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陸軍航空士官学校の校内神社「修武台航空神社」(所沢・北野天神社)

所沢の北野天神社の境内社「小手指神社・航空神社」は、かつての陸軍航空士官学校の校内神社の御社殿を戦後に遷座したものであった。

深く拝する


陸軍航空士官学校(修武台・航士校)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


航空神社(修武台航空神社)

陸軍航空士官学校の校内神社「航空神社」
航空士官学校の跡地である航空自衛隊入間基地の修武台記念館の前庭には、「航空神社跡碑」がある。

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※修武台記念館のパンフレットより

北野天神社のサイトには、以下の記載がある。

所沢の航空神社とは

所沢の航空神社は昭和12年に創建された慰霊と航空安全のための神社です。
空の安寧を祈るとともに、所沢市の航空史、戦争の歴史を伝えております。

御祭神
主祭神 天照大御神 神武天皇 明治天皇
配祀 陸軍航空隊の殉職者並びに戦没者4956柱
御社殿
伊勢神宮及び武蔵一宮氷川神社の御用材を以て造営されました。

ご由緒と奉遷
 航空神社は、日本初の公式飛行に成功した徳川好敏(とくがわよしとし)の宿願により、昭和12年、所沢陸軍飛行学校に建立されました。
主祭神として、天照大御神、神武天皇、明治天皇、併せて、航空発展の途上に一命を捧げた航空殉職者と戦争で尊い犠牲となられた4956柱の英霊をおまつりしております。社殿は、伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られています。 大正6年には北野天神社宮司が斎主となり、所沢飛行場(現在の航空公園)で航空殉職者の慰霊祭をしていたことが祝詞より分かっております。 爾来、所沢陸軍飛行学校、陸軍士官学校分校、入間市豊岡(昭和天皇が行幸したことにより修武台と名付けられる)の陸軍航空士官学校の航空神社、及び、所沢陸軍航空整備学校の建空神社の祭祀を司って参りました。 昭和20年9月3日、入間市修武台の陸軍航空士官学校にあった航空神社が、進駐軍の接収を避け、命懸けで当社神域に遷座されました。航空神社の例祭は東久邇宮殿下のご臨席を賜り、音楽隊の吹奏を行い、「航空神社の歌」までできるなど盛大に斎行されました。 しかし、昭和40年11月3日に諸般の事情により奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に軍関係の霊位牌や霊名簿が奉安される事となりました。残されたご祭神は相殿する小手指神社の御霊(地元小手指地域の戦没者)とともにお祭りしておりました。 奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に奉案された霊位牌と霊名簿は、入間基地の修武台記念館が設立され整備も着々と進んできたのを機に、昭和63年に奈良基地から入間基地の修武台記念館にお移りになられました。 歴史の大波に翻弄された数奇な運命を辿りましたが、令和6年、徳川好敏氏の云う「因縁」、菅原道大氏の云う「奇縁」、また、その御縁を繋げて下さった皆様の力強いご尽力により、御霊が北野天神社内航空神社にお戻りになり、再び例祭を斎行する事となりました。 徳川好敏氏の願いは航空神社の「永久崇祀」です。大切に御霊をお祭りし、歴史を伝えて参りましょう。

航空神社と北野天神社(物部天神社)の繋がり
 北野天神社の正式名称は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社です。物部天神社は延喜式神名帳にも記載される古社(式内社)で、平安時代以前より当地に鎮座しております。 祭神は、古代、武蔵國入間郡の郡司であった 物部氏の祖先神である櫛玉饒速日命をおまつりしております。 饒速日命は『古事記』、『日本書紀』にも登場しますが、特に『先代旧辞本紀』には、 「天磐船に乗りて、大虚空を翔行めぐり…」とあり、 天磐船という空飛ぶ乗り物に乗って、日本に降りてこられたことが伝えられています。この故実より、航空の神としても崇敬されます。 奇しくも、饒速日命が鎮まるこの所沢市に日本初の飛行場が出来まして、また北野天神社の格式が式内社・県社であるため、航空神社の斎主となりました。宮司家は創建された当時から今日にいたるまで祭祀を司り、御霊を大切にお祀りしております。

航空神社のこれから
現在、時代に翻弄され幾度も奉遷された御神霊は北野天神社境内・航空神社に戻られて、静かにお鎮まりになられています。 敗戦直後、進駐軍がやってくる中で軍施設の校内神社を受け入れるという事は、並大抵の事ではなく、命がけの覚悟がいりました。 そういった歴史を踏まえ、先代宮司は「航空神社は静かに、大切にお祀りしなさい。」とよく申しておりました。 その言葉通り、現在まで遺族の方々・神社役員、地域の氏子さんや心を寄せて下さる崇敬者さんと共に、丁寧に祭祀を続けてまいりました。  航空神社は慰霊と航空安全のために創建された神社です。航空神社は所沢市の戦争の歴史を背負っており、所沢市に”二つ”とあってはいけません。  所沢市の航空史において、戦争による悲しく尊い犠牲と当時の人々の深い想いは、伝えていかなくてはならないものです。 かけがえのない歴史が塗り替えられることの無いように、大切にお祀りしましょう。

航空神社の歌
作詞 航空神社奉賛会
作曲 航空音楽隊長 松本秀喜
1, 大空に
命ささげた 人々を
まつる社の 尊さよ
君をたたえて もろともに
心ゆくまで 語りましょう
遠いあの日の 思い出を
2, 玉垣に
翼あこがれ 今も尚
忘れな草が 咲いている
心ゆくまで 歌いましょう
あの喜びも 悲しみも
3, 青空に
君のみ心 うけついで
銀の翼が とんでいる
父を慕って 僕もまた
強く明るく 生きましょう
このみ社の み恵みに
https://kitanotenjin.com/kouku.html

招魂会(おぎたまかい)解散の経緯について
 この神社は、元豊岡の陸軍航空士官学校修武台に国の安泰と戦勝を祈願するため祀られた神社で、北野天神社宮司が毎年厳粛に祭典を行ってまいりましたが、昭和20年の敗戦による混乱をさけるため、急遽当神社に遷座されたものです。
 終戦の混乱より落ち着きを取り戻した昭和30年頃より当学校の校長を始め幹部達十二・三名が寄り寄りに、北野天神社の社務所に集り前途を話し合って、結局慰霊祭を行うことを決め、同時に当所小手指・北中・北打越地区の戦没者を合祀し盛大な祭典を行ったのです。即ち、東久邇宮殿下のご臨席を賜わり、音楽隊の吹奏を行い、それに関する歌まで出来るなどして、毎年4月15日に慰霊祭が営まれました。
 しかし、昭和40年11月3日に元陸軍士官学校の校長等の手により軍関係の御霊のみ碑となって奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に分霊される事となりました。そこで残された英霊を祀るため、北野天神社及び六所神社の惣代役員また区長・遺族等が旧公民館に集り招魂会を結成し、その初代会長に川口重雄氏を選出し、従来通り4月15日を例祭とし決め、以来半世紀に亘り、慰霊祭を営んで参りました。当初は大変多くの遺族の方々が参列する程でしたが、時の流れと共に遺族の高齢化・減少も甚だしく、茲に招魂会を解散し、その基金を神社改修に充て、向後は神社境内の摂末社並の祭典を北野天神社の総代役員で執行することとなりました。
  平成二十六年十二月吉日
   北野天神社宮司   栗原彌生子
   同 総代会会長   鈴木正治
   六所神社総代会会長 鹿島敏寿
   招魂会会長     小暮信至

小手指神社
この社は日清日露の両戦役から終戦に至るまでの戰に参戦し祖国の尊い英霊となられた方々を祀った社です。
毎年4月十五日には(北中北越地区を含む)北野上新井西所沢地区の関係者により厳かに慰霊祭が執行されております。

航空神社
大正6年 北野天神社宮司が祭主となり所沢飛行場(現・航空公園)で航空殉職者の慰霊祭を行いました。
爾来 昭和12年 所沢陸軍飛行学校に航空神社が造営され 陸軍士官学校分校・陸軍航空士官学校(現・航空自衛隊入間基地)の祭典を行って参りました。
昭和20年8月の敗戦により航空神社は米軍の進駐が予期される慌ただしさの中 同年9月3日 当神社神域に遷座され 慰霊祭が厳かに執行されました

航空神社は空の守り神として多くの人々の崇敬を集めて参りました
主祭神のとして天照大御神・神武天皇・明治天皇 併せて陸軍航空隊の御霊四九五六柱をまつります
社殿は伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られました


航空神社(修武台航空神社)参拝

北野天神社の境内に。
小手指神社・航空神社の合社。

参拝。

玉串料 元校長
金阡圓 徳川好敏
昭和廿八年十二月廿日

元航士校長一同

余談だが、昭和28年の1000円は物価価値的には、3万5千円ほど。
徳川好敏は昭和38年に78歳で亡くなっている。

昭和28年の埼玉県知事の玉串料は5千円。一個人の徳川好敏に対して、さすがは県知事ゆえの5倍ですね。

「空の華」は、熊谷ですね。

徳川好敏関連は、下記にて。


境内の石碑

表忠碑(大正11年、東郷平八郎謹書)と忠魂碑(昭和30年、靖国神社宮司・筑波藤麿禁書)
もともとは小手指小学校に建立され、その後は市役所小手指出張所にあったが、昭和52年に北野天神社に移転。


モリス・ファルマン式飛行機

フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号を復元中

大正4年5月に河野長敏初代気球隊長が撮影し奉納された「フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号の写真」に因む復元

今年は戦後80年の節目にあたります。
航空安全をお祈りするとともに
祖国を守るため、尊い命を捧げられた英霊に
感謝の誠を捧げます。

モリス・ファルマン式飛行機18号


北野天神社参拝

おもえば、平成14年(2002)以来の参拝かもしれない。
23年も前じゃないですか。
当時の私は、武蔵国の延喜式内社を全て回ることをライフワークにしていたので、その一環で、当社にも参拝していたというわけです。

