「近代建築」カテゴリーアーカイブ

名古屋城周辺の戦跡と近代建築

本記事は2017年1月と2018年6月に名古屋方面を散策した際の記録をまとめたものになります。
2022年現在とは様相が異なる可能性濃厚ですが、往時の記録としてご参照いただければ幸いです。

なお、このころの散策はムラが多いので見逃し多数ですが、まあ、そのうち再訪するということで。。。


騎兵第三聯隊跡

名古屋市役所の北西角にある石碑。

騎兵第三聯隊跡
 名古屋市長 杉戸清書

騎兵第三聯隊は明治二十五年十一月創設以来昭和三年三月守山に移転する迄此の地に駐留せり
茲に往時を偲び明治百年を記念し之を建つ
 昭和42年4月 騎三会

場所

https://goo.gl/maps/rMq48pch1osUXDyq5


松脂採取跡

名古屋市役所の北側には松並木がある。
松脂採取跡。これも戦争の名残。


加藤忠四郎翁之碑

加藤忠四郎翁之碑
 陸軍大将 宇垣一成書

昭和6年4月建立。撰文は陸軍歩兵大佐津田次郎。
加藤忠四郎翁は第三師団に大きな貢献をし、雑役の元締として60余年奉仕的に勤め名古屋の第三師団では知らないものがいないほどの有名人であったという。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。


愛知県庁

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

名古屋市役所と愛知県庁。
帝冠様式・国重要文化財コンビ。

巨大な帝冠様式建造物がドーンっと並んでいるさまは圧巻の一言。
この日本趣味丸出しの昭和初期を代表する建造物たちに歴史的重みと風格を感じます。
見ていて飽きませんね。


野砲兵第三聯隊跡
(旧・名城東小公園)

かつてここに公園があり、その公園の中には「野砲兵第三聯隊跡碑」があった・・・という。
2018年現在では公園は閉鎖され再開発中でした。
碑は・・・どうなったのだろうか(不明


第三師団司令部跡の煉瓦塀

二の丸交差点の北西角に煉瓦壁が残る。
レンガはイギリス積み。

場所

https://goo.gl/maps/adTLjZkUhCiKegEk8


名古屋城二の丸

ここにかつて歩兵第六聯隊が展開されていた。


歩兵第六聯隊

二の丸の敷地。

歩兵第六聯隊之由来
抑々明治4年8月、東京鎮台第3分営を名古屋に設置せられたのが起源で、その後明治6年第3分営を名古屋鎮台と改め、歩兵6番大隊と称した。
この年わが国に徴兵令が施行され、翌年3月壮丁を愛知、三重、岐阜の県から徴集し、歩兵第6聯隊を創設し、此の地名古屋城二の丸に兵営を新築し、12月27日軍旗を拝授し衛戌した。
以来精強な軍隊の練成に励み国威の宣揚に尽した。
健軍早々にして明治10年西南の役に初陣し、熊本城の圍を解き本営を護衛し干城の任を尽した。
その後日清戦役に出陣し、九連城海城の戦闘で勇名を挙げ、明治37、8年の日露戦争にては首山堡、沙河、于洪屯の戦闘で武勲を樹てた。
大正7、8年のシベリア派遣、昭和初期における山東派兵及び満洲に加わりて、克く護国の大任を完うせり。
昭和12年支那事変勃発するや上海方面に急派せられ、幾多の辛酸をなめ威武堂々、南京、武漢に転進、次いで応山浙河地区に進駐し警備地の治安確保に任じつつ大東亜戦争に突入し、専ら大陸にありて長沙、常徳、湘桂など累次の会戦に加わりて、東亜新秩序の建設に邁進した。
然れども大勢我に利なく終戦となり、命により武装を解除し国軍は解散するの憂き目に遭い、今や郷土の誇りを継ぐ軍隊なきは誠に遺憾に堪えない。
茲に戦友相計り由縁の地に碑を建て、由来を刻み先人の偉績を顕彰し、併せて殉国の英霊を弔慰し其の功勲を不朽に伝う。
 昭和55年3月10日
  元歩兵第6聯隊戦友生存者有志建之

歩兵第六聯隊之跡
 河辺正三 書

明治4年8月20日創設
昭和20年8月15日解隊
昭和39年軍旗親授90周年記念建立

忠霊

馬魂碑

軍役動物の慰霊のために
昭和55年3月10日 歩六会建之

勅諭下賜五十周年記念碑

昭和7年

場所

https://goo.gl/maps/Sir2v3PCQNZ6ssmJ6


名古屋城

訪れたときは、改修工事中でした。(2018年)


天守礎石

天守礎石
昭和20年(1945年)の名古屋空襲で焼失した旧国宝天守の礎石。
焼け焦げた様子が今も残る。

場所

https://goo.gl/maps/CMx7uidECJteMvib8


乃木倉庫(弾薬庫)

乃木倉庫
 登録有形文化財(平成9年)
 乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいうとなく「乃木倉庫」と呼ぶようになった。
 当建物は、煉瓦造平屋建で旧陸軍の弾薬庫であった。昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が消失したが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取りはずしてここに保管していたため被災を免れた。のちに煉瓦の保全のため白亜塗りにした。
 なお、被災を免れた障壁画等は重要文化財に指定されている。
  名古屋市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/XRC3zKxLBwf6RU6c6


戦争に関する資料館
愛知県庁大津橋分室

愛知県庁大津橋分室。建物としては1933年(昭和8年)に竣工。

場所

https://goo.gl/maps/S1DzhcXZjkwXGvh57

名古屋は、再訪して、がっつり歩きたいですね。。。

撮影:2017年1月と2018年6月


関連

愛知縣護國神社
豊橋の戦跡散策

旧日立航空機立川工場変電所(補修完了後の再訪)

2017年に訪れた際は、1階のみの公開で、2階部分は非公開エリア、でした。
2020年に改修工事が行われ、問題となっていた耐震補強や老朽化による雨漏りの補修を実施。
2021年10月に、2階部分も一般公開される運びとなった。そのため、改めて脚を運んでみた次第。

前回の様子はこちら。

旧日立航空機立川工場変電所

戦災建造物 東大和市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所

公開日:毎週水曜日・日曜日
公開時間:午前10時30分~午後4時
入場料:無料
 東大和市立郷土博物館

市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所見学入口

東大和市文化財 
史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所

 この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
 北隣にあった設備で受電した66000ボルトの電気を33000ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
 工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
 この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
 都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
 戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
  平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会

変電所
関係者以外立入禁

昭和13年(1938)竣工。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。
昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

機銃掃射の銃撃痕が壁一面に残る。

内階段に残る銃撃痕
 内階段には、木製の手すりや階段面、階段の裏側と、いたるところに多くの機銃掃射の銃撃痕が残されています。
 手すりにある2ヶ所の傷痕のうち、上方のものはすぐ横のコンクリートにも傷が残っています。窓から飛び込んできた弾丸には、手すりを傷つけたあとも、コンクリートを破壊する威力があったことを物語っています。
 令和2(2020)~3年の工事で、内階段を保護し弾痕もみえるようにした上で、階段に負荷がかからない構造のガラス階段と手すりを設置しました。

保存のため、弾痕が残る木製の手すりには触れないようお願いいたします。

手すりをえぐり、コンクリートをも破壊した機銃掃射の銃撃痕を間近で見ることができる。

コンクリートの階段も破壊された。

従来のコンクリートの階段は、新たに設置されたガラス階段で補強され、2階への見学が可能となった。

2階部分は初めて見学。

木製の小屋は仮眠室。

変電の設備が残っている。

変電所について
 変電所は、昭和13(1938)年に建てられ、戦後も富士自動車(株)や小松ゼノア(株)などで、設備を更新しながら平成5年(1938)年まで使われていました。
 2階には受変電設備のほか、24時間体制に対応するための仮眠スペースがありました。
 野外に主変圧器や遮断器(スイッチ)などの主要設備、屋内に受電・配電設備などの監視・制御装置を、この変電所では配置していました。
 八ツ沢発電所(現:山梨県上野原市)で発電された電力は、府中変電所を経て、この変電所に供給されていました。66kV・2回戦で送られてきた電力を、この変電所で3.3kVに変電して、工場内の各施設に供給していました。

配電盤について
 前面パネルに、「第1パネル」「第2パネル」「第1~9号高圧配電盤」と記されています。バンクとは主変圧器のことで、野外に2台設置されていました。この変電所では、主変圧器で受けた電力を、9個の配線で各工場に供給していました。配電盤には、電力の流れが分かるように矢印が表示されています。
 向かって一番左側の低圧配電盤は、変電所が建設された当時のものです。脇に「昭和14年製」と記載があります。
 この低圧配電盤には、複数の銃撃痕が残されています。空襲の際に、南側の窓から、金属でできた盤を貫通する威力で、銃弾が飛び込んできたことがわかります。

貫通した銃撃痕が2箇所。

配電盤の後方の壁にも銃撃痕。

受変電設備の配置(電力の流れ)

特別高圧受電盤

油入遮断器

木製のアナログ式の計測器。一番左の絶縁抵抗測定機は昭和13年製。

変電所の計測器類

外階段
 この建物は、もともと1階が倉庫、2階が事務所として使用されており、変電所稼働当時、従業員は外階段から出入りしていました。
 外階段やテラスにも数多くの銃撃痕が残っています。外階段保護のため、現在は立ち入りを制限しています。
 外階段保護のため、ここから外にはでられません。

