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中島飛行機大谷地下工場跡(軍都宇都宮の戦跡散策1)

大谷石の地下採掘場も、戦時中は軍需工場であった。
JR宇都宮駅からバスで約30分。せっかくなので気になっていた大谷石資料館に足を運んでみました。


大谷資料館

栃木県宇都宮市大谷町にある、大谷石採石場跡に関する博物館。
大谷資料館の地下採掘場跡は、1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけて、 大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間となり、2万平方メートル(140m×150m)にもおよび、野球場が一つ入ってしまう大きさである。
戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用されてきた。
1943年:陸軍の糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫として使用。
1945年:中島飛行機(富士重工業・SUBARU)の四式戦闘機製造のため地下軍需工場として使用。
1969年:年平均気温が8度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として利用。
1979年:大谷資料館がオープン。地下採掘場が一般公開。

http://www.oya909.co.jp/

http://www.oya909.co.jp/contents/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%9F%B3%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E6%8E%A1%E6%8E%98%E5%A0%B4%E8%B7%A1/


大谷地下工場について

大谷資料館の場所の地下は「中島飛行機宇都宮製作所城山工場」であった。
また南西部の地下には「中島飛行機武蔵製作所大谷工場」もあった。

大谷地下工場について
 太平洋戦争時の大谷地下工場、今では知る人も少なくなりましたが、1945年3月ごろ、この大谷地区には、日毎に激しくなる米軍機の爆撃を避けるため、工場の疎開が行われ、展示図の中島飛行機(株)(現富士重工)宇都宮製作所城山工場(機体)と、図面南西図に位置する戸室山を中心とした同武蔵製作所大谷工場(発動機)の二工場が飛行機の地下生産を開始しました。当時、この二工場には、正規従業員・徴用工・女子挺身隊員・通年動員による旧制中学校3年以上の男女学生・坑内工事関係者・関係軍人合計約15,000名の人達が勤務していたと言われています。
 これらの方達の中には、大谷で唯一公開されている当資料館坑内を訪れ、当時の思い出などを話して帰られる方もあります。ここは城山工場に属し、治工具・熱処理部門の工場になっていました。
 地元である宇都宮製作所は、1943年10月ごろから既にその準備に入っていましたが、外来の武蔵製作所は1944年11月からでした。
 大谷では、明治末期ごろから、坑内掘りが行われていて、多くの地下坑があり、軟石のため、拡張が容易なことから、工場の疎開先に選定されたわけです。既設坑の整備と共に坑の新設、各坑との連絡通路造成のためにダイナマイトの発破作業による隧道(トンネル)の掘削が、文字通り、日夜突貫工事で行われ、展示図(城山工場)の様な大地下工場群ができたのです。青図は白抜き部分、拡大図ではピンク染色部分が隧道です。
 最近大谷では、採掘跡(廃坑)が問題視されていますが、戦後の復興期、これらの隧道を利用して、盛んに採掘が行われたため、廃坑問題の一因ともなっています。
 しかし、廃坑になった所は採掘に伴う廃土石の捨て場として、埋め戻されることが多いため採掘跡全部が空洞になっているわけではありません。

空襲を避け、長期戦に備えるため、日本でも有数の地下工場群として、計画され、実施中だった城山工場(河内郡城山村大谷)の極秘配置図です。米軍も、この地下工場には全く気付かず、接収に当たり、その規模の大きさに驚いたそうです。

昭和17年 1942
 入江侍従、大谷石採掘場視察
昭和19年 1944
 陸軍糧秣廠・被服廠、大谷石採掘場を地下倉庫に使用
昭和20年 1945
 中島飛行機工場を地下工場に移転
 採掘場は地下工場となる

ここに展示されたパネル写真は、終戦当時進駐軍関係者により撮影された大谷地下工場の数少ない写真です。

1 発破作業により開坑された工場(または倉庫)の入口

2 カムフラージュされた望楼

3 当時最新の工作機械

4 中島飛行機製作の戦闘機「疾風」(通称ハチヨン)の星型エンジンケース

5 工場接収時、日本側の説明を受ける、米国調査団。
  中島飛行機夏処理工場付近(当大谷資料館地下採掘場)

キ‐84 四式戦闘機「疾風」
 キ‐84、四式戦闘機「疾風」)以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った重戦闘機で、速度、運動性、武装と防御、航続距離など最もバランスに優れ、昭和19年(1944年)4月の制式採用後、陸軍は「大東亜決戦機」と称して、最も重要な航空機として位置づけ、大戦における運命を託した。日本国民の総力を注いで送り出されたキ‐84は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、および本土防空戦において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が発揮できず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を撃墜、あるいは特攻機として出撃、御盾となり南溟に散った。千フォ、連合国は、接収したキ‐84に再整備を施し、飛行テストを実施したところ、秘められた性能を発揮。P‐51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、日本戦闘機の最高傑作と消化した。


地下軍事工場跡(大谷資料館)

地下軍事工場跡
この地下空間は戦時中、陸軍の地下倉庫として、また、中島飛行機の戦闘機「疾風」の機体工場として利用されました。
当時、他の地下工場や外につながるたくさんの隧道(トンネル)が掘られ現在もこの奥に残っています。

地下工場の隧道

広大な地下空間
この地下坑内は、大正8年(1919)から昭和61年(1986)に渡り採掘が行われ、下図のような構造になりました。
広さは、約20,000㎡(間口150mx奥行140m)、深さは地下約30mで、野球場がひとつ入る大きさがあります。
この空間の容積は、約300,000㎥で、約1,000万本の石が切り出され日本全国に出荷されました。

芸術的な地下空間美でもある。

教会エリアは通常非公開とのことで。

圧巻の空間。

いろいろ凄まじい、、、

政府米を預かったときに取り付けられた鉄扉。
採掘場と倉庫の仕切りで、大形トラックが出入りしたという。

石の華
大谷石に含まれる塩分が冬の乾燥時期に結晶として吹き出たもの。
夏場は消滅するという。

なかなか楽しい地下空間でした

外に出ました。

外の景観もなかなか圧巻。

坑口に自販機

場所

https://maps.app.goo.gl/BzL8iqm7W1suWECH8


平和観音(大谷公園)

公園に移動しまして。

天狗の投岩

平和観音

平和観音
 大谷寺の南側に高くそびえる平和観音は、身丈26.93メートル(88尺8寸8分)の高さで、第二次世界大戦による戦没者の霊を弔い、世界平和を祈念するために、大谷観音の御前立として彫刻されたものです。
 戦後間もない昭和23年9月より、当時の大谷観光協会と地元の人々の熱心な後援のもとに、大谷石の採石場であった壁面を利用し、南側の岩肌に観音像を刻みました。東京芸術大学教授・飛田朝次郎氏が彫刻を手がけ、その指導のもと、大谷町の大工・上野浪造氏らが制作にあたりました。6年の歳月を費やした結果、昭和29年12月に完成しました。
 昭和31年には、日光輪王寺門跡菅原大僧正により開眼供養が行われ、それ以降大谷の顔としてそびえ立っています。

平和観音の隣は見晴台になってました。

場所

あいかわらず、見事な石の造形があっちこっちに、です。


慰霊之塔(大谷公園)

大谷の城山村地区戦没者390余名の慰霊顕彰碑

慰霊之塔

撰文
我が日本は開国と共に世界の文化を吸収して近代国家に発展したが幾多の戦乱に遭い遂に太平洋戦争に突入して許多の多くの尊い生命が祖国進展の為に捧げられた 明治大正昭和の三代に亘り我が家郷を出て、故国の悲運に殉じたる者実に三百九十余名の多きに及んで居る 其の愛国の情を祖国再建の礎石たらんことを確信して茲に慰霊之塔を建立し霊を慰むると共に世界永遠の平和を祈念して人類理想具現の道標とせんとする者である
 城山村長 安納 基 謹書
  昭和29年10月 建立

以上、大谷関連の戦跡散策、でした。

場所

https://maps.app.goo.gl/5yzScbRZP6wbFQXT9

撮影:2024年1月


中島飛行機関連

はじめに

陸軍富士飛行場跡地散策(富士市)

以前に、陸軍児玉飛行場のことを調べていたら、富士飛行場の話題が出てきて、そのときから気になっていた場所。
ようやく、足を運ぶチャンスが訪れましたので、散策してみました。


陸軍富士飛行場

「富士飛行場」
国道一号線の「道の駅富士」が、飛行場のほぼ中心に位置している。
戦争末期の1944年6月に工事着工。
1944年10月に「明野陸軍飛行学校天竜分教所富士分教場」が開設している。
明野陸軍飛行学校(三重)の下部組織として「天竜分教所」があり、さらに下部組織として「富士分教場」という位置づけ。
ややこしいのは、「飛行学校の富士文教場」とは別に、「陸軍重砲兵学校富士分教場(=陸上自衛隊駒門駐屯地)」というのもあって、それは御殿場なので、まったく別地域。


