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「修武台・陸軍航空士官学校」修武台記念館(航空自衛隊入間基地)

2025年の冬に。
入間基地内の「修武台記念館」を見学させていただきました。

修武台記念館内は、撮影可能であってもSNS等の写真公開は禁止、また基地移動中も撮影禁止のため、今回のレポートは、記念館内の写真は無しとなります。

写真の公開には制約がありますが、日本で唯一の「桜花」など、写真を撮ることの制約はないので、そこは思う存分に。
敷地外から撮影した写真と、入手したパンフレットの画像を中心に、見学を検討している皆様向けに、そして自らの備忘のために記事を作成します。

修武台記念館と修武台記念碑(基地敷地外から撮影)


陸軍航空士官学校(修武台)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


修武台記念館

入間基地では、隊員の教育訓練(精神教育)及び航空自衛隊の良き伝統の継承を目的に、「修武台記念館」という歴史資料館が運営されています。

修武台記念館見学会応募要領に関しては、下記の公式サイトにてご確認をば。

https://www.mod.go.jp/asdf/iruma/kouhou/public_kinenkan/index.html

私が申し込んだ際は、(あえて人の少なさそうな)平日を狙って申込みをしたので「自由見学方式」と「ツアー見学方式」で合わせて10人もいないくらいの少人数で開催となり、私は自由見学方式を申し込み。ほぼ2階の旧軍関連の資料の観覧と撮影に時間を費やしました。
ツアー見学組は、90分の見学時間を使って無駄なくみっちりと解説を聞きながらの観覧のようでした。
次回は、ツアー見学で話を聞くのもありかなって思いました。

残念だったのは、野外展示の観覧が不可だったこと。
移動バスが、修武台記念館の前に直付けとなり、修武台記念館の外にも移動禁止。外の見学が出来ないのは、警備人員配置の都合だとかで。


修武台記念碑(修武臺記念碑)

昭和16年12月10日 陸軍大将 東條英機 謹書

修武台記念碑(基地敷地外からの撮影)

陸軍航空士官学校航空神社跡を後ろから(基地敷地外からの撮影)

修武台記念館(基地敷地外からの撮影)


航空歴史資料館 修武臺記念館(修武台記念館)

以下、パンフレットを参照にします。
(撮影したデータは公開不可のため)

航空歴史資料館 修武臺記念館

以下、拡大しつつ。

陸軍航空士官学校の航空標識(インシグニア)として使用された意匠

修武台記念館は、航空自衛隊員の教育訓練及び航空自衛隊の伝統の継承を目的として運営されています。
陸軍航空士官学校(航士)
昭和13年(1938年)5月、所沢にあった陸軍士官学校分校が入間川豊岡に移転し、同年12月に陸軍航空士官学校(航士)として創建されました。終戦までに七千名に及ぶ士官候補生らが教育を受けました。
旧陸軍航空士官學校本部長舎
太平洋戦争後の米軍進駐と撤収を経て、航空自衛隊の管理に委ねられ、昭和61年(1986年)から平成17年(2005年)まで旧修武台記念館として運営されました。旧陸軍士官学校本部庁舎の外観を模した修武台記念館は、同庁舎跡地に建設されて平成24年(2012年)に開館しています。

修武臺の碑

「修武台」の由来
北魏・孝文帝の詔「国家宗文以懐九服修武以寧八荒」を由来とします。
昭和16年(1941年)3月、第54期生卒業式に臨席された昭和天皇が豊岡の航空士官学校の地を「修武臺」と命名されました。同年12月に御命名書の御染筆を刻んだ碑(修武臺の碑)が建立されています。

航空神社跡碑

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※北野天神社の記録は下記にて

記念館周辺史跡及び記念碑

このあたりも見たかったんです。

パンフレットの次頁

以下、拡大しつつ。

入口玄関にあるのは「陸軍航空士官学校模型」。
位置関係のイメージ把握を。

2階部分。


陸軍航空と海軍航空の歩みを年表形式で解説。
明治43年の陸軍「臨時軍用気球研究会」、そして大正6年の海軍「臨時潜水艦航空機調査会」から始まった日本陸海軍の航空史。


士官と搭乗員の育成について。


太平洋戦争の航空戦について。
海軍空母機動部隊の航空戦と、島嶼戦における航空戦。そして航空消耗戦へと。
零戦と飛燕
日米の飛行場の違い。


陸軍機と隼戦闘機
屠龍の残存部品展示
隼の残存部品展示
檜與平少佐の義足、空中戦で片足を失いつつも義足で戦闘機に乗り続けたパイロット。


中島エンジンの展示。
鍾馗用「ハ41」零戦用「栄21」
日立航空機(日野自動車)エンジン「(海軍)初風・(陸軍)ハ47型」


海軍特攻兵器
「桜花」
日本に現存する唯一の「桜花」の展示。
これが見たかったのです。ようやく拝見できました。


特攻隊員顕彰室
義烈空挺隊など。

10
入間基地特別展示室
加藤隼戦闘隊と軍神加藤について。

11
ジェット機の登場
ジェットエンジンの進化に関して。橘花。

そういえば、橘花のジェットエンジン「ネ20」には、出会ってました。

ここから1階に移動


12
航空自衛隊の発展

保管庫に移動すると3機の展示。
アンリ・ファルマン機、ここにいましたか。久しぶり。

所沢航空発祥記念館で、以前に会ってました。

修武台記念館 館内案内図

撮影した写真が、掲載できないのはもどかしいですが、是非とも見学して自ら鑑賞してくださいってことですね。必見ですので。


撮影:2025年冬

「振武台」陸軍予科士官学校跡・朝霞駐屯地の観桜一般開放(令和7年)

陸上自衛隊朝霞駐屯地の観桜一般公開。
朝霞駐屯地は、公開の機会が少ない駐屯地のため、観桜のときに狙っていかないと、なかなか散策の機会がない駐屯地なのです。。


朝霞駐屯地

陸上総隊司令部や東部方面総監部のある「朝霞駐屯地」。
戦前は、「東京ゴルフ倶楽部」ゴルフ場を買収して新設された「陸軍予科士官学校」があり、そして戦後は「米軍朝霞キャンプ」もあった場所。

東京ゴルフ倶楽部
昭和7年(1932)5月、東京ゴルフ倶楽部が朝霞コースを開場。
東京ゴルフ倶楽部の痕跡として「びわ湖」がある。これは「東京ゴルフ倶楽部」朝霞コース(膝折ゴルフ場)の三番ショートホールの名残。
昭和15年、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの地が、陸軍省によって買収され、東京ゴルフ倶楽部は狭山に移転。朝霞コースは昭和16年閉鎖。

陸軍予科士官学校
昭和16年(1941)10月1日、陸軍予科士官学校が市ヶ谷から朝霞に移転。
昭和18年(1943)12月9日、 昭和天皇行幸し、「振武台」と命名。

アメリカ陸軍
昭和20年9月(1945)9月、アメリカ陸軍が朝霞地区を接収し、「キャンプ・サウス・ドレイク」(米軍朝霞キャンプ)として進駐。

陸上自衛隊
昭和29年(1954)の警察予備隊時代を経て、昭和35年(1960)3月15日に「朝霞駐屯地」が開設。
主な部隊は以下となる。
陸上総隊司令部
東部方面総監部
第1偵察戦闘大隊、第1施設大隊、第2高射特科群(第335高射中隊)、東部方面システム通信群、東部方面後方支援隊、東部方面衛生隊、 東部方面会計隊、東部方面指揮所訓練支援隊、東部方面情報処理隊、東部方面音楽隊、女性自衛官教育隊、東部方面警務隊、中央情報隊、電子作戦隊、システム通信団(一部)、中央音楽隊、輸送学校、自衛隊体育学校、朝霞駐屯地業務隊

