「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

濃飛護國神社(大垣)

2024年6月に大垣に立ち寄る機会があったので、大垣城の護國神社を参拝してきました。
御英霊に感謝を。

時間の都合で、午前5時台という早朝参拝でした。
社務所開始前のために、御朱印などはいただけず。また再訪したいものです。


濃飛護國神社

大垣城址(大垣公園)に鎮座する。
岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の戦没者1万8900余柱を祀る。

現在、岐阜県には主要な護國神社が3つ存在している。
「濃飛護國神社」「岐阜護國神社」「飛騨護國神社」

創立の順番
 1870年(明治3年)  大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)
 1909年(明治42年) 高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)
 1940年(昭和15年) 岐阜城金華山の麓に岐阜護國神社

1869年(明治2年)、旧大垣藩主・戸田氏共が戊辰戦争に参加した大垣藩士の戦死者54名を祀るため、大垣城下の操練場に仮招魂祠を創建したのに始まる。
1870年(明治3年)に大垣城内に「大垣招魂社」(後の濃飛護國神社)が創建。
1875年(明治8年)9月、国庫から毎年神饌、祭祀料、営繕費が支給されることになり、「官祭招魂社」(大垣招魂社)となった。

1939年(昭和14年)3月27日に官祭「濃飛招魂社」に改称し、次いで「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)による同年4月1日の官報告示を以って内務省指定の「濃飛護國神社」と改称した。
社殿造営工事中の1945年(昭和20年)7月29日、大垣空襲で本殿、拝殿、社務所を全焼。
現在の社殿は、1956年(昭和31年)4月に起工。1958年(昭和33年)4月21日に本殿が竣工し、翌1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

岐阜県内では、濃飛護國神社と岐阜護國神社が、内務省指定護國神社となっている。(飛騨護國神社は指定外護國神社)

濃飛護國神社
陸軍大将 林仙之書

社号標は、大日本傷痍軍人会大垣市分会による建立。
林仙之は、大日本傷痍軍人協会会長を勤めていた縁で揮毫。

参道

1965年(昭和40年)に、西濃運輸(現・セイノーホールディングス)創業者・田口利八が大鳥居を奉納。

1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

官祭招魂社
陸軍中将 上田太郎 謹書

濃飛護國神社になる前時代の社号標。
上田太郎は岐阜県出身。第19師団長などを歴任。

濃飛護國神社裏参道
天皇陛下皇后陛下御親拝記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝されている。

御本殿


神馬像(濃飛護國神社)

日露戦役満二十五週年記念

招魂社

天皇陛下 皇后陛下 行幸啓記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝


石灯籠(濃飛護國神社)

愛国婦人会安八郡幹事部
明治43年4月建之


忠魂顕彰之碑(濃飛護國神社)

忠魂顕彰之碑
戦さのため若くして異国の地に散られ給ひし御霊の華は 
郷土の幸を祈りて永久に美しく咲き給ふ
拝礼


傷痍之碑(濃飛護國神社)

傷痍之碑
日傷援護議員協議会々長 衆 議 院 議 員 武藤嘉文 書

平成元年3月吉日建之
財団法人岐阜県傷痍軍人会西濃支部


恒久平和之碑(濃飛護國神社)

恒久平和之碑
シベリヤ抑留者ダモイ会
 今川順夫書

平和記念碑建立の志
 昭和20年8月15日に、第二次世界大戦は漸く終戦を迎える事が出来た。しかしその当時旧満洲地区に居た約60万の日本軍将兵及び民間人は、直ちにソ連軍の支配下に入り、極寒のシベリア地区抑留の身となった。
 ラーゲル(収容所)生活では、粗末な服装と僅かな食糧を与えられただけで、冬は零下60度の寒さに耐え、夏はブヨとダニの猛襲に悩まされ、シベリアの雪の中での大木の伐採や、バム鉄道(第2シベリア鉄道)の路盤工事、炭坑での石炭堀等の重労働を強いられ、明日の命が誰一人として保証されなかった中で、男泣きに泣きながら歯を食いしばり唯ひたすら「何時かはダモイ」(日本へ帰る)皆でダモイ・ダモイを合言葉に、それを一つの盾とし、又大きな励みとして、一日も早いダモイに望をかけ、厳しい労働に耐え忍び、漸く生き伸びて帰還することが出来たのである。
 しかし中には飢餓と酷寒と重労働など、あまりにも生き地獄のような過酷な条件に耐え切れず、幾多の戦友がシベリアの地に散っていった。その数は6万とも10万ともいわれて居る。
 今思いを致せば当時のシベリアの悲惨さが、脳裏に深く焼き付き、改めて平和の尊さが偲ばれるのである。
 私達シベリア抑留者西濃地区ダモイ会会員一同は、これらの悲惨な戦争は二度としてはならないと心に誓い合い、永遠の人類平和のために此処に平和の碑を建立し、後世に残すものである。
 1991年(平成3年)8月9日
   大垣市・西濃地区ダモイ会  会長 今川順夫

此の恒久平和の碑は1945年、中国満州の地において終戦、日本に帰れると思ったら、ロシヤ軍によって強制連行され日本兵約60万人以上の人が極寒のシベリアの地において飢餓と、重労働に苦しみながら約6万人以上異国の土と化した。 明日の命がだれ一人として保証されなかったなかで、このような悲惨なことが二度とあってはならないと平和の誓いを込めてこの碑を建立しました。
   大垣西濃地区ダモイ会(ダモイとは帰る)
  「国の賠償に代わる労務提供者」として我々は抑留された。


大垣城址

大垣城は国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失している。

※撮影:2024年6月


関連

岐阜護國神社

宇都宮市慰霊塔と宇都宮空襲(軍都宇都宮の戦跡散策6)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本編は「その6」です。「その5」はこちらから。


宇都宮市慰霊塔(北山霊園)

北山霊園行きのバスが、宇都宮駅から1時間に1本程度走っている。急に思い立って行こうと思ってもなんとかなる感じではある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tochigi_utsunomiya_city001/index.html

宇都宮市慰霊塔は、北山霊園の奥まった高台に鎮座していた。

以前の写真よりもきれいになっているので、近年の再整備と思われれる。

合掌

昭和四十五年九月
宇都宮市慰霊塔建設委員会
  委員長
  宇都宮市長 小池嘉子

明治以来國運は時に隆替したが遂に今日の繁栄を見たのは先人達が義勇奉公國難に處した賜である
茲に郷土出身の戦歿者戦争引揚死者戦災死者並に公務殉職者の勲を讃えて感謝の誠を捧げ世界の平和と祖國の發展を祈念しこの聖地に慰霊の塔を建てその冥福を祈る


平和の塔(北山霊園)

鳩と地球の平和の塔

平和の塔
  宇都宮市長 小池嘉子

昭和47年4月の建立


陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑(北山霊園)

栃木県出身の陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑。

陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑
 元第十飛行師団長陸軍中将近藤兼利 書

 昭和9年に誕生した少年飛行兵は、同20年太平洋戦争終結までの間に、若干14、5歳の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、日本陸軍航空部隊の中核となり、遼友と靖國の宮での再開を誓い合って、数々の武勲をたて、大空に華と散っていった。
 今は還らぬ友を偲び、英魂を慰め、その偉業を幾世に伝えると共に、永遠の平和を祈念して、生存者一同相はかり、ここに慰霊の碑を建立する。
 昭和49年9月23日
   少年飛行兵栃木県出身 生存者 関係者 一同 建立

皇太后陛下(香淳皇后)御歌
やすらかに
ねむれとぞ思ふ
 君のため
いのちささげ
志ますらをの
 とも


北山霊園

北山霊園は昭和39年開設。

東北新幹線を見下ろす高台

場所

https://maps.app.goo.gl/bHXmJQFgST9wj6uu6

※撮影:2024年8月


宇都宮空襲

軍都であった宇都宮は、軍需工場(中島飛行機)のあった太田市や大泉町ともども、たびたび空襲を受けた。
昭和20年(1945年)7月10日、7月12日、7月28日、7月30日、8月13日が主な空襲とされ、中でも7月12日の空襲ではB-29が133機到来し、市街地中心部を爆撃され600余名が死亡し特に「宇都宮大空襲」と称されている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_26.html

また、7月28日は宇都宮と同時に小金井も急襲されている。(小金井空襲)


枝病院門柱戦災記念碑(空襲を語り継ぐ門柱)

宇都宮市街地に。東武宇都宮駅のほど近く。

空襲を語り継ぐ門柱
 1945年(昭和20年)7月12日、宇都宮大空襲によって当時の市街地の大半が焦土と化し、この地にあった枝病院も焼け落ちてしまいました。
 このみかげ石の門柱は、枝病院院長・枝 全(たもつ)さん宅の玄関を支えていたもので「戦争の悲惨さを忘れまい」との枝さんの重いが込められ、現在まで大切に残されてきました。
 2000年4月1日
  うつのみや平和祈念館をつくる会

場所

https://maps.app.goo.gl/bywMzVXTPU25AJZUA

※撮影:2023年5月


旭町の大いちょう

昭和20年7月12日の宇都宮大空襲で被災し黒焦げとなり枯死するかと思われたが、復活を果たした「宇都宮の復興のシンボル」

樹齢は400年以上とされ、宇都宮城三の丸跡に位置する。
宇都宮城があったころからの現存物であり、宇都宮を取り巻く2つの戦争(戊辰戦争・大東亜戦争)を生き延びた貴重な存在でもある。

宇都宮市指定天然記念物
大いちょう
 昭和32年10月4日指定
推定樹齢 400年
樹高   33メートル
枝張東西 10メートル
  南北 13メートル
目通周囲 6.4メートル
大いちょうは、宇都宮城の三の丸と百間堀の堺の土塁の上にあり、宇都宮城ゆかりの名木である。今では、宇都宮市民のシンボルとして、多くの人々に愛されている。
 宇都宮市教育委員会
  (平成元年3月建)

宇都宮空襲と大いちょう
 宇都宮市は、一九四五(昭和二十)年の七月十二日深夜から翌日未明にかけての空襲で、中心市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者をだしました。大いちょうも、この空襲により、真っ黒に焼けるほどの被害を受けましたが、翌年には、新芽を吹き見事に再生しました。空襲にも負けなかった大いちょうの強さは、戦後、焼け跡に残された宇都宮市民を勇気づけました。
 そのことにより、大いちょうは、宇都宮の戦後復興のシンボルとなり市民に親しまれています。その後、市制九十周年を向かえた一九八六(昭和六十一)年に、「いちょう」は、市の木に制定されています。

場所

https://maps.app.goo.gl/AHNJ8XCT22Vm3XFL8

※撮影:2023年5月


カトリック松が峰教会

大谷石建築としては現存最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築。
1932年(昭和7年)11月20日に聖堂が竣工している。
昭和20年の宇都宮空襲において、屋根と礼拝堂が被災し焼失してしまったが、戦後すぐに復元を果たした。

宇都宮空襲を生き延びた建造物

場所

https://maps.app.goo.gl/6iLiBgSj2KUz9TwFA

※撮影:2023年5月


宇都宮ライトレール

せっかく雷都・宇都宮にいるのだから、噂のライトレールに乗車。


宇都宮餃子と陸軍第14師団

宇都宮餃子は、陸軍第14師団が、1940年(昭和15年)8月以降、衛戍地を満州としたことから宇都宮出身の将兵が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれている。

まあ、せっかく、宇都宮にいるのだから、餃子を。
駅ナカんだけど、ここの餃子、特に水餃子が美味しい!でした。

別の餃子も

※撮影:2024年8月

いったん、宇都宮関連はひとまず〆。
また追記があれば、それはそれで。。。


宇都宮関連

栃木縣護國神社
はじめに

宇都宮歩兵聯隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策4)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


見返り橋(水無橋)

かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zPXbBSDDFJEstx3F7

歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。

いったん北に向かいます。


宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)

歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。

宝木
開拓之碑

碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
 昭和46年3月12日
  宝木開拓農業協同組合

場所

https://maps.app.goo.gl/bM5vn2kj31xCRecQ6


宇都宮歩兵聯隊跡碑

わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。

碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。

至誠
宇都宮歩兵聯隊跡

記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った 
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた 
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した 
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
 昭和38年3月10日
  宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
  および 有志一同

場所

https://maps.app.goo.gl/RzEUFYdMboA2y72r7


宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)

宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/FSVb5ftYrrdAHxGF9

警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。

殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。

胸像は委細不明

栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。


宇都宮歩兵聯隊の倉庫

栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。

明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。

敷地外から遠望。

倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。

場所

https://maps.app.goo.gl/mX4UCfw1DMHRQxtW8

※撮影:2024年1月

「その5」へ


関連

栃木縣護國神社

中島飛行機大谷地下工場跡(軍都宇都宮の戦跡散策1)

大谷石の地下採掘場も、戦時中は軍需工場であった。
JR宇都宮駅からバスで約30分。せっかくなので気になっていた大谷石資料館に足を運んでみました。


大谷資料館

栃木県宇都宮市大谷町にある、大谷石採石場跡に関する博物館。
大谷資料館の地下採掘場跡は、1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけて、 大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間となり、2万平方メートル(140m×150m)にもおよび、野球場が一つ入ってしまう大きさである。
戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用されてきた。
1943年:陸軍の糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫として使用。
1945年:中島飛行機(富士重工業・SUBARU)の四式戦闘機製造のため地下軍需工場として使用。
1969年:年平均気温が8度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として利用。
1979年:大谷資料館がオープン。地下採掘場が一般公開。

http://www.oya909.co.jp/

http://www.oya909.co.jp/contents/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%9F%B3%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E6%8E%A1%E6%8E%98%E5%A0%B4%E8%B7%A1/