野中俊雄大佐

昭和20年7月18日に、児玉飛行場の第27飛行団長(第6航空軍隷下・司令官は菅原道大中将)に就任した野中俊雄大佐(士候36 陸大専科7)。
児玉飛行場の飛行団長としても終戦間際を描いた映画「日本のいちばん長い日」に出てくる。

野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に、第27飛行団の部下とともに入植開墾。そして開墾した地を「靖国」と名付けたという。
なお、野中俊雄は、1902年(明治35年)生まれ、1993年(平成5年)に92歳で亡くなっている。


靖国町

静岡県富士市五貫島。
住所としては呼称されていないが、この富士南地区の町内会に「靖国町」がある。

戦禍の果て
跡刻む靖国町 進む風化
幻の富士飛行場(下)
 富士市の富士南地区にあった富士飛行場は、1945(昭和20)年8月の終戦で1年足らずの役目を終えた。70年を経て、跡地には民家や事業所などが立ち並び、飛行場の面影はほとんど消え去った。ただ、地名としてその跡を刻む場所がある。
 現在の同市五貫島付近に位置する一つの町内を地元の人は「靖国町」と呼んでいる。この地は終戦後に入植した旧軍人が住み、名付けた。入植者の中心は、埼玉県の児玉飛行場を拠点としていた「第27飛行団」に所属していた人たちだった。飛行団長だった野中俊雄大佐=当時(42)、大分県出身=が、帰る場所のない部下らとこの地を訪れた。他からも軍人らが集まり、滑走路として使われていた土地で農業をしながら新たな生活を始める決意をした12世帯が「靖国町」の始まりだった。

静岡新聞 連載企画 「轍」 ~しずおか戦後70年~
https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No2-144
1946年05月22日に米軍が撮影した航空写真を参照。

富士飛行場部分を抜粋、すでに入植がおこなわれている。

現在の様子。国道1号線と東海道新幹線が横断している。
旧国道1号線は、だいぶ北側(東海道本線より北側)を通っていた。


陸軍富士飛行場跡地散策

戦跡としては何も残っていない。
国道1号の交差点名に「靖国」とある。これが戦後に入植した野中俊雄大佐たちの残した地名の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/bwpJhMZryeEti7D27

町内会として「靖国町」がある。

靖国公会堂

靖国地下道

地域に根づいた地名として。ここに確かに「靖国」が伝承されていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RbvSeLXN4mPCedBe6


開拓記念碑

富士南まちづくりセンター敷地内南西角に。

開拓記念碑
この辺りは、昭和19年(1944年)から陸軍富士飛行場用地として使用されていました。戦後、開
拓事業として元の土地提供者が中心となって入植し、10年余の歳月をかけ、その努力により元の緑の田畑に復旧しました。
 この碑は、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立。令和2年(2020年)、現在地に移設されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/shisei/c1401/rn2ola000002sc7b.html

富士南地区の歴史
 富士南地区は、『ききょうのさと』と呼ばれています。江戸時代、富士川の氾濫によって富士南地区一帯に築かれた堤防が「帰郷堤」と呼ばれたことから名付けられました。この堤防を造った勘定奉行土岐摂津守の家紋が「桔梗」だったこと、堤防ができてから人々が安心して故郷に帰ってきたことが「帰郷堤」の由来とされています。
 また、第二次大戦中、陸軍富士飛行場の建設により立ち退かされた住民が、戦後、再びその地に帰郷したことも、住民の「ききょう」という言葉への思いを強めています。
 戦後、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立した開拓記念碑が、現在は富士南まちづくりセンター駐車場に移設されています。
 現在の富士南地区にあたる区域は、昭和41年の2市1町の合併による新制「富士市」の誕生、昭和47年の「線引き」による市街化区域への区分などにより急速に宅地化が進み、昭和53年に開校した富士南小学校の校区と同一です。昭和56年の富士南公民館の開設に合わせ、富士駅南地区の一部及び田子浦地区の一部をもって組織されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/machi/c0605/rn2ola0000043ki1.html

開拓記念

富士飛行場跡地は、碁盤の目できれいに整備されている。
下記の写真は、南北に連なる道路。かつての滑走路も同様に南北に伸びていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RGfoozzpqZHBxMew8


道の駅「富士」

「道の駅富士」は、静岡県で最初に誕生した道の駅。
陸軍富士飛行場のちょうど真ん中あたりに位置している。

「桜えびひつまぶし」をいただきました。美味。
これは、桜えびシーズンになったら、がっつり食べに行きたいですね。

国道1号線
富士飛行場のあった方向を望む。

富士川の河口

富士山は雲がかかっていました。

ちなみに、富士川の対岸の新蒲原駅からシェアサイクルを活用。移動は20分前後なので、そこまで苦ではなく。
何気にクロスバイク系は、疲れてくると足を後ろに振り上げるのも大変で。
走り出したら楽なんですけど。

新蒲原駅前。桜えび漁船。

ちなみに、戦跡としては、「富士飛行場燃料庫地下壕」も残存している。
富士飛行場の建設に併せて、航空燃料の油を保管する倉庫として岩本山西麓に掘った地下壕。
今回は未訪問でしたが、機会あれば、で。

※撮影:2024年8月


79年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から79年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
毎年恒例。
変わることなく、祈りを捧げる。


靖國神社・午前9時30分

潔い夏晴れ。

毎年恒例の「靖國神社白鳩の会」
更新を。


放鳩式 靖國神社・午前10時

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

講談師の宝井琴調氏が司会進行。毎年変わらず、で。

鳩を預かりました。

2024年4月1日より新任の、大塚宮司(第14代宮司)

御英霊に、声を出して御礼を。
ありがとうございました!

ありがとうございました!!

靖國神社拝殿・正午

いつも、この場所、ですね。

国家
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

陛下のお言葉

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来79年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
 これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/127#1416

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

ありがとうございます。

毎年、冷たい麦茶をありがとうございます。


靖國神社参道 12時30分

照りつける日差し、拡がる日傘、途切れなく続く参拝

8月15日の空

まいどまいどですが、怪しげなる政治団体やコスプレイヤーが目障りで。

来年(令和七年)は 大東亜戦争終戦八十年


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

※撮影:2024年8月15日


軍艦建造技術を活用した日本初の大規模全溶接構造橋梁「田端ふれあい橋・旧田端大橋」(昭和10年建造)

横浜の「瑞穂橋」を調べていたら、溶接橋として日本初は、昭和9年の瑞穂橋であったが、本格的な大規模全溶接橋は、昭和10年の「田端大橋」であったと知り、そうと知ったら、居ても立ってもいられずで、急に現地に赴いてみた次第。


田端ふれあい橋・旧田端大橋

昭和10年(1935年)12月完成。全長135m。
全溶接構造橋としては、日本初にして東洋初であり、完成当時としては世界的な規模の橋梁であった。
設計者は、鉄道技師の稲葉権兵衛(代表作は筑後川昇開橋・田中豊博士の門下生)で、当時の橋梁界を率いていた田中豊博士指導のもとで行われた。
建設は「川崎造船所」(川崎重工の前身)。
軍艦製造技術で培われた溶接が本格的に橋梁建設に導入された歴史的に意義のある建造物。
ちなみに川崎造船所は、勝鬨橋や清洲橋、白鬚橋、永代橋など多くの震災復興橋の建造も手掛けている。

現在の田端大橋は、1987年に架橋。旧田端大橋は取り壊し予定であったが、計画変更で1992年に人道橋に改装された。愛称は「田端ふれあい橋」。
改装後は、主桁を隠し橋面側面ともタイル化粧板などで覆われて、まったくもって歴史的な趣が感じ出せなくなっている。非常な残念なデザイン。
もっとも、歴史的な意義は別として、植栽とタイルで、フレンドリーな感じに生まれ変わっている。

タイル張りには、歴史の趣が感じられない。

橋の上から探して、ようやく橋脚がみえる場所に。
ちなみに、橋脚を見ようとしてもなかなかビューポイントがなく。

親柱

田端大橋

昭和十四年三月成 東京府

田端ふれあい橋の橋上で、歴史を感じられたのは、ここのみ。

旧田端大橋の生い立ち
橋の由来
 旧田端大橋は、昭和十年に架建された突桁式下路版桁三径間ゲルバー式 全溶接橋です。
 当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
 この溶接技術は、そのころの造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話がのこされています。
橋の概要
 施工年月日 昭和十年十二月二十七日
 形式    突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
 橋長    一三五.〇メートル
 橋梁巾   一三.八〇メートル
 道路幅員  一一.〇〇メートル(当時)
 総鋼重量  約五九一トン(当時)
残存の経緯
 旧田端大橋は、近年の経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は昭和六十二年に新田端橋を架建しました。
 新田端橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方から歩行橋として再生利用の要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変わることになりました。
  平成四年三月 東京都北区

