1945年8月14日、約150機のB29による大阪空襲にて、国鉄京橋駅では甚大な被害が発生した。
そのため「京橋空襲」とも呼称されている。
往時の犠牲者の慰霊碑がJR京橋駅南口に建立されているので、参拝を。
合掌
目次
大阪大空襲
大阪市では昭和20年(1945)3月から8月にかけて、8回もの大規模な空襲があり、1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。
昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)
京橋空襲(京橋駅空襲)
これまで7回の空襲を大阪に対して行っていた米軍ではあったが、大阪最大の軍需工場であった大阪陸軍造兵廠への爆撃は失敗に終わっていた。
昭和20年8月14日、米軍は約150機のB29でもって「大阪陸軍造兵廠」を狙い、約700個に及ぶ1トン爆弾を集中投下。大阪陸軍造兵廠は壊滅した。
この爆撃によって、大阪陸軍造兵廠(大阪城)の北東に位置する国鉄京橋駅周辺にも1トン爆弾が4発落下し、駅にいた乗客などに直撃し身元判明車210名以上、身元不明者600名以上の犠牲者を出した。
大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑
大阪大空襲
京橋駅爆撃被災者慰霊碑
太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。
当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された慰霊碑である。
納経塔
戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年8月慰霊碑の前で鴫野・妙見閣寺によって行われているが、37回忌を機に写経による供養をと、遺族及び当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他多数の市民からの基金、協力を得て建立した納経塔である。
釈迦牟尼仏尊像と平和祈念像
この惨事を後世に伝えるため、昭和59年に釈迦牟尼仏尊像が建立された。これは大阪城東ライオンズクラブが結成20周年事業として寄贈したものである。
空襲被災者慰霊祭世話人会
大阪市城東区役所
JR西日本京橋駅
(正面) 南無阿彌陀佛
(側面) 昭和20年8月14日受難者供養之為
(背面) 昭和22年8月14日 森本栄一郎建之
釈迦牟尼仏尊像
納経塔
JR京橋駅前の平和祈念像
平和よ永遠なれ