「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

国内現存最大級のスロープ「河和海軍航空隊」跡地散策(愛知・美浜)

2026年2月、愛知県を散策していました。
午前中に軍人像を見学し、昼前に河和駅に到着、でした。 約3時間の散策。


河和海軍航空隊

第一河和海軍航空隊は南側で「整備教育部隊(整備訓練)」
第二河和海軍航空隊は北側で「編成教育隊(搭乗訓練)」
河和海軍航空隊は、性質の異なる2つの教育部隊が集まったものであった。


第一河和海軍航空隊

昭和18年4月1日「追浜海軍航空隊」から整備教育の分派として「追浜海軍航空隊知多分遺隊」が設置。
「追浜海軍航空隊」は幹部養成の高等科、「河和海軍航空隊」は現場整備員養成の普通科教育部隊。
昭和18年12月1日「河和海軍航空隊」として独立。連合練習航空総隊隷下の第十八連合航空隊(整備教育隊)に編入。
昭和19年2月1日「河和海軍航空隊岡崎分遣隊」が設置。
4月1日「岡崎海軍航空隊」が分離。
昭和20年3月1日「第一河和海軍航空隊」に改称。十八連空解散。横須賀鎮守府第二十連合航空隊に転籍。そのまま終戦を迎える。


第二河和海軍航空隊

昭和18年12月1日「小松島海軍航空隊」から水上機錬成部隊の分派として「小松島海軍航空隊知多分遣隊」が設置。
昭和19年4月1日「第二河和海軍航空隊」として独立。連合練習航空総隊隷下の第十一連合航空隊(横須賀鎮守府隷下練成教育隊)に編入。
昭和20年1月、名古屋へのB-29空襲に際し、訓練用に配備されていた「強風」「二式水上戦闘機」での迎撃を開始。
2月26日「神風特別攻撃隊・御楯隊」の「河和隊」を編成。
5月5日、実施部隊に変更。第三航空艦隊第十三航空戦隊に転籍。
8月5日、御楯隊は玄界灘水上基地に進出し、15日出撃命令が発令されるが、玉音放送により中止、終戦を迎える。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R2985-9
1949年8月5日、米軍撮影の航空写真。

以下、拡大加工

第2河和海軍航空隊

第一河和航空隊


第二河和海軍航空隊・正門跡

美浜町立河和中学校の南側の道路に「第二河和海軍航空隊の正門」が残っている。

旧第二河和海軍航空隊 正門跡
 第二河和海軍航空隊は、太平洋戦争中の昭和19年(1944)4月に水上機の操縦訓練技術を養成する練習航空隊として開隊しました。昭和18年から飛行機の整備教育を行った第一河和海軍航空隊と併せて、河和から豊丘までの1.8平方kmの用地が接収されました。特に、旧古布·旧浦戸の集落は、航空隊の用地内となり集団移転を余儀なくされました。
 この正門は、上部が欠損していますが、高さ160cm、縦57cm、横91cmあり、コンクリートブロックを積み上げて全体をコンクリートで塗る方法で造られています。正門を入った北側には、兵舎や病院などがありました。また、現国道247号線の海側には司令部や士官舎がありました。
 昭和20年7月30日、アメリカ軍機の機銃掃射により、この門周辺で多数の戦死者を出しました。
  美浜町教育委員会
   平成28年3月

機銃掃射の跡も残る。

美浜町立河和中学校

場所

https://maps.app.goo.gl/Y7EMcHiC9u1FMbeX9


第二河和海軍航空隊・給水タンク土台

美浜町立河和中学校の敷地内に残っているコンクリート構造物。西側の道路上から垣間見ることができる、この巨大な円筒のコンクリート構造物は、兵舎に供給するための高架水槽の土台跡。

敷地外から見学。

場所

https://maps.app.goo.gl/EFSH6xXzz3daHxkv9


河和海軍航空隊跡記念碑(森下公園)

森下公園に、河和海軍航空隊の跡地記念碑があった。
第一も第二もあわせた記念碑となっているが、この場所は、「第二」。

河和海軍航空隊跡記念碑
 第二次世界大戦中、河和の地に海軍航空隊設立され、全国より集結した隊員の、青春の広場となったことを、ここにとどめ、この碑を建立する
 昭和五十三年八月吉日 河和会


昭和十八年十二月
 河和海軍航空隊設立
 第十八連合航空隊に編入(整備教育)
昭和十九年四月
 第二河和海軍航空隊開設
 第十一連合航空隊に編入(水上機操縦教育)
昭和二十年二月
 河和海軍航空隊は第一河和海軍航空隊になる
昭和二十年五月
 第二河和海軍航空隊は第十一連合航空隊から第三航空艦隊第十三連合航空戦隊に編入さる
昭和二十年八月
 終戦 
 戦没者数三十七名

碑名 青春
制作者 三谷 勲

場所

https://maps.app.goo.gl/Tvz5VEfCH9yMYd2W6


第二河和海軍航空隊・滑走台跡

日本最大級の滑走台(スロープ)が残る河和海軍航空隊跡。

旧第二河和海軍航空隊 滑走台跡
 目の前に広がる海への傾斜面は、旧海軍の水上機の上げ下ろしに使った施設「滑走台」です。通称「スベリ」と呼んでいます。工事は昭和17年から19年(1942~1944)に行われ、北側に1面、東側に2面造られ、全て現存しています。
 北側の第1滑走台は幅50m長さ92m、東側の第2滑走台は幅220m長さ92m、第3滑走台は幅90m長さ92m(防衛研究所資料)、勾配は1/14(傾斜4度)です。特に第2滑走台は、現存する日本最大規模の滑走台です。
 第二河和海軍航空隊は、昭和19年に開隊された水上機の練習航空隊でした。波穏やかな知多湾の水面を滑走路代わりに練習機による操縦訓練や、実戦機による特攻訓練が行われました。現在、西側の大川と国道247号線までの広大な場所には、指揮所·駐機場·格納庫·整備場など多くの施設がありました。
 美浜町教育委員会 平成28年3月

93式水上中間練習機

案内は、第二滑走台のところに掲示がありました。


第二河和海軍航空隊・第1滑走台跡

北側の第1滑走台は幅50m長さ92m
第1滑走台は、近くで見ることが可能でした。

すぐ近くでスロープを見ることができる。
これは良い!
気持ち良い空間。なんかずっと居られる。
しばし、往時を偲びながら、波を無心に眺めてしまう。

海が綺麗!
ここも三河湾の湾内なのに、普段見ている海とは雲泥の違い。

東側は少し崩壊。

場所

https://maps.app.goo.gl/SjMT4RjBuXvWvktp9


第二河和海軍航空隊・第2滑走台跡

東側の第2滑走台は幅220m長さ92m
現存する日本最大規模の滑走台。
降りることは出来ない。

幅220メートルは圧巻。

場所

https://maps.app.goo.gl/cm5ZnqpzNB8F66HA6


第二河和海軍航空隊・第3滑走台跡

第3滑走台は幅90m長さ92m
第2と同じく降りることは出来ない。

第3滑走台の方向を望む。

広い空。陸地側はソーラーパネル。
往時は、エプロン(駐機場)があった。

場所

https://maps.app.goo.gl/HR1AuJSY7DYCgZTU6


第一河和海軍航空隊・軍港跡

事故や故障で不時着水・墜落した水上機などを、台船を使って引き揚げたり運び込んだりするための入江状の施設として機能していたという。
当時の入江には堤防が築かれ、現在は水門で海と繋がっている状態。

下段が、往時の軍港の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/xzsPPA7ij5mSm64i6


第一河和海軍航空隊・機体整備場基礎跡

機体整備場の基礎が残っている。
見事に真っ直ぐに綺麗に残ってますね。

東側の基礎は、トレーラーの土台になってました。

場所

https://maps.app.goo.gl/UH5sZQyQFQkD5AfN6


第一河和海軍航空隊・連絡橋橋脚基礎跡

水上機運搬用の陸橋の橋脚跡が残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/M9QZct42GhgNHWNo6


第一河和海軍航空隊・防空指揮所跡

半地下式のコンクリート製で、内部は通路で結ばれたかまぼこ形の部屋が3つあるというが、現在は入口は全て塞がれている。

入口が塞がれているため、よくわからない不思議な土盛り感がある。

天井部分のコンクリートが露出。

通気口

覗いてみた(小型ライト持ってた笑)

石段が残っている

場所

https://maps.app.goo.gl/GoKiweRfKHTCRzvr9


第一河和海軍航空隊・兵員浴場基礎跡

一直線に残っている基礎。畔の境界として活用?されている感。

このあたりに兵舎があった、、、

場所

https://maps.app.goo.gl/2nxDtQ9oBad7PvEW7

このあと、兵舎の西南にあったという対空機銃陣地跡とか貯水槽跡とか防空壕とかを探しに行ってみたが、迷子になりそうな雰囲気濃厚で、帰りの時間も考慮しギブアップ。


河和駅

ちなみにいまさらだけど「かわわ」ではなく「こうわ」。

今回の散策では、河和駅を起点に「海っ子バス」(一日乗車券)を活用しました。

※撮影:2026年2月


関連

「軍人像」第二次上海事変で奮戦した歩兵第六聯隊(愛知南知多・中之院)

知多半島に眠る軍人像。
以前より気になっていたこの地に、ようやく足を運ぶことが出来ました。

みたま、やすらかに、と。


中之院軍人像について

もともとは、1939年から43年頃にかけて、名古屋市千種区の大日寺の月ケ丘墓苑に、第二次上海事変の戦没者、その多くは歩兵第六聯隊の兵士たちであり、めいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立されたものであった。大日寺廃寺に伴い、1995年に現在地に遷座。

中之院軍人像について
 ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
 緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、艀で野間沖に待機していた巡洋艦・駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でした。が、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
 軍人像そのものはめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
 また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った。
 おかげで像は壊されずに済んだということです。
 建立当時より名古屋市千種区月ヶ丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
 現在もよくご遺族ご縁者の方が御参りにいらっしゃっています。
  天台宗 大慈山 中之院

英霊ニ捧ル詩

きょうもさむい
  雪がふる 
 われらは無言で
   たっている 
花はさけども
  ぼちはさかず
 きょうもあつい
   水はなし 
かぜがつよい
  かれはがおちる 
 また冬がくる
  やどはなし 
よろこびも
 かなしみも
  昭和63年5月
  (個人名略)


第二次上海事変と名古屋第三師団歩兵第六聯隊

「第一次上海事変」が起きた昭和7年(1932年)ごろから、上海の日中間は常に緊張状態であった。
日中間の衝突は、昭和12年7月7日に「盧溝橋事件」(北支事変)が勃発し、7月28日には河北全面に戦線が拡大していた。
そして、8月9日、上海海軍特別陸戦隊西部派遣中隊長の大山勇夫海軍中尉と、斎藤與蔵一等水兵が中国保安隊に射殺される「大山事件」が起こり、上海での情勢も緊迫することになった。
中国軍による上海居留地に対する攻撃に対し、居留地をまもる上海海軍特別陸戦隊・海軍単独での対応が困難となった8月12日に、海軍軍令部は陸軍派兵を要請。そうして、13日に近衛内閣は内地2個師団の上海派兵を決定した。

海軍戦略と中支派兵問題
中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣
海軍の対支政戦略と近衛内閣

上海では、8月12日には、上海海軍特別陸戦隊(約5,000)と、中国軍2個師団(約5万)の対峙は、既に10倍の戦力がついており、緊迫した状態から小競り合いに突入。13日には、本格戦闘が開始された。
上海居留民保護のためとして陸軍2個師団の派兵を決定した近衛内閣は、8月15日に名古屋第三師団と善通寺第十一師団に動員下命され、上海派遣軍が編成された。(司令官は松井石根大将)

中国軍は8月15日には、約7万名に増強(一方、日本軍は海軍陸戦隊を中心に約7,000名)し、上海租界を猛攻撃する。海軍特別陸戦隊は約10倍の敵を相手に上海租界を死守。
松井石根大将を司令官とし名古屋第三師団と善通寺第十一師団の2個師団の先遣隊は海軍が用意した艦艇群により上海に急送。

8月23日に名古屋歩兵第六聯隊と岐阜歩兵第六十八聯隊の応急動員分を主力とする第三師団先遣隊は、呉淞(ウースン)小運河(クリーク)南方の黄浦江岸の呉淞鉄道桟橋周辺へ強行上陸を決行し、多大な犠牲を払い橋頭保を構築。

この「第二次上海事変」で奮戦した歩兵第6聯隊の犠牲者の遺族によって建立されたのが「軍人像」であった。


浅野祥雲

浅野祥雲(1891年 – 1978年)
「軍人像」を造ったのは、岐阜中津川出身の浅野祥雲であった。
コンクリート像の造型家として著名。
代表作は「関ヶ原ウォーランド」「五色園」「桃太郎神社」


九十二体の軍人像

軍人像と対峙する。

生前の写真をもとに造られた軍人像。
一体一体の表情が異なる。

1938年(昭和13年)初頭に、歩兵第六連隊長の倉永辰治陸軍少将ら3人の胸像が造られたことに始まり、その後、43年頃までに108体が建立されたという。

倉永辰治聯隊長は、8月29日敵弾の胸部貫通により戦死。第二次上海事変の高級指揮官として最初の戦死、であった。

生前の写真をもとに作られた軍人像の大きさは、約50~約180センチ。
戦争の戦局が悪化してからはコンクリート像の柱となる金属が不足し、小さくなっていったという。

https://www.asahi.com/articles/ASR8B7QNRR70OIPE005.html

大日寺の月ケ丘墓苑が廃寺することになり、1995年に知多半島の「中之院」が軍人像を引き取り、現在の姿となった。
92体の軍人像を遷座することになったが、全部を台座ごと置く場所がなく、遺族と連絡が付いた22体は台座ごと遷座し、残る70体は台座の上部のみを遷座。結果、向かって右側に台座のある軍人像、左側に台座のない軍人像が並んでいる。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/447815

軍犬も

陸軍軍人も、海軍軍人も。愛知県出身の犠牲者を慰霊する。

後姿もきちんと造形されている。

無心となって、時間を忘れて軍人像と対座。

改めて

みたまやすらかに、と、祈念する。

梅の花が咲いていました。

知多半島から、伊勢志摩方面を望む。

神島、かな

答志島、かな。

河和駅からバスに乗って「サンタバーバラサンセット」バス停で下車。そこから約三十分ほど歩いて、軍人像まで、という道のりでした。

山海海水浴場

バスはだいたい1時間に1本。行きたいところには、アクセスがもっと悪い場所も多いので、1時間に1本なら有難いと私は思ってしまうが、訪問には時間の計画と組み立ては必要なところですね。

河和駅前 行き

サンタバーバラサンセット 帰り

場所

https://maps.app.goo.gl/zD1eokwLLiHENA9GA

※撮影:2026年2月

この日の午後は、こちらに。


参考掲載

歩兵第六聯隊長・倉永辰治陸軍少将の墓(東京・賢崇寺)

倉永辰治陸軍少将。佐賀県出身。
陸士23期、陸大34期。

昭和10年(1935)に歩兵大佐に昇任し、翌年に歩兵第6連隊長となった。
昭和12年(1937)の、第二次上海事変で、呉淞上陸作戦の前線指揮を担う。火力優勢な中国軍に対し、8月23日に勇敢な正面敵前上陸を敢行し、多大な犠牲を払うも上陸に成功し橋頭保を構築。しかし歩兵第六連隊長の倉永辰治も8月29日に敵弾が胸部貫通し戦死。第二次上海事変の高級指揮官として最初の戦死、であった。死後、陸軍少将に特進。

この第二次上海事変で奮戦した歩兵第六聯隊の犠牲者に対する遺族の慰霊顕彰の願いが軍人像建立のきっかけになった。

倉永辰治の墓は佐賀藩の江戸の菩提寺であった賢崇寺にある。上官にあたる上海派遣軍司令官の松井岩根陸軍大将の書。
また、歩兵第6連隊長の倉永辰治少将、そして同じく上海で戦死した歩兵第101連隊長の加納治雄少将など7名の「戦没勇士の胸像」が昭和14年に作られ、靖國神社遊就館に献納されている。

陸軍少将倉永辰治墓
 陸軍大将松井岩根書

「七つ日足に三つ巴」の家紋。
日足紋は、戦国時代に肥前の龍造寺氏が初めて使用したといわれ、北部九州の武家でよく使われた家紋。倉永家は佐賀藩の馬術指南の家柄。

倉永辰治は、佐賀藩士の袋武辰の次男であったが、陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。

法号 永勝院殿徳忠辰光居士 享年五十
 昭和十二年八月二十九日 於上海戦死

賢崇寺には「肥前佐賀藩主鍋島家墓所」や「二十二士之墓」(二・二六事件の墓)もある。

※撮影:2026年9月


関連

沖縄で奮闘継戦した霞城聯隊「歩兵第三十二聯隊」と「山形城址」(山形の戦跡散策・3)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。


歩兵第三十二聯隊

明治29年(1896)に秋田市に聯隊本部を設置。
明治31年(1898)に軍旗拝受。
明治37年(1904)日露戦争に参戦。戦後に、秋田市から山形城に転営。
本拠地にちなみ「霞城聯隊」とも称された。
大正7年(1918)シベリア出兵、大正11年に帰還。
昭和14年(1939)10月、第8師団から満洲で新設された第24師団に所属変更。
昭和19年(1944)満洲から南方戦線に兵力転用となり、歩兵第32聯隊は1個大隊はサイパンに派遣となり、連隊主力は沖縄に派遣となった。

歩兵第32聯隊の沖縄戦
沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。


山形歩兵第三十二聯隊之跡

山形城(霞城)に駐屯した歩兵第三十二聯隊

山形歩兵第三十二聯隊之跡
昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会建之

歩兵第32聯隊足跡の大要
 聯隊は、明治31年3月24日、宮中にて軍旗を拝受。最上義光公の居城であったこの地に誕生し、國防の一翼を担い、霞城聯隊とも称した。
 日露戦争では、明治38年、緒戦の黒溝台会戦に抜群の勲を樹て、勇名を馳せた。
 満州事変では、昭和7年、熱河作戦に参加し万里の長城の古北口、南天門等の戦闘で活躍。12~19年の間、満州東部國境の防衛に任じた。
 大東亜戦争の戦況急迫に伴い、19年、聯隊は一個大隊をメレオン島に急派、主力は転進して沖縄防衛第32軍の指揮下に入った。
 昭和20年3月末から沖縄本島は、圧倒的優勢な米陸海空軍の猛攻を受け、各部隊は勇戦敢闘したが、逐次壊滅、6月23日、軍司令官の自刃により組織的抵抗を終えた。
 しかし、我が聯隊だけは、軍旗を奉じ、残存二百五十名が、沖縄南部の國吉台とウテル原台一帯を死守した。8月末終戦の大命を知り、26日夜軍旗を奉焼し翌日聯隊は終焉を迎えた。
 ここに恒久平和を願い、聯隊創設以来の戦没者の遺徳を偲び哀悼の誠を捧げる。
  平成十九年四月
   山形歩兵第三十二聯隊会・関係者一同