このさきは、1階部分の展示をメインに。

製造していたエンジン
 工場では、陸軍用の航空機のエンジンを製造していました。会社全体の製造状況のうち、陸軍用のエンジンは表のとおりです。

エンジン種類 製造台数 製造期間
ハ‐12      895    昭 8~19
ハ‐13     3,116    昭10~18
ハ‐13甲    7,086    昭12~20
ハ‐26      758    昭19~20
ハ‐42      77    昭 8~18
ハ‐112      47    昭19~20
昭和14年以前は大盛り工場で製造された分を含みます。
 出典:「小松ゼノア社報 創業80周年記念号」平成2年

ハ‐13甲エンジンを使用した代表機種
95式練習機
昭和10年(1935)年に実用化され、長く使用された機種です。鮮やかなだいだい色の塗装から「赤とんぼ」と呼ばれました。

九五式一型練習機乙型
エンジン:ハ-13日立九五式350馬力空冷星型9気筒

米軍500ポンド爆弾(226.7kg)実物大模型
東大和市内でも過去にいく度か戦時中の不発弾処理が行われました。
そのすべてが500ポンド爆弾でした。
B-29爆撃機から落とされた大型爆弾は、東日本では500ポンド爆弾、西日本では1000ポンド爆弾が中心だったとも言われています。

蓄電池室
 室内にある蓄電池は、非常用とうよう電源として使われていました。停電時には、2階の直流電源装置に電力を供給し、変電所の設備が停止することないようにしていたのです。
 鉛蓄電池を使用していたので、安全対策として、壁には耐酸性能のある塗料が塗られ、野外への換気も行われれています。(塗装の詳しい成分をご存じでしたらお知らせください。)
 蓄電池室内の壁面にも、2か所の銃撃痕が残されています。1か所は貫通していませんが、外壁に当たった機銃掃射の弾丸(12.7mm弾)の衝撃で壁の内側もすり鉢状にえぐられたのだと思われます。
 外壁の銃撃痕は、外階段沿いに見ることができます。

東洋陶器の洗面台
 変電所の1階と2階に残る洗面台は東洋陶器(現在のTOTO)製のもので、全面に鷲のトレードマークがあります。
 このマークが使われたのは、昭和7年(1932)から昭和36年(1961)までで、戦時中は「敵性語」である「CO LTD.」を「KAISHA」にかえた時期もありました。
 TOTOミュージアム(北九州市)への問い合わせの結果、洗面台の形式は「L-92」で、これも戦前・戦後を通じて生産されており、残念ながら変電所建設当初からあるものか、戦後新たに設置されたものかは特定できませんでした。

こちらは1階の洗面台。

こっちは2階の洗面台。


旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

111名の方々が亡くなられた。合掌。

旧日立航空機株式会社 立川発動機製作所
太平洋戦争
戦災犠牲者
慰霊碑
  戦災犠牲者慰霊碑建立委員会
  平成七年四月吉祥日建之

慰霊碑建立の由来
  旧日立航空機立川発動機製作所戦災犠牲者の慰霊碑は、一九九四年( 平成六年) 夏、元同社々員小川準一氏(九十四才)の提唱により、コマツゼノア立川OB会がその推進母体となり、戦後五十周年を期して建立する運動を開始し、五十年忌にあたる翌一九九五年(平成七年)四月二十三日に除幕式ならびに慰霊祭を執り行うにいたったものである

昭和20(1945)年の空襲
 戦争末期になると、軍需工場が集まる多摩地域は、多くの空襲を受けました。当工場も、計3回の攻撃を受け工場の8割が破壊され、従業員やその家族、勤労動員された学生など100人を超える方が亡くなられました。

2月17日(土)10:30すぎ(諸説あり)
グラマンF6FやカーチスSB2Cなど50機以上による爆撃と機銃掃射
(略)

4月19日(木)10:00ごろ
P-51マスタング数機による機銃掃射
(略)

4月24日(火)9:00ごろ
B29の101機編隊による1800発余りの爆弾投下
(略)

日立航空機株式会社立川工場空襲死没者一覧
2月17日 78名死亡
(個人名略)
4月19日 5名死亡
(個人名略)
4月24日 28名死亡
(個人名略)
以上 111名

遷座の由来
 旧日立航空機株式会社(現在の小松ゼノア(株)の前身)は、太平洋戦争中、航空機のエンジンを製造していた軍需工場であったため、数回にわたり米軍機の空襲を受け、多くの従業員がその犠牲となりました。
 この慰霊碑は、元従業員の方々が戦後50年を節目に、多くの市民やそのゆかりのある方々からの寄付により、小松ゼノア(株)の構内の一隅に建立されたものです。(平成7年4月23日除幕式)
 その後、平成12年に同会社が移転することとなり、この慰霊碑をこの場所に移設したものです。
 東大和市では、慰霊碑を被爆工場に近いこの地に移設し、戦災建造物の変電所とともにまちの歴史の証しとして、また、恒久平和を願い保存することとしました。
 平成12年8月 
  東大和市

防護壁

防護壁
 旧所在 東大和市桜が丘2丁目

 昭和13(1938)年、東京瓦斯電気工業株式会社の工場が建設され(翌年日立航空機株式会社と改名)、その施設のひとつとして変電所とその北側に受電施設が建設されました。この防護壁は高圧電流を取り入れる受電施設の東西にあり、外部との分離をするためのものです。
 昭和20(1945)年、3回の爆撃を受けたあとも、変電所とともに長く工場内にあった防護壁は、変電所が稼働を止め、公園の中に保存されることになったときに、受電施設ととともに解体されてしまいましたが、爆撃跡を残す一部を切り取りこの地に保存し、長く変電所とともにあった壁の記憶を残していくこととしました。
 東大和市教育委員会

被爆アオギリ二世
2011年植樹。

給水塔

給水塔
 旧所在 東大和市桜ケ丘2丁目

 変電所の西方約230メートルのところにあった給水塔は、高さが約25メートルあり、工場内のほぼ全ての水をまかなっていました。太平洋戦争中の昭和20年(1945)、三回にわたる米軍機の空襲を受けましたが、戦後もずっと工場内に水を送り続け、工場の移転により、操業も停止するまで、給水塔も働き続けました。
 戦争中に施された迷彩が、長い年月の間に色が薄れ、濃淡がやっとわかる程度になってしまった給水塔は、変電所同様戦災建造物として歴史的価値が高いものですが、老朽化に伴う維持管理や用地取得などの問題から、平成13年(2001)3月やむなく取り壊されることになりました。その際、爆撃の痕跡を顕著に残す部分を切り取り、ここに保存することにしました。
 東大和市教育委員会


位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集


玉川上水駅

多摩モノレールにも、旧日立航空機株式会社変電所(戦災建造物)として、掲載があります。

※撮影は2021年12月


関連

六郷水門(昭和6年・大田区)

多摩川の下流域を散策していた際に出会った史跡。

六郷水門

昭和6年(1931年)竣工の六郷水門。
2021年(令和3年)に、土木学会推奨土木遺産となる。

六郷水門
名称
 六郷水門
所在地
 東京都大田区
竣工年
 1931(昭和6)年 
選奨年
 2021年 令和3年度
選奨理由 
 六郷水門は、今もなお水門としての機能を保ち、多摩川改修工事や六郷用水の記憶を物語る地域のシンボルとなっており、貴重な土木遺産です。

土木学会推奨土木遺産 https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/1160

以下、写真多めで。

六郷水門
昭和6年3月竣工

「郷」の字を「ロ」の字が囲むデザインは、地元である旧六郷町の町章を用いたもの。

六郷排水機場

レンガ造の六郷排水機場。
昭和18年(1943)に生活排水を機械的に排出させるために設置された。

雑色運河

今は公園に組み込まれた船溜まり。

堤内地の舟だまりは、かつては舟運にも利用され、雑色運河と呼ばれたころの雰囲気を残す。

大田区立南六郷緑地

トイレが「六郷水門」の形を模していた。なかなか粋ですね。

※撮影は2021年11月


関連

羽田の赤レンガの堤防(レンガ胸壁)

羽田の平和大鳥居から多摩川を上流に向けて歩いていくと、昔の堤防跡が残っている。
それも赤レンガで造られた堤防。
弁天橋から大師橋の約1.6kmほどの距離に、とぎれとぎれながもレンガの堤防が残っている。

赤レンガの堤防(赤煉瓦の堤防)

かつての多摩川は暴れ川であった。

大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案。
河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)
1632mの築堤は、 イギリス積み工法による鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)となった。

昭和20年4月15日に、東京都大田区のほぼ全域が対象となった城南大空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができた。
赤レンガ堤防は、多摩川の水害だけではなく、空襲による戦災からも多くの人々の生命財産を守った。

平和大鳥居から弁天橋を渡って多摩川沿いに歩けば、「赤レンガの堤防」の案内地図があります。

赤レンガの堤防と五十間鼻
 羽田のレンガ堤防は、洪水対策として大正から昭和初期にかけて行なわれた多摩川改修工事で建設された。自然堤防上、道路面から腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、堤内外を日常的に往来する羽田猟師町の土地柄への配慮であった。イギリス積み工法による堤防は「赤レンガの堤防」と親しまれ、羽田の原風景ともいえる。そのレンガ堤防の突端、多摩川と海老取川の合流地点には、長さ50間(約90m)の石積みの沈床があり「五十間鼻」と呼ばれる。新防潮堤が完成し隠れてしまったが、今も昔も初日の出の絶景スポットである。