ふれあい橋について
田端ふれあい橋の概要
 田端ふれあい橋は、駅前広場と公園機能を合わせもった田端のシンボルとなる歩行者専用の橋です。
 この橋は、通勤、通学に利用するだけではなく、散歩道として、または待ち合わせの場所、憩い語らいの場としての快適な歩行空間をつくるとともに、自然の樹木によるやすらぎ、高欄や花壇の自然石による落ち着き、門柱や街灯による時代感を感じさせるものとしました。
田端ふれあい橋の特色
步行部
 花壇の形態を波型の曲線にすることにより平面的なやわらかさを出し、カリオンと二本のしらかしによって立体的なアクセントをつけました。中央の白御影石の部分を通行ゾーン、両側のタイル舗装部分は休憩・たまりゾーンとしています。
植栽
 花壇の縁石には赤御影石を使用しそのその重厚感による落ち着きを出すとととも、座って 話をしたりすることができます。 樹種は四季折々の花や葉が楽しめるように数多くの種類を配しています。
高欄
 木の枝をモチーフしたデザインは花壇の植栽と一体感をなし、快適な歩行空間をつくり出しています。
門柱
 大正時代の洋風赤れんが造りと銅板の屋根により、この橋の入口を表現しています。
カリオン
 文化の香り高い田端の発展を望んで 「希望の鐘」と名づけました。橋の中央に位置し、四種類の音色で時を知らせます。
展望窓
 上野駅側二か所に電車や線路が見える幅四mの大きな展望窓があります。
  平成四年三月
   東京都北区


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C3-38
1944年11月7日、日本陸軍軍撮影の航空写真を加工。

田端大橋の様子がよくわかる。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の主桁・橋脚

下を見れる場所に。

リベットがないです。
素人なので、細かいことはわかりませんが、全溶接橋として、リベットのない形態は、すらっとストレートな様相。美しいですね。

リベットがない!!としか言えない素人ですみません。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の路面部分

ここは、歩いても、歴史が感じられないので、さらりと。。。
新幹線の橋梁が目線を遮ります。

門柱

側面には「田端大橋」
ん?旧称で良いの?

現在の田端大橋と、旧田端大橋の間。

高さが違いますね。
旧田端大橋は撤去予定だったので、建造時は高さをあわせるつもりがなかったことがわかります。

なので、両方の橋を横断する場合は、段差が生まれます。

高欄
波打つベンチと植栽。子供が近寄って電車見学ができない仕様。

「華」と銘された金色の裸女像。樹木が後光のようで。意味は不明。

鉄道の街「田端」にちなむ展示物など。
40Kレールとポイントリバー

連結器カバー(東北新幹線200系)

車輪(東北新幹線200系)

希望の鐘。ここにある意図や意味は不明。

静思と銘された女性像。

歴史を感じさせない路面。

新田端大橋と田端ふれあい橋の、JR側の入口。

いつもとはちょっと違う散策もたまにはたのしいもので。

なお、JR西日本ホームからも「田端ふれあい橋」をみることはできますが、やっぱりタイル化粧板に覆われて、残念な感じではある。

※撮影:2024年8月

場所

https://maps.app.goo.gl/mgTye1gbxotTNwUw8


日本初の溶接鉄道橋「瑞穂橋梁」(昭和9年建造)と横浜ノース・ドック

「瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)」
大東亜戦争後の昭和21年に米軍に接収され、横浜ノースドックとして、在日アメリカ軍の湾岸施設として使用されている場所。
そこには、瑞穂橋(道路橋)と併設している瑞穂橋梁(鉄道橋)が架かっている。
そんな瑞穂埠頭は、橋の向こうは、米軍施設などもあり、立ち入りが制限されているというが、足を運んでみました。


瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)・横浜ノースドック

もともとは、外国貿易埠頭として1925年(大正14年)に着工し、昭和20年(1945年)に完成したが、終戦後に連合国軍に接収。1947年(昭和22年)より在日米軍が使用している。
現在、在日米陸軍施設管理本部(ふ頭地区)、在日米海軍横須賀基地司令部(郵便地区)が展開されている。
ふ頭地区は、中型・小型船舶用バース、野積場、倉庫等があり、物資の搬出入や軍人・軍属等の移動に伴う貨物輸送業務(相模総合補給廠や横田飛行場の兵站拠点に運ばれる米陸軍物資の陸揚げ拠点)が行われている。
郵便地区は、艦隊軍事郵便センターが置かれ、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の軍事郵便業務が行われている。

部分返還が進んでおり、2009年に瑞穂橋及び港湾道路(土地:約27,000平方メートル、水域:約2,500平方メートル)が返還。2021年に使用されていない鉄道レール(工作物)や周辺の土地(約1,400平方メートル)が変換されている。

2024年には、在日米陸軍第10支援群(司令部・沖縄県読谷村)下として「第5輸送中隊」が新設運用され、全面返還とは、異なる動きも発生している。

横浜市サイト

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/shisetsu/yokohama-northhtml.html


瑞穂橋梁(かながわの橋100選)

2021年に返還された鉄道橋「瑞穂橋梁」。
瑞穂埠頭内に敷かれていた線路は終戦前から利用されており、1946年の接収後も物資を搬出入するための引き込み線として使われていたが、近年は使われていなかった。

「瑞穂橋梁」は2021年に返還された線路などの一部に含まれており、内陸側とノース・ドック側をつないでいる橋梁。
1934年(昭和9年)に建造され、従来のリベット工法から新たな技法として取り入れられた、日本最初の溶接鉄道橋である。

※昭和10年の田端大橋が、田端駅北側ヤードの上を横断して架けられた跨線道路橋で、現場継手も溶接した日本最初の全溶接橋であった。当時は世界最大級の溶接橋であり、現在は歩行者専用橋「田端ふれあい橋」として補強して現存している。

瑞穂橋の返還後を管理する「南関東防衛局」では、基地返還後は現状復帰として「工作物は撤去する」とされており、線路設備や橋梁は解体撤去される方針とのことで。。。
いつまで、見れるかは、なんとも。。。

昭和9年に建造された鉄這橋で、わが国最初の溶接鉄道橋として知られている。構造は鋼曲弦ワーレントラスとブレートガーダーとから成る。アーク溶接は鈑桁部、床組、対傾構の接合に用いられたが、トラスにはリベットが用いられている。橋長77.2mのうち、中央トラス部分は36m。溶接延長は6,458mあって、溶接橋の試験橋梁の意味を持っていた。この橋は瑞穂ふ頭への連絡橋で、現在は防衛施設庁が管理者となっている。(神奈川県庁サイトより)

https://www.pref.kanagawa.jp/docs/bd2/hashi100sen/05-mizuho.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C9-137
1944年10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。

まだ埋め立ては一部なことがわかる。

航空写真レベルだと、横浜ノース・ドック内の海側の米軍の建屋3棟が、往時からのもので適合するが、米軍基地なので確認の術がない。。。

今昔マップ on the web

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.471864&lng=139.636488&zoom=17&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

2022年に撮影していた横浜ノース・ドック(大さん橋から撮影)
艦艇の後ろの建屋、これ戦前からと思われ、です。航空写真で適合したので。


瑞穂橋

瑞穂埠頭に渡るための橋。
以前は瑞穂橋も米軍接収で立入禁止であったが、日本に返還されており、いまは瑞穂橋はわたっても問題ないらしい。

橋を渡った先、瑞穂埠頭の横浜ノースドック側は、立ち入り制限あり。
ゲートを写すと怒られるらしいので、カメラは向けず。。。

なので、陸地側から望遠する。

大さん橋がみえる。(逆に大さん橋から横浜ノースドックも見えるが)

「Bar StarDust」「BAR POLESTAR」
老舗のバー「スターダスト」
「バー・ポーラスター」は、貸切営業のみで「スターダスト」に応相談、だそうで。


三井倉庫(三井倉庫横浜支店千若事務所)

かつてはクレーンが張り出していた三井倉庫だが(2023年写真ではクレーンを確認)、2024年現在、クレーンは撤去されている。
1953(昭和28)年に建てられた、ココアとコーヒー豆専用の倉庫という。