通称「北野天神社」と呼称しているが、正式名は「物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社」という。延喜式神名帳に名を連ねる武蔵国の延喜式内社。

式内社・物部天神社:櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ命)
式内社・国渭地祗神社:八千矛命(ヤチホコ命=大国主命)
天満神社:菅原道真公
配祀:宗良親王・小手指明神・天穂日命・応神天皇・日本武尊・倉稲魂命

由来:北野天神社(物部天国渭地祇神社)とは物部天神社・国渭地祗神社・天満天神社の総称。
景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ。
さらに長徳元年に菅原道真5世の孫である修成が武蔵守になったときに、勅許を得て京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮としたと伝えられ、この時から当地を「北野」とよぶようになったという。このころはまだ3社は別殿であったが、いつのころからか合殿となり、社名も「北野天神社」となったという。
現在の本殿は安永年間(1770年代)の建築であり、拝殿幣殿は平成6年の建築。

前田利家の大納言梅

征夷大将軍・宗良親王
小手指ヶ原合戦での御在陣の御遺蹟
「君の為世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば」

諸神宮

源頼朝が建久6年(1195)9月に延喜式内総社3132神を勧進。
室町期の再建という社殿は、埼玉県内では、神社建築として、出雲伊波比神社が亨祿元年(1528年)で最古となるが、それを踏まえると小祠といえども、同じ室町期として、かなり貴重な建造物。

以上、北野天神社でした。

※参拝:2025年4月


所沢関連

「振武台」陸軍予科士官学校跡・朝霞駐屯地の観桜一般開放(令和7年)

陸上自衛隊朝霞駐屯地の観桜一般公開。
朝霞駐屯地は、公開の機会が少ない駐屯地のため、観桜のときに狙っていかないと、なかなか散策の機会がない駐屯地なのです。。


朝霞駐屯地

陸上総隊司令部や東部方面総監部のある「朝霞駐屯地」。
戦前は、「東京ゴルフ倶楽部」ゴルフ場を買収して新設された「陸軍予科士官学校」があり、そして戦後は「米軍朝霞キャンプ」もあった場所。

東京ゴルフ倶楽部
昭和7年(1932)5月、東京ゴルフ倶楽部が朝霞コースを開場。
東京ゴルフ倶楽部の痕跡として「びわ湖」がある。これは「東京ゴルフ倶楽部」朝霞コース(膝折ゴルフ場)の三番ショートホールの名残。
昭和15年、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの地が、陸軍省によって買収され、東京ゴルフ倶楽部は狭山に移転。朝霞コースは昭和16年閉鎖。

陸軍予科士官学校
昭和16年(1941)10月1日、陸軍予科士官学校が市ヶ谷から朝霞に移転。
昭和18年(1943)12月9日、 昭和天皇行幸し、「振武台」と命名。

アメリカ陸軍
昭和20年9月(1945)9月、アメリカ陸軍が朝霞地区を接収し、「キャンプ・サウス・ドレイク」(米軍朝霞キャンプ)として進駐。

陸上自衛隊
昭和29年(1954)の警察予備隊時代を経て、昭和35年(1960)3月15日に「朝霞駐屯地」が開設。
主な部隊は以下となる。
陸上総隊司令部
東部方面総監部
第1偵察戦闘大隊、第1施設大隊、第2高射特科群(第335高射中隊)、東部方面システム通信群、東部方面後方支援隊、東部方面衛生隊、 東部方面会計隊、東部方面指揮所訓練支援隊、東部方面情報処理隊、東部方面音楽隊、女性自衛官教育隊、東部方面警務隊、中央情報隊、電子作戦隊、システム通信団(一部)、中央音楽隊、輸送学校、自衛隊体育学校、朝霞駐屯地業務隊

一般開放エリア
南の大泉門側の案内図

北の朝霞門側の案内図
それぞれ進行方向を上としているので、南北が異なる。


関連

陸軍予科士官学校時代の位置関係や、振武臺記念館等は以前の記事を参照に


振武台碑(振武臺碑)

陸軍予科士官学校(陸軍豫科士官學校)
かつて、朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在していた。
陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)あったが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転となった。

振武台の名の由来は、昭和天皇が予科士官学校(朝霞)に行幸された際、「将来益々るい、八肱一宇の為をなせ」といった意味から付けられてる。

  • 市谷台 市ヶ谷:座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 座間:陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 所沢:陸軍航空士官学校(航士)
  • 振武台 朝霞:陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 若松:陸軍経理学校
  • 健武台 八王子:東京陸軍幼年学校(東幼)

振武臺碑について
昭和18年12月9日、昭和天皇が陸軍予科士官学校に行幸された際、この地に「振武台」の名を賜り、翌年この碑が建立されました。当時の碑記は、長年の風雪に晒され風化していたため、平成12年4月、陸軍予科士官學校卒業生の手によって復元されました。

陸軍大将 山田乙三 による揮毫。
山田乙三陸軍大将は、参謀本部総務部長、陸軍士官学校校長、第12師団長を歴任し、最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。

振武台碑の下には、終戦直後に占領軍の辱めを受けるのを免れるために「雄健神社」の御神体(御神霊・神剣・宝鏡)、そして陸軍予科士官學校扁額と学校本部の菊御紋章が埋められた。
20年後の昭和40年に掘り返され、御神霊は靖国神社に奉安され、扁額と御紋章は、振武臺記念館の2階に保存展示されている。

陸上自衛隊広報センター サイトより

振武台碑は、大泉門(朝霞駐屯地正門)を入ったすぐ左手にある。


雄健神社跡(おたけびじんじゃ)

雄健神社跡地は立入禁止。陸軍予科士官学校本部と正門の間にある。

振武臺記念館には、20分の1に再現した雄健神社がある。

陸上自衛隊広報センター サイトより

もともとは市ヶ谷にあった。
昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は、朝霞に奉遷。


陸軍予科士官学校本部跡(東部方面総監部庁舎)

陸軍予科士官学校本部跡地は、現在は東部方面総監部の庁舎となっている。

本部前の桜。このあたりのロータリー感は往時のまま。
右手に、雄健神社があった。

東部方面総監部の紋章


琵琶湖の桜

往時を物語る遺構。

琵琶湖について
 昭和5年、東京ゴルフ倶楽部ゴルフ場が、土地問題等で駒沢からこの地に移転し、同年工事が開始され昭和7年から10年間運用され、東京ゴルフ倶楽部というすばらしいゴルフ場がありました。この琵琶湖(人造湖)は、当時3番池越えのショートホールで、唯一の遺構です。名前の由来は、滋賀県にある琵琶湖と形が似ているということで名付けられました。
参考:
 元々は、膝折ゴルフ場と呼ばれていましたが、「膝を折る」とは、縁起が悪いと言うことで、東京ゴルフ倶楽部名誉会長である「朝香宮殿下」の御名に因んで同音異字の「朝霞」に決定し、同時に朝香町が誕生しました。

観桜を愛でる、なかなか佳きかな。


埼玉県殉職隊員之碑

埼玉県殉職隊員之碑
防衛庁長官 中曽根康弘書

主碑は、昭和45年の建立。
副碑には、埼玉県殉職隊員芳名が刻まれている。
80余名のご芳名。

合掌


環状交差点(ロータリー交差点)

陸軍時代から、位置関係が変わってない環状交差点(ロータリー交差点)。


中庭(朝霞クラブ)

現在の酒保というかPXというか、朝霞クラブな居酒屋に、なんとなく庭園(中庭)があるけど、往時からの酒保庭園(中庭)かどうかは不詳。


UH-1H

41722号、用途廃棄機で訓練用に使用


朝霞駐屯地での観桜

迷彩は溶け込みますね。

どうやら、犬小屋?

小砂子(ちいさご)

陸自らしい観桜を愛でる。

なんか来た。

資材運搬車(キャリアダンプ)、小さくて可愛い。。。
ベースは、諸岡の民生用キャリアダンプ

小型消防車。ダイハツ・ハイゼットがベース

警衛隊


朝霞厚生センター(コンビニ)

酒保ですね。

それっぽいものを買いました。

グランドのキッチンカーで、以下を。

観桜の定番


振武臺記念館の桜

門柱


振武臺記念館

陸上自衛隊広報センターから。

振武臺記念館の開放もあったので、見学。

りっくんランド
(陸上自衛隊広報センター)


CH-47J導入1号機

昭和61年(1986)から導入の始まったCH-47Jの1号機。
CH47Jは、52901号機から52934までの34機が導入され、35号機からは改良型のCH-47JAとなった。
朝霞駐屯地の南西に留置されており、敷地外から見学が可能。


撮影:2025年3月30日

旧陸軍航空士官学校の格納庫跡(入間基地)

2024年11月の入間基地航空祭に際して、旧陸軍航空士官学校時代の倉庫が5棟残っているというので、航空機はそこそこに倉庫の見学をしてきました。

もっとも、2024年の航空祭は、C-1ばかり見ていましたけど。


陸軍航空士官学校

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場

高萩飛行場

坂戸飛行場

館林飛行場関連は未訪問。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:891-C2-92
1944年9月28日、米軍撮影の航空写真

かつての陸軍航空士官学校時代の様子がわかる。

残存の格納庫部分を拡大

現在の様子

当時の写真と照合し、赤枠部分が残存と推測できる。


陸軍航空士官学校時代の北側建屋3棟の現況

2024年11月3日現在の様子。
北側には、3棟が残存している。

北側から。

南側から。
当時は、こちら側が駐機エリア。

西側の側面。


陸軍航空士官学校時代の西側建屋2棟の現況

西側には2棟、残存している。

現在も航空自衛隊入間基地の倉庫として活用されている。


修武台記念館・陸軍航空士官学校航空神社跡・修武台命名記念碑

そこにあるのはわかっているけど、見学は、いつになったらできるのかな、と。
申し込めばよいのですけど。

敷地外の柵の外から。

※2024年11月撮影


関連

「陸軍砲工学校跡地」と「産業遺産情報センター」(新宿区若松)