現在の堤防は左側。右の道路に行けば、旧堤防が残っています。

多摩川弁財天は旧堤防の内側に鎮座。

住宅地に連なる煉瓦造りの堤防。これはなかなか圧巻。

ところどころに石段も残っています。

利便性の都合で、ところどころは切断。

防潮板を嵌めたであろう凹み。

陸閘。
当時の出入口のまま、今も出入口で使用している箇所もあります。

住宅を新築しても、赤レンガ堤防を切断しつつも残せるところはわずかでも残していた。

大田漁業協同組合がありました。

断面図。

上部は砂利まじりのコンクリ。鉄筋も見える。

うねり具合が見事で美しすぎる。

曲線美。

ここの防潮板は、だいぶ厚め。二重ですね。

境界杭。

レンガ堤防を撤去した跡。

首都高(横羽線)が見えてきました。
この部分は、レンガをコンクリで塗り固めていますね。

首都高をくぐった先にも、レンガ堤防が伸びています。

羽田の渡しの石碑がありました。

羽田の渡し
 古くから, 羽田漁師町(大田区)と 上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が 存在していたという (現在の大師橋下流, 羽田3丁目で 旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは, 小島六左衛門組が営んでいたので, 「六左衛門の渡し」 とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は 約40間(約80m)ぐらいで, 「オーイ」と呼ぶと 対岸まで聞こえたという。
 その昔, 徳川家康が狩りに来た帰りに, お供の者と別れて 一人でこの渡し場に来たところ, 船頭は 家康とは知らずに 馬のアブミを取った という伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は, 20~30人の人々が乗れる かなり大きなもので, この船を利用して 魚介類, 農産物, 衣料品など, 生活に必要な品々が 羽田と川崎の間を 行き来していた。
 江戸の末には, 穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が, のどかで野梅の多かった 大森から糀谷, 羽田を通り 羽田の渡しを利用するため, 対岸の川崎宿では 商売に差しつかえるので, この渡しの通行を禁止してほしいと 公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また, 明治後期から昭和初期にかけて, 川遊びする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく, 人々の生活, 文化の交流など 大きな貢献をしてきた羽田の渡しは, 時代の変化とともに多くの人々に利用されたが, 昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。
 大田区

赤レンガ堤防の一部も保存されていました。

羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区
 羽田は多摩川河口の砂州の上にあったことから、たびたび水害が発生しました。天正17年(1589年)から安政6年(1859年)の間に62回の大洪水があったことが記録されています。明治以降の水害は、明治11年(1878年)、17年(1884年)、40年(1907年)、43年(1910年)の洪水は甚大な被害をもたらしました。

2 羽田レンガ堤の建設
 「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)しました。
 「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所、昭和10年10月発行)には、「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して、工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)を築き、所々に陸閘(りくこう)を設け、堤上は道路に利用することとして、河川住民及び一般の利便を増進させた。」と記されています。また人が堤防をまたぐ為の階段も設けられました。

3 羽田レンガ堤と人々の暮らし
 レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ、桟橋、造船所、生簀、材木置き場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などがなどが住んでおり、船宿や筏宿もありました。昭和20年(1945年)9月21日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
 レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水被害も無く安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20年4月15日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
 昭和48年(1973年)、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。

出典:羽田レンガ堤調査報告書(大田区教育委員会 平成23年3月より)』

旧大師橋の親柱もあった。

場所

https://goo.gl/maps/W2MFCASaB7a3dYm78

羽田第二水門の内側は、赤レンガ堤防が「堤防としてわかりやすく」残っています。

多摩川側は、レンガがそそり立っています。

場所

https://goo.gl/maps/SdjLL1ihuZjkg757A

大師橋をくぐり、歩みをすすめます。この先もレンガ堤防が残っていますね。

羽田神社は、中央の杜。

ここが、レンガ堤防の残っている部分のラスト。

本羽田公園にたどり着きました。

本羽田公園の先には、赤レンガはありませんでした。

1.6キロの赤レンガ散策。なかなか良きものを見ることができました。

※撮影:2021年11月


関連

ケルンの眺めと「萬年橋」

萬年橋(江東区)

昭和5年(1930)開通。鉄筋アーチ橋。

萬年橋は小名木川にかかる橋。萬年橋のすぐ西側で、小名木川は隅田川と合流する。合流先には清洲橋がある。そして萬年橋の東側には新小名木川水門が設置されている。
また北側は松尾芭蕉が居を構えていた場所でもあり江東区芭蕉記念館もある。

隅田川の南にある清須川は、萬年橋のたもとからの長めが最も美しく見える角度と言われており、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を連想させることから、「ケルンの眺め」と呼ばれている。

萬年橋

ケルンの眺め
 ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。
 この場所からの眺めが一番美しいといわれていおります。

新小名木川水門

※撮影は2021年11月


関連

博物館動物園駅跡(上野・京成電鉄)

上野公園周辺には、意外と近代建築物が残っている。

国立博物館内には、旧東京帝室博物館本館と表慶館、上野公園内には、国立科学博物館と旧東京音楽学校奏楽堂、そして、帝国図書館、黒田記念館、東京藝術大学などにも戦前の建造物が残っている。

そのなかでも、今回は、京成電鉄の駅舎入口部分の建造物を眺めてみる。

博物館動物園駅跡(京成電鉄株式会社)

昭和8年(1933)の京成本線開通にあわせ、東京帝室博物館・東京科学博物館・上野恩賜公園・東京音楽学校・東京美術学校などの最寄駅「動物園前停留所」として開業。
平成9年(1997)に営業休止され、平成16年(2004)に廃止された。
廃止後も駅舎やホームは現存しており、不定期に一般公開もされている。
平成30年(2018)には、駅舎が鉄道施設としては初めての東京都選定歴史的建造物に選定。

地下ホームの出入り口は2箇所ある。

博物館動物園駅跡・博物館側

中川俊二設計。1931年竣工の駅地上口。
皇室用地であった東京帝室美術館(現在の東京国立博物館)の敷地内に建てられることとなったため、昭和天皇出席の御前会議でデザインが決定されたという。
国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古い。

博物館動物園駅跡
京成電鉄株式会社

博物館動物園駅 照明復元事業
 この博物館動物園駅は、1933年(昭和8年)に竣工しました。6灯の壁付照明器具が、3方に開いた出入口を照らしていましたが、第2次世界大戦の金属供出により取外され、永く失われていました。この駅舎と地下駅空間の保存と再生を願い20年間にわたる活動を続けてきた市民グループ、NPO法人〈上野の杜芸術フォーラム〉による企画と募金活動により、2010年、漸く1灯の復元が成りました。
 芸術の中枢機能が集積するこの交差点〈アートクロス上野〉に向けた光を復活させるものです。

照明復元企画・プロデュース:NPO法人 上野の杜芸術フォーラム
代表:森 徹/副代表:熊井千代子
理事:植野糾/臼田浩之/熊井芳隆/溝内公洋/若松久男
復元型デザイン・制作:宗政浩二
復元器具・鋳造:池田東央(池田美術)
照明メカニック:吉原義夫(東芝ライテック)

東京藝術大学から、博物館動物園駅舎を望む。

博物館動物園駅跡・動物園側

昭和42年(1962)から始まった上野動物園大改造計画に基づく工事によって、動物園正門の位置が変更されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。
閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。

一般公開のタイミングがあえば、内部も見学したいものです。

※撮影:2021年11月


恩賜上野動物園 旧正門

上野動物園は明治15年(1882)開園。日本最古の動物園。

旧正門は、明治44年建立。
昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。

右奥に、京成電鉄の博物館動物園駅跡が見える。

内側は、 令和元年(2019)11月に撮影していました。
以下は内側の写真。

上野公園周辺の近代建築物は、また別記事にて。


上野関連

東京大空襲の傷跡を残す「日本橋」

日本橋

国指定重要文化財。明治44年(1911)に石造2連アーチ橋として架設。
全長は49メートル、幅は27.3メートル。

現在の日本橋は、20代目。19代目までは木橋であったが、明治44年(1911年)に改築された際に、石橋(コンクリート&煉瓦)へと変更された。

そして、明治以来の姿を残す「日本橋」は、戦争の爪痕も色濃く残す。

よく見ると、歩道には凹みが有り、そして至るところに焦げ跡が残っている。これは昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲での焼夷弾によるもの。空襲の跡。
平成22年(2010年)には、日本橋は大規模な補修工事と洗浄が行われたが、戦争の傷跡は、歴史の生き証人として、そのまま残されたという。

欄干も焼けたような黒ずんだ焦げ跡を残している。

よくみれば、所々が黒ずんでいる。

ちなみに、首都高速にかかげられた「日本橋」の筆跡は、徳川慶喜のものになる。

日本橋の中央には、「日本国道路元標」(佐藤栄作の筆)が埋め込まれている。これは昭和47年(1972)の改修によるもの。道路の中央部のために、近くで見物することは危険を伴う。

