騎兵の町・軍郷習志野。
日露戦争当時、この地には4つの「騎兵聯隊」が駐留していた。
その後、第一次大戦後の軍縮や軍備近代化の流れなどもあり、騎兵連隊は規模を縮小し騎兵は戦車兵と統合し機甲兵としてなり、兵種としての騎兵は消滅していった。
習志野の騎兵第16聯隊の敷地は、昭和7年(1932)より、陸軍習志野学校の敷地へと編入されている。
今回のレポートは、そんな「陸軍習志野学校」にまつわる戦跡散策。
目次
習志野の森
以前に、習志野の騎兵聯隊関連の散策を行った際に気になっていた場所があった。
「習志野の森」
立ち入りできず外から眺めるのみであったこの場所に、入れる機会があった。
当サイトでも何度かお世話になっていた日本戦跡協会さんが、「習志野の森」の保存活動と掃除を行っている団体(「習志野みどりの会」)と連絡をとり、とある日の午前中の掃除時間に見学できる道筋を用意し、そこに私も便乗する機会を得られたのだ。
そんなわけで。。。
本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
日本戦跡協会サイト
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いつもありがとうございます。
習志野の騎兵
近衛師団
騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊
日露戦争時の旅団長(少将)
騎兵第1旅団長→秋山好古 【秋山支隊】
騎兵第2旅団長→閑院宮載仁親王
習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13聯隊→東邦大学
騎兵第14聯隊→日本大学
騎兵第15聯隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16聯隊→大久保住宅や「習志野の森」←【今回の対象エリア】
位置関係(騎兵聯隊)
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-1
昭和19年10月16日に大日本帝国陸軍が撮影した航空写真を加工。
位置関係(陸軍習志野学校)
騎兵第16聯隊は、昭和7年より陸軍習志野学校。
当初は、騎兵第16聯隊の跡地のみだったが、のちに騎兵第15聯隊の跡地にも敷地拡大している。
陸軍習志野学校周辺をクローズアップする。
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M737-103
1948年01月18日に米軍が撮影した航空写真を加工。
見学の際に頂いた資料。
「学校内建物配置図」と照合する。
「習志野の森」該当部分を更に拡大。
「習志野の森」に残されている基礎などは、上記と照らし合わせると「学校本部」「実験講堂」「学生舎」「厠」「医務室」「将校集会所」などであることがわかった。
習志野演習場 周辺住民説明会(第1回)
環境省の説明会資料にて「習志野学校」関連、位置関係などがわかる資料が公開されている。
陸軍習志野学校
もと陸軍騎兵第16聯隊及び騎兵15聯隊の地に展開されたのが「陸軍習志野学校」(昭和8年~昭和20年)。
戦後は警察署・学校・住宅・保育園などに転用。
中心部は「千葉大腐食研究所」が展開されていたというが現在は移転。その跡地は「習志野の森」として国有地になっている。
「習志野の森」
現在は国有地となっており年に何度かの公開日以外は立入禁止。戦後に学校建屋を活用して展開された千葉大腐食研究所跡地に習志野学校時代の基礎や土台のみが残っている。奥には動物実験の犠牲になった「動物慰霊塔」もある。
陸軍習志野学校では、帝国陸軍の化学戦(毒ガス戦)に関する研究が行われた。「毒ガス学校」とも呼称されて、毒ガス兵器の開発や実験をしていたと思われやすいが、実際には、化学兵種である化兵・瓦斯兵に毒ガス戦に対する防御法の教育訓練する学校であったという。
