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渋沢栄一像と深谷駅【渋沢栄一5】

渋沢栄一の出身地「深谷市」。
その深谷駅前に渋沢栄一像がある。

渋沢栄一像

青淵澁澤榮一像

青淵広場

碑文
正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。
幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。
明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。
一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。
先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。
先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。
  建立 昭和63年3月吉日   青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会

建立 1996年7月  澁澤栄一座像  田中 昭 作


深谷駅

関東の駅百選。
平成8年(1996)7月10日改築。
東京駅が深谷産の煉瓦を使用していることから東京駅を模して「ミニ東京駅」として改築された。
これは、東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷に所在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された煉瓦が使用されたことにちなむ。

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一による設立。深谷駅から日本煉瓦製造工場まで、専用線が敷設されていた。

ようこそ!渋沢栄一のふるさと深谷市へ!

祝 渋沢栄一 一万円札に

ようこそ 青天のまち 深谷へ

コミュニティバスにも渋沢栄一が描かれていた。

ようこそ 大河ドラマ「青天を衝け」の舞台へ
渋沢栄一の生誕地 埼玉県深谷市

深谷市のマンホール、深谷市のキャラクターふっかちゃん


渋沢栄一からくり時計

深谷駅気前に設置されたからくり時計。
第一国立銀行をイメージした時計台。
7時~23時の定時になると、ふっかちゃんの下から、渋沢栄一翁が現れる。

日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化した1927年(昭和2年)に、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士が「万国児童親交会委員(世界児童親善会)」を設立し、アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた。そして、ギューリック博士と親交のあった渋沢栄一が中心となって「日本国際児童親善会」が呼びかけを行い、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された「市松人形」(答礼人形)がアメリカに送られた。

渋沢栄一からくり時計
 渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。
 日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。
 論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。
 日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに贈ったのが「市松人形」である。
 このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。また、時計はソーラーエネルギーを使っている。
平成24年2月
 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 
 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)

ふだんは、ふっかちゃんが回っている。

定刻になると、下から渋沢栄一翁が登場。ふっかちゃんは上に押し出される。
童謡「青い眼の人形」が流れる。

青い目の人形と市松人形を手にした渋沢栄一翁。

https://www.shibusawa.or.jp/museum/newsletter/302.html


あかね通りにかかる歩道橋。
あかね通りは、日本煉瓦製造専用鉄道線跡の遊歩道。
日本煉瓦製造に関しては別記事にて。。。


渋沢栄一関連

「日本最初の銀行」渋沢栄一と兜町【渋沢栄一4】

兜町には、渋沢栄一が設立した「日本最初の銀行」、そして渋沢栄一が発起人を努めた「日本最初の証券」、そして隣の茅場町には同じく渋沢栄一が関係した「日本最初の電力発電」があった。


銀行としては四代目の建物。

銀行発祥の地

銀行発祥の地
この地は明治6年6月11日(1873年)わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります
 昭和38年6月建立

第一国立銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治6年(1873)に渋沢栄一によって創設された日本最初の銀行。民間資本民間経営の銀行であったが、国立銀行条例により発券機能等を有していた。
明治15年(1882)、日本銀行条例により国立の日本銀行が設立。国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、明治29年(1896)に一般銀行に改組し「第一銀行」となる。
昭和18年(1943)、太平洋戦争戦時下の国策により三井銀行と合併し「帝国銀行」となるが、戦後の昭和23年(1948)には再度分割し「第一銀行」として再建。
昭和46年(1971)に日本勧業銀行と合併し「第一勧業銀行」。そして第一勧業銀行は、現在の「みずほ銀行」の流れにつながる。

第一国立銀行(第一銀行)」は、日本最初の銀行として、統一金融機関コード「0001」を保有。この0001も「みずほ銀行」が継承をしている。

また、「第一国立銀行」は日本最初の株式会社でもあり、東京株式取引所創設時より上場している。

第一国立銀行が創業した地には、「みずほ銀行兜町支店」がある。

「みずほ銀行兜町支店」の壁面には、「兜町歴史地図」と「渋沢栄一と建物の歴史」が掲載されていた。
(以下、クリックで拡大可)

銀行発祥の地
渋沢栄一翁
渋沢栄一翁は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の経済制度や科学技術を学びました。帰国後はその知識を活かし、明治政府において新生日本の基盤となる制度作りに力を発揮しました。その後実業界に転じ、生涯を通じて約500にものぼる株式会社の設立・育成を行うとともに、学校や病院など約600の社会・公共事業の育成・推進にも力を注ぎ、近代日本社会・経済の基礎作りに大きな貢献をしました。
中でも、渋沢翁が中心となって明治6(1873)年にこの場所に開業した「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名です。この地周辺にはその後日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や数多くの会社が次々と設立され、兜町は日本経済の中心地として発展していきました。

初代建物(第一国立銀行)
日本最初の近代的な銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、明治6(1873)年にこの場所で誕生しましたが、その本店として使用されたのが明治5(1872)年に竣工した写真の建物です。
日本初となる銀行建築を請け負った清水組(現清水建設)二代清水喜助は、外国人の手を借りず、設計施工すべてを自分達で手掛けました。木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷の建物は、擬洋風建築の最高峰といわれ錦絵にも度々描かれた東京の名所でした。

設計者 二代目清水喜助(1815-1881)
文化12(1815)年富山生まれ。
生地井波は宮大工輩出の地として知られ、幼少期から社寺建築に親しむ環境の中で育ち、大工となりました。近郷出身の清水組創始者初代清水喜助を頼り江戸に出て、幕末には横浜開港に伴う幕府御用の工事を手がけて事業を大きく発展させ、近代建設業の基礎を整えました。
本建物の他、我が国初の大規模和洋折衷建築と言われる築地の外国人旅館(通称築地ホテル)など彼の作った建物は、明治初期に全国各地に建設された擬洋風建築に大きな影響を与えました。

二代目建物
国立銀行制度の終了に伴い、明治29(1896)年第一国立銀行は株式会社第一銀行となりましたが、その本店の二代目建物として明治35(1902)年に竣工したのが写真の建物です。
後に東京駅舎で有名となる辰野金吾の設計によるもので、外壁は石造ですが鉄棒で補強し、床は耐火構造、シャッター、消火栓等、当時としては最新の防災設備を備えていました。
大正12(1923)年の関東大震災では、地域全体に広がった火災により大きな被害を受けましたが、建物自体は堅牢な作りで崩壊を免れ、その後も使われ続けました。

設計者 辰野金吾(1854-1919)
嘉永7(1854)年佐賀生まれ。
明治6(1873)年工学部工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に第一回生として入学。同校造家学科を首席で卒業後、官費留学生として英国に留学しました。帰国後は工部大学校の教授に就任し、後には帝国大学工科大学学長や建築学会会長などの要職に就きました。
建物の重圧で堅牢なイメージから「辰野堅固」とも言われたという彼の作品には、日本銀行本店や東京駅駅舎など、現在でも重要文化財などに指定されて残っているものが多数あります。

三代目建物
二代目建物は、昭和5(1930)年に第一銀行本店が当地から丸の内に移転した後も、同行の兜町支店として使われていましたが、その役割は昭和11(1936)年に三代目となる写真の建物に引継がれました。鉄骨鉄筋コンクリート造の建物は、銀行・証券会社の立ち並ぶ兜町の中でもひと際目立つ堂々とした風格を備えていました。 その後昭和51(1976)年に、第一国立銀行以来四代目となる現在の建物が建てられ、現在もみずほ銀行の兜町支店として百数十年に亘る歴史を繋いでいます。

設計者 西村好時(1886-1961)
明治19(1886)年横浜生まれ。
明治45(1912)年東京帝国大学建築学科を卒業後、曽根・中条事務所を経て清水組に入社。後に第一銀行に転出し、同行の丸の内本店をはじめ数多くの銀行建物にその設計・実務手腕をふるいました。
意匠のみならず最新設備にも精通した「銀行建築のエキスパート」として知られ、後の施設計画学にも大きな足跡を残しています。

兜町ビルの歴史
-銀行発祥の地-
https://www.seiwa-building.co.jp/bank-birthplace/building.html

清和綜合建物

https://goo.gl/maps/xXYbW6yqnTCprPnf8

「銀行発祥の地」の突き当りに「日証館」がある。
当時、渋沢栄一邸は、日証館の地にあった。

証券会社のビルが林立する。

フィリップ証券の建物は昭和10年。

山二証券のビルは昭和11年という。


兜神社

明治11年(1878)、渋沢栄一らが発起人となり、東京株式取引所(現・東京証券取引所)が設立。東京株式取引所設立とともに関係者によって創建された。

御祭神:倉稲魂命
明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり、同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。
御社殿に奉安してある「倉稲魂命」の御神号は時の太政大臣三條實美公の揮毫になるものである。
当社は御鎮座後一度換地が行われたが、昭和二年(1927年)再度換地を行ない、兜橋々畔の現在地約六十二坪(役205平方米)を卜して同年六月御遷座を行ない、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
昭和四十四年(1969年)五月高速道路の建設に伴い御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(1971年)三月現在の鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。
屋根は銅板葺とし玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。

兜神社の由来となった兜岩。
鎧岩は、前九年の役(1051~1062)のころ、源義家が東征の際に、この岩に兜を掛けて戦勝祈願したことに由来という。
「兜町」の町名由来でもある。

https://goo.gl/maps/LHcqmpgpSyarKKxQA

兜神社の隣は、日証館

日証館

明治21年(1888)に、辰野金吾が設計した渋沢栄一邸がこの地に完成。明治34年(1901)に渋沢栄一は飛鳥山に移り住んだ後は、渋沢事務所としても使用。
大正12年(1923)に渋沢事務所は関東大震災で全焼。
渋沢事務所・渋沢邸跡地に昭和3年(1928)に、「日証館」が建設された。当時の姿を活かしながらリノベーションされ現在も多くの証券会社が入居するビルとして活用されている。

https://goo.gl/maps/XvkmKS2TUEGkEfur5

左手には、東京証券取引所。右手には日証館

東京証券取引所(証券取引発祥の地)

明治11年(1878)6月1日。
東京株式取引所が創立し兜町にあった第一国立銀行の所有を購入して営業開始。渋沢栄一も東京株式取引所発起人に名前を連ねていた。
7月15日、日本初の上場株式として東京株式取引所の売買が開始。
9月、渋沢栄一の第一国立銀行(現みずほ銀行・旧第一勧業銀行)株式が上場。第一国立銀行は日本最初の株式会社であった。

昭和18年(1943)6月、戦時統制機関改編。日本証券取引所に統合。
日本証券取引所は、戦後にGHQにより活動禁止となり昭和22年に解散。
昭和24年(1949)、東京証券取引所設立。

日本橋兜町の歴史・史跡

https://www.heiwa-net.co.jp/urban_development/history.html

平和不動産株式会社

https://goo.gl/maps/kE62zxJp7cReEA5C8


以下は、渋沢栄一とは、あまり関係ない史跡。
発祥の地でしたので、興味深く。

郵便発祥の地

日本橋郵便局が、日本の郵便発祥の地、であったという。
この界隈は、銀行と証券と郵便が始まったエリアでもあったのだ。

郵便発祥の地
ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)
わが国に新式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです。

前島密先生
郵便発祥の地

前島密の胸像は昭和12年、会田富康の作。

前島男爵ノ命ニ依リ密翁之像ヲ補綴改鋳ス
昭和十二年三月 會田富康

多羅葉(たらよう)
はがきの木


「葉書」の由来は、この木から・・・
 肉厚の葉の裏側をとがったもので書きつけると、茶色に変色してくっきり文字が浮あがります。
 古代インドで手紙や文章を書くのに用いた多羅葉の葉になぞらえてその名がつけられました。
 この木は、郵便局のシンボルツリーとして植えられています。

https://goo.gl/maps/etp4NX6xUnBoD9686


電燈供給発祥の地

茅場町のビジネスホテルの手前に、記念碑があった。
この地から、日本で最初の電力送電が行われたのだ。

東京電燈株式会社設立を出願した渋沢栄一・大倉喜八郎らの手によって、明治16年に設立。
明治20年(1887)に日本橋茅場町から第二電燈局が小規模火力発電で電気の送電(架空配電による最初の電燈供給)を開始。