歩道をよく見れば、凹みが多いこともわかる。
これも戦争の爪痕。東京大空襲の痕跡。


重要文化財
日本橋 附東京市道路元標(二基)
     所在地 中央区日本橋室町一丁目~日本橋一丁目(日本橋川)

 日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気のある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。

 現在の日本橋は、明治四十四年(一九一一)ごに架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長四九・五メートル、幅員二七・五メートルの橋には、照明灯のある跨銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています.中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子ブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。
 また、附指定を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。
 平成三十一年三月
 中央区教育委員会

日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
 昭和十一年四月
  日本橋區

日本国重要文化財
日本橋

構造 形式
 石造二連アーチ橋 高欄付(青銅製照明灯を含む)
 附 東京市 道路元標 一基
所有者
 国 (建設省)
指定年月日
 平成十一年五月十三日
指定の意義
 明治期を代表する石造アーチ道路橋であり 石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である
 また 土木家 建築家 彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり ルネサンス式による橋梁本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており 意匠的完成度も高い
 建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定

「日本橋」親柱の橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆 。

東京市道路元票

日本国 道路元票複製

「東京市道路元標」は、昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていた。
昭和47年(1972)の改修によ って日本橋北西の橋詰広場に移設。
かわりに日本橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれた。

※撮影は2021年11月及び3月


関連

東京大空襲・慰霊

東京の北の玄関口「上野駅」

北の玄関口、上野駅。
現在の駅舎は3代目。昭和7年(1932年)に建造された駅舎が、戦争をくぐり抜けて、今もその姿を伝えている。

写真メインで近代建築としての上野駅の記録を。


上野駅

上野駅は、明治16年(1883年)7月28日に日本鉄道の上野-熊谷間開業にともない仮駅舎として開設された。明治18年に正式な駅舎が竣工。
大正12年(1923年)の関東大震災で駅舎は焼失。仮駅舎で営業を再開。そして昭和7年に3代目の駅舎が竣工した。

上野駅三代目駅舎
 関東大震災(1923年・大正12年)にて二代目の駅舎や主要な建物は破壊・焼失してしまいました。同年より仮駅舎にて営業し、その復興に力を注ぎ正面玄関口・広小路口駅舎は1932年(昭和7年)に3代目として完成した駅舎です。
 建設当時は、正面口が2階構造になっており、上層は乗車口で自動車から降りて直接駅に入ることが出来ました。下層は降車口で改札をでて大寒暖で地下へ降り降車口から自動車に乗ることが出来ました。
 乗車客と降車客の動線が分離されれた構造の駅舎でした。

正面玄関口駅舎。
かつての乗車口=2階には、今は車では乗り入れができない。
車は、かつての降車口=1階のみ。

上野駅貴賓室跡地
 1932年(昭和7年)に現在の上野駅舎が完成した際、この場所に貴賓室が造られました。
 以後、天皇陛下および皇族方が東北方面へお出かけになる際には、たびたびこの貴賓室をご使用になられたということです。
 当時の写真を見ると、大理石造りの風格ある入口の様子や、絨毯が敷かれ、暖炉やシャンデリアなどの豪華な調度品が配置された、室内の優雅な雰囲気が見てとれます。

貴賓室入口

正面玄関口。

一階部分から。

正面玄関口

上野駅広小路口。

上野山から


石川啄木の歌碑

上野駅15番ホームには、石川啄木の歌碑がある。

ふるさとの 訛なつかし
 停車場の 人ごみの中に
そを 聴きにゆく
         啄木

「あゝ上野駅」の歌碑

上野広小路口に建立されている碑。建立は2003年。
高度成長期の 1964 (昭和 39) 年に大ヒットした井沢八郎が歌った歌謡曲「あゝ上野駅」に基づく。
C62 23 号機が上野駅 18 番ホームに到着し、集団就職者が下車した情景をレリーフに描く。
「ようこそ東京へ」

あゝ上野駅
  作詞 関口義明
 作曲 荒井英一
  歌  井沢八郎

一、どこかに故郷の 香を乗せて
  入る列車の なつかしさ
  上野はおいらの 心の駅だ
  くじけちゃならない 人生が
  あの日ここから 始まった

二、就職列車に ゆられて着いた
  遠いあの夜を 思い出す
  上野はおいらの 心の駅だ
  配達帰りの 自転車を
  止めて聞いてる 国なまり

三、ホームの時計を 見つめていたら
  母の笑顔に なってきた
  上野はおいらの 心の駅だ
  お店の仕事は 辛いけど
  胸にゃでっかい 夢がある

歌碑の由来
高度成長期の昭和30~40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。
親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。彼らを支えた心の応援歌『あゝ上野駅』は、昭和 39年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。
この歌の心を末永く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に『あゝ上野駅』の歌碑を設立するものである。
 平成15年(2003年)
 歌碑設立委員会・発起人
 総括責任者 深澤 寿一

歌碑はレールの上に乗っていた。

※撮影は2019年1月及び2020年6月


関連

旧三ノ輪王電ビルディング(王電ビルヂング)

都電荒川線に乗る機会があったので、終点の三ノ輪橋駅(三ノ輪橋電停・三ノ輪橋停留場)まで脚を伸ばしてみた。

三ノ輪橋駅からまっすぐに歩くと、ビルの下、アーチのような通路を抜け「日光街道」に。
今回は、この建物が主役。

ちょっと観察してみましょう。


三ノ輪王電ビルディング
(王電ビルヂング)

都電荒川線の前身である「王子電気軌道」により昭和2年(1927年)に建てられた、 王子電気軌道の本社ビル。
王子電気軌道は、電気事業(電灯電力事業)と軌道事業(路面電車)、路線バス事業を行っていた。「王子電車」「王電」とも呼称され、この本社ビルも「王電ビル」と呼ばれていた。
昭和2年当時は高い建物も少なく、この4階建ての王電ビルの存在感は圧倒的であった。

昭和17年(1942年)に王子電気軌道の軌道部門が東京市電気局に引き継がれ会社消滅。「王電ビルヂング」は売却。
軌道部門は「東京市電」となり、そして「都電荒川線」として唯一現存している軌道線となる。
また 「王電ビルヂング」 も現在は「梅沢写真会館」として、戦争をくぐり抜け、往時の姿のまま現存している。

ピー様より:
2026年1月11日 12:52 PM (編集)
よく誤解されがちですが、このビルは王電本社ではなく「三ノ輪王電ビルディング」と言う王電が建てたテナントビル的なものです。王電本社は東京市に買収されるまで現在の豊島区北大塚(東京電力大塚支社の場所)にありました。


※コメントでご指摘をいただきましたので、文中を修正しました。

王子電気軌道は会社としては、無くなったが、形を変え、都電荒川線として軌道を残し、そして本社ビルも、当時の姿を今尚伝えている。

現在は、「梅沢写真会館」

そして「三ノ輪橋商店街」の一部。

レトロな昭和の佇まいを残すビルの下。

ビルの先には、三ノ輪橋電停。

梅沢写真会館。

地下鉄の三ノ輪駅はちょっと離れている。

都電荒川線の三ノ輪橋駅。
最近は、「東京さくらトラム」と愛称もつけられた。

昭和、ですね。

たまには、都電荒川線に揺られて、のんびりボーッとするのもありですね。

※撮影は2021年9月


参考

以下のサイトに、戦前の「王電ビル」の写真が掲載されている。

https://smtrc.jp/town-archives/city/senju/p03.html


関連

川端龍子と「爆弾散華の池」(大田区)

大田区立龍子記念館に脚を運んでみました。

川端龍子

川端龍子(かわばた りゅうし)
1885年〈明治18年〉6月6日 – 1966年〈昭和41年〉4月10日)
日本画家、俳人。
1959年(昭和34年)、文化勲章受章。
本名は川端 昇太郎。

臼田坂下に画室を新築した
川端龍子(かわばたりゅうし:1885~1966)
日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24歳の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計を立てていました。
大正2年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転機を決意します。翌3年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを摑みました。その後はつぎつぎと作品が認められ、大正9年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘(おぎょうそう)と名付けました。
一 画人生涯筆菅 龍子 一 、という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠によるものです。
 参考文献 集英社「現代日本の美術」 
  大田区


大田区立 龍子公園

一日に3回の公開が行われている。この時間以外は見学不可。
この龍子公園内に、「爆弾散華の池」やアトリエ、旧宅などがある。


爆弾散華の池

龍子公園に入ったすぐ左手に池がある。
この場所には、大正9年(1920年)に建てられた龍子の居宅があった。しかし昭和20年8月13日に爆撃を受け、居宅は倒壊。使用人が2人死亡している。

爆弾散華の池
昭和20年(1945)8月13日、米軍機の爆撃により龍子旧宅は全壊に近い被害をうけました。その体験から制作された作品が「爆弾散華」です。「爆弾散華」には、食糧難の中で栽培された野菜が、爆風によってもの悲しく散っていく光景が描かれています。
終戦後の10月に龍子は第17回青龍展を開催し、この作品を出品しています。また、爆撃跡の穴からは水が湧き出してきたため、龍子の発案によって「爆弾散華の池」として整備されました。
 大田区立龍子記念館

龍子のアトリエ

川端龍子のアトリエは昭和13年(1938年)の建造。
竹が多く用いられた龍子デザインの建屋。

龍子の旧宅

終戦後の昭和23年(1948年)の建造。


大田区立龍子記念館

龍子記念館とは
龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立されました。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともない、1991年から大田区立龍子記念館としてその事業を引き継いでいます。当館では、大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群をお楽しみいただけます。
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されており、画家の生活の息づかいが今も伝わってきます。

