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沖縄県庁最後の地「轟壕」と「沖縄の島守・島田彰沖縄県知事」(沖縄戦跡慰霊巡拝9)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その9」となります。

その8は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


「沖縄の島守」島田叡沖縄県知事

兵庫県神戸市須磨区出身。
1901年(明治34年)12月25日〜1945年(昭和20年)6月26日。
兵庫県立第二神戸中学校時代に第1回全国中等学校優勝野球大会(いわゆる夏の甲子園の第1回大会)に出場、東京帝国大学法学部)は野球部のスター選手でもあった。
野球殿堂博物館に建立された戦没野球人モニュメントも島田叡の名前が刻まれている。

当時、前任者の泉守紀沖縄県知事は頻繁に東京に出張していた。(在任期間の三分の一を出張で沖縄から離れていた)、1944年末から1月も東京に出張しており、そうして1945年1月に出張中にもかかわらず香川県知事に転任する辞令を得ており、米軍上陸直前で、後任の沖縄県知事選出が難航している状況であった。

その、沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、大阪府内政部長から、沖縄県最後の官選知事として、島田叡は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。

1944年10月の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前のことであった。

戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力。五ヶ月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で 疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救い「沖縄の島守」として慕われた。

1945年3月、空襲が始まり、沖縄県庁は、首里の地下壕に移転。以後、沖縄戦の選局の推移に伴い、壕を移転させながら、行政を担っていく。

6月7日ごろに、島田叡知事以下の県庁首脳部が「轟壕」に移動。
6月15日の夜、島田叡知事は県幹部・職員・警察官らを集めて県庁の活動停止を命令。そのため轟豪が「沖縄県庁最後の地」とも言われている。
島田知事と荒井沖縄県警察部長は、翌16日朝、摩文仁の司令部に移動。
6月26日、島田沖縄県知事と、荒井沖縄警察部長は、摩文仁の壕を出たきり消息不明となっており、現在まで遺体は発見されていない。享年43歳。最後まで、沖縄県民とともにあった「沖縄の島守」であった。

1945年7月9日、島田沖縄県知事の殉職の報に際し内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞を贈り、「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。内務大臣が一知事に対し賞詞を授与することは、前例がなかった。

墓所は、多摩霊園。


沖縄県庁最後の地「轟壕」

島田叡沖縄県知事がこの地で、沖縄県庁の活動停止を発したことにより、沖縄県庁最後の地とされている。

轟壕
 轟壕は東西方向に伸びる自然洞穴で、地元ではトゥルルチ、またはトゥルルシなどと呼ばれています。
 1945年3月に米軍による空爆や艦砲による攻撃が始まると、真壁村名城の住民が避難しましたが、日本軍の南部撤退で司令部を摩文仁に移した5月末頃から、戦禍に追われた地域外からの住民も避難して来ました。
 6月7日頃に島田叡知事以下の県庁首脳部がこの壕に移動。15日の夜、知事は県幹部を集めて県庁の活動停止を命じており、沖縄県庁最後の地とも言われています。知事は16日朝、摩文仁の司令部に向かいました。同じ頃、銃剣などで武装した日本兵十数人が入り込み、入り口付近を占拠し、軍官民雑居の状態となりました。
 6月18日頃から米軍による、ガソリンや爆薬の入ったドラム缶を落とし込むなどの「馬乗り攻撃」が始まり、死傷者が出ました。手持ちの食糧が尽きた住民のなかには衰弱死する者も出ました。
 6月25日頃、先に米軍の捕虜となった宮城嗣吉さんらが投降呼びかけを再三行ったことから、約500人から600人の避難民は壕を出てきました。

戦没者犠牲者霊供養

合掌

自己責任で。

場所

https://maps.app.goo.gl/RgCtdKnSrNkY79167


島田叡氏顕彰碑

沖縄県最後の官選知事、沖縄戦で殉職した島田叡氏の顕彰碑が、「奥武山公園」に建立されている。
場所は異なるが、島田知事繋がりで掲載。

第27代 沖縄県知事
島田叡氏顕彰碑

《建立の詞》
 1945年1月、島田叡氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第27代県知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
 以来、五か月に及ぶ戦時下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(469柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われます。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園の夢へ育み、大きな励みになりました。
 1972年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄。兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事蹟を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
  2015年6月吉日
   島田叡氏事跡顕彰期成会 会長 嘉数昇明
《碑の構想》
祈り(合掌)、命(ぬちどぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)

《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(『史記』李斯列伝より)
“断じて行えば鬼神もこれを避く”
 …意を決して敢然と行えば、鬼神でさえもその勢いを避ける…
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」
(沖縄赴任に携行した愛蔵書)

「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや、誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
 米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか…という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地になることの必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)

「極限の沖縄戦のなかで『生きろ!』」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ…。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。

「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)

《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまでも全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは障害、それを実行した」(三高野球部球友の回想)

「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部) 東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大三年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還を目指した。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。

「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に…島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和三九年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
 さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。

「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の一年後輩で、野球部で二年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
 「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を祈念につけてもらえないだろうか」

南東側の碑文。島田の生誕の地・須磨と、終焉の地・糸満市摩文仁を詠んだ詩。「北へ」は沖縄戦では「ひめゆり学徒隊」の引率教官も務めた言語学者・仲宗根政善氏(1907~1995)の詩。「南へ」は島田と同じ神戸二中の後輩で詩人の竹中郁氏(1904~1982)の詩。また碑には母校神戸二中(現・県立兵庫高校)の校庭にあるユーカリの樹と摩文仁の海岸の写真が焼き付けられている。

詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
 ふるさとの
 いや果てみんと
 摩文仁岳の
 巌に立ちし
 島守のかみ
  (詠人 仲宗根政善)

南へ(摩文仁・沖縄県)
 このグラウンド
 このユーカリプタス
 みな目の底に
 心の中に収めて
 島田叡は沖縄に赴いた
 一九四五年六月下浣
 摩文仁岳近くで
 かれもこれも砕け散った
  (詠人 竹中郁)

島田叡氏を縁とする深い絆
兵庫・沖縄友愛グランド

 沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、沖縄県最後の官選知事として、島田叡(あきら)は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力し、「沖縄の島守」として慕われる。最後は県民と運命をともにする。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 その島田叡知事の縁によりもたらされた至誠と信頼。そして尊敬を礎とする兵庫・沖縄の交流の歴史は、1972年「復帰の年」に締結された「兵庫・沖縄友愛提携」を機に一層深まり、数々の交流事業が展開された。
 かつてこの地には、兵庫県民から贈られた「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」があり、多くの若者・県民がスポーツやレクレーションを楽しんだ。
 このグラウンドは、スポーツをこよなく愛した島田叡知事が青少年の嬉戯する姿を思い描き、将来にわたって、なお一層の両県の「絆」が発展することを祈念して「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と呼称するとともに、両県の「友愛の証」とする。
  2015年6月吉日  
  島田叡氏事跡顕彰期成会

兵庫・沖縄
友愛グランド

沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地の碑

レリーフは、沖縄・兵庫両県の県花デイゴとのじぎくを図案化したものです。

 沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、日本復帰後の昭和50年(1975年)6月、兵庫県民から「友愛の証」として沖縄県に贈られた。
 そして、スポーツやレクリエーション活動の拠点として、沖縄県のスポーツの振興に寄与するとともに、兵庫県との友愛の象徴として中心的な役割を果たした。
 沖縄・兵庫両県の友愛の絆が、より深く恒常的なものとなることを祈念し、ここに記念碑を建立する。
 平成21年3月  沖縄県教育委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZrXC2YdMirwW6jVf7

撮影:2022年10月


島田叡墓所(多摩霊園)

多摩霊園の11−1−6に、島田彰の墓がある。

合掌

場所

https://maps.app.goo.gl/jqD7D5GueNDJSagy5

※多磨霊園の撮影のみ2025年9月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その10」へ

英空母「プリンス・オブ・ウェールズ」(東京国際クルーズターミナル)

2025年8月、イギリス海軍が誇る空母「プリンス・オブ・ウェールズ」が東京港(東京国際クルーズターミナル)に入港したので、ちょっと観に行ってきました。


プリンス・オブ・ウェールズ (空母)

イギリス海軍の航空母艦(空母)
クイーン・エリザベス級航空母艦の2番艦。
プリンス・オブ・ウェールズとしては、8代目。
就役は2019年12月10日。満載排水量は65,000トン。全長は284m、全幅は73m。


東京国際クルーズターミナル駅から「プリンス・オブ・ウェールズ」

以下、写真にて。

うーん、船の科学館、、、跡地。。。

入場制限。。。


東八潮緑道公園から「プリンス・オブ・ウェールズ」

東京国際クルーズターミナルは立ち入り制限があったので、この東八潮緑道公園からが一番近くでPoWが見える場所。かなり多くの人々が見にきていました。


青海北ふ頭公園から「プリンス・オブ・ウェールズ」

「宗谷」とセットで見たり、艦尾を見たりするなら、こちら。


レインボーブリッジ(台場)から「プリンス・オブ・ウェールズ」

せっかくなので、レインボーブリッジを歩いて、望遠でPoWを観覧。


レインボーブリッジ(中間地点)から「プリンス・オブ・ウェールズ」

海上保安庁の測量船「HL01昭洋」(3,128トン)が手前に。

羽田空港をバックにするために、ジャンボ機の着陸も頻繁に。


レインボーブリッジ(芝浦)から「プリンス・オブ・ウェールズ」

芝浦からでも、見えるんですね。さすが巨艦。

おがさわら丸(総トン数11,000トン、全長150m、全幅20.4m)
11,000トンですら、英空母(65,000トン)と並んでしまうと、かなり小さく見えます。。。

※撮影:2025年8月31日


夜の「プリンス・オブ・ウェールズ」

次の日の夜にも足を運んでみました。夜の空母を見る機会もそうそうないので。

フルターの汚れで光線が伸びてしまい。それはそれで。

※撮影:2025年9月1日

沖縄最古の慰霊塔「魂魄之塔」と「有川中将以下将兵自決の壕」米須霊域(沖縄戦跡慰霊巡拝8)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その8」となります。

その7は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


米須霊域

沖縄本島南部の糸満市に所在する「米須霊域」は、「平和祈念公園」に次ぐ霊域。
米須霊域は、「ひめゆりの塔」の南側に位置している。
米須霊域の西側には、全国植樹祭の会場となった「平和創造の森公園」が広がっている。


有川中将以下将兵自決の壕

歩兵第64旅団長・有川主一陸軍少将(ありかわもりかず・死後に中将)

歩兵第64旅団は、第32軍 第62師団 所属
第32軍隷下の全部隊が玉砕した。

有川中将以下将兵自決の壕

石第64旅団は沖縄県民の絶大なる協力を得て奮戦力闘したが武運拙く、将兵は悉く玉砕し、旅団長有川圭一中将は高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に此の壕で自決した。時は昭和20年6月21日の未明であった。
茲に全国篤志家の賛助を受け、記念の碑を建てその偉烈を後世に伝える云爾
   昭和56年6月21日 建立
     鹿児島県沖縄戦歿者慰霊会

場所

https://maps.app.goo.gl/TpMPfHeQ5hCvy2eHA


魂魄乃塔

沖縄では最古にして最大の合祀数となる慰霊塔。
沖縄戦最後の激戦地「米須」に建立された。
元々は納骨堂であり、沖縄各地に点在する慰霊塔で最古のものとされている。
(ご遺骨は、現在は、国立沖縄戦没者墓苑に転骨されている)

魂魄

<建立の経緯>
糸満市米須集落の南方300m、海岸寄りにある。ここは沖縄戦最後の激戦地であり、日本軍も住民も米軍に追い詰められて逃げ場を失い、陸海空からの激しい攻撃を受け命を落とした人は数多い。敗戦直後、米須地区に移転収容された旧真和志村(現在の那覇市)の住民が米軍の許可を得て遺骨収集班を結成、道路や畑、丘、森に散っていた遺骨を集め魂魄の塔を建立した。合祀柱数3万5000は沖縄では最大の慰霊塔にあたるが、昭和54年2月摩文仁が丘に完成した国立沖縄戦没者墓苑にその大部分は転骨された。
なお、塔は終戦直後の石積みで素手造りであり崩れる恐れがあったため、平成元年補修され、あわせて碑文の刻板が設置された。
塔の裏側には
 にぎたまと なりてしづもる おくつきの
 み床の上を わたる潮風
と刻まれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_007/index.htmlhttps://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/konpakunotou

魂魄の塔
 この地は今次大戦でも一番の激戦地であり、日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡である。
 戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。
 祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後、昭和五十四年二月摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨して安置してあります。
 和魂となりてしづもるおくつきの
 み床の上を渡る潮風
  建立年月日 昭和二十一年二月
   財団法人 沖縄県遺族連合会

