「陸軍」カテゴリーアーカイブ

西部軍司令部防空作戦室残壁(福岡博多の戦跡散策2)

福岡城阯の東端に、西部軍司令部があった。
そこにコンクリート壁が残っているというので足を運んでみた。

その1はこちら。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R236-No2-30
1948年4月7日、米軍撮影の航空写真を加工。

北西が、大濠公園や舞鶴公園、福岡城址など。

福岡城址、拡大。

部軍司令部防空作戦室は中央。南側に、コンクリート壁が設けられた


西部軍司令部防空作戦室残壁

西部軍司令部があった福岡城三の丸跡。
戦後、米軍の接収を経て、福岡高等裁判所や地方裁判所の庁舎が置かれ、2023年10月に舞鶴公園の駐車場として整備された。

西部軍司令部防空作戦室残壁
1940年12月、防空を担う西部軍司令部が小倉市から福岡市に移転された。
1942年頃、地下1階、地上2階のコンクリート造の防空作戦室が完成しました。この作戦室には「情報表示版」「情報表示燈」が設置され、これらの通信機と通信隊員・参謀・司令官を爆撃から保護するため、壁の二重構造などの特殊な設計が施されていました。
このコンクリート壁はその壁の一部です。

なかなかに圧巻なコンクリート壁。

場所

https://maps.app.goo.gl/cU3qrBtsZhTyLKAj6

撮影:2024年11月

その3はこちら


関連

そういえば、広島城にも防空作戦室(中国軍管区司令部)がありました。

白金火薬庫跡地「国立科学博物館付属自然教育園」散策(港区)

国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」であったと聞き、何もないとは思うけれども足を運んでみました。

ちなみに、白金火薬庫は、大正期には、白金御料地になりまして。


位置関係

「今昔マップ on the web」より。

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.638639&lng=139.714004&zoom=16&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

山手線の東側に「白金火薬庫」(旧白金御用地)、そして西側には「火薬製造所」があり、両地を軽便鉄道が結んでいることがわかる。


国立科学博物館付属自然教育園

「国立科学博物館付属自然教育園」の地は、古代においては「旧白金御料地遺跡」として埋蔵文化財包蔵地であり、中世においては「白金長者屋敷」として中世城館遺跡であり、近世においては、「高松藩主松平家下屋敷」であった。
明治時代に、「陸海軍の火薬庫」となり、大正時代に宮内省「白金御料地」となり、戦後に文部省「旧白金御用地」、そして「国立科学博物館附属自然教育園」となった。


白金火薬庫

国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書
【資料編】
史跡にかかる個別調査報告

https://ins.kahaku.go.jp/research/download/ins_tobichi03.pdf

資料をもとに、白金火薬庫について、以下にまとめておきたい。

「白金火薬庫」
「高松藩主松平家下屋敷」は、明治4年(1871)新政府の所有となり、松平下屋敷跡地に「海軍火薬庫(海軍白金火薬庫)」が置かれたことにはじまる。

徳川幕府が設立した「目黒砲薬製造所」は、明治元年十月に軍務官の所管となり、「目黒火薬庫」として使用。
明治5年2月に海軍省の兵部省より独立分置されるが、「目黒火薬庫」は陸軍省に所属。松平讃岐守下屋敷に海軍の「白金火薬庫」が設置された。明治12年10月24日、海軍は「目黒火薬庫」を廃止して「白銀火薬庫」に合併。「目黒火薬庫」跡地に「火薬製造所」を新設。
明治26年(1893)まで、「白金火薬庫」は海軍の所管であったが、同年4月に陸軍省に移管。「目黒火薬製造所」も海軍省から陸軍の東京砲兵工廠に移管となり、「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」となった。
陸軍の「白金火薬庫」は大正2年(1913)に廃止。
陸軍の「目黒火薬製造所」も昭和3年(1928)に群馬県岩鼻に移転している。

「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」
現在の防衛省の目黒地区は、明治11年に海軍の火薬製造所として建設が進められて明治18年に完成したのち、明治26年に陸軍へ引き継がれて砲兵工廠所轄の目黒火薬製造所となった。
その後、大正12年に発生した関東大震災の影響で、設備は他へ移転して目黒火薬製造所は廃止されることとなり、替わって海軍技術研究所が築地から移転した。

「火薬運搬軌道」
明治34年(1901)、目黒火薬製造所と白金火薬庫の間に、火薬や物資運搬用の軽便軌道が敷かれた。
現在も、目黒区立茶屋坂児童公園から目黒三田通りに向かう道には、「陸軍」と記した石柱が残っており、軍用軌道の跡とわかる。
軍用軽便軌道は、明治44年(1911)、白金火薬庫の管理換えにより廃止撤去となった。


国立科学博物館付属自然教育園の散策

国立科学博物館附属自然教育園
歴史と自然
 自然教育園は、室町時代に白金長者と呼ばれる豪族が館を構えていたといわれています。江戸時代は高松藩主松平讃岐守の下屋敷、明治時代は海軍省・陸軍省の火薬庫、大正時代は白金御料地と移り変わり、昭和24年に国の「天然記念物及び史跡」に指定されるとともに、国立自然教育園として一般に公開されるようになりました。
(以下略)

自然教育園のおいたち
古代   縄文中期、この地に人が住みつく
室町時代 豪族 白金長者が館を構えていたといわれる
江戸時代 高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷
明治時代 海軍省・陸軍省の火薬庫
大正時代 宮内省の白金御料地
昭和24年
1949年  国の天然記念物及び史跡に指定
     国立自然教育園として一般に公開
昭和37年
1962年  国立科学博物館附属自然教育園となる

自然教育園の地図。散策してみましょう。

一番、北の赤丸で囲んだところがポイント。

火薬庫跡のレンガ片
現在、建屋の痕跡は残っておらず、レンガ片(煉瓦片)は。火薬庫時代の名残という。

中世の痕跡もある。

土塁。

土塁は、火薬庫時代にも造成されていると思われる。

前述の資料(国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書【資料編】 史跡にかかる個別調査報告)によると、敷地内の南西に境界を示す「陸軍用地の標柱」があるいうが、立ち入り禁止エリア。

前述の資料の引用に留める。

白金火薬庫の名残を探して、レンガ片でもって往時を感じる。
ちょっとした断片的なものであれど、このちょっとした痕跡があるだけでもだいぶ、趣きが出てきて、散策のやりがいがあるものとなる。

※2024年9月撮影


関連

陸軍清洲飛行場(甚目寺飛行場)跡地散策(愛知)

愛知県に出張の折、時間ができたので、名古屋から足を伸ばして、名鉄大里駅に。ここから、清須飛行場跡地を目指してみる。



位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97L24-C1-7
1945年4月22日、帝国陸軍撮影の航空写真を加工。

清須飛行場部分を拡大

現在の様子。戦後の農地開拓のまま、かつての清須飛行場の用地が残っている。


清須飛行場(甚目寺飛行場)

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月、海部郡甚目寺町と西春日井郡清洲町にまたがる約200ヘクタールの農地に建設された。正式名称は清洲飛行場だが、飛行場の大部分が甚目寺町にあったため、地元では甚目寺飛行場と呼ばれていた。
終戦時には、飛行第5戦隊が所在し、中京地区の防衛任務にあたりつつ、来たるべき本土決戦に向けて戦力を温存していた。


清須飛行場の建屋

清須飛行場にあった建屋を戦後に移築して倉庫に転用したという。

https://www.asahi.com/articles/ASNDV7RSVND4OIPE02F.html

記事より、転載

 横井さんら地元住民によると、終戦直後から1947(昭和22)年ごろにかけて、飛行場に放置されていた建物群や備品は次々と持ち去られた。横井さんの父親は飛行場跡を開拓して田畑に戻す組合の役員を務めていたといい、「使える物は何でも使う時代だったから住民が引き取ったようだ。集落総出で大八車に積んでここまで運び、組み立てたと聞いた」。
 横井さんも自宅に軍用機の燃料タンクと座席を保管している。飛行場の建設時には勤労奉仕で土運びに駆り出された経験を持つ。
 倉庫は後に、板張りの壁をトタンに変えたり、屋根をスレートにふき替えたりしたが、柱などの部材は当時のままという。昭和30年代にはボヤ騒ぎにも見舞われたが、令和に至るまで残った。宮崎亮一さん(81)は「しっかりした建物だったので補修で済んで、壊さずに使い続けることができた」と振り返る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3swzrukcTCfKqiN5A

バス停は「増田(ました)」

増田長盛の出生の地、という。
ましたながもり

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA


清須飛行場跡地

広がる農地は、戦後の開拓。この広大な農地がそのまま清須飛行場の跡地となる。


清須飛行場の作戦室跡

宅地の奥に、作戦室跡が残っていた。
頑丈なコンクリート建屋は、これを撤去するのも大変な労力を割くことが容易に想像され、それが撤去を諦めて残ったとも言えそうだ。

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA

飛行場エリア=農地開拓エリアの外周となり、周辺は宅地造営が進むも、作戦室跡地だけは取り残されている模様。

南に進む。

高架道路は、名古屋第二環状自動車道。
清須飛行場跡を北東から南西にかけて斜めに横断している。


元飛行場開拓記念碑

あま市甚目寺公民館の敷地内に開拓記念碑がある。
清須飛行場の南端近く。

元飛行場
開拓記念碑

元飛行場開拓記念碑文
太平洋戦争の砌(みぎり)国土防衛のため建設された飛行場が終戦と共に廃棄された。
元来この地は農民の至宝で五穀豊壌の沃野であった。
戦後国力は極度に疲弊し農家と雖も食料に事欠く時であったから関係町村民は挙ってこの地に開拓の意欲を燃やし主食の甘薯馬鈴薯の作付けをしたが大半は雑草の茂る荒蕪地として放置されてあった。
時の甚目寺町長・近藤寿治氏は大いに之を憂い昔日の美田に復帰せむと払下げの請願書を関係官庁に提出しあらゆる困難を押して運動された結果、昭和二十三年十月十八日遂に氏の至誠が認められ入植の許可が下付された。
宿願のかなった農民は一致団結して工事に勉励した。
理事長・山田善吉氏の人格と手腕は衆望を集めて事業の推進に精励せられた。
又、関係農民のたゆまざる努力により灌漑排水共に整備せる理想の開拓地が十有余年の星霜を経て完成し、黄金波打つ豊穣の沃野が限りなく展開されて穀倉地帯の名にふさわしい美田が復興した。
今回清浄の地を選んで開拓記念碑の建設されることは山田善吉氏を始め尽力された人々の頌徳碑でもある。
茲に功労者各位の氏名を列記して永久にその功績を讃えます。
 里人が こころ合わせて 拓きたる
    飛行場の跡  白鷺群れる

