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靖國神社の新春初詣(令和7年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

あまり、ここで私事は書かないことにしていますが。
2024年9月から12月までの4ヶ月間、仕事的なことではありますが、かつて経験がしたことない濃密で濃厚な大変革を迎え、それに全力で取り組み、ひとまずの区切りを迎えることができました。
そのためにプライベートの時間もなくなり、サイト更新も止め、すべての対外的な活動もなくなってしまいましたが、なんとかこうして2025年を迎えることができました。
いろいろなことがありましたが、こうして2025年の新年を迎えることができたのが感無量。

清々しい青空が、前向きにさせてくれます。

 我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。


正月限定の刺繍入り御朱印

冬季限定 大東亜戦争終戦八十年記念御朱印
冬の海を行く大和!

桜みくじ
大吉でした
「臆せずひるまず、自ら決めた目標に向けまっすぐに進むべし」
ちなみに、2024年は「凶」だったので、2025年は間違いなく上昇機運です!

ねがいかなう守、を。

祝枡

甘酒をいただいて、

樽酒をいただいて、の毎年恒例。

「大阪大空襲」の痕跡が残る柴島浄水場と淀川周辺の戦跡散策(大阪)

新大阪に宿泊していたある日。
早起きして、早朝に、新大阪駅から淀川に掛けてのエリアに点在している戦跡関連を散策してみました。
ざっくり朝4時30分から6時30分の約2時間の散策。
出張だったので、朝しか時間がなかったのだ。


柴島浄水場の壁面の空襲による弾痕

東淀川区・柴島浄水場の北側。崇禅寺駅と淡路駅の踏切の南側。
機銃掃射の弾痕の壁面跡が残されている。

大阪市民の水瓶・柴島浄水場も空襲の目標となり、大阪空襲では直撃弾を受けて水道水の供給が止まったという。

ちなみに、柴崎と書いて「くにじま」と読む。難読。。。

柴島浄水場壁面の空襲による弾痕
 1945年6月7日・6月15日・6月26日 東淀川区は米軍機による空襲にみまわれた。
 特に6月7日の空襲は激烈をきわめ、1トン爆弾や焼夷弾が雨あられと降りそそいだ。
 米軍機はさらに低空の機銃掃射を繰り返し、浄水場の崇禅寺駅側壁面に弾痕が約50メートルにわたり残された。
 この弾痕は、空襲に倒れ、傷つき、死んでいった物言わぬ多くの人々への生き証人として、私たちにかたりかけている。


JRガードに残る弾痕

JR東海道線と阪急京都線が交差するガードに機銃掃射の弾痕がある。


大阪市水道局 水道記念館
柴島浄水場第一配水ポンプ場)

敷地外から。
旧第一配水ポンプ場(竣工:1914年、設計:宗兵蔵)を保存活用した記念館。
国の登録有形文化財に登録(第27-0072号)。
土木学会選奨土木遺産に認定。

この建物も気になるんですけど。。。


明倫観世音菩薩像と旧長柄橋弾痕

長柄橋南詰に。
機銃掃射の弾痕と、空襲犠牲者を慰霊する観音様がある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/osaka_osaka_city017/index.html

合掌

旧長柄橋弾痕と菩薩像
昭和20年6月大阪大空襲で旧長柄橋周辺の堤防に多くの住民が避難した。そこへ機銃掃射があり約400人の住民が犠牲となった。
弾痕の残る橋脚の一部は、悲惨な歴史と平和の尊さを伝える戦争遺構であり、菩薩とともに住民によって設置された戦没者追悼施設である。
 大阪市北区役所

明倫觀世音菩薩
昭和二十年六月七日この橋畔において散華されたる空襲犠牲者並に
淀川水難犠牲者の冥福を祈るため此處に觀世音菩薩を建立して明倫觀世音菩薩と稱へ奉る。
願くは諸靈安らかに随願往生遂げられんことを。

南無大慈大悲觀世音菩薩
 昭和三十二年八月十四日
  三輪 勝 建立
  魚森 天心 撰文

長柄橋

日の出。朝5時20分。

※撮影:2024年5月


関連

旧陸軍第四師団司令部庁舎と大阪城の戦跡散策

大阪城周辺を訪れる機会があったので、前回記事の不足分などを補填的に掲載をしてみる。
仕事終わりの夕方の18時頃に。


大阪城周辺の戦跡

下記も参照に。
本記事は、下記に掲載しきれていない内容を中心としております。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。


第四師団司令部庁舎

「旧・大阪市立博物館」は、かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。
大阪城天守閣の復興のために集められた寄付金約150万円の内、約80万円を投じて1931年(昭和6年)に本丸に新築された。
外観は左右対称のロマネスク様式を採用。
1940年(昭和15年)に、中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入り、第四師団司令部は二ノ丸に移転。
1945年(昭和20年)に、中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」を使用。
終戦とともに、GHQに接収。
1948年にGHQ接収解除、その後は大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として使用され、1958年からは、大阪市の管理下におかれる。
1960年からは、大阪市立博物館として使用され、市立博物館としては2001年に閉館。
2001年から、2016年までは特に何にも利用されずに保全され、2017年に複合施設「ミライザ大阪城」として再開業。

この建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年(1931年)市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。

外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。

戦後は、大阪市警視庁として、またそのあとは大阪府警察本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
その後、耐震補強工事などのリノベーションが施され、平成29年(2017年)10月、装いも新たに複合施設「ミライザ大阪城」としてよみがえりました。


明治天皇駐蹕之所

大阪市青年聯合團によって建てられた石碑。
大正14年(1925年)5月10日建立。


明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡

あぁぁ、見逃したあ、、、
司令部庁舎前の向かって左側の植え込み、、、


山里丸石垣の機銃掃射痕

山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった、山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

機銃掃射痕が、斜めに刻まれていた。


天守大石垣の爆撃被害跡

天守大石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)陸軍の関連施設が集中していた大阪城は終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

石垣が「ずれ」ているのがよくわかる。
爆撃の衝撃の大きさが、如実に伝わってくる。

※撮影:2024年5月


海保最大の練習船「PL23 いつくしま」一般公開(横浜港)

最新鋭の新造船である海上保安庁の練習船「いつくしま」が、横浜港に入港し一般公開があったので、見学してきました。

今年7月に配備された海上保安庁の最新鋭の練習船「いつくしま」
全長134メートル、5500トンと、これまでの練習船で最も大きな船となる。
海上保安大学校の研修生を乗せた航海実習の一環で、初めて横浜港に入港し、一般公開となった。


PL23 いつくしま(巡視船兼練習船)

三菱重工下関造船所江之浦工場で進水し、2024年7月1日に海上保安庁に引き渡しをされた新造船。
総トン数は5,500トン。全長は134メートル。

呉海上保安本部に配属された第六管区唯一の「PL型巡視船」。
海上保安大学校に派遣され、海上保安大学校5代目練習船を兼務。

海保初の「2段船橋」が導入されている。
通常の「航海船橋/航海操舵室」の真下には、訓練で実際に船を操舵できる「実習船橋・実習操舵室」と呼ばれる部屋があり、ふたつの操舵室がある。
船体後部の訓練甲板はこれまでの「練習船こじま」とは違いヘリの離発着は考慮されていない。