モザイクタイルで描かれた「三井マーク」

かつては線路も敷地内に引き込まれていたという。

横浜港湾部の貨物線「高島線」

場所

https://maps.app.goo.gl/noayR1gJXUwxqH5r7

※撮影:2024年5月


勝海舟設計のコウモリ台場「神奈川台場」跡地散策

神奈川宿を散策した流れで、神奈川台場跡地も散策してみる。
なんとなくの流れですが。


神奈川台場

江戸時代末期に勝海舟により設計され伊予松山藩が築造した台場。

現場総指揮は平野弥十郎(「しょこたん」こと中川翔子の御先祖様。母方の五世祖父にあたる。)。
平野弥十郎は、土木工事の請負として、(品川台場、1854年)、神奈川台場工事(1858年)、築地ホテル館建築工事(1865年)、東京~横浜間鉄道工事(高輪築堤、1869年)といった日本の近代化に関わる大工事を請け負っている。

神奈川台場は、東京湾に侵攻してきた船舶に対する防衛を目的として築造された。
海岸から東京湾に突き出るように埋め立てられ、他の台場には見られない船溜まりという構造を持っていた。
総面積は約2万6000平方メートルで、埋立には付近の権現山(神奈川県神奈川区幸ヶ谷。頂部は現在の横浜市立幸ヶ谷小学校の敷地に該当)の土砂が使われた。

1860年(万延元年)に竣工。
砲台を設置していたが実戦に使用されたことはなく、諸外国の貴賓が港に入った際に祝砲を上げるに留まっている。
1899年(明治32年)に、台場としての施設廃止後の跡地は転用され、現在はJR貨物の東高島駅の敷地などとして利用されている。
神奈川台場は、羽を広げたコウモリのような形をしていることから通称「コウモリ台場」とも呼ばれ、欧州の城などをモデルにして造られたとされる。対近代戦用の稜堡式城郭として、扇型に近い形状で3つの稜堡星形の形状を伴っている台場、である。
14門の大砲が設置され、前面(大砲の照準方向)は、約2.4km離れた象の鼻方面を向いていたという。
象の鼻(横浜開港時の東波止場)も、黎明期の横浜港の重要な港湾建造物。


位置関係

今昔マップ

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.471864&lng=139.636488&zoom=17&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

なるほど、コウモリ台場だ。コウモリの形をしている。


神奈川台場跡(西部)

JR貨物の東高島駅の西側。内陸側。石垣が残っている。

神奈川台場跡
 安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
 当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と 工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
 明治32年(1899年)2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年(1921年)頃から 埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。

場所

https://maps.app.goo.gl/5C6Ad4ggRG5mzi4o9


神奈川台場公園

神奈川台場公園は海に築かれた台場と陸地をつなぐための通路である「西取渡り道」があった場所。
神奈川台場跡(西部)とセットのエリア。
資料展示がメインの公園。メインの遺跡は地下に眠っている。

地図と絵に見る神奈川台場の歴史
横浜の開港により、開港場の付属施設として「神奈川台場」が築造されました。
安政6年(1859)5月、幕府が伊予松山藩に砲台の構築を命じ、勝海舟が設計にあたりました。
約7万両の費用と約1年の工期を要し、万延元年(1860)6月に竣工した当時の台場は、総面積2万6千㎡(約8千坪)で、海に突き出た扇形をしていました。
明治32年(1899)2月に廃止されるまで、礼砲や祝砲を発射する施設として使われていましたが、大正10年頃から埋め立てられ、いま地上部には石垣の一部だけが残っています。

神奈川台場関係年表(月日は和暦)
弘化2(1845)年
 2月 アメリカ捕鯨船メルカドル号が浦賀入港を求める。この年、幕府が三浦郡鶴崎に台場を新設。
弘化3(1846)年
 閏5月27日 ビッドル艦隊が浦賀に入港、通商を求める。
 6月28日 鎌倉沖にデンマーク船発見。
嘉永2(1849)年
 1月 浦賀奉行が三浦郡観音崎・十石・旗山・猿島台場を視察。
 閏4月8日 イギリス船マリーナ号が東京湾に侵入。
嘉永5(1852)年
 4月19日 幕府が三浦郡観音崎に新造した台場を川越藩に引き渡す。
嘉永6(1853)年
 6月3日 ペリーが浦賀沖に来航。
 6月8日 ペリー久里浜に上陸、アメリカ合衆国大統領の国書を幕府に渡す。
 7月18日 ロシア使節プチャーチンが長崎に来航。
 8月24日 幕府が品川台場の築造に着手。
 11月1日 幕府が徳川斎昭の主張を入れ「海防の大号令」を発令。
嘉永7(1854)年
 1月16日 ペリー艦隊が小柴沖に錨をおろす。
 3月3日 日米和親条約締結。
安政3(1856)年
 7月21日 アメリカ総領事ハリスが下田に来航。
安政4(1857)年
 4月28日 幕府が松山藩に神奈川宿周辺地域の警備を命じる。この年、松山藩が神奈川宿の並木町に台場を築造する。この台場は神奈川台場が完成した頃に廃止された。
安政5(1858)年
 6月19日 日米修好通商条約締結。その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと同様の条約を締結。
 12月13日 松山藩が幕府に神奈川宿の猟師町のどこに台場(神奈川台場)を築造すべきかをうかがう文書を提出する。
安政6(1859)年
 5月 神奈川台場仕様書と入用内訳書が作成される。
 6月2日 横浜が開港する。
 7月 神奈川台場の工事が始まる。
万延1(1860)年
 6月19日 神奈川台場が竣工。松山藩主松平勝成が視察する。
文久2(1862)年
 8月21日 生麦村でイギリス人が薩摩藩の藩士に殺害される(生麦事件)。
慶応2(1866)年
 7月 松山藩が神奈川台場の警備を免除される。その後、台場の警備は慶応3年1月から古河藩が担当する。
慶応4(1868)年
 1月3日 戊辰戦争が始まる。
 4月24日 神奈川台場が新政府に引き渡される。
 9月22日 天皇誕生日を祝って神奈川台場から祝砲を発射する。
明治4(1871)年
 9月 神奈川台場が東海鎮守府(海軍省)の管轄となり、明治17(1884)年12月、横須賀鎮守府の管轄に移る。
明治32(1899)年
 神奈川台場が廃止された。

前述と同じですが。

神奈川台場跡
 安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
 当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と 工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
 明治32年(1899年)2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年(1921年)頃から 埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。

場所

https://maps.app.goo.gl/CJwFVe2HYkVn9NHC8


海側に移動。。。

盛大に再開発中で、なおかつ貨物の東高島駅を大迂回しないと線路の向こう側に行けないので、動線はかなり悪い。


「Historia Residense 海舟」に残る石垣

コットンハーバーエリアに到着。

「Historia Residense 海舟」ビル。佳き名称。

石垣がありますね。


神奈川台場跡(星野町公園)

もう一つの台場跡地。ここにも石垣が残っている。

開港百五十周年記念 神奈川台場跡

神奈川台場跡地
安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で台場(砲台)を構築した。
台場は総面積約26,000㎡(約8,000坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
国交のある国々と礼砲や祝砲を交換するという、当時の国際港としてはなくてはてはならない重要な役割を担った施設である。
明治32年2月に廃止されるまで台場として使われたが、大正10年(1921年)頃から埋め立てられ、現在では、石垣の一部を残すのみとなった。

神奈川台場と象の鼻
安政5年(1858年)に米、蘭、露、英、仏と通商条約が結ばれ、翌年(1859年)横浜港が開港する。港には波止場が作られ、そのうちの一つ西波止場(イギリス波止場、後の象の鼻)は、国際航路に乗船した旅客の出入や輸出入品の揚げ下ろしに利用された。
初代の波止場は、2本の並行な形状だったが、慶応2年(1866年)の大火をきかっけに道路などが整備されたのにともない、波止場の延長工事がおこなわれた。
この工事によって、東側の波止場は大きく湾曲し、波除けとして機能するようになった。こうして、のちに「象の鼻」と呼ばれる防波堤が誕生した。
台場と波止場は国際港のもっとも重要な施設で、明治4年(1871年)、岩倉具視を全権大使とした使節団が西洋諸国に出発した際にも、「象の鼻」からはしけに乗船し、神奈川台場からは祝砲が打たれている。
2つの史跡は現在もその遺構が残っているが、横浜市では、平成21年(2009年)開港150周年を記念して、開港当時の歴史を現在に伝えるため、神奈川台場の再整備工事、「象の鼻」の復元工事を行った。

位置関係は、これがわかりやすいですね。

石垣が残る。

星野町公園。

なんとなく実施した「神奈川台場跡」散策。
位置的には「瑞穂橋」と連動して、それなりに面白みのある散策になりました。
勝海舟とか、しょこたん中川翔子とか、歴史が絡んでそれもまた面白し。

