三菱重工「横浜造船所跡」と「三菱みなとみらい技術館」

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横浜の「みなとみらい」は、かつては、三菱の横浜造船所であった。
往時の物語るものが、「三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館」の片隅にある。


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横浜造船所関連

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三菱重工業株式会社 横浜造船所跡

三菱重工業横浜船渠として、旧海軍では練習巡洋艦「香取」「鹿島」「香椎」、陸軍護衛空母「山汐丸」、測量艦「筑紫」などを造艦した。
なお、三菱と合併前の「横浜船渠」時代では、軽巡洋艦「那珂」駆逐艦「吹雪」航空母艦「龍驤」などを手掛けている。

三菱重工業株式会社 横浜造船所跡
横浜造船所は明治24年(1891) 有限責任横浜船渠会社として発足、昭和10年(1935) 三菱重工業株式会社と合併し 三菱重工・横浜造船所となった。
横浜港出入り船舶の修理から始め、その後新造船、鉄橋、原動機、環境装置に事業を広げ、横浜市と共に発展してきた。
昭和58年(1983)「みなとみらい21」計画に沿い、この創立の地から本牧と金沢へ工場を移転し横浜事業所としてその事業を継続している 
 平成6年3月 

この記念碑の石材は、横浜造船所二号ドック(現ドックヤードガーデン)の底部に使われていたものです。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C8-107
昭和19年(1944年)10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

日本丸の第一号船渠と、ドックヤードガーデンの第二号船渠で位置関係を把握できる。


三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館

三菱みなとみらい技術館が併設されている三菱重工横浜ビル。
三菱の技術を垣間見える施設。


三菱みなとみらい技術館見学1

せっかくだから見学します。

この台座に使われている石は明治30年完成の2号ドック(現ドックヤードガーデン)の石材の一部である。

三菱グループのはなし。

三菱の歴史。

岩崎彌太郎

1929 客船「浅間丸」建造
1939 零式艦上戦闘機制作

1931 日本初の国産戦車「八九式中戦車」制作
1942 世界最大の戦艦「武蔵」建造

空の夢が宇宙へと続く、挑戦のあゆみ

1923 Type10 Carrier Fighter (一〇式艦上戦闘機)
1927 Mitsubishi MC-1(三菱 MC-1)
1937 KAMIKAZE (神風号・雁型通信連絡機)

1939 Mitsubishi A6M Zero 零式艦上戦闘機


三菱みなとみらい技術館見学2(模型)

三菱が創り上げてきた乗り物たちの模型がありました。
ここで、私の時間はガッツリと持っていかれてしまい。

The History of Vehicles 乗物の歴史

実は模型コーナーは、出口の目の前にあった。
出口前で、私は、模型コーナーをもちろんスルーできずに吸い寄せられてしまいました。

飛行機関連は、すべて縮尺1/25で作成。

以下、飛行機模型を。。。

艦上戦闘機一〇式二号(海軍)
1921年(大正10年)
海軍として日本初の空母搭載用戦闘機で三菱内燃機(現:三菱重工)が開発・製造した。英国製エンジンを三菱が製造、骨組みは木製でボディーは布張り、複葉機(主翼が上下二枚)だが、当時の戦闘機としては充分な仕様であった。一号機は乗員2名だが、当機二号機は前後に一人ずつ搭乗し練習機としても使用した。

艦上雷撃機一〇式(海軍)
1922(大正11年)
雷撃機とは、戦闘機から水上艦へ魚雷攻撃するもので爆弾を投下するより命中率が高い。
本機は日本軍で唯一の三葉機(主翼が三枚)で運動性能は良好であったが単座(一人乗り)のため攻撃の正確性に欠け20機の生産で終了となった。

艦上攻撃機一三式二号(海軍)
1924(大正13年)
英国人の設計で三菱重工が製造、まだこの時代もボディーは布張りだが骨組みは鋼管になった。複座で前座の操縦席と後座の銃座に分割、よって攻撃性が高まった。一三式全種で400機以上生産。

練習機 己式一型(陸軍)
1924(大正13年)
フランス アンリオ社から3機購入試用し以後ライセンス生産となった、エンジンは気筒自体がプロペラと一緒に回転、操縦の容易性に定評で初歩練習機としても活躍した。

神風号(司令部偵察機九七式一型の改造機)
1937(昭和12年)
朝日新聞社は英国ジョージ6世の戴冠式に向け陸軍の九七式司令部偵察機の試作機を高速通信機に改造し、1937(昭和12年)4月、操縦士、機関士の2名で立川飛行場を離陸、途中11ヶ所を経由して4日後にロンドンに着陸しました。全行程1万5357kmを94時間、実飛行51時間で都市間連絡飛行の新記録をたて、当時の国民はこの大記録に熱狂しました。 

水上観測機 零式(海軍)
1936(昭和11年)
観測機の役割は戦艦同士の砲撃で命中率を高めるために着弾位置を上空から観測し誤差の週製情報を戦艦に伝えること。艦上から見渡せない敵艦の向こう側の着弾位置など正確に計測可能。偵察機としての役割も果たせます。従って攻撃力は低くても運動性能を重視し当時の技術では複葉機(主翼が2枚)が充分な成果を発揮した。

