2024年度発行予定の1万円新紙幣の顔、そして2021年の大河ドラマの主人公でもある渋沢栄一の邸宅は飛鳥山にあった。
目次
渋沢栄一
日本近代経済の父、日本資本主義の父、と称される。
1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)
旧幕臣、官僚、実業家。正二位勲一等子爵。雅号は青淵。
第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所、東京株式取引所を初めとし、500を超える企業や経済団体の設立・経営に関わる。
社会福祉事業、病院医療、実業教育、女子教育、私立学校等の設立、運営、支援等、700を超える社会事業にも尽力。
実業家としては、みずほ銀行・りそな銀行・埼玉りそな銀行・王子ホールディングス・東京ガス・IHI・いすゞ自動車・立飛ホールディングス・大日本印刷・日本経済新聞・東京海上日動火災保険・東日本旅客鉄道・日本郵船・東京電力ホールディングス・東洋紡・太平洋セメント・キリンホールディングス・清水建設・日産化学・東京製綱・帝国ホテル・サッポロホールディングス・アサヒグループホールディングス・大成建設・古河グループ(古河機械金属・古河電気工業・富士通・富士電機・横浜ゴム)・オーベクス・大日本明治製糖・川崎重工業・住友重機械工業・東京建物・京阪ホールディングス・東宝・東京会館・ニッピなど、500以上に及ぶ企業の設立や運営に関わる。
教育面では、一橋大学・東京経済大学・東京女学館・日本女子大学・同志社・早稲田大学・高千穂大学・二松学舎・国士館大などに関与。
昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。
渋沢史料館
「飛鳥山3つの博物館」のひとつに、「渋沢史料館」がある。史料館本館とは別に、渋沢栄一の旧邸として大正期に建立され国指定重要文化財に登録されている建物が2棟ある。
- 1878年(明治11年)
渋沢栄一が飛鳥山に別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」を設ける。 - 1901年(明治34年)
本邸を飛鳥山に移す - 1917年(大正6年)
晩香廬竣工 - 1925年(大正14年)
青淵文庫竣工 - 1931年(昭和6年)
11月11日 渋沢栄一死去。
旧渋沢邸は栄一門下生が結成した竜門社に遺贈される - 1945年(昭和20年)
4月13日 太平洋戦争時の空襲により建物の大部分を焼失 - 1946年(昭和21年)
財団名を渋沢青淵記念財団竜門社に改称 - 1982年(昭和57年)
渋沢史料館開館 - 1998年(平成10年)
3月 本館新築開館 - 2003年(平成15年)
11月 財団名を渋沢栄一記念財団に改称 - 2019年(令和元年)
9月1日 渋沢史料館休館 - 2020年(令和2年)
11月19日 渋沢史料館リニューアルオープン
青淵文庫
大正14年(1925)竣工。重要文化財(旧渋沢家飛鳥山邸)
後日、撮影をやり直しました。。。季節が変わると見え方も変わりますね。
旧渋沢庭園
開演時間のお知らせ
開演時間 3月1日~11月30日 9:00から16:30まで
12月1日~2月末日 9:00から16:00まで
(以下略)
ようこそ旧渋沢庭園へ
曖依村荘跡
飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘(あいいそんそう)」跡です。約28,000㎡の敷地に、日本館と西洋館をつないだ主屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部ともに、よく保存されています。
渋沢史料館
渋沢栄一の1840(天保11)年から1931年(昭和6)年の91年におよぶ生涯と、携わったさまざまな事業、多くの人々との交流等を示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。
国指定重要文化財
晩香廬
青淵文庫
国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
青淵文庫
所在地 北区西ヶ原2-16-1
設計者 中村田辺建築事務所・田辺淳吉
建築年 1925(大正14)年
指定年月日 2005(平成17)年12月27日
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
財団法人 渋沢栄一記念財団
上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれている。
「寿」の字。
露台下より出土した「まぐさ」
露台基礎
晩香廬(ばんこうろ)
国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
晩香盧
所在地 北区西ヶ原2-16-1
設計者 田辺淳吉(清水組技師長)
建築年 1917(大正6)年
指定年月日 2005(平成17)年12月27日
近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
財団法人 渋沢栄一記念財団
渋沢栄一像
この像は、兜町の第一銀行本店中庭にあった。
後日、撮影をやり直しました。
足場もいつの間にかしっかりと。
山形亭跡
山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。
「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。
兜稲荷神社跡
日本橋兜町の第一銀行内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。
茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられていたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。
茶席待合跡
茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。
無心庵跡
茶室「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。
邀月台(ようげきだい)
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。
飛鳥山は近いので、また再訪します。
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