※撮影:2024年5月


神奈川宿周辺の戦跡散策

横浜駅の隣の神奈川駅。
かつては東海道五十三次の3番目の宿場町「神奈川宿」のあった場所。
ちょっとした戦跡が残っているので、散策してみた。


神奈川駅・神奈川宿

東海道五十三次の日本橋から数えて3番目に位置する「神奈川宿」
この地が「県名や区名」の由来となった「神奈川」の地であり、近代都市「横浜」の母体となった地でもある。

まずは、幸ヶ谷公園に向かいます。

場所

https://maps.app.goo.gl/RnHNFd8pxwREB7QeA


表忠碑(幸ヶ谷公園)

神奈川宿(神奈川町と青木町)出身者における日清戦争3柱、日露戦争21柱の陣歿者合計24柱を合祀した招魂碑。
明治43年6月、神奈川軍友会が建立。


支那事変陣歿者銘碑(幸ケ谷公園)

隣には、支那事変陣没者銘碑もある。
支那事変による陣歿者120名の慰霊碑。
皇紀2600年にあたる昭和15年10月20日に、帝国在郷軍人会によって建立。

神奈川区第二次世界大戦陣没者

昭和41年に合同慰霊祭を執行し、第二次世界大戦での陣没者1357名の御霊は洲崎神社に奉安されている。


権現山(幸ヶ谷公園)

神奈川宿の権現山は、幕末から明治にかけて作られた神奈川台場や鉄道用地の埋立のため削りとられ山としては、姿を残していない。
権現山は、戦国時代には上田蔵人の砦があり、北条早雲に内通をしたことで、扇谷上杉朝良に責められた「権現山合戦」の跡地でもある。


割れた石碑(幸ケ谷公園)

昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲では、神奈川宿にほど近い東神奈川駅周辺をはじめ5カ所を目標地点に設定し集中的に攻撃した。
割れているので、委細不明だが、太田櫛朝書とある。太田櫛朝は江戸文字(千社札文字)で著名。
この功績碑は、一説には「横浜大空襲」で割れた、ともいわれているが、これも委細不明。

幸ケ谷公園


防空壕?(洲崎大神)

洲崎大神のわきに、防空壕と思われる横穴が残っている。


洲崎大神

1191年(建久2年)創建。
源頼朝が安房国安房郡(現・千葉県館山市)の安房国一宮安房神社より分霊を勧請。
明治天皇の東京行幸の際、境内に内侍所奉安殿が設けられた。

明治遷都内侍所奉安之跡

皇紀2600年記念

御即位記念
大正4年11月10日建之

場所

https://maps.app.goo.gl/BaytmnTP5e39sg6r8

※撮影:2024年5月


杉野中尉殉難遺蹟の碑(荒川区東尾久)

都電荒川線の熊野前停留所のちかくにある「はっぴーもーる熊野前商店街」
商店街の只中に、異色な空間がある。
そそり立つ石碑には「杉野中尉殉難遺蹟」とあった。


杉野中尉殉難遺蹟

熊野前商店街防災スポットにある石碑。
かつては、稲荷社と飛行機オブジェもあったというが、防災スポットとして整備された際に、それらは無くなり現在のようなすっきりした空間となったようだ。
荒川区のサイトの写真は、再整備前のもの。

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/ogu001.html

航空界初期の事故
わが国の初飛行は、明治43年(1910)のことで、徳川好敏大尉が代々木練兵場で高度70メートルで約3,000メートルの距離を飛んでいる。それから7年後にして尊い犠牲が生まれた。
陸軍工兵中尉杉野治義(27歳)が、陸軍野外飛行で下志津から高度500メートルで所沢へ帰航中、突風に襲われて尾久村の水田に墜落したのである。
大正6年(1917)3月25日、午前11時40分のできごとであった。
荒川区教育委員会

杉野治義中尉(陸軍工兵中尉)は大正6年3月25日午前11時45分、千葉の下志津から所沢飛行場へ、フランスから輸入した複葉モーリス・ファルマン2号機で高度500メートルで帰航中、突風に翼を折られ機体がバラバラになって尾久村(当時)の水田に墜落、殉職している。
翌年の大正7年に一周忌に、帝国在郷軍人会尾久村分会によって殉職遺跡碑が建てられた。

航空黎明期の事故であった。

合掌

ちなみに、近くには、「東京初空襲の地」もある。

場所

https://maps.app.goo.gl/6SFF5VkDcpk6d7vo6

撮影:2024年8月


関連

「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2024」(その2・教育史料館ほか)

2024年7月21日。
今年も館山に。ヘリコプターフェスティバルに。

その1はこちら。

歴史的なことは、昨年の記事で。


海自館山航空基地「教育史料館」

昨年は、1階のみ見学だった気がします。
今年は、2階も見学可能。旧軍関係は、2階に集積されていました。

2階も展示やってます。

はちろくさんの地味なアピール。

おお。冒頭から「海軍」の文字列。嬉しいです。

海軍指定工場

館山海軍航空隊御用達

歴代司令

館山航空隊の歴代司令
初代司令 大佐 堤政夫 
2代司令 大佐 近藤英治郎
3代司令 大佐 堀江六郎
4代司令 大佐 松永壽雄
5代司令 大佐 別府明朋
6代司令 大佐 戸塚道太郎
7代司令 大佐 大野一郎
8代司令 大佐 別府明朋
9代司令 大佐 竹中龍造
10代司令 大佐 大森来雄
11代司令 中佐 藤松達次
12代司令 大佐 菊池朝三
13代司令 大佐 安藤栄城
14代司令 大佐 山縣駿二
15代司令 大佐 藤田元成
16代司令 大佐 高橋農夫吉
17代司令 大佐 中村健夫
18代司令 大佐 鬼塚武二

日本海軍戦闘機の原点
10式艦上戦闘機

溟四躍蛟龍
解説
「龍蛟四溟二躍ル」
蛟は想像上の動物で龍の一種
龍蛟は天に昇る龍
四溟は四方の海
海軍の飛行機が天に昇る龍のように
飛び交う様子を表わす 
 山本五十六書

館山海軍砲術学校

館山海軍航空隊

吊床

戦艦陸奥の鋼材、陸奥鉄

零戦52型用エンジン電動スターター(セルスタータ)

真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の陣形模型

2階はマストですね。


館山の戦争遺跡

これはこれは。。。

再調査したくなりますね。

館山航空基地の周辺

海自館山航空基地の中にある記念碑

海軍落下傘部隊発祥の地
 太平洋戦争の海軍落下傘部隊は、館山海軍航空隊で落下傘訓練を行い、昭和16年11月から戦闘に参加し、多くの戦死者が出た。
 戦後、戦死した隊員遺族の有志が平和を願い建立された。

海軍航空写真分隊記念の碑
 海軍における航空写真術科は、当初霞ヶ浦、横須賀両航空隊において教育を実施したが、昭和18年6月に開隊された洲崎海軍航空隊に移行された。
 この地で学んだ人達にとっての心の拠り所として建立された。

海軍航空再興の地
 昭和28年8月12日に、ベル型ヘリコプターが廃部されて操縦訓練が開始された。戦後8年にわたる空白期間から脱して、昭和28年9月16日、保安庁館山航空隊が解説し、海上航空再興の第一歩を記したことを記念して建立された。

悠久の碑
 昭和28年8月12日、この地に海上自衛隊館山基地が開設されて以来、当基地勤務中、惜しくもその職に殉じた尊い御霊を慰め、永久にその功績を顕彰するために建立された。

海軍中攻隊の碑
 日本海軍航空戦史に不滅の光彩を放つ96式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)は、昭和10年館山海軍航空隊に配備され、心血を注いだ研究開発と部隊訓練が昼夜を分かたず行われ、当時、世界最高水準をいくものであった。日中戦争では世界初の「渡洋爆撃」を果たした。
 館山海友会と海上自衛隊を中心とする後輩有志により建立された。

以下は、基地の外。

1階は、前回見学したので、省略。


基地内バスツアー

先着順。15名x6回の90人。
立ち入れ禁止エリアに入れるチャンス。

号令台を、いつもと反対側から。

おお!

疾走するバス車内から「海軍中攻隊の碑」を確認!!
記念碑フリークもいるんですよ、次回は見学させてくださいよ!!

消火訓練用のヘリ模型

滑走路エリアに。

滑走路の奥に。

普段は絶対に入れない滑走路エリアをマイクロバスで見学。


館山航空基地内散策

このあたりが古そうな建屋。
館山航空基地は、ほぼ建屋が新築されたので、往時のものは残っていないというが。

ん?
これ、往時の防空壕だったりする?