場所:

https://maps.app.goo.gl/xAj1YJR68yNThp4BA

あま市甚目寺公民館

※撮影:2024年6月


関連

愛知縣護國神社

「鉄道聯隊材料廠・内部公開」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。
千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物の内部公開があったので、足を運んできた次第。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」

https://www.cku.ac.jp/news_all/11789

https://www.cku.ac.jp/news_all/12889

千葉経済大学総合図書館では、前期企画展示として「学び舎に残る歴史 ~煉瓦棟と千葉の戦跡~」を5月27日から開催しています。展示期間は当初8月23日までの予定でしたが、好評につき展示ブースを拡大し、10月31日(木)まで期間を延長いたします。
 本学の敷地内に残る「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)」は、千葉県内でも珍しい明治に創建された大規模煉瓦建築物で、千葉県有形文化財に指定されています。今回の企画展示では、その「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築」を中心に、本学周辺に残る旧軍施設の成り立ちや現状、および地域史に欠くことのできない背景についても紹介しています。

通常は非公開。2024年の企画展で特別に内部も公開された。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。工場、倉庫。 


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)内部公開

通常は非公開。今回の企画展に伴い特別にスタッフ立ち会いのもとで内部公開も実施された。ヘルメット着用必須。

1908年(明治41年)8月に、陸軍鐵道第一聯隊の材料廠として鉄道軌道の材料や蓄積の管理、列車の組立や修理を行うことを目的に建設。
主要構造部分は、東西54.4m、南北12.7mの東西に長い長方形。(南北にそれぞれ2.7m幅の下屋を含む)主屋の東西:煉瓦造、下屋・小屋組:木造、屋根:トタン葺き、木造部分の外壁:トタン張り
内部は煉瓦造の連続した10連の弧形アーチが5.4m間隔で並んでいる。

煉瓦の積み方は、オランダ積み。交差イギリス積みとも。

建設当時から使用されているクレーン。

クレーン用にもレールが曳かれている。

棟内にあった資料。
限られた時間で、詳細を目通しするのはムリでした、、、

昭和63年の煉瓦試験結果報告書

煉瓦建築に関する調査報告書
平成元年


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)軌道跡

南側の外には2種類の幅の違うレール600mm(鉄道聯隊演習路線)・1067mm(軍用鉄道・国鉄など)が一部残っており、当時の出入り口に続いている

ふたつのレール幅が確認できる。


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)外観

ところどころ、崩れかかっている箇所が気になる。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」
展示コーナー(図書室)

配布資料

ペーパークラフトにて煉瓦棟を模型再現

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築 模型
千葉経済大学模型部作成 1/150サイズ

航空写真

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
概要や歴史、工事年表など

鉄道聯隊について(1)

小湊鐵道に残る鉄道聯隊の痕跡
鉄道聯隊で使用されていた蒸気機関車(B104)や」鉄道聯隊のマークが刻まれたレール、97式貨車の写真など。

枕木
旧千葉県営鉄道多古線の路線跡から出土した金属製の軽便鉄道枕木
千葉経済大学敷地内にかつてあった千葉レールセンターで使用されていたと推測される木製枕木

鉄道聯隊について(2)

千葉県営鉄道

近隣(習志野・佐倉・四街道)の軍施設

大学周辺(千葉市内)の軍施設

※撮影:2024年10月


関連

旧陸軍第四師団司令部庁舎と大阪城の戦跡散策

大阪城周辺を訪れる機会があったので、前回記事の不足分などを補填的に掲載をしてみる。
仕事終わりの夕方の18時頃に。


大阪城周辺の戦跡

下記も参照に。
本記事は、下記に掲載しきれていない内容を中心としております。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。


第四師団司令部庁舎

「旧・大阪市立博物館」は、かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。
大阪城天守閣の復興のために集められた寄付金約150万円の内、約80万円を投じて1931年(昭和6年)に本丸に新築された。
外観は左右対称のロマネスク様式を採用。
1940年(昭和15年)に、中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入り、第四師団司令部は二ノ丸に移転。
1945年(昭和20年)に、中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」を使用。
終戦とともに、GHQに接収。
1948年にGHQ接収解除、その後は大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として使用され、1958年からは、大阪市の管理下におかれる。
1960年からは、大阪市立博物館として使用され、市立博物館としては2001年に閉館。
2001年から、2016年までは特に何にも利用されずに保全され、2017年に複合施設「ミライザ大阪城」として再開業。

この建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年(1931年)市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。

外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。

戦後は、大阪市警視庁として、またそのあとは大阪府警察本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
その後、耐震補強工事などのリノベーションが施され、平成29年(2017年)10月、装いも新たに複合施設「ミライザ大阪城」としてよみがえりました。


明治天皇駐蹕之所

大阪市青年聯合團によって建てられた石碑。
大正14年(1925年)5月10日建立。


明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡

あぁぁ、見逃したあ、、、
司令部庁舎前の向かって左側の植え込み、、、


山里丸石垣の機銃掃射痕

山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった、山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

機銃掃射痕が、斜めに刻まれていた。


天守大石垣の爆撃被害跡

天守大石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)陸軍の関連施設が集中していた大阪城は終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

石垣が「ずれ」ているのがよくわかる。
爆撃の衝撃の大きさが、如実に伝わってくる。

※撮影:2024年5月


宇都宮市慰霊塔と宇都宮空襲(軍都宇都宮の戦跡散策6)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本編は「その6」です。「その5」はこちらから。


宇都宮市慰霊塔(北山霊園)

北山霊園行きのバスが、宇都宮駅から1時間に1本程度走っている。急に思い立って行こうと思ってもなんとかなる感じではある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tochigi_utsunomiya_city001/index.html

宇都宮市慰霊塔は、北山霊園の奥まった高台に鎮座していた。

以前の写真よりもきれいになっているので、近年の再整備と思われれる。

合掌

昭和四十五年九月
宇都宮市慰霊塔建設委員会
  委員長
  宇都宮市長 小池嘉子

明治以来國運は時に隆替したが遂に今日の繁栄を見たのは先人達が義勇奉公國難に處した賜である
茲に郷土出身の戦歿者戦争引揚死者戦災死者並に公務殉職者の勲を讃えて感謝の誠を捧げ世界の平和と祖國の發展を祈念しこの聖地に慰霊の塔を建てその冥福を祈る


平和の塔(北山霊園)

鳩と地球の平和の塔

平和の塔
  宇都宮市長 小池嘉子

昭和47年4月の建立


陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑(北山霊園)

栃木県出身の陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑。

陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑
 元第十飛行師団長陸軍中将近藤兼利 書

 昭和9年に誕生した少年飛行兵は、同20年太平洋戦争終結までの間に、若干14、5歳の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、日本陸軍航空部隊の中核となり、遼友と靖國の宮での再開を誓い合って、数々の武勲をたて、大空に華と散っていった。
 今は還らぬ友を偲び、英魂を慰め、その偉業を幾世に伝えると共に、永遠の平和を祈念して、生存者一同相はかり、ここに慰霊の碑を建立する。
 昭和49年9月23日
   少年飛行兵栃木県出身 生存者 関係者 一同 建立

皇太后陛下(香淳皇后)御歌
やすらかに
ねむれとぞ思ふ
 君のため
いのちささげ
志ますらをの
 とも


北山霊園

北山霊園は昭和39年開設。

東北新幹線を見下ろす高台

場所

https://maps.app.goo.gl/bHXmJQFgST9wj6uu6

※撮影:2024年8月


宇都宮空襲

軍都であった宇都宮は、軍需工場(中島飛行機)のあった太田市や大泉町ともども、たびたび空襲を受けた。
昭和20年(1945年)7月10日、7月12日、7月28日、7月30日、8月13日が主な空襲とされ、中でも7月12日の空襲ではB-29が133機到来し、市街地中心部を爆撃され600余名が死亡し特に「宇都宮大空襲」と称されている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_26.html

また、7月28日は宇都宮と同時に小金井も急襲されている。(小金井空襲)


枝病院門柱戦災記念碑(空襲を語り継ぐ門柱)

宇都宮市街地に。東武宇都宮駅のほど近く。

空襲を語り継ぐ門柱
 1945年(昭和20年)7月12日、宇都宮大空襲によって当時の市街地の大半が焦土と化し、この地にあった枝病院も焼け落ちてしまいました。
 このみかげ石の門柱は、枝病院院長・枝 全(たもつ)さん宅の玄関を支えていたもので「戦争の悲惨さを忘れまい」との枝さんの重いが込められ、現在まで大切に残されてきました。
 2000年4月1日
  うつのみや平和祈念館をつくる会