和魂となりてしづもるおくつきの
み床の上を渡る潮風
 翁長助静 詠 
  潭洞 書

 歌意は、和魂「平和でもの柔らかな徳を備えた霊魂」となってねむるおくつき(奥津城=墓)のみ床の上を潮風が吹き渡っている、ということです。
 終戦の翌年の昭和二十一年一月、沖縄の各地に散らばっていた旧真和志村民は自分の村に帰る予備的措置として、この米須一帯の地に集結させられました。
 沖縄戦において、島の南の果てまで追いつめられ、逃げ場を失った日本軍や民間人は、ここ
で夥しい数の戦死者をだしました。 戦死者の屍は目をおうばかりに散在し、放置されたままとなっていました。
 このような惨状をみかねた当時の金城和信真和志村長は村民に呼びかけ、遺骨の収集へと乗り出しました。そのとき、糸満高校真和志分校校長をされていた翁長助静先生は、生徒を指揮して遺骨収集の先頭にたつかたわら、この魂魄建立に協力し、表記の歌を墓碑の裏に刻まれました。
 この歌はいわば無名の戦死者に捧げられた鎮魂歌となっています。
 なお、当時の歌碑は長い年月の流れに風化され、歌の文字もほとんど読取ることができないまでに失せてしまっていました。そこで、この歌碑はこれに心を痛めた当時の教え子たちが、戦後五十周年の節目にこの歌碑を建立しました。
       平成七年六月

 沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、20万余の同胞が散華した。
 かかる中で、昭和21年1月23日、九死に一生を得た真和志村民は、米軍によって当地に終結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。
 この光景を痛嘆した金城村長は、先づ御遺体を弔ふべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。
そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我2万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年2月27日、金城村長はこれを魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
 更に、金城ご夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年4月5日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を建立した。
 ひめゆりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第1高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。
 続いて金城ご夫妻は、同年4月9日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立した。
 後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。
 今では、方々に慰霊塔が建つようになったが、思えば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。
 東京大学名誉教授 中野精一

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_007/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/LieJx2sixz3cGvu99


金城和信翁の胸像

「魂魄の塔」の隣に建立、北村西望の製作。昭和55年10月23日除幕式。
金城和信翁は、明治31年3月1日生まれ。戦前は沖縄県の小学校長などを歴任され、戦後の米軍占領下では、摩文仁におかれた真和志村の村長に就任。
米軍の許可を得て、ご遺骨の収集を開始し、昭和21年(1946年)2月に、戦後初の慰霊塔であり納骨堂として「魂魄の塔」が建立された。

金城和信翁は、明治三十一年沖縄に生れ その性寡黙にして温情溢れ 進んで艱難に当たる
思えば昭和二十年春夏の間 凄絶比類なき戦場となった沖縄は学徒を含む県民の殆どが戦列に加はり 実にその大半が国に殉じた
然るに戦火終るも 沖縄は引続いて米軍占領下に置かれ 為に人々は戦没者を祀ることに対し 先方の干渉を慮り実行を恐れたこのとき身を挺して県民の先頭に立った偉丈夫があった その人こそ金城和信である 翁は戦野に累々たる三万余の遺骨を拾収するや「魂魄の塔」を建立 鄭重にこれを収めてその尊い霊を慰め 続いて「ひめゆりの塔」「健児の塔」を建て戦没学徒を悼んだ
爾来 翁は沖縄県遺族連合会会長となり 英霊の顕彰 遺家族の福祉援護 戦没学徒の処遇及び全国都道府県慰霊塔建設などのために尽瘁し その業績は遺家族の親 戦没学徒の父として遍く知られるに至った
しかして日本国家は 八十一歳の翁を正五位勲三等に叙し 授くるに瑞宝章を以てし 翁が一生の労苦に報いその功績を讃へた ここに翁の威徳を慕ふ者相集って胸像を建立するに至る
見よ いまなほ この地に在りて ふる里を見守る翁のまなざしを 翁よ 翼はくは魂魄この世に留まり次代を背負ふ人々を加護し給はらんことを
 昭和五十五年十月
  金城和信先生威徳顕彰会議 
  文化勲章日展会長北村西望書 

沖縄戦継承事業 戦場に動員された21校の学徒隊
 戦前、沖縄には21の中等学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての男女中等学校の生徒たちが戦場に動員されました。女子学徒は、15歳から19歳で、主に看護活動にあたりました。男子学徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。沖縄戦により、学業半ばで多くの学徒が短い生涯を散らしました。

https://www.pref.okinawa.lg.jp/kyoiku/seikatufukushi/1006765/1027103.html


東京之塔(東京都)

所在地糸満市山城
建立年月日昭和46年10月27日
敷地面積8,000㎡
合祀者数103,500柱(沖縄戦戦没者6,500柱、南方諸地域戦没者97,000柱)
管理団体東京都

東京之塔

 さきの大戦中、南方諸地域において戦没せられた東京都の関係者は実に10万有余柱に及ぶ。
 顧みればわれら同胞が戦禍に堪えて刻苦精励すること20有余年、よく平和の恩恵に浴しえたことは、ひとえに英霊が戦火の悲惨と生命の尊厳を貴い血をもって示されたたまものにほかならない。
 よって戦没者遺族をはじめ都民1100余万こぞって慰霊の誠を捧げ平和への誓いをこめ、ここ沖縄の激戦地米須の丘に謹んで東京の塔を建立する。
 み霊よ安らかに眠りたまえ
  昭和46年10月
   東京都南方地域戦没者慰霊碑建設委員会

「東京乃塔」の概要 東京都
この「東京之塔」は、さきの大戦において、南方諸地域で戦没された、東京都関係十万余柱の慰霊のために、建立されたものであり、一千百余万都民の心からなる平和への願いを象徴するものであります。

1、所在地
沖縄県糸満市字山城南コブサ原五百六十八番地

1、規模構造
敷地は約八千平方メートルあります。
基壇は八メートル四方で、遺族代表が多摩川で採取した小石を敷き詰めてあります。
基壇中央に直径五メートルの塚があり、塚は建設当時の、二十三区、二十三市九町、九村を象徴する六十四個の石をもって構成されています。
塚の中心に縦一.三メートル、横二.三メートルの石棺の形を模した舟型式の黒御影石の塔が据えられています。
上段広場は、約四百五十平方メートルで三方を石垣で囲んであります。
この石垣は、沖縄産の栗石を用い、沖縄特有の積み方をしております。

1、竣工
昭和四十六年九月三十日

南方戦域方向盤

トラックやマリアナの方向を拝む

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/tokyonotou

場所

https://maps.app.goo.gl/q69EgP4NEbqat66d8


因伯の塔(鳥取県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和46年11月4日
敷地面積1,894㎡
合祀者数13,904柱(沖縄戦戦没者539柱、南方諸地域戦没者13,365柱)
管理団体鳥取県

因伯の塔

鳥取県民はその総意に依り此所に碑を建て大東亜戦争に当たり沖縄その他南方地域に於て戦没した郷土の勇士の偉勲を偲びその冥福を祈る
塔石は佐治石である
 昭和46年11月
  鳥取県知事石破二朗書

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/inpakunotou

場所

https://maps.app.goo.gl/amtQyiFHE565GC4e9


紀乃國之塔(和歌山県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和36年11月30日
敷地面積932㎡
合祀者数839柱
管理団体和歌山県

紀乃国之塔はこの地で祖国の安泰を祈念しながら壮烈な最期をとげた和歌山県出身839柱の英霊を祀るため、昭和36年11月敬弔の誠をこめて県民が建設したものであります。爾来遠く海を渡ってこの塔を訪れ英霊に対面されるご遺族や県民が年を追うて多くなりました。私も昭和44年11月参拝する機会を得ましたが、浄域を拡張整備したいとの声がとみに高まるを聞き、且つまた建塔された各位の意向を推察するとき、浄域を更に荘厳にすることが戦後25周年記念事業として最もふさわしいと考えて整備することにいたしました。 こいねがわくは諸霊には郷土の人々の捧げる追弔敬祭の微衷をおうけ下さらんことを。
 昭和45年11月
  和歌山県知事 大橋正雄

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/kinokuninotou

場所

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北霊碑(北海道)

所在地沖縄県糸満市米須
建立年月日昭和29年4月(昭和47年10月と平成8年11月に改修)
敷地面積640平方メートル
合祀者数40,850柱(沖縄戦戦没者10,850柱、南方諸地域戦没者30,000柱)
管理団体(一財)北海道連合遺族会

曠古の大東亜戦争はその惨烈ここ沖縄の決戦に極まって我北海道出身の将兵1万有余名も玉砕護国の楯とはなった。昭和29年4月北海タイムス社、北海道沖縄遺族会が、その霊を悼み全国に魁けて本碑を創建したが、爾来風雨18年漸くその補繕を迫られるに及び茲に本会の発議により、本年恰も沖縄の祖国復帰を卜し道並に全道市町村の助成及び沖縄会の協力をも得て浄財を募り、本島はもとより伊江島、慶良間等40余島並に広く南方海域諸島に散華した北霊凡そ3万余柱の招魂の聖碑ともなして之を改修した。
願わくは英魂、永遠に瞑せられんことを。改修にあたり終戦以来慰霊事業諸般に亘り献身的な奉仕援助を戴いた沖縄遺族連合会会長金城和信翁以下の御恩徳を銘記し永く後世に伝うる次第である。
 昭和47年5月15日

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場所

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大和の塔(奈良県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和42年11月16日
敷地面積642㎡
合祀者数15,871柱(沖縄戦戦没者556柱、南方諸地域戦没者15,315柱)
管理団体奈良県

この塔は、すぐる太平洋戦争においてふるさとを遠くはなれた南海の島々で、祖国の安泰と繁栄をいのりつつ散華された奈良県出身戦没者 1万 5000余柱のみたまを慰めるため、県民の心をこめて ゆかりの地ここ米須の丘に建立したものである。
1967年11月
奈良県知事 奥田良三

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場所

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大分の塔(大分県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和40年11月17日
敷地面積314㎡
合祀者数約1,430柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)大分県遺族連合会

建塔の記
 太平洋戦争における最終段階としての沖縄の死闘の歴史は何人も涙なくして語ることができません。
 戦後10余年、県民生活もやや安定した1961年11月、大分県の遺族代表が初めて沖縄に巡拝したとき
 ふるさとの
  山河も泣かむ
   この島に
 散りたる若き
  御霊祭れば
と記した県産檜の白木の柱を建て、沖縄に散華した県出身 900余柱の霊を慰めたのであります。
 他方数県で現地に永久的な慰霊塔を次々に建立するようになりましたので、このたび県遺族会の発意で、ここ最後の激戦地米須の丘に大分県耶馬渓産の霊石を用い「大分の塔」を建てることにいたしました。
 謹んで哀悼の誠を捧げ、英霊の御冥福と世界の平和を祈念する次第であります。
  1965年11月
   大分県知事 木下 郁
   大分県沖縄戦没者慰霊塔建設委員会 会長 小林政治

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場所

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ひろしまの塔(広島県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月23日
敷地面積1,594.2㎡
合祀者数34,635柱(沖縄戦戦没者1,271柱、南方諸地域戦没者33,364柱)
管理団体広島県

献辞
海を渡り また 海を渡り
郷土はるかに 戦って還らず
沖縄に散り 南方に散る 護国の英霊 3万4600余柱
ここに とこしえに 鎮まりませば
ふるさとの 妻子 父母 老いも若きも
海を渡り また 海を渡り
ここに もうでて み霊安かれと
祈らざらめや 祈らざらめや
 昭和43年 5月
  広島県戦没者沖縄慰霊塔建設委員会
  会長 県議会議長 檜山袖四郎

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場所

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讃岐の奉公塔(香川県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月18日
敷地面積910㎡
合祀者数32,413柱(沖縄戦戦没者1,120柱、南方諸地域戦没者18,637柱、満州および中国方面戦没者12,656柱)
管理団体香川県

むかしむかし、
讃岐の国の殿様に仕える可憐な乙女がおってな
その娘はお姫様の身代わりに病気になり、悲しくも命を失った
人々はその死をいたみ、誠実にして至純
献身的なその心をあわれんで
「奉公さん」と名づけ
人形を作り功績をたたえたそうな

讃岐の奉公塔建立の碑
ここ沖縄、南方諸地域、中国大陸で祖国の安泰を願い
家族を案じつつ亡くなられた
3万2413柱の御霊
とこしえに安かれと祈るとともに
郷土の発展と恒久平和の実現を心から願いつつ
郷土人形奉公さんを想い起し
「讃岐の奉公塔」と命名する
  昭和43年5月吉日
   香川県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会

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場所

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島根の塔(島根県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和44年3月28日
敷地面積1,179㎡
合祀者数908柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)島根県遺族連合会

島根の塔
美しく花開くためには
そのかくれた根のたえまない
営みがあるように
私達の平和で心静かな日々には
この地に散ったあなた達
の深い悲しみと苦しみが
そのいしずえになっていることを思い
ここに深い祈りを捧げます
 昭和44年 3月
  島根県知事 田部長右衛門

