「近代建築」カテゴリーアーカイブ

太宰治ゆかりの三鷹陸橋(三鷹こ線人道橋)

2021年9月、JR東日本と三鷹市との協議で解体撤去されることが決定した。。。
解体時期はまだ決まっていないというが、解体される前に足を運んでみた。


三鷹陸橋(三鷹跨線橋・三鷹跨線人道橋)

昭和4年(1929)、人びとの往来を確保するために中央線と三鷹車両センターを南北に横断する跨線橋が設置された跨線橋。
全長93メートル、幅約3メートル、高さ約5メートル。
太宰治(1909-1948)ゆかりのスポット、でもあった。

三鷹こ線人道橋の今後の取り扱いについて
      作成・発信部署:都市整備部 道路管理課
      公開日:2021年9月7日 最終更新日:2021年9月7日

 三鷹こ線人道橋(以下「こ線橋」という。)については、旧三鷹電車庫建設に伴い当時の鉄道省が昭和4年に設置し、鉄道省から国鉄を経て東日本旅客鉄道株式会社(以下「JR東日本」という。)が継承、以来JR東日本が維持管理してきました。しかし、こ線橋は鉄道事業施設としてではなく、実質生活道路として利用され、公共的施設として管理されることが相応しいとの見解から、JR東日本から無償譲渡の申し入れがありました。これまでの間、市民の皆様や市議会の思い等から、現状のままで存続する方法がないか模索してきましたが、2021年6月にJR東日本より、こ線橋は建設後長期間経過するとともに、耐震性能が現在の基準を満たしておらず、利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことが想定されること、また、こ線橋の代替施設として堀合地下道があることから、撤去することで進めるとの見解が示されました。市としては、耐震性能に課題のあるこ線橋の譲渡を受けたとしても大規模な改修(耐震補強)及びメンテナンスに多額の費用が必要となること、改修により文化的価値が損なわれる可能性が高いことなどから譲り受けることは困難と判断し、耐震性能が現在の基準を満たしていないこ線橋の存続により、万が一の災害の際に利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことも考えられるため、JR東日本の判断を受け入れることとしました。なお、こ線橋は三鷹ゆかりの文学者で世界的に有名な太宰治が好んだ場所として文化的価値が高く、市民に人気のある施設であることから、今後はJR東日本と連携し、こ線橋の一部を譲り受けて保存や映像・画像等での記録など、記憶と記録を残す取り組みを行っていきます。

三鷹市 https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/093/093254.html

北側の一部のみ、再塗装が施されているが、大部分は錆色。

通行される皆様へ
この三鷹こ線人道橋は、JR東日本が管理している橋です。
1929年(昭和4年)に古い設計基準で建設されています。このため、
地震等の災害発生時には通行禁止となりますので
他の道路へ迂回していただくようにお願いします。

迂回の道路につきましては、三鷹駅寄り「堀合地下道」を利用ください。
なお、今後、老朽化等により通行できなくなる場合があります。
ご理解とご協力をお願いします。
 東日本旅客鉄道 八王子支社

太宰が生きたまち
三鷹

太宰ゆかりの場所
陸橋(跨線橋)

中央線の上にかかる陸協に友人を案内することもありました。
この陸橋は、1929(昭和4)年に竣工した当時の姿を今も留めています。
 三鷹市

跨線橋の様子を記録してみる。

北側は、道路もまたぐように跨線橋が伸びている。
北側の階段部分及び道路の上あたりまで、再塗装が施されており、きれいな緑色であるが、線路側の大部分は錆びるに任せた状態。

南側。
北側よりも緊張感がある石段は、やはり再塗装されていないがゆえに老朽化を感じさせる状態だからだろうか。

石段の所々は、破損している。鉄筋も露出している。

三鷹市が設置した太宰治の案内板は南側に設置されている。

場所

https://goo.gl/maps/pGhCg8Xatikdmg6f8

跨線橋と三鷹駅の間には、堀合地下道が設置されている。跨線橋が撤去された場合の代替の南北横断通路。


三鷹は太宰治が居住をしていた街。三鷹を流れる玉川上水に入水自殺をし、墓も三鷹の禅林寺にある。

太宰治の墓

場所

https://goo.gl/maps/8chNdhXqFSzBCM5j6

三鷹の禅林寺には、森鴎外の墓もある。また、三鷹事件の慰霊碑もある。


太宰治ゆかりの「さるすべり」

太宰治旧宅に植えられていた「玄関前の百日紅(おさん)」が三鷹市平和通りの井心亭の庭に移植されている。

場所

https://goo.gl/maps/8r7zStkTxoAjb7Yw9

実は、太宰治の邸宅があった通りには、阿南惟幾陸軍大将宅もあったが、その話は別記事にて。

三鷹には、太宰治ゆかりの場所が多い。跨線橋とあわせ、史跡散策・文学散策をしてみるのも良さそうです。

※撮影は2021年9月

高射砲第二聯隊の跡地散策(軍都柏・その2)


北柏駅から徒歩15分ほど北に歩いた場所に、往時の建物などが残っていた。

2009年(平成21年)に、「柏市消防局西部消防署根戸分署」が建物として役目を終え、解体も検討されていたが、詳細な調査が行われた結果、 陸軍時代の 高射砲第2聯隊の「照空予習室及測遠器訓練所」であることが判明し、柏市によって保存されることとなった建物。

足を運んでみましょう。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R393-81
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。
陸軍高射砲第二聯隊の北側には柏陸軍病院もあった。

さらに拡大。
陸軍高射砲第二聯隊の建物がわかる。

現在の様子を、Google航空写真にて。

下記は、高野台児童遊園にある営門門柱の解説板から抜粋。


軍都「柏」

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


高射砲第二聯隊 ・照空予習室及測遠器訓練所
 (旧柏市消防局西部消防署根戸分署)

高射砲第2連隊の跡地は、現在の富勢中学校及び周辺一帯にあたる。
かつて、 柏市消防局西部消防署根戸分署 として使用されていた建物。

詳細な調査結果があがってくる前、かつては、高射砲第二連隊「馬糧庫」とも呼称されていた。

照空予習室及測遠器訓練所」は高射砲連隊に特有の演習用施設。
同種の建物は、柏と加古川の2か所にのみ現存しており、柏の建物は「起重機装置(エレベーター)の支柱」が残る国内唯一の残存例として大変に貴重な建造物。
建物の内部は「照空予習室」として、使用され、屋上を「測遠器訓練所」として使用。2つの要素を併せ持つ建物であった。


柏市のサイトに詳細情報がアップロードされている。

1 照空予習室及測遠器訓練所(旧西部消防署根戸分署)

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3211.html

2 高射砲第2連隊 3DCG(三次元コンピュータグラフィックス)版

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3212.html

3『空をつくる建物』~高射砲第二連隊 照空予習室調査報告書~

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3214.html

「起重機装置(エレベーター)の支柱」

支柱の存在感がすごい。

屋上で、測遠器訓練、が行われていた。内部は、照空の訓練で使用されていたために、そこから屋上に直接アクセスできるように階段が設けられていた。

照空予習室及測遠器訓練所の東側。
現在は、住宅街と整備されているが、横並びに「修理工場」「油脂庫」などがあり、近年まで土台などが残存していたが消失。

毎年秋に、建物の一般公開もあるという。
ぜひとも、足を運んでみたい。

柏歴史クラブ

http://teganoumi.blog62.fc2.com/blog-category-6.html

場所

https://goo.gl/maps/FE36VSrVwdzikGnW7


高射砲第二聯隊営門門柱と歩哨舎

「高野台児童遊園」に、 高射砲第二聯隊の営門門柱と歩哨舎が移築保存されている。
高野台児童遊園の東側が、営門であった。
高射砲第二聯隊のあとは、東部十四部隊と東部八十三部隊が、当地に駐留。敷地の東側に東部十四部隊、西側に東部八十三部隊が展開していた。

旧高射砲第二連隊営門
 ここにある門柱は東方約60mの所にあったものを移設したものです。
 高射砲第二連隊は、昭和13年に市川市国府台から富勢村根戸字高野台に移転してきました。隊は昭和16年に主力が東京方面に移り、同18年に廃されるまで続き、その後東部十四部隊と東部八十三部隊が進駐しました。
 敷地は現在、市営住宅、富勢中学校、公的施設として利用されています。
 柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ、十余二、花野井、大室、高田、若紫には軍事施設があり、緑ヶ丘には軍需工場がありました。
 これらのものは姿を変えてしまい、当時の面影をみることは困難になっています。
 本市に軍事施設があった残り少ない証拠として、また、二度と再び戦争の惨禍を繰り返すことのないように祈念して、営門を移設して永く保存し、「恒久平和」を求め続けるものです。
 柏市教育委員会

コンクリート造の歩哨舎。

場所

https://goo.gl/maps/qV5yu6P7q9oKA9SLA


コンクリート造形物?(敷地東部)

高野台児童公園から北上してみる。
足元に不自然に固められたコンクリートの造形物があった。
往時のものかは不詳


土塁と境界標石?(敷地北東端)

高射砲第二聯隊の敷地の北東端。
境界標石と思われる石柱と、往時からのものかは不詳であれど、土塁があった。

摩耗しているが、なんとなく「陸軍」と書いてあるような気がしてくる。

土塁?