2段船橋。
上段が通常の航海船橋・操舵室
下段が実習用の船橋・操舵室
操船権を切り替えることで、どちらでも操船可能。

練習船であっても「PL型巡視船」として、「20mm機関砲」を1基備える。


練習船いつくしま一般公開

船内見学を。

Japan Coast Guard Academy
Training Ship
ITSUKUSHIMA
since 2024.7.1

海上保安大学校
練習船
いつくしま
2024年7月1日竣工

海上保安大学校のシンボルマーク

20ミリ機関砲

最近の護衛艦は、イージス艦橋ばかりで、こういった通常型の船橋は、久しぶり。


正義仁愛

貴賓室に掲げられた、初代長官大久保武雄の書。

正義仁愛
昭和23年冬
海上保安庁長官
大久保武雄

海上保安庁発足の日(昭和23年5月1日)、大久保武雄初代長官は、「海上保安庁の精神は“正義と仁愛である”」と訓示した。
正義とは、海上治安維持によって立つ精神であり、
仁愛とは、人命保護と航行安全の象徴です。
発足以来、海上保安庁の業務は時代に合わせて変わりつつありますが、「正義仁愛」という言葉は、個々の海上保安官に浸透するとともに、海上保安庁の伝統として、今も脈々と受け継がれている。


いつくしま船内

高速警備救難艇

航海船橋の操舵室。

操船室の海図。

実習用操舵室。

飛び出し防止。

書棚も飛び出し防止。

武器部完成図書の閲覧は、航海長の許可が必要。

教室。椅子も机も揺れに備えて固定されている。

精進
国土交通大臣・斎藤鉄夫

通路

新造船だけあって、ピカピカ。

学生公室は、食堂を兼ねているようだ。

椅子は鎖でつながれています。

洗面台

浴場

洗濯室

「清水」は貴重。

4人部屋
ベットは4つあるが、机は4つない。。。
それなりの体格の学生が、物理で4人この部屋に入ったら、結構な圧迫を感じそう。

救命胴衣室

後甲板

海保のシンボル「コンパスマーク」。
羅針盤をデザインしたシンボルマークと、海の色を表す濃い青色。


横浜海上保安部・横浜海上防災基地

「PL31 いず」が停泊中。約3,500トン。
「いつくしま」よりも小型船となる。

「PM36 おきつ」が入港してきました。
清水海上保安部の所属船。


「呉」x「いつくしま」のコラボTシャツ!!

船内で記念にTシャツをもらいました!!

「呉」x「いつくしま」のコラボTシャツは嬉しすぎる。

※撮影:2024年9月


関連

濃飛護國神社(大垣)

2024年6月に大垣に立ち寄る機会があったので、大垣城の護國神社を参拝してきました。
御英霊に感謝を。

時間の都合で、午前5時台という早朝参拝でした。
社務所開始前のために、御朱印などはいただけず。また再訪したいものです。


濃飛護國神社

大垣城址(大垣公園)に鎮座する。
岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の戦没者1万8900余柱を祀る。

現在、岐阜県には主要な護國神社が3つ存在している。
「濃飛護國神社」「岐阜護國神社」「飛騨護國神社」

創立の順番
 1870年(明治3年)  大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)
 1909年(明治42年) 高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)
 1940年(昭和15年) 岐阜城金華山の麓に岐阜護國神社

1869年(明治2年)、旧大垣藩主・戸田氏共が戊辰戦争に参加した大垣藩士の戦死者54名を祀るため、大垣城下の操練場に仮招魂祠を創建したのに始まる。
1870年(明治3年)に大垣城内に「大垣招魂社」(後の濃飛護國神社)が創建。
1875年(明治8年)9月、国庫から毎年神饌、祭祀料、営繕費が支給されることになり、「官祭招魂社」(大垣招魂社)となった。

1939年(昭和14年)3月27日に官祭「濃飛招魂社」に改称し、次いで「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)による同年4月1日の官報告示を以って内務省指定の「濃飛護國神社」と改称した。
社殿造営工事中の1945年(昭和20年)7月29日、大垣空襲で本殿、拝殿、社務所を全焼。
現在の社殿は、1956年(昭和31年)4月に起工。1958年(昭和33年)4月21日に本殿が竣工し、翌1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

岐阜県内では、濃飛護國神社と岐阜護國神社が、内務省指定護國神社となっている。(飛騨護國神社は指定外護國神社)

濃飛護國神社
陸軍大将 林仙之書

社号標は、大日本傷痍軍人会大垣市分会による建立。
林仙之は、大日本傷痍軍人協会会長を勤めていた縁で揮毫。

参道

1965年(昭和40年)に、西濃運輸(現・セイノーホールディングス)創業者・田口利八が大鳥居を奉納。

1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

官祭招魂社
陸軍中将 上田太郎 謹書

濃飛護國神社になる前時代の社号標。
上田太郎は岐阜県出身。第19師団長などを歴任。

濃飛護國神社裏参道
天皇陛下皇后陛下御親拝記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝されている。

御本殿


神馬像(濃飛護國神社)

日露戦役満二十五週年記念

招魂社

天皇陛下 皇后陛下 行幸啓記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝


石灯籠(濃飛護國神社)

愛国婦人会安八郡幹事部
明治43年4月建之


忠魂顕彰之碑(濃飛護國神社)

忠魂顕彰之碑
戦さのため若くして異国の地に散られ給ひし御霊の華は 
郷土の幸を祈りて永久に美しく咲き給ふ
拝礼


傷痍之碑(濃飛護國神社)

傷痍之碑
日傷援護議員協議会々長 衆 議 院 議 員 武藤嘉文 書

平成元年3月吉日建之
財団法人岐阜県傷痍軍人会西濃支部


恒久平和之碑(濃飛護國神社)

恒久平和之碑
シベリヤ抑留者ダモイ会
 今川順夫書

平和記念碑建立の志
 昭和20年8月15日に、第二次世界大戦は漸く終戦を迎える事が出来た。しかしその当時旧満洲地区に居た約60万の日本軍将兵及び民間人は、直ちにソ連軍の支配下に入り、極寒のシベリア地区抑留の身となった。
 ラーゲル(収容所)生活では、粗末な服装と僅かな食糧を与えられただけで、冬は零下60度の寒さに耐え、夏はブヨとダニの猛襲に悩まされ、シベリアの雪の中での大木の伐採や、バム鉄道(第2シベリア鉄道)の路盤工事、炭坑での石炭堀等の重労働を強いられ、明日の命が誰一人として保証されなかった中で、男泣きに泣きながら歯を食いしばり唯ひたすら「何時かはダモイ」(日本へ帰る)皆でダモイ・ダモイを合言葉に、それを一つの盾とし、又大きな励みとして、一日も早いダモイに望をかけ、厳しい労働に耐え忍び、漸く生き伸びて帰還することが出来たのである。
 しかし中には飢餓と酷寒と重労働など、あまりにも生き地獄のような過酷な条件に耐え切れず、幾多の戦友がシベリアの地に散っていった。その数は6万とも10万ともいわれて居る。
 今思いを致せば当時のシベリアの悲惨さが、脳裏に深く焼き付き、改めて平和の尊さが偲ばれるのである。
 私達シベリア抑留者西濃地区ダモイ会会員一同は、これらの悲惨な戦争は二度としてはならないと心に誓い合い、永遠の人類平和のために此処に平和の碑を建立し、後世に残すものである。
 1991年(平成3年)8月9日
   大垣市・西濃地区ダモイ会  会長 今川順夫

此の恒久平和の碑は1945年、中国満州の地において終戦、日本に帰れると思ったら、ロシヤ軍によって強制連行され日本兵約60万人以上の人が極寒のシベリアの地において飢餓と、重労働に苦しみながら約6万人以上異国の土と化した。 明日の命がだれ一人として保証されなかったなかで、このような悲惨なことが二度とあってはならないと平和の誓いを込めてこの碑を建立しました。
   大垣西濃地区ダモイ会(ダモイとは帰る)
  「国の賠償に代わる労務提供者」として我々は抑留された。


大垣城址

大垣城は国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失している。

※撮影:2024年6月


関連

岐阜護國神社

ふりかけ食の元祖「旅行の友・タナカのふりかけ」(靖國神社遊就館特別展「兵食」)

