埼玉県のシンボルであり、県民の鳥としても親しまれているシラコバト。埼玉県のマスコットキャラクター・コバトンとしても近年では馴染みが深い。
そんなシラコバトの名前を冠した施設「しらこばと水上公園」。当時、この地域は陸軍の飛行場であった。
そんな「しらこばと水上公園」周辺を散策してみようと思う。
目次
越谷飛行場
埼玉県南埼玉郡新和村・荻島村、現在のさいたま市岩槻区と越谷市に存在していた飛行場。
通称「越谷陸軍飛行場」。地元では「新和飛行場」「荻島飛行場」「論田飛行場」とも呼称。
昭和19年7月、建設開始。急造での工事が行われ、昭和20年に竣工するも、ほぼ機能することなく終戦。
戦後、連合軍が進駐。この地域に生息していたシラコバトの多くが乱獲され絶滅にひんした、ともいわれている。
国土地理院航空写真
ファイル:USA-R393-167
昭和22年(1947年)10月23日に米軍撮影。越谷飛行場空撮。
上記を一部拡大。
滑走路・誘導路・排水路区画などがわかる。
現在の様子をgoogle航空写真にて。
今でも、当時の区画を辿ることが可能。
滑走路跡コンクリート
(滑走路で作った記念碑)
越谷陸軍飛行場から約6.5キロ北の地に、東岩槻駅近くの稲荷神社に越谷飛行場で使用された滑走路のコンクリートが転用されていた。
戦後、貴重であったコンクリート。不要となった飛行場で使用されていたコンクリートをはるばる6キロ以上先の地まで運搬。そこには、農地を開拓して見事に完成した証の記念碑を作りたいという熱意が感じられる。
稲荷神社
鎮座:さいたま市岩槻区南平野1-33-5
昭和22年に農地開拓事業完成の記念碑建立のために「新和飛行場」より碑石を運搬して作成した旨が記録されている。
碑文・裏
岡崎大沢両氏ハ昭和二十二年村民一同ニ推シ代表ニ就任スルヤ部落厚生福祉ノタメ本事業ニ着眼シ工事ノ設計工築ヲ担当シ自己ヲ忘レ一意専心事業完成ニ努力ヲセラレ其目的ヲ達成セリ
茲ニ記念碑建設ニ当リ碑石ハ新和飛行場ヨリ運搬使用セル一片ヲ残シ両氏ノ設計耕作ニヨリ碑ノ完成ヲ見タリ
洵ニ両氏ノ業績大ナリ其偉徳ヲ感激シ謝恩ノ一端ヲ抜瀝センガタメ碑ニ刻シ後年ニ傳ヘ讃ヘントス村民一同
しらこばと水上公園
埼玉県営都市公園。昭和54年(1979)開園。海無し県埼玉にとっては貴重な海。
以下、散策してみましょう。
しらこばと水上公園まっすぐ南に伸びる道路は、当時の滑走路跡となっている。交通量は多く、近隣には工事業者も多く大型車の往来も多い。
滑走路跡
第一排水路
滑走路跡の道路から、ひとつ西となりの農道に移動。
建物のあるあたりが、当時の滑走路。
そして「第一排水路」。
そこからさらに農地を西に進む。
第二排水路・暗渠排水路(西)
水田の間にある排水路。
多孔型の蓋がされている暗渠となっている。
これは、滑走路に向かう飛行機が排水溝を渡れるように蓋をし、雨水を排水溝に落とすための工夫。
現在も排水路として機能している。
建物の場所が滑走路方面。
ときどき、大きな穴が空いていて要注意。かなり深いらしい。
砂利が多く混じっている。
ぼーっと歩いていると落ちる。落ちたら危険。
コメントを戴きました。
暗渠排水路ですが深さは深いらしく大人が立っても余裕らしいです、昔はウナギが取れたらしいのですが中に入ると簡単に出れなくなってしまい死ぬから絶対に入るなと言われました。
ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM
ちなみに暗渠より滑走路側の蓋のない用水路が第一排水路で暗渠の排水路が第二排水路だそうです。
建物基礎跡
格納庫のあったエリア。なんらかの施設の基礎と推定。赤丸の建物。青丸は橋。
飛行場の境目の用水は今も昔も変わらず。
水田に囲まれている。
階段もある。
格納庫はあっても飛行機はなかったようで。。。
コメントを戴きました。
飛行場には当時、本物の飛行機はなく木で作った飛行機(ダミーのモックアプ)があっただけだそうです。
ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM
一度だけ飛んできた飛行機が事故を起こしたと言っていたのですが、私が大きくなり自分で色々調べた際に一式戦闘機が着陸に失敗し事故を起こした事を知り、祖父の話は本当だったのだと思いました。