建碑由来
 霞ヶ城は最上義光の居城にして歩兵第三十二聯隊は明治三十一年三月軍旗親授とともにここに創設され爾来鋭意国防訓練に励み霞城聯隊と称す。
 明治三十七八年日露戦役には黒溝台の戦闘に勇名をはせ、大正七年朝鮮守備、同十一年サガレン派遣、こえて昭和七年満洲事変には万里の長城古北口等の戦闘に参加して数々の功績を樹てり、同十二年再度渡満しソ満国境警備の任につき田原山ノモンハン事件に出動し同十六年遂に大東亜戦争を迎う同十九年主力は沖縄本島に転進し歩兵一ヶ大隊をメレオン島に派遣す。翌二十年三月十数倍の敵機動部隊の攻撃を受け勇戦敢闘し多大の損害を与えたるも聯隊もまた死傷続出し将兵の大半を失ない寡兵克く敵の重囲下死闘を続けること五ヶ月余、遂に終戦の大命を拝し同年八月二十八日夜軍旗を奉焼して終る。
 ここに異国の丘に眠る幾多戦友の武勲をしのび恒久平和の願いをこめて霞城聯隊跡にこの碑を建て永久に伝う
 昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会

歴代の聯隊長
初代 岩元 貞英
二代 安村 範雄
三代 森川 武
四代 高山 公通
五代 山本 延身
六代 森川 武
七代 岡沢 慶三郎
八代 柴 豊彦
九代 大川 盛行
十代 山田 留太郎
十一代 宮地 太郎
十二代 倉茂 三蔵
十三代 堀之内 直
十四代 佐藤 正三郎
十五代 田中 清一
十六代 阿部 規秀
十七代 山本 源右衛門
十八代 野地 嘉平
十九代 川村 脩
二十代 泉 可畏翁
二十一代 北郷 格郎

歴代の知事
初代 三島 通庸
(以下略)

場所:

https://maps.app.goo.gl/6DTgyKVx3nRafVyb6


山形城(霞城・霞ヶ城)

国史跡、日本100名城。
最上義光が整備し、出羽57万石の本城となる。
三の丸の内側の面積は、日本国内で5番目の広さを誇り、奥羽地方では最大の城であった。
最上57万石時代から藩主交代と石高削減に伴い、幕末の水野氏5万石時代には、広大な城を維持するのが難しい状態であったという。

明治に、山形市が城跡を取得し、陸軍を誘致。歩兵第三十二聯隊の兵営となった。

最上義光像

山形城主最上義光顕彰詞


霞城聯隊(山形市郷土館・済生館)

山形市郷土館にある「霞城聯隊(かじょうれんたい)」に関係する展示と解説など。

血染めの桜

霞城連隊の発足
 明治時代以降、急速な近代化政策に伴う軍備増強のため、旧山形城内に陸軍が駐屯するなど、山形も国の政策とそれに伴う戦争に巻き込まれていきました。
 1894(明治27)年に始まった日清戦争は日本の勝利に終わり、戦後調停された下関条約により、日本は新たな領土と多額の賠償金獲得しました。しかし、三国干渉により遼東半島の返還を余儀なくされ、また本土から離れた台湾統治の必要があり、国内における軍備増強が急務となりました。
 そのような背景から、山形県にも連隊が設置されることが決定しました。それを受けて、山形市は旧山形城本丸·二ノ丸の跡地を買収して国に寄付することを決議しました。連隊の誘致が成功し、1897(明治 30)年から駐屯したのが、第八師団管下の歩兵第三十二連隊(通称、霞城連隊)です。
 連隊入隊のため、山形県内の青年が二千人近くも山形市に集まり、市経済は大いに潤いました。連隊は、日露戦争で活躍を見せ、その後も朝鮮、樺太、満州に派遣されたほか、ソ満国境にも駐屯しました。太平洋戦争末期には、満州から沖縄への移動を命ぜられ、力戦の末、終戦を迎えました。

日露戦争・血染の桜
 1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、しばらくして歩兵第三十二連隊にも出征の要請がかかりました。連隊が属する第八師団は、初め遼陽の警備にあたっていましたが、翌年1月、ロシア軍の攻撃を受け壊滅の危機に瀕していた黒溝台に進軍し、多大な犠牲を出しながらも同地を死守し、日本の勝利に貢献しました。日露戦争の勝敗を分ける要因となったといわれる黒溝台会戦です。
 日露戦争終結後も遼東地方で警備を続けた連隊は、1906(明治39)年に帰還しました。生存者の中では、凱旋したら兵営に記念の桜を植えようという話が持ち上がっており、それが実現して植えられたのが、現在の霞城公園の桜といわれます。
 日露戦争以前から、連隊のシンボルとなっていた桜の木がありました。「血染の桜」です。この名前は、最上義光が病気を装い、敵対していた谷地(現在の山形県河北町)城主、白鳥十郎長久を山形城に呼び寄せて斬った際に、桜が返り血で染まったという伝承に由来します。戦後、霞城公園内の野球場建設のために移植されて枯れるまで、山形城及び霞城公園のシンボルでした。

第二次世界大戦と山形の生活
 1920年代の日本は、第一次世界大戦後の戦後恐慌や昭和恐慌という慢性不況に陥っていましたが、それを打破すべく中国大陸に新領土を求めました。
 1931(昭和6)年、満州事変で日中両軍は衝突し、1937(昭和 12)年に日中は本格的な戦争状態に突入しました。満州事変以降、経済統制が進み、日本は軍需·戦時経済へ移行しました。
 市内でも軍需産業への転換が起きました。1938年、金属工業の軍需品以外への原材料使用が禁止されると、銅町の銅鉄器鋳物工業は鉄瓶製造を禁止されました。それにより失業した者の一部は、軍需品製造の下請けとして職を得ました。また戦闘機の生産を手掛ける日本飛行機株式会社の山形工場が1942(昭和17)年に設置され、統制経済による地元の廃業失業者を吸収しました。さらに民間の銅鉄器供出も始まり、公共施設の門扉·鉄柵のほか、豊烈神社境内の水野三郎右衛門元宣銅像も供出されてしまいました。
 1944年以降、空襲激化により学童集団疎開が進み、山形市は6月30日に東京都豊島区から小学生600名以上の集団疎開を受け入れました。

戦禍を免れた山形市
 1945(昭和20年)3月10日の東京大空襲の後、山形市には多くの疎開者が流入し、深刻な食糧不足に陥りました。そのような中で6月29日、山形市上空に初めてB29機が飛来しました。その後7月10日、ついに隣県宮城県仙台市で米軍による大規模な空襲が行われ、山形においても空襲を免れえないという危機感が強まりました。山形市では急ぎ防空壕を作り、分散備蓄や建物疎開を進めました。旧済生館本館は、当時県内で最も高い建物であり、空襲の標的とされる恐れがあったため、最上階部分を撤去し、低くする工事が行われました。
 戦時中、現在の市内漆山駅付近(当時は出羽村、楯山村)に設置されていた日本飛行機の飛行場では、市内工場で生産した戦闘機の飛行実験をしていました。それにより、8月9日、米軍による空襲を受けました。
 済生館病院の医師看護師たちは、8月15日の終戦を中庭で聞いたそうです。山形市は、無差別爆撃を受けずに終戦を迎えた数少ない県庁所在地です。城下町特融の丁字路やかぎ形路、食い違い道路などが残っているほか、歴史的建造物など文化財も多く残っています。

昭和8年作
七生報国


陸軍用地境界標杭(山形城周辺)

山形城址の北にいくつか境界標杭が残っている。

「四六」とありますね。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NbbEfu2WSHM31VpG9

こっちは「四五」

埋もれてますね。

これは?


山形市郷土館・済生館

旧済生館病院本館
1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。
全国的に見ても唯一の明治初年の病院遺構として貴重であり、明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作として、国の重要文化財に指定。
戦後、病院としては役目を終えて、1969年に霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されている。

明治11年(1878年)太政大臣三条実美により「済生館」と命名された。

3層楼なのに実は4層。
1階部は、ドーナツ型。
2階部は16角形の直径10メートルほどの柱のないホール。
トラス構造で、中3、4階を支え、8角形へと楼の形を変え、そして螺旋階段で上階へとつながっている。

1階から

1階から2階への階段

ステンドグラス

3階へは螺旋階段

中庭で終戦の玉音放送を聞いたという。

明治洋風建築系統図
これは興味深い

ローレツ先生
明治に来日したオーストリアの医師。山形県公立病院済生館医学寮に教頭に就任した。

木村逸堂は、明治時代初期に山形公立病院(のちの済生館)で働いていた医師。

場所

https://maps.app.goo.gl/3Yzwzj6xsJpu7mbJ8


霞城セントラル展望台

おー、霞城がよく見える!

済生館

蔵王山もよく見える!

山形駅。四方を山に囲まれているのがよく分かる。

1階には、日本酒の利き酒エリアも!

500円で3コイン、1000円で6コイン

6杯いただきました!

山形駅のうしろに見えるのが、霞城セントラル

https://maps.app.goo.gl/p6AVPnN6dbV3o7a28


※撮影:2026年3月


その4へ(準備中)

「山形縣護國神社」と「薬師公園」「千歳山霊苑」巡拝(山形の戦跡散策・1)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。


山形縣護國神社(山形県護国神社)

山形県関係の戦没者40,845柱を祀る。
明治2年(1869年)1月、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀るために山形市八日町に社殿を造影したことに始まる。
明治8年、官祭「山形招魂社」となり、以後は、山形県関係者の戦没者を祀る。
明治22年、山形市宮町に遷座。明治44年の山形市の大火で社殿焼失、大正3年に再建。
昭和9年(1934)に千歳公園内の現在地に遷座。昭和14年に、内務省指定護國神社となり、「山形縣護國神社」と称した。
GHQ占領下の昭和22年から昭和27年は、「千歳宮」と称していた。
現在の社殿は、平成6年(1994)に改築。
山形県内では、初詣参拝客1位を誇る(約13万人)

https://yamagataken-gokokujinja.jp

青銅日本一の狛犬。
平成29年8月15日の終戦記念日に奉納。
高さは7尺(2m10㎝)。

大鳥居から一直線に社殿まで伸びる参道

社号標

山形縣護國神社
陸軍大臣 小磯国昭 謹書
昭和十四年九月十八日

小磯国昭は山形県出身。東条英機の次の総理大臣でもある。

さくら陶板

さくら陶板
 靖國神社は令和元年に御創立150年を迎えられ、その記念事業として「さくら陶板」が作製されました。この陶板は47都道府県の土を使い、各地の著名な陶工の方々が奉納したものです。山形県の陶板は山形の土を使い、長井市出身の陶芸家和久井修氏が作成されました。「さくら陶板」には慰霊の心とそれを次世代に伝えることが祈念されております。
 和久井氏は当神社にも同じ陶板を奉納したいと希望され、山形建設株式会社の協力により、靖國神社に建立されている陶板と同じく山形県の土を使った「さくら陶板」が奉納されることとなりました。
 靖國神社と当神社がこの陶板を通してつながることで、御祭神もお喜びのことでしょう。この陶板を通じて御祭神の慰霊と平和への祈りが届くものと思っております。

社号標

山形縣招魂社
海軍大将 正二位勲一等功二級子爵 齋藤實 謹書
昭和九年十月三十日

昭和九年十月に、山形県招魂社は現在地に遷座している。

御社殿

みたまやすらかに

蔵王山は南東に。(社殿は南面)

山形県護国神社
御朱印

「祈りの塔」
巫女さんの像

祖国の安泰を念じて尊い生命を捧げたご英霊のお陰で今日の平和と繁栄があることを忘れてはなりません。
 山形県護國神社 宮司 宮舘厚悦

御本殿

山形県神社庁

https://maps.app.goo.gl/xLQccCk4q8zAWuU97

「建国記念塔」が境内にあるはずなのだが、あるべき場所に見当たらず。
うーん?

https://maps.app.goo.gl/ReGrgquy1jnpQ8uv9


山形招魂社 社号標(薬師公園)

山形招魂社時代の社号標。
大正2年六月建立。
「官祭」の文字は塗りつぶされている。

https://maps.app.goo.gl/guP1wCb8TNHcdNz96


雪部隊・戦没者慰霊碑(薬師公園)

山形県護国神社には、慰霊碑はなく、隣の薬師公園(出羽国分寺薬師堂・千歳公園)にいくつかの慰霊碑があるので、足を運んでみる。

雪部隊
戦没者慰霊碑
 雪部隊慰霊会長 
 山形県知事 板垣清一郎 謹書

碑文
 雪部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
 雪部隊は昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。 当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
 日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、連合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。 部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。 この島は密林(ジャングル)と湿地帯とそしてマラリヤの猛威をふるう全くの未開地であった。 時既に戦局は我に不利、上陸後戦備を整える暇もなく昭和19年4月頃より敵はサルミ地区に対し圧倒的な空軍と海軍により攻撃を開始して来た。 わが雪部隊はマッカーサーの指揮する南東太平洋方面連合軍をこの地に迎撃して血みどろの激戦となったのである。 日本陸軍でも最強とうたわれたわが雪部隊は、悪条件にもかかわらず、よく善戦奮闘し、遂に敵上陸部隊を撃退したが、物量に物をいわせる連合軍の連日の猛爆撃と艦砲射撃、制空権と制海権を完全に奪われたわが軍は、密林と湿地帯に阻まれて作戦行動ままならず加えて赤道直下の炎熱と食糧不足、マラリヤ、栄養失調、脚気等により悪戦苦闘その極に達し、戦場は正にこの世の生地獄の様相を呈し、生残る戦友数うるに足らず、ワクデ島守備の石塚隊玉砕、そしてまたビアク島の雪3523部隊(葛目聨隊)も玉砕、雪部隊はその主力を失なってしまった。 ニューギニアに上陸した雪部隊隷下の将兵14,000名戦没者11,794名、生存して帰還したる者僅かに2,000余名に過ぎず。
 戦後昭和31年(遺族代表神保氏参加)と昭和46年(戦友代表鈴木健三郎氏・中沢農夫氏参加)にニューギニア遺骨収集団が派遣され多数の遺骨を故国に持ち帰ることができたが未だ南海の果、ジャングルの中には無数の戦友の遺骨が眠っている。
 九死に一生を得て僅かに帰還したる者われら断腸の思い、誠にしのびざるものある。 山形在住の雪部隊生存者による雪部隊慰霊祭実行委員会が中心となり、寄付を募り再度遺骨収集を計画したが現地政府の許可なく断念するのやむなきに至る。 よってこの地に雪部隊戦没者慰霊碑を建立し、純粋なる祖国愛に殉じた戦友の英霊を慰め心から冥福を祈るものである。
    昭和53年9月2日 謹日

 異国の地で散華された13,249名の、戦没者名簿、雪部隊史並びに聨隊史をカプセルにし、生存者の赤誠の鎮物として、慰霊碑の奥深きに納め埋蔵し、永久に慰めるものである。
  安らかにお眠り下さい。

https://maps.app.goo.gl/n3huzkkXFJSrcmSi8


戊辰薩藩戦死者墓(薬師公園)

山形県護国神社の前身である招魂社は、戊辰戦争での薩摩藩の戦死者を祀ることから始まっていた。

戊辰
薩藩戦死者墓
大勲位公爵 松方正義 書

大正4年11月合葬

戦死者名


出羽国分寺薬師堂(薬師堂)

聖武天皇の国分寺建立の詔により、天平13年(741)の建立に基づく。創建時は酒田の城輪柵の近隣に位置していたが、平安後期以降、国府が内陸の山形市に移転するとともに国分寺も移転。薬師堂が出羽国分寺の後継寺院とされている。

薬師堂
明治初期に山形県会の仮議事堂となり、山形県指定史跡「旧山形県会仮議事堂」でもある。
現在は、柏山寺が管理。

宮城浩蔵顕彰碑
明治大学の創設者

扁額は、西園寺公望
選文は、中江兆民

https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/miyagikozo.html

https://maps.app.goo.gl/Ct2RcBZtRJiMf5eR8


陣没軍馬慰霊塔(薬師公園)

軍馬を祀る慰霊塔。創建団体や創建時期は不詳という。
建立にいたる銘記や碑誌もなく。

陣没軍馬慰霊塔
陸軍大将 小磯国昭 書

「陣没軍馬慰霊塔」の創建時期は不明というが、ある程度の推測で絞り込みは出来そうだ。

謹書している小磯国昭は、山形県新庄市の出身。山形出身の代表的な軍人として謹書したのであろう。肩書として「陸軍大将」と記載している。小磯は戦後はGHQに拘束され昭和25年に巣鴨拘置所で亡くなっているために、確実に戦前の建立であることは予想できる。
小磯国昭は、昭和12年7月21日に陸軍大将、昭和13年7月29日に予備役に編入となっている。
そして昭和14年に平沼騏一郎内閣の拓務大臣、昭和15年に米内光政内閣の拓務大臣をつとめ、昭和16年の開戦時は満洲移住協会理事長であった。
昭和17年5月29日から朝鮮総督、そして昭和19年に東條英機の次の総理大臣に就任している。
時局や情勢を考えると、昭和12年から昭和16年にかけての建立でないかと推測。朝鮮総督に就任した昭和17年以降は、軍馬のために慰霊塔を建立する時勢ではなく。

東日本大震災後は倒壊の恐れがあり、近づけなくなっている。

今にも飛び出してきそうな躍動感ある軍馬のレリーフ。
取り囲む銘板の刻は判別不能。なにかが刻まれていたかもしれないが。

https://maps.app.goo.gl/hxRsGz43fiTetZmq8


山形陸軍墓地(千歳山霊苑)

山形陸軍墓地の地。
閉門の為、敷地外から遥拝する。
みたまやすらかに

千歲山霊苑

千歲山霊苑沿革
一、明治二十九年十一月この地に始めて陸軍墓地が設置されました。
一、明治三十九年十一月
   日露戦役戦没者墓碑建立
一、昭和八年一月
   満洲事変戦没者慰霊塔建立
一、昭和二十七年八月
  靖霊塔建立
一、昭和二十八年以後山形県が奉祭維持管理にあたっている。
  昭和三十四年三月 山形県