広島市に本社を置く、田中食品株式会社。「タナカのふりかけ」で有名。

https://www.tanaka-foods.co.jp

もっとも東日本に在住している私は、実は「タナカのふりかけ」を全く知りませんでした。
どうやら主に西日本で流通しているという「タナカのふりかけ」。
ふと、靖國神社遊就館特別展で目にしたことから、気になって、少しだけ、ふりかけの歴史を深掘りをしてみました。

靖國神社 令和6年 遊就館特別展
【兵食 陸海軍の食事から、英霊に捧げる「神饌」まで】 

https://www.yasukuni.or.jp/yusyukan/news_detail.html?id=532


タナカのふりかけ「旅行の友」

1901年(明治34年)に田中商店(現・田中食品株式会社)を創業した田中保太郎は、海軍の要請に応えて「ふりかけ食」を開発したことにはじまる。

1914年、第一次世界大戦が勃発。日本海軍は、日英同盟にもとづきドイツに開戦し、太平洋のドイツ領植民地(サイパン、パラオなど)へ侵攻。
そこで、海軍は、南方独特の問題に直面した。それは、太平洋の南の島国は、気温・湿度が高く、当時の日本の伝統的な保存食である漬物や味噌さえも腐ってしまうという食糧問題であった。そこで海軍は、当時呉の町で漬物商を営んでいた田中食品へ「持ち運びに便利で日持ちが良く、栄養価の高い保存食を作って欲しい」と、新しい保存食の開発を要請した。その中で開発されたのが「ふりかけ食」であった。

軍部の要請で開発された「ふりかけ食」は好評を博したため、1916(大正5)年には、これを「旅行の友」として一般向けに発売。当時では画期的な容器だった筒型の缶容器。
「旅行の友」という名称は「旅のお供になるように」という願いと、田中保太郎の妻「トモ」に由来する。
デザインは欧亜連絡列車でもあった特急「冨士」の流線型国鉄C55形蒸気機関車が描かれている。

「旅行の友」は大正初期より自然の素材を主原料に作られているロングセラーのふりかけ。小魚とごま、海苔など自然の味を大切にした本物の味。カルシウムが豊富で、こどもから大人までみんなに愛され続ける伝統の味でもある。

https://www.tanaka-foods.co.jp/joy/about.html


慰問ふりかけ

靖國神社遊就館特別展「兵食」展示シートより

内地からの慰問のふりかけ「旅行の友」
大正時代の初め、軍の要請で「持ち運びし易く、日持ちし、栄養価の高い食品」として、小魚魚粉を主原料にした、おいしくカルシウムたっぷりのふりかけが誕生しました。戦時中は、内地から送られる慰問袋に入れられ、戦地の将兵に大変喜ばれました。、当時は画期的な容器だった筒型容器を、そのままの形で再現しています。

陸海軍御用品
ステキにうまい
旅行の友

滋養豊富
軽便重宝

専売特許

日本国旗と満洲国旗

戦前・戦中期の戦用糧食・慰問品
軍事法規研究会 専任研究員 大木浩明 蔵 


復刻版「旅行の友」

タナカのふりかけ 旅行の友復刻版 

https://www.tanakafoods.net/SHOP/7550.html

2022年には復刻版が販売されている。

御飯にかけて ステキにうまい
旅行の友
滋養豊富 軽便副食

さすがに、すこしだけフレーズが変わりましたね。

三度の食事に 是さえあれば大丈夫! お惣菜の単一化、
それで居て 栄養価満点の 副食物!

愛され続けて100余年
創業明治34年
旅行の友
「栄養価の高いものをいつまでも美味しく食べてもらいたい」という「子を想う親心」から生まれました。

変わらぬ、伝統の味わい。
奇しくも、「ふりかけの元祖」を知ることができたのは、良い学びでした。


靖國神社 令和6年 遊就館特別展
「兵食」陸海軍の食事から、英霊に捧げる「神饌」まで

2024年の靖國神社遊就館特別展。

他にも見どころ多数。
食にまつわる展示は、いままでになかった目線。
食事中の兵隊さんたちの笑顔の写真が、なんか、心にぐっときまして。

陸海軍の兵食、御英霊の食にまつわるエピソード、靖國神社の神饌など、見どころ多数。

※撮影:2024年9月


靖國神社関連

はじめに

戦後の食糧難から生まれた「仙台牛タン焼き」

戦後日本。GHQ統治下にあった昭和20年代の日本は慢性的な食糧難にあった。


昭和20年代の仙台

第二次世界大戦後、仙台にもGHQが進駐。
大量に牛肉を消費する駐留米軍が残したタンとテールを有効に活用するために、1948年(昭和23年)、仙台の焼き鳥店「太助」初代店主・佐野啓四郎が、牛タンシチューより着想し、知識・技術を用い、牛タン焼きの専門店を開業したことが「仙台牛タン」の始まりという。

「牛タン定食」は、当時の食糧難(農地改革や戦後開拓をしてもコメ不足)を反映した「麦飯」、電気冷蔵庫が普及する前の時代に望むべくもない生鮮野菜に代わる「野菜の浅漬け」、佐野啓四郎氏の出身地である山形県の伝統料理「味噌南蛮」、エネルギー革命前で都市ガスが一般化していなかった当時の燃料事情を反映した炭火による牛タン焼き、そしてテールスープが構成要素となっている。

ちなみに、GHQ進駐軍は、多くは解体された牛肉の正肉ばかりを輸入していたため、臓物の牛タンの充分な供給元としては望めず、多くの牛タンを必要となった際には、周辺県の屠畜場にまで牛タン等を求めることとなったという。


初代牛タンの味を生み出した、佐野啓四郎氏

佐野啓四郎氏は、山形県西村山郡西里村(現・河北町)の生まれ。
20代のころから、料理の世界に入り、割烹料理で住み込みで働いていた。毎朝築地市場に買い出しに行く中で知り合った中華料理・洋食・和食の各店で働く人々との交流において牛タンや牛テールの美味しさを知らされ、在京中にフランス人シェフがいる洋食屋にてタンシチューを食する機会もあった。
昭和16年に太平洋戦争が始まる。
佐野は1942年(昭和17年)に、徴用され宮城県柴田郡船岡町(現・柴田町船岡)の第一海軍火薬廠に配属となったが、明け番の日は商売をしても良い職場だったため、船岡で焼き鳥屋を始めた。
昭和20年8月の終戦を機に、佐野は仙台に移り、焼き鳥屋を開店し、物資不足の中で、牛タンや牛テールの活用研究を開始した。
昭和23年、佐野は新たに「太助」を開店し、佐野が考案した「牛タン焼き」の提供が始まった。

牛たん焼きの誕生は、戦後の混乱期に当たる昭和20年代。
仙台市一番町に焼鳥屋を営んでいた、佐野啓四郎氏によって生み出された。
佐野氏は、洋食レストランで口にした、タンシチューにヒントを得て、日本人の口に合う牛たん料理作りに没頭した
試行錯誤を重ね、シンプルな味付けで素材そのものの風味が楽しめる、牛たん塩味を考案。
店では、23年から販売を開始した。
その人気に、宮城県や仙台市の観光担当者も注目し、「年間を通して口に出来る郷土料理にしてほしい」と、佐野氏に協力を要請。
これにより、今ではおなじみとなった、麦飯・テールスープとの“黄金”セット「牛たん定食」が誕生した。
評判は瞬く間に広まり、牛たん屋「旨味太助」には連日マスコミが殺到。同店が出演した全国放送番組には、多方面から注目を浴びた。