場所

https://maps.app.goo.gl/bywMzVXTPU25AJZUA

※撮影:2023年5月


旭町の大いちょう

昭和20年7月12日の宇都宮大空襲で被災し黒焦げとなり枯死するかと思われたが、復活を果たした「宇都宮の復興のシンボル」

樹齢は400年以上とされ、宇都宮城三の丸跡に位置する。
宇都宮城があったころからの現存物であり、宇都宮を取り巻く2つの戦争(戊辰戦争・大東亜戦争)を生き延びた貴重な存在でもある。

宇都宮市指定天然記念物
大いちょう
 昭和32年10月4日指定
推定樹齢 400年
樹高   33メートル
枝張東西 10メートル
  南北 13メートル
目通周囲 6.4メートル
大いちょうは、宇都宮城の三の丸と百間堀の堺の土塁の上にあり、宇都宮城ゆかりの名木である。今では、宇都宮市民のシンボルとして、多くの人々に愛されている。
 宇都宮市教育委員会
  (平成元年3月建)

宇都宮空襲と大いちょう
 宇都宮市は、一九四五(昭和二十)年の七月十二日深夜から翌日未明にかけての空襲で、中心市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者をだしました。大いちょうも、この空襲により、真っ黒に焼けるほどの被害を受けましたが、翌年には、新芽を吹き見事に再生しました。空襲にも負けなかった大いちょうの強さは、戦後、焼け跡に残された宇都宮市民を勇気づけました。
 そのことにより、大いちょうは、宇都宮の戦後復興のシンボルとなり市民に親しまれています。その後、市制九十周年を向かえた一九八六(昭和六十一)年に、「いちょう」は、市の木に制定されています。

場所

https://maps.app.goo.gl/AHNJ8XCT22Vm3XFL8

※撮影:2023年5月


カトリック松が峰教会

大谷石建築としては現存最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築。
1932年(昭和7年)11月20日に聖堂が竣工している。
昭和20年の宇都宮空襲において、屋根と礼拝堂が被災し焼失してしまったが、戦後すぐに復元を果たした。

宇都宮空襲を生き延びた建造物

場所

https://maps.app.goo.gl/6iLiBgSj2KUz9TwFA

※撮影:2023年5月


宇都宮ライトレール

せっかく雷都・宇都宮にいるのだから、噂のライトレールに乗車。


宇都宮餃子と陸軍第14師団

宇都宮餃子は、陸軍第14師団が、1940年(昭和15年)8月以降、衛戍地を満州としたことから宇都宮出身の将兵が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれている。

まあ、せっかく、宇都宮にいるのだから、餃子を。
駅ナカんだけど、ここの餃子、特に水餃子が美味しい!でした。

別の餃子も

※撮影:2024年8月

いったん、宇都宮関連はひとまず〆。
また追記があれば、それはそれで。。。


宇都宮関連

栃木縣護國神社
はじめに

宇都宮偕行社と憲兵隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策5)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その5」にあたります。「その4」はこちら。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


宇都宮偕行社跡(桜美公園)

現在の桜美公園が宇都宮偕行社のあった場所。
偕行社は陸軍将校准士官ら会員同士の親睦・学術・英霊顕彰施設であり、師団所在に設置されていた。

石碑がある。偕行社時代の名残でもある。

御大典紀念植樹之碑
第14師団長山田忠三郎

大正4年11月10日

なにかの跡。これも偕行社時代の名残だろうか。

桜美公園

桜の古木。偕行社時代からと思われる桜。

偕行社時代からかわらない正面の道路。

場所

https://maps.app.goo.gl/tiBNgZt3GsNstovdA

なにやら大谷石の門柱があった。往時のものかどうかは不詳。

偕行社の入口にあたる。


第14師団長庁舎跡(宇都宮合同庁舎)

現在の宇都宮合同庁舎には、自衛隊栃木地方協力本部などが入っている。

軍用地境界標柱(境界標石・境界石)が、敷地の南側にあった。

陸軍省

軍用地境界標は、ほかにも北西側にもあるらしいが、見つけられず。
北西側はきれいになっていたので、消失したのでは、とも思いつつ。

場所

https://maps.app.goo.gl/bHqxDcRQLRxfUS1V8


宇都宮憲兵隊本部跡

師団長官舎の近くに、宇都宮憲兵隊本部があった。
ちょうど、駐車場として、区画が残っており、境界壁がよく分かる。

境界壁

門柱跡

軍用地境界標柱(境界標石・境界石)

削られているが、この雰囲気は、境界標

場所

https://maps.app.goo.gl/Ry7QWuNMjxDVP2SP6


宇都宮憲兵隊分隊跡

宇都宮憲兵隊本部から西に約1キロ。東武宇都宮駅の北側に、宇都宮憲兵隊分隊が展開されていた。宇都宮市街地の中心部。ここにも境界壁と境界標が残っている。

軍用地境界壁

用地

陸軍用地の陸軍が削られ、用地だけのこる境界標柱。

場所

https://maps.app.goo.gl/f9i6gKGWncsYefj86

※2024年8月撮影

「その6」へ


関連

宇都宮歩兵聯隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策4)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


見返り橋(水無橋)

かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zPXbBSDDFJEstx3F7

歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。

いったん北に向かいます。


宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)

歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。

宝木
開拓之碑

碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
 昭和46年3月12日
  宝木開拓農業協同組合

場所

https://maps.app.goo.gl/bM5vn2kj31xCRecQ6


宇都宮歩兵聯隊跡碑

わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。

碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。

至誠
宇都宮歩兵聯隊跡

記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った 
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた 
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した 
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
 昭和38年3月10日
  宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
  および 有志一同

場所

https://maps.app.goo.gl/RzEUFYdMboA2y72r7


宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)

宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/FSVb5ftYrrdAHxGF9

警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。

殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。

胸像は委細不明

栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。


宇都宮歩兵聯隊の倉庫

栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。

明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。

敷地外から遠望。

倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。

場所

https://maps.app.goo.gl/mX4UCfw1DMHRQxtW8

※撮影:2024年1月

「その5」へ


関連

栃木縣護國神社

宇都宮第14師団司令部と衛戍病院の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策3)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その3」にあたります。「その2」はこちら。

また、撮影時期は2024年8月と1月が混在となります。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


第14師団

師団司令部は宇都宮。
日露戦争で日本は従来の師団すべてを動員したため、本土駐留師団がなくなる事態となった。そこで第14師団を含む4個師団が創設された。

明治38年(1905)に福岡小倉で結成。
明治40年(1907)に第14師団の衛戍地が宇都宮となる。
宇都宮第14師団水戸歩兵第27旅団隷下として、佐倉(水戸)歩兵第2連隊と習志野歩兵第59連隊。
宇都宮第14師団宇都宮歩兵第28旅団隷下として、高崎15聯隊と新設された宇都宮第66歩兵聯隊。
明治41年(1908)には、師団司令部が宇都宮の新庁舎に移転し、歩兵第28旅団司令部、騎兵第18連隊、満洲野砲兵第20連隊、輜重兵第14連隊が宇都宮への移駐を完了。翌年に、歩兵第59連隊が宇都宮への移駐を完了。
大正8年(1919年)4月、第14師団はシベリア出兵のため派遣。
大正9年(1920年)5月、ニコラエフスクで守備を行っていた水戸歩兵第2連隊第3大隊と一般市民が過激派によって虐殺される事件、いわゆる「尼港事件」が発生。
大正14年、宇都宮歩兵第66連隊が廃止。松本歩兵第50連隊が第14師団歩兵第28旅団の隷下となる。歩兵第27旅団司令部が水戸から宇都宮へ、歩兵第28旅団司令部が宇都宮から高崎へ移動。

支那事変では、第14師団は華北戦線に投入される。
太平洋戦争が始まると、満洲駐剳師団から南方へ転用され、第14師団はパラオ諸島に展開。
第14師団は主力をパラオ本島に、歩兵第2連隊(およびその配下に編入された歩兵第15連隊第3大隊)をペリリュー島に、歩兵第59連隊第1大隊をアンガウル島に配備。
ペリリュー島・アンガウル島の部隊は全滅し、パラオ本島に残る師団主力は飢餓と空襲で多くの損害をだし終戦を迎えている。

群馬縣護國神社

第14師団司令部・宇都宮衛戍病院跡

現在の栃木医療センター。
南のエリアには、栃木県体育館があったが、2021年度末で持って閉鎖となり、解体中。跡地は栃木県の公共機関の再開発予定。

独立行政法人国立病院機構栃木医療センター

結構大きい。

以下、サイトより。

沿革
明治41年4月20日(1908年) 宇都宮陸軍衛戍病院として創設され、その後、分院の設置を経て、宇都宮第一陸軍病院と宇都宮第二陸軍病院となり、昭和20年12月1日の厚生省へ移管と同時に、宇都宮第一陸軍病院が国立栃木病院へ、宇都宮第二陸軍病院が国立宇都宮病院として、それぞれ発足した。昭和21年12月20日には、この両院が合併し、国立栃木病院となり、更に昭和25年4月1日、本院の隣接地にあった日本医療団宇都宮中央病院を併合した。その後平成13年1月6日、省庁再編成により厚生労働省所管となった。平成16年4月1日に独立行政法人化に伴い、独立行政法人国立病院機構栃木病院となり、平成25年4月1日に独立行政法人国立病院機構栃木医療センターに名称変更した。

https://tochigi.hosp.go.jp/information/outline_shisetsu.html

場所

https://maps.app.goo.gl/6rRsSd3KGppZy6DT7


陸軍第14師団の東営門の門柱(栃木医療センター)

病院の東側の道路にそって、門柱がありました。
一柱は倒れた状態。このまま放置されるのか、消失してしまうのか、ちょっと心配です。

コンクリのモルタルが剥がれて、レンガが露出しています。

内側から

一柱は倒れておりました。

うーむ、な状態。

場所

https://maps.app.goo.gl/cofMc8nPd3PfYu5q9


宇都宮衛戍病院の軍用地境界標

宇都宮陸軍衛戍病院の北西端に。
歩兵連隊との境界にも当たる場所。

右が、陸軍衛戍病院、左が歩兵第59聯隊。

場所

https://maps.app.goo.gl/CwEqDDvsUmitLexr5


陸軍第14師団の西営門の門柱(栃木医療センター)