ひなづる(旅客輸送機)
1936(昭和11年)
英国エアスピード社製エンボイ機のライセンス生産で11機製造した。骨組みは木製で胴体は合板、翼は布張りで、乗員1名、乗客6名。後にこの旅客輸送機「ひなづる」は日本海軍が徴発し「エンボイ」と呼称を変え輸送機として使用した。

陸上攻撃機一式一一型(海軍)
1940(昭和15年)
従来の攻撃機と同等な空気抵抗で胴体径を増すことに成功した、それにより爆弾、魚雷を機内内部に収納でき、高速飛行と俊敏な機動力で敵機をかわすことができた、2400機を生産。

一式陸上攻撃機、ですね。

艦上戦闘機  零式五二型(海軍)
1939(昭和14年)
零戦の制作機数は日本機中最大の10,430機、当52型は主翼の折畳式を廃して短め、先端部を円形にしたこと更にエンジン排気はエンジンカバーの外周に沿って円形に分割したのが特徴、それにより空気整流と推進増加で最高時速が従来型より20km増強、急降下速度も米機に匹敵した。

艦上攻撃機九七式二号(海軍)
1936(昭和11年)
当機二号は、三菱重工製、一号、三号は中島飛行機がそれぞれ開発、製造を担当した。
二号は固定脚のため振動が少ないという利点があった、乗員3名で魚雷を1基搭載している。

零戦52型と、97艦攻2型

艦上戦闘機 九六式二号二型(海軍)
1937(昭和12年)
空中戦を重視し軽量、高速、運動性能を追求した設計、3回の改良を重ね当機は特に視認性を上げるために風防を開閉式にした。高速性、運動性能には主翼を熱くして主翼後方に設けたスプリットフラップ(下げ翼)を設けた。外国機の模倣から脱却した機であり、後に零戦へと継承される。

重爆撃機 九七式二型(陸軍)
1937(昭和12年)
機体は三菱重工製だがエンジンは中島飛行機製で九三式の後継機である。武装・防弾を強化しているが、高速性も確保しており制空権争いに実力を発揮した。生産数は2千機を超えている。

襲撃機 九十九式(陸軍)
1939(昭和14年)
襲撃機とは、爆撃機と異なり高度100m程度の超低空飛行で森陰から敵地を急襲するのに適したもの、そのため本模型は迷彩柄で武装している。戦闘機ほどの俊敏性はないが偵察機としての任務も可能。

司令部偵察機一〇〇式三型(陸軍)
1939(昭和14年)
高度6000mで最大時速630kmは「零戦」より早く敵機も振り切る速度である、機首からキャノピー(操縦席の風防)までを一体型にした流線型と1500馬力の双発エンジンで高度高速の偵察を可能にした。

陸上攻撃機 九十六式二一型(海軍)
1935(昭和10年)
主脚引込式や頭のないリベット(沈頭鋲)で空気抵抗を低減、可変ピッチプロペラで速度に応じた羽の角度を調整して燃費向上、など長距離攻撃機としての技術力を駆使している。
また、派生機として「ニッポン号」がある。(別途模型展示しています)

ニッポン号(輸送機)
1939(昭和14年)
海軍の九六式二一型攻撃機(別途模型展示しています)を長距離輸送機に改造した双発機。海外親善を目的とした改造機で兵器を取り外し大容量の燃料タンクを増設、割ピン1本、ナット1個も交換することなく世界一周を成功させた純国産機。

MC-20(旅客輸送機)
1939(昭和14年)
軍用輸送機の民間転用機で三菱重工が開発・製造、大日本航空のほか満州航空、中華航空でも運行、国内企業の社有機としても使用され、軍用機と合わせ500機以上生産された。乗員4名、乗客11名。

局地戦闘機【雷電】(海軍)
1942(昭和17年)
上昇力と速度向上のため大馬力エンジンを搭載、そのため機首から胴体中央まで大型化され空力特性に苦労したが中高速では零戦よりも横転性能が向上した、数多くの改良がなされたが総生産は600機程度であった。

重爆撃機【飛龍】(陸軍)
1942(昭和17年)
航続距離3800kmは当時日本軍機でトップクラス、高度6000から600km/hで急降下し超低空飛行も可能。機首と2つのキャノピー(風防)は防弾ガラスで急降下爆撃に威力を発揮した、また陸軍でありながら雷撃(魚雷発射)可能は珍しい。

キ‐83 遠距離戦闘機 試作(陸軍)
1944(昭和19年)
敵地奥まで進行できるよう遠距離戦闘機の開発となった、単発から双発エンジン、単座から複座(操縦席と後部座席の二座)仕様、最大速度650km/hだが、のちに米軍が接収し米軍仕様のハイオクタン価燃料で762km/hを記録した。これは米軍機の記録759Km/hを上回るものであった。

