「勿来の風船爆弾打ち上げ基地」跡地散策(福島県いわき市)

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東京と仙台の中間地点にある「勿来」。
古来、この地には「勿来の関」が設置され、白河の関と並んで、関東と東北の境目であった。
太平洋戦争中、ちょうど「勿来の関」を挟んで南北に、「風船爆弾」の放球基地が設置された。
北は勿来で、南は大津港。
南の「大津港の放球基地跡」は、以前に取り上げていました。

平成29年8月撮影 茨城県北茨城市に点在する「震洋基地跡」と「風船爆弾放球台跡」。あわせて平潟港と大津港の鎮守様も。 平成2...

一宮の放球基地跡は以下で。

風船爆弾の打ち上げ基地。打ち上げ基地は、3ヵ所あり、以前に、「大津」と「勿来」は取り上げておりました。 ・風船爆弾大津基地 ...

今回は、北側の「勿来の放球基地跡」を散策してみます。


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風船爆弾(ふ号)

太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した爆撃兵器。
日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図。
「風船爆弾」は、戦後の名称。当時の呼称は「気球爆弾」であり、防諜符号として「ふ号」「風船」などと呼称されていた。

千葉の気球聯隊が母体となり、ふ号差苦戦気球聯隊が編成され、連隊本部と第1大隊が茨城県大津、第2大隊が千葉一宮、第3大隊が福島勿来であった。
発射基地(放球基地)も、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の各海岸に設けられ、昭和19年11月から昭和20年3月までのあいだに、約9300発が放球されたという。
9300発のうち、アメリカ本土到達が300発前後。
1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

実戦に用いられた兵器として、約7,700 km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃。
また、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器であった。

風船爆弾は、登戸研究所第一科で開発されたものであった。
明治大学生田キャンパス内の「明治大学平和教育登戸研究所資料館」には、風船爆弾の復元展示や気球紙の作り方の説明などもある。

令和元年9月散策 神奈川県川崎市多摩区生田の丘の上に。現在の明治大学生田キャンパスはかつて大日本帝国陸軍の研究所であった。 ...

こちらは、江戸東京博物館に展示の風船爆弾復元模型。
気球部分を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して復元。

風船爆弾(復元模型)
縮尺:気球部:約約1/5、ゴンドラ部分:約1/2
 風船爆弾は、日本軍がアメリカ本土の攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で貼りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器である。陸軍によって秘密裡に開発されたこの兵器は、軍の施設のほかに、日本劇場や東京宝塚劇場、国技館といった大きな空間を持つ施設で製造された。製造にあたっては、学徒勤労動員によって集められた女学校の生徒たちが多数従事した。完成した風船爆弾は、太平洋沿岸の千葉県の一宮や茨城県の大津、福島県の勿来にあった各打ち上げ基地より、1944年(昭和19)11月から翌年4月にかけて9,000個あまりが打ち上げられた。そのうち300個弱がアメリカ大陸に到達し、オレゴン州では6人が犠牲になったという。
 この模型は、実物を保管しているアメリカ・ワシントンの国立航空宇宙博物館が作成した報告書などをもとに、気球部を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して制作した。
※江戸東京博物館展示資料より


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M205-A-7-143
昭和21年(1946年)7月24日、米軍撮影の航空写真。

拡大。

案内開設看板の地図を反転して比較。


「風船爆弾勿来基地」の跡地散策

JR勿来駅から風船爆弾の放球基地=勿来基地があった場所を眺める。
左側の山に「放球監視所」があり、放球基地は三方を山に囲まれた谷戸にあった。

常磐線。


風船爆弾勿来基地引込線の橋台跡

小さな小川をまたぐために、橋が設けられていた。引込線の橋台だけが、残っている。線路は複線だったのだろうか。2対の橋台がある。

駅側の内陸の橋台。

駅側の海寄りの橋台。

勿来基地側の内陸の橋台

勿来基地側の海寄りの橋台。

物理的には、この2対の引込線の橋台が、風船爆弾勿来基地を物語る唯一の戦跡かもしれない。

場所


勿来基地の引き込み線跡

山裾を引込線が曳かれていたと思われるが、特に何も残っていない。


風船爆弾勿来基地跡

風船爆弾基地図として、勿来基地跡図と、風船爆弾全体図の案内板が立っている。

隣にある石碑は、勿来基地とは関係ない歌碑であった。
山口茂吉の歌碑。斎藤茂吉の弟子。山口茂吉の妻である恭代子が少女時代にいわき植田で過ごしていた縁からの歌碑。

何度見渡しても、この看板以外に、風船爆弾を物語るものはありません。

風船爆弾勿来基地の衛兵所跡

さきに進んで見る。
右側に衛兵所があった。

風船爆弾勿来基地の本部跡

本部跡があったと思われる空間。なにもない。

ソーラーパネルがある。

風船爆弾勿来基地の兵舎跡

兵舎跡があったと思われる場所も何もない。

トンネルとかバイパスとか新しい道路が建築中。
これでますます風船爆弾勿来基地を物語る雰囲気は消失していくのかな。。。

風船爆弾勿来基地の放球台跡

放球台があったと思われる場所。

ソーラパネル、、、

風船爆弾勿来基地の引込線ホーム跡

道路の右手に線路があった、はず。

薮しかない、、、

道路を先に進めば、勿来の関。

風船爆弾勿来基地の火薬庫跡

道路の左側の高台に火薬庫があった、らしい。

うーん、なにもないですね。
この先の勿来関に行く時間的な余裕はないので、とぼとぼと勿来駅まで戻ります。。。


勿来駅

東北の駅百選

源義家さん

風船爆弾の跡地を散策するのであれば、勿来は引込線の橋台が物理的な見どころ。放球台は、南の大津基地に残っているので、勿来関の南側がおすすめ。


勿来基地は、ほぼなにもないということを確認した感じです。

※撮影:2022年8月

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