「霞ヶ浦駐屯地一般公開」その2(広報センター)・第一海軍航空廠跡地散策

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令和5年度の「霞ヶ浦駐屯地開設70周年・関東補給処創立25周年記念行事」が2023年6月3日に開催されました。午前中は雨天ということもあり、いくつかのイベントは中止とはなったが、足を運んでみました。
この機会を逃すと、霞ヶ浦駐屯地内の戦跡散策は、また1年後になってしまうかもしれませんので。

本記事は、「その2」となります。本部地区の広報センター内部展示を中心に掲載。
その1」「その3」はこちら。


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霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立した航空隊。(横須賀、佐世保、霞ヶ浦)
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。

平成28年4月 予科練平和記念館復元された零戦21型雄翔館(予科練記念館)阿見町内に点在する海軍の史跡戦前の霞ヶ浦神社、戦後の慰霊塔...

土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。

茨城県稲敷郡阿見町。現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。...
茨城県稲敷郡阿見町。現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。...

第一海軍航空廠

第一海軍航空廠は、それまでの海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編して昭和16年10月に設立された。
海軍の航空機やエンジンなどの組立て・修理を実施。
霞ヶ浦は、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊、霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠など、大日本帝国海軍航空隊の一大拠点であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:UUSA-R2232-44
1948年12月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

第一海軍航空廠の部分を拡大


旧第一海軍航空廠及び霞ヶ浦海軍航空隊模型

これは、良くできた模型。
わかりにくい、霞ヶ浦飛行場周辺の海軍関係施設が、一目瞭然に理解できます。

年表で代表的な事項をピックアップしてみる。

  • 1921(大10)7月 霞ヶ浦海軍飛行場開設
  • 1922(大11)11月 霞ヶ浦海軍航空隊開設
  • 1924(大13)4月 押収格納庫竣工
  • 1929(昭4)8月16日 ツェッペリン伯号着陸
  • 1939(昭14)航空廠先発隊として横須賀海軍技術廠霞ヶ浦出張所が開設。航空廠建設に着手。
  • 1940(昭15)11月 土浦海軍航空隊開設。紀元2600年記念。
  • 1941(昭16)10月 第一海軍航空廠設立。
  • 1943(昭18) 押収格納庫解体。海軍軍需部霞ヶ浦支部で燃料供給開始(朝日分屯地)
  • 1944(昭19) 「桜花」試作一号機完成。
  • 1945(昭20)6月10日 阿見大空襲で土浦海軍航空隊の予科練生ら281人戦死。8月15日、終戦。10月、第一海軍航空廠は米軍に接収。賠償指定工場となる。

昭和20年頃の海軍各施設。
でも、押収格納庫は昭和18年には解体されているけど、ね。

第一海軍航空廠

霞ヶ浦海軍航空隊。
中央に、霞ヶ浦海軍航空隊中央格納庫や霞ヶ浦海軍航空隊戦闘指揮所がある。
井関農機の敷地内に現存している。

霞ヶ浦海軍航空隊

奥は、土浦海軍航空隊
真ん中は、霞ヶ浦海軍航空隊
手前は、第一軍需工廠


陸自のコーナー(1階)

武器補給処 追憶乃碑

野外にあった石碑とリンクしますね。これは、陸自時代の思い出。


旧第一海軍航空廠庁舎

昭和16年10月1日に開庁した第一海軍航空廠の庁舎。
昭和28年からの霞ヶ浦駐屯地でも、平成5年3月まで本部庁舎として使用。
施設再配置工事にて解体。


中島健氏の絵画

階段には、飛行機絵師・中島健氏の絵画が掲げられていた。

零式艦上戦闘機52型。
以前にコメントにていただいていた情報を思い出しました。

なるほど。
これは、作者として特定の個人を連想させないように、あえて顔を描かなかった、もしくは、顔を描けなかった、ような気配を、私は感じ取った次第です。


ハンザ式水上偵察機プロペラ

ハンザ式水上偵察機は大正15年に正式採用され、同年までに300機前後が生産された。当展示プロペラは刻印から同機種に取り付けられていたと推察され、写真の2枚羽が大半であったが、展示品は希少な4枚羽である。(写真:霞空十年史)

いわれてみれば、木製4枚羽のプロペラはあまり見ない。。。

14式水上偵察機、ってありますね。

プロペラの刻印。

単葉
ヒ式200H.P.
愛知No.473
15.8.31

ヒ式200馬力は、イスパノスイザ発動機とのことで、三菱ヒ式発動機でライセンス生産された。愛知時計電機製航空機製。

海軍のシンボル錨も刻印されている


第一海軍航空廠ゆかりの航空機

第一海軍航空廠が整備、修理、部品受領等で関わった航空機。

圧巻。日本海軍の航空機が勢ぞろいしている感がある。


第一海軍航空廠の関連資料

止水栓


高須四郎海軍大将の遺品

高須四郎は、茨城県稲敷市の出身。
旧制土浦中学(現在の土浦第一高等学校)卒業。
開戦時は、第一艦隊司令長官。
昭和19年、海軍大将。海軍乙事件において連合艦隊司令長官古賀峯一大将が殉職した際に、南西方面艦隊司令長官であった高須四郎は、次席指揮官として、後任の豊田副武大将が着任するまでの間、連合艦隊司令長官代行として、レ号歓待の指揮を執っている。