艦上戦闘機十七試【烈風】(海軍)
1944(昭和19年)
第二次世界大戦において戦闘機は日々敵国との開発競争に追われ抜きつ抜かれつの連続であった。三菱重工が開発した「零戦」も破竹の勢いで脅威を与えたが、やがてヘルキャット、コルセアの登場で劣勢になっていく、そこで三菱は次機種となる「雷電」の開発に着手、並びに「零戦」の改修型開発で多忙を極め後継機種の開発に大幅な遅れを取った、やがて「烈風」が誕生したが、量産前に終戦となったため試作機で終える事となった。

局地戦闘機【試作秋水】(陸海軍共同試作機)
1945(昭和20年)
陸軍、海軍、民間(三菱重工)共同開発の初のロケットエンジン試作機、B29の高度1万メートルに対抗するためドイツのメッサーシュミットを基に開発され試作機を7機まで製造したが、戦況の悪化で中断となった。尾翼無し、主翼のみが特徴的。

重爆撃機 九三式二型(陸軍)
1933(昭和8年)
陸軍からの要請を受け開発、全金属双発の重爆撃機は国内初であった、当初はロールスロイス社のエンジンで試作機を製作、後に三菱重工製エンジンを搭載した。機首と後方に旋回銃座が取り付けられており乗員は4名。

ここからは、戦後かな。

シコルスキーHSS-2Bヘリコプター
1964(昭和39年)

三菱重工にてノックダウン生産。エンジンも三菱重工製。

シコルスキーS-55Cヘリコプター
1953(昭和28年)

三菱が国内でノックダウン生産。

YS-11A ターボプロップ輸送機
1962(昭和37年)

三菱重工は最終組立を担当した。

MU-300(ダイヤモンド-1】ビジネスジェット機
1978(昭和53年)

三菱アメリカ・インダストリー社と共同開発。

ジェット戦闘機F-104 (航空自衛隊)
米国ロッキード社(1954年)

1962年(昭和37年)から三菱重工がライセンス生産。
F104Jは230機製造。スリムな機体形状から三菱鉛筆といわれたが、三菱グループとは無縁の会社。

ジェット戦闘機F-86F(航空自衛隊)
米国 ノースアメリカン社(1947年)

1956年(昭和31年)から300機をライセンス生産。
初代ブルーインパルスとしても活躍。1964年の東京オリンピック開会式で5色の五輪を描いた。

高等練習機T-2(航空自衛隊)
1971(昭和46年)

国産航空機として初の超音速機(マッハ1.6)
2代目ブルーインパルスとしても活躍。

ジェット戦闘機F-4E(航空自衛隊)
米国 マクダネル・エアクラフト社(1958年)

1968年(昭和43年)にF-$EJを三菱重工がライセンス生産。

三菱の艦船。

上:浅間丸 貨客船 1929(昭和4年)長崎造船所
下:鎌倉丸 貨客船 1930(昭和5年)横浜造船所
姉妹船にあたるが、搭載エンジンの違いから煙突の本数が異なっている。
両船とも日本郵船所有。

あるぜんちな丸 貨客船 1939(昭和14年) 長崎造船所
※のちに空母「海鷹」に改装。

戦艦「武蔵」

武蔵 戦艦 
1942(昭和17年)長崎造船所
全長263m 乗組員:3,300名
1937(昭和12年)海軍より三菱重工が正式発注を受けた長崎造船所として5隻目の大型戦艦、前年に大和が就役しており同級の姉妹艦だが、大和の弱点を改善し副砲塔周辺の防御力を強化した。巨大船でありながら船台建造であった(大和はドック建造)
3つのギネス世界記録に認定されている。
①世界最大の戦艦(総トン数)
②最大の艦砲を搭載した軍艦
③世界一被弾火薬量の多い軍艦

隼鷹 航空母艦
1942(昭和17年)長崎造船所
全長219.32m 乗組員:1187名
飛行甲板にエレベーター2基、零戦ほか53機搭載可能、40口径連装高角砲6基、蒸気タービン4基、推進スクリュー2軸、日本最大の豪華客船の建造中に空母に改造された。そのため母港は呉である。
太平洋戦争で生き延びたが商船への復帰は無く、1947(昭和22年)に佐世保で解体された。

伊19 一等潜水艦
1941(昭和16年)神戸造船所
第日本帝国海軍の一等潜水艦は伊(い)号、二等を呂(ろ)、続いて波(は)号、ホランド級と分類されている。
本艦は伊号の19番艦で、潜航深度100m、魚雷発射管6門、小型水上偵察機1機、ディーゼルエンジン2基を搭載。偵察機は主翼を後方に折り畳み、艦橋前方の格納筒に収納、飛行時は海上に浮上し、格納筒から引き出して主翼を広げた後、カタパルトで押し出す。
数々の太平洋線で活躍したが、1943(昭和18年)爆雷により撃沈された。

あまつかぜ 対空ミサイル護衛艦
1965(昭和40年)長崎造船所

蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車など。
三菱は機関車にも関わり合ったんですね。

なかなか見応えのあるのある展示館。もっともほぼ模型コーナーに釘付けだったけど、三菱目線でみてみるのも面白いかな。

※撮影:2023年12月


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