大谷地下工場について

大谷資料館の場所の地下は「中島飛行機宇都宮製作所城山工場」であった。
また南西部の地下には「中島飛行機武蔵製作所大谷工場」もあった。

大谷地下工場について
 太平洋戦争時の大谷地下工場、今では知る人も少なくなりましたが、1945年3月ごろ、この大谷地区には、日毎に激しくなる米軍機の爆撃を避けるため、工場の疎開が行われ、展示図の中島飛行機(株)(現富士重工)宇都宮製作所城山工場(機体)と、図面南西図に位置する戸室山を中心とした同武蔵製作所大谷工場(発動機)の二工場が飛行機の地下生産を開始しました。当時、この二工場には、正規従業員・徴用工・女子挺身隊員・通年動員による旧制中学校3年以上の男女学生・坑内工事関係者・関係軍人合計約15,000名の人達が勤務していたと言われています。
 これらの方達の中には、大谷で唯一公開されている当資料館坑内を訪れ、当時の思い出などを話して帰られる方もあります。ここは城山工場に属し、治工具・熱処理部門の工場になっていました。
 地元である宇都宮製作所は、1943年10月ごろから既にその準備に入っていましたが、外来の武蔵製作所は1944年11月からでした。
 大谷では、明治末期ごろから、坑内掘りが行われていて、多くの地下坑があり、軟石のため、拡張が容易なことから、工場の疎開先に選定されたわけです。既設坑の整備と共に坑の新設、各坑との連絡通路造成のためにダイナマイトの発破作業による隧道(トンネル)の掘削が、文字通り、日夜突貫工事で行われ、展示図(城山工場)の様な大地下工場群ができたのです。青図は白抜き部分、拡大図ではピンク染色部分が隧道です。
 最近大谷では、採掘跡(廃坑)が問題視されていますが、戦後の復興期、これらの隧道を利用して、盛んに採掘が行われたため、廃坑問題の一因ともなっています。
 しかし、廃坑になった所は採掘に伴う廃土石の捨て場として、埋め戻されることが多いため採掘跡全部が空洞になっているわけではありません。

空襲を避け、長期戦に備えるため、日本でも有数の地下工場群として、計画され、実施中だった城山工場(河内郡城山村大谷)の極秘配置図です。米軍も、この地下工場には全く気付かず、接収に当たり、その規模の大きさに驚いたそうです。

昭和17年 1942
 入江侍従、大谷石採掘場視察
昭和19年 1944
 陸軍糧秣廠・被服廠、大谷石採掘場を地下倉庫に使用
昭和20年 1945
 中島飛行機工場を地下工場に移転
 採掘場は地下工場となる

ここに展示されたパネル写真は、終戦当時進駐軍関係者により撮影された大谷地下工場の数少ない写真です。

1 発破作業により開坑された工場(または倉庫)の入口

2 カムフラージュされた望楼

3 当時最新の工作機械

4 中島飛行機製作の戦闘機「疾風」(通称ハチヨン)の星型エンジンケース

5 工場接収時、日本側の説明を受ける、米国調査団。
  中島飛行機夏処理工場付近(当大谷資料館地下採掘場)

キ‐84 四式戦闘機「疾風」
 キ‐84、四式戦闘機「疾風」)以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った重戦闘機で、速度、運動性、武装と防御、航続距離など最もバランスに優れ、昭和19年(1944年)4月の制式採用後、陸軍は「大東亜決戦機」と称して、最も重要な航空機として位置づけ、大戦における運命を託した。日本国民の総力を注いで送り出されたキ‐84は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、および本土防空戦において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が発揮できず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を撃墜、あるいは特攻機として出撃、御盾となり南溟に散った。千フォ、連合国は、接収したキ‐84に再整備を施し、飛行テストを実施したところ、秘められた性能を発揮。P‐51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、日本戦闘機の最高傑作と消化した。


地下軍事工場跡(大谷資料館)

地下軍事工場跡
この地下空間は戦時中、陸軍の地下倉庫として、また、中島飛行機の戦闘機「疾風」の機体工場として利用されました。
当時、他の地下工場や外につながるたくさんの隧道(トンネル)が掘られ現在もこの奥に残っています。

地下工場の隧道

広大な地下空間
この地下坑内は、大正8年(1919)から昭和61年(1986)に渡り採掘が行われ、下図のような構造になりました。
広さは、約20,000㎡(間口150mx奥行140m)、深さは地下約30mで、野球場がひとつ入る大きさがあります。
この空間の容積は、約300,000㎥で、約1,000万本の石が切り出され日本全国に出荷されました。

芸術的な地下空間美でもある。

教会エリアは通常非公開とのことで。

圧巻の空間。

いろいろ凄まじい、、、

政府米を預かったときに取り付けられた鉄扉。
採掘場と倉庫の仕切りで、大形トラックが出入りしたという。

石の華
大谷石に含まれる塩分が冬の乾燥時期に結晶として吹き出たもの。
夏場は消滅するという。

なかなか楽しい地下空間でした

外に出ました。

外の景観もなかなか圧巻。

坑口に自販機

場所

https://maps.app.goo.gl/BzL8iqm7W1suWECH8


平和観音(大谷公園)

公園に移動しまして。

天狗の投岩

平和観音

平和観音
 大谷寺の南側に高くそびえる平和観音は、身丈26.93メートル(88尺8寸8分)の高さで、第二次世界大戦による戦没者の霊を弔い、世界平和を祈念するために、大谷観音の御前立として彫刻されたものです。
 戦後間もない昭和23年9月より、当時の大谷観光協会と地元の人々の熱心な後援のもとに、大谷石の採石場であった壁面を利用し、南側の岩肌に観音像を刻みました。東京芸術大学教授・飛田朝次郎氏が彫刻を手がけ、その指導のもと、大谷町の大工・上野浪造氏らが制作にあたりました。6年の歳月を費やした結果、昭和29年12月に完成しました。
 昭和31年には、日光輪王寺門跡菅原大僧正により開眼供養が行われ、それ以降大谷の顔としてそびえ立っています。

平和観音の隣は見晴台になってました。

場所

あいかわらず、見事な石の造形があっちこっちに、です。


慰霊之塔(大谷公園)

大谷の城山村地区戦没者390余名の慰霊顕彰碑

慰霊之塔

撰文
我が日本は開国と共に世界の文化を吸収して近代国家に発展したが幾多の戦乱に遭い遂に太平洋戦争に突入して許多の多くの尊い生命が祖国進展の為に捧げられた 明治大正昭和の三代に亘り我が家郷を出て、故国の悲運に殉じたる者実に三百九十余名の多きに及んで居る 其の愛国の情を祖国再建の礎石たらんことを確信して茲に慰霊之塔を建立し霊を慰むると共に世界永遠の平和を祈念して人類理想具現の道標とせんとする者である
 城山村長 安納 基 謹書
  昭和29年10月 建立

以上、大谷関連の戦跡散策、でした。

場所

https://maps.app.goo.gl/5yzScbRZP6wbFQXT9

撮影:2024年1月


中島飛行機関連

はじめに

陸軍富士飛行場跡地散策(富士市)

以前に、陸軍児玉飛行場のことを調べていたら、富士飛行場の話題が出てきて、そのときから気になっていた場所。
ようやく、足を運ぶチャンスが訪れましたので、散策してみました。


陸軍富士飛行場

「富士飛行場」
国道一号線の「道の駅富士」が、飛行場のほぼ中心に位置している。
戦争末期の1944年6月に工事着工。
1944年10月に「明野陸軍飛行学校天竜分教所富士分教場」が開設している。
明野陸軍飛行学校(三重)の下部組織として「天竜分教所」があり、さらに下部組織として「富士分教場」という位置づけ。
ややこしいのは、「飛行学校の富士文教場」とは別に、「陸軍重砲兵学校富士分教場(=陸上自衛隊駒門駐屯地)」というのもあって、それは御殿場なので、まったく別地域。


野中俊雄大佐

昭和20年7月18日に、児玉飛行場の第27飛行団長(第6航空軍隷下・司令官は菅原道大中将)に就任した野中俊雄大佐(士候36 陸大専科7)。
児玉飛行場の飛行団長としても終戦間際を描いた映画「日本のいちばん長い日」に出てくる。

野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に、第27飛行団の部下とともに入植開墾。そして開墾した地を「靖国」と名付けたという。
なお、野中俊雄は、1902年(明治35年)生まれ、1993年(平成5年)に92歳で亡くなっている。


靖国町

静岡県富士市五貫島。
住所としては呼称されていないが、この富士南地区の町内会に「靖国町」がある。

戦禍の果て
跡刻む靖国町 進む風化
幻の富士飛行場(下)
 富士市の富士南地区にあった富士飛行場は、1945(昭和20)年8月の終戦で1年足らずの役目を終えた。70年を経て、跡地には民家や事業所などが立ち並び、飛行場の面影はほとんど消え去った。ただ、地名としてその跡を刻む場所がある。
 現在の同市五貫島付近に位置する一つの町内を地元の人は「靖国町」と呼んでいる。この地は終戦後に入植した旧軍人が住み、名付けた。入植者の中心は、埼玉県の児玉飛行場を拠点としていた「第27飛行団」に所属していた人たちだった。飛行団長だった野中俊雄大佐=当時(42)、大分県出身=が、帰る場所のない部下らとこの地を訪れた。他からも軍人らが集まり、滑走路として使われていた土地で農業をしながら新たな生活を始める決意をした12世帯が「靖国町」の始まりだった。

静岡新聞 連載企画 「轍」 ~しずおか戦後70年~
https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No2-144
1946年05月22日に米軍が撮影した航空写真を参照。

富士飛行場部分を抜粋、すでに入植がおこなわれている。

現在の様子。国道1号線と東海道新幹線が横断している。
旧国道1号線は、だいぶ北側(東海道本線より北側)を通っていた。


陸軍富士飛行場跡地散策

戦跡としては何も残っていない。
国道1号の交差点名に「靖国」とある。これが戦後に入植した野中俊雄大佐たちの残した地名の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/bwpJhMZryeEti7D27

町内会として「靖国町」がある。

靖国公会堂

靖国地下道

地域に根づいた地名として。ここに確かに「靖国」が伝承されていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RbvSeLXN4mPCedBe6


開拓記念碑

富士南まちづくりセンター敷地内南西角に。

開拓記念碑
この辺りは、昭和19年(1944年)から陸軍富士飛行場用地として使用されていました。戦後、開
拓事業として元の土地提供者が中心となって入植し、10年余の歳月をかけ、その努力により元の緑の田畑に復旧しました。
 この碑は、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立。令和2年(2020年)、現在地に移設されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/shisei/c1401/rn2ola000002sc7b.html

富士南地区の歴史
 富士南地区は、『ききょうのさと』と呼ばれています。江戸時代、富士川の氾濫によって富士南地区一帯に築かれた堤防が「帰郷堤」と呼ばれたことから名付けられました。この堤防を造った勘定奉行土岐摂津守の家紋が「桔梗」だったこと、堤防ができてから人々が安心して故郷に帰ってきたことが「帰郷堤」の由来とされています。
 また、第二次大戦中、陸軍富士飛行場の建設により立ち退かされた住民が、戦後、再びその地に帰郷したことも、住民の「ききょう」という言葉への思いを強めています。
 戦後、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立した開拓記念碑が、現在は富士南まちづくりセンター駐車場に移設されています。
 現在の富士南地区にあたる区域は、昭和41年の2市1町の合併による新制「富士市」の誕生、昭和47年の「線引き」による市街化区域への区分などにより急速に宅地化が進み、昭和53年に開校した富士南小学校の校区と同一です。昭和56年の富士南公民館の開設に合わせ、富士駅南地区の一部及び田子浦地区の一部をもって組織されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/machi/c0605/rn2ola0000043ki1.html

開拓記念

富士飛行場跡地は、碁盤の目できれいに整備されている。
下記の写真は、南北に連なる道路。かつての滑走路も同様に南北に伸びていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RGfoozzpqZHBxMew8


道の駅「富士」

「道の駅富士」は、静岡県で最初に誕生した道の駅。
陸軍富士飛行場のちょうど真ん中あたりに位置している。

「桜えびひつまぶし」をいただきました。美味。
これは、桜えびシーズンになったら、がっつり食べに行きたいですね。

国道1号線
富士飛行場のあった方向を望む。

富士川の河口

富士山は雲がかかっていました。

ちなみに、富士川の対岸の新蒲原駅からシェアサイクルを活用。移動は20分前後なので、そこまで苦ではなく。
何気にクロスバイク系は、疲れてくると足を後ろに振り上げるのも大変で。
走り出したら楽なんですけど。

新蒲原駅前。桜えび漁船。

ちなみに、戦跡としては、「富士飛行場燃料庫地下壕」も残存している。
富士飛行場の建設に併せて、航空燃料の油を保管する倉庫として岩本山西麓に掘った地下壕。
今回は未訪問でしたが、機会あれば、で。

※撮影:2024年8月


神奈川宿周辺の戦跡散策

横浜駅の隣の神奈川駅。
かつては東海道五十三次の3番目の宿場町「神奈川宿」のあった場所。
ちょっとした戦跡が残っているので、散策してみた。


神奈川駅・神奈川宿

東海道五十三次の日本橋から数えて3番目に位置する「神奈川宿」
この地が「県名や区名」の由来となった「神奈川」の地であり、近代都市「横浜」の母体となった地でもある。

まずは、幸ヶ谷公園に向かいます。

場所

https://maps.app.goo.gl/RnHNFd8pxwREB7QeA


表忠碑(幸ヶ谷公園)

神奈川宿(神奈川町と青木町)出身者における日清戦争3柱、日露戦争21柱の陣歿者合計24柱を合祀した招魂碑。
明治43年6月、神奈川軍友会が建立。


支那事変陣歿者銘碑(幸ケ谷公園)

隣には、支那事変陣没者銘碑もある。
支那事変による陣歿者120名の慰霊碑。
皇紀2600年にあたる昭和15年10月20日に、帝国在郷軍人会によって建立。

神奈川区第二次世界大戦陣没者

昭和41年に合同慰霊祭を執行し、第二次世界大戦での陣没者1357名の御霊は洲崎神社に奉安されている。


権現山(幸ヶ谷公園)

神奈川宿の権現山は、幕末から明治にかけて作られた神奈川台場や鉄道用地の埋立のため削りとられ山としては、姿を残していない。
権現山は、戦国時代には上田蔵人の砦があり、北条早雲に内通をしたことで、扇谷上杉朝良に責められた「権現山合戦」の跡地でもある。


割れた石碑(幸ケ谷公園)

昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲では、神奈川宿にほど近い東神奈川駅周辺をはじめ5カ所を目標地点に設定し集中的に攻撃した。
割れているので、委細不明だが、太田櫛朝書とある。太田櫛朝は江戸文字(千社札文字)で著名。
この功績碑は、一説には「横浜大空襲」で割れた、ともいわれているが、これも委細不明。

幸ケ谷公園


防空壕?(洲崎大神)