一般開放エリア
南の大泉門側の案内図

北の朝霞門側の案内図
それぞれ進行方向を上としているので、南北が異なる。


関連

陸軍予科士官学校時代の位置関係や、振武臺記念館等は以前の記事を参照に


振武台碑(振武臺碑)

陸軍予科士官学校(陸軍豫科士官學校)
かつて、朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在していた。
陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)あったが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転となった。

振武台の名の由来は、昭和天皇が予科士官学校(朝霞)に行幸された際、「将来益々るい、八肱一宇の為をなせ」といった意味から付けられてる。

  • 市谷台 市ヶ谷:座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 座間:陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 所沢:陸軍航空士官学校(航士)
  • 振武台 朝霞:陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 若松:陸軍経理学校
  • 健武台 八王子:東京陸軍幼年学校(東幼)

振武臺碑について
昭和18年12月9日、昭和天皇が陸軍予科士官学校に行幸された際、この地に「振武台」の名を賜り、翌年この碑が建立されました。当時の碑記は、長年の風雪に晒され風化していたため、平成12年4月、陸軍予科士官學校卒業生の手によって復元されました。

陸軍大将 山田乙三 による揮毫。
山田乙三陸軍大将は、参謀本部総務部長、陸軍士官学校校長、第12師団長を歴任し、最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。

振武台碑の下には、終戦直後に占領軍の辱めを受けるのを免れるために「雄健神社」の御神体(御神霊・神剣・宝鏡)、そして陸軍予科士官學校扁額と学校本部の菊御紋章が埋められた。
20年後の昭和40年に掘り返され、御神霊は靖国神社に奉安され、扁額と御紋章は、振武臺記念館の2階に保存展示されている。

陸上自衛隊広報センター サイトより

振武台碑は、大泉門(朝霞駐屯地正門)を入ったすぐ左手にある。


雄健神社跡(おたけびじんじゃ)

雄健神社跡地は立入禁止。陸軍予科士官学校本部と正門の間にある。

振武臺記念館には、20分の1に再現した雄健神社がある。

陸上自衛隊広報センター サイトより

もともとは市ヶ谷にあった。
昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は、朝霞に奉遷。


陸軍予科士官学校本部跡(東部方面総監部庁舎)

陸軍予科士官学校本部跡地は、現在は東部方面総監部の庁舎となっている。

本部前の桜。このあたりのロータリー感は往時のまま。
右手に、雄健神社があった。

東部方面総監部の紋章


琵琶湖の桜

往時を物語る遺構。

琵琶湖について
 昭和5年、東京ゴルフ倶楽部ゴルフ場が、土地問題等で駒沢からこの地に移転し、同年工事が開始され昭和7年から10年間運用され、東京ゴルフ倶楽部というすばらしいゴルフ場がありました。この琵琶湖(人造湖)は、当時3番池越えのショートホールで、唯一の遺構です。名前の由来は、滋賀県にある琵琶湖と形が似ているということで名付けられました。
参考:
 元々は、膝折ゴルフ場と呼ばれていましたが、「膝を折る」とは、縁起が悪いと言うことで、東京ゴルフ倶楽部名誉会長である「朝香宮殿下」の御名に因んで同音異字の「朝霞」に決定し、同時に朝香町が誕生しました。

観桜を愛でる、なかなか佳きかな。


埼玉県殉職隊員之碑

埼玉県殉職隊員之碑
防衛庁長官 中曽根康弘書

主碑は、昭和45年の建立。
副碑には、埼玉県殉職隊員芳名が刻まれている。
80余名のご芳名。

合掌


環状交差点(ロータリー交差点)

陸軍時代から、位置関係が変わってない環状交差点(ロータリー交差点)。


中庭(朝霞クラブ)

現在の酒保というかPXというか、朝霞クラブな居酒屋に、なんとなく庭園(中庭)があるけど、往時からの酒保庭園(中庭)かどうかは不詳。


UH-1H

41722号、用途廃棄機で訓練用に使用


朝霞駐屯地での観桜

迷彩は溶け込みますね。

どうやら、犬小屋?

小砂子(ちいさご)

陸自らしい観桜を愛でる。

なんか来た。

資材運搬車(キャリアダンプ)、小さくて可愛い。。。
ベースは、諸岡の民生用キャリアダンプ

小型消防車。ダイハツ・ハイゼットがベース

警衛隊


朝霞厚生センター(コンビニ)

酒保ですね。

それっぽいものを買いました。

グランドのキッチンカーで、以下を。

観桜の定番


振武臺記念館の桜

門柱


振武臺記念館

陸上自衛隊広報センターから。

振武臺記念館の開放もあったので、見学。

りっくんランド
(陸上自衛隊広報センター)


CH-47J導入1号機

昭和61年(1986)から導入の始まったCH-47Jの1号機。
CH47Jは、52901号機から52934までの34機が導入され、35号機からは改良型のCH-47JAとなった。
朝霞駐屯地の南西に留置されており、敷地外から見学が可能。


撮影:2025年3月30日

第1空挺団「降下訓練始め」(陸自習志野演習場・2025)

令和7年1月12日。

陸自第1空挺団による新春恒例の「降下訓練始め」が実施されましたので、足を運んでみました。


空の神兵

大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。
海軍は「空挺部隊」
陸軍は「挺進聯隊・挺進集団」
そして、陸自は「空挺団」

太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦
1942年(昭和17年)1月11日
海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。。
1942年(昭和17年)2月14日
陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し同じく敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。
両作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。
これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。

「空の神兵」は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。
習志野の陸自第1空挺団は、昭和27年より研究されれ昭和30年に設立した初代空挺教育隊を起点とし、初代空挺教育隊長を務めた衣笠駿雄元陸軍少佐(初代第一空挺団長)に率いられた第1次研究員20名によって昭和33年に創設された。
この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。


降下訓練始め 準備

入口から、見学場所まで、まいどまいど、それなりの距離があるんですよね。

高台に陣取り。

アメリカの偉い人が乗っているヘリ。(あまり詳しくないので)

指揮官の降下

防衛大臣、いらっしゃいました。

続々と降下!!