西側にも門柱が残っています。
栃木医療センターの南西端に位置します。
現在、門柱としては機能していませんが、残す意図があると良いのですが。

場所

https://maps.app.goo.gl/nFmQF8N2JLnf61bz9

※撮影:2024年1月及び8月

「その4」へ


関連

栃木縣護國神社

八幡山地下司令部跡(軍都宇都宮の戦跡散策2)

2024年1月に宇都宮周辺を散策してみました。

本記事は、「その2」です。「その1」はこちら。


旧陸軍地下司令部跡

八幡山公園。宇都宮駅から徒歩で30分くらいの道のり。

そういえば、むかしむかし、2002年に、八幡山公園の南側に鎮座する「蒲生神社(蒲生君平は「寛政の三奇人」として高山彦九郎、林子平とともに名を連ねる人物。天皇陵の探査修復をした「山陵志」で知られている。)」に訪れていた。
その時の私は、全国の神社に夢中だった頃で、戦跡等は興味がなかった年頃(20代前半のころですね)でした。
約20年後に、全く違う目的で、同じような場所に訪れるというのが、奇縁でもあり。

そんなことを思いながら、八幡山まで歩く。

ありました。穴が。

宇都宮には、第14師団の司令部がありました。

旧陸軍地下司令部跡
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、陸軍は空襲と本土決戦に備え、この地に地下司令部を建設していました。6月中旬から約2ヶ月間で、総延長721mにおよぶ横穴を掘り上げました。完成前に終戦となり、実際に使用されることはありませんでした、戦争の悲惨さと平和の大切さを語り継ぐものとして、現在もその姿を留めています。

https://utsunomiya-8story.jp/search_post/%E6%97%A7%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8%E8%B7%A1/

地下壕は、機密保持のため宇都宮師管区の東部36・37・38・42部隊に属する隊員約250人が秘密裏に工事を進めた。
作業隊は11個小隊に分けられ、各々が1か所ずつ出入り口の建設を担当した。
司令部の壕は、「Aライン」から「Jライン」まで10本の壕で構成され、八幡山公園地下を南北に貫く最も長いAラインは364.6 mに及ぶ。他のラインはすべてAラインに接続しており、最も長いCラインが49.6 m、最も短いFラインは25.0 mという。

八幡山公園のアドベンチャーUや交通公園など、北東部に地下壕がある。

入口のつくり
 入口を頑丈にするために、支保工(柱や梁で壁や天井を支えるしくみ)が施されていました。
 壁のくぼみは柱の跡です。

ひょうたん池のむこうに開口部が見える。

入口は2箇所確認でできた。
もう一箇所は、少し南に、ちょっと高い場所に。
南北に連なる開口部の最南部。

一般公開ある時に、また期待ですね。(あるのかな?)


八幡山公園

宇都宮二荒山神社の鎮座する明神山の北に連なる八幡山。
1927年に宇都宮市立八幡山公園として開園。
戦時中は、現在のアドベンチャーUの場所(地下壕の地上部分)は対空高射砲陣地で、何基も設置されていたという。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-192
昭和22年(1947年)10月25日、米軍撮影の航空写真。

一部加工

主要拠点は下記となる。

  • 第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。


※2024年1月撮影

「その3」、へ続きます。


関連

陸軍富士飛行場跡地散策(富士市)

以前に、陸軍児玉飛行場のことを調べていたら、富士飛行場の話題が出てきて、そのときから気になっていた場所。
ようやく、足を運ぶチャンスが訪れましたので、散策してみました。


陸軍富士飛行場

「富士飛行場」
国道一号線の「道の駅富士」が、飛行場のほぼ中心に位置している。
戦争末期の1944年6月に工事着工。
1944年10月に「明野陸軍飛行学校天竜分教所富士分教場」が開設している。
明野陸軍飛行学校(三重)の下部組織として「天竜分教所」があり、さらに下部組織として「富士分教場」という位置づけ。
ややこしいのは、「飛行学校の富士文教場」とは別に、「陸軍重砲兵学校富士分教場(=陸上自衛隊駒門駐屯地)」というのもあって、それは御殿場なので、まったく別地域。


野中俊雄大佐

昭和20年7月18日に、児玉飛行場の第27飛行団長(第6航空軍隷下・司令官は菅原道大中将)に就任した野中俊雄大佐(士候36 陸大専科7)。
児玉飛行場の飛行団長としても終戦間際を描いた映画「日本のいちばん長い日」に出てくる。

野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に、第27飛行団の部下とともに入植開墾。そして開墾した地を「靖国」と名付けたという。
なお、野中俊雄は、1902年(明治35年)生まれ、1993年(平成5年)に92歳で亡くなっている。


靖国町

静岡県富士市五貫島。
住所としては呼称されていないが、この富士南地区の町内会に「靖国町」がある。

戦禍の果て
跡刻む靖国町 進む風化
幻の富士飛行場(下)
 富士市の富士南地区にあった富士飛行場は、1945(昭和20)年8月の終戦で1年足らずの役目を終えた。70年を経て、跡地には民家や事業所などが立ち並び、飛行場の面影はほとんど消え去った。ただ、地名としてその跡を刻む場所がある。
 現在の同市五貫島付近に位置する一つの町内を地元の人は「靖国町」と呼んでいる。この地は終戦後に入植した旧軍人が住み、名付けた。入植者の中心は、埼玉県の児玉飛行場を拠点としていた「第27飛行団」に所属していた人たちだった。飛行団長だった野中俊雄大佐=当時(42)、大分県出身=が、帰る場所のない部下らとこの地を訪れた。他からも軍人らが集まり、滑走路として使われていた土地で農業をしながら新たな生活を始める決意をした12世帯が「靖国町」の始まりだった。

静岡新聞 連載企画 「轍」 ~しずおか戦後70年~
https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No2-144
1946年05月22日に米軍が撮影した航空写真を参照。

富士飛行場部分を抜粋、すでに入植がおこなわれている。

現在の様子。国道1号線と東海道新幹線が横断している。
旧国道1号線は、だいぶ北側(東海道本線より北側)を通っていた。


陸軍富士飛行場跡地散策

戦跡としては何も残っていない。
国道1号の交差点名に「靖国」とある。これが戦後に入植した野中俊雄大佐たちの残した地名の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/bwpJhMZryeEti7D27

町内会として「靖国町」がある。

靖国公会堂

靖国地下道

地域に根づいた地名として。ここに確かに「靖国」が伝承されていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RbvSeLXN4mPCedBe6


開拓記念碑

富士南まちづくりセンター敷地内南西角に。

開拓記念碑
この辺りは、昭和19年(1944年)から陸軍富士飛行場用地として使用されていました。戦後、開
拓事業として元の土地提供者が中心となって入植し、10年余の歳月をかけ、その努力により元の緑の田畑に復旧しました。
 この碑は、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立。令和2年(2020年)、現在地に移設されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/shisei/c1401/rn2ola000002sc7b.html

富士南地区の歴史
 富士南地区は、『ききょうのさと』と呼ばれています。江戸時代、富士川の氾濫によって富士南地区一帯に築かれた堤防が「帰郷堤」と呼ばれたことから名付けられました。この堤防を造った勘定奉行土岐摂津守の家紋が「桔梗」だったこと、堤防ができてから人々が安心して故郷に帰ってきたことが「帰郷堤」の由来とされています。
 また、第二次大戦中、陸軍富士飛行場の建設により立ち退かされた住民が、戦後、再びその地に帰郷したことも、住民の「ききょう」という言葉への思いを強めています。
 戦後、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立した開拓記念碑が、現在は富士南まちづくりセンター駐車場に移設されています。
 現在の富士南地区にあたる区域は、昭和41年の2市1町の合併による新制「富士市」の誕生、昭和47年の「線引き」による市街化区域への区分などにより急速に宅地化が進み、昭和53年に開校した富士南小学校の校区と同一です。昭和56年の富士南公民館の開設に合わせ、富士駅南地区の一部及び田子浦地区の一部をもって組織されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/machi/c0605/rn2ola0000043ki1.html

開拓記念

富士飛行場跡地は、碁盤の目できれいに整備されている。
下記の写真は、南北に連なる道路。かつての滑走路も同様に南北に伸びていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RGfoozzpqZHBxMew8


道の駅「富士」

「道の駅富士」は、静岡県で最初に誕生した道の駅。
陸軍富士飛行場のちょうど真ん中あたりに位置している。

「桜えびひつまぶし」をいただきました。美味。
これは、桜えびシーズンになったら、がっつり食べに行きたいですね。

国道1号線
富士飛行場のあった方向を望む。

富士川の河口

富士山は雲がかかっていました。

ちなみに、富士川の対岸の新蒲原駅からシェアサイクルを活用。移動は20分前後なので、そこまで苦ではなく。
何気にクロスバイク系は、疲れてくると足を後ろに振り上げるのも大変で。
走り出したら楽なんですけど。

新蒲原駅前。桜えび漁船。

ちなみに、戦跡としては、「富士飛行場燃料庫地下壕」も残存している。
富士飛行場の建設に併せて、航空燃料の油を保管する倉庫として岩本山西麓に掘った地下壕。
今回は未訪問でしたが、機会あれば、で。

※撮影:2024年8月


「下志津駐屯地創設69周年記念行事・その1」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2024年・千葉)

2024年4月。下志津駐屯地。
基地行事があったので、行ってきました。
昨年は観桜のみ参加しましたが、今年は記念行事で。

まずは、旧軍ぽいところを散策。

下志津陸軍飛行学校の細かい話は、下記で。

ちなみに、記念碑を見学する際は、観桜でないとだめでした。
駐屯地記念行事の際は、記念碑エリアは立入禁止でしたので。。。


下志津陸軍飛行学校格納庫

往時の格納庫をベースとした建屋が現存している。


下志津陸軍飛行学校の煉瓦基礎木造便所

往時のトイレ(内装は変わっているとしても)が残っているのは大変珍しい。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R535-64
1947年11月12日、米軍撮影の航空写真を加工。

1947年11月12日写真の格納庫部分を拡大。

現在の航空写真、建屋の屋根形状が合致。

なお、最南端の格納庫は移築され千葉公園体育館として活用されたが、解体


往時の遺構と思われる建屋?