洲崎大神のわきに、防空壕と思われる横穴が残っている。


洲崎大神

1191年(建久2年)創建。
源頼朝が安房国安房郡(現・千葉県館山市)の安房国一宮安房神社より分霊を勧請。
明治天皇の東京行幸の際、境内に内侍所奉安殿が設けられた。

明治遷都内侍所奉安之跡

皇紀2600年記念

御即位記念
大正4年11月10日建之

場所

https://maps.app.goo.gl/BaytmnTP5e39sg6r8

※撮影:2024年5月


杉野中尉殉難遺蹟の碑(荒川区東尾久)

都電荒川線の熊野前停留所のちかくにある「はっぴーもーる熊野前商店街」
商店街の只中に、異色な空間がある。
そそり立つ石碑には「杉野中尉殉難遺蹟」とあった。


杉野中尉殉難遺蹟

熊野前商店街防災スポットにある石碑。
かつては、稲荷社と飛行機オブジェもあったというが、防災スポットとして整備された際に、それらは無くなり現在のようなすっきりした空間となったようだ。
荒川区のサイトの写真は、再整備前のもの。

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/ogu001.html

航空界初期の事故
わが国の初飛行は、明治43年(1910)のことで、徳川好敏大尉が代々木練兵場で高度70メートルで約3,000メートルの距離を飛んでいる。それから7年後にして尊い犠牲が生まれた。
陸軍工兵中尉杉野治義(27歳)が、陸軍野外飛行で下志津から高度500メートルで所沢へ帰航中、突風に襲われて尾久村の水田に墜落したのである。
大正6年(1917)3月25日、午前11時40分のできごとであった。
荒川区教育委員会

杉野治義中尉(陸軍工兵中尉)は大正6年3月25日午前11時45分、千葉の下志津から所沢飛行場へ、フランスから輸入した複葉モーリス・ファルマン2号機で高度500メートルで帰航中、突風に翼を折られ機体がバラバラになって尾久村(当時)の水田に墜落、殉職している。
翌年の大正7年に一周忌に、帝国在郷軍人会尾久村分会によって殉職遺跡碑が建てられた。

航空黎明期の事故であった。

合掌

ちなみに、近くには、「東京初空襲の地」もある。

場所

https://maps.app.goo.gl/6SFF5VkDcpk6d7vo6

撮影:2024年8月


関連

霞ヶ浦駐屯地 開設71周年・関東補給処 創立26周年記念行事(2024年)

霞ヶ浦駐屯地の記念行事に行ってきました。
2024年4月28日。

戦跡関連は、下記にて


霞ヶ浦駐屯地記念行事

昨年(2023年)は雨天で記念式典観閲行進は中止でしたが、今回は晴天。
霞ヶ浦駐屯地はスペースの都合か、しょうしょう狭い記念式典でした。

記念式典会場

厚生センター

整列

10式さん

はじまり

指揮官入場

観閲官入場

国旗掲揚

巡閲

陸上自衛隊関東補給処長 兼ねて 霞ヶ浦駐屯地司令

陸将なので銀色桜星3個。


観閲行進

補給処本処なので、後方支援な部隊が中心。
それはそれで、良い。

空自も。

16式機動戦闘車

10式戦車

グランドは立入禁止。だいたいの駐屯地はグランドで式典するけど、ここでは使わない。。。


霞ヶ浦駐屯地(本部地区)散策

本部庁舎

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報資料などは、2023年の記事で。。。


高機動車試乗

当たりました!
なかなか壮快な走り、撮影禁止なので、まあ。


霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)

旧海軍時代の格納庫が残る。詳細は2023年の記事で。


庚申塚(庚申青面金剛)

2023年のときは、垣間見れなかった、庚申塚を遠目に見ることが出来ました。(自販機エリアの奥から望遠)
立入禁止なのことはかわりないでしたが。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚の由来
(前略)
 庚申塚にまつわる話として言い伝えられていることは、この地に数百年前からあった庚申塚を旧海軍航空隊が格納庫建設のため取り払い工事を始めたところ怪我人が頻発しその後航空事故が続発した。土地の人や工事関係者の間では庚申さまのたtりではないかと恐れていた。
 当時、精強を誇った海軍も庚申塚を取り払ったままにしておけなくなって土地の篤信者と相談し、昭和10年12月現在のところに再築し、小さい方の碑を建立し無事故を祈願した。その後、大事故は殆どなくなりご利益あっらたな庚申塚と言われるようになった。また時期は不明であるが庚申塚に手をかけると災難に見舞われると言い伝えられいる。
 大きい方の碑は格納庫の建設が完了した昭和14年12月に格納庫の落成を謝し建立して航空安全を祈願したと言われている。
 最近では、塚も崩れかかり、碑も傾いてきたので平成6年11月に分校と業務隊が諸々の安全を祈願して整備再鎮座したものである。


霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫(茨城倉庫)

霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫として、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。

  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
  • 茨城倉庫3
  • 茨城倉庫2
  • 茨城倉庫1

今回は、敷地外から「茨城倉庫」を見学。

自衛隊側からはこちらで。


周辺の建屋

近くに古そうな建屋があったので記録してみたが、往時の航空写真を見直すと、どうやら違うようで。戦後の建屋ですね。

※撮影:2024年4月


関連

陸軍松本飛行場の跡地散策(三菱名古屋製作所大江工場の疎開工場跡)

松本で時間があったので、飛行場の跡を見に行ってみた。
松本空港(信州まつもと空港)ではなく、松本飛行場跡です。


松本陸軍飛行場跡・三菱重工業名古屋製作所大江工場の疎開工場跡

松本市にあった大日本帝國陸軍の飛行場。
現在の「松本空港(信州まつもと空港)の北側に位置する。
昭和18年以降に建設開始、昭和20年春に飛行場の運用が開始された。

また、愛知の三菱重工業名古屋航空機製作所(大江工場)が松本市に疎開することとなり、1945年2月1日に三菱重工業第一製作所が開設。
松本飛行場の試作工場において、当時三菱が開発中だった海軍の戦闘機烈風の六号機、七号機が鈴鹿工場から当飛行場に移されて開発、試験を行うこととなったが程なく終戦を迎えている。

同じく、三菱が開発中であった陸軍のキ83の一号機が各務原飛行場から疎開して当飛行場で試験が続けられたが終戦を迎え、進駐してきたアメリカ軍に当飛行場で接収された。
試作双発戦闘機「キ83」の初号機は、そのまま松本飛行場において、米軍のハイオクガソリンを用いて試験飛行を行い、時速762kmを記録し、日本の軍用機史上において”最高速度記録を誇る戦闘機”となった。

旧 陸 軍 飛 行 場
 太平洋戦争が激化してきた昭和18年(1943)10月、陸軍省から今井村役場に関係者が集められ、その場で飛行場範囲が示された。その月のうちに笹賀国民学校に関係する地主が召集され、耕地・山林など200町歩以上に及ぶ飛行場用地買収に調印させられた。10月には測量が始り、19年2月下旬から整地工事が開始された。
 工事には、中信地区の翼賛壮年団をはじめ近傍の住民、学生、児童までが勤労動員され、さらには多くの朝鮮の人々も動員されたため、その数は延べ十数万人であったと、終戦直後の新聞は伝えている。兵舎や格納庫を建てるために動員された大工や鳶職は、広く南信一円にまで及んだ。
 陸軍飛行場が完成したのは昭和20年8月であるが、滑走路はそれ以前に利用可能であり、3月には当時浅間温泉に滞在していた特攻隊の隊員達がこの飛行場から飛び立っている。また、「赤トンボ」とよばれる練習機による訓練も行われていた。
 飛行場の施設は、現在の菅野小・中学校・住宅地の場所に事務所や6棟の格納庫等が集中し、その西
に現在の幅の広い道路と重なる滑走路、さらにその西に広がる広大な草地の方形区画部分、さらにその
南の松林の中に向かう誘導路と多くの掩体壕があった。
 本土爆撃がはげしくなると格納庫は目立つため、陸軍により2棟が破壊されたが、残りの4棟は、終戦時まで三菱重工業名古屋製作所の組立工場として使用された。
 終戦後、飛行場に使用された土地の多くは農地に戻され、かつての滑走路は、菅野小学校西側の道路
となり、格納庫などが置かれた土地は、住宅地となっている。また、格納庫などのコンクリート基礎の一部は菅野小学校グラウンドの基礎を兼ねており、現在でも確認することができる。
   2012年8月
    松本市


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1022-5
昭和23年(1948年)2月18日、米軍撮影の航空写真。

飛行場部分を一部拡大

現地の地図は、東が上になっている。

格納庫をはじめとする地上施設部分を拡大。

現在の様子。

現地の地図は、東が上になっているので、ちょっと位置関係を迷う。

松本市立菅野小学校は、旧飛行場施設のコンクリート製基礎が校庭の基礎として流用されている。


松本飛行場の滑走路跡

松本市道6086号線から西側に滑走路があった。
現在、往時を偲ぶ記念碑がたっている。
市立菅野小学校の近く。


松本飛行場の格納庫基礎跡

松本飛行場の格納庫の基礎が残っている。


松本飛行場コンクリート基礎跡(菅野小学校校庭)

松本市立菅野小学校は旧飛行場の滑走路の東に位置し、旧飛行場施設のコンクリート製基礎が校庭の基礎として流用されている。

ちなみに、アクセスにはコミュニティーバスを使用しました。(バスというより乗り合いタクシーな感じ)
時間の調整が、ちょっと大変でした、、、

場所

https://maps.app.goo.gl/vFziWqAX9zDV2qAy8

https://maps.app.goo.gl/7HKUrKdXwX59gsvw5

※撮影:2024年6月


関連

「苦しいのは息が止まるまでよ…」山の手大空襲の慰霊観音菩薩(早稲田喜久井町・感通寺)

早稲田大学の早稲田の隣町、喜久井町。
昭和20年5月25日の「山の手空襲」では、早稲田喜久井町の防空壕が被災し300余名が亡くなったという。
合掌。


山の手大空襲

東京は昭和19年以降、100回以上に及ぶ空襲を受けてきた。
昭和20年3月10日に東京下町を襲った空襲では死者は10万人を超え、罹災者も100万人を超えており、1回の空襲としては、世界史上に例を見ない規模として「東京大空襲」と称されれているが、その他にも多くの空襲があった。

昭和20年5月25日、空襲警報発令22時22分。
山の手地域に470機ものB‐29が襲来した空襲では、死者3600余人、罹災者は約56万人、焼失16万6千戸にも及び、国会議事堂周辺や東京駅も被災。皇居も被災し 昭和天皇・香淳皇后は御文庫に避難、皇居内の明治宮殿は、この空襲で焼失。

東京地方では、2番目の被災規模であり「山の手大空襲」と称されている。
なお、3月10日の下町を襲った東京大空襲で襲来したB-29は325機であり、山の手大空襲で襲来したB-29の470機は東京大空襲以上であった。

米軍は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」でもって、東京の市街地はほぼ壊滅したと判断し、この日以降、東京への大規模な空襲は終了した。
まさに、東京に止めを刺した空襲が、この「山の手大空襲」であった。

上記の記事は、原宿表参道。
山の手空襲は、東京の市街地各所に爪痕を残している。

早稲田大学の周辺でも大きな被害があった。


喜久井町観音・喜久井町慰霊園

第二次世界大戦の空襲により喜久井町の防空壕で亡なられた方の供養のために建立。
「日米彼我戦歿之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没之諸英霊・鎮魂供養」

建立縁起
昭和20年5月25日当町ヲ含メテ山手地区ハ米軍ノ空襲ヲ蒙リ悉皆灰燼ニ帰セリ酸鼻ノ状タル死屍累々トシテ巷ニ倒レ残月白骨ヲ照シ遂ニ惨害シテ異物ト為スノ観ナリキ。殊ニ夏目坂台地ヨリ早稲田通リ向ケL字型構築セル地下壕ノ中ニ避難ノ人々ハ爆撃炎上焔ト瓦斯ノタメ犠牲者参百余名ヲコエタリト。親ハ愛児ヲ抱キ、若キハ老タルヲ庇イ、夫ハ妻ヲ助ケント為シタル等、或ハ全身大焼炭化シ、或ハ生ケルガ如ク直立シ、或ハ両手ヲ虚空ニシテ落命セル等、目ヲ蔽イ言ヲ失フ恐怖地獄ノ惨状ナリキ。惨害無残非命ニ倒レシ犠牲ヲ念ストキ人皆歔欷シ或ハ慟哭シ、心折レテ生事ヲ悲シムノミナリ。屍ヲ積ンデ草木腥ク流血ハ瓦礫ヲ染メテ声ナシ、マコトニ国破レテ山河アリ、魂魄招ケドモ再ビ来ラズノ感慨ヲ深カラシム、ココニ春風秋雨メグリテ三十三年ノ歳月ヲ閲ミシ漸クニシテ観世音菩薩一体ヲ造立シ奉ルコトヲ得タリ、願クバ日米彼我戦歿之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没之諸英霊・鎮魂供養ノタメナリ。今ヤ一会ノ大衆ト供ニ梵唄誦経修スル所ノ秘妙五段ノ加持ヲ以テ観世音菩薩御尊像開眼供養ノ法儀ヲ営ナミ、仰而喜久井町観音ト名ケ奉ル者也、造立シ奉ル喜久井町観音、ソノ妙智之力ハ能ク群生ノ苦厄ヲ救イ、十方諸々ノ国土ニ於テ身ヲ現ゼザルナク、克ク生老病死ノ苦ヲ減ジ常ニ苦悩諸厄ニ於テ依怙トナラセ給ハン事ヲ。
 昭和52年5月25日 
  造立願主感通寺二十卋伝灯新間日恵

町慰霊園
「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ!!」と子供を抱えて震える私の手も肉もやけどでじんじん落ちていきます。 
 成願寺報五五号抜粋
昭和20年5月25日米軍山之手地区空襲の一般庶民の残状だった。
58年余を経て今日それも忘却のかなたに去ろうとしている。後の私達は歴史として伝え継いでいかねばならない務めがあると痛感し平成16年5月25日・当山に於て前大戦で亡くなられた人々の供養の為に慰霊園を作庭し名を刻し永遠に町会員と共に現在も生きて在しますことを顕すものである。
 伝燈二十一卋日良記す