米軍機

真白き薔薇の花模様

空の神兵
 梅木三郎作詞  高木東六作曲

藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る


降下訓練始め

地上展開

AH-1Sコブラの航空支援

白兵戦

迫撃砲陣地展開

テェッ

地上支援戦力投入

10式戦車と16式機動戦闘車

今回は、体調が今ひとつというのと、カメラの不調もあり、電池不足もあり、で、最後は半端な観戦になってしまいました。

難しいことは機にせずに、鑑賞していて楽しいのが空挺「降下訓練初め」

※2025年1月撮影


関連

「下志津駐屯地創設69周年記念行事・その2」つつじ祭り(2024年・千葉)

2024年4月、下志津駐屯地の創設69周年記念行事に行ってきました。
「つつじ祭り」

陸自高射学校が所在する、いわば「陸自防空のメッカ」。
観閲行進や対空戦闘訓練展示を中心に。
87式自走高射機関砲(87AW 俗称ガンタンク)が見れたのが嬉しい
(あまり見かける機会がないので)

その1は、こちらにて

下志津の観桜はこちらにて


下志津の「つつじ祭り」

つつじ祭りといえば、東京は根津神社が有名ですが、なかなか下志津のツツジも良いものです。

陸自高射学校


記念式典

10時から記念式典の開始、です。
駐屯地イベントに参加していると、基本的な式典進行は同じなので、「いつもどおり」な感覚にはなってくるが、駐屯地ごとの個性もあって、それはそれで面白い。

入場

指揮官入場

観閲官入場
陸自高射学校長は陸将補。
「赤」で銀色桜星2個が陸将補の車両標識

国旗入場

国旗掲揚

巡検

記念式典のあとは、音楽隊。


観閲行進

おおお、観閲行進は「陸軍分列行進曲」。これはやはり良いですね。


対空戦闘訓練展示

状況開始

某国の侵入を、高射戦力でもって陸上対空戦闘で撃退する訓練展示。

高射部隊、近SAM・短SAM・中SAMのSAMチームとペトリオット・ホークの展開。

て!!

高射射撃展開後に地上部隊の突撃

航空支援も

73式装甲車73式装甲車、なにげにはじめてみた気がする。。。

87式自走高射機関砲(87AW)スカイシューターことガンタンクの登場!

制圧

制圧完了

状況終了


装備品展示

87式自走高射機関砲(87AW)

土浦(武器学校)からの出張、10式戦車(10TK)。

下志津陸軍飛行学校の歩哨舎(門柱)

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
かつては下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
歩哨舎の外観を生かして、内部空間を塞いで、近年に「門柱」としたようだ。

※2024年4月撮影


関連

霞ヶ浦駐屯地 開設71周年・関東補給処 創立26周年記念行事(2024年)

霞ヶ浦駐屯地の記念行事に行ってきました。
2024年4月28日。

戦跡関連は、下記にて


霞ヶ浦駐屯地記念行事

昨年(2023年)は雨天で記念式典観閲行進は中止でしたが、今回は晴天。
霞ヶ浦駐屯地はスペースの都合か、しょうしょう狭い記念式典でした。

記念式典会場

厚生センター

整列

10式さん

はじまり

指揮官入場

観閲官入場

国旗掲揚

巡閲

陸上自衛隊関東補給処長 兼ねて 霞ヶ浦駐屯地司令

陸将なので銀色桜星3個。


観閲行進

補給処本処なので、後方支援な部隊が中心。
それはそれで、良い。

空自も。

16式機動戦闘車

10式戦車

グランドは立入禁止。だいたいの駐屯地はグランドで式典するけど、ここでは使わない。。。


霞ヶ浦駐屯地(本部地区)散策

本部庁舎

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報資料などは、2023年の記事で。。。


高機動車試乗

当たりました!
なかなか壮快な走り、撮影禁止なので、まあ。


霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)

旧海軍時代の格納庫が残る。詳細は2023年の記事で。


庚申塚(庚申青面金剛)

2023年のときは、垣間見れなかった、庚申塚を遠目に見ることが出来ました。(自販機エリアの奥から望遠)
立入禁止なのことはかわりないでしたが。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚の由来
(前略)
 庚申塚にまつわる話として言い伝えられていることは、この地に数百年前からあった庚申塚を旧海軍航空隊が格納庫建設のため取り払い工事を始めたところ怪我人が頻発しその後航空事故が続発した。土地の人や工事関係者の間では庚申さまのたtりではないかと恐れていた。
 当時、精強を誇った海軍も庚申塚を取り払ったままにしておけなくなって土地の篤信者と相談し、昭和10年12月現在のところに再築し、小さい方の碑を建立し無事故を祈願した。その後、大事故は殆どなくなりご利益あっらたな庚申塚と言われるようになった。また時期は不明であるが庚申塚に手をかけると災難に見舞われると言い伝えられいる。
 大きい方の碑は格納庫の建設が完了した昭和14年12月に格納庫の落成を謝し建立して航空安全を祈願したと言われている。
 最近では、塚も崩れかかり、碑も傾いてきたので平成6年11月に分校と業務隊が諸々の安全を祈願して整備再鎮座したものである。


霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫(茨城倉庫)

霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫として、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。

  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
  • 茨城倉庫3
  • 茨城倉庫2
  • 茨城倉庫1

今回は、敷地外から「茨城倉庫」を見学。

自衛隊側からはこちらで。


周辺の建屋

近くに古そうな建屋があったので記録してみたが、往時の航空写真を見直すと、どうやら違うようで。戦後の建屋ですね。

※撮影:2024年4月


関連

第3師団創立63周年・千僧駐屯地創設73周年記念行事(2024年・伊丹)

大阪出張の前泊で、大阪入りしていたので、なんとなく第3師団司令部が所在している「千僧駐屯地」に足を運んでみました。
大雨で、ろくに写真は取らず、でしたので、さらりと。


千僧駐屯地

旧軍がいっさい地縁としては関与していない珍しい駐屯地。
昭和27年に開設。
第三師団長は陸将。第三師団副師団長は陸将補、駐屯地司令を兼務。

ちなみに千僧(せんぞ)と読む。難読系。
大僧正「行基」ゆかりの地。
行基が農業振興のために昆陽池を造営した際に出た犠牲者の霊を慰めるために、元明天皇の命を受けて713年に千人の僧を招いて行った「千僧供養」から。


広報資料館(千僧駐屯地)

海軍航空爆弾
「二十五番通常爆弾」(対艦艇用/250キロ爆弾)
対艦250キロ爆弾、です。

「AN-M66型1トン爆弾」
太平洋戦争中、米軍が大阪城近くに投下した爆弾

「七年式三十糎榴弾砲」
陸軍が大正7年(1918年)に制式化した口径305mm重砲

広報資料館内に。「記念館」と掲げられていますね。

第三師団は、近畿2府4県を管轄。
中部方面隊直轄と合わせた関西の陸自駐屯地は下記となる。
 兵庫県:千僧、姫路、青野原
 京都府:福知山、大久保、桂、宇治、祝園
 大阪府:伊丹、信太山、八尾、川西
 滋賀県:今津、八尾、大津
 奈良県:(陸自駐屯地なし)
 和歌山県:和歌山

木口小平。広島歩兵21聯隊第3大隊第12中退所属。
「キグチコヘイハ テキノ タマニ アタリマシタガ シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」

硫黄島の砂
英霊に敬意を

野外展示。


殉職隊員顕彰碑

合掌

第三師団庁舎


観閲式・観閲行進

グランドに移動します。雨の移動は煩雑ですね。
また毎度毎度で、入退出するたびに手荷物検査するのも煩雑で。。。

到着時間が遅かったので、良い場所が確保できず。
写真はあまり取らずで見物します。

雨で傘が広がるので、視界も今ひとつ。

午前の部の模擬戦闘訓練は写真諦め。


第3偵察戦闘大隊

今津駐屯地に新編された大隊。
第3偵察戦闘大隊は、滋賀県高島市の今津駐屯地に駐屯していた第3戦車大隊と兵庫県伊丹市の千僧駐屯地に駐屯していた第3偵察隊を基幹として、令和5年3月に新編。