場所

https://goo.gl/maps/LzbVXezDjv9FoC779


敷地南東端

南東端部分は特に何も残っていなかった。


敷地南部

用水路があった。当時からの水路(排水路)かは不詳。ただ経験則的には、当時からの排水路であってもおかしくないものを感じた。

写真左側の木々が、かつての陸軍用地

水路の右側が高台が陸軍用地であった、

場所

https://goo.gl/maps/M5GTBvQkZ8PubMTA7


陸軍境界標石(敷地南部)

敷地南側の通路に沿って、陸軍用地の境界杭(境界石)が点在していました。

こちらは、はっきりと「陸軍」と刻まれているのがわかります。

場所

https://goo.gl/maps/adXSKGnRxcL4yhVt5


土塁?(敷地南端)

土塁がめぐらされている。
高台が、陸軍用地。

右側の坂道を登っていくと、高野台(富勢)。
かつての高射砲第二聯隊の地。

場所

https://goo.gl/maps/BviqerzvjNUo8Kb26

ちなみにこの日は、柏駅スタートで柏公園(柏陸軍墓地)を経由してからの、高野台(高射砲第二聯隊)散策で、ゴールは北柏駅、でした。約6.5キロで約2時間の散策。

以上、高射砲第二聯隊の跡地散策でした。

※撮影は2021年7月。


関連

神田駅西口高架橋に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口から「煉瓦造りの高架橋」を散策してみました。


JR神田駅

大正8年(1919)、中央本線の万世橋駅ー東京駅間の途中駅として開業。
今も活用されている「高架橋」は開業と同じく大正期に建造。高架橋は当時の最新技術であった鉄筋コンクリート造りをベースと赤レンガ装飾を施している。これは、明治後期に新橋駅ー東京駅間の総レンガ積み高架橋と外観を統一するためであった。

JR神田駅西口から南に向けて。
今も残る「赤れんがの高架橋」を丹念にみてみると、ところどころに欠けが見受けられる。これは一説によると「機銃掃射の弾痕」だという。
そう思って、改めて観察してみると確かに「機銃掃射弾痕」に見えてくる。

近隣では、日本橋川に架かる「鎌倉橋」にも機銃掃射弾痕がある。
鎌倉橋は昭和19年11月の空襲であったというが、神田駅の高架橋に残された弾痕はいつのものかは不詳。


神田駅西口高架下に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口を出て、すぐ目の前の高架橋。さっそく弾痕ぽい跡があったけれども、いったんは、ちょっと北側に歩いてみて、順番に見ていきましょう。

第2鍛冶町橋高架橋(北側)

第1鍛冶町橋高架橋(南側)

神田駅西口改札側

新石橋架道橋(北側)

焼け跡?

新石橋架道橋→新石町橋高架橋

神田駅西口改札の道路を挟んだ南側。

新石橋架道橋から新石町橋高架橋の間

新石町橋高架橋(南側)

千代田町橋高架橋(北側)

千代田町橋高架橋


神田駅の周辺に、こんなに機銃掃射弾痕が残っているとは、露知らず、でした。
スキマ時間でも、散策できるスポット。ちょっと気にして歩いてみるのも良い感じです。


関連

煉瓦に対する機銃掃射としては、半田赤レンガ建物(中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫)もある。

日本初の田園都市・田園調布の玄関口「旧田園調布駅舎」

「田園調布」
日本を代表する高級住宅街は、渋沢栄一の理想とした田園都市でもあった。


田園調布

田園調布は、1918年(大正7年)に渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により主に開発され、1923年(大正12年)8月から分譲された地域であった。

渋沢栄一はイギリスで提唱された田園都市構想を理想とし模範的な住宅街を開発。
田園調布駅前広場を中心に放射状に延びる街路は、当時のヨーロッパの都市に見られた特徴をそのまま取り入れたものであった。渋沢栄一の四男であった渋沢秀雄が、日本の田園都市建設の参考とするために、大正8年(1919)に欧州11カ国を視察し住宅事情を学び、帰国後に田園都市株式会社に取締役として入社。
「田園調布」開発へとつながった。

田園調布の由来
この広場を中心とする凡そ八十万平米の地域は、明治文化の先駆者渋沢栄一翁が、我国将来の国民生活の改善の為に、当時漸く英米に現われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにも関らず自ら老躯を運んで親しく土地を選定された所であります。
 その目的の為に大正七年、田園都市株式会社が創設されて、翁の理想に共感する人々に土地の分譲を行ない、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生まれました。
 この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、建築その他に関し色々な申し合せを固く守り殊に道路との境界には一切土塀板塀などを設けず、花壇か生け垣の低いものの程度にすることなどを、厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生まれたのであります。
 大正十一年には同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され大正二年三月、当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ間もなく田園調布という駅名に改められました。その後この地区が東京市に編入された際、町名改正がおこなせれて当都市のみならず周辺の町村をもひろく含めて田園調布と呼ぶこととなりました。その折当会の地域は頭初の田園都市の約三分の二となり、他の三分の一は、世田谷区玉川田園調布となりました。
 ここに明るく住む方々も、ここを来し訪れる方々も、渋沢翁が永くここに栄えてゆくようにこの田園都市を愛護して下さるようお願い致します。
 昭和三十四年秋
 社団法人 田園調布会 会長 矢野一郎

田園調布駅前、放射状の起点となる西口広場に由来を記した石碑が建立されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C50-C2-29
昭和16年(1941年)4月2日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記写真を加工。

現在の様子。GoogleMap航空写真

田園調布駅から西側には、同心円状のエトワール型(パリの凱旋門周辺と同型)の道路と街路樹、広場、公園が設けられている。


旧田園調布駅舎

1923年(大正12年)3月11日
 目黒蒲田電鉄の開通と同時に開業。開業当時の駅名は「調布駅」であった。
1926年(大正15年)1月1日
 駅名を「田園調布駅」に改称。
1990年(平成2年)9月4日
 田園調布駅地下化のため、旧駅舎解体。
2000年(平成12年)1月15日
 旧駅舎を田園調布駅のシンボルとして復元(駅舎としては使用せず)。

旧田園調布駅舎設計者は神宮外苑の絵画館や上高地帝国ホテル、伊豆の川奈ホテルなどを設計した矢部金太郎。
特徴的な屋根の形はマンサード・ルーフという欧州中世紀の民家がモデルになっているという。

田園調布を造成した田園都市会社は、東急電鉄目蒲線前身である目黒蒲田電鉄の母体会社でもあった。

※撮影2021年5月


関連

板橋の田園調布

田園調布の南側は多摩川

「田園調布」と「調布」は、ちょっと違う。。。

渋沢栄一関係

はじめに

新河岸川橋梁に残る弾痕修復の名残?(北区)

鉄道と軍隊は、切っても切れない重要な関係にあった。
そのため日本の動脈である鉄道は、戦時中は幾多の危険を伴っていた。

新河岸川に架かる「新河岸橋梁」も、戦争をくぐり抜けた鉄道鉄橋の一つであった。

軍都・赤羽

東京と埼玉をの間に横たわっている荒川・新河岸川。
東北本線は赤羽と川口で南北に横断する。

荒川・新河岸川の南側は、陸軍の拠点として工兵部隊が展開されている「軍都・赤羽」であった。

赤羽台の戦跡散策

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-191
昭和19年(1944年)9月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

画像右上に鉄道橋が「2本」架かっているのがわかる。(現在の鉄道橋は「3本」)


新河岸川橋梁

東京都北区赤羽と埼玉県川口市舟戸町の間で、新河岸川に架かる「新河岸川橋梁」と荒川に架かる「荒川橋梁」が連なっている。
明治16年(1883)に初代橋梁が仮設として建設され、明治18年に初代橋梁が完成。
関東大震災後に2代目橋梁が企画され、貨客分離で2本目も増設された。

現在は3本の鉄道橋が並んでいる。
上流 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中央 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
下流 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線

上流側から。
手前の2本は戦前の架橋。奥の1本(京浜東北線)は戦後の追加架橋。

平成25年(2013)11月17日(日)、上記写真の右側の護岸工事中に不発弾が見つかっている。

新河岸川整備事業(新河岸川護岸工事現場)では、新河岸川橋梁の間近にて不発弾(2,000ポンド爆弾/1トン爆弾)も見つかっていることから、米軍も戦略的に、この東京都埼、そして東北を結ぶ大動脈であった鉄道橋・新河岸橋梁をターゲットしていたこともわかる。

http://www.ukima.info/newslog/episolgo/form2/130724.pdf

上記PDFより不発弾発見場所

https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00271.html


新河岸川橋梁(貨物線)

新河岸川橋梁(貨物線)は、3つの橋のうち、一番古く昭和2年(1927)竣工。上流に位置している。

その新河岸橋梁の埼玉側(北側)に、戦争の爪痕があるというので足を運んでみました。

トラス橋の「端柱・橋門構」をみると、左右で異なっている。
北側から見て、左は「リベット結合」、右は板が追加され「溶接結合」がされていることがわかる。

この左右で異なっている理由が(真偽は不詳ではあるが)
「米軍機によるロケット弾により被弾損傷したものを修復した名残である」、とされている。

確定できるソース(原拠)に辿りついていないため、本記事の表題は「?」としました。

たしかに、右側と左側が異なっている。
端柱・橋門構の右側は補強修復されていることがわかる。

オリジナルの端柱はリベットのみ。

修復された端柱はオリジナルのリベットと、一部に板を追加された溶接となっている。

左 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
右 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線


