中島飛行機三鷹研究所跡散策

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平成29年10月撮影

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位置関係

USA-R360-124
1947年(昭和22年)10月24日-米軍撮影
現在は「国際基督教大学(ICU)」と「SUBARU東京事業所」

中島飛行機は東京工場(中島飛行機東京製作所)を大正14年に開設後も急成長を遂げる。

平成29年10月撮影 中島飛行機発動機発祥之地碑(中島飛行機東京製作所跡地) 昭和62年12月10日建立 中...

昭和13年(1938)には三鷹北部の武蔵野に大規模工場として「武蔵製作所」を開設。

そして昭和16年(1941)に三鷹南部の大沢に「三鷹研究所」を開設し、総合的な研究機関の設立を目指すも終戦により、中島知久平の夢は敗れる。


地元の調布駅からバスに乗り、降りたバス停名は「富士重工業前」。 2017年4月に「富士重工業株式会社」は社名変更して「株式会社SUBARU」に。
富士重工業の前身「中島飛行機」時代には「三鷹研究所」として航空機研究開発拠点だった地。

現在は「SUBARU 東京事業所

森山荘

東京スバル三鷹店の裏側の森。
SUBARU東京事業所の敷地内にひっそりと佇む建物が「森山荘」
(敷地外から撮影。一般非公開。)

中島飛行機時代には、来客をもてなすために使用された建物という。 現在はSUBARU関係者の懇親に利用されているという。

「中島飛行機三鷹研究所」の敷地の大部分、現在は「国際基督教大学(ICU)」となっております。
ちょうど訪問した 10月21~22日は学園祭「ICU祭」でしたので、(大雨ですが)このタイミングを狙って脚を運んでみました。

入り口は中島飛行機時代と変わらずの位置関係。

「中島飛行機三鷹研究所」
南に「調布飛行場」を控え、
北には「武蔵製作所」
北東には「東京製作所」
絶好の立地環境。

そして中島知久平はその晩年を三鷹研究所内「泰山荘」で過ごし亡くなっている。
墓は三鷹研究所の西側に拡がる「多磨霊園」に。

多磨霊園
中島知久平墓

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月1日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

国際基督教大学学園祭「ICU祭」の時のみ一般公開される施設が大学構内にあるので行ってみました。

泰山荘

中島飛行機の中島知久平が晩年を過ごした地。

が、雨天中止。
こればかりはしょうがない。またこんどです。

参考 「泰山荘」 国際基督教大学サイト

国際基督教大学(ICU)校内
泰山荘・表門

1936(昭和11)年頃の建設。表門だけは見学できました。
日産財閥の重役であった山田敬亮の別荘として建設され、昭和15年(1940)に山田家から中島飛行機に売却。中島知久平の住宅となった。

泰山荘
中島知久平
昭和20年8月終戦直後の東久邇宮内閣で軍需大臣及び商工大臣。
12月にGHQよりA級戦犯に指定。
病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘にて自宅拘禁扱い。
昭和22年9月にA級戦犯指定解除。
昭和24年10月29日に脳出血のため泰山荘にて死去。

国際基督教大学(ICU)本館
中島飛行機三鷹研究所本部棟

中島飛行機三鷹研究所として昭和16年12月に建築開始された建物がベース。
戦後、ICU所有後に中央4階部分を増築し窓外壁など改築し1953年完成。2003年に外壁を改装。

国際基督教大学(ICU)本館
中島飛行機三鷹研究所本部棟

大雨の為、学祭も室内メインに。
それゆえに外観の写真は逆に取りやすかったが。

本館は大幅改良されているので往時の雰囲気だけを脳裏に思い浮かべつつICUをあとにする。

泰山荘はまた次回に?
宿題ですね

参考ニュース

第二次世界大戦中に製造された ジェットエンジン・ネ 230 の排気ノズル と推定される部品をキャンパス内で発見

https://www.icu.ac.jp/about/public/press/docs/ICUPressRelease_%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3%E9%83%A8%E5%93%81_WEB.pdf

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コメント

  1. 高橋昭子 より:

    父と母が出会った場所が、中島飛行機ということを聞き一度行ってみたいと思っていました。今年中には訪れたいと思ってます。

  2. 粉川和夫 より:

    防空壕の話が時々出ますが、私が子供の頃(1956年頃)ICUの南の外れに洞窟(防空壕)があり、友達と探検しに行ったことがあります。三鷹では結構有名だったようでかなり遠くからも子供が来ていました。私が入ったのは2本あり、1本は短く途中で崩れていたように思います。もう1本は長く、たぶん60メートルくらいあったと思います。皆懐中電灯やろうそくを灯りにして入りました。子供の背だと完全に立つことができました。防空壕は記憶では東西に走っていたように思います。飛行場側の崖ではなくもっと東よりだったように思いますが、子供の記憶なのであてになりません。

  3. 竹中恭二 より:

    森山荘については以下のURLをご覧ください。
    その中で中島飛行機の役員だった太田氏の森山荘についてのコメントを掲載してあります。
    https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/chikuhei/shafu3.html