「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

「国士の模範」日露戦争特別任務に殉じた烈士・横川省三の史跡散策

「横川省三」という人物がすこし気になっていた。
歴史上、日露戦争の片隅で決して目立つ人物ではなく、徐々に忘れ去られそうになっている人物。
そんな時流のなかで、六本木麻布台エリアの再開発に伴い、彼の住居跡である「横川省三記念公園」という小さな公園が、大都会のビル群の下で消失していた。
ところが、2025年に、その「横川省三記念公園」が復活したと聞き、最新状況を知るべく散策をしてみた。

復活後の公園は、新たに枕詞に「我善坊」というなにやら厳めしい名称が付与され、「我善坊横川省三記念公園」となっていた。


横川省三

元治2年4月4日(1865年4月28日) – 明治37年(1904年)4月21日)
明治期の新聞記者。日露戦争時の軍事探偵(スパイ)。ロシア軍に捕縛され処刑された。
南部盛岡藩の出身。初名は「勇次」。
旧姓は「三田村」であったが、徴兵逃れの養子で「山田」姓に、結婚後に「横川」姓となっている。

1884年の加波山事件(栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件)で自由民権運動に関わり投獄。
1887年、保安条例施行により、皇居周辺三里から追放。
1889年、花巻の横川家に婿入りし、横川佳哉と結婚し、横川姓となる。
 ※花巻市東和町に「横川省三記念公園」がある。
1890年、朝日新聞の記者となり、妻子とともに上京。
郡司成忠の千島列島探検隊(1893年)の特派員となる。

https://senseki-kikou.net/?p=10795

1894年、日清戦争の従軍記者。
1897年、記者を辞め、サンフランシスコに渡米。邦字新聞となる『ジャパン・ヘラルド』(→「桑港日本新聞」→「日米新聞』)を創刊。

1901年(明治34)には勇治改め横川省三と改名。日露戦争に際して、北京公使館の内田康哉清国公使に招かれ中国に渡る。
青木宣純大佐率いる特別任務班のメンバーとなり、横川省三は特別任務班第六班班長として沖禎介とともに特殊工作に従事する。
1904年に、ロシア軍の東清鉄道爆破任務のためラマ僧に変装して満洲に潜伏。ロシア軍兵砧の大動脈である東清鉄道のチチハル雅児河鉄橋の爆破をくわだてるが、ツルチハ駅(隣駅)付近で発見され、横川省三は沖禎介とともにロシア軍に捕らえら、ハルビンに移送される。

裁判にかけられた際、検察官は絞首刑を求刑したが、横川は異議を唱え「どうか軍人に対する礼をもって、銃殺刑に処していただきたい」と嘆願。裁判長は、慎重な審議の末、二人を軍人として扱い、銃殺刑とすることを決めた。
銃殺刑の判決を聞いた二人は満足そうに笑みを浮かべ、裁判長と法務官に深々と一礼したという。

1904年(明治37年)4月21日、満洲ハルビン(哈爾浜・哈爾濱)にて。
銃殺刑の執行当日、死刑執行官は、射撃手に「射撃用意」と命じ、その後「愛をもって撃て」と付け加えた。尊敬すべき二人の日本人が苦しまないように、正しく心臓を狙えという指示であった。
二人は最期に「天皇陛下万歳」と叫び、横川省三は39歳の若さで刑場に露と消えた。
横川省三は、遺言で所持金をロシア赤十字社への寄付を申し出た。敵国の赤十字社に所持金全てを寄付するという前例のない行動は、ロシア人を驚嘆させ、感動させた。

なお、横川省三の銃殺刑のシーンは、映画「二百三高地」(昭和55年・東映)の冒頭でも描かれており、映画は、横川省三と沖禎介の両名が、銃殺刑で処刑されるシーンから始まる。

https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025110.html

https://shimoyonai.site/home/watashitatinomachishimoyonai/shimoyonainosyokai/yokokawasyozo


我善坊横川省三記念公園

2025年9月30日開園。六本木麻布台の再開発によって新設された公園。

「横川省三記念公園」
昭和12年(1937)12月、横川省三遺跡保存会により、横川省三邸宅跡地(麻布箪笥町24番地)を公園用地として東京市に寄付。
昭和13年(1938)11月、東京市営公園として開園。
昭和25年(1950)10月、東京市から移管され区立公園として開園。
昭和39年(1964)7月、首都高速整備事業により廃園。
昭和41年(1966)4月、麻布台1丁目4番6号に移設開園。
平成31年(2019)4月、麻布台地区再開発により廃園。
令和7年(2025)9月、麻布台1丁目4番12番にて移築開園。
移設開園時に公園名を「我善坊横山省三記念公園」と改称。

三度、場所を変えつつ、6年ぶりに移設開園した「横川省三記念公園」。

我善坊横川省三記念公園

公園名のインパクトがちょっと強い。
背景を知らなくても、なんとなく「横川省三」は人名と察することができとしても、「我善坊」って?なりそうな。

麻布我善坊町
町域に我善坊谷があるので谷の名前をとって我善坊町と名付けられました。我善坊谷の由来については、座禅をする僧侶がいたから、あるいは二代将軍徳川秀忠の夫人崇源院の火葬の際の龕前堂があったからなど諸説があります。

もともと、この地が「我善坊町」だったとのことで。

場所

https://maps.app.goo.gl/e3b5ckeEcNvAHoj47

以前の様子>日本1000公園

https://nippon1000parks.blogspot.com/2014/12/8631000.html

プレートのみではなく、この時の記念碑のまま、残してほしかった、、、が、逆にプレートだけでもきれいに残してくれたことに感謝すべきか。


横川省三記念公園の記念碑

我善坊横川省三記念公園には、旧横川省三記念公園時代に設けられた記念碑(記念プレート)が移設されている。
プレートのみなので、ちょっと味気ない。

横川省三記念公園
勲五等
横川省三
岩手県盛岡市出身
行年四十歳

同行国士
勲五等
沖禎介
長崎県平戸市出身
行年二十八歳

同行国士
勲六等 脇光三
 滋賀県彦根市出身 行年二十四歳
同 松崎保一
 宮崎県宮崎市出身 行年三十歳
同 中山直熊
 熊本県熊本市出身 行年二十四歳
同 田村一三
 宮崎県宮崎市出身 行年二十二歳
寄贈者 横川省三遺跡保存会世話人代表
 吉澤照英司・吉澤てる(故黒川茂隆長女)
平成三年九月吉日補修

脇光三、松崎保一、中山直熊、田村一三の4氏は、鉄橋爆破作戦の失敗で戦死している。

横川省三略傳
明治三十七八年戰役ニ特別任務ヲ帯ヒ
北満ノ野ニ壮烈ナル最後ヲ遂ケタル志
士横川省三君ハ南部盛岡ノ人ナリ歳甫
メテ十九東京ニ來リ自由黨ニ投シ後操
觚界ニ入リ雄健ノ筆ヲ以テ盛名ヲ謳ハ
レシカ明治三十年移民開拓ノ為北米ニ
航シ三十四年歸朝ス偶暗澹タル日露ノ
風雲ニ際會シ敵状探知ノ重命ヲ荷ヒテ
北京公使館嘱託トナリ日夜東奔西走ス
ル事三年時恰モ明治三十七年二月 大
詔下ルヤ輙チ擢テラレテ敵後方輸送路
遮断ノ命ヲ拜シ嫩江鐵橋爆破ニ赴キシ
ガ遂ニ敵兵ノ為ニ捕ヘラレ四月二十一
日同志沖禎介ト共ニ哈爾賓ニ於テ銃殺
セラル
君ハ性剛毅恬淡ニシテ機略アリ身軍籍
ニ非ルモ敵地深ク突入シテ國難ニ殉ス
其忠勇義烈真ニ國士ノ龜鑑タリ後年其
功ニヨリ勲五等ヲ授ケラレ特旨ヲ以テ
靖國神社ニ合祀セラル

<横川省三 略伝(現代語・意訳>
明治三十七・八年の役(日露戦争)において、特別な任務を帯び、北満州の野で壮絶な最期を遂げた志士、横川省三君は、南部盛岡(現在の岩手県盛岡市)の人である。
十九歳の時に上京して自由党に加わり、のちに文筆の世界(新聞記者)に入ると、力強い文章によってその名を世に広く知られるようになった。明治三十年には移民開拓のために北米へ渡り、同三十四年に帰国。ちょうど日露の関係が緊迫し、暗雲立ち込める時期にあたって、敵国の情勢を探知するという重大な使命を担うこととなった。北京公使館の嘱託として、日夜、東奔西走すること三年に及んだ。
時あたかも明治三十七年二月、宣戦布告の詔勅が下されるや、ただちに抜擢されて「敵の後方輸送路を遮断せよ」との命を受けた。嫩江(のんこう)鉄橋の爆破に向かったが、ついに敵兵に捕らえられ、四月二十一日、同志である沖禎介(おき ていすけ)と共にハルビンにおいて銃殺された。
君の人となりは、剛毅で執着がなく(さっぱりしており)、機略に富んでいた。軍籍に身を置いていたわけではないが、敵地の深くへ突入して国難に殉じたその忠勇義烈な振る舞いは、まさに「国士の模範」というべきものである。後年、その功績によって勲五等を授けられ、特別な計らい(特旨)によって靖国神社に合祀された。

此地ハ明治三十七八年戰役ニ際
シ特命ヲ帯ヒテ敵地深ク侵入シ
北満ノ野ニ於テ國難ニ殉シタル
志士横川省三氏カ寓居ノ遺阯ト
シテ知ラレタリシカ同氏ノ赫々
タル英名ヲ永ク追慕シ其ノ光輝
アル舊蹟ヲ後世ニ傳ヘンカ為ニ
地元横川省三遺跡保存會代表者
黒川茂隆氏ハ之ヲ本市公園用地
トシテ昭和十二年十二月附近ヲ
併セ百二十餘坪ノ地ヲ寄附セラ
レタリ本市ニ於テハ寄附者ノ厚
意ヲ享ケ英靈ヲ偲フ記念公園ト
ナシ諸施設ヲ完了シタルヲ以テ
茲ニ開園ニ臨ミ來歴ヲ敍シ以テ
地元ノ芳志ヲ銘記ス

<横川省三 遺址記念公園 開園の辞(現代語・意訳>
この地は、明治三十七・八年の役(日露戦争)に際して、特別な命令を帯びて敵地の深くへ侵入し、北満州の野において国難に殉じた志士、**横川省三氏がかつて住んでいた場所(寓居の遺址)**として知られています。
同氏の輝かしい勇名を末永く慕い、その光輝ある旧跡を後世に伝えるため、地元「横川省三遺跡保存会」の代表者である黒川茂隆氏は、ここを本市(当時の東京市、現在の東京都など)の公園用地とするべく、昭和十二年十二月、付近の土地と合わせて百二十余坪を寄附されました。
本市においては、寄附者の厚意を受け、英霊を偲ぶための記念公園として諸施設の整備を完了いたしました。ここに開園を迎えるにあたり、その来歴を記し、地元の皆様の尊い志を記録にとどめるものとします。

壁にプレートが埋め込まれている。

公園自体は、麻布台の新しい公園。とてもきれい。

麻布台の高層ビル群。

最寄り駅は、六本木一丁目。

※2025年12月撮影


横川省三墓跡(青山霊園)

横川省三の墓は、青山霊園にあった。
場所は、青山霊園1種イ16-1

訪れたら、その番地には何も無かった。移転したのか、墓仕舞いしたのか。。。
少し調べてみたら、2023年には、どうやら既に無かったようで。うーむ。

ここに、横川省三の墓があった。
あったという記録として、ここに、いまの状況を残しておく。

いまは、何もない。
こうして、忘れ去られていく、歴史の軌跡。
寂しくもあるが、致し方がない側面もあり。

※2026年1月撮影


横川省三墓(盛岡・聖寿禅寺)・未訪問

盛岡の聖寿禅寺。
盛岡藩主南部家の国元の菩提寺、盛岡五山の一山。

未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。

場所

https://maps.app.goo.gl/QeKxGei9T2DFSsN18


横川省三墓(花巻東晴山・横川省三記念公園)・未訪問

岩手県花巻市東和町東晴山にある。
花巻の横川省三記念公園。

未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。

場所

https://maps.app.goo.gl/5GjkYB184dSLoijo9


横川省三像台座と六烈士弔霊塔

盛岡に赴いていた際に、この近くに散策ポイントがあったので、奇跡的に記録を取っていました。
陸軍墓地跡、が台座のちかく、だったのです。

https://senseki-kikou.net/?p=36368

横川省三像台座と六烈士弔霊塔
昭和7年6月26日建立。
当時の盛岡市長によって「高松池」のほとりに、横川省三の銅像と六烈士弔霊塔が建立された。
11年後の昭和18年に金属供出で銅像は撤去され、現在は台座のみが残っている。

台座の銘板は削られており、この台座は由縁を知らないと、ぱっと見で謎の建立物となっている。

六烈士弔霊塔
横川省三の台座のとなりに、六烈士弔霊塔が建立されている。

弔霊塔

大纛斯発軍勢
愈揚偉矣六士
遠人氈郷伐課
不果子涂而僵
一死慘烈千載 
流芳神庭山上
建像焚香櫻華
萬朶浴以朝陽
 北田親氏誌

遠い地で犠牲となった6人の士(六士)の惨烈な死を悼み、その芳名を後世に伝えるために神庭の山上に像を建て、桜の舞う下で朝陽を浴びて祀っている様子を詠んだ漢詩。

<現代語・意訳>
大本営を進発し、ますます偉大さを高めた六人の士よ。
遠く氈(せん)の郷(北方の異郷・異民族の土地)へ遠征したが、目的を果たせず、その地に倒れ伏した。
その惨烈な死は千年の時を超えて語り継がれ、その香しい名(流芳)は神庭(かみにわ)の山上に残る。
像を建て香を焚いて、桜の花が咲き誇る中で、朝日をいっぱいに浴びて(祀られている)。

六烈士氏名
盛岡 横川省三 四十歳
長崎 沖禎介  二十八歳
延岡 松崎保一 三十歳
宮崎 田村一三 二十四歳
滋賀 脇光三  二十三歳
熊本 中山直熊 十八歳
 昭和七年六月二十六日建
  山口剛介書
  高橋仁助刻 

六烈士の名前が刻まれている。

高松池

※2023年8月撮影

場所:

https://maps.app.goo.gl/GEMniGFqWyiBmY8k7


横川省三像(報恩寺)

横川省三像

堀江尚志の作 (原像の鋳型である)
高松公園の神庭山に設置されていたものの鋳型。
前述の通り、高松公園の神庭山の銅像は戦時中の金属供出で失われ、立派な台座だけが残されている。

未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。

報恩寺(岩手県盛岡市名須川町31-5)
https://maps.app.goo.gl/MR8UX634KjgkKfpz7


沖禎介(青山霊園)

沖禎介(おきていすけ)
1874年(明治7年)6月8日 – 1904年(明治37年)4月21日)
明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。

1904年(明治37年)、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。
横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑される。

墓所は青山霊園(1イ1-41)。

長崎県平戸市の亀岡神社に沖禎介胸像がある。

https://maps.app.goo.gl/X6WMAymzD5pHSfqo7

また、平戸の居宅跡に大イヌマキが残っている。

https://maps.app.goo.gl/yxRvecE6G4YvHseu7

平戸は将来の訪問のためのメモ、ですね。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/232031

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/42

沖君禎介之碑

乃木希典の篆書。
明治42年10月の建立。

沖君禎介之碑
殉國志士沖君禎介碑          法學博士戸水寛人譔文
君諱禎介姓沖氏肥前平戸人為人慷慨尚氣節讀書不事章句薄遊東京鬱鬱不
得志乃航到清國北京創私學教育清人子弟會満洲事件我海陸兵陸續北進君
奮然與死士數人變表為喇嘛僧経蒙古入満洲渉幕漠無人之境淩冒氷雪僃嘗
艱苦欲出露軍背後以毀壊鐵路橋梁為哨騎所獲并佗一人押送於哈爾賓君既
被囚禁眠食如平常露人服其膽勇屢以甘言誘降一日間君曰露人在日本犯如
此罪其刑如何曰殺之耳露人曰公若告我以日本事清吾宥公臥君笑不應露人
和君終不可奮乃銃殺之哈爾賓城外其就死露人取白布授君令蔽其眼君摽太
不受神色自若賭者莫不感嘆焉時明治三十七年四月二十一日也年三十有一
父名荘蔵那覇地方裁判所部長判事有二弟曰順次病死曰三雒陸軍歩兵中尉
頃者 官追賞君功授以勲章合祀于靖國神社而有志者又醵金為君建碑徴文
於余嗚呼古來捐身殉國者不為少矣而従容就義遺芳異惑如君者果幾人余雖
不文以與君相識之故不辭而誌之庶幾百垂之下有聞風而興起者矣乎
明治四十年六月  陸軍大将伯爵乃木希典篆額  本田定季書
                            鱸猛麟刻