なお、佐野を創業とする現存する店舗「太助」は、2系統に別れている。
「味・太助」は創業者・佐野啓四郎の息子が2代目を務める店。
「旨味・太助」は創業者・佐野啓四郎の一番弟子の娘婿が店主を務める店。
今回は、とくに意図はなく、「旨味・太助」に足を運びました。


旨味・太助

良い店構え。

牛たん定食

創業当時のままの噛み応えのある塩味の牛タン。これは満足度が高くて美味。

麦飯と牛テールスープ

牛たんの塊

塩味の炭焼き

※2024年9月


関連

軍隊保存食にもなった信州ソウルフード「みそぱん」

信州松本駅の売店で、出会いました。


みそぱん(味噌パン)

どうも世間には、何種類か、みそぱん(味噌パン)と呼ばれるものがあるらしい。
「みそぱん」として、下記に分類される。

  • 菓子パンタイプ
     味噌を練り込んだ焼き菓子タイプ:北海道・宮城・山形・長野
  • 蒸しパンタイプ
     蒸しパンに味噌を練り込んだタイプ:福島
  • 惣菜パンタイプ
     コッペパンなどに味噌を塗ったタイプ:群馬
     トーストに味噌を塗ったタイプ:愛知

惣菜パンとして、群馬県沼田市の「フリアンパン洋菓子」の「沼田名物・みそぱん」は、昭和47年(1972年)の販売。

https://friand.co.jp/misopan


蒸しパンとして、福島県福島市の「駒田屋本舗」の「元祖みそぱん」は、1980年代の発売。

https://www.komadaya.jp/misopan

でも、今回、話題にしたいのは、蒸しとか惣菜ではなく「菓子パンタイプ」の「みそぱん」になります。


信州のソウルフード「みそぱん」(日新堂・安曇野市)

軍隊の保存食としても食されていた「みそぱん」。

日新堂「みそぱん物語」より

みそぱん物語
 味噌は ご存知のとおり穀物を発酵させて作った発酵食品で、日本の定番調味料です。その歴史は古く縄文時代からある日本独自の調味料ともいわれ、奈良時代には味噌の原型と思われる「未醤(みしょう)」が文献にも残っています。

 かつては各家庭で作られて「手前みそ」という表現が生まれました。戦国時代には兵糧として重宝され、兵士の貴重な栄養源になり、朴葉味噌などに名残を残しています。江戸時代の軍隊用の保存食になるヒントになったと考えられます。味噌は各地の風土・気候を反映して、材料や熟成方法など全国に多様な味噌が定着しています。

 みそぱんは 「パン」という名前がついていますが、お饅頭やお煎餅、かりんとうなどの味付けにもなる味噌を使った焼き菓子に分類されます。
 江戸時代の末に軍隊用の保存食として全国で作られ、他地域では作られなくなったものが、松本地方では今でも残っています。

 信州では 祭事や式典などでよく配られていました。昭和40年代頃までは小学校の元日の登校日や学校のお祝いの際に熨斗紙に包まれたみそぱんが配られていたそうです。現在でも幼稚園や保育園、小学校の入学式、運動会などで配られているところがあります。

 一般的な作り方は、味噌と薄力粉と水、重曹、砂糖をよく混ぜて固めの生地をつくって焼き上げます。当社では、より食べやすくアレンジしており、ソフトでサクっとした食感で口の中でとろけ、やさしい甘さとほんのりとしたしょっぱさがクセになります。信州産味噌を練りこんでおり、素朴な風味が懐かしさを感じさせます。牛乳やコーヒーによく合い、お子様のおやつにも喜ばれています。

https://www.misopan.co.jp/misopan

信州のソウルフード「みそぱん」
 「みそぱん」は、信州地方で古くから親しまれてきた定番の郷土菓子です。これは「パン」という名称がついているものの信州みそを練り込んだ焼き菓子に分類されます。江戸末期に軍隊用の保存食として作られていたものが今に続いており、現在でも地域の祭事・式典をはじめ、幼稚園や保育園、小学校への入学式、運動会で配るところが多くあります。
 ソフトでサクッとした食感、やさしい甘さとほんのりとしたしょっぱさがクセになる、信州のソウルフード「みそぱん」。子どもから大人まで、永く愛され続ける素朴な味を、心ゆくまでお楽しみください。

素朴な味わい。ほのかな味噌の味わいに、最近、口にしていなかった優しさを感じる、美味。


河口湖自動車博物館・飛行舘(2024年8月版)

このところ、夏の恒例となりつつある「河口湖自動車博物館・飛行舘」詣で。
今年で、3年連続、です。

2025年の記事はこちらです


前回の記録

2022年

2023年


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

エンジン部が機首に!

中島飛行機が開発。大日本帝国海軍の艦上偵察機。
実用化した海軍機の中で、彩雲は海軍最速機として陸上偵察機としても活用され、米軍機の追跡を振り切った際に「我ニ追イツクグラマン無シ」の名言も残っている。

1944年に愛知の半田製作所にて量産が開始。半田1号機は1944年6月に完成。終戦までに463機生産(半田では427機)されたという。

河口湖自動車博物館・飛行舘とアメリカ国立航空宇宙博物館(非公開)にのみ現存。
河口湖自動車博物館・飛行舘では、現在進行系にて、彩雲の復元作業に着手している。

艦上偵察機 彩雲 11型1290号機
C6N1 (英語名 MYRT)
本機は、昭和17年春から開発が始まり、昭和19年春には、わずか2年という短期間で試作1号機を完成させている。
日米戦争、最後の切り札として造られた、レシプロエンジン機で、1945年の敗戦までに463機が製造された傑作機である。
2,000馬力を誇る、星型18気筒の中島製”誉(ホマレ)”エンジンを搭載しており、戦後米国のテストでは、時速約700km/hを記録。現在でも量産レシプロエンジン機の最高速記録を保持している。
米軍機グラマンを振り切った時の「我ニ追イツク敵機無シ」というパイロットの無線連絡は有名な話だ。戦後、戦闘機はジェットエンジンに変わったが、彩雲のために考案された多くの新技術は、それらの戦闘機にも採用されている。
世界的に見ても、彩雲は日本が持つ技術力の結晶であったのだ。

本機は、2000年頃にトラック春島のジャングルで発見された。
55年もの間、熱帯湿原のなかで放置されていたため、朽ち果てていたが、ほぼ完全な状態を保っていた。
現在、世界中で米国スミソニアン博物館と河口湖飛行舘の2機が現存するのみで、非常に重要な技術遺産である。
飛行舘でじゃ2020年9月より、本機の復元作業を開始している。

艦上偵察機 彩雲 11型1290号機
Nakajima C6N1 MYRT
この彩雲は、最高速度654Km/h、最大航続距離5,000kmを誇る、日本海軍の高速偵察機である。
設計は、中島飛行機小泉製作所の山本良造、福田安雄、2名の技師にゆるものだ。太平洋戦争の開戦により、日本海軍は急遽、優れた偵察機が必要になり、昭和17年1月、中島飛行機に開発指示が下った。
要求された最高速度630km/hを実現させるためには、2,000馬力級のエンジンが必要であったが、当時そのような高出力エンジンは存在しなかった。山本、福田両技師は、1,000馬力級の星型エンジン2基を串刺にして、同軸でプロペラを駆動させることで要求を満足させようと考えていたが、幸いにも開発中であった、1,800馬力エンジンの実用化に目処がついたため、このエンジン”誉(ほまれ)”を搭載することで開発が進められた。エンジン出力の不足分は機体の設計技術により補うことで対応した。
彩雲には様々な新技術が採用された。それらの技術は現在の航空機にも使われている。今なお、傑作機として名を残している由縁であろう。