石橋
石橋も古さを感じる。ただ主要な出入り口ではない農地エリアから飛行場エリアに、安易に橋を架けるのは飛行場側としては警備上のデメリットしかうまれないため、この橋は戦後の農地開拓時に架橋された可能性も高い。掲載している昭和22年の航空写真ではすでに橋が確認できるため、遅くともその頃には架橋されたものと判断できる。
コメントを戴きました。
格納庫跡付近の橋から西に延びる道は飛行場建設当時、軍のトラックが資材運搬に使用したらしいのですが、トラックが道を荒らしてしまい穴だらけにしてしまったらしいのです。
ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM
軍も住民への補償という形で道を修繕したのですが、穴に大きな石を入れただけだったらしく、その上をトラック等が走っていると石が水田側に出てきてしまい結局自分たちで石を砕いて道を修繕したらしいです。
ですので橋も飛行場建設当時からあったと思われます。
コメントを戴いた、ひろゆき様のお祖父様は石橋の近くに住んでいたとのことで。
飛行場の外側にあった民家にも兵隊さんが訪ねてきたそうです。
食糧難の話で、終戦間際の正月一人の兵士が餅を食べさせてほしいと訪ねてきたそうです。
ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM
ウチにもたくさんあるわけではないので、今日だけという事で餅を食べさせてあげたらしいのですが、翌日から毎日のように兵士が仲間を伴ってやってくるようになってしまい、家の木戸(門)が開けられなくなってしまったと言っていました。
また、ひろゆき様のお父様から聞いたエピソードも頂戴しました。
ここまでが祖父に聞いた話で、こちらは私の父親(戦後生まれ)が子供のころ近所の元憲兵から聞いた話です。
ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM
飛行場完成後、倉庫にあった軍の備蓄米を当時の司令が横流しをしていたらしいです、その後その司令は何事もなく移動になり飛行場を去っていったらしいのですが、後任の司令が着任後に米の備蓄数を調べたところ数が合わない事で発覚したのですが、当時その事を咎められたのは新しく来た司令だったそうです。
その司令は結局、その事を苦に首を括ってしまったそうです。
鉄塔基礎跡(1つ目)
前述のなんらかの建物基礎は、もしかしたら変電系の施設だったかもしれない。建物基礎跡を挟んで前後には鉄塔基礎跡と思われるものが一直線に並んでいた。下図の左上は現在の東京電力の施設。公共系の施設は今も昔も同様の使われ方をしているので、当時でも左上の建物は電力系と判断することができる。
コメントを戴きました。
飛行場建設にあたっては朝鮮人も動員したらしく、本文にもある東京電力の施設の近くに宿舎があったそうです。
ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM
食糧難ということもあり、食事は真っ黒い握り飯を食べていたそうです。
真っ黒とは?と祖父に尋ねたところ、玄米だそうです。(精米すると量が減ってしまうからだそうです)
祖父は親からあまり朝鮮人には近づくなと言われたそうです。
赤丸は鉄塔基礎跡。青丸は現在の鉄塔。
星印は前述の建物基礎跡。
まずは格納庫エリアより南東に残る鉄塔の基礎跡。滑走路に一番近い鉄塔基礎跡。
そんなに大きなものではない。
下部は水田に張られた水で徐々に削られているようだ。
鉄塔基礎跡(2つ目)
こちらは格納庫エリアの北西にある鉄塔基礎跡。水田の中にきれいに残っている。
後ろには現在の鉄塔の姿も見える。
誘導路跡
滑走路に戻る。このあたりが、滑走路の南端。
この南端からは曲線を描いたターニングサークル・誘導路跡の道路が今も残っている。
第二排水路・暗渠排水路(西)
暗渠となった排水路は東側にも一部残っている。
当時の排水路と新しい排水路が合流。新しい排水路は暗渠化されておらず開渠型。
東の排水路は、あたしい排水路と交差する箇所も多く、改良も多いようです。
また西側は水田主体でしたが、東側は畑が多いようです。