16式機動戦闘車、87式偵察警戒車、軽装甲機動車、オートバイ(偵察用)が主要装備品。


模擬戦闘訓練展示

午後の部を。

状況終了

雨でなかなか厳しい環境でしたが、訓練展示を2回実施してくれる駐屯地記念行事ははじめてでした。

※撮影:2024年5月


関連

第1師団創立62周年・練馬駐屯地創設73周年記念行事(2024年・練馬駐屯地一般公開)

令和6年(2024年)4月7日。
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

詳細なレポートは、昨年2023年の記事に譲るとして。記念行事と訓練展示を中心に写真多めに掲載していきます。


第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事

第1師団って響きが良いですよね。
昨年は桜が散ってしまっていましたが、今年は桜咲く中での式典。

美しく凛々しく

観閲部隊指揮官の入場。

執行官の入場。

観閲部隊の執行官(頭号師団・第1師団司令官)
兒玉恭幸 陸将

東京都知事
小池百合子


部隊観閲


兒玉恭幸第1師団長(陸将)訓示

兒玉第1師団長
駐屯地行事のテーマ 「戦う?13.2%」の真意を熱弁。
13.2%という、戦う意思のある国民比率が先進国中最低であった日本。しかし武器を持たずとも個々が出来ること、国に貢献し経済を回すことで国を守り、自衛隊とともに国を護る事が出来きる、と。熱弁を。

兒玉第1師団長の訓示。
壇上で話し始めたかと思ったら、話をしながら車に乗り移り、会場を一周しながら熱弁をふるったり。聴き入ってしまう、話の上手さもあり。

師団長式辞(抜粋) 「戦う?13.2%」

https://www.mod.go.jp/gsdf/eae/1d/activity/sonota/sikizi.pdf

 今年の師団祭のテーマは、「戦う?13.2%」。世界価値観調査から引用しました。世界価値観調査の問いの一つに「もし戦争が起こったらあなたは国のために戦いますか?」という問いがあり、戦うと答えた日本人は13.2%で世界79カ国中最低でした。ウクライナが59.6%。ロシアが68.2%。中国が88.6%。最高はベトナムで96.4%であり、日本人の13.2%は、群を抜いて低い数値でした。我が国周辺国は、この数字を見てどのように感じるでしょうか?「侵略しても抵抗しないんじゃないか?」と勘違いするのではないでしょうか?日本が戦争に巻き込まれると日本国内が戦場となり、一般市民の命が失われることが懸念されます。絶対に「抑止」しなければなりません。「抑止」とは他国から戦争を仕掛けられないようにすることです。下手に手を出すと痛い目にあうと分からせるということです。戦争とは国と国との総合力による争いです。第一線で戦う自衛官だけでは、侵略戦争には勝てません。政治や外交、自衛隊の作戦行動を支えるには、国家の財政基盤が維持されなければなりません。そのためには経済活動が重要です。多くの国民が国内にとどまり、ライフラインや食料、エネルギーを維持し、政治・経済・外交活動を支え自衛隊が防衛作戦を遂行していく。すなわち国民一人ひとりにとって戦うとは、自分にできることで国に貢献すること。簡単に言えば「普段の仕事をしっかり続ける事」なのです。

ついで、小池都知事。

訓練展示前の散水。


第一音楽隊 With 石川鈴菜さん

スペシャルゲストで、ミュージカル「Annie」の主演アニーを演じた女優の石川鈴菜さんが登場。 第1師団 第1音楽隊とコラボして、トゥモローを熱唱!!
上手い!
ありがとうございます!

公式動画


第一音楽隊 第一師団らっぱ隊によるドリル演奏


部隊紹介

第1師団隷下の第34普通科連隊(板妻駐屯地)も参加。
陸上自衛隊第三十四普通科連隊は、軍神・橘中佐の静岡歩兵三十四聨隊の部隊番号を引き継ぎ、橘連隊・橘精神を受け継いでいる。

第1師団隷下の部隊紹介が続きます。

第1高射特科大隊(駒門)

第32普通科連隊


訓練展示

状況開始

制圧完了、状況終了

執行官退出


頭号師団慰霊顕彰室

新に設置された頭号師団慰霊顕彰室。史料館の一室に。


練馬駐屯地、あれこれ。

ことしは、石碑の周辺は立入禁止、でした。

撮影:2024年4月


「野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊碑)」と「近衛野砲兵聯隊碑」(三宿駐屯地・陸自衛生学校)

桜の開花タイミングとはずれてしまったけど、世田谷区の三宿駐屯地が一般開放(桜並木の通り抜け)を実施していたので、足を運んでみました。


野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊)

野重八之碑
 下野一霍書

野重八とは、野戦重砲兵第8聯隊のこと。
下野一霍は、最終階級は陸軍中将。
1935年(昭和10年)3月、野戦重砲兵第8連隊長

野戦重砲兵第八聯隊は、我が国最初の機械化砲兵として大正11年8月15日創設せられ昭和20年大東亜戦争の終結に至るまでこの地に在り、その間日支事変及び大東亜戦争に際しては独立野戦重砲兵第八聯隊、同第十五聯隊、同第十六聯隊、同第二十聯隊を編成し十糎加農を装備せる、これら諸隊は軍砲兵として各地に転戦し赫々たる武勲を建てたり。ここに、これら諸隊に属せし元将兵一同これを記念して、この碑を建つ。
 昭和47年4月8日
  野重八会有志


近衛野砲兵聯隊の碑

近衛野砲兵聯隊は明治4年(1871年御親兵砲隊として竹橋に設置せられ、同31年(1898年)6月依頼にこの地に駐屯し、日夜皇居の非常号砲勤務に任じた。
この間、北白川宮成久王、成久王御父子二代にわたり、長期間在隊された由緒深い聯隊である。また西南、日清、日露の各戦役、日支事変、大東亜戦争に従って輝かしい勲功をたてた。
ここに縁故者有志相はかって記念碑をたて永く後世に伝える。
なお、この聯隊歌は昭和7年北白川房子内親王の御作によるものである。
 昭和43年12月
  藤江恵輔

藤江恵輔は最終階級は陸軍大将。
鈴木貫太郎の娘を妻とする。
野戦重砲兵第4旅団長を努めていた。
野戦重砲兵第4旅団隷下に、近衛野砲兵聯隊と野戦重砲兵第8聯隊があった。

北白川房子内親王(北白川宮成久王の妃)
「聯隊歌」の碑

 房子内親王
いぬる明治の大御代に
 屯をここに定められ
 忠勇奉公献身の
 心に生くる世田谷乃
あゝ、わが近衛野砲隊
 名誉は高し
  任重し

縁故者


陸自衛生学校として。

仁の碑

「仁」について
 「仁」は歴代校長の掲げられた衛生学校の指導理念であり、その意味するところは端的に申せば他人に対する慈しみの心である。人が二人と書いて「仁」である。一人は自分であり、もう一人は相手の人である。
 相手に対して自分と同等の人格を認め、相手の喜び、痛み、悩み、苦しみ、そして悲しみを自分のものとして受け止める心が「仁」の心であり、衛生科精神として示されている「骨肉の至情」・「挺身奉仕」の精神そのものに他ならない。
 我々衛生科に職を奉する者は、有事・平時を問わず「仁」に裏付けされた衛生科精神の涵養と衛生科技術の修得に努め、「一人でも多く生き残らせる」衛生支援に徹することが肝要である。
 昭和63年10月吉日
  第18代衛生学校長
   陸将補 芳賀 稔

陸上自衛隊 衛生学校


彰古館(医学情報史料室)

