南千住回向院(小塚原回向院)
慶安4年(1651)に小塚原刑場での刑死者を供養するために建立された南千住の回向院。
安政の大獄で刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎の墓や、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖に立ち合った記念碑(解体新書)などど共に、昭和に歴史を刻んだ人物もこの地に葬られている。
目次
磯部浅一
明治38年1905年(明治38年)4月1日 – (昭和12年(1937年)8月19日
広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)卒業。
陸軍歩兵中尉に進級した後に、昭和7年(1932)6月に経理部への転科を志願し陸軍経理学校に入校。翌年昭和8年5月に陸軍経理学校を卒業し主計に転科。
陸軍二等主計(中尉相当)に任官し、昭和9年8月に陸軍一等主計(大尉相当)に進級。野砲兵第1連隊附となる。
昭和9年11月20日に発覚した「陸軍士官学校事件(十一月事件、十一月二十日事件)」にて、磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校が逮捕される。
磯部浅一、村中孝次は軍法会議の結果、停職。停職中に「粛軍に関する意見書」を配布し免官。
昭和11年(1936年)の二・二六事件では、磯部浅一は栗原安秀らとともに計画・指揮を担当。磯部浅一は陸軍大臣官邸で統制派の片倉衷を銃撃。(片倉衷は一命を取りとめた。)
二・二六事件後の軍法会議で死刑宣告。磯部と村中の二名は北一輝、西田税の裁判の都合上、昭和11年7月12日に処刑された他の死刑囚とは切り離され、昭和12年8月19日に北、西田、村中とともに銃殺刑に処された。享年33歳であった。
昭和維新を目指した青年将校たちの夢はこうして果てた。
辞世の句
国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ
磯部登美子夫人はその後、結核を病み、昭和16年3月13日に病没した。享年28歳。二人の間に子供はいなかった。
磯部浅一墓
磯部浅一 之墓
妻登美子
浅一 昭和十二年八月十九日歿
行年三十三歳
登美子 昭和十六年三月十三日歿
行年二十八歳
歴史的な良し悪しは、ここでは触れない。
ただただ、真摯に手を合わせる。
合掌
以下、本記事の趣旨とは外れてしまうので、簡単に。
豊国山回向院
(南千住回向院・小塚原回向院)
小塚原刑場
観臓記念碑
解体新書の絵扉をかたどった「観臓記念碑」
もともとは大正11年(1922年)建立。
昭和20年2月25日の空襲で被災したため、昭和34年に解体新書の絵扉部分の浮彫青銅板部分を移設。
境内には歴史上の著名人の墓も多い。
橋本左内墓(橋本景岳墓)
吉田松陰墓(松蔭二十一回猛士墓)
頼三樹三郎墓(鴨崖墓)
鼠小僧の墓
片岡直次郎の墓
高橋お伝の墓
腕の喜三郎の墓
意外なところでは、
カール・ゴッチ墓
プロレスの神様
Never lie , never cheat , never quit.
技術と精神は常に一緒だ
決して嘘をつくな 決してごまかすな そして 決して放棄するな
ほかにも当地には、桜田門外の変を決行した元水戸浪士達の総指揮者であった関鉄之介の墓なども。