千歲山霊苑の沿革
本霊苑は明治二十九年に設置された旧陸軍墓地であって、終戦に伴い昭和二十年十月陸軍省から大蔵省へ移管さらに昭和二十八年県において無償譲与を受けたものであり、昭和三十四年に名称を「千歳山霊苑」と改め今日に至っている。
霊苑内には、日露戦争戦没者の各墓碑、満洲事変戦没者慰霊塔並に昭和二十七年に県民有志からの寄附と国費、県費を併せて建立した太平洋戦争の英霊分骨約六千柱の納骨施設たる靖霊塔があリ、その後弘前佛舎利塔に納骨されていた日露戦争当時の県出身英霊約二百柱の分骨並びに南方戦域から収集された遺骨を併せ納めている。
毎年四月には県内の戦没者遺族代表参列のもと慰霊条を挙行するほか、彼岸等には供養拝礼式を行うなど県が奉系維持管理にあたっている。
 昭和六十三年三月再建 山形県

うーん。開門は「月」「水」「金」のみ。
(訪れたのは木曜日でした、惜しい)

陸軍軍人合葬之墓

陸軍軍人合葬之墓

拓魂碑

靖霊塔

満州事変戦没者慰霊塔は、敷地外からは見えず
盛岡の久昌寺と同じ形状の慰霊塔があるという。

https://senseki-kikou.net/?p=36368&

場所

https://maps.app.goo.gl/Y8jxTm3Ki9ymmNJy5


※撮影:2026年3月


その2へ

https://senseki-kikou.net/?p=57525

秋田の郷土部隊「歩兵第十七聯隊」(秋田の戦跡散策・4)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

東京への帰路前に時間があったので、秋田駅周辺を巡ってみました。

秋田の戦跡散策1は、こちらから


歩兵第17聯隊

明治18年(1885)に仙台鎮台の3つめの歩兵聯隊として設置。
明治31年(1898)に、歩兵第17聯隊は、秋田に衛戍地を移し、新設の第8師団所属となった。
明治37年の日露戦争では、当初は予備隊であったが、38年の黒溝台会戦に援軍として参戦、ロシア軍に包囲され、聯隊の半数を失う大きな被害を受ける。次いで第2軍に所属し、奉天会戦に参戦。

第二次世界大戦では、昭和19年(1944)にフィリピン戦線に投入され、歩兵第17聯隊は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍下の振武集団・第41軍に所属し、ルソン島の戦いで、全滅寸前で終戦を迎える。
最後の歩兵第17連隊長となった藤重正従陸軍少将は終戦後の9月下旬に投降し戦犯として逮捕。マニラ軍事裁判で住民虐殺の容疑で昭和21年7月17日に絞首刑となっている。


歩兵第十七聯隊趾(中通四丁目)

NTT秋田支局裏手・平田篤胤誕生地碑の向かいに鎮座。
秋田駅前一帯にあった兵営の跡地(中心地)の裏通りに、ひっそりと立てられている。

歩兵第十七聯隊趾
統合幕僚会議議長 陸将 天野良英

我が歩兵第十七聯隊は明治十九年六月仙台市河内に創設。
同年八月十七日宮中にて軍旗を親授せらる。
明治三十一年九月此処旧久保田城址(千秋公園)と内濠を隔てて相対する風光明媚の地に転英す。
創設依頼日進日露の戦役を始め西比利亜事変満洲事変支那事変大東亜戦争に出征し赫赫たる武勲を樹てたり。
昭和二十年八月十五日終戦の命により軍旗は比島にて奉焼す。
百万県民に親しまれ秋田県児修練演舞の道場たりし四万二千有余坪の地も今や街路四通しビル建ち並び往昔の威容を偲ぶよすがなし。
茲に有志相図り碑を刻して陣没せられたる英霊の偉勲を後世に伝う。
 昭和四十一年八月十五日
  選文 三浦熊士郎 

歩兵第十七聯隊の衛戍地からの移築ですね。

北白川宮殿下御手植松

御慶事之松

明治三十三年五月十日

明治33年5月10日の御慶事は、皇太子(のちの 大正天皇)と公爵九条道孝の三女である九条節子姫(のちの貞明皇后)のご成婚(結婚式)。

忠節・礼儀・武勇・信義・質素
軍人勅諭50周年で植樹した公孫樹の碑
昭和7年
最初に記名された「歩兵大佐・日置勝騂」は秋田連隊区司令官。


平田篤胤先生誕生之地

むかいには、なんと平田篤胤の誕生地。
平田篤胤は国学四大人のひとりにして、復古神道の大成者。
土手谷地街区公園内に。

平田篤胤先生誕生之地
陸軍大将 本郷房太郎 書

平田篤胤生誕の地
 平田篤胤は、本居宣長らとともに国学四大人の一人と称される江戸後期の国学者。
 安永五年(一七七六)に秋田藩士・大和田祚胤の四男としてこの地に生まれ、幼少の頃から勉学に励み、二十歳で江戸に出て苦学を重ねると、やがて備中(岡山県)松山藩士·平田篤穏の養子となった。
 宣長の学風を色濃く受け継ぎながら、江戸や京都で復古神道を確立し、諸国にその名を知られたが、儒教を廃し極端な尊王思想を唱えたことで、幕府の体制を揺るがすとされ、天保十二年(一八四一)に久保田へ帰された。
 二年後、中亀ノ丁(南通亀の町)で、病により没するまで、秋田の国学界の発展に寄与した。
 篤胤の墓は手形大沢にあり、国指定史跡となっている。
  平成二十四年六月一日再設置
   秋田市教育委員会


歩兵第十七聯隊之碑(千秋公園)

千秋公園・久保田城址にある歩兵第十七聯隊の記念碑

歩兵第十七聯隊之碑
十七比島会長 尾張三郎 謹書

昭和57年4月29日建立
以下、カタカナをひらがなに置き換えて文字起こし。

歩兵第十七聯隊は明治十九年八月十七日仙台市青葉城址に於て創設され第二師団に属していたが、日清戦争後、弘前市に第八師団司令部が新設されるに及びその隷下部隊として仙台市より秋田市に移駐し、以来終戦まで約五十年の間秋田県の郷土部隊として存在した。
従って聯隊は太平洋戦争の他、遠くは日清日露の両戦役をはじめ、シベリヤ出兵、満洲事変、日華事変にも参加し、それ等の戦役を通じて真摯素朴忍不抜の秋田県民特有の精神を発揮して、輝かしい武勲を樹て隣県部隊と共に国宝師団の名を馳せた。
昭和十二年第八師団が中国旧満洲に移駐するに当り聯隊は同地牡丹江省に於て北満の守護に任ずこと七ヶ年太平洋戦争が愈々苛烈の度を加えるに及び、その決戦場たる比島戦線に投入されたのは昭和十九年八月のことである。
無傷の精鋭部隊として、フィリピン、ルソン島に上陸した当初三千余名を数えた兵員が、極度の劣悪な環境と過酷極まる条件のもとで激烈な死闘を繰り返し、わずか一ヶ年後の終戦時には、生存者九百余命に過ぎなかったことは、この戦闘が如何に苛烈なものであったかを物語るものである。
戦後三十三年を経て昭和五十三年に比島戦の生存者が相集い、比島戦線に於て散華した戦友の遺徳を顕彰するために十七比島会を結成し歩兵第十七聯隊比島戦史の編集に着手することが決議された。
以来三年間に亘り会員の献身的な努力の結果昭和五十六年四月二十九日比島戦史の発刊を見ると同時に生存者の願いであった戦没将兵の慰霊祭を厳粛に執行することが出来た。
同日の決議により今茲に聯隊駐屯の地を眼下に望む千秋公園の一画に記念碑を建立し、聯隊創設より太平洋戦争終末までの事績を収録し比島決戦に於て護國の礎として散華した聯隊長藤重従大佐以下の戦没者並びに生還者の氏名を列記した秋田歩兵第十七聯隊比島戦史壱冊を収納し、祖国平和追求の一布石として永く後世に伝えんことを希うものである。
 昭和五十七年四月二十九日 
  秋田歩兵第十七聯隊比島会 誌之

鎮魂之碑 四月二十九日
霊峰東拝太平山
眼下西望駐屯跡
幾万将兵比島散
英霊鎮魂千秋社


千秋公園・久保田城跡

秋田藩佐竹氏の居城久保田城の本丸・二の丸跡地を整備した公園が「千秋公園」

久保田城表門

佐竹義堯公像
幕末最後の佐竹藩主、出羽久保田藩十二代、佐竹氏第三十代、三十二代。龍角散の開発のきっかけになった殿様。

八幡秋田神社

殉職消防組員招魂碑

受難警察官之碑

大平山

小高い丘(神明山)を活かした平山城。


秋田駅

目いっぱいに散策していたので、時間がなくなってまして。
駅そばで、「秋田のぎばさ」を。
海藻の郷土食ですね。

秋田散策は、いったんこれで〆。

※撮影:2026年3月


日本最大の製油所を狙った「最後の空襲・土崎空襲」(秋田の戦跡散策・3)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

終戦前夜、秋田市の土崎地区が爆撃された。関連戦跡の慰霊巡拝を。

秋田の戦跡散策1はこちらから。


土崎空襲

終戦前夜の昭和20年8月14日午後10時半頃から15日午前3時半頃にかけて、土崎地区は約4時間にわたり激しい空襲を受けた。この空襲は「日本で最後の空襲」のひとつであった。
土崎空襲での攻撃目標は、終戦間際でも無傷のままであった当時日本で最大の産油量をあげていた日本石油秋田製油所であったが、近隣の民家も多大な被害を受けた。

土崎空襲はグアム島を出発したアメリカ軍のB29を中心とした爆撃機約132機が、100kg爆弾を7,360発、50kg爆弾が4,687発の合計1万2047発、953.9トンに及ぶ爆弾を投下。
犠牲者は一般市民92名、軍人50名に、確認できない人を合わせると250名以上を数え、製油所のほか104戸が全焼、及び全半壊した。
秋田県で唯一の大規模空襲でもあった。

ターゲットとなった日本石油秋田製油所は、内地では10番目の大きさであったが、秋田市周辺の油田(八橋油田は国内生産量の70%を占めていた)からの原油産出量は日本本土最大で、その原油を精製し、内地における精製石油の37パーセントを担ってた。さらに、他の製油所とは異なり、輸入原油に依存しないことがわかっていたことから、日本の石油産業におけるもっとも重要な攻撃地の一つであった。

https://thsk-akita-tsuchizaki.amebaownd.com/pages/2963902/page_201906081840

https://tuchizaki.com/kusyu/%E5%9C%9F%E5%B4%8E%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2

https://wararchive.yahoo.co.jp/airraid/detail/14

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_04.html


平和を祈る乙女の像(港湾公園)

昭和54年建立。土崎港の臨海、ポートタワー・セリオンの近くに鎮座。「土崎空襲犠牲者追悼平和祈念式典」が毎年、この地で実施。

慰霊

鳩を抱えた乙女の像。

 日本が開国以来の大敗戦を喫した昭和二十年八月十五日の前夜半、わが郷土は「日本石油」を中心に米国空軍の猛爆撃を受け、市民、軍人およそ一八四名の犠牲者を出すに至った。
 その後昭和五十年「被爆市民会議」の発足成り爾来各種の慰霊行事を行なって来たが、漸くここに官民一致の協力を得て、其の霊を永遠に慰むべく慰霊塔の建立を見るに至った。
 願わくば諸霊とこしないに安らかに、以て世界の恒久平和と郷土の繁栄を守り給わらんことを。
 昭和五十四年八月十五日
  土崎港被爆市民会議会長 藤田渓山 謹誌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/akita_akita_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city002/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/5bA9CpAFXmb6MYYB6


道の駅あきた港 ポートタワー・セリオン

秋田市ポートタワー・セリオン
高さ143.6メートル
展望台の高さは100メートル。

ENEOS秋田油槽所
終戦直前の「土崎空襲」では、土崎港北大浜地区にあった「日本石油秋田製油所」がターゲットであった。

秋田港(土崎港)は北前船で発達し、そして臨海鉄道が陸と海の結節点として活躍していたが、「秋田臨海鉄道」は2021年に廃線し、そして秋田港駅も2026年7月に廃止となった。

秋田港駅。
明治40年(1907)開業。陸と海の結節点として機能し、秋田港にある製油所や製錬所からの輸送需要多くの貨物列車が通ったが、2026年7月廃止。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kD6BWVkjkbSxMG5L9


土崎みなと歴史伝承館

土崎空襲をはじめとした土先の歴史を伝える施設。

https://tuchizaki.com

空襲展示ホールには、旧日本石油秋田製油所の建物(被爆倉庫)の一部(爆撃で溶けた実物のコンクリート)を移設して展示してある。

なんと、、、休館日(おとづれたのが火曜日)

残念すぎる。。。再訪??

場所

https://maps.app.goo.gl/c338R4yiH9aNYry79


祈恒久平和(雄物岸街区公園)

雄物岸街区公園にある慰霊碑

祈恒久平和
 秋田市長
  石川錬治郎

碑の由来
  昭和二十年八月十四日夜半から十五日未明にかけて、B29爆撃機百三十二機による、日本最後の土崎空襲で、上酒田町 新城町・稲荷町・小鴨町・加賀町で三十名の方々が尊い生命を失ないました。
  この碑は、この犠牲者の慰霊と戦争のない恒久平和をきずく誓いとして市民の篤志募金で建立したものです。
 平成四年八月十四日
  土崎港被爆市民会議
  平和祈念碑建立実行委員会
   委員長 佐藤 実 謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city001/index.html

明治天皇行在遺蹟
1881年(明治14年)9月の 明治天皇「山形・秋田・北海道巡幸」のおりに、土崎港に行在所が設けられたことを記念。

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfHSscHVKd7GxHd79


慰霊碑つばさ(古川町街区公園)

古川町街区公園に鎮座。
犠牲者の遺体を集めた場所という。

祈恒久平和
 この周辺は、一九四五年八月十四日夜半から、終戦の十五日未明にかけて米軍機B29による日本最後の土崎空襲で犠牲になった百数十人の遺体を鉄道線路上に置かれた痛恨の地である。
 ここに、慰霊と恒久平和の誓いを捧げる。
  一九九一年八月十四日
   建立
    土崎港被爆市民会議
    平和祈念碑建立実行委員会
     文 委員長佐藤実
         吉田金也謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/jT68umsydWLVz2Np6


祈平和(光沼の祈念碑)

光沼近隣公園の駐車場近くに鎮座。

祈平和
土崎港被爆市民会議

土崎空襲で光沼に沈んだ犠牲者に捧げる

昭和20年8月14日の土崎空襲のとき、当時、燃え盛る日本石油秋田製油所などから逃れてきた多くの市民が、この光沼に飛び込んで熱や火を避けたと伝えられているが、亡くなった人も多数いたという。戦後、再開発によって光沼は段階的に埋め立てが行われ、沼としての姿は消滅している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/o9far4p5ymqF5bDfA


慰霊塔
(高射砲台座上に建てられた慰霊塔)

土崎港(日本石油秋田製油所などの重要施設)を守るために配備された高射砲第四八大隊第四中隊の九九式八糎高射砲陣地のあった場所。そして秋田県でただ一つの戦場の跡でもある。

慰霊塔
秋田県知事小畑勇二郎書

この塔を建てた由来
この町内は太平洋戦争の末期の昭和二十年八月十四日から同十五日にかけて連合軍の大型爆撃機延べ二百五十機により約二千発の爆弾を投下され猛爆を受けたのであるがその際当地を警備中の独立高射砲隊(高射砲一箇中隊高射機関銃一箇小隊)および同隊を救援するため駆けつけた郷土部隊は最後まで勇敢に応戦し隊員の大部分が戦死されまた同時に一般市民も多数被爆し尊い命の失われた秋田県でただ一つの戦場であったのである よってこの人々の霊を慰めあわせてこの戦跡を永久に記念し再び戦争の悲劇をくりかえさぬことを誓うため当町内一同の総意によってここにこの塔を建立したのである
 昭和四十年八月十四日
  秋田市土崎港相染字緑町々内会一同

慰霊碑の台座が高射砲台座

場所:

https://maps.app.goo.gl/aQ6jdSMRreWzzvVG8


平和祈念碑
(土崎空襲 犠牲者に捧げる 慰霊平和)

通称、浜ナシ山。旧日石通りの慰霊碑。
日本石油秋田製油所従業員らを慰霊する。

土崎空襲 犠牲者に捧げる
慰霊平和
 祈念碑建立実行委員長 佐藤 実 謹書
  平成七年八月十四日

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city005/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Z5rfLQAAdrGxS33RA


雲祥院

土崎空襲で被災した秋田県内で唯一の戦災寺院という。

https://unshouin.com/history

空しゅう被弾地域

場所:

https://maps.app.goo.gl/cxhvDHgh9xN1sdqM7


雲祥院の首無し地蔵

四体のお地蔵さまは、爆撃の破片で首が削ぎ取られ無くなっていた。被爆地蔵。


被爆した墓石(雲祥院)

境内の墓石にも被爆した痕跡が残る。


被爆した宝篋印塔(雲祥院)

秋田県内最古の宝篋印塔とされ、南北朝期の建立という。
上部は土崎空襲での被爆によって破損している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1022-2
1948年5月16日、米軍撮影の航空写真を加工。
日石秋田製油所と、各慰霊碑の位置関係。

ちなみに、このエリアをすべて歩いて散策しました。
秋田県護國神社を起点に、ポートタワーセリオンを経由し、各慰霊碑を巡って、ゴールの上飯島駅までざっくり3時間でした。(土崎みなと歴史伝承館に寄れていればプラス1時間だったかも)


※撮影:2026年3月


空襲関連

昭和20年8月14日から8月15日にかけて、「最後の空襲」として被害をうけた空襲として「土崎空襲」のほかに「熊谷空襲」「伊勢崎空襲」「小田原空襲」などがある。

富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)

例の場所。
富士山と桜と五重塔の、いかにも日本的な風景。外国人観光客、インバウンドにとにかく人気の場所。
ただ、ここが「戦没者慰霊塔」であることを知ったうえで訪れている人は、極めて少なそう。

富士山は見えませんでした。。。


富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)

みたまやすらかに
合掌

富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)
五重塔と富士山が織りなすこの美しい景色の背後には、戦争によって失われた多くの尊い命があります。
この塔は、その方々を追悼し、二度と戦争の悲しみを繰り返してはならないという想いと、戦争のない平和な世界への願いを後世に伝えるために建てられました。

この塔は、富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)といいます。
明治以降、日本国として参戦した戦争において、富士吉田市から出征し、尊い命を落とされた方々を追悼するため、市の援護会を中心に、多くの市民の浄財によって建設が進められました。
昭和33年(1958年)8月、富士吉田市長を委員長とする富士吉田市慰霊塔建設委員会が設置され、昭和34年(1959年)4月に起工し、3年の歳月を経て、昭和37年
(1962年)4月に完成しました。この塔内には、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦及び太平洋戦争において亡くなられた本市出身の戦没者1,055名の位牌が納められており、その方々を追悼する場となっています。
戦争で大切な家族を失った遺族にとって、世界中から国境を越えて多くの人々がこの地に集う今日の姿は、平和の尊さをあらためて感じさせてくれるものです。
来訪者の皆さまが、戦争の悲惨さと平和の尊さ、また、命の大切さに静かに心を寄せてくださることを願っています。
 令和8年8月
  富士吉田市戦没者慰霊塔奉賛会
  富士吉田市遺族会

Fujiyoshida City War Memorial Tower
(commonly known as Chureito Pagoda)

Behind the breathtaking view created by the five-story pagoda and Mount Fuji lies the memory of
countless precious lives lost to war.
This memorial tower was built to honor those who sacrificed their lives, to remind future generations that the tragedy of war must never be repeated, and to express our hope for a peaceful world free from conflict.