軍事医療、医学情報の史料館。事前申込制。
この日は、非公開でした。


三宿駐屯地 桜の通り抜け一般公開

3月23日の訪問。
例年より開花が遅れ、公開日に桜が咲いていない事態となったが、仕方がない。

わずかに咲いている桜を発見。

散策開放エリアは、衛生学校の中心部のみ。

陸上自衛隊 三宿駐屯地
陸上自衛隊 衛生学校

自衛隊中央病院

正門、ちなみに荷物チェックは無しでした。

防衛装備庁次世代装備研究所もある。

自衛隊中央病院

用廃のUH-1H。

東門。


世田谷区立平和資料館

東門の先には、世田谷公園。
かつては、駒沢練兵場であった。
世田谷公園に資料館があるので足を伸ばしてみた。

いろいろ配布資料もあります。

世田谷の戦跡

世田谷区の主な軍事施設跡地図

大正末期の世田谷地域軍事施設所在地

世田谷区とは関係ないけど、興味深かったのが、
「御真影 勅語 運搬箱」

そのほか

※撮影:2024年3月


関連


陸軍経理学校「若松神社」(現・上鈴木稲荷神社)と「小平駐屯地」

2024年3月24日に、小平駐屯地一般開放(観桜一般開放)がありましたので、足を運んでみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

詳細は、下記にて


小平駐屯地

昭和29年に陸上自衛隊小平駐屯地として開設したことにはじまる。
小平駐屯地は、もともとは陸軍経理学校のあった場所。しかし往時を偲ぶものは駐屯地内には残っていない。
陸軍経理学校の正門は、警察学校側となり、小平駐屯地側は裏側になる。

一般公開で足を運んでみたものの見どころは少なく、小平駐屯地内の「史料館」を拝見できるのがメリットぐらい。ちなみに史料館内部は撮影禁止。

史料館のスタッフに、「警察学校の正門以外で、陸軍経理学校時代の遺構ってないですよね?」ときいてみたところ、スタッフから「小平駐屯地には遺構はないです」「陸軍経理学校の若松神社は、戦後に上鈴木神社の本殿に流用され、本殿と鳥居が陸軍時代のもの」とお伺いできたのは、大収穫。
これは行ってみましょう。
ちなみに「警察学校のプールも陸軍経理学校時代のまま残っている」とのことですが、そこは見学ができないので。。。


陸軍経理学校の校内神社「若松神社」御社殿と石鳥居
(現:上鈴木稲荷神社)

陸軍経理学校の校内神社であった「若松神社」の御本殿と鳥居が流用され現存している。

陸軍経理学校は、もともと若松河田の地にあり「若松台」と呼称されていたことから昭和17年に小平に移転しても「若松台」の名称は継承されてしており、陸軍経理学校の校内神社も「若松神社」と呼称されていた。
石鳥居は、昭和18年(1943年)の造営。本殿社殿も同じ頃と推測。
上鈴木稲荷神社には戦後の昭和24年に払い下げされている。

御由緒

昭和24年に、陸軍経理学校の若松神社から払い下げられたことがわかる。

石鳥居の右側に陸軍の鳥居であった証が刻まれている。

陸軍主計中将 従四位勲二等 迫栄吉 禁書

迫栄吉は、1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、昭和16年12月1日に「陸軍経理学校長」に就任し、昭和20年4月まで、太平洋戦争のほぼすべての期間を陸軍経理学校長であった。
1945年(昭和20年)4月7日に第1総軍経理部長となり終戦を迎えている。

昭和18年2月建之

木曽周太郎

木曽氏の詳細は不明

上鈴木稲荷神社の拝殿

上鈴木稲荷神社の本殿覆殿
この内部に在る本殿が、陸軍経理学校の若松神社の御社殿。

茅葺きの社殿がわかる。

場所

https://maps.app.goo.gl/qGw8TiKsPu7CTKVYA


小平駐屯地「史料館」

小平駐屯地内。
史料館には、小平になった陸軍経理学校と、中野にあった憲兵学校に関係する史料が展示。なお、内部は撮影禁止。

小平駐屯地の史料館の建屋が古めだったので、スタッフに由来を聞いてみたところ、陸軍時代のものではなく、東立川にあった米軍占領時代の建屋を移設したものだ、とのこと。

2001年に調査学校(情報要員養成)と業務学校(会計、警務などの業務要員養成)が統合してできたのが、「小平学校」。
小平学校は自衛隊の任務遂行の基礎となる警務・会計・人事・法務・システム等の実務全般にわたる幅広い教育を担任する陸上自衛隊唯一の教育機関であり、事務官や海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」。


小平駐屯地一般開放

観桜一般開放だったけど、観桜はまだな基地公開。

陸上自衛隊小平駐屯地

陸上自衛隊小平学校

本部庁舎

校風
国の安危を擔うべき身たるの修養
これがため、常に疑問を持ち、想像力を働かせ、与えられた可能性に挑戦する勇気をもって、任務を完遂せよ。

校章は、5枚のカラフルな銀杏。

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/song_mark.html

食堂・厚生センター

桜とタイミング合わせるのは、なかなか難しいですよね。。。

公式サイト

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/index2.htm

場所

https://maps.app.goo.gl/pmQfWNTnRbAMS3Yg7

撮影:2024年3月


用賀駐屯地・陸軍衛生材料廠跡地散策(世田谷)

東京都世田谷区上用賀にあった陸軍の施設。その跡地を散策してみました。
なお、2回にわたり散策しているために、撮影日によって晴天だったり曇天だったりしています。


陸軍衛生材料廠
(現:陸上自衛隊用賀駐屯地ほか)

近代的な軍隊を維持するために、必要不可欠なのが医療衛生機関。
衛生材料と獣医材料等の制作、購買、補給などを行っていた。
もともと帝国陸軍の衛生材料廠本廠は、白金台にあったが大正12年の関東大震災で被災し、昭和4年に用賀に移転した。
また支廠は各師団司令部に付随して開設されていた。

用賀の陸軍衛生材料廠は、現在の陸上自衛隊用賀駐屯地、国立医薬品食品衛生研究所、駒沢大学附属高校、覆馬場などを含むエリアにあった。
陸軍の衛生機関を継承した陸上自衛隊用賀駐屯地は、旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設。旧軍時代から衛生材料の兵站中枢を担っている。

なお、この地にあった「国立医薬品食品衛生研究所」は川崎に移転しており、用賀支処は2029年(令和11年)度以降に防衛省三宿地区(世田谷区・目黒区)に、東京音楽隊は2024年(令和6年)度に東立川地区(立川市)に、それぞれ移転する予定があるという。

移転後の建屋がどうなるかは不明。解体されるかもしれず、いまのうちに見ておくのが良いかも、です。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-132_19480329
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真。

一部加工。


陸上自衛隊・用賀駐屯地

2024年3月23日に、用賀駐屯地一般開放が実施されました。桜見学という名目の一般開放でしたが、桜はまだ咲かず、見学者も皆無な状態でしたが、隊員さんの案内ガイド付きで貴重な建屋を見学できました。
ありがとうございます!
案内をしていただいた隊員さんによると、なんと20年ぶりの一般開放だったとか。格別な集客の広報もされていなく、地元周辺住民との交流をメインとした公開は、シークレット的な状態で、かなり偶然の産物で足を運べた私は、かなりラッキーでした。