最近、若松河田駅の近くに行くことが多い。

この記事の追記(標石を追加で見に行ったり)で、再訪していたり。
周辺を調べていたら、陸軍砲工学校の標石もあるというので、再度で訪れてみました。


陸軍砲工学校

明治22年(1889)に設置。
昭和16年(1941)に陸軍科学学校に改組。
似たような校名の陸軍砲兵工科学校(陸軍兵器学校)とは異なる。
陸軍砲工学校では、砲兵科・工兵科将校の専門教育を実施。
昭和16年(1941)に陸軍科学学校に改組。
昭和19年(1944)に閉鎖。

陸軍砲工学校は、現在の総務省第二庁舎や新宿区立余丁町小学校のあるあたりにあった。


陸軍砲工学校の境界標石

国立国際医療研究センター前バス停の近く。総務省第二庁舎の北東の角に残っている境界標石。

「陸軍省所轄地」の上部が見える。

総務省第二庁舎の北側の入口。

統計博物館もあるけど、こちらには立ち寄らず。

国立国際医療研究センター

場所

https://maps.app.goo.gl/tDmxER1fQcDMLBSv7


産業遺産情報センター

予約制の資料館
公式サイトから予約が必要

https://booking.ihic.jp/l/ja-JP

2025年2月の某日に行ってきました。せっかくので。

東側の入口から入ります。

産業遺産情報センター

館内は撮影禁止

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」を全体的に紹介する施設。
幕末から明治の日本の近代化の発展の様子を、産業革命遺産の観点から展示解説。わかりやすく佳き展示。

8つのエリア、全23資産により構成される「明治日本の産業革命遺産」
【製鉄製鋼】
萩(萩反射炉、大板山たたら製鉄遺跡等)
鹿児島(集成館)
韮山(韮山反射炉)
釜石(橋野鉄鉱山・高炉跡)
八幡(八幡製鐡所)
【造船】
萩(恵美須ヶ鼻造船所跡等)
佐賀(三重津海軍所跡)
鹿児島(集成館)
長崎(小菅修船場等)
長崎(長崎造船所)
(石炭)
長崎(高島炭鉱、端島炭鉱等)
三池(三角西(旧)港)
三池(三池炭鉱、三池港)

音声ガイダンス端末を借りて、資料に接し、そうして1時間ほど、滞在。

ガイドブック

https://www.ihic.jp/l/ja-JP/guidebook

刊行物

https://www.ihic.jp/l/ja-JP/publications

https://www.japansmeijiindustrialrevolution.com/conservation/interpretation.html

ガイドブックや冊子は地味に嬉しい。

場所

https://maps.app.goo.gl/3bVKkGp8VphhfPf69

撮影:2025年2月


若松台の陸軍経理学校跡地散策(新宿区)

終戦時には小平にあった陸軍経理学校。
かつては、牛込区河田町にあり、陸軍士官学校の「市ヶ谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」と呼称されていた。

そんな若松台の跡地を散策してみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

  • 市谷台 市ヶ谷:座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 座間:陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 所沢:航空士官学校(航士)
  • 振武台 朝霞:陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 若松:陸軍経理学校
  • 健武台 八王子:東京陸軍幼年学校(東幼)

小平の陸軍経理学校

陸軍経理学校「若松神社」

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

https://maps.app.goo.gl/S4v4fQaUiLFFsACN8


若松台の陸軍経理学校跡地の散策

東京女子医大前に跡地の記念碑がある。
この界隈は、戦前は、成城学校、陸軍振武学校、陸軍経理学校などがあり、戦後は、都営若松アパート、東京韓国学校、東京女子医大学校となってきた。成城学校はいまもある。


陸軍経理学校跡碑(東京女子医大)

陸軍経理学校跡

若松台と称し、明治33年(1900)年から昭和17年(1942)年に、多摩・小平へ移転するまで経理部将校を養成した。

平成22年12月吉日
同窓会 若松会 建之

女子医大通り

東京女子医科大学の創設者は吉岡彌生。昭和5年(1930)に東京女子医科大学病院1号館が建設された。平成28年(2016)に解体。

場所

https://maps.app.goo.gl/S4v4fQaUiLFFsACN8


陸軍経理学校の境界壁跡と境界標石(水野原児童遊園付近)

東京女子医科大学の北側の住宅地に、陸軍経理学校時代の境界壁の残骸が残っている。
再開発もあり、すでに一部は撤去されてしまっている。

下記は2024年5月の様子。

下記は2025年1月の様子。ビルが新築され、煉瓦壁は除去された。

陸軍の境界標とおもわれる標石。

もう一個、あった。こちらも陸軍境界標石と思われる。

ぼちぼち、新築ビルが完成する。

場所はこのあたり

https://maps.app.goo.gl/G7bJe2BJndmCwzv46


陸軍経理学校の境界標石(日生薬局牛込店前)

X(Twitter)のフォロワー『遺構』散歩 カントさん(@6s8U7cYM1hiROXY)から、教えていただきました。

さっそく、見に行ってみましたので追記。

高さに違和感がないのが不思議。なんで飛び出ていないのだろうか。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/v2BG1fKqrURcUWa96


若松町の陸軍境界標石(若松河田駅前)

若松河田駅の「若松口」のすぐ近く。

同じく、X(Twitter)のフォロワー『遺構』散歩 カントさん(@6s8U7cYM1hiROXY)から、教えていただきました。

こちらも足を運んでみました。

標石の隣の自販機が目印。

ビルの東側にも標石がある。

今昔マップon the webから抜粋

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.700688&lng=139.718118&zoom=17&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

場所的には、経理学校に近いけど、道を挟んだ反対側。なんの境界標か、ちょっと悩ましい。移転してる?

どうやら「牛込憲兵分隊」の陸軍境界標石らしいです。
コメントにて、ご教授頂きました

場所

https://maps.app.goo.gl/Q7h61t6rmKa2PeL16


小笠原伯爵邸
(昭和2年造・東京都選定歴史的建造物)

若松河田駅の近くには「小笠原伯爵邸」がある。東京都選定歴史的建造物。
旧小倉藩の華族小笠原長幹伯爵邸。1927年(昭和2年)建立。
スペイン風邸宅、スパニッシュ様式で鉄筋コンクリート造の地上2階、地下1階建て。
もともとは江戸時代の小笠原小倉藩下屋敷跡。
戦後1948年(昭和23年)に米軍に接収。4年後に東京都に返還。
1975年(昭和50年)まで東京都福祉保健局中央児童相談所として使用されたが、その後は放置。
2000年(平成12年)に東京都生活文化局から民間貸出となり、現在のレストラン「小笠原伯爵邸」としてオープンし、今日に至っている。

小笠原長幹は小笠原宗家30代当主。
信濃小笠原氏は5つの藩に別れた譜代大名であり、信濃小笠原氏のうち府中小笠原氏の流れをくむ旧小倉藩の小笠原宗家は伯爵家。(小笠原伯爵家)
そのほかの小笠原家は子爵家。
府中小笠原氏として、安志小笠原子爵家・千束小笠原子爵家・唐津小笠原子爵家。
松尾小笠原氏として、勝山小笠原子爵家。

ちなみに唐津小笠原子爵家の小笠原長生は海軍中将として著名。

https://senseki-kikou.net/?p=39525

場所

https://maps.app.goo.gl/QjjwQca2TvcARzvF7


若松河田駅

若松町と河田駅の複合地名駅。

場所的には、若松町。
陸軍経理学校は、若松台と呼称されていた。

ちかくには、成城学校もある。
創立当初は陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校であった。

※撮影:2024年5月及び2025年1月


関連

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

磯部浅一は、経理学校出身だった。(もちろん小平に移転する前に卒業しているが)

海軍経理学校

福岡陸軍墓地(福岡博多の戦跡散策3)

福岡の戦跡散策その3です。
「福岡縣護國神社」には、慰霊碑のたぐいはなかったけど、代わりにこの福岡陸軍墓地に集約されている感じです。

その1はこちら。

その2はこちら。

福岡陸軍墓地の由来
 明治19年 陸軍歩兵第24聯隊が福岡城(舞鶴城)に設置された。陸軍省の所管であったこの丘には、日清戦役以降の戦病死者等の墓が建てられていた。昭和10年、上村聯隊長が墓の改修統合を命じ、軍民一体となった協力で、那珂川町片縄から巨大な御影石が切り出された。
 そして「日清」「日露」「青島・西比利亜」「殉職将兵」の墓が、昭和15年『皇紀2600年』に「満州・上海」「支那事変」の2基が建立、計6基となった。戦後昭和57年5月には「大東亜戦争碑」が建立、他に「ガダルカナル島」「ビルマ・雲南」「ドイツ軍人」等の墓碑がある。

「谷公園」が正式な公園の名称。
ゆえに、「谷陸軍墓地」とも呼称される。

国有地であれろ、管理は福岡市の管轄。
福岡陸軍墓地慰霊祭の主催は、福岡県郷友連盟が執り行っている。


福岡陸軍墓地巡拝

厳かなる聖域へ。

一段目の石段を登り、ちょっとした空間の先に、二段目の石段がある。

3段目に慰霊碑が林立する空間が控えている。


福岡県西方沖地震の被害復旧に関して

大東亜戦争戦病歿者之墓に刻まれた「福岡県西方沖地震」に際しての福岡陸軍墓地の被害と復旧に関して。別枠で記載をしておきたい。

福岡県西方沖地震の被害復旧経緯
平成17年3月20日(日)午前10時53分 マグニチュード7の地震が発生し、当墓碑にも「ズレ」等相当の修復があった。此の修復については諸官公庁の対応は無かった。
(1)平成19年3月 止むなく民間有志団体にて修復改良委員会を組織し、広く募金をし約千百万円の浄財を得て、第1次として石碑のズレ直しを行った。
(2)さらに協議の結果、改組された新委員会では、英霊の御声を聞いて各墓碑内部を開き、その惨状に驚き以後誠心誠意修復改良に努め平成20年12月6日墓碑の修復落成式を行った。
(3)平成20年10月 NPO陸軍墓地修復改良保存委員会を設立し、第3次修復改良事業を行っているが、国による墓地管理の1日も早い実現を望んでいる。