航空写真では絞りきれなかったが、雰囲気から往時の建屋?と推測。

往時の建屋と思われるエリアの中心には、巨大な通信鉄塔がそびえている。


広報史料館

内部は撮影禁止、でした。
陸自防空のメッカだけあり、防空関連資料展示が豊富。

なお、下志津陸軍飛行学校跡碑を始めた記念碑群の見学は、封鎖されていて出来ませんでした。
背面のみ。
正面から確認したい場合は、「観桜開放日」がおすすめ。

※撮影 2024年4月

※その2へ

陸軍松本飛行場の跡地散策(三菱名古屋製作所大江工場の疎開工場跡)

松本で時間があったので、飛行場の跡を見に行ってみた。
松本空港(信州まつもと空港)ではなく、松本飛行場跡です。


松本陸軍飛行場跡・三菱重工業名古屋製作所大江工場の疎開工場跡

松本市にあった大日本帝國陸軍の飛行場。
現在の「松本空港(信州まつもと空港)の北側に位置する。
昭和18年以降に建設開始、昭和20年春に飛行場の運用が開始された。

また、愛知の三菱重工業名古屋航空機製作所(大江工場)が松本市に疎開することとなり、1945年2月1日に三菱重工業第一製作所が開設。
松本飛行場の試作工場において、当時三菱が開発中だった海軍の戦闘機烈風の六号機、七号機が鈴鹿工場から当飛行場に移されて開発、試験を行うこととなったが程なく終戦を迎えている。

同じく、三菱が開発中であった陸軍のキ83の一号機が各務原飛行場から疎開して当飛行場で試験が続けられたが終戦を迎え、進駐してきたアメリカ軍に当飛行場で接収された。
試作双発戦闘機「キ83」の初号機は、そのまま松本飛行場において、米軍のハイオクガソリンを用いて試験飛行を行い、時速762kmを記録し、日本の軍用機史上において”最高速度記録を誇る戦闘機”となった。

旧 陸 軍 飛 行 場
 太平洋戦争が激化してきた昭和18年(1943)10月、陸軍省から今井村役場に関係者が集められ、その場で飛行場範囲が示された。その月のうちに笹賀国民学校に関係する地主が召集され、耕地・山林など200町歩以上に及ぶ飛行場用地買収に調印させられた。10月には測量が始り、19年2月下旬から整地工事が開始された。
 工事には、中信地区の翼賛壮年団をはじめ近傍の住民、学生、児童までが勤労動員され、さらには多くの朝鮮の人々も動員されたため、その数は延べ十数万人であったと、終戦直後の新聞は伝えている。兵舎や格納庫を建てるために動員された大工や鳶職は、広く南信一円にまで及んだ。
 陸軍飛行場が完成したのは昭和20年8月であるが、滑走路はそれ以前に利用可能であり、3月には当時浅間温泉に滞在していた特攻隊の隊員達がこの飛行場から飛び立っている。また、「赤トンボ」とよばれる練習機による訓練も行われていた。
 飛行場の施設は、現在の菅野小・中学校・住宅地の場所に事務所や6棟の格納庫等が集中し、その西
に現在の幅の広い道路と重なる滑走路、さらにその西に広がる広大な草地の方形区画部分、さらにその
南の松林の中に向かう誘導路と多くの掩体壕があった。
 本土爆撃がはげしくなると格納庫は目立つため、陸軍により2棟が破壊されたが、残りの4棟は、終戦時まで三菱重工業名古屋製作所の組立工場として使用された。
 終戦後、飛行場に使用された土地の多くは農地に戻され、かつての滑走路は、菅野小学校西側の道路
となり、格納庫などが置かれた土地は、住宅地となっている。また、格納庫などのコンクリート基礎の一部は菅野小学校グラウンドの基礎を兼ねており、現在でも確認することができる。
   2012年8月
    松本市


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1022-5
昭和23年(1948年)2月18日、米軍撮影の航空写真。

飛行場部分を一部拡大

現地の地図は、東が上になっている。

格納庫をはじめとする地上施設部分を拡大。

現在の様子。

現地の地図は、東が上になっているので、ちょっと位置関係を迷う。

松本市立菅野小学校は、旧飛行場施設のコンクリート製基礎が校庭の基礎として流用されている。


松本飛行場の滑走路跡

松本市道6086号線から西側に滑走路があった。
現在、往時を偲ぶ記念碑がたっている。
市立菅野小学校の近く。


松本飛行場の格納庫基礎跡

松本飛行場の格納庫の基礎が残っている。


松本飛行場コンクリート基礎跡(菅野小学校校庭)

松本市立菅野小学校は旧飛行場の滑走路の東に位置し、旧飛行場施設のコンクリート製基礎が校庭の基礎として流用されている。

ちなみに、アクセスにはコミュニティーバスを使用しました。(バスというより乗り合いタクシーな感じ)
時間の調整が、ちょっと大変でした、、、

場所

https://maps.app.goo.gl/vFziWqAX9zDV2qAy8

https://maps.app.goo.gl/7HKUrKdXwX59gsvw5

※撮影:2024年6月


関連

「日本の航空事始め・その5」日本の航空機の父・二宮忠八と飛行神社(京都八幡)

「日本の航空事始め」としては、第5弾になります。
今回は、実質「その0」の位置づけ。本格的に飛び立つ前のお話です。

二宮忠八関連ゆかりで、2003年に訪問していた飛行神社を再訪し、写真と記事を追記して掲載で。
以前の記事は下記。


出生の八幡浜にも行きたいですけど、なかなか。。。


日本の航空事始め


飛行神社と二宮忠八

京都府八幡市、石清水八幡宮のお膝元に鎮座している航空関連の神社。

二宮忠八は、愛媛県八幡浜出身。
明治24年4月29日香川県丸亀の歩兵第12聯隊練兵場に於いて、日本人として最初のゴム動力によるカラス型飛行器の飛行に成功させた。
「日本の航空機の父」と称された二宮忠八が大正4年(1915)に航空受難者の霊を慰めるべく創建したことにはじまる。
現在の社殿、拝殿、資料館は平成元年の飛行原理発見100周年を記念して、二宮忠八翁の次男二宮顕次郎によって建てかえられた。

https://www.hikoujinjya.com/

飛行神社
 飛行神社は、日本で初めて動力飛行機を発明した二宮忠八(1866-1936年)によって1915年に創建されました。飛ぶことへ興味を持った忠八は、20代の頃、カラスが滑空する姿に着想を得て固定翼の「カラス型飛行器」を制作し、1891年に飛行を成功させました。また、人が乗れる複葉機モデルの「玉虫型飛行器」を設計しました。その後、八幡の地で試作機の製作を始めましたが、完成前の1903年にライト兄弟が有人飛行を成功させたことを聞き、制作を断念しました。
 本殿中央には、空の神様である饒速日命を祀り、向かって左側は日本薬学会の偉人らを祀る薬光神社、向かってっ右側は航空事故で亡くなられた航空殉難者と航空業界の先覚者を祀る祖霊社で、世界は同じ空の下でつながっているという忠八の信念で、国籍に関係なく全ての犠牲者を祀っています。
 併設の資料館には、忠八が撮影した写真や自筆の資料、本人が晩年に作り残した玉虫型飛行器(模型)をはじめ、発明に関連す品々が展示されています。

航空安全祈願
飛行神社 縁起略記
鎮座 大正4年(1915)3月10日
主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
  祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
  祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
  別社 常磐稲荷社
 当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
 晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
 昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。
 現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。
 平成12年9月
  京都八幡市土井四十四
   宗教法人 飛行神社


飛行神社

御社殿はギリシャ風拝殿。
現在の拝殿は平成元年(1989)建立。

飛行神社 ご本社
第一殿 ご本殿 饒速日命
第二殿 祖霊社 航空殉難者並び航空先覚者
第三殿 薬光神社 薬祖神

第一殿
饒速日命
 饒速日命は、天津神のご指示を受け三十二柱の神様を従えて天磐船という岩で出来た飛行船で地上に天降られた神様で、古代から空の神様、行く先を守る神様として祀られてきました。
 当社には大正4年(1915)に創建者二宮忠八翁が飛行神社創建に当たって磐船神社(大阪府交野市)よりご分霊いただきました。
 交通安全、航空安全、旅行安全などの旅先、移動の安全に深く信仰されております。

第二殿
祖霊社
 航空事故で亡くなられた方、技術革新、指導に当たられ航空業界に多大な影響を与えられた方をお祀りしております。
 二宮忠八翁は空に関わられた全ての御霊と共に航空安全、航空事業の発展を祈る為、この飛行神社を創建しました。
 航空安全はもちろん、忠八翁等の発明者をお祀りしている為、開発発明祈願や、学業成就合格祈願などの信仰も深くございます。
 年次祭(4月29日)に毎年の御霊をこの社殿に合祀しております。