This monument is officially known as the Fujiyoshida City War Memorial Tower,
commonly called the Chureito Pagoda.
It was constructed through generous donations from many citizens, led by the city’s War Bereaved Families Association, to commemorate the people of Fujiyoshida who left their hometown to serve Japan in wars from the Meiji era onward and lost their lives.
In August 1958, the Fujiyoshida City War Memorial Tower Construction Committee, chaired by the Mayor of Fujiyoshida, was established. Construction began in April 1959, and after three years of work, the tower was completed in April 1962.
Enshrined within the tower are memorial tablets dedicated to the 1,055 men and women from Fujiyoshida who lost their lives in the First Sino-Japanese War, the Russo -Japanese War, the First World War, and the Pacific War. The tower serves as a place to remember and honor their sacrifice.
For the families who lost their loved ones in war, seeing people from around the world gather here today, crossing national borders to visit this place, is a powerful reminder of the value of peace.
We hope that all who visit this memorial will take a quiet moment to reflect on the tragedy of war, the preciousness of peace, and the value of every human life.
 August 2026
  Fujiyoshida City War Memorial Tower Support Association
  Fujiyoshida City Bereaved Families Association

忠霊塔の概要
1.正式名称 富士吉田市戦没慰霊塔(通称:忠霊塔)
2.所在地 富士吉田市浅間2丁目3360番地の1
    市立新倉山浅間公園内
3.構造等
1構 造 鋼板一文字葺鉄筋コンクリート五層建
   大阪四天王寺の五重塔を模している。
2大きさ 基礎部分7.3m四方 一階床面積四坪(13m2)
3高 さ 19.5m(本体部分13m、相輪6.5m)
4総工費 9,368,884円
    (工事費9,210,767円 事務費158,117円)

「富士山眺望日本一」の写真

殉国之塔
昭和27年4月21日建立

忠霊塔建立前の石碑。殉国。

展望デッキからの眺め。
富士山は見えませんね。

富士山は見えなかったけど、外国人の皆様がとにかく多く、体感的には、日本人は10%、残り90%が外国人の皆様。。。


新倉山浅間公園(あらくらやませんげんこうえん)

1959年10月設置。三國第一山新倉富士浅間神社が鎮座しており、新倉山は神域となっている。

三國第一山新倉富士浅間神社
宗教法人名称は「富士浅間神社」、旧社格は村社。

創建は、慶雲3年(705年)9月9日。甲斐国八代郡荒倉郷の氏神として祀られる。
大同2年(807年)、富士山の大噴火があり、同年8月22日、当社に勅使が参向、国土安泰富士山鎮火祭を執行し、その時、平城天皇より「三國第一山」の称号並びに天皇親筆による大鳥居勅額・金幣・破魔宝面(勅使面)が奉納された。

「三國第一山」の扁額。

咲くや姫階段 398段

お土産・軽食堂屋さんは、外国人観光客仕様。


下吉田駅

富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)の最寄り駅。


都留市駅

都留市駅で途中下車。

温泉寄り道してみました。
「より道の湯」
なかなかに良い温泉。ゆっくり出来ました。また来ましょう。

大月駅にはフジサン特急が居ました。

河口湖駅には、「富士山ビュー特急」とJRの特急「富士回遊」も。

※撮影:2026年8月


関連

「富山大空襲」と富山の近代建築(富山の戦跡散策6)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その6では、「富山大空襲」と富山市街地を。


富山の戦跡散策1


富山大空襲

昭和20年8月1日、富山は米軍B-29爆撃機182機による大空襲を受けた。
富山市街地は99・5%を焼き尽くされ廃墟となり、死者は約3,000人、負傷者は約8,000人、被災者は約11万人にのぼった。
「富山大空襲」は、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出した空襲であった。

当時、米軍は、空襲目標として中小都市を選定していた。すでに空襲により都市機能を破壊した東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・川崎・尼崎を外し、原爆投下候補として、京都・広島・新潟・小倉を外した、空襲対象地は137都市となり、富山市は人口12万7,000人で36番目であった。
しかし富山市は呉羽紡績・日清紡績・日本曹達・不二越などの近代的大工場が集まり東岩瀬港の改修と東岩瀬臨海工業地帯を始めとした臨海工業地帯が発展しつつあり、米軍としては重要な爆撃目標であった。
ただ、米軍は、富山において工場群を狙う戦略爆撃は実施せず(結果、工場群は、ほぼ無傷)ではなく、労働者(市民)の住む都市爆撃を敢行し、富山は多大な犠牲を払った。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu

https://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2013/12/post-44.html


戦災復興記念像(天女の像)

富山城址公園内に。

 昭和二十年、太平洋戦争は激烈の度を加え、八月二日未明に、富山市は、B29百七十余機の焼夷爆弾攻撃を受け、市街地は一夜にして焦土と化しました。
 約二万五千の世帯、十一万人の市民が罹災し、約八千人が重軽傷を負い、二千七百余人の尊い生命が失われ、まさに、壊滅的な状況になりました。
 惨憺たる焼土と、絶望の虚脱の中から、富山市民は、平和を渇望し郷土の復興に気力を燃やし、槌音高く、県都富山の再建に立ち上がりました。
 市民の決意と総力の結集が実を結び、戦災復興の大大事業が完成し、今日の近代的都市に生まれ変わりました。
 この天女の像は、恒久の平和を念願するとともに、尊い犠牲に敬虔な祈りを捧げ、市民の努力による偉大な業績を記念して、富山復興特別事業協議会により、昭和四十九年八月一日に、戦災復興記念像として建立されたものです。
 平成二十年八月一日
  富山市

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfEzy39FMocorHACA


富山城址公園

富山市郷土博物館(模擬天守)。

加賀前田藩の分家となる富山前田藩の居城。
富山大空襲では、米軍は爆撃中心点を富山城址の東南に設定している。
なお富山城自体は、明治4年(1870)の廃藩置県により廃城となり払下げ解体となっている。
現在の模擬天守は、1954年(昭和29年)完成。

呑んだあとに散歩していたので、夜の様相も。

場所:

https://maps.app.goo.gl/UvCBUbbZ3Mg6Ukhe6


殉職警防團員之碑

富山城址公園内に。

皇紀2600年(1940年・昭和15年)を記念して建立。
明治42年から昭和15年までの30年間で、消防・水防活動中に亡くなった消防組員および警防団員20名の殉職者の慰霊顕彰碑。
また第二次大戦中に活動していた当時の消防関係者の志気を高めるという意味も込められていた。

警防団は昭和14年に結成。防護団(防空)と消防団(火防・水防)を統合し、警察の指揮下にあった。

殉職警防團員之碑

殉職警防団員之碑
 警防団員とは、戦前の名称で、現在の消防団員をいいます。
 消防団員は、住民の生命、身体、財産をあらゆる災害から守るという崇高な使命と長い伝統のなかで培われた旺盛な郷土愛護の精神に燃えています。
 水火災害に敢然と身を挺してその職に殉じた消防職団員の霊を弔い、その功績を永くたたえるとともに、県下消防関係者の志気を鼓舞するために建設されました。
 昭和20年8月2日未明の富山市空襲には奇跡的に戦禍を免れています。
    昭和15年12月竣工 (皇紀二千六百年)
    木曽川産 水成岩
    本碑揮毫 富山県知事 矢野兼三
    (財)富山県消防協会 

明治天皇御製
事しあらば 火にも水にも いりなむと
思ふがやがて やまとだましひ

明治40年に詠まれた歌
意訳:事故があったときには、火の中水の中飛び込んででも、救助しようとするその心こそが大和魂だ
万葉集の「事しあらば火にも水にもわれなけなくに」の表現が取り入れられている。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori34/tayori34.htm

場所:

https://maps.app.goo.gl/4RJxHoMYSa5uyrX37


前田正甫像

富山城址公園内に。

前田正甫(まえだ まさとし)は、富山藩二代目藩主。産業奨励とし富山売薬(富山反魂丹)を推進し、いわゆる「越中富山の薬売り」を発展させた人物。

場所:

https://maps.app.goo.gl/QfuQLr2w7SYBTLHe7


殉職警察官之碑

富山県庁前公園に。

殉職警察官之碑
内務大臣 男爵 山本 達雄 書

昭和9年5月竣工

殉職警察官之碑
 昭和九年五月竣工 (常願寺川産水成岩)
 殉職者 建立時 三十柱
     令和六年八月現在 一四四柱 
 本碑 揮毫 内務大臣 山本達雄
 副脾 稿 漢詩家 国府種德
    撰文 富山県知事 斎藤樹
    揮毫 臨済宗国泰
       寺派管長 佐竹竜水

碑文要旨
 立山を仰ぎ見れば、高くそびえてまことに崇高であり、越の海を望み見れば、まことに広大である。しかし、わが富山県の殉
職警察官の義勇もその崇高、広大さにおいては、かの立山や越の海に比類するものというべきである。
 警察官の任務は、安寧を擁護し、秩序を維持し、邪悪を戒め、災禍を救うにあり、一身の安危を忘れて、敢然として職務に挺
身すべきものであるが、思うに、旺盛な義勇心がなくては、どうして至難の事に処し、ひいては世人の期待にそい得ることができ
ようか。まさにこの旺盛な義勇心こそ、警察精神というべきである。
 社会の治安と民衆の福祉のために捧げられた、本県殉職警察官の義勇を知るならば、かの立山の山霊、越の海の海神も、その崇
高偉大さに一歩も二歩も譲るであろう。
 富山県警察本部
 富山県警友会

場所:

https://maps.app.goo.gl/gjyoNzQK5S2GR4jc8


富山県庁本庁

国会議事堂の設計を担当した大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦が監修し、1935年(昭和10年)8月17日に完成。
1945年(昭和20年)8月1日に富山市一円を焼き尽くした富山大空襲では、焼夷弾の直撃を受けたとされるが焼け残った。
全国の庁舎の中では5番目に古い建造物。国登録有形文化財。

夜の散歩

場所:

https://maps.app.goo.gl/v9im9SuXp9kkNNjJ6


富山市役所

1992年完成。最上階の展望塔から富山市街を一望できる。

富山城方面

富山県庁方面

富山電気ビルディング方面


富山電気ビルデイング

1936年(昭和11年)4月8日に竣工。
富山市内では富山県庁舎(富山県庁)とともに第二次世界大戦以前に竣工した建築物。
富山大空襲では焼夷弾の屋上への直撃で焼失した5階部分を除き、耐えぬいた。
第二次世界大戦後の1945年11月には、進駐軍の富山司令部が設置(1952年6月廃止)されている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/X6zsLvAKqtfPaj7y9


富山あれこれ

富山地方鉄道の路面電車でなんとなく南富山駅に行ってみたり。

富山駅

駅そば、立山そば

「しろえび天ぷら」と「ますずし」、「ニシンの昆布巻」
ますの寿司でおなじみの「源」
駅そばで富山を満喫。

特別純米「立山」

富山スペシャル天丼(白えび・ブリ・ほたるいか)

ねばり昆布生姜

「焼き鯖すし」「幻の瀧」

居酒屋、「呉羽梨」とほうじ茶のJIN

千代鶴

羽根屋

勝駒

シメそば

とろろそば、とろろ昆布おにぎり

あんばやし(味噌田楽)

冷やしそば出しラーメン

富山ブラックラーメン

おでん

ビーバー
ロングサラダ

新幹線アイス

パウチ日本酒

ビーバーとハッピーターンと柿の種

高田屋の「鱒の寿」
先輩におすすめされて。

富山の食も堪能満喫、また来ますね。富山良い街です。
いちれんの富山散策は、いったん、〆で。

※撮影:2025年9月


関連

富山市に投下された模擬原爆(富山の戦跡散策5)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その5では、「富山に投下された模擬原爆」に関連する戦跡に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)

パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)は、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)である「ファットマン」の模擬爆弾として開発された。「パンプキン」は特殊形状な爆弾であった「ファットマン」の投下訓練とデータ取得の爆弾として、日本全国に投下され、その訓練と解析の実績が長崎に投下された「ファットマン」へのつながることとなった。
パンプキンは、18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日 – 8月14日の間に投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が記録されている。

下記はアメリカ・ラスベガスのアトミックミュージアム展示の「ファットマン原寸大模型」
(2025年4月撮影)


富山に投下された模擬原爆

米軍の原爆投下部隊・第509混成群団が広島・長崎を前に模擬原爆・パンプキン爆弾で投下訓練を実施。
富山市内には4発の模擬爆弾が投下された。
7月20日、3発の模擬原爆が、富山市内の重要な軍需工場となっていた不二越製鋼東岩瀬工場、日満アルミニウム及び日本曹達富山製鋼所を目標に投下。
これによる被害は死者47人、重軽傷者40人、また家屋4戸が火災に遭ったほか、家屋約50戸が損害を受けた。
7月20日の爆撃は天候不順のために目標には命中できず、観測も失敗したために、7月26日に富山市豊田地区に対して一発のパンプキン爆弾と再度投下している。この26日の爆撃では死者は6人、重軽傷者は50人、全壊家屋は8戸、半壊家屋は50戸が被害を受けた。
この一連の富山市の中田地区・森地区・下新西町地区・豊田本町地区における4発の模擬原爆による被害は、死者53人、負傷者90人であった。

そして、富山市は、8月1日に「富山大空襲」を迎えることとなる。


爆心地
(7月20日・中田地区の模擬原爆の爆心地)

昭和20年7月20日に投下された模擬原爆の「爆心地」。

昭和二十年
世界初の原子爆弾の模擬爆弾の跡地
 終戦間際の昭和二十年(一九四五年)七月二十日朝八時過ぎ、突然「Bニ十九」が飛来して、市の北部で基幹産業の工場地帯に三発(当地の他·森地内·下新地内)の爆弾を投下されました。
 後に解ったことですが、後に広島·長崎に投下された、世界初の原子爆弾の模擬爆弾であること、当初は、新潟もその候補地であった為、気象条件も似た富山が選ばれ、時間帯も朝に設定されていたとのことです。
その為、当地域では、通勤途上の十数人が犠牲となられ、また負傷者も多く出ました。
 当町内では、奇跡的に犠牲者はありませんでした。負傷者は、数名あったようです。
 しかし、家屋にも焼失した家、屋根も床も抜け柱だけの家や半壊の家が多く出ました。
 又、遠く離れた「小学校」の南向き窓ガラスはすべて割れ、破片も屋根·床を貫通していたようです。又、工場のスレートも多く破損しました。
 その爆風の威力は、田んぼの稲もまるで刈り取ったかのように、根元から綺麗に何處かに消し飛んでしまったと、翌日の新聞が報じています。
 跡地には、大きな窪地ができ、数年間に亘り直径十五メートルを超える池となり、筏を浮かべることもできました。
 これは、長崎に投下されたものと同じ形状であること·色合いが黄褐色でもあり「パンプキン」と云われていました。

爆弾の大きさ
直径:1.5M
長さ:3.5M
重さ:4.5トン

被爆後の空撮写真には、
1の現在地には、明らかに爆弾の跡に水がたまっているのが、はっきりと写っています。
窪地を年々埋めて現在のようになりました。
2は、中田八幡社の元の場所で、森地内の投下場所とほぼ等距離にあった為、被災しませんでした。
昭和31年に、全体を持ち上げて、コロ引きで、現在地まで移設遷座されました。
その後、経路沿いに植樹して、現在の桜並木になりました。

爆撃により発生した大きな窪地

爆心地の裏手にある不二越の工場。
ちなみに不二越のブランド名「NACHI」は、那智熊野大社に由来する富山発祥のメーカー。
もともとは、不二越を目標にした爆撃であった。

中田八幡

場所:

https://maps.app.goo.gl/kA6FDoP8nMExcaqL7


上記の東岩瀬の爆心地の最寄り駅。

東富山駅

あいの風とやま鉄道(旧・JR北陸本線)の駅。
明治41年(1908年)開業時は「東岩瀬駅」。
昭和13年に「不二越鋼材工業株式会社東岩瀬工場」が駅近くに設置され、工業地帯への貨物駅も担うことになった。
戦後の昭和25年に富山港線の越中岩瀬駅が東岩瀬駅へと改称することになり東富山駅に改称。

西口駅舎本屋は1908年(明治41年)9月竣工。

レンガ倉庫。
かつては、駅灯室として用いられ、駅本屋と同じく、1908年(明治41年)9月築。


平和祈願之碑

7月26日、富山市での2回目となる「模擬爆弾」が投下されたのが、「富山市豊田地区」であった。

平和祈願之碑

大東亜戦争被爆地の記
一九四五年(昭二十年)七月二十六日朝八時頃アメリカ軍の爆撃機B29が飛来し豊田のこの地に爆弾を投下しました そのため鈴木善作(当時四十九才)ほか十五名の者が被爆犠牲者として尊き生命を断ちました。
人類にとって戦爭ほど醜く嘆き悲しまずにいられないものはありません。
再びと、このようなことの起ることはなく未来永遠に人類が平和でありますことを請い願ってこの碑を建立します。
 一九八八年(昭六十三年)七月二十六日