上記のエピソードは、中野の成願寺の住職が記録したエピソード。

https://www.nakanojouganji.jp/backno/schugaku1.htm

さざれ石

さざれ石
第二次世界大戦が終了し戦勝国も敗戦国も、そして人々も戦争は、つくづく懲りたはずなのに、その後も全世界各地で愚かな争いを繰り返しています。
正義の為と称し、民族、宗教その他あらゆる理屈付けのもとに戦い、地獄の様相を現じております。佛様のお説きになる平和で争いのない、互いに尊重しあう浄佛国土は、いつになったら顕われるのでしょうか。
この人類平和の願いが古来より、「さざれ石」に願いを託して永く伝えられてきました。
国歌に詠まれているごとく「千代に八千代」の年月を経て「さざれ石の巌」となり「苔のむす」と云う、団結と繁栄、平和と長壽を象徴した石であります。
特にこの石は「都園」から寄贈を受け、昭和四十五年に開催された大阪万博博覧会での日本館に展示されていたと云うものです。
 感通寺 二十一世 新間 日良
  平成十六年五月二十五日
この石は、学名を石灰質角礫岩 と云います。
石灰岩が雨水に溶解して粘着力の強い乳状体となり、地下に大粒の石、小粒の石を集結して次第に大きくなったものであります。


感通寺

東京都新宿区喜久井町に鎮座する日蓮宗の寺院。
本妙⼭高田感通寺。
松平越後守(越後高田藩)の下屋敷高田御殿跡でもある。

https://www.kantsuji.tokyo/

お寺犬の、すばるちゃん。

切り絵御朱印が人気。

※2024年5月撮影

場所

https://maps.app.goo.gl/TD3Z2qbegsC8mvZh6


喜久井町戦災者供養観音像
(早稲田大学喜久井町キャンパス)

早稲田大学・喜久井町キャンパス(理工学術総合研究所)

戦時中、早稲田大学喜久井キャンパスの研究所地下には防空壕があった。
空襲に際して周辺住民と学生などが避難していた防空壕も被災し300余名が亡くなったという。

戦災者供養観音像建立の由来
 第二次世界大戦の終局も近い昭和二十年五月二十五日(1945年)米軍の東京空襲は、山手地区の多くを焼土と化した。
 理工学研究所も建物のほとんどが焼失し、とりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて三百余名が火焔と煙に包まれて、悲しくも尊い犠牲となった。
 昭和三十年五月罹災十周年を迎えるにあたりこれらの人々の霊を慰め、永遠の 平和を祈願するため本観音像を建立した。
 昭和五十八年三月  
 観音像製作者 二紀会 永野隆業氏
 早稲田大学理工学研究所

※2020年1月

場所

https://maps.app.goo.gl/s2dL9MxALuiQEPsY9


関連

移築整備された野砲兵第一聯隊の馬魂碑(世田谷)

世田谷区池尻・三宿・下馬、駅で言うところの「池尻大橋駅」「三軒茶屋駅」の界隈は「駒澤練兵場」があり、そして3つの陸軍砲兵部隊が駐留していた。
すなわち「三軒茶屋は軍都であった」と言っても過言ではない。


軍都「三軒茶屋」

  • 近衛野砲兵聯隊(昭和女子大・三宿中学校)
  • 野戦重砲兵第八聯隊(都営住宅)
  • 野砲兵第一聯隊(都営住宅)

上記の3聯隊のうち、野戦重砲兵第八聯隊と近衛野砲兵聯隊の記念碑は、陸上自衛隊三宿駐屯地内にある。

しかし、野砲兵第一聯隊の記念碑は残されていない。


野砲兵第一聯隊

野砲兵第一聯隊は、昭和11年の二・二六事件ののちに北満移駐を命ぜられ、そして大戦末期にはレイテ作戦に参加しカンギポット山麓に玉砕。
昭和20年に残存兵力はセブ島に転進し、ゲリラ戦を実施し、そこで終戦を迎えている。
日本陸軍最古の砲兵部隊である栄誉ある野砲兵第1聨隊であったが、国内には記念碑が残されていないが、玉砕したレイテ島・リモン峠には野砲兵第1聨隊の慰霊碑があるという。

そんな、野砲兵第1聨隊が駐留していた世田谷の下馬地区に痕跡として残された馬魂碑が、都営住宅下馬アパート再開発でも失われることなく、移築保存されたのは、なにより喜ばしく。
すこしでも、往時を伝承する軌跡が残ったことに感謝する。

以下、移築先の様子。


野砲兵第一聯隊の馬魂碑

5基の石碑が保存されている。

馬魂碑

詳細は不明

馬魂碑

一番大きな「馬魂碑」

碑の裏面に詳細な記述がある。

我部隊保管ノ軍馬ハ我隊将士ノ死生ヲ倶ニスヘキ戦友ニシテ平戦来時攻々黙々内ニ外ニ多大ノ功績ヲ残セシモノ枚挙ニ遑アラス 
其ノ間不幸或ハ敵弾ニ斃レ或ハ不慮ノ危害ヲ蒙リ或ハ又病魔ニ冒サレ遂ニ死ニ至レル其ノ最後ニ想ヒ到レハ憐憫ノ情ニ堪ヘス
茲ニ犠牲馬ノ霊ヲ祀リ其ノ冥福ヲ祈リ将来保管馬愛護ノ精神的自覚ヲ促サレトシテ此ノ碑ヲ建ツ
 昭和14年12月
  野砲兵第一聯隊留守隊長
   陸軍砲兵中佐 正六位勲四等 原捷吉

野砲兵第一聯隊は、昭和11年から北満に移駐しているために、石碑が建立された昭和14年の段階では、留守部隊が軍馬(保管馬)の世話をしていたことがわかる。
愛馬の愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。

馬頭観音菩薩

詳細不明

軍馬梨山号
昭和十一年一月二十四日殉職

馬頭観音

整備中の広場。広場の名称も、まだ不詳。

下馬図書館の近く。

案内図は古いまま。

都営住宅下馬アパート16号棟17棟18棟19棟20棟のあった区画には、
「東京都立青鳥特別支援学校三軒茶屋校舎」が新設された。

場所

https://maps.app.goo.gl/uJcX1qhmt93tWPLP6


野砲兵第一聯隊の兵舎跡

唯一現存する野砲兵第一聯隊の兵営。韓国会館となっている。いつまでの残るかの不安があるが、往時を偲ぶ貴重な建屋。

場所

https://maps.app.goo.gl/17zBp2k5PTNn2uwB6


旅団の電信柱

昭和女子大の近く、「旅団」の名前を残す電信柱があった。
管理の都合、往時のままの名称を用いている「旅団線」通信線。

昭和女子大の西門

※撮影:2024年5月


世田谷関連

熊谷陸軍飛行学校新田分教場・新田飛行場跡(太田の戦跡散策4)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
そんな中島知久平ゆかりの太田市内に点在する戦跡に足を運んでみました。

本編は、その4です。


新田飛行場跡(生品飛行場跡)
熊谷陸軍飛行学校新田分教場跡

新田市野倉。
生品のマツの森に1935(昭和10)年、陸軍の飛行場が建設され、昭和13年(1938年)、熊谷陸軍飛行学校新田分教場が開校。
飛行場の大きさは、東西約1850m、南北約1350m、総面積は約249万㎡。
陸軍九五式一型乙練習機が配備され、飛行訓練に活用された。
新田飛行場(生品飛行場)は昭和20年の7月と8月に空襲を受け諸施設が壊滅している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R408-No1-90
昭和22年(1947年)10月29日、米軍撮影の航空写真。

拡大

群馬県は、赤城おろしの空っ風が強く吹き荒れる土地のため、赤城おろしは北西風で、飛行機は向かい風の方向に離着陸をするのが普通のため、生品飛行場をはじめ、周辺の飛行場の滑走路は、いずれも南東から北西に向かって造られている。
そのために、戦後開墾後も、周辺の区画から傾いているのがよくわかる。

ピンの場所が今回のポイント。


新田飛行場跡(生品飛行場跡)鎮碇

着陸訓練用のロープを固定したRC造の鎮碇が残る。
少し離れた鉄塔からワイヤでつられた主翼の無い練習機で鎮碇方向へ滑り降り、練習生は操縦桿を引くタイミングや着陸の感覚をつかんだ着陸訓練用の構造物。

場所

https://maps.app.goo.gl/sr1brHn3QFe49Rfc6

飛行場跡地


陸鷲修練之地

敷地の東端に往時を偲ぶ石碑が建立されている。

少年飛行兵操縦教育校
旧陸軍熊谷飛行学校
陸鷲修練之地
新田教育隊跡地

平成7年8月
終戦50周年記念
元少飛 柳文夫書

場所

https://maps.app.goo.gl/oEyceHRpiKzZnQqy5

※撮影:2024年1月

その5に続く。


中島飛行機関連

はじめに

中島知久平と呑龍(太田の戦跡散策2・金山城址と呑龍工場、太田大空襲)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
その出生の地・群馬県新田郡尾島町には、中島知久平の立像と旧宅、墓がある。
同じ太田市内には、中島飛行機のDNAを受け継ぐSUBARU(富士重工)工場もあり、そして、太田市の中心部にそびえる金山(太田金山)の金山城址に中島知久平胸像があった。

本編は、その2です。


中島知久平

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月11日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

多くは、下記に記載。


中島知久平先生像(金山城址)

中島知久平先生像

昭和39年の建立。
裏面の顕彰碑文は、元陸軍大将井上幾太郎の撰並書となっている。

撰文の井上幾太郎は、初代陸軍航空部本部長。1933年3月には予備役に編入されるも、長命で、1965年に93歳で没している。

 中島知久平先生ハ、明治17年1月17日群馬県尾島町押切ノ徳望家中島粂吉翁ノ長男トシテ出生ス。同36年、海軍機関学校ヲ経テ海軍大学ニオイテ航空機ノ研究ニ着手、卒業後ハ海軍工廠造兵部ノ飛行機工場長トナリ、海軍機第一号機ヲハジメ各種ノ航空機ヲ創案制作セリ、ソノ後欧米ノ航空界ヲ視察シ民営ノ航空機工業ハ必要性ヲ提唱スルトトモニ、大正6年自ラ海軍ヲ退官シテ郷里群馬県太田町ニ中島飛行機製作所ヲ創立ス。コレワガ国航空機生産会社ノ嚆矢ニシテ、同社ハ後日世界最大規模ヲ有スル中島飛行機株式会社ニ発展シ、約20年間ニ亘リ、陸海軍民各方面ノ要望ニ応エ多数ノ優秀ナル航空機ヲ生産シ、ワガ国航空機工業ノ絶大ナル貢献ヲモタラシタリ。
 先生ハマタ偉大ナル経世ノ抱負ヲ実現スルタメ昭和5年政界ニ入リ鉄道大臣、商工大臣、軍需大臣等ヲ歴任シ、コノ間選ベシテ政友会総裁ニ就任スルナド、ソノ輝シキ業績ハ飛行機王ノ名トトモニ今ナヲ高ク評価セラル。
 昭和24年10月29日、享年66歳ヲモツテ惜シマレツツ逝去ス、ココニ中島飛行機関係者有志ノ発起ニヨリ、事業発祥ノ地ヲ選ビ記念像ヲ建設シ、先生ノ偉業ヲ永ク後世ニ伝エントスルモノナリ。

 昭和39年2月 
  元陸軍大将 井上幾太郎 撰並書

太田市内を見渡す金山の山頂に鎮座。いまも眼下に中島飛行機を受け継ぐSUBARUの工場群を眺望している。

https://maps.app.goo.gl/2K7H2G5PDEtBp6gAA


金山城(日本百名城)

山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定となっている。天守閣が設けられる時代よりも古い設計で石垣が多用された山城。

標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城。
特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆された。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所。山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られる。

https://www.city.ota.gunma.jp/page/4140.html

新田神社

太田金山山頂に鎮座する神社。明治六年の創建。新田義貞公を祀り「初志貫徹」の神様として崇敬されている。
なお、創建にあたっては、由良系新田家が尽力している。その際に岩松系新田家は排除されたが、のちに岩松系新田家が新田氏嫡流として華族となった。

https://www.ota-kanko.jp/spot/spot02/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

弾丸があった。

御腰掛石が並んでいる。
 大正天皇  明治25年10月17日
 秩父宮殿下 明治42年11月7日
 昭和天皇  明治42年11月7日
 高松宮殿下 大正4年11月7日
 三笠宮殿下 大正14年10月26日

金山城の石垣。関東地方では珍しい石垣の山城。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R256-No1-32
昭和22年(1947年)10月30日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。

ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。


呑龍

中島知久平(海軍機関大尉)が、生まれ故郷の尾島に、大正6年(1917)5月に「飛行機研究所」を創業。
同年12月に正式に海軍を退官し、民間会社として「飛行機研究所」を尾島から金山南麓の「大光院・呑龍さま」の隣接地に移転。民間会社としての中島飛行機の発祥の地は、すなわち今のSUBARUの発祥の地でもある。

中島飛行機が開発したキ49・100式重爆撃機「呑龍」の愛称は、江戸時代の浄土宗の僧「呑龍」の名前であり、中島知久平の地元の大光院の通称「呑龍さま」から命名された。


中島飛行機呑龍工場

太田金山の南麓には、「中島飛行機呑龍工場」があった。現在の「SUBARU群馬製作所北工場」。

旧中島飛行機(株)呑龍工場と中島知久平
 眼前の工場は大正6年(1917)12月10日、飛行機王中島知久平が尾島から飛行機研究所をここに移し、9名程の同士と創業し、中島飛行機製作所と改める、後の富士重工業(株)群馬製作所の発祥の地である。
 ここで製造された中島の出世機「中島式四型6号機」は、大正8年10月の第1回懸賞郵便飛行競技大会で優勝し中島飛行機の名声を一気に高めた。
 太田市街の東端に新工場が完成してからは、ここは呑龍工場(現北工場)と呼ばれた。
 創業者中島知久平は明治17年(1884)1月17日、尾島町押切で農家の長男として出生。海軍機関学校を卒業し海軍機関大尉まで昇進したが、民間での飛行機製造を志して退役、中島飛行機の創立と経営に当った。
 昭和5年(1930)2月、衆議院議員に当選し政友会総裁、商工政務次官、鉄道大臣(後に商工大臣)などを歴任した。同24年(1949)10月29日、脳溢血で急逝、多摩霊園及び押切の徳性寺に眠る。
行年六十六。
法名は知空院殿久遠成道大居士
 太田市観光協会
 平成21年(2009)3月