第三殿
薬光神社
 この社殿は薬業界の偉人とされる長井博士や、二宮忠八翁が共に働いた武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などの薬学会の仲間を薬祖神としてお祀りしております。
 健康長寿、病気平癒、医学界・薬業界の発展を祈念するお社です。
 また、この地には白い蛇がおりました。白蛇はこの社殿創建と同時にいなくなった事から、白蛇はこの御社に籠られたと言われております。
 白蛇は白龍神と言われ金運、開運の神様としてお祀りされております。


二宮忠八と長岡外史

明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。
日清戦争中の明治27年(1894年)8月19日、大島混成旅団の参謀隷下の衛生兵(二宮忠八)が飛行機の開発に軍の協力を求め、略図を添えて大島義昌旅団長宛に『軍用飛行器(飛行機)考案之儀二付上申』を提出してきた。
参謀であった長岡は人が乗って自在に空中を移動する機械という当時としては奇想天外な研究の意義を理解することができず、「今は戦時である」「外国で成功していないことが日本で出来るはずがない」「成功したとしても戦争には使えない(上申では偵察に使えるとされていた)」と一蹴した。

その後、陸軍を離れた二宮忠八は、飛行機開発をすすめるが、1903年12月17日にライト兄弟による有人動力飛行がすでに行なわれていた事が判明(兄弟らは情報秘匿のため積極的な公表を控えたため、暫くの間世界的にこの偉業が伝わっていなかった)。したのちに、二宮は飛行機の開発をやめてしまう。

日清戦争中の上申時点では二宮忠八の飛行機の着想はライト兄弟に先行しており、結果として長岡ら軍上層部の冷淡な態度が日本人による飛行機の発明の機会を失った一因とされている。

その後白川義則中将と二宮の対談が新聞や雑誌に取り上げられてこの事実が世間に知られることになると、長岡は自らの先見のなさを嘆いて長文の詫び状を送り、二宮に面会して謝罪したという。
長岡外史が二宮忠八に宛てた手紙の写しは、飛行神社に設けられた飛行神社資料館(二宮忠八資料館)に展示がある。


飛行神社社号標(白川義則謹書)

白川義則は、二宮忠八と同じ愛媛県の出身であった。
1919年(大正8年)、陸軍中将(当時)であた白川義則と二宮忠八が懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいことがわかった。そして、ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰。
1927年(昭和2年)勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。

白川義則は、二宮忠八と縁があり、改築時に社号標を揮毫している。

飛行神社

飛行機発明勲功旌表地鎮座

昭和7年3月改築
 陸軍大将白川義則書


二宮忠八顕彰碑(白川元春謹書)

二宮忠八 1866‐1936
妻 寿世 1873-1929
わが航空界の先覚者二宮忠八翁をたたえる
航空幕僚長 白川元春

男爵陸軍大臣であった白川義則の三男。
陸軍航空士官学校を第51期で卒業し、飛行第90戦隊中隊長として、マレージャワを転戦。
陸軍大学校(第58期)を昭和19年5月に卒業後は、陸軍少佐に進級し南方軍総司令部参謀としてサイゴンで終戦を迎えた。
戦後は、航空自衛隊として、第11代航空幕僚長、第8代統合幕僚会議議長を歴任。最終階級は、統合幕僚会議議長たる空将。

親子2代に渡る支援があった。


零式艦上戦闘機の機首部

零式艦上戦闘機の機首部
昭和58年10月下旬、大阪湾漁場において大阪府岸和田の漁師が、底引網操業中の漁網に、機首部がかかり、岸和田漁港に引き揚げられたものです。


何かのプロペラ


ジェット機エンジン(F-104J)


飛行神社の写真あれこれ

ステンドグラスは、「飛行」に縁のある生き物たち。

手水盤は、烏型飛行器と玉虫型飛行器

奉納飛行機が浮かんでいます。

アンネのバラが咲いていました。

撮影:2024年3月


関連

移築整備された野砲兵第一聯隊の馬魂碑(世田谷)

世田谷区池尻・三宿・下馬、駅で言うところの「池尻大橋駅」「三軒茶屋駅」の界隈は「駒澤練兵場」があり、そして3つの陸軍砲兵部隊が駐留していた。
すなわち「三軒茶屋は軍都であった」と言っても過言ではない。


軍都「三軒茶屋」

  • 近衛野砲兵聯隊(昭和女子大・三宿中学校)
  • 野戦重砲兵第八聯隊(都営住宅)
  • 野砲兵第一聯隊(都営住宅)

上記の3聯隊のうち、野戦重砲兵第八聯隊と近衛野砲兵聯隊の記念碑は、陸上自衛隊三宿駐屯地内にある。

しかし、野砲兵第一聯隊の記念碑は残されていない。


野砲兵第一聯隊

野砲兵第一聯隊は、昭和11年の二・二六事件ののちに北満移駐を命ぜられ、そして大戦末期にはレイテ作戦に参加しカンギポット山麓に玉砕。
昭和20年に残存兵力はセブ島に転進し、ゲリラ戦を実施し、そこで終戦を迎えている。
日本陸軍最古の砲兵部隊である栄誉ある野砲兵第1聨隊であったが、国内には記念碑が残されていないが、玉砕したレイテ島・リモン峠には野砲兵第1聨隊の慰霊碑があるという。

そんな、野砲兵第1聨隊が駐留していた世田谷の下馬地区に痕跡として残された馬魂碑が、都営住宅下馬アパート再開発でも失われることなく、移築保存されたのは、なにより喜ばしく。
すこしでも、往時を伝承する軌跡が残ったことに感謝する。

以下、移築先の様子。


野砲兵第一聯隊の馬魂碑

5基の石碑が保存されている。

馬魂碑

詳細は不明

馬魂碑

一番大きな「馬魂碑」

碑の裏面に詳細な記述がある。

我部隊保管ノ軍馬ハ我隊将士ノ死生ヲ倶ニスヘキ戦友ニシテ平戦来時攻々黙々内ニ外ニ多大ノ功績ヲ残セシモノ枚挙ニ遑アラス 
其ノ間不幸或ハ敵弾ニ斃レ或ハ不慮ノ危害ヲ蒙リ或ハ又病魔ニ冒サレ遂ニ死ニ至レル其ノ最後ニ想ヒ到レハ憐憫ノ情ニ堪ヘス
茲ニ犠牲馬ノ霊ヲ祀リ其ノ冥福ヲ祈リ将来保管馬愛護ノ精神的自覚ヲ促サレトシテ此ノ碑ヲ建ツ
 昭和14年12月
  野砲兵第一聯隊留守隊長
   陸軍砲兵中佐 正六位勲四等 原捷吉

野砲兵第一聯隊は、昭和11年から北満に移駐しているために、石碑が建立された昭和14年の段階では、留守部隊が軍馬(保管馬)の世話をしていたことがわかる。
愛馬の愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。

馬頭観音菩薩

詳細不明

軍馬梨山号
昭和十一年一月二十四日殉職

馬頭観音

整備中の広場。広場の名称も、まだ不詳。

下馬図書館の近く。

案内図は古いまま。

都営住宅下馬アパート16号棟17棟18棟19棟20棟のあった区画には、
「東京都立青鳥特別支援学校三軒茶屋校舎」が新設された。

場所

https://maps.app.goo.gl/uJcX1qhmt93tWPLP6


野砲兵第一聯隊の兵舎跡

唯一現存する野砲兵第一聯隊の兵営。韓国会館となっている。いつまでの残るかの不安があるが、往時を偲ぶ貴重な建屋。

場所

https://maps.app.goo.gl/17zBp2k5PTNn2uwB6


旅団の電信柱

昭和女子大の近く、「旅団」の名前を残す電信柱があった。
管理の都合、往時のままの名称を用いている「旅団線」通信線。

昭和女子大の西門

※撮影:2024年5月


世田谷関連

座間・陸軍士官学校の戦跡散策4「相武台碑と大講堂・雄健神社跡」(在日米陸軍キャンプ座間)

ようやく「キャンプ座間」に立ち入る機会がありました。
2023年8月「日米親善盆踊りフェスティバル2023」
花火や盆踊りでフレンドシップなイベント。米軍基地が一般開放されますので、散策してきました。

2024年4月の「キャンプ座間 桜祭り / CAMP ZAMA CHERRY BLOSSOM FESTIVAL」で再訪し、記事を大幅に補完しました。

「座間・陸軍士官学校の戦跡散策」シリーズとしては、「その4」となります。
米軍基地以外の関連する散策は以下より。


相武台(相武臺)

座間には、陸軍士官学校があった。
陸軍士官学校の土地は、現在の「キャンプ座間」となっている。

小田急「相武台前駅」、JR相模線「相武台下駅」。
座間市と相模原市に地名として使用されている「相武台」は、もともと陸軍に関係のある名称であった。

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
昭和12年12月20日に行われた陸軍士官学校卒業式に 昭和天皇が行幸した際に、同校に「相武台」の名称が賜名された。

  • 市谷台 座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 航空士官学校(航士)
  • 振武台 陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 陸軍経理学校
  • 健武台 東京陸軍幼年学校

陸軍士官学校が移転したあとの市谷台には、陸軍省や参謀本部なのでの省部が三宅坂から移転し、陸軍の中枢となった。

相武台(相武臺)

記念碑の揮毫は、陸軍大臣・杉山元大将。
昭和20年の終戦時には、相武台碑は地中に埋められたが、2年後の昭和22年に米軍第8軍司令官ロバート・L・アイケルバーガー中将の命令で掘り出され、現状に復された。