電燈供給発祥の地
 明治20年(西暦1887年) 11月21日東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、 同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。
 これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30 馬力の横置汽機を据付け、20キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧 210ボルト直流三線式でありました。

電気ゆかりの地を訪ねて
日本初の配電線による電灯供給
第2電燈局

http://kandenkyo.jp/pdf/yukari%20vol6.pdf

日本電気協会 関東電気協会

https://goo.gl/maps/9MHb5c8PB2TkCy9V8


海運橋親柱

第一国立銀行の脇には楓川という川が流れており、海運橋が掛けられていたが、現在は埋め立てられている。当時の名残の親橋が近くに残されている。

海運橋親柱
所在地 中央区日本橋一ー二十先
 日本橋兜町三先
 海運橋は、楓川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
 平成六年三月
  中央区教育委員会

海運橋
紀元2535年=明治8年=1875年

楓川は埋め立てられ、その楓川の上を首都高速が走っている。
海運橋は、この方向に首都高の下に架かっていた。

https://goo.gl/maps/QpgZigvtBggSUSV7A


渋沢栄一関連

渋沢栄一像と日本銀行【渋沢栄一3】

日本橋界隈の渋沢栄一関連を散策してみる。

常盤橋公園(常磐橋)

常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところ。

昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われた公園。令和3年現在、工事のため閉鎖中。2021年度中に一部を暫定開放予定。

明治10年(1877年)に再建された2連アーチ石橋が残る。経年劣化と東日本大震災による被害のために全面的な修復工事が行われている。

公園の名前は、「常盤橋公園」
石橋は「常磐橋」
下流には「常盤橋」
上流には「新常盤橋」
磐と盤がややこしい。


渋沢栄一像(常盤橋公園)

工事中の常盤橋公園のなかで、渋沢栄一像の一角のみ開放されている。

渋沢栄一像は、日本で初めて設立された銀行「第一国立銀行」(日本銀行ではなく)の方向を向いているという。

青淵澁澤榮一

 青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。
 歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。
 また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。
 然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

昭和8年11月11日
財團法人澁澤青淵翁記念會建之

場所

https://goo.gl/maps/2SjJoNKm8PrTUNbX6


常盤橋

日本場川に架かる橋。上流は石橋の常磐橋。左手には渋沢栄一像、右手には日本銀行本館。

常盤橋
昭和元年11月完成

渋沢栄一像

日本銀行本館

日本橋川の上流には石橋二連の「常磐橋」

渋沢栄一・渋沢敬三と日本銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治9年(1876)、国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレが進行する。
明治14年(1881)、大蔵卿松方正義は不換紙幣の整理と中央銀行の創立をめざす建議を三条太政大臣宛に提出。大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
明治15年(1882)、日本銀行条例により日本銀行が設立。第一国立銀行頭取であった渋沢栄一は割引手形審査のための日本銀行割引委員に就任。

渋沢栄一は、明治6年(1873)に日本最初の銀行「第一国立銀行」を創設。民間資本の民間経営の株式会社であったが、国立銀行条例による発券機能等を有していた。

渋沢栄一の孫である渋沢敬三は、昭和17年(1942)に日本銀行副総裁、そして昭和19年(1944)には第16代日本銀行総裁に就任している。就任は昭和19年3月18日であり、戦前最後の日本銀行総裁であった。幣原喜重郎内閣の大蔵大臣就任のために、昭和20年10月9日に日本銀行総裁を辞任している。

日本銀行本店本館

ベルギー国立銀行を参考に明治29年(1896)2月竣工。設計は辰野金吾。
明治24年(1891)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化し耐震性を高めており、2階3階は煉瓦造石貼り建築。
1974年2月5日に国の重要文化財に指定。

日本銀行本店別館

辰野金吾の弟子・長野宇平治の設計。昭和13年(1938)竣工。なお、長野宇平治は日本銀行本店別館の完成前の昭和12年に死去している。

本館の隣に別館が増築されている。

場所

https://goo.gl/maps/e93utY2d91aThXtw5


日本銀行創業の地

ちなみに、「日本銀行創業の地」は中央区日本橋箱崎にある。隅田川と日本橋川が合流する箱崎の地で創業し14年後に現在地に移転した、とのことで。
現在の日本IBM本社近く。

日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

場所

https://goo.gl/maps/ncwXnUADuhVYrJy6A


渋沢栄一関連記事

「日本の福祉・医療の原点」養育院と渋沢栄一【渋沢栄一2】


渋沢栄一銅像

板橋区登録有形文化財
渋沢栄一銅像

初代養育院院長として渋沢栄一は50年以上養育院に関与し、他の職を辞することはあっても、養育院の運営には最後まで関与し続けた。

明治5年(1872)に、本郷の旧加賀藩邸の長屋を利用して養育院の仮施設が造られ、翌明治6年に上野に養育院本院を設置。維新後に急増した窮民収容保護のため、東京府知事大久保一翁(大久保忠寛)の「救貧三策」の一策であった。
養育院本院は、上野、神田、本所、大塚などを転々とし、関東大震災後に板橋に移転。
渋沢栄一は、大久保一翁東京府知事より、共有金の取り締まりを依頼され、養育院に関与。財政基盤が定まらない中で、渋沢栄一は初代・養育院院長として必死に寄金を集め、養育院の維持に努力。
関東大震災後に養育院本院が板橋に引っ越しし一段落した大正14年に、養育院常設委員会(委員長は東京市長)は市民の寄付金による渋沢栄一養育院院長の銅像建設を計画。
「養育院の構内に、百年の後も永久にこれを守護せんとする渋沢栄一子爵の魂魄ための定住所」という設立理由に渋沢栄一も銅像制作を承諾。

大正14年(1925)11月15日、本院完成にあわせて建立、小倉右一郎作の渋沢栄一像は、高さ4.3メートル、方5.4メートルの花崗岩台座に、高さ3.75メートル、重量1.8トンの青銅製銅像。フロックコート姿でソファーに座っている姿となる。
銅像の完成時には、渋沢栄一本人も出席して除幕式が執り行われた。

昭和20年(1945)、戦時中の金属供出によってコンクリート像に作り変えられ、銅像本体は供出予定で地上に降ろされるも、4月の板橋空襲で養育院は9割が焼失、107名の犠牲が出る中で、渋沢栄一銅像は焼け残った。そのまま運搬手段などが無くなったために渋沢栄一銅像は供出を逃れ、戦後に修復された。

旧養育院長渋沢栄一銅像
 日本の福祉・医療の原点である「養育院」は、明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を超えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
 帝展・文展の審査員も努めた彫刻家、小倉右一郎の制作で、高さ16尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で造られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
 また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないままに昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
 昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至ってます。
 大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。平成26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
 平成26年12月 板橋区教育委員会

子爵渋沢栄一像

大正14年11月
小倉右一郎

大正14年11月建設寄附
澁澤養育院長銅像建設會
理事
會長 中村是公 
(以下略)

中村是公は関東大震災後の復興に取り組んだ第9代東京市長。
渋谷区広尾3丁目の旧中村是公邸(旧羽澤ガーデン)は有名であった。2011年に再開発で消失。


養育院本院

養育院本院の跡。
「養育院本院」の字は渋沢栄一の墨蹟

養育院本院の碑
 養育院は、昭和5(1871)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諸問に対し経営会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京芸大)、神田、本所大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信によって創設された七分積金が明治維新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次世界大戦後は、自動の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
 平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の膜を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
 養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のいない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。
 なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。
  平成25(2013)年3月 養育院を語り継ぐ会

この碑は元養育院職員当の篤志によって建てられました。
 地王独立行政法人 東京都健康長寿医療センター

養育院に関しては、以下に詳しい。

地方独立行政法人 
東京都健康長寿医療センター

養育院は、現在「東京都健康長寿医療センター」となっている。

https://www.tmghig.jp/hospital/about/history/

ようこそ 養育院・渋沢記念コーナーへ

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/guide.pdf

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/shibusawacorner2014.pdf

櫻園通信平成25年度発行

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/ouen_1-9.pdf


東京都健康長寿医療センター、かつての養育院を見つめる渋沢栄一像


谷中に養育院関連の慰霊碑が2つある。

養育院者故者の墓
義葬之冡(大雄寺)

台東区谷中の大雄寺では、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向を行っていた。
明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に「義葬之冡」がある。この「義葬之冡」は養育院創立当時の唯一の遺構という。

養育院義葬の冡
 養育院は、明治5年(1872)10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原始資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治7年(1874)から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年(1879)には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成11年(1999)12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に義葬之冡がある。この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。
 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
  平成22年(2010)4月 
   養育院を語り継ぐ会

義葬之冡  明治6年癸酉

幕末三舟の一人、高橋泥舟墓の墓も大雄寺にある。


養育院者故者の墓
東京都養育院慰霊碑・了俒寺

谷中霊園の隣、了俒寺(りょうごんじ)の飛地にあたる了俒寺墓地に「東京都養育院慰霊碑」がある。了俒寺の境内ではなく、谷中霊園側となるので要注意。私は場所がわからなかったので、了俒寺の御人に案内していただきました。

東京都養育院慰霊碑
 養育院は、明治五年(1872)十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関るようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史に幕を閉じた。
 ここ了俒寺の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向を御願いしたものであり、明治六年末から大正二年に至る埋葬者は三千七百六十二名である。
 なお、養育院物故者の墓は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。

 平成二十二年(2010)四月
             養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                          了俒寺

慰霊碑
明治6年末から
大正2年12月まで
3762名
 合葬
東京都養育院

養育院義葬之墓
明治12年3月建之

東京市養育院義葬

明治から大正にかけての合葬墓、義葬墓が5つ並んでいる。

場所は、谷中霊園の甲3号5側の隣。

谷中霊園には渋沢栄一墓もあるがそれは別記事にて。

谷中霊園の一角に、了俒寺墓地の隣に養育院慰霊碑の敷地がある。

谷中7丁目に、了俒寺がある。

突き当りの白い壁が了俒寺。左手に谷中霊園側の了俒寺墓地がある。


養育院合葬冢・多磨霊園

多磨霊園にて拝してきました。(※2021年9月)
場所は、5区の無縁墓地エリア。

東京市養育院合葬冢

歸入無為楽

昭和五年三月 成

養育院合葬冢
 養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ多磨霊園には、昭和八年以降、養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬し、現在も供養をしている。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺及び栃木県那須塩原市の妙雲寺がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
   平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会

 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   東京都福祉保健局

 ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。

裏には、墓標が5つ、並んでおりました。
明治・大正・昭和にかけて合葬されてきた証。

場所

https://goo.gl/maps/ykwnFSMRFTJh2xre7


大久保一翁墓

多磨霊園には、養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)もあるので拝してきた。

大久保忠寛
幕臣、のちに東京府第五代知事を務める。養育院創立時の東京府知事。養育院の設立を行い、運営を渋沢栄一に委任した。

大久保氏墓
一翁忠寛之墓

勝海舟の書、という。


栃木県那須塩原市の妙雲寺にあるという養育院者故者の墓は、訪れる機会があれば、アップデートします。


渋沢栄一関連

晩香廬と青淵文庫(渋沢栄一旧邸・曖依村荘跡)【渋沢栄一1】

2024年度発行予定の1万円新紙幣の顔、そして2021年の大河ドラマの主人公でもある渋沢栄一の邸宅は飛鳥山にあった。


渋沢栄一

日本近代経済の父、日本資本主義の父、と称される。
1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)
旧幕臣、官僚、実業家。正二位勲一等子爵。雅号は青淵。

第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所、東京株式取引所を初めとし、500を超える企業や経済団体の設立・経営に関わる。
社会福祉事業、病院医療、実業教育、女子教育、私立学校等の設立、運営、支援等、700を超える社会事業にも尽力。

実業家としては、みずほ銀行・りそな銀行・埼玉りそな銀行・王子ホールディングス・東京ガス・IHI・いすゞ自動車・立飛ホールディングス・大日本印刷・日本経済新聞・東京海上日動火災保険・東日本旅客鉄道・日本郵船・東京電力ホールディングス・東洋紡・太平洋セメント・キリンホールディングス・清水建設・日産化学・東京製綱・帝国ホテル・サッポロホールディングス・アサヒグループホールディングス・大成建設・古河グループ(古河機械金属・古河電気工業・富士通・富士電機・横浜ゴム)・オーベクス・大日本明治製糖・川崎重工業・住友重機械工業・東京建物・京阪ホールディングス・東宝・東京会館・ニッピなど、500以上に及ぶ企業の設立や運営に関わる。