庁舎

号令台

保存機があった場所。
ここにあった保存機はすべて撤去解体された、とのことで。。。


館山海軍航空隊時代の境界壁

意匠的な造形の壁は往時からのもの。

※撮影:2024年7月


館山関連

はじめに

「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2024」(その1・UH-60J最終展示飛行ほか)

2024年7月21日。
今年も館山に。ヘリコプターフェスティバルに。

その2もあります。

歴史的なことは、昨年の記事で。


救難ヘリコプターUH-60J

今回のイベントで除籍となる「UH-60J」
最後の勇姿を。


救難ヘリコプターUH-60J 最終展示飛行

救難ヘリコプターUH-60Jの最後の飛行展示。

最後の搭乗

激励の旗

縁の下の力持ち。
第21整備補給隊(21MSQ)が、飛行業務を支えている。

エンジン始動

ビックハンドでバイバイ!

救難展示飛行

帰着。

放水アーチでのお出迎え。

なんか嬉しそう。

おかえりなさい。

式典へ


救難ヘリコプターUH-60J除籍式典

除籍式典

最後の機長 有川三等海佐
UH-60Jの増槽にサインを

ありがとうございました。

敬礼!

有川三等海佐の退官セレモニー。
サプライズ。
実は、今回のフライトでもって、有川三等海佐は退官する。 

ラストフライト


哨戒ヘリコプターSH-60K飛行展示

午後は、哨戒ヘリコプターSH-60K飛行展示を。

海面を飛行したヘリの、塩を洗い流す。

おかえり


第21航空隊

「21」は、すなわちブラックジャック。最後の数字。


地上展示

海自のUH-60J

陸自のUH-60JA

千葉県警

陸自 OH-1

第21航空群マスコットキャラクター
ろくまる

海上自衛隊第二十一航空群
海上自衛隊館山システム通信分遣隊
千葉地方協力本部館山分駐所

もらったもの。護守印は、貰いそこねたものがあるっぽい。

※2024年7月


館山関連

はじめに

令和六年・靖國神社みたままつり

靖國神社のみたま祭りは、毎年7月13-14-15-16日の4日間、祭行されます。
今年も、なんとか1日だけでしたが、足を運ぶことが出来ました。

御英霊とともに楽しむ光の祭典。東京で一番早い夏のお祭り。


「みたままつり」とは? 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 

※本節は、下記を参照


中庭参拝

みたままつりといえば、中庭参拝が定着しましたね。
年に一度だけの中庭参拝。

ありがとうございます。

※許可された場所からの撮影も可能


境内風景

御朱印

こすずまもりは、中庭参拝で授与


つのだ☆ひろ 奉納特別野外コンサート

毎年恒例。

御英霊に捧げる。

御英霊の奉納するコンサート

「海行かば」
海行かば水漬くかばね
山行かば草むすかばね
大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ

「ありがとう」
ありがとう、祖先の皆様
ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん
ありがとう、おやじとおふくろ
あなたがたのおかげです
ありがとう
ありがとう
ありがとう


みたままつりの夜

御英霊に、感謝を。哀悼を。

そして

御英霊に、ありがとうを。

※撮影:2024年7月14日


関連

護衛艦ふゆづき(艦艇広報2024 in Funabashi)

護衛艦ふゆづき
艦艇広報2024 in Funabashi 自衛隊千葉地方協力本部

2024年7月20日。船橋港にて。

護衛艦ふゆづき、舞鶴からようこそ!!


護衛艦ふゆづき

DD-118 JS Fuyuduki 護衛艦ふゆづき
あきづき型護衛艦の4番艦。
艦名は「冬空に高く輝く、凛冽とした冬の夜を照らす月」に由来する。
母港は舞鶴。2014年就役。

冬月

ホワイトボードに描かれたふゆづき

船橋港。艦尾には、先代しらせ(SHIRASE5002)が係留されている。

SHIRASE5002艦橋から。

CIWSをグリグリ動かすデモ。

あっ、千葉地本の千葉三兄弟だ。


ミニP-3C演技展示

下総航空基地から船橋港に出張ですね。
わるい潜水艦を懲らしめます!


SHIRASE5002

しらせ (砕氷艦・初代)
1982年就役、2008年退役。
退役後は、ウェザーニューズ社が引き取り、現在は関連団体のWNI気象文化創造センターに管理移管されている。

ちなみに航行可能な状態で維持されている。

かなり広いヘリ甲板

海保の光洋(2021年竣工の最新鋭の測量船)も係留されている。

なんかいた

撮影:2024年7月


関連

露天神社に残る機銃掃射弾痕(大阪市北区曽根崎)

曾根崎心中で知られる「お初天神」こと「露天神社(つゆのてん神社)」
近くに赴く用事があったので、足を運んでみました。


露天神社に残る機銃掃射弾痕

社頭前に2つある柱に刻まれた弾痕。

昭和20年6月
福島駅・大開周辺を爆撃した後、大阪駅を超えて来襲した、米軍マスタングP51他による
「機銃掃射弾痕」
(他方の柱にも残っています。)

露天神社社頭。
この2つの柱に機銃掃射の弾痕が残る。

脇参道にある旧社号標にも、弾痕が残る。

石灯籠に傷も、そうかも知れない。

石畳。
中央部分は新しいが、左右の石畳は少し古い。
このあたりの欠けも弾痕とおもわれる削れ具合。


露天神社

祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真の五柱の神を祀る。
創建は大宝元年(701年)頃とされ、「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。
のちに難波神明社とも称され、日本七神明(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも数えられたという。
「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた悲恋を人形浄瑠璃にしたのが近松門左衛門の「曽根崎心中」。
戦前は「天神の森」が鬱蒼としていたが、戦後復興で境内地を切り売りし、現在の広さとなっている。

※撮影:2024年5月

公式サイト

https://www.tuyutenjin.com


機銃掃射関連

はじめに

タイ王国バンコクの戦跡散策その1(戦勝記念塔と大日本帝国陸軍泰国駐屯軍司令部庁舎)

2024年6月。いろいろあってバンコクにいました。仕事の兼ね合い。
スキマ時間を捻出して、バンコク市内を散策。

※2025年2月に別件の仕事で、再びバンコクにいたので、戦勝記念塔をリベンジ再訪。写真を追加しました。


タイ・フランス領インドシナ紛争

「泰・仏印国境紛争」「インドシナ国境紛争」

タイ王国軍は、1940年11月23日から1941年5月8日に渡って起こったタイ・フランス領インドシナ紛争でフランス軍と戦った。

タイ王国軍は、新たに発足したフランスのヴァシー政権に対して、1893年の仏泰戦争でフランスの軍事的圧力を受けて割譲した仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオスの領土と主権やフランス保護領カンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を求めたが、フランス政府(ヴァシー政権)はこの要求を拒否した
日本の同盟国であるドイツによるフランス本土占領と、親独のヴィシー政権の樹立を受けて日本軍が北部仏印進駐を行ったため、日本と友好関係にあったタイにとっては、日本軍が南部仏印にまで進駐してしまうと領土要求が難しくなるという懸念が生まれていた。
上記のような要因、フランスがドイツに敗退、独仏休戦(1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかった、日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイは旧領回復への行動を開始した。

1940年11月23日、開戦。戦闘は拡大しそして終息の気配が見えないなかで、終戦に向けて日本が和平を斡旋を開始。
アジアにおける数少ない独立国で友好国であった「タイ王国」と、ドイツに降伏後の「ヴァシー政権のフランス国」は、それぞれが日本にとっては友好国であった。
1941年5月9日に、泰仏両国が「東京条約」に調印して終戦。

タイの要求を仏印側がほぼ受諾するというタイ側の事実上の勝利に終わり、タイではこの勝利を記念し、戦勝記念塔がバンコクに建立され、戦争の犠牲となった兵士を慰霊した。


戦勝記念塔(Victory Monument)

戦勝記念塔
タイ語: อนุสาวรีย์ชัยสมรภูมิ, アヌサーワリーチャイサモーラプーム、アヌサーワリーチャイとも。
タイ王国のバンコク、ラーチャテーウィー区にある記念塔である。

訪れたとき(2024年6月)は、ちょうど保全工事中でした。
兵士像など、見えませんね。
残念、これは、また来てねと言うことなのか。。。

ちょうど、夜中に豪雨が降った明けの朝でしたので、濡れてますね。

ひっきりなしに車が走っているロータリー。
記念塔に近づくことはできるのでしょうか。
今回は工事もしているので、遠目に見るだけとしましたが。

兵士像。
保全工事中ですが。

※2025年2月に、再訪できました。
これは予想外に早い再訪です。以下、再訪の写真を追加

南側側から一周してみる。
記念塔には、5体の銅像が配置されているのがわかる。

Victory Monument駅。(アヌサワリーチャイ駅)
BTS(バンコクスカイトレイン)を活用。
バンコクに行くとわかるが、とにかく道路渋滞がひどい。多少割高でもBTSを活用するのがベスト。

