旧日立航空機立川工場変電所

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平成29年撮影

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「東大和南公園」内
「旧日立航空機立川工場変電所」


本記事は、古い記事となります。

2021年の補修工事完了後の再訪記録は以下になります。2階部分も公開となっております。
以下が最新記事です。

2017年に訪れた際は、1階のみの公開で、2階部分は非公開エリア、でした。2020年に改修工事が行われ、問題となっていた耐震補強や老朽化に...

位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集

旧日立航空機立川工場変電所

昭和13年(1938)から平成5年(1993)まで使用されていた変電所跡。 昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。

周囲を廻ってみると正面の一方向(南側)のみに猛烈に機銃掃射を受けたのがよくわかりますね。

旧日立航空機立川工場変電所

昭和13年建設。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

毎月第2日曜日の午後1時~4時に公開があります

2022年現在、公開日は異なります。最新記事を参照ください。

ということで、公開日に出直ししました。

東大和市
「旧日立航空機変電所」
毎月第2日曜日 13時~16時に内部一般公開

旧日立航空機変電所 一般公開

耐震強度の問題から1階部分のみの公開。
それでも間近で拝見できるのはありがたいです。
階段部分。
正面の機銃掃射や爆撃の破片などにより階段や手すりにその痕跡が残っておりました。

階段の裏側には爆撃の痕跡が。
窓から飛び込んできた爆弾の破片によるものとされています。

2階は立入禁止。

2階の様子はパネル写真で。
機械にも機銃掃射の跡が残っている。

爆弾の破片で貫通した穴がありました。
解りやすいように鉄棒を差し込んであります。
破片が外部からコンクリート壁に当たった衝撃波で、内部もダメージが生じるとのことです。

外側から

米軍250キロ爆弾実物大模型

B‐29爆撃機から投下された爆弾は関東では250キロ爆弾が多く、関西では1トン爆弾が中心だったという。

保存に至る過程など。

コンクリートの中性化が進行。
常時公開するには耐震工事が必要。
文化財を保存することとの矛盾。

多くの近代建築が抱える悩ましい問題点・・・

東洋陶器(TOTO)の洗面台。
鷲のトレードマーク付 このマークは昭和7年~昭和36年まで使用されていたもの。洗面台が戦前製造か戦後製造はメーカーでも特定できなかったが、古いものであるのは間違いなく。

書籍を購入。 この手の本はその場で購入しないと購入経路も限られておりなかなか入手ができないものなので。

西の原爆ドーム、東の変電所
戦災変電所の奇跡
東大和・戦災変電所を保存する会編
2017年4月1日発行

ありがとうございます!

旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

工場への攻撃は3回あり110余名に及ぶ死者を出している。 この慰霊碑は平成7年に戦後50年の節目に小松ゼノア社(日立航空機の後身)構内に建立。平成12年に現在地に遷座。

3度の空襲による110名の尊き犠牲者に黙祷。

給水塔モニュメント

給水塔は平成13年に維持困難のために取り壊し。 そのモニュメントとして爆撃痕の残る壁面一部を切り取り部分保存。

防護壁

変電所の北側に作られた受電施設の東西にあり外部との分離をしていた防護壁。 受電設備とともに解体され、爆撃痕を残す一部が切り取り保存。

変電所では高圧電流取扱のため不用意な立ち入りを制限するために防護壁が設けられていた。 防護壁にも爆撃痕などが残っており、奇しくも別の意味での防護も。

北側変電施設の碍子

これは戦後(昭和36年製)というが、戦前も同じように「巨大な碍子」(絶縁体)が使用されていたという。

東大和・戦災変電所を保存する会

ありがとうございました


何かのプロペラエンジン。 変電設備の部品モニュメントなどが周辺に散りばめられている。

鯉のぼり。藤の花。そして伝承される戦争遺跡。 昭和の激動とともに歩んできたコンクリートの建造物は、往時と変わらぬ姿のまま、平穏な空間のなかに鎮まっていた。

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