関連

鶴見線大川支線第五橋梁に残る機銃掃射弾痕

JR鶴見線の大川支線。白河運河にかかる第五橋梁には、米戦闘機による機銃掃射の弾痕が今も残されている。

鶴見線国道駅にも機銃掃射の弾痕が残っているが、鶴見線大川支線の弾痕が同じ頃かどうかは不詳。


昭和17年4月18日、ドーリットル空襲において横浜・川崎地区でも初空襲を受けて以来、横浜は大小30回にも及ぶ空襲を受けてきたという。

昭和19年12月25日、B-29 による横浜地区、初空襲。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/ks-nenpyou3.html

昭和20年4月4日、B-29 による川崎地区、初空襲。
そして4月15日にB-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

昭和20年(1945)5月29日昼間、アメリカ軍はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機という大編隊でもって横浜を空襲。約8000人から10000人という死者をだした。この「横浜大空襲」では、京急平沼駅が壊滅、神奈川県護國神社は焼失、している。

鶴見線大川支線は大正15年(1926)3月に鶴見臨海鉄道貨物線として開業。
大川支線の大川は、日本初の製紙技師としていくつもの製紙会社を興し、「製紙王」と呼ばれた大川平三郎に因んでいる。


鶴見線大川支線第五橋梁

機銃掃射の弾痕は、橋の南側の西向きに集中している。

南1枚目。

南2枚目。

南3枚目。

南4枚目。

ここだけ東側。

全体

全体

集中的に機銃掃射されたのがわかる。

鉄柱は昭和18年。

なんかいた。なんか座礁して廃船っぽい佇まい。
ANNIVERSARY CRUISE 海賊船アニバーサルクルーズ号らしい。。。

場所

https://goo.gl/maps/goRXZrNQKPkM5m846

鶴見線といえば。


関連

「帝都の門・永代橋」と「震災復興の華・清洲橋」

隅田川の下流にかかる2つの橋。「永代橋」と「清洲橋」。
関東大震災で壊滅した下町復興のために架橋された、2つのシンボルブリッジであった。

永代橋は筋骨隆々とした男性的なイメージで、優雅な下垂曲線を描く清洲橋は女性的なイメージでデザインされたという対となる橋であった。


永代橋

隅田川の最下流に架かる「帝都の門」として大正15年12月20日竣工。
現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋。

2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日、永代橋は都道府県の道路橋として初めて同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

永代橋に用いられた重厚な鋼材は、もともと軍艦用の高級鋼材であった。
ワシントン軍縮会議によって戦艦の保有数に制限が生じ戦艦建造中止となったため、もともと戦艦用に確保していた鋼材を、永代橋に流用したものであるという。

なお、東京大空襲の焼夷弾の弾痕とされる「へこみ」もある。

土木学会選奨土木遺産
JSCE
2000
帝都を飾るツイン・ゲイト(永代橋)

 「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
●二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
●永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。

場所

https://goo.gl/maps/b2S39EbzLZVzEf3T8


豊海橋

永代橋から左岸を北上するとすぐに日本橋川と隅田川の合流地点と日本橋川に架かる豊海橋がある。せっかくなので立ち寄り。

日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋。日本橋川最下流の橋。
1927年(昭和2年)に震災復興橋として架設。

豊海橋
 日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至っています。
 現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に復興局が架設したもので、形式名はフィーレンデール橋といいます。この名は考案者のフィーレンデールの名をとったものです。
 梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたもので、我が国では本橋以外に数例しかなく、希少価値の高い橋です。

「豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈下を見渡す景色、今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。」
 (永井荷風 断腸亭日乗 より)

橋梁の諸元
形式   フィーレンデール橋
橋長   46.13m
有効幅員 8.00m
着工   大正15年5月
竣工   昭和2年9月
施工者  復興局
 
平成3年3月 東京都中央区

日本橋川
日本橋川は、慶長5年(1600)関が原の合戦後に切り開かれ、江戸城の大手口と隅田川をほぼ一直線に結ぶ運河として主要な役割を果たした川筋で、江戸の繁栄と共に生きてきた河川です。

中央区民有形文化財
豊海橋
所在地 中央区新川一丁目 日本橋箱崎町 (日本橋川)

 現在の豊海橋は、大正15年(1926年)5月起工、昭和2年(1927年)9月竣工。
 日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。
 明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923年)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。
 福田武雄はドイツ人フィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数ヵ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区民有形文化財に登録されています。
 平成14年3月 中央区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/Tqkm1gwHuXdNixneA

ちなみに、豊海橋の近くには、「日本銀行創業の地」があった。


清洲橋

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。昭和3年3月竣工。
「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になる設計で、清洲橋は「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザイン。

2000年(平成12年)に永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

日本国重要文化財
清洲橋
諸元 橋長 186.2メートル
   幅員 25.9メートル
   上部工 銅製3径間補剛吊橋
所有者 東京都
指定年月 平成19年(2007)6月18日指定(建第2500号)

指定の意義
 清洲橋は、関東大震災復興事業によって建造され昭和3年(1928)3月に竣功した。
 清洲橋の特筆すべき点として、上部構造は日本国内では珍しい橋端部に水平力の及ばない自碇式連続補剛吊橋で塔柱から吊るされた吊鎖を橋端部において主桁と連結し、主桁は左右の橋桁を繋ぐ構造である。放物線状の優美な外観の吊鎖は、高張力マンガン鋼のデュコール鋼を吊鎖に用いるなど、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚と、締切工法による橋台二基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師鈴木清一らである。

清洲橋
 清洲の名は深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることに由来し、橋の開設にあたって公募されたものである。
 深川の清澄町はわが国セメント工場の発祥の地であり、庭園でも知られ、また芭蕉庵跡にも近い。 日本橋中洲町は明和8(1771)年に埋立てを開始して隅田川畔の繁栄の一翼を担った。 その後、中洲埋立地は取り壊され、元の水浸地になるなど複雑な歴史を持つが、明治19(1886)年に再び埋立てられ、 新しい土地として生まれ変わった。 この二つの町を”中洲の渡し”が結んできたが、大震災後の復興事業でドイツのケルンの大吊橋を範として女性的な曲線美をもつ 吊橋を架けることになり、昭和3(1928)年この橋は完成した。 第二次世界大戦でケルンの橋は爆破されてなくなったが、清洲橋は東京大空襲の中でも多くの被爆者を救って 幹線道路の橋としての役割を果たしてきている。
 昭和58年3月 東京都

清洲橋の照明灯具
 この灯具は、清洲橋が建設された昭和3年から昭和60年代まで、橋の吊材に設置されていました。
 現在の灯具は、建設当時の図面を参考に制作し、材質は当時のブロンズ(青銅)から、軽量で強度のあるアルミニウム合金としました。
 また、ランプは省エネルギー効果の高いLEDを採用しました。
 平成30年3月 東京都

土木学会選奨土木遺産
JSCE
2000
帝都を飾るツイン・ゲイト(清洲橋)

 「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
●二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
●清洲橋は、美しさを追求した特殊な吊橋である。

場所

https://goo.gl/maps/m57AzNfkLyprHHjM9

ちなみに清洲橋の近くにはアサノコンクリート深川工場がある。


陸奥宗光宅跡

清洲橋のたもとに陸奥宗光邸宅跡があった。

江東区登録史跡
陸奥宗光宅跡 清澄1-5付近
 陸奥宗光 は、明治時代の外交官・政治家で、弘化元年(1844)、和歌山藩士伊達宗弘(千広)の第六子として生まれ、明治三十年(1897)、西ヶ原(北区)の自邸で逝去しました。
 父宗広は藩の要職にありましたが、政争により失脚、宗光は一五歳で江戸へでました。文久二年(1862)に脱藩し、京都で尊王攘夷 運動に加わり、のち坂本龍馬 の海援隊 に参加しました。このころより陸奥の姓を用いるようになりました。
 明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。明治一〇年(1877)、西南戦争 に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したとして、翌一一年に免官、五年間投獄されました。出獄後は外務省に入り、明治二三年(1890)、第一回衆議院選挙で当選、第二次伊藤内閣の外務大臣として日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(1894~95)の開戦と講和に関わりました。
 宗光が深川清住町(現清澄)に在住したのは明治五年(1872)から同一〇年(1877)までの間で、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書き上げた時期にあたります。この邸宅は、墨田川に面して眺望がよく「三汊水碧楼」と呼ばれていました。
 平成22年7月 江東区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/1TepzPT5qwkGNFy37

旧・陸奥宗光邸

明治維新百年記念碑

清洲橋のたもとに建立。
この記念碑は明治100年を記念して、昭和43年11月3日に清澄1丁目町会によって建立。

明治維新百年記念
明治天皇御製
いかならむ 時にあふとも 
 人はみな
誠の道を 
 ふめとをしへよ
 明治神宮権野宮司 伊達巽謹書

場所

https://goo.gl/maps/DctJaUQhy81zRX5k6


震災復興の鉄橋として架けられ、そして戦災をくぐり抜けた橋が都内には意外と多い。
これからもそんな橋を気の向くままに掲載していきたいと思う。

※本記事は総て2021年3月撮影

  