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/shimanenotou

場所

https://maps.app.goo.gl/LBp6XqrWH6HdVqp5A


開南健児之塔

開南鉄血勤皇隊・開南通信隊(開南中学校)
 開南中学校は、戦前の沖縄県で唯一の旧制私立中学校で1936年(昭和11年)に創設されましたが、沖縄戦によりわずか9年という短い歳月で廃校になりました。
 1945年(昭和20年)3月25日前後、教頭から「空襲下で学校としてまとまって入隊するのは難しいので、各自で入隊するように」との指示を受け、各自で部隊に向かうことになりました。
 開南鉄血勤皇隊の入隊先の第六十二師団独立歩兵第二十三大隊は、激戦地となった宜野湾ー浦添戦線に配置され多くの犠牲者を出した部隊で、入隊した開南中学生が全員戦死しました。
 3月9日、通信隊要員の生徒は、高嶺村の大城森(現糸満市)に駐屯していた第24師団司令部に配属されました。
 生徒らは、同地で訓練を受けた後、5月中旬、部隊とともに首里に移動しましたが、前田(現浦添市)方面の劣勢がはっきりした5月下旬頃、高嶺村の大城森に撤退することになりました。その後、真栄里集落西側に布陣していた大隊へ配置換えになり、それから国吉集落西側に布陣していた大隊へ配置換えとなりました。
 国吉へ配置換えになって間もなく、米軍野営陣地へ切り込みましたが、多くの犠牲者を出しました。8月29日に生徒らは米軍に収容されました。

戦没生徒らのご芳名が刻まれた銘板

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_008/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/dqDimAps5vBUVaT28


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その9」へ

「バックナー中将戦死之跡」と真栄里「栄里之塔」(沖縄戦跡慰霊巡拝7)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その7」となります。

その6は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


バックナー中将戦死之跡

糸満市真栄里(まえざと)。

沖縄方面連合軍最高指揮官・米第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将は、昭和20年6月18日、戦闘指揮中にこの地で戦死した。(死後に大将に昇進)
第二次世界大戦中のアメリカ軍において、敵軍の攻撃によって戦死した最高位の軍人。

バックナー戦死後の、6月23日に日本陸軍第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が自決し、沖縄における日本軍の組織的な戦闘は終了した。

バックナーが戦死した糸満市真栄里の高台、1952年に米軍によって記念碑が建立されたが、1974年に記念碑は、キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター)に移転され、1975年6月に日本側の沖縄県慰霊奉賛会によって、現在の慰霊碑が建立された。

IN MEMORIAM
CLAUDIUS M.EASLEY
1891-1945
BRIG.GEN.U.S.ARMY
KILLED ON THIS SPOT
19 JUNE 1945

追悼碑
米国陸軍准将
クローディアス エム イーズリー
1891 年-1945 年
1945 年6 月19 日
この地に於いて戦死す

 諸霊よ安らかに

米国第十軍司令官 
シモンB バクナー中将戦死之跡

一九四五年六月十八日米国陸軍中将サイモンボリバーバックナー此の地に於て戦死す

イーズリー准将慰霊碑

バクナー中将が戦死した翌日6月19日に戦闘指揮中に銃撃に遭い戦死

エドウィン・T・メイ大佐慰霊碑

米軍歩兵第383旅団長 エドウィン・T・メイの慰霊碑
昭和20年6月5日戦死

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/vice-admiral-buckners-death-trace

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1816.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/2Ai8ynUzZ5NpAgWe8


歩兵第22聯隊

愛媛県で編成された聯隊。「伊予の肉弾聯隊」と称された精鋭部隊。
4月1日の米軍上陸から始まった沖縄戦では、首里北方を守備していた第62師団を支援する為に第62師団に編成されたが、第62師団は4月下旬にはほぼ壊滅。
4月22日に、第24師団に編入され、「幸地の戦い」「首里防衛戦」にて激戦を繰り広げる。
沖縄防衛の中央部隊として奮戦するも6月11日、小緑の帝国海軍沖縄方面根拠地隊が全滅し、海軍壕に隣接していた22聯隊壕の第22聯隊も南部の「真栄里」に撤退。

真栄里で徹底抗戦を続けるも、17日に第22聯隊本部洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ全滅玉砕。
6月18日には、第22聯隊と行動をともにしていた野戦重砲兵第1聯隊と連携し、アメリカ海兵隊第22連隊長ハロルド・C・ロバーツ大佐やアメリカ軍沖縄攻略部隊の司令官バックナー中将を戦死させ、19日、真栄里にて、アメリカ陸軍第96師団准将クラウディス・M・イーズリーも戦没。
しかし、19日には、日本軍の生き残り約9千名が掃討され、愛媛出身の独立歩兵第15大隊が総員玉砕し、翌20日に連携していた野戦重砲兵第1聯隊も玉砕。
21日はアメリカ軍は沖縄占領を宣言。
22日には、第22聯隊が一時隷属した第62師団の師団長・中将藤岡武雄と、独立混成第44旅団長・少将鈴木繁二が自決。
23日早朝、第32軍司令官の牛島大将と、参謀長・長勇中将が司令部壕で自決。
24日に、第22聯隊旗を託された連隊長附副官・少尉本田昇は、第24師団司令部に合流し、同じく第24師団隷下だった歩兵第89連隊の連隊旗とともに第24師団長・中将雨宮巽、24師団司令部付最先任上級曹長・准尉白石直之(松山市出身)らの立会いの下、奉焼した。
糸満市真壁「萬華之塔」敷地内には『山3474部隊慰霊之碑』が建立され、糸満市宇江城に『山雨之塔』「22連隊軍旗奉焼の地」の慰霊碑が建立されている。

17日に22連隊本部が玉砕した後も、第1大隊長・大尉小城正ほか生き延びている第22聯隊将兵は、最期まで徹底抗戦を続け、8月15日以降も戦い続け、11月15日に降伏をしている。

愛媛縣護國神社

栄里之塔(えいりのとう)

糸満市真栄里(まえざと)。
「真栄里」周辺には、「白梅乃塔」や「山形の塔」「バックナー中将の慰霊碑」「第32連隊終焉の地の碑」などの慰霊碑もあり、沖縄戦終盤で南部に撤退した日本軍とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられた地でもあり、愛媛の「歩兵第22聯隊」の最期の地でもある。
戦後、真栄里の住民が散らばっていた12,000柱を収集し、祀ったのが「栄里之塔」
昭和27年3月建立。合祀者数は12,000柱。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/eirinotou


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その8」へ

白梅学徒隊「白梅之塔」と奮闘継戦した山形聯隊「歩兵第32聯隊終焉の地」(沖縄戦跡慰霊巡拝6)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その6」となります。

その5は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


白梅学徒隊「白梅之塔」

沖縄県立第二高等女学校の「白梅学徒隊」慰霊の塔

白梅之塔
 沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
 米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
 戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。
 また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
 塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十三年一月に建立した。
 毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
  平成十年六月二十三日 
   沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会

白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
 沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。
 1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二十四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
 生徒たちの仕事は、負傷兵の看病や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
 その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
 6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒たちはそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。
 6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
 国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続 け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。
  平成28年3月 
   沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課

白梅之塔

建立は平成4年(1992)6月10日。
沖縄県立第二高等女学校同窓会

犠牲者の御芳名

ちいさな「白梅之塔」(もとの慰霊塔)と、「納骨堂」

白梅之塔

散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
 元教諭 金城宏吉
  昭和二十二年一月建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_012/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Crj79zEr4x6yd3CF9


白梅学徒隊「自決之壕」

白梅学徒看護隊
自決之壕

昭和56年6月23日建立

マチドーヌティラ
 字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦 9月にはクングゥチムヌメーという伝統行事が国吉自治会によって行われています。
 また、この壕は沖縄戦において第24師団第 1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は 1945年 6月 4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うことになりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食糧や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月 21日に「下の壕」、翌 22日には「上の壕」 が米軍の激しい攻撃を受け、学徒 16人のうち 10人が死亡しました。
 戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅の塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。
  糸満市 平成31年3月

周辺の位置関係

マチドーヌティラは「下の壕」。2021年11月に内部で崩落があり、立入禁止となっている。

ティラとは神が鎮座する洞穴であり、この地は、慰霊の場でもあり、聖なる場でもある。

白梅学徒隊自決の壕の入口。
内部崩落があり、立ち入り禁止となっていた。

合掌

南禅廣寺
白梅之塔の東側にあり、向かって左側に白梅学徒看護隊の自決之壕がある。
琉球王朝時代からの寺院という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5

https://maps.app.goo.gl/c3d88QHHLwKXaW1J8


萬魂之塔

糸満市国吉地区は沖縄戦最後の激戦が繰り広げられた場所である。
同地区の住民は各所に散っていた遺骨を洞穴に納めたが、昭和30年5月にコンクリートの塔を完成、無名戦没者の4000余柱を合祀した。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mankonnotou

敵味方関係なく、純粋に真摯に、戦没者を弔っている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5


陸軍大尉中村巌之碑

歩兵第32聯隊に属する独立機関銃第17大隊の隊長。
6月18日、中村大尉以下17名が戦死している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NHCK5YNfsa45vocYA


上の壕

上の壕(眞山之塔裏)は食糧弾薬倉庫、下の壕(白梅之塔側)は傷病兵の看護場所、であった。

白梅之塔 上の壕
 左の竪穴は、沖縄戦当時軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。
 昭和20年6月22日、米軍の攻撃を受け、軍人・白梅隊員及び一般住民が死傷した。
  昭和63年6月 白梅同窓会

格別に整備されていない竪穴は、静かに自然に埋没していた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


眞山之塔

雨宮中将率いる第24師団の各部隊は運玉森を守っていたが、第32軍司令部が摩文仁へ移ったのに伴い、与座岳、国吉、真栄里の線に後退し布陣を敷き、米軍と戦った。ここに陣地を築いて戦い全滅した100人余りを祀っている。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mayamanotou

沖縄の守備を担った第32軍に属する第24師団は、圧倒的火力を誇る米軍相手に熾烈な抗戦を繰り広げるも南部に追い込まれ、師団長・雨宮巽陸軍少将は、6月20日に師団の自活自戦を指示し師団としての組織的な戦闘を終了させた。
第24師団の師団長・雨宮巽陸軍少将(死後に中将)と参謀長の木谷美雄大佐(死後に少将)は、1945年6月30日に自決している。
(なお、第32軍の軍司令官・牛島満陸軍中将は6月23日に自決)

 怒涛の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮斗敵の心胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月十七日この附近の壕内において玉砕せり。
 ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う。
  昭和四二年二月財団法人 沖縄遺族連合会

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


山形の塔

糸満市真栄里、昭和40年建立。

1965年 2月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立したもの。この地は歩兵第32連隊が激しい戦いを繰り広げた場所でもある。

合祀者数:40,834柱(沖縄戦戦没者 765柱、南方諸地域戦没者 25,612柱、その他地域戦没者 14,457柱)

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/yamagatanotou

山形の塔

山形県知事安孫子藤吉謹書

山形の塔建立記
 大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎその偉勲をしのび、み霊の冥福を祈り永久に鎮まりますことを念じここに県民の総意を結集してこの塔を建てたのである
 昭和四十年二月六日
   建設期成同盟会長 加藤富之助

山形の塔
 この塔は沖縄(七七六柱)をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の諸霊を祀ってあります。
 一九六五年二月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立してもので、この聖地は歩兵第三二連隊が軍旗を奉持勇戦奮斗し一九四五年八月この壕で奉焼した由緒ある丘であります。
 右の堂は観音像(二体)を安置する観音堂です。
   山形県
    一九八二年十月(再記)

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


第二十四師団歩兵第三十二聯隊の壕(ウフ壕・田原屋取の壕)

歩兵第32聯隊の最期の壕
もともとは、真栄里の住民が整備した避難壕であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


歩兵第三十二聯隊終焉の地

沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。

我が興亡の史碑
歩兵第三十二聯隊終焉の地
呼名 霞城聯隊・満州八〇三部隊・山三四七五部隊、
   平成十七年八月 建
    聯隊関係者一同

 聯隊は明治31年3月末軍旗を拝受して山形に誕生し日露戦争黒溝台会戦で武勲を立て満州事変熱河作戦に活躍した。
 太平洋戦争の沖縄戦で終始敢闘し昭和20年6月23日軍の組織的戦闘が終了後も残存軍民協力してこの地を守り終戦後の8月28日夜軍旗を奉焼し翌日鉾を納めた。
 この間の戦没者に対し心から弔意を捧げる

場所:

https://maps.app.goo.gl/wokGqXuAjTMwQ1QVA


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その7」へ

「沖縄陸軍病院糸洲二外科壕跡」と「糸洲の壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝5)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その5」となります。

その4は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


沖縄陸軍病院糸洲二外科壕

いままで見てきた壕とは違い、ここは詳細な説明がとくにない、目立つことのない静かな壕。糸満市の糸洲集落の北側にある。
半分埋もれかけている。

ぬちどうたから

「ぬちどぅ宝」「命どぅ宝」
沖縄の言葉で「命こそ宝」を意味する。
沖縄戦では、集団自決から「命こそ宝」の言葉で気の残ったという証言も残っている。

陸軍病院第二外科壕

壕内には入れない。

開口部で合掌する。

コンクリートの塊で塞がれている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/EWBzQY65r5C9N5Yv9