教育面では、一橋大学・東京経済大学・東京女学館・日本女子大学・同志社・早稲田大学・高千穂大学・二松学舎・国士館大などに関与。

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。


渋沢史料館

「飛鳥山3つの博物館」のひとつに、「渋沢史料館」がある。史料館本館とは別に、渋沢栄一の旧邸として大正期に建立され国指定重要文化財に登録されている建物が2棟ある。

  • 1878年(明治11年)
     渋沢栄一が飛鳥山に別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」を設ける。
  • 1901年(明治34年)
     本邸を飛鳥山に移す
  • 1917年(大正6年)
     晩香廬竣工
  • 1925年(大正14年)
     青淵文庫竣工
  • 1931年(昭和6年)
     11月11日 渋沢栄一死去。
     旧渋沢邸は栄一門下生が結成した竜門社に遺贈される
  • 1945年(昭和20年)
     4月13日 太平洋戦争時の空襲により建物の大部分を焼失
  • 1946年(昭和21年)
     財団名を渋沢青淵記念財団竜門社に改称
  • 1982年(昭和57年)
     渋沢史料館開館
  • 1998年(平成10年)
     3月 本館新築開館
  • 2003年(平成15年)
     11月 財団名を渋沢栄一記念財団に改称
  • 2019年(令和元年)
     9月1日 渋沢史料館休館
  • 2020年(令和2年)
     11月19日 渋沢史料館リニューアルオープン

青淵文庫

大正14年(1925)竣工。重要文化財(旧渋沢家飛鳥山邸)

後日、撮影をやり直しました。。。季節が変わると見え方も変わりますね。

旧渋沢庭園
開演時間のお知らせ
開演時間 3月1日~11月30日 9:00から16:30まで
     12月1日~2月末日 9:00から16:00まで
(以下略)

ようこそ旧渋沢庭園へ
曖依村荘跡
 飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘(あいいそんそう)」跡です。約28,000㎡の敷地に、日本館と西洋館をつないだ主屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部ともに、よく保存されています。

渋沢史料館
 渋沢栄一の1840(天保11)年から1931年(昭和6)年の91年におよぶ生涯と、携わったさまざまな事業、多くの人々との交流等を示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。

国指定重要文化財
晩香廬
青淵文庫

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
青淵文庫
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    中村田辺建築事務所・田辺淳吉
 建築年    1925(大正14)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日

 渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれている。

「寿」の字。

露台下より出土した「まぐさ」
露台基礎

晩香廬(ばんこうろ)

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
晩香盧
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    田辺淳吉(清水組技師長)
 建築年    1917(大正6)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日
 
 近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

渋沢栄一像

この像は、兜町の第一銀行本店中庭にあった。

後日、撮影をやり直しました。
足場もいつの間にかしっかりと。

山形亭跡

山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。
「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。

兜稲荷神社跡
 日本橋兜町の第一銀行内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。

茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられていたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。

茶席待合跡
 茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

無心庵跡
茶室「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台(ようげきだい)
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。

飛鳥山は近いので、また再訪します。


渋沢栄一関連


関連

順次追加。。。

荒川遊園煉瓦塀(荒川区)

都内唯一の区営遊園地「あらかわ遊園」。
「あらかわ遊園」のあった地は、明治から大正にかけて「煉瓦工場」があった場所でもあり。煉瓦工場から遊園地へと姿を変えた界隈を散策してみました。


荒川遊園煉瓦塀

明治期の隅田川河畔の、このエリアには煉瓦に適した土が採れたということと、船便・交通の便が良かったということから4つの煉瓦工場が立ち並んでいたという。
明治5年(1872)に、石神仲衛門によって、現在のあらかわ遊園のある場所に煉瓦工場が造営。
明治28年(1895)に、広岡勘兵衛(広岡幾次郎)に経営が譲渡され、広岡煉瓦工場となる。煉瓦塀が残っている場所は、広岡煉瓦工場で造られた煉瓦を干す場所だったという。
大正11年(1922)に、広岡勘兵衛は失火により操業を停止した煉瓦工場を閉鎖。荒川遊園を開園。その時に、工場にあった煉瓦で荒川遊園を囲う塀を造営したのが、今も残る煉瓦塀である。
大正12年の関東大震災での被害は少なく逐次拡充していくも、広岡勘兵衛没後の昭和初期の不景気により経営悪化。
昭和7年に遊園地の経営は王子電気軌道の手に委ねられるも、第二次世界大戦により休園。昭和16年には園内には高射砲陣地が置かれた。
昭和18年には王子電気軌道は戦時下の企業整備により東京市に事業譲渡。王子電気軌道株式会社は清算。軌道事業は東京市電となる。(現在の都電荒川線)
戦後、荒廃していた遊園地を荒川区が再整備し、昭和25年に荒川区立遊園地として開業させ、現在の「あらかわ遊園」となる。

荒川区登録有形文化財(建造物)
荒川遊園煉瓦塀
 この煉瓦塀は、荒川遊園を取り囲んでいた塀の一部です。南端には一対あった門柱の片方が残っています。煉瓦の積み方は、煉瓦の小口を見せる小口積みと、長手を見せる長手積みとを一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」です。古老の手記によると、大正11年(1922)、荒川遊園が開園した時に木の塀から煉瓦塀に改修されたといいます。
 かつて尾久地区の隅田川沿いには、材料の土が入手し易く、船運の便が良かったため、いくつもの煉瓦工場が設けられました。その一つ、広岡(後、王子に改名)煉瓦工場の跡地に、大正11年、荒川遊園が開園しました。広岡幾次郎をはじめとする地元有志により、市民の精神の慰安と身体の健康増進のために設置された嶺井遊園地です。
 その後、王子電車への乗客誘致を目的として、王子電気軌道株式会社が荒川遊園の経営に参入しました。戦時中は、閉園を余儀なくされましたが、昭和24年(1949)、荒川区立の遊園地として再スタートしました。
 敷地の一部は戦後間もなく宅地化され、以来、煉瓦塀は宅地の境界や盛土のための土留めとして利用され今日に至ります。
 荒川遊園煉瓦塀は、近代的な景観をとどめる遺構として歴史的価値が高い貴重な文化財です。また、連続する煉瓦塀が作りだす景観はこの地域独自の風景として長年親しまれており、貴重な風景遺産でもあります。
 令和2年(2020)3月
  荒川区教育委員会


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B29-C2-46
1936年06月11日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

王子電気軌道が経営をしていた昭和11年のころ。

ファイル:USA-M379-No2-27
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和22年。周辺住宅地が爆撃により焦土となっていることもわかる。
荒川遊園の中に置かれた高射砲陣地の跡もわかる。

ファイル:USA-R3163-49
1949年09月07日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和24年、荒川区立の遊園地として再スタート。
かつての敷地の一部に、整然と整えられた建物が建っている。ここのエリアは、煉瓦壁をそのまま活用して住宅地となっている。

Google航空写真
現在の様子。南東部の「かつての荒川遊園の敷地部分」=「煉瓦塀の内部」が住宅地となっている。


荒川遊園煉瓦塀の散策

都電荒川線、最近は「東京さくらトラム」という愛称でも親しまれている。
「荒川遊園地前駅」で下車をして、あらかわ遊園に向かう。

工事中の入口の右手=東側より、住宅地の中を煉瓦塀が伸びている。

玄関先を、レンガ風装飾で景観を合わせている住宅もあった。

入口?にしては小さい。

日向ぼっこ中のお猫様

排水口のような孔

上部は、長手積み。
中間部は、イギリス積みをモルタルで保護。
下部は、イギリス積み。

ちょっと割れ目が。。。

上部がコンクリートと鉄網で改められいる空間。下部はそのまま有効活用。

この場所が南東部分の先端角。

ここnここには煉瓦造の小屋があったという。小屋の壁面部分が残っている。

通用口?コンクリで塞がれていた。

煉瓦壁。
積み方がよく分かる。
上部:長手積み
下部:長手積みと小口積みの繰り返し=イギリス積み

内側から。
長手積みの上部もところどころ、柱が組まれて強度が確保されている。中部帯から下部はイギリス積み。厚さがある。

中部帯と下部は、かなりの厚さが確保されている。
関東大震災を耐えた煉瓦壁。

中部帯から屋根へと積み方が変わる部分。

積み方が変わった。

切断部。イギリス積み。

積み方が変わった箇所の内側。

門柱。

門柱の一対が残る。左側は道路拡張で消滅か。
電信柱の位置をどうにかすれば、多少の移築で残せたような気もするが。どのみちこの幅では、車は通れない。。。

煉瓦塀の外側敷地は小台橋保育園。旧小台橋小学校。

隅田川川から。

住宅地に残る煉瓦塀。
住む人々にはとっては多少の不自由があるかもしれないが、100年近くここに有り続けた煉瓦塀は、関東大震災・東京大空襲・高度経済成長をくぐり抜けて、残存した歴史遺産。これからも大事に伝承してほしい空間。


あらかわ遊園

2018年12月よりリニューアル回収工事により長期休園中。再開は2022年春頃を予定、とのこと。


荒川区関連

元加賀公園と川南公園(震災復興公園・江東区)

大正12年(1923)の関東大震災ののち、帝都復興院総裁となった後藤新平が中心となって、地震発生時の防火帯設置を目的とした公園の確保が重要視されることとなった。

震災復興三大公園として「隅田公園」「浜町公園」「錦糸公園」が設置。
また、昭和5年(1930)に完成した横綱町公園には震災記念堂と震災記念館が建設された。

東京市公園課長に就任した井下清は、52箇所の東京市立公園を設計。小学校を不燃化・耐震化させた鉄筋コンクリート校舎とし、小公園を併設することにより防火帯と避難設備の役割を担った。
この井下清が設計した小学校とセットとなった小公園が東京市内52箇所に設置され「震災復興52小公園」となる。

戦後の再開発で当時の「震災復興公園」は消滅や縮小などもあり、往時の姿を完全に残すものはない。そんな「震災復興公園」の中で、文京区の町公園は「震災復興公園」の姿を復元している。


元加賀公園

東京都現代美術館(MOT)と木場公園の北側に。

江東区の2つの公園に、開園当初の面影を見ることが出来る。
江東区立元加賀小学校の隣。小学校と小公園。

江東区立 元加賀公園

開園 昭和二年八月三十一日

昭和2年(1927年)開園。

昭和2年開園当時からの壁泉付露床が公園内に残っている。

後方。

水道管はむき出し。


川南公園(せんなん公園)

江東区立川南公園。川南小学校の隣。
川南公園は、関東大震災後に作られた震災復興計画公園のひとつで、昭和6年(1931)に開園。

昭和6年(1931)開園当時からのすべり台が残る。貴重な当時の遺産であるとともに、今も現役の遊具として90年に渡り子どもたちに親しまれている。

2つのレリーフが側面にある。

非常に良き状態で残されている。

紀元二千六百年式典の式殿「光華殿」

東京都小金井市。都立小金井公園内。
江戸東京たてもの園ビジターセンター。
この建物は、国家的な祝事で使用された建物「光華殿」であった。


紀元二千六百年記念式典

昭和15年(1940)に神武天皇即位紀元2600年(皇紀2600)を迎え、その記念祝典などが開催された。

昭和15年(1940)11月10日、皇居・宮城前広場(皇居外苑)において、 昭和天皇 香淳皇后臨席のもと、近衛文麿内閣主催の「紀元二千六百年記念式典」が開催。
式典のために寝殿造の会場「光華殿」が設営。

昭和16年8月(1941)、式典終了後に光華殿が小金井緑地(小金井公園)に移築。国民錬成所として使用された。
戦後に、空襲で被災した学習院中等科が教室として使用。 皇太子(当時の皇太子は 上皇陛下)の御仮遇も設けられていた。

昭和29年、小金井公園が開園。武蔵野博物館が井の頭恩賜公園から移転し、武蔵野郷土館として開園し、当建物も活用。
その後、平成5年(1993)の江戸東京たてもの園開館とともに、当建物はビジターセンターとして使用されている。