関東補給処用賀支処

陸上自衛隊用賀駐屯地


陸軍衛生材料本廠跡碑

陸軍衛生材料本廠跡
 元陸軍薬剤中将 田口文太 書

昭和40年5月建立

揮毫した、田口文太は、日本の陸軍で活躍した薬剤師。
東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任。
1931年(昭和6年)に、陸軍省の外局である陸軍衛生材料廠にて廠長に就任。
1935年(昭和10年)には陸軍薬剤総監に就任し、陸軍全体における薬剤師の最高位を占めた。最終階級は陸軍薬剤中将。


陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場

現在、陸上自衛隊用賀駐屯地内にある「陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場」は、昭和4年の造営。
用賀駐屯地内で許可を得て撮影。

以下は、敷地外から。
「国立医薬品食品衛生研究所」が解体されたので、敷地外からよく見えるようになった。


陸軍衛生材料廠・倉庫建造物3棟

3棟ならんでいる建造物も、陸軍衛生材料廠時代の建物。
南側2棟は、蹄鉄工場と同じく昭和4年造立。北側の1棟は、それよりも新しいという。
ドイツ人の設計による倉庫建造物は、東西南北にそれぞれ出入り口を設けており、倉庫内の東西には庫内の物流をスムーズにするためにレールが引かれている。

レールの跡がわかる。


国立医薬品食品衛生研究所跡地

国立医薬品食品衛生研究所敷地内にも往時の建物があったらしいが、2022年から解体が始まり、すでに更地。


陸軍衛生材料廠・境界壁

外壁は、陸軍衛生材料廠時代のものという。

上部が波打っている意匠的な境界壁は、ほかではあまり例を見ない。

この部分は民家の壁になっている。デザイン的に切り取ったのかもしれない?


「陸上自衛隊」交差点

交差点の名称が「陸上自衛隊」。そのものズバリ。


陸軍衛生材料廠・周辺散策

昭和薬科大学世田谷校舎跡地

駒澤大学高等学校

海上自衛隊 東京音楽隊

※移転予定

JRA覆馬場(馬事公苑)

最寄りの桜新町は、サザエさんの街ですね。

※撮影:2024年3月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その3(訓練展示)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。
本編は、その3として「訓練展示」を。

その1は、下記より


記念式典

記念式典。
駐屯地は変われど、基本的な流れはどこも同じ。

入場

部隊観閲

松戸駐屯地司令は、陸上自衛隊需品学校長が兼務。

退出


音楽演奏


訓練展示

状況開始!

需品学校なので、災害救助をテーマにした訓練展示です。
交戦的なもはありません。

まずは、ヘリによる偵察から。

二輪車による偵察

軽装甲機動車LAV

災害派遣、出動
松戸市消防局、鎌ケ谷消防本部の合同

ヘリによる救難活動

需品教導隊による災害派遣の支援展開

給水や炊事、風呂の展開など。


松戸駐屯地あれこれ

厚生センター

心の古里

野草園

毒草地域

飯ごう炊事用炊事壕

飯ごう炊さん体験場って書くと、ちょっと楽しそう
(実際は訓練、、、)

需品学校

関東補給処松戸支処

第二校舎特科群

松戸駐屯地正門

南口

西口

※撮影:2023年11月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その2(記念碑群と広報展示室)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。

本編は、その2として「記念碑と展示室」の散策を。

その1は、下記にて。


松戸駐屯地の記念碑群

一箇所に集められた記念碑。ちょと洒落た庭園のような。。。

そして、結構摩耗している。。。

 皇紀2601年秋

闘魂

第4期機関生徒
昭和19年9月25日卒業記念

第1期操縦生徒卒業紀念

昭和16年3月卒業記念 

育翼雄飛

第2期機関生徒
昭和18年2月27日

雄鵬

第1期普通科操縦生徒  
昭和19年9月25日

表が、よめない、、、

第1期普通科整備生徒  
昭和20年3月24日卒業記念

これだけ、新しい。


広報展示室

駐屯地の展示室は、かならずチェックですね。

陸軍特別攻撃隊を募る檄文

第五十三戦隊長

航空写真

階級章

旧軍コーナー

岡村寧次大将の正装

岡村寧次大将の三式軍装
なぜに、ここに岡村寧次大将なのだろう。(戦争末期の支那派遣軍総司令官)

秩父宮の幼年学校時の御着用軍服

明治天皇の御使用手袋と
昭和天皇の御使用手拭い

需品学校ならでは、の展示室。

部隊の在るところ需品あり

※撮影:2023年11月

その3へ。


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その1(松戸飛行場の戦跡散策)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。
本編は、その1として「松戸飛行場跡」の散策を。


逓信省航空局・松戸飛行場(松戸高等航空機乗員養成所)

1940年(昭和15年)6月3日。逓信省航空局松戸飛行場が竣工し、松戸飛行場を使用する中央航空機乗員養成所が開所。民間操縦士や整備員を養成する目的で設立されたが、帝都防空のための飛行場として陸軍が建設当初から関与し、養成所所長も陸軍少将が務めていた。

なお、逓信省松戸中央航空機乗員養成所は、後に高等航空機乗員養成所と改称している。

昭和19年(昭和19年)には陸軍第一〇飛行師団指揮下の「飛行第五十三戦隊」が所沢から移り、首都防衛の任務に当たった。

松飛台(飛行場跡)
戦時中パイロット養成が目的の「松戸飛行場」がここにあった
昭和15年(1940)、この一帯に総面積132万3000㎡、東西・南北1.2kmづつのL字形滑走路を持つ逓信省航空局、松戸飛行場中央航空機乗員養成所が完成しました。飛行場は民間パイロット養成を目的としましたが、軍人が所長ほか要職を占めており緊急時には軍事基地に転用されるものでした。戦時下では帝都防空を担う陸軍飛行場として機能しました。戦後は主要施設が陸上自衛隊に使用されています。付近は1960年代から工業団地として造成されますが、松戸飛行場の名を「松飛台」という地名に残すこととなりました。

松戸市観光協会(https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E6%9D%BE%E9%A3%9B%E5%8F%B0%EF%BC%88%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1%EF%BC%89/

松戸駐屯地

戦後は、警察予備隊・保安隊の補給処を経て昭和29年の陸上自衛隊発足に伴い「陸上自衛隊需品補給処」となる。

現在は、需品学校、需品教導隊、関東補給処松戸支処、第2高射特科群が駐屯している。
松戸駐屯地司令は、陸上自衛隊需品学校長が兼務している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2B-153
昭和19年(1944年)9月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

松戸飛行場を拡大
滑走路地区は逆L字。西は八柱霊園。

本部地区を拡大

大きな格納庫があるのがわかる。


松戸飛行場時代の格納庫

昭和15年(1940)竣工の格納庫。
現在は、陸上自衛隊松戸駐屯地の倉庫として活用されている。

滑走路側(西側)

東側

北側

南側

内部

覗いてみた。


大型倉庫(戦後)

こちらは戦後と思われる格納倉庫。


ハンドサイレン(手動警報機)

なんかあった。手回しのサイレン、ですね。


木造建屋(戦後?移築??)

木造の建屋がいくつかある。この場所は、格納庫と滑走路の間になるので、往時の建屋ではないんですけど、移築なら、往時の可能性もある、、、

格納庫の西側。


松戸飛行場時代の木造建屋(格納庫東側)

格納庫の東側。往時から現存する木造建屋。

4つの建屋のうち、2棟が木造建屋。

こちらは戦後かな。木造建屋と並ぶコンクリの建屋。

こっちはさらに東側。これも戦後。


門柱跡

門柱跡。ちょっと不自然な場所に。往時のものかどうかも??


