庫などがあったエリアに到達できる。

陸軍高萩飛行場跡地(東端)

ファミリーマートのあるあたりに、当時は格納庫があった。

ゴルフ練習場のあたりにも格納庫があった。

高萩飛行場の東端。

高萩飛行場跡(高萩北公民館)

高萩北公民館の敷地内にも跡地を記す看板があった。
内容はほぼ、旭ヶ丘神社境内にあった碑文と同じ。所在地の範囲が若干違うのは新旧での認識に誤差があった、のかもしれない。

高萩飛行場跡
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 

 高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
 当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
 飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
 飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
 昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 平成八年一月 
 日高市教育委員会

陸軍高萩飛行場跡地(南東端)

「のりたま」の看板が目立つ。丸美屋食品工業(株) 埼玉工場のある場所が高萩飛行場の南東端。

この日の散策は、一本松駅から武蔵高萩駅までを歩くこと約15キロ、約3時間の散策でした。


付記

武蔵高萩駅

以前は、開業以来の瓦葺の地上駅舎が使われており貴賓室もあった。
貴賓室や車寄せは陸軍航空士官学校卒業式に臨席した昭和天皇が利用したが、2005年(平成17年)の改築に伴い旧駅舎は取り壊された。
新駅舎にも緑色の瓦を使用したデザインが踏襲されているほか、駅舎内部に旧駅舎の瓦と車寄せの柱を使って作られた展示コーナーが設けられた。

駅前通りは、陸軍航空士官学校に赴く昭和天皇の御車が走った御幸通りということになる。

昭和天皇行幸記念碑

旧豊岡町の陸軍航空士官学校卒業式に御臨席されたのを記念する石碑。
昭和16年3月28日、昭和17年3月27日、昭和19年3月20日の3回、昭和天皇が行幸されている。
北には、陸軍航空士官学校高萩飛行場(陸軍高萩飛行場)があったが、南には旧豊岡町の陸軍航空士官学校があった。すなわち、現在の入間基地。当時、皇室としては、武蔵高萩駅が、南の陸軍航空士官学校の最寄駅でもあった。


関連

JR御茶ノ水駅-聖橋口(解体済)

2020年3月28日で、JR御茶ノ水駅の聖橋口が閉鎖となりました。
御茶ノ水駅工事のために、聖橋口駅舎や聖橋口連絡通路は解体へ。。。

御茶ノ水駅

昭和7年(1932年)にモダニズム建築様式を取り入れた駅舎は、伊藤滋の設計。先に完成した聖橋(1927年)、御茶ノ水橋(1931年)との調和を重視したものとなった。

聖橋口駅舎は昭和7年の駅舎をベースに改修はされているものの開業当時の姿を伝えており、そして聖橋口ホームへのつながる連絡通路も、ほぼ開業当時のままであった。

御茶ノ水駅 聖橋口(解体済)

待合室などを設けずに、改札直結の駅舎は開業当時は斬新な設計であったという。

聖橋口連絡通路(解体済)

昭和7年の開業当初の姿をほぼ残していた。

JR御茶ノ水駅 御茶ノ水橋口

昭和7年(1932年)竣工。

聖橋

昭和2年(1927)完成。

仮設 聖橋口

令和になり、戦前建造物の建て替えが加速化している気がします。
都心部で利用客が多い駅舎、という性質から鑑みるに、やむを得ないことではありますが。


解体

2021年1月、気がつけば解体完了しました。。。
(気がつけば、そば屋がうどん屋に変わってました)


御茶ノ水駅臨時改札口

臨時改札口は、どうなるのだろうか・・・

近くに鎮座する太田姫神社の元宮、御神木の椋の木が静まる。

太田姫神社
元宮
旧名 一口神社(いもあらいじんじゃ)

一口太田姫神社
一口である太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開削した時、江戸城の結界また鬼門の護り神として旧江戸城(現皇居)よりこの地に移された。
昭和6年(1931)総武線開通に伴ない現在の駿河台下に移る。尚、鉄道は(「甲武線」中央線の前身)濠の中にあり開通時、天皇家との間に濠幅を減じない中で商業を営まない環境を守るとの約束がある。(明治期鉄道史より)
この木は椋の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫

JR東日本は約束を継承していないんだろうなあ、と。


近代建築・駅関連