昭和六十三年七月建之
犠牲者の遺族が自費で建立した「平和祈願之碑」。
当地で犠牲になった鈴木善作・レツ夫妻ら住民16人を悼み、善作氏の息子である故・善蔵氏が1988年、着弾地から数十メートルの所有地に退職金を元手に建立。内部には爆弾の破片と防空頭巾が収められたという。

総務省>追悼施設
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_004/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/p3sKeQFoFVbNrq2Y9

帰路は富山港線ポートラムで富山駅に。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策6 へ


富山関連

模擬原爆関連

砲身を台座とした「利田忠魂碑」(富山の戦跡散策4)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その4では、「砲身を用いた忠魂碑」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山駅から東に約10キロ。
富山県中新川郡立山町の利田小学校脇にある「利田忠魂碑」。
バスの場合は、富山駅から日置バス停で下車して、そこから歩きで、ざっくりトータル1時間ほどで到着。


利田忠魂碑

青の砲身と金の地球と金の鷲
みたまやすらかに、と、忠魂碑に合掌

建立の由来
大正十三年
利田忠魂碑は利田村民の総力により戦没者のみたまに感謝の誠を捧げんと建設費二千八百円(当時の村年予算二千円)の巨費と四百六十人の奉仕によって建設される
上部は日本海海戦に武勲をたてし志保丸の砲身で長さ七・二米、重さ六・七屯、海軍軍人として活躍中の曽我大佐 宮崎中尉 保正一等兵曹の三氏が海軍省から払下げに努力されたものである。
昭和十四年
蘇我の藤田金太郎翁が砲身の上に地球と鷲を寄贈される
昭和四十三年
明治百年を記念し大改装を行い追悼法要を執行する
平成三年八月
利田小学校グランド整備のため現在地に移転建設する

忠とはまごころ いつわりのない心 まことの心である
合祀する六十五柱のまごころに感謝し
永遠の平和を祈念するものである

合祀する六十五柱のまごころに感謝し永遠の平和を記念するものである
 平成三年八月吉日
  利田自治振興会

碑文中に出てくる「志保丸」という艦船は、日本海海戦時には海軍には存在しておらず、調査の結果、戦艦「安芸」の砲身が下附されたともいわれている。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tut/1339942?page=2

ん?戦艦安芸??となると、砲身の忠魂碑(慰霊碑)は、兵庫西宮の鳴尾八幡でも拝見してましたが、そちらも戦艦安芸という話が伝承されている。。。

「金鷲輝く 日本の 栄ある光 身に受けて」、、、あっ金鵄か、国民歌「紀元二千六百年」は。

場所

https://maps.app.goo.gl/o1xFzDnWAQQWJWPbA


行き帰り

バスは休日は2時間に1本程度。

行きは良いけど、帰りのバスが無いので、越中三郷駅まで50分くらい歩きました、地方あるあるです。

富山地方鉄道

越中三郷駅

ちょうど、電車が入線して、行ってしまいました。。。

これは良い佇まい。

昭和6年(1931年)開業。

「鐵電山富」「驛鄕三」
開業時の社名で右書き

予備知識無しで訪れましたが、これは良い。歩いて正解でした。

「みさと」ではなく、「さんごう」

ぼーっと、無人駅で一休みする時間も良いものです。

富山駅に戻ります。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策5 へ


関連

富山県忠霊塔・富山陸軍墓地(富山の戦跡散策3)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」、その2の「富山歩兵聯隊」関連の戦跡に次いで「富山陸軍墓地」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山歩兵聯隊跡のある富山大学前から、シェアサイクルを活用して、一気に「富山陸軍墓地」へ。
富山市の西にある呉羽山。その呉羽山の南東に富山大学、北東に「富山陸軍墓地」という位置関係。


富山県忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

富山陸軍墓地は市営長岡墓地にある。現在は「富山県忠霊塔」。
陸軍墓地として個人墓はなく、忠霊塔と3つの合葬碑が残っている。

富山県忠霊塔の沿革について
 明治四十一年、歩兵第六十九連隊が富山で編成され、同隊の公傷病死者の分骨を埋葬する「陸軍墓地」が、この富山市北代の地に設けられました。その後、各戦役ごとに「忠魂碑」が建立されて、陸海軍戦没者を合葬されております。
 向かって中央の「忠霊塔」は昭和十六年十月に建設されましたもので、昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬してあります
 向かって右の一番目の碑は、昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立されました。
 向かって右の二番目の碑は、昭和十年から同十二年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬してあります。
 忠霊塔の向かって左の碑は、歩兵第三十五連隊が富山に移駐したため、金沢陸軍墓地に合葬してあった、日清日露戦役の戦死者の分骨を富山に移されたもので、昭和八年に建立されたものであります。
 これら旧陸軍墓地の合葬者は二八七四八柱にのぼっています。
 現在ご英霊に対しましては、富山県遺族会によりまして毎年八月に、慰霊祭が厳修されております。
 ご英霊の永遠のご冥福をお祈りします。
  平成九年七月吉日
   寄贈 社団法人 日本郷友連盟富山県支部

中央に忠霊塔
むかって右に上海事件陣歿者合葬碑、
むかって左に、満州事変陣歿者合葬碑と陣歿者病死者合祀碑がある。


忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

「忠霊塔」は、昭和十六年十月に建設。
昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬。

2023年に改修工事があり、忠霊塔は安全面を考慮し、建立時の14メートルから9メートルに低くなった。

合掌
みたまやすらかに

2023年の改修工事の際に、銘板には高岡銅器を使用。


陣歿者病死者合祀碑(旧富山陸軍墓地)

大正14年5月に歩兵第35聯隊が、金沢から富山に転営したため、金沢陸軍墓地に合葬されていた日新日露戦争の戦死者の分骨を、富山に移されたもので、昭和8年9月に建立された。

陣歿者病死者合祀碑
陸軍中将 荒蒔義勝書

荒蒔義勝は、昭和7年(1932年)9月から昭和9年8月までに第9師団長であった。第9師団は北陸3県(富山・石川・福井)を管轄。

大正14年5月転営
昭和8年9月建之


上海事件陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立。

上海事件陣歿者合葬碑
陸軍中将 植田謙吉 書

昭和4年(1929) 支那駐屯軍司令官、昭和5年12月に第9師団長となる。第9師団長在任中に、第一次上海事変勃発し出動。停戦交渉中の昭和7年(1932)4月29日の天長節爆撃事件により左脚を失う重傷を負う。上海事件陣歿者合葬碑は、第9師団長として揮毫している。

昭和7年12月建之


満州事変陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和10年から同12年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬。昭和12年5月建立。

満州事変陣歿者合葬碑
陸軍中将 蓮沼蕃 書

蓮沼蕃は石川県出身。陸大兵学教官時代の教え子が栗林忠道であった。
昭和10年8月から昭和14年8月まで第9師団長。その後、最後の侍従武官長を終戦まで務めた。

昭和12年5月建之


石灯篭(旧富山陸軍墓地)

陸軍星の五芒星が刻まれた石灯篭

これは何だろう?

昭和8年3月1日建之


旧富山陸軍墓地入口

富山陸軍墓地の入口。

大灯篭

昭和12年奉納

手水石も陸軍星の五芒星、昭和12年奉納

門柱

場所:

https://maps.app.goo.gl/qSyiVWewrN2ZSANF9

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策4 へ


関連

富山歩兵聯隊跡(富山の戦跡散策2)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」に次いで、「富山歩兵聯隊」関連の戦跡を巡ってみました。


富山の戦跡散策1


富山の歩兵聯隊

明治29年(1896年)、石川県野田村(現在の陸自金沢駐屯地)に「歩兵第35聯隊」聯隊本部を設置。
明治40年(1907年)、「歩兵第69聯隊」が歩兵第7連隊(金沢)及び歩兵第35聯隊(石川)内に設置。
明治41年(1908年)、「歩兵第69聯隊」が石川から富山の東呉羽村に移転。
大正10年(1921年)、「歩兵第69聯隊」は富山からシベリア出兵。七尾港からシベリアに出征。
大正14年(1925年)5月、宇垣軍縮により富山「歩兵69聯隊」は廃止。「歩兵第35聯隊」が金沢から富山に転営。「歩兵第69聯隊」の600余名は、新たに富山に配属された歩兵第35聯隊に編合。

歩兵第35聯隊
昭和7年(1932年)「歩兵第35聯隊」は第一次上海事変に出征。
昭和12年(1937年)「歩兵第35聯隊」は第二次上海事変に出征し、南京追撃戦の第9師団の主力として活躍。その後、徐州会戦などに参戦し、昭和15年からは満洲駐屯。
昭和19年(1944年)7月、沖縄に移駐し防御陣地の構築に参加。11月に台湾に移駐し、終戦を迎えている。

歩兵第69聯隊
昭和12年(1937年)動員され、第109師団隷下。
昭和15年(1940年)再動員され、第52師団隷下。
昭和17年(1942年)大本営予備として待機
昭和18年(1943年)トラック島に進出、防御陣地構築にあたり、そのままトラック島で終戦を迎える。


富山歩兵聯隊跡

富山市五福の県営富山野球場のちかくに、記念碑が建立されている。
現在の富山大学五福キャンパスから県営野球場のあたりが、富山歩兵聯隊の地であった。

富山歩兵聯隊跡

題字は、瀬島龍三氏。
瀬島龍三氏は、富山県出身。陸士44期次席、陸大51期主席。最終階級は中佐。太平洋戦争のほとんどを陸軍参謀本部部員として陸軍中枢の作戦担当にあたった人物。
戦後は伊藤忠商事会長、亜細亜大学理事長、中曾根康弘首相顧問などを務めた。

この地は明治41年5月より昭和20年10月まで37年間、越中飛騨信濃等の青年が入隊し錬武に励んだところである
 題字 瀬島龍三 書
 昭和53年8月19日建之
富山聯隊跡地記念碑建設協賛会


本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地

昭和20年(1945年)4月に本土決戦に備えて創設された陸軍聯隊の動員編成地。

1945年(昭和20年)4月2日、第209師団が創設され、第209師団所属歩兵第514聯隊(加越第21613部隊・加越第3部隊)が動員された。
第209師団は機動打撃師団として、上陸してくる敵に対し、「地上特攻」総攻撃すべく水際殲減決戦部隊であった。
富山大空襲では、隊員25人が爆死している。

本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地
歩共第514聯隊(通称加越第3部隊)(富山市)の創設記念碑文

 昭和20年終戦目前の4月、本土決戦(米軍本土進攻)準備のため、陸軍において8個の機動師団が動員され、その款下に第1総軍、第12方面軍 第36軍(浦和)、金沢師管区では第209師団が編成され、その隷下部隊として 步兵第514聯隊(通称加越第3部隊)総勢4368名が富山市に創設された。
 機動師団の特質は、師団を拳げて、一意怒涛の「地上特攻」総攻撃を連続不断に実施し、上陸してくる敵を水際において殲減すべき決戦の思想のもと、皇士防衛の重大任務を帯び、穿貫戦力を保持するため、兵は、昭和19年懲集の19歳から20歳の現役兵を主力とし、下士官は25歳以下とし、小隊長は、全員、予備士官学校卒業直後の見習士官を当て、中隊長並びに将校は年齢30歳以下、大隊長は、陸軍士官学校区隊長(現役将校)より赴任し、各方面軍の優秀戦歴者を現地から充用し、当時陸軍では最も若い年龄の最精銳で編成された。
 4月27日動員第1日、富山聯隊兵営(現国立富山大学)から5月5日次の各分駐所べ移駐した。聯隊本部及び直轄中隊の聯隊砲中隊·通信中隊·作業中隊·乗馬小隊は、富山男子師範学校(現富山市立南部中学校)及び西田地方国民学校(現市立西田地方小学校)へ、
第1大隊は安野屋国民学校(現富山中部高校校庭)及び県立神通中学校(現県立富山中部高校)
第2大隊は、私立大谷女学校(現機部町公園)及び星井町国民学校(現富山市角川介護予防センター)へ
第3大隊は、県立富山中学校(現県立富山高校)へ移駐
 5月5日及び5月25日の2回にわたり、現役初年兵入隊。5月12日第209師団長初度巡視を神通中学校て受閲、聯隊は編成定員を充足し、将兵一同強固な団結のもと、日夜重大任務の即戦必須の猛訓練に邁進。
 6月19日軍旗親授式が宮中で拳行、大元帥陛下御手づから聯隊長陸軍中佐力石勝寿、聯隊旗手陸軍少尉山口重信に親授され、荘重にして御力強い勒語を賜る。6月21日神通中学校按庭において、軍、官民、国防諸団体、学生ら県民総参加で、軍撰奉拝式を盛大に挙行。8月1日第36軍司令官初度巡視·検開を呉羽山練兵場で受閲。
 8月1日深夜~2日未明にかけて、B29爆撃機170余機(米軍戦術任務報告書)による富山市への大空襲時、聯隊各分駐所は富山中学校以外は全焼し、隊員25人が爆死した。焼実弾の猛火の中、聯隊旗手山口重信陸軍少尉は、師範学校裏の 冷川の中で天佑神助無事軍旗泰安の任を果たす。
 聯隊は、空襲後富山中学校及び校庭に集結するも、本土決戦の重大任務のため8月3日一面の焼野原となった富山市を後に、転進地下新川郡の16ヶ所の各国民学校、光闡寺に移駐したが、戦況は米軍進攻の危機が急迫し、聯隊は、引続き本土決戦に即応すべく必須の訓練に邁進した。8月13日決号作戦警戒命令発令され将共士気旺盛なりしところ、突如運命の8月15日終戦(聯隊本部、三日市国民学校·現黒部市役所)、8月25日 軍旗奉還式を挙行(三日市国民学校)、軍旗は8月29日に陸軍省へ奉還した。聯隊は9月3日復員下令され、三日市国民学校において解散式を挙行し、9月5日解散した。聯隊は、決戦地域関東に赴くことなく創設から5ヶ月で青史を終えた。11月中旬兵器弾薬一切は残留部隊が立野ヶ原演習場廠舎(現城端·福光地区)において進駐軍(司令部富山電気ビルに駐屯)に引渡しを終了した。
 戦後平和の礎に、昭和の大戦末期において国家存亡の危機に直面し、終戦·占領·独立·復興を経て平和日本への史実があったことを後世に伝える。
  平成27年4月27日(動員編成70周年記念日)
   公益財団法人借行社 富山偕行会
   一般社团法人日本郷友連盟 富山県郷友会
   防衛大学校同窓会北陸地区支部

機動兵団歩兵第514聯隊創設記念碑 建立誌
 聯隊旗手山口重信陸軍中尉(昭和20年8月20日昇任)は97才でご健在であり、終戦後70年の節目にあたり、当時の米軍本州上陸が差し迫り、日本が土壇場の中、富山で聯隊が編成された歴史を後世に伝えようとの声が彷彿と上がり、当時の憂国と明日への希望の思い出を留め、新たなる日本、新たなる北陸、新たなる富山の建設の思いの礎としたく、記念碑建の隣の旧歩兵第35聯隊碑傍地に記念碑を建立したものである。
(以下、記念建立委員会名簿及び建立協賛及び賛同団体名・会社名・個人名などは略)

県営富山野球場

富山地方鉄道富山市内軌道線呉羽線

富山縣護國神社の最寄りとなる「安野屋」から、歩兵聯隊跡地となる「富山大学前駅」まで、路面電車を活用。

ちょうど居合わせたのが「7018号」
富山地鉄の路面電車7000形で唯一、登場時からのクリーム色と緑の「旧塗装」を維持している車両。

富山大学前電停の近くにあったシェアサイクルを活用して、その3では、陸軍墓地に訪問します。

場所:

https://maps.app.goo.gl/c3vayBNuBCaSq1br8

※2025年9月撮影


富山の戦跡散策3 へ


関連

富山縣護國神社(富山の戦跡散策1)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、まずは「富山縣護國神社(富山県護国神社)」から。


富山縣護國神社(富山県護国神社)

富山縣護國神社は、富山県出身の明治維新から大東亜戦争までの戦没者を祀る。また、境内の伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。

明治45年(大正元年・1912年)3月に「富山縣招魂社」として設立が認められ、翌年の大正2年(1913年)8月に竣工、9月18日に鎮座式が執り行われた。
昭和14年(1939年)4月1日、全国の招魂社が護國神社に改称されるにあわせて「富山縣護國神社」に改称。
昭和20年(1945年)8月の富山大空襲で手水舎など一部を残して社殿焼失。
昭和22年、「富山縣鎮靈神社」と改称し、仮殿竣工。
昭和26年10月24日、「富山縣護國神社」に復称。
昭和29年10月20日、現在の社殿の竣工となる。

https://www.toyama-gokoku.jp/concept/

 私達の祖國日本は、幕末以來、幾多の戦役を經験してまゐりました。そして、その折、澤山の方々が國の爲、又、家族、郷土の為に、世界の平和と共存共榮を祈りつつ、尊い命を棒けられました。

 ここ、富山縣護國神社は、それらの方々の御靈を尊んで、「御英靈」とお呼びし、神さまとしてお礼り申し上げてゐます。
 現在、日本の國が平和で、何不自由なく暮せるのも、ひとへに、諸英靈の大きなお守りのおかけであることを私達は決して忘れてはなりません。
 御英靈に感謝の
 まことを棒けませう
 どうぞ、手水舎にて身心を清められ、神さまのおそば近くで御參拜下さい。


大灯篭(富山縣護國神社)

昭和13年4月の建立。富山空襲の難を逃れた。

富国徴兵保険相互会社、世相を感じる会社。

大灯篭のレリーフ。
靖國神社の大燈籠の基壇部分日清戦争から満洲事変までの主な戦闘場面が、陸海軍それぞれ7面描かれているが、そのなかから「日露戦争奉天入城式」(左)と「日本海海戦の戦艦三笠艦橋の東郷元帥」(右)を、靖國神社の許可を得て、奉掲。


御社殿(富山縣護國神社)

広々とした境内。参道が折れ曲がっている。

清々しい神域

大拝殿

みたまやすらかに
参拝

旧社号標

「富山縣招魂社」

昭和10年7月建之、富山大空襲の難を逃れた。

昭和12年3月10日再建とある鳥居


御朱印(富山縣護國神社)

御朱印。「忠魂不滅」
遺詠は、お祀りされている高田豊志命が御家族に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上様」宛の歌