大田区立龍子記念館 https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi


川端龍子 作品

川端龍子の絵画のうち、いくつか私が興味を持った作品を紹介。

「香炉峰」

昭和14年(1939)の作。幅は727.2cmにも及ぶ大作。
飛行する九六式艦上戦闘機が半透明に表現されたインパクトのある作品。

川端龍子は海軍省嘱託画家として支那事変に従軍。中支の廬山上空を海軍機に便乗し、俯瞰した廬山主峰の香炉峰を中心に連峰と長江の大景観を取材した。

白居易が「簾をかかげて看る」と詠んだ香炉峰を、川端龍子は戦闘機という近代兵器で透かして見せた。戦闘機を透視的に扱ったのが龍子のウィットに富んだ秀逸な技法。

中央に日の丸。ほぼ、戦闘機を原寸大で描かれたものという。

川端龍子の自画像という。

ただ透明にしているのではなく、きとんと戦闘機の骨組みを踏まえた透明感が凄い。

※このとき(2021年10月)は香炉峰のみ撮影可、でした。
※展示会の内容により、作品は入れ替わりがあります。

絵葉書を購入しました。

「越後(山本五十六元帥)」

昭和18年(1943年)の作品。4月に戦士した山本五十六の鎮魂の作品。
川端龍子作品では珍しい肖像画。
山本五十六が長岡出身であったことから、人物から「越後」を表すことを試みた作品。
龍子は「五十六の写真」をヒントに描いたという。
しかし写真の第一種軍装の山本五十六と違い、龍子は、ソロモンの南東海域で亡くなった五十六を踏まえ、熱帯で着用されていた白い軍服(第二種軍装)の姿で描いている。

地図を見入る山本五十六の写真

絵葉書を購入しました

「水雷神」

昭和19年(1944年)の作品。
作品が発表された昭和19年の南方戦線は壊滅的な戦況となっていた。その南方海域を感じさせる熱帯魚が泳ぐ海での、特攻と精神的苦悩の様を造形で記録した作品。
海中で忿怒の表情を呈す3人の青年が、敵陣に突入する爆弾三勇士のように、魚雷を突き動かしつつ悲痛な叫びを上げている。
一方で、魚雷の先端に金剛杵を描くことで魚雷そのものを宝具と化し、それを突き動かす青年三体を神格化している仏教的な試みもされ、兵器としての水雷の神格化も踏まえ「水雷神」と銘し、軍部の期待にも龍子なりに応えている。

絵葉書

爆弾三勇士

「爆弾散華の池」

絵葉書は、「香炉峰」「越後(山本五十六元帥)」「水雷神」「爆弾散華の池」の都合4枚をいただきました。

実は、川端龍子のこと、ほとんど知りませんでした。
たまたま「爆弾散華の池」というフレーズを知り、ちょっと気になったので脚を運んだ次第でしたが、記念館で圧倒的な迫力で「香炉峰」を目にして、一気に興味を持った次第。

場所

大田区立龍子記念館
〒143-0024 東京都大田区中央4丁目2−1

https://goo.gl/maps/SD3uzoqfLhpopYxY6

大森駅からは歩いて25分くらい。バスだと15分くらい。


大森駅の東側にある入新井公園に戦争の慰霊碑があるので、あわせて参拝。

入新井萬霊地蔵尊

入新井萬霊地蔵尊
為昭和昭和二十年一月 十一日
        五月二十三日
        五月二十九日
               大空襲戰災死者

入新井萬霊地蔵尊の由来
 この辺りは、太平洋戦争下の昭和二十年五月二十九日の東京大空襲にて、不幸にも三・三平方メートル(一坪)当り六、七発の大量油脂焼夷弾が落され、大勢の尊い犠牲者が出ました。
 戦後、区画整理も整い入新井公園が設けられるに及び、昭和三十二年住民の声にて、今は亡き肉親を偲び、在りし日の隣人を追慕してご冥福を祈ると共に永遠の平和を祈念し、故広瀬定光氏他有志が発起人となり、住民の浄財をあおいで地蔵尊が建立されました。
 その後永年の風雪に破損がひどく、今回三十三回忌を記念して再び広く浄財を募り再建したものであります。近隣の方々のお力により、毎日お花や線香の絶える時がございません。
 昭和五十一年五月二十九日
 入新井萬霊地蔵尊奉賛会

場所

https://goo.gl/maps/cCBUbWuQyH9ptFtD6


※撮影は2021年10月

太宰治ゆかりの三鷹陸橋(三鷹こ線人道橋)

2021年9月、JR東日本と三鷹市との協議で解体撤去されることが決定した。。。
解体時期はまだ決まっていないというが、解体される前に足を運んでみた。


三鷹陸橋(三鷹跨線橋・三鷹跨線人道橋)

昭和4年(1929)、人びとの往来を確保するために中央線と三鷹車両センターを南北に横断する跨線橋が設置された跨線橋。
全長93メートル、幅約3メートル、高さ約5メートル。
太宰治(1909-1948)ゆかりのスポット、でもあった。

三鷹こ線人道橋の今後の取り扱いについて
      作成・発信部署:都市整備部 道路管理課
      公開日:2021年9月7日 最終更新日:2021年9月7日

 三鷹こ線人道橋(以下「こ線橋」という。)については、旧三鷹電車庫建設に伴い当時の鉄道省が昭和4年に設置し、鉄道省から国鉄を経て東日本旅客鉄道株式会社(以下「JR東日本」という。)が継承、以来JR東日本が維持管理してきました。しかし、こ線橋は鉄道事業施設としてではなく、実質生活道路として利用され、公共的施設として管理されることが相応しいとの見解から、JR東日本から無償譲渡の申し入れがありました。これまでの間、市民の皆様や市議会の思い等から、現状のままで存続する方法がないか模索してきましたが、2021年6月にJR東日本より、こ線橋は建設後長期間経過するとともに、耐震性能が現在の基準を満たしておらず、利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことが想定されること、また、こ線橋の代替施設として堀合地下道があることから、撤去することで進めるとの見解が示されました。市としては、耐震性能に課題のあるこ線橋の譲渡を受けたとしても大規模な改修(耐震補強)及びメンテナンスに多額の費用が必要となること、改修により文化的価値が損なわれる可能性が高いことなどから譲り受けることは困難と判断し、耐震性能が現在の基準を満たしていないこ線橋の存続により、万が一の災害の際に利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことも考えられるため、JR東日本の判断を受け入れることとしました。なお、こ線橋は三鷹ゆかりの文学者で世界的に有名な太宰治が好んだ場所として文化的価値が高く、市民に人気のある施設であることから、今後はJR東日本と連携し、こ線橋の一部を譲り受けて保存や映像・画像等での記録など、記憶と記録を残す取り組みを行っていきます。

三鷹市 https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/093/093254.html

北側の一部のみ、再塗装が施されているが、大部分は錆色。

通行される皆様へ
この三鷹こ線人道橋は、JR東日本が管理している橋です。
1929年(昭和4年)に古い設計基準で建設されています。このため、
地震等の災害発生時には通行禁止となりますので
他の道路へ迂回していただくようにお願いします。

迂回の道路につきましては、三鷹駅寄り「堀合地下道」を利用ください。
なお、今後、老朽化等により通行できなくなる場合があります。
ご理解とご協力をお願いします。
 東日本旅客鉄道 八王子支社

太宰が生きたまち
三鷹

太宰ゆかりの場所
陸橋(跨線橋)

中央線の上にかかる陸協に友人を案内することもありました。
この陸橋は、1929(昭和4)年に竣工した当時の姿を今も留めています。
 三鷹市

跨線橋の様子を記録してみる。

北側は、道路もまたぐように跨線橋が伸びている。
北側の階段部分及び道路の上あたりまで、再塗装が施されており、きれいな緑色であるが、線路側の大部分は錆びるに任せた状態。

南側。
北側よりも緊張感がある石段は、やはり再塗装されていないがゆえに老朽化を感じさせる状態だからだろうか。

石段の所々は、破損している。鉄筋も露出している。

三鷹市が設置した太宰治の案内板は南側に設置されている。

場所

https://goo.gl/maps/pGhCg8Xatikdmg6f8

跨線橋と三鷹駅の間には、堀合地下道が設置されている。跨線橋が撤去された場合の代替の南北横断通路。


三鷹は太宰治が居住をしていた街。三鷹を流れる玉川上水に入水自殺をし、墓も三鷹の禅林寺にある。

太宰治の墓

場所

https://goo.gl/maps/8chNdhXqFSzBCM5j6

三鷹の禅林寺には、森鴎外の墓もある。また、三鷹事件の慰霊碑もある。


太宰治ゆかりの「さるすべり」

太宰治旧宅に植えられていた「玄関前の百日紅(おさん)」が三鷹市平和通りの井心亭の庭に移植されている。

場所

https://goo.gl/maps/8r7zStkTxoAjb7Yw9

実は、太宰治の邸宅があった通りには、阿南惟幾陸軍大将宅もあったが、その話は別記事にて。

三鷹には、太宰治ゆかりの場所が多い。跨線橋とあわせ、史跡散策・文学散策をしてみるのも良さそうです。

※撮影は2021年9月

高射砲第二聯隊の跡地散策(軍都柏・その2)