関連

浜松駅周辺の戦跡散策【浜松5】

浜松駅周辺の戦跡散策。浜松空襲の名残をたどってみる。


揚子橋に残る弾痕

馬込川にかかる揚子橋(ようずばし)。橋の南北に激しく機銃掃射による弾痕が残っている。弾痕は約50箇所にも及ぶという。

浜松は、その都市の規模に比べ、異様なほど多くの空襲を受けた。また艦砲射撃も受けている。
軍事施設や軍需工場が集まっており、また東海道の要衝でもあり、東京や名古屋を爆撃するB29の飛行航路にも当たっていたという複数要因があった。

揚子橋の弾痕がいつのものかは不詳。

場所

https://goo.gl/maps/c47NzCu32F7WzVax7


動員学徒追悼・慈光観音像(林泉寺)

学徒動員により動員現場で死亡した娘を追悼する母親の願いを受けて、1999年に建立。
観音像は学徒動員された10代の若き女性を模している。

慈光観音
為 学徒動員
青春散華

場所

https://goo.gl/maps/nigH8WqgWdqXnjHU9


戦歿者慰霊塔(河合楽器)

河合楽器の敷地内にある慰霊塔。河合楽器関係者の戦歿者を祀る。
河合楽器も軍需工場に指定されピアノ工場では爆弾倉や脚扉が作られていたという。
そこでは学徒動員も行われ、芥田学園や西遠女子学園などの多くの女学生が動員され、そして空襲等で亡くなっている。

場所

https://goo.gl/maps/5EFKCuM2ZH8Xvc8E9


市民の木・プラタナス

市民の木
 昭和20年6月18日の”浜松大空襲”により市街地の大半が焦土と化し、プラタナスの並木も枯死したと思われました。
 しかし、奇跡的に3本だけは幹に焦げ傷を残しながらも市民の愛の手に守られ、2年後の春に見事に発芽しました。
 以後このプラタナスは通行く人に勇気を与え、復興を呼びかけてくれました。
 戦火の中からよみがえり市民ともに生きた木として、昭和39年6月には”市民の木”と命名された記念すべき樹木です。
 浜松市

場所

https://goo.gl/maps/PghDjpPMpoNDSMj68


静岡銀行浜松営業部(旧遠州銀行本店)

昭和3年(1928)竣工。中村與資平設計の銀行建築。浜松市指定文化財。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所

https://goo.gl/maps/FVmtSSWmF8NfkU5v9


鴨江アートセンター(旧浜松警察署)

昭和3年(1928)竣工。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所

https://goo.gl/maps/LALLk3XAPwFwZNXx5


木下恵介記念館(旧浜松銀行協会)

昭和5年(1930)竣工。浜松市指定有形文化財。
設計は、中村與資平。前述の旧遠州銀行本店と同じ設計者。
浜松空襲を耐えた建築物。上記の警察署の向かいにある。

中村與資平は静岡県内に多くの建物を残している。
豊橋市公会堂、静岡市役所本館、静岡市公会堂、静岡県庁本館など。

場所

https://g.page/keisukemuseum?share


夢告地蔵尊

戦争の犠牲となったお地蔵様。

夢告地蔵尊由来
この地蔵尊は安政五年(西暦一八五八年)に大流行したコレラで死んだ人達を供養する為建立されたもので、延命地蔵尊と呼ばれ、遺族達の香華が絶えなかった程の大繁昌ぶりであった。その後明治七年、小野組の大火災に遭い、更に廃仏毀釈の影響で取り壊し令が出て、地中に埋められた。大正八年になって當町住人小柳丈之助といふ人が、「地蔵尊が地上に出たい。」といふ夢を見て、町民一体となり埋められたと思われる庚申堂境内をあちらこちら掘り捜した結果、三日目に發見地蔵尊を復元し、夢告地蔵尊と銘命した。當時このことが異常な評判を博し、特に、花柳界に反響を及ぼし、東西より粋な婦人の参拝が後を絶えなかったと云ふ。其の後、大東亜戦争中、爆撃と艦砲射撃により、御本体御堂共目茶目茶に破壊されてしまったが、戦後再び地蔵尊を復元し、昭和二十六年、現在の場所に、御堂を造り、恭々しくお祀りしたのである。昭和五十一年にいたり、この御堂はすでに老朽化し、倒壊寸前の状態にあり、之の新築を計画したるところ、幸いにして町内外有志の御賛同と御喜捨を得て、茲に総檜造りの御堂を、新築落成したのである。
昭和五十一年六月二十五日落成式佳日誌 世話人

場所

https://goo.gl/maps/Q3H9rrBbJtu5Dhnx6


一連の浜松の散策記録はひとまずこれで〆。
浜松は戦争関連の歴史が多く残されており、まだまだ散策しきれていません、きっとまた訪れることもあるかとは思いますので、そのときには別途追記していきます。

※撮影及び散策は2020年11月


関連

傷ついた兵士の療養所「傷痍軍人箱根療養所」(箱根病院・小田原)

箱根登山鉄道「風祭駅」。
かまぼこの鈴廣の本店や土産物店、鈴廣かまぼこ博物館などで賑わう駅前とは反対側の山の方に、「箱熱病院」がある。この病院は、かつて戦場で傷ついた軍人たちの療養所であった。


傷痍軍人箱根療養所
箱根病院

「廃兵院」は、日露戦争により、四肢の欠損や脊髄損傷などの重傷を負い、社会復帰が困難で身寄りのない者を収容する施設であった。

日露戦争直後の明治39年(1906)に、「廃兵院法」によって戦傷病兵を国で扶養することを決定し、明治40年に東京予備病院渋谷分院の一画に「廃兵院」が設立。明治41年(1908)に渋谷から巣鴨に移転。

大正12年(1923)、廃兵院法の改正が行われ、陸軍省から内務省に移管。
昭和9年(1934) 、「廃兵院」は「傷兵院法」により「傷兵院」と改称。
昭和11年(1936)、巣鴨の地から現在の小田原市風祭へと移転。東京巣鴨周辺の都市化が進み、療養環境が維持できなくなったための移転という。
昭和13年(1938)、厚生省の設置とともに、傷兵院は厚生省の外局として発足。「傷兵保護院」に所属。
昭和14年(1939)、傷兵保護院は事業拡大し、「軍事保護院」と改称。
昭和15年(1940)、軍事保護院は「傷痍軍人箱根療養所」を併設。当時、臨時東京第1病院に入院していた支那事変による戦傷脊損患者を収容した療養所であり、国内唯一となる脊髄損傷専門の「療養所」であった。
これは、箱根病院が、全国唯一の「国立精髄療養所」に分類されている由来でもある。

昭和20年(1945)、終戦とともに傷痍軍人箱根療養所は厚生障害教区の医療局に所属。「国立箱根療養所」と改称。軍事保護院(傷兵院)は廃止。「国立箱根療養所」が所管を継承した。

昭和39年(1964)、東京パラリンピック開催。
箱根療養所からは日本代表選手53名のうち19名もの選手が出場。
そのうち傷痍軍人(傷病兵)出身は7名であり、選手宣誓を行った青野選手も戦地で傷つき箱根療養所で療養していた御方であった。

昭和50年、「国立療養所箱根病院」と改称。
平成16年、「独立行政法人 国立病院機 構箱根病院」に組織変更。
平成20年(2008)、最後の傷痍軍人の入院が終了となった。

こうして、傷兵院(傷痍軍人箱根療養所)は、戦後は「国立療養所箱根病院」 として医療活動を継承し、こんにちに至っている。

巣鴨にあった「傷兵院」の記念碑は以前にレポートしました。


傷兵院本館(箱根病院)

内務省営繕管財局設計、昭和11年(1936)竣工。
傷兵院が巣鴨から小田原に移転した際に建設された。

車寄せ部分。

三角屋根。

ちょっとおしゃれ。

建物北側

建物南側

数年前までは、本館のほかに講堂も残されていたが、駐車場拡張のために取り壊し済み。


傷兵院奉安殿

傷兵院時代に奉安殿として使用されていた建屋が残されていました。
回遊庭園の島の中に鎮座。往時は水が張られていたかもしれない。

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

奉安殿付近から、風祭駅方面を望む。


機銃台座??