日本ニュース 第15号(1940年9月) 式殿棟上式

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300400_00000&seg_number=003

日本ニュース 第23号(1940年11月) 紀元二千六百年式典

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300408_00000&seg_number=001

紀元二千六百年式典

近衛文麿総理大臣 奏上
「臣文麿、謹みて申す。伏して惟(おもん)みるに、皇祖国を肇(はじ)め統を垂れ、皇孫をして八洲に君臨せしめ、たもうに神勅(しんちょく)をもってし、授くるに神器をもってしたもう。宝祚(ほうそ)の隆(さかえ)、天壌と窮(きわま)りなく、もって神武天皇の聖世に及ぶ。すなわち天業を恢弘(かいこう)して皇都を橿原(かしわら)に定め、宸極(しんきょく)に光登して、徳化を六合(りくごう)に敷き賜ひ。歴朝相承(う)けて、ますます天基を鞏(かた)くし、洪猷(こうゆう)を壮(さかん)にし、一系連綿、正に紀元2600年を迎ふ、国體(こくたい)の尊厳(そんごん)、万邦固(もと)より比類なし。皇謨(こうぼ)の宏遠、四海豈(あ)に匹儔(ひっちゅう)あらんや。」

日本ニュース 第23号(1940年11月)より
日本ニュース 第23号(1940年11月)より

奉祝国民歌『紀元二千六百年』

金鵄(きんし)輝く 日本の
栄(はえ)ある光 身にうけて
いまこそ祝へ この朝(あした)
紀元は二千六百年
ああ一億の 胸はなる

歓喜あふるる この土を
しつかと我等 ふみしめて
はるかに仰ぐ 大御言(おおみこと) 
紀元は二千六百年
ああ肇国(ちょうこく)の 雲青し

荒(すさ)ぶ世界に 唯一つ
ゆるがぬ御代(みよ)に 生立ちし
感謝は清き 火と燃えて
紀元は二千六百年
ああ報国の 血は勇む

潮ゆたけき 海原に
桜と富士の 影織りて
世紀の文化 また新た
紀元は二千六百年
ああ燦爛(さんらん)の この国威

正義凛(りん)たる 旗の下
明朗アジア うち建てん
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
ああ弥栄(いやさか)の 日はのぼる

ちなみに、
2040年(令和22年)が紀元2700年(皇紀2700年)。
さて、その時の日本はどうなっているのか。。。


光華殿

昭和15年竣工。
大蔵省営繕部管財局の設計、清水組の施工。
木造平屋建てで、竣工当時は杉皮葺きであった。正面に萬歳額を掲げ、三面を吹き放ちの構造。
小金井に移築後に、ガラス戸が設けられ、屋根も葺き直しされた。
近代の和風建築として貴重な建物。
現在は、江戸東京たてもの園入口(ビジターセンター)として使用されている。


皇太子殿下小金井御仮遇所跡

上皇陛下は戦時中に焼失し小金井に移転した学習院中等科にこの御仮寓所から通学なされた。

皇太子殿下小金井御仮遇所跡
 この場所の西側にあた文部省(当時)所管の建物などが宮内庁に移管され、1946年(昭和21)から3年間、学習院中等科の校舎となった。そのため、ここに東宮御仮寓所が造られ、中等科在学中だった皇太子殿下(現上皇)が住まわれた。其の建物は1949年(昭和24)12月に焼失した。

1962年(昭和37)設置


皇太子殿下御勉学の地


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-33
1947年11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

中央に移築された光華殿。北部及び北西部にはゴルフ場が広がっていた。


江戸東京たてもの園

せっかくなので、近代史目線で園内を散策してみる。

高橋是清邸

高橋是清邸宅が、移築されている。2・26事件の舞台でもあり。

午砲

 1871年(明治4)9月9日から、皇居内旧本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射された。大砲による正午の通報は、今の東京都区部の大部分で聞こえ、その音から「ドン」と呼ばれて人びとに親しまれた。江戸時代には、江戸市中に時刻を知らせるために鐘を鳴らしたが(時の鐘)。明治時代以降はこの午砲となり、正午を知らせた。1929年(昭和4)5月1日に正午の通報は午砲からサイレンにかわり、その役目を終えた。
 年代:明治時代
 旧所在地:千代田区(皇居内旧本丸跡)


皇居正門石橋飾電燈

 皇居前広場から皇居に向かって左手前に見える石橋に設置されていた飾電燈。橋の欄干両側にある男柱石に計6基設置されていたもののひとつである。
 石橋は長さ百六尺四寸(約35.3メートル)、幅四十二尺二寸(約12.8メートル)で、江戸時代に架けられた「西の丸大手橋」といわれる木橋に替わり、1887年(明治20)12月に架けられた。飾電燈は1886年(明治19)、東京電燈会社へ発注されたものであるが、完成日・設計者・鋳造場所など不明な点が多い。
 年代:明治20年代
 旧所在地:千代田区千代田

万世橋交番

 これは神田の万世橋のたもとにあった交番である。名称を須田町派出所といい、万世橋駅のそばにあった。1923年(大正12)の関東大震災により、駅とともに大きな被害を受けたが、のちに以前のとおりのデザインに修復された。
 震災以前の万世橋駅は、1911年(明治44)に設けられた甲武鉄道(現在の中央線)の起点としてたいへんににぎわっていた。しかし、万世橋駅-東京駅間の開通や、震災後の区画整理などによって利用者が急激に減り、1943(昭和18)に廃止された。万世橋交番も昭和初期にはその役目を終え、以後は主に巡査の休憩所や交通係詰所として利用された。
 建築年:明治時代末期(推定)
 旧所在地:千代田区神田須田町1丁目
 寄贈者:警視庁

子宝湯

1929年(昭和4)竣工。

村上精華堂

1928年(昭和3)竣工。

常盤台写真場

1937年(昭和12)竣工。

東京都交通局7500形電車 7514号

1962年製造の都電車両(1978年廃車)

ボンネットバス いすゞTSD43

1968年式

C57蒸気機関車
スハフ32客車

C57機関車は製造初年が昭和21年。スハフ32客車は製造年が昭和7~16年。


江戸東京たてもの園

https://www.tatemonoen.jp/

陸軍航空士官学校狭山飛行場跡(陸軍狭山飛行場跡)

埼玉県入間市。
入間市で有名なのが「狭山茶」、隣の狭山市にあるのが「入間基地」。
入間と狭山は地名が交差していてややこしい。

この地にあった飛行場は「狭山飛行場」と呼称され、入間市にあった。

狭山飛行場へのアクセス方法。
西武線入間市駅からバス。
 西側
  三井アウトレットパーク停留所
 南側
  二本木停留所
  入間市博物館ALIT停留所
 北側
  根岸停留所
 などを利用して、あとは歩く感じ。

私は入間市駅からバスに乗って北側の根岸バス停を起点に約8キロ歩いて、三井アウトレットパークバス停から入間市駅に戻るコースでの散策でした。


陸軍航空士官学校狭山飛行場

狭山飛行場は陸軍航空士官学校分教場であった。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場は、昭和8年(1933)7月に陸軍の要請により飛行場用地としての買収が始まり、昭和9年(1934)年11月には狭山陸軍飛行場、所沢にあった陸軍飛行学校の分飛行場として開設。昭和13年の陸軍航空士官学校発足とともに分教場として利用。
開場当初は120ha、終戦時には約237haもの広大な飛行場であった。狭山飛行場の面積は現在の入間市の約5.3%を占めていた。

終戦後は狭山台土地区画整理事業が行われ、農地開墾、狭山台工業団地、住宅地などが造成。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2A-97
1944年09月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大。

現在の様子。区画がしっかりわかる。

北東部分を拡大。

「飛行訓練塔?」と「エンジン試験台」の基礎が今も残っている。

これらのポイントを巡ってみる。


時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

参考までに当時の東京西部と埼玉西部の飛行場の位置関係を記載してみた。


狭山飛行場外周道路・北部

根岸バス停から歩くを開始して、茶畑を縦断。
茶畑の向こうに見える工業団地が、狭山飛行場の跡地。


狭山飛行場・飛行訓練塔基礎?

狭山飛行場北東部に残る基礎。飛行訓練塔?の基礎、とされている。

場所

https://goo.gl/maps/DtzXiYUwXTyck6cd7


狭山飛行場外周道路・西部

飛行訓練塔基礎から南下し外周道路の西端を南下していく

左が飛行場エリア。

ふりかえってみる。右が飛行場エリア。

次の目的地へ。


狭山飛行場・エンジン試験台基礎

茶畑に向こうに、コンクリートの塊がふたつ見えてくる。
これらはエンジン試験台の基礎、という。

コンクリートの塊のうち、ひとつは廃材や枯れ草に覆われておりよく見えなくなっている。

場所

https://goo.gl/maps/dBy9rSnyFrKA5FDL9


中村屋武蔵工場(中華まんミュージアム)

そのまま南下をしていくと中村屋武蔵工場が見えてくる。
かつて、航空士官学校校舎があり、格納庫などがあった場所。
戦後は、大妻女子大学狭山台キャンパスがあったが、2015年に閉校し、その跡地に中村屋武蔵工場ができた。


狭山飛行場・航空士官学校校舎跡地

学舎の跡
 この場所は、東西およそ1800メートル、南北およそ1390メートルの旧日本陸軍航空士官学校狭山飛行場跡地の西端に位置し、航空士官学校校舎がありました。
 校舎は戦後も遺され。終戦直後の混乱期には寺にあった有隣青年学校生徒の学舎となり、昭和22年4月には元狭山村・宮寺村組合立狭山中学校がここに開校し、新しい教育の場となりました。更に二本木地区の子どもたちの狭山小学校が、校舎の一角に開校しました。
 昭和42年、役目を終えた跡地には大妻女子大学狭山台校が新設され、再び学舎の歴史が積み重ねられてきました。こうして、この地は多くの人びとの懐かしい学舎の跡になったのです。
 弊社は、地域の人びとに親しまれ続けてきた学舎の跡に工場を操業できることを誇りとして、新たな歴史を刻んでまいります。
 平成30年7月
  株式会社 中村屋

場所

https://goo.gl/maps/8kGNTzovqk5zoGuKA


狭山飛行場・陸軍境界石

狭山飛行場外周道路・南部に位置する。ちょうど中村屋工場と交差する場所。電信柱と並ぶように境界石が残されている。

陸軍

狭山飛行場外周道路・南部となる。


入間市博物館「ALIT(アリット)」

狭山飛行場外周道路・南部を歩く。
飛行場の南側に入間市博物館「ALIT(アリット)」がある。常設展示コーナーなどに「狭山飛行場」に関する展示もあるので時間があれば脚を運ぶことをおすすめ。


そのまま狭山飛行場外周道路・南部を東に向けて歩く。

狭山飛行場外周道路・南東部

南東部は外周道路とともに排水溝が暗渠された状態で残っている。

場所

https://goo.gl/maps/pwAcCPHYoZMATSYT7

武蔵工業団地は、狭山飛行場の跡地に開設された工業団地。


狭山開墾記念碑

狭山開墾の碑
狭山飛行場跡地の開墾事業完成の記念碑。
昭和21年(1946)1月に鍬入れ式を行い、翌年の夏には開墾が完成。総入植者542戸のうち、新規入植は15戸で、大部分は地元に還元。

狭山開墾記念碑
碑面裏(一部抜粋)
 秩父の連峰を背景に県の南境に近く蟠る一連の台地此処狭山は古くから茶処としてその名を知られて居る其の一画、元狭山宮寺金子東金子の4箇村に跨る250町歩の地域は昭和8年飛行場の開設を見たが終戦後はこれを農耕地として開拓せらることとなった(以下略)

「昭和8年飛行場の開設」と刻まれている。

場所

https://goo.gl/maps/CCkCLJsoehMFvCUDA


狭山飛行場・無蓋掩体壕跡

ファミリーマート駐車場とフジボウル駐車場の裏の森の中に、無蓋掩体壕の跡が残っている。
無蓋掩体壕は、土塁・土盛りでしかなく、正直言ってよくわからない。ただ森の中に不自然に土塁があるのが、今でもわかる。飛行機を駐機したであろう側まで森を進んでみたが、木々が茂りすぎて写真に撮ってみてもよくわからないものではあったが。

奥に無蓋掩体壕の土塁。

土塁に登ってみた。下は飛行機を駐機したであろうスペース。

場所

https://goo.gl/maps/XY8EMJHZcwCQb7hV8


狭山飛行場の東側に、コストコと三井アウトレットパーク。
ここまでくれば、入間市駅までバスで戻れる。


関連

「国産第1号の鉄橋・都内最古の鉄橋」旧弾正橋(八幡橋)