右手に呑龍工場と、左手には大光院「呑龍さま」。

呑龍公園

金山からの眺望。呑龍工場と太田工場を望む。


子育呑龍上人の大光院「呑龍さま」

義重山大光院新田寺。浄土宗寺院。
通称「子育て呑龍」「呑龍様」。
東上州三十三観音特別札所、群馬七福神の弁財天。

慶長16年(1611年)3月、徳川家康は徳川一族の繁栄と天下泰平、さらにご先祖の新田義重の追善供養のため菩提寺を建立する計画を立てた。
家康は、芝増上寺の観智国師に相談し、菩提寺建立の適地として太田金山南麓が選ばれた。 そして、観智国師の門弟で四哲の一人といわれる呑龍上人が招聘され創建された。


戦歿者慰霊碑(大光院)

大光院の境内にある戦歿者慰霊碑。

 太田市は西南の役から第二次世界大戦にいたる幾多の戦役により二千余柱の戦没者及び戦災被爆者の尊い犠牲がありました。
 中央の慰霊碑は昭和二十八年に建立され。当時の戦没者が刻まれております。しかし、その後合併した地区等の戦没者及び戦災被爆者は刻まれておりませんので今般英霊にこたえる会及び太田市遺族会のご尽力並びに関係各位のご理解ご協力により、その後合併した地区等を含めた戦没者及び戦災被爆者の慰霊碑2基を建立し、今日の太田市繁栄の礎となられた御霊に対し、尊崇と感謝の意を表するものであります。
 昭和56年3月吉日 
  太田市長 戸澤久夫

慰霊碑(中央)

中央の慰霊碑の裏面

維時昭和28年9月23日太田市出身殉国英霊ニ白ス
諸士等身ヲ君国ニ捧ゲ終ニ異境ノ花ト散ル 
其ノ忠烈ハ永ク責史ヲ◯シ英魂長ヘニ国家ノ柱礎タリ
茲ニ平和回復ハ年ヲ迎へ太田市遺族会並ビニ有志一同碑ヲ建チ衷心諸士ガ英魂ヲ慰ム
希クハ英霊神力ヲ増上シ長ヘニ護国ノ霊威ヲ加ヘンコトエヲ
 鈴木霊海撰
 昭和28年9月23日
  太田市慰霊碑建設委員会建之

皇紀二千六百年記念

昭和15年2月11日 太田各町有志

慈愛の鐘。
もとの鐘は、戦争中に供出。昭和31年に再鋳造。

場所

https://maps.app.goo.gl/Nh7SL6j9Qbqm5Ezz9


中島飛行機太田製作所
(SUBARU 群馬製作所本工場)

中島飛行機太田製作所は、現在のSUBARU群馬製作所本工場。

昭和9年(1934)11月に太田に新しい機体組み立て工場を設け、「太田工場」として稼働。従来から旧太田工場は「呑龍工場」と改称。
昭和12年(1937)に、太田工場を太田製作所に改称。
昭和15年に海軍機専用の組立工場として「小泉製作所」が開設すると太田製作所は陸軍機専用の組み立て工場となる。

中島飛行機が創業以来終戦までに製作した機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。
工場は分散され、太田工場では陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を生産したとされている。

https://maps.app.goo.gl/XcvjyCGiYnFcELiT6


中島飛行機太田製作所付属太田病院
(太田記念病院)

昭和13年に、中島飛行機太田製作所付属太田病院として開設するも昭和20年の終戦とともに病院閉鎖。
昭和21年に旧中島飛行機の八幡寮を改修して富士産業太田健康保険組合病院として、現在の八幡町で、戦争の災禍にあった太田地域住民のために開設。
平成24年に八幡町から現在の大島町に移転している。
現在は、株式会社SUBARUの健康保険組合病院。

https://maps.app.goo.gl/ouZrsiRwQX1CvrVZ8


太田大空襲

中島飛行機を有する太田市は、米軍の攻撃目標となり、終戦まで7回の空襲に見舞われた。
昭和20年2月10日の最初の空襲では、B29が約90機飛来し、午後3時過ぎから爆弾約750発、焼夷弾約200発を投下。
1時間ほどで太田製作所は、工場の東側が壊滅的な被害を受けた。周辺の学校や民家なども巻き込まれ、中島飛行機の工員を中心に死者約160人、けが人約280人、被災者は約2500人にのぼった。
2月10日の空襲のあと、立て続けに2月16日、2月25日も空襲され、中島飛行機の太田製作所、小泉製作所や太田飛行場などが次々と空襲で破壊された。そうして、太田と周辺は終戦間際の8月14日まで計7回の空襲に遭い、計約250人が亡くなったとされている。


太田市戦災被爆者慰霊記念の碑

太田中央公園内に。

太田市戦災被爆者慰霊記念の碑
 太田市長 戸澤久夫書

安らかに
この国の永遠の
平和を祈念して
 建設大臣
  長谷川四郎書

趣意書
 わが太田市は、太平洋戦争の末期、昭和二十年二月十日、二月十六日、二月二十五日、四月四日、七月二十八日、八月十四日と数度にわたって、はげしい空襲に見舞われその度毎に数多くの死傷者が続出したが、現在の太田市在住の遺家族数は、五十五家族、その被爆犠牲者は壱百弐名に及んでいる。
 ところで、戦後における国の援護の実状は、民間の被爆犠牲者には、その処遇も行われないまま、すでに三十有余年の年月を経てきたのである。そのため、本市鳥山に存在する大越福は、昭和四十五年十二月、太田市戦災被爆者遺家族の会を結成し、その会長となって 私財を投じて国会等に対し、強力な陳情活動を続けたのである。時あたかも今年昭和五十二年は、被爆犠牲者の三十三回忌にあたり、市当局並びに市民各層の協力のもと太田市戦災被爆者慰霊祈念の碑の建設となったのである。
 このことは、この国の永遠の平和をこいねがう被爆遺家族のせめてものねがいでもあり、こゝに記してその由来とする所以である。
 昭和五十二年八月十日
  広田良撰文

https://maps.app.goo.gl/gSpNU4H8tDvxPued9


大田駅

ちなみに、市内散策には太田市のレンタサイクルを活用しています。

※撮影:2024年1月

その3に続く。


中島飛行機関連

はじめに

座間・陸軍士官学校の戦跡散策4「相武台碑と大講堂・雄健神社跡」(在日米陸軍キャンプ座間)

ようやく「キャンプ座間」に立ち入る機会がありました。
2023年8月「日米親善盆踊りフェスティバル2023」
花火や盆踊りでフレンドシップなイベント。米軍基地が一般開放されますので、散策してきました。

2024年4月の「キャンプ座間 桜祭り / CAMP ZAMA CHERRY BLOSSOM FESTIVAL」で再訪し、記事を大幅に補完しました。

「座間・陸軍士官学校の戦跡散策」シリーズとしては、「その4」となります。
米軍基地以外の関連する散策は以下より。


相武台(相武臺)

座間には、陸軍士官学校があった。
陸軍士官学校の土地は、現在の「キャンプ座間」となっている。

小田急「相武台前駅」、JR相模線「相武台下駅」。
座間市と相模原市に地名として使用されている「相武台」は、もともと陸軍に関係のある名称であった。

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
昭和12年12月20日に行われた陸軍士官学校卒業式に 昭和天皇が行幸した際に、同校に「相武台」の名称が賜名された。

  • 市谷台 座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 航空士官学校(航士)
  • 振武台 陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 陸軍経理学校
  • 健武台 東京陸軍幼年学校

陸軍士官学校が移転したあとの市谷台には、陸軍省や参謀本部なのでの省部が三宅坂から移転し、陸軍の中枢となった。

相武台(相武臺)

記念碑の揮毫は、陸軍大臣・杉山元大将。
昭和20年の終戦時には、相武台碑は地中に埋められたが、2年後の昭和22年に米軍第8軍司令官ロバート・L・アイケルバーガー中将の命令で掘り出され、現状に復された。

相武台碑
昭和12年12月20日天皇陛下御命名
昭和14年建立

昭和十二年陸軍士官學校󠄁此ノ地ニ移ル冬󠄀十二月二十日 
天皇陛下卒業式ニ行幸アラセラレ親シク生徒ノ演習󠄁ヲ臠ハセ給ヒ陸軍大臣ヲ召シ本校󠄁所󠄁在地名ヲ特ニ相武臺ト賜フ大臣ハ恐懼感激シ益󠄁々練󠄀武養󠄁材ノ實ヲ擧ケ 聖󠄁旨ニ副ヒ奉ランコトヲ奉答セリ 
謹󠄀ミテ按スルニ相模國ハ古ク佐賀牟ト訓シ古事記日本武尊󠄁東征ノ條ニ相模國ニ作ル臺ハ其ノ形󠄁勝󠄁ヲ占メ相模原ヲ控󠄁ヘ最モ武ヲ練󠄀リ銳ヲ養󠄁フニ適󠄁ス乃チ武ヲ相ル意󠄁ヲ寓シ給ヒタルモノト拜ス茲ニ御命名書ノ相武臺ノ三字ヲ廊󠄁大シテ碑ニ題シ緣由ヲ背ニ記スト云爾
 昭和十五年八月二十日 
  陸軍大臣 三位勲一等功五級 杉山 元 書


陸軍士官学校関連記念碑(相武台碑周辺)

相武台碑の周辺には、陸士関連の記念碑が多い。
卒業順に掲載。

なお、下記の資料を参照

https://www.usarj.army.mil/Portals/33/about/history/Monuments_and_Markers_v4_202101.pdf


陸士50期卒業記念

旧陸軍士官学校第50期生卒業記念碑
昭和12年12月20日卒業

陸士50期は、陸軍士官学校が座間に移設してから初の卒業組となる。
昭和9年4月入学、昭和12年12月卒業。相武台は3ヶ月しか過ごしていないクラス。466名卒業のうち、175名が戦死している。

陸士51期卒業記念

旧陸軍士官学校第51期生卒業記念碑
昭和13年12月22日卒業

昭和10年4月入学、昭和13年12月卒業。506名卒業のうち176名戦死。

陸士52期卒業記念

旧陸軍士官学校第52期生卒業記念碑
昭和14年9月7日卒業

昭和11年4月入学、昭和14年9月卒業。635名卒業のうち245名戦死。
52期が在学中に、予科と本科の課程が戦時体制に改定され、訓練期間も48ヶ月から36ヶ月に短縮となっている。

陸士53期卒業記念

こちらは大講堂脇に建立

旧陸軍士官学校第53期生卒業記念碑
昭和15年2月27日卒業

昭和12年4月入学、昭和15年2月卒業。日中戦争勃発により定員が増員。1710名の卒業のうち800名が戦士している。

陸士54期卒業記念

場所は相武台碑から、外れて、体育館の脇の駐車場に。

奮忠
旧陸軍士官学校第54期生卒業記念碑
昭和15年9月卒業

第54期は、昭和12年12月入学、昭和15年9月卒業。2186名の卒業のうち、891名が戦死。

※上記2枚は2024年4月撮影

陸士55期卒業記念

相武台碑の周辺に戻ります。


旧陸軍士官学校第55期生卒業記念碑
昭和16年7月18日卒業

昭和49年に建立。
昭和13年12月入学、昭和16年7月卒業。2349名の卒業のうち、953名が戦死あるいは捕虜収容所で亡くなっている。

第1期将校学生卒業記念

境界西角。

旧陸軍士官学校第1期将校学生卒業記念碑
昭和16年7月卒業

第1期将校学生は、昭和15年10月入学、昭和16年7月卒業。51名の卒業。

陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念碑
昭和16年9月30日卒業

昭和15年12月に入学し昭和16年9月に卒業。卒業生267名。卒業3か月後に下士官から少尉に任官した。

第2期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第2期将校学生卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第2期将校学生は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日卒業。90名の卒業。

陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第22期少尉候補者は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日に卒業。481名卒業。

陸士56期卒業記念

旧陸軍士官学校第56期生卒業記念碑
昭和17年12月17日卒業

第56期生は、昭和14年12月入学、昭和17年12月卒業。
地上兵科1672名、航空兵科627名の卒業。地上兵科257名が航空兵科操縦士に転出し、操縦士884名のうち545名が特攻で戦死。
56期生合計では2299名のうち1071名が戦死。戦死者を一番出した期となっている。

第3期特別将校学生卒業記念

「三紀会」
旧陸軍士官学校第3期将校学生卒業記念碑
昭和18年11月15日卒業

第3期特別将校養成課程で、昭和18年1月入学、昭和18年11月修了した予備役将校学生。118名のうち69名が戦死。

陸士57期卒業記念植樹

旧陸軍士官学校第57期生記念植樹
昭和19年4月卒業

第57期は、昭和16年4月入学、19年4月卒業。
航空兵科卒業生400名のうち74名が戦死、地上兵科卒業生1150名のうち299名が戦死。
昭和58年5月22日建立。後述するが57期は卒業記念碑は建立せず、雄健神社の近くに桜を植樹している。そしてこちらは戦後の記念植樹。

陸士60期在校記念

「和」
旧陸軍士官学校第60期生記念碑

第60期生は、昭和19年3月から昭和20年8月まで在校。陸軍最後の士官候補生であった。第60期生は疎開先の長野で終戦を迎えている。
「和」記念碑は昭和57年に建立。

陸士58期までは卒業したが、59期と60期は在校での終戦。

陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念植樹碑

第4期将校学生は、昭和18年に卒業。50周年の平成5年に植樹を記念して建立。


雄健神社跡

陸軍士官学校の神社「雄健神社」。

雄健神社跡
昭和12年9月陸軍士官学校は、東京市ヶ谷台よりこの地相武台に移転し、翌13年6月に雄健神社が建立され、左記の御祭神と共に同校出身戦死者 殉職者が合祀された。
 天照大神 鹿島大神 大国主大神
 靖国大神 香取大神 明治天皇
在校生は朝な夕な社殿に額づいて心を正し、崇高な使命に殉じた先輩の意志を継ぎ立派な将校になることを願い、文部の道に励んだ。
 終戦の年、御祭神は長野県北佐久郡望月の里にある、大伴神社に遷座しお祀りして来たが、昭和31年6月 靖国神社に於て 昇神の儀を執り行い、その歴史を閉じた。
 往時の純真にして崇高なる精神をはぐくんだこの地を史跡として末永く保存するため有志相集い、在日米陸軍本州駐屯部隊並びに陸上自衛隊第三施設群のご協力を得てここに鳥居を再建した。
 昭和60年12月吉日
  財団法人 偕行社内
   相武台鳥居再建委員会

