東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場・精工舎南桜井工場の跡地散策(春日部)

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埼玉県春日部市。東武野田線「南桜井駅」の北側は、かつて軍需工場であった。
しかし、2021年の夏に、軍需工場時代を物語る門柱が撤去され、往時を偲ぶものは皆無となった。。。

上記の場所に、かつて門柱があった。取り壊し済み。
以下は、Googleストリートビューにて。奥に見える門が、軍需工場時代からの正門であった。


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東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)


東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場
精工舎南桜井工場(服部時計店南桜井工場)

戦時下体制により半官半民であった「精工舎」は、昭和18年夏頃に東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう伝達を受け、昭和19年3月より錦糸町の工場からの疎開を開始。
精工舎南桜井工場(服部時計店南桜井工場)として、昭和19年10月より操業を開始。精工舎南桜井工場では、服部時計店が培ってきた時計生産技術を生かし、高射砲弾丸の頭につけ爆発を誘発する45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管を製造していた。

昭和20年3月から4月にかけて、東京都北区十条の東京第一陸軍造兵廠第三製造所の空襲によって、工場の一部疎開を決定。第三製造所の一部が、先行して南桜井の地で操業していた半官半民の「精工舎南桜井工場」の未使用であった北部の敷地と建物を借用し疎開することとなった。
東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場は、13万4,646平方メートル(約4万800坪)、工場建屋面積は5,000平方メートル、機械509台、従業員数1,291人、であった。

昭和20年5月から7月にかけて、十条の第三製造所から、大小様々な機械を運び工場を移転。昭和20年7月1日より、高射砲用信管部品・組立、一般信管部品・組立、航空信管部品製造、風船爆弾用信管などの製造を開始。しかし操業1ヶ月半後の8月15日に終戦となり工場は閉鎖。短命と終わった。

南側の半官半民の軍需工場であった「服部時計店・精工舎南桜井工場」では、時限式信管を製造し、そして北側の東京第一陸軍造兵廠の「第三製造所江戸川工場」では、瞬発信管を製造。
南北に隣接する両工場を合わせると、敷地面積は51万677平方メートル(約15万5,000坪)であった。

「精工舎南桜井工場」 「 第三製造所江戸川工場」跡地に、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと工場施設設備が転用され、昭和21年3月28日に「農村時計製作所」が設立。しかし、農村時計は昭和25年10月に事業を停止。
昭和25年11月3日、 農村時計の末期に好評だった「リズム時計」を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足。「リズム時計南桜井工場」は平成9年(1997)年9月に東京都墨田区に移転。
現在は再開発中。なお、この地には朝倉病院事件を起こした精神病院もあった。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M452-16
昭和22年(1947年)9月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

上記を拡大。

Google航空写真


東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場・精工舎南桜井工場の跡地

足を運ぶのが、一歩遅かったです。

帝都を歩く」様の2021年5月記事では、残存していた「門柱」は、2021年7月訪問の段階で跡形もなく。

残念・・・

この更地は、かつてここにあった精神病院(朝倉病院)の跡地でもあり、そして時計工場(リズム時計)の跡地でもあり、軍需工場(精工舎)の跡地でもあった。

いまは、かつての歴史をすべて上書きすべく大規模再開発のために造成中。

貯水池、があった。
かつての軍需工場時代では、この近くに給水塔があった。

住宅地。軍需工場の北西端にあたる。

軍需工場の北辺を歩く。
写真の右手が工場エリア。写真の左手が病院・男子寮エリア。

この先は、男子寮エリア。工場エリアとの境目も、いまは普通の住宅地。

この場所が、工場エリアの北端。
春日部市立桜川小学校の北端でもある。

安永6年(1777)建立の五穀成就の仏様。この場所で軍需工場時代も見つめていたことになる。

古そうな建物もあったが、往時のものかは不詳。

春日部市立桜川小学校に何かあった。トンネル?
信管工場ということもあるので、往時の防爆壁等であるば興味深いが不詳。

裏側。

なにかの基礎もあった。

春日部市立桜川小学校は、東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場の圧延工場や組立工場などがあったエリア。

そのまま南下。軍需工場の南東端。


南桜井駅

東武野田線(東武アーバンパークライン)。

1930年(昭和5年)12月9日、永沼臨時停留所として開業。
1931年(昭和6年)7月3日、永沼停留所、常設の停留所化。
1932年(昭和7年)8月、永沼停留所を柏寄りに約400m移転し「南桜井駅」に改称。

1943年(昭和18年)11月6日、精工舎南桜井工場の資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅の位置に貨物専用の米島仮停車場(米島駅)を開業。

1945年(昭和20年)9月30日、米島駅休止。
1956年(昭和31年)12月23日、南桜井駅と米島駅を統合、南桜井駅を米島駅の位置に移転し「南桜井駅」として再開業。

かつての軍需工場・時計工場の跡地は、面影を残すことなく商業地区として生まれ変わっていた。

※2021年7月撮影


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