不自然なベンチ。なんとなく機銃台座にみえるのですが詳細不明。

崖にせり出してます。この台座。

箱根病院

言わずもがなですが、
病院ですので、常識ある行動をお願いいたします。

風祭駅の北側

箱根登山電車。
小田原と箱根湯本の中間あたり。なのでこのエリアは小田急ぽい。

本格的山岳鉄道として土木遺産に認定されてます。(2007年の認定)


参考

https://hakone.hosp.go.jp/about/history/index.html

https://www.sankei.com/region/news/140819/rgn1408190054-n1.html

https://www.shokeikan.go.jp/


関連

「現存最古の地下鉄駅直結の民間建造物」明治屋京橋ビル


明治屋京橋ビル

東京都中央区京橋の「明治屋京橋ビル」
昭和8年(1933)建設。ルネサンス様式の優美な姿が特徴的。
設計者は曾禰中條建築事務所(曾禰達蔵と中條精一郎の共同事務所)

地下鉄の駅と一体化となって建設された民間建造物としては現存する最古の建造物。
地下鉄銀座線京橋駅改札(東京メトロ銀座線京橋駅7番出入口)と直結している。
中央区の有形文化財に指定。

京橋駅

昭和7年(1932年)12月24日、東京地下鉄道三越前駅 – 京橋駅間開業に伴い、終着駅として開業。
京橋駅建設費用の一部を、明治屋が負担している。


京橋駅ホーム


http://www.meidi-ya.co.jp/news/20150831.html

https://www.city.chuo.lg.jp/smph/kusei/syokai/tyuobunkazai/meijiyakyobashi.html


関連

明治屋ビルを設計した曾禰達蔵による建造物

講談社本館

地下鉄の父・早川徳次

海軍艦政本部・大阪倉庫跡

海軍艦政本部は、海軍大臣に隷属し、造艦・造兵・造機に係わる事務を司った海軍省外局のひとつ。
艦本式ボイラーや艦本式タービンなどの開発などで、略称「艦本」は一部では著名。

大阪大正区の南恩加島・木津川の河口付近に、海軍艦政本部の大阪倉庫の遺構があるというので足を運んでみた。


海軍艦政本部大阪倉庫
(現在の木津川倉庫株式会社)

現在の木津川倉庫株式会社の敷地が、当時の海軍艦政本部・大阪倉庫。
当時は海軍資材の倉庫として使用されていた地は、現在は保税倉庫や食糧倉庫として使用されている。木津川倉庫株式会社の創業は昭和27年。
昭和27年4月1日に、木津川倉庫株式会社は国有資産であった海軍艦政本部木津川倉庫を借用して、倉庫業を営む目的で設立されたことにはじまる。同年12月11日に払い下げ。

海軍艦政本部大阪倉庫
正門跡

正門の門柱は当時のまま残されていた。

スクラッチタイルが施されたモダンな意匠を下部に見ることができる。

門柱の上部にもタイルが施されていたが、上部はすべて撤去済。
数年前までは、残っていた。

門札の跡も。

外壁もそのまま残っている。

搬入門周辺はリニューアルされている。
こちらも数年前までは門柱が残っていたが撤去済み。

海軍艦政本部大阪倉庫
外壁

外壁もほぼ当時のまま使用されているが、ところどころに亀裂の補修なども見られる。

北側の搬入口。

海軍艦政本部大阪倉庫
当時の倉庫2棟
(現在の木津川倉庫株式会社)

木津川倉庫株式会社の第1号倉庫と第2号倉庫が、当時の海軍時代からの倉庫。
現在は、低温倉庫として使用されている。
数年前までは4棟あったというが、北側の2棟は取り壊され、現在は南側の2棟のみが残されている。


千本松渡船

すぐ近くの「千本松渡船」も楽しいので、散策時は一緒に巡るのがおすすめ。藤永田造船所跡地を遠望することもできます。

※2021年4月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R462-83
1948年11月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木津川の河口にはいくつかの造船所が集まっていた。

海軍艦政本部大阪倉庫の4棟の倉庫がわかる。

現在は、南側の2棟を確認できる。敷地は当時のまま。

https://goo.gl/maps/itVoJzXiz3o8fhfx6


関連

板橋の田園調布「ときわ台駅」周辺散策

東京都板橋区常盤台。東武東上線「ときわ台駅」。
東急の「田園調布」、小田急の「成城学園」などの鉄道会社主体の住宅地造成ブームの中で、東武鉄道が手掛けた最初の本格的な住宅地開発が「ときわ台駅」であった。

そんな、開発当初の昭和の雰囲気を感じつつ散策してみました。


常盤台(ときわ台)

東上鉄道
大正3年に東上鉄道として開通した際は、「ときわ台駅」はまだ未開業であった。大正9年(1920)に東上鉄道は東武鉄道と対等合併し、「東武鉄道東上本線」となった。

西板線
合併後の東武鉄道は伊勢崎線などの本線系統と東上鉄道系統との接続を予定し、「西板線」の建設を計画。これは西新井駅と上板橋駅を結ぶ計画であった。しかし関東大震災の影響などもあり頓挫。西板線は、東武大師線として一部が開業。

前野飛行場
西板線の車両基地・操車場予定地として東武鉄道が買収していた用地は、昭和4年(1929)に前野飛行場(板橋飛行場・遠藤飛行場)として、退役軍人の遠藤辰五郎に貸し出され、東京市内などの遊覧飛行が行われていたが、東武鉄道が西板線計画を撤退し、常盤台住宅地として分譲をすることを決め、昭和8年頃に前野飛行場を廃止。

武蔵常盤駅
常盤台住宅地の分譲地への最寄り駅として、昭和10年(1935)10月20日、武蔵常盤駅として開業。
昭和11年より13年にかけて、「常盤台住宅地」として分譲開始。

常盤台住宅地「板橋の田園調布」
駅前ロータリーから放射状に道路が伸びており、大田区田園調布の町並みと比較されることが多い。
そのため「板橋の田園調布」などとも呼称される。
常盤台住宅地分譲の際、東武鉄道が当時の内務省都市計画課職員小宮賢一の設計を採用。地域を一周する並木道(プロムナード)、袋小路(クルドサック)、道路に沿った緑道(ロードベイ)を配置する設計を行い、日本では先駆的な事例となった。

ときわ台駅
昭和26年に武蔵常盤駅から、ときわ台駅に改称。


ときわ台駅

平成30年(2018)に、北口駅舎のリニューアル工事が完了し、昭和20年の開業時の姿で復元。
開業当時からある青色スペイン瓦の三角屋根や、その下に配された縦長の三連窓、大谷石の表面に幾何学的模様を凹凸で表現した壁面や大谷石貼りの柱脚などを残しつつ、開業当初の塗装色で塗り直しなどを行い、改札上部の欄間のデザインなども再現。

特徴的な三連窓。

昭和10年の開業当時から残る大谷石の壁面・柱脚。


ときわ台駅ギャラリースペース
武蔵常盤小径

常盤台住宅地に関連した11枚のパネルが提示してある。


1935(昭和10)年10月20日、ときわ台駅は「武蔵常盤駅」として産声を上げました。以来、80余年にわたり、地域の発展、そして、時代の浮沈みを感じながら、町のシンボルとして皆さまに愛され続けてまいりました。

このたび、駅舎のリニューアルを記念し、11面のパネルから成るギャラリースペースを設けました。特徴的な青瓦と大谷石、幾何学的意匠の目立つ「ときわ台駅」は、今後も地域のシンボルであり続けます。

なお、パネル製作にあたり、板橋区教育委員会、常盤台の景観を守る会、東武博物館より、貴重な資料を提供いただきましたことに感謝いたします。

平成30年5月
東武鉄道株式会社

常盤台住宅
常盤台住宅は、東武東上線で池袋から5つ目「ときわ台」駅の北側に広がる2万3千余坪の面積を持つ住宅地で、現在の常盤台1丁目、2丁目に当ります。東武鉄道株式会社によって昭和11年度から分譲されました。

街づくり
常盤台アーバンデザインの最大の特徴は、地区内を一周できる環状のプロムナード(散歩道)です。日本では珍しい曲線を多用した街路で、5か所に設けられたクルドサック(袋路)や、プロムナード沿いの3か所にロードベイも用意されました。 

常盤台住宅地建築内規
大正期から昭和戦前期までに開発された郊外住宅地の中には、住環境の保全対策を講じていたものが多くあります。常盤台住宅地にも住環境保全を謳った規制が存在しました。開発主体である東武鉄道が定めた「常盤台住宅地建築内規」です。昭和13年4月には成文化されています、以下にそれを要約します。
 (略)

常盤台住宅販売
(略)

思ひ出の建物

思ひ出の景色

思ひ出の駅

帝都幼稚園
帝都幼稚園付門柱 常盤台1丁目6番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成25年(2013)3月27日

 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせ、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開いたことに始まります。

 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。

 建物調査の結果、現在園舎として使われている建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築したものと考えられます。

 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板が施されているなどの特徴が認められます。また、教室空間を大きくとるために、洋小屋構造などの洋風建築の意匠や構造が採用されるなど、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築となっています。

 なお、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たっています。 

 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物であり、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物となっています。

※現在も幼稚園として使われており、内部への立ち入り・見学はできません。

おさんぽマップ
(略)

斯波家住宅
常盤台・斯波家住宅 常盤台2丁目13番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成20年(2008)3月27日

 東武東上線ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし開発された住宅地です。昭和8~13年かけて駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理事業がすすめられ、「常盤台住宅地」と呼ばれています。

 近年、建物の老朽化や生活様式の変化にともなう建て替え、相続による土地の細分化等によって開発当初の建物が大変少なくなっています。

 当住宅は、平成16年に、昭和13年(1938)の建築当初の形が維持できなくなる状況となりましたが、当時の所有者は建造物の文化財的価値の重要性を鑑み、建物二階部分と北側一部分を曳家として保存しました。

 当住宅は、建設当初と比較すると、規模は40%に縮小され、位置も同敷地内において移動していま す。しかし、広縁を含む四部屋と屋根は、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅における草創期の姿をとどめており、現存している数少ない建造物となっています。区の近代の歴史を明らかにする上でも大変重要です。

