谷中霊園を訪れた際に、前々から気になっていたお墓に足を運んできました。
目次
旅順口閉塞作戦
日露戦争における旅順口攻撃において、大日本帝国海軍が行ったロシア帝国海軍旅順艦隊の海上封鎖作戦(旅順港の閉塞作戦)。
3回目に渡って実施されたが閉塞作戦であったが、旅順艦隊の航行を制限するまでには至らず、旅順港を十分に封鎖する事はできなかった。
第一回旅順口閉塞作戦(第一次閉塞作戦)
明治37年(1904年)2月23日深夜、5隻の閉塞船と第五駆逐隊(4隻)が旅順港近くの老鉄山下に進出。
近づくにつれ、ロシア軍の黄金山・城頭山・白銀山の砲台からサーチライトと激しい砲撃を浴びせられ、閉塞船団は位置の把握も困難となった。
報国丸が戦艦レトヴィザンからの砲撃を受けつつもかろうじて湾口の灯台下で自沈できたものの、他の閉塞船は湾口の手前で自沈し、閉塞は不十分なものとなった。機関兵1名が戦死している。
第二回旅順口閉塞作戦(第二次閉塞作戦)
3月27日未明に決行され、閉塞船4隻を投入するもロシア軍に察知されて失敗。
福井丸を指揮した広瀬武夫少佐(没後、中佐)と杉野孫七上等兵曹(没後、兵曹長)、「朝日」乗組の菅波正次2等信号兵曹(没後、1等信号兵曹)、「高千穂」乗組の小池幸三郎2等機関兵(没後、1等機関兵)の4名が戦死している。
第三回旅順口閉塞作戦(第三次閉塞作戦)
第一回目は5隻、第二回目では4隻の閉塞船を投入し失敗したことを踏まえ、第三回目は12隻もの閉塞船を投入した最大規模の作戦であった。
しかし天候不順により、総指揮官の林三子雄中佐は作戦の中止を決断する。 しかし、中止命令が後続艦に行き渡らず閉塞船8隻及び収容隊がそのまま突入した。結局それらの閉塞船も沿岸砲台によって阻まれ、湾の手前で沈められた。
この第三回旅順口閉塞作戦では、野村勉少佐、向菊太郎少佐、白石葭江少佐、湯浅竹次郎少佐、高柳直夫少佐、内田弘大尉、糸山貞次大尉、山本親三大尉、笠原三郎大尉、高橋静大尉、寺島貞太郎機関少監、矢野研一機関少監、岩瀬正機関少監、清水機関少監、青木好次大機関士のほか、准士官、下士及び卒ら、あわせて死傷者行方不明者が91名という大損害を出し、閉塞作戦は断念し、旅順陥落まで海上封鎖を続けることとなった。
(向、高柳、野村、白石、湯浅の各大尉は戦死とされ少佐へ進級)
旅順攻囲戦
海軍に寄る旅順閉塞作戦は、当時の日本が保有していた1000トン以上の商船197隻のうち、約1割にあたる21隻を投入したが、事実上の失敗に終わった。
ロシア軍は、ウラジオストク艦隊での通商破壊作戦の対処と、バルチック艦隊のアジア派遣による時間的な制約もあり、旅順艦隊を要する旅順港の攻略を陸軍に要請、乃木希典による第3軍の旅順攻囲戦、陸上作戦に移行することになった。
日本陸軍による旅順攻囲戦と、旅順港を脱出しようとした旅順艦隊を迎撃した黄海海戦により、旅順艦隊は無力化することとなった。
向菊太郎と朝顔丸
向菊太郎
「松島」航海長であった向菊太郎は、第三回旅順閉塞作戦において「朝顔丸」指揮官として参加。
「作戦中止命令」が行き渡らずに突撃する僚艦の動きを追随し突入を再開。陸上砲台からの集中砲火を浴びて黄金山付近で撃沈。指揮官の向菊太郎少佐以下、乗組員18名全員が戦死。
向菊太郎大尉(死後特進少佐)は33歳であった。
朝顔丸
明治22年(1889)イギリスで竣工。2461トン。三菱会社が社船「朝顔」として購入。
明治26年(1893)日本郵船に売却。「朝顔丸」と改称された。
その後、海軍に徴用され、日露戦争での第2回旅順閉塞作戦で閉塞船に投入された。
三菱が購入時には、船首に婦人木製の像が取り付けられていたが、船首像はのちに取り外され、宮中建安府に保管されていた。戦後昭和23年に運輸省海技専門学院に移管され、神戸商船大学に引き継がれ、現在は、「神戸大学海事博物館」に収蔵されている。(まだ行ったことない、、、)
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81012189/81012189.pdf
向家之墓(向菊太郎墓)
向家之墓