福岡県西方沖地震の被害復旧内容
第1次
石碑7基の内「ズレ」ている5基について、重機が使えないので人力作業により修復す。平成19年10月21日の秋季慰霊祭に間に合った。
第2次
委員会の体制を切り替えて墓碑の扉錠を破壊して内部調査、その惨状に驚く。水抜きの上吸込枡の設置等の排水改良、倒壊棚は撤去し新しく楠材を使用して組み替え。1万4千有余のお骨の奉安替え。正面階段2か所に手摺取設。車椅子通路の新設等を実施す。
第3次
委員会をNPOに変更して登記。各碑前の繁りすぎた樹木を撤去し榊を植栽しての改良。案内板・由来板等の制作。公的な交渉を進行中
 (平成22年1月末現在)


忠霊鎮護之地

最初に目についたのが、「忠霊鎮護之地」の碑
聖域の入口。

歩兵第24聯隊の戦没者の階級氏名が刻まれている。


手水盤

献奉
福岡市曹洞宗 星華婦人會
昭和11年7月建設


灯篭

奉献
愛国婦人会福岡県支部
皇紀2596年

皇紀2596年は、1936年(昭和11年)建立。
手水盤と同じですね。


日清戦役戦病歿者之墓

日清戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍少将 森部静夫 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

森部静夫は、福岡県出身。最終階級は陸軍少将。士官生徒10期。
息子の森部静武はバイオリニストで有名。


日露戦役戦病歿者之墓

日露戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之 
陸軍大臣 林銑十郎 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

林銑十郎は石川県出身。最終階級は陸軍大将。士候8 陸大17。
揮毫の昭和10年の陸軍大臣が、林銑十郎であった。
昭和12年に内閣総理大臣に就任するも4ヶ月の短命政権におわった。昭和18年に薨去。


青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓

青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍中将 西川虎次郎 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

西川虎次郎は、福岡県出身。最終階級は陸軍中将。士官生徒11 陸大11期。
第13師団長や第1師団長などを歴任。


満洲及上海事変戦病歿者之墓

満洲及上海事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之 
陸軍少将 中牟田辰六 謹書

皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。

中牟田辰六は、佐賀県出身士族。最終階級は陸軍少将。士候14期。
歩兵第24連隊長(通称:福岡聯隊)や歩兵第27旅団長などを歴任した。


支那事変戦病歿者之墓

支那事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之 
陸軍中将 長瀬武平 謹書

皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。

長瀬武平は、富山県出身。最終階級は、陸軍中将。士候18 陸大30期。
佐世保要塞司令官や、留守第12師団長(北部九州)などを歴任した。
昭和15年に予備役となるが、昭和20年には対馬要塞司令官に就任している。


殉職将兵合葬之墓

殉職将兵合葬之墓
紀元2595年建之 
歩兵第24聯隊長 上村利道 謹書

紀元2595年は、1935年(昭和10年)

上村利道は熊本県出身。最終階級は陸軍中将。士候22 陸大34期。
昭和8年に、福岡聯隊と呼称される歩兵第24聯隊長に就任。
終戦時の昭和20年には、第36軍司令官に就任、本土決戦に備えた精鋭の決勝兵団の軍司令官であった。


大東亜戦争戦病歿者之墓

大東亜戦争戦病歿者之墓
勲一等旭日大褒章 剱木亨弘 謹書

剱木亨弘(けんのき としひろ)は福岡県出身の政治家。
佐藤栄作内閣の文部大臣、政界引退後は、福岡県立美術館長や共立女子大学学長などを歴任した。

碑文
 昭和20年8月15日「万世のために太平を開かん」との詔により 万魁の涙をのみ終戦を迎えた その後36年営々として祖国再建に努力いまや世界の大国となった 惟うに今次の大戦は自存自衛のため日本国の存亡をかけ 虐げられた民族の解放と万邦共栄を願っての聖なる戦いであった 遂には敗戦の悲境に沈淪せしも次々よ亜細亜の民は独立と自由の栄光をかち得たことは 世界史上嘗てなき歴史の荘厳なる事実である
 この間 わが郷土部隊は各地の激戦に参加し言語に絶する凄惨苛烈なる闘いを展開 軍の華とうたわれた かくして本県出身の英霊 8万8千676柱に及ぶ しかるに碑の未だ無きを嘆く 同じ戦場に生死をともにし万死に生を得た戦友並びに遺族とともに先覚有志のこころざしを承け 多くの人々の赤心浄財を募り 本日「大東亜戦争戦歿者之碑」建立となる
 改めて英霊の崇高なる精神と偉大なる業績に対し限りなき敬慕と感謝のおもいをとこしえに伝えまつる
 み霊よ とわに安らかなれ
  昭和57年5月30日
   福岡県大東亜戦争戦歿者戦歿者慰霊顕彰会 建立


ガ島戦士之碑

ガ島戦士之碑
福岡市長 新藤一馬 謹書

昭和十七年八月三十日より翌十八年二月七日に至る間 英領ソロモン群島ガダルカナル島ルンガ飛行場の争奪をめぐる米軍との戦いに 食なく弾薬尽きて尚勇戦し要地アウフテン山をよく死守した福岡歩兵第百二十四連隊の将兵三千百七十九柱の霊 此の地に静まる
 昭和四十九年三月吉日建立
  ガ島会


ビルマ・タイ 垃猛雲南地区戦没者之碑

ビルマ・タイ
垃猛雲南地区戦没者之碑
中国雲南の激流怒江の上に聳ゆる垃猛並びに雲南地区に眠る三千四百余の戦没者の御霊安かれと祈る
 昭和五十九年九月建立
  垃猛雲南地区戦没者之碑 建立賛同者一同


明治維新志士之墓

明治維新志士之墓

明治維新志士之墓由来記
 畏くも、明治天皇の有難き 聖旨を奉体として筑前藩士黒田長知が明治元年十一月筑前国那珂郡堅粕村字東松原に妙見招魂社を同馬出村字東松原に馬出招魂社を創設し明治維新以来国事に殉した藩出身志士の忠霊を慰められた再来祭祀を厳修して来たのであるが昭和十八年四月三十日福岡市六本松に県下一円を総括する福岡県護国神社が創立されたので同日この両招魂社の御神霊を同神社に合祀せられた
然るに両招魂社の施設は該地にそのまま存置されたので福岡県護国神社に於いては毎年ここに墓前祭を執行し祭祀はこれを継続して来たのであるが戦後都市の急激な発展に伴い千代松原の浄地も激変しこの招魂社跡の諸施設も或いは倒され或いは破壊されてその聖域はこれを旧の如く保持し得ざるに至りこれが移転は多年の懸案であった此の秋に際り福岡県に於ては東公園整備を計画両招魂社跡の移転について要望があったので検討の結果御神霊は神社に合祀済みであり遺跡は由来の地である東公園地内に保持しその御遺骨はこの陸軍墓地にお鎮まり願いこの墓碑を建設永遠に祭祀を厳修する事になった今ここに移した祭神名を列記すれば次の通りである
 謹んで建碑の由来を録し後世に遺す次第である
   昭和四十四年八月十日
    福岡県護国神社 宮司 平川隆一


満洲及上海事変戦病死者合同碑

満洲及上海事変戦病死者合同碑
第十二師団長 杉山元 書

杉山元は福岡県出身。最終階級は元帥陸軍大将。士候12 陸大22期。
昭和7年2月29日に第12師団長に就任している。第12師団の編成地は小倉。
なお、昭和8年に3月18日に杉山は陸軍航空本部長に転籍している。
杉山元は、こののち昭和11年に教育総監に就任し陸軍大将を拝命。昭和12年に陸軍大臣、昭和15年に参謀総長、元帥。そして昭和19年に再び、教育総監、そして陸軍大臣となり、昭和20年に第一総軍司令官で終戦を迎えた。
そして昭和20年9月12日に自決。


明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊忠死之碑

明治廿七八年之役=日清戦争
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)の戦死者の慰霊碑

明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊下士忠死之碑

明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊兵卒忠死之碑


個人墓

個人墓もいくつか。

なお、個人墓の中に、青島でのドイツ兵捕虜の墓もあるというが、見落とし。
このあたり、事前の調査を怠ったがゆえの凡ミスです。
ドイツ兵捕虜墓のさらに奥には、協会標柱もあるというが、あわせて見落とし。
福岡、再訪必須だが再訪・・・できるのか?