昭和18年4月26日に小泉製作所で量産試作機が完成。
翌年の昭和19年4月には愛知県の半田製作所にて、本格的な量産が開始され、終戦までに463機もの彩雲が生産されている。
現在は、河口湖飛行館とアメリカの博物館の”2機のみ”が現存するが、アメリカにある機体は未公開で、未だ復元が開始されていないため、ここに展示されている彩雲が、世界で初公開となる。

艦上偵察機 彩雲
太平洋戦争の終わり頃に、最新の技術を取り入れ、中島飛行機で開発され造られた、高速で飛べる偵察機である。
強力なエンジンにより、時速654kmのスピードで飛行できた。
現在でも量産プロペラ飛行機の最高速度の記録を持っている。
てんじされている機体は、ミクロネシアのジャングルに隠されていたもので、2000年頃に発見された。
その後、河口湖飛行館に運ばれ、現在修復が行われている。
政界で、この彩雲を見ることができるのは、ここ河口湖飛行館だけなのである。

写真多めに。

ホマレ

誉11型(彩雲用エンジン)
中島飛行機と日本海軍航空技術廠発動機部が開発した航空機用空冷式レシプロエンジン。
1942年(昭和17年)9月に生産が始まり、銀河、彩雲、疾風や紫電改など第二次世界大戦後期の航空機にメーカーや機種を問わず幅広く搭載された。

彩雲 操縦席
復元機に装着されていたオリジナル」操縦席で、裏側には当時の塗装も残ている。
体がすっぽり収まるバケット形状で、素材は超ジュラルミン製である。
左右にある金具には肘掛けが取り付けられ、長時間飛行でもパイロットが疲れないように配慮されていた。
背面にある2本のパイプは座席の昇降用。

今回は、彩雲の写真のみで!


無戸室浅間神社 ( 船津胎内神社 )

ちかくなので、ちょっと寄り道。これはただの観光ですね。
この日の富士山は雲隠れ。

船津胎内樹型

入口が社殿内に。

前の日は雨だったので、ちょっとぬかるみが。。。

これはなかなか過酷。。。

母の胎内

父の胎内

出口!

そういえば。まだ河口湖の温泉に足を運んでいなかったです。

なんかJRの駅っぽい、富士急河口湖駅。

※2024年8月


世界一美しい帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」(イタリア海軍帆船・東京港)

東京国際クルーズターミナルに世界一美しい帆船と言われているイタリア海軍の練習帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」(「Amerigo Vespucci」号)が入港してきました。
令和6年8月25日(日)入港、30日(金)出港。
歓迎イベント「Villagio Italia」にて、平日のみ一般公開があったので、足を運んでみました

Amerigo Vespucci World Tour 2023-2025

https://tourvespucci.it/jp


アメリゴ・ヴェスプッチ号(イタリア海軍練習船)
Italian Navy training ship Amerigo Vespucci

「世界一美しい帆船」とされるイタリア海軍(Marina Militare)のアメリゴ・ヴェスプッチ号(Amerigo Vespucci)は、イタリア海軍の練習艦として、1931年に進水。
母港は、イタリアのラ・スペツィア(La Spezia)。

探検家アメリゴ・ヴェスプッチにちなんで命名。
アメリゴ・ヴェスプッチは「新世界」がアジアの一部ではなく、道の4つ目の「新大陸」であったことを論証した探検家にして地理学者であった。
「新大陸」はアメリゴのラテン語名アメリクスの女性形として「アメリカ」と後に呼称された。

 1925年、王立イタリア海軍(Royal Italian Navy、王立海軍 レジア・マリーナ Regia Marina)は、2隻の練習艦を発注した。
1番艦のクリストフォロ・コロンボ号は1928年に就役し、1943年までイタリア海軍で使用された。 第二次世界大戦後、戦争賠償金の一部としてソ連に引き渡され、まもなく退役した。
2番艦のアメリゴ・ヴェスプッチ号は、1930年にカステランマーレ・ディ・スタビア(ナポリ)の(旧)王立海軍造船所で建造された。
1931年2月22日に進水し、同年7月に就役。

アメリゴ・ヴェスプッチ号は全長82.4m(270フィート)、バウスプリットを含む全長101m(331フィート)、最大幅15.5m(51フィート)の総艤装3本マストの鋼船で。 喫水は約7m(23フィート)、満載時の排水量は4146トン。 補助ディーゼル電気推進により、アメリゴ・ヴェスプッチは時速10ノット(19km)に達し、航続距離は6.5ノットで5450海里。
2013年から2016年に掛けて近代化改装が行われ、ディーゼルエンジンを搭載。

3本の鋼鉄製マストの高さは50メートル、54メートル、43メートルで、合計2,824平方メートル(30,400平方フィート)の帆を張っている。
アメリゴ・ヴェスプッチ号には26枚の帆があり、角帆、ステイセイル、ジブなど、すべて伝統的な帆布の帆を用いている。 強い海風条件下で帆を張ると、時速12ノット(22km)に達する。
約30kmに及ぶロープは伝統的な麻のロープのみを使用し、係留索だけは港湾規制を遵守するため合成繊維を使用している。

アメリゴ・ヴェスプッチ号の標準的な乗組員は、士官16名、下士官70名、水兵190名である。海軍兵学校(アカデミア・ナヴァーレ)の中等士官が乗船すると、乗組員は合計約450人になる。


東京国際クルーズターミナルのデッキから

デッキから、見学。軍艦旗のはためきが美しい。

イタリア海軍の軍艦用国籍旗(イタリア海軍紋章)

軍艦旗の中央に使用される紋章は、中世、地中海の覇権を争い、「海洋共和国」(レプブリケ・マリナーレ)と呼ばれた都市国家の紋章を組み合わせたもので、左上がヴェネツィア共和国(聖マルコの獅子)、右上がジェノヴァ共和国(白地に赤十字)、左下がアマルフィ公国(青地に白のマルタ十字)、右下がピサ共和国(赤地に、使徒を示す12の珠の付いた白十字)となっている。イタリア海軍もイタリア商船も共通で使用している。

イタリア海軍の軍艦旗
イタリア海軍の軍艦旗は、国旗と王冠と紋章で構成。

日の丸掲揚
ありがとうございます

船首

中央に最新のアンテナ群。近代化改装の賜物。

おっ、東海汽船のジェットフォイルだ。
「セブンアイランド愛」


東京国際クルーズターミナルの岸壁から

裸婦像
なんだろう。航海の女神的なものかな。


アメリゴ・ヴェスプッチ号の船内

※撮影:2024年8月


関連

イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「金沢まつり花火大会」の夜(横須賀)

2024年8月24日の夜。
イタリア海軍の空母「カブール」(ITS Cavour C 550) と「金沢まつり花火大会」を、写真中心に。


イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「花火」

例の高台にて。
花火とは知らず、三脚を保有していなかったが、一脚を駆使して、なんとか頑張って撮影してみました。

艦橋がイタリア三色旗「トリコローレ」に彩られている。


ヴェルニー公園の夜

高台から、ヴェルニー公園に移動。

イタリア海軍フリゲート艦「アルピーノ」
ピントが甘いですが。


フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」

フランスの国旗三色旗(トリコロール)に彩られ。

※2024年8月24日撮影


イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「YOKOSUKA軍港めぐり」(横須賀)

2024年8月。イタリアの空母「カヴール」が日本に初めて寄港した。
横須賀にその様子を見に行ったので、写真メインで。


イタリア海軍航空母艦(軽空母)
「カヴール」(Cavour C 550)

カヴール(Cavour, C 550)は、イタリア海軍の軽空母。艦名はイタリア王国の初代首相カミッロ・カヴールに由来する。
2001年7月17日に起工、2004年7月20日に進水、2008年4月27日に就役。
スキージャンプ勾配つき全通飛行甲板となる。
艦載機は、「AV-8B ハリアー II」と「F-35 ライトニング II」の短距離離陸・垂直着陸(STOVL)型を搭載する。

「YOKOSUKA軍港めぐり」を活用して、イタリア空母を見学。

「AV-8B ハリアー II」

「F-35 ライトニング II」

イタリア海軍旗と「F-35 ライトニング II」

艦橋

艦首に、単装砲塔オート・メラーラ 76mmスーパー・ラピッド砲

なんか抗議船がいました、海保の皆様、ご苦労さまです。

例の高台からも。

NHインダストリーズ(NHI)「NH90」艦載ヘリ

ハリアーⅡ、はじめて見ました!


