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「英霊殿跡」群馬縣護國神社創建前に招魂社が建立された高崎公園

高崎城址の南に展開されている高崎公園は意外と歴史が古く、明治9年(1876)に造園されたという。ちょっと散策してみましょう。


英霊殿跡
(群馬縣護國神社旧地・高崎公園内)

群馬県護国神社が創建される前の招魂社として機能してた「英霊殿」。

群馬縣護國神社

英霊殿跡
明治42年、このところに英霊殿が建立され、昭和16年群馬縣護國神社創立に至るまで、毎年官民合同の群馬県招魂会によって盛大な招魂祭が営まれた。

昭和55年4月吉日
 群馬縣護國神社
 群馬縣護國神社奉賛会
 英霊にこたえる会群馬県本部
 歩十五会


高崎公園

公園入口の石柱は大正4年の銘がある。

明治9年、旧高崎城南西の頼政神社に隣接した大染寺の跡地に造営。
明治33年に市制施行された時に高崎公園と呼ばれるようになった。
高崎では2番目に古い公園。


明治百年之碑


御大礼記念三羽靏碑

昭和3年11月10日建立


ハクモクレン

安藤重信が元和5年(1619年)に植えたと伝わるモクレン。


高崎公園の動物たち

いろいろ問題提議されているようだが。


高崎公園からの遠望

高崎白衣大観音と群馬県護国神社の方向。

※撮影:2024年9月


関連

群馬縣護國神社

高崎陸軍墓地(竜広寺境内)

高崎公園の南側、竜広寺の墓苑の一隅に、元陸軍墓地がある。
高崎陸軍墓地の名残。高崎に赴いていたタイミングを活かして、足を運んでみました。


高崎陸軍墓地

歩兵第十五聯隊陸軍墓地

龍廣寺新墓地由来碑
 當浄域は 昭和27年1月26日恰も曹洞開祖永平道元大禅師御誕生の記念すべき日を以て従前の陸軍省次いで大蔵省の主管を離れ ここ竜廣寺の墓地としてその所有に帰せしものなり。
 思うに當墓地は旧称「陸軍墓地」として幾多護国奉公の諸英霊の顕彰の地であり永眠のちなり。
 時の住職謙光大和尚これが要請に応じて所謂高崎十景の一たるこの景勝の地を陸軍墓地として寄贈せり。爾来斯かる縁故を以て歴代住職これが慰霊に遺憾なきを期し奉仕来れり。
 昭和20年8月敗戦に依る陸軍の消滅とともにこの浄域をそのまま放置すれば荒廃の憂いあるを以て 新主管者たる大蔵省関東財務局より現住職以下関係者の物心の喜捨を以て払い下げを受け塋域としての整備に任じ 更に守護の念を新たにせり 冀くは参拝の各位思いを往時に馳せ将来に及ぼし報謝の至心を以て一握りの香華となし各々英霊墓前に供え禮拝合掌以て冥福を資助し愈々我が祖国恢興の決意を堅固にされんことを。
   昭和27年春彼岸
    高崎山 竜廣寺

ロシア人兵士之墓の案内はあれど、陸軍墓地の案内がない。。。

高崎陸軍墓地

明治二十七八年戦役、明治三十七八年戦役 戦死病没者之碑

明治39年7月27日 建立

満州事変 忠霊之碑
陸軍大臣 荒木貞夫 書

昭和8年3月 建立

支那事変・大東亜戦争 忠霊碑
宇都宮師管区司令官 関亀治 書

昭和20年8月8日 建立

終戦の1週間前に建立???

納骨供養塔

過ぐる太平洋戦争中に散華された本県出身戦没者は3万9千余柱 このたびパラオ諸島より帰還された英霊の納骨供養に際してこれを建てその霊を慰める

パラオ戦没者
昭和48年4月15日群馬県パラオ会建立

個人墓碑
向かって左は明治時代が多く、向かって右は昭和時代が多い。


元ロシア人兵士之墓

日露戦争のとき、ロシア軍の捕虜10名が竜広寺に抑留されいていた。
そのうち傷病兵であったニコライ・トカチューク、ステパン・シュレノーク、サムプリン・メルニチェンコの3人が亡くなり、この陸軍墓地に葬られた。

https://www.city.takasaki.gunma.jp/site/cultural-assets/2763.html

高崎市指定史跡
元ロシア人兵士之墓
 日露戦役においては、数多くのロシア軍兵士が捕虜となり、国内各地に収容された。高崎においても龍廣寺を初めとする市内の寺院などに5百数十名の捕虜が収容された。そのうち傷病兵だったニコライ・トカチューク(26才)、ステパン・シュレノーク(22)、サムプソン・メルニチュンコ(29才)の三兵士は遼陽のかいなく死去したので、陸軍墓地であったこの地に葬られた。その後第2次大戦中はこれが破壊されるおそれもあり、一時は地下に埋めて隠されたこともあったが、昭和51年に龍廣寺住職、日ソ親善協会高崎支部など関係者の協力により現状のように改修された。
 西洋式の3基の墓碑は台上に東向きに安置され、墓石面には上部にロシア語で銘文、中央に大きな十字架、その左右に日本語で兵士の所属部隊、階級、年令、没年月日が刻まれている。
 本史跡は、明治以来高崎第15聯隊が所在したことを象徴する貴重な文化財である。
  高崎市教育委員会


竜広寺(龍廣寺・龍広寺)

竜広寺は、慶長3(1598)年、高崎藩初代藩主である井伊直政が開基。
この地の名を高崎と改めたことから、山号を「高崎山」としている。
境内には、井伊直政の供養塔もあるというが、見逃し。。。

※撮影:2024年9月


関連

群馬縣護國神社

「高崎歩兵第十五聯隊」水戸聯隊とともにペリリュー島で奮戦した高崎聯隊

高崎に赴く機会があったので、高崎聯隊の名残を求めて散策をしてみました。


歩兵第15聯隊

群馬県高崎市に創設。
日清日露戦争、満洲事変、上海事変、日中戦争、太平洋戦争のほぼすべての戦役に参加。パラオで終戦を迎えた。
明治17年、編成。明治18年、軍旗拝受。明治21年、第1師団隷下。
明治37年の日露戦争では、第2軍隷下として金州城攻略、南山攻略に参加、その後に乃木第3軍に移り、旅順包囲戦に参加。
明治40年、第14師団歩兵第28旅団(宇都宮)の隷下となる。
昭和2年、関東軍隷下となり、満洲旅順に駐留。
昭和7年、3月の第一次上海事変勃発とともに上海出征。5月の満洲事変勃発とともに北満に転戦。
昭和12年、日中戦争参戦。
昭和19年、南方に派遣、パラオに駐留。
昭和20年、パラオにて敗戦を迎える。


歩兵第15聯隊とペリリュー島の戦い

高崎歩兵第15聯隊の戦いのうち、著名なのがやはりペリリュー島の戦いとなる。

高崎歩兵第15聯隊第3大隊(千明大隊:大隊長は千明武久)は、水戸歩兵第2聯隊と共に、ペリリュー島の防衛に参加。千明大隊は、ペリリュー島南部「高崎湾」近くに布陣。
昭和19年9月15日にペリリュー島に上陸していたアメリカ海兵隊に対し高崎歩兵第15聯隊第3大隊は相手を一時大混乱に陥れる大奮戦をする。高崎歩兵第15聯隊第3大隊と対峙した海兵第1師団の戦いぶりは、後年に「太平洋戦争で、もっとも激しく、もっとも混乱した戦闘」と称されている。
昭和19年9月16日に大隊本部戦闘指揮所で陸軍大尉千明武久大隊長は戦死(最終階級は陸軍少佐)。大隊長戦死後も大隊は奮戦反撃をかさねるも、第15連隊第3大隊の残存部隊は、島南部でアメリカ軍の第7海兵連隊に追い詰められて、爆薬を抱いて戦車に突入するなど勇戦敢闘しつつも、最後は断崖から身を投じる兵士もいるなど、一兵残らず戦死して18日までに750名全員が玉砕した。

アメリカ軍上陸の1週間後に決行された、ペリリュー島逆上陸作戦では、高崎歩兵第15聯隊第2大隊(指揮官飯田義榮少佐)から先遣隊村堀隊として、第5中隊(指揮官村堀中尉)215名が9月22日夜半にペリリュー島上陸し、水戸歩兵第二聯隊と合流。翌23日に飯田義榮少佐の第2大隊主力総兵員570名も出撃。すでも先遣隊の動向を把握していた米軍によって、逆上陸部隊本体は米軍に捕捉攻撃をうけ、高崎歩兵第15聯隊第2大隊は飯田少佐ら100余名足らずとなり悪戦苦闘しながらも、9月28日に中川州男大佐(死後に二階級特進し中将)の水戸歩兵第二連隊主力との合流に成功した。
ペリリュー島逆上陸を敢行した高崎第15聯隊第2大隊は最後まで、水戸第2聯隊と行動をともにする。
昭和19年11月24日に、水戸歩兵第2聯隊の中川聯隊長と、高崎第15聯隊第2大隊の飯田大隊長の司令部は自決を遂げ、11月27日には全員玉砕を遂げた。


歩兵第十五聯隊趾碑

高崎城址に。

歩兵第十五聯隊趾碑

阯碑之由来
 上毛の三山を仰望し 烏の清流を俯瞰する此の地は 正長元年の昔 和田城が築かれて300余年を閲歴 後に名を高崎城と改め 中仙道を扼する要衝であった
 明治5年国民皆兵令の施行に伴い東京鎮台第1大隊の屯営となり 明治17年5月歩兵第十五聯隊が創設され 翌18年7月軍旗親授の栄に輝き威容を充実 城内は一新されて外郭の城塁と烏川沿いの懸崖のみが依然古城の歴史を誇り 朝に嚠喨たる喇叭の響き夕べに勇壮なる練武の雄叫びは 坂東武士の流れを汲む郷土の人心と相和して精強高崎聯隊を育成した
 宜なる哉 日清戦役以来国軍の赴くところ聯隊の征かざるなく 特に日露戦役の旅順においては死命を制する展盤溝を攻略して高崎山の名を残し 奉天大会戦においては其の天王山とも称すべき三台子の要衝に楔を打込み 大勝の端緒を開き以て上毛健児の心魂を天下に顕示した
 而して其の偉大なる伝統は 後の歩兵第百十五聯隊を始め外征各郷土部隊及び常駐東部第三十八部隊に遍く継承発揮され今尚誇り高く語り継がれている
 爾来 歩兵第十五聯隊は シベリヤ 満洲その他累次の征戦に勇名を馳せ 日支事変の勃発と共に黄河の南北に進攻後 チチハルに移駐して北辺に備え 太平洋戦争の急迫に因り急遽パラオの島嶼作戦に南征するや峻烈を極むる敵の攻撃はペリリュー島の第三大隊に集中され逆上陸を敢行した増援の第二大隊と共に死闘4ヶ月 凄絶無比の最期を飾って全員玉砕した
 歩兵第百十五聯隊は 杭州湾の敵前上陸に引き続き南京 徐州の作戦後ダンピール海峡の死闘を経て ニューギニヤに転戦 ラエ サラモアの激戦に次いで標高4千5百米のサラワケット山系を越え ウエワクの激戦に
 歩兵第二百十五聯隊は 中支方面の作戦後 ビルマに進駐 ラングーンの一番乗りを敢行し ビルマ及び苛烈極まるインパール作戦を経てイラワヂ河畔の激戦に
 歩兵第二百三十八聯隊は 北支方面の作戦後 ニューギニヤに転戦 歩兵第百十五聯隊と呼応してラエ サラモアの激戦に次ぎサラワケット山系を越え アイタペの作戦に
 歩兵第八十五聯隊は 中南支方面の作戦を経て仏印に進駐 ラオス タイ方面の作戦に
 大要以上の如く 裏面記述の各郷土部隊も亦共に朔北より南溟に亙る広大且つ悪疫瘴癘 人跡未踏の戦野に身を挺して勇戦敢闘 想像に絶する困苦と飢餓に堪え 至誠一貫 身を捧げて郷土の負託に応えた
 然るに 空前絶後の太平洋戦争は 昭和20年8月15日終戦の大詔を拝するところとなり 生存将兵慟哭の裡に各聯隊すべて軍旗を奉焼し 終焉となった
 憶えば 此の地に兵営が創設されて72星霜 この間 練武の貔貅30数万 華と散った英霊実に5万2千余柱の多きを算う 寔に痛恨の極みである
 茲に広く県内外の関係者相寄り相議り 嘗ての正門歩哨の位置に 聯隊創設の日を卜し 上毛の銘石を副えて趾碑を建立 史実の一端を録し 祖国鎮護の礎石となった英魂を慰め その往昔を偲び 以て戦禍の絶無と揺るぎなき人類の平和を冀求し祈念する
  昭和51年5月25日
    歩兵第15聯隊趾之碑建立委員会