<現代語・意訳>
殉国志士 沖禎介之碑
沖君は名を禎介(ていすけ)、姓を沖といい、肥前国平戸(現在の長崎県)の人である。 人柄は気力に溢れ、節義を重んじる性格であった。読書をしても単なる字句の解釈にこだわらず(常に実践を重んじ)、東京に遊学したものの、思うように志を遂げられず鬱々としていた。
そこで清国の北京へと渡り、私塾を創設して現地の若者たちの教育にあたった。やがて満洲事件(日露戦争)が起こり、我が国の陸海軍が続々と北進するに及び、君は奮い立った。決死の志士数人とともに、姿をラマ僧に変装させ、モンゴルを経由して満洲へと潜入したのである。
人影のない砂漠を渡り、激しい氷雪をしのぎ、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦をなめながら、ロシア軍の背後に出ようと試みた。その目的は鉄道や橋梁を破壊することにあったが、敵の偵察兵に見つかり、他の一名(横川省三)とともにハルビンへ押送された。
囚われの身となっても、君の寝食の様子は普段と変わらず平然としていた。ロシア兵はその度胸に感服し、何度も甘い言葉で投降を促した。 ある日、ロシア兵が「もし日本で、ロシア人が同じような罪を犯せば、どのような刑に処されるか」と問うた。君は「ただ殺されるだけだ」と答えた。ロシア兵は「もし公(君)が、日本の軍事機密を我々に教えるならば、命を助けよう」と誘ったが、君はただ笑って応じなかった。
ロシア側も、ついに君の意志を翻すことはできないと悟り、ハルビン城外にて銃殺に処することとした。 死に臨み、ロシア兵が目を覆うための白布を渡そうとしたが、君はそれを投げ捨て、全く恐れる様子もなく、落ち着き払った態度でいた。その最期を見届けた者は、敵味方問わずみな感嘆したという。
時は明治37年(1904年)4月21日。享年31歳であった。 父の荘蔵氏は那覇地方裁判所の部長判事である。二人の弟がおり、一人の順次は病死、もう一人の三雒(さぶらく)は陸軍歩兵中尉である。
このたび、国は君の功績を称えて勲章を授け、靖国神社に合祀した。さらに志を同じくする者たちが寄付を募り、君のためにこの碑を建て、私(戸水寛人)に文章を依頼したのである。
ああ、古来より身を捨てて国に尽くした者は少なくない。しかし、これほどまでに落ち着いて義に就き、異国の地にまでその誉れを残した者が、果たして君のほかに何人いるだろうか。私は文才に乏しいが、君と旧知の仲であった縁から、辞退せずにこの事実を記録する。願わくば、百代の後の人々がこれを聞き、その志に深く感銘を受けることを。
明治40年6月
 題字(篆額):陸軍大将 伯爵 乃木希典
 撰文:法学博士 戸水寛人
 書:本田定季
 刻: 鱸猛麟

建碑総代には、「頭山満」も名を連ねている。

※2026年1月撮影

場所:

https://maps.app.goo.gl/dWVuV229u7ehXhbv9


報国六烈士碑(護国寺)

日露戦争戦後3年の1908年(明治41年)に建立された慰霊碑。
扁額は陸軍元帥・大山巌(日露戦争時は満洲軍総司令官)、撰文は陸軍中将・福島安正(日露戦争時は万種群総司令部参謀)。


六烈士、すなわち横川省三、沖禎介、脇光三、松崎保一、中山直熊、田村一三の6名を慰霊する。

報国六烈士碑

碑文には、青木宣純(日露戦争では満洲軍総司令部付として特別任務班を組織した責任者・最終階級は陸軍中将)、橋口勇馬(日露戦争では満洲軍総司令部付として、馬賊を率いて、ロシア軍の広報を撹乱、最終階級は陸軍少将)、井戸川辰三(日露戦争では兼大本営付、特別任務従軍、満州軍総司令部付、兼新民府軍務官、最終階級は陸軍中将)らによって、烈士たちの功績を不朽のものとすべく建碑した旨、横川班の活躍と殉難、戦後の叙勲や靖國合祀の旨などが記載されている。

撮影:2026年1月

場所:

https://maps.app.goo.gl/phDcvjusCtJThqwE8


芳流 烈士脇光三碑

拓殖大学八王子キャンパスにある。
未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。

場所:

https://maps.app.goo.gl/k4g2LNvtXA2cq6VZ9


亀山上皇立像と招魂社跡地のある「東公園」(福岡博多の戦跡散策6)

福岡博多の戦跡と史跡を。
個人的に興味をもった気になるところをピックアップして散策。


官祭妙見馬出招魂社遺跡保存地

福岡縣護国神社の元となった招魂社。

福岡縣護国神社は、明治元年(1868年)11月、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。
明治39年(1906年)6月27日、「馬出招魂社」に「妙見招魂社」を合祀して「妙見馬出招魂社」とした。
当地は、その跡地である。

昭和13年(1938年)に「福岡招魂社」と改称。
昭和18年(1943年)4月、「福岡護國神社」は、現在地の福岡城址南側の練兵場跡に遷座している。

官祭妙見馬出招魂社遺跡保存地

招魂社の由来
畏くも 明治天皇の大御心によって明治維新以来国事に殉じた志士の英霊を合祀して永く祭祀を行うよう明治元年五月十日太政官布告を以て仰せ出だされた
ここに於いて当時の筑前藩主黒田長知は 聖骨を奉体し明治元年十一月今の東公園当時の筑前国那珂郡堅粕村字東松原に妙見招魂社を筑前国那珂郡馬出村字東松原に馬出招魂社をそれぞれ創設し官費を以て永く祭祀を行うこととなった
然るにこの中官祭妙見招魂社を明治三十九年六月二十七日官祭馬出招魂社の隣接地に移転し更にこの官祭妙見招魂社を昭和十三年一月二十一日官祭馬出招魂社に合併と同時に官祭福岡招魂社と改称次いで昭和十四年勅令に基づきこの招魂社名を昭和十四年四月一日福岡護國神社と改称し更に昭和十八年四月三十日福岡市六本松に県下一円を総括する福岡縣護國神社が創立されたので同日この福岡護國神社の護神霊を福岡縣護國神社に合併したのである。
然るに東公園に於ける旧招魂社跡は記念碑墓石その他一切の施設がそのまま存置されていたので福岡県護国神社に於ては毎年墓前祭を執行祭祀を継続してきたのであるが戦後急激な都市の発展は護国の英霊鎮座にふさわしかった所謂千代の松原たる白砂青松の淨地も激変し招魂社跡の墓石や人名標石玉垣等も或は倒され或は破壊され清浄を保持し得ざるに至ったのでこれが移転は久しい懸案であった
然るに今般福岡県に於ては東公園の整備を計画両招魂社跡の移転方について要請があったよって検討を重ね約二五〇米北方にあった両招魂社社地に建設されていた由緒を記した石心松標・旌忠祠・玉砕光存の碑石三基を此の地に移しこの由来碑を立てて馬出の地名と共に永遠に伝え妙見招魂社の御祭神加藤司書徳成以下四十一柱と馬出招魂社の御祭神青木彌平増秀以下百十六柱の御遺骨等はこれを福岡市谷二丁目の旧陸軍墓地に改葬することにした
茲に由来を記し謹んで後世に遺す次第である
  昭和四十四年四月三十日
    福岡県護国神社 宮司 平川隆一

場所:

https://maps.app.goo.gl/SMc2ZfyoRcD6YYeR9


銅造亀山上皇立像

像本体4.8メートル。
福岡県指定有形文化財。
高村光雲の弟子であった博多出身の山崎朝雲によって木彫原型が制作。
銅像は、谷口鉄工場が制作。

福岡警察署長の湯地丈雄が長崎事件(1886年)を期に主唱した元寇記念碑建設運動に端を発し、日露戦争中の1904年(明治37年)12月25日に除幕式が挙行された。木型は、筥崎宮に安置されている。

亀山上皇は、南朝(大覚寺統)の祖。
正元元年(2369)に第90代天皇に即位され、文永11年(1274)で譲位、上皇となられた。
元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))時の治天の君。(天皇は子の後宇多天皇)。

亀山上皇は、元寇来襲に際し、「我が身をもって国難に代わらん」と敵国降伏祈願を行うと共に、全国の神社・仏閣にも祈願を命じられた。

亀山上皇立像の設置に功績のあった石工として、廣田弘毅の父親である廣田徳平も関わっている。

敵國降伏

文永の役後の筥崎宮社殿再建時に亀山上皇により寄進された宸筆。
筥崎宮伏敵門「敵國降伏」扁額にも掲げられている。

明治39年十一月建之

亀山上皇銅像
13世紀後半の元(モンゴル)軍の来襲の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された亀山上皇の故事を記念し、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄氏等の17年有余の尽力により、明治37年(1904年)元寇に縁あるこの地に建立されました。高さ約6メートルを誇るこの像の原型となった木彫像は、当時、高村光雲門下で活躍していた、博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎朝雲の代表作のひとつで、現在は営崎宮の奉安殿に安置されています。

国旗掲揚台
皇紀二千六百有一年記念

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=260

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/211

場所:

https://maps.app.goo.gl/oayb67aE4vbkcd5n8


日蓮聖人銅像

公園内には、日蓮さんの立像もありました。
鳥羽上皇は、台座を除くと6メートル、日蓮は、なんと10メートル。。。

日蓮聖人銅像
日蓮聖人は、文応元年(1260年)『立正安国論』を記し、当時の鎌倉幕府執権北条時頼にいち早く元(モンゴル)軍の襲来を警告しました。明治37年(1904年)に完成したこの銅像は、高さ10.55メートル、重さ74.25トン。8角形の台座には「立正安国」の文字と、日蓮聖人の一代記を描いたレリーフがはめ込まれています。この像の木製原型は、当時東京美術学校の教授で彫刻家竹内久ー、レリーフの原画は洋画家矢田一嘯により作製されました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/xZ8jSk6QaySDKWtr7


元帥伯爵東郷平八郎之像

さらには、東郷さんの胸像も。

胸像の由来
 東郷平八郎元帥は、法華経の篤信者であった。明治38年5月、日本海海戦で勝利を収めた後、同年8月19日、加藤友三郎参謀長等と共に博多に寄港し、松下直美福岡市長の案内で亀山銅像とこの日蓮銅像へ勝利御礼に参拝された。
 また、大正9年4月8日には、皇太子殿下(昭和天皇)に従って再度両銅像に参拝された。
 この銅像は、昭和10年に元帥の偉功を讃え日本海海戦会の有吉憲彰・中野昇外有志が、建立したものである。
 当初、前面の銘板には「おろかなる心につくす誠をば みそなわしてよ天つちの神」という歌を付してあった。
 これは大正3年4月、元帥が東宮学問所総裁に任命された時の感激を詠まれたものである。
 その後、銘板が剥がされていたものを福岡鹿児島県人会・南洲会有志が改修し奉納するものである。
 この胸像が日蓮聖人のお側に未来洋々立ち続けることを祈念して止まない。
 平成8年9月吉日

場所:

https://maps.app.goo.gl/SEWUZj8Ycr9M9xQe8


東公園

もともとは、千代の松原の一部であった。
1873年(明治6年)の太政官布告に基づいて1876年に公園地とした。
福岡県内最初の県営公園。
公園化する以前は、1868年(明治元年)には旧福岡藩主黒田長知によって招魂社が妙見・馬出の地に創建。
当初は東松原公園の名称であったが、1900年(明治33年)に東公園と改めるとともに県の管理となった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3ogNTTFmhB3U1Ckc6


箱崎公園碑

昔は千代松原であった歴史を記録する碑。

箱崎公園碑
縣治を距る東半里弱、松林海に傍ふ有り。箱崎と曰ひ、又千代の松原と曰ふ。宗祇指南抄に曰く、南北壹里、東西十町餘りと。明人之を稱して十里松と曰ふ。大江匡房太宰權帥たり、嘗て文を作り景勝を記す。其の天下の稱する所と爲るや久し。豊臣關白の島津氏を征するとき、箱崎八幡の祠を以て牙營と爲し、千利休を召して茗を林間に煮たり。利休松の稱焉よりして起る。黒田氏の封を此國に受くるに及び、厳に斬伐を禁ず。蒼翠蓊鬱、其の舊を改めず、千代の松の名誣ひざるなり。
余乏きを縣令に承け、是地を以て公園と爲す。博多の人、下澤、深澤、内海の諸氏、首として貲を捐し、役を督す。衆庶歡むで起ち、或は理して庭園と爲し、或は鑿りて池沼と爲す。花卉を雜植し、亭樹を列置す。青松白沙、點綴相映じ、匡房の所謂海岬斗出、一帶の青松、他に雜樹無く、位置天然にして殆むど造花の巧を弄する者の如く、指顧して來たすべきなり。園既に成り、余に文を請ひ之を記す。
嗚呼、豊臣氏の西征するや、貔貅百萬、海陸皆兵なり。而も翠を探りて茗を綴り、優遊暇豫す。眞に一世の雄なり。黒田氏の封を襲ぐ三百年、恩澤洪洽、今に至りて治め易きを稱す。余無似罪を此の地に待つこと八年、政績一の記すべきもの莫し、獨り心に愧ぢざらむや。但し車を下りしより以來、縣民貼然として安く治まるは實に土風の淳撲に由るも余が拙誠も亦或は焉を相孚ふに足るもの有らんか。乃ち所感を書して之を與へ、後人をして是地の景勝古今に稱せられて、其の公園と爲ることの遇然に非ざるを知らしむと云う。
 渡邊清撰


十日恵比須神社

東公園の西側に。神社本別表神社。

十日恵比寿神社
社伝では、天正19年(1591年)正月、武内五右衛門が香椎宮·笤崎宮参詣の帰途、千代松原の波打ち際で恵比須神像を拾い上げたのが神社の起こりとされます。恵比須神は七福神の一神で、漁民、商家の守護神とされ、人々の信仰を集めています。正月の縁起をかつぐ十日恵比須祭りは、8日を初えびす、9日を宵えびす、10日を正大祭、11日を残りえびすと呼び、多数の参詣者はもとより、参道を埋める露店や博多芸妓の「徒歩参り」で大変な賑わいを見せます

場所:

https://maps.app.goo.gl/TazgxN1pDnNfsJ5P8


福岡市赤煉瓦文化館(旧日本生命九州支店)

エリアは違うけど、写真を撮っていたのでメモとしてここに掲載。

1909年(明治42年)に日本生命保険株式会社九州支店として建てられた。
設計は、東京駅舎などの設計で知られる辰野片岡建築事務所(辰野金吾・片岡安)。
明治末期の本格的な煉瓦造建築物として価値が高く、国の重要文化財に指定されている。

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/51

場所

https://maps.app.goo.gl/wJo9cdnZoAMoJTyG9


博多港発祥の地

エリアは違うけど、写真を撮っていたのでメモとしてここに掲載。

博多港発祥の地

THIS IS THE PLACE HAKATA
PORT WAS FIRST ESTABLISHED

日本三大津の一つ「那ノ津」と呼ばれ古来より大陸文化受け入れの要衝の地であった博多港は明治32年7月13日開港の指定をうけ博多船溜を中心に近代港湾としての道を進み国際貿易港として現在に至っている。博多船溜にはかって魚市場も併設されていた。博多港のより一層の発展を念じこの地に記念の碑を建立する。
 昭和60年7月20日
  福岡市長 進藤一馬

博多港引揚記念碑(那の津往還)まで足を伸ばせばよかった。訪問時はそこまで知らなかったということもあり。
5大引揚港のひとつ。
また今度、かな。

場所:

https://maps.app.goo.gl/81XQNg6qRusrYZSh9


関連

歩兵第24聯隊「福岡聯隊の跡」(福岡博多の戦跡散策5)

福岡の聯隊「歩兵第24聯隊」の跡地散策。

「福岡博多の戦跡散策4」はこちらから。


歩兵第二十四聯隊

歩兵第二十四聯隊、通称「福岡聯隊」。
明治17年(1884年)、小倉にて歩兵第14聯隊第1大隊ほかから抽出された第1大隊が編成されたことに始まる。
明治21年(1888年)、第6師団が創設され、福岡城内が正式な聯隊衛戍地となる。
明治27年(1894年)、日清戦争に従軍。第2軍隷下。
明治29年(1896年)、第6師団から第12師団に所属変更。
明治36年(1903年)、陸軍管区改正により、歩兵第23旅団に編入。
明治37年(1904年)、日露戦争に従軍。第1軍隷下。
大正7年(1918年)、シベリア出兵に従軍。第1梯団に編入。
大正15年(1926年)、福岡聯隊差別事件が発生し、水平社(被差別部落)との差別解消にむけた交渉が始まる。
昭和7年(1932年)、第1次上海事変に第1大隊を派遣
昭和11年(1936年)、満洲駐屯。
昭和19年(1944年)2月、第3大隊、独立第49旅団に編入。
 ヤップ島に派遣され、終戦まで駐屯。
昭和19年(1944年)12月、連隊主力、台湾高雄州鳳山群林子に移駐。
 そのまま終戦を迎える。