糸洲の壕跡(ウッカーガマ)

糸満市字伊敷にある壕。
小池勇助少佐(死後に中佐昇進・佐久市出身)が率いた第24師団第二野戦病院の跡地。

6月26日、学徒隊の解散にともない、小池少佐は「ふじ学徒隊25人(積徳学徒隊・積徳高等女学校)」に、「君たちは非戦闘員だ。死んではならぬ。つらくても生きのび、戦争の悲惨さを後世に伝えるのが君たちのつとめだ」と訓示し解散命令を発した。小池少佐は、最後の訓示ののち学徒隊を送り出して自決。最終階級は中佐。

「ふじ学徒隊」は、多くの犠牲者をだした他の学徒隊と比べ、3人の犠牲者に留まり、小池少佐の教えを守った。
小池勇助軍医の辞世の句
 南の孤島の果てまで守りきて
  御盾となりてゆく吾を
 沖のかもめの翼にのせて
  黒潮の彼方の吾妹に告げん

「ふじ学徒隊(積徳学徒隊)」の「積徳高等女学校」は、沖縄県那覇市久茂地にあった高等女学校で、1930年に私塾として開設した高等女学校

なお、「糸洲の壕」の入り口は2つあり、それぞれ「ウッカーガマ」と「ウンジャーガマ」と呼ばれていたという。慰霊碑は、ウッカーガマの入口にある。また、北西の「轟の壕」まで一部は繋がていた、ともいう。

鎮魂之碑

此の洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川出身の将兵現地防衛招集兵並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である

鎮魂の碑
(御霊よ。安らかに)

戦闘避難中に、当地で戦没した民間の慰霊碑

糸洲の壕

合掌す

場所:

https://maps.app.goo.gl/gVEVG3D9eFyq5RU67

近年(2025年)、整備が行われました。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/toretateitorepo/27891.html


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その6」へ

「沖縄陸軍病院山城本部壕跡」と「井原第一外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝4)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その4」となります。

その3は、下記にて。

2022年10月記録です

「ひめゆりの塔」は、伊原第三外科壕の跡地。
ちかくには、同じように南部に追い込まれてきた陸軍病院本部壕と、伊原第一外科壕、伊原第二外科壕などもあった

みたま安らかに


沖縄陸軍病院

昭和19年6月、開南中学に開設したことに始まる。
南風原に移転したのちに、昭和20年5月下旬、南部に分散移転し、伊原の近くの山城集落の「山城壕」が本部となった。6月18日に解散した。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1826.html


沖縄陸軍病院之塔

沖縄陸軍病院之塔
この塔は戦没された沖縄陸軍病院の傷病将兵及び職員と学徒の慰霊塔である
慰霊会(遺族及び戦友の会)が昭和39年1月26日に建立し平成4年6月23日これを再建す

春くると ひたすら待ちし 若草の 萌え立ついのち 君は捧げぬ
 水汲みに 行きし看護師 死ににけり 患者の水筒 四つ持ちしまま

陸軍病院の軍医であった長田紀春氏が詠んだ歌碑。

ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)
 沖縄師範学校女子部の前身は、1886年(明治19年)に師範学校内に設置された「女子講習科」でした。その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に国立の専門学校に昇格し、「沖縄師範学校女子部」に名称を変更しました。
 沖縄県立第一高等女学校の前身は1900年(明治33年)に設置された「市立高等女学校」でした。1928年(昭和3年)に「沖縄県立第一高等女学校」に名称を変更しました。
 1945年(昭和20年)3月23日、学徒たちに動員命令が下され、配置先の沖縄陸軍病院があった南風原に向かいました。
 4月中旬~下旬、戦況悪化による負傷兵の増加に対応するため、一日橋分室、識名分室、糸数分室が設置され、学徒たちも配置されました。
 5月下旬、米軍は首里戦線へ侵攻を開始し、日本軍は南部への撤退の準備を始めました。25日には、沖縄陸軍病院にも撤退命令が下されました。
 26日に学徒らは井原に到着し、翌27日、山城、波平、糸洲、井原の壕へ分散配置されました。
 6月18日、学徒らは学徒隊の解散命令を受けました。米軍のg猛攻撃の中、負傷した学徒は壕に残され、壕を出た学徒たちは、砲弾が飛び交う中、逃げ惑い、追い詰められ、多くの命が失われました。
 平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課

沖縄陸軍病院山城本部壕(山城本部壕)
 地元ではサキアブと呼ばれる自然洞穴です。すり鉢状の窪地部分から中に入ると、壕口のある広場と奥の広場の2つに分かれています。
 1945年3月、米軍の猛爆撃や艦砲射撃が始まると、山城の住民の一部がこのサキアブに避難しました。
 5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕として、第一外科壕、第三外科壕を井原に、第二外科壕を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒も配属されていました。廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ、分散した各外科壕を統率しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。
 6月14日、本部壕入口付近に落ちた直撃弾によって、廣池文吉病院長をはじめとする兵士や学徒の多くが戦死または負傷しました。6月18日、沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは、米軍の激しい包囲攻撃の中をさまようことになりました。
 糸満市 平成31年3月

下に降りることができる。

合掌

場所:

https://maps.app.goo.gl/G28xrGoZPsRcdzHP9


位置関係

陸軍病院本部壕と第一外科壕・第二外科壕・第三外科壕の位置関係


第一外科壕

第三外科壕(ひめゆりの塔)の近く。

碑文。
くずし字で非常に難解。。。

ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である
米軍の迫まる1945年 6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった
軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点である

ここで負傷戦没した生徒
(犠牲者の氏名省略)

藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた
謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する

しらじらと 明けそむる野を 砲弾の
 雨に散りゆく 姿目に見ゆ
血にそまる 巌のしづくは 地底にしみて
 命の泉と 湧きて出でなむ 

  1974年 6月 ひめゆり同窓会

場所:

https://maps.app.goo.gl/vkhXLcBfB3TaUXfo8


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その5」へ

沖縄昭和高等女学校・梯梧学徒隊「梯梧之塔」(沖縄戦跡慰霊巡拝3)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その3」となります。

その2は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


梯梧之塔

「ひめゆりの塔」の隣接地に、「梯梧之塔」がある。
「梯梧」は、沖縄昭和高等女学校の校歌の一節にでてくる、沖縄県の木でもある「デイゴ」に由来する。

梯梧之塔

梯梧の塔説明碑文
 梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆかりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちなんで、「梯梧の塔」として建立された。
 昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属された。
 4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。
ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。
 無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。
 勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。
 所在地 糸満市米須1150番地
 建立年月日 昭和46年6月23日(移設)
 敷地面積 70坪
 合祀柱数 60柱
 管理者 梯梧同窓会
     慰霊奉賛会と永久管理契約済

梯梧之塔・沖縄昭和高等女学校説明碑文
 私立沖縄昭和高等女学校は昭和5年3月15日、山梨県北巨摩郡江草村出身の同校校長八巻太一氏によって那覇市崇元寺町(現泊町一丁目)に設立された。校舎は崇元寺橋の近く安里川沿いにあり当時、この付近に梯梧の並木道があって、梯梧の花は本校の象徴にもなっている。校舎は昭和20年5月、沖縄戦により焼失した。戦後、再建の取り組みが行われたが当時の情勢はそれを許さず、遂に閉校となった。
梯梧之塔は昭和25年8月1日、この沖縄戦で犠牲となった本校同窓生および教職員らの霊を慰めるため、八巻校長並びに同校関係者によって旧校舎跡に建立されたが昭和46年6月23日、ここ梯梧学徒隊ゆかりの地に元教職員、同窓生、遺族らの浄財によって移転建立された。

梯梧学徒隊(昭和高等女学校)
 昭和高等女学校は、1930年(昭和5年)に設立された、戦前の沖縄で一番若い私立女学校でした。
 1945年(昭和20年)3月15日ごろ、生徒たちは、新川のナゲーラ壕(現南風原町)の第62師団野戦病院に配置されました。
 4月1日に米軍が上陸し、宜野湾ー浦添戦線が激化し、負傷芸の激増に伴い、4月17日ごろに昭和高女生の9名は識名分室(現那覇市)へ配属されました。
 5月13日には、識名分室壕での勤務を終え生徒たちが一眠りしていたころ、壕入り口に爆弾が落ち生徒2名が亡くなりました。
 5月下旬、米軍が守備軍司令部のある首里まで迫ってきたため、野戦病院は5月27日に南部へ撤退することになりました。生徒たちは、負傷兵に肩を貸しあるいは担架を担ぎながら南部へ向かいました。6月の上旬、米須の壕に到着し、満杯の状態で全員入れず、生徒は井原の壕に入りました。
 6月8日、野戦病院の兵隊は看護婦や生徒を集め、解散命令を伝えました。生徒たちは、壕を出て米須の壕に行きましたが、19日に二度目の解散命令が出され、米須一帯を彷徨し、21日米軍に収容されました。

梯梧之塔
所在地 糸満市米須
設置 1950(昭和25)年8月1日
移設 1974(昭和49)6月23日
合祀者数 62柱
所有者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団

梯梧の塔に捧ぐ
いたましく 二八に散りし 乙女等の
         血潮に咲ける 紅の花
                 藤岡 豊子
ゆさぶりて 碑をゆさぶりて 思い切り
         きけどもきけぬ 声をききたし
一人来て 抱きしめて見ぬ わが友よ
         名刻まれし 濡れし碑文(いしぶみ)              
                 瑞慶覧 道子

梯梧隊の乙女のレリーフ

合掌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_010/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/cW4LrygHxnNmUziU6


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その4」へ

荒崎海岸に追い込まれ自決した「ひめゆり学徒・散華の地」(沖縄戦跡慰霊巡拝2)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その2」となります。

その1は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


ひめゆり学徒・散華の地

昭和20年6月18日、南風原の陸軍病院から南部に撤退し、伊原第三外科壕に避難していた「ひめゆり部隊(女師・一高女の看護女子学徒隊)」に解散命令が発布。
翌19日、第三外科壕に米軍によるガス攻撃があり壕内は地獄と化した。
第三外科壕を脱した、ひめゆり学徒隊は、小さなグループに分かれて、戦場を彷徨うこととなった。
南に追い込まれ、荒崎海岸一帯で隠れ場所を求めて右往左往していた人たちの中に「ひめゆり学徒」のグループもいた。

昭和20年6月21日、平良松四郎教諭(一高女教頭)が引率する学徒隊は、突如、米軍の自動小銃の凶弾に倒れ、そして混乱の最中で、手榴弾で自決をした。

ひめゆり学徒散華の跡

石版には、この地で亡くなった学徒隊や教員の名前が刻銘。

平良松四郎教頭(一高女)と、一高女生徒8名と卒業生1名、師女生徒3名と二高女1名、そして、一高女教諭2名の名が刻まれている。
生徒たちは、16歳や17歳などの若き女子学徒。

合掌

遠くからでも、ひめゆり学徒の最期の岩場がわかる。

荒崎海岸

場所:

https://maps.app.goo.gl/MmUkgArVCTE1sg938


関連資料

糸満市ホームページ

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1828.html

ひめゆり平和祈念資料館

https://www.himeyuri.or.jp/himeyuri/study_war


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その3」へ

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊「ひめゆりの塔」と「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝1)


沖縄へ

2022年10月記録です

2022年10月。
人生で初の沖縄に赴く機会があった。
しかし、それは能動的なものではなく、受動的なきっかけとする、ある意味で偶然の機会。
そう、たまたまで、社員旅行が「沖縄」だったのだ。
社員旅行であれど、滞在合計3日間のうち拘束は1.5日で、自由時間も1.5日。まるまる1日使える2日目と、午前中のみ使える半日の3日目があった。あとは、どのように使うか。

正直言って、沖縄の戦跡は、巡り始めたら終わりがない。官民を巻き込んでの地上戦の痕跡は至るところに残っている。私としては、はじめての沖ということもあり、行くべきところ、最低限、これは行っておかねばと決めた戦跡のみを巡り、そうして、手を合わせておきたいと考えていた。そうでないと収拾がつかない。
ただ、実のところ、私は車を運転する権利はあるが、身分証以外の活用をしていないレベルだったのでレンタカーという選択肢を有していなかった。そのため、沖縄では非常に不利ではあるが、バスをはじめとした公共交通機関のみで戦跡を回ろうと考えていた。

そうして、事前に沖縄で、どこを廻るかを調べていた際に、他部署ながらよく仕事を一緒にすることのあるAさんから、こう言われた。

Aさん
 「沖縄の自由行動、どうされますか?」
わたし
 「歴史好きだから、歴史散歩でブラタ○リするつもり」
Aさん
 「面白そうですね、沖縄は何度も行ったことあるので、知らないところに行けそうですね、ご一緒しても良いですか、ちなみに歴史はどんな歴史ですか?」
わたし
 「(語弊があるかもしれないですが)、沖縄の歴史って、大きく分けると2つかなと。琉球王国の歴史と、戦争の歴史。私が行こうと思っているのは、重い方です、、、」
Aさん
 「あっ、重い方ですか、、、」