高崎兵営編成部隊
 郷土出身招聘従軍戦歿者之記
明治維新前後 戦没者 54名
東京鎮台高崎分営時代 熊本の乱・西南の役 131名
歩兵第十五聯隊創設以来従軍せる戦争・事変と戦没者の状況
 明治二十七八年日清戦役 169名 
 日露三十七八年日露戦役 1506名
 北清事変 3名
 白湾、韓国事件 22名
 大正3年乃至9年シベリア事変 142名
 昭和3年山東出兵 4名 
 昭和6年上海、満洲事変 187名
 昭和12年日支事変 5282名
日支事変につぐ太平洋戦争に兵営は東部第38部隊となり広大なる戦域に多数の部隊将兵を送った
主なる方面 部隊 方面別戦歿者の状況
 中部太平洋 南洋諸島 パラオ諸島方面 
  歩兵第15聯隊 第14師団 第52師団 独立混成第53旅団 他
   4125名
 南太平洋 ニューギニヤ ソロモン諸島方面
  歩兵第115聯隊 第51師団 高射砲大隊 歩兵第238聯隊 第41師団
  独立混成第128旅団 第76兵站病院 船舶 海軍 航空 衛生諸部隊
   9230名
 印度 ビルマ タイ 仏印 マレイ方面
  歩兵第215聯隊 第33師団 第33野戦道路隊 鉄道第10聯隊
  混成第26旅団 歩兵第85聯隊 第22師団 他
   4755名
 比島 レイテ ミンダナオ島方面
   独立混成第54旅団 第58旅団 第19 第23 第1 第26師団 他
    6429名
  ジャワ スマトラ ボルネオ方面
   独立混成第25旅団 同第28旅団 遊撃第5大隊 第百飛行場大隊 他
    884名
  中国 朝鮮方面
   独立機関銃第9大隊 支那駐屯歩兵第2聯隊 緬天部隊 第5航空群
   戦車第3師団 鉄道隊 第417,第39,第63,第127師団 独立混成第5旅団 
    7574名
  南西諸島 沖縄 台湾方面 
   第72中隊 第71師団 他
    1819名
  ソ連 千島 樺太 アリューシャン方面
   満州 北鮮部隊 第89師団 他
   917名
  北太平洋 小笠原諸島方面  
  海軍 航空部隊 第109師団 他
   1188名
 日本本土 近海 その他の方面  
  本土防衛隊 赤城 常盤 護宇部隊 
  戦線からの還送戦傷病没者
   5579名
 その他県外出身郷土部隊従軍戦没者  
   2000名
歩兵第15聯隊趾之碑建立にあたり
 本件関係戦没者5万2千余名の合同慰霊祭を実施し永えに英霊を弔う
  昭和51年7月25日
   歩兵第十五聯隊歩兵第十五聯隊趾之碑建立委員会

聯隊歌
一.
三山天に連なりて
 刀水岩に激しゆく
秀麗の地に生いたちし
 阪東武士の血を承けて
立つや上州健男子
 額の箭傷誇らなん
二.
翠色濃き和田城を
 繞りて清き烏川
連隊此処に築かれて
 王愾の師の動く毎
勲の歴史重ねつつ
 誉れを競ふ幾千歳
三.
飛龍の松の枝蔭に
 君が稜威を讃えつつ
心只管武を練れば
 栄ある昔偲ばれて
堅き誓の一筋に
 護国の任を果たさばや
四.
弾丸は霰ぞ展盤溝
 剣は霜ぞ三臺子
堅壘我に何かある
 見ずや硝煙消ゆる時
軍旗の光燦として
 武勲を語る房の影
五.
倫安の夢圓らかに
 平和の睡深きとき
異端の雲の遠近に
 漲り亘る世の相
治乱の遷顧みて
 我等の責めの重きかな

高崎歩兵第十五聯隊の聯隊歌は、いまは、高崎経済大学が応援歌としても使用している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/sQKKJvAYmPydJNtXA


顕彰碑

同じく、高崎城址に。

顕彰碑
 明治維新の大業成るや、明治6年旧高崎城内に兵営が置かれ、東京鎮台高崎分営となった。 郷土群馬を中心とした壮丁は徴されて兵士となり、国家防護の責に任じた。 ついで明治17年歩兵第15聯隊が創設され、以来太平洋戦争の終結まで60余年間、国家皆兵制度の下、郷土の健児はここに起居を共にして武を練った。明治、大正、昭和を通じてこれら健児が従軍した戦役は、明治維新の際をはじめとして熊本の乱、西南の役、日清戦役、北清事変、日露戦役、大正3年乃至9年戦役、済南、満洲上海事変、支那事変、太平洋戦争等枚挙にいとまないほどで、ことに太平洋戦争には東部第38部隊として、歩兵第15聯隊を始め、歩兵第115聯隊、435、521聯隊の基幹部隊及び大小数十部隊を編成送り出した。これた諸部隊の健児は、全国陸海空軍部隊に召された県出身将校と共にあるいは万里の波濤を乗り越した異郷に、あるいは国内の要所など広大な戦域にその身をささげ、ついに郷土関係戦歿者は52000余名を算するに至った。
 昭和20年8月15日戦争は終止を告げ平和がよみがえった。その礎にはこれら健児の尊い犠牲があることを忘れてはならない。すなわち県内外の生存者相寄り、これらの事績を顕彰しその英霊を慰めたく、明治百年の記念の年に際し、兵営跡に碑を建立し、永遠に伝えようとするものである。
 昭和43年10月23日
  元不平第十五聯隊並郷土出身陸海空戦歿者合同慰霊祭実施期成連盟

場所:

https://maps.app.goo.gl/DC2E3RVLs78YvwdHA


乗附練兵場跡地

和田橋近くの烏川右岸土堤下に解説板がある。

乗附練兵場跡地
 明治17年(1884)の歩兵連隊制により、歩兵第15連隊が高崎城跡に設置され、この一帯は、兵士や軍馬の演習場として活用され始め乗附練兵場と呼ばれました。規模は、現在の片岡町一丁目の北半分と八千代町一丁目のほぼ全域に当たります。
 練兵場の北西部にトーチカが築かれ、付近には、幅・深さ1m位の塹壕が掘られており、木一本もない草原でした。また、連隊と練兵場を直接結ぶ振武橋という木橋が、現在の和田橋の辺りに仮設され終戦まで軍専用の橋として利用されていました。
 昭和9年秋に 天皇陛下御臨席のもと陸軍の大演習が挙行され、演習後に観兵式が行われたと記録にあります。往時は一日中厳しい演習が行われ、ここで訓練された大勢の兵士は戦地に送り出されました。
 戦後は田畑となり、昭和24年に片岡中学校が開設され一帯は住宅地となりました。

場所:
https://maps.app.goo.gl/syYCNiDNFHq18PiS6

演習場のあった方向。

高崎白衣大観音を垣間見る。
1936年(昭和11年)建立の平和観音。

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=36.321954&lng=138.996041&zoom=16&dataset=kanto&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

射撃場があったことがわかる。

※撮影:2024年9月


関連

群馬縣護國神社

世界最大の駆逐艦「ズムウォルト級ミサイル駆逐艦・マイケル・モンスーア」と「YOKOSUKA軍港めぐり」(横須賀)

横須賀に「世界最大の駆逐艦」が来航したというので、足を運んでみました。


マイケル・モンスーア
USS Michael Monsoor DDG-1001

ズムウォルト級ミサイル駆逐艦の2番艦。
2019年就役
姉妹艦は、3隻

満載排水量 14,564 トン
全長 600 ft (182.9 m)
最大幅 80.7 ft (24.6 m)
吃水 27.6 ft (8.4 m)
兵装 62口径155mm単装砲 2門
30mm機関砲 2門
Mk 57 VLS(20セル) 4基

満載排水量は14,000t以上で、これは現在アメリカ海軍が唯一保有する巡洋艦であるタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦よりも大きい。世界最大の駆逐艦。

主砲は、単装155mm先進砲システム(AGS)2基搭載。

海自護衛艦と比較。遠近は考慮しても、とにかく大きい。

せっかくなので「横須賀軍港めぐり」を活用して、近くから拝見。

YOKOSUKA軍港めぐり

https://yokosuka-gunko.jp


横須賀軍港めぐり~米海軍

マッキャンベル (ミサイル駆逐艦)
マッキャンベル (USS McCampbell, DDG-85) は、アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の35番艦。イージス艦。

ラファエル・ペラルタ (ミサイル駆逐艦)
ラファエル・ペラルタ (USS Rafael Peralta, DDG-115) は、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の65番艦。

デューイ (ミサイル駆逐艦・2代)
デューイ (USS Dewey, DDG-105) は、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の55番艦。

ブルー・リッジ (揚陸指揮艦)
ブルー・リッジ(USS Blue Ridge, LCC-19)は、アメリカ海軍の揚陸指揮艦。ブルー・リッジ級揚陸指揮艦の1番艦。

修理宿泊船(非自走) YRB-30
1945年5月12日進水、5月28日運用開始という戦前の船は、横須賀で最古参の現役船。

ルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦
T-AKE-11
ワシントン・チャンバース
USNS Washington Chambers

米海軍の警備艇、艦首に機銃あり


横須賀軍港めぐり~海自

「たかなみ」「あすか」

「あすか」の後甲板には、レールガン砲塔が白幕で隠されてました。

護衛艦「たかなみ」
試験艦「あすか」

潜水艦救難艦「ちよだ」

海洋観測艦「にちなん」

海保

田浦の倉庫群

潜水艦は、呉と横須賀のみ。

新井堀割水路
明治期に、海軍が短絡水路のために人工的に掘割を設けたことにより吾妻島として半島が切り離された。

特務艇「はしだて」
迎賓艇、病院艇

多用途支援艦「えんしゅう」

補給艦「ときわ」
護衛艦「まや」

護衛艦「きりしま」
護衛艦「くまの」
練習艦「やまぎり」

海洋観測艦「わかさ」

護衛艦「もがみ」


海自横須賀

護衛艦「もがみ」が一般公開でした。

ちなみに、横須賀基地からは、米軍基地方面は撮影禁止、でした。
マイケル・モンスーアに配慮。。。

海洋観測艦「わかさ」
近くで見る機会がなかなかない艦


高台から

例の高台から。
横須賀のヌシ(いずも)がいない光景も新鮮。

※撮影:2025年7月


関連

「甲府空襲(甲府七夕空襲)」甲府の近代史跡と戦跡散策

甲府の近代史跡と、甲府空襲に関係する戦跡を巡ってみました。


山梨県議会議事堂

1930年(昭和5年)3月31日に竣工。山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、ほぼ同一の公法、素材、様式によって建立している。
1945年(昭和20年)7月7日の甲府空襲では、罹災地域にありながらも、山梨県議会議事堂と山梨県庁別館ともに、甲府城址に守られて被害を免れた。
山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、いずれも2009年に山梨県の有形文化財指定を受けている。


山梨県庁別館

1930年(昭和5年)3月31日に竣工。山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、ほぼ同一の公法、素材、様式によって建立している。
1945年(昭和20年)7月7日の甲府空襲では、罹災地域にありながらも、山梨県議会議事堂と山梨県庁別館ともに、甲府城址に守られて被害を免れた。
山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、いずれも2009年に山梨県の有形文化財指定を受けている。

現在、山梨県庁別館内には、「山梨近代人物館」が開設されている。
竣工当時の内装に再現された旧知事室・旧正庁、県政の歴史を紹介するコーナーも併設されているというが、今回は外観のみで、館内は未訪問。また次回の楽しみ、で。
ちなみに、山梨県庁別館は、大日本帝国陸軍関連の司令部としてドラマや映画の撮影に活用されることも多いという。

今回は外観見学のみ、で。

甲府城から


甲府城(舞鶴城)