大空の女神 胸像
(藤田多美子女史胸像)

「その1」で掲載した歌碑とともに、胸像が、霞ヶ浦駐屯地にて保管されている。

藤田多美子女史の歌碑は、広報センター外に展示されている。「その1」で掲載。

歌碑に記される二首の歌
大君の 御楯となれる 益荒男の
 空の勇士に この身捧げん

大空に産声挙げし吉田原
 この身捧げて 守りまつらん

 飛行機事故が起きませぬ様にわが命を捧げる事によって空の勇士を守り給えと祈りつつ、大空翔ける勇士の安全と武運を祈り、水戸通信学校の皆様に宛てた遺書に添えられていた藤田多美子女史の歌である。写真前に展示してある書籍「山桜の花影に」は、多美子さんの純粋で一途な愛国の心を後世に伝えるべく、多美子さんの実妹である増田芳江女史が平成16年に自費出版したものである。

「身は壌土と化すとも魂はかならず永しへに、この地にとどまり大空翔ける皆々様の御武運をお守りいたす事で御座いませう」遺書の一文。

「大空の女神」と呼ばれた乙女
 この胸像の女神は、茨城県水戸市に実在した藤田多美子女史である。
 多美子さんは、昭和15年11月29日、開戦気運が高まる中、相次ぐ航空機事故で命を落とす軍人たちを目の当たりにして、「何かお国のために、女ながらお役に立ちたい」との切望のもと、陸軍航空通信学校(旧・水戸市吉田原、現・水戸市住吉町)の飛行場の一隅にあった井戸に、身を投じ、わが身を、わが心を、わが命を飛行機事故が起きませんように、一人も犠牲者が出ませんようにとの祈りを込めて身を没しました。享年22歳の事である。
 多美子さんの行動は美談として称えられ、地元有志らにより、一周忌にあたる昭和16年11月、陸軍航空通信学校内に胸像と写真の歌碑、お堂が建立され「大空の女神」として戦時中、同校に祀られたものである。

展示までの経緯
 戦後、陸軍航空通信学校は米軍に接収され、女神像も遺棄されたが、昭和20年頃農家の納屋で発見され以来67年間に亘り、ご実家に安置され守られてきた。
 多美子さんの父親が生前「事故の根絶という娘の遺志を叶えるべく、せめて飛行場の見える位置に安置してあげたい。」と願っていたという事実を知りえたご遺族、旧陸軍航空通信学校出身者及びその支援者の働きかけにより、「場所は違えど、同じ茨城県内唯一の陸上自衛隊航空科部隊の飛行場を有する霞ヶ浦駐屯地に胸像及び歌碑を置きたい。」との申し出があり、72周忌にあたる平成24年11月以降、ご意志を広く後世に伝えるため、当広報センターにおいて展示するものである。


藤田信雄海軍兵曹長

アメリカ本土を爆撃した唯一の事例として、藤田信雄氏のコーナーが設置されている。

レーガン大統領から「英雄」藤田信雄氏に贈られた星条旗とメッセージ。

1942年9月9日と29日に2回に渡って、アメリカ合衆国オレゴン州ブルッキングスの森林に焼夷弾を投下し山林火災を企図。
これが、歴史上で唯一の航空機による爆撃となり、そのときに爆撃を実施したのが伊25潜水艦から離水した零式小型水上偵察機11型の藤田信雄飛行長であった。
藤田信雄氏は、霞ヶ浦航空隊で水上機教育を受け、そして霞ヶ浦海軍航空隊で教育担当も行い、昭和17年に伊号25潜水艦で出撃し、米本土爆撃後の昭和18年に、再び霞ヶ浦海軍航空隊に配属され終戦を迎えている。


ツェッペリン伯号

ドイツの飛行船、ツェッペリン伯号のコーナー

係留環

藤吉 直四郎
昭和4年に、少佐としてドイツ出張。ツェッペリン伯号を日本まで誘導する任務を担った。
帰国後は、霞ケ浦空飛行船隊長。その後も、各地の航空隊司令を勤め、終戦時は、少将で土浦空司令であった。

藤吉直四郎海少佐(後少将)
昭和4年8月、ドイツ国の飛行船ツェッペリン伯号の世界一周に際し同船をドイツから霞ヶ浦飛行場まで1万1千キロ余の航程誘導の大任を無事果され、日本海軍の航空技術の優秀性を世界に示された。

ツェッペリン伯号関連の記念碑は広報センターの外に展示されている。「その1」で掲載。


陸自のコーナー(2階)

2階のむかって左半分は陸自のコーナー。(右半分が戦前のコーナー)

「兵站攻勢」
補給処の業務遂行の礎として。(石碑は野外の慰霊殿の近くにありました。)

火器展示

模型展示

※撮影:2023年6月

「その3」では、飛行場地区など。


関連(茨城県)

近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 ‐日本の近代と慰霊の地を巡りしサイト‐(戦跡紀行ネット)

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