非常に綺麗に整備されている聖域。
行政に対する不満が、福岡県西方沖地震に際しての復興の記録で爆発していたが、保存会の皆々様のご尽力に感謝。ありがとうございます。

それぞれの慰霊碑に合掌巡拝

ありがとうございました

雨が降る中での参拝であったが、福岡滞在中に、どうしても訪れたかった聖地。
福岡縣護國神社と、福岡陸軍墓地を巡拝できたので、福岡県の最初の一歩としては、まずまずかと。これ以上は、贅沢な感じです。時間的な制約などもありましたので、また今度、ゆっくりと来ましょう。

場所

https://maps.app.goo.gl/aWVGktFJAp7jdmKT6

※撮影:2024年11月


関連

陸軍墓地巡拝

はじめに

西部軍司令部防空作戦室残壁(福岡博多の戦跡散策2)

福岡城阯の東端に、西部軍司令部があった。
そこにコンクリート壁が残っているというので足を運んでみた。

その1はこちら。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R236-No2-30
1948年4月7日、米軍撮影の航空写真を加工。

北西が、大濠公園や舞鶴公園、福岡城址など。

福岡城址、拡大。

部軍司令部防空作戦室は中央。南側に、コンクリート壁が設けられた


西部軍司令部防空作戦室残壁

西部軍司令部があった福岡城三の丸跡。
戦後、米軍の接収を経て、福岡高等裁判所や地方裁判所の庁舎が置かれ、2023年10月に舞鶴公園の駐車場として整備された。

西部軍司令部防空作戦室残壁
1940年12月、防空を担う西部軍司令部が小倉市から福岡市に移転された。
1942年頃、地下1階、地上2階のコンクリート造の防空作戦室が完成しました。この作戦室には「情報表示版」「情報表示燈」が設置され、これらの通信機と通信隊員・参謀・司令官を爆撃から保護するため、壁の二重構造などの特殊な設計が施されていました。
このコンクリート壁はその壁の一部です。

なかなかに圧巻なコンクリート壁。

場所

https://maps.app.goo.gl/cU3qrBtsZhTyLKAj6

撮影:2024年11月

その3はこちら


関連

そういえば、広島城にも防空作戦室(中国軍管区司令部)がありました。

白金火薬庫跡地「国立科学博物館付属自然教育園」散策(港区)

国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」であったと聞き、何もないとは思うけれども足を運んでみました。

ちなみに、白金火薬庫は、大正期には、白金御料地になりまして。


位置関係

「今昔マップ on the web」より。

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.638639&lng=139.714004&zoom=16&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

山手線の東側に「白金火薬庫」(旧白金御用地)、そして西側には「火薬製造所」があり、両地を軽便鉄道が結んでいることがわかる。


国立科学博物館付属自然教育園

「国立科学博物館付属自然教育園」の地は、古代においては「旧白金御料地遺跡」として埋蔵文化財包蔵地であり、中世においては「白金長者屋敷」として中世城館遺跡であり、近世においては、「高松藩主松平家下屋敷」であった。
明治時代に、「陸海軍の火薬庫」となり、大正時代に宮内省「白金御料地」となり、戦後に文部省「旧白金御用地」、そして「国立科学博物館附属自然教育園」となった。


白金火薬庫

国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書
【資料編】
史跡にかかる個別調査報告

https://ins.kahaku.go.jp/research/download/ins_tobichi03.pdf

資料をもとに、白金火薬庫について、以下にまとめておきたい。

「白金火薬庫」
「高松藩主松平家下屋敷」は、明治4年(1871)新政府の所有となり、松平下屋敷跡地に「海軍火薬庫(海軍白金火薬庫)」が置かれたことにはじまる。

徳川幕府が設立した「目黒砲薬製造所」は、明治元年十月に軍務官の所管となり、「目黒火薬庫」として使用。
明治5年2月に海軍省の兵部省より独立分置されるが、「目黒火薬庫」は陸軍省に所属。松平讃岐守下屋敷に海軍の「白金火薬庫」が設置された。明治12年10月24日、海軍は「目黒火薬庫」を廃止して「白銀火薬庫」に合併。「目黒火薬庫」跡地に「火薬製造所」を新設。
明治26年(1893)まで、「白金火薬庫」は海軍の所管であったが、同年4月に陸軍省に移管。「目黒火薬製造所」も海軍省から陸軍の東京砲兵工廠に移管となり、「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」となった。
陸軍の「白金火薬庫」は大正2年(1913)に廃止。
陸軍の「目黒火薬製造所」も昭和3年(1928)に群馬県岩鼻に移転している。

「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」
現在の防衛省の目黒地区は、明治11年に海軍の火薬製造所として建設が進められて明治18年に完成したのち、明治26年に陸軍へ引き継がれて砲兵工廠所轄の目黒火薬製造所となった。
その後、大正12年に発生した関東大震災の影響で、設備は他へ移転して目黒火薬製造所は廃止されることとなり、替わって海軍技術研究所が築地から移転した。

「火薬運搬軌道」
明治34年(1901)、目黒火薬製造所と白金火薬庫の間に、火薬や物資運搬用の軽便軌道が敷かれた。
現在も、目黒区立茶屋坂児童公園から目黒三田通りに向かう道には、「陸軍」と記した石柱が残っており、軍用軌道の跡とわかる。
軍用軽便軌道は、明治44年(1911)、白金火薬庫の管理換えにより廃止撤去となった。


国立科学博物館付属自然教育園の散策

国立科学博物館附属自然教育園
歴史と自然
 自然教育園は、室町時代に白金長者と呼ばれる豪族が館を構えていたといわれています。江戸時代は高松藩主松平讃岐守の下屋敷、明治時代は海軍省・陸軍省の火薬庫、大正時代は白金御料地と移り変わり、昭和24年に国の「天然記念物及び史跡」に指定されるとともに、国立自然教育園として一般に公開されるようになりました。
(以下略)

自然教育園のおいたち
古代   縄文中期、この地に人が住みつく
室町時代 豪族 白金長者が館を構えていたといわれる
江戸時代 高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷
明治時代 海軍省・陸軍省の火薬庫
大正時代 宮内省の白金御料地
昭和24年
1949年  国の天然記念物及び史跡に指定
     国立自然教育園として一般に公開
昭和37年
1962年  国立科学博物館附属自然教育園となる

自然教育園の地図。散策してみましょう。

一番、北の赤丸で囲んだところがポイント。

火薬庫跡のレンガ片
現在、建屋の痕跡は残っておらず、レンガ片(煉瓦片)は。火薬庫時代の名残という。

中世の痕跡もある。

土塁。

土塁は、火薬庫時代にも造成されていると思われる。

前述の資料(国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書【資料編】 史跡にかかる個別調査報告)によると、敷地内の南西に境界を示す「陸軍用地の標柱」があるいうが、立ち入り禁止エリア。

前述の資料の引用に留める。

白金火薬庫の名残を探して、レンガ片でもって往時を感じる。
ちょっとした断片的なものであれど、このちょっとした痕跡があるだけでもだいぶ、趣きが出てきて、散策のやりがいがあるものとなる。

※2024年9月撮影


関連

陸軍清洲飛行場(甚目寺飛行場)跡地散策(愛知)

愛知県に出張の折、時間ができたので、名古屋から足を伸ばして、名鉄大里駅に。ここから、清須飛行場跡地を目指してみる。



位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97L24-C1-7
1945年4月22日、帝国陸軍撮影の航空写真を加工。

清須飛行場部分を拡大

現在の様子。戦後の農地開拓のまま、かつての清須飛行場の用地が残っている。


清須飛行場(甚目寺飛行場)

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月、海部郡甚目寺町と西春日井郡清洲町にまたがる約200ヘクタールの農地に建設された。正式名称は清洲飛行場だが、飛行場の大部分が甚目寺町にあったため、地元では甚目寺飛行場と呼ばれていた。
終戦時には、飛行第5戦隊が所在し、中京地区の防衛任務にあたりつつ、来たるべき本土決戦に向けて戦力を温存していた。


清須飛行場の建屋

清須飛行場にあった建屋を戦後に移築して倉庫に転用したという。

https://www.asahi.com/articles/ASNDV7RSVND4OIPE02F.html

記事より、転載

 横井さんら地元住民によると、終戦直後から1947(昭和22)年ごろにかけて、飛行場に放置されていた建物群や備品は次々と持ち去られた。横井さんの父親は飛行場跡を開拓して田畑に戻す組合の役員を務めていたといい、「使える物は何でも使う時代だったから住民が引き取ったようだ。集落総出で大八車に積んでここまで運び、組み立てたと聞いた」。
 横井さんも自宅に軍用機の燃料タンクと座席を保管している。飛行場の建設時には勤労奉仕で土運びに駆り出された経験を持つ。
 倉庫は後に、板張りの壁をトタンに変えたり、屋根をスレートにふき替えたりしたが、柱などの部材は当時のままという。昭和30年代にはボヤ騒ぎにも見舞われたが、令和に至るまで残った。宮崎亮一さん(81)は「しっかりした建物だったので補修で済んで、壊さずに使い続けることができた」と振り返る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3swzrukcTCfKqiN5A

バス停は「増田(ました)」

増田長盛の出生の地、という。
ましたながもり

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA


清須飛行場跡地

広がる農地は、戦後の開拓。この広大な農地がそのまま清須飛行場の跡地となる。


清須飛行場の作戦室跡

宅地の奥に、作戦室跡が残っていた。
頑丈なコンクリート建屋は、これを撤去するのも大変な労力を割くことが容易に想像され、それが撤去を諦めて残ったとも言えそうだ。

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA

飛行場エリア=農地開拓エリアの外周となり、周辺は宅地造営が進むも、作戦室跡地だけは取り残されている模様。

南に進む。

高架道路は、名古屋第二環状自動車道。
清須飛行場跡を北東から南西にかけて斜めに横断している。


元飛行場開拓記念碑

あま市甚目寺公民館の敷地内に開拓記念碑がある。
清須飛行場の南端近く。

元飛行場
開拓記念碑

元飛行場開拓記念碑文
太平洋戦争の砌(みぎり)国土防衛のため建設された飛行場が終戦と共に廃棄された。
元来この地は農民の至宝で五穀豊壌の沃野であった。
戦後国力は極度に疲弊し農家と雖も食料に事欠く時であったから関係町村民は挙ってこの地に開拓の意欲を燃やし主食の甘薯馬鈴薯の作付けをしたが大半は雑草の茂る荒蕪地として放置されてあった。
時の甚目寺町長・近藤寿治氏は大いに之を憂い昔日の美田に復帰せむと払下げの請願書を関係官庁に提出しあらゆる困難を押して運動された結果、昭和二十三年十月十八日遂に氏の至誠が認められ入植の許可が下付された。
宿願のかなった農民は一致団結して工事に勉励した。
理事長・山田善吉氏の人格と手腕は衆望を集めて事業の推進に精励せられた。
又、関係農民のたゆまざる努力により灌漑排水共に整備せる理想の開拓地が十有余年の星霜を経て完成し、黄金波打つ豊穣の沃野が限りなく展開されて穀倉地帯の名にふさわしい美田が復興した。
今回清浄の地を選んで開拓記念碑の建設されることは山田善吉氏を始め尽力された人々の頌徳碑でもある。
茲に功労者各位の氏名を列記して永久にその功績を讃えます。
 里人が こころ合わせて 拓きたる
    飛行場の跡  白鷺群れる