舞鶴城公園として整備されている。
武田氏時代は、躑躅ヶ崎館を中心とした武田城下町が整備されていたが、武田氏滅亡後に、甲府城が築城され甲府城下町が整備された。

本丸跡から望む、甲府市内。

富士山も。


謝恩碑

甲府城内にある記念碑。明治40年の大水害などにより荒廃した山梨県内の山林に対し、  明治天皇より山梨県内の御料地の下賜が行われたことに対する感謝と水害の教訓を後世に伝える。
1922年(大正11年)に建設。
碑の正面に彫られた揮毫は山縣有朋の筆による。また、裏面には山梨県知事の山脇春樹の撰文による碑文となる。
碑の設計は明治神宮造営局参与工学博士伊藤忠太と同局技師大江新太郎による。
碑の高さは約18.2メートル、碑身は、オベリスクと呼ばれる古代エジプトの記念碑を形どり、碑台はパイロンと呼ばれる同じく古代エジプトの神殿の入口に設けられた塔状の門を形どっている。

謝恩碑
元帥公爵山縣有朋

あっちこっちから、目に止まる。

山梨県警察本部道場「武徳殿」


明治天皇御登臨之跡

昭和13年3月建立
明治13年6月、 明治天皇が山梨県に御巡幸に際に、21日に、甲府城にご登臨し、国見遊ばされたことを記念し、建立。

明治天皇御登臨之跡


甲府市市役所

展望室に行ってみます。
現在の甲府市役所は2013年竣工。10階には展望フロアもある。

10階の展望フロアから。

さきほどの謝恩碑が聳え立っていますね。

富士山がみえるたびに、写真を撮ってしまうのも、仕方がないですね。

謝恩碑と甲府城は、こんな感じの距離感。


甲府空襲

甲府盆地は、南太平洋から富士山を目標に東京方面に向かう米軍機の飛来ルート上にあったため、米軍機と空襲警報が頻発していた場所であった。すでに甲府上空の制空権は米軍が握っており、3月の東京大空襲で罹災し、甲府に避難してきた人々も多く、多くの甲府市民は、「米軍は甲府上空を通過するだけ、ただの通り道なので、空襲は無いだろう」という意識と判断があったという。

1945年(昭和20年)7月6日深夜から7月7日にかけて、米軍B-29爆撃機によって、甲府市街地の74%が焼失し死者1,127名、負傷者1,239名、被害戸数18,094戸に及ぶ被害を出した空襲。7月7日の空襲であったことから、「七夕空襲」(たなばた空襲)」とも呼称される。山梨県内で最大の戦争被害となる。(千葉市も7月7日の空襲があったことから、同じく七夕空襲と呼称されている。)

https://www.city.kofu.yamanashi.jp/kids/mukashi/013.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_24.html


南銀座仲町ノ稲荷社(甲府市中央1丁目)

甲府空襲で全てが焼けてしまった甲府中心街のなかで、この祠の裏には「昭和十年五月五日 合資会社松林軒 社員一同建之」と記載されていることから、甲府空襲で奇跡的に焼け残った祠であることがわかる。

昭和十年五月五日 合資会社松林軒 社員一同建之

狛狐は平成元年の建立だが、その台座は往時からのモノかもしれない。

狛狐の台座から煉瓦が垣間見れる。この台座も往時からのものと推測。

南銀座仲町の繁華街に、静かに佇むお稲荷さま。


戦災者慰霊「いしずえ地蔵尊」(一達寺)

甲府空襲の犠牲者を祀る地蔵様。
一蓮寺に鎮座する。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/yamanashi_koufu_001/index.html

戦災者慰霊 いしずえ地蔵尊(礎地蔵尊)

いしずえ地蔵尊縁由
第二次世界大戦末期んお昭和20年7月6日夜半より7日払暁にかけ当市は大空襲を受け焦土と化す
殊に当地にて死せる人夥しく三百余体を当山境内にて荼毘に付し当所に埋葬す
終戦後間もなく市営墓地に改装せしむも当時の残状誠に忘れ難く跡地に篤信者に依り慰霊の地蔵尊が建立され今日に至りしと謂う以来五十有余年堂宇等の損耗殊の外激し茲に整備改築を発願し有縁の士の協賛を基に是を成就せり
平和への礎となられたる諸精霊への慰霊と報恩の深心を以て茲に いしずえ地蔵尊 と稱し奉らんこととせり
冀くは向後参詣の士には平和護持倍増の志を以て諸精霊の冥福と謝徳の誠心を賜わらんことを
 平成十一年十月仏日
  一達寺

一蓮寺境内の慰霊碑
支那事変と大東亜戦争の慰霊碑。

日支事変
大東亜戦

昭和36年建立

ちょうど、縁日でした。そんな日に、境内で戦跡散策をしていた私は若干の場違い感。

場所:

https://maps.app.goo.gl/DtsaoifsjgausaxY6

※2025年5月撮影


関連

山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館(甲府)

甲府に赴いたときに、甲府の戦跡をしらべていて、見つけたのが「山梨平和ミュージアム」。
せっかくなので、足を運んでみました。

NPO法人の運営。


山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館

2007年開館。
「伝えたい戦争の記録・記憶を」という広範な市民の声を結集して生まれた民立民営の平和博物館。
1階に甲府空襲、甲府連隊、戦時下の暮らしなど戦争に関わるパネル・資料を展示。
2階には、山梨出身の偉大な言論人石橋湛山の生涯と思想を展示。

公式サイト

http://ypm-japan.jp/

山梨平和ミュージアム、略称「YPM」

ちょうど、訪問時にいらっしゃった館長さんは、元校長先生。学校の先生ということで、提示物も学校感があることに納得。


甲府空襲の実相

甲府空襲で亡くなった1127名の全員の氏名等を記載したパネルや、元日航機長諸星廣夫氏とB29飛行士のローランド・ボール氏との交流で明らかになった甲府空襲の全貌を展示。
また、戦略爆撃の系譜として、ドイツのゲルニカ爆撃、日本の重慶爆撃から連合国軍によるドレスデン爆撃、東京大空襲・ヒロシマ・ナガサキなどの空襲の歴史も展示。

展示コーナー

甲府空襲の断面図

実物資料コーナー

甲府空襲犠牲者1,127名の御芳名。

甲府空襲の戦災地図

甲府空襲跡

本ミュージアム建設時に出土した焼土

山梨県下の空襲

大月空襲の遺髪塚
これは知らなかったので、今度、行ってみましょう。

戦略爆撃の系譜
世界史として、戦略爆撃の流れを復習

重慶爆撃

重慶爆撃で、取り上げられるのは、井上成美と大西瀧治郎。

重慶からヒロシマへ
ところで、毎回思うのですが、「ヒロシマ」カタカナ表記の由来ってなんだろう。

日本の空襲被害


甲府聯隊の歴史

1909年の開設から1945年崩壊の甲府連隊(歩兵第49聯隊)の歴史
49連隊の満州移駐、149連隊の無言の凱旋、49連隊のレイテ戦の悲劇などを展示

49聯隊の創設と甲府

49聯隊と「満洲」

149聯隊と日中戦争の実態

49聯隊とレイテ戦


戦時下の暮らし

戦争の真実が知らされなかった(国民を駆り立てた新聞)、学校教育の実態と子ども達の暮らし、学徒勤労動員などが展示


石橋湛山

2階は、石橋湛山のコーナー。

石橋湛山
1884年〈明治17年〉9月25日 – 1973年〈昭和48年〉4月25日)
日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。 大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任。
総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜の64日に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。

生まれは東京だが、少年期は、甲府の増穂・鏡中条で育ち、甲府中学・早稲田大を出て、「東洋経済新報」の記者として、大日本主義に抗して平和・民権・自由主義の論陣を張り、戦後、首相となった湛山の生涯が、写真・実物資料等で展示されている。
全国初の石橋湛山記念館。


戦後80年、歴史と今を考える(2025年企画展)

2025年の企画展。なんとなく学校の文化祭の発表感にあふれた感じもしつつ。

図書コーナー


ブックレット

冊子をいくつか購入しました。
ローカルな冊子ですが、意外と貴重な情報も掲載されており、侮れないんですよね。。

ざっと1時間くらい、見学をさせていただきました。
ありがとうございました。

撮影:2025年5月


関連

近衛師団司令部庁舎(東京建築祭2025)

「東京国立近代美術館工芸館」でもあった「近衛師団司令部庁舎」が一般開放していると聞いたので脚を運んでみました。


近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

周辺界隈は、下記も参照で

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
建築 明治43年3月
指定 昭和47年10月

東京建築祭2025

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
 この建物は、近衛師団司令部庁舎として明治43(1910)年3月に竣工したもので、設計者は陸軍技師田村鎮と考えられています。第2次世界大戦後は、皇宮警察の寮として使用されましたが、昭和38(1963)年の北の丸地区の森林公園整備計画策定に伴い、取り壊されることになりました。しかしながら、この建物は、明治時代の官庁建築の特徴をよく残すものとして現存する数少ない遺構であるため、その建築的価値を惜しむ声が寄せられ、重要文化財に指定した上で、東京国立近代美術館工芸館として活用することが決定されました(昭和47(1972)年重要文化財指定)。
 昭和48(1973)年から、美術館施設として活用するための保存修理工事が行われました。煉瓦壁体には破損が見られたため、内側に新たに鉄筋コンクリートの構造体を設けて補強するととともに、屋根を関東大震災後の桟瓦葺から建築当初のスレート葺に復原し、取り壊されていた軒蛇腹を整備するなど、創建当初の外観に復しました。内部は、保存状態の良かった中央の階段回りとホールの部分のみ当時の姿を残し、建築家谷口吉郎氏の設計により、美術館仕様に改修しました。
 工芸館は、昭和52(1977)年11月に開館し、政府機能移転基本方針により、令和2(2020)年10月に石川県金沢市に移転するまでの間、ここで活動していました、現在この建物については、今後の保存活用のために、重要文化財保存活用計画を策定しています。
 煉瓦造りのゴシック様式の外観のほか、床下通風口の金具、玄関アーチ両脇の四葉飾り、破風(ペディメント)の頂華(フィニアル)、大棟中央塔屋のデザインなどをお楽しみください。

近衛師団は、旧陸軍が北海道から九州までの主要都市に設置した19の師団のうちの一つで、明治時代から第2次世界大戦終了時までの皇室の警護を担っていました。

閉館しました Closed
東京国立近代美術館工芸館は2020年2月28日で東京での活動を終了し、2020年夏、石川県金沢市に移転します。
42年間、誠にありがとうございました。
工芸館は、通称・国立工芸館として新たに活動がはじまります。


近衛師団司令部庁舎 外観


近衛師団司令部庁舎 玄関


近衛師団司令部庁舎 裏口


近衛師団司令部庁舎 階段


近衛師団司令部庁舎 2階ホール

東京国立近代美術館工芸館の名残。。。

※撮影 2025年5月


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練習艦「かしま」体験航海(横須賀港~東京港)

2025年6月。
練習艦隊「かしま」「しまかぜ」が、横須賀港(逸見岸壁)から東京港に航行するタイミングにあわせて、運良く乗艦する機会がありました。横須賀水交会(水交会横須賀支部)の部隊研修として、貴重な体験航海の模様を以下に写真中心で掲載。

ちなみに、乗艦に際しては、海上自衛隊横須賀地方総監部の正門に「朝7時集合」ということで、家からでは始発でも到達できないので、近隣で前泊しての参加、でしたが、艦に乗れるのであれば、なんてことないです。

東京湾を北上する「かしま」と「しまかぜ」


練習艦「かしま」

TV-3508
練習艦「かしま」。旧海軍の戦艦「鹿島」、練習巡洋艦「鹿島」に次いで、艦名としては3代目。
1993年4月20日起工、1994年2月23日進水、1995年1月26日就役。
母港は「呉」。
練習艦隊直轄艦、練習艦隊旗艦。

2025年は6月13日から、「かしま」「しまかぜ」にて、一般幹部候補生75期の実習幹部を乗せ遠洋練習航海へと赴くこととなる。


練習艦「しまかぜ」

はたかぜ型護衛艦の2番艦。艦名としては3代目。
1985年1月13日起工、1987年1月3日進水、1988年3月23日就役。2021年3月19日、練習艦に種別変更。
練習艦隊第一練習隊に所属、定係港は「呉」。


出港前の練習艦隊(横須賀地方総監部逸見岸壁)

壁岸壁に停泊する練習艦隊。
「かしま」と「しまかぜ」


「かしま」乗艦

午前7時すぎ。
ちなみに、招待者ゆえ、手荷物検査は一切なし、で。
「かしま」に乗艦です!!