Aさんは、「重い歴史」は余り知らないという。それでも「沖縄は車がないと不便ですよ、レンタカー手配しますよ」と、私の散策に乗ってきたので、そこで、大きく私のプランと行動範囲は変更されることとなった。
さらに直前に、私とAさんは自由行動で、沖縄の歴史散歩するということを聞いた同僚のBさん(Bさんは年齢的には人生の大先輩)も、沖縄の歴史には興味あるということで、そうしていつのまにか、ツアーみたいな感じで同行がきまって、都合3人で「沖縄慰霊の戦跡散策」を実施することとなった。

ちなみにAさんは、私の歴史散策の初手からの行程都合ということもあったが「地下壕」続きにかなりびっくりされ、「こんなにディープなところに行くとは思いませんでした」というような状況になり、途中から、「いやあー、沖縄ドライブ楽しいんで、遠慮せず」という状況だったような。。。

沖縄の南部地区は、1日を使って「レンターカー」での移動。
那覇市街地は、ソロ活動で半日使って「レンタサイクル」を活用した次第、でした。

以下、行程順ではなく、エリアごと、内容ごとに、順不同で掲載していきます。
「はじめての沖縄」ということもありますので、探訪漏れも多く、1日半の短い時間でしたが、沖縄巡拝の記録として、徒然と。

みたま安らかに


ひめゆりの塔・沖縄陸軍病院第三外科壕跡

沖縄の代表的な戦跡として、慰霊巡拝先として必須の地。
まずは、ひめゆりの塔から掲載をしていきます。

「2代目・ひめゆりの塔」の手間に、ちいさく「初代・ひめゆりの塔」が鎮座している。

ひめゆりの塔
沖縄戦で亡くなった「女師「一高女」の教師・学徒の慰霊碑。
終戦翌年の1946年、付近の収容所にいた真和志村民により建立された。

そして、「沖縄陸軍病院第三外科壕」跡が開口している。

刻銘碑
「女師「一高女」の教師・学徒戦没者の刻銘碑。戦後、間もない頃に建立されたために、戦没者全員は刻まれていない。

伊原第三外科壕
このガマ(自然洞窟)は、沖縄戦時、南風原町にあった沖縄陸軍第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退後に避難した場所。1945年6月19日朝の米軍の攻撃により、ガマに入っていた約100名中80余名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなった。ひめゆり学徒の最期の地のひとつである。

ひめゆりの塔
1957年に建立された新しいひめゆりの塔。
「納骨堂」を覆った白壁には、学徒戦没者の名を刻み、「女師「一高女」のシンボルである百合のレリーフを手むけた。
2009年、改修。学徒戦没者を追記。
納骨堂には、この洞窟「伊原第三外科壕」や「伊原第一外科壕」「荒崎海岸」など、沖縄戦最期の地から回収された遺骨が眠っている。


ひめゆり学徒隊

1944年12月、看護訓練によって動員された女子学徒隊のうち、沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等学校の生徒で構成された部隊。
沖縄女子師範学校は沖縄第一高等学校と併設されていたことから、校名はことのあるものの実質的には一つの学校に等しかった。

1945年3月22日、両校の生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる「ひめゆり学徒隊」は、沖縄第32軍直轄となる沖縄陸軍病院(通称:南風原陸軍第一病院)に看護要員として動員。40近くの横穴壕に分散配置された。
敗色濃厚となった6月18日に解散命令が出され、翌日19日からの1週間のあいだに多数の犠牲者を出した。最終的には、240人の学徒隊のうち、136名が死亡している。
戦後、最大の犠牲者を出した伊原第三外科壕跡に、慰霊塔として「ひめゆりの塔」が建立された。


沖縄の女子学徒隊

沖縄にあった旧制中学校21のすべての学校が動員された。
男子生徒は、鉄血勤皇隊、通信隊に配属され、女子生徒は、看護隊に配属された。

  • 沖縄県立女子師範学校・ひめゆり学徒隊:犠牲81名/動員157名(戦死率52%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊:犠牲42名/動員65名(戦死率65%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第二高等女学校・白梅学徒隊:犠牲17名/動員46名(戦死率37%)
     配属:第24師団第1野戦病院
  • 沖縄県立大三高等女学校・なごらん学徒隊:犠牲1名/動員10名(戦死率10%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院名護分院
  • 沖縄県立首里高等女学校・瑞泉学徒隊:犠牲33名/動員61名(戦死率54%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄積徳高等女学校・ふじ学徒隊:犠牲3名/動員25名(戦死率12%)
     配属:第24師団第2野戦病院
  • 昭和高等女学校・梯梧学徒隊:犠牲9名/動員17名(戦死率53%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄県立宮古高等女学校・宮古高女学徒隊:犠牲1名/動員48名(戦死率2%)
     配属:第28師団野戦病院・宮古島陸軍病院
  • 沖縄県立八重山高等女学校・八重山高女学徒隊:犠牲1名/動員60名(戦死率2%)
     配属:石垣島陸軍病院・海軍病院

沖縄戦の推移

1945年
3/17
 硫黄島の日本守備隊、玉砕する
3/23 
 ひめゆり学徒、南風原陸軍病院へ動員。
 米軍、沖縄諸島に空襲を開始  
3/26
 米機動隊が慶良間諸島に上陸。地上戦のはじまり。島民集団自決。
4/1
 沖縄本島の中部西海岸(北谷・嘉手納・読谷地区)に米軍上陸。
4/7
 沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方沖で撃沈される
5/23
 米軍が那覇市に進攻。
5/25
 陸軍病院、南部へ撤退。
5/27
 第32軍司令部、首里を撤退。喜屋武半島の摩文仁地区に司令部を移す。
5/31
 米軍が首里を占領する。
6/18
 米軍司令官バックナー中将が糸満市前栄里で戦死する。
 学徒隊に解散命令。
6/19
 第三外科壕にガス弾が打ち込まれ、多くの学徒が死亡。
6/21
 荒崎海岸で

多くの学徒が死亡。(集団自決)
6/23
 第32軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が自決。
7/2
 米軍、沖縄作戦終了宣言。


陸軍病院第三外科職員之碑・沖縄戦殉職医療人之碑

ひめゆり学徒とともに、第三外科壕にいた職員や、沖縄戦で殉職した医療関係者の慰霊碑。

沖縄戦殉職医療人之碑

陸軍病院第三外科職員之碑


ひめゆり平和祈念資料館

https://www.himeyuri.or.jp

「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦を伝える施設。
第三外科壕の下部、断面を垣間見ることができる。

ひめゆりの塔
沖縄戦に動員されたひめゆり学徒の最期の地のひとつである伊原第三外科壕跡に建立された慰霊碑。

ひめゆり平和祈念資料館
亡き学友の慰霊と平和への願いを発信する場として、同窓生たちが1989年に開館しました。写真や遺品、実物資料、生き残った学徒の証言集が、沖縄戦とひめゆり学徒の実相を伝えています。
正面は、ひめゆり学徒たちの学び舎、沖縄師範学校女子部・沖縄系ん立第一高等女学校を模し、校門までの並木道をなしていた相思樹が植えられています。
那覇にあった学園は沖縄戦で消滅しました。

沖縄戦とひめゆり学徒隊
動員
1945年3月、米軍の上陸作戦開始とともに沖縄の男女学とは戦場に動員されます。
ひめゆり学徒隊は3月23日、南風原の「沖縄陸軍病院」に配置されました。
戦場の病院は、丘の中腹に掘り巡らされた横穴壕にベットを備えただけの施設で、砲煙弾雨の中、学徒は医師と看護婦の下、負傷兵の看護や水汲み、伝令、食料運搬などを担いました。
4月1日の米軍上陸後の激しい戦闘により負傷兵が急増し、3つの分室ができていきます。

撤退
5月下旬、米軍の攻撃が日本軍司令部のある首里まで迫り、5月25日、軍の南部撤退命令により、陸軍病院も南部への撤退が始まります。
学徒たちは砲弾と悪路の中をこの南部までたどり着きます。病院としての機能を失った後も6つの壕に分散して不難死、伝令や水汲み、食糧確保の任務に当たりました。

解散
6月18日夜、緊迫した戦況の中でひめゆり学徒に突然「解散命令」が下されます。激化する戦場で、負傷した学徒は壕に残され、外に放り出された学徒たちは、砲弾の飛び交う中、逃げまどい、追い詰められ、多くの命が失われました。

儀間真一顕彰碑
(ハーリー・シンイチ・ギマ)
沖縄系ハワイ2世、昭和27年に、ひめゆりの塔の敷地を購入するための資金援助をした。

冊子を購入しました


ひめゆりの塔の記

ひめゆりの塔の記
昭和二十年三月二十四年、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒二百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘が激しくなるにつれて、前戦から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風村一日橋・玉城村糸数にも病室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜晝となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重症患者は豪にに残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐり包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南に下って後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日・第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて地獄圖絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍醫・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の豪にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最後をとげたのである。
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員十六名生徒二百名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
 いはまくら かたくも あらむ やすらかに
 ねむれ とぞいのる まなびの ともは

裏面には、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の「校歌」が刻まれている。


いはまくら碑

いはまくら碑 1990
ひめゆり学徒の引率教師 仲宗根政善先生の歌
いはまくら 
 かたくもあらむ 
  やすらかに
ねむれとぞいのる 
 まなびのともは
「固いごつごつした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょうあ。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています」という哀悼の歌です。
島の南の果てに追いつめられて岩陰や洞窟で学友たちは亡くなっていきました。この恩師の歌は、戦争のおろかさと平和の素晴らしさを、亡き学友に代わって訴えていくことを誓う私たちの心そのものです。


赤心之塔

赤心之塔 1948
伊原第三外科壕に入っていた民間人(大田家)5名の戦没者の慰霊碑。遺族によって建立された。

女神の像

ひめゆりの石

井伊文子の歌碑
琉球王朝の末裔にあたる井伊文子氏の歌

ひめゆりのいしぶみに
ふかくぬかづけば
たいらぎをこひのむ
乙女らのの声す


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その2」へ

展示終了となる「ニューポール81E2(陸軍甲式一型練習機)」(リニューアル前の最期の展示・所沢航空発祥記念館)

所沢航空記念公園にある、所沢航空発祥記念館が2025年8月末でもって、長期休館、リニューアルを経て再開は2027年3月予定という。
平成5年の開館から30年以上経過したことから、今回の大規模なリニューアル工事を迎えることとなる。

http://tam-web.jsf.or.jp/

https://www.pref.saitama.lg.jp/a1105/news/page/news2025070801.html

リニューアルに伴い、展示を終える展示機もあるので、足を運んでみました。


所沢航空発祥記念館関連の過去記事


長期休館のお知らせ

長期休館のお知らせ
今年9月1日からリニューアル工事のため長期休館となります。
休館期間:2025年9月1日~2027年3月末(予定)
2027年春(予定)、さらに魅力をアップしてリニューアルオープンいたします。この夏、8月末までイベントもりだくさんで開館しております。ぜひご来館ください。
2025年7月吉日 所沢航空発祥記念館


休館前の写真スポット

今回のリニューアルに伴い役目を終える展示物にスポットを当てた写真撮影スポットです。その姿を思い出に残しましょう。
<今回のリニューアルで役目を終える主な展示物・展示機>
航空機(展示機)
・ニューポール81E2 (レプリカ)
・HU-1B(ベル204B)
・ハングライダー
・ウルトラライトプレーン

スペースウォーカーとかベルヌーイの研究室、とかは、特に終わると言われても食指は動かない。。。


ニューポール81E2 (レプリカ)

ニューポール機の展示が終了するのは、非常に残念。
終了に「レプリカ」とあるので、終わるのは「レプリカ」だけであって、もともと展示のきっかけとなった機体残骸はそのまま展示されるとは思われるけど。

展示終了で撤去となったのちに、本機がどうなるのかは2025年8月現在では不詳。。。

ニューポール機の展示は8月末で終了です。
これまでたくさん見学していただいてありがとう。

ニューポール81E2(甲式一型練習機)
1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。
埼玉県が発注し、米国にてレプリカを作成、平成4年(1992)9月に完成した。


岩田正夫のニューポール81E2

岩田正夫のニューポール81E2
埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。

慈光寺の”ニューポール81E2”複葉機
ここに展示されている”ニューポール81E2”は、埼玉県比企郡都幾川村出身の民間飛行家、岩田正夫が1926(大正15)年に郷土訪問飛行を行った時のものである。玉川村都幾川の河原へ着陸した際、機体を破損したため、そのまま村へ寄贈され、以後この村にある慈光寺に、およそ70年間保存されていた。機体は腐食のやめエンジンと操縦室周辺、着陸装置などをのこすのみとなったため、往年の姿が残された設計図などを参考にレプリカとして再現された。