松戸飛行場時代の木造建屋(線路側)

松戸飛行場跡の木造建屋。線路際の2棟も、往時からの建屋。

すぐ裏を新京成が走る。もともとは鉄道連隊の線路でもある。

正門近く。


松戸飛行場時代の木造建屋(南側)

南側にある木造建屋。これも往時からの建屋。

独特なデザインの門柱。

同じく南側の建屋。

車両整備工場


駐屯地を横切る踏切

南側の踏切近く。今も昔も位置関係は変わっていない。

線路の東側にも大型倉庫がある。ただし、これも戦後かな。

駐屯地の東西を線路が貫いている。もともとは、鉄道連隊の線路。

松戸駐屯地を新京成が走り抜ける。

戦後の倉庫かな?

滑走路跡は、グランドに。

西門

松飛台の住宅地。かつては滑走路が広がっていた。

※撮影:2023年11月

その2へ。


関連

久里浜駐屯地 創立73周年記念行事・その2(海軍通信学校の戦跡散策)

2023年11月19日。
神奈川県 横須賀市にある陸上自衛隊 久里浜駐屯地で「久里浜駐屯地 創立73周年記念行事」が開催されました。
今は、陸上自衛隊通信学校。そして、かつては、海軍通信学校のあった久里浜。
駐屯地内が開放されましたので、足を運んでみました。

ちなみに、久里浜駐屯地は日本最古の駐屯地、でもあります。

その1は、訓練展示など。

こちらも参照で。


海軍通信学校

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。


海軍通信学校跡碑

海軍通信学校跡

我々ここに巣立つ 
 第五十二期普通科練習生 十四志 
 昭和四十七年十一月五日 建立 
  海軍中将 志摩清英書

志摩清英中将は、昭和18年9月16日から昭和19年1月31日までの通信学校長。ついで、昭和19年2月に第5艦隊司令長官となり、第二遊撃部隊(通称志摩艦隊)を率いてレイテ沖海戦を戦う。

碑の脇には、海軍用地の標石がある。海軍通信学校の境界標かと。

もともと「海軍通信学校碑」がある場所は、海軍通信神社が鎮座していた場所であった。本部庁舎前。


通校神社(海軍通信学校神社) ※長安寺

海軍通信学校・本部庁舎前に鎮座していた「通校神社(海軍通信学校神社)」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

長安寺は2018年撮影


防空壕跡

海軍通信学校本部庁舎前の庭にあるこんもりとした丘。
防空壕跡と推測。


海軍通信学校・本部庁舎
(久里浜駐屯地・本館・建屋1)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。

戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。

昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。

正面玄関

陸上自衛隊 通信学校

中に入ってみます。

正面玄関

在室確認のランプ

歴史を感じさせる廊下。

本部庁舎の裏側。

建屋番号は「1」


海軍通信学校・第一兵舎(久里浜駐屯地・建屋2)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」。
おそらく本部庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・第二兵舎(久里浜駐屯地・建屋3)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


地下通路入り口

久里浜駐屯地には、地下通路が4ヶ所設けられていたという。そのうちの一箇所は、タイヤ倉庫になっている。
立ち入りはできないので、望遠にて。

敷地の北側。南を向いている開口部。

上記写真は「C」に該当する。

久里浜駐屯地の東側の山にも地下通路があった。


久里浜駐屯地内の記念碑

いくつかの記念碑が、整備されている。

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立

保安隊記念碑 
昭和29年

保安隊駐屯記念碑 
昭和28年

保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立


海軍電話蓋

「波」に「話」
建屋1の本部庁舎と建屋2の兵舎のあいだに。


海軍蓋(制水弁蓋)

敷地内にいくつかあるらしい。
私は2つ見つけました。

1つ目。建屋2の近く。

2つ目(歴史館前)


歴史館

主に通信に関係するものなどを展示。

海軍の精神注入棒

山下奉文ゆかりの書


御稜威橋

海軍通信学校、そして久里浜駐屯地の入り口。
平作川にかかる「御稜威橋」

御稜威とは、天皇陛下の強い御威光のこと。


日本最古の駐屯地「御稜威橋」(日本酒)

 陸上自衛隊久里浜駐屯地は、昭和14年「海軍通信学校」として開設、その後は昭和27年から通信電子の教育の中核として「通信学校」が置かれている。
 自衛隊としては最も古い駐屯地である。

販売は、久里浜駐屯地限定。
製造は、岩手の「世嬉の一酒造」

久里浜駐屯地 創立73周年記念行事・その1(訓練展示他)

2023年11月19日。
神奈川県 横須賀市にある陸上自衛隊 久里浜駐屯地で「久里浜駐屯地 創立73周年記念行事」が開催されました。
今は、陸上自衛隊通信学校。そして、かつては、海軍通信学校のあった久里浜。
駐屯地内が開放されましたので、足を運んでみました。

ちなみに、久里浜駐屯地は日本最古の駐屯地、でもあります。

その2は、海軍通信学校の戦跡散策。


久里浜駐屯地

久里浜駐屯地の敷地は、昭和14年(1939年)に旧海軍通信学校として開設。
その後、昭和25年に発足した自衛隊の前身である警察予備隊当時から続く 自衛隊最古の駐屯地。
駐屯部隊には昭和27年(1952年)から続く「通信学校」のほか、「通信教導隊」、「(システム通信団)中央野外通信群」、「(東部方面後方支援隊)通信教育直接支援中隊」、 「(東部方面警務隊)第129地区警務隊」、「(東部方面システム通信群)第316基地通信中隊久里浜派遣隊」がある。


観閲式(久里浜駐屯地 創立73周年記念行事)

観閲式。だいたいの流れはどこの駐屯地でも一緒。

観閲

音楽隊演奏(久里浜駐屯地 創立73周年記念行事)

観閲行進(久里浜駐屯地 創立73周年記念行事)

訓練展示(久里浜駐屯地 創立73周年記念行事)

通信を専門とする部隊としての訓練展示。

前線に通信設備の橋頭堡を確保する訓練。
極めて地味だけど、なかなか他にはない展示は、それはそれで見応えあり。

まずは準備

状況開始!のラッパ

バイクによる先行偵察。

偵察

不審者の制圧

銃撃戦

火力追加

久里浜が保有する最大火力?
通信部隊なので、、、

制圧完了

通信設備の設営

負傷者の収容

迷彩、完了

通信設備の開設完了

状況終了!のラッパ

おつかれさまでした!