忠魂不滅
 遺詠
  夢にだに忘れぬ
   母の涙をばいだきて
   三途の橋を渡らむ

 この御朱印に書かれてる歌は、富山縣護國神社にお祀りされてをります高田豊志命が御家族様宛に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上さま」宛とした歌でございます。
 高田豊志命は昭和二十年五月十三日、飛行第二十戦隊陸軍伍長として台湾宜蘭基地を出撃、沖縄本島西海岸に群がる米艦船に体当たりし散華されました。
 父豊次郎さんが、八十歳になられた時、戦後久しく仏壇に収められてるた白木の箱の中に「うた日記」を発見されました。この「うた日記」には、高田豊志命が昭和十八年の三月から二十年の四月まで、毎日和歌を作ることを志し、和歌七八三、俳句十七、詩文九が書き綴られてをりました。この「うた日記」は遺芳館に展示されてをります。


伊佐雄志神社(富山縣護國神社)

伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。


遺芳館(富山縣護國神社)

御英霊の遺書や遺品を展示。

見学を。

奉納模型

幣帛料など。

富山大空襲
昭和20年8月1日、死者約3,000人、負傷者約8,000人。

朝倉豊次海軍少将の軍装
朝倉豊次は、富山県出身(現在の黒部市前沢の出身)
富山県出身の唯一の閣下(海軍少将)
海兵44期48番卒業
太平洋戦争開戦時は重巡洋艦「高雄」艦長。1943年12月に、戦艦「武蔵」艦長(第三代艦長)。
1944年5月に海軍少将に昇進、8月に武蔵艦長を猪口敏平大佐に引き継ぎ、南遣艦隊参謀長を経て、第10方面艦隊参謀長兼第13航空艦隊参謀長兼第1南遣艦隊参謀長として昭南島(シンガポール島)で終戦を迎えた。
終戦後は、富山に戻り、黒部市の初代教育長を務めている。

天に星 地に花 人に愛

左は、山崎定義陸軍中将の軍装
山崎定義は、富山県出身(現在の富山市)
名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(15期)を卒業。金沢歩兵第35聯隊勤務。日露戦争では小隊長として出征し、旅順包囲戦で負傷。
1910年、陸軍大学校(22期)卒業し、陸軍歩兵学校勤務。
桜歩兵第57連隊長や東京歩兵第2旅団長などを務め、1934年に陸軍中将昇進し待命、予備役編入。
1936年に富山市長に就任。1940年に市長を退任。


聖帝四代御製碑建立の記

聖帝四代御製
明治天皇御製
 世とともに 語りつたへよ 國のため 
  命をすてし 人のいさをを

大正天皇御製
臨靖国神社大祭有作
武夫重義不辞危 
想汝従戎殞命時 
靖国祠中嚴祭祀 
忠魂萬古皇基

昭和天皇御製
爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ 
いくさとめけり 身はいかならむども

今上天皇御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
平らけさせき世を 願いあゆまむ

 富出縣護園神社が御創立百周年を迎え 、しづかに戦歿御英霊のおこころをおしのび申し上げ、その精神が青少年の教育の基本となることを願ひつつ、御創立百周年記念大祭を齋行し、そしてその記念大祭を更に意義あらしめる為に、明治天皇、大正天皇、今上天皇が我国の為、散華された御英霊の遺徳を偲び、或は、国民の上を思ひ遣り給ひてお詠みなられました御製・ 御製詩を石に謹刻申し上げたのであります。
 この『 聖帝四代御製碑』が、これからの日本を擔ふ青少年諸君を始め縣民全ての精神的指針となり、祖國日本の復古維新の源となることを祈念してやまないのであります。
    富山縣護園神社
      宮司 栂野守雄


拓魂

富山県出身の満蒙開拓殉難者1千4百余柱の慰霊顕彰碑。

建立の由来 
満蒙開拓の事業は 昭和7年に始まり 終戦まで重要国策として進められ 本県からは 県選出の開拓団並びに青少年義勇隊 報国農場等合せて5千5百余名の多数の同志が入植していた 私達開拓者は 故国を離れ 満蒙の地に民族の先達として 不屈の精神をもって五族協和の道義世界建設の理想に燃え 新天地の開拓に精進していた しかるに敗戦という冷厳なる事実に直面し 言語に絶する民族の悲劇に遭い 1千4百余名の将来ある生命が絶たれた かって日本の生命線と呼ばれた彼地に 雄図空しく斃れた非命に痛恨の情が尽きない 開拓の精神は創意発展の神髄であり 真理探究の道である 諸君の悠久の生命を信じ 遺志を無にすることなく 恒久平和への道標としてここに合祀し 碑を建立して 道義日本の将来を祈念するものである
  昭和51年8月 建立
   富山県満蒙開拓引揚者一同


馬魂碑

陸軍歩兵第69聯隊の軍馬慰霊顕彰碑。
富山大学の地は、陸軍歩兵聯隊の軍用地、であった。のちほどで訪問しますが、後述。

碑歴
旧陸軍歩兵第69連隊時代の建立になる馬魂碑は、戦後長い歳月その所在が明らかでなかったが、昭和51年3月富山大学構内整備作業中発見
 ここ護国神社境内に移設し永くその魂の安らかんことを祈る
   昭和51年8月11日 (再建)
     富山県馬術連盟会長 平野平好
     富山県馬事振興会会長 松村清年


つばさの塔

富山県出身陸軍少年飛行兵の戦没者48柱の慰霊顕彰碑

つばさの塔
 昭和9年2月に誕生した陸軍少年飛行兵は同20年8月の終戦に至るまで 航空部隊の中核として約3万人が巣立ち 富山県からも多くの紅顔の少年たちがこれに参加した
 顧みれば 支那事変や大東亜戦争で 祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら 尊い命を捧げられた多くの人たちが思い出される
 なかでも 14歳で志願し 17歳で出陣して 大空の決戦場に花と散った陸軍少年飛行兵の至純な姿を忘れることはできない
 日本の空に 平和が訪れて既に26年 かって苦楽を共にした われわれ生存者相集い今は亡き 郷土出身の友を偲び 心からその栄誉と崇高な精神を讃え 永く後世に伝えるとともに 世界永遠の平和と人類の福祉を祈念して ここに「つばさの塔」を建立する
  昭和46年6月13日
   元陸軍少年飛行兵 富山県内生存者一同


嗚呼 海原よ 大空 に

海軍甲種飛行予科練習生の戦没者の慰霊顕彰碑

神風特別攻撃隊第五七生隊
海軍大尉森丘哲四郎辞世
ちはやふる 
 神の持たせる
  命なり 
砕きて守れ 
 大君と國
  同期 千玄室謹書

富山県黒部市出身の森丘哲四郎氏は海軍飛行14期予備学生
裏千家家元であった千玄室が同期であった。

連合艦隊告示(布)第一〇九号
布告
海軍少尉森丘哲四郎外二十六名神風特別攻撃隊第五七生隊員トシテ昭和二十年四月二十九日勇躍出撃沖縄本島東方約六五浬附近ニ於テ航空母艦四隻戦艦三隻ヲ基幹トスル有力ナル敵機動隊ヲ捕捉相続イテ必死必中ノ体当リ攻撃ヲ決行シ克ク其精華ヲ発揚シテ悠久ノ大義ニ殉ス忠烈万世ニ燦タリ
仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
 昭和二十年六月十日
  聯合艦隊司令長官 小沢治三郎


金鵄勲章碑

金鵄勲章受勲戦没者の慰霊顕彰碑

金鵄奉献
 金鵄勲章は明治23年2月11日勅令をもって制定せられ戦場における武功抜群の軍人にのみ授与せされた国家最高勲章であります。
 御英霊は国家の興亡に際し身命を捧げて護国の華と散られたものでその武勲は悠久不滅でありよき平和日本の礎を築かれたことは厳然たる事実であります。国民は斉しくご英霊の至誠に応え崇敬の誠を捧げなければなりません。
 ここにご英霊の鎮魂を慰めその勲を顕彰し併せて金鵄の尊厳を後世に伝え国運の隆昌を祈念するためこの碑を奉納いたします。
 敬白
  昭和53年10月吉日
    富山県金鵄会

金鵄勲章のレリーフ


建国記念塔

建国の日 2月11日


パール判事の碑

不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも著しい
印度国判事
ラダビノード・パール


明治百年記念

碑歴
明治維新の大業成り明治改元より百年を迎えるに当たり不滅の偉業と恩恵を讃えその精神と教訓を今に生かし世界的視野のもと新世紀に臨む決意を確固とし次代へ継承し限りない希望をこめ富山市大場町奉納の安政の大鳶崩れに流出と伝えられるこの巨石に刻してこれを建立する
 明治43年4月吉日 
  明治維新百年富山縣護國神社記念事業実行委員会


天皇皇后両陛下御親拝記念碑

昭和33年10月19日の御親拝


第一次世界大戦従軍記念碑

第一次世界大戦において青島に出兵した戦没者の慰霊顕彰と従軍者を顕彰する碑

大勲位守正王御諚
  國護る自衛の躾道義心
 第一次世界大戦従軍記念碑
 山東省青島
   ビスマルク兵舎駐屯

國のため 朽ちて流れん みなと川 来くむ人の あれを悟りて
 昭和44年1月11日 建立


噫 ニューギニア

ニューギニアに出征した富山県出身の戦没者の慰霊顕彰碑

ニューギニア島を思わせる形をした碑石


嗚呼 トラック諸島

トラック諸島にて戦没された御英霊200余柱の慰霊顕彰碑

 大東亜戦の様相益々苛烈を極め、南方戦域死守の要いよいよ急を告げる昭和18年秋、精鋭を誇る我が聯隊及び師団司令部は中部太平洋トラック諸島に急派された。
 遠征途次、南海に幾度か魚雷・空爆の猛襲を受け乍ら救援のため、サイパン島を迂回した第2陣と一丸となり、海軍と密に連携して夏島を中心とする各島に分散配置した聯隊は、敵の制海・制空により補給途絶・孤立無援の戦況下、連日の凄惨執拗な艦・空爆撃を受け、人間生存の極限とも思える飢餓及び、特有の悪疫を克服し乍ら玉砕の覚悟を以て、遂に敵の攻略を許さなかったのである。
 しかし乍らこの大任遂行中、酷熱の赤道間近に於いて戦歿された御英霊が200余柱の多きに達したことは、痛恨の極みである。
  嗚呼悲壮なるかな!!
 戦後正に40年、嘗ては死生血涙を共に苦闘を続け今は亡き戦友のご冥福を祈ると共に、涙を呑んで散華なされた南溟の空を仰ぎ、鎮魂の誠を捧げるためゆかりのある聖域にこの碑を建立した。
   昭和60年12月8日
    金沢第52師団司令部 富山歩兵第69聯隊 トラック諸島戦友会

お知らせ
 1 碑文の裏面にトラック諸島の位置を表示してあります
 2 碑の正面下にトラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型と、その上に墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石を添えてあります
 3 碑に正面した方向(南南東)にトラック諸島が在ります。機会ある毎に遥拝し英霊をお慰めして下さい

トラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型

墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石


皇太子殿下御降誕記念

陸軍大臣の林銑十郎の謹書
昭和8年12月23日に、 明仁さまが御降誕あそばされた。


紀元二千六百年記念

昭和15年(1940年)は紀元2600年。


支那事変記念

昭和12年(1937年)の盧溝橋事件から始まった支那事変の戦没者慰霊顕彰碑。
昭和14年に建立。
歩兵第35聯隊の第22代聯隊長の川久保鎮馬による揮毫


大正天皇御製 登呉羽山碑

大正天皇御製 登呉羽山
皇太子時代の明治42年(1909)に呉羽山に登られた。

珍しい漢詩の御製

登呉羽山
雨後風無秋気温 (雨後に風無くして秋気温かく)
呉羽峻阪留履痕 (呉羽峻阪にして履痕を留む)
維昔秀吉進征旆 (維れより昔秀吉進みて旆を征し)
敵将力窮降軍門 (敵将力窮まりて軍門に降る)
吾来此地見形勢 (吾此地に来りて形勢を見れば)
中越全景眼中存 (中越の全景眼中に存り)
立岳衝空向東聳 (立岳空を衝き東に向かいて聳え)
神通水漲指北奔 (神通水漲り北を指して奔る)
兵営一路連城中 (兵営一路城中に連なり)
海湾直接罷亞原 (海湾直に罷亞原に接す)
眺望如此難多得 (眺望かくの如く多く得ること難からん)
真是北国好公園 (真に是れ北国の好き公園なり)


陸軍省境界杭(陸軍省境界標石)

境内の一画に、陸軍の境界標石(境界石・境界杭)がまとめられている。

片側には「陸軍省」、もう片側には「疆界」

「疆界」の境界は珍しい、あまり見かけない。

上から

奉納砲弾も残る

富山縣護國神社
静謐な凛とした神域を保たれた良きおやしろでした。
ありがとうございます。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策2 へ


関連

納豆売りから海軍軍令部次長へ「刻苦勉励の篤志家・斎藤七五郎海軍中将」(仙台市若林区荒町)

仙台でちょっとした時間ができたので、仙台駅周辺で戦争関係の史跡を調べていたときに「斎藤七五郎記念元気広場(海軍中将斎藤七五郎生誕地)」という文字列を発見。
これは?と目に止まり、調べてみました。こうして、知らなかった人物のことを調べるのは、知的好奇心が刺激されて楽しいですね。

以下、斎藤七五郎に関係する史跡に足を運んでみた記録。


斎藤七五郎

斎藤 七五郎(1870年1月13日[1](明治2年12月12日[2]) – 1926年(大正15年)7月23日)
海兵20期恩賜、海大4期首席。最終階級は海軍中将。

仙台荒町の麹屋の家に生まれる。生家は貧しく納豆売りなどをして家計を助けた。海軍兵学校に20期として入学。
1893年(明治26年)12月卒業。卒業順位3位で恩賜品を拝受。
少尉候補生として「扶桑」に乗り組み日清戦争に従事。

1896年(明治29年)、一等戦艦「富士」廻航委員としてイギリス出張。ロンドンでは、南方熊楠と意気投合し大英博物館を一緒に訪れている。
海軍大尉に進級し、「豊橋」分隊長、「金剛」砲術長、「鳥海」航海長、「千代田」航海長、呉鎮守府副官を歴任。

1902年(明治35年)、海軍大学校将校科甲種学生(4期)。このときの海軍大学校戦術教官が秋山真之。秋山真之が教官としてはじめて教えた生徒の一人が斎藤七五郎であり、日露戦争の参謀として先輩後輩の仲となる。

1904年(明治37年)、日露戦争に際して、海軍大学校を退校し第一艦隊参謀、連合艦隊参謀。
連合艦隊先任参謀の有馬良橘中佐を中心とした旅順港封鎖作戦の策定に参加し、第1回閉塞作戦では「仁川丸」、第2回閉塞作戦では「弥彦丸」の指揮官として参加し勇名を馳せる。のちに旅順海戦の状況や戦況報告を 明治天皇の御前注進(直接の報告)申した。

日露戦争の終結後、1905年(明治38年)12月に海軍大学校に復学、1906年7月に首席で卒業し、第一艦隊参謀、練習艦隊参謀、出雲航海長、軍令部参謀、参謀本部部員を歴任し、1908年(明治41年)に海軍中佐進級。
1910年(明治43年)2月からアメリカ駐在、翌年にイギリス駐在。
1911年(明治44年)12月、敷島副長、翌1912年(大正元年)12月に海軍大学校教官、1913年(大正2年)12月、海軍大佐に進級。

その後、海軍省人事局員、人事局第1課長、人事局第2課長、八雲艦長、第三艦隊参謀長を歴任し、1918年(大正11年)12月、海軍少将に進級し、呉鎮守府参謀長に就任。

1920年(大正9年)12月、軍令部第1班長、1922年(大正11年)12月、海軍中将に進級すると同時に第5戦隊司令官に就任。

1923年(大正12年)6月、練習艦隊司令官。斎藤七五郎が練習艦隊司令官であった際の練習艦「磐手」艦長が米内光政であった。

翌24年に軍令部次長に就任するも、胃癌を発症し、1926年(大正15年)7月、軍令部次長在職のまま、満56歳で死去。

仙台市若林区荒町の生家の敷地は、斎藤七五郎の遺言により、1934年(昭和9年)に仙台市に寄付。生家跡は「斎藤記念館」となった。
戦後は公共施設用地となり、2010年までは荒町市民センターが所在。荒町市民センターが移転後に「斎藤七五郎記念 元気広場」として整備され、斎藤七五郎顕彰碑が現存している。
斎藤七五郎の遺品(練習艦隊司令官として遠洋航海を指揮した際の土産物など)は、荒町市民センターに展示されている。


齋藤七五郎記念 元気広場

齋藤七五郎記念 
元気広場
本広場は、齋藤七五郎氏の遺言”生家・私邸の一切を仙台市に寄付し、子弟の教育と社会の薫化の一端を資して欲しい”に依るものである。
 平成23年 元気広場 協議会

齊藤七五郎頌德碑(石碑転記)
至誠 海軍大将正三位勲一等功三級 有馬良橘 題額
齋藤記念館記
大正十五年七月二十三日
 海軍々令部次長 海軍中将正四位勲一等功四級 齋藤公溘焉として易簀す。嗚呼惜しい哉
 公、諱は七五郎、明治二年(一八六九年)十二月十二日
 仙臺荒町の自邸に生まる。人と為り誠實勤勉、幼くして學を好む。其の家太富ならず。苦学力行以って家計を資く。人皆其の至性に感ずと云う。年甫弱冠、奮然として志を立て、海軍兵學校に入る。刻苦精励、優等にて卒業、特に双眼鏡を賜り、海軍少尉に任ぜられる。
 明治三十七年日露戰役の興るや海軍大尉を以って従軍す。東卿聯合艦隊司今長官幕僚と為り、旅順口閉塞之事を進策す。擢られて仁川丸及び弥彦丸の指揮官と為り、奮聞して功有り。当時広瀬海軍中佐と並び称される。功を以って功四級に叙せられ、全鶏勲章を賜る。尋いで海軍少佐に進み海軍大學校教官に補さる。海軍中将に累進し大正十二年六月練習艦隊司令長官と為る。十三年四月抜擺されて海軍々令部次長に補さる。世學げて以って榮と為す。超すこと二年不幸にして病を獲て起ず。享壽五十有八。朝野歎惜せざるは莫し。
 公、人格崇高、独力修養、誘掖を好まざれども、後進を諄々と教悔して終始渝らず。郷党の子弟之が為に立身し、名を為す者一にして足らず。公、幼き時荒町小學挾に學び、始めて讀書と習字とを知る。徳の深きに因って常に母抜の為に盡力す。前後金品を寄与するに枚挙に違あらず。其の卒する数日前、特に親友 鈴木重兵衛君を枕頭に延き、慇懃に遺嘱して曰く、
 余の生家は母校と隣接して日タ就學す。
 余の今日有るは即ち母校の賜なり。
 乃って生家邸宅の一切を仙臺市に寄附し、
 聊か子弟の教育、社会薰化の一端に資せんと欲す。
 幸いにして之の利用を得れば則ち余の望足れり。
 君余の為に之を謀らんことを願う。
鈴木君感奮し泣きて焉を諾す。公の嗣子富士郎君、克く其の遺志を体して更に請うところあり。未亡人静子も亦、具状して公の意を懇陳す。
 仙臺市長渋谷君感激惜かず。昭和九年三月具案して諸を市会に咨り、満場一致採納を可決す。是に於て邸宅利用の議起り、遂に齋藤記念館建設後援會組織さる。広く義金を募りしに、四方饗應、忽にして數千金を得たり。市会も亦其の學に賛し相議して市費を支出し以って之を大成せしむ。及ち材を鳩め匠を戒え昭和十二年四月起工、同年七月竣成す。
 館、輪奐の美 無しと雖も、堂宇は宏荘にして、建築は素撲、數百人を容るるに足る。洵に文式両道修養の一大道場たるに愧じず。亦以って公の遺志に副うものと謂ふべし。項者有志 胥に謀りて記念館碑を建て、以って公の遺徳を頌えんと終し、余をして其の事を記せしむ。余公と素故あり。敢て記するを辞さず。其の梗概、若夫、公の進退、行動其の偉人為る所以は、別に傳記有りて之を存す。故に之を贅せずと云。
 昭和十二年九月
  仙臺
   処士篁洲 今泉 彪 謹撰
   正六位勲六等 四寵 仁通 書