北柏駅から徒歩15分ほど北に歩いた場所に、往時の建物などが残っていた。

2009年(平成21年)に、「柏市消防局西部消防署根戸分署」が建物として役目を終え、解体も検討されていたが、詳細な調査が行われた結果、 陸軍時代の 高射砲第2聯隊の「照空予習室及測遠器訓練所」であることが判明し、柏市によって保存されることとなった建物。

足を運んでみましょう。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R393-81
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。
陸軍高射砲第二聯隊の北側には柏陸軍病院もあった。

さらに拡大。
陸軍高射砲第二聯隊の建物がわかる。

現在の様子を、Google航空写真にて。

下記は、高野台児童遊園にある営門門柱の解説板から抜粋。


軍都「柏」

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


高射砲第二聯隊 ・照空予習室及測遠器訓練所
 (旧柏市消防局西部消防署根戸分署)

高射砲第2連隊の跡地は、現在の富勢中学校及び周辺一帯にあたる。
かつて、 柏市消防局西部消防署根戸分署 として使用されていた建物。

詳細な調査結果があがってくる前、かつては、高射砲第二連隊「馬糧庫」とも呼称されていた。

照空予習室及測遠器訓練所」は高射砲連隊に特有の演習用施設。
同種の建物は、柏と加古川の2か所にのみ現存しており、柏の建物は「起重機装置(エレベーター)の支柱」が残る国内唯一の残存例として大変に貴重な建造物。
建物の内部は「照空予習室」として、使用され、屋上を「測遠器訓練所」として使用。2つの要素を併せ持つ建物であった。


柏市のサイトに詳細情報がアップロードされている。

1 照空予習室及測遠器訓練所(旧西部消防署根戸分署)

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3211.html

2 高射砲第2連隊 3DCG(三次元コンピュータグラフィックス)版

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3212.html

3『空をつくる建物』~高射砲第二連隊 照空予習室調査報告書~

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3214.html

「起重機装置(エレベーター)の支柱」

支柱の存在感がすごい。

屋上で、測遠器訓練、が行われていた。内部は、照空の訓練で使用されていたために、そこから屋上に直接アクセスできるように階段が設けられていた。

照空予習室及測遠器訓練所の東側。
現在は、住宅街と整備されているが、横並びに「修理工場」「油脂庫」などがあり、近年まで土台などが残存していたが消失。

毎年秋に、建物の一般公開もあるという。
ぜひとも、足を運んでみたい。

柏歴史クラブ

http://teganoumi.blog62.fc2.com/blog-category-6.html

場所

https://goo.gl/maps/FE36VSrVwdzikGnW7


高射砲第二聯隊営門門柱と歩哨舎

「高野台児童遊園」に、 高射砲第二聯隊の営門門柱と歩哨舎が移築保存されている。
高野台児童遊園の東側が、営門であった。
高射砲第二聯隊のあとは、東部十四部隊と東部八十三部隊が、当地に駐留。敷地の東側に東部十四部隊、西側に東部八十三部隊が展開していた。

旧高射砲第二連隊営門
 ここにある門柱は東方約60mの所にあったものを移設したものです。
 高射砲第二連隊は、昭和13年に市川市国府台から富勢村根戸字高野台に移転してきました。隊は昭和16年に主力が東京方面に移り、同18年に廃されるまで続き、その後東部十四部隊と東部八十三部隊が進駐しました。
 敷地は現在、市営住宅、富勢中学校、公的施設として利用されています。
 柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ、十余二、花野井、大室、高田、若紫には軍事施設があり、緑ヶ丘には軍需工場がありました。
 これらのものは姿を変えてしまい、当時の面影をみることは困難になっています。
 本市に軍事施設があった残り少ない証拠として、また、二度と再び戦争の惨禍を繰り返すことのないように祈念して、営門を移設して永く保存し、「恒久平和」を求め続けるものです。
 柏市教育委員会

コンクリート造の歩哨舎。

場所

https://goo.gl/maps/qV5yu6P7q9oKA9SLA


コンクリート造形物?(敷地東部)

高野台児童公園から北上してみる。
足元に不自然に固められたコンクリートの造形物があった。
往時のものかは不詳


土塁と境界標石?(敷地北東端)

高射砲第二聯隊の敷地の北東端。
境界標石と思われる石柱と、往時からのものかは不詳であれど、土塁があった。

摩耗しているが、なんとなく「陸軍」と書いてあるような気がしてくる。

土塁?

場所

https://goo.gl/maps/LzbVXezDjv9FoC779


敷地南東端

南東端部分は特に何も残っていなかった。


敷地南部

用水路があった。当時からの水路(排水路)かは不詳。ただ経験則的には、当時からの排水路であってもおかしくないものを感じた。

写真左側の木々が、かつての陸軍用地

水路の右側が高台が陸軍用地であった、

場所

https://goo.gl/maps/M5GTBvQkZ8PubMTA7


陸軍境界標石(敷地南部)

敷地南側の通路に沿って、陸軍用地の境界杭(境界石)が点在していました。

こちらは、はっきりと「陸軍」と刻まれているのがわかります。

場所

https://goo.gl/maps/adXSKGnRxcL4yhVt5


土塁?(敷地南端)

土塁がめぐらされている。
高台が、陸軍用地。

右側の坂道を登っていくと、高野台(富勢)。
かつての高射砲第二聯隊の地。

場所

https://goo.gl/maps/BviqerzvjNUo8Kb26

ちなみにこの日は、柏駅スタートで柏公園(柏陸軍墓地)を経由してからの、高野台(高射砲第二聯隊)散策で、ゴールは北柏駅、でした。約6.5キロで約2時間の散策。

以上、高射砲第二聯隊の跡地散策でした。

※撮影は2021年7月。


関連

神田駅西口高架橋に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口から「煉瓦造りの高架橋」を散策してみました。


JR神田駅

大正8年(1919)、中央本線の万世橋駅ー東京駅間の途中駅として開業。
今も活用されている「高架橋」は開業と同じく大正期に建造。高架橋は当時の最新技術であった鉄筋コンクリート造りをベースと赤レンガ装飾を施している。これは、明治後期に新橋駅ー東京駅間の総レンガ積み高架橋と外観を統一するためであった。

JR神田駅西口から南に向けて。
今も残る「赤れんがの高架橋」を丹念にみてみると、ところどころに欠けが見受けられる。これは一説によると「機銃掃射の弾痕」だという。
そう思って、改めて観察してみると確かに「機銃掃射弾痕」に見えてくる。

近隣では、日本橋川に架かる「鎌倉橋」にも機銃掃射弾痕がある。
鎌倉橋は昭和19年11月の空襲であったというが、神田駅の高架橋に残された弾痕はいつのものかは不詳。


神田駅西口高架下に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口を出て、すぐ目の前の高架橋。さっそく弾痕ぽい跡があったけれども、いったんは、ちょっと北側に歩いてみて、順番に見ていきましょう。

第2鍛冶町橋高架橋(北側)

第1鍛冶町橋高架橋(南側)

神田駅西口改札側

新石橋架道橋(北側)

焼け跡?

新石橋架道橋→新石町橋高架橋

神田駅西口改札の道路を挟んだ南側。

新石橋架道橋から新石町橋高架橋の間

新石町橋高架橋(南側)

千代田町橋高架橋(北側)

千代田町橋高架橋


神田駅の周辺に、こんなに機銃掃射弾痕が残っているとは、露知らず、でした。
スキマ時間でも、散策できるスポット。ちょっと気にして歩いてみるのも良い感じです。


関連

煉瓦に対する機銃掃射としては、半田赤レンガ建物(中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫)もある。

日本初の田園都市・田園調布の玄関口「旧田園調布駅舎」

「田園調布」
日本を代表する高級住宅街は、渋沢栄一の理想とした田園都市でもあった。


田園調布

田園調布は、1918年(大正7年)に渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により主に開発され、1923年(大正12年)8月から分譲された地域であった。

渋沢栄一はイギリスで提唱された田園都市構想を理想とし模範的な住宅街を開発。
田園調布駅前広場を中心に放射状に延びる街路は、当時のヨーロッパの都市に見られた特徴をそのまま取り入れたものであった。渋沢栄一の四男であった渋沢秀雄が、日本の田園都市建設の参考とするために、大正8年(1919)に欧州11カ国を視察し住宅事情を学び、帰国後に田園都市株式会社に取締役として入社。
「田園調布」開発へとつながった。

田園調布の由来
この広場を中心とする凡そ八十万平米の地域は、明治文化の先駆者渋沢栄一翁が、我国将来の国民生活の改善の為に、当時漸く英米に現われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにも関らず自ら老躯を運んで親しく土地を選定された所であります。
 その目的の為に大正七年、田園都市株式会社が創設されて、翁の理想に共感する人々に土地の分譲を行ない、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生まれました。
 この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、建築その他に関し色々な申し合せを固く守り殊に道路との境界には一切土塀板塀などを設けず、花壇か生け垣の低いものの程度にすることなどを、厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生まれたのであります。
 大正十一年には同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され大正二年三月、当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ間もなく田園調布という駅名に改められました。その後この地区が東京市に編入された際、町名改正がおこなせれて当都市のみならず周辺の町村をもひろく含めて田園調布と呼ぶこととなりました。その折当会の地域は頭初の田園都市の約三分の二となり、他の三分の一は、世田谷区玉川田園調布となりました。
 ここに明るく住む方々も、ここを来し訪れる方々も、渋沢翁が永くここに栄えてゆくようにこの田園都市を愛護して下さるようお願い致します。
 昭和三十四年秋
 社団法人 田園調布会 会長 矢野一郎