陸軍士官学校は昭和20年に佐久市望月など川西地域に疎開しており、雄健神社も、郷土の名社であった大伴神社に遷座していた。

市ヶ谷台の雄健神社


方位石(陸軍士官学校遙拝所方位盤)

長さ2.7m、幅2.3m、高さ60cmの巨石。
もともとはチャベルヒルのある場所にあったが、平成26年に現在地に移築。
円形状のくぼみに、かつては大理石の方位盤が埋められ、盤面には皇居や明治神宮、伊勢皇大神宮、陸軍司令部所在地の地名や方角などが刻まれていた。
陸軍士官候補生は毎朝、方位石にて皇居に遥拝し、明治神宮や伊勢皇大神宮の大祭時には国家安泰を祈念した。

いまは、鳥居の手間にあるので、手水石のような佇まい。

以下は、南地区の富士山公園内にある「方位石」(陸軍士官学校遙拝所方位盤)を参照まで。

なお、さらに奥に進むことができたが、米軍基地内でどこまで侵入してよいのかがわからず、進むのはためておきました。(以前、別の基地で「Keep out」表示がない場所で米軍の警備員に呼び止められた苦い思い出もあるので。)

DO NOT ENTER FOR AUTHORIZED PERSONNEL USE ONLY
Only for use by trained Soldiers under supervision Refer to TRADOC TP 385-1
関係者以外立ち入り禁止
監督下の訓練を受けた兵士のみ使用可能 TRADOC TP 385-1 参照

うん。ひとまず、戻りましょう。。。

雄健神社跡の観桜が良かったですね。


陸軍士官学校関連記念碑(雄健神社跡周辺)

雄健神社の鳥居周辺にも、記念碑が散在している。

陸士57期卒業記念

旧陸軍士官学校第57期生
昭和19年4月20日卒業
卒業記念碑を建立せず同期一同血書して名を連ねこの地に埋めた

陸士57期(昭和16年4月~昭和19年4月)
400名の航空兵科転科者は74名が戦死。1,150名の地上兵科卒業生のうち299名がビルマ・フィリピン・ニューギニアなどの東南アジアで戦死している。

陸士57期の血書の桜。
由縁を知るとさらに趣が深まる桜。ありがとうございます。

陸士58期卒業記念

七生報国

旧陸軍士官学校第58期生
卒業記念碑
昭和20年6月17日卒業

士官学校最後の卒業生となった第58期生(昭和17年4月~昭和20年6月)。
2,395名の学生が本科生となったころには、本土空襲も頻繁になっており、昭和20年4月には相武台も空襲を受け、校内で初めて実戦に参加した士官候補生でもあった。卒業後は、すでに制空権も制海権も失われていたために外地の戦闘部隊に合流することもできず、その結果、他の期生と比べると戦死者は少なく90名が戦死したにとどまっている。

陸士59期在校記念

在校記念碑
陸士第59期生
昭和20年8月30日修業

第59期生(昭和18年4月~昭和20年8月)は、卒業記念ではではなく、在校記念での石碑となる。
合計2,850名の士官候補生のうち1,250名は本科地上兵科生で、終戦を長野県で迎えている。(陸軍士官学校の疎開)
同期の豊岡航空学校の本科生の一部は実戦技能訓練を満洲で実施していたために約100名の候補生は、終戦時にソ連の捕虜となりシベリア収容所に連行され、多くの候補生がシベリアで死亡し、生存者も帰国まで4年の月日を要している。

第22期生任官30周年記念碑

第22期(明治41年12月~明治43年5月)の卒業生が将校任官30周年記念として昭和15年に建立。
市ヶ谷台時代の卒業生たちは、本科が相武台に移転したあとも、自分たちの母校として記念碑を建立したことがわかる。

第24期生任官30周年記念碑

旧陸軍士官学校第24期生
卒業30周年記念碑
明治45年5月27日卒業

第24期(明治43年12月~明治45年5月)の卒業生の帝国陸軍将校任官30周年記念で昭和17年に建立。


陸軍士官学校大講堂(Kizuna Hall)

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
おそらくは、その際に造営されたと推測。
米軍進駐後は映画館としても使われた。
現在は「Kizuna Hall」として活用されている。


天皇陛下用防空壕

陸軍士官学校大講堂の裏手に防空壕の入口がある。
大きな入口は裏手の右側にあり、小さな入口は裏手にあたる。
昭和17年に造られた 天皇陛下用の防空壕。

壕内には約17mの曲がりくねった通路があり、広さが30平方mの部屋に通じているという。鉄筋コンクリート造の防空壕の壁の厚さは70cmで天井の厚さは1.7m。
昭和12年から昭和20年まで、士官学校では9回の卒業式があり、そのうちの7回に 天皇兵陛下がご臨席になられた。しかし、防空壕は一度もご利用にはならなかった。ちなみに、51期はご病気、58期は首都圏空襲で欠席であった。

なお、出入り口は2箇所ある。

旧陸軍士官学校
天皇陛下行幸時の防空壕
昭和18年建設(未使用)

「Kizuna Hall」の後ろにも。もう一つの入口。

Authorized Persons Only
権限のある人のみ、だそうで。


陸軍マンホール

陸軍士官学校大講堂の周辺に、2つ残存。
中央に、陸軍のシンボルマーク「五芒」がある。

1つ目は、大講堂の北側。

2つ目。大講堂の正面。


陸軍士官学校生徒集会所

Camp Zama Express Main Store の東側。米軍のSUDCC(Substance Use Disorder Clinical Care)として使用されていた建物。
かつての「陸軍士官学校生徒集会所」
取り壊されるという話もあったが、2023年8月の段階では現存している。

2024年4月、解体を確認

2024年4月、解体を確認。
以下の写真は、解体後。


陸軍士官学校皇族舎(皇室宿泊施設)跡

かつてこの場所に、陸軍士官学校皇族舎があったが、現在は、振武臺記念館として、陸軍予科士官学校のあった朝霞に移築保存されている。

日米友好親善碑

以下は、2024年4月撮影

この場所から、南に歩けば、雄健神社跡。


陸軍制水弁

陸軍士官学校時代の制水弁。
陸軍のシンボルマーク「五芒」もある。


ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

桜の季節


キャンプ座間/座間駐屯地

キャンプ座間は、在日米陸軍司令部、米陸軍第1軍団前方司令部などが置かれ、在日米陸軍の中枢部として機能している。

座間駐屯地には、陸上総隊司令部日米共同部が展開。

中央の第1ゲートからも、ちらりと見える鳥居。

桜の季節

平和
日米友好碑

グランドの北側に。

陸上自衛隊ー在日米陸軍
座間キャンプ共同使用開放記念碑

ここは陸自っぽい。

陸自ですね。


給水がありがたい。。。

鳥居、、、

消防署

野外ステージ

芝生

野球場が盆踊り会場

出店のメインストリート

大人気なファーストフード行列。

ローストチキン

生ビール

暑すぎたので、かき氷

暑すぎて、かなりの疲労困憊だったということもあり、
いくつか確認漏れを自覚しているので、リベンジします。。。

2024年に再訪して、各記事に写真追加済

※撮影:2023年8月 2024年4月


米軍関連

移築再整備された東京第一陸軍造兵廠滝野川工場の陸軍用地標石(滝野川三丁目公園)

2022年4月に開園した「滝野川三丁目公園」。
東京国税局滝野川第二宿舎(公務員第二宿舎)などがあった国有地の土地利用転換等に合わせ北区が用地を取得し、構造物の解体・更地化ののちに公園として再整備。

実は、なにげに、再整備公園に設置された案内看板に、弊サイトが写真提供を実施しておりましたが、先日にようやく再訪できた次第。

関連記事


陸軍用地の標石(東京第一陸軍造兵廠滝野川工場)

陸軍用地の標石
この標石は陸軍の旧用地を示す目印とする石です。
滝野川三丁目公園の整備にともない、園内へ移設しました。
【東京第一陸軍造兵廠滝野川工場】
滝野川工場は、東京第一陸軍造兵廠第三製造所として、主に火薬・照明弾・発煙筒などの製造を行っていた。

この案内板にある写真、弊サイトにて、素材提供をしました。

以下、依頼主より

(前略)
さて今回ご連絡させていただきましたのは、ホームページに掲載されている陸軍標石についてです。
現在、公務員第二宿舎だった場所を北区役所が国より引き受け、公園として整備工事を行っております。(当社がその施工を担当)
その公園整備工事経過において、歴史ある陸軍標石を保存し、整備する公園の中に再設置を行い、歴史施設説明サインとともに掲示を行う案が出てきております。
つきましては現在ホームページに掲載してある写真の掲載許可とバックアップ等にて可能であればリサイズしていない元の写真データをご提供いただれば助かります。
ただ現在、陸軍標石の保存と歴史施設説明サインの設置は確定しておりますが、盤面デザインによっては写真の掲載がない場合もありますのでその節は、ご容赦ください。
(後略)

公園施工会社様のメールより

その結果、下記の写真となりました。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

欠けていた標石の当時の写真は下記。2016年5月撮影。
こちらは掲載見送りになりましたが、併せて移築保存していただけました。

そして、移築された標石。

こうして、歴史の伝承として、綺麗に整備され保存されたのは、なにより喜ばしく、ありがたいこと。


滝野川三丁目公園

※撮影:2024年4月

場所

https://maps.app.goo.gl/UJdsUEZjXxixTkVp6


再設置された「近衛歩兵第四聯隊跡碑」「近衛歩兵第六聯隊跡碑」(都立明治公園)

1964年(昭和39年)に開園した「都立明治公園」。新しい国立競技場の建設に伴う再整備で閉鎖のうえで再整備されていたが、2023年10月に一部開園し、2024年1月に全面開園を果たした。
以前より、公園内にあった「記念碑」の扱いが気になっていたが、新設「明治公園」でも再設置されることになり、ようやくに見学できた次第。


青山練兵場跡地

国立競技場や明治神宮外苑のある一体は、もともと「青山練兵場」であった。

大正元年(1912)9月13日、 明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。


近衛師団と近衛聯隊

最精鋭かつ最古参の部隊として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」の任にもあたった。
昭和18年に従来の近衛師団を「近衛第一師団」「近衛第二師団」とし、昭和19年に「近衛第三師団」を新設。
近衛第一師団
 近衛歩兵第一聯隊 東京 北の丸 皇居警備
 近衛歩兵第二聯隊 東京 北の丸 皇居警備
 近衛歩兵第六聯隊 東京 北青山 大宮御所警備 ※本記事
 近衛歩兵第七聯隊 東京 麻布台
近衛第二師団
 近衛歩兵第三聯隊 東京 赤坂台 スマトラ島に展開
 近衛歩兵第四聯隊 東京 北青山 スマトラ島に展開 ※本記事
 近衛歩兵第五聯隊 東京 麻布台 スマトラ島に展開
近衛第三師団
 近衛歩兵第八聯隊 東京 成東 九十九里浜防御陣地構築 
 近衛歩兵第九聯隊 甲府 成東 九十九里浜防御陣地構築 
 近衛歩兵第十聯隊 佐倉 成東 九十九里浜防御陣地構築  

近衛連隊では、以下の記念碑を確認。

「北の丸」
近衛歩兵第一聯隊(近歩一)
近衛歩兵第二聯隊

「赤坂台(銀杏ヶ丘)」
近衛歩兵第三聯隊
「麻布台」
近衛歩兵第五聯隊
近衛歩兵第七聯隊


近衛歩兵第四聯隊跡碑

明治19年(1886年)第一大隊、翌年に第二大隊が編成。
日清、日露、大東亜戦争に従軍。
大東亜戦争では、マレー作戦、スマトラ平定作戦に参戦。

近衛歩兵第四聯隊跡

近衛歩兵第四聯隊は、明治30年5月24日 明治天皇から軍旗を親授されて創設された。
大東亜戦争後、聯隊出身者からなる錦紫会会員一同相計り相資し遺跡を永久に記念してこの碑をこの地に建立して東京都に寄贈する。
 昭和40年5月 
  錦紫会有志


近衛歩兵第六聯隊跡碑

昭和18年(1943)に青山北の近衛第四聯隊兵営において新設。
近衛第一師団に編入。

近衛歩兵第六聯隊跡

 近衛歩兵第六聯隊は大東亜戦争の戦局急を告げる昭和18年の5月14日臨時編成を下令され同年6月はじめ竹橋において近衛歩兵第一聯隊第三大隊を中心に全国からの選抜将兵を以て編成された。
 聯隊は同年6月28日以降この青山に駐とんし将兵三千、日夜武を練り禁閥守護と首都の防衛に任じつつ大戦に参加しこの地において終戦を迎えた。
 昭和46年2月11日
  元近衛歩兵第六聯隊有志一同


馬頭観世音

馬頭観世音
 昭和庚午年春吉日

昭和庚午は、昭和5年。


東京都立明治公園

2023年10月31日開園。
千駄ヶ谷駅と外苑前駅のほぼ中間地点、国立競技場のすぐ南に広がる公園。外苑西通りに面している。
東京都初のPark-PFI(公園の整備を行う民間の事業者を公募し選定する制度)を活用した公園。

記念碑は、「誇りの杜」にある。

国立競技場

※撮影2024年2月


「救世観世音菩薩」と「B29墜落搭乗者慰霊碑」(駿府静岡の戦跡散策・その4)

静岡市のシンボル「賎機山(浅間山)」。
安倍川に沿って南北に伸びる賤機山(浅間山)の山頂に、戦争に関係する慰霊碑があった。

本編は、「その4」です。

「その1」はこちら。


静岡大空襲

静岡市は昭和19年から終戦までに26回の空襲を受けている。本土爆撃には富士山を目標に飛来するということもあり、富士山の入口にあたる駿河湾は、爆撃機護衛の艦載機の機銃掃射なども多数被っていた。
なかでも、昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけての空襲は被害が甚大。
米軍B-29爆撃機137機により、静岡市街は3時間あまりにわたって波状爆撃をうけ壊滅した。