相武台碑
昭和12年12月20日天皇陛下御命名
昭和14年建立

昭和十二年陸軍士官學校󠄁此ノ地ニ移ル冬󠄀十二月二十日 
天皇陛下卒業式ニ行幸アラセラレ親シク生徒ノ演習󠄁ヲ臠ハセ給ヒ陸軍大臣ヲ召シ本校󠄁所󠄁在地名ヲ特ニ相武臺ト賜フ大臣ハ恐懼感激シ益󠄁々練󠄀武養󠄁材ノ實ヲ擧ケ 聖󠄁旨ニ副ヒ奉ランコトヲ奉答セリ 
謹󠄀ミテ按スルニ相模國ハ古ク佐賀牟ト訓シ古事記日本武尊󠄁東征ノ條ニ相模國ニ作ル臺ハ其ノ形󠄁勝󠄁ヲ占メ相模原ヲ控󠄁ヘ最モ武ヲ練󠄀リ銳ヲ養󠄁フニ適󠄁ス乃チ武ヲ相ル意󠄁ヲ寓シ給ヒタルモノト拜ス茲ニ御命名書ノ相武臺ノ三字ヲ廊󠄁大シテ碑ニ題シ緣由ヲ背ニ記スト云爾
 昭和十五年八月二十日 
  陸軍大臣 三位勲一等功五級 杉山 元 書


陸軍士官学校関連記念碑(相武台碑周辺)

相武台碑の周辺には、陸士関連の記念碑が多い。
卒業順に掲載。

なお、下記の資料を参照

https://www.usarj.army.mil/Portals/33/about/history/Monuments_and_Markers_v4_202101.pdf


陸士50期卒業記念

旧陸軍士官学校第50期生卒業記念碑
昭和12年12月20日卒業

陸士50期は、陸軍士官学校が座間に移設してから初の卒業組となる。
昭和9年4月入学、昭和12年12月卒業。相武台は3ヶ月しか過ごしていないクラス。466名卒業のうち、175名が戦死している。

陸士51期卒業記念

旧陸軍士官学校第51期生卒業記念碑
昭和13年12月22日卒業

昭和10年4月入学、昭和13年12月卒業。506名卒業のうち176名戦死。

陸士52期卒業記念

旧陸軍士官学校第52期生卒業記念碑
昭和14年9月7日卒業

昭和11年4月入学、昭和14年9月卒業。635名卒業のうち245名戦死。
52期が在学中に、予科と本科の課程が戦時体制に改定され、訓練期間も48ヶ月から36ヶ月に短縮となっている。

陸士53期卒業記念

こちらは大講堂脇に建立

旧陸軍士官学校第53期生卒業記念碑
昭和15年2月27日卒業

昭和12年4月入学、昭和15年2月卒業。日中戦争勃発により定員が増員。1710名の卒業のうち800名が戦士している。

陸士54期卒業記念

場所は相武台碑から、外れて、体育館の脇の駐車場に。

奮忠
旧陸軍士官学校第54期生卒業記念碑
昭和15年9月卒業

第54期は、昭和12年12月入学、昭和15年9月卒業。2186名の卒業のうち、891名が戦死。

※上記2枚は2024年4月撮影

陸士55期卒業記念

相武台碑の周辺に戻ります。


旧陸軍士官学校第55期生卒業記念碑
昭和16年7月18日卒業

昭和49年に建立。
昭和13年12月入学、昭和16年7月卒業。2349名の卒業のうち、953名が戦死あるいは捕虜収容所で亡くなっている。

第1期将校学生卒業記念

境界西角。

旧陸軍士官学校第1期将校学生卒業記念碑
昭和16年7月卒業

第1期将校学生は、昭和15年10月入学、昭和16年7月卒業。51名の卒業。

陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念碑
昭和16年9月30日卒業

昭和15年12月に入学し昭和16年9月に卒業。卒業生267名。卒業3か月後に下士官から少尉に任官した。

第2期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第2期将校学生卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第2期将校学生は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日卒業。90名の卒業。

陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第22期少尉候補者は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日に卒業。481名卒業。

陸士56期卒業記念

旧陸軍士官学校第56期生卒業記念碑
昭和17年12月17日卒業

第56期生は、昭和14年12月入学、昭和17年12月卒業。
地上兵科1672名、航空兵科627名の卒業。地上兵科257名が航空兵科操縦士に転出し、操縦士884名のうち545名が特攻で戦死。
56期生合計では2299名のうち1071名が戦死。戦死者を一番出した期となっている。

第3期特別将校学生卒業記念

「三紀会」
旧陸軍士官学校第3期将校学生卒業記念碑
昭和18年11月15日卒業

第3期特別将校養成課程で、昭和18年1月入学、昭和18年11月修了した予備役将校学生。118名のうち69名が戦死。

陸士57期卒業記念植樹

旧陸軍士官学校第57期生記念植樹
昭和19年4月卒業

第57期は、昭和16年4月入学、19年4月卒業。
航空兵科卒業生400名のうち74名が戦死、地上兵科卒業生1150名のうち299名が戦死。
昭和58年5月22日建立。後述するが57期は卒業記念碑は建立せず、雄健神社の近くに桜を植樹している。そしてこちらは戦後の記念植樹。

陸士60期在校記念

「和」
旧陸軍士官学校第60期生記念碑

第60期生は、昭和19年3月から昭和20年8月まで在校。陸軍最後の士官候補生であった。第60期生は疎開先の長野で終戦を迎えている。
「和」記念碑は昭和57年に建立。

陸士58期までは卒業したが、59期と60期は在校での終戦。

陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念植樹碑

第4期将校学生は、昭和18年に卒業。50周年の平成5年に植樹を記念して建立。


雄健神社跡

陸軍士官学校の神社「雄健神社」。

雄健神社跡
昭和12年9月陸軍士官学校は、東京市ヶ谷台よりこの地相武台に移転し、翌13年6月に雄健神社が建立され、左記の御祭神と共に同校出身戦死者 殉職者が合祀された。
 天照大神 鹿島大神 大国主大神
 靖国大神 香取大神 明治天皇
在校生は朝な夕な社殿に額づいて心を正し、崇高な使命に殉じた先輩の意志を継ぎ立派な将校になることを願い、文部の道に励んだ。
 終戦の年、御祭神は長野県北佐久郡望月の里にある、大伴神社に遷座しお祀りして来たが、昭和31年6月 靖国神社に於て 昇神の儀を執り行い、その歴史を閉じた。
 往時の純真にして崇高なる精神をはぐくんだこの地を史跡として末永く保存するため有志相集い、在日米陸軍本州駐屯部隊並びに陸上自衛隊第三施設群のご協力を得てここに鳥居を再建した。
 昭和60年12月吉日
  財団法人 偕行社内
   相武台鳥居再建委員会

陸軍士官学校は昭和20年に佐久市望月など川西地域に疎開しており、雄健神社も、郷土の名社であった大伴神社に遷座していた。

市ヶ谷台の雄健神社


方位石(陸軍士官学校遙拝所方位盤)

長さ2.7m、幅2.3m、高さ60cmの巨石。
もともとはチャベルヒルのある場所にあったが、平成26年に現在地に移築。
円形状のくぼみに、かつては大理石の方位盤が埋められ、盤面には皇居や明治神宮、伊勢皇大神宮、陸軍司令部所在地の地名や方角などが刻まれていた。
陸軍士官候補生は毎朝、方位石にて皇居に遥拝し、明治神宮や伊勢皇大神宮の大祭時には国家安泰を祈念した。

いまは、鳥居の手間にあるので、手水石のような佇まい。

以下は、南地区の富士山公園内にある「方位石」(陸軍士官学校遙拝所方位盤)を参照まで。

なお、さらに奥に進むことができたが、米軍基地内でどこまで侵入してよいのかがわからず、進むのはためておきました。(以前、別の基地で「Keep out」表示がない場所で米軍の警備員に呼び止められた苦い思い出もあるので。)

DO NOT ENTER FOR AUTHORIZED PERSONNEL USE ONLY
Only for use by trained Soldiers under supervision Refer to TRADOC TP 385-1
関係者以外立ち入り禁止
監督下の訓練を受けた兵士のみ使用可能 TRADOC TP 385-1 参照

うん。ひとまず、戻りましょう。。。

雄健神社跡の観桜が良かったですね。


陸軍士官学校関連記念碑(雄健神社跡周辺)

雄健神社の鳥居周辺にも、記念碑が散在している。

陸士57期卒業記念

旧陸軍士官学校第57期生
昭和19年4月20日卒業
卒業記念碑を建立せず同期一同血書して名を連ねこの地に埋めた

陸士57期(昭和16年4月~昭和19年4月)
400名の航空兵科転科者は74名が戦死。1,150名の地上兵科卒業生のうち299名がビルマ・フィリピン・ニューギニアなどの東南アジアで戦死している。

陸士57期の血書の桜。
由縁を知るとさらに趣が深まる桜。ありがとうございます。

陸士58期卒業記念

七生報国

旧陸軍士官学校第58期生
卒業記念碑
昭和20年6月17日卒業

士官学校最後の卒業生となった第58期生(昭和17年4月~昭和20年6月)。
2,395名の学生が本科生となったころには、本土空襲も頻繁になっており、昭和20年4月には相武台も空襲を受け、校内で初めて実戦に参加した士官候補生でもあった。卒業後は、すでに制空権も制海権も失われていたために外地の戦闘部隊に合流することもできず、その結果、他の期生と比べると戦死者は少なく90名が戦死したにとどまっている。

陸士59期在校記念

在校記念碑
陸士第59期生
昭和20年8月30日修業

第59期生(昭和18年4月~昭和20年8月)は、卒業記念ではではなく、在校記念での石碑となる。
合計2,850名の士官候補生のうち1,250名は本科地上兵科生で、終戦を長野県で迎えている。(陸軍士官学校の疎開)
同期の豊岡航空学校の本科生の一部は実戦技能訓練を満洲で実施していたために約100名の候補生は、終戦時にソ連の捕虜となりシベリア収容所に連行され、多くの候補生がシベリアで死亡し、生存者も帰国まで4年の月日を要している。