※現在も住居として使われており、内部への立ち入り・見学はできません


帝都幼稚園

昭和11年(1936)の建物が今も使われている幼稚園。

帝都幼稚園付門柱
 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせて、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開きました。
 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。
 建物調査によれば、現在の建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築し、使用しているものと考えられます。
 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板、教室空間を大きくとるために採用された洋小屋構造などの、洋風建築の意匠や構造を取り入れた、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築です。
 また、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たったものです。
 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物です、また、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物です。平成24年度に登録文化財となりました。 ※内部の見学は不可
  平成26年2月 
   板橋区教育委員会

正門門柱

昭和11年の建造物

帝都幼稚園という、名称に歴史と尊厳を感じさせる。

場所

https://goo.gl/maps/tAJnAkUN97fQmxGZ8


閉館した板橋区立中央図書館。

板橋区立中央図書館旧館は、1970年に開館。2021年度に解体。
旧館は2020年12月20日閉館。新館は板橋区平和公園内に新築され2021年3月28日開館。

曲線を描くプロムナード。


常盤台・斯波家住宅

板橋区登録有形文化財
常盤台・斯波家住宅

木造二階建・近代和風建築
所在地 常盤台2丁目13番
登録年月日 平成20年3月27日
所有者 (略)

 ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし、昭和8~13年に駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理により造った街で、住宅地は「常盤台住宅地」と呼ばれています。
 しかし近年、建物の老朽化・生活様式の変化に伴う建替えや、相続による土地の細分化等で建築当初の建物が大変少なくなってきました。
 この住宅も、平成16年に建築当初の形を維持できなくなる事態が生じましたが、現所有者は建築物の価値の重要性を鑑み、建物の二階部分と北側一部分とを曳家して保存しました。  
 建築当初と比較すると規模は縮小され、位置も同敷地内にて移動していますが、広縁を含む四部屋が屋根を含めて建設当初のまま残っており、「常盤台住宅」の歴史を伝える上で重要な建造物です。
 平成21年3月
  板橋区教育委員会
  ※現在も居住していますので、内部への立ち入りはできません。

場所

https://goo.gl/maps/o9hYsm4x19ay43297


常盤台の南に空襲の慰霊碑があるので足を伸ばしてみる。
マンションのの間に鎮座。

平安地蔵

昭和20年6月10日の板橋区内で最大の死者(死者269名)を出した空襲の犠牲者「戦災死没者之霊」を祀る。昭和二十三年六月十日建之。

平安地蔵尊
平安地蔵尊由来
 この地は、大東亜戰争末期の昭和二十年六月十日午前八時半頃、米爆撃機参拾数機の編隊により數百発の爆彈を投下され一瞬にして修羅の巷と化し死者貮百八拾余名を出せり
 ここに戰災死没者永遠の冥福を祈るため地元有志發起人となり昭和二十三年六月十日平安地蔵尊を建立する

平らけく 安ら希く
  世越は 護り座す
 地蔵菩薩の
   誓ひうれしき

伊藤康安撰 長谷川耕南拜書

平安地蔵
 昭和二十年(一九四五)六月十日、午前七時五十五分より約二時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。『帝都防空本部情報』の記録によると、死者二六九名、重傷者八六名、建物の全壊二六〇戸、投下爆弾(二五〇キログラム級)一一六個、罹災者二、四六七人羅災世帯四九八世帯とあります。区内では最大の死者を出した空襲といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。
 戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和二十三年六月十日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を造立、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。
 平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
  平成九年三月 板橋区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/SCDofGz5KnhB6jqL7

※本記事の撮影は2021年2月


板橋区関連

「明治神宮外苑」と「青山練兵所跡」

明治神宮外苑。

もともと当地は、「青山練兵場」であった。
大正元年(1912)9月13日、  明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。

青山練兵場

以下を参照。


御観兵榎

御観兵榎の碑は、東郷平八郎書。大正15年7月、明治神宮奉賛会による。
この場所で、  明治天皇御台臨のもとに、明治22年2月11日の憲法発布観兵式、明治39年4月30日の日露戦役凱旋観兵式などが行われた。
明治天皇の御座所は、常にこの榎の大木の西側に設けられていたという。
現在の榎は2代目。

御観兵榎
伯爵東郷平八郎書

御観兵榎 について
 この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇 の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
 平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
  平成八年一月吉日 明治神宮外苑

「初代 御観兵榎」
 
 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。
 幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル
碑石 
 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
題字 
 東郷平八郎 書 
 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、
 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

場所

https://goo.gl/maps/neRxNAr38GfSDxot8


陸軍大学校跡

青山練兵場があったころの陸軍大学校は、現在の港区立青山中学校にあった。


明治神宮外苑の記

明治神宮外苑の記
石碑の題字 
  「明治神宮外苑之記」
  明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書
撰文  
  明治神宮奉賛会 会長 徳川家達
石材
  東北仙台産の板岩
  高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意
 明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治人外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の身心鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
  大正15年(1926)10月 
    明治神宮奉賛会 会長徳川家達

明治神宮外苑案内図。
かつて、「明治神宮外苑競技場」として明治神宮外苑に含まれていた競技場は、昭和31年に国立競技場として文部省に移管されたため、現在は明治神宮外苑の敷地には含まれない。

明治神宮外苑
銀杏並木

銀杏並木

手前が高く、奥が低い銀杏が植えられるという、巧みな遠近法が用いられている。
大正15年の明治神宮外苑に先立ち、大正12年(1923)に植樹。


明治神宮外苑
国旗掲揚塔

見事すぎる国旗掲揚塔。

台座には2頭の一角獣が。


日本最古級のアスファルト舗装
聖徳記念館絵画館前通り

近年(令和元年12月)、当時の舗装が保護のために覆われ、当時の舗装は、今ではほんの一角のみが見学できるようになっている。

明治神宮外苑の舗装
 明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本覚益那加熟アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。
 この工事は、我が国においてワービット(Warrenite-Bitulithicの略)工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械化施工が行われました。
 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。

  当時の工事概要
(1)発注者:明治神宮造営局
(2)施行面積:59,096㎡
(3)施行費用:167,135円
(4)工期:1924年5月~1926年1月
(5)監督者:工学博士・藤井眞透

土木学会選奨土木遺産
 特別区道43-650(霞ヶ丘町1番地先)の車道用アスファルト舗装は国内最古級の「ワービット舗装(ワーレナイト・ビチュリシック工法による舗装の略称)」であり、平成16年度に公益社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。
 完成から90年以上が経過し路面性状が良くない(ひび割れが生じている)ことから、土木学会及び東京都と協議し、ワービット舗装をインターロッキングブロック舗装(ILB舗装)で覆いました。
 こちらの展示スペースでワービット舗装をご覧いただけます。


聖徳記念絵画館

大正15年(1919)10月22日竣工。国指定重要文化財。
明治神宮による維持管理が行われている。


葬場殿趾(葬場殿趾円壇)

葬場殿址
明治天皇が明治45年(1912)7月30日にお亡くなりになり、その御葬儀が9月13日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行われました。
ここがその時に御柩車が置かれた葬場殿のあとです。
中央の大木はこのことを記念して植えられた楠の木です。
 明治神宮外苑

明治天皇の御柩車は、青山練兵場仮停車場から、京都桃山に向かわれた。

葬場殿趾


樺太国境画定標石(樺太島日露国境天測標)

日露戦争終結後、明治38年(1905)から昭和20年(1945)までの40年間、樺太島北緯50度以南は、日本の領土だった。日本としては陸地の国境線は以後に有していない。

樺太島を北緯50度で南北に分断し、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡まで132kmの間に、日露の紋章を刻した「天測境界標」と呼ぶ国境標石4基を設置、さらに平均6kmごとに小標石17基を置き、19か所に木標が建てられた。

明治神宮外苑にある「天測境界標」は第四天測点のレプリカ。
日本側には「菊の紋章」、ロシア側は「双頭の鷲の紋章」が刻まれている。

樺太国境画定標石
 時 明治39年6月~40年10月
 所 樺太日露境界

 明治37、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。
 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が国境標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
  昭和54年6月2日
    明治神宮外苑

大日本帝国
境界

上に「模造」と刻まれている。

天第四号
明治三十九年

ロシア国側。日本にとっては裏、ロシアにとっては表。


建国記念文庫

「建国記念の日」の祝日の制定を記念して建立。

建国記念の日 二月十一日

建国記念文庫
昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。
建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。
  昭和44年(1969)2月11日
  元建国記念日制定審議会長 菅原通済記

ちなみにこのエリアは夜間は立入禁止、だそうで。
建国記念の日を面白くない人々の襲撃を防ぐため、だとか。


青山練兵所の陸軍境界標石?