埼玉が生んだ民間飛行家、岩田正夫
岩田正夫は1901(明治34)年12月2日、埼玉県比企郡平村(都幾川村)の地主の三男として生まれた。東京府立豊島師範学校を卒業後、陸軍に入ったが、大正ロマンティスズムの影響を受け、北海道、樺太、朝鮮などを放浪、1925(大正14)年大空への飛行を志して日本飛行学校に入学し、三等操縦士となった。その後、代々木で行われた競技大会などで優勝し、1928(昭和3)年には一等飛行機操縦士免許を取得、台北ー立川ー札幌間の航空路を開発、フリーの民間航空家となる。この年、日本電報通信社航空部に入社した岩田は、行方不明になった同僚を捜索中、三重県松阪市吹井の浦海岸で墜落、殉職した。

父の慰霊をかねた郷土訪問飛行
1926(大正15)年8月13日、ちょうど新盆に当たるこの日、2度目の郷土訪問飛行のため、岩田は明覚村付近を流れる都幾川の河原に不時着を装って降りる計画をたてた。立川飛行場を飛び立って、恋人の住む明覚村に飛んできた正夫は、彼女の住む家の上空をハンカチを振りながら低く旋回し、そばの河原に着陸しようとした。しかし、盆の支度のため川に盆棚を洗いにきていた人々が飛行機を見て河原に集まってきたので、危険を避け隣の村の河原に着陸した。翌日、正夫は友人や村人たちのために航海飛行を行った。しかし、正夫の飛行ぶりに興奮した見物人たちが着陸を待ちきれず河原中央に押しかけ、それを避ける為に急上昇した時土手に機体を接触し機体の一部を壊してしまった為、機体を記念として村に寄贈した。

フランスから輸入された”ニューポール81E2”
”ニューポール81E2”は、1918(大正7)年、陸軍がフランスから輸入した練習機で、80式とともに前後の座席に操縦装置がついており、翌年から来日したフランス航空教育団の教材として、所沢陸軍飛行学校設立以来、甲式一型練習機として使用された。その後三菱で国産化され、57機が製作された。エンジンは、”ル・ローンC”空冷式回転星型(9気筒、80馬力)で、プロペラと共にエンジン全体が回転するものであった。機体はエンジンの取付部と操縦室周辺が金属製のフレームで構成され、そのほかの胴体と翼は木製のフレームにドープ油を塗った絹布が張られていた。


HU-1B(ベル204B)

同じく展示が終了するHU−1B
機体番号41547
屋内展示の綺麗な状態での「HU-1B」は本機だけであるが、今回のリニューアルで展示終了となり撤去されるという。


ウルトラライトプレーン・ハングライダー

この2機も、今回のリニューアルで撤去となる。


屋内展示機各種

リニューアル後にどのような展示になるかもあるので、なんとなくリニューアル前の状態を、特に熱意は込めずに気ままに撮影。
機体の細かい説明は省略。


2025夏の特別展(零戦とYS-11)

リニューアル前の最後の企画展。せっかくなので。

2025夏の特別展
時代を翔けた零戦、そしてYS-11
戦時中最も多く生産された国産戦闘機と戦後初めて生産された国産旅客機

YS-11は私の最も印象に残る仕事となった。課長で始めたこのプロジェクトを私は局長の時一八二機で打ち止めにした。今ではいろいろな評価があると思うが、戦時中私の目の前で勇戦したあの零戦の技術を何とか戦後の日本で生かしたいという私なりの気持ちがあって始めた日本初の旅客機だけに、この時は大いに悩みに悩んだ
 YS-11生みの親・赤澤璋一(戦艦比叡元乗組員、元通産官僚)「傘寿の記」平成12年刊より)

赤澤璋一は東京帝大を出て、商工省入省、海軍経理学校を経て、戦艦比叡に主計官として乗組。
主計中尉だった赤澤璋一は、ソロモン海戦で比叡沈没の際に、駆逐艦・雪風に引き上げられ九死に一生を得ている。

堀越二郎

赤澤璋一


過去の企画展ポスター


機体以外の、展示もおそらく大幅なリニューアルで変わることが予想されますので、それはそれで、記録しておきました。
随時、記事を展開時に参照できれば、です。

※2025年8月撮影

「全員玉砕せるものと認む」アッツ観音(保寿院・山梨)と山崎保代の墓(多磨霊園・東京)

毎年恒例の「河口湖(「河口湖自動車博物館・飛行舘」)」の往復で乗車している「富士急行線(富士山麓電気鉄道富士急行線)」。

そんな富士急行線「赤坂駅」すぐ近くに、「アッツ観音」があるというのを知ったのはつい最近。実は車窓からも見える、ことも知らなかった。
知ったからには、すぐさまに足を運びたくなり、そうして、8月の河口湖行きの復路に参拝をしていきました。


山崎保代(やまざき やすよ)

山崎 保代(やまざき やすよ)
1891年10月17日 – 1943年5月29日
最終階級は陸軍中将。
都留市の四日市場保寿院住職山崎玄洞の二男に生まれた。
太平洋戦争(大東亜戦争)中、山崎保代は北海守備第2地区隊長に任命され、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。

https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kingendai/yasuyo.htm


アッツ島の戦い

1942年6月7日以来「日本軍」が占領していたアッツ島を、「アメリカ軍」が奪還を目指して始まった戦い。
アメリカとしては、1812年に始まった米英戦争以来、131年ぶりにアメリカ領土を奪還する戦いとなった。
日本軍の守備兵力は2650名に対し、米軍は5倍以上の戦力を投入し、日本守備隊は激戦の末に全滅した。
アッツ島の戦いは、日本国内で初めて「玉砕」という表現で報じられた戦いであった。

昭和17年6月、ミッドウェー作戦(ML作戦)の支援を兼ねたアリューシャン作戦(AL作戦)が決行された。
6月8日、日本軍はアッツ島に上陸し占領。アッツ島を「熱田島」と命名した。なお、アッツ島には米軍は駐留していなかった。
侵攻に際しては、アッツ島は陸軍、キスカ島は海軍の担当であった。

昭和17年8月、キスカ島への守備強化を実施するために、アッツ島は放棄となったが、アメリカ軍の攻撃に際して、10月に方針を変更し、アッツ島の再占領を実施。

昭和18年2月、北太平洋方面の守備を見直し。
 北方軍司令部
  (司令官 樋口季一郎陸軍中将)
 北海守備隊
  (司令官 峯木十一郎陸軍少将 キスカ在)
 キスカ島を担当する第一地区隊
  (歩兵三コ大隊、地区隊長 佐藤政治陸軍大佐)
 アッツ島を担当する第二地区隊
  (歩兵一コ大隊、地区隊長 山崎保代陸軍大佐)

2月11日に山崎保代陸軍大佐が北海守備第2地区隊長に補職された。
3月27日にはアッツ島沖で「アッツ島沖海戦」が発生、日本軍の輸送船団はアッツ行きをやめて幌筵に撤退し、乗船していた山崎大佐もアッツ島に着任できなかった。
山崎大佐は潜水艦に乗り換え、4月18日にアッツ島に上陸。

1943年5月12日、戦艦3隻を擁するアメリカ太平洋艦隊の支援下、第7歩兵師団の15,000名のアメリカ軍が上陸を開始した。

山崎保代北海守備第2地区隊長は、アッツ島の戦いで、2,650名の守備隊を指揮し水際防御ではなく、のちのペリリュー島の戦いや硫黄島の戦いと同じく敵を島の内部や高地に引き込む戦略を採用し陣地を構築。

1943年5月29日、過酷な戦闘が繰り広げられ、17日間の激闘のすえ、最後の突撃にて守備部隊は壊滅し、戦闘で指揮していた山崎保代も戦死し、アッツ島守備隊は玉砕した。

大本営発表(昭和18年5月30日17時付)
アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。
爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。
傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。
我が守備部隊は2500名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保世なり。
敵は特種優秀装備の約2万にして5月28日までに与えたる損害6000を下らず。

山崎保代は、死後2階級特進し、陸軍中将に進級している。
享年51歳。

なお、大本営発表として「玉砕」と発表されたのは、「アッツ島の戦い」が最初であるが、以後は「総員壮烈なる戦死」と発表されている。


アッツ観音

戦後全国のアッツ島戦没者遺族と地域の人々によって、勇士の菩提を弔い、かつ、世界平和を願って、昭和29年5月19日、父親の山崎玄洞により生家の保寿院境内に「アッツ観音」が建立される。
1994年(平成6年)には、追悼の石碑も建立される。

部隊の長として遠く不毛に入り
骨を北海の戦野に埋む 
眞の本懐に存じ候えや
護國の神霊として悠久の大義に生く 
快える哉
 山崎大佐

山崎保代は当山十七世玄洞和尚の次男として明治二十四年十月十七日生を享く
長じて陸軍に身を捧し 大東亜戦争北方の要衝アッツ島守備部隊の長として出陣
その折上野甲子氏に碑面の遺書を託した 
昭和十八年五月二十九日 二千六百三十八勇士と共に北海の孤島に於いて 世界平和と祖国の安泰を祈念しつつ玉砕した
その功により陸軍中将に任ぜられる
 平成六年仲秋
  当山二十世洞岳明三敬建

台座は、アッツ島をイメージしているという。

合掌

富士山を背に、アッツ島の方角を向く「アッツ観音」

富士急行線のすぐとなり。


保寿院

曹洞宗
山号は岩生山
都留七福神の大黒天
アッツ観音霊場
アッツ島の守備隊長・山崎保代の生家

車窓からも見えます。

場所:

https://maps.app.goo.gl/E6qfMkZ4jdMD8cu36


山崎保代の墓

多磨霊園の山崎保代の「山崎家之墓」がある。
多磨霊園19地区1種2側

山崎家之墓

従四位勲二等功三級
陸軍中将 山崎保代 
 昭和18年5月29日
  アッツ島・戦死・53歳

だいぶ昔に、多磨霊園の山崎保代の墓に詣でていました。

https://maps.app.goo.gl/SY8QD1FTT9tm2UiS7

※2016年2月撮影


アッツ島玉砕・藤田嗣治(東京国立近代美術館)

東京国立近代美術館に「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)が収蔵されている。ちょうど、特別展もやっていたので、作品を見ておきたく、こちらも足を運んでみました。

東京国立近代美術館
2025年夏の特別展
コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ

https://www.momat.go.jp/exhibitions/563

この特別展にて、「アッツ島玉砕」が掲示されていたので、以下に記録。

「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)

写真では絵画ならではの迫力も凄惨も伝わらないが。

戦争画(戦争記録画)の代表作として著名

藤田嗣治
アッツ島玉砕

1943 作戦記録画
1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民総力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱が置かれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀をしたというエピソードもあります(野見山暁治「四百字のデッサン」河出書房新社、1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア・ミックスがあったことも見逃せません。

https://www.momat.go.jp/collection/x00120

「写真週報」276号
昭和18(1943)年6月16日

アジア歴史資料センターより

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A06031087100

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006070420550957726

同特別展では、
「アッツ島爆撃」という作品も掲示されていた。

※2025年8月撮影


関連

山崎保代の上官にあたるのが、北方軍司令部(北部軍司令部)の司令官であった樋口季一郎。

富士急行線の目的は、、、

80年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から80年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
毎年恒例。
変わることなく、祈りを捧げる。


靖國神社・午前9時30分

すでに、第二鳥居まで行列ができていました。

良き青空。


放鳩式 靖國神社・午前10時

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

毎年恒例、講談師の室井さん。

午前9時55分ごろに、白鳩が手渡しされました。

靖国神社、大塚宮司

英霊、ありがとう
心をこめて
放鳩式


放鳩式 靖國神社・午前10時すぎ

すでに神門の外まで、参拝列が連なっておりました。


「白鳩の会」と「御朱印」

毎年、ありがとうございます。

靖国の御神紋の金刺繍がひときわに。


靖國神社拝殿・正午

正午の20分くらい前。ギリギリまで直射日光は避けたいという空間。

国家
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

おことば
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来80年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/295#3132

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

ありがとうございます。

靖らかに。


遊就館

8月15日、ひときわに暑い夏。

終戦80年企画展
青少年に伝えたい
沖縄戦の学徒隊・特攻隊

私も知らなかったエピソード、多数。
これは、青少年に限らず、すべからく必見ですね、。


靖國神社・正午すぎ

ご苦労様です、冷たい麦茶ありがとうございます

今年は例年以上の人手で、麦茶も行列ができていました


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

千鳥ヶ淵にも足を伸ばす。

全国戦没者追悼式のため、北の丸は立ち入り禁止


昭和館

戦後80年 特別企画展
社会を映す、動かす
ポスターにあらわれる国策宣伝の姿

企画展をやっていたので、足を運んでみました。

図録。
今回の企画展と、過去のポスター関係の図録もまとめて購入してしまいました。


映画『雪風 YUKIKAZE』

戦後80年の、ちょうど8月15日公開の映画。
幸運艦「雪風」の物語。

※撮影:2025年8月15日


河口湖自動車博物館・飛行舘(2025年8月版)

このところ、夏の恒例となりつつある「河口湖自動車博物館・飛行舘」詣で。

正式名称は「河口湖自動車博物館・飛行舘」となりますが、「飛行館」の表記揺れがあります。

今年で、4年連続、です。
彩雲の進捗を中心に。


前回の記録

2022年

2023年

2024年


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

彩雲の説明とは、上記リンクの過去記事を参照でお願いします。
以下、写真メインで。

2025年で胴体の復元が完了。
尾翼のフェアリングが装着され、方向舵のラダーも取り付けられた。


そのほか飛行舘展示品

置き方がちょっと変わりましたね。

靖国のコレ、去年は、なかったです。。。

この大型模型も去年は無かったはず。(大和と赤城と)

銀河のプロペラ(前は表示がなかった)

ちなみに、河口湖駅からレンタサイクル、です。
もう4回目なので、レンタサイクルの行程も慣れたものです。
さすがに初見ではないので、3時間で往路と見学と復路と問題ないです。
(電動は必須です、往路は富士山に向かって上り坂なので)
(自転車で行く人、そんなに居ないと思われ、ですが)
(帰りは下り坂をすごい勢いで漕がずに帰ってこれます、危ないので安全運転で)


河口湖駅

河口湖

今度こそ、温泉?