富岡八幡宮の東側、かつて八幡堀川という川に架かっていた「八幡橋」。
もともとは中央区宝町付近の楓川に架かっていた「弾正橋」という橋であった。

旧弾正橋(八幡橋)

「東京最古の鉄橋」
「国産鉄の鉄橋として日本最古の鉄橋」

「国重要文化財指定」
「米国土木学会栄誉賞」

明治11年(1878)11月に京橋区の楓川に「弾正橋」として竣工。
大正2年(1912)に新「弾正橋」が架橋され「元弾正橋」と改称。
大正12年(1923)関東大震災後の震災復興計画により廃橋。
昭和4年(1929)5月に現在地に移転し「八幡橋」として架橋。

国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7 
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ15.2メートル、有効幅員2メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(1913)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和四年(1929)5月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので、八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋でありかつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

橋を渡って、遊歩道に移動してみる。

八幡堀遊歩道

遊歩道はかつて八幡堀側という川であった。

八幡橋(旧弾正橋)
由来
 旧弾正橋は、明治11年(1878)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が制作した国産第1号の鉄橋です。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称し、以来人道橋として活躍してきました。昭和52年(1977)近代橋梁技術市場価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技師スクワイアー・ウィップルの特許を基本としたところから、平成元年10月、国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。

ピンの接合部に「菊の紋形の花弁装飾」が施されている。

国指定重要文化財 
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、東京市で最初に架けられた鉄橋である。長さ15.2m、幅2m、単径アーチ橋の形式をとる。アーチは鋳鉄製で5本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋である。もとは、京橋区(中央区)の楓川(もみじがわ)に架けられていたものである。経緯については「八幡橋新橋来歴」に詳しく記されている。この橋は明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正年(1913)の市区改正により新しい弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣りであるため、名称も八幡橋と改められた。現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工されてあり、技術史の上でも価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

記念碑がある。
米国土木学会栄誉賞受賞記念など。

八幡橋鉄構来歴
本橋ノ鉄構ハ東京市最初ノ鉄橋タリシ弾正橋ノ古構ヲ再用セルモノニシテ明治十一年東京府董工ノ下ニ工部省赤羽製作所ニ於テ鋳造セラレシモノナリ
其ノ後大正二年市区改正ニヨリ附近に新ニ弾正橋架設セラレタル結果之ヲ元弾正橋ト改名シ近年ニ及ヘルモノナリシカ帝都復興事業区画整理ニ依リ元弾正橋ハ廃橋トナリタルニ付東京市最古ノ鉄橋ヲ記念センカ為其ノ鉄構ヲ取外シ昭和四年此処ニ新設セラルル八幡橋ニ架設セルモノトス
 東京市

米国土木学会栄誉賞受賞記念

JAPAN HISTORIC CIVIL ENGINEERING LANDMARK

AMERICAN SOCIETYY OF CIVIL ENCINEERS
FOUNDED 1852

“THE HACHI MAN BRIDGE”
THE FIRST BRIDGE BUILT OF IRON MANUFACTURED IN JAPAN

PRESEBTED BY THE JAPAN SECTION, ASCE 1989

(和訳)
日本の歴史的土木ランドマーク
 米国土木学会 (1852年創業)
“ハチマンブリッジ” 日本初の鉄製の橋
米国土木学会 1989年、日本部門発表

 八幡橋は、明治11年(1878)わが国において、最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋となっています。
 橋の形(ウイップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウイップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
 ウイップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技法に対して、平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。

人力車のモニュメントにも、八幡橋の解説がある。

八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋は、明治11年(1878)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川を結ぶ主要街路の1つで、文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和4年(1929)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会(三ツ橋の現況)には、明治34年(1901)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。
弾正橋・白魚橋・真福寺橋とをあわせ三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。

八幡堀遊歩道から八幡橋を望む。

橋下では、猫様がくつろいでおられた。

「みんな(猫)の住みやすいまちに」

八幡堀遊歩道の北に、もうひとつ橋梁があった。

旧新田橋

平成12年(2000)の護岸整備により新田橋は架替えられ、昭和7年に竣工した旧新田橋は、八幡堀遊歩道に移設保存。

旧新田橋
 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。

現在の新田橋。


弾正橋
弾正橋公園(楓川弾正公園)

八幡橋は、かつては弾正橋として楓川に架けられていた。
中央区の宝町と八丁堀のあいだ、あたり。
現在は、楓川は埋められており、弾正橋も橋があった名残のみが残っている。

弾正橋
 弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
 その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等どの歴史的貴重さを増している。
 現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。

橋梁の諸元
形式:ラーメン橋台橋 橋長:33m 有効幅員 23.2m(車道16m、歩道3.6m×2) 建設年次:大正15年12月 復興局施工

公園として整備されている。
モニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものというが、じっくりと見学するのが難しい。「菊の紋形の花弁装飾」も復元。よくできている。やはり、じっくり観察ができない環境が惜しい・・・


都内最古の道路鉄橋 南高橋(旧両国橋)


関連

旧東京市深川食堂(深川東京モダン館)

深川。門前仲町の交差点の近くに東京大空襲をくぐり抜けた建物が残っていた。

現在でも通用するモダンなデザインの建物が昭和7年竣工というのだから、驚きを感じてしまう。

旧東京市深川食堂

昭和6年(1931)に着工、翌7年3月に竣工。関東大震災復興事業として建設された東京市設食堂。

旧東京市深川食堂
江東区登録有形文化財 (建造物) 国登録文化財
門前仲町一-一九-一五
 東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正九年(一九ニ〇)から順次設置した一六カ所の市設食堂 のひとつです。延床面積は一〇六坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和六年(一九三一)に着工、翌七年三月に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。一一年に閉鎖されましたが、一三年に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬがれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、三二年には授産機能、三六年には福祉機能が追加されました。五四年に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成一八年に閉鎖されるまで利用されました。
 構造は二階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、二階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建築物としての希少性が認められ、平成二〇年に国登録文化財に登録されました。
平成二十一年九月
江東区教育委員会

外観

2階建て鉄筋コンクリート。
スチールサッシュ窓が特徴的。

深川東京モダン館。
街歩きの拠点となっている。

館内

玄関から階段にかけてのモザイクタイルが特徴的。

昭和の生き証人「深川モダン館」
国登録有形文化財(建造物)「旧東京市深川食堂」
 深川東京モダン館は、東京市が社会事業として順次建設をすすめていた市設食堂で、震災復興事業の一環として昭和7年(1932)に建築された東京市深川食堂を改修した建物です。大正12年(1923)に起きた関東大震災は、死者約9万2千人、全壊・焼失約47万戸という未曾有の大災害をもたらしました。震災で住む場所を失った人びとに、安くて栄養のある食事を提供するためには公共の食堂が是非とも必要でした。そのため東京市(1944年に東京都となる)では市内の数カ所に食堂を増設しました。この深川東京モダン館の前身である「深川食堂」は、最後に造られた市設食堂でした。
 深川食堂は震災復興が一段落した後も、社会事業の役割をになう公営食堂などとして運営されてきましたが、第二次世界大戦末期の空襲で建物の内部が焼けてしまいました。戦後は職業安定所や内職補導所、障害者通所授産施設として活用されてきましたが、平成18年(2006)にその役割を終え、解体を含め建物をどうするのかが問題となりました。
 専門家による調査で、この建物は昭和初期の近代建築の姿を今日に伝える貴重な文化遺産であるとの評価を受け、江東区は保存と活用を決めました。また平成20年(2008)には、国登録の有形文化財(建造物)として認定されました。
 昭和の初めに、新鮮な驚きを与えて人々を魅了したモダンスタイルを今日に伝えるこの建物は、また、激動の昭和の歴史の生き証人でもあります。今後は保存され、江東区の観光と文化の拠点「深川東京モダン館」として装いを新たにし再出発します。

建物の概要
●所在地:深川區門前仲町17番地
     (現 江東区門前仲町1-19-15)
●用途:市設食堂(社会事業施設の復興計画)
●工事管理者:東京都社会局/設計 東京市建築課
●敷地面積:敷地298.9㎡、延床面積370.58㎡
●竣工:昭和7年3月下旬
●1階:事務室、調理室、倉庫、嗜好食を売る食堂
 2階:定食室、外従業員寝室
 ※嗜好食=一般市民向け、定食=少額所得者向け

建物の特徴
 深川東京モダン館は、昭和初期に建築された建物の姿を今日に伝える貴重な文化遺産です。昭和初期の1930年代には、建物から装飾を取り去って、できるだけシンプルで単純な形を追求した建築が時代の最先端として登場し世界中に広まりました。「単純なものは美しい」という言葉に象徴されるこの傾向は、建築だけでなく美術や音楽の世界にも見られ「モダニズム」とか「モダンスタイル」と呼ばれました。モダニズムは近代の合理主義精神が形となったものとされています。
近接時期の特徴
・関東大震災復興事業として着工された現存する数少ない建築である。
構造上の特徴
・耐震耐火の性能を満たすべく当時の最先端の技術である鉄筋コンクリート造として建設された。
デザイン、建築材料の特徴
・入口に続く階段空間が2階天井までを全面窓とした吹き抜け空間となっていて明るく開放的である。
・2階の南側の窓がモダンデザインの特徴である水平に連続するスチール・サッシになっている。
※窓枠はすでに位置を変え付け替えられていたため、改修工事により、位置について復元をした
・昭和初期のモダン建築に多く見られる丸窓がある。この6つの丸窓は大通りから真っ直ぐに見え、本建造物を強く印象づける役割を果たしている。

戦前の牛乳瓶
平成20年の建物改修工事時に出土。

改修前の外壁
南満鑛業株式会社製のリソイド仕上げ外壁。

昭和7年の竣工時の面影を伝える床面タイル・壁面タイル。

モザイクタイルが貼られた階段と壁面。竣工当時の面影を残す。

2階は、イベントスペース。


戦災殉難者慰霊碑

近くには門前仲町の町会で建立された「戦災殉難者慰霊碑」があった。(モスバーガーの隣)

戦災殉難者慰霊碑
 平成2年7月吉日
  門前仲町一丁目町会建之


※撮影:202007及び202101


関連

東京大空襲・慰霊

飯能市大河原の監的壕


埼玉県飯能市の山に「射撃場の跡」があるというので脚を運んでみた。


監的壕(かんてきごう)
飯能町在郷軍人分会常設射撃場

射撃の着弾点や命中率を確認するために造られた施設。
飯能市に残る監的壕は、飯能の在郷軍人会によって、昭和16年に11月3日に竣工したもの。石垣積み・コンクリート築造。

射撃訓練として「的」に向かって射撃を行う。おそらくは、「三八式歩兵銃」での射撃。壕の下に控える監視者が、的の様子を確認出来る構造となっている。
すなわち「的を監視する壕」「監的壕」か?