イタリア海軍フリゲート艦「アルピーノ」

カルロ・ベルガミーニ級フリゲート「アルピーノ(Alpino F 594)」。
対潜型フリゲート艦。
2012年2月23日に起工し、2014年12月13日に進水、2016年9月30日に就役。

カヴールとアルピーノ


フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」

フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」(FS BRETAGNE D 655)
米軍基地に、フランス海軍も入港。
アキテーヌ級フリゲート艦(駆逐艦)。
2013年起工、2016年9月16日進水、2019年2月20日就役。

フランス国旗とアメリカ国旗。

フランス軍艦の手前には、日本の潜水艦。


YOKOSUKA軍港めぐり

あとはいろいろ。

日本の潜水艦

米海軍ミサイル駆逐艦ラファエル・ペラルタ (USS Rafael Peralta, DDG-115) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の65番艦。

米海軍ミサイル駆逐艦マッキャンベル (英語: USS McCampbell, DDG-85) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の35番艦。

右は、米海軍ミサイル巡洋艦ロバート・スモールズ (USS Robert Smalls, CG-62) 
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の16番艦。 

左は、米海軍ミサイル巡洋艦レイク・エリー(USS Lake Erie, CG-70)
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の24番艦。

米海軍ミサイル駆逐艦ヒギンズ(USS Higgins, DDG-76)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の26番艦。 

奥は、米海軍揚陸指揮艦ブルー・リッジ(USS Blue Ridge, LCC-19)

左は、ジョン・フィン (英語: USS John Finn, DDG-113) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の63番艦。

沖合に。
海自「くまの」(JS Kumano, FFM-2)

海自「いずも」JS Izumo, DDH-183

ドイツ海軍補給艦「フランクフルト・アム・マイン」が横須賀に入港。

「いずも」と対面。

相模倉庫

船越地区、長浦港。

海洋観測艦「わかさ」AGS-5104

海上自衛隊掃海艦「ひらど」MSO-305

海洋観測艦「しょうなん」AGS-5106

掃海艇「ちちじま」MSC-605

潜水艦は艦名わかんないね。

特務挺「はしだて」ASY-91 迎賓艇。
潜水作業支援船(水中処分母船1号型)「YDT-03」

輸送艇1号型の2番艇(LC-2002)
多用途支援艦えんしゅう(AMS4305)

いろいろいっぱい。
手前から。
護衛艦もがみ(FFM-1)
護衛艦おおなみ(DDD-111)
護衛艦むらさめ(DD-101)
 桟橋
掃海母艦うらが(MST-463)
護衛艦ゆうぎり(DD-153)
潜水艦救難艦ちよだ(ASR-404)

護衛艦てるづき(DD-116)
護衛艦まや(DDG-179)
 桟橋
イタリア海軍アルピーノ(Alpino F 594)

こんな感じで、多国籍が楽しめた2024年8月25日、でした。


ドイツ海軍フリゲート艦「バーデン・ヴュルテンベルク」と補給艦「フランクフルト・アム・マイン」(東京港)

ドイツ海軍の最新鋭のフリゲート艦と、最大級の補給艦が東京国際クルーズターミナルに来航していたので、ちょっと見学。

2024年8月24日-25日の写真。


ドイツ海軍フリゲート「バーデン・ヴュルテンベルク」
(Baden-Württemberg, F222)

ドイツ海軍のフリゲート。
バーデン・ヴュルテンベルク級フリゲートの1番艦。
就役は2019年、満水排水量は、7,316トン。

後甲板に「NFH90哨戒ヘリコプター」を2機搭載。
シーライオン(Sea Lion)
機体には、ドイツ連邦軍を象徴する伝統の「鉄十字」(Eisernes Kreuz)EK(エー・カー)紋章も。

ドイツ海軍もドイツ艦載ヘリも、はじめてみました!
もちろん、ドイツ海軍軍艦旗も。

64口径127mm単装砲(オート・メラーラ 127 mm 砲)

艦名の由来ともなった、「バーデン=ヴュルテンベルク州」の州小紋章

きがついたら、いつの間にか、格納庫が一つ閉じていました。

荷下ろし作業中。


ドイツ海軍補給艦「フランクフルト・アム・マイン」
Frankfurt am Main, A1412

ドイツ海軍の補給艦。
2002年就役。満水排水量は20,240トン。
ベルリン級補給艦の2番艦。
補給艦であるが、27mm機関砲(マウザー BK-27)×4基を実装。

艦名の由来となったフランクフルト・アム・マイン市の紋章


東京国際クルーズターミナル

翌週からの「イタリア」(イタリア帆船「Amerigo Vespucci」号寄港)の準備中。


東海汽船「セブンアイランド結(ゆい)」

25年ぶりに川崎重工にて建造された東海汽船の超高速旅客船「セブンアイランド結(ゆい)」(2020竣工)が、ドイツ艦の後方を走り抜けて行きました。


横須賀(長浦港)

翌日の8月25日。YOKOSUKA軍港めぐりの12時の回にて。
沖合より、ドイツ海軍補給艦「フランクフルト・アム・マイン」が入港してきました。
このあとに、フリゲート艦「バーデン・ヴュルテンベルク」も入港でした。

沖合に停泊する、海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」と、ドイツ海軍最大の補給艦「フランクフルト・アム・マイン」の邂逅。

普段見ることのできない海外艦は、日本とか米国とかとは違っていて、みていて面白いですね!

※撮影:2024年8月


関連

宇都宮市慰霊塔と宇都宮空襲(軍都宇都宮の戦跡散策6)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本編は「その6」です。「その5」はこちらから。


宇都宮市慰霊塔(北山霊園)

北山霊園行きのバスが、宇都宮駅から1時間に1本程度走っている。急に思い立って行こうと思ってもなんとかなる感じではある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tochigi_utsunomiya_city001/index.html

宇都宮市慰霊塔は、北山霊園の奥まった高台に鎮座していた。

以前の写真よりもきれいになっているので、近年の再整備と思われれる。

合掌

昭和四十五年九月
宇都宮市慰霊塔建設委員会
  委員長
  宇都宮市長 小池嘉子

明治以来國運は時に隆替したが遂に今日の繁栄を見たのは先人達が義勇奉公國難に處した賜である
茲に郷土出身の戦歿者戦争引揚死者戦災死者並に公務殉職者の勲を讃えて感謝の誠を捧げ世界の平和と祖國の發展を祈念しこの聖地に慰霊の塔を建てその冥福を祈る


平和の塔(北山霊園)

鳩と地球の平和の塔

平和の塔
  宇都宮市長 小池嘉子

昭和47年4月の建立


陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑(北山霊園)

栃木県出身の陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑。

陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑
 元第十飛行師団長陸軍中将近藤兼利 書

 昭和9年に誕生した少年飛行兵は、同20年太平洋戦争終結までの間に、若干14、5歳の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、日本陸軍航空部隊の中核となり、遼友と靖國の宮での再開を誓い合って、数々の武勲をたて、大空に華と散っていった。
 今は還らぬ友を偲び、英魂を慰め、その偉業を幾世に伝えると共に、永遠の平和を祈念して、生存者一同相はかり、ここに慰霊の碑を建立する。
 昭和49年9月23日
   少年飛行兵栃木県出身 生存者 関係者 一同 建立