EMB-B3型車両

場所

https://maps.app.goo.gl/qTSFpZxJw8UjmzuB6


タイ王国の第二次世界大戦

タイ王国は、大日本帝國と同じく数少ないアジアでの独立国であり、同じアジアの国として、日本の政策には概ね好意的であった。
リットン調査団の報告による国際連盟での満洲国合否判断ではタイ王国政府は投票を棄権、満洲国を国家として承認していた。
前述のタイ・フランス領インドシナ紛争では日本の仲介でタイの主張が反映されたということもあり、日本への協力姿勢は強まっていた。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。タイ王国は中立国であったが、日本軍はタイ南部に奇襲上陸。日本はタイを経由してイギリスマレーに侵攻することを意図していた。
日本はタイに事前に進駐合意を得る予定であったが、同意が遅れ、その間にタイ王国軍と日本軍の間で戦闘が勃発。同意のもとで日本軍はタイへ進駐(タイ王国進駐)となり、タイは日本と「日泰攻守同盟」を締結。
同じタイミングでイギリスもタイ国南部に侵攻しタイ警察と交戦となったが、日本軍の援軍が間に合い、撃退。
イギリス・アメリカ両軍は1942年(1942)1月8日からタイ国内への都市攻撃を開始したために、タイ政府は、1月25日に、英米に対して宣戦布告をしている。(しかしタイ国駐アメリカ合衆国大使セーニー・プラーモートは通達を拒否し自由タイ運動を実施。米国と宣戦を取り交わさなかったことで戦後外交を有利に導いた。)
タイは東南アジア戦線(マレー作戦、ビルマの戦い)では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。そのため戦争末期には連合国軍の空襲にもあっている。
一方で駐米大使セーニー・プラーモート、摂政プリーディー・パノムヨンらの「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた。
こうした二重外交により、タイは日本の敗退が近づく1945年には、1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和しており、降伏や占領を免れた。


大日本帝国陸軍泰国駐屯軍司令部庁舎
(第18方面軍司令部庁舎)

BSTのSurasak(スラサック駅)すぐ南。
ちなみに「X(Twitter)」フォロワーの ばさ様 に教えていただきました。

元々は、泰国中華総商会の建屋。
泰国中華総商会が1930年に改装整備した洋館。
日本軍が泰国中華総商会から接収し、司令部庁舎とした。
終戦後に、泰国中華総商会に復したが、現在は、BlueElephant(ブルーエレファント)という高級料理店になっている。

1942年(昭和17年)12月に泰緬鉄道建設現場で発生したタイ人と日本兵の間の衝突事件(バーンポーン事件)をきっかけに、1943年1月に「泰国駐屯軍」の新設での設置が発令。司令部は、バンコクに設置された。

泰国駐屯軍司令官は、中村明人(陸士22期)。
最終的に1944年12月に泰国駐屯軍は第39軍へと野戦軍化され、1945年(昭和20年)7月に第18方面軍へと改編昇格した。司令官は、かわらず中村明人陸軍中将が終戦までタイ王国内の陸軍の司令官を勤めた。

「日泰攻守同盟」は、条約は1945年(昭和20年)9月2日、日本及び連合国の降伏文書調印に伴うタイの敗戦により破棄された。
親英米派のタイ新政府は攻守同盟条約を「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた」ものとして、その違法性を連合国に訴え、1946年から1947年にかけて、回復した旧領土をフランスに返還。その結果、タイ国民は連合国による裁きを免れた。
なお、タイから旧領土を回復されたフランスは、その後の独立運動で、旧タイ領をカンボジア及びラオスに引き渡すこととなった。
タイ王国は、国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。
タイ王国は、日本に対する多額の戦争賠償を大幅に減額し、1951年に日本とも国交を回復した。

泰国中華総商会は、BlueElephant(ブルーエレファント)のうしろの、THAI CC TOWERに今も存在している。

時間がなかったので、レストランは、またの機会に。
内部の写真は、下記を参考までに。同じく、ばさ様より。

BSTのSurasak(スラサック駅)。

EMU-B型

EMB-A2型


王宮・エメラルド寺院

王宮(プラボーロンマハーラーッチャワン)

ここからはタイ・バンコクの観光など。
仕事で行ってまして、「市場視察」という名の観光ツアーもありまして。

写真メインで。

エメラルド寺院(ワット・シーラッタナーサーサダーラーム)

王宮の宮殿郡と接し、本堂にはエメラルド仏(プラ・ケーオ)が安置されている。王室専用の仏教儀式の場であるため僧侶がおらず、僧侶が生活する庫裏などの施設がない。普段は観光地になっており、内外から毎日たくさんの旅行客が訪れる。

コメントを、いただきました。
実は、エメラルド寺院は日泰攻守同盟の調印式が行われたところだった、と!

ワットプラケオ(エメラルド寺院)の本堂ですが、実は日泰攻守同盟の調印式が行われた場所になります。ここで調印式を行った理由として、タイは信心深い仏教国であり、日本も歴史的、文化的にも仏教と関わりが深い国で理解があることから、仏法僧の面前、特にタイで最も崇められているエメラルド仏の前で調印させることによって、より条約に忠誠を誓わせ尊重し、忠実に守らせると言う日本とタイ双方に意図があったようです。
このことから調印する前から日泰両国は双方に不信感と警戒心を抱いていたのは明らかで、結局終戦まで両国の間にあった疑念は払拭されることはありませんでした。
同盟国、そして枢軸国として第二次世界大戦に参戦したタイですが、むしろタイは列強国の戦争に巻き込まれたという立場で、戦時中のタイ政府・国民ともに日本に対して相当警戒していたようで、同盟国でありながら水面下では日泰で様々な交渉や駆け引きがあり、これもまた興味深いものなので機会が有りましたら是非調べてみて下さい。
また、当時タイはあくまで独立国で日本軍は駐留という形で存在していましたが、タイ国内には沢山日本軍に関する戦跡が良好な状態で現存していたりするので、今度タイへ行く機会が有りましたら是非色々な所を巡ってみて下さい。

コメント欄 バサ様 https://senseki-kikou.net/?p=44403#comment-3343

チャクリーマハープラーサート宮殿

衛兵


ワット・ポー(涅槃寺)

ワット・プラチェートゥポンウィモンマンカラーラーム

ワット・ポーは、菩提寺を意味する。バンコクで最大の最も古くからある寺院。
ワット・ポー伝統医学校は、タイ古式マッサージ(タイ伝統医療)の学校。
バンコク滞在中には、夜な夜なでタイ古式マッサージを受けましたが、かなり良いものでした。

涅槃像


トゥクトゥク

三輪タクシー。みんなで試乗。これはなかなかおもしろい乗り物ですね。
バンコクは渋滞がひどく、二輪バイクやトゥクトゥクで以下にすり抜けるか、が肝になっているような交通事情。。。


往路

機内でコジラ1.0/Cを見つつ。。。

機内食 ANA

台湾島を横目に。

スワンナプーム国際空港
アジア最大級の国際空港は成田の三倍という。


バンコクでの飲食

食べたり飲んだり。

1日目。

2日目。

3日目

スイカジュースが美味しかった。。。

丸ごとココナッツジュースも美味しかった。

マンゴージュースはすごく濃厚。。。

泊まったホテル。

チップ文化。

路々の仏様。


帰路

スワンナプーム国際空港

羽田は、第二ターミナルの国際線まで、バス移動。。。

バンコク、楽しいですね。
今回は仕事でしたが、プライベートでも行きたいですわ。

“微笑みの国”・タイ、気に入りました!!


※撮影:2024年6月 2025年2月

「下志津駐屯地創設69周年記念行事・その2」つつじ祭り(2024年・千葉)

2024年4月、下志津駐屯地の創設69周年記念行事に行ってきました。
「つつじ祭り」

陸自高射学校が所在する、いわば「陸自防空のメッカ」。
観閲行進や対空戦闘訓練展示を中心に。
87式自走高射機関砲(87AW 俗称ガンタンク)が見れたのが嬉しい
(あまり見かける機会がないので)

その1は、こちらにて

下志津の観桜はこちらにて


下志津の「つつじ祭り」

つつじ祭りといえば、東京は根津神社が有名ですが、なかなか下志津のツツジも良いものです。

陸自高射学校


記念式典

10時から記念式典の開始、です。
駐屯地イベントに参加していると、基本的な式典進行は同じなので、「いつもどおり」な感覚にはなってくるが、駐屯地ごとの個性もあって、それはそれで面白い。

入場

指揮官入場

観閲官入場
陸自高射学校長は陸将補。
「赤」で銀色桜星2個が陸将補の車両標識

国旗入場

国旗掲揚

巡検

記念式典のあとは、音楽隊。


観閲行進

おおお、観閲行進は「陸軍分列行進曲」。これはやはり良いですね。


対空戦闘訓練展示

状況開始

某国の侵入を、高射戦力でもって陸上対空戦闘で撃退する訓練展示。

高射部隊、近SAM・短SAM・中SAMのSAMチームとペトリオット・ホークの展開。

て!!

