日本橋
国指定重要文化財。明治44年(1911)に石造2連アーチ橋として架設。
全長は49メートル、幅は27.3メートル。
現在の日本橋は、20代目。19代目までは木橋であったが、明治44年(1911年)に改築された際に、石橋(コンクリート&煉瓦)へと変更された。
そして、明治以来の姿を残す「日本橋」は、戦争の爪痕も色濃く残す。
よく見ると、歩道には凹みが有り、そして至るところに焦げ跡が残っている。これは昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲での焼夷弾によるもの。空襲の跡。
平成22年(2010年)には、日本橋は大規模な補修工事と洗浄が行われたが、戦争の傷跡は、歴史の生き証人として、そのまま残されたという。
欄干も焼けたような黒ずんだ焦げ跡を残している。
よくみれば、所々が黒ずんでいる。
ちなみに、首都高速にかかげられた「日本橋」の筆跡は、徳川慶喜のものになる。
日本橋の中央には、「日本国道路元標」(佐藤栄作の筆)が埋め込まれている。これは昭和47年(1972)の改修によるもの。道路の中央部のために、近くで見物することは危険を伴う。
歩道をよく見れば、凹みが多いこともわかる。
これも戦争の爪痕。東京大空襲の痕跡。
重要文化財
日本橋 附東京市道路元標(二基)
所在地 中央区日本橋室町一丁目~日本橋一丁目(日本橋川)
日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気のある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。
現在の日本橋は、明治四十四年(一九一一)ごに架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長四九・五メートル、幅員二七・五メートルの橋には、照明灯のある跨銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています.中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子ブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。
また、附指定を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。
平成三十一年三月
中央区教育委員会
日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
昭和十一年四月
日本橋區
日本国重要文化財
日本橋
構造 形式
石造二連アーチ橋 高欄付(青銅製照明灯を含む)
附 東京市 道路元標 一基
所有者
国 (建設省)
指定年月日
平成十一年五月十三日
指定の意義
明治期を代表する石造アーチ道路橋であり 石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である
また 土木家 建築家 彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり ルネサンス式による橋梁本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており 意匠的完成度も高い
建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定
「日本橋」親柱の橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆 。
東京市道路元票
日本国 道路元票複製
「東京市道路元標」は、昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていた。
昭和47年(1972)の改修によ って日本橋北西の橋詰広場に移設。
かわりに日本橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれた。
※撮影は2021年11月及び3月