場所:

https://maps.app.goo.gl/xAj1YJR68yNThp4BA

あま市甚目寺公民館

※撮影:2024年6月


関連

愛知縣護國神社

「鉄道聯隊材料廠・内部公開」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。
千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物の内部公開があったので、足を運んできた次第。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」

https://www.cku.ac.jp/news_all/11789

https://www.cku.ac.jp/news_all/12889

千葉経済大学総合図書館では、前期企画展示として「学び舎に残る歴史 ~煉瓦棟と千葉の戦跡~」を5月27日から開催しています。展示期間は当初8月23日までの予定でしたが、好評につき展示ブースを拡大し、10月31日(木)まで期間を延長いたします。
 本学の敷地内に残る「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)」は、千葉県内でも珍しい明治に創建された大規模煉瓦建築物で、千葉県有形文化財に指定されています。今回の企画展示では、その「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築」を中心に、本学周辺に残る旧軍施設の成り立ちや現状、および地域史に欠くことのできない背景についても紹介しています。

通常は非公開。2024年の企画展で特別に内部も公開された。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。工場、倉庫。 


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)内部公開

通常は非公開。今回の企画展に伴い特別にスタッフ立ち会いのもとで内部公開も実施された。ヘルメット着用必須。

1908年(明治41年)8月に、陸軍鐵道第一聯隊の材料廠として鉄道軌道の材料や蓄積の管理、列車の組立や修理を行うことを目的に建設。
主要構造部分は、東西54.4m、南北12.7mの東西に長い長方形。(南北にそれぞれ2.7m幅の下屋を含む)主屋の東西:煉瓦造、下屋・小屋組:木造、屋根:トタン葺き、木造部分の外壁:トタン張り
内部は煉瓦造の連続した10連の弧形アーチが5.4m間隔で並んでいる。

煉瓦の積み方は、オランダ積み。交差イギリス積みとも。

建設当時から使用されているクレーン。

クレーン用にもレールが曳かれている。

棟内にあった資料。
限られた時間で、詳細を目通しするのはムリでした、、、

昭和63年の煉瓦試験結果報告書

煉瓦建築に関する調査報告書
平成元年


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)軌道跡

南側の外には2種類の幅の違うレール600mm(鉄道聯隊演習路線)・1067mm(軍用鉄道・国鉄など)が一部残っており、当時の出入り口に続いている

ふたつのレール幅が確認できる。


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)外観

ところどころ、崩れかかっている箇所が気になる。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」
展示コーナー(図書室)

配布資料

ペーパークラフトにて煉瓦棟を模型再現

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築 模型
千葉経済大学模型部作成 1/150サイズ

航空写真

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
概要や歴史、工事年表など

鉄道聯隊について(1)

小湊鐵道に残る鉄道聯隊の痕跡
鉄道聯隊で使用されていた蒸気機関車(B104)や」鉄道聯隊のマークが刻まれたレール、97式貨車の写真など。

枕木
旧千葉県営鉄道多古線の路線跡から出土した金属製の軽便鉄道枕木
千葉経済大学敷地内にかつてあった千葉レールセンターで使用されていたと推測される木製枕木

鉄道聯隊について(2)

千葉県営鉄道

近隣(習志野・佐倉・四街道)の軍施設

大学周辺(千葉市内)の軍施設

※撮影:2024年10月


関連

旧陸軍第四師団司令部庁舎と大阪城の戦跡散策

大阪城周辺を訪れる機会があったので、前回記事の不足分などを補填的に掲載をしてみる。
仕事終わりの夕方の18時頃に。


大阪城周辺の戦跡

下記も参照に。
本記事は、下記に掲載しきれていない内容を中心としております。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。


第四師団司令部庁舎

「旧・大阪市立博物館」は、かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。
大阪城天守閣の復興のために集められた寄付金約150万円の内、約80万円を投じて1931年(昭和6年)に本丸に新築された。
外観は左右対称のロマネスク様式を採用。
1940年(昭和15年)に、中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入り、第四師団司令部は二ノ丸に移転。
1945年(昭和20年)に、中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」を使用。
終戦とともに、GHQに接収。
1948年にGHQ接収解除、その後は大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として使用され、1958年からは、大阪市の管理下におかれる。
1960年からは、大阪市立博物館として使用され、市立博物館としては2001年に閉館。
2001年から、2016年までは特に何にも利用されずに保全され、2017年に複合施設「ミライザ大阪城」として再開業。

この建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年(1931年)市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。

外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。

戦後は、大阪市警視庁として、またそのあとは大阪府警察本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
その後、耐震補強工事などのリノベーションが施され、平成29年(2017年)10月、装いも新たに複合施設「ミライザ大阪城」としてよみがえりました。


明治天皇駐蹕之所

大阪市青年聯合團によって建てられた石碑。
大正14年(1925年)5月10日建立。


明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡

あぁぁ、見逃したあ、、、
司令部庁舎前の向かって左側の植え込み、、、


山里丸石垣の機銃掃射痕

山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった、山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

機銃掃射痕が、斜めに刻まれていた。


天守大石垣の爆撃被害跡

天守大石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)陸軍の関連施設が集中していた大阪城は終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

石垣が「ずれ」ているのがよくわかる。
爆撃の衝撃の大きさが、如実に伝わってくる。

※撮影:2024年5月


宇都宮市慰霊塔と宇都宮空襲(軍都宇都宮の戦跡散策6)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本編は「その6」です。「その5」はこちらから。


宇都宮市慰霊塔(北山霊園)

北山霊園行きのバスが、宇都宮駅から1時間に1本程度走っている。急に思い立って行こうと思ってもなんとかなる感じではある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tochigi_utsunomiya_city001/index.html

宇都宮市慰霊塔は、北山霊園の奥まった高台に鎮座していた。

以前の写真よりもきれいになっているので、近年の再整備と思われれる。

合掌

昭和四十五年九月
宇都宮市慰霊塔建設委員会
  委員長
  宇都宮市長 小池嘉子

明治以来國運は時に隆替したが遂に今日の繁栄を見たのは先人達が義勇奉公國難に處した賜である
茲に郷土出身の戦歿者戦争引揚死者戦災死者並に公務殉職者の勲を讃えて感謝の誠を捧げ世界の平和と祖國の發展を祈念しこの聖地に慰霊の塔を建てその冥福を祈る


平和の塔(北山霊園)

鳩と地球の平和の塔

平和の塔
  宇都宮市長 小池嘉子

昭和47年4月の建立


陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑(北山霊園)

栃木県出身の陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑。

陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑
 元第十飛行師団長陸軍中将近藤兼利 書

 昭和9年に誕生した少年飛行兵は、同20年太平洋戦争終結までの間に、若干14、5歳の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、日本陸軍航空部隊の中核となり、遼友と靖國の宮での再開を誓い合って、数々の武勲をたて、大空に華と散っていった。
 今は還らぬ友を偲び、英魂を慰め、その偉業を幾世に伝えると共に、永遠の平和を祈念して、生存者一同相はかり、ここに慰霊の碑を建立する。
 昭和49年9月23日
   少年飛行兵栃木県出身 生存者 関係者 一同 建立

皇太后陛下(香淳皇后)御歌
やすらかに
ねむれとぞ思ふ
 君のため
いのちささげ
志ますらをの
 とも


北山霊園

北山霊園は昭和39年開設。

東北新幹線を見下ろす高台

場所

https://maps.app.goo.gl/bHXmJQFgST9wj6uu6

※撮影:2024年8月


宇都宮空襲

軍都であった宇都宮は、軍需工場(中島飛行機)のあった太田市や大泉町ともども、たびたび空襲を受けた。
昭和20年(1945年)7月10日、7月12日、7月28日、7月30日、8月13日が主な空襲とされ、中でも7月12日の空襲ではB-29が133機到来し、市街地中心部を爆撃され600余名が死亡し特に「宇都宮大空襲」と称されている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_26.html

また、7月28日は宇都宮と同時に小金井も急襲されている。(小金井空襲)


枝病院門柱戦災記念碑(空襲を語り継ぐ門柱)

宇都宮市街地に。東武宇都宮駅のほど近く。

空襲を語り継ぐ門柱
 1945年(昭和20年)7月12日、宇都宮大空襲によって当時の市街地の大半が焦土と化し、この地にあった枝病院も焼け落ちてしまいました。
 このみかげ石の門柱は、枝病院院長・枝 全(たもつ)さん宅の玄関を支えていたもので「戦争の悲惨さを忘れまい」との枝さんの重いが込められ、現在まで大切に残されてきました。
 2000年4月1日
  うつのみや平和祈念館をつくる会

場所

https://maps.app.goo.gl/bywMzVXTPU25AJZUA

※撮影:2023年5月


旭町の大いちょう

昭和20年7月12日の宇都宮大空襲で被災し黒焦げとなり枯死するかと思われたが、復活を果たした「宇都宮の復興のシンボル」

樹齢は400年以上とされ、宇都宮城三の丸跡に位置する。
宇都宮城があったころからの現存物であり、宇都宮を取り巻く2つの戦争(戊辰戦争・大東亜戦争)を生き延びた貴重な存在でもある。

宇都宮市指定天然記念物
大いちょう
 昭和32年10月4日指定
推定樹齢 400年
樹高   33メートル
枝張東西 10メートル
  南北 13メートル
目通周囲 6.4メートル
大いちょうは、宇都宮城の三の丸と百間堀の堺の土塁の上にあり、宇都宮城ゆかりの名木である。今では、宇都宮市民のシンボルとして、多くの人々に愛されている。
 宇都宮市教育委員会
  (平成元年3月建)