雨が厳しいことがわかっていたんで、カッパで。


「しまかぜ」出港

「かしま」の隣に停泊する「しまかぜ」が先行して出向していきます。

ちなみに「しまかぜ」に乗艦することも任意選択で可能でしたが、やっぱ「かしま」でしょってことで。なにげに「かしま」に乗艦したのも今回が初めて。

「73式54口径5インチ単装速射砲」の存在感。

「しまかぜ」が離れていきました。

すごい旋回で一気に離岸。

曳舟(タグボート)が大活躍

「しまかぜ」出港


「かしま」出港

つづいて、「かしま」も出港です。

通称「オランダ坂」と称される傾斜は、後甲板と中甲板を結んでおり、艦上体育で艦の全周がランニングできる構造になっている。

出港に際しての立ち入り制限

タグボート

出港!

おっ、米軍の揚陸艇ですね。トラックが小さく見える。


「かしま」11メートル作業艇の揚艦

吉倉護衛艦A桟橋から、作業艇が近づいてきました。

「かしま」に接舷し、揚艦されます。

おお。作業艇を引き揚げる光景、始めて見ました!!


「横須賀」吉倉桟橋の様子

2025年6月3日の吉倉桟橋の様子。

「いかづち」むらさめ型護衛艦の7番艦

左から
「たかなみ」たかなみ型護衛艦の1番艦
「あがの」もがみ型護衛艦の6番艦
「くまの」もがみ型護衛艦の2番艦
「もがみ」もがみ型護衛艦の1番艦


「かしま・特別公室」

国家元首級の来賓を想定し、公式儀礼をおこなう内装が配慮された特別公室。
練習艦隊旗艦として、世界各国に寄港する「かしま」だからこその内装。

窓の外は前甲板

日本国練習艦隊
JAPAN TRAINING SQUADRON

この帽子、欲しい、、、

第65代練習艦隊司令官 渡邉海将補
海将補は旧軍における海軍少将
ちょうど、プレスの取材を受けていました。

特別公室への入口も豪華


初代戦艦「鹿島」の水差し

特別公室の机に、凄いものがありました。

初代戦艦「鹿島」の水差し
この水差しは、初代戦艦「鹿島」士官室で使用されていた水差しです。平成10年4月9日横須賀において、作家の阿川弘之氏が来艦された際、本艦に寄贈していただきました。

初代戦艦「鹿島」
143.3m 16,400t
明治39年5月23日~大正12年9月20日

初代 戦艦「鹿島」
士官室用水差し
平成10年4月9日
作家 阿川弘之氏 寄贈


「かしま神社」(練習艦かしま神社)

かしま神社由来
由緒
日本の船には古くから慣習として、船霊様(航海安全の守り神)を祭っております。
本艦もこの例にならい就役に先立ち、平成7年1月12日に本艦の命名地の氏神様である鹿島神宮の分社として入魂式を行い、平和と本艦の航海安全、乗員一同の健康を守る船霊様を祭っております。
例祭 1月12日

鹿島神宮由来
鎮座地 茨城県鹿島郡鹿島町
御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
由緒 神代の昔に、天照大神の御命令により出雲の国に天降り、大国主命と話し合って、日本の国を一つにまとめられた神様です。
その後、日本中を歩かれ最後に関東地方の開拓と鎮撫に当たられ、当時水陸交通の要所であった鹿島に鎮まられ、地霊を鎮め氏子を異境の神々から守り、航海の安全を司る海の神様として全国の人々より崇敬されています。
例祭 9月1日

自衛艦命名書
本艦をかしまと命名する
平成6年2月23日
国務大臣防衛庁長官 愛知知男


「かしま・13メートル将官艇」

通常の護衛艦に搭載されている11メートル作業艇とは別に、13メートル将官艇も搭載されているのが「かしま」の特徴。


「かしま・76ミリ速射砲」

62口径76ミリ速射砲
オート・メラーラ社第2世代の62口径76ミリ砲(コンパクト砲)

前甲板の76ミリ速射砲


「かしま・前甲板」

手前に見えるのは、「礼砲」

すれ違うのは、オーストラリア海軍 ホバート級駆逐艦シドニー(HMAS Sydney DDG-42)

右舷1時の方向に「しまかぜ」

エモい。。。


「かしま・訓練甲板(後甲板)」

雨降る訓練甲板で作業する海自隊員

もうね、艦尾の自衛艦旗のゆらめきをずっと見ていたい。

この台は、栄誉礼用のお立ち台である。
上に物を置いたり、もたれ掛かったり、掃除用具盗ったりするな。 
射撃員長

突然の掃除用具w
そして管轄が射撃員長、、、

「しまかぜ」の台が「かしま」に置きっぱなし。。。


「かしま・下後甲板」

訓練甲板の下。


「かしま・甲板」

航行中に、制限なしで、甲板をいったりきたり。
雨なので人が少なくて、ある意味で快適。。。

前方に「しまかぜ」
右舷に転回したもよう。

潜水艦救難艦「ちよだ」

ん?
帆船?
これは、二代目「日本丸」か!

東海汽船の「セブンアイランド・友」


「かしま・艦橋」

雨だから、艦内が特に混み合ってました。
(逆にいうと甲板は、空いていました)

人員
総員 163名
幹部 19名
曹士 143名
入院 0名
休暇 16名
その他 2名
現在員 144名
司令部 51名 1名
実習幹部 195名
その他 297名
合計 687名

わたしを含めた便乗乗客が297名いるのかな、ですね。

0745 横須賀出港
1100 東京国際ターミナル入港


「かしま・食堂」

昼も夜も、どんぶり!

ポップコーンと綿菓子の振る舞いがありました。


「かしま・操縦室兼応急指揮所」

こんなところも見せてくれました、良いの?


「かしま・士官室」

士官室

「ましか」と「かしまる」


「かしま・艦内」

日本国 練習艦隊 旗艦 TV3508 KASHIMA

WAVE区画

お、男子禁制のエリア
WAVE=Woman Accepted for Volunteer Emergency Service


「かしま・実習員講堂」

雨だから、実習員講堂は、常に満杯でした。
せっかく自衛艦(練習艦)に乗っているのだから、あっちこっち見に行かないと損だとばかりに、私はかっぱを着込んで、雨を機にせず甲板をウロチョロしてました。
実習生を170名は収容できる講堂。

東京国際ターミナル到着で、下艦が始まったあと。


「かしま・東京入港」

1030ごろから入港準備、11時15分頃に下艦でした。

タグボートのお世話になります。

着岸準備

東京国際ターミナルを海側から見たのは、始めてでした。

ロープを投擲

着岸し、階段を展開


「しまかぜ・入港」

かしまの着岸が完了し、「しまかぜ」が「かしま」の左舷に横付けされます。

近づいてくる「かしま」

エモい


東京国際クルーズターミナル

11時35分に「かしま」を下艦。
約4時間をみっちり「かしま」堪能してしまいました。

ちなみに以前は「晴海」でしたが、現在は晴海に停泊ができなくなったとかで、「東京国際クルーズターミナル」に着岸。レインボーブリッジをくぐることもなくなってしまったのだ。

雨の体験航海というのも、なかなか貴重な時間。
雨ゆえに、甲板は人が少なく、それはそれで逆に得難き光景にも出会え、非常に貴重な体験を得ることが出来ました。
海上自衛隊横須賀地方総監部のご配慮に感謝します。

撮影機材:今回本格的に役に立った防水カメラ「PENTAX WG-1000」が8割で、残りは「PENTAX KP」とスマホ、でした。
撮影:2025年6月3日


関連

南極観測船「ふじ」(名古屋港)

先日、名古屋に赴いていたので、スキマ時間に「ふじ」を観覧してきました。

名古屋港ポートビルと南極観測船「ふじ」のほうに。


名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地

1907年、名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地。

「鉄桟橋」から始まった名古屋港
左下か斜めに伸びる橋が「鉄桟橋」。
名古屋港開港の1907年(明治40年)に建設されました。
長さ127m、幅14.5m。
その後、桟橋上部には貨物列車のレールも敷かれ、開港から昭和初期までの唯一の船着場として、また、接岸する船舶でにぎわう名古屋港の代表的施設として市民から親しまれました。
※10,000トン級の船の入港が可能でした。

現在の名古屋港
1981年(昭和56年)中央ふ頭と東ふ頭の間を埋め立てて完成したガーデンふ頭。
昭和59年に名古屋港ポートビル、昭和60年に南極観測船ふじ、平成4年に名古屋港水族館がオープンし、親しまれる港づくりが進められています。

1905年(明治38) 鉄桟橋建設着手、2号地埋立完成
1906年(明治39) 巡航博覧会「ろせった丸」入港
1907年(明治40) 鉄桟橋完成、名古屋港開港
1929年(昭和4) 西埠頭埋立着手
1931年(昭和6) 中央埠頭・東埠頭埋立着手
1934年(昭和9)西埠頭埋立完成
1936年(昭和11)中央埠頭・東埠頭埋立完成
1981年(昭和56) 2号地(現・ガーデン埠頭)埋立完成
1983年(昭和58) ガーデンふ頭臨海緑園完成
1984年(昭和59) 名古屋港ポートビル完成
1985年(昭和60) 南極観測船「ふじ」係留
1992年(平成4) 名古屋港水族館開館
2001年(平成13) 名古屋港水族館北館開館

だいたいこのあたりに鉄桟橋があった。

名古屋ポートビル


「南極観測船ふじ」

「宗谷」に次ぐ、2代目南極観測船。
日本初の極地用本格砕氷艦。
自衛艦初のヘリコプター搭載艦。
1965年(昭和40年)3月18日に進水、7月15日竣工。
1984年(昭和59年)4月11日に退役。1985年8月より、名古屋港博物館船として係留されている。

https://nagoyaaqua.jp/garden-pier/fuji


「南極観測船ふじ」船内

1965年(昭和40)から18年間、南極観測を支援してきた砕氷船。

第9回の南極観測時の砕氷艦ふじ艦長の森田1等海佐のコメント。

食堂室
椅子は2008年引退の初代しらせのもの。

調理室

麻酔ガスは「笑気」なんですね。

自衛艦旗
第7次南極観測記念

格納庫は、南極観測に関する展示コーナー

ふじ搭載のヘリコプター「S-61A」

艦橋

上部操舵所
そこに至るまでが怖い。。。

デッキクレーン


名古屋港ポートビル

隣の名古屋港ポートビル、へ。


名古屋海洋博物館

名古屋港発祥の地「熱田の浜」

「ろせった丸」の入港と、名古屋開港

「ろせった丸」は、明治39年(1906年)に巡回博覧会船として、全国の港を巡航し、展示品を即売した移動博覧会を実施していた。特に、当時築港工事が進められていた名古屋港(現・熱田港)への入港は、築港反対運動を沈静化させ、名古屋港開港の契機となった。

https://history.nagoya-cci.or.jp/meiji/h3.html

1907年(明治40年)名古屋港開港

戦争中、名古屋港は機動作戦基地にはならなかったため、兵員や兵器などの軍需品輸送港としては使われなかったが、全国有数の軍需工場地帯であったため、激しい空襲にさらされることになった。
1944年(昭和19年)12月7日の昭和東南海地震、翌年1月13日の三河地震で名古屋港の港湾機能は麻痺状態となり、終戦を迎えた。

名古屋汎太平洋平和博覧会


名古屋港ポートビル展望室

展望室から名古屋港を眺める。

ふじを上から。

ちょっとした展示コーナーも。

※撮影:2025年5月


関連

護衛艦「いなづま」(横浜開港祭2025)

横浜開港祭2025で護衛艦「いなづま」の一般公開がありましたので、足を運んでみました。
「呉からようこそ!」なのです!