田園調布駅前、放射状の起点となる西口広場に由来を記した石碑が建立されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C50-C2-29
昭和16年(1941年)4月2日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記写真を加工。

現在の様子。GoogleMap航空写真

田園調布駅から西側には、同心円状のエトワール型(パリの凱旋門周辺と同型)の道路と街路樹、広場、公園が設けられている。


旧田園調布駅舎

1923年(大正12年)3月11日
 目黒蒲田電鉄の開通と同時に開業。開業当時の駅名は「調布駅」であった。
1926年(大正15年)1月1日
 駅名を「田園調布駅」に改称。
1990年(平成2年)9月4日
 田園調布駅地下化のため、旧駅舎解体。
2000年(平成12年)1月15日
 旧駅舎を田園調布駅のシンボルとして復元(駅舎としては使用せず)。

旧田園調布駅舎設計者は神宮外苑の絵画館や上高地帝国ホテル、伊豆の川奈ホテルなどを設計した矢部金太郎。
特徴的な屋根の形はマンサード・ルーフという欧州中世紀の民家がモデルになっているという。

田園調布を造成した田園都市会社は、東急電鉄目蒲線前身である目黒蒲田電鉄の母体会社でもあった。

※撮影2021年5月


関連

板橋の田園調布

田園調布の南側は多摩川

「田園調布」と「調布」は、ちょっと違う。。。

渋沢栄一関係

はじめに

新河岸川橋梁に残る弾痕修復の名残?(北区)

鉄道と軍隊は、切っても切れない重要な関係にあった。
そのため日本の動脈である鉄道は、戦時中は幾多の危険を伴っていた。

新河岸川に架かる「新河岸橋梁」も、戦争をくぐり抜けた鉄道鉄橋の一つであった。

軍都・赤羽

東京と埼玉をの間に横たわっている荒川・新河岸川。
東北本線は赤羽と川口で南北に横断する。

荒川・新河岸川の南側は、陸軍の拠点として工兵部隊が展開されている「軍都・赤羽」であった。

赤羽台の戦跡散策

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-191
昭和19年(1944年)9月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

画像右上に鉄道橋が「2本」架かっているのがわかる。(現在の鉄道橋は「3本」)


新河岸川橋梁

東京都北区赤羽と埼玉県川口市舟戸町の間で、新河岸川に架かる「新河岸川橋梁」と荒川に架かる「荒川橋梁」が連なっている。
明治16年(1883)に初代橋梁が仮設として建設され、明治18年に初代橋梁が完成。
関東大震災後に2代目橋梁が企画され、貨客分離で2本目も増設された。

現在は3本の鉄道橋が並んでいる。
上流 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中央 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
下流 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線

上流側から。
手前の2本は戦前の架橋。奥の1本(京浜東北線)は戦後の追加架橋。

平成25年(2013)11月17日(日)、上記写真の右側の護岸工事中に不発弾が見つかっている。

新河岸川整備事業(新河岸川護岸工事現場)では、新河岸川橋梁の間近にて不発弾(2,000ポンド爆弾/1トン爆弾)も見つかっていることから、米軍も戦略的に、この東京都埼、そして東北を結ぶ大動脈であった鉄道橋・新河岸橋梁をターゲットしていたこともわかる。

http://www.ukima.info/newslog/episolgo/form2/130724.pdf

上記PDFより不発弾発見場所

https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00271.html


新河岸川橋梁(貨物線)

新河岸川橋梁(貨物線)は、3つの橋のうち、一番古く昭和2年(1927)竣工。上流に位置している。

その新河岸橋梁の埼玉側(北側)に、戦争の爪痕があるというので足を運んでみました。

トラス橋の「端柱・橋門構」をみると、左右で異なっている。
北側から見て、左は「リベット結合」、右は板が追加され「溶接結合」がされていることがわかる。

この左右で異なっている理由が(真偽は不詳ではあるが)、
「米軍機によるロケット弾により被弾損傷したものを修復した名残である」、とされている。

確定できるソース(原拠)に辿りついていないため、本記事の表題は「?」としました。

たしかに、右側と左側が異なっている。
端柱・橋門構の右側は補強修復されていることがわかる。

オリジナルの端柱はリベットのみ。

修復された端柱はオリジナルのリベットと、一部に板を追加された溶接となっている。

左 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
右 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線


関連

鶴見線大川支線第五橋梁に残る機銃掃射弾痕

JR鶴見線の大川支線。白河運河にかかる第五橋梁には、米戦闘機による機銃掃射の弾痕が今も残されている。

鶴見線国道駅にも機銃掃射の弾痕が残っているが、鶴見線大川支線の弾痕が同じ頃かどうかは不詳。


昭和17年4月18日、ドーリットル空襲において横浜・川崎地区でも初空襲を受けて以来、横浜は大小30回にも及ぶ空襲を受けてきたという。

昭和19年12月25日、B-29 による横浜地区、初空襲。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/ks-nenpyou3.html

昭和20年4月4日、B-29 による川崎地区、初空襲。
そして4月15日にB-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

昭和20年(1945)5月29日昼間、アメリカ軍はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機という大編隊でもって横浜を空襲。約8000人から10000人という死者をだした。この「横浜大空襲」では、京急平沼駅が壊滅、神奈川県護國神社は焼失、している。

鶴見線大川支線は大正15年(1926)3月に鶴見臨海鉄道貨物線として開業。
大川支線の大川は、日本初の製紙技師としていくつもの製紙会社を興し、「製紙王」と呼ばれた大川平三郎に因んでいる。


鶴見線大川支線第五橋梁

機銃掃射の弾痕は、橋の南側の西向きに集中している。

南1枚目。

南2枚目。

南3枚目。

南4枚目。

ここだけ東側。

全体

全体

集中的に機銃掃射されたのがわかる。

鉄柱は昭和18年。

なんかいた。なんか座礁して廃船っぽい佇まい。
ANNIVERSARY CRUISE 海賊船アニバーサルクルーズ号らしい。。。

場所

https://goo.gl/maps/goRXZrNQKPkM5m846

鶴見線といえば。


関連

「帝都の門・永代橋」と「震災復興の華・清洲橋」

隅田川の下流にかかる2つの橋。「永代橋」と「清洲橋」。
関東大震災で壊滅した下町復興のために架橋された、2つのシンボルブリッジであった。

永代橋は筋骨隆々とした男性的なイメージで、優雅な下垂曲線を描く清洲橋は女性的なイメージでデザインされたという対となる橋であった。


永代橋

隅田川の最下流に架かる「帝都の門」として大正15年12月20日竣工。
現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋。

2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日、永代橋は都道府県の道路橋として初めて同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

永代橋に用いられた重厚な鋼材は、もともと軍艦用の高級鋼材であった。
ワシントン軍縮会議によって戦艦の保有数に制限が生じ戦艦建造中止となったため、もともと戦艦用に確保していた鋼材を、永代橋に流用したものであるという。

なお、東京大空襲の焼夷弾の弾痕とされる「へこみ」もある。

土木学会選奨土木遺産
JSCE
2000
帝都を飾るツイン・ゲイト(永代橋)

 「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
●二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
●永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。

場所

https://goo.gl/maps/b2S39EbzLZVzEf3T8


豊海橋

永代橋から左岸を北上するとすぐに日本橋川と隅田川の合流地点と日本橋川に架かる豊海橋がある。せっかくなので立ち寄り。

日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋。日本橋川最下流の橋。
1927年(昭和2年)に震災復興橋として架設。

豊海橋
 日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至っています。
 現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に復興局が架設したもので、形式名はフィーレンデール橋といいます。この名は考案者のフィーレンデールの名をとったものです。
 梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたもので、我が国では本橋以外に数例しかなく、希少価値の高い橋です。

「豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈下を見渡す景色、今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。」
 (永井荷風 断腸亭日乗 より)

橋梁の諸元
形式   フィーレンデール橋
橋長   46.13m
有効幅員 8.00m
着工   大正15年5月
竣工   昭和2年9月
施工者  復興局
 
平成3年3月 東京都中央区

日本橋川
日本橋川は、慶長5年(1600)関が原の合戦後に切り開かれ、江戸城の大手口と隅田川をほぼ一直線に結ぶ運河として主要な役割を果たした川筋で、江戸の繁栄と共に生きてきた河川です。

中央区民有形文化財
豊海橋
所在地 中央区新川一丁目 日本橋箱崎町 (日本橋川)

 現在の豊海橋は、大正15年(1926年)5月起工、昭和2年(1927年)9月竣工。
 日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。
 明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923年)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。
 福田武雄はドイツ人フィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数ヵ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区民有形文化財に登録されています。
 平成14年3月 中央区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/Tqkm1gwHuXdNixneA

ちなみに、豊海橋の近くには、「日本銀行創業の地」があった。


清洲橋

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。昭和3年3月竣工。
「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になる設計で、清洲橋は「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザイン。