福岡聯隊の跡

1963年に建てられた福岡連隊の記念碑。

題字 中牟田辰六 書

中牟田辰六は、第17代連隊長。在任は、1931年8月1日 -1933年7月31日

福岡聯隊より要員を出した主な編成師団名
第十二師団 第五十六師団 第百十二師団
第十八師団 第六十二師団 第百五十四師団
第二十三師団 第七十師団 第百五十六師団
第三十一師団 第八十六師団 第二百十二師団
第三十七師団 第百九師団 第三百十二師団

かって郷土の人々に福岡聨隊として親しまれた歩兵第二十四聯隊は明治一九年八月十七日 明治天皇から軍旗の親授をうけてこの地福岡城跡に創設された部隊である。
 尓来明治二十七八年日清戦役後三十七八年日露戦役その他の事変に出動し輝かしい武勲をたて 平時あっては衛戌地の信頼を厚くし国運の伸張と社会の安寧とに多大の貢献をなした 大正の第一次世界大戦においてはシベリヤに出征し、昭和の第二次世界大戦においては部隊の主力は満州に駐屯中であったが 昭和十二年八月第十八師団歩兵第百二十四聨隊 同十四年四月第三十七師団歩兵第二百二十六聨隊 同十五年七月第五十六師団歩兵第百十三聨隊 同十九年五月第百九師団歩兵第三百十二大隊 同三百十四大隊等の諸部隊がつぎつぎに編成され 郷土部隊は遠く中南支 マレー ボルネオ ガダルカナル ビルマ 雲南等の各地に転戦敢闘した 第百九師団の硫黄島部隊 第三十二軍の沖縄部隊は ついに名を後世に残して玉砕した また国土防衛のための部隊が編成され南九州等に赴いて護國の任に當った しかるに昭和二十年八月十五日終戦の詔勅下るにおよび 勇強を天下に誇った福岡聨隊も一切の軍備撤廃にともない 創設以来六十余年の歴史に終止符がうたれた
 そして兵営の跡には平和台競技場その他の体育施設があいついで完備し 兵営の殆ど滅失して往事を偲ぶよすがとなるものはすでにして數株の樹木のみという有様となった まことに感慨無量なるものがある
 ここに有志相諮り 福岡聨隊の歴史を回顧し国事に殉じた戦友の英霊を慰めるために 記念碑一基を建立し事跡の一端を刻んでこれを後世に伝えることにしたところ 幸にも郷土各位の賛同をえて目的を達成することができた 一同の感激これにまさるものはない 記して大方の厚意に深甚の謝意を表す
 昭和三十八年五月三日  福岡聨隊跡記念碑建設会

陸軍境界標柱が4つ。

営門の桃の木

舞鶴公園
福岡城跡に位置し、大濠公園に隣接している。

福岡城址のある同場所には、1871年に福岡県庁が設置。
福岡県庁が、1876年に福岡市中央区天神に移転したのち、陸軍第12師団歩兵第24連隊駐屯地が置かれるが、第二次世界大戦後、福岡城址、連隊跡地をまとめる形で当公園が設置された。
舞鶴公園には、「平和台総合運動場」が併設され、そのほかにも続々と公共施設等が建築された。

福岡城址

※撮影:2025年7月


福岡県関連

はじめに

関連

黙して刑場の露と消えた宰相「広田弘毅」所縁の地を巡る(福岡)

戦前、唯一の福岡県出身の首相。
そして戦後、唯一の文官として「いわゆるA級戦犯」有罪判決を受け死刑となった政治家、広田弘毅。

福岡市内で、広田弘毅にゆかりある地を巡ってみました。


廣田弘毅(広田弘毅)

広田 弘毅(廣田 弘毅)
1878年〈明治11年〉2月14日 – 1948年〈昭和23年〉12月23日)
日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。
外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任。
「石屋の倅から総理大臣へ」
石屋の倅から立身出世して位を極めたが、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった。

国立国会図書館・近代日本人の肖像>

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/183

廣田弘毅(初名は、廣田丈太郎)の父・廣田徳平は箱崎の農家であったが、石材店の廣田家に師弟で修行し養子として石材店を継いだ。
明治22年(1889年)10月18日、国家主義組織「玄洋社」の出身である来島恒喜の大隈重信への爆弾襲撃(大隈重信遭難事件)で、襲撃後に自決した、来島恒喜の墓碑を寄贈したのが、石材職人として廣田徳平であった。
廣田家と玄洋社のつながりを物語るエピソード。

廣田弘毅は、福岡県立尋常中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に入学。玄洋社の所有する柔道場で柔道に励み、新しい柔道場落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員になったという。
修猷館卒業直前、『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅〈「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力〉ならざるべからず)から採った「弘毅」に改名している。

1898年(明治31年)修猷館卒業後、東京帝国大学法科大学政治学科に学んだ。学費は玄洋社(初代社長)の平岡浩太郎が提供している。また頭山満の紹介で副島種臣(政治家)、山座円次郎(玄洋社社員・外交官)、内田良平(黒龍会)や杉山茂丸の知遇を得た。
1904年(明治37年)日露戦争に際しては、捕虜収容所で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。
1905年(明治38年)の外交官及領事官試験は落第、韓国統監府に籍を置いて次期試験に備えた。赴任直前に玄洋社幹部・月成功太郎の次女の静子と結婚。
1906年(明治39年)の外交官及領事官試験は、合格者11人のうち首席で合格し、外務省に入省した。吉田茂と外務省で同期。

外交官として、廣田弘毅は、第二次山本内閣・幣原内閣での欧米局長を務め日露戦争語の国交回復として日ソ基本条約締結に尽力する。
1926年(大正15年)にオランダ公使を拝命し、ハーグ対独賠償会議の日本代表を務める。
1930年(昭和5年)、駐ソビエト連邦特命全権大使を拝命、満洲事変に対応する。
1933年(昭和8年)斎藤内閣の外務大臣に就任。前任者の内田康哉の推薦によるものであった。次の岡田内閣でも外相留任。「協和外交」として万邦協和を目指した。

1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が発生すると岡田内閣は総辞職。
1936年(昭和11年)3月5日、廣田弘毅内閣が発足。
二・二六事件直後の対応に追われ、特に陸軍に対して、当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、陸軍大臣・寺内寿一ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。
その見返りとして、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させざるを得なかった。

1937年(昭和12年)近衛内閣の外務大臣に就任。
直後に、盧溝橋事件が勃発。不拡大方針は実らず戦線は拡大。近衛内閣による「国民政府を対手とせず」声明に至る。

1938年(昭和12年)五月、廣田弘毅は外務大臣を辞任した。後任は陸軍出身の宇垣一成であった。その後、太平洋戦争中は、元首相として重臣会議に参加。

1945年(昭和20年)12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、廣田弘毅を逮捕。A級戦争犯罪人容疑者として巣鴨プリズンに収監した。
GHQは、廣田弘毅に対し、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活させた点を重視し、日中戦争をはじめたことによる「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」を起訴。
外交官出身で平和主義者であったにもかかわらず、軍部の台頭を抑えられなかった責任を問われた廣田弘毅。
「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という意志でもって、極東軍事裁判に臨んでいた広田弘毅は、他の被告が自己の正当性を主張する中でも、「自分一人が責任を取ればよい」という覚悟からか、家族に対しても裁判の内容を語らず、廣田は公判で沈黙を貫き通し、無罪の主張を一切行わなかった。
裁判において軍部や近衛文麿に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができたとされているなかで、重臣会議や御前会議に参加していた廣田が弁明をすることで、 天皇に類が及ぶことを心配したから、であったともいう。

1948年(昭和23年)11月4日、死刑判決。
A級戦犯として起訴された28名のうち、文官で死刑となったのは廣田弘毅、ただ一人であった。
11人の裁判官のうち、3人(インド・オランダ・フランス)が無罪、2人(オーストラリア・ソ連)が禁錮刑を主張するも6人が死刑を主張。近衛文麿が自決していたために、文官の大物戦犯であった廣田弘毅の死刑判決には衝撃がはしり、減刑運動もあり郷里の福岡で7万人、東京で3万になど、全国で数十万という署名が集まった。
なお、廣田弘毅の妻・静子は東京裁判開廷前の1946年(昭和21年)5月18日に鵠沼の別邸で服毒自殺している。自殺は玄洋社幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。

1948年(昭和23年)12月23日の午前0時21分、巣鴨プリズン内で絞首刑を執行された。70歳没。


廣田弘毅像(広田弘毅像)

広田弘毅銅像は、舞鶴公園の南側、NHK福岡放送局・国体道路に面した北側に立像している。

廣田弘毅
 進藤一馬書

廣田弘毅先生銅像碑銘
 廣田弘毅先生は1878年2月14日、徳平、タケの長男として福岡市鍛冶町(現中央区天神3丁目)に生れる。幼名を丈太郎といい、のち自ら改めて弘毅とす。修猷館、一高、東大に学び、柔道を玄洋社明道館にて練磨す。学を卒えて外務省に入り、山座圓次郎氏の薫陶を受く。東亜の平和維持に心を砕き、特に韓国、中国、ソ連との関係改善に努力す。外務省欧米局長、駐オランダ公使、駐ソ連大使を歴任、1933年国際連盟脱退後の難局を受けて斎藤内閣の外務大臣となる。
 1936年、2・26事件突發直後、内外の情勢緊迫せるなかに内閣総理大臣の大命を拝し、死力を盡して粛軍の徹底を期す。さらに近衛内閣の外務大臣として入閣、軍部の暴走阻止と日中戦争の早期和平を図るが果たさず第一線を退く。太平洋戦争終結に当たり、重臣としてソ連大使マリクと和平を図るも及ばず終戦を迎う。
 然るに、極東軍事裁判は先生が文官なるにもかかわらず軍と通謀、大陸、南方への侵略を企図したとして絞首刑を宣す。而して当たらず。全国民、この悲報を意外とす。先生、毅然として判決を受け、一言の弁解もなく従容として巣鴨刑場の露と消ゆ。時に1948年12月23日午前零時34分なり。郷党この不当を悲しみ、不運を嘆く。ここに同志相図り像を刻んで、その遺徳を永遠に顕彰せんと之を建つ。
 後学 進藤一馬 撰并書
1982年5月15日
 廣田弘毅先生銅像建設期成会
  会長 進藤一馬 

進藤一馬は、福岡市出身の政治家。
玄洋社2代目社長であった進藤喜平太の子息。
中野正剛の秘書を経て、最後の玄洋社社長(1944‐1946)に就任。
A級戦犯として起訴されるが起訴されずに釈放。
衆議院議員、福岡市長などを歴任した。

浩々丹心輝萬古

広田弘毅の辞世の句。

浩々丹心輝萬古
 浩々たる丹心万古に輝く
 大きな真心は永遠に輝く

広田弘毅の菩提寺「崇福寺」で揮毫されたご遺墨を写したもの。

廣田弘毅の句としては、下記も有名。

風車、風の吹くまで昼寝かな

「今は風が吹かずとも(不遇の時でも)、風車が回るように好機が巡ってくるまで、焦らずじっくりと(昼寝するように)時を待つ」の意。
外交官としてオランダに赴任していた頃、3年間を過ごす中で詠まれたという。
忍耐と好機を待つ心境は、広田弘毅の潔い生き方と、不遇を乗り越える精神力を示している。

東京裁判で文官としてただ一人死刑判決を受け処刑された、元内閣総理大臣・広田弘毅。
処刑直前、面会に訪れた教誨師の花山信勝氏に対し、多くを語らず「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ」と述べたと言う。

士不可以不弘毅」(『論語』巻四 泰伯第八)
 士はもって、弘毅ならざるべからず
  「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力

道を挟んで福岡縣護国神社が鎮座している。

場所

https://maps.app.goo.gl/bTDpSXV2Nahm6wNR7


水鏡天満宮

旧社格は村社。菅原道真が川の水面に写る自分の姿のやつれ具合を見て嘆いたことにちなみ創建された古社。
江戸時代初期に福岡城の鬼門にあたる現在地に遷座された。
福岡の「天神」の地名の由来ともなった神社。
廣田弘毅が揮毫した社号標と扁額が残る。

天満宮

水鏡天満宮の南側の鳥居の「天満宮」の石額の書は、広田弘毅が11歳の時に揮毫したもの。

水鏡神社

日清戦争戦勝祝いに建立された社号標「水鏡神社」は、廣田弘毅が17歳のときに揮毫したもの。

場所

https://maps.app.goo.gl/94WGb8CqtnVfxb3g6


廣田弘毅先生生誕之地

1878年(明治11年)2月14日
福岡県早良郡福岡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の広田徳平(通称:広徳)とタケの長男として生まれる。初名は丈太郎(じょうたろう)。

 「丈太郎」から「弘毅」に改名したのは旧制修猷館中学卒業直前。
「論語」巻四、泰伯第八にある「士不可以不弘毅」から採ったという。

廣田弘毅先生生誕之地

出光石油の創業者・出光佐三による揮毫
出光佐三は、福岡県宗像市の出身。

場所

https://maps.app.goo.gl/ey9vPAA5KMBmJDRU9


興禅護国・聖福寺(廣田弘毅菩提寺)

聖福寺(しょうふくじ)
福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院。
栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺、「扶桑最初禅窟」
境内は国の史跡に指定
福岡空襲の戦災からは逃れ江戸時代に再建された伽藍などが残る。
山号は安国山(通称は安山)。

第三十二代首相 廣田弘毅の菩提所

平岡浩太郎(玄洋社初代社長)の菩提所でもある。
廣田弘毅の東京帝国大学法科大学政治学科の学費は玄洋社(初代社長)の平岡浩太郎が提供していた。

興禅護国
 弘毅書

広田弘毅が聖福寺に贈るために書いたもの。

興禅護国
 この碑は、広田弘毅(1870~1948)が聖福寺に贈るために
書いたものです。(裏面には興禅護国論の序文の一部が刻まれています。)
弘毅は福岡市出身の外交官・政治家で第32代の内閣総理大臣を
務めた。
 『弘毅』の名は修猷館中学時代に聖福寺第2世東瀛老師に相談
して「論語」 巻四、泰伯第八にある「士不可以不弘毅」から採って幼名『丈太郎』から変えた。又『弘毅書』という自署は巣鴨プリズンにいた時に用いたと伝えられている。
 妻の死去に際して、聖福寺第1世戒應老師に妻と自分の戒名
を授かった。
 「興禅護国」は聖福寺開山栄西禅師の著した『興禅護国論』からとったもので、二度目の中国渡海から戻った禅師は京都で布教を始めたが、在来仏教側から批判を受けた。これに対して禅師は禅宗が天台宗の教えに反するものでないことを主張し、禅を興すことが国を護る要因となるとの考えから護国の教えを説いた『仁王護国般若波羅密経』から書名を付けた。
ちょうど聖福寺造営中(1195~1204)の事であった。

日本茶発祥の木

禅寺らしい静謐な佇まい。

廣田家の墓所(廣田弘毅・静子夫妻の墓、両親の廣田徳平・タケ夫妻の墓)も、聖福寺墓地内にある。(一般非公開)
下記を参照。

場所

https://maps.app.goo.gl/CA9BrGQUagaqX6CQA

以上、福岡市での、廣田弘毅を巡る散策でした。


※撮影:2025年7月


関連

大アジア主義の第一人者「頭山満」と福岡の政治結社「玄洋社」関連の史跡散策(福岡・東京)

福岡に赴いていたときに、福岡の地図を眺めていたら、歴史的に香ばしい感じで「玄洋社」とか「頭山満」とか、興味をひいたポイントがいくつかあったので、そんな関連史跡をふらりと巡ってみました。
そして記事を書いているうちに、東京に玄洋社関係者の墓がいくつかあったので、それもあわせて掲載してみました。


頭山満

頭山 満(とうやま みつる)
安政2年4月12日(1855年5月27日)- 昭和19年(1944年)10月5日
玄洋社の中心人物、右翼・国家主義者、アジア主義者。
昭和の巨人とよばれた国家主義の第一人者であった。

頭山満が組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。
また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となり孫文とともに中国同盟会も設立し、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。
一方で、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。
鳥尾小弥太、犬養毅、広田弘毅、中野正剛など政界にも広い人脈を持ち、実業家(新聞社代表)や民族的活動を支援する篤志家としての側面も持っていた。
中国の孫文や蔣介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、朝鮮の金玉均など、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

遠山満は、歴史の節々に影響力を発揮しており、孫文亡命、ラス・ビハリ・ボーズと新宿中村屋の仲介、井上日召の血盟団事件、五・一五事件・犬養毅暗殺事件、などに関わっていた。

晩年は、静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。
葬儀委員長は元総理の広田弘毅、副委員長は緒方竹虎がつとめた。

頭山満の墓は、以下の3箇所にある。
・頭山家の菩提寺である圓應寺(未訪問)
・玄洋社墓地のある崇福寺
・東京の青山霊園

https://www.ennouji.or.jp/concept/history-omen/h8.html


玄洋社

1881年(明治14年)に旧福岡藩士が中心になって、結成された政治団体。
日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれている。
自由民権運動の拡充を目指し結成され、植民地支配に対抗して、アジア民族の欧米隷属からの脱却を目指し、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。
同時に、対外的にはアジア民族の欧米隷属からの独立を支援し、アジア諸国との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。