横浜ハンマーヘッド9号岸壁にて。


護衛艦「いなづま」

DD-105 護衛艦「いなづま」
むらさめ型護衛艦の5番艦。艦名としては旧海軍時代から数えて4代目。
三菱重工長崎造船所にて1997年5月8日起工、1998年9月9日進水、2000年3月15日に就役。
第4護衛隊群第4護衛隊に所属し、定係港は呉。

午前9時半。乗艦前。

第44回横浜開港祭親善大使の4名

一日艦長さんも

THUNDER STORM
DD-105
護衛艦いなづま

らっぱ演奏

横浜ノースドッグもついつい。

※撮影:2025年6月1日


関連

タイ王国バンコクの戦跡散策その5・立川飛行機「九九式高等練習機」と日本小型「滑空機」(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記の続き


九九式高等練習機(立川飛行機・キ55

タイ王国空軍に残された「九九式高等練習機(キ55)」。
日本には残っていない日本製の航空機。

大日本帝國陸軍の練習機。通称「九九式高練」「九九高練」。
1939年(昭和14年)に立川飛行機が開発し正式採用、立川飛行機と川崎飛行機が製造を担当。
1940年(昭和15年)から新型練習機として陸軍飛行学校に配備。
1943年(昭和18年)までに、立川飛行機で1075機、川崎飛行機で311機の合計1386機が生産された。終戦まで陸軍の高等練習機の主力機。
生産された機体は、日本陸軍の飛行学校で運用されたが、一部は満洲国やタイ王国にも輸出された。
タイ王国空軍は1942年(昭和17年)に本機を導入。24機が運用された。1945年の終戦時には22機が残存し、18機が稼働状態にあり、1951年まで運用されたという。

RTAF Ki-55 Tachikawa
RTAF acquired 24 Ki-55 advanced trainers from Japan in 1942. The aircraft was used to train student pilots at Flying Training School in Nakhon Ratchasima. This one on display is one of the two Ki-55’s left in the world. The other is at air museum in Beijing, China
Commissioned:1942-1950

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍) キ-55 立川
RTAFは、1942年に日本からキ-55高等練習機24機を導入しました。この機体は、ナコーンラーチャシーマーの飛行訓練学校で訓練生のパイロット訓練に使用されました。展示されているこの1機は、世界に残る2機のキ-55のうちの1機です。もう1機は中国の北京航空博物館に所蔵されています。
就役期間:1942年~1950年

九八式四五〇馬力発動機
発動機番号 第10928号
製造年月 昭和17年6月
製造所名 日立航空機株式会社


初級滑空機「鳩」(日本小型飛行機・K-14)

1941(昭和16)年に、大東亜共栄圏の国策に応じて、朝日新聞社がタイ国に(初級)鳩型、(中級)蔦3型、(高級)鳳2型を贈り、そのうち、鳩型と鳶型が展示されている。

滑空機は、日本小型飛行機株式会社の宮原旭技師長の設計。
のちに、日本小型式K-14型(戦後生産の後進となる霧ヶ峰式はとK-14型」につながる。宮原旭は三菱名古屋航空機出身の航空機技術者、貴族院議員、男爵。戦後は自作航空機の普及啓発に努めた。

なお、現地の解説板の「Hato」と「Tobi」のイラストが入れ違っているのは御愛嬌で。「Hato」の解説文の図絵が「Tobi」になっている。

RTAF Nihon Kogata Hato
On 23 June 1941, the Asahi Shinbun Newspaper of Japan presented three Nihon Kogata gliders namely, Tobi, Hato and Ootari(Ootoriの誤字ですね) to Thailand as a goodwill gift for Thai National Day ( Then on 24 June). The Thais named these gliders Liwlom , Lenlom and Longlom respectiveely. The Hato or Lenlom on display is elementary training glider. It repuires a light tow-aircraft to become airborne.

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍)
日本小型飛行機 鳩
1941年6月23日、日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。
展示されている「ハト(鳩)」または「レンロム」は、初級訓練用グライダーです。 飛行するには軽量の牽引機が必要です。


中級滑空機「鳶」(日本小型飛行機・K-15)

上記と同じく、現地の解説板の「Hato」と「Tobi」のイラストが入れ違っているのは御愛嬌で。「Tobi」の解説文の図絵が「Hato」になっている。

RTAF Nihon Kogata Tobi
On 23 June 1941, the Asahi Shinbun Newspaper of Japan presented three Nihon Kogata gliders namely, Tobi, Hato and Ootari to Thailand as a goodwill gift for Thai National Day ( Then on 24 June). The Thais named these gliders Liwlom , Lenlom and Longlom respectiveely. The Tobi or Liwlom on display is aprimary training glider. It needs a catapult launch for taking off.

1941年6月23日、日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍)
日本小型飛行機 鳶
日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。
展示されている「トビ(鳶)」または「リウロム」は、初等訓練用のグライダーです。離陸にはカタパルトの発射が必要です。


以下は、日本とは関係ないけど。同じ空間に展示されていたので紹介。

DeHavilland DH-82A Tiger Moth

イギリスのデ・ハビランド社製の練習機。愛称はタイガー・モス。
初飛行は、1931年。
タイガー・モスは、日本では、満州事変の際に鹵獲された元国民革命軍機を、関東軍が輸送・連絡機として使用していたこともある。
タイでは戦後の導入。タイ海軍で運用予定であったが、クーデター騒ぎ(マンハッタン反乱)で、海軍は懲罰として縮小され、海軍航空隊は閉鎖のうえで、航空兵力は全てタイ空軍に移管。

RTAF De Havilland DH-82A Tiger Moth
Royal Thai Navy purchased 30 Tiger Moths from England in 1950. The Navy planned to use this primary trainer in Navy Flying School. However, in 1951 the Navy had to transfer all aircraft to Royal Thai Air Force. There the Tiger Moth was used to train members of Thai Flying Club.
Commissioned: 1951-1961

RTAF デ・ハビランド DH-82A タイガーモス
タイ海軍は1950年にイギリスから30機のタイガーモスを購入しました。海軍はこの初等練習機を海軍飛行学校で運用する予定でした。しかし、1951年に海軍はすべての機体をタイ空軍に移管せざるを得なくなりました。そこでタイガーモスは、タイ・フライング・クラブの隊員の訓練に使用されました。
就役:1951年~1961年


Boeing Model 100E(ボーイング・100E)

タイ王国空軍で最古の航空機。
アメリカで1929年より運用されたアメリカ海軍複葉艦上戦闘機「F4B」の派生型が「P-12」となりアメリカ陸軍陸上戦闘機で運用。
タイ空軍向けのP-12Eの輸出型が「100E」。2機製造のうち1機は、後に日本海軍に試験機としてAXBの名称で移管された。

アメリカ国内以外での海外展示は、タイ・バンコクのみ。

RTAF Boeing Model 100E
RTAF purchased 2 Boeing 100E fighters from USA in 1931. It is an export version of P-12E. At the same time, RTAF acquired 2 Bristol Bulldog fighters from England and 2 Heinkel HD43 fighters from Germany. These aircraft ware under evaluation to find the most suitablle fighter for RTAF. This Boeing 100E on display is the oldest Thai aircraft still exists today.
Commissioned:1931-1941

RTAF ボーイング モデル100E
RTAFは1931年にアメリカからボーイング100E戦闘機2機を購入しました。これはP-12Eの輸出型です。同時に、RTAFはイギリスからブリストル・ブルドッグ戦闘機2機、ドイツからハインケルHD43戦闘機2機を取得しました。これらの航空機は、RTAFに最適な戦闘機を見つけるために評価中でした。展示されているこのボーイング100Eは、現在も残るタイの航空機の中で最古のものです。
就役期間:1931年~1941年


Curtiss Hawk 75N(カーチス・ホーク75N)

1935年にアメリカのカーチス社が開発しアメリカ陸軍などで運用された「P‐36ホーク」。
タイ空軍は、P-36 廉価版の固定脚仕様のホーク75Nを導入。
固定脚のホーク75としては現存唯一の機体。

RTAF Curtiss Hawk 75N
 Hawk 75N is a simplified version of P-36 fighter with fixed landing gear. Twelve Hawk 75N’s were purchased from USA in 1937 to become the first all etal monoplane fighter in RTAF. The aircraft flew in combat during French in RTAF. The aircraft flew in combat during French Indochina Conflict(1940-1941)and World War 2 (1941-1945). This Hawk 75N on display is theee sole surviving fixed landing gear Hawk 75 in the world.
Commissioned:1937-1949

RTAF カーティス ホーク 75N
ホーク 75Nは、固定脚を備えたP-36戦闘機の簡易版です。1937年にアメリカから12機のホーク 75Nが購入され、RTAF初の全金属製単葉戦闘機となりました。この機体は、フランス占領下、フランス領インドシナ紛争(1940~1941年)および第二次世界大戦(1941~1945年)において実戦に投入されました。展示されているこのホーク 75Nは、世界で唯一現存する固定脚式のホーク 75です。
就役:1937~1949年


ちょうど、タイ空軍の88周年の記念式典の準備が行われていたようでして。

タイ王国では国王は神の化身とされ、国民の深い敬愛の対象となっている。

※撮影:2025年2月

タイ空軍博物館、これは、また行きたいです、、、


タイ王国バンコクの戦跡散策その4・泰仏インドシナ紛争と第二次世界大戦機(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記も。


タイ空軍とインドシナ紛争

タイ王国は、フランスに5度に渡り領土を奪われ、タイ政府は国境の調整を何度もフランスに提案してきた。
フランス航空機は、タイ領空を飛行することも多く、タイ政府は領空侵犯に関しても、フランス政府に講義してきたが、フランスは変わらずに偵察機を飛ばし続きてきた。
この蓄積した対立が、のちの「インドシナ紛争」へと発展していくことになる。

1940年11月28日、インドシナ紛争において、サニット飛行隊司令官は、南方からタイ領空に侵入してきたフランス空軍機5機を迎撃するために、「V-93コルセア」「カーティス・ホークⅢ」を派遣。
迎撃対空戦にて、タイ空軍はフランス軍機を1機撃墜し、無傷完勝を収めた。
この戦いは、インドシナ紛争における最初の空中戦にして、タイ王国史上最初の空中戦(ドッグファイト)であった。

1941年1月25日、タイ王国とフランス政府の紛争を日本が仲裁を開始し、3月には調停案に合意となり、タイの要求を仏印側がほぼ受諾するというタイ側の事実上の勝利に終わった。

タイ王国空軍英雄記念碑
フランス領インドシナ紛争
1940-1941
サニット・ヌアンマニー空尉(Sanit Nualmanee)
「タイの領空は誰にも踏みにじまれることはない」


中島飛行機「一式戦闘機・隼(キ43)」残骸

地中に埋められれていた隼の残骸が2013年に発見された。
ドンムアン飛行場に駐留していた大日本帝国陸軍の中島キ43・一式戦闘機「隼」。
タイ空軍では、1943年から1949年にかけて、「13型戦闘機」の名称で24機のキ43‐2b「隼」戦闘機(一式戦闘機二型乙)が運用されていた。

1945年3月15日に墜落したと思われる「隼」のエンジン、プロペラ、ホイールベース。

手前の発動機は、次項目記載の「九七式戦闘機(キ27)」の中島ハ1(寿)。


中島飛行機「九七式戦闘機(キ27)」残骸

「九七式戦闘機(キ27)」の翼部分の残骸
1981年に漁船が「九七式戦闘機(キ27)」残骸を発見した。
南方作戦に参加した帝国陸軍の機体。

タイ空軍では、1942年から1949年まで、12機の九七式戦闘機(キ27)を「12型戦闘機」の名称で運用していた。


ノースアメリカン「P-51D・マスタング」残骸

アメリカ陸軍航空隊第2航空コマンド群所属のノースアメリカン「P-51D・マスタング戦闘機(44‐15302)のアルバート・エイブラハム大尉の機体。
1945年4月9日、ドンムアン飛行場を機銃掃射中に対空砲で撃墜され、エイブラハム大尉は脱出するも、戦争終結まで捕虜となった。


カーチス「ホークⅢ・BF2Cゴスホーク」
Curtiss HawkⅢ(Curtiss BF2C Goshawk)

カーチス社が1934年に開発した複葉機「BF2Cゴスホーク」。
1935年、タイ空軍は、アメリカのカーチス社から、「BF2Cゴスホーク」の海外輸出機「ホークⅢ(HawkⅢ)」を24機発注し、50機の国内生産ライセンスを取得。
「ホークⅢ(HawkⅢ)」は、カーチス社が、アルゼンチン、中国、タイ、トルコ向けに770馬力(R-1820-F53)発動機を搭載したBF2C-1の輸出バージョン。総生産数137台。