富士山駅でみた富士山が、この日の一番の富士山でした。
あとは雲隠れで、ほぼ見えませんでした。

※撮影:2025年8月


「遺髪塚」終戦2日前の大月空襲

富士急行線から大月で乗り換えるのに、時間があったので、大月の町を散策してみた。


大月空襲

1945年8月13日午前8時過ぎ、終戦2日前にあった米軍による大月空襲。
大月駅の裏にあった興亜航空(興亜航空工業株式会社)などの軍需工場や、大月に疎開していた軍事施設(都留中に立川航空廠、都留高女に陸軍航空本部第4技術研究所の工場疎開)を狙った空襲で、旧制都留中学(現県立都留高校)や旧・都留高等女学校の生徒や教職員、市民など、あわせて50人以上が犠牲になった。
もっとも被害が大きかったのが、都留高等女学校であった。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/yamanashi_ootsuki_005/index.html

大月は、道路や鉄道の合流点として栄えており、線路の北側には能登精機(現・大月東中)、興亜航空(興和コンクリート跡地)、大月産業(住宅地や大月倉庫跡地)、線路の南側には、大月東国民学校(現・大月東小)、都留中学校、都留高等女学校(現・大月短期大学)があり、東側には、長距離大容量発電を可能とした駒橋水力発電などどがあった。


遺髪塚

行願寺の墓苑、もっとも高い場所に位置しておる。
都留高等女学校があった、大月短期大学を見下ろす東の高台に。

https://www.gyoganji-otsuki.com/memorial.html

遺髪塚
山梨県立都留高等学校東校舎生徒会

遺髪塚合祀霊名
24名の氏名略

遺髪塚の記
太平洋戦争もまさに終わらんとする昭和二十年八月十三日午前八時二十分思いもよらぬ無差別の空襲
たちまち悲惨な血の地獄と化した都留高女
このたった数分の挙があたら十数名の尊い命を奪う
戦い終わり悲しみの中に校葬を挙行 
遺髪を塚に納めて弔う三十年
旧都留高女校舎の歴史を閉するの時生徒会の名にて碑を建立
今年三十三回忌に当たり同窓旧師四百余名挙りて遺髪塚を整備し懇ろに回向して永久の冥福を祈る。
 昭和五十二年八月十三日  遺髪塚整備委員会

終戦既に五十年、歴史の重さを痛感しつつ旧師同窓願い一つに遺髪塚をば大改修し追悼の法要も営み、以後の管理を都留高等学校同窓会並びに学校当局にゆだね、永久の供養と歩み来し五十年の思いを託し万感込めて、み霊の冥福を祈る。
 平成六年七月二十四日  遺髪塚管理委員会

合掌

都留高等女学校のあった方向

遺髪塚あります、の記載あり。

場所

https://maps.app.goo.gl/Fv2oPqtCQ7D1YwxLA


平和祈願の石(厄王大権現)

厄王大権現、大月市駒橋の鎮守。
境内に、大月空襲に関係する巨石がある。

平和祈願の石
昭和二十年八月十三日午前八時三十二分米軍艦載機は突如大月町を襲い山間の町民に恐怖の中で甚大な被害を与えた
この時投下された爆弾の一つは桂川で爆発しその爆風は一、五トンの石をふき上げ百余米の高さに達したという
附近は国道沿いの人家密集地であったがこの石は厄王大権現の霊験によって当山地先に落下し町民はあやうく難をまぬかれた
時移り世が進むにつれ世人びと厄王大権現を畏敬し当時落下したこの石を、平和祈願の石と名づけここに安置したものである
 昭和四十七年四月八日
  大月市長 志村寛識


大月駅

明治35年、中央本線とともに開業。
岩殿山がそびえ立つ。

駅の南西方向には「むすび山」
大月防空監視哨があった。

大月の市街地方面


浅利防空壕跡

大月駅の北側、桂川にかかる浅利橋に向かう道の途中には崖面がある。
往時、ここには防空壕が多数あったとされている。
興亜航空の工場から避難した工員や勤労学生・学徒は、この場所にあった横穴の防空壕に避難したが、都留中学生がここで被災し亡くなっている。


興亜航空工業跡地

大月駅北側の広大な空き地には、「興亜航空」という軍需工場があった。
海軍の零式輸送機の翼を製造。
また、木製のおとり飛行機(デコイ)も造っていた。
都留中や都留高女の生徒たちが学徒勤労動員で作業に従事していた。

https://www.kkn.co.jp/ja/company/enkaku.html

2022年にオープンした大月の東横INNの存在感が。。。

工場跡地

とにかく主張が強いのは東横INN。。。

御太刀塚

興和産業(興亜航空)の工場創設の造成に際し、周辺にかけて幾つかの古墳や墓碑は破壊されたが、多くの遺物が掘出されたという。

※撮影:2025年8月


関連

ハワード・キャノン航空博物館・Howard W. Cannon Aviation Museum(ハリー・リード国際空港・ラスベガス)

ラスベガスの国際空港。
空港内にちょっとした展示コーナーがあったので、写真をぱちぱちと。
何が書いてあるかは、よく理解していません。(英語が出来ない民なので)


ハリー・リード国際空港

ネバダ州ラスベガスの国際空港
2021年に「マッカラン国際空港」から、「ハリー・リード国際空港」に改称した。
いずれも、ネバダ州出の上院議員の名前から名付けられている。

もともとは1942年開設の「アラモ空港」に始まり、1948年にクラーク郡が買取「クラーク郡営空港」となり、そして「マッカラン飛行場」となった。

ちなみに米軍基地としては、「ネリス空軍基地」がラスベガス北東7マイル(約11キロ)の距離にある。


ハワード・キャノン航空博物館

ハリー・リード国際空港の展示コーナー。

ターミナル1の2階部分、荷物受け取り所を見下ろす位置にある。
ネバダ州の航空の歴史資料が展示されている。
ハワード・キャノンはネバダ州出身の上院議員。

T-50ボブキャット(セスナ)のプロペラ。

戦略爆撃機の時代。
B-17
B-29
爆撃機に搭乗する機関銃座の担当者は、ラスベガスにあった航空砲術学校で訓練を受けたという。
現在もラスベガスのネリス空軍基地には「アメリカ空軍戦闘センター」があり、テストプログラムが実施されている。

セスナがぶら下がっていました。

下は、到着フロア
手荷物を回収したら、そのまま外に出れる感じで、この辺りは日本とはだいぶ違うなあ、と。

いたるところにカジノマシンがあります。


羽田→ロサンゼルス→ラスベガス

写真を徒然。
アメリカン航空で、往復しました。

昼食?夜食?
時差があるので、どっちの時間軸になるのかな、、、。

夜食?朝食?

ロサンゼルス
アメリカに着いたって感じ。
ここから入国審査で1時間くらいかかって、乗り継ぎはやはり2時間は必要な感じでした。
英語できない民にとっては、入国審査で、どこに行く?どこに泊まる?何しに来た?とか説明するのが大変なので、泊まる場所とか、目的とか、全てプリントしておくと宜し。

ロサンゼルスでトランジットで国内線に乗り換え。
ラスベガスに。
国内線の保安検査も、日本とは違って、靴を脱いで、チェック。
パソコン出し忘れると、引っかかります。(引っかかった。。。)

アメリカの大地って感じ。

ラスベガスにつくと、カジノ機が迎えてくれます。
おっ、ラスベガスに来た!って感じ。


ラスベガスあれこれ

とりあえず、BBQっぽい肉を喰らう。
アメリカに来たって感じ。

人生に於いて、これ以上はないステーキに出会ってしまった。
分厚いのに柔らかく美味すぎて、もうヤバい。。。
こういうのは出会ってはいけない奴です。
もう普通の食べれなくなるやんw

約400グラム(14オンス)で64ドル。

Oscar’s Steak House @ Las Vegas BOBBY Gs’ 14oz NEW YORK STRIP

ジン マティーニ とか エスプレッソ マティーニ とか マティーニも過去最高に美味。

プライムリブステーキ
Lawry’s The Prime Rib Las Vegas

もはや何を飲んだっけな?

コンビニでお買い物

ファーストフード

ラスベガスの丸いやつ。

MSGスフィア

ラスベガスのモノレール

ザ・ラスベガス!!っていう場所。

ダウンタウン

屋根がLED
こういうのは日本では無理だろうなあ。維持管理も大変そう。

WELCOME TO Fabulous LAS VEGAS NEVADA

すばらしいネバダ州ラスベガスにようこそ!

例の有名なウェルカムボードのコピーですね。


ラスベガス→ロサンゼルス→羽田

帰りもアメリカン航空。

ロサンゼルス

ちなみに、行きも帰りも遅れて。
異国の地の飛行機の遅れは勝手がわからなくて、結構困りますね。
ロサンゼルスでは、搭乗口も何回か変わって、あっち行ったりこっち行ったりもあって。

ゲート155から

ゲート41に移動って、場所がぜんぜん違うし。

夜飯?

ワインが美味しかった。

朝飯?

実は、人生初のアメリカ、でした。
それなのに、ソロでの移動、なかなかの緊張感で、、、いやあ、英語できない民としては、怖かったですわ。
(ラスベガス着いたら、現地の業務委託スタッフと合流できたので、なんとかなりましたが)

※撮影:2025年4月



「Atomic Museum(核実験博物館)」(アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス)

仕事でラスベガスに行く機会があった。
砂漠を開拓した都市なので歴史的なネタはないかなと思いつつ、それでも、なにかしらの面白い発見があればと地図を眺めていたら「アトミックミュージアム(核実験博物館)」があった。そういえば、ネバダ核実験場か、、、ということで、脚を運んでみた。

もっとも、私は英語がダメなので、ほぼフィーリングになりますが。


マンハッタンプロジェクト・トリニティ実験

オッペンハイマーを中心としたマンハッタン計画の研究者たちがニューメキシコ州のロスアラモスに研究所が置かれることが決定したのが1941年11月であった。
そして、1945年7月16日にアメリカで実施された人類最初の核実験が「トリニティ実験」。
ニューメキシコ州のトリニティ実験場で実施された。
トリニティ実験では、のちに長崎に投下された「ファットマン」と同様の構造であったが、ファットマンのように空中投下ではなく、鉄塔添え付けでの爆発であった。
7月16日のトリニティ実験の成功を踏まえて、1ヶ月も経たない短期間で、8月6日に広島に「リトルボーイ」、8月9日に長崎に「ファットマン」が投下された。

そういえば、映画「オッペンハイマー」もみましたが、なんというか、「原爆の父」であるオッペンハイマーの心理的な自伝であって、戦後のオッペンハイマー事件も含め、その背景を知っているか知っていないかで、だいぶ見え方が変わってくる作品でした。良くも悪くも日本人として描いてほしい原爆の話は皆無で、そういう観点でいうと、日本人にとっては駄作なのかもしれず。
まあ、そういう意味でも、このラスベガスの核実験博物館も然りで、米国からみる原爆の見え方は、日本とは異なるわけで。


核実験博物館( Atomic Museum)

核実験博物館( Atomic Museum)はアメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスにある博物館。非営利団体であるネバダ核実験場歴史財団(Nevada Test Site Historical Foundation)の運営であり、核実験とネバダ核実験場の歴史を主に展示している。2005年3月に開館した。スミソニアン協会にも加盟している。
おもな展示物は、核爆弾の発達に関するものやファットマンの模型など。

ATOMIC MUSEUM
A SMITHSONIAN AFFILIATE

It’s A BLAST!