宇都宮空襲と大いちょう
 宇都宮市は、一九四五(昭和二十)年の七月十二日深夜から翌日未明にかけての空襲で、中心市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者をだしました。大いちょうも、この空襲により、真っ黒に焼けるほどの被害を受けましたが、翌年には、新芽を吹き見事に再生しました。空襲にも負けなかった大いちょうの強さは、戦後、焼け跡に残された宇都宮市民を勇気づけました。
 そのことにより、大いちょうは、宇都宮の戦後復興のシンボルとなり市民に親しまれています。その後、市制九十周年を向かえた一九八六(昭和六十一)年に、「いちょう」は、市の木に制定されています。

場所

https://maps.app.goo.gl/AHNJ8XCT22Vm3XFL8

※撮影:2023年5月


カトリック松が峰教会

大谷石建築としては現存最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築。
1932年(昭和7年)11月20日に聖堂が竣工している。
昭和20年の宇都宮空襲において、屋根と礼拝堂が被災し焼失してしまったが、戦後すぐに復元を果たした。

宇都宮空襲を生き延びた建造物

場所

https://maps.app.goo.gl/6iLiBgSj2KUz9TwFA

※撮影:2023年5月


宇都宮ライトレール

せっかく雷都・宇都宮にいるのだから、噂のライトレールに乗車。


宇都宮餃子と陸軍第14師団

宇都宮餃子は、陸軍第14師団が、1940年(昭和15年)8月以降、衛戍地を満州としたことから宇都宮出身の将兵が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれている。

まあ、せっかく、宇都宮にいるのだから、餃子を。
駅ナカんだけど、ここの餃子、特に水餃子が美味しい!でした。

別の餃子も

※撮影:2024年8月

いったん、宇都宮関連はひとまず〆。
また追記があれば、それはそれで。。。


宇都宮関連

栃木縣護國神社
はじめに

宇都宮偕行社と憲兵隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策5)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その5」にあたります。「その4」はこちら。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


宇都宮偕行社跡(桜美公園)

現在の桜美公園が宇都宮偕行社のあった場所。
偕行社は陸軍将校准士官ら会員同士の親睦・学術・英霊顕彰施設であり、師団所在に設置されていた。

石碑がある。偕行社時代の名残でもある。

御大典紀念植樹之碑
第14師団長山田忠三郎

大正4年11月10日

なにかの跡。これも偕行社時代の名残だろうか。

桜美公園

桜の古木。偕行社時代からと思われる桜。

偕行社時代からかわらない正面の道路。

場所

https://maps.app.goo.gl/tiBNgZt3GsNstovdA

なにやら大谷石の門柱があった。往時のものかどうかは不詳。

偕行社の入口にあたる。


第14師団長庁舎跡(宇都宮合同庁舎)

現在の宇都宮合同庁舎には、自衛隊栃木地方協力本部などが入っている。

軍用地境界標柱(境界標石・境界石)が、敷地の南側にあった。

陸軍省

軍用地境界標は、ほかにも北西側にもあるらしいが、見つけられず。
北西側はきれいになっていたので、消失したのでは、とも思いつつ。

場所

https://maps.app.goo.gl/bHqxDcRQLRxfUS1V8


宇都宮憲兵隊本部跡

師団長官舎の近くに、宇都宮憲兵隊本部があった。
ちょうど、駐車場として、区画が残っており、境界壁がよく分かる。

境界壁

門柱跡

軍用地境界標柱(境界標石・境界石)

削られているが、この雰囲気は、境界標

場所

https://maps.app.goo.gl/Ry7QWuNMjxDVP2SP6


宇都宮憲兵隊分隊跡

宇都宮憲兵隊本部から西に約1キロ。東武宇都宮駅の北側に、宇都宮憲兵隊分隊が展開されていた。宇都宮市街地の中心部。ここにも境界壁と境界標が残っている。

軍用地境界壁

用地

陸軍用地の陸軍が削られ、用地だけのこる境界標柱。

場所

https://maps.app.goo.gl/f9i6gKGWncsYefj86

※2024年8月撮影

「その6」へ


関連

宇都宮歩兵聯隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策4)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


見返り橋(水無橋)

かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zPXbBSDDFJEstx3F7

歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。

いったん北に向かいます。


宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)

歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。

宝木
開拓之碑

碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
 昭和46年3月12日
  宝木開拓農業協同組合

場所

https://maps.app.goo.gl/bM5vn2kj31xCRecQ6


宇都宮歩兵聯隊跡碑

わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。

碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。

至誠
宇都宮歩兵聯隊跡

記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った 
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた 
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した 
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
 昭和38年3月10日
  宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
  および 有志一同

場所

https://maps.app.goo.gl/RzEUFYdMboA2y72r7


宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)

宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/FSVb5ftYrrdAHxGF9

警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。

殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。

胸像は委細不明

栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。


宇都宮歩兵聯隊の倉庫

栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。

明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。

敷地外から遠望。

倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。

場所

https://maps.app.goo.gl/mX4UCfw1DMHRQxtW8

※撮影:2024年1月

「その5」へ


関連

栃木縣護國神社

宇都宮第14師団司令部と衛戍病院の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策3)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その3」にあたります。「その2」はこちら。

また、撮影時期は2024年8月と1月が混在となります。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


第14師団

師団司令部は宇都宮。
日露戦争で日本は従来の師団すべてを動員したため、本土駐留師団がなくなる事態となった。そこで第14師団を含む4個師団が創設された。

明治38年(1905)に福岡小倉で結成。
明治40年(1907)に第14師団の衛戍地が宇都宮となる。
宇都宮第14師団水戸歩兵第27旅団隷下として、佐倉(水戸)歩兵第2連隊と習志野歩兵第59連隊。
宇都宮第14師団宇都宮歩兵第28旅団隷下として、高崎15聯隊と新設された宇都宮第66歩兵聯隊。
明治41年(1908)には、師団司令部が宇都宮の新庁舎に移転し、歩兵第28旅団司令部、騎兵第18連隊、満洲野砲兵第20連隊、輜重兵第14連隊が宇都宮への移駐を完了。翌年に、歩兵第59連隊が宇都宮への移駐を完了。
大正8年(1919年)4月、第14師団はシベリア出兵のため派遣。
大正9年(1920年)5月、ニコラエフスクで守備を行っていた水戸歩兵第2連隊第3大隊と一般市民が過激派によって虐殺される事件、いわゆる「尼港事件」が発生。
大正14年、宇都宮歩兵第66連隊が廃止。松本歩兵第50連隊が第14師団歩兵第28旅団の隷下となる。歩兵第27旅団司令部が水戸から宇都宮へ、歩兵第28旅団司令部が宇都宮から高崎へ移動。

支那事変では、第14師団は華北戦線に投入される。
太平洋戦争が始まると、満洲駐剳師団から南方へ転用され、第14師団はパラオ諸島に展開。
第14師団は主力をパラオ本島に、歩兵第2連隊(およびその配下に編入された歩兵第15連隊第3大隊)をペリリュー島に、歩兵第59連隊第1大隊をアンガウル島に配備。
ペリリュー島・アンガウル島の部隊は全滅し、パラオ本島に残る師団主力は飢餓と空襲で多くの損害をだし終戦を迎えている。

群馬縣護國神社

第14師団司令部・宇都宮衛戍病院跡

現在の栃木医療センター。
南のエリアには、栃木県体育館があったが、2021年度末で持って閉鎖となり、解体中。跡地は栃木県の公共機関の再開発予定。

独立行政法人国立病院機構栃木医療センター

結構大きい。

以下、サイトより。

沿革
明治41年4月20日(1908年) 宇都宮陸軍衛戍病院として創設され、その後、分院の設置を経て、宇都宮第一陸軍病院と宇都宮第二陸軍病院となり、昭和20年12月1日の厚生省へ移管と同時に、宇都宮第一陸軍病院が国立栃木病院へ、宇都宮第二陸軍病院が国立宇都宮病院として、それぞれ発足した。昭和21年12月20日には、この両院が合併し、国立栃木病院となり、更に昭和25年4月1日、本院の隣接地にあった日本医療団宇都宮中央病院を併合した。その後平成13年1月6日、省庁再編成により厚生労働省所管となった。平成16年4月1日に独立行政法人化に伴い、独立行政法人国立病院機構栃木病院となり、平成25年4月1日に独立行政法人国立病院機構栃木医療センターに名称変更した。

https://tochigi.hosp.go.jp/information/outline_shisetsu.html

場所

https://maps.app.goo.gl/6rRsSd3KGppZy6DT7


陸軍第14師団の東営門の門柱(栃木医療センター)

病院の東側の道路にそって、門柱がありました。
一柱は倒れた状態。このまま放置されるのか、消失してしまうのか、ちょっと心配です。

コンクリのモルタルが剥がれて、レンガが露出しています。

内側から

一柱は倒れておりました。

うーむ、な状態。

場所

https://maps.app.goo.gl/cofMc8nPd3PfYu5q9


宇都宮衛戍病院の軍用地境界標

宇都宮陸軍衛戍病院の北西端に。
歩兵連隊との境界にも当たる場所。

右が、陸軍衛戍病院、左が歩兵第59聯隊。

場所

https://maps.app.goo.gl/CwEqDDvsUmitLexr5


陸軍第14師団の西営門の門柱(栃木医療センター)

西側にも門柱が残っています。
栃木医療センターの南西端に位置します。
現在、門柱としては機能していませんが、残す意図があると良いのですが。

場所

https://maps.app.goo.gl/nFmQF8N2JLnf61bz9

※撮影:2024年1月及び8月

「その4」へ


関連

栃木縣護國神社

八幡山地下司令部跡(軍都宇都宮の戦跡散策2)

2024年1月に宇都宮周辺を散策してみました。

本記事は、「その2」です。「その1」はこちら。


旧陸軍地下司令部跡

八幡山公園。宇都宮駅から徒歩で30分くらいの道のり。

そういえば、むかしむかし、2002年に、八幡山公園の南側に鎮座する「蒲生神社(蒲生君平は「寛政の三奇人」として高山彦九郎、林子平とともに名を連ねる人物。天皇陵の探査修復をした「山陵志」で知られている。)」に訪れていた。
その時の私は、全国の神社に夢中だった頃で、戦跡等は興味がなかった年頃(20代前半のころですね)でした。
約20年後に、全く違う目的で、同じような場所に訪れるというのが、奇縁でもあり。