合掌
御英霊に、感謝と哀悼の意を
やすらかに

海軍少佐従六位勲四等功五級
向菊太郎
明治三十七年五月三日没
享年三十三才
向菊太郎の奥さんは、日露戦争前の明治36年12月に25才で亡くなっていたこともわかる。お子さんも若く、昭和6年に32歳で亡くなっていた。

場所
谷中霊園 乙3号1側
朝顔丸の欄干
向家の墓所に、柵のように設置された「朝顔丸の欄干」。
そして欄干のエピソードを記載した碑もある。
向菊太郎の向家は加賀藩士の出自。
向家墓所に由来碑を建立した藤岡作太郎(東京帝国大学・国文学者)は、向菊太郎の金沢時代の竹馬の友であった。
また、西田幾太郎(哲学者)も同郷の友として、向菊太郎を偲ぶ回想の記録を残している。
明治三十七年の戦役における旅順港口の閉塞は壮烈鬼神をも泣かしむべし海軍少佐向菊太郎君は五月三日第三回の閉塞に朝顔丸の指揮官たり朝顔丸一度往きて復還らず乗組員挙って国事に殉せり今年一月君と同郷にして親交ある千秋海軍少佐の旅順口に至るや沈没せる旧友の船が干潮の際舩橋を露出せるを見て官に請ひ其欄干を得て帰る同志相謀り之を修して君が墓域の鐡柵とす思うに閉塞の時風浪険悪船は動いて軽塵の如し君欄干を握りて体を支え敵塞を睨んで叱咤の聲闇を破りけむ此鐵柵は即ち君が最期の紀念にして当日の殊勲を聲なきに語るものなり
明治三十八年十月連合艦隊凱旋の日
故人が竹馬の友藤岡作太郎誌す
さすがの東京帝国大学の国文学者、藤岡作太郎。
格調高いレクイエム。
「君欄干を握りて体を支え、敵塞を睨んで叱咤の聲闇を破りけむ」
(君はその時、この欄干を握って身を支え、敵陣を睨みつけながら、闇を切り裂くような叱咤の声をあげていたに違いない。)
「此鐵柵は即ち君が最期の紀念にして当日の殊勲を聲なきに語るものなり」
(この鉄柵は、君の最期の記念(かたみ)であり、あの日の殊勲を声なき声で語り続けているのである。)
以下、現代語訳を。
明治三十七年(日露戦争)の旅順港閉塞作戦は、鬼神をも泣かせるほど壮絶なものであった。海軍少佐・向菊太郎君は、五月三日の第三次閉塞作戦において「朝顔丸」の指揮官を務めたが、朝顔丸は一度出撃したきり帰還せず、乗組員全員が国難に殉じたのである。
今年一月、君と同郷で親交の深かった千秋海軍少佐が旅順を訪れた際、干潮時に旧友の沈没船(朝顔丸)の船橋(ブリッジ)が露出しているのを発見した。千秋少佐は当局に願い出て、その「欄干(手すり)」を譲り受けて持ち帰った。そして同志たちと相談し、これを修理して君の墓所の鉄柵としたのである。
思えば閉塞作戦の折、激しい風浪の中で船は塵のように揺れ動いていただろう。君はその時、この欄干を握って身を支え、敵陣を睨みつけながら、闇を切り裂くような叱咤の声をあげていたに違いない。この鉄柵は、君の最期の記念(かたみ)であり、あの日の殊勲を声なき声で語り続けているのである。

旅順閉塞作戦に従事した朝顔丸の乗員たちが握りしめたであろう、往時を偲ぶ名残の欄干。
君が最期まで握っていたものと共に眠らせてあげたいという、友の気持ちが伝わる。




※撮影:2026年1月