最高だよっ!
核爆発級の、科学と歴史の体験を!!ってこと、らしいですが。。。

ノリノリの女性の写真は、1950年台にラスベガスで発生した「ミス・アトミックボム(ミス・原爆)」で知られる「リー・マリーン」(1957年)
キノコ雲水着というのが、当時の「核実験鑑賞ツアーブーム」とともに文化的象徴でもある。

うーん、なんというか、表現が、ラスベガスというか、アメリカンっぽいですね。
なんか、核に対する根本的な意識が、これに集約されている感もあり。

入館料は、大人$29。だいたい4,000円~4,500円くらい。

National Atomic Museum

メインの展示室

HARRY REID GALLERY
ATOMIC ODYSSEY

このコーナーは、科学技術的な展示室。私には難しすぎた。。。

ハーリー・リードはネバタ州出身の政治家。
ラスベガスの国際空港も以前はマッカラン国際空港であったが、改名され「ハーリー・リード国際空港」と、その功績を讃えている。

ATOMIC LOUNGE & GALLERY

SPY関係の展示があるというがクローズだった。
ここに、ドイツのエニグマ暗号機関連の展示を中心としたコーナーというが、見学できずで残念。。。

DINA TITUS GALLERY
THE MANHATTAN PROJECT

マンハッタンプロジェクトに関連する展示室。
日本人的には、ここが一番、見どころあるというか見ておかないとダメなコーナー。


Fat Man(長崎に投下された原子爆弾)模型

Fat Man(ファットマン)
長崎に投下された原子爆弾の原寸大の模型。
太った男性の丸い形、、、

人類史上初の核実験である「トリニティ実験」に使用されたガジェットと同型。
アメリカ軍での分類番号は「Mk.3」
マンハッタン計画の一部として、ロスアラモス国立研究所でつくられた核兵器。
リトルボーイ(Mark .1)が高濃度ウランに対し、ファットマンはプルトニウムを用いてた。
1945年8月9日に、実戦投入され、長崎に投下された。

第二次世界大戦後も製造が続けられ、1940年台の米軍の核戦力の中心にあった。1947年にはロスアラモス国立研究所にはファットマン60発分の部品が備蓄され、アメリカ兵器廠には使用可能な状態で13発が備蓄されていた。そして1949年までに120発が生産された。

降伏文書のコピー

参考までに。
外務省外交史料館別館で展示されている降伏文書(原本特別公開時に撮影)

ファットマンの模型の後ろで、ミズーリの降伏調印の画像を展示。
ファットマンのおかげで、米国が勝利し、日本が降伏、その通りではあるが。

降伏文書調印式の日本全権 重光葵

ミズーリ号の甲板上にて。

WAR IS OVER
戦争終結

原爆投下部隊が語る JAP 日本の都市襲撃のエピソード。

原子爆弾が、ジャップを驚愕させる。。。

なんとも複雑な思い。


核実験博物館での「ヒロシマ」「ナガサキ」

カメラマンが福岡で出会った男性。

Old Man

<意訳>
この時代の男性の珍しい西洋スタイルのロングコートと帽子が目に止まり写真を撮りました。
撮影した人から簡単な質問をされることは慣れていましたが、この男性は過去のことを語ってくれました。
「アメリカに住んでいたが戦争が始まった際に家族を訪ねていた際に日本で捕えられた。」
原爆についても言及し、私を驚かせました。

「私は家族全員とほとんどの友人を失いました。彼らはあなたや私と同じように罪のない人々で、死ぬべきではありませんでした。私はアメリカを許しますが、忘れろとは言わないでください。土に種をまくように、この灰の中から建物が立ち上がるでしょうが、残念ながら私が生きている間には無理です。あなたは、原爆投下後の状況を人々に伝えてください。」

彼の言葉は、その後、数ヶ月間、私の心を悩ませました。

I lost my entire family and most of my friends. They were like you and me, Innocent ones, and they did not deserve to die. I can forgive America, but don’t ask me to forget. Like planting seeds in the dirt, buildings will rise out of these ashes, but unfortunately not in my life time. You tell your people what it was like after the bomb.


ガジェット(人類初の原子爆弾)模型

人類初の原子爆弾(プロトニウム原子爆弾)
マンハッタン計画で製造
1945年7月16日、ニューメキシコ州のホワイトサンズ射爆場での核実験「トリニティ」で爆発した。
ガジェット(ちょっとした装置)の名称は、爆弾を連想させないことで、情報漏洩を防止し開発を秘匿する意味があった。
「ガジェット」は、「ファットマン」と同様の構造をしていた。
当時、米国では「ガジェット」「リトルボーイ」「ファットマン」を並行して製造しており、トリニティで「ガジェット」の爆発成功から1ヶ月以内に、「リトルボーイ」と「ファットマン」を実戦に投入している。


核開発の歴史

核兵器を開発せざるをえなかった歴史的なお話。
「5W1H」で。

WHY?

WHAT?

WHO?

WHERE?

HOW?

WHAT NOW?


メイン展示室

いったん、メイン展示室に。

トルーマン大統領、、、

<意訳>
製造が間に合わず、原子爆弾を2発しか保有しておらず、実験もトリニティ実験の1回のみであったが、米国として「日本との戦争を迅速に最小限の犠牲者で終わらせるために」、未実験だったリトルボーイをヒロシマに投下。それでも日本は降伏をしなかったために、トリニティ実験で成功した同型のファットマンをナガサキに投下し、日本は降伏した。

<意訳>
1945年7月26日、連合国(アメリカ・イギリス・ソ連)は、日本にポツダム宣言を通告するも、日本はこれを拒否した。連合国による日本本土侵攻はアメリカ軍だけでも推定100万人の犠牲者がでるとされ、政策立案者たちは全員一致で、原子爆弾が最も少ない流血で戦争を終結させ、軍事目標に対して警告なしで使用すべきと結論づけた。
そして、1945年8月に、2発の原子爆弾が投下され、日本は降伏した。
連合国による大規模な侵攻作戦と戦後の戦勝国間の分裂を回避することができた。
<意訳ここまで>

うん、、、、

結果、ヒロシマとナガサキで、21万人以上という市民の犠牲者を招いたわけで。

ヒロシマにリトルボーイを投下した「B-29 エノラ・ゲイ」の模型。


ネバダ核実験場

ラスベガスの北西約105キロのネバダ砂漠にある核実験場。
1951年に核実験場として開設。
ラスベガスに、核実験博物館がある理由でもあり。


展示あれこれ

ネバダ州と、核と、その歴史などが時系列で、いろいろと展示してある。
私は、何度も言いますが、英語がダメなので、なんとなくフィーリングで察しつつ、気になるところはスマホ翻訳をさせながら、観覧をば。

第二次世界大戦後の、原子爆弾の開発の歴史。

あっ、またこのおねえさん。。。

ネバダ実験場

原爆実験をネタにしたグッツの数々。

戦艦ネバダ
1916年就役、1948年海没処分
1941年の真珠湾攻撃に際して日本軍機の攻撃によって被弾するも戦艦列の中では損害は軽微であったが着底座礁。1942年2月に引きげられ1943年3月に大改造を経て修理完了。アリューシャン列島でアッツ島攻略作戦に加わり、その後、ノルマンディー上陸作戦を支援。
1945年2月、硫黄島の砲撃に参加し、その後、沖縄攻略作戦に参戦。
戦後、ビキニ環礁における原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦に供出。
1946年7月1日と25日の2回の核爆発実験で、ネバダは生き残った。
真珠湾で調査を受けた後、1848年に標的艦に指定され、7月31日に戦艦アイオワなどから砲撃され、海没処分となった。

クロスロード作戦

核開発の歴史はすすむ。

地下核実験へ、と。

核弾頭ミサイルの変遷

アメリカからみた、戦勝国からみた、核兵器・原子爆弾。
ここでは良し悪しを言うつもりはありませんが、いろいろと考えさせられた博物館。
ラスベガスといえば、ギラギラしたカジノをはじめとしたエンターテイメントの街のイメージしか持っておりませんでしたが、核実験場もある街であったこと、学ばさせていただきました。

※撮影:2025年4月


関連

陸軍通信学校集会所(相模女子大学・2025年8月解体)

相模女子大に残る旧陸軍通信学校の集会所が老朽化のために2025年8月に解体されるとのことで、慌てて足を運んできました。
なお、最後の一般公開日には間に合わず、その翌日に、外見の見学をしてきた次第となります。

2025年8月解体

https://www.sagami-wu.ac.jp/info/20250612_11

相模原女子大学のサイトには以下の記載がある。

解体の経緯
本学では、茜館の文化的価値を尊重し保存に努めてまいりましたが、建設時の図面がなく耐震診断も出来ない状態で、安全上及び居住環境上に大きな懸念があることから、関係機関との協議の上、解体を決定いたしました。
なお、相模原市文化財保護課には、相模原市文化財の保存及び活用に関する条例に基づく「現状変更等届出書」を提出しており、2025年3月31日に受理されています。

茜館の記憶を未来につなぐ取り組みについて
茜館は、戦前・戦後を通じて多くの歴史を刻んできた貴重な建築物であることから、本学ではその価値を未来に伝える取り組みを進めています。
具体的には、茜館の四季をテーマにした動画の制作や、解体後の茜館の一部部材について学内で保管・展示するほか、相模原市立博物館への寄贈を予定しています。


陸軍通信学校

1925年(大正14年)5月1日に、杉並に設置されたことに始まる。跡地は馬橋公園。
その後、陸軍士官学校の移転にあわせて、1939年(昭和14年)に、相模原に移転。
近くには、相模原陸軍病院や陸軍兵器学校などもあった。


陸軍通信学校将校集会所(相模原女子大学・茜館)

1939年(昭和14年)に杉並から相模原に陸軍通信学校が移転したときに、将校集会所として建設された建物。戦後は、相模原女子大学の前身となる帝国女子専門学校が跡地に移転してから教室や本部棟、生涯学習施設などに使われてきた。
近年、雨漏りなどの痛みがひどく、補修困難となり、2025年夏に解体となった。

相模原市登録有形文化財
旧陸軍通信学校将校集会所(相模原女子大学第1本部棟)
相模原市登録名勝
旧陸軍通信学校将校集会所庭園(相模原女子大学フランス庭園)

旧陸軍通信学校が当時の大野村に移転してきたのは昭和13年から昭和14年にかけてです。
将校集会所の外壁は改装されていますが、外観は全体として当時の姿を良く残しています。
庭園は集会所に付設された庭園で、現存する洋風庭園として貴重であり、当時の優れた施工技術を知ることができます。
 注 室内は原則として見学できません。
 登録年月日 平成15年4月1日
  相模原市教育委員会

見学会に参加できなかったのが、つくづく、残念。。。

側溝の蓋、当時からの雰囲気あります。

裏側。

窓から室内を覗く。前日の見学会の名残。。。


陸軍通信学校将校集会所庭園(フランス庭園)

庭園部分も散策


練兵場

今は校庭的な。


陸軍通信学校時代の建屋?

守衛所のうしろの建物。
当時からの雰囲気が濃厚。


陸軍通信学校門衛所

いまは、相模原女子大学の守衛所。当時から役割は変わっていない。


陸軍通信学校正門

門柱が残る。


サガジョ歴史マップ

サガジョで作成された下記が詳しい

https://ymkn.sagami-wu.jp/wp-content/uploads/2023/10/sagajohistorymap2023.pdf

今回は、取り壊し前の建物に夢中になってしまい、結果として、陸軍の星マークのマンホールや、防空壕跡などを完全に見逃しており、さらに奥の給水塔などにも行けず、でしたが。
まあ、いろいろ、また今度かな。。。


行幸道路奉仕記念碑

昭和12年に陸軍士官学校が移転し、その後、相模原には陸軍通信学校や陸軍兵器学校、相模原陸軍病院などが設置され軍都相模原として、南北にわたり陸軍の施設があった。
行幸道路として、最初は士官学校と小田急線士官学校前駅 (現在の相武台前駅) を結ぶ道路の拡張・改修工事が行われた。御幸道路は、その後も延伸され、原町田駅(町田駅)まで整備された。

奉仕記念碑
昭和十二年九月陸軍士官学校ノ本県ヘノ移転ニ伴ヒ
府県道厚木調布線ノ一大改修ヲナスコトトナレリ、
県下青年ノ勤労奉仕ヲ求メ長期建設ニ処スル団体訓練ノ機会タラシムルハ
最モ意義深キヲ思ヒ、関係各方面ノ協力ヲ得テ、
昭和十三年七月ヨリ同十一月ニ亘リ、延人員青年団員三千三百九十三名、
学校報国団員四千八百四十四名、女子青年団員二百七十九名ヲ
奉仕セシメタリ、其ノ結果所期ノ目的ヲ達シ青年ノ心身鍛錬上
極メテ有意義ナリシノミナラズ、工事進捗ノ上ニ貢献スルトコロ亦洵ニ
甚大ナルモノアリタリ、仍テ之ヲ録シ記念トナス  
昭和十四年三月

場所

https://maps.app.goo.gl/n1ts9HpFGUWw3Wys7

※撮影:2025年7月