射撃訓練ということもあり、安全を考慮して人里離れた山裾に設けられたものと思われる。

石垣が築かれたコンクリート製の「監的壕」がみえてきました。
周辺に、射撃場の面影はなく「監的壕」のみがきれいに残っていました。

昭和十六年十一月三日竣工

飯能町在郷軍人分會常設射撃場
監的壕

監的壕の入り口には、扉があったことがわかる。

左側(渓流の下流側)のコンクリート壁がせり出している。
射撃者は、下流側から、この監的壕を狙ったものと思われる。

奥が若干だが広くなっている。

鉄の棒が飛び出ている。ここに「的」を設置したのか。

「鉄の棒」の下には、腰掛けるのに丁度よいコンクリートがあった。
的の下に控えた観測員が、ここに腰掛けたのか。

鉄の棒と、コンクリートの椅子はふたつ。
つまり、射撃の「的」はふたつ。
飯能町在郷軍人会の施設のため、小規模な射撃場。

上に上がってみた。

右側が渓流下流。射撃者は、右側から「的」をめがけて撃ち込みをした。

使われなくなって75年も経てば、樹木も茂る。コンクリートのギリギリまで植林されたようだ。

思った以上に、きれいに残っている戦跡でした。
なかなかの見応え。これは大切に残してほしい戦跡です。


位置関係・アクセス方法

まず最初に。

現地は湿地帯となります。湿地帯のぬかるみを突破しないといけないために、長靴やハイキングブーツ、登山靴など厚底の靴がおすすめです。
どちらかというと、夏場よりも冬場。それも晴れの日が続いた冬場が、ぬかるみもおさまり、脚が運びやすいかと思われます。

場所→だいたいこのあたり

https://goo.gl/maps/Cz1kWUK5jqWdKG8a8

南の「美杉台」のほうが近そうに見えますが、沢を登っていきますので、北側の「大河原」からアクセスとなります。

飯能駅から西に歩いていきます。
割岩橋にて入間川を横断します。

飯能河原

そのまま道なりに西に。

交差点が見えてきました。

「大河原」交差点。飯能駅からここまでは、徒歩で約25分前後。

渓流の名前は「小山入川」。
渓流に沿って登っていきます。

このあたりは休耕田、ですね。

射撃場跡へと。

道が二手にわかれますが、渓流に沿って左側へ。

休耕田エリアが終わると、本格的に山となります。ところどころに湿地も混じっておりますので、足元に気を配りつつ。

倒木も多数。

大きな岩が見えてきたら、この左側に目的地があります。
先に進むことに夢中になっていると、通り過ぎてしまいますのでご注意を。
(うっかり通り過ぎるところでした。)

「大河原」交差点から、「監的壕」までは約10分。
飯能駅からはトータルで、約35分、でした。

ちなみに、飯能駅から割岩橋に向けて歩いてきた道が「幻の表参道」だったそうです。明治神宮建設に際しての誘致が飯能でも行われていた、と。
飯能の天覧山に 明治天皇が明治16年に近衛兵春季小演習の展覧のために登られた縁もあり。天覧山は、最近ではヤマノススメの聖地になってますね。


本記事を作成するにあたり、以下のブログを参照させていただきました。

https://ameblo.jp/ibukoma2000/entry-12544104231.html

JR両国駅と両国橋散策

両国駅

明治37年(1904)4月5日に、千葉方面に鉄道を展開していた私鉄・総武鉄道によって「両国橋駅」として開業。総武鉄道は千葉県内初の鉄道。
本所駅(錦糸町駅)と両国橋駅(両国駅)の1.5キロは、日本の鉄道として最初の高架区間でもあった。総武鉄道単独では隅田川を渡ることが難しく、両国橋駅が千葉県から都心方面のターミナル駅として機能することとなった。
総武鉄道は明治40年(1907)に買収され国有化。官設鉄道の総武本線となった。

昭和4年(1929)12月30日に増大する輸送量に対応するために、現在の新駅舎が竣工。昭和6年に「両国駅」に改称。
平成28年(2016)11月25日、旧駅舎再改装。

関東の駅百選
「鉄筋2階建ての駅舎で相撲とともに歩んだ下町の代表となる駅」。

※2020年8月撮影

※2021年3月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C29C-C1-55
1942年3月18日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

両国駅の貨物エリアが再開発で、のちに国技館と江戸東京博物館、となった。
震災記念堂(東京都慰霊堂)と復興記念館は戦災をまぬがれた。


両国橋

隅田川にかかる橋。かつては武蔵国と下総国の国境であったことから「両国」と呼称。貞享3年(1686)に国境が変更されて武蔵国内となった。

現在の両国橋は昭和7年(1932)竣工。柱部は両国国技館の屋根を模った飾りを配する。

隅田川にかかる両国橋の西側には神田川と柳橋。両国橋で、神田川と隅田川が合流する。

旧両国橋は、黒島川の南高橋に移築されている。


柳橋

神田川最下流の橋。関東大震災復興事業として昭和4年(1929)竣工。

昭和4年の復興記念碑。


表忠碑

両国橋の東側に鎮座している。

表忠碑
元帥侯爵大山巌書

明治三十七八年役戦病死者
明治四十年一月一日建之

※2018年5月撮影


両国関連

東京大空襲・慰霊

浅草の近代建築散策

浅草界隈の近代建築散策などを。


東武鉄道浅草駅ビル

東武鉄道の浅草駅ビルは昭和6年(1931)竣工。
地上7階・地下1階の建物は、鉄道省の初代建築課長であった建築家久野節が設立した久野建築事務所が設計、清水組により施工。関東初の本格的な百貨店併設ターミナル駅ビルとして開業。関東では唯一のJR.地下鉄以外の他社民鉄と接続していないターミナル駅。
昭和初期のアール・デコ様式の建造物。平成24年に開業時の姿に復元リニューアル。

関東の駅百選「浅草駅」
「昭和6年「浅草雷門駅」として開業、駅の上はデパート」(東武鉄道)

内部も(電車のとこだけだけど)


東京メトロ浅草駅上屋(4番出入口)

昭和2年(1927)竣工。日本初の地下鉄駅のひとつ。戦前の地下鉄関連遺産として近代化産業遺産に認定。
大正6年(1917)に早川徳次が東京軽便地下鉄道を設立。関東大震災によって資金繰りが悪化し、建設区間を短縮。東京一番の繁華街であった浅草と国鉄ターミナルの上野を結ぶ路線の建設に着工し、昭和2年12月30日に、日本初にして東洋初の地下鉄として東京地下鉄道の浅草駅が開業した。

関東の駅百選「浅草駅」
「浅草寺を考慮し、浅草の土地柄に馴染んでいる仏閣デザインの地下鉄の長老駅」(営団地下鉄)


神谷バー

大正10年竣工。国登録有形文化財。
日本最初の「バー」。「電気ブラン」で有名。

明治13年(1880)、神谷伝兵衛が酒屋を開業。明治14年には輸入葡萄酒の販売を開始し、明治15年に「電気ブラン」の製造販売を開始。神谷伝兵衛は輸入葡萄酒を原料に日本人向けに明治18年に「蜂印葡萄酒」、明治19年に「蜂印香竄葡萄酒」(ハチブドー酒)を売り出し成功。日本製ワイン黎明期を支えた。
明治45年(1912)、酒屋を改装し「神谷バー」を開業。
大正10年(1921)、現在の建物を建造。浅草地区で最古の鉄筋コンクリート造の建造物。

電氣ブラン(電気ブランデー)

神谷伝兵衛が明治26年(1893)頃に、輸入ブランデーにワインやジン・ベルモットなどをブレンドした「電気ブラン(電気ブランデー)」を発表。
電気が珍しかった明治の頃、目新しいものは「電気◯◯」と呼ばれ、この新しいハイカラなブランデーベースのカクテルも流行りに乗ったお酒となる。
ビリリとした味わいも電気のイメージにぴったりだったとか。

久しぶりに飲みたくなりました。。。(今度、買ってこよう)

ハチブドー酒も神谷バーと神谷伝兵衛ゆかりのお酒。


ライオンビル
(旧井阪屋本店河合ビル )

昭和10年(1935)竣工。国登録有形文化財。
鉄筋コンクリート造三階地下一階建。
現在は、撮影スタジオ 「LION BUILDING(ライオンビル)」として活用されてる。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/398545


浅草地下街

現存する日本最古の地下街。昭和30年(1955)1月の開業。

浅草地下街は戦前ではないけど、昭和情緒が色濃く残る貴重な空間。


浅草を広義に捉えた場合は、まだまだ近代建築が点在しているようだけど、指し急ぎは浅草寺周辺の散策でした。
界隈の近代建築を記録しましたら、追記していきます。

※2020年9月撮影ほか


浅草寺

和泉町ポンプ所(千代田区・2023年解体)

2023年5月16日から解体工事となり消失しました


東京都下水道局「和泉町ポンプ所」

大正11年竣工の鉄筋コンクリート2階建ての建造物。
大正11年(1922)8月に稼働開始。現存する日本初のポンプ場のひとつ(だった)。
大正11年3月に運用開始となった三河島処理場(旧三河島汚水処分場喞筒場施設)とともに整備された。
関東大震災と東京大空襲の猛火をくぐり抜け、今日まで約100年近く現役の施設(だった)。近隣の汚水をポンプで吸揚し、三河島の水再生センター(三河島汚水処分場)に送水をしていた。
なお、数年前までは、古い煉瓦壁が道路沿いに残っていたが2018年以降に撤去されている。

大正11年竣工。翌年大正12年9月1日には、関東大震災が発生。周辺が焼け野原になる中で、この神田和泉町・神田佐久間町周辺は、周辺住民の消火活動により防火に成功。押し寄せる猛火を、前年に竣工したばかりの和泉町ポンプ場の水などを活用して、延焼防止に役立てたという。
旧神田区では関東大震災で94%が焦土となる中で、神田和泉町周辺の1630戸は奇跡的に焼け残った。
昭和14年には、和泉町ポンプ所は「関東大震災 町内協力防火守護の地」として顕彰されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/business/kanko/newstokyo/240/5/index.html

東京都下水道局ではペーパークラフトも用意されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/living/kids/corner/paper/index.html

※解体となり、上記のリンクはすべて削除された模様。。。


2021年1月訪問時の写真

※クリックで拡大可

場所は秋葉原駅のほど近く。

https://goo.gl/maps/gUAR1EumivajZYWU8


解体前の2023年4月再訪

解体ときいて、直前に再訪して記録写真を。

解体工事のお知らせ
この建築物を、下記の通り解体します。
解体工事の名称:旧和泉町ポンプ所解体工事
工期:令和5年5月16日から令和5年9月29日まで

以前(2021年)に門扉に掲げてあった「神田和泉町思い出マップ」は既に撤去されていた。。。

いろいろと思うところはあるが、ポンプ場は役目を終えて、いまは解体を待つ状態であった。

※追加撮影:2023年4月


関連(近隣の史跡)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その2)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の跡地を散策。

加賀公園・野口研究所跡地・理化学研究所板橋分所跡地・愛誠病院エリアなどは「その1」にて。

「その2」では、西側のエリアを散策。位置関係等なども、その1を参照で。


圧磨機圧輪記念碑(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園に鎮座。
板橋火薬製造所(日本で最初の西洋式火薬製造工場)で用いられた「圧磨機圧輪」にちなむ澤太郎左衛門の遺徳を称え建てられた記念碑。

慶応元年(1865年)、澤太郎左衛門が幕命を受け、オランダに留学し火薬の製法を学び、ベルギーより圧磨機圧輪を購入し帰国の際持ち帰ったもの。
澤太郎左衛門は旧幕臣として榎本武揚とともに函館戦争を戦い、蝦夷共和国開拓奉行に選任。室蘭で明治新政府に降伏。
明治新政府では、おもに海軍兵学校の教官職にあった。日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは澤が最初であったという。

明治9年8月の火薬製造所開業より黒色火薬製造に圧磨機圧輪が使用開始。
圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する際の硫黄や木炭、硝石などを、水力を動力にして磨り潰すために用いた。
明治39年11月、黒色火薬の製造廃止により圧磨機圧輪の使用が停止。
大正11年3月に記念碑として設置。
昭和60年頃に加賀西公園造成にあわせて現在地に移設。
板橋区登録文化財に指定。