そんなことを思いながら、八幡山まで歩く。

ありました。穴が。

宇都宮には、第14師団の司令部がありました。

旧陸軍地下司令部跡
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、陸軍は空襲と本土決戦に備え、この地に地下司令部を建設していました。6月中旬から約2ヶ月間で、総延長721mにおよぶ横穴を掘り上げました。完成前に終戦となり、実際に使用されることはありませんでした、戦争の悲惨さと平和の大切さを語り継ぐものとして、現在もその姿を留めています。

https://utsunomiya-8story.jp/search_post/%E6%97%A7%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8%E8%B7%A1/

地下壕は、機密保持のため宇都宮師管区の東部36・37・38・42部隊に属する隊員約250人が秘密裏に工事を進めた。
作業隊は11個小隊に分けられ、各々が1か所ずつ出入り口の建設を担当した。
司令部の壕は、「Aライン」から「Jライン」まで10本の壕で構成され、八幡山公園地下を南北に貫く最も長いAラインは364.6 mに及ぶ。他のラインはすべてAラインに接続しており、最も長いCラインが49.6 m、最も短いFラインは25.0 mという。

八幡山公園のアドベンチャーUや交通公園など、北東部に地下壕がある。

入口のつくり
 入口を頑丈にするために、支保工(柱や梁で壁や天井を支えるしくみ)が施されていました。
 壁のくぼみは柱の跡です。

ひょうたん池のむこうに開口部が見える。

入口は2箇所確認でできた。
もう一箇所は、少し南に、ちょっと高い場所に。
南北に連なる開口部の最南部。

一般公開ある時に、また期待ですね。(あるのかな?)


八幡山公園

宇都宮二荒山神社の鎮座する明神山の北に連なる八幡山。
1927年に宇都宮市立八幡山公園として開園。
戦時中は、現在のアドベンチャーUの場所(地下壕の地上部分)は対空高射砲陣地で、何基も設置されていたという。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-192
昭和22年(1947年)10月25日、米軍撮影の航空写真。

一部加工

主要拠点は下記となる。

  • 第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。


※2024年1月撮影

「その3」、へ続きます。


関連

陸軍富士飛行場跡地散策(富士市)

以前に、陸軍児玉飛行場のことを調べていたら、富士飛行場の話題が出てきて、そのときから気になっていた場所。
ようやく、足を運ぶチャンスが訪れましたので、散策してみました。


陸軍富士飛行場

「富士飛行場」
国道一号線の「道の駅富士」が、飛行場のほぼ中心に位置している。
戦争末期の1944年6月に工事着工。
1944年10月に「明野陸軍飛行学校天竜分教所富士分教場」が開設している。
明野陸軍飛行学校(三重)の下部組織として「天竜分教所」があり、さらに下部組織として「富士分教場」という位置づけ。
ややこしいのは、「飛行学校の富士文教場」とは別に、「陸軍重砲兵学校富士分教場(=陸上自衛隊駒門駐屯地)」というのもあって、それは御殿場なので、まったく別地域。


野中俊雄大佐

昭和20年7月18日に、児玉飛行場の第27飛行団長(第6航空軍隷下・司令官は菅原道大中将)に就任した野中俊雄大佐(士候36 陸大専科7)。
児玉飛行場の飛行団長としても終戦間際を描いた映画「日本のいちばん長い日」に出てくる。

野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に、第27飛行団の部下とともに入植開墾。そして開墾した地を「靖国」と名付けたという。
なお、野中俊雄は、1902年(明治35年)生まれ、1993年(平成5年)に92歳で亡くなっている。


靖国町

静岡県富士市五貫島。
住所としては呼称されていないが、この富士南地区の町内会に「靖国町」がある。

戦禍の果て
跡刻む靖国町 進む風化
幻の富士飛行場(下)
 富士市の富士南地区にあった富士飛行場は、1945(昭和20)年8月の終戦で1年足らずの役目を終えた。70年を経て、跡地には民家や事業所などが立ち並び、飛行場の面影はほとんど消え去った。ただ、地名としてその跡を刻む場所がある。
 現在の同市五貫島付近に位置する一つの町内を地元の人は「靖国町」と呼んでいる。この地は終戦後に入植した旧軍人が住み、名付けた。入植者の中心は、埼玉県の児玉飛行場を拠点としていた「第27飛行団」に所属していた人たちだった。飛行団長だった野中俊雄大佐=当時(42)、大分県出身=が、帰る場所のない部下らとこの地を訪れた。他からも軍人らが集まり、滑走路として使われていた土地で農業をしながら新たな生活を始める決意をした12世帯が「靖国町」の始まりだった。

静岡新聞 連載企画 「轍」 ~しずおか戦後70年~
https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No2-144
1946年05月22日に米軍が撮影した航空写真を参照。

富士飛行場部分を抜粋、すでに入植がおこなわれている。

現在の様子。国道1号線と東海道新幹線が横断している。
旧国道1号線は、だいぶ北側(東海道本線より北側)を通っていた。


陸軍富士飛行場跡地散策

戦跡としては何も残っていない。
国道1号の交差点名に「靖国」とある。これが戦後に入植した野中俊雄大佐たちの残した地名の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/bwpJhMZryeEti7D27

町内会として「靖国町」がある。

靖国公会堂

靖国地下道

地域に根づいた地名として。ここに確かに「靖国」が伝承されていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RbvSeLXN4mPCedBe6


開拓記念碑

富士南まちづくりセンター敷地内南西角に。

開拓記念碑
この辺りは、昭和19年(1944年)から陸軍富士飛行場用地として使用されていました。戦後、開
拓事業として元の土地提供者が中心となって入植し、10年余の歳月をかけ、その努力により元の緑の田畑に復旧しました。
 この碑は、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立。令和2年(2020年)、現在地に移設されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/shisei/c1401/rn2ola000002sc7b.html

富士南地区の歴史
 富士南地区は、『ききょうのさと』と呼ばれています。江戸時代、富士川の氾濫によって富士南地区一帯に築かれた堤防が「帰郷堤」と呼ばれたことから名付けられました。この堤防を造った勘定奉行土岐摂津守の家紋が「桔梗」だったこと、堤防ができてから人々が安心して故郷に帰ってきたことが「帰郷堤」の由来とされています。
 また、第二次大戦中、陸軍富士飛行場の建設により立ち退かされた住民が、戦後、再びその地に帰郷したことも、住民の「ききょう」という言葉への思いを強めています。
 戦後、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立した開拓記念碑が、現在は富士南まちづくりセンター駐車場に移設されています。
 現在の富士南地区にあたる区域は、昭和41年の2市1町の合併による新制「富士市」の誕生、昭和47年の「線引き」による市街化区域への区分などにより急速に宅地化が進み、昭和53年に開校した富士南小学校の校区と同一です。昭和56年の富士南公民館の開設に合わせ、富士駅南地区の一部及び田子浦地区の一部をもって組織されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/machi/c0605/rn2ola0000043ki1.html

開拓記念

富士飛行場跡地は、碁盤の目できれいに整備されている。
下記の写真は、南北に連なる道路。かつての滑走路も同様に南北に伸びていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RGfoozzpqZHBxMew8


道の駅「富士」

「道の駅富士」は、静岡県で最初に誕生した道の駅。
陸軍富士飛行場のちょうど真ん中あたりに位置している。

「桜えびひつまぶし」をいただきました。美味。
これは、桜えびシーズンになったら、がっつり食べに行きたいですね。

国道1号線
富士飛行場のあった方向を望む。

富士川の河口

富士山は雲がかかっていました。

ちなみに、富士川の対岸の新蒲原駅からシェアサイクルを活用。移動は20分前後なので、そこまで苦ではなく。
何気にクロスバイク系は、疲れてくると足を後ろに振り上げるのも大変で。
走り出したら楽なんですけど。

新蒲原駅前。桜えび漁船。

ちなみに、戦跡としては、「富士飛行場燃料庫地下壕」も残存している。
富士飛行場の建設に併せて、航空燃料の油を保管する倉庫として岩本山西麓に掘った地下壕。
今回は未訪問でしたが、機会あれば、で。

※撮影:2024年8月


「下志津駐屯地創設69周年記念行事・その1」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2024年・千葉)

2024年4月。下志津駐屯地。
基地行事があったので、行ってきました。
昨年は観桜のみ参加しましたが、今年は記念行事で。

まずは、旧軍ぽいところを散策。

下志津陸軍飛行学校の細かい話は、下記で。

ちなみに、記念碑を見学する際は、観桜でないとだめでした。
駐屯地記念行事の際は、記念碑エリアは立入禁止でしたので。。。


下志津陸軍飛行学校格納庫

往時の格納庫をベースとした建屋が現存している。


下志津陸軍飛行学校の煉瓦基礎木造便所

往時のトイレ(内装は変わっているとしても)が残っているのは大変珍しい。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R535-64
1947年11月12日、米軍撮影の航空写真を加工。

1947年11月12日写真の格納庫部分を拡大。

現在の航空写真、建屋の屋根形状が合致。

なお、最南端の格納庫は移築され千葉公園体育館として活用されたが、解体


往時の遺構と思われる建屋?

航空写真では絞りきれなかったが、雰囲気から往時の建屋?と推測。

往時の建屋と思われるエリアの中心には、巨大な通信鉄塔がそびえている。


広報史料館

内部は撮影禁止、でした。
陸自防空のメッカだけあり、防空関連資料展示が豊富。

なお、下志津陸軍飛行学校跡碑を始めた記念碑群の見学は、封鎖されていて出来ませんでした。
背面のみ。
正面から確認したい場合は、「観桜開放日」がおすすめ。

※撮影 2024年4月

※その2へ