青山練兵所の南西付近。それっぽい標石が残っている。
ただし、記載されているであろう文字面が見えないために詳細は不明。

場所

https://goo.gl/maps/CCc8xhEvYAURs5fBA


明治神宮野球場

大正15年(1926)10月に明治神宮外苑に「明治神宮外苑競技場」とともに完成。
改修に次ぐ改修が行われているが、ベースは大正15年に建設された球場が使用されている。
再開発が予定されており、2027年以降に取り壊して、秩父宮ラグビー場と敷地を入れ替えて新球場が建設される予定という。秩父宮ラグビー場は明治神宮外苑第二球場の地に新設。


日本オリンピックミュージアム
MONUMENT AREA

オリンピックシンボルモニュメント、岸記念体育会館から移設した岸清一像、ピエール・ド・クーベルタン像、嘉納治五郎像、1964年東京オリンピック、1972年札幌冬季オリンピック、1998年長野冬季オリンピックの聖火台レプリカなどが設置されている。

「いだてん」な感じですね。

岸清一像

ピエール・ド・クーベルタン像

嘉納治五郎像

オリンピックシンボルモニュメント

1998年長野冬季オリンピック 縮尺1/2

1972年札幌冬季オリンピック 縮尺2/3

1964年東京オリンピック 縮尺3/4


国立競技場

前身は「神宮外苑競技場」。

大正13年(1924)に、明治神宮外苑競技場として開場。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月21日には学徒出陣壮行会会場ともなった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000&seg_number=002

戦後は、明治神宮から文部省に移管され、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)は昭和33年(1958)竣工。
そして、2019年に新・国立競技場として生まれ変わった。


学徒出陣壮行の地 記念碑

明治神宮外苑競技場の地から、一時的に移転された学徒出陣壮行の地 記念碑。新国立競技場に戻ってきました。
ただし、新国立競技場には自由に入れないので、これは後ろ姿ですね。。。。
(早く正面から見たい。。。

※訪問しました


近衛歩兵第四連隊跡碑
近衛歩兵第六連隊跡碑

国立競技場の隣、「都立明治公園」に、近衛歩兵第四連隊跡碑・近衛歩兵第六連隊跡碑があるというも、再開発とオリンピック絡みで立ち入りできず。。。

まあ、落ち着いた頃に再訪ですね。。。
なんか悪い予感がするんです、再開発で無くなっていなければよいのですが。。。


「学徒出陣壮行の地 記念碑」と「近衛歩兵第四連隊跡碑」「近衛歩兵第六連隊跡碑」と、確認できなかったものがあったのが心残り。また、再訪をしましょう。

※撮影は2020年8月

「御所トンネル」と「青山練兵場停車場跡」

東京都下を東西に結ぶ中央線。
その中央線の中でも最古のトンネルが「御所トンネル(旧御所トンネル)」。
このトンネルの建設には陸軍も関与しておりました。

鉄道遺産、そして戦跡として、ちょっと観察してみます。


甲武鉄道と陸軍

「中央線」の前身「甲武鉄道」。
甲武鉄道は明治22年(1889)4月に新宿~立川間、8月には、立川~八王子間を開業。
新宿から東京市内への路線延長に関しては、新宿~牛込・飯田橋間を甲州街道沿い(新宿御苑北側)で計画されていたが、明治27年(1894)日清戦争の勃発の影響などもあり陸軍側の強い要請で千駄ヶ谷~信濃町間を経由するルートで延伸が決定。これは「陸軍青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)からの軍隊輸送のために必要という側面があった。
陸軍が希望するルートで線路を敷設するためには、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを設けざるを得なかったが、そこは軍事優先で陸軍の後押しもあり、明治27年9月17日に新宿~青山軍用停車場が完成。
甲武鉄道はその後も着実に路線を延長し明治27年10月に新宿~牛込(飯田橋)」間、明治28年4月には牛込~飯田町間が開業。
明治28年に新宿~飯田町間を複線化、明治37年(1904)に御茶ノ水まで延伸。また、日本の普通列車としてはじめての電化運転(電車)を開始。
東のターミナルとして万世橋まで延伸が予定されていたが、明治39年(1906)に鉄道国有化法により国有化し、甲武鉄道としての歴史は終了した。(万世橋駅の開業は国有化後の明治45年)


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<丸ノ内線四ツ谷駅ホームより>

旧御所トンネル
明治27年(1894)、新宿~牛込(飯田橋)間を延伸するにあたって、陸軍の強い要望により青山練兵場を経由するルートで線路を敷設せざるを得なかった甲武鉄道は、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを敷設。(もちろん陸軍が承諾の後押しをしている)
これが、煉瓦造りで造られた全長317mの「旧御所トンネル」

新御所トンネル
大正時代末期に中央本線を複々線化する工事が始まり、旧御所トンエルの西側に3線を通す新しいトンネルが、昭和4年(1929)完成の「新御所トンネル」(鉄筋コンクリート・385m)

現在は、旧御所トンエルを総武線下りのみが利用。新御所トンネルを中央線と総武線上りが利用している。

地下鉄丸の内線・四ツ谷駅。荻窪方面行きホーム後方から、よく観察できます。

旧御所トンネル 317M

こちらは、新御所トンネル。3連です。
同じく、丸ノ内線ホームより。

明治のトンネルと昭和初期のトンネルで、煉瓦造から鉄筋コンクリート造に変化してます。

新御所トンネル 385M


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<中央線四ツ谷駅ホームより>

JR中央線の四ツ谷駅からは、新御所トンネルしか見えません。旧御所トンネルは死角。


御所トンネル(信濃町駅側)
<朝日橋より>

御所トンネルの新宿方面(信濃町側)も観察。
新御所トンネルと旧御所トンネル。
信濃町側は旧御所トンネルも鉄筋コンクリートになってますね。新御所トンネルが建造された際に統一されれたのでしょうか。


四ツ谷駅眺望

総武線の先には、迎賓館が見える。

丸の内線は、ギリギリで御所の脇を通過するが、総武線は、ギリギリで御所の敷地を通過している。

旧御所トンネルの四ツ谷口が丸ノ内線車両の先に見える。


位置関係(御所トンネル)

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より (一部加工)

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.680682&lng=139.724132&zoom=16&dataset=kanto&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

赤坂離宮の敷地の下を・・・。
文字通り、赤坂御所(赤坂離宮)の下を通過する「御所トンネル」です。

Google航空写真(一部加工)

https://goo.gl/maps/ejmv9ZDX8argh34u9


迎賓館前

御所トンネルは、現在は迎賓館前の「新宿区立若葉東公園」の下を通過している。


青山練兵場停車場跡

甲武鉄道(現在の中央線)は、甲州街道ルートを目指していたが、陸軍の強い要請で南回りルート(千駄ヶ谷・信濃町ルート)での線路敷設に変更させられた。その理由は「青山練兵場」に軍用停車場を設置するため。
そしていまでも、青山練兵場に通じていた線路の名残が側線として、残っている。

線路と首都高速4号線の間に側線が見える。この側線が当時の青山練兵場停車場の名残。
首都高速4号線の左側が、明治神宮外苑(当時の青山練兵場)。

千駄ヶ谷駅ホームから、側線を望む。
右側の緑の茂みに伸びる側線が「青山練兵場停車場」の名残。

隣の駅、信濃町駅のホームも見える。


位置関係(青山練兵場停車場)

Goo地図-1907年(明治40年)を一部加工

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.43.18.149N35.40.38.381/zoom/11/?data=meiji

当時、青山練兵場の北側には「陸軍第一師団輜重兵第一大隊」があった。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営との間は、3つの跨線橋があったが、現在は1つのみ残されている。(跨線橋=大番町跨線橋は後述)

明治天皇が崩御された際に、大喪の義は青山練兵場で執り行われた。
葬場殿の後方にあった「青山仮停車場」で、東京の人々は、 明治天皇と最後のお別れを行い、そして 明治天皇のお棺は、京都桃山に鉄路で向かわれた。

また、陸軍第一師団輜重兵営の敷地は大正9年に慶應大学に売却され、現在は慶應義塾大学病院となっている。
当時の名残として「陸軍境界石」が残されている。

青山練兵場の北側にあった輜重兵営は、世田谷に移転している。

そして、青山練兵場は、代々木練兵場に移転している。

ちなみに都内の練兵場としては、日比谷→青山→代々木と移転している。


大番町跨線橋(大番町通跨線道路橋)

前述の青山練兵場停車場跡を上から撮影したのが、「大番町跨線橋」。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営の間には、3つの跨線橋があったが、現在は一つのみ残されている。

この橋の正式な名称は、「大番町通跨線道路橋」というのかもしれない。

しかし交差点では「無名橋」と記載。

青山練兵場とともにあった跨線橋が、当時を物語る戦跡。
いまでは「無名な橋」とされているが、今も昔も南北を往来する貴重な橋として名前は知られずとも活用されていた。

※本記事の撮影は、2020年8月及び2021年3月


明治神宮外苑

青山練兵場の跡地、明治神宮外苑など。

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所深谷工場跡地散策

埼玉県深谷市。
かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場」「櫛挽工場」の3工場が展開。
今回はそのうちの南西側にあった「原郷工場(深谷工場)」の戦跡を散策してみる。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

「櫛挽工場」は以下で。

「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」「明戸工場」は以下で。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-B-80
1947年11月04日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

GoogleMapにて補完。

今回の散策は深谷の中心部に位置する「深谷工場」跡地を散策してみる。


二造深谷製造所深谷工場跡地散策

当時の給水塔が住居として再利用されている。
現在は個人所有のため、立ち入りは不可。

ティーサロン詩季

喫茶店が営業している。

登録有形文化財

給水塔は文化財指定。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/116147

旧東京第二陸軍造兵廠深谷製造所給水塔
 この建物は第二次世界大戦(太平洋戦争)末期、1943年~1944年にかけて旧陸軍造兵廠が周辺の軍火薬工場に給水する為に建設したものです。1955年より個人所有となり現在は住居として利用しています。2002年10月18日登録有形文化財に指定されました。