板橋区指定記念物
圧磨機圧輪記念碑

 この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する機械です。その材質はヨーロッパ産の大理石と判明しています。慶応元年(1865)に、艦船運用術・砲術・火薬製造などを研究するため欧州へ留学していた幕臣の澤太郎左衛門が幕命を受けて、ベルギーで購入したものです。澤はその任にあたり、ベルギーのウエッテレンにあったコーパル火薬製造所で作業員として働き、そこで職工長から火薬製造に必要な炭化釜等の図面を借り受け、圧磨機などについて教授されたと伝えられています。また、工場技師長を通じて、圧磨機をはじめとする火薬製造機械類の発注に成功したともいわれています。
 慶応3年に開陽丸で帰国した澤は、すでに小栗上野介忠順などにより、北区滝野川で企画されていた幕府の大砲製造所・火薬製造所の建設に加わりますが、明治維新の中で工事は中断となり、澤も箱館へと脱出します。この時に輸入した火薬製造機械の一部は滝野川から運び出され、軍艦へと積み込まれていますが、この圧磨機圧輪自体の動向については不詳です。のちに澤は新政府軍へと投降しますが、釈放された直後の明治5年(1872)には兵部省へ出仕し、板橋における火薬製造所建設にも中心的な役割を果たしました。
 明治4年7月、兵部省は板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造所の用地とするために政府に引き渡しを求めました。その理由は「彼邸水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と申入れ書にあるように、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要な条件となっているためでした。同年12月に当邸の一部は造兵廠属地となり。火薬製造所の建設が始まりました。なお、当時の兵部省における造兵部門の長にあたる造兵司正には、加賀藩師で洋学(兵学・科学)に通じていた佐野鼎が就任しており、このことが製造所用地の選択にも影響を与えた可能性があります。
 明治9年8月に完成した火薬製造所は、陸軍の「砲兵本廠板橋属廠」として操業を開始し、この圧磨機圧輪を使って黒色火薬が製造されました。圧磨機による火薬製造工程は、水を注ぎながら、圧輪を回し、硫黄・硝石・木炭を細砕・混和し、篩(ふるい)にかけて粒子をそろえ、乾燥させたのち製品化するというものでした。なお、圧磨機を回転させる動力には、、石神井川からの導水路による縦軸水車(簡易フランシス水車)の動力が利用されています。なお、その設置場所は、現在の加賀2丁目15番街区あたりと考えられます。当工廠は、その後、「板橋火薬製造所と改称され、最終的な呼称は、東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)となりました。
 明治27年には、当所で無煙火薬の製造が開始され、施設・設備も拡充していきますが、その一方で、取扱いが難しく、爆発事故が続いた黒色火薬については製造が減少し、同39年に製造中止となると、圧磨機圧輪も使用されなくなりました。
 大正11年(1922)3月、国内外で軍縮が進む中で、陸軍は使用されなくなった圧磨機圧輪を転用し、そこに澤の威徳を称え、圧磨機圧輪の来歴などについて刻み、記念碑としました。
 戦後、当記念碑は、通産省計量研究所敷地内にありましたが、同研究所の移転にともなって区立加賀西公園に移設されました。昭和60年(1985)に産業考古学会推薦の産業遺産に認定され、翌年には板橋区登録記念物(平成7年からは指定記念物)となりました。
 平成23年(2011)10月
  板橋区教育委員会

「板橋火薬製造所」を管轄していた「東京陸軍砲兵工廠」のマークが中央にある。

圧磨機圧輪記
是為圧磨機圧輪当用製火薬
慶応元年九月澤太郎左衛門承徳川幕府旨所購於白耳義也・・・

招魂之碑
明治 35 年爆発事故招魂之碑
(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園内に鎮座。

明治35年7月24日に発生した、板橋火薬製造所内の丙製薬所で出火した火災が隣接する建物に延焼し、 消火活動の指揮を執った花土丈七技士をはじめ、 火薬の搬出にあたった職工ら、 合計 10 名が亡くなった事故。
明治36年7月24日で、 火災爆発事故によって亡くなった技師 ・ 職工の
1 周忌に合わせて建立された。建立者は 「板橋火薬製造所有志一同」。

 明治35年7月24日板橋火薬製作所火災起り各員之が消火に勉む偶々爆然たる猛火は勢迅雷の如く襲い来り陸軍技手花土丈七 職工今井吉次郎 辺見忠一 常盤勝次郎 金子徳次郎 田中信太郎 高木文次郎 石原吉五郎 渡辺誠次郎 新井久太郎の諸君を包み遂に非命に斃れしむ誠に悲惨の極と云うべし然と雖も死生固より命あり諸君の死を以て其任を謁し以て災害を一局に制し巨方の財を花神の厄より免れしめんもの其功績亦偉大にして以て瞑するに足るべし 茲に其一周忌に際し義金を拠出し碑を立て其霊を弔し其魂を慰むると而云。
  明治36年7月24日
   板橋火薬製造所 建之

https://goo.gl/maps/j1ZSmNcU863qtnjUA


板橋区立板谷公園

板橋の二造の南側に造成された公園。

 江戸時代、この板橋3・4丁目、加賀一帯は加賀藩の江戸下屋敷でした。明治になると板橋3・4丁目周辺は三合商会の所有地となり「三合野原」、「三五ヶ原」と呼ばれました。その後、小樽を基盤とした船運会社板谷商船の設立者初代板谷宮吉氏が取得し、昭和4年(1929)に東京市電が板橋まで延長したのを契機に、二代目宮吉氏(貴族院議員等も歴任)が昭和10年(1935)1月、区画整理による大規模住宅地「上御代の台」の造成に着手しました。
 当時、国は区画整理に際しては公園用地の確保を求めており、それを受け、東京市は土地の無償提供を条件に公園造成を代行する規定を設けていました。当公園はこの規定により、板谷氏の用地提供を受けて同市が施行し、昭和12年(1937)4月29日に東京市板谷公園として開園しました。なお、その際に設置された銘板が、ニか所の出入口の門柱に残っています。その後、昭和18年(1943)の都制施行により都立公園となり、昭和25年(1950)10月1日には板橋区に移管されました。
 この公園は、区内に現存する公園の中で開園時期が最も古く、また、その来歴にこの地域の歴史がよく反映されている事から、平成21年(2009)3月に区の登録文化財(史跡)となりました。
 平成21年(2009)9月  
  板橋区教育委員会

東京市板谷公園
 昭和12年4月開園

https://goo.gl/maps/L9WPAc4bc8mDjVLz9


コミュニケーションステージ
レンガパーク
(加賀一丁目緑橋緑地内)

陸軍板橋火薬製造所時代に設置された煉瓦造平屋建(大正期 ) の建物の一部をモニュメントとして保存。

 このモニュメントは、明治から大正時代に建てられた煉瓦建造物の一部を利用しています。
 明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、加賀1・2丁目には日本陸軍の火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、通称「二造」)がありました。製造所は、江戸時代の旧加賀藩下屋敷の広大な敷地を利用して作られていました。内部には、火薬の事故に備えて土塁で囲まれた建物や煉瓦造りの建物などが立ち並んでおり、その一部は、戦後の払い下げ後も学校や工場、研究所の建物として利用されていました。
 ここの敷地にも、当時の建物が工場として残されていましたが、日本の近代建築史を伝える貴重な煉瓦建造物を保存・活用するため、その一部をモニュメントとして利用することになりました。

中央部の古さを感じられる黒ずんだ部分が、当時の建物の壁をそのまま保存した箇所。

かすかに「東京陸軍砲兵工廠」のマークを見ることができる。

https://goo.gl/maps/ySLuEPF6EsAAQzr58


陸軍の消火栓

金沢小学校の校庭隅の隅。道路から見える場所に、板橋製造所時代の消火栓があった。陸軍の徽章「星」のマーク付き。
案内板は小学校敷地内内より。休日校庭開放日に見学。

 これは、昔の消火栓です。昭和の初め頃につくられました。このあたりは、陸軍の第二造兵廠というものがありました。
 星の印は陸軍のマークで、陸軍の人達が火事を消すための設備として作ったのが、この消火栓です。
 江戸時代には、このあたりに加賀前田藩の下屋敷がありました。明治になって、板橋火薬製造所ができました。その後、太平洋戦争が終わるまで、第二造兵廠として約70年間火薬を作る仕事などしていたのです。
 昭和20年8月に戦争は終り、このあたりには、研究所、公園、学校、工場等が造られました。
 板橋火薬製造所のことは、おとなりの東板橋体育館にある記念碑にくわしく書いてあります。この消火栓も、昔をしのぶ一つの記念碑として大事に保存したいと思います。

https://goo.gl/maps/cYWhfnkdxsLuTwrr5


境界壁柱とコンクリート壁

板橋区立東板橋公園と板橋こども動物園の北側。ユースハイムという建物の車庫入口近くに、「板橋製造所の境界壁柱」が残っている。

https://goo.gl/maps/m44R4jfG9kQqJ5QA7

さらに道なりに西の方に歩みを進めていくと、駐車場と電信柱のあいだに、もう一本「板橋製造所の境界壁柱」がある。

https://goo.gl/maps/eWFMxMPLNzrABBkv6


境界壁柱(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。道なりに歩んでいくと、さらに「境界壁柱」があったが、2018年の段階で消失を確認。

※写真は2016年

消失を確認。。。 ※2020年撮影


境界壁と境界石(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。
陸軍用地の境界石と境界壁が残っていたが、同じく消失を確認。

境界壁は消失。
境界石は、2つのうち、1つはまだ残っています。
(コメントでのご指摘ありがとうございます)

1つ目 ※写真は2016年

この境界石と境界壁は消失。

2つ目 ※写真は2016年

この境界壁も消失した。

※境界石は下の写真で、右側の電信柱の根本右側に残っているという。
(私は見逃していました。後日、再確認します。)
※コメントでのご指摘ありがとうございます。

境界壁は綺麗に消失。

新築住宅がセットバックされたために、境界壁とともに境界石も消失してしまいました。境界壁がなくなり、だいぶ見た目が変わってしまいました。


場所は変わって。

板橋憲兵分隊の門柱跡

「板橋製造所」の西側には中仙道が走っていた。
中山道の宿場町「板橋宿」の中心であった「仲宿」も徒歩圏内。
宿場町が廃止された後は「板橋遊廓」としても賑わっていた地区。
ここに「板橋憲兵分隊」は置かれ、門柱が1本だけ残されていた。

https://goo.gl/maps/TFU6xV9ypWD1tLm69

仲宿

地名「板橋」の由来となった石神井川を渡る「板橋」

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月


関連

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その1)

十条の造兵廠は掲載しておりましたが、板橋の造兵廠は未掲載でした。
板橋の二造は公園整備が行われることも決まり、そのために記録が鈍化していたというのもありました。
ひとまずは、整備前の写真を中心としたレポとなります。
整備が終りましたら再訪は必須ですが。

十条…東京第一陸軍造兵廠(一造)
板橋…東京第二陸軍造兵廠(二造)


東京第二陸軍造兵廠(東二造・二造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

明治3年、兵器工場として造兵司が新設。
明治4年、小石川に東京工場として「東京造兵司火工所」が新設。
明治8年、東京造兵司は「砲兵本廠」と改称。

明治9年(1876)
砲兵本廠板橋火薬製造所」として、加賀藩江戸下屋敷跡地に石神井川の水力を生かした火薬製造所が発足。これが明治政府が初めて設置した火薬製造所となる。当時の工場は水力を軸としており、小石川の板橋火薬製造所をはじめ、赤羽火薬庫なども水運を想定した位置関係であった。

明治12年(1879)
東京砲兵工廠と改称。「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」となる。

大正12年(1923)
「陸軍造兵廠」が設置。「陸軍造兵廠板橋火薬製造所」となる。

昭和11年(1936)組織改編
陸軍造兵廠火工廠から十条兵器製造所が分離し、小石川の東京工廠が十条に移転。十条に置かれていた陸軍造兵廠火工廠本部は板橋に移転。
板橋が「陸軍造兵廠火工廠本部」となる。火薬製造所は再編により加工廠管轄下となる。「陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所

昭和15年(1940)組織改変
陸軍造兵廠と陸軍兵器廠を統合。兵器本部が新設。
 十条の東京工廠「東京第一陸軍造兵廠」(東一造・一造)
 板橋の火工廠 「東京第二陸軍造兵廠」(東二造・二造)
板橋火薬製造所は「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」となる。

2008年に「旧東京第二陸軍造兵廠建物群(東京家政大学構内)」が板橋区登録有形文化財に指定。
2017年(平成27年)10月13日に「陸軍板橋火薬製造所跡」として国指定史跡に指定。
2018年(平成30年)3月29日付で板橋区登録記念物(史跡)に登録。
史跡範囲は「旧野口研究所跡・旧理化学研究所板橋分所跡・区立加賀公園」

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/bunkazai/1004848.html

現在は、、史跡公園に向けて整備となる。

板橋区史跡公園(仮称)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/1021974/1023606.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-129
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※航空写真はクリックして拡大可

上記を拡大。
こうしてみると、板橋十条の軍事施設は思ったよりかは建屋が残っているのがわかる。逆に周辺の住宅地が白くなっており建屋が焼失しているので、軍事施設を狙った爆撃が工場周辺に外れてしまった様子を想像することもできる。

上記とほぼ同じエリアの現在の様子。
こうしてみると、軍事区画であった場所が今でもかなりわかりやすい。

前述の航空写真より東京第二陸軍造兵廠の部分を拡大。

現在の様子と並べてみる。
黄色は「その1」での掲載箇所。
紫色は「その2」での掲載箇所。

前述の航空写真(USA-M380-129)の南東部をさらに拡大。

黄色は愛誠病院・愛世会関連施設
橙色は旧理研
赤色は加賀公園・旧野口研究所


関連記事

上記の位置関係でも記載のある周辺エリアは別記事にまとめてあるので、それぞれリンク掲載。

東京第一陸軍造兵廠

陸軍兵器補給廠と稲付射場・赤羽火薬庫道


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策

軍用鉄道跨線橋台座跡
(トロッコ・電気軌道)