明治10年(1877年)の西南戦争の後、高知の板垣退助のもとで学んだ頭山満は、明治12年(1879年)帰郷し、自由民権運動の結社として向陽義塾(後に向陽社)を設立した。これが、玄洋社の前身である。社長は箱田六輔、幹事は頭山満、進藤喜平太。

明治14年(1881年)、向陽社を玄洋社と改称する。
旧福岡藩士らが中心となり、 藩立修猷館出身の平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父・玄洋社2代目社長)、月成功太郎(廣田弘毅夫人となる静子の父)、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立に参画、のち杉山茂丸も加わった。
明治22年(1889年)、大隈重信爆殺未遂事件の首謀者であった来島恒喜も玄洋社社員。
日露戦争で勝利に貢献した明石元二郎も玄洋社社員であった。
昭和期に活躍する、廣田弘毅や中野正剛、緒方竹虎なども玄洋社に関係があった。
また、玄洋社2代目社長であった進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた「進藤一馬」は戦後に福岡市長を務めている。

玄洋社は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権 利を固守すべし」の三憲則を基幹とし、自由民権の普及に献身、憲法の新設、国会の開設、次いで祖国の国力の伸張に奔走する一方、屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基くアジア民族の自決独立の援助に勇往邁進した。
中でも中国革命に於ける玄洋社の存在は大きく、第二次世界大戦終了直後まで日中和平工作を継続していた政治結社は玄洋社を除いて他になかった。

https://genyosha.jp

本編では、下記の玄洋社の主要人物に言及。
・頭山満
・高場乱
・来島恒喜
・中野正剛
・緒方竹虎
・内田良平

※広田弘毅は、別記事にて。


玄洋社跡碑

福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して「玄洋ビル」があったが解体済み。同ビル跡地はNTTドコモ舞鶴ビルとなり一角に記念碑が建立されている。
玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」も玄洋ビル内にあった。1978年(昭和53年)11月に開館し、2008年(平成20年)5月末をもって閉館したが、資料は福岡市博物館に寄託された。

玄洋社跡

玄洋社跡記念碑
明治、大正、 昭和と激動する世界の中にあって、日本の独立を守りアジアの解放を目指して活躍した玄洋社は 自由民権運動の中で、明治十二年(一八七九)談生した。
以来昭和二十一年(一九四六)解散まて、六十七年にわたりこの地を本拠地として活動を続けた。
 平成九年十月
  社団法人玄洋社記念館建之


玄洋社墓地(崇福寺)

臨済宗大徳寺派の寺院、三道場のひとつ。福岡藩主黒田家の菩提寺。かつての伽藍は広大な寺域を誇っていたが、福岡大空襲で灰燼に帰した。(現在の寺域は戦前の五分の一の規模に縮小)

玄洋社墓地には、頭山満、来島恒喜、高場乱の墓、そして154基ある玄洋社員の墓などがある。

西都法窟
勅賜萬年崇福禅寺

頭山満先生之墓所

玄洋社墓地

玄洋社基地整備趣旨
「玄洋社の生みの親」高場乱の生誕百九十年を迎えるにあたり その偉業に思いを触せ高場乱の子孫である株式会社アキラホールティンクス代表取締役安部泰宏は私財を投じて、玄洋社基地を整備し、遺徳を未来永幼に伝え残すものとする。
 令和四年八月二十日

安部泰宏氏は、玄洋社の創始者・高場乱の姉の子孫にあたるという。
高場乱保存会「人参畑塾の会」顧問、高場乱の銅像建立にも尽力。

獨 朗 天 眞

先亡霊塔

昭和十一年十月改葬の折、立ち並んでいた玄洋社員の墓標を整理し、全物故者を弔うために五輪塔が建てられた。
裏面には論語の一節「殺身成仁」(自分を犠牲にして仁を成す)(頭山満書)
※写真撮り忘れ

場所:

https://maps.app.goo.gl/VwtnVS626nUnXYWs8


頭山満先覚之墓(玄洋社墓地)

玄洋社の先覚者として、祀られている頭山満。

頭山満先覚之墓

昭和十九年十月五日於富士山麓御殿場帰幽享寿九十歳乞分骨同年十一月六日葬於崇福寺玄洋社墳域
 後学 宮川五郎三郎敬書

宮川五郎三郎は、奈良原至の弟。
奈良原至は、玄洋社の草創期からの社員で 玄洋社随一の豪傑と呼ばれた人物。
宮川五郎三郎は玄洋社の組織の根幹を支えた人物。


高場乱(玄洋社墓地)

高場 乱(たかば おさむ)
天保2年10月8日(1831年11月11日)- 明治24年(1891年)3月31日)
江戸時代末期の女性儒学者で、眼科医、教育者。
頭山満ら多くの国士を育てた。「人参畑の先生」。

代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を務めていた高場家・高場正山の末子として生まれる。
高場乱は男子扱いで育てられており、天保12年(1841年)、10歳で男性として元服した。16歳で結婚したが、これを不服として自ら離縁し、20歳の時に儒学者・亀井昭陽(亀門学)の亀井塾に入った。亀井塾は当時身分性別を問わない学風で、女性の弟子も多かった。

明治6年(1873年)、福岡藩住吉村の薬用人参畑の跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設。
興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが、頭山満であり、のちに玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎や進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎などが、いずれも興志塾で学んだ。
頭山満らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなど、弟子となる玄洋社の面々を見守ってきた。
弟子の一人である来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛けた上で自殺したことには衝撃を受け嘆きの歌を詠んでいる。
来島の自殺の翌年、乱は病床に伏し、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日、59歳であった。

高場先生之墓

勝海舟の揮毫

碑面題識勝海舟先生之書也

2023年には高場乱の生誕190周年を記念し、高場乱の銅像が建立された。
「高場乱騎牛象」牛に横乗りする高場乱

高場乱先生之像

高場乱先生は、天保二年(一八三一)博多の瓦町に誕生。家は代々、眼科医である。乱先生の父である正山先生は高場流眼科の九世を継承したが、元々は福岡藩医の一統でもある。
正山先生には二女があり、長女は小田家に嫁いだことから、次女の乱先生を高場流眼料の後継者に据えた。しかし、時は封建時代。正山先生は乱先生を男子として福岡藩庁に届け出、刀を持つことも許された。正山先生は乱先生を男子として教育。乱先生も正山先生の意に応え、医学を学び、漢籍の学問にも励まれた。後年、正山先生の代診を務めるほど乱先生は評判の眼料医になられた。
乱先生は、福岡藩の薬草園である人参畑近くに学塾を構え、眼科診療の傍ら、有為の青年教育にも尽力された。この塾が人参畑塾こと興志塾である。乱先生は塾生からの謝礼どころか、貧しい人からは治療代を受け取らない無欲の人。博多の衆は乱先生を「人参畑の婆さん」と、尊敬と親しみを込めて呼んだ。
乱先生の学墊には、入門を願う青年が多数押しかけた。しかも、塾生の行動に対し、一身に責任を負うという気概を示され、ごの事実は今もって語り草てある。塾は歴史に名を刻む著名な志士を多数輩出。門弟たちの活躍の場は遠くアジアにまで及び、乱先生の教育方針が、どれほど壮大なものてあったかが窺いしれる。しかし、明治二十四年(一八九一)三月三十一日、乱先生は病没された。
医師として自身の余命を知り、静かに息を引き取られたという。弟子たちは旧藩主黒田家の墓地を分けてもらい、乱先生の墓を建てた。葬儀の会葬者は五百人余り。葬列は整然とじて、見送りの人垣が続いたという。
墓碑銘には、乱先生の人柄を著す言葉が簡潔に刻まれている。
金銭や名誉を求めず、清貪に負けず、よく他人を援け、自身の事は後回しだった。名を成した後も、師について易経を学んだ。時代が変わっても、その教育方針に変わりはなく、門下生たちは皆、豪傑揃いで盛ん。皆、義を胸に抱いたものばかりで、美しい綾を織りなすがごとく。だが、志は大きいが行いが伴っていない。この春、俄かに高場先生は具合が悪くなり、亡くなられた。その天命は果てしないだけに、敬愛する人を喪い茫然とするばかり。形もなく、変化もなく、どどまることを知らない万物の母。その識見が高い人はかくれてしまった。平原は薄暗くなり、その魂は愛する故鄉に帰るがごとく天に還っていった。
  高場乱先生略伝慧碑後面の「勝海舟書」より


来島恒喜之墓(玄洋社墓地)

来島 恒喜(くるしま つねき)
1860年1月31日〈安政6年12月30日〉 – 1889年〈明治22年〉10月18日
玄洋社元社員。
条約改正に絡む外国人司法官任用問題から、当時外務大臣を務めていた大隈重信の暗殺を計画。
計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行。

1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。
爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発。来島はその場で短刀で喉を突き自害。享年29。
大隈は命はとりとめたものの、顔と手に軽症、右膝と踝に重症を負い、右脚を切断することとなった。

来島も学んだ興志塾(通称・人参畑塾)の塾長高場乱は、かつて塾生だった来島が爆弾テロ事件を起こしたことを聞くと、国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判した。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる、

来島の葬儀の際、弔辞を読むこととなった頭山満は「天下の諤諤(がくがく)は君が一撃に若(し)かず」と、国民輿論を無視し条約改正に突き進む政府の政策を打ち破った来島を激賞した。

来島の墓碑を寄贈した石工の広田徳平は、後に首相となる広田弘毅の父。また、計画に加わっていた月成功太郎は弘毅の妻の父であり、岳父にあたる。

来島恒喜之墓

明治廿二年十月十八日於東京霞関自刃行年三十一


玄洋社墓地内の碑群

満洲義軍志士之碑
明道館柔道之碑

154基ある玄洋社員の墓

時間がなかったので、福岡藩主黒田家の墓所には訪れず。
そのあたりは、また次回かな。


頭山満墓(東京・青山霊園)

頭山満の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

頭山 満 墓
室 峰尾

1855年、福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれた「筒井満」。
1873年の春、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改め「頭山満」となる。
頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってから。

昭和19年10月5日
享年89歳

※青山霊園撮影:2021年5月


来島恒喜之墓(東京・谷中霊園)

来島恒喜の墓は、東京の谷中霊園にもある。参考掲載。

来島恒喜之墓
 頭山満書

来島恒喜の墓は、勝海舟によって谷中霊園に建立されたが、その後に、玄洋社の頭山満によって長け替えられた。当初の墓石も、傍らに残されている。

来島恒喜の碑。
昭和13年に頭山満揮毫で墓碑が建立されたことを記す。

当初の墓石、一部が摩耗している。
来島恒喜之墓 勝安芳書

明治廿三年十一月建

東京の来島恒喜の墓は、谷中霊園の乙10号17側

※谷中霊園撮影:2026年1月


頭山満手植えの楠

西新緑地に、頭山満が手植えしたクスノキがある。

楠木の由来
このクスノキは、政治結社「玄洋社」の創設者の一人、頭山満翁(1855~1944年)が植えたものです。
そばに建つ石碑には、慶応元(1865)年、頭山満翁が11歳の時に「楠木正成のような人になりたい」との願いを込めて生家の庭に苗木を植えたとあります。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZsAJ6iL2P3ecxZhb7


中野正剛

中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
国会議員であった中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。

諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。

中野の雄弁と早稲田の聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、憲兵隊の制止どころではなかった。
当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、東條首相を痛烈に批判。この記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。宇垣一成擁立を進めるが重臣会議での連携不足で失敗、次いで東久邇宮稔彦王擁立を進めるが、東條側の対策の打つ手が先行してしまう。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会(東方会の改称)の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
東條英機は大いに溜飲を下げたが、国会議員であった中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。
釈放されたものの、憲兵2名の見張りがつき、追い詰められた中野は10月27日に割腹自殺した。
享年57歳。

戦前の帝国議会議員で最初の自殺者であった。


中野正剛先生像

中野正剛像
昭和30年3月27日に鳥飼八幡宮境内に建立された。


中野正剛先生碑
 緒方竹虎書

緒方竹虎と、中野正剛は修猷館、早稲田大学、東京朝日新聞記者を通じ、変わらぬ親友であった。大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。

中野正剛先生略伝
明治十九年二月十二日福岡市西湊町(現荒戸一丁目)ニ生レ中学修猷館、早稲田大學ニ学ブ。
東京朝日新聞記者、東方時論主幹トシテ健筆ヲ揮イ郷土紙九州日報ヲ経営ス。
福岡県一区ヨリ衆議院議員ニ当選スルコト八回在職二十年四月。
其間大蔵参與官逓信政務次官トナル。
後、東方会ヲ組織シ全国ノ青年同志ヲ糾合国事ニ奔走ス。
性剛直果断、愛国ノ至誠ハ熱血ノ雄弁不抜ノ筆陣トナリ毅然トシテ所信ニ邁進、太平洋戦争酣ナルヤ戦局日ニ非ナルヲ憂イ東條内閣ノ退陣ヲ図リ其収拾ニ盡瘁。
東條首相ノ熾烈ナル弾圧ニ屈セズ抗議スルモ志成ラズ。
昭和十八年十月二十七日渋谷ノ自邸ニテ自刃。
 歳 満五十七
  門人 進藤一馬 謹書

豪傑之志
雖無文王
猶興

 耕堂正剛

孟子「豪傑之士雖無文王猶興」
「才知や徳のある豪傑は、文王の教えがなくても、自発的に立ち上って善を行うことができる」の意
中野正剛が提唱した猶興は アジア主義(南進論)の思想的拠点、「猶興居(ゆうこうきょ)」に関連し、中野正剛の「アジア主義」と「東方会」の活動の根幹をなす概念。
「猶興(東洋の興隆)」は中野正剛の理想を表している。

中野正剛先生旧家跡

鳥飼八幡宮の参道脇に。

鳥飼八幡宮

筑前藩主黒田家の氏神、 福岡市の鎮守。
旧社格は県社。2022年に建て替えられたモダンな神社建築。
神功皇后が胎内の応神天皇の将来をお祝いした地・鳥飼村に社を建てたのが創始という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/SBRmrqjoGFe2g9Yf9


中野正剛生家跡

電信柱に、生家跡の表記があった。石碑があるものばかり思って探していたら、これはなかなか見つける難易度が高い。

中野正剛生家跡
明治19年(1886)年2月12日、旧筑前藩士中野泰次郎とトラの長男として、当地の伯父中野和四郎宅で出生。幼名甚太郎。
中野正剛という人物には謎がある。朝日新聞の辣腕記者であって、電信電話の民営論者。大塩中斎と西郷隆盛と頭山満に憧れていて、犬養毅と尾崎咢堂の擁護者。シベリア出兵の反対者にして極東モンロー主義者。それでいて満州国支持者で、ファシストであって東条英機の戦線拡大反対者。酒も煙草もやらないが、論争と馬には目がなく、やたらに漢詩漢文が好きな男。いったいこれは何者か。はっきりいえるのは、自死は中野正剛が最後の最後に選んだ結論だったということである。腹は真一文字に切り、左頸動脈を切断した。(昭和18年(1943年)10月27日未明、知らせで駆けつけた頭山満が、「古武士のような見事な最期」と言った。)中野正剛については、ほとんど詳細な研究がない。(松岡正剛「千夜千冊」より)

場所:

https://maps.app.goo.gl/A4zabw5yiDoQ16FK7


中野正剛墓(多磨霊園)

中野正剛の墓は、東京の多磨霊園にもある。参考掲載。
12区1種1側2番

中野家之墓

昭和十年六月 中野正剛 建之

扁額は、頭山満。
碑の撰は徳富蘇峰、書は緒方竹虎

才該衆美 氣吐長虹 矯々不群 國士之風

友人 蘇峰徳富正敬撰
同学 緒方竹虎書

※多磨霊園撮影:2026年1月


緒方竹虎墓(青山霊園)

中野正剛の友であった緒方竹虎。
玄洋社の頭山満は緒方竹虎の結婚の仲人を務めた。
そして、緒方竹虎は頭山満の葬儀副委員長を務めている。葬儀委員長は、廣田弘毅であった。

緒方竹虎は、朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。

緒方竹虎の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

緒方家之墓

※青山霊園撮影:2021年5月


内田良平墓(多磨霊園)

黒龍会主幹。柔道家。
頭山満の玄洋社の三傑といわれた平岡浩太郎が伯父(父・内田良五郎の実弟)。
明治34年(1901年)黒龍会を結成。玄洋社の一部がアジア主義を掲げて大陸で活動するために、玄洋社初代の平岡浩太郎の甥に当たる内田良平を中心として設立。頭山満が顧問であった。
昭和6年(1931年)に大日本生産党を結成し、その総裁となる。
昭和7年(1932年)の血盟団事件・昭和8年(1933年)の神兵隊事件などの黒幕と呼ばれた。
昭和9年(1934年)大本教系昭和神聖会副統管。
昭和12年(1937年)7月26日死去。没年64歳。墓所は多磨霊園14区1号9番地。