静岡平和資料センター

https://www.shizuoka-heiwa.jp/?page_id=9


救世観音菩薩(静岡市戦禍犠牲者慰霊塔)

静岡空襲の犠牲者を慰霊する観音様。

救世観音菩薩縁起
 吾が静岡市は、昭和19年11月5日南太平洋マリアナ基地よりB29 が連日の如く侵攻し、静岡市の受けた空襲による被害は被爆度数は12回、死者1,813名重傷者830名、特に昭和20年6月19日の夜半過ぎよりB29の大挙来襲により受けた空襲により全市が壊滅状態となりました。その状況はB29が157機、0時50分から3時40分に至る約3時間単機及び数機にて波状に飛来し大型小型の焼夷弾を無数に投下し、密度の高い絨毯爆撃を受け死者1,669名重傷者800余名、その後重傷者中死亡した者多数に及びました。
 諸団体、各位のご協力とご援助を賜りまして静岡市随一の名勝地賤機山の聖地に安置されて優終無縁の衆生の菩提を済度し慈顔を以て衆生を視たまい福聚円満なる御姿と観音妙智力の功徳により御霊の冥福と共に静岡市民の安泰と子孫繁栄曳いては世界人類の平和と幸福を念願いたす事が目的であります。
 発起人伊藤福松

救世観音菩薩縁起
吾が静岡市は昭和十九年十一月五日南太平洋マリヤナ基地よりB29一桟本市上空に初めて侵入してより昭和廿年八月十五日終戦に至る迄殆んど連日の如く侵攻し特に本市上空は京浜都市及び中京都市爆撃の経路として空襲警報発令極めて烈しく其の為市民は心身共に恐怖と疲労に陥り且戦時体制下に於ける生産活動能力は頗ぶる低下を来たしその間に受けた被害は非常に大なるものがありました
静岡市の受けた空襲による被害は被爆度数十二囘死者一、八一三名重傷者八三〇名全半壊建物一四八戸焼失建物二五、二三九戸罹災者一一八、七四六名の多きに上り特に昭和廿年六月十九日夜半過ぎよりB29の大挙来襲により受けた空襲により全市が壊滅状態となりました
其の状況はB29百桟零時五十分から三時四十分に至る約三時間単桟及数桟にて波状的に飛来し大型小型の焼夷彈を無数に投下し密度の高い絨毯爆撃を行った次第であります
其の被害状況は罹災世帯数二四、四五九罹災者一一〇、〇四六名死者一、六六九名重傷者八〇〇余名其の后重傷者中死亡した者多数に及びました
なお本市は去る昭和十五年一月十五日の大火に罹り全市の大半を焼失しましたが犠牲者は僅か一名の死亡のみに止りました
然るに今次の戰禍の如何に凄惨たる事は皆様の知悉する処であります
戰災者は永年の家産と貴き人命を一朝に失い其の惨状は筆舌に盡す事は出来ません
雨霰の如く落下する焼夷彈の中を老人子供或は病人等何の罪もない非戰斗員か逃げ惑い夫は妻を庇い妻は吾子を護り阿鼻叫喚宛ら地獄絵巻其の儘でありました
私は比のような多数の犠牲者に対し眞に御気の毒にたえません 然も一家全滅の憂目をみられ祭祠の出来ない数多くの方がある事を知りまして御慰靈追悼申し上げると同時に人類生存上再度斯様な人災は構成しない様発願致しました
猶其他内地外地に非戰斗員が千数百人の多数の戰禍のため犠牲となられても國家社会は年月の去ると仝事に忘れられて行く状態は御
靈と御遺族の心境に対し眞に同情に堪えませんので合祠させて戴き全市民の皆様と倶に永久に四恩報謝の誠意を捧げたいのであります 時至りまして元市会議員団市連合町内会婦人団躰その他諸団躰各位のご協力と御援助を蒙りまして静岡市随一の名勝地賤機山の聖地に安置されて有縁無縁の象生の菩提を済慶し慈眼を以て象生を視たまい福聚圓満なる御姿と観音妙智力の功徳により御靈の冥福と倶に静岡市民の安泰と子孫繁栄曵ては世界人類の平和と幸福を念願いたす事が目的であります
 昭和四十四年十二月吉日 謹誌 喜壽福松
   西暦一九六九年 建之 書刻 横井石堂

静岡市戦禍犠牲者慰霊塔


B29墜落搭乗者慰霊碑

1945年6月20日。静岡空襲に参加したB29の2機が空中衝突して墜落。B29の搭乗員23名が犠牲となった。
戦後、僧侶の伊藤福松さんが「死んでしまえば、敵も味方もない」と言って墜落死したアメリカの搭乗員のために慰霊碑を建立。
その後、私財を投じ昭和45年(1970)に賎機山山頂に空襲の犠牲者とB29の搭乗員の慰霊碑を建立。
慰霊碑は現在も市民の手によって大切に管理され、日米の関係者が出席し、「静岡空襲犠牲者日米合同慰霊祭」が執り行われている。

関連

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/shizuoka_shizuoka_004/index.html

裏面には、紀元2630年・西暦1970年の建立銘がある。

犠牲者のお名前

日米友好親善の樹、ハナミズキは米国からの記念植樹

賤機山ハイキングコース。
賤機山山頂 浅間山観音広場。

賤機山から見る富士山。

静岡浅間神社から登山、、、しました。
麓山神社を起点にして賤機山公園山頂までは、だいたい20分くらい。

危険が多い。

麓山神社へ向かう石段が一番大変とも。

※2023年12月撮影

場所

https://maps.app.goo.gl/2gSX5Ki7D1HN4DjG6


B29関連

静岡縣護國神社(駿府静岡の戦跡散策・その3)

静岡県静岡市。
東海地区の要所である駿府城を中心とした静岡市内の戦跡散策をしてみました。

本編は、「その3」です。静岡縣護國神社に赴きました。

その1はこちら。


靜岡縣護國神社(静岡縣護國神社・静岡県護国神社)

静岡縣護國神社は明治32年11月13日「共祭招魂社」として静岡市北番町に創立.。
明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る国事にたおれた静岡県出身者並びに縁故ある戦没軍人、軍属の英霊7万6千余柱を祀る。
昭和14年4月1日に靜岡縣護國神社と改称、昭和17年10月8日に現在地に移転。

https://shizuokagokoku.jp/shrine/

御英霊に感謝を。
ありがとうございます。

御朱印。

平和の道標

ありがとうございます

社号標は、昭和17年の建立。

陸軍大将 鈴木孝雄の謹書。


静岡県戦没戦災死者慰霊標(納骨堂)

明治維新から大東亜戦争に至る、静岡県戦没者7万6千余柱の慰霊顕彰の碑と納骨堂。

この霊域は明治維新以来太平洋戦争に至る間に国のために命を捧げたもの及び戦禍のために倒れた人々の霊を慰めその遺芳を後世に傅えるために
県民の総意によって構想せられたものである
 こヽに戦争によるあらゆる思出を収めこれに参するものに新らたな愛國の精神を振い起たせ平和日本興隆の象徴としたい念願である
 昭和二十七年十一月三日
  財団法人 静霊奉賛會長  静岡縣知事 齊藤寿夫誌

終戦50周年平和祈念事業改修記念碑  
 平和への誓い
  平成7年4月  静岡県知事 石川嘉延

総務省>

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/shizuoka_shizuoka_001/index.html


嶽南神社の鳥居と社号標
(静岡歩兵第三十四聨隊内神社)

駿府城址に駐屯してた陸軍第三十四聨隊の嶽南神社の鳥居と社号標。社号標は近年の調査で見つかった模様。
無事に静岡県護国神社に移築となったのは、よかったです。

https://www.chunichi.co.jp/article/530460

鳥居について
この鳥居は駿府城跡に駐屯していた陸軍第三十四聨隊(静岡三四聯隊)の隊舎横に鎮座した嶽南神社の鳥居だったものです。
聯隊将兵はこの神社で武運長久と戦勝を祈願して出征、特に数万の兵士達の素朴な願いと心のよりどころの神社でありました。
昭和20年に長く激しい戦いが終わり、駿府城址も一変して都市公園として新時代の姿へと移り変わることとなり、中町及び神社地元世話人有志によって、終戦三十周年を記念して鳥居がこの招魂場前に移築されました。

社号標(遺物)について
終戦後に役目を終えた嶽南神社は廃祀されて社殿は他に転用とも伝わり、右のとおり鳥居はこの場所に移築、「嶽南神社」の社号標は行方が詳らかではなく、駿府城址の調査で発見されて、このたび由来を同じくする鳥居の脇に移設いたしました、
戦時中のこと、嶽南神社や招魂場と戦没将兵のことを偲んでいただけますと幸いです。

嶽南神社

一八八二年発布の「軍人勅諭」の下賜五十年を記念し、一九三二年に建立された社号標

勅諭下賜五十年記念
 昭和7年4月24日建之

荒木貞夫 敬書

狛犬の台座には、昭和14年の記載あり

昭和14年10月


招魂場(招魂斎場)

招魂場について
静岡縣護國神社の御祭神である戦没者の御霊は、御羽車をこの招魂場に安置し、淨闇の中で招魂祭を斎行して本殿へ奉遷します。
昭和十七年当神社が移転遷座してより毎年、招魂祭を斎行してきたところです。

今日でも当時の死亡や時間が経ってからの病没などを「戦没」と認定される方があり、合祀祭が執り行われるが、社殿に一隅を仮招魂場として祭祀を行っており、招魂場の使用は無くなっている。

神池


拓魂碑

満州開拓の犠牲者慰霊顕彰

あゝ拓魂
 民族の悲劇に散った 満州開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つ
 五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは国家と運命を共にし国策に殉じたのである
 かって日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕陽の満州に眠る君たちを憶うとき雄図空しく歴史の断層に斃れた非命の痛恨の涙はつきない
 日本人として この前に ぬかずくとき新たな民族の使命を感じ君たちの遺志を無にするなく自由と平和の道を拓くことを誓うものである。
 開拓精神は創造発展の真髄真理探究の道である 君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る
  昭和四十九年四月二十三日 
   静岡県知事  竹山 雄太郎

建立の由来
 満州開拓とは現在の中国東北地区に五族協和王道楽土道義世界創建の大理想のもとに生まれた満州国に国造りの基盤としてこの地に眠る広大なる未墾の沃野に大量の移民送出が国策として推進された大規模農業開発の事である。
 満州建国より太平洋戦争の終結に至るまでの十有三年間全国から実に三十二万余人本県から開拓団・満州開拓青少年義勇隊併せて六千五百二十余名の入植を見たが昭和二十年八月十五日祖国日本の無条件降伏、満州国の崩壊により悲運の幕を閉じたのである。
 農は善なりの素朴な哲学に徹し聖業の名のもとに土の戦士として不撓不屈の開拓精神をもって村創りに精進これに努めたのであるが、あたらその血と汗と涙の成果は歴史の断層に難民と化し非命に斃れた者約八万有余人 本県人も千六百七十余名に及び 実に世界植民史上空前のj悲惨たる終末を迎えたものである。
 時流れて二十八春秋日中国交正常化を契機に昭和四十八年九月合同慰霊祭並びに総決起大会を県の後援を得 駿府会館に於て挙行し大会決議によって拓魂碑を建立することになった。
 爾来相寄り回を重ね慎重に協議の結果護国神社静霊奉賛会の厚意と県当局県下市町村の協賛助成を賜り一般多数の協賛浄財と会員の拠出金により本県送出の全物故者を奉祀し永く拓魂を顕彰し 併せて慰霊供養の誠を捧げ不滅の開拓精神を後世に伝え 戦争なき真の平和への希いをこめて茲に拓魂碑も建立を見たのである。
  昭和五十年四月二十日
    拓魂碑建立委員会

大陸は呼ぶ
一、
俺も行くから君も行け
北満州の大平野
広漠千里果てしなき
自由の天地我を待つ
二、
望む彼方は高梁の
丘吹く風となるばかり
あゝ大陸の空を飛ぶ
捨て身の雲の翼かな
三、
生きて帰らぬ命ぞと
誓いてかたきこの胸に
高鳴り躍る大和魂
熱血今ぞ溢れける


愛の灯

日本赤十字社静岡県支部救護員戦没者の慰霊顕彰

昭和十二年以降の戦時事変等に際し赤十字の旗のもとに日本赤十字社静岡県支部救護員として応召し国の内外において傷病者の救護に献身し博愛と奉仕の使命に殉ぜられた方々の遺徳を偲び その御霊のとこしえに安かれと祈りてこの碑を建立しました
平和のいしづえとして尊い命をささげられた私どもの同胞がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛の灯の偉大さをしのび ふたたびこのような悲惨なことがないようにと念願しこれを後世に永く伝えようとするものであります。
 昭和五十年十月吉日建立
 日本赤十字社静岡県支部長 山本敬三郎
 日本赤十字社看護婦同方会静岡県支部長 小山シヅ
  殉職救護員芳名(25名の御芳名)

捧従軍看護婦戦没者霊  大野恵造
 朔北僻南砲煙間 
 看護傷兵自亦散 
 殉国婦是万輪花 
 気魄凛凛似白梅

詩意
 従軍看護婦は北方へ南方へと派遣され、大砲の弾幕の中で、傷ついた兵隊さんの救護にかいがいしくあたった。しかし、その中で万輪の花が散るように、お国の為に多くの看護婦がむなしく散っていった。その気力はりりしく強く、寒風に芽を吹き美しく花を咲かせる白梅のようであった。

愛の灯
 この詩は、従軍看護婦として南北戦線へ派遣され傷病将士の救護にあたり、人道的任務に尽し、不幸にして戦死或は戦病死していった人々をたたえた詩で、静岡県護国神社境内にある「愛の灯・殉職救護員慰霊碑」の除幕式並びに慰霊祭執行にあたり、詩吟朗詠錦城流流祖・山本錦城先生が大野恵造氏に作詞を依頼、流祖作曲の上、昭和五十年十一月二十三日碑前に於いて吟詠された。
 日本赤十字社看護師同方会静岡県支部長
  長嶋芳子
   平成15年11月2日


鎮魂碑(比島派遣)