※2023年11月撮影


関連

第1空挺団「降下訓練始め」(陸自習志野演習場・2024)

令和6年1月7日、陸自第1空挺団による新春恒例の「降下訓練始め」が実施されましたので、足を運んでみました。

自衛隊で唯一の落下傘部隊である第1空挺団。
不法占拠された離島を、敵国から奪還するとの想定で、約1時間の訓練展示が行われました。


空の神兵

大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。
海軍は「空挺部隊」
陸軍は「挺進聯隊・挺進集団」
そして、陸自は「空挺団」

太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦
1942年(昭和17年)1月11日
海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。。
1942年(昭和17年)2月14日
陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し同じく敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。
両作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。
これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。

「空の神兵」は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。
習志野の陸自第1空挺団は、昭和27年より研究されれ昭和30年に設立した初代空挺教育隊を起点とし、初代空挺教育隊長を務めた衣笠駿雄元陸軍少佐(初代第一空挺団長)に率いられた第1次研究員20名によって昭和33年に創設された。
この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。


降下訓練始め 準備

一般開放は朝8時30分から。
6時すぎに「新京成・習志野駅」に到着して、6時30分頃に「習志野演習場」に到着。もうすでにいい感じに行列ができていました。

7時半ごろの空模様。まだ雲が残っていますね。

時間通り、8時半に入場開始。

滑走路脇から演習場まで歩く。

8時50分頃、演習場に面した高台の観覧場で、今日の観覧場所を確保。

散水車が演習場内をグルグルしていました。

スタンバイ中の10式戦車と16式機動戦闘車

10時30分すぎに、CH-47チヌークから各国の関係者が到着。
本来は、空挺団・各国指揮官等降下展示を予定していたが、悪天候(強風)のために、着陸からの展開。

今回は、アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、ドイツ、オランダ、そしてインドネシアとの合同訓練。

木原稔防衛相もCH-47で登場。桜星5つ旗ですね。


降下訓練始め

10時47分。上空に1機のCH-47が飛来。

「ヘリボーン作戦」

状況開始!

上空1800メートルから、制圧のための潜入降下。

援護として、AH-1S(コブラ)の支援。

約340メートルからの降下。

C-2輸送機

米軍機も参加。米軍機C-130からの降下も実施。

観戦武官というか、参加国に、今回は初でオランダとかインドネシアとかも参加していますが、アメリカ軍機から降下する日本の第1空挺団の降下BGMは、おなじみの「空の神兵」。その伝統には揺らぎがない。

空の神兵
 梅木三郎作詞  高木東六作曲

藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る

足を屈することのないきれいな着地。

降下後にいかに素早く迅速にパラシュートを片付けるかも見どころ。

すぐさま、進撃を展開

航空支援
戦闘ヘリコプターAH-1S(通称「コブラ」
多用途ヘリコプターUH-1J(通称「ハンター」)

輸送ヘリコプターCH-47(通称「チヌーク」

チヌークは、大活躍です!

高機動車と120ミリ迫撃砲の運搬。

火砲での制圧

地上支援

10式戦車と16式機動戦闘車

軽装甲機動車LAV(ラヴ)も。

三度の航空支援

さらには、米軍による空挺支援
ただし、悪天候で降下中止。上空通過のみ。
米軍空挺が中止した中で、普通に空挺を成功させた習志野第一空挺団は、さすが「第一狂ってる団」(褒め言葉

米軍から言わせると、習志野演習場は狭くて、こんな狭い所に空挺降下する陸自の第一空挺団は、頭おかしいそうで。。。

チヌークの襲来。

米国、英国など、同盟国及び同志国の部隊が来援

地上戦を展開し、敵を撃破し離島を奪還したところで、訓練展示は11時45分頃に終了。

状況終了!


降下訓練始め 終了

木原防衛大臣訓示などの式典

ちょっと遠い。
APS-Cの300mmなので、光学450mm換算だけど、それでも遠い。

16式機動戦闘車、砲口の掃除を実施していました。

航空自衛隊第1高射群第1高射隊が装備する地対空誘導弾ペトリオットの発射地区、かな。

なんか古そうな建屋。陸軍時代?かどうかは不詳。

このあたりは、陸軍演習場、射撃場などが設けられていたが、往時の航空写真を見ても建屋は確認できないほどに、なにもない原野の射撃場のため、戦後の建立とは思われるが。(移築などがあるとなんともいえないですけど)

習志野射撃場

滑走路

習志野演習場を出たのは、12時40分すぎ、でした。

習志野駐屯地を横目にみながら、駅まで戻ります。

※2024年1月撮影


関連(習志野)

武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事・その2(74式戦車&203mm自走榴弾砲引退セレモニー) 

2023年11月12日。
武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事が開催されましたので、足を運んでみました。

本記事は、その2となります。その1は下記より。


74式戦車引退セレモニー

今年度(令和5年度)で引退する74式戦車の引退セレモニー
ナナヨンの最後。

車体を前後左右に傾けるデモ。
サスペンションによる車体傾斜。

上下姿勢。

砲塔を固定して、車体回転。

空砲射撃

後輩の入場。
90式戦車と10式戦車が74式戦車を見送ります。

空砲射撃で74式戦車を見送り

応える74式戦車の最後の空砲射撃

74式戦車のラストラン。

お疲れ様!74式戦車


203mm自走榴弾砲引退セレモニー

ナナヨンと同じく、令和5年度で引退をする203mm自走榴弾砲の引退セレモニー。
99式自走155mm榴弾砲を引き連れての入場。

203mm自走榴弾と99式自走155mm榴弾砲。

203mmは、陸自の最大口径でもあった。

203mm自走榴弾の空砲射撃は、無し、でした。(音の問題らしい)

かわりに、155mmが手向けの空砲を打ちます。

そして、後方に控えていた155mm榴弾砲。

99式自走155mm榴弾砲の空砲射撃

155mm榴弾砲 FH70の空砲射撃

203mm自走榴弾砲の引退を見送ります。

もう一度、155mm榴弾砲 FH70の空砲射撃。珍しくバッチリ撮影できた。。。

お疲れ様!
203mm自走榴弾砲のラストラン。


静態展示コーナー

ナナヨン!

203mm自走榴弾砲

砲身に混じってるクレーン、、、

※撮影:2023年11月


関連

武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事・その1(記念式典と装備アトラクション)

2023年11月12日。
武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事が開催されましたので、足を運んでみました。

本記事は、その1です。


土浦駐屯地関連

以前の記事を参照で


武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事

この日は、あいにくの空模様でした。

記念式典

10時から記念式典。
隊員がグランドに集います。

なかなかの迷彩っぷり。

土浦駐屯地が所管する自治体旗の集合。

観閲の指揮官が登場。

陸上自衛隊武器学校長兼ねて土浦駐屯地司令
陸将補 星指 𠮷見

国旗に対して敬礼

巡礼

来賓挨拶。
ヒゲの隊長こと、佐藤正久参議院議員(最終階級は1等陸佐)ですね。

ちょっと雨が、、、

撤収

施設学校音楽隊の演奏

装備アトラクション

装備アトラクションの開始ラッパ

武器学校が保有する装備が、順々に行進してきます。


88式地対艦誘導弾

03式中距離地対空誘導弾

93式近距離地対空誘導弾

11式短距離地対空誘導弾

87式自走高射機関砲

機関砲砲塔がぐるぐるまわります

96式装輪装甲車

16式機動戦闘車

52口径105mmライフル砲の砲塔をぐるぐると。

高機動車&120mm迫撃砲RT

19式装輪自走155mmりゅう弾砲

きました。
最大口径の203mm自走榴弾砲。今年度で引退。

99式自走155mm榴弾砲

そして、3世代の戦車が並んで、やってきました。

74式戦車

砲塔回転

74式戦車の後ろ

90式戦車と10式戦車

90式戦車

10式戦車

90式戦車の後ろ

10式戦車の後ろ

水陸両用車

回収車

78式戦車回収車

90式戦車回収車と11式装軌車回収車

装備アトラクション展示はここまで。

74式戦車と203mm自走榴弾砲の引退セレモニーは、その2で。


※撮影:2023年11月