齋藤七五郎 記念広場 概要
所在地 仙台市若林区荒町97番地
面積 約500平方メートル
付属施設 齋藤記念館記(石碑)·薫化の園(花壇)

沿革
1934年 仙台市へ寄付(板碑本文参照)
1937年 齋藤記念館 完成
1973年まで 仙台市役所 荒町出張所
1973年 荒町市民福祉会館として改称、改築
1983年 荒町市民センターと改称
2010年 移転改築のため 現状となる
2011年 元気広場(愛称)と命名

至誠

海軍大将有馬良橘の題額。
有馬良橘は、日露戦争の連合艦隊先任参謀であり、旅順閉塞作戦では、斎藤七五郎とともあった。

董化の園
「薫化の園」命名の由来 齊藤七五郎さんが残した次の遺言に拠る。
“生家及び邸宅の一切を仙台市に寄付し、子弟の教育、社会の薫化に資して欲しい“に拠るものです。此の言葉の中から二文字を頂きました。

整えられた花壇。

地元の荒町商店街でも、「斎藤七五郎さんを知ろう」のイベントがあったようです。

https://www.aramachi.info/shichigoro_2024

隣には、荒町小学校。仙台の「一番小学校」

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZJrAWEU2G3x73viV6


斎藤七五郎記念室(仙台市荒町市民センター)

仙台市荒町市民センターの中に「娯楽室兼記念室」という部屋がある。
記念室とは、すなわち斎藤七五郎の記念室。
仙台市荒町市民センターに許可を得て、記念室を見学をさせていただきました。

娯楽室兼記念室

刻苦勉励の人
齋藤 七五郎

 粉雪が降る寒い2月の朝荒町のまち。
「なっとう なっとう」
 みの笠をかぶって小走りに通り過ぎる少年。
「だれだと思ったら、斉藤糀屋の七さんでねがや」
「そうだ、こんなに降っているのに感心だなや」
「七兵衛さんは本当にしあわせだなや」
「成績もうんといいどしゃ。朝早くから手伝いはやるしね。」
 こんな会話が荒町のまちかどで交わされました。少年は七五郎といって斎藤屋の子供でした。明治13年頃は糀の売れ行きが悪く、生活が逼迫して、七五郎少年も家計を手伝わざるを得ませんでした。年譜によれば「この頃より行商して家計を助ける(11歳)」とあります。
 二高生の時、2円50銭の授業料が払えず中途退学し、長町小学校の代用教員になりました。しかし、青雲の志やみがたく上京して(明治21年)、夜学にも通いました。翌22年、念願の海軍兵学校に合格しました。
 兵学校の生活は厳しいものでした。七五郎は人一倍努力して、心身を鍛えました。当時の日記の中に次のような文章があります。
 日記は何のために作る。身を省み行を改め気質を変化し、以て
 我が到らんと欲する人にならんがためにあらずや…。

七五郎は4年の苦闘が報われて、3番の成績で卒業しました。
 明治37年日露戦争が始まり、七五郎大尉は旅順口閉塞作戦で戦果をあげました。

  一日も早く平和になれかしと
  捧ぐるいのち聞 し召せ神

平和のために自分の命を捧げる、なんと崇高な精神でありましょうか。その後七五郎は、艦隊司令官などを歴任し軍令部次長に栄転しました。大正15年、七五郎は疲労が重なったのか志なかばにして倒れ、58歳で帰らぬ人となりました。中将七五郎の死は海軍はもとより仙台市民からも惜しまれました。次に紹介するのは詩人土井晩翠の弔辞の一部です。

  納豆売りし いたいけな子は遂に占めぬ
  海軍軍令部次長の椅子を
  旅順口再び鰐の口わけて
  命をかけし君にやあらぬ

 七五郎は刻苦勉励の人でした。納豆売り、高校中退、代用教員、上京し夜学にも通いました。海軍に身を投じて旅順口海戦で活躍、中将までのぼりつめました。高級軍人には旧士族出身が多くを占めた当時としては異例の出世でした。七五郎の努力には血のにじむものがありました。

自ら定めた〈家訓10則>の一部を紹介します。

 一つ 太陽とともに起き、夜9時と10時の間にねる
 二つ 酒色は遠ざける。
 三つ 禁煙。
 四つ わが身を自分のものと思うな。

 強靱な精神力をもつ一方で郷土への愛情も深く、軍人となっても度々故郷仙台に帰ってきました。母校などでの講演を重ね、父母の墓参も欠かしませんでした。

 斎藤七五郎中将は明治2年12月12日斎藤屋の七番目の子として荒町(現荒町市民センター所在地)に生まれました。

   ~あらうんどあらまち 荒町界限物語~より抜粋

斎藤七五郎の写真

斎藤七五郎の肖像画と写真

仙台・荒町出身
斎藤中将 輝き戻った
「郷土の先人 姿見て」

仙台の洋画家、小山喜三郎さんが、斎藤七五郎海軍中将の肖像画を2009年12月に修復。(写真上左のカラー肖像画)

齋藤七五郎の歌
昭和二年四月 文部省認可 唱歌
 我が郷土荒町地区には 此の詩にあるような 偉大な人物がありました。齋藤 七五郎と云います。彼の死を悼み その一生を詩に託し 霊前に弔詩として捧げたのが 友人だった土井 林吉 後の 土井晩翠である。詩の内容が立派だったので当時の文部省(現文化省)は 此れを“斉藤七五郎の歌”として 児童生徒に 教えることを 認可しました。昭和2年1927年のことです。
 しかし不幸にして太平洋戦争終結後は 時流に合わないと次第に 歌われ無くなり いつの間にか 楽譜まで逸散してしまいました。八方手を尽くして関係者に当たってみたけれど遂に見つからず 此の儘では 偉大な先輩の遺業も 地域から忘れられ 終いには 歴史からも消えて無くなるのではないだろうかと さえ 思われるようになってしまいました。
 そこで昭和初期と云う数奇な歴史の舞台に立って居た荒町小学校同窓生(昭和20年まで唱歌として 愛唱した人達)が自分たちが元気な中に あの詩と楽譜を揃えて復元し 後世に残そうではないか と 衆議一決しました。
 或る者は 忘れかけていた メロデーを思いだしながら歌い、地域の有志はそれを楽譜に書き起こして下さるなど 夫々の分野を 持ち合うことで 漸く発掘の態勢が出来上がりました。2014年 年頭のことでした。
 ところが 如何なる天の配剤か 此の活動の最中に 七五郎公の孫に当る 齋藤 幸子様が偶々 別の御用で 市民センターに 御挨拶に お見えになりました。担当の職員が 唱歌復元の話を 申しあげましたところ 即座に 御協力を 快諾下さいました。それから 数日後 皆が 夢にまで見ていた 弔詩と楽譜が贈られて参りました。此の歌に関しては 現存する最初の 唱歌教材では 無いかと思われます。これで復元活動の総てが完結しました。真に 佛の導きとも 思われる 有難い事でした。
 復元を誓い合った 彼らは 活動の趣旨を次のように 締め括っている。
これから先 歴史がながれ 200年、300年 否それ以上 経った時 誰かが 何かの理由で 郷土史の研究をする機会に 此の詩と楽譜を必要とすることがあるだろう。其の日の為に 改めて 復元して後世に残すものである。郷土の歴史を明かす ーコマとなれば 望外の
喜びである。
 証し として 一紙を添える
  平成26年(2014)7月23日
  荒町第二豊齢社交クラブ 会長 庄司 博

齋藤中将の歌
 作詞 土井林吉 後の土井晩翠
 作曲 梁田貞 他に「どんぐりころころ」等


青葉の麓 廣瀬川 清らぎ咽ぶ 岸近く
 生まれを享けし 運命の 奇なりし君を 今思ふ

五十餘年の 古に 中将 齋藤七五郎
 貧しく生れ いたいけの 子は朝夕の なっと賣り

立志の模範 金鐵の 堅きは心 山と積む
 辛苦を凌ぎ 勝ち得たり 海軍軍令部 次長の職

日露の役よ 旅順港 雨と飛び来る弾丸の
 下に再び その港 封ぜし中の 花なりき

南極星を 仰ぎ見る おほ海神に 練習の
 艦隊率ゐ 藍の波 分けしも昔 今は夢

雲散り風吹き水流る 變転無窮の 世の姿
 中に留まり 揺るぎなく 大いなるもの 誠あり

誠一つに 國のため 尽くしし址の 芳しき
 中将 齋藤七五郎 静かに眠る 五城楼

  (荒町尋常小学校 昭和2年12月2日 文部省認可)

荒町が生んだ 誠の人 斎藤七五郎

齋藤記念館について
故齋藤七五郎氏の遺志により、昭和九年三月
当地にあった生家を市に寄贈され、市はその遺
志を永く記念するため昭和一二年七月齋藤記念
館を建設しました。

木造瓦葺二階建 延床面積 三八0·九五㎡
一階 出張所、マザースホーム、管理人室
   延床面積 二四七·〇七㎡
二階 集会所、会議室
   延床面積一三三·八八㎡
その後、昭和四八年五月に荒町市民福祉会館
として全面改築され、昭和五八年四月に名称が
荒町市民センターと変更されて現在に至ってお
ります。

※齋藤七五郎氏
 一八六九年(明治二年)
   ~ 一九二六年(大正一五年)
海軍中将、仙台市荒町生まれ
麹商糀屋齋藤七兵衛氏の第七子

荒町の齋藤家

大正12年の正月の書。

斎藤七五郎書

斎藤七五郎と、仙台の第二師団長に着任した井上一次との往来書簡

大正11年の「第五戦隊司令官」時代の書簡か?
名取に将旗を掲げた、云々。

八雲
斎藤七五郎が練習艦隊司令官として乗艦した艦。

斎藤七五郎の遺品。
練習艦隊司令官として遠洋航海を指揮した際の土産物(椰子の実の加工品など)が残されている。
幼少時にお世話になった荒町小学校の子供たちに見せたいと珍しいものを土産物として寄贈した。

記念室

場所

https://maps.app.goo.gl/TNCq1sGneKEo3iEv7


斎藤七五郎墓(昌傳庵)

故海軍中将 正四位勲一等功四級 斎藤七五郎墓

大正十五年七月二十三日
 行年五十八

篤屋院殿忠純至道居士

「詳しくはこちらへ」のQRコードはリンクが切れてました。
木板に記された文字はかすれており、全文の判別が不可能でした。

墓苑の端に寄せられていた。
斎藤七五郎の墓にたどり着くまで、境内には特に案内板などもなく、探し出すのにしょうしょう時間を要した。

奕葉山 昌傳庵(昌伝庵)
曹洞宗

場所:

https://maps.app.goo.gl/GjxiCoAoPQDX5un89

※撮影:2026年6月


仙台関連

はじめに

「蕨空襲」埼玉県下で2番目の空襲被害を受けた街

埼玉県蕨市。日本で一番面積の小さい「市」でも有名。ちなみに市区町村では8番目。また、市町村を五十音順で並べると、一番最後になる市町村でもある。

そんな蕨市(当時は蕨町)は、埼玉県下で熊谷に次ぐ二番目の空襲被害のあった街でもあった。


蕨空襲

昭和20年、3度の空襲見舞われた蕨市。
当時、蕨には軍事工場が複数あり、工場労働者が住む住宅密集地帯もあったことなどから、標的になったといわれている。

1回目は、昭和20年4月12日、昼過ぎ。東京を襲ったB29爆撃機とP51戦闘機部隊のうち8機が蕨上空に襲来。16発の1トン爆弾が投下され、死者36名、16戸の家が全壊。
2回目は、翌日の4月13日午後8時過ぎから14日未明まで、10機ほどの編隊が無数の焼夷弾が投下、蕨の街は火の海となり、死者12人、362戸が焼失。
そして、3回目は、昭和20年5月25日午後10時頃に焼夷弾が投下され、死者2名、3戸が焼失。

蕨市を襲った3度の空襲により、死者は50名、家屋の焼失や全壊・半壊などは400戸に上った。
これは、埼玉県では、熊谷に次ぐ、大きな空襲被害であった。

なお、終戦時の蕨の世帯数は5885世帯。人口は25,279人。空襲被害割合は世帯・人口共に約7パーセントに及び、被害の多さがわかる。

広報・蕨(2010年8月)

https://www.city.warabi.saitama.jp/res/projects/default_project/_page/001/003/101/2208kouho.pdf

広報・蕨(2015年8月)

https://www.city.warabi.saitama.jp/res/projects/default_project/_page/001/003/096/27-08honsi-.pdf

蕨市>平和行政

https://www.city.warabi.saitama.jp/shisei/danjo/heiwa/1002996.html

なお、蕨駅西口にあった日本車輌製造・蕨工場(12万5400平方メートル)は、爆撃を受けなかった。それは、同工場に米軍捕虜が収容され、工場労働者として使役されていたから、米軍の空襲対象からは外されていたから、という。
戦後、日本車輌製造・蕨工場では新幹線の試作車や、世界初の新幹線である量産車0系が製造され、「新幹線電車発祥の地」となっている。(現在の川口芝園団地)


平和祈念碑「平和を愛して」

春日公園は、1回目の蕨空襲のあった付近。

戦後50年・平和都市宣言10周年の平成7年、春日公園に「平和祈念碑」を設置された。
彫刻は、田中毅氏。宮崎県出身で埼玉県在住の彫刻家。

平和を愛して
 製作・田中毅

平和への願い
 蔵市は、昭和60年9月9日「平和都市」と宣言し世界の恒久平和を願い、核兵器の廃絶を強く訴えている。
 この地は、第二次世界大戦中の昭和20年4月12日と13日、そして5月25日の3日間空襲と受け、爆弾と焼夷弾などにより多くの尊い生命が犠牲となつた。県下でも熊谷市につぐ大きな被害であった。
 本年は終戦から50年、歴史の大きな節目の年にあたる。この地に、市民の総意を込めて、平和のモニュメントを建立し、戦争という過ちを二度と繰り返すことなく、平和を守る決意を新たにする。
  平成7年8月15日 蕨 市

地球儀は回転する。

蕨市春日公園

春日神社と蕨市公園が同一敷地に。

場所

https://maps.app.goo.gl/c7A4euJwJjPenyz29


平和之母子像

昭和63年、蕨市民公園に設置。
彫刻家・岩田健氏(埼玉県川口市出身)

平和之母子像

蕨市平和都市宣言
 昭和20年8月、広島、長崎に人類初の原子爆弾が投下され、早くも40年の歳月が流れました。
 その間、唯―の被爆国である我が国は、恒久平和を崇高な理念として憲法に掲げ、自由と正義を愛し、世界平和に寄与してきました。
 しかるに今、世界の超大国を中心とした核保有国が競って核軍備拡充を図っていることは、まことに脅威であり、この核軍拡競争に対して、世界のいたるところで、平和希求の叫びがとみに高まりつつあります。
 このような国際情勢の中で、戦争は人間が起こすものであり、また人間の力によってこれを防ぐことができることをしっかりと心に刻み、平和で豊かな社会を次の世代に引き継いでいくことが、現代に生きる我々の責務であると考えます。
 私たち蕨市民は、平和憲法の精神を守る立場から、非核三原則が厳守されることを強く希望し、世界のあらゆる国の核兵器の速やかな廃絶を願うものであります。
 蕨市は、市民の平和を願う心を結集し、ここに「平和都市」であることを宣言いたします。
  昭和60年9月9日 蕨市

平和之母子像建立
 私たち蕨市民は、いつの時代でも平和の中で、家族みんなが健康で、母と子が地域社会の愛情に支えられて、温かい家庭生活を送れることが、何よりも幸せであると考えています。
 しかし、この世にあの恐ろしい核兵器が存在する限り7万の市民が等しく希う真の平和はむなしいものとなっています。そこで、蕨市は昭和60年9月、敗戦40周年を記念して、この美しい地球から核兵器といたましい戦争をなくし、すべての生命が平和の中で育まれていくことを願い、平和都市を宣言しました。
 私たちは、この宣言によって戦争の恐ろしさを、後世に伝えていかなければならない責務と平和への思いをあらたにしたのであります。
 このたび、平和の砦を築きあげるために建立した平和之母子像は、彫刻家岩田健氏の手によって刻まれたもので、戦争を知らない世代にこれらのことを語り継ぎ、地球より重い命を守っていくことを、ここに誓ったのであります。
  昭和63年4月3日 蕨市長 田中啓一

蕨市民公園に。

場所

https://maps.app.goo.gl/BFFWk8ubWk3PSJaCA

※撮影:2026年6月


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「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」と戸塚球場跡地(早稲田大学)

現在の早稲田大学総合学術情報センター。
この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、そして昭和18年に出陣学徒壮行早慶戦「最後の早慶戦」が行われた場所でもあった。出陣前、最後に球児たちはこの地で野球を楽しみ、そして出征学徒として戦地に赴いた、そんな戦跡としても由縁のある場所。
近くに立ち寄ったので、足を運んでみました。


日本野球黎明期の戸塚球場(安部球場)