陸軍習志野学校は運用訓練、大久野島の陸軍造兵廠忠海製造所で化学物質の製造が行われ北九州小倉の陸軍造兵廠曽根製造所まで輸送され兵器として製造(充填)されたという。
大正7年(1918)、陸軍省で臨時毒ガス調査委員会が設立。
大正8年、板橋陸軍火薬研究所を改編し陸軍技術本部に陸軍科学研究所が新設。
大正11年、戸山ヶ原に創設された陸軍化学研究所第2課化学兵器班で研究開始。
大正15年、参謀本部内に毒ガス研究会が設置。
昭和4年(1929)、化学兵器を製造する大久野島忠海製造所が稼動開始。
昭和8年(1933)、毒ガスを中心とする化学戦学校として習志野学校が開校。同時に細菌戦は関東軍防疫給水部本部(731部隊)で行うことも決定。
昭和20年の終戦時、学校は空襲を受けずほぼ無傷の状態であったが、校内では文書や設備の破壊・焼却が行われた。
戦後は、警察署・学校・住宅・保育園などに転用。特に中心施設があった騎兵第16連隊跡地には千葉大学の分院・附属の腐敗研究所などが置かれた。1977年(昭和52年)腐敗研究所が千葉市内に移転した跡は、「習志野の森」となっている。
習志野の森も再開発で失われるところであったが、貴重な在来種「カントウタンポポ生息地」として「習志野みどりの会」による緑地保全活動が行われている。
動物慰霊之塔(習志野の森)
陸軍習志野学校の敷地内に残る慰霊塔。登戸研究所もそうであったが、実験での犠牲となった動物たちを慰霊する空間。敷地の端ではなく、本部と講堂と学生舎の中間に建立されていた。
動物慰霊之塔
〇〇〇〇〇〇〇〇
慰霊之塔に刻まれている揮毫者の名前は削りとられていた。
揮毫者の名前を何らかの理由で削ったものと思われるが、削られた理由は不詳。
上4文字が「陸軍少将」と読めることから、陸軍習志野学校校長など、それなりの立場であった人物であったことは容易に予想できる。
その上で、裏面は「皇紀2600年」に建立されたことが刻まれている。
皇紀2600年=1940年(昭和15年)であれば、ちょうど陸軍習志野学校第4代校長の 西原貫治 少将(陸士23期)が、立場も時期も該当する。最後の漢字の削られ方も「治」とも読めそうだ。
西原貫治(にしはらかんじ)は、陸軍習志野学校幹事や陸軍習志野学校校長、化兵監、第4軍司令官、第57軍司令官などを歴任し、1945年(昭和20年)10月、西部軍管区司令官となり、翌月、予備役に編入され、同年12月から翌年3月にかけて西部復員監を務めている。
皇紀二千六百年一月建之
陸軍習志野学校跡地散策(習志野の森散策)
清掃開放日に許可を得て見学を実施。
一般開放は年4回(4月、6月、8月、11月の第一土曜日1000-1600)とされているが、実際の実施の可否は、都度確認でお願い致します。
入り口の門柱脇のレンがは、当時のものと思われます。
習志野の森。
このあたりに「貯水池」があったと思われる。
貯水池の隣で、「この字型」に残るレンガ基礎は「厠」の跡か?
貯水池と厠の北側は、学校本部。
学校本部の階上は研部、階下は経理室。
写真を撮っているうちに位置関係がわからなくなりました。。。
学生舎の入り口?
手洗所。水道管も残っている。
電柱も残っている。
境界杭
基礎であることはわかるが、何がなにやら、位置関係をトレースせずに写真を撮っていたので、整理ができていない状況です。
習志野の森エリアの建屋位置関係を後学のためにメモしておきます。
乱暴に記載するとこんな感じ。
【実験講堂】
【慰霊塔】 【厠】 【印刷所】
【学 校 本 部】【学 生 舎】
【貯水池】【厠】 【貯水池】
【衛兵所】 【医務室】 【将校集会所】
【表門】
今回まとめることで、位置関係を把握できたので、これはわかるように写真を取り直そう。。。
また、訪問したいと思います。
掲載が遅くなってしまいましたが、「習志野みどりの会」の皆様と、日本戦跡協会様と、ありがとうございました。
※2022年1月撮影
関連リンク
習志野みどりの会