第22期生任官30周年記念碑

第22期(明治41年12月~明治43年5月)の卒業生が将校任官30周年記念として昭和15年に建立。
市ヶ谷台時代の卒業生たちは、本科が相武台に移転したあとも、自分たちの母校として記念碑を建立したことがわかる。

第24期生任官30周年記念碑

旧陸軍士官学校第24期生
卒業30周年記念碑
明治45年5月27日卒業

第24期(明治43年12月~明治45年5月)の卒業生の帝国陸軍将校任官30周年記念で昭和17年に建立。


陸軍士官学校大講堂(Kizuna Hall)

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
おそらくは、その際に造営されたと推測。
米軍進駐後は映画館としても使われた。
現在は「Kizuna Hall」として活用されている。


天皇陛下用防空壕

陸軍士官学校大講堂の裏手に防空壕の入口がある。
大きな入口は裏手の右側にあり、小さな入口は裏手にあたる。
昭和17年に造られた 天皇陛下用の防空壕。

壕内には約17mの曲がりくねった通路があり、広さが30平方mの部屋に通じているという。鉄筋コンクリート造の防空壕の壁の厚さは70cmで天井の厚さは1.7m。
昭和12年から昭和20年まで、士官学校では9回の卒業式があり、そのうちの7回に 天皇兵陛下がご臨席になられた。しかし、防空壕は一度もご利用にはならなかった。ちなみに、51期はご病気、58期は首都圏空襲で欠席であった。

なお、出入り口は2箇所ある。

旧陸軍士官学校
天皇陛下行幸時の防空壕
昭和18年建設(未使用)

「Kizuna Hall」の後ろにも。もう一つの入口。

Authorized Persons Only
権限のある人のみ、だそうで。


陸軍マンホール

陸軍士官学校大講堂の周辺に、2つ残存。
中央に、陸軍のシンボルマーク「五芒」がある。

1つ目は、大講堂の北側。

2つ目。大講堂の正面。


陸軍士官学校生徒集会所

Camp Zama Express Main Store の東側。米軍のSUDCC(Substance Use Disorder Clinical Care)として使用されていた建物。
かつての「陸軍士官学校生徒集会所」
取り壊されるという話もあったが、2023年8月の段階では現存している。

2024年4月、解体を確認

2024年4月、解体を確認。
以下の写真は、解体後。


陸軍士官学校皇族舎(皇室宿泊施設)跡

かつてこの場所に、陸軍士官学校皇族舎があったが、現在は、振武臺記念館として、陸軍予科士官学校のあった朝霞に移築保存されている。

日米友好親善碑

以下は、2024年4月撮影

この場所から、南に歩けば、雄健神社跡。


陸軍制水弁

陸軍士官学校時代の制水弁。
陸軍のシンボルマーク「五芒」もある。


ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

桜の季節


キャンプ座間/座間駐屯地

キャンプ座間は、在日米陸軍司令部、米陸軍第1軍団前方司令部などが置かれ、在日米陸軍の中枢部として機能している。

座間駐屯地には、陸上総隊司令部日米共同部が展開。

中央の第1ゲートからも、ちらりと見える鳥居。

桜の季節

平和
日米友好碑

グランドの北側に。

陸上自衛隊ー在日米陸軍
座間キャンプ共同使用開放記念碑

ここは陸自っぽい。

陸自ですね。


給水がありがたい。。。

鳥居、、、

消防署

野外ステージ

芝生

野球場が盆踊り会場

出店のメインストリート

大人気なファーストフード行列。

ローストチキン

生ビール

暑すぎたので、かき氷

暑すぎて、かなりの疲労困憊だったということもあり、
いくつか確認漏れを自覚しているので、リベンジします。。。

2024年に再訪して、各記事に写真追加済

※撮影:2023年8月 2024年4月


米軍関連

移築再整備された東京第一陸軍造兵廠滝野川工場の陸軍用地標石(滝野川三丁目公園)

2022年4月に開園した「滝野川三丁目公園」。
東京国税局滝野川第二宿舎(公務員第二宿舎)などがあった国有地の土地利用転換等に合わせ北区が用地を取得し、構造物の解体・更地化ののちに公園として再整備。

実は、なにげに、再整備公園に設置された案内看板に、弊サイトが写真提供を実施しておりましたが、先日にようやく再訪できた次第。

関連記事


陸軍用地の標石(東京第一陸軍造兵廠滝野川工場)

陸軍用地の標石
この標石は陸軍の旧用地を示す目印とする石です。
滝野川三丁目公園の整備にともない、園内へ移設しました。
【東京第一陸軍造兵廠滝野川工場】
滝野川工場は、東京第一陸軍造兵廠第三製造所として、主に火薬・照明弾・発煙筒などの製造を行っていた。

この案内板にある写真、弊サイトにて、素材提供をしました。

以下、依頼主より

(前略)
さて今回ご連絡させていただきましたのは、ホームページに掲載されている陸軍標石についてです。
現在、公務員第二宿舎だった場所を北区役所が国より引き受け、公園として整備工事を行っております。(当社がその施工を担当)
その公園整備工事経過において、歴史ある陸軍標石を保存し、整備する公園の中に再設置を行い、歴史施設説明サインとともに掲示を行う案が出てきております。
つきましては現在ホームページに掲載してある写真の掲載許可とバックアップ等にて可能であればリサイズしていない元の写真データをご提供いただれば助かります。
ただ現在、陸軍標石の保存と歴史施設説明サインの設置は確定しておりますが、盤面デザインによっては写真の掲載がない場合もありますのでその節は、ご容赦ください。
(後略)

公園施工会社様のメールより

その結果、下記の写真となりました。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

欠けていた標石の当時の写真は下記。2016年5月撮影。
こちらは掲載見送りになりましたが、併せて移築保存していただけました。

そして、移築された標石。

こうして、歴史の伝承として、綺麗に整備され保存されたのは、なにより喜ばしく、ありがたいこと。


滝野川三丁目公園

※撮影:2024年4月

場所

https://maps.app.goo.gl/UJdsUEZjXxixTkVp6


再設置された「近衛歩兵第四聯隊跡碑」「近衛歩兵第六聯隊跡碑」(都立明治公園)

1964年(昭和39年)に開園した「都立明治公園」。新しい国立競技場の建設に伴う再整備で閉鎖のうえで再整備されていたが、2023年10月に一部開園し、2024年1月に全面開園を果たした。
以前より、公園内にあった「記念碑」の扱いが気になっていたが、新設「明治公園」でも再設置されることになり、ようやくに見学できた次第。


青山練兵場跡地

国立競技場や明治神宮外苑のある一体は、もともと「青山練兵場」であった。

大正元年(1912)9月13日、 明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。


近衛師団と近衛聯隊

最精鋭かつ最古参の部隊として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」の任にもあたった。
昭和18年に従来の近衛師団を「近衛第一師団」「近衛第二師団」とし、昭和19年に「近衛第三師団」を新設。
近衛第一師団
 近衛歩兵第一聯隊 東京 北の丸 皇居警備
 近衛歩兵第二聯隊 東京 北の丸 皇居警備
 近衛歩兵第六聯隊 東京 北青山 大宮御所警備 ※本記事
 近衛歩兵第七聯隊 東京 麻布台
近衛第二師団
 近衛歩兵第三聯隊 東京 赤坂台 スマトラ島に展開
 近衛歩兵第四聯隊 東京 北青山 スマトラ島に展開 ※本記事
 近衛歩兵第五聯隊 東京 麻布台 スマトラ島に展開
近衛第三師団
 近衛歩兵第八聯隊 東京 成東 九十九里浜防御陣地構築 
 近衛歩兵第九聯隊 甲府 成東 九十九里浜防御陣地構築 
 近衛歩兵第十聯隊 佐倉 成東 九十九里浜防御陣地構築  

近衛連隊では、以下の記念碑を確認。

「北の丸」
近衛歩兵第一聯隊(近歩一)
近衛歩兵第二聯隊

「赤坂台(銀杏ヶ丘)」
近衛歩兵第三聯隊
「麻布台」
近衛歩兵第五聯隊
近衛歩兵第七聯隊


近衛歩兵第四聯隊跡碑

明治19年(1886年)第一大隊、翌年に第二大隊が編成。
日清、日露、大東亜戦争に従軍。
大東亜戦争では、マレー作戦、スマトラ平定作戦に参戦。

近衛歩兵第四聯隊跡

近衛歩兵第四聯隊は、明治30年5月24日 明治天皇から軍旗を親授されて創設された。
大東亜戦争後、聯隊出身者からなる錦紫会会員一同相計り相資し遺跡を永久に記念してこの碑をこの地に建立して東京都に寄贈する。
 昭和40年5月 
  錦紫会有志


近衛歩兵第六聯隊跡碑

昭和18年(1943)に青山北の近衛第四聯隊兵営において新設。
近衛第一師団に編入。

近衛歩兵第六聯隊跡

 近衛歩兵第六聯隊は大東亜戦争の戦局急を告げる昭和18年の5月14日臨時編成を下令され同年6月はじめ竹橋において近衛歩兵第一聯隊第三大隊を中心に全国からの選抜将兵を以て編成された。
 聯隊は同年6月28日以降この青山に駐とんし将兵三千、日夜武を練り禁閥守護と首都の防衛に任じつつ大戦に参加しこの地において終戦を迎えた。
 昭和46年2月11日
  元近衛歩兵第六聯隊有志一同


馬頭観世音

馬頭観世音
 昭和庚午年春吉日

昭和庚午は、昭和5年。


東京都立明治公園

2023年10月31日開園。
千駄ヶ谷駅と外苑前駅のほぼ中間地点、国立競技場のすぐ南に広がる公園。外苑西通りに面している。
東京都初のPark-PFI(公園の整備を行う民間の事業者を公募し選定する制度)を活用した公園。

記念碑は、「誇りの杜」にある。

国立競技場

※撮影2024年2月