「ホークⅢ」は、タイ空軍初の戦闘機。
タイ空軍では、10型戦闘機と愛称され、フランス領インドシナ紛争や第二次世界大戦での主力機であった。
「ホークⅢ(HawkⅢ)」同型機の現存機は、世界で唯一の機体。


ヴォート「V-93S・O2Uコルセア(初代コルセア)」
Vought V-93S/SA Corsair

ヴォートO2Uコルセア
1927年にアメリカ海軍に発注されヴォート社によって開発された。
複葉複座の偵察/観測機。
残存するコルセアは1機だけで、タイ空軍博物館に展示されている「O3U-6」のタイ向け輸出型「V-93S」のみ。
タイ空軍で、タイ・フランス領インドシナ紛争の時に活躍。

日本海軍も「ヴォートAXV1」として、1929年に評価のために大日本帝国海軍航空隊に一機だけ供給されたO2Uがあり、これは後に、九〇式二号水上偵察機となる。


グラマン「ベアキャット」
Grummam F-8F-1/1B Bearcat

タイでは戦後の導入であるが、第二次世界大戦中に開発された、最強のレシプロ艦上戦闘機。米軍では1945年から運用が開始された。

タイ空軍では、1951年より導入され、愛称は15型戦闘機。
最盛期には、ベアキャットを200機以上、保有していた。
タイ空軍最後のピストンエンジン駆動・プロペラ駆動の戦闘機。


シャム航空機工廠「ポリパトラ」複葉複座軽爆撃機
(Boripatra Bomber Type2)レプリカ

1927年に初飛行したシャム航空機工廠での設計製造された複葉複座軽爆撃機。
タイ王国で設計された最初の航空機。
現在はレプリカが2機、タイ王国空軍空軍博物館で展示してある。
(紹介プレートがない、、、)

意外なことに、タイ王国は自国で航空機設計ができる技術力を有していたのだ。


タイ王国空軍博物館には、大戦機として、「米カーチスSB2Cヘルダイバー」「英フェアリーファイアフライ」「英スーパーマリン・スピットファイア」などもいるというのだが、展示飛行機が多すぎて、見逃していたり、見当たらなかったり、とかで。
うーん、これは再訪しないといけないかもしれません。。。

※撮影:2025年2月

タイ王国バンコクの戦跡散策その3・黎明期のタイ航空機と大東亜戦争タイ空軍の絵画(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記もあります。


タイ王国空軍博物館

バンコク・スカイトレインBTS(BTS Sky Train)のスクムウィット線(Sukhumvit line)「Royal Thai Air Force Museum駅」(タイ王国空軍博物館駅)の直ぐ目の前。
立地としては、ドンムアン国際空港、ならびにドンムアン空軍司令部に隣接した場所となる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/8B7F1oqc8y93ofTn7

正面

ラマ5世銅像
タイ三大王のうちの一人、タイの近代化を推進。

銅像の裏。

入口。

F-5Aがお出迎え。

タイ空軍の部隊の所在地かな。


タイ王国の航空黎明期

「航空力は我が国を戦争から守る唯一の盾であり、また平時には輸送にも大きな役割を果たしている。」
ヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)、のちのラーマ6世
タイ王国空軍の父(ラーマ6世)

ちなみに、ラーマ5世の王子は、それぞれ3軍の父となっている。
海軍の父 
 チュムポーンケートウドムサック親王
  アブハカラ・キアーティヴォンセ王子
空軍の父 
 ピサヌロークプラチャーナート親王 
  チャクラポンプーワナート王子
陸軍の父 
 ナコーンチャイスィースラデート新王 
  チラプラワットワラデート王子

航空黎明期
1903年のライト兄弟から始まった航空機時代

1921年‐1932年まで使用されたタイ王国空軍のパイロット制服

第二次世界大戦


タイ王国の最初の航空機

タイ王国の航空史は、1911年に、サラパトゥム競馬場にベルギーパイロットにおいて展示されたことから始まる。
ヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)は1912年に3人の将校をフラン氏に派遣。1913年11月2日に、航空技術を習熟した3人の将校は8機の航空機とともに帰国した。
1914年にドンムアンに常設飛行場が完成しタイ王国での航空機運用が開始された。

タイにおける最初の航空機と飛行場

ニューポール単葉機
タイで最初に就役した2種類の航空機のうちの1つ。

プレゲ複葉機
タイで最初に就役した2種類の航空機のうちの1つ。

タイ航空の父 ラーマ6世

タイ国産機(Paribatra)


タイ空軍に関係する絵画

タイ王国での最初の国産機「パリバトラ」(ボリパトラ)
Luang Amphorn Baisal飛行中尉

いろいろなタイ空軍に関係する絵画があった。見ていて楽しい。
言葉がわからないけど、絵なら伝わってくる。

サヤーム王国(タイ王国)陸軍局局長であったヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)は航空機に多大な関心を示し、1912年2月28日、「タイ王国を飛行機先進国とする」という使命を帯びた3名の将校を航空技術習得のためにフランスに派遣した。
派遣された3名の将校、ルアン・サックサンラヤーウット少佐(スニー・スワンナプラティープ)、ルアン・アーウットシキゴーン大尉(ロン・シンスック)、ティップ・ゲトゥタット中尉は、飛行技術を習得し、1913年11月2日、8機の航空機(ブレゲー4機、ニューポール4機)とともに本国に帰国。
この3名の将校は、今日「タイ空軍の父」と見なされている。

3人の肖像は、すなわち、タイ空軍の黎明期を担った彼らなのだろう。

1914年1月13日、国王陛下隣席での3機の航空展示


唐突に出てきた、お姉様。

この辺りは、日本でもグッとくる万国共有の感性。


日本供給航空機の絵画(大東亜戦争絵画)

1940年、フランス領インドシナ紛争により米国がタイ国へ航空機の供給を停止した。そのためタイ空軍は航空機の供給を日本に切り替え、三菱キ30軽攻撃機「九七式軽爆撃機」(M103「ナゴヤ」)25機と、三菱キ21重爆撃機(キ21-I)「九七式重爆撃機」9機を購入することとなった。

タイ政府は日本軍の通過権を承認し、日本と同盟を結び、タイ王国空軍は1942年-43年にかけて日本軍の進軍を援護した。
三菱 キ21 九七式重爆撃機

インドシナ紛争においてタイ王国空軍は防空において積極的に役割を果たし、タイ王国海軍とタイ王国陸軍の支援を実施。

1942年、タイ王国空軍はキ27b Nate 戦闘機「九七式戦闘機」を12機、日本に発注した。
この機体は7.7mm2挺と55ポンド爆弾4発を搭載していた。

1943年、大東亜戦闘において、12型戦闘機(中島キ27bNate)「九七式戦闘機」は、ランバーン県コーカ飛行場の第16飛行隊に配備され、爆撃機や攻撃機の護衛任務を努め、タイ北部の哨戒任務に努めた。

1943年、タイ王国空軍は、日本から24機の中島キ43Ⅱb「隼」戦闘機を購入。12,7mm機関銃2挺と550ポンド爆弾2発を搭載できる「隼」は、大東亜戦争中のタイ王国空軍で最も高性能な戦闘機であった。

1944年6月5日、アメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機98機はバンコクのマカサン鉄道操車場を攻撃した。タイ空軍は3機の中島キ43「隼」を派遣し、迎撃を試みたが失敗に終わった。

1944年11月27日、バンスー操車場は、アメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機55機による空襲を受けた。たいと日本の中島キ43「隼」戦闘機14機が、巨大なB-29の迎撃を試みた。
隼のパイロットの一人、テルサック飛行中尉は、B-29を攻撃し損傷させたが、反撃により撃墜された。テルサック飛行中尉は、重度の火傷を負いながらも、ベッチャブリー上空で損傷した隼からパラシュートで脱出した。損傷したB-29は基地に帰還する途中で撃墜され行方不明となった。


そのほか展示物

写真をいくつか。。。
展示物は多すぎてお腹いっぱい、取りこぼしも多数。。。


そのほか航空機

写真は順不同

タイ王国で最初のジェット機T-33

F-5

Douglas A-1H Skyraider

いっぱい並んでる。

Fairchild C-123B Provider

中に入れた。

右も左も圧巻の展示。

Cessna A-37B Dragonfly

ファントレーナーFT-400

ヘリコプターも

レーダーも展示?

火器類

こっちにも

左:ノースアメリカン製中間練習機T-28Trojan
右:ピラタス製軽飛行機PC-6

建物を取り囲むように航空機の展示が続く。

Beech C-45F Expeditor

Fairchild Swearingen SA-227AT

食堂と喫茶室とお土産屋さんがある建物。

軍人さんも利用。

ココナッツアイスコーヒーで一休み。テーブルの下に、戦闘機がいました。

いやはや、圧巻ですよ、これはまた期待です。
(スピットファイアとかヘルキャットをみるためにも)

駅チカ。

※撮影:2025年2月


「ともちゃん地蔵」満洲難民収容所の悲話を伝承するお地蔵様(岩槻)

六本木にある「ともちゃん地蔵」に関しては、以前の記事に記載しました。

「ともちゃん地蔵」は、東京「六本木」を皮切りに、全国各地に賛同者を得て造立されてきた。

  • 六本木
  • 岩槻
  • 箱根
  • 浜松

今回は、岩槻の「ともちゃん地蔵」を掲載。


ともちゃん地蔵

ともちゃん地蔵は、増田昭一さん(2020年12月に急逝、ドラマ「遠い約束」の原作者)が自身の体験をつづった「満州の星くずと散った子供たちの遺書 新京敷島地区難民収容所の孤児たち」に収められた「ともちゃんのおへそ」という伝承に基づく。
「ともちゃんのおへそ」は、のちに絵本にもなった。

公益財団法人中国残留孤児援護基金 中国帰国者支援・交流センター 

https://www.sien-center.or.jp

ともちゃんのおへそ

https://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/shuki/sm/hokuman_top.html

増田昭一の本

http://www.yumekoubou-t.com/raiburari/masudasyouitinohonn.html


岩槻の「ともちゃん地蔵」

岩槻の「ともちゃん地蔵」は、千野誠治さんの活動に賛同して建立されたお地蔵様。
慈恩寺「玄奘三蔵霊骨塔」の裏に鎮座している。

ともちゃんの おへそは お母さんの 顔

ともちゃん地蔵
ともちゃんは 夕方になると 難民収容所の 隅っこの お母さんのお墓の前で 小さな手を合わせます
ズボンをちょっと下げ 上着をまくりあげ おへそを眺めます
「お母さんに会いたいときは おへそを見なさい きっとお母さんの顔が 見えるでしょう」
お母さんは死の床で そう言いました
寒さが収容所を襲うと 弱い者から命を奪われます
ともちゃんも仲間のお兄さん達も 身体をくの字に曲げて おへそを眺めながら 死んでいきました
遠い昔中国の北の街に そんな子供達がいたことを 忘れないでください
二度とこんな悲しみを 子供達に 負わせないでください
 2001年1月25日
  紅梅の会 
   村上米子

合掌

撮影用に、おへそを確認しましたが、実は服を着ていたので、撮影完了後に服を戻しました。


玄奘三蔵霊骨塔

西遊記(孫悟空)で名高い、玄奘三蔵法師の霊骨石塔。
13重で高さは18mあり、慈恩寺が管理。

三蔵法師の遺骨は、宋の時代に長安(現・西安)から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になったが、第2次大戦中に南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に法師の頭骨を納めた石箱を発見(昭和17年)。
頭骨は、当時の南京政府に還付され、昭和19年に南京玄武山に玄奘塔を建立し奉安されるとともに、日本へも分骨された。日本へ渡った頭骨は、当初芝増上寺に安置されましたが、折しもその頃の東京は空襲の被害が広がり、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、さらに三蔵法師の建立した大慈恩寺にちなんで命名された慈恩寺に疎開となった。
第2次大戦後、日本仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、三蔵法師と縁の深い慈恩寺が奉安に最適の地とされ、昭和25年に13重の花崗岩の石組みによって玄奘塔が造営。
その後、慈恩寺から台湾の玄奘寺(昭和30年)や奈良の薬師寺(昭和56年)へも分骨されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/1byCHzxw8RE7pe6k8