畑が多いと土砂も多いため、暗渠の摩耗も進んでしまうような雰囲気。
南側は排水路そのものが、飛行場当時のものを改め新しい開渠型に更新されておりました。
このあたりは排水路・用水路が多い。水っぽい土地。
コメントを戴きました。
この飛行場一帯は元々水田で低湿地帯のため水捌けが悪く飛行場南側に新堀池という排水池を作ったのですがそれだけでは足りず排水ポンプも使用していたらしいです。
ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM
しかし、そのポンプの電線が切れていた所に運悪く近所の農家(家まで聞いたのですが忘れました)の牛が引っ掛かり感電死してしまったらしいです。
また低湿地帯のため末田須賀堰を閉める事ができなくなり農家は苦労したそうです。
(この近辺は水門を閉める事により水を貯め用水路に水を分配しているのですが用水路に水を入れると水田とともに飛行場にも水が入ってしまうため、水門を閉めて水を貯めることができなっかった)
兵舎跡
飛行場の南東には兵舎があった。
区画は当時も今も変わらない。
さらに拡大してみる。
まわりの住宅とまったく異なる方向を向いている建物。飛行場時代の兵舎と同じ場所で同じ向きに建っている建物。
そこには、時代に取り残された空間が残っていました。
このまま北越谷駅まで歩いていきました。
しらこばと水上公園バス停から北越谷駅まで約8キロの散策でした。
コメント
ここは!?
ウチの畑がある場所じゃないですか!!
子供の頃に両親と一緒に畑に行ったとき格納庫の基礎で遊んでました。
あと祖父からも当時のことを色々聞きました。
父親が子供の頃に近所の元憲兵から聞いた話も話してくれました。
ひろゆき様は、ご近所様でしたか!!!ご近所様のコメントびっくりです。ありがとうございます。通りすがりでお邪魔してしまいました。お祖父様やお父様から当時のお話など聞けたというのは、大変貴重ですね。今も残されている格納庫の基礎とともに伝承いただけましたら、後世のなによりの財産になるかと思います。
返信ありがとうございます。
記録にはあまり残っていない話が多いので、このまま当時のことを風化させたくないと思い
この場をお借りして祖父から聞いた話をお伝えします。
まずは格納庫跡付近の橋から西に延びる道は飛行場建設当時、軍のトラックが資材運搬に使用した
らしいのですが、トラックが道を荒らしてしまい穴だらけにしてしまったらしいのです。
軍も住民への補償という形で道を修繕したのですが、穴に大きな石を入れただけだったらしく、その上をトラック等が走っていると石が水田側に出てきてしまい結局自分たちで石を砕いて道を修繕したらしいです。
ですので橋も飛行場建設当時からあったと思われます。
暗渠排水路ですが深さは深いらしく大人が立っても余裕らしいです、昔はウナギが取れたらしいのですが中に入ると簡単に出れなくなってしまい死ぬから絶対に入るなと言われました。
ちなみに暗渠より滑走路側の蓋のない用水路が第一排水路で暗渠の排水路が第二排水路だそうです。
この飛行場一帯は元々水田で低湿地帯のため水捌けが悪く飛行場南側に新堀池という排水池を作ったのですがそれだけでは足りず排水ポンプも使用していたらしいです。
しかし、そのポンプの電線が切れていた所に運悪く近所の農家(家まで聞いたのですが忘れました)の牛が引っ掛かり感電死してしまったらしいです。
また低湿地帯のため末田須賀堰を閉める事ができなくなり農家は苦労したそうです。
(この近辺は水門を閉める事により水を貯め用水路に水を分配しているのですが用水路に水を入れると水田とともに飛行場にも水が入ってしまうため、水門を閉めて水を貯めることができなっかった)
飛行場建設にあたっては朝鮮人も動員したらしく、本文にもある東京電力の施設の近くに宿舎があったそうです。
食糧難ということもあり、食事は真っ黒い握り飯を食べていたそうです。
真っ黒とは?と祖父に尋ねたところ、玄米だそうです。(精米すると量が減ってしまうからだそうです)
祖父は親からあまり朝鮮人には近づくなと言われたそうです。
食糧難の話で、終戦間際の正月一人の兵士が餅を食べさせてほしいと訪ねてきたそうです。