埼京線にかかる十条台橋から見えるのが、往時の軍用鉄道跨線橋(トロッコ)の台座跡。金網の向こうを覗く。両側に台座が残っているのがわかる。

明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡。

場所

https://goo.gl/maps/ps6TZ6ThbeHo3tpm9


東京家政大学構内

北側に広がる「東京家政大学」も東京第二陸軍造兵廠板橋製造所時代の建物が残っているが、女子大となるので構内は未見学。
煉瓦造平屋が3棟現存という。
 旧220号棟 (現板橋校舎21号棟)
 旧225号棟 (現板橋校舎22号棟)
 旧261号棟 (現板橋校舎58号棟)
上記が板橋区登録有形文化財(建造物)に指定されている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・板橋区立加賀公園)
(旧野口研究所跡)

加賀公園と、その西側にあった旧野口研究所跡。
周辺が「板橋区史跡公園」(仮称)として整備される予定。

加賀公園は、もともとは加賀前田家下屋敷であった。明治期にこの地に火薬製造所が置かれたことに始まる。

建屋の情報は板橋区の資料に詳しい。

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/res/projects/default_project/_page/001/023/606/noguchikenmap.pdf

爆薬製造実験室

建築年代は昭和10年1月。構造は鉄筋コンクリート造の平屋建築、屋根は切妻屋根。トタンによって外壁が補修されている。
もともとは後方のマンションの位置にあったが、保存のために平成29年に主要部(全体の1/3部分)の曳家工事を実施。

常温貯蔵室
地下貯蔵庫

常温貯蔵庫は昭和9年以前には建設されていたと推定。
構造はコンクリート造で、上下2段8列の棚構造で、16の鉄製扉を有している。扉は現在、8面のみ現存するも固着しており開閉は困難という。

常温貯蔵庫の手前には地下貯蔵庫がある。
地下貯蔵庫には蓋がされている。水槽として使用されていたという。

加温貯蔵室

昭和9年以前には建造か?

加温貯蔵室試験火薬仮置場基礎

加温貯蔵室に併設されていた建物。基礎のみ現存。平姓18年までは建物が確認できたが、平成26年までのあいだで撤去。

銃器庫

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、内部は木造二階建の棚床が設置。
昭和18年以降の改築か?

土塁

燃焼実験室
試験室
弾道管

燃焼実験室の構造は鉄筋コンクリート造2階建。
昭和18年以降の建築か?

弾道管は、約30m現存。

「燃焼実験室」から弾道管が一直線に伸びている。
コンクリートの2棟は「試験室」。

試験室No.672

試験室No.552

弾道管

弾道管

試験室

試験室No.552

試験室No.672

弾道検査管(爆速測定管)の標的
 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家 の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=ニ造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前のニ造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵 が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場 時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。 

擁壁

軽便鉄道の軌道と北側の試験室や弾道管等の試験施設との間を隔てる役割を担っていた。
鉱滓煉瓦壁が4スパン、コンクリート壁が1スパン、合計5スパンが現存。

射垜

露天式発射場の的である射垜と、弾道管と接続する隠蔽式発射場の射垜が存在していた。隠蔽式発射場の射垜は昭和46年の加賀公園造成工事の際に一部撤去。遺構が埋蔵している可能性あり。
露天式発射場の射垜の下方部構造は埋蔵されており不明。
レンガ積にモルタルが塗布。

コンクリート擁壁

昭和46年の加賀公園造成工事で撤去された常温貯蔵庫が隣接していた。また防火壁も設置されていたという。

電気軌道線路敷跡

電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。


加賀公園の北側を流れる石神井川の対岸エリア。
現在は「愛誠病院」など愛生会関連の建物が展開されているエリアにも、当時の建屋が残っている。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛歯技工研究所)

最近まで愛歯技工専門学校として使用されていたが2019年3月で閉校。
愛歯技工研究所は存続しているが、今後の扱いが気になるところ。

試験室(140号棟)

煉瓦造建造物。
愛歯技工専門学校時代の内部は体育館兼倉庫として使用。

仕上収函仮置場(13号棟)

煉瓦造建造物か?だいぶ改良されている外観であるが、建屋下部には面影が残っている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛誠病院)

愛誠病院内にもいくつかの建屋が残っている。
愛生会病院は、昭和22年に二造の敷地と建物の使用を開始したという。

現存する建物
 煉瓦造の旧 36 号家 ( 現第 1 病棟 )
 煉瓦造の旧 35 号家 ( 現第 2病棟 )
 煉瓦造で一部二階の旧 168 号家 ( 現精神神経科外来棟 )
 煉瓦造の旧 164 号家 ( 現本部事務棟および第 3 病棟 )
 煉瓦造の旧 256 号家 ( 現作業療法棟 )
 鉄筋コンクリート造の旧 438 号家 ( 現第 11 病棟 )

病院敷地の見学は、言わずもがなですが、常識の範囲内で静粛に。

化学実験室(438号棟)
現・愛誠病院第11病棟

鉄筋コンクリート造。

駆水室(35号棟)
現・愛誠病院第2病棟

煉瓦造

綿薬配合室(36号棟)
現・愛誠病院第1病棟

煉瓦造

混合室(168号棟)
現・愛誠病院精神科外来棟

煉瓦造

爆薬理学実験室(256号棟)
現・愛誠病院作業療法棟

煉瓦造

物置(164号棟)か?
現・愛誠病院デイケア棟

煉瓦造

煉瓦の気配。

なお、板橋区の資料によると「愛誠病院本部事務棟/第 3 病棟」(下の写真)が煉瓦造の164号棟と記載あるが、どうみてもデイケア棟が煉瓦造建造物。事務棟/第 3 病棟は、逆に煉瓦造建造物には見えず。

本記事の冒頭に記載した位置関係でもデイケア棟と当時の建屋の場所が一致する。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(理化学研究所板橋分所跡)

石神井川の北側。旧・理化学研究所板橋分所エリア。

物理試験室

東西に3棟が連結。
東から昭和13年、明治40年、昭和6年の建造。中央部が一番古く、東西が増設されたことがわかる。
理研時代は湯川秀樹や武井武、朝永振一郎が使用していた。

中央の煉瓦棟は明治40年の建造。

東の棟は昭和13年。

西側の棟は昭和6年。

南側、石神井川側より。

爆薬理学試験室

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、地下一階建。
昭和9年から昭和12年にかけて建造か。

理研跡地も板橋区によって加賀公園・野口研究所跡地ともども、「史跡公園」として再整備予定。
この辺のエリアは整備されたら改めて訪問したいと思う。


陸軍工科学校板橋分校跡

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の南東におかれていた陸軍学校。
現在の「加賀公園」の南側に設置された石碑。
陸軍工科学校の卒業生によって組織された工華会による設置。

花匂ふ桜ヶ丘
永遠の平和を祈る
 工科学校
 板橋分校跡
  工華会建之

板橋区立板橋第五中学校の敷地は、明治41年から昭和15年まで陸軍工科学校板橋分校(通称「桜ケ丘」)が位置していた。

明治41年9月に砲兵工科学校分校として砲兵工科学校の火工学生が小石川本校から板橋分校に移転。大正9年に陸軍工科学校板橋分校と改称。
昭和15年7月に小石川本校とともに陸軍兵器学校と解消され、神奈川県相模原市に移転。
その後、終戦までは「一造の板橋宿舎」として使用。終戦後は昭和30年までGHQの情報機関CIC(対敵諜報隊)が置かれていた。
昭和30年4月に板橋区立板橋第五中学校が開校。


陸軍工科学校板橋分校の陸軍境界石

加賀公園の南、板橋第五中学校の南東に残る境界石。
板橋第五中学校の界隈が、陸軍工科学校板橋分校であった。

「陸軍省」の文字が残る。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の西側は、その2、にて。

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場跡地散策

埼玉県深谷市。
かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場」「櫛挽工場」の3工場が展開。
今回はそのうちの南西側にあった「櫛挽工場」の戦跡を散策してみる。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

「深谷工場」(原郷工場)

「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」「明戸工場」は以下で。

https://senseki-kikou.net/?p=13059


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-B-80
1947年11月04日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

GoogleMapにて補完。

今回の散策は深谷の南西部に位置する「櫛挽工場」跡地を散策してみる。


櫛挽地区(櫛引地区)へ

立地場所は公共交通機関ではかなりアクセスのしにくい場所。
北東の深谷駅からではなく南を走る秩父鉄道を利用して近くに向かうことにする。

ちなみに櫛挽(櫛引)で、「くしひき」と読む。

「次はオマエダ」
これが見たかった、とも。

秩父鉄道「小前田駅」から歩く。
約6キロの距離を約1時間20分ほどかけて歩く。

二造深谷製造所櫛挽工場跡地散策

「櫛挽ヶ原」と呼ばれていた深谷市櫛挽地区(櫛引地区)は、周辺集落の入会地・秣場的林地として使用されており、野水が停滞する農地には向かない土地であった。
戦後に開拓地として平地林が広がる原野を開墾し、排水の便を整備。赤城おろしの北風が吹き下ろす土地であったため、防風林とする林を残しながらの開拓が行われた。

開拓前の櫛挽地区は平地林が広がっており、そんな中に、「二造深谷製造所櫛挽工場」が展開された。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M105-A-5-106
1946年04月15日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

「櫛挽ヶ原」を拡大。
戦後の開拓が始まっており、「櫛挽工場」の区画も、いまいちはっきりしない。なんとなく平地林であったことはわかるが。

GoogleMap航空写真。
櫛挽ヶ原の名残を防風林に残しつつ、開拓された様子がわかる。
ピンを立てた場所が唯一残る「櫛挽工場」名残の廃屋。

1時間以上歩いて、流石に歩くのに飽きてきた頃、畑の真ん中に唐突にコンクリートの建物が見えてきた。
「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場」の弾薬庫跡とされる建物。

2階建コンクリート。屋根も扉もなく、風雨にさらされている。

農地に忽然と現れたコンクリート建造物。

建物の周辺にもコンクリートの基礎が残っている。

鉄筋。

1階部分。覗いてみましょう。

思ったよりもきれいな空間。

階段があります。2階に登ってみましょう。

踊り場に生えた緑。
コンクリートに根を生やした草木。

二階部分。

一階に通じる穴。

屋根はない。
空が近いような気がする。

踊り場

そびえ立つコンクリート。

ちょっと離れたところにある基礎。
高射砲台座?か。

ちなみに晴天時・乾燥時は心配ないが、雨天後の湿っている時などは、周辺が牛糞系肥料のぬかるみで大変なことになっているそうです。幸い、私が訪れた時は乾燥してましたが、この茶色い土のエリア=肥料のぬかるみ、となるそうです。

場所

https://goo.gl/maps/sCQKogFwFFX3LCxy8

さて、駅に向かいましょう。

行きは秩父鉄道・小前田駅から6キロ80分を歩いてきました。
ちょうど電車の接続がよかったので、帰りは4キロほどを歩いて八高線用土駅まで向かいました。
ちなみに、改めて記載するが、周辺に駅は、無い、、、

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場弾薬庫跡
アクセス方法(駅起点)

  • JR八高線 用土駅 約4キロ
  • 秩父鉄道 永田駅 約5キロ
  • 秩父鉄道 小前田駅 約6キロ
  • JR高崎線 深谷駅 約7キロ

あくまで、公共交通機関を軸にした場合ですが、秩父鉄道も八高線も本数がかなり少ないので接続が悪い場合は、深谷駅から往復アクセスするのが時間的にも無駄がないかもしれません。
深谷駅であればレンタサイクルを活用するという手段もあります。
(私は歩いてしまいましたが・・・)

八高線・用土駅。

八高線。キハ110。

行程記録。
小前田駅から約6キロを約1時間20分。
用土駅へ約4キロを約50分、でした。
まあ、良い運動です。

※202008撮影


造兵廠関係

東京第二陸軍造兵廠

埼玉県内にあった陸軍造兵廠のひとつ

関連

深谷の隣町、熊谷

深谷関係