石亀がいました

ピザ窯だそうで。

慈恩寺の本堂。玄奘三蔵霊骨塔は飛地のため、少し離れている。

玄奘塔への行き方。

鎮護国家の旗台は昭和17年2月奉納。

忠魂碑
日露戦争と、支那事変・大東亜戦争での犠牲者。

※撮影;2025年5月

場所:

https://maps.app.goo.gl/QdGTBUxTaUEUmdFB9


関連

大阪大空襲による弾痕が残る「旧制北野中学校本館西壁」と「殉難碑」(大阪市淀川区・北野高校)

大阪に出張のおり、夕刻に時間ができたので、北野高校に残る弾痕壁を見学してきました。


空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」

昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
この壁に残る28個の弾痕は、昭和20年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmに及ぶ。

大阪大空襲
1944年12月以降から1945年8月15日の終戦までに、大阪は50回を超える空襲があり、なかでも下記の8回は特に大規模な空襲として、延べ1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。
昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)

殉難乃碑
昭和20年6月15日の空襲により、北野中学2年生の中島要昌、池田彰宏、学校防衛中焼夷弾に斃る 
 北野百年史

空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」
 太平洋戦争中、大阪は昭和19年12月以降同20年8月15日の終戦までに、50回を超える空襲を受け、多大の惨禍をこうむった。
 昭和19年夏には、空襲の危難を避けるため、学童疎開がはじまり、大阪でも国民学校(現在の小学校)の児童たちは地方に疎開して行った。この頃、中学校や高等女学校(現在の高等学校、当時は男女共学生ではない)ではほとんど授業は行われず、生徒たちは軍需工場に動員されたり、食糧増産のため農場で働いたりしていた。
 旧制北野中学校では、昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
 この壁に残る28個の弾痕は、同年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmあり、機銃掃射の激しさを物語っている。
 戦後50周年の憶いをこめて、これを残す。
  平成7年12月
   大阪府立北野高等学校

https://news.yahoo.co.jp/articles/c6fcd0dbdf51dfd47d212f0bccf5bf49bc551fe7?page=1

https://www.sankei.com/article/20250429-YFNUPEQVYFJPZGZQ4NCGEG7RTQ

壁に残る28個の弾痕が生々しく、往時の惨劇を伝える。


「北中」記念碑

大阪府立北野高等学校。1873年創立という歴史を持ち、府内でも屈指の進学校。

「北中」記念碑
1931年竣工の昭和校舎屋上の飾り壁。
円形の窓にはめ込まれた「北中」の文字。
その幾何学的な美しい意匠は、六稜の星とともに北野の象徴として、文武に励む幾多の俊秀の胸に刻み込まれてきた。

※撮影:2025年4月撮影(PENTAX WG-1000)

※場所

https://maps.app.goo.gl/TsiyPNNsg7d688RS8


関連(大阪の空襲)

「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」と「中国帰国者之墓」(西多摩霊園・あきる野市)

あきる野市にある「西多摩霊園」。
ここに、「中国帰国者之墓」と、ちばてつや氏デザインの「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」があるというので足を運んでみた。

「まんしゅう母子地蔵」が浅草寺に鎮座しており、どちらも漫画家のちばてつや氏のデザインとなる。


「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵(まんしゅう地ぞう)」

「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵」は、あきる野市の西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」の横に鎮座。
浅草の浅草寺にある「まんしゅう母子地蔵」と同じく、ちばてつや氏がデザイン。

中国帰国者之墓
内閣総理大臣 海部俊樹 書

海部俊樹総理大臣の銘。1990年6月の建立。

合掌

墓碑銘
 1931年9月満洲事変以降、五族共和・王道楽土建設の名のもと多くの日本人が中国東北地方に渡った。特に重要国策として、日本全国から開拓団青少年義勇軍が中ソ国境に送り込まれた。
 しかるに第二次世界大戦末期ソ連軍の侵攻に際し、日本軍の庇護無く、多くの婦女子が、飢え・病・酷寒に苦しんだ。また逃避行の果て家族は離散し異郷に永く放置されたが中国の人々に救われた。
 戦後四十有余年、多くの孤児・夫人達が念願叶い、故国に帰ったが、定着自立の過程で不幸にして他界された御霊を此処に祀る。
 再び過ちが繰り返されぬことを願い永遠に安らかに眠られんことを祈る。
  1990年6月
  中国残留孤児の国勢取得を支援する会
   会長 河合弘之

由来
 望郷の思い久しくようやく帰国した残留孤児・残留夫人は懸命に定着、自立の努力を続けていますが、その過程で新たな問題が発生しました。それは、せっかく祖国に帰りながら不幸にして他界した夫人・孤児あるいはその家族の人達の御霊が眠る墓所がないことです。
 そこでこの墓所を中国残留孤児の国籍所得を支援する会が発案し、孤児支援関係者・厚生省など関係各庁の方々、西多摩霊園、宮川石材株式会社等、そのほか心ある方々の協力によって建立されたものです。衷心よりお礼申し上げます。
 1990年6月
  中国残留孤児の国籍取得を支援する会
   事務局長 千野誠治

「まんしゅう地ぞう」由来
 今日は遠路『まんしゅう地ぞう』さまにお参りされご苦労さまです。
この機会に、お地蔵さま建立の由来について申し上げたいと思います。
 おとなたちが起こした、さきの大戦敗戦の結果、当時の満州で数万の子供たちが亡<なりました。一九四五年八月九日、突然のソ連軍侵攻。守ってくれる筈の日本軍は頼りにならず、ソ連戦車に蹂躙され、暴民の襲撃にさらされながら、人々は一歩でも祖国に近づこうと必死の逃避行を続けました。襲い来る飢、疫病、酷寒そして集団自決、そのなかでおとなたちの手によって死んでいった子供たちもいました。罪のない子供たちが、なぜ虫けらのように死ななければならなかったのでしょうか。
子供たちの魂は日本に帰えれず、花一本供えられることもなく、まだ満洲の荒野で迎えを待っているのではないでしょうか。
 あれから五十年の歳月が過ぎ去りました。ともすれば戦争の惨禍が忘れられ、多くの子供たちの貴い命がその犠牲になったことも消えてしまいそうです。改めてここに、幼い御霊よ安らかなれと祈り、再びあやまちを繰り返さないことを誓い、永遠の平和の願いをこめて『まんしゅう地ぞう』を建立した次第です。お地蔵さまのお慈悲、皆の思いは遠く満洲の地に眠る非運の子供たちに届くことを信じてやみません。
 最後に、和田圭子さんから頂いた短歌を捧げてご冥福をお祈り申し上げます。
 異郷にて はかなくなりし幼児の みたまかへれよ ちちははの手に
 風となり  雲ともなりて  遊べかし  お地蔵さまに  見守られつつ

デザイン ちばてつや 題字 井上翠園
彫刻 和泉成治 石材 宮川八三吉
 一九九五年十一月
  まんしゅう地ぞう建立委員会

中国帰国者支援・交流センター
https://www.kikokusha-center.or.jp/index2.html

https://www.kikokusha-center.or.jp/resource/sankoshiryo/ioriya-notes/photo/zizo.htm

まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)は、漫画家のちばてつや氏のデザイン。
ちばてつや氏は、2歳の時に満洲国奉天にわたり、6歳のときに同地で終戦を迎え、多くの困難を経て満洲国から引き揚げを経験している。

まんしゅう地ぞう

「まんしゅう地ぞう」から、西多摩霊園を眺める。


西多摩霊園

東京郊外の大規模霊園。予想以上に広く、そして山を切り拓いた感もあり、アップダウンも激しい。
私は、福生駅からシェアサイクルで赴いたが、同じく福生駅からは無料送迎バスもあるとのことで、バスを使うのものあり。

https://nishitamareien.com/guidance_top/guidance/guidance1

西多摩霊園は、都内最大の民営公園墓地。昭和41年開設。広大な聖域は15万坪(50万平方メートル)を有し、総区画数は約3万区画にも及ぶ。

もちろん、場所がわからなかったので、管理事務所で「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵」の場所を尋ねると、受付のお姉さんが教えてくれます。
「案内図のここ(黒線で行き方を記載)を右にいった、第5区の1号の1列、おおきなお地蔵さんがあるので、すぐわかると思いますよ」

親切にありがとうございます。
お陰様で、迷わず、たどり着けました。

https://nishitamareien.com/img/Gardenmap2023.jpg

ちなみに、5区の入口には東海大学の創設者・松前重義博士の顕彰碑「望星塚」がある。

※撮影:2025年5月
※Pentax WG-1000


満洲関連

世界最大級の無線送信施設だった「依佐美送信所」(依佐美送信所記念館・愛知県刈谷市)

完成当初、世界最大級の無線送信施設で、東洋一の長波送信所であった「依佐美送信所」の記念館に足を運んでみました。


依佐美送信所

依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
鉄塔本体は平成9年(1997)に全8基の解体が完了し、残った局舎なども平成18年(2006)までに解体された。
社宅跡は「フローラルガーデンよさみ」として公園整備がなされ、その一角に依佐美送信所記念館が平成19年(2007)4月に開館している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1078-17
1948年3月3日、米軍撮影の航空写真。

依佐美送信所界隈を拡大。

250m鉄塔(無線鉄塔1号塔)は、こんな感じ。影の長さが、高さをよく表している。


依佐美送信所記念館

詳細は公式サイトにて

https://yosami-radio-ts.sakura.ne.jp

依佐美送信所記念館
 依佐美送信所は昭和4年(1929)に建設された、当時としては世界最大級の無線送信施設で、長波によるヨーロッパへの送信を日本で初めて行いました。これにより当時の外交や通商は飛躍的に向上し、その後短波通信施設も強化され、長・短波ともに日本の国際通信設備としての重要な役割を果たしました。
 第二次世界大戦後の在日米国海軍の接収、平成6年(1994)の日本への返還を経て、その役割を終えた送信所は平成18年に全施設が解体・撤去されました。
 この送信所の産業遺産としての価値を評価し、長波用送信装置および関係資料を保存し後世に伝えていくことを目的として、ここに依佐美送信所記念館を建設し、平成19年4月に開館しました。

依佐美送信所鉄塔
 明治以来我が国の対外通信は、欧米の電信会社の所有する海底電線によらなければならず、このような対外通信施設の不備は、外交上・通商上の不利益を我が国にもたらしました。こうした見地から、無線通信による国際通信の整備が提唱され、大正14年(1925年)3月帝国議会において「日本無線電信株式会社法」が成立し、これに基づく新会社が世界の主要地域と直接無線通信のできる施設を建設することとなり、対欧送信所はここ依佐美(当時愛知県碧海郡依佐美村)に、受信所は四日市郊外(三重県三重郡海蔵村)に設けられることになりました。
 依佐美送信所は大電力の長波送信所として設計され、昭和2年(1927)7月に着工、4年3月に完成しました。送信所にはドイツ製テレフンケン式長波送信装置と高さ250メートルの当時としては東洋一の高さを誇る鉄塔8基に懸架した壮大なアンテナが設置されました。アンテナ電力500キロワットは長波としては世界最大のものでした。
 この8基の鉄塔は2列(間隔500メートル)に4基ずつ(間隔480メートル)設置され、相対する鉄塔間に張られた4本の吊架線に逆L型T6条のアンテナが吊り下げられました、接地には多重接地法が採用され、アンテナの下の全域に埋設されました。
 鉄塔と送信所建設に要した資材の量は7万トン。これを運搬するため三河鉄道小垣江駅から建設地付近まで臨時に専用引込線が敷設されました。
 昭和4年3月全ての工事が完成、4月18日盛大に開所式が行われ、我が国とヨーロッパ間の直通通信が開始されました。これは外交上および通商上の画期的躍進でした。
 第二次世界大戦中、長波の送信施設は専ら日本海軍の運用に委ねられ終戦に至りましたが、昭和25年4月在日米国海軍に接収され、昭和27年7月から運用が再開されました。
 平成6年(1994)8月東西冷戦の終焉により全面返還となり、平成9年3月にアンテナ、鉄塔等の撤去を完了しました。こうして70年にわたって三河平野にそびえ立ち、地元の象徴として親しまれてきた鉄塔もその使命を終え、姿を消しました。
 ここに往時の雄姿を留めるものとして、実物を10分の1の高さ25メートルに短縮し保存します。
  刈谷市