内田良平之墓

頭山満書

昭和12年7月26日逝去 享年64歳
 昭和13年7月26日建之

※多磨霊園撮影:2026年1月

※福岡の写真撮影:2025年7月


八戸の盾「海防艦・稲木」八戸の戦跡と近代史跡散策

八戸に赴く機会がありました。
せっかくなので、八戸の戦跡と近代史跡を中心に歴史散策を。

地震の影響で、「八戸線」が運休するなどもあり、バスを活用しての八戸の東西移動になりましたが、思った以上にバス路線が充実しており、当初の予定より、だいぶアクティブに行動できた感じ。
新幹線の「八戸駅」が、まったくもってイメージしていた「八戸」(八戸中心街)とは違う場所にあって、ちょっと焦りましたが。


海防艦稲木之碑(蕪島神社)

1945年(昭和20年)8月9日。
八戸の鮫港の蕪島沖に仮泊していた「海防艦・稲木」は、米軍艦載機の集中攻撃を受け、激しい攻防の末に撃沈した。

米軍艦載機約50機の空襲をたった一艦で迎撃し「八戸の盾」として、八戸市民と八戸の街を護った「海防艦・稲木」。
約4時間にわたる海空の激戦が鮫港で繰り広げられ、ロケット弾と銃撃により稲木は撃沈し、稲木乗組員243名のうち稲木艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死、重軽傷者83人を出した。

「八戸の盾」として活躍をした稲木を偲ぶ慰霊碑が「蕪島神社」の境内にある。

海防艦稲木之碑

昭和20年8月9日、八戸港内に仮泊中の海防艦稲木は来襲せる米三十八機動部隊の艦載機群と交戦勇戦敢闘遂に沈没す
爾来38年、当時の乗組員並びにその父母2世及び関係者相図り記念碑を建立して、物故者の霊を追悼し、あわせて世界の恒久平和を祈念するものである。
 昭和58年8月7日

合掌

稲木乗組員
物故者皆様方のご冥福を
心からお祈り申し上げます

蕪島からみた八戸の港

場所:

https://maps.app.goo.gl/DewsSiQdS5AugEnp9


海防艦・稲木

1944年(昭和19年)5月15日、三井造船玉野造船所で起工。
仮称艦名「第4701号艦」。香川県高松市の離島「稲木島」から「稲木」と命名され、鵜来型海防艦の12番艦となる。
基準排水量:940トン
全長:78.77m
最大幅:9.10m
速力:19.5ノット
乗員定員:149名
兵装・搭載機材:
 45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基
 25mm機銃 3連装5基、単装1基
 三式迫撃砲 単装1基
 九四式爆雷投射機2基
 三式爆雷投射機16基
 爆雷120個
 短艇3隻搭載
 レーダー 22号電探改四 1基
 レーダー 13号電探改三 1基
 ソナー 九三式水中聴音機 1基
 ソナー 三式水中探信儀 2基
1944年12月16日竣工、山田忠太少佐が稲木海防艦長となる。
就役後は、船団護衛に従事。
1945年(昭和20年)8月8日、「稲木」は船団を護衛し釜石を出港し八戸に入港。翌8月9日朝、八戸はアメリカ軍第38任務部隊艦載機の空襲を受ける。稲木は午前9時頃、空母「ランドルフ」と「エセックス」から発進したF6F、SB2Cによる空襲を受けて後甲板に直撃弾を受けて機械室が大破。夕方頃に沈没した。海防艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死。

八戸港国際物流拠点化推進協議会
>八戸港の歴史
https://hachinohe-port.org/hachinohe-port/history/
海防艦「稲木」の残骸(昭和20年)

Wikipedia > 鵜来型海防艦

鵜来型海防艦「宇久」の画像(参考)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/IJN_escort_vessel_UKU_in_1944.jpg


海防艦稲木戦歿者慰霊碑(呉海軍墓地)

稲木の慰霊碑は、呉海軍墓地にもある。関連として掲載。


海防艦顕彰碑 護国 海防艦(靖國神社)

海防艦顕彰碑が靖國神社の境内にある。関連として掲載。

船団護衛と沿岸警備を主任務とする排水量約800トンの小艦であった「海防艦」
海防艦189隻の内85隻が海没し、1万余の尊い命が捧げられた。

 船団護衛と沿岸警備を主任務とする海防艦は、昭和15年6月竣工の「占守」を第一号艦として、さきの大東亜戦争終結までに未就役19隻を含め建造数189隻にのぼった。
 要目は全長約70メートル排水量約800トン乗員200余名、小艦ながら優秀な対潜対空兵器をもち 操縦性と航洋性の点においてもすぐれていた。
 乗組員延総数3万余、士官に商船学校出身者、学徒出身者、兵よりの昇進者多く、兵員中には17才前後の少年の姿もみられた。
 十分な訓練を受けるいとまなきまま、北は千島から南はシンガポールに至る広い海域で、不眠不休、日夜任務の遂行に当った。人員、兵器、物資の輸送を果しつつ、途上、潜水艦、航空機を撃沈撃墜する戦果もあげたが戦局の悪化に伴って被害艦続出し、85隻を失い、1万余の人びとが尊い生命を国に捧げた。
 ここに海防艦顕彰の碑を建て、戦没乗員の勇戦と労苦をしのび、併せてわが国海上輸送の宿命的重要性を後世に伝える資としたい。
  昭和55年5月5日 海防艦顕彰会

冬の季節に。


八戸と戦争

八戸港
昭和18年頃には制海権を失っていた日本。昭和18年8月には、八戸沖にも米海軍潜水艦が進出していた。8月に「明和丸」「美福丸」、9月に「第六多聞丸」、10月には「幹雲丸」が撃沈され、八戸沖の近海航路も危険な状態となっていた。
そんななかでも八戸港からは漁船船団が、ボルネオまで石油積取得のために決死の航海を行っている記録も残っている。しかし、昭和19年6月にマリアナ沖海戦で日本艦隊は壊滅的な打撃をうけ、そしてサイパン島が陥落したことで、南方資源との航路も閉ざされることとなった。

八戸永久築城(八戸要塞)
昭和19年7月、大本営は「本土沿岸築城実施要綱」を発令し、「捷号作戦」本土防衛計画が策定された。本土方面決戦(捷三号作戦)として、連合国軍の上陸を迎え撃つための重点地域が下記の3箇所に絞られた。
・九十九里浜
・鹿島灘
・八戸周辺
八戸には、大規模な上陸作戦を可能とする長大な砂浜が多いという地理的な要因もあり戦略的な要衝となっていた。米軍の本土上陸に備え、昭和19年10月に、八戸永久築城緊急工事が始まった。
わずか半年の工期で、八戸の後背地の新井田川沿いの山中の「是川」「舘」「島守」にまたがる1,380ヘクタールの地域に、地下壕が掘られ、トーチカ陣地が造られた。この八戸要塞の築城には98万人の人員と43,000台の馬車が動員された。昭和20年1月からは、八戸中学校500名、八戸商業200名、八戸水産200面、八戸高等女学校700名、千葉学園400名のほか、八戸市内国民学校高等科の男女生徒2,200名など、近隣の学徒も動員された。

八戸の防衛配備状況
八戸永久築城(八戸要塞)が昭和20年3月末に完成後、昭和20年4月8日に、大本営は「決号作戦準備要項」を決定。東北は第十一方面軍が守備を担当することとなり、仙台と八戸の二ヶ所を重点地とした。
八戸守備として、独立混成第九十五旅団(旅団長・石黒岩太陸軍少将、石黒兵団)が配備。
「陸軍八戸飛行場」には、飛行部隊が展開。「蕪島」には海軍が特攻艇の配備を計画。「鮫港」には海防艦・稲木が停泊。「鮫角」には軍司令部直轄の電波探知機(電探)が配備。「鮫」には陸軍3個中隊と機関銃25、高角砲16、重砲2が配備された。しかし重砲は日露戦争時代(明治45年1912年)の代物、であった。
また、その他の部隊として、「白銀」に弾薬補給部隊、「湊」に食料補給部隊が置かれた。


八戸空襲

八戸には、陸軍の「八戸飛行場」(現在の海自八戸航空基地)や、米軍上陸に備えた「八戸防衛陣地(八戸要塞)」、蕪島の海軍基地(特攻基地)が配備され、軍需工場に指定された民間企業も多数ある街であった。

昭和20年7月になると、関東の主要都市に対し空襲を重ねてきた米軍は、東北にも及んできた。

昭和20年7月14日15日に、八戸は、米空母機動部隊艦載機(F6Fグラマン戦闘機)による初空襲を受ける。
朝5時から7時、9時、11時と2時間ずつの波状攻撃で、高舘飛行場(現在の海上自衛隊八戸航空基地)、日東化学、尻内駅が被害を受けた。この攻撃は翌日も続き、死者行方不明者452名、重軽傷者は多数にのぼった。

ついで、7月27日には、青森市に爆撃予告のビラが撒かれ、翌28日夜にB29が青森市を空襲し、結果、「青森大空襲」として約700名が死亡した。

青森大空襲のあと、八戸では学童疎開がはじまった。
八戸国民学校から縁故疎開した生徒は800名、引率集団疎開した生徒は135名に及んだ。

そして、2回目の八戸空襲は、8月9日午前6時、グラマン戦闘機50機の来襲であった。
八戸港に仮泊していた海防艦「稲木」はこれに応戦したが、ロケット弾を集中的にあびせられ撃沈、艦長以下29名が戦死した。
翌10日も空襲があり、工場、民家等が爆撃され、多数の死者を出した。
おなじ8月9日に、一部が兵舎として使用されていた八戸国民学校も米海軍機の機銃掃射で炎上したが、第一陣の学童疎開が八戸を去った直後(八戸駅=現在の本八戸駅を発車まもなく)であり、重大な被害から逃れることが出来た。

3回目として、「八戸大空襲」を米軍は8月17日に予告してきていたが、8月15日に終戦を迎えたために「八戸大空襲」は幻となり、壊滅的な被害を免れることができた。

総務省>八戸における戦災の状況(青森県)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_01.html


蕪島海軍基地跡(蕪島要塞跡)

蕪島では、1944年10月ごろから、東西に島を貫通する坑道5本、南北に坑道1本が築造された。
「駆潜艇」用爆雷格納庫、であったという。
海軍では、捕鯨船のキャッチャーボートに爆雷投下装置と機銃を備え付け、応急の駆潜艇としており、八戸にも4~5隻が配備されていたという。蕪島の格納壕は未完成だったが、50~55個の爆雷が貯蔵される予定だったという。また、特攻艇「震洋」の格納庫として転用予定もあったという。

以下、八戸市蕪島休憩所にて

1942
内務省と海軍省のイラク工事として旧海軍により埋め立て工事が行われる。2年がかりで埋め立てられ本土と陸続きとなった。
1945
7月15日/太平洋戦争の末期にアメリカ軍からの空襲を受ける。

1942年(昭和17年)、軍需施設建設のため旧海軍による埋め立て工事が2年がかりで行われました。戦時中「北の要塞」と呼ばれた蕪島。写真には東西に掘られた5本の坑道口も見えます。

坑道の開口部が見える。

「NPO法人鮫町蕪島ウミネコvillage」が運営している建屋の中にあった資料。

https://www.daily-tohoku.news/archives/344351

デイリー東北(2025年8月15日)
蕪島が痛がっている
軍事要塞化で陸続きに
(略)
 1941年(昭和16年)12月、日本が米国などを相手に始めた太平洋戦争に合わせ、翌42年から着手された蕪島の軍事要塞化工事だ。

 鮫地区の沿岸に位置する蕪島はかつて、陸地と切り離された文字通りの「島」であり、頂上の蕪嶋神社と共に、漁師が会場の安全と豊漁を祈願する聖域だった。
 その島域を軍事要塞とすべく、海軍は架け橋を取り壊して陸続きに埋め立て、さらに島内に5本の坑道を掘った。爆薬を搭載して敵艦に体当たりする有人の水上特攻艇を坑道に隠す計画だった。
(略)
 蕪島だけではない。太平洋戦争末期の1944年10月、国は「八戸永久築城計画」に着手し、館・是川・南郷島守地区に100基を超える要塞を建設させた。対米戦の敗退が続き、米軍の上陸が想定されたことに伴う措置。実際、沿岸部を中心に米国の爆撃機による空襲も相次ぎ、上陸の危機は現実味を帯びていた。
(略)

マリエントから見る蕪島もおすすめ。

改めて、蕪島にて。坑道の気配は感じない。

戦後しばらくは開口していたが、十勝沖地震(1968)による陥没などもあり、埋め戻されている。

マリエントの展望台から

八甲田山がみえた。

ウミネコ?


蕪島神社

八戸駅からバスを乗り継いで「鮫小学校通」バス停に到着。
地震によりJR八戸線が運休中のため「鮫駅」を横目に、バスを駆使して、蕪島神社には歩いての訪問となりました。

ちなみに、バスは「八戸市内共通1日乗車券(800円)」を活用。これで、八戸市営バス(青いバス)と南部バス(赤いバス)が乗り放題。

蕪島は、戦時中に海軍の工事によって地続きとなった。

ちなみに、ウミネコは春から夏にかけて、なので、冬にはそんなに居ないのだ。

八戸小唄
昭和6年に造られた新民謡。

もともと「稲木」の碑を見に来たということを鑑みると、ウミネコがいないほうが落ち着いてゆっくり見学できるとも。

1933年の津波

2011年の津波

参道の石段脇に、津波の高さを示すプレートが設置されている。

2020年に再建の御社殿(2015年に焼失のため)

蕪嶋神社は社伝によれば1269年に江ノ島弁才天を勧進したのがはじまりだという。
祭神は市寸嶋比売命、多紀理毘売命、多岐都比売命の宗像三女神(厳島神社の主祭神である)で「蕪嶋の弁天様」として信仰を集めてきた。弁財天は商売繁盛や子授けにご利益があるとされているが、漁業の守り神でもある。

チョコクランチが、かわいらしかったので、お土産にしました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/YrYpwUkTL9HcrdhR7


葦毛崎展望台(葦毛崎海軍電探基地跡)

「うみねこ号」(鮫駅~種差海岸駅)を結ぶバスを活用して、葦毛崎展望台まで移動。これも一日乗車券で。

葦毛崎展望台
幕末時代には台場が築かれ、異国の船を監視するのに使われ、戦時中は、旧帝国海軍の「電探基地」(レーダー基地)の円盤基礎が設けられた。
2式1号電波探信儀(二式二号電波探信儀一型・二号一型電探、21号電探)が配備され、海軍による監視哨が置かれた。

上部構造物は戦後に観光地化で展望台として造営されたものだが、下部の円盤基礎は、戦時中の帝国海軍の電探基地(レーダー基地)の土台。

防空レーダーを備えた海軍の無線基地跡。

太平洋の眺望を楽しむ

鮫角灯台も見える

苫小牧の方向

うーん、さすがに見えない。

海軍時代の土台を基礎とする。

鮫角灯台側から。

場所:

https://maps.app.goo.gl/odqxUZJEtcgjLeaS8


八戸のマイルポスト

高さ5mほどにもなるコンクリート製の柱。
このそびえ立つ柱は、新造船の速度を計測するためのマイルポストであった。もともとは5本あったというが、現在は2本が残っている。
船の速度を測る計測器が発達していなかったころの産業遺産。

青森県庁>

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kotsu/seikatsu/files/kenshi-mado148.pdf

鮫角灯台と2本のマイルポスト


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R272-93
1948年(昭和23年)4月29日、米軍撮影

葦毛崎周辺を拡大

現在の様子


マイルポスト(鮫角)

海側のマイルポスト。こっちは近くに寄ることが出来ます。

場所:

https://maps.app.goo.gl/qVyfZMEGAh395RV88


マイルポスト(小舟渡平)

こちらは近くに寄れなかったので、鮫角灯台から。

ギリギリ、2本が写った画角

場所:

https://maps.app.goo.gl/tF77BUj7ftKFNQHM7


鮫角灯台

「日本の灯台50選」に選ばれている灯台。
昭和13年(1938)2月16日に初点灯。
毎年期間限定(4月~10月の土日祝日など)で一般開放しているが、私が訪れたこのとき(12月)は非解放。。。

鮫角灯台
初点
昭和13年2月16日

鮫角灯台
~美しい景観で地域に愛される灯台~
 鮫角灯台は、1938年(昭和13年)2月16日に点灯した灯台で、昭和初期からのハ戸港の目覚ましい発展に伴い、漁船や貨物船の安全な航行のため、地元からの強い要望により設置されました。
 1997年(平成9年)に、灯器は長寿命のメタルハライドランプを採用した回転式に変更しましたが、外観は設置当時のまま変わりなく海を照らし、航行船舶の道しるべとなっています。
 灯台の周辺地域は2013年(平成25年)に「三陸復興国立公園」に指定され、翌年の2014年(平成26年)には「白亜の灯台と青い空と海のコントラストが美しく、周辺の景観とも見事に調和し、地域のシンボルとして相応しい。」との評価から、第26回ハ戸市景観賞(まちなみ空間部門)を受賞しています。

位置 北緯 40度32分24秒
東経 141度34分34秒
光り方 単閃白光 毎8秒に1閃光
光の強さ 100,000カンデラ(約本分の明るさで
光の届く距離 19.5海里(約36キロメートル)
高さ 地上から灯台頂部 約23メートル
水面から灯火 約58メートル

鮫角灯台
海上保安庁
八戸海上保安部

鮫角灯台
施設の概要
初点
 昭和13年2月16日
位置
 北緯40度32分24秒
 東経141度34分34秒
構造
 白色塔型鉄筋コンクリート造
等級及び灯質
 第4等 単閃白光(毎8秒に1閃光)
光度
 100,000 カンデラ
光達距離
 19.5 海里(約36キロメートル)
高さ
 地上~頂部 23メートル
 水面上~灯火 58メートル
管理事務所
 第二管区海上保安本部 八戸海上保安部
 電話 0178-32-4691

なんだろ、築山

馬?