高射射撃展開後に地上部隊の突撃

航空支援も

73式装甲車73式装甲車、なにげにはじめてみた気がする。。。

87式自走高射機関砲(87AW)スカイシューターことガンタンクの登場!

制圧

制圧完了

状況終了


装備品展示

87式自走高射機関砲(87AW)

土浦(武器学校)からの出張、10式戦車(10TK)。

下志津陸軍飛行学校の歩哨舎(門柱)

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
かつては下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
歩哨舎の外観を生かして、内部空間を塞いで、近年に「門柱」としたようだ。

※2024年4月撮影


関連

「下志津駐屯地創設69周年記念行事・その1」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2024年・千葉)

2024年4月。下志津駐屯地。
基地行事があったので、行ってきました。
昨年は観桜のみ参加しましたが、今年は記念行事で。

まずは、旧軍ぽいところを散策。

下志津陸軍飛行学校の細かい話は、下記で。

ちなみに、記念碑を見学する際は、観桜でないとだめでした。
駐屯地記念行事の際は、記念碑エリアは立入禁止でしたので。。。


下志津陸軍飛行学校格納庫

往時の格納庫をベースとした建屋が現存している。


下志津陸軍飛行学校の煉瓦基礎木造便所

往時のトイレ(内装は変わっているとしても)が残っているのは大変珍しい。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R535-64
1947年11月12日、米軍撮影の航空写真を加工。

1947年11月12日写真の格納庫部分を拡大。

現在の航空写真、建屋の屋根形状が合致。

なお、最南端の格納庫は移築され千葉公園体育館として活用されたが、解体


往時の遺構と思われる建屋?

航空写真では絞りきれなかったが、雰囲気から往時の建屋?と推測。

往時の建屋と思われるエリアの中心には、巨大な通信鉄塔がそびえている。


広報史料館

内部は撮影禁止、でした。
陸自防空のメッカだけあり、防空関連資料展示が豊富。

なお、下志津陸軍飛行学校跡碑を始めた記念碑群の見学は、封鎖されていて出来ませんでした。
背面のみ。
正面から確認したい場合は、「観桜開放日」がおすすめ。

※撮影 2024年4月

※その2へ

霞ヶ浦駐屯地 開設71周年・関東補給処 創立26周年記念行事(2024年)

霞ヶ浦駐屯地の記念行事に行ってきました。
2024年4月28日。

戦跡関連は、下記にて


霞ヶ浦駐屯地記念行事

昨年(2023年)は雨天で記念式典観閲行進は中止でしたが、今回は晴天。
霞ヶ浦駐屯地はスペースの都合か、しょうしょう狭い記念式典でした。

記念式典会場

厚生センター

整列

10式さん

はじまり

指揮官入場

観閲官入場

国旗掲揚

巡閲

陸上自衛隊関東補給処長 兼ねて 霞ヶ浦駐屯地司令

陸将なので銀色桜星3個。


観閲行進

補給処本処なので、後方支援な部隊が中心。
それはそれで、良い。

空自も。

16式機動戦闘車

10式戦車

グランドは立入禁止。だいたいの駐屯地はグランドで式典するけど、ここでは使わない。。。


霞ヶ浦駐屯地(本部地区)散策

本部庁舎

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報資料などは、2023年の記事で。。。


高機動車試乗

当たりました!
なかなか壮快な走り、撮影禁止なので、まあ。


霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)

旧海軍時代の格納庫が残る。詳細は2023年の記事で。


庚申塚(庚申青面金剛)

2023年のときは、垣間見れなかった、庚申塚を遠目に見ることが出来ました。(自販機エリアの奥から望遠)
立入禁止なのことはかわりないでしたが。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚の由来
(前略)
 庚申塚にまつわる話として言い伝えられていることは、この地に数百年前からあった庚申塚を旧海軍航空隊が格納庫建設のため取り払い工事を始めたところ怪我人が頻発しその後航空事故が続発した。土地の人や工事関係者の間では庚申さまのたtりではないかと恐れていた。
 当時、精強を誇った海軍も庚申塚を取り払ったままにしておけなくなって土地の篤信者と相談し、昭和10年12月現在のところに再築し、小さい方の碑を建立し無事故を祈願した。その後、大事故は殆どなくなりご利益あっらたな庚申塚と言われるようになった。また時期は不明であるが庚申塚に手をかけると災難に見舞われると言い伝えられいる。
 大きい方の碑は格納庫の建設が完了した昭和14年12月に格納庫の落成を謝し建立して航空安全を祈願したと言われている。
 最近では、塚も崩れかかり、碑も傾いてきたので平成6年11月に分校と業務隊が諸々の安全を祈願して整備再鎮座したものである。


霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫(茨城倉庫)

霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫として、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。

  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
  • 茨城倉庫3
  • 茨城倉庫2
  • 茨城倉庫1

今回は、敷地外から「茨城倉庫」を見学。

自衛隊側からはこちらで。


周辺の建屋

近くに古そうな建屋があったので記録してみたが、往時の航空写真を見直すと、どうやら違うようで。戦後の建屋ですね。

※撮影:2024年4月


関連

第3師団創立63周年・千僧駐屯地創設73周年記念行事(2024年・伊丹)

大阪出張の前泊で、大阪入りしていたので、なんとなく第3師団司令部が所在している「千僧駐屯地」に足を運んでみました。
大雨で、ろくに写真は取らず、でしたので、さらりと。


千僧駐屯地

旧軍がいっさい地縁としては関与していない珍しい駐屯地。
昭和27年に開設。
第三師団長は陸将。第三師団副師団長は陸将補、駐屯地司令を兼務。

ちなみに千僧(せんぞ)と読む。難読系。
大僧正「行基」ゆかりの地。
行基が農業振興のために昆陽池を造営した際に出た犠牲者の霊を慰めるために、元明天皇の命を受けて713年に千人の僧を招いて行った「千僧供養」から。


広報資料館(千僧駐屯地)

海軍航空爆弾
「二十五番通常爆弾」(対艦艇用/250キロ爆弾)
対艦250キロ爆弾、です。

「AN-M66型1トン爆弾」
太平洋戦争中、米軍が大阪城近くに投下した爆弾

「七年式三十糎榴弾砲」
陸軍が大正7年(1918年)に制式化した口径305mm重砲

広報資料館内に。「記念館」と掲げられていますね。

第三師団は、近畿2府4県を管轄。
中部方面隊直轄と合わせた関西の陸自駐屯地は下記となる。
 兵庫県:千僧、姫路、青野原
 京都府:福知山、大久保、桂、宇治、祝園
 大阪府:伊丹、信太山、八尾、川西
 滋賀県:今津、八尾、大津
 奈良県:(陸自駐屯地なし)
 和歌山県:和歌山

木口小平。広島歩兵21聯隊第3大隊第12中退所属。
「キグチコヘイハ テキノ タマニ アタリマシタガ シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」

硫黄島の砂
英霊に敬意を

野外展示。


殉職隊員顕彰碑

合掌

第三師団庁舎


観閲式・観閲行進

グランドに移動します。雨の移動は煩雑ですね。
また毎度毎度で、入退出するたびに手荷物検査するのも煩雑で。。。

到着時間が遅かったので、良い場所が確保できず。
写真はあまり取らずで見物します。

雨で傘が広がるので、視界も今ひとつ。

午前の部の模擬戦闘訓練は写真諦め。


第3偵察戦闘大隊

今津駐屯地に新編された大隊。
第3偵察戦闘大隊は、滋賀県高島市の今津駐屯地に駐屯していた第3戦車大隊と兵庫県伊丹市の千僧駐屯地に駐屯していた第3偵察隊を基幹として、令和5年3月に新編。

16式機動戦闘車、87式偵察警戒車、軽装甲機動車、オートバイ(偵察用)が主要装備品。


模擬戦闘訓練展示

午後の部を。

状況終了

雨でなかなか厳しい環境でしたが、訓練展示を2回実施してくれる駐屯地記念行事ははじめてでした。

※撮影:2024年5月


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