2000年(平成12年)に永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

日本国重要文化財
清洲橋
諸元 橋長 186.2メートル
   幅員 25.9メートル
   上部工 銅製3径間補剛吊橋
所有者 東京都
指定年月 平成19年(2007)6月18日指定(建第2500号)

指定の意義
 清洲橋は、関東大震災復興事業によって建造され昭和3年(1928)3月に竣功した。
 清洲橋の特筆すべき点として、上部構造は日本国内では珍しい橋端部に水平力の及ばない自碇式連続補剛吊橋で塔柱から吊るされた吊鎖を橋端部において主桁と連結し、主桁は左右の橋桁を繋ぐ構造である。放物線状の優美な外観の吊鎖は、高張力マンガン鋼のデュコール鋼を吊鎖に用いるなど、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚と、締切工法による橋台二基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師鈴木清一らである。

清洲橋
 清洲の名は深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることに由来し、橋の開設にあたって公募されたものである。
 深川の清澄町はわが国セメント工場の発祥の地であり、庭園でも知られ、また芭蕉庵跡にも近い。 日本橋中洲町は明和8(1771)年に埋立てを開始して隅田川畔の繁栄の一翼を担った。 その後、中洲埋立地は取り壊され、元の水浸地になるなど複雑な歴史を持つが、明治19(1886)年に再び埋立てられ、 新しい土地として生まれ変わった。 この二つの町を”中洲の渡し”が結んできたが、大震災後の復興事業でドイツのケルンの大吊橋を範として女性的な曲線美をもつ 吊橋を架けることになり、昭和3(1928)年この橋は完成した。 第二次世界大戦でケルンの橋は爆破されてなくなったが、清洲橋は東京大空襲の中でも多くの被爆者を救って 幹線道路の橋としての役割を果たしてきている。
 昭和58年3月 東京都

清洲橋の照明灯具
 この灯具は、清洲橋が建設された昭和3年から昭和60年代まで、橋の吊材に設置されていました。
 現在の灯具は、建設当時の図面を参考に制作し、材質は当時のブロンズ(青銅)から、軽量で強度のあるアルミニウム合金としました。
 また、ランプは省エネルギー効果の高いLEDを採用しました。
 平成30年3月 東京都

土木学会選奨土木遺産
JSCE
2000
帝都を飾るツイン・ゲイト(清洲橋)

 「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
●二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
●清洲橋は、美しさを追求した特殊な吊橋である。

場所

https://goo.gl/maps/m57AzNfkLyprHHjM9

ちなみに清洲橋の近くにはアサノコンクリート深川工場がある。


陸奥宗光宅跡

清洲橋のたもとに陸奥宗光邸宅跡があった。

江東区登録史跡
陸奥宗光宅跡 清澄1-5付近
 陸奥宗光 は、明治時代の外交官・政治家で、弘化元年(1844)、和歌山藩士伊達宗弘(千広)の第六子として生まれ、明治三十年(1897)、西ヶ原(北区)の自邸で逝去しました。
 父宗広は藩の要職にありましたが、政争により失脚、宗光は一五歳で江戸へでました。文久二年(1862)に脱藩し、京都で尊王攘夷 運動に加わり、のち坂本龍馬 の海援隊 に参加しました。このころより陸奥の姓を用いるようになりました。
 明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。明治一〇年(1877)、西南戦争 に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したとして、翌一一年に免官、五年間投獄されました。出獄後は外務省に入り、明治二三年(1890)、第一回衆議院選挙で当選、第二次伊藤内閣の外務大臣として日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(1894~95)の開戦と講和に関わりました。
 宗光が深川清住町(現清澄)に在住したのは明治五年(1872)から同一〇年(1877)までの間で、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書き上げた時期にあたります。この邸宅は、墨田川に面して眺望がよく「三汊水碧楼」と呼ばれていました。
 平成22年7月 江東区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/1TepzPT5qwkGNFy37

旧・陸奥宗光邸

明治維新百年記念碑

清洲橋のたもとに建立。
この記念碑は明治100年を記念して、昭和43年11月3日に清澄1丁目町会によって建立。

明治維新百年記念
明治天皇御製
いかならむ 時にあふとも 
 人はみな
誠の道を 
 ふめとをしへよ
 明治神宮権野宮司 伊達巽謹書

場所

https://goo.gl/maps/DctJaUQhy81zRX5k6


震災復興の鉄橋として架けられ、そして戦災をくぐり抜けた橋が都内には意外と多い。
これからもそんな橋を気の向くままに掲載していきたいと思う。

※本記事は総て2021年3月撮影

  


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浜松駅周辺の戦跡散策【浜松5】

浜松駅周辺の戦跡散策。浜松空襲の名残をたどってみる。


揚子橋に残る弾痕

馬込川にかかる揚子橋(ようずばし)。橋の南北に激しく機銃掃射による弾痕が残っている。弾痕は約50箇所にも及ぶという。

浜松は、その都市の規模に比べ、異様なほど多くの空襲を受けた。また艦砲射撃も受けている。
軍事施設や軍需工場が集まっており、また東海道の要衝でもあり、東京や名古屋を爆撃するB29の飛行航路にも当たっていたという複数要因があった。

揚子橋の弾痕がいつのものかは不詳。

場所

https://goo.gl/maps/c47NzCu32F7WzVax7


動員学徒追悼・慈光観音像(林泉寺)

学徒動員により動員現場で死亡した娘を追悼する母親の願いを受けて、1999年に建立。
観音像は学徒動員された10代の若き女性を模している。

慈光観音
為 学徒動員
青春散華

場所

https://goo.gl/maps/nigH8WqgWdqXnjHU9


戦歿者慰霊塔(河合楽器)

河合楽器の敷地内にある慰霊塔。河合楽器関係者の戦歿者を祀る。
河合楽器も軍需工場に指定されピアノ工場では爆弾倉や脚扉が作られていたという。
そこでは学徒動員も行われ、芥田学園や西遠女子学園などの多くの女学生が動員され、そして空襲等で亡くなっている。

場所

https://goo.gl/maps/5EFKCuM2ZH8Xvc8E9


市民の木・プラタナス

市民の木
 昭和20年6月18日の”浜松大空襲”により市街地の大半が焦土と化し、プラタナスの並木も枯死したと思われました。
 しかし、奇跡的に3本だけは幹に焦げ傷を残しながらも市民の愛の手に守られ、2年後の春に見事に発芽しました。
 以後このプラタナスは通行く人に勇気を与え、復興を呼びかけてくれました。
 戦火の中からよみがえり市民ともに生きた木として、昭和39年6月には”市民の木”と命名された記念すべき樹木です。
 浜松市

場所

https://goo.gl/maps/PghDjpPMpoNDSMj68


静岡銀行浜松営業部(旧遠州銀行本店)

昭和3年(1928)竣工。中村與資平設計の銀行建築。浜松市指定文化財。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所

https://goo.gl/maps/FVmtSSWmF8NfkU5v9


鴨江アートセンター(旧浜松警察署)

昭和3年(1928)竣工。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所

https://goo.gl/maps/LALLk3XAPwFwZNXx5


木下恵介記念館(旧浜松銀行協会)

昭和5年(1930)竣工。浜松市指定有形文化財。
設計は、中村與資平。前述の旧遠州銀行本店と同じ設計者。
浜松空襲を耐えた建築物。上記の警察署の向かいにある。

中村與資平は静岡県内に多くの建物を残している。
豊橋市公会堂、静岡市役所本館、静岡市公会堂、静岡県庁本館など。

場所

https://g.page/keisukemuseum?share


夢告地蔵尊

戦争の犠牲となったお地蔵様。

夢告地蔵尊由来
この地蔵尊は安政五年(西暦一八五八年)に大流行したコレラで死んだ人達を供養する為建立されたもので、延命地蔵尊と呼ばれ、遺族達の香華が絶えなかった程の大繁昌ぶりであった。その後明治七年、小野組の大火災に遭い、更に廃仏毀釈の影響で取り壊し令が出て、地中に埋められた。大正八年になって當町住人小柳丈之助といふ人が、「地蔵尊が地上に出たい。」といふ夢を見て、町民一体となり埋められたと思われる庚申堂境内をあちらこちら掘り捜した結果、三日目に發見地蔵尊を復元し、夢告地蔵尊と銘命した。當時このことが異常な評判を博し、特に、花柳界に反響を及ぼし、東西より粋な婦人の参拝が後を絶えなかったと云ふ。其の後、大東亜戦争中、爆撃と艦砲射撃により、御本体御堂共目茶目茶に破壊されてしまったが、戦後再び地蔵尊を復元し、昭和二十六年、現在の場所に、御堂を造り、恭々しくお祀りしたのである。昭和五十一年にいたり、この御堂はすでに老朽化し、倒壊寸前の状態にあり、之の新築を計画したるところ、幸いにして町内外有志の御賛同と御喜捨を得て、茲に総檜造りの御堂を、新築落成したのである。
昭和五十一年六月二十五日落成式佳日誌 世話人

場所

https://goo.gl/maps/Q3H9rrBbJtu5Dhnx6


一連の浜松の散策記録はひとまずこれで〆。
浜松は戦争関連の歴史が多く残されており、まだまだ散策しきれていません、きっとまた訪れることもあるかとは思いますので、そのときには別途追記していきます。

※撮影及び散策は2020年11月


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