明治35年(1902年)に早稲田大学が設置した球場。
日本で初めて照明を設置し、ナイターが行われた球場でもある。
昭和62年(1987)に閉鎖し、球場は現存していない。
現在は、早稲田大学総合学術情報センターとして、中央図書館や国際会議場などが設置されている。

早稲田大学では、明治34年(1901)に、野球部が設立され、翌年の明治35年に「戸塚球場」が開設した。初代野球部長・安部磯雄が、早稲田大学創設者・大隈重信を説得しての開設であった。
当時は、本格的な野球場は少なく、またプロ野球も存在していない時代であり、大学野球が、日本の野球の中心であり、早稲田大学の戸塚球場と、慶應義塾大学の三田綱町球場が東京を代表する野球場であった。

戸塚球場では、日本初の出来事が、「4つ」ある。

明治41年(1908年)
米国大リーグ選抜チームと早稲田大学が対戦。
大隈重信が日本野球史上初となる「始球式」を実施。

昭和6年(1931年)
早大理工学部の山本忠興博士の労により日本初のテレビジョン放送の実験が、球場と早稲田大学電気実験室との間で実施。

昭和8年(1933年)
日本で初めて野球場に照明設備を設置日本初のナイターが行われた。

昭和11年(1936年)
日本初のNHKラジオのプロ野球実況中継放送を実施。

昭和16年(1941年)4月、戦時色が強まる中で、戸塚球場を戸塚道場と改称。
昭和18年(1943年)6月、鉄製スタンドと照明塔を撤去。
昭和18年10月16日、「出陣学徒壮行早慶戦」が開催。これが第二次世界大戦期間におけるアマチュア野球最後の試合「最後の早慶戦」であった。

 ここにかつて野球場があった。第二次世界大戦前は戸塚球場と呼ばれ、戦後は安部球場と称されて早稲田の歴史を共に歩み、全早稲田人に親しまれてきたグランドである。
 早稲田大学に野球部が創設されたのは明治三十四年であったが、翌三十五年七月、初代野球部部長安部磯雄先生の御努力により、この地に野球場が誕生した。まだ黎明期にあった日本の野球は、明治三十六年に始まった早慶戦によって本格化し、大正十四年の東京六大学野球の発足後は、文字どおり国民的スポーツにまで高められた、その対象十四年には三万人を収容する大スタンドも造られたのである。
 大正十五年秋、明治神宮球場が完成し、東京六大学野球はその主舞台をしだいに神宮球場へ移していった。しかし、戸塚球場は学生野球の重要な舞台として、全国の注目を浴び続けた、昭和八年には全国に先駆けて夜間照明設備も完成した。
 野球のグランドとしてだけではなく、戸塚球場は全学運動会や大学創立五十周年記念祝賀会などの重要な学校行事が行われた場所であり、そして昭和十八年に学徒出陣壮行会という歴史的行事が催されたのもこの場所であった。とくに同年秋に行われた、いわゆる「最後の早慶戦」を忘れることは出来ない。この球場で、これを最後と熱戦をくりひろげた選手の多くが、戦場に散って再び帰らなかったのである。
 昭和二十四年、早稲田の野球の生みの親ともいうべき安部磯雄先生が世を去られ、大学は先生を偲んでこのグランドを安部球場と改称することとした。その名は、戦後早稲田に学んだ三十数万人の学生諸君の胸裡に刻まれて今日に至っている。
 それから時の流れること四十年、都会の膨張と学術の発展は、この地を野球場として用い続けることを困難とする状況をつくり出した。大学では、創立百周年記念事業の主柱である総合学術情報センターの建設を、この地に予定することとなったのである。幾多の部員諸君の血と涙と汗のしみこんだ思い出深い球場を、母校の学術発展のため明け渡すことを了承して下さった野球部の先輩諸兄に対し、心から感謝せずにいられない。この総合学術情報センターを訪れる方々は、どうかこの地に大学ゆかりの球場があったということを想起すると共に、先輩の方々の万感のこもる決断に思いを致して頂きたい。
 昭和六十二年、野球部の練習場は東伏見に移転したが、「安部球場」は安部磯雄先生の胸像と共に、今もここにある。
 1990年(平成2年)10月
  早稲田大学第十二代総長 西原春夫

早慶戦百周年記念碑
早稲田大学野球部の挑戦状を以って始まった早慶戦の第三回戦が1904年10月30日当地にて挙行された。

2つの銅像がある。
早稲田大学初代野球部長・安部磯雄氏と、初代監督・飛田穂洲氏の胸像。


安部磯雄胸像

野球道具をデザインしたレリーフ。

母校前野球部長安部磯雄君ガ明治三十四年同部創設以来二十有五年ノ久シキニ亘リ夙夜同部ノ発達ト崇高ナル運動精神ノ鼓吹ニ務メラレ獨リ同部ノミナラズ汎ク我國運動界今日ノ盛運ヲ見ルニ興テ大ニ力アリタル其功労ヲ感謝シ記念スルタメ之ヲ建ツ依テ茲ニ之ヲ刻ス
 昭和二年九月
 早稲田大学校友會内
  安部前野球部長記念會


飛田穂洲胸像

飛田穂洲氏 (本名は飛田忠順)
早大野球部初代監督として大学野球の選手に大きな影響を与えた。
「学生野球の父」と呼ばれてこの功績を称え1960年に野球殿堂特別表彰。

飛田穂洲先生像

 飛田先生名は忠順 穂洲の号をもつて広く世人に親しまれた
 明治十九年水戸市郊外に生まれ 水戸中学 早稲田大学時代はもとより その一生を学生野球道ひとすじに生き抜いてきた 水戸武士の精神に徹した先生は 安部磯雄先生の訓陶によつて日本学生野球のあるべき道を悟り これを実践するとともに 操觚界に人となるや独得の健筆をふるつてひたすら若い球児の啓発指導に努めた
 人となり快淡無私 最も酒を愛し銃猟を趣味とした 昭和四十年一月二十六日七十八才の質素な生涯をとじた
  昭和四十一年六月
   財団法人日本学生野球協会
    会長武田孟

早稲田大学総合学術情報センター

早稲田大学の中央図書館と国際会議場がある。

グランドは無くなっても、通りの名は「グランド坂通り」のまま。

撮影:2026年3月


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弾丸除地蔵尊・観音寺(横須賀追浜)

横須賀の追浜地区。
横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。
その地に鎮座する古寺に、弾丸除地蔵尊が建立されていたので、足を運んでみた。


弾除け信仰

戦時中、夫や息子・兄弟の出征に際して、家族が無事の帰還を願って、戦場で弾丸に当たらないように、「弾除け」を観音さまや御札、千人針などに祈願の気持ちを込めたのは、自然の摂理ではあった。


観音寺(追浜東町)

三浦三十三観音第二十二番札所。
「坂中山 観音寺」
戦国時代の相模の朝倉氏(北条綱成公の母の実家の朝倉家)の城跡。
貞享4年(1687年)の開創という。
「浦郷八景」として詠まれた絶景の地に鎮座。
現在は、追浜の良心寺が管理を行っている。

浦郷八景:
夏島秋月、勝力(岬)帰帆、箱崎夜雨、吾妻(山)晴嵐、州口落雁、榎戸夕照、亀島暮雪、独園(寺)晩鐘


弾丸除地蔵尊

観音寺の本堂脇に、鎮座する観音さま。
像高50センチほどの小さな地蔵尊であるが、戦地に赴く人々の無事の祈願が、切実に重く込められた地蔵様。

弾丸除地蔵尊

昭和12年秋

昭和12年(1937年)の秋は、7月の盧溝橋事件に続く日中戦争の拡大期にあたり、日本が戦時体制へ急速に転換した時期。
9月には「支那事変」と呼称が決定され、国民精神総動員運動が始動、メディアや生活の統制が強化された、そんな時期に建立された地蔵尊。

右手に「弾丸」を抱えている地蔵尊。

観音寺の本堂

三浦廿二番坂中観音

観音寺の高台から、日産追浜工場と夏島、住友重機械工業・横須賀製造所などを垣間見る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/XnKhB2BkpQspFaMU7


筒井隧道

観音寺の下にあるトンネル。近くなので、あわせて掲載。
横須賀、追浜はとにかくトンネルの多い街。

明治38年(1905年)、交通が不便だった地域の住民たちが自ら団結して切り開いた、谷戸の奥と生活拠点を結ぶトンネルが筒井隧道。
素掘りで竣工し、海軍航空技術廠(海軍工廠)への通勤者増加に伴い、昭和8年(1933年)に、出入口を緩やかな登りにするため路面を切り下げる改修が行われた。
上下の高さがひときわある「筒井隧道」は、元々出入り口が急坂で勾配を緩やかにするために、底を掘り下げる工事を行ったトンネル。

階段の高低差で、もともとの高さ。底を掘り下げる工事の名残をみることができる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/DxBqrUR7sGSTbSdP6

※撮影:2026年5月


関連

「拓殖招魂社と拓殖大学」戦跡散策(八王子)

拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。
そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦跡があるというので、足を運んでみた。


拓殖大学

拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された「台湾協会学校」を起源とする。
1907年に「東洋協会専門学校」、1915年(大正4年)に「東洋協会植民専門学校」、1918年に「拓殖大学」と改称。1922年に「東洋協会大学」とするも、1926年に再び「拓殖大学」と呼称。
戦前は、植民地経営のための人材を多く輩出した。
また、太平洋戦争では、1263人の学徒が出陣をしている。
空襲で、文京キャンパス(茗荷谷)の恩賜記念講堂などを焼失。
終戦後、1946年(昭和21年)に「紅陵大学」と改称するが、連合国軍占領統治終了後に旧称の「拓殖大学」に戻し、現在に至る。
初代総長は、桂太郎。後藤新平、宇垣一成、下村宏、そして中曾根康弘などが総長を務めている。


恩賜記念館

1912年に明治天皇から下賜された資金をもとに、1914年に文京キャンパスに建設された「恩賜記念講堂」を、創立100周年記念事業として2000年に八王子キャンパスへ復元・移築した建物。
歴史資料室もあるというが、訪れた際は、残念ながら閉館していたので、もしかしたら、再訪かも。

恩賜記念館
 明治45年4月23日 明治天皇から御下賜された恩賜金により、大正3年3月に建設された恩賜記念講堂を、創立百周年を記念して、平成12年に恩賜記念館として復元したものです。
 内部には、記念講堂をはじめ、本学の歴史的な資料を展示する歴史資料室、マルチメディア閲覧室及び会議室があります。
 なお、正面の桂太郎公の銅像及び館銘板は、当時の恩賜記念講堂のものです。

恩賜記念館

恩賜記念館の扁額。
恩賜記念講堂当時のもの。
昭和40年新校舎建築のため取り壊された際、半分に割れて廃棄されたものを回収したもの、という。

桂太郎銅像

桂太郎
内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。
日露戦争時の内閣総理大臣。
西園寺公望(第12代、14代)と交互に総理を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。
軍人としての階級は陸軍大将。
栄典は、従一位大勲位功三級公爵。
通算首相在職日数は、2,886日(2023年4月現在、安倍晋三に次ぐ歴代2位)。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に病没した。

創立者 桂 太郎 先生銅像
 拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者で、初代校長をつとめた公爵桂太郎先生(一八四七~一九一三年)の銅像である。
 桂太郎公は弘化四年山口県萩に生まれる。
 長州藩士として幕末緒戦に参加、維新後、ベルリンに留学、プロシアの兵制を学ぶ。山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、陸軍大将に累進した。
 第二代台湾総督、陸相の後、明治三十四年初めて組閣の大命を拝し、第一次桂内閣首相として翌年日英同盟を締結、さらに同三十七年、日露戦争勃発するや挙国一致これに対処してよく戦勝に導き、しかも戦争の終結を深謀、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は史上に著しい。
 明治三十三年(一九〇〇年)、台湾協会会頭として台湾協会学校を創立して初代校長に就任、以後十二年間にわたり本学の基礎をつくった。また医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医療の発展に貢献した。
 大正二年 (一九一三年) 十月十日急逝。享年六十七歳。
 この銅像は大正三年六月に完成したもので、設計·鋳造は武石弘三郎氏の作である。
  平成十二年四月

桂太郎銅像は、文京キャンパスと、八王子国際キャンパス、そして山口県萩市の桂太郎旧宅にある。

恩賜金の下賜を伝えた明治天皇の御沙汰書を、桂太郎先生が、教職員・学生に奉読している姿。


拓殖招魂社

拓殖大学には、学内神社として招魂社がある。
戦前期に茗荷谷学舎において創建。第二次世界大戦後に撤去された際、神社の扁額が学生によって持ち出される。1976年に総長室に扁額を奉安。1980年に八王子国際キャンパスに社殿を創建。
戦没した御英霊を祀っていることから、「拓殖大学の護国神社」の性質を持っている。

拓殖招魂社
拓殖招魂社由来の記
拓殖招魂社は、昭和8(1933)年4月、学生有志の発願により茗荷谷校地(現在の文京キャンパス)に建立された。これより先、昭和6(1931)年4月に碑(「烈士脇光三碑」)が建てられた脇光三他5名の日露戦争戦没者をはじめとして、満洲開発の途上で、支那事変の従軍通訳として、また先の大戦等において国難に殉じた拓殖大学出身者の英霊を祭っている。終戦後、GHQのいわゆる「神道指令」によりやむなく焼却されたが、昭和51(1976)年10月、一学友によって九州に奉遷されていた神額が返還され、昭和55(1980)年10月23日、「拓殖大学の精神的原点」を象徴するものとして、学校、学友、学生三者の協力により現在の場所に再建された。令和5(2023)年に新たに一柱を加え、440柱を合祀。
毎年春季秋季の2回、例祭を執り行っている。

拓殖招魂社由緒
拓殖招魂社は、拓殖大学建学理念の具現化であり、精神的原点の象徴である。
ここに祀るは究極的には、その理念であり、その理念に身を以て殉どれた尊い御霊である。即ちここに 、建学の理念を体し日本国家民族の護持に挺身し、亜細亜恢復の大義に殉じ、以て世界の調和進展の礎石となられた脇光三先輩を初めとする本学関係者の尊き御霊を紀り奉つる。
 個を超えて日本、亜細亜、世界という全体に生きられたその御霊に合掌し、その無言の訓えに粛然として頭を重れ、我等またそのあとに続かんことを誓うものである
拓殖大学

経緯
 本校茗荷谷五文原頭に、鎮座せられた「拓殖招魂社」は終戦直後占領軍の指令により破棄せしめられた。 この日空は暗澹として雲他く学生救職員一同、万感の念いをこめてこれを送った。
 一学生あり(専門部十九期 当房栄三郎民 宮崎県出身 故人)鳥居に掲げられた「拓殖招魂社」の扁顔を秘かに毛布にくるんて持ち帰り、これを九州宮崎の地に奉安した。その後この扁顔は在九州学友をへて在京学友及び学生に迎えられ、昭和五十一年秋、変額を奉じて恭々しく招魂社祭が教り行なわれ、ついてこれを総長室に安置申し上げた。
 雨来、学支会より、その総意として招魂社再建の熱烈なる要望があり、これを受けて高瀬総長理事長により拓殖大学創立八十周年記念を機に、ここに八王子原頭扶柔ヶ丘に拓殖招魂社再建御邊産の運びとなった。
 時に、昭和五十五年錦繍の秋、十月二十三日、此の間実に茫々三十有五年、今扁願は社頭南面する島居の上に再び高々と捐けられ、我が拓殖大学の過去と現在をそして未来をじっと見つめて居られる

拓殖招魂社

合掌

けっこうな山道。大学構内とは思えない山道。。。5分ほど登りました。


芳流 烈士脇光三碑

六烈士のうちの1名、脇光三。

脇光三をはじめとした日露戦争の六烈士に関しては、「横川省三」を調べていて知ったので、下記の記事に別でまとめました。

脇光三は、明治34年に台湾協会学校(拓殖大学の前身)の学生であったが、明治35年に中退して海を渡り、北京駐在の陸軍武官青木大佐から南下露軍の後方攬乱の秘命を受け、沖禎介、横川省三らとともに特別任務班に編成されその一員となる(辞令上は「陸軍通訳」)。
明治37年4月、横川省三と沖禎介がロシア軍につかまり、残った4人は再起を期すもロシア軍の意向を受けた馬賊に捕捉され、内蒙古クーロンホ付近で、相次いで戦死した。

烈士脇光三碑は、昭和6年4月23日(拓殖大学恩賜記念日)に除幕式が行われた。
この碑は、当初は文京キャンパスにあったが、昭和57年に八王子キャンパスに遷座している。

芳流 
烈士脇光三碑
 一戸兵衛書

烈士辞世
一朝宣戦 除百年憂 
吾党有士 死賛皇猷
興安西峙 松華東流
侠骨可埋 此山河頭

意訳
いったん宣戦の命が下れば、百年の憂いを除こうではないか。
我ら志を同じくする士(もののふ)は、命を賭して天皇の遠大な計画を助け奉る。
西には興安嶺(こうあんれい)がそびえ、東には松花江(しょうかこう)が流れている。
義侠の心に満ちたこの身を埋めるなら、まさにこの山河の地こそふさわしい。

 脇光三君は同窓の先輩なり 日露戦役の初に當り進んで特別任務に服し六士相攜へて北京に發し辛酸六旬にして深く敵地に入り東清鉄橋の爆破を企てしも事破れ二士は露軍に捕へられて遂に哈爾濱郊原の沙に屍を委て君は三士と蒙匪に襲われて倶に興安嶺邊塞の月に骨を暴しぬ嗚呼凄惨此に至って腹語るに忍びす然れとも壮圖克く敵の気を奪ひ其の戦略を覆し交戦期間多大の兵力を後方の警備に費すの已むを得さるに至らしめたるは以て忠魂を慰むるに足らん吾等遺烈を景仰し茲に諸先輩の賛助に憑り同傐協力して石碑を学園に建て之を不朽に傳うと云爾
  拓殖大学生一同
  教授宮原氏平撰文

棗(ナツメ)の木
寄贈 中村養三氏 (学部十六期 大正七年卒)
日露戦争の折 乃木希典将軍と露軍のステッセル将軍が会見した中国旅順郊外の水師営の場にあった棗の木
昭和四十三年に中村氏(当時学友会京都支部長)が大学に持参され 文京キャンパスの「拓魂碑」脇に植えられていたが碑の移設に伴いこの地に移植された


拓殖大学八王子国際キャンパス

東京ドーム23個分の広大な敷地を持つという広大なキャンパス。
1977年に開設された。
高尾駅から直通のバスが出ている。

※撮影:2026年5月


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