構造   鉄筋コンクリート造5階建
     (最上部5階部分が水のタンクになっていた)
高さ   18m
延床面積 205.5平方メートル

住居としての記事が、以下のサイトに詳しい。
給水塔の家 → http://www.karasaki.org/top/top.html 

この建物は住居です。
敷地内に不法侵入した場合は警察に通報します。

1階と2階部分の天井が高く、3階4階までが住居。5階部分がかつての貯水槽。

4階からは外階段で屋上にアクセスする構造。

場所

埼玉県深谷市原郷1118

https://goo.gl/maps/5TtfpvV4Saem1wGp7


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所本部跡

現在の埼玉県立深谷第一高等学校に、東京第二陸軍造兵廠深谷製造所の「本部」が設けられていた、という。
(当時は、埼玉県深谷高等女学校)

埼玉県立深谷商業高等学校記念館

近くには、埼玉県立深谷商業高等学校もある。
国の登録有形文化財「埼玉県立深谷商業高等学校記念館」は1922年(大正11年)4月竣工。

中山道深谷宿

深谷宿は中山道で最大規模の宿場。
深谷市内には随所に、往時の賑わいを感じさせる佇まいが残っている。

「中山道深谷宿本舗」でレンタサイクルを借りました。
渋沢栄一関連なども交えて観光するには広域移動が必要なので、自電車必須です。

https://fukaya-tmo.com/project/

煉瓦の街、深谷って感じです。


造兵廠関係

東京第二陸軍造兵廠

https://senseki-kikou.net/?p=11875

埼玉県内にあった陸軍造兵廠のひとつ


深谷関係

都内最古の道路鉄橋「南高橋」(中央区)

昭和7年(1932)に架橋された「南高橋」。
もともとは明治37年(1904)に架橋された「両国橋」中央部を移築改良したもの。(「旧両国橋」)

現存する道路橋としては「都内最古の鉄橋」
都内に残る鋼鉄トラス橋としては「2番目に古い橋梁」。(最古は八幡橋(人道橋))
車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては「全国で6番目に古い橋梁」

中央区民文化財
南高橋 (みなみたかばし)
  所在地 中央区 新川2丁目/湊1丁目(亀島川)
 創架年代は 昭和6年(1931)に起工 同7年月3日に竣工
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正12年(1923)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀1丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
 東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治37年(1904)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の3連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで2番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で6番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
  平成14年3月
   中央区教育委員会

南高橋
 この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業の1つとして、昭和7年(1932)に架けられました。橋の主要部は、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては、最も古い橋です。
 また構造上の特徴は、トラスの1部材の端に丸い環のついた”アイバー”が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝える貴重なものとして、中央区民文化財に登録されています。
 平成28年(2016年)に、土木学会選奨土木遺産として認定されました。

「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけてて名月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には逗州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の声す。」
 (昭和9年7月・永井荷風「断腸亭日乗」より)

橋梁の諸元
型   式 : 下路式単純プラットトラス橋
橋   長 : 63.1m
有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
着   工 : 昭和6年1月
竣   工 : 昭和7年3月
総 工 費 : 76,600円
施 工 者 : 東京市
  平成28年11月 中央区

土木学会選奨土木遺産
2016
南高橋

南高橋をあっちこっちから観察。

上流から撮影

すぐ南側は、黒島川水門


場所

https://goo.gl/maps/crShkFe7FupLPaYQ7


都内最古の鉄橋 八幡橋

両国橋

鎌倉橋の機銃掃射弾痕(千代田区)

鎌倉橋

日本橋川に架かるコンクリート橋。
関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋。
名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによるという。
鎌倉橋の真上は首都高速の神田橋ジャンクション。

この鎌倉橋には弾痕や焼け焦げた跡が残っている。

まちの記憶
1944年 昭和19年
日本本土市街地への空襲が始まる
鎌倉橋欄干には、1944年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えている。

https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/kioku/kushu.html

場所

https://goo.gl/maps/SVZvKm1uDtGF5xq96


誠之堂と清風亭(深谷市)【渋沢栄一8】

渋沢栄一に関係する建物が、2棟、深谷市内の大寄公民館敷地に移築されている。
平成11年に東京世田谷区にあった銀行保養施設「清和園」から深谷市に移築。
「誠之堂」は平成15年、国の重要文化財に、「清風亭」は平成16年、埼玉県指定有形文化財に指定されている。

行ってみましょう。

見学は公民館の中にいるスタッフに声をかけると入場できます。

誠之堂

大正5年(1916)建立。国重要文化財。

誠之堂(せいしどう)
 この建物は大正5年(1916)年に第一銀行の創設者、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園」内に建てられました。設計は後に大正建築の名手と称される田辺淳吉、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。
 建築面積は113.30㎡、棟までの高さは4.230mを測ります。構造は補強煉瓦造、外観は焼きの異なる3色の煉瓦が組み合わせて積まれ、煙突の直下には煉瓦で描かれた「喜寿」の文字を見ることが出来ます。屋根には天然スレートが葺かれています。
 建物の雰囲気は栄一の希望を元にイギリス風農家をイメージしています。室内には暖炉上の栄一のレリーフや古代中国の画法による祝宴の様子を描いたステンドグラスがあり、さらに中国、朝鮮、日本のデザインが取り入れられています。平成9年(1997)、取り壊しの決定に伴って深谷市が譲り受け、平成11年(1999)当地に移築、平成15年(2003)5月30日、国の重要文化財の指定を受けました。

日本煉瓦製造株式会社のシンボルマークと似ていますね。

行幸啓がありました。

渋沢栄一レリーフ

暖炉上部の額

大正五季丙辰 青淵先生躋喜寿 
第一銀行初員胥議 新築一堂於清和園
祝之請先生命名曰誠之 又刻此像表敬愛之至情云

大正5年丙申、青淵先生喜寿に躋る。
第一銀行諸員胥議して、一堂を清和園に新築す。
これを祝い、先生に請いて命名して曰く「誠之」と。
又、此の像を刻し、敬愛の至情を表すと云う。

胸像レリーフと額
大正5年の創建時、暖炉の上の壁面には、当時男爵だった渋沢栄一の「横向き」の胸像レリーフがはめられた。
 大きさは60センチ強の円形で、彫刻家、武石弘三郎により原型が制作された。
 大正8年、4月、胸像レリーフを「正面向き」のものにし、丈夫に誠之堂建設の経緯を記したブロンズの額を掲げるなど、現在の形に模様替えがなされた。
 作り直された理由は、現在のところわからない。

渋沢栄一が愛読した「論語」

ステンドグラス

網代天井

ハーフティンバーの天井

大広間

イギリス積みとフランス積み。

風見鶏。東西南北が漢字で示されている。

3種類の色合いの違う煉瓦で、小口面を規則的な凹凸で積まれた外壁。

バルコニーがある側の屋根は一直線で美しい。

「喜寿」の文字が煉瓦で描かれている。
誠之堂は渋沢栄一の喜寿祝いで第一銀行行員らから贈られた建物。
(渋沢栄一は喜寿を契機に第一銀行頭取を辞任している)

「上敷免製」の刻印のある煉瓦。
深谷市上敷免にある「日本煉瓦製造株式会社」の製造。

「論語の里」ご視察
天皇皇后両陛下行幸啓記念樹
平成29年9月21日

清和園

大正3年(1914)に設けられた第一銀行の運動娯楽場が「清和園」と名付けられた。

清風亭

大正15年(1926)建立。埼玉県有形文化財。

清風亭(せいふうてい)
 この建物は大正15年(1926)に第一銀行2代目頭取、佐々木勇之助の古希(70才)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園」内に建てられました。設計は銀行建築に活躍した西村好時、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。
 建築面積は168.48㎡、棟までの高さは5.836mを測ります。構造は鉄筋コンクリート造、外観は人造石掻落し仕上げの白壁にスクラッチタイル(ひっかき傷をつけたタイル)と鼻黒煉瓦(黒褐色のれんが)がアクセントをつけ、屋根には瑠璃色の釉薬をかけたスパニッシュ瓦(スペイン風を模した丸瓦)が葺かれています。大正12年(1923)の関東大震災を契機に建築構造の主流となった鉄筋コンクリート造の初期の事例として、建築史上貴重な建物です。
 平成9年(1997)、取壊しの決定に伴って深谷市が譲り受け、平成11(1999)当地に移築、平成16年(2004)3月23日、埼玉県の有形文化財の指定を受けました。

暖炉前の火除板

大広間

渋沢栄一翁ブロンズ像
この像は翁の喜寿を記念して作られ、佐々木勇之助氏に贈られたものです。

暖炉の隣にガチャが置かれていました。

煉瓦ペンダント

明治期は「上敷免製」、大正期は「日煉」と呼称された。

三連の出窓

泰山木
誠之堂開館時に渋沢栄一による記念植樹され、誠之堂移築とともに移植された。

場所

https://goo.gl/maps/3HfWCVKNS1gw6ZGX7

http://www.city.fukaya.saitama.jp/kanko/kanko/seisido_seifutei/1391497434025.html


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