皇太后陛下(香淳皇后)御歌
やすらかに
ねむれとぞ思ふ
 君のため
いのちささげ
志ますらをの
 とも


北山霊園

北山霊園は昭和39年開設。

東北新幹線を見下ろす高台

場所

https://maps.app.goo.gl/bHXmJQFgST9wj6uu6

※撮影:2024年8月


宇都宮空襲

軍都であった宇都宮は、軍需工場(中島飛行機)のあった太田市や大泉町ともども、たびたび空襲を受けた。
昭和20年(1945年)7月10日、7月12日、7月28日、7月30日、8月13日が主な空襲とされ、中でも7月12日の空襲ではB-29が133機到来し、市街地中心部を爆撃され600余名が死亡し特に「宇都宮大空襲」と称されている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_26.html

また、7月28日は宇都宮と同時に小金井も急襲されている。(小金井空襲)


枝病院門柱戦災記念碑(空襲を語り継ぐ門柱)

宇都宮市街地に。東武宇都宮駅のほど近く。

空襲を語り継ぐ門柱
 1945年(昭和20年)7月12日、宇都宮大空襲によって当時の市街地の大半が焦土と化し、この地にあった枝病院も焼け落ちてしまいました。
 このみかげ石の門柱は、枝病院院長・枝 全(たもつ)さん宅の玄関を支えていたもので「戦争の悲惨さを忘れまい」との枝さんの重いが込められ、現在まで大切に残されてきました。
 2000年4月1日
  うつのみや平和祈念館をつくる会

場所

https://maps.app.goo.gl/bywMzVXTPU25AJZUA

※撮影:2023年5月


旭町の大いちょう

昭和20年7月12日の宇都宮大空襲で被災し黒焦げとなり枯死するかと思われたが、復活を果たした「宇都宮の復興のシンボル」

樹齢は400年以上とされ、宇都宮城三の丸跡に位置する。
宇都宮城があったころからの現存物であり、宇都宮を取り巻く2つの戦争(戊辰戦争・大東亜戦争)を生き延びた貴重な存在でもある。

宇都宮市指定天然記念物
大いちょう
 昭和32年10月4日指定
推定樹齢 400年
樹高   33メートル
枝張東西 10メートル
  南北 13メートル
目通周囲 6.4メートル
大いちょうは、宇都宮城の三の丸と百間堀の堺の土塁の上にあり、宇都宮城ゆかりの名木である。今では、宇都宮市民のシンボルとして、多くの人々に愛されている。
 宇都宮市教育委員会
  (平成元年3月建)

宇都宮空襲と大いちょう
 宇都宮市は、一九四五(昭和二十)年の七月十二日深夜から翌日未明にかけての空襲で、中心市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者をだしました。大いちょうも、この空襲により、真っ黒に焼けるほどの被害を受けましたが、翌年には、新芽を吹き見事に再生しました。空襲にも負けなかった大いちょうの強さは、戦後、焼け跡に残された宇都宮市民を勇気づけました。
 そのことにより、大いちょうは、宇都宮の戦後復興のシンボルとなり市民に親しまれています。その後、市制九十周年を向かえた一九八六(昭和六十一)年に、「いちょう」は、市の木に制定されています。

場所

https://maps.app.goo.gl/AHNJ8XCT22Vm3XFL8

※撮影:2023年5月


カトリック松が峰教会

大谷石建築としては現存最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築。
1932年(昭和7年)11月20日に聖堂が竣工している。
昭和20年の宇都宮空襲において、屋根と礼拝堂が被災し焼失してしまったが、戦後すぐに復元を果たした。

宇都宮空襲を生き延びた建造物

場所

https://maps.app.goo.gl/6iLiBgSj2KUz9TwFA

※撮影:2023年5月


宇都宮ライトレール

せっかく雷都・宇都宮にいるのだから、噂のライトレールに乗車。


宇都宮餃子と陸軍第14師団

宇都宮餃子は、陸軍第14師団が、1940年(昭和15年)8月以降、衛戍地を満州としたことから宇都宮出身の将兵が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれている。

まあ、せっかく、宇都宮にいるのだから、餃子を。
駅ナカんだけど、ここの餃子、特に水餃子が美味しい!でした。

別の餃子も

※撮影:2024年8月

いったん、宇都宮関連はひとまず〆。
また追記があれば、それはそれで。。。


宇都宮関連

栃木縣護國神社
はじめに

宇都宮偕行社と憲兵隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策5)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その5」にあたります。「その4」はこちら。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


宇都宮偕行社跡(桜美公園)

現在の桜美公園が宇都宮偕行社のあった場所。
偕行社は陸軍将校准士官ら会員同士の親睦・学術・英霊顕彰施設であり、師団所在に設置されていた。

石碑がある。偕行社時代の名残でもある。

御大典紀念植樹之碑
第14師団長山田忠三郎

大正4年11月10日

なにかの跡。これも偕行社時代の名残だろうか。

桜美公園

桜の古木。偕行社時代からと思われる桜。

偕行社時代からかわらない正面の道路。

場所

https://maps.app.goo.gl/tiBNgZt3GsNstovdA

なにやら大谷石の門柱があった。往時のものかどうかは不詳。

偕行社の入口にあたる。


第14師団長庁舎跡(宇都宮合同庁舎)

現在の宇都宮合同庁舎には、自衛隊栃木地方協力本部などが入っている。

軍用地境界標柱(境界標石・境界石)が、敷地の南側にあった。

陸軍省

軍用地境界標は、ほかにも北西側にもあるらしいが、見つけられず。
北西側はきれいになっていたので、消失したのでは、とも思いつつ。

場所

https://maps.app.goo.gl/bHqxDcRQLRxfUS1V8


宇都宮憲兵隊本部跡

師団長官舎の近くに、宇都宮憲兵隊本部があった。
ちょうど、駐車場として、区画が残っており、境界壁がよく分かる。

境界壁

門柱跡

軍用地境界標柱(境界標石・境界石)

削られているが、この雰囲気は、境界標

場所

https://maps.app.goo.gl/Ry7QWuNMjxDVP2SP6


宇都宮憲兵隊分隊跡

宇都宮憲兵隊本部から西に約1キロ。東武宇都宮駅の北側に、宇都宮憲兵隊分隊が展開されていた。宇都宮市街地の中心部。ここにも境界壁と境界標が残っている。

軍用地境界壁

用地

陸軍用地の陸軍が削られ、用地だけのこる境界標柱。

場所

https://maps.app.goo.gl/f9i6gKGWncsYefj86

※2024年8月撮影

「その6」へ


関連

宇都宮歩兵聯隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策4)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


見返り橋(水無橋)

かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zPXbBSDDFJEstx3F7

歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。

いったん北に向かいます。


宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)

歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。

宝木
開拓之碑

碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
 昭和46年3月12日
  宝木開拓農業協同組合

場所

https://maps.app.goo.gl/bM5vn2kj31xCRecQ6


宇都宮歩兵聯隊跡碑

わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。

碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。

至誠
宇都宮歩兵聯隊跡

記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った 
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた 
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した 
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
 昭和38年3月10日
  宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
  および 有志一同

場所

https://maps.app.goo.gl/RzEUFYdMboA2y72r7


宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)

宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/FSVb5ftYrrdAHxGF9

警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。

殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。

胸像は委細不明

栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。


宇都宮歩兵聯隊の倉庫

栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。

明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。

敷地外から遠望。

倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。

場所

https://maps.app.goo.gl/mX4UCfw1DMHRQxtW8

※撮影:2024年1月

「その5」へ


関連

栃木縣護國神社

宇都宮第14師団司令部と衛戍病院の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策3)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その3」にあたります。「その2」はこちら。

また、撮影時期は2024年8月と1月が混在となります。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


第14師団

師団司令部は宇都宮。
日露戦争で日本は従来の師団すべてを動員したため、本土駐留師団がなくなる事態となった。そこで第14師団を含む4個師団が創設された。

明治38年(1905)に福岡小倉で結成。
明治40年(1907)に第14師団の衛戍地が宇都宮となる。
宇都宮第14師団水戸歩兵第27旅団隷下として、佐倉(水戸)歩兵第2連隊と習志野歩兵第59連隊。
宇都宮第14師団宇都宮歩兵第28旅団隷下として、高崎15聯隊と新設された宇都宮第66歩兵聯隊。
明治41年(1908)には、師団司令部が宇都宮の新庁舎に移転し、歩兵第28旅団司令部、騎兵第18連隊、満洲野砲兵第20連隊、輜重兵第14連隊が宇都宮への移駐を完了。翌年に、歩兵第59連隊が宇都宮への移駐を完了。
大正8年(1919年)4月、第14師団はシベリア出兵のため派遣。
大正9年(1920年)5月、ニコラエフスクで守備を行っていた水戸歩兵第2連隊第3大隊と一般市民が過激派によって虐殺される事件、いわゆる「尼港事件」が発生。
大正14年、宇都宮歩兵第66連隊が廃止。松本歩兵第50連隊が第14師団歩兵第28旅団の隷下となる。歩兵第27旅団司令部が水戸から宇都宮へ、歩兵第28旅団司令部が宇都宮から高崎へ移動。

支那事変では、第14師団は華北戦線に投入される。
太平洋戦争が始まると、満洲駐剳師団から南方へ転用され、第14師団はパラオ諸島に展開。
第14師団は主力をパラオ本島に、歩兵第2連隊(およびその配下に編入された歩兵第15連隊第3大隊)をペリリュー島に、歩兵第59連隊第1大隊をアンガウル島に配備。
ペリリュー島・アンガウル島の部隊は全滅し、パラオ本島に残る師団主力は飢餓と空襲で多くの損害をだし終戦を迎えている。

群馬縣護國神社

第14師団司令部・宇都宮衛戍病院跡

現在の栃木医療センター。
南のエリアには、栃木県体育館があったが、2021年度末で持って閉鎖となり、解体中。跡地は栃木県の公共機関の再開発予定。

独立行政法人国立病院機構栃木医療センター

結構大きい。

以下、サイトより。

沿革
明治41年4月20日(1908年) 宇都宮陸軍衛戍病院として創設され、その後、分院の設置を経て、宇都宮第一陸軍病院と宇都宮第二陸軍病院となり、昭和20年12月1日の厚生省へ移管と同時に、宇都宮第一陸軍病院が国立栃木病院へ、宇都宮第二陸軍病院が国立宇都宮病院として、それぞれ発足した。昭和21年12月20日には、この両院が合併し、国立栃木病院となり、更に昭和25年4月1日、本院の隣接地にあった日本医療団宇都宮中央病院を併合した。その後平成13年1月6日、省庁再編成により厚生労働省所管となった。平成16年4月1日に独立行政法人化に伴い、独立行政法人国立病院機構栃木病院となり、平成25年4月1日に独立行政法人国立病院機構栃木医療センターに名称変更した。

https://tochigi.hosp.go.jp/information/outline_shisetsu.html

場所

https://maps.app.goo.gl/6rRsSd3KGppZy6DT7


陸軍第14師団の東営門の門柱(栃木医療センター)

病院の東側の道路にそって、門柱がありました。
一柱は倒れた状態。このまま放置されるのか、消失してしまうのか、ちょっと心配です。

コンクリのモルタルが剥がれて、レンガが露出しています。

内側から

一柱は倒れておりました。

うーむ、な状態。

場所

https://maps.app.goo.gl/cofMc8nPd3PfYu5q9


宇都宮衛戍病院の軍用地境界標

宇都宮陸軍衛戍病院の北西端に。
歩兵連隊との境界にも当たる場所。

右が、陸軍衛戍病院、左が歩兵第59聯隊。

場所

https://maps.app.goo.gl/CwEqDDvsUmitLexr5


陸軍第14師団の西営門の門柱(栃木医療センター)

西側にも門柱が残っています。
栃木医療センターの南西端に位置します。
現在、門柱としては機能していませんが、残す意図があると良いのですが。

場所

https://maps.app.goo.gl/nFmQF8N2JLnf61bz9

※撮影:2024年1月及び8月

「その4」へ


関連

栃木縣護國神社

八幡山地下司令部跡(軍都宇都宮の戦跡散策2)

2024年1月に宇都宮周辺を散策してみました。

本記事は、「その2」です。「その1」はこちら。


旧陸軍地下司令部跡

八幡山公園。宇都宮駅から徒歩で30分くらいの道のり。

そういえば、むかしむかし、2002年に、八幡山公園の南側に鎮座する「蒲生神社(蒲生君平は「寛政の三奇人」として高山彦九郎、林子平とともに名を連ねる人物。天皇陵の探査修復をした「山陵志」で知られている。)」に訪れていた。
その時の私は、全国の神社に夢中だった頃で、戦跡等は興味がなかった年頃(20代前半のころですね)でした。
約20年後に、全く違う目的で、同じような場所に訪れるというのが、奇縁でもあり。

そんなことを思いながら、八幡山まで歩く。

ありました。穴が。

宇都宮には、第14師団の司令部がありました。

旧陸軍地下司令部跡
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、陸軍は空襲と本土決戦に備え、この地に地下司令部を建設していました。6月中旬から約2ヶ月間で、総延長721mにおよぶ横穴を掘り上げました。完成前に終戦となり、実際に使用されることはありませんでした、戦争の悲惨さと平和の大切さを語り継ぐものとして、現在もその姿を留めています。

https://utsunomiya-8story.jp/search_post/%E6%97%A7%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8%E8%B7%A1/

地下壕は、機密保持のため宇都宮師管区の東部36・37・38・42部隊に属する隊員約250人が秘密裏に工事を進めた。
作業隊は11個小隊に分けられ、各々が1か所ずつ出入り口の建設を担当した。
司令部の壕は、「Aライン」から「Jライン」まで10本の壕で構成され、八幡山公園地下を南北に貫く最も長いAラインは364.6 mに及ぶ。他のラインはすべてAラインに接続しており、最も長いCラインが49.6 m、最も短いFラインは25.0 mという。

八幡山公園のアドベンチャーUや交通公園など、北東部に地下壕がある。

入口のつくり
 入口を頑丈にするために、支保工(柱や梁で壁や天井を支えるしくみ)が施されていました。
 壁のくぼみは柱の跡です。

ひょうたん池のむこうに開口部が見える。

入口は2箇所確認でできた。
もう一箇所は、少し南に、ちょっと高い場所に。
南北に連なる開口部の最南部。

一般公開ある時に、また期待ですね。(あるのかな?)


八幡山公園

宇都宮二荒山神社の鎮座する明神山の北に連なる八幡山。
1927年に宇都宮市立八幡山公園として開園。
戦時中は、現在のアドベンチャーUの場所(地下壕の地上部分)は対空高射砲陣地で、何基も設置されていたという。


位置関係

国土地理院航空写真
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ファイル:USA-R389-192
昭和22年(1947年)10月25日、米軍撮影の航空写真。

一部加工

主要拠点は下記となる。

  • 第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。


※2024年1月撮影

「その3」、へ続きます。


関連