鉄塔平面図

鉄塔姿図

依佐美記念館の外観。
依佐美送信所には長波の発信機である高周波発電機が残されており、2006年の解体時に、新たに建造した記念館で保存している。記念館外観は、旧送信機室を模したもので、内部には高周波発電機をはじめ、ローディングコイル、制御盤など旧送信所の設備の8割が静態保存されている。

旧送信機室を模している。


記念鉄塔と鉄塔頂上部(無線鉄塔2号塔跡地)

記念館に隣接する高さ25mの記念塔。解体された無線鉄塔の2号塔跡地にあり、1/10スケールで復元されている。(平成11年建設)
また、敷地内には、250mの鉄塔の頂上部がある。

250mの鉄塔の頂上部


フローラルプラザ(公園事務所)

依佐美送信所の建物(送信局舎本館)をモチーフに作られた公園事務所。

「フローラルガーデンよさみ」

樹木の根元も無線鉄塔イメージでかわいい。


依佐美送信所記念館内部

館内には依佐美送信所で使用された送信機器類など関係資料が保存されている。

米国海軍が送信所を使用していた際に送信室の入口に掲示されていた送信室の説明「Explanation」

依佐美送信所の無線鉄塔跡のマップ。
全部巡ると4キロ60分だそうで。

無線鉄塔の位置関係を俯瞰。

依佐美送信所ジオラマ

位置関係がわかりやすい

長波送信局舎

現在のフローラルプラザと依佐美送信所記念館の建物は、本館と送信所を模している。
長波送信局舎の敷地は、現在はソーラーパネル発電所。

長波用大鉄塔

大鉄塔は1996-7年に解体。鉄塔基礎の跡地は刈谷市の所有となり、長波送信局舎構内から移植されたクスノキが2本ずつ植えられている。
8号塔跡地には鉄塔基礎が残る。(今回はそこまでは行けませんでした。。。)

引留鉄塔

戦後の米国海軍のアンテナ改良にとり、引留鉄塔は廃止され、その痕跡は残っていない。

短波送信局舎

短波送信局舎は、長波局舎の南約1キロの場所に、昭和11年(1936)二完成。
戦後は民間企業に買い取られ、現在も企業敷地内に現存していいる。依佐美送信所の建物として唯一の現存建造物。(あとで見に行こう。。。)

臨時鉄道引込線

名鉄の小垣江駅から2.4キロの臨時線路が敷設された。
線路は送信所完成後に撤去され、道路や田畑となっている。

社宅・寮

フローラルガーデンよさみが、社宅の跡地。

コイルハウス

戦後、昭和38年にコイルハウスを建設に性能向上が図られた。

依佐美変電所

現在の中部電力刈谷電力所依佐美変電所として往時と同じく電力を供給している。

製塩所

戦後に余剰電力を用いて不足していた塩を確保するために2年間ほど、声援事業が行われた。

神明橋

依佐美送信所の建造協力のお礼として鉄筋コンクリートの橋が村に提供された。送信所から世界に電波を発信をイメージして四隅に地球儀が設置され「地球橋」とも呼称された。
現在の神明橋は2000年に造営されたもので、往時を模して四隅に地球儀が設けられている。

短波用木柱郡

短波用アンテナは建設費が安い木柱が多様された。高さは最大で60m。

短波用75m鉄塔

昭和12年に短波用75m鉄塔は5基設置された。

短波用85m鉄塔

短波用アンテナは合計で43基設置された。
85mが5基、75mが5基、60m、45m、40m、30mの木柱が70本。
85m鉄塔は昭和13年に設置。
短波用鉄塔や木柱は昭和29年までに全て撤去され痕跡は残っていない。

在日米海軍通信隊による注意と立入禁止の看板

米海軍通信隊の看板

米海軍の紋章盾

主直流機励磁用電動発動機操作盤

主直流機励磁用電動発動機

主誘導電動機

主直流電動機

高周波発電機

送信機操作盤

高周波チョークコイル

鉄塔台座

250mの鉄塔を支えた台座。上部が球体になっているのは鉄塔が強風によって横揺れを受けても荷重を一点でうけ下部台座に力を均等に分散するため。

碍子

鉄塔支線

依佐美送信所本館の玄関ステンドグラス

航空障害灯

配布物、いろいろ


対欧無線通信発祥地

1989年に、電気通信学会などが対欧無線の発祥の地として石碑を建立。

對歐無線通信發祥地
本田静夫書

依佐美送信所は我が国に於ける最初の欧州向け無線通信設備として建設され昭和四年四月十五日に運用を開始してから本日ここに六十周年を迎える
当時の長波送信機は周波数一七四四二ヘルツの回転型高周波発電機で二百五十メートルの鉄塔と七百キロワットの空中線電力は世界最大の規模であった
本送信所は昭和の時代と共に幾多の変遷を経て現在も電気興業依佐美送信所として真空管式送信機により運用されており歴史的学問的に貴重な価値を有するものである
ここに電子情報通信学会の東海支部創立五十周年と依佐美送信所の電波発射六十周年を記念して此の碑を建立する
 平成元年四月十五日
  電子情報通信学会東海支部
   創立五十周年記念事業会代表
    本田静夫

平成20年(2008) には、IEEEマイルストーンに認定されている。
IEEE (The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.)は米国に本部を置く世界最大の電気電子技術者の組織。
平成20年11月16日、依佐美送信所が国内9番目に認定された。世界最大の出力でヨーロッパへ国内で初めて送信したことや記念館に設備が保存されている点が評価された。

マイルストーン銘板

https://www.ieice.org/tokai/activity

場所

https://maps.app.goo.gl/RnBJeaVcrY5bpuip7


依佐美送信所・短波送信局舎

現在の小林クリエイト内に往時の建屋が残っている。

https://maps.app.goo.gl/w9iKYuJKmy3WGu8u7

正面の中央が往時の建屋。私が(歩き疲れたということもあり)現地で、正面に回り込むことを怠ったため、Googleストリートビューからキャプチャ。

北側からだと、こんな感じ。正直、よくわからない。

場所(正面)

https://maps.app.goo.gl/aMgkdphyLfurXD4P9

当時の航空写真(1948年)

現在の様子(Goole航空写真)


無線鉄塔1号塔跡地(依佐美クスノキ1号)

無線鉄塔の跡地には、刈谷市の木である「クスノキ」が2本ずつ植えられている。
なお、2号鉄塔跡地が、依佐美送信所記念館となっている。


無線鉄塔4号塔跡地(依佐美クスノキ4号)

短波送信局舎の近くに4号。


無線鉄塔3号塔跡地(依佐美クスノキ3号)

結構、遠くからでもわかるクスノキ。

依佐美送信所記念館は、遠くからでもよく分かる。

ちなみに、野田新町駅から2キロ30分歩いて、「フローラルガーデンよさみ」について、依佐美送信所記念館に1時間くらい滞在して、寄り道しながら4キロ60分ほど歩いて野田新町駅に戻った、とか、そんな感じ。
それなりに歩く覚悟が必要な場所です。(ちょうど良いタイミングでバスがなかった、、、)

※撮影:2025年3月


関連

「修武台・陸軍航空士官学校」修武台記念館(航空自衛隊入間基地)

2025年の冬に。
入間基地内の「修武台記念館」を見学させていただきました。

修武台記念館内は、撮影可能であってもSNS等の写真公開は禁止、また基地移動中も撮影禁止のため、今回のレポートは、記念館内の写真は無しとなります。

写真の公開には制約がありますが、日本で唯一の「桜花」など、写真を撮ることの制約はないので、そこは思う存分に。
敷地外から撮影した写真と、入手したパンフレットの画像を中心に、見学を検討している皆様向けに、そして自らの備忘のために記事を作成します。

修武台記念館と修武台記念碑(基地敷地外から撮影)


陸軍航空士官学校(修武台)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


修武台記念館

入間基地では、隊員の教育訓練(精神教育)及び航空自衛隊の良き伝統の継承を目的に、「修武台記念館」という歴史資料館が運営されています。

修武台記念館見学会応募要領に関しては、下記の公式サイトにてご確認をば。

https://www.mod.go.jp/asdf/iruma/kouhou/public_kinenkan/index.html

私が申し込んだ際は、(あえて人の少なさそうな)平日を狙って申込みをしたので「自由見学方式」と「ツアー見学方式」で合わせて10人もいないくらいの少人数で開催となり、私は自由見学方式を申し込み。ほぼ2階の旧軍関連の資料の観覧と撮影に時間を費やしました。
ツアー見学組は、90分の見学時間を使って無駄なくみっちりと解説を聞きながらの観覧のようでした。
次回は、ツアー見学で話を聞くのもありかなって思いました。

残念だったのは、野外展示の観覧が不可だったこと。
移動バスが、修武台記念館の前に直付けとなり、修武台記念館の外にも移動禁止。外の見学が出来ないのは、警備人員配置の都合だとかで。


修武台記念碑(修武臺記念碑)

昭和16年12月10日 陸軍大将 東條英機 謹書

修武台記念碑(基地敷地外からの撮影)

陸軍航空士官学校航空神社跡を後ろから(基地敷地外からの撮影)

修武台記念館(基地敷地外からの撮影)


航空歴史資料館 修武臺記念館(修武台記念館)

以下、パンフレットを参照にします。
(撮影したデータは公開不可のため)

航空歴史資料館 修武臺記念館

以下、拡大しつつ。

陸軍航空士官学校の航空標識(インシグニア)として使用された意匠

修武台記念館は、航空自衛隊員の教育訓練及び航空自衛隊の伝統の継承を目的として運営されています。
陸軍航空士官学校(航士)
昭和13年(1938年)5月、所沢にあった陸軍士官学校分校が入間川豊岡に移転し、同年12月に陸軍航空士官学校(航士)として創建されました。終戦までに七千名に及ぶ士官候補生らが教育を受けました。
旧陸軍航空士官學校本部長舎
太平洋戦争後の米軍進駐と撤収を経て、航空自衛隊の管理に委ねられ、昭和61年(1986年)から平成17年(2005年)まで旧修武台記念館として運営されました。旧陸軍士官学校本部庁舎の外観を模した修武台記念館は、同庁舎跡地に建設されて平成24年(2012年)に開館しています。

修武臺の碑

「修武台」の由来
北魏・孝文帝の詔「国家宗文以懐九服修武以寧八荒」を由来とします。
昭和16年(1941年)3月、第54期生卒業式に臨席された昭和天皇が豊岡の航空士官学校の地を「修武臺」と命名されました。同年12月に御命名書の御染筆を刻んだ碑(修武臺の碑)が建立されています。

航空神社跡碑

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※北野天神社の記録は下記にて

記念館周辺史跡及び記念碑

このあたりも見たかったんです。

航空兵の像

パンフレットの次頁

以下、拡大しつつ。

入口玄関にあるのは「陸軍航空士官学校模型」。
位置関係のイメージ把握を。

2階部分。


陸軍航空と海軍航空の歩みを年表形式で解説。
明治43年の陸軍「臨時軍用気球研究会」、そして大正6年の海軍「臨時潜水艦航空機調査会」から始まった日本陸海軍の航空史。


士官と搭乗員の育成について。


太平洋戦争の航空戦について。
海軍空母機動部隊の航空戦と、島嶼戦における航空戦。そして航空消耗戦へと。
零戦と飛燕
日米の飛行場の違い。


陸軍機と隼戦闘機
屠龍の残存部品展示
隼の残存部品展示
檜與平少佐の義足、空中戦で片足を失いつつも義足で戦闘機に乗り続けたパイロット。


中島エンジンの展示。
鍾馗用「ハ41」零戦用「栄21」
日立航空機(日野自動車)エンジン「(海軍)初風・(陸軍)ハ47型」


海軍特攻兵器
「桜花」
日本に現存する唯一の「桜花」の展示。
これが見たかったのです。ようやく拝見できました。


特攻隊員顕彰室
義烈空挺隊など。

10
入間基地特別展示室
加藤隼戦闘隊と軍神加藤について。

11
ジェット機の登場
ジェットエンジンの進化に関して。橘花。

そういえば、橘花のジェットエンジン「ネ20」には、出会ってました。

ここから1階に移動


12
航空自衛隊の発展

保管庫に移動すると3機の展示。
アンリ・ファルマン機、ここにいましたか。久しぶり。

所沢航空発祥記念館で、以前に会ってました。

修武台記念館 館内案内図

撮影した写真が、掲載できないのはもどかしいですが、是非とも見学して自ら鑑賞してくださいってことですね。必見ですので。


撮影:2025年冬