鎮魂
比島派遣独立歩兵第百六十四大隊
元独立守備歩兵第三十二大隊

 顧みれば昭和十七年春のころ祖国をあとに征途につき比島セブ島攻略戦に参加以来ヒサヤ諸島、ミンダナオ島各地に転戦昭和二十年四月本軍のダバオ来攻より半年ダバオ平地北部山岳地に死闘を重ね部隊の大部を失いて遂に終戦詔勅を拝す。我等死すべき命を永らえて俘囚の身となり、國に殉ぜし戦友をマツキンレト麓野に残して故国に送還されしより三十有余年を経たり。
 時は流れせば移りて今や日本は先進国と称せられ平和国家として繁栄しり。今にして昔日を偲び将に隔世の感甚だし。身を安寧に置きて帰らざる戦友を憶い遺族の身の上におもいをいたすとき断腸の念切なり。往年我等嘗ての戦場たりもセブホホールミサミス等に旅してこの地に散華せし英霊の安らからんことを祈り更にダバオの地に草むす屍を故国に迎えんとしてインダガンウラ、ギャンカ、ベリサリオラサソン等ダバオ平地を始め遠くクモガン草原、ウピヤンバルマの山岳地にバコボ族アタ族等現地住民の協力を得て野山を分ち探し求るも、二十余年の歳月は当時と著しく趣を異にしてその収集は意の如くならず。
 悄然としてタモガン草原に立ち戦友の名を呼べど応えるものとてなく慟哭して踵を返さんとすればモントーの山波に雨雲の去来するあり。我等徒に歳を重ねて既に秋露梧桐葉落つる時。英霊に応えんとして力及ばず。
遺族に酬いんとして才足らず。ただ愛惜の情切々として胸に迫るのみ 茲にその壮烈を永く世に伝えんことを願い英霊の異境に彷徨して鬼哭啾啾することなくこの地に鎮まらんことを希いてこの碑を建つ。
  昭和五十七年三月十四日
   独立歩兵第百六十四大隊戦友一同

部隊の略歴


慰霊碑ノモンハン事件

ノモンハン事件
慰霊碑
元第二十三師団参謀陸軍大佐 鈴木善康書

鈴木善康は、静岡出身。陸軍大佐。士候33陸大専科5。
第23師団はノモンハン事件で壊滅的な損害を被った。

慰霊碑の由来
 この碑はノモンハン事件に従軍して散華した戦友の慰霊のために建立したものである。
 ノモンハン事件は昭和十四年五月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南方ノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件である。直接戦闘に参加した部隊はハイラルに駐屯の第二十三師団隷下の将兵であった。この戦闘は関東軍の作戦予測に反しソ蒙軍の近代兵器を投入しての猛攻を受け、寡兵肉弾をもってこれに応戦し悪戦苦闘の連続であった。特にノロ高地における凄惨苛烈な死闘は後日の戦訓となるほどであた。同年九月十六日停戦協定が成立したが、この間実に一万一千百二十四名の犠牲者を出したことは痛恨未だ極まりないものがある。
 ここに幾度かの死線を乗り越えてきた静岡県の生存者を中心に、広く関係者の賛同を得て宿願を達成することが出来関係者一同の感激もまた大である。願わくは一身を顧みず祖国防衛の大任を全うし殉国散華された将兵の崇高な精神と武勲を後世に伝え以って平和への祈願としたい。
 幾久しい悲願実りてこの聖地 
  今ここに立つノモンハンの碑
    昭和五十四年九月十六日建立
     ノモンハン事件従軍生存者有志一同
       献歌 中村双葉
       揮毫 渡邊墨仙


鎮(満州第五七四部隊)慰霊碑

グアムで玉砕した静岡出身の満州第五七四部隊

大東亜戦争熾烈なる昭和十九年二月十九日 元満州遼陽に駐屯せる我が満州第五七四部隊(静岡県出身者)は風雲急を告げる南方諸島の大宮島(グアム等)に転進しましたが、同年七月二十一日連隊長末永大佐以下で最後の突撃を敢行遂に玉砕しました。又、各地に転戦して護国の礎となられた幾多の戦友の霊、永しえに安かれと、ここに慰霊碑を建立し、此の貴い武勲を永く後世に伝えるものであります。
 昭和五十一年十月吉日
  慰霊碑建立世話人会


内匠部隊之碑

ミンダナオ島における戦没者千数百柱の慰霊顕彰

内匠部隊之碑

 昭和十七年三月二十日内匠部隊長以下七百三十八名中部第三十六部隊にて編成、三月二十日宇品港出港、バターン半島に直行攻撃参加、四月二十一日ミンダナオ島に転進、八月よりコタバト州警備戡定作戦参加、十二月二十日第三より充足更に一八、一九年現役兵入隊在留邦人現地入隊等最大兵力千八百名となる。十九年九月部隊は米機約七十機によりコタバト地区で爆撃さる。敵機を撃墜し師団長より感状を受く。以後サルナヤン、ミラヤ地区に転進、二十年四月一七日、米八軍コタバト地区に上陸、部隊はこれを迎撃奮戦し壊滅す。英霊千数百名ここに祀る。


副碑「由来」
 終戦三十年余を経た現在ミンダナオ島コタバト地区は、遺骨収集に対し厚生省の認可をを得られず有志により再度の収集にて二十数体を収集したのみ。月日を経過するに従い地形の変化と風化により益々困難となる為、コタバト平和の塔の分骨をし茲に建立す
  昭和五十一年三月二十一日
   コタバト静岡県人会  同遺族会


御手洗石

 この御手洗石は九州福岡県博多在の産で当神社が昭和17年10月現在地に御遷座のとき静岡市本通り1丁目の手塚六郎治氏より奉納されたものであります。
 当時は大東亜戦争苛烈下で運搬は容易でなかったが陸軍大臣の命によって汽車で輸送され約14平方米(畳9畳半)あり全国で最大の御手洗石であります。


工学士 市川紀元二銅像

日露戦役にて戦死した東大出身の工学士、学徒の亀鑑、市川工学士の慰霊顕彰の銅像。
市川紀元二の弟はスエズ運河設計に携わった青山士。
日露戦争で最初の学徒出身兵の戦死であった。

東京帝国大学工学部に学び電気工学を修め、京浜電鉄の技術部長を務めるが、明治37年日露戦争に第6連隊(名古屋)に所属、歩兵少尉として出征。
満州に出征し、明治37年8月31日首山堡の激戦に歩兵6連隊小隊長として先登し第一の戦功を立て軍司令官より感状を受け、全軍布告、上聞に達し特進して歩兵中尉となった。明治38年3月7日の奉天会戦で戦死。
の東大総長山川健次郎は「その忠勇義烈、学徒の亀鑑となすべし」して、市川紀元二銅像を東大構内に建立。
大戦末期、東大職員により金属類供出から免れ、戦後は地下室に隠されていた。戦後、出身地が中泉(磐田市)だったことに因り静岡県護国神社に再建された。

なお、日本陸軍で生存中に特別進級した人は、陸軍創設以来終戦まで、市川紀元二中尉だけだという。

工学士 市川紀元二銅像
設計意匠 塚本靖 
製作 新海竹次郎 
篆額 奥保鞏
明治41年11月11日 東京帝国大学構内竣工
昭和33年8月31日 静岡県護国神社境内移転

躍動感にあふれる銅像。


長島銀蔵翁之壽像

戦没者遺族の父

長島銀蔵先生は、若くして父業を継ぎ、勤勉努力精進は、今日広く世界各国に知られている塗料ラッカーを創製するに至ったのである。
尚先生は貴族院議員、次で参議院議員等に当選されて、政界に活躍された。
大東亜戦争は、国力を消耗し盡して終戦を告げ、混迷の世相の中に戸惑う戦没者遺族の悲境を目前に、強く胸を打たれ、これを黙視するに忍びず、幸いに中央政界にあった先生は一方に於て、県内遺族の基礎を固め、他方東奔西走して全国に同志を糾合し、遺族会の統合団結を図り、昭和22年11月遂に日本遺族厚生連盟を結成し、推されて理事長に就任されたのである。
時恰も終戦後日浅く、占領軍政下の厳しい国内情勢下にあって、物心共に言語に絶する苦難の継續であったが、先生の強固なる決意は之に屈せず、多額の私財を投じて、初心を貫徹されたのである。
この苦闘の事蹟は本県はもとより、我が国戦没遺族会史の上に特筆すべき成果であると確信するものである。
茲に於て長島銀蔵先生を遺族の父と仰ぎ永くその徳を称えんが為に、本県遺族会は、日本遺族会並びに全国各都道府県遺族会の御協賛のもとに、全会員の赤誠と、国土安穏世界平和の祈願を込めて、此の胸像を建立した。
 昭和48年9月28日
  財団法人静岡県遺族会
   長島銀蔵先生胸像建立委員会


慰霊碑(伊藤部隊・歩兵第118聯隊)

義烈日月と共にあり 昭和十九年五月十日 サイパン島方面へ出陣せられし歩兵第百十八聨隊 殉国将士三千有余柱の慰霊之碑を建て永久のご冥福を祈る
   昭和六十年九月二十二日
     歩兵第百十八聨隊  生存者有志建立

記念植樹趣意
 過ぐる大戦において静岡聯隊最後の部隊である伊藤豪大佐以下三千有余名の将兵は昭和一九年五月勇躍南方戦線に出陣した
 然るに戦局囘天の雄図空しくサイパン島およびその周辺海域に華と散った 現在の平和豊な生活を感謝し その志と事実を永く憶えんがため桜の若樹を植え記念とする  春ごとに爛漫と咲きもって英魂を慰めよ
   昭和五十二年八月十四日
     遺族代表 伊藤 小夜
     伊藤部隊付陸士第五十八期士官候補生一同

百日紅(さるすべり)
終戦七十周年記念献木
元歩兵第118連隊伊藤部隊は昭和18年7月 第43師団下の第118連隊として静岡市に於いて3300名の兵士(静岡県出身者)により新に編成された。
昭和19年5月29日サイパン島守備のため横浜港を出港同年6月5日、米潜水艦の魚雷攻撃で3分の2が海没戦死、残る兵士は上陸するも3週間にわたる激戦の末、陸海軍守備隊約4万1千名は全員玉砕した。終戦70周年の節目の年に現地での御英霊の面影を偲びサイパン島に咲くフレイムツリー(南洋桜と言われる)に良く似た百日紅を植樹することにした。
 平成27年7月18日
  元歩兵第118聯隊伊藤部隊遺族会


西村直己先生顕彰像

終戦時の鈴木貫太郎総理秘書官

明治38年10月8日東京に生まる
天稟の資質に恵まれ東京帝国大学卒業後官界に入る
終戦時鈴木貫太郎総理秘書官
戦後吉田茂総理主席秘書官を勤め国存亡の激動期に国政に盡瘁す
昭和24年1月静岡県第1区より衆議院議員に初当選
爾来連続10期28年に亘り国地方の発展に盡す
この間農林防衛の各大臣自由民主党政調会長等を歴任
特に戦歿者遺家族の援護等その功は枚挙に遑なし
清廉高邁な人格を賛仰し郷党追慕の至情を此処に表す
 昭和58年7月28日
  福田赳夫 撰
  荻野準平 書


殉國碑(泉第五三一六部隊之碑)

レイテで玉砕。
昭和三十三年九月二十三日建立。

泉第五三一六部隊ハ関東軍ニ属セル独立混成旅団トシテ支那事変ノ擴大トトモニ熱河ヨリ中国ニ進出 長城線ヲ突破シ 昭和十二年十月張家口ニ於テ第二十六師団独立歩兵第十三聨隊トシテ編成セラレ 内蒙古ニ進駐 同年十一月二十六日軍旗ヲ奉ス
爾後 綏遠周辺ノ警備ニ任ジ 五原 中支 中原 浙贛 河南等幾多ノ作戦ニ其ノ赫赫タル戦績ハ威勲ヲ四圍ニ輝カセリ
 時恰モ 大東亜戦酣ナル昭和十九年七月 比島方面ニ急派セラレ昭和十九年八月十九日未明バシー海峡ニ於テ魚雷攻撃ヲ受ケ 無念ニモ聨隊本部 第二大隊ハ軍旗トトモニ海没 第一 第三大隊ヲ主力トシテ最激戦地 レイテ ノ決戦ニ参加 戦力ヲ物量ニ頼ル優勢ナル敵ト死闘半歳有余 此ノ間 忠烈ニシテ勇猛果敢ナル奮闘ハ全軍ノ亀鑑トシテ上聞ニ達セルモ 遂ニ全員玉砕ス 嗚呼
 今茲ニ殉國ノ至情ヲ讃エ 大陸ノ山野ニ 或ハ南海ノ孤島ニ散華セル我ガ勇士ノ霊ヲ慰ムルトトモニ栄誉輝ク部隊ノ偉績ヲ永遠ニ伝ヘンガ為 建立
 昭和三十三年九月 
  支那派遣軍總司令官 畑 俊六 篆額
  泉第五三一六部隊初代部隊長 久野村桃代 謹書

 去る太平洋戦争において 主として本県出身者により編成された泉第五三一六部隊(独立歩兵第十三聨隊)は 内蒙古(モンゴル)の厚和(綏遠)に在って幾多の作戦警備に任じ 昭和十九年七月フィリッピンに転戦した 途中 部隊の一部バシ―海峡において魚雷攻撃を受け軍旗とともに海没 残る主力はレイテ島の決戦に臨み死闘すること半歳 矢附盡き刀折れレイテの地を朱に染め遂に全員玉砕した
 遠い異郷の地に飢えと疲労に耐えながら散華された我が勇士ゆかりの地に何かを遺し 永遠にこれを顕彰したい心が結集され 昭和三十三年二月泉五三一六会を結成し会員の一致協力により同年九月ここに念願の殉國碑を建立し 毎年秋分の日にこの碑の前で慰霊祭を行っている 

「殉国碑」の扁額は、支那派遣軍總司令官 畑 俊六 書


遺品館

遺品館は、令和元年(2019)に新設。
ただ、参拝が年末ということもあり、全体的にバタバタしていたので、未見学。再訪します。


移築の元将校集会所の跡地

歩兵第三十四聯隊跡地から移築された将校集会所だった建物が、神社境内にありましたが、2021年に解体済み。。。


天皇陛下 皇后陛下 御参拝記念碑

昭和32年。昭和天皇の御親拝があった。

※撮影:2023年12月

※場所

https://maps.app.goo.gl/RdH9DADJwihG1p1Z8

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護國神社関連

はじめに