ウチにもたくさんあるわけではないので、今日だけという事で餅を食べさせてあげたらしいのですが、翌日から毎日のように兵士が仲間を伴ってやってくるようになってしまい、家の木戸(門)が開けられなくなってしまったと言っていました。
飛行場には当時、本物の飛行機はなく木で作った飛行機(ダミーのモックアプ)があっただけだそうです。
一度だけ飛んできた飛行機が事故を起こしたと言っていたのですが、私が大きくなり自分で色々調べた際に一式戦闘機が着陸に失敗し事故を起こした事を知り、祖父の話は本当だったのだと思いました。
ここまでが祖父に聞いた話で、こちらは私の父親(戦後生まれ)が子供のころ近所の元憲兵から聞いた話です。
飛行場完成後、倉庫にあった軍の備蓄米を当時の司令が横流しをしていたらしいです、その後その司令は何事もなく移動になり飛行場を去っていったらしいのですが、後任の司令が着任後に米の備蓄数を調べたところ数が合わない事で発覚したのですが、当時その事を咎められたのは新しく来た司令だったそうです。
その司令は結局、その事を苦に首を括ってしまったそうです。
他にも色々聞いたと思うのですが、私も子供のころの話なので忘れたしまった事が多々あり、今思い出せたのは以上です。
これらの話を自分の中で風化させてしまいたくないという自分勝手な思いで、この場をお借りしてしまった事を申し訳なく思うとともに、語る場を与えてくださった事に感謝いたします。
ひろゆき様、貴重なエピソードの数々、ありがとうございます。本文中の記事に反映させていただきます。
西側の石橋は、往時からと確証できるエピソードありがとうございます。
暗渠排水路も、たしかにのちに整備された用水路を見れば、深さも予想できますが、暗渠状態だとなかなか油断してしまいそうです。
当時の航空写真をみながら、改めて、ひろゆき様のお話を見直してみますと、たしかに南側に排水池もありますね。今も界隈は水っぽい土地ですよね。水上公園があるのも、なんか納得です。
ほかにも当時を体験した方でないと知る術がないエピソードの数々など、こちらこそ、数あるサイトの中で、本記事に貴重なコメントをいただきまして、ありがとうございました。
飛行場跡まで自転車でも10分程度の岩槻区内在住の者です。
35年前に他界した祖父が、鉄道好きの私に対し、「戦争中は(自宅の)近所に飛行場があり、それを造るためにトロッコがあったものだ」と昔話をしてくれました。
近所の飛行場とはここのことと思われますが、これまでトロッコ(軌道)に触れた文献は見たことがありません。
工事用の簡易な物で恐らく用が済めば撤去されてしまったことでしょうが、そのあたりについてはいかがでしょうか。
痕跡などはさすがにないかと思いますが…
ろってむ様、ご近所からの書き込みありがとうございます。
ちょっと(簡単にですが)調べてみました。
岩槻市史(通史編)「新和飛行場の建設と工場の疎開」(P.1115-1117)には、【昭和二十年四月には、岩槻町長から各町内会長あてに、勤労奉仕隊の追加出勤要請が出された。それによると、作業内容は滑走路の整地のトロッコ押しで、町としては四月二十九日から五月三十一日まで毎日一七人が割り当てられ(略)】との記載があり、滑走路の整地に関しては、たしかに「トロッコ(手押しトロッコ?)」が使用されたようです。ご指摘の通り、おそらくは工事用の簡易的な軌道ものであったと想像可能です。
そのほか資材運搬用の鉄路などの記録がないかも追ってみましたが、越谷飛行場を建築するに当たって、東武伊勢崎線の越谷駅北側(現在の越谷小学校近くの東武線路脇)に資材置き場が設けられたようです。ただ、伊勢崎線からの貨物線路等の記録は(ざっくり調べた限り)確認できませんでした。伊勢崎線で運ばれた資材は、資材置き場からはトラックに積替えされていたようです。単純距離としては、北越谷駅(当時は武州大沢駅)のほうが近いですが、元荒川を超える必要があるために、越谷駅のほうが運搬都合がよかったと思われます。
お祖父様の伝承、ありがとうございます。
トロッコに関して調べてみる良い機会になりました。また、なにかありましたら、よろしくお願い致します。
「萩島」という記載がありますが「荻島」(おぎしま)だと思います。
HiRo.様、ご指摘ありがとうございます。「荻島」ですね。失礼いたしました。誤記を修正いたしました。