タイヘイ牧場が隣接している。サラブレッドの競走馬の牧場。
大川財閥の大川平三郎氏の「大」と「平」からの命名。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Dup6FbgSZqukGdCJ9


物見岩(種差防空監視哨跡)

鮫角灯台近くに、海抜52メートルの岩山「物見岩」があり、藩政時代から魚群発見や大漁などを狼煙を揚げて知らせる場所であったという。
この地に、戦時中は、陸軍の防空監視哨が設けられていた。

物見岩自然植物園
 このあたり一帯は、夏でも冷たい風や霧に包まれる日が多いため、さまざまの植物が自生しています。美しい自然を構成している植物には、南限または、北限の学術上貴重な植物なども見られるといわれています。
 市では、この自然を生かした小さな植物園を、市民の憩の場として利用できるよう整備しました。
 園内にある岩山は、海底から隆起したと思われる安山岩で、海抜五ニメートル、藩政時代から魚群の発見や、大漁など、のろしを揚げて知らせる場所であったということから、「物見岩」と名付けられました。また、海図にも記載され、海路の重要な目印になっています。また、このあたりは、名勝地と鳥戦保護区に指定されていますので、植物や鳥類をとることは禁止されています。

うーん、立入禁止。自身の影響かな。。。

岩場、、、

まあ、立入禁止ってあるので、強行はしない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/xBFpZoYjeWeq7Ko39


根城跡

おお。南部師行!!

実は、私は、最近はもっぱら近代史専攻な感じですけど、南北朝期も結構好きでして。南朝の南部師行は、義良親王と北畠顕家の陸奥将軍府を支えた重臣。北畠顕家と最期まで行動をともにし、石津の戦いで戦死した。

八戸市博物館は、休館中、、、残念。

せっかくだから、戴きました。

今回のサイトの記録に、八戸市博物館刊行の「戦後60年特別展・戦争と八戸市民‐苦難とともに‐」の図録が役に立ちました。
あと、「はちのへ文化財ガイドブック」は在庫僅少だそうで、そういうフレーズに弱いのであわせて戴きました。

根城跡
南朝方の根本となる城として、南部師行が築城。
日本100名城

場所:

https://maps.app.goo.gl/uK3isTWrZA2Pw4Xb7

https://maps.app.goo.gl/SWZ7SiqgxRUikCWEA


櫛引八幡宮

場所は変わって、八戸が誇る国宝スポットの「櫛引八幡宮」へ。
南部総鎮守一之宮。
本殿・旧拝殿(長所)・末社神明社・末社春日社・正門が5棟が国指定重要
文化財。
赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)と白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)が国宝。
紫糸威肩白浅黄鎧(兜、大袖付)と唐櫃入白糸威肩赤胴丸(兜、大袖付)と、兜(浅黄糸威肩赤大袖2枚付)が国重要文化財。

拝殿

本殿は改修工事中。
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

国宝館

赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)
白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)
国宝の2つの鎧を、ぐるぐると、ずーっと飽きることなく、みていられます。
これは良いものだ。
写真では伝わらないですね、これは生でないと。この鎧を生で見るためだけに八戸に赴いても損ではないかも。こういうのが好きな人であれば。

JR八戸駅でもアピールされてました

旧拝殿(長所)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

南門(正門)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

末社(脇宮)春日社本殿
国重要文化財
東北では数少ない一間社春日造。
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる

末社(脇宮)神明宮本殿
国重要文化財
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる


明治記念館(旧八戸小学講堂)

明治14年(1881年)竣工。
明治12年(1879)11月に立柱式を挙げ、明治14年(1882)8月に完成した八戸小学講堂は、青森県内に現存する洋風建築では最古のものである。
校舎が完成した明治14年8月に明治天皇の東北御巡幸があり、落成したばかりのこの講堂が、行在所として用いられた。
昭和4年には「八戸市図書館」として使用され、後の昭和37年に櫛引八幡宮境内に移築され「明治記念館」として現在に至る。

明治天皇八戸行在所

昭和10年4月建設

明治記念館の内部は見学できません
櫛引八幡宮

明治記念館の由来
 明治記念館は八戸市堀端に八戸小学講堂として、明治14年(1882)8月に竣工した、県内に現存する最古の洋風建築である。洋風の下見板張りの外壁が真壁として納まり柱の頂部には飾を載せ、胴蛇腹と幹蛇腹とを備えている。
 明治14年の明治天皇東北御巡章に際し行注所として用いられた。昭和4年には八戸市図書館となり御聖蹟として維待される。
 昭和37年に櫛引八幡宮境内へ移築し、その際窓回り等に若千の改造が加えられてはいるが、「明治」の雰囲気を色濃く伝えており、「明治記念館」として現在に至る。(現在は直会所・神前結婚式控室・会議室等に使用している。県重宝平成3年3月13日指定)

明治大帝御聖像

御大典奉祝
八戸市傷痍軍人会

碑文
 皇紀二千六百五十年 今上天皇御即位の礼 大嘗祭に世界百六十有ヶの国の元首代表が参列し 内閣総理大臣以下一億二千萬人の国民が挙って 御奉祝申上げる
 我等は
滿洲事麥以降大東垂戰爭の終結に至るまで 戦地に赴き 国家の干城として奮闘
 九死に一生を授かって この目出度き国家の慶事に遭う 生涯の恵に感泣し
 七生報国の誓を新たにす
 今茲に 先帝陛下の「耐ヘ難キヲ堪へ忍ビ難キラ忍ビ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」との聖旨を仰ぎ 国体の精華を讃え我が国の悠久の弥栄を祈念し 聖寿の万歳を寿ぎ奉り御大典奉祝の記念碑とす
 平成2年8月15日

場所:

https://maps.app.goo.gl/EorGdiXFBEbFb4iC9


八戸あれこれ

今回、人生初の八戸ということもあり、いろいろ堪能してみました。

へー、サバ日本一なのか。
サバのまち八戸

八戸駅の駅そば
駅そばはみかけると入ってしまいます。

天玉そば

地震の影響で、市街地に道路封鎖あり。

NTTの鉄塔に被害。
あと、JR西日本八戸線の鉄橋にも被害があって、JR八戸線も運休。

出張先の六ケ所村での昼食。
貝の味噌鍋、貝のエキスが染み出て美味でした。

JR八戸駅

JR八戸駅ちかくの海鮮居酒屋「浜小屋」さん。
おおあたりで美味。

本つぼ鯛
一番のおすすめ

本マグロカマトロにぎり、やばい

地場の日本酒も美味。

JR駅前のホテルから。

朝飯。
しじみ出汁茶漬け

八戸せんべい汁

なんばんみそ

八戸の山車、三社大祭

お土産ランキング。

「鶴子まんじゅう」を買いました。

もちろん、「なかよし」も。

駅中横丁、で。
イカ飯とせんべい汁を。

帰りの新幹線。

この日の移動距離など。

八戸、楽しく美味しい街でした。
今度は、ゆっくり散策してみたく。

撮影:2025年12月


秩父の近代史跡散策

秩父に行っていたので、駅周辺を散策してみました。



羊山公園

武甲山から北に尾根上に伸びる羊山丘陵にある応援。
「羊山」の名称は、戦前に埼玉県の「綿羊種畜場」が設けられていたことによる。

眺望。西側に秩父市街地が広がる。

秩父公園橋(秩父ハープ橋)


忠霊塔(羊山公園)

羊山公園にある、忠霊塔。
秩父出身の英霊を慰霊する。

忠霊塔

合掌

秩父市民心を同じくし力を協せて特に此の地を選び忠霊塔の威容ここに仰ぐ
先に太平洋戦争の暗雲去って平和来たり
我が国の独立更に陽光を迎えて国民斉しく忠魂を偲ぶ我が郷土
日露戦争以来殉国の英霊を景仰し愛国奉公の至情を追慕すること厚く
ここに高くその英風を顕彰し常に深く其の正気を思念す
庶幾わくは魏然たるこの聖塔を郷土の柱石と観じ相共に平和自治の建設と文化産業の興隆とに邁進せむ
 昭和29年7月
  秩父市忠霊塔建設委員会
  文学博士河野省三撰文並謹書

おっ、河野省三先生。埼玉出身の国学・神道学者。神社関係を調べていた時は、河野先生の関連はよく目にしていたが、戦跡関連では初めてかも。


柿原万蔵翁像(羊山公園)

秩父鉄道の前身となる上武鉄道の創始者、初代社長。
秩父織物業界、秩父産業を代表する人物、秩父銀行の設立等にも参加。
現在の柿原万蔵翁像(2代目)は、北村西望が昭和29年に建立。

柿原万蔵翁像
ここに立つのは秩父鉄道の創業者で初代社長 柿原万蔵翁(1860-1919年)の銅像です。
1939年に同翁頌徳会建立の像は先次大戦に供出されたため1954年同会が再度北村西望氏に依頼し製作しました
 1994年11月
  秩父鉄道株式会社

台座は、創建時の昭和14年建立。

柿原万蔵翁銅像入口

昭和14年3月
頌徳会

入り口の石柱は、創建当時のもの。


秩父事件追念碑(羊山公園)

尾崎咢堂(尾崎行雄)の扁額。
1949年(昭和24年)10月の建立。

秩父事件は、自由民権運動の影響下で発生した埼玉県秩父郡の農民と士族が政府に対して負債の延納、雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。

秩父事件関係は、吉田の椋神社にも訪れているので、別でそのうちまとめてみたいとは思いつつ、ですが。


牧水の滝・若山牧水 喜志子 比翼歌碑(羊山公園)

羊山公園にある人工の滝。
大正時代に秩父を数回訪れている歌人・若山牧水にちなむ。

秩父町出はづれ来れば機をりのうた声つゞく古りし家並に(若山牧水)

のび急ぐしたもえ草のあさみとりあやふくぞおもふ生ひ立つ子らを(若山喜志子)


せっかくなので秩父のあれこれ、を。

西武鉄道 西武秩父駅

2017年にリニューアルした駅舎。「特急Laview」と「武甲山」
秩父散歩のはじまりは、西武秩父駅から。

羊山公園にいったのであれば、武甲山資料館にも行くべきでしたが、時間の兼ね合いで、未訪問。また今度。


秩父鉄道 御花畑駅

西武秩父駅から御花畑駅までは、歩いて5分ほど。
御花畑駅の駅舎は大正6年造営となり「国登録有形文化財」登録。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4263.html


秩父そば 御花畑駅そば店

「せきた」の特挽地そば
天皇陛下に献上の蕎麦が、駅そばで食べれる贅沢。
普通に美味しい、し。

「みそぽてと」は、優勝


秩父鉄道 影森駅

地上の旧駅舎は2016年に取り壊しとなり、現在は、駅ホーム上に駅舎がある。
今回、秩父に行こうと思った「大淵寺・護国観音」の最寄り駅。


秩父パリー食堂/カフェ・パリー(秩父の近代建築)

国登録有形文化財
昭和2年

https://www.city.chichibu.lg.jp/4274.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/141101

カフェ・パリー
所在地:秩父市番場町19番8号
年代:昭和2年
構造:木造2階建、鉄板葺
建築面積:60㎡
登録日:平成16年2月17日
 この建物は、店舗兼用住宅の木造2階建て片流れ造金属板葺き屋根となっています。屋根は正面側
が高く、この屋根を隠す位置までラスモルタル塗の外壁が大きく立ち上がり、最上部にコーニスを廻しています。コーニスの下にはエッグアンドダーツ(卵鏃文様)のモールディングが施されています。小屋裏にあたる位置は窓を付け3階建てを思わせる外観となっています。正面建具はこの小屋裏窓の他は建築当時のものではありませんが、窓上部の装飾はみな当初のものとなっています。このように外観は近代洋風の様相となっていますが、内部は店舗部分の調理場と客席を除き、従来の木造建築の様相となっています。
 昭和時代初期から昭和30年代かけての秩父の賑わいを今に伝える近代商店建築の一つとして貴重な建造物となっています。
 <登録基準:「造形の規範となっているもの」に該当>

秩父で、有名な食堂。
近代建築としても、興味深い、昭和レトロ食堂。

せっかくなので。

一番人気の「オムライス・プリンセット(クリームソーダ付き)」


安田屋(秩父の近代建築)

パリーの隣の安田屋も昭和レトロ。
建築は、昭和5年ごろ。国登録有形文化財。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4275.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/169142

創業は大正5年。猪牛豚味噌漬けの安田屋。

https://yasudaya-shop.com

秩父名物なので、購入しました。
「安田屋のみそ漬(豚肉)」


小池煙草店(秩父の近代建築)

現在は、たばこ店ではなく、リノベーションした「小池カフェ」と「NIPPONIA秩父 門前町(KOIKE・MIYATANI棟)古民家ホテル」として営業をしている。
国登録有形文化財。
昭和初期の建造。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4276.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/141101

小池煙草店
所在地:秩父市番場町17番10号
年代:昭和初期
構造:木造2階建、鉄板葺
建築面積:61m2
登録日:平成16年2月17日
 この建物は、番場通りと昭和通りの交差する角地に建てられた木造2階建てで、北西側(番場通り
側)の屋根が高くした片流れ造金属板葺きとなっています。外壁は屋根を隠す位置まで大きく立ち上
がり、最上部にはコーニスと葉飾りのモールディングを施し、交差点隅部を曲面として、煙草売場力ウンターを設け正面としています。正面建具は1階の出入り口と販売カウンターを除いてほぼ建築当初のもので、2階の窓周りの縁取りなど装飾性に富んだ店舗兼用住宅となっています。
 開店当時は東京の専売公社からモデル店舗に指定され写真入で関係機関に宣伝されたと伝えられています。昭和時代初期の近代商店建築の好例として貴重な建造物となっています。
 <登録基準:「造形の規範となっているもの」に該当>



西武秩父駅前温泉 祭の湯

2017年に開設された秩父の温泉

風呂上がりに。生ビール。

2杯目は、「リポビ」(リポビタンD&ビール)
みそポテトアイスも美味。

温泉むすめ 秩父美祭

名物 ちちぶ餅
やわらかさにびっくりする、「つぶしあん」の餅

秩父錦甕口酒の日本酒ジェラート

たまには、のんびり秩父観光も楽しいですね。


※撮影:2025年11月


「護国観音」と「歩兵七十五聯隊通信隊戦歿者之碑」(秩父・大渕寺)

秩父にある戦前に作られたコンクリ観音像を見に行ってきました。


戦前のコンクリ観音・大仏建立ブーム

戦前、特に、昭和初期の日中戦争前夜の満州事変や第一次上海事変などの体外的な不安定要因や戦死者や戦災への慰霊、第一次世界大戦後の不況や飢饉などの社会情勢の不安定要因に対し、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようという動きもあり、コンクリート製の大観音・大仏の建立が各地で盛んであった。
また、銅像などの金属製像に関しては、軍需用に金属供出などもあり、その代替えとしてのコンクリという側面もあった。
昭和12年の日中戦争を期に、戦前のコンクリート大観音・大仏建立ブームは縮小し、戦後にあらためて「平和観音(平和観世音菩薩)」として、同義で大観音像の建立が全国で盛んになっていくことになる。


大渕寺の護国観音

秩父三十四ヶ所霊場の27番札所「大淵寺」
大渕寺に1935年(昭和10年)に作られた戦前コンクリート観音。
高さは16.5m。

第7番札所法長寺住職、第27番札所大渕寺兼務住職の町田兼義師の発願。
仏彫師・志佐鳳洲のもと、コンクリート仏師であった福崎日精(志佐日精=師匠が志佐鳳洲)が手掛け、弟であり助師である福崎秀雲(大戦中に戦病死)との共作となる。

「関東三大観音」(関東三観音)の一つというが、高崎・大船の次の3番目は「韮崎」とする声のほうが強い。

当時の世相を反映し、「武運長久」祈願として、左手に「剣」を持っている。

下記に建立時のエピソードが記載されている。

観音の霊験(昭和15年) 172ページ(コマ92)
国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/1031589/1/1

町田兼義師と護国大観音
(背景)町田兼義は、三十三尺(10メートル)の観音様の制作を旅の雲水に相談したところ、志佐鳳洲を紹介され、町田兼義は志佐鳳洲に手紙を書いた。手紙を受け取った志佐鳳洲は、「機が熟したらお訪ねする」と返事をよこし、そうして1年がたった。
(以下、観音の霊験(昭和15年)175ページから引用、現在仮名遣いに変換)
 昭和9年8月、その日は遂に来た。志佐鳳洲は随身二人を連れ、影森の山寺に姿を現した。彼は柔和な顔に微笑を浮かべながら、町田兼義師と瞳を合わせると、すぐ「此処三ヶ月の間に起工することにして戴きたい」と、相談も見積もりもあったものではない。志佐鳳洲はこの地に三十三尺の大観音を作ることが、自分の使命であるかの如く思い込んでいるのだ。若いが豪腹な町田兼義師も、この突然の話にはさすがに驚いた。「まあ、待って下さい、先立つものは金だが、今は一文の準備もない、少し資金をこしらえるまでお待ちを願いたい」「いや、ここ三ヶ月のうちに取りかからないと、向こう三カ年間は出来ない、もしかすると私の一生のうちには、もうこんなよい機会はないかも知れない」町田師も二の足を踏まざるを得ない。それもその筈、三十三尺の大観音を作るについては、何年かかるか、又どれ程の費用が必要か、皆目分からないのだ。滅茶苦茶に、無計算に工事を始め、中途で挫折するようでは、又、そんなことになってはかえって大慈大悲の観音さまの御徳を汚すことにもなる。
 南無観世音菩薩、南無観世音菩薩と繰り返しとなえていると「観音さまをつくるのだ、出来ない筈はない、きっと完成する、何も躊躇するには及ばないぞ、すぐに取りかかれ」と云う不退転の覚悟が決まった。町田師は顔を上げると徐に云った。「信徒の力を借りて作るから、制作にかかって頂きたい」(略)「それでは準備を整えてすぐにやって来ることにする」と云って志佐鳳洲はいったん郷里へ立ち帰った。10月2日、約にたがわず、まず鳳洲の弟子志佐日洲(=志佐日精)と福島秀雲(=福崎秀雲)がやって来た。
 数日後、師匠格の志佐鳳洲もや来て寺に泊まることになった。
 工事を始めるなかりになった。しかし金の準備はもとより、材料の用意も出来ていない。さしあたって第一の悩みの種は鉄剤である。町田師は熊谷にある秩父鉄道の本社へ行き、かねてから昵懇の松崎総務課長を通じて古レール8本を手に入れた。その夜すぐ村長黒澤保秀氏を訪ね、今度の計画を話し、また翌晩は有志50人ばかり寺に集まって貰った。そして27人の賛成を得た。
 昭和10年1月18日、観音の御命日、寺の後に聳える護国山頂の樹木を伐採し、地固めに着手した。(中略)秩父セメント株式会社からセメントも寄付もあった。先ずお顔の長さ九尺と云う頭部の制作に取りかかった。
 昭和11年4月18日。この日は永遠に記念すべき有難日である。 今上陛下の玉体康寧の祈願文を大観音の胎内へお納めいたした記念すべき聖日である、7月にはトキの第1師団長林仙之中将から「護国観音」の御揮毫を贈られた。11月17日おごそかに開眼式が催された。(後略)

護国観音からの展望

台座には観音画

重機も貧弱だった昭和の戦前に、山頂に見事な観音さまを建立した当時の人々の熱意に脱帽。
ありがたいものです。


歩兵七十五聯隊 通信隊戦歿者之碑

「歩兵七十五聯隊・通信隊戦歿者之碑」が、大渕寺の護国観音に至る参道の途中にあった。

歩兵七十五聯隊 
通信隊戦歿者之碑
小池 清

歩兵第七十五連隊通信隊慰霊碑文
北辺鎮護に在った北鮮会寧歩兵第七十五連隊通信隊は、比島決戦場への命を受け勇躍昭和十九年十二月比島呂宋島北サンフェルナンドに上陸し、二十年一月九日リンガエン湾に上陸した精鋭米軍とナギリアン、、ロザリオ、アシンにおいて砲爆撃下熾烈なる戦開を繰り返し、既に兵力の半数を失った。
続いて山岳地帯のボンドックロー高地の戦闘では弾薬、食糧、通信機器の補給も全く無く、飢餓状態での死闘を続け、特に通信隊は通信網確保の為多くの隊員を失い電波は敵の探知の目標となり大打募を受け、砲爆撃下での連日の死闘で通信隊も銃をとって陣地の防衛に尽くした。八月十六日、残存兵力を結集し最後の総攻撃を敢行することにあっていたが、八月十五日終戦。
比島投入兵力五十八万余、戦死者四十八万人、誠に補給絶無の苛烈苛酷な飢餓決戦であった。戦後昭和六十年呂宋島南部バクサンハンの比島寺に建立した慰霊碑を、故あって除魂式を行い、有志の努力に依り、祖国日本に持ち帰り、埼玉県秩父護国観音山麓の地に通信隊を主とする慰霊碑を再建し、供養を行うものである。祖国の安泰を願い散華した戦友よ、此の地に安らかにお眠り下さい。
 平成九年七月吉日
  虎兵団八五〇五部隊
羅南十九師団会寧歩兵第七十五連隊
    通信隊代表 小池 清

合掌


大渕寺

護国観音の御姿を山頂に垣間見る。

秩父札所第27番 龍河山 大渕寺
創建年代は不詳。
伝承によると弘法大師空海が立ち寄り、7年もの間、病に臥せっていた宝明という僧侶に観音菩薩を彫って与え、宝明が空海作の観音様に祈願したところ、病気快癒したという。
宝明は観音様を私物化すべきではないとして、観音像を安置する観音堂を建立したという伝承から、平安初期には創建されたと想定されている。
大正8年(1919)に秩父鉄道の蒸気機関車からの火の粉で、観音像は無事であったが、寺院は全焼、再建している。

護国観音往復は40分以上。

宝明の伝説。

ちょうど、紅葉も良い感じでした。

観音山延命水

熊注意


場所

https://maps.app.goo.gl/q1KDAcmHmvmUhTP27


関連(観音様)

「雄大剛健」三神峯公園の仙台陸軍幼年学校跡(仙台の戦跡散策・その13)

仙台市南部の「三神峯公園」。いまは桜の名所で知られる公園。
戦前は、仙台陸軍幼年学校。戦後は、旧制の第二高等学校、東北大学に利用され、1967年に三神峯公園が設置された。


仙台陸軍幼年学校

仙台陸軍幼年学校(仙台陸軍地方幼年学校)は、はじめ今の宮城野区五輪一丁目に校舎を置いていたが、1924年(大正13年)に廃止されていた。

1937年(昭和12年)に、仙台陸軍幼年学校が場所を三神峯に定めて再建された。
仙台陸軍幼年学校の入校年齢は13歳から15歳までで、3年間の教育を受け、卒業後は陸軍予科士官学校に無試験で入学できた。
1945年(昭和20年)の7月10日にあった仙台空襲で被害を受け、敗戦で陸軍とともに廃止された。


雄大剛健(仙台陸軍幼年学校)

仙台陸軍幼年学校を記念する石碑

「雄大剛健」石碑
 右の石碑はこの三神峯一帯に仙台陸軍幼年学校があったことを記念する碑です。
 石碑の裏面にその趣旨の記載があります。

雄大剛健
規模や心が非常に大きく雄々しく、心身ともに強くたくましく、困難にも決してくじけない様子、を意味する。
仙台陸軍幼年学校では、雄大剛健感恩報謝を校風としていた。

仙台陸軍幼年学校ののちに、戦後にこの地にあった旧制第二高等学校(現在の東北大学)でも、奇しくも「雄大剛健」は二高のモットーであった。旧制二高は昭和20年に戦災に遭って北六番丁校舎が全焼し、戦後に旧仙台陸軍幼年学校跡に移転した。昭和25年に閉校になるまでを「三神峯時代」と呼ばれている。

 仙台陸軍幼年学校は、明治三十年榴岡に開校し大正十三年一旦廃止、昭和十二年ここ三神峯の地に復活、同二十年第二次大戦の終焉を以って武窓の歴史を閉ず。
 雄大剛健感恩報謝を校風とし修分練武をかさねし生徒二千九百余名を算う。その多くは祖国の危急に際し艱難の戦野に赴き、戦空を翔り身命を同胞の守護に捧ぐ。曽て台上に桜樹を植栽し爛漫の春に謳い玲瓏の秋を愛でし若武者の姿、今や無し。
 同窓相寄り昭和四十八年校史「山紫に水清き」編纂して事蹟を誌すも杜の都を心の故郷と慕う、情やみ難く開校八十年再建四十年を卜し英霊の誠を彰れし祖国の平和と繁栄を祈念して校跡に建碑す。
 昭和五十二年五月
  仙幼会

仙台の南部を見下ろす高台。


雄建神社跡(仙台陸軍幼年学校)

「雄健神社」跡
ここに仙台陸軍幼年学校の校風「雄大剛健」に因んだ「雄健神社」がありました。

第42期生卒業記念

昭和16年3月

第41期生卒業記念

昭和14年11月


東北大学三神峯明善寮懐旧の碑

散りにし花は幻か わが若き日の夢なるか

東北大学三神峯明善寮懐旧の碑
 東北大学三神峯明善寮は、一九四九年(昭和二十四年)五月旧制第二高等学校明善寮の後身として発足した。寮は、当時の東北大学第一教養部構内の一角に、現在ある碑の北二百五十米の所に、木造二階建の寮舎及び食堂の二棟があって百六十余名収容の自治寮であった。
 一九五三年五月長町鹿野に有朋寮が新設されるに及び、在寮生の殆どが新寮に移り、翌年四月には増築された同寮及び臨設された鴻学寮に残余の全員が移って、寮は約5年間の歴史を閉じた。この間の寮生は延四百数十名でああった。
 当時の社会は敗戦の荒廃から未だ回復せず混乱と窮乏のさなかであったが、寮生は困難な環境に屈せず新しい日本を創る気概に燃えて勉学に励んだ。また、時として夜を撤して世界を論じ、人生を語り、三神峯の丘を遥しては青春を謳歌した。
 爾来三十幾星霜、寮生は各界で活躍しているが苦しい時代に培われた互の友情はいささかも色褪せることなく続いている。教養部も寮も、もはや痕跡すら残していない。今往時を偲ぶよすがとすべくこの碑を建立するものである。
一九八九年五月
東北大学三神峯明善寮
元寮生有志


聖徳光被の碑(明治天皇後遺蹟記念碑)

明治9年と14年には 明治天皇が巡幸された。
明治44年には、 皇太子(大正天皇)も行啓されている。


三神峰公園

こうしてまとめているときに、どうにも見逃していたのが多数あることに気がついており。

・仙台陸軍幼年学校の正門門柱
・行啓記念の松 
・行啓記念碑

三神峰公園にはバスで訪れたのだが、入口がわからず、変なところから峰に登ってしまったので、結果として、正門をスルーしてしまっていたようで。

うーん、再訪必須か。

これは一番東側の入口。(正門は真逆だった)

奥が三神峰の高台。

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

商店街に刻まれた仙台空襲の爆心地「仙台空襲爆撃中心点」(仙台の戦跡散策・その9)

仙台市のクリスロード商店街というアーケード街に、人知れず刻まれたモニュメント。

「仙台空襲爆撃中心点」

仙台空襲において、この場所が、B-29爆撃機の目標地点であったのだ。

平和の願い込めて踏み固める「平和の礎」


仙台空襲爆撃中心点

1945.7.10
仙台空襲爆撃中心点
2021年12月8日設置 
仙台空襲を記録する有志の会

仙台新伝馬町ビルの入口の足下に設置されている。

仙台市戦災復興記念館での解説によると、実際は、このマンホールの位置が本当の中心点という。

場所:
https://maps.app.goo.gl/jw7Bay6mMWgy2MCcA


「仙台空襲爆擊中心点」の解説
(仙台市戦災復興記念館)

仙台市戦災復興記念館より関連する事項を抜粋

B-29は「リト·モザイク」という地図をたよりに仙台を空襲しました
左は70余年前,仙台の街を空襲するため、B-29爆撃機が持参した地図で、半径1.2kmの黄色の円が描かれています。
米軍は,この円内に、投下した焼夷弾の半量が落ちれば、仙台の街は焼け落ちると考えており、全ての焼夷弾を円の中心(爆撃中心点)に落とすよう命じました。
日付が7月10日に変わった頃、長町方面から飛来したB-29、123機は、1機ずつ爆撃中心点を目指して焼夷弾を投下し仙台の街を焼きました。その間2時間余。
近年、この時の爆撃中心点は、現在のクリスロードと東三番丁の交差点であった事が、米軍資料より分りました。

リト·モザイク
この下の写真は、B-29が携行してきたリト·モザイク(爆撃中心点参照用石版集成図)です。
南から市内に侵入してきたB-29 は、黄色の円中心の爆撃中心点にすべての焼夷弾を投下するよう命じられていました。

「仙台空襲爆擊中心点」銘板
仙台空襲の爆撃中心点に2021年に設置され、その後の銘板更新に伴い、
「仙台空襲を記録する有志の会」より寄贈された銘板です。
歴史を忘れず、平和の礎を踏み固めてほしいという願いをこめております。
ぜひ銘板を踏み、平和の礎を踏み固める一歩にしていただきたいと思います。

踏みしめてみて下さい。
爆撃中心点の銘板です。

場所:

https://maps.app.goo.gl/N2Fi6E1LMbMMYo2b7


東二小の「戦災くすのき」

仙台市立東二番丁小学校。

仙台空襲で焼失したが、再び芽吹いた「くすのき」
仙台復興のシンボルでもある。

昭和20年7月10日の仙台空襲で校舎とともに焼失したが、3年目に再び芽を出し現在の姿に成長した。

場所:

https://maps.app.goo.gl/KQjMmvBREfDeD3Eb7


東二小の「仙台空襲死歿児童慰霊碑・平和観音碑(大悲無倦)」

仙台市立東二番丁小学校。

敷地外からだと、碑面裏しか見えずだが、これがきっと「平和観音像の碑」。

仙台市戦災復興記念館より。

昭和20年7月9日夜半の仙台空襲で亡くなった児童(23名)の冥福を祈るために昭和23年に建立された石碑。
土井晩翠の画を碑面に彫刻したものという。土井晩翠は仙台出身。
昭和28年12月4日建立。

大悲無倦


仙台空襲を伝承する石蔵

石造の秋保石でできた「旧志ら梅酒造の石蔵」。
仙台空襲の生き証人。

昭和20年の仙台大空襲では降ってきた焼夷弾が瓦屋根を突き抜け内部の収蔵品すべてを灰燼に帰したが、石造蔵の外観は残った。

https://www.sira-ume.jp/%E7%A7%8B%E4%BF%9D%E7%9F%B3-%E7%9F%B3%E8%94%B5

なお、「志ら梅」の吉岡酒造店は2010年閉店し酒造事業を撤退。酒蔵跡地は駐車場になり当時の石蔵が残る。現在はテナントビル業と駐車場業に転業している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6fSyaWQ8Un8keExC9

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

仙台空襲慰霊「戦災死歿精霊供養碑」(仙台の戦跡散策・その7)

仙台市北山霊園にある仙台空襲に関連する慰霊碑に足を運んできました。
仙台の戦跡散策。

その6はこちら


仙台空襲

昭和20年(1945)7月10日に仙台市に対して行われた空襲。この仙台空襲によって仙台市の中心部は焼け野原となった。
米軍B-29は123機でもって空襲を実施し、死者は1064名以上という犠牲をだした。また、仙台城も被災し国宝の大手門と脇櫓を焼失、二の丸の第二師団も被害を受けた。伊達政宗の霊廟である国宝の瑞鳳殿も焼失、仙台市の国宝は大崎八幡宮のみが空襲被害から逃れた。


戦災死歿精霊供養碑

仙台空襲の慰霊碑

戦災死歿精霊供養碑
昭和20年7月10日殉難

戦災死歿精霊供養碑
 昭和二十年七月十日未明、仙台市は約二時間にわたって焼夷弾による攻撃を受けました。
 この攻撃によって約一万二千戸、五万七千人あまりが被災しました。
 亡くなられた方は、身元不明の方を含め約千三百人にのぼりました。
 この碑は、仙台空襲により奪われた尊い諸霊のご冥福をお祈りするために昭和二十六年に建立したものです。
 仙台市 
  被害状況は、仙台市戦災復興誌ほかより

「仙台市戦災復興記念館」の掲示から

合掌

仙台市北山霊園案内図

戦後の戦災復興に伴い区域内の寺院墓域は北山霊園に移転された。

万霊塔

北山駅

仙台大観音を望むことのできる高台。

場所:

https://maps.app.goo.gl/XaYDCC9S9SJ8by8SA

※撮影:2025年9月

「仙台の戦跡散策・その8」はこちら。


関連

仙台の戦跡散策・その1から

帝都近郊で初実施「大正元年の陸軍特別大演習」関連の記念碑探訪(狭山・所沢・川越)

川越を歩いていたら「御野立の森公園」という公園があって、「おっ」と思い、なんとなく写真を撮っていました。(実はラーメン二郎・川越店に行く途中に見つけた、とか)

そこから少し調べてみたら、川越と狭山と所沢から色々話題が集まってきたのうえに、以前なんとなく記録していた記念碑なども「大正元年の陸軍特別大演習」の関係として芋蔓式に繋がってきたので、まとめてみましたという記録になります。

今回、記念碑を辿ることで、 大正天皇は下記の行程で、陸軍特別大演習に臨まれたことがわかりました。

大正元年
11月14日-15日 川越
11月16日 狭山
11月17日-19日 所沢


大正元年の陸軍特別大演習(第11回陸軍特別大演習)

大元帥であらせられる 大正天皇が入間川で指揮を執った「陸軍特別大演習」
大正元年(1912年)11月15日〜19日の4日間、実施された。

明治45年/大正元年(1912年)7月30日に 明治天皇の崩御に伴い第123代天皇に即位した 大正天皇として、初めての陸軍特別第演習。
参加総数は4万8700人余り、軍馬は8200頭であったという。

  • 統裁 大元帥 大正天皇
  • 参謀総長 長谷川好道(軍事参議官・陸軍大将)
  • 北軍司令官 大島久直(軍事参議官・陸軍大将)
  • 北軍 第13師団(高田)師団長:長岡外史(陸軍中将)
  • 北軍 第14師団(宇都宮)師団長:山田忠三郎(陸軍中将)
  • 南軍司令官 大島義昌(陸軍大将)
  • 南軍 近衛師団(東京)師団長:閑院宮載仁親王(陸軍中将)
  • 南軍 第1師団(東京)師団長:木越安綱(陸軍中将)

演習は、首都占領を目指す北軍に対し南軍が防衛するという設定で行われた。


特別大演習御野立所記念碑
狭山の御野立所(狭山市立稲荷山公園)

特別大演習御野立所記念碑
宮内大臣伯爵渡邊千秋書

渡辺千秋は、1910年(明治43)から1914年(大正3)の宮内大臣。
この間に、明治天皇の大葬の儀、大正天皇の即位の礼などがあった。

狭山は、「稲荷山」に「16日」。後述する川越と少し異なりますが、基本の文意は同じですね。

3つに割れた痕跡がある。薄い石碑ゆえに、、、か。

思ったよりも薄い石碑。

御野立所から入間川の方向を望む。
記念碑は斜面の先の入間川に面した方向を向いている。
大正天皇が望んだ方向ときっと同じなのだろう。

石碑の周りの石柱柵も往時のものと思われる。

狭山市立中央児童館が目の前にある。

隣には、埼玉県最古のプラネタリウムもある。(昭和52年設置)

場所:

https://maps.app.goo.gl/yjQnD2FmdKGzvbMr6


稲荷山公園(狭山市営稲荷山公園)

大演習からちょうど1年後の11月16日。
大正天皇の行幸を記念した碑の除幕式が行われた。
碑は現在、中央児童館脇の階段を上ってすぐのところにある。
除幕式後の町議会で、稲荷山付近を記念公園にすることが可決された。

「稲荷山公園」の見晴台からの展望

参照:狭山市

https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisetsu/bunkashisetsu/hakubutsukan/index.files/4241103-4250114kiti.pdf

場所:

「埼玉県営狭山稲荷山公園」ではなく「狭山市営稲荷山公園」が今回、話題とした公園。
紛らわしいが、西武線の「稲荷山公園」の最寄りは「埼玉県営狭山稲荷山公園」

https://maps.app.goo.gl/qaHxjq2zP9SdgYBm8


大正天皇御駐輦之跡碑
(所沢航空記念公園)

所沢航空記念公営にある記念碑。
大正元年の陸軍特別第演習では、所沢飛行場からの航空機も参加した。
陸軍特別大演習で航空機の参加も、初となる。

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎大将の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会

井上幾太郎大将は、初代陸軍航空部本部長でもあり、航空黎明期において陸軍航空の第一人者。

場所:

https://maps.app.goo.gl/msALrPY9tbwWvHYM6


所澤駐蹕碑・大正天皇行幸記念碑
(所沢神明社)

大正元年(1912年)の陸軍特別大演習。
大正天皇が行幸され駐蹕された。

所澤駐蹕碑
麝香間祇候 正二位勲一等 公爵 徳川家達 篆額
近時飛行機盛行于各國我邦亦設習技場於武州所澤會
今上天皇ト大正元年十一月統監陸軍大演習于近郊置 行在所於川越各地巡監之次以十七日 臨幸所澤習技場此地當南北軍對抗之衝飛行機翔干両軍之上能偵察之頗稱 二日十九日再 臨幸場内大賜酺於文部官僚又州内士民盖
天皇践祚後盛典也郷民以為栄欲建碑 駐蹕之處以表之来嘱銘鳴呼
天皇以武備之不可一日忽之忍 諒闇之憂躬統監之労不負
先皇在天之霊欣慰可知也海内臣民聞之皆欽仰敬崇況新拝観者乎謹繋銘日治兵之野飛行場 大纛臨矣 皇武維揚萬姓欽仰執不期待紹述先緒雄飛四海
 大正二年十一月
  宮内儒員 従三位勲二等 文学博士 三島毅 拝撰
  錦鶏間祗候 従二位勲一等 男爵 野邨素介 謹書

別記事にて。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kiqEy1bZw7a1iUHq8


秋田家住宅(所沢)

大正元年 11 月の陸軍特別大演習の際に、伏見宮貞愛親王が宿泊している。
伏見宮貞愛親王は、陸軍大将であったが、大正元年の陸軍特別大演習当時は、内大臣府出仕として即位されたばかりの 大正天皇を補佐していた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/qthJ66qa8hHnXAw69


特別大演習御野立所記念碑
川越の御野立所(御野立の森公園)

こちらは、川越にある記念碑。

特別大演習御野立所記念碑
宮内大臣伯爵渡邊千秋書

大正元年十一月 
今上登極之初行陸軍特別大演習於武蔵野其十五日
龍駕臨幸仙波村躬親統督三軍此地實繫當時之 
聖蹤也因鎸以諗後世

大正二年十一月上浣 
 埼玉縣入間郡長從六位勲五等 市川春太郎撰并書

川越は、「仙波村」に「15日」。他は、狭山にある記念碑と同文。
ただ、狭山の薄い記念碑と違って、川越の記念碑は、石碑に厚みがある。

大正天皇は、陸軍特別大演習に際して、記念碑を辿ることで、初日の15日に川越の「仙波村の御野立所」、翌16日に狭山の「稲荷山の御野立所」、そして16日に所沢飛行場に御臨席されたことがわかる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ELG9pHNQDnjqBY8s8


大正元年特別大演習行在所
(川越高校)

大正天皇は、川越高校に宿泊(当時の川越中学校)された。
川越城跡地でもある場所であった。

大正元年11月14日、川越駅に(現・本川越駅)お着きになった天皇は、喪章をつけて白馬に乗られ、町をあげてお迎えする中を大本営(川越中学校の大本営)に入られた。

大正元年特別大演習行在所

学校敷地内にあるため、表からのみ、見学。

川越高校の正門

場所:

https://maps.app.goo.gl/xWT5ZqsQrdS6qu4i8


撮影:2025年9月

学童疎開船の悲劇「対馬丸記念館と旭ヶ丘公園」(沖縄戦跡慰霊巡拝13)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その13」となります。

その12は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


対馬丸事件

対馬丸は、日本郵船のT型貨物船の一隻。
総トン数は6,754トンの貨物船。
T型貨物船は、日本郵船の事実上最初の大型貨物船であり、高速ディーゼル船が就役するまで日本郵船の貨物船隊の主力であった。
大正2年(1913)から大正10年(1921)まで合計28隻が建造された。
1920年代以降は、高速ディーゼル船に第一線を譲り、1930年代後半からの世界情勢の悪化に伴い、援用貨物航路は縮小され、太平洋戦争とともに、陸海軍徴用船として使用され、多数の被害を出した。
終戦時にT型貨物船として残存したのは、28隻のうち1隻のみ(鳥羽丸)であった。

対馬丸は、大正4年(1915)竣工、大正5年(1916)6月21日就役。
就役後は、第一次世界大戦後に再開されたパナマ運河経由の貨物船として、横浜ーニューヨーク航路第一便として出航する栄誉を担った。
昭和12年(1937)に、対馬丸は日本郵船新鋭船にメインルートを譲り、カルカッタ航路を担当。
昭和16年(1941)9月21日付で日本陸軍に徴傭され南方戦線の輸送に投入。
昭和17年(1942)5月5日に日本陸軍の徴傭船としては解傭され、6月12日からは船舶運営会使用船となり物資輸送任務を担った。
昭和18年10月28日付で、再び日本陸軍に徴傭され、陸軍徴傭船となる。

昭和19年7月、サイパンの戦いが終結し、沖縄の防衛が急務となっていた。
そのため輸送船団は、沖縄本島に展開する兵員や軍需輸送を本土から沖縄に往路は軍事輸送、沖縄から本土への帰路は沖縄疎開の非戦闘員を乗せた疎開輸送を担っていた。

8月1日。本土からの沖縄への往路として、対馬丸は「モ05船団」に加入して、門司港を出港。「対馬丸」には、船舶工兵隊第二十六聯隊第一中隊211名が乗船し、同行輸送船には「和浦丸」「暁空丸」、護衛には敷設艦「白鷹」駆逐艦「響」などの船団であった。

8月5日。嘉手納港に入港した「モ05船団」は陸軍部隊を揚陸。対馬丸・和浦丸・暁空丸は「609船団」として上海・呉淞に回航し、沖縄防衛を担う第62師団の兵員を搭載して、護衛する駆逐艦「蓮」「栂」砲艦「宇治」とともに8月19日に那覇に到着した。

8月21日18時35分。
「ナモ103船団」として、「対馬丸」「和浦丸」「暁空丸」と、駆逐艦「蓮」砲艦「宇治」は長崎に向けて那覇を出港。
対馬丸には、学童疎開と民間人で1,661名が乗船。また、船舶砲兵隊41名も乗船していた。乗員は86名であった。
なお、和浦丸は、学童疎開者だけで1,514名、暁空丸は、一般疎開者だけで1,400名の乗船であった。

アメリカ海軍は、暗号解読などにより「ナモ103船団」の動向を把握しており、アメリカ潜水艦ボーフィン(SS-287 USS Bowfin)がレーダーでナモ103船団を探知。

8月22日22時9分、「ナモ103船団」を捉えた米潜水艦ボーフィンは、魚雷6発を発射。
対馬丸に2本魚雷が命中。船長は「総員退船」を命するも、魚雷命中の11分後の22時23分頃、対馬丸は大爆発をして沈没した。
乗員乗客あわせて1,484名が死亡した。このうち、15歳以下は1040名が犠牲となった。
(学童疎開者784名、疎開介添者30名、一般疎開者625名、船員24名、船舶砲兵隊員21名)
なお、学童疎開者で生き残った児童はわずかに59名であった。

なお、米潜水艦ボーフィンは、「真珠湾の復讐者」として、日本の艦船44隻を沈めたとされ、現在は、真珠湾のボーフィン記念公園に保存されている。


対馬丸記念館

対馬丸記念館

https://www.tsushimamaru.or.jp

対馬丸デジタルアーカイブ

https://www.tsushimamaru.net

對馬丸記念館

疎開船対馬丸で犠牲になった子どもたちの資料館
対馬丸記念館

昭和19年(1944)年7月7日、サイパン島の日本軍が全滅すると、次はいよいよ沖縄が戦場になる危険が大きくなり、政府は沖縄の子どもやお年寄り女性など、10万人を県外に疎開させる決定を下し、学童疎開のために沖縄県学童疎開準備要項を発令しました。学童疎開は文部省の指示を受けた沖縄県教学課が推進しましたが、すでに米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上に出没し、多くの犠牲者が出始めていることを親たちは公然の秘密として知っていたので、疎開業務は容易に進めませんでした。その結果として沖縄県が策定した疎開計画では、国民学校初等科3年生から6年生までの学童が原則でしたが、実際には1.2年生や女子、高等科の学童もいました。学童疎開は8月14日から9月14日まで数回にわたって実施され、5,586人が船で九州に向かいました。
疎開船対馬丸はそのなかの一隻で、昭和19年8月21日那覇港から学童834名、一般・引率827名を乗せ僚船2隻、護衛艦2隻とともに長崎に向けて出港しました。翌22日那覇の沖合から追跡してきた、米潜水艦ボーフィン号(USS BOWFIN)の魚雷攻撃によって午後10時12分頃鹿児島県トカラ列島悪石島近海で撃沈され、学童780名を含むおおよそ1,500名が犠牲機となりました。
平成9年(1997)12月12日、科学技術庁海洋技術センター(現独立行政法人海洋研究開発機構)の海底探査によって海底に横たわる対馬丸が発見され、遺族は遺骨収集と船体引き上げを政府に要請しましたが、引き上げ不可能との回答をうけました。その結果、船体引き上げに代わる遺族慰謝事業として全額国庫補助により対馬丸記念館を建設、撃沈から60年後の平成16年(2004)8月22日に開館しました。
館内には、対馬丸事件の経緯や数少ない遺品や遺影を、子どもたちにも理解できるように展示しています。
沖縄で唯一の子どもの記念館として、平和発信と子供達の未来を創造する活動を行なっています。

疎開船対馬丸
6754トン
1914年に作られた、建造後30年の貨物船。那覇市内の8つの国民学校の生徒をはじめ、県内各地から集まった一般疎開者合計1661名が乗船していたと言われています。

建物について
対馬丸記念館は対馬丸への乗船をイメージして作られた建物です。屋上までの高さは、約10メートル。海面から甲板までと同じ高さに設計しています。
船の長さは135メートルで、この敷地の左端から波の上ビーチ入り口までの距離とほぼ同じ長さです。
館内への入り口を2階に設け、タラップから館(艦)に乗船するイメージで設計されました。また、2階の第一展示室から1階の第二展示室への階段は、船倉へ降りるイメージを再現しています。

対馬丸の模型と絵画

日本郵船寄贈
T型貨物船(戦時中は陸軍徴用船・学童疎開船)
対馬丸100分1模型

寄贈:船舶砲兵部隊慰霊碑を守る会
画:上田毅八郎(船舶画家)

「船舶砲兵部隊慰霊碑」は広島の比治山陸軍墓地に建立されている慰霊碑(未訪)

https://www.tsushimamaru.net/3019

対馬丸には、船舶砲兵隊も乗船をしていた。

真っ暗な海に投げ出され漂流する様子を再現。
はり巡るロープは波を表している。

対馬丸は、もともと貨物船だったということもあり、甲板の下は窓もなく2段に仕切られた板の上で、蒸し暑い中を我慢して過ごしたという。

学童疎開

学校の様子

遺影
みたまやすらかに

小桜の塔のシンボル。
対馬丸の子どもたちが平和の使いとなって大空に羽ばたくようすを表している。

いま「対馬丸」を語ること
昭和19年(1944)8月22日午後10時12分対馬丸は鹿児島県・悪石島沖で米国海軍ボーフィン号の魚雷を受け沈没しました。乗っていた疎開学童、訓導・世話人、一般疎開、船員・兵隊ら1418人(氏名判明者数)が一瞬にして帰らぬ人となりました。あれから60年、このことは悲劇として知られることはあっても史実として語られたことはありません。

私たちは考えました
いま「対馬丸」を語ること、それは何でしょう?
戦争のこと?それとも平和?
本当に語って欲しいこと、それはいまそこにある
それぞれの「夢」のことです

暗くつらい戦時でも「夢」は持っていました
でも、生きれいればこその「夢」
犠牲になった彼らの無くしてしまった「夢」
彼らが持っていたであろう未来への「夢」
その「夢の未来」に私たちは生きています

この館に身を置いたら、感じてみて下さい
そして、考えてみて下さい

この館には犠牲者の数と比較して
遺品など、「物」があまりありません
どうしてでしょう?
あまりにも長い時間がたったから?
思い出を残そうとしなかったから?

沖縄戦では、多くが焼かれ破壊しつくされました
形あるものは失われました
しかし、人々の「想い」は決して失われません

人々の「想い」、それは平和への強い「希望」です
戦争を語るとき、悲しみと憎しみが生まれます
悲しみの大きさを、「希望」にかえる努力をしないと
憎しみが報復の連鎖をよびます
しかし、報復の連鎖で悲しみは癒やされるのでしょうか?

いま「対馬丸」を語ること、それはなんでしょう?

いまも世界では報復の連鎖が
子供達から新たな夢と希望を奪っています
この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること
これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された
私たちへの「課題」ではないでしょうか
 2004年8月22日 財団法人 対馬丸記念会

場所

https://maps.app.goo.gl/pJcdKjfXGJ96fAjv7


旭ヶ丘公園

波の上ビーチに隣接する公園。多くの記念碑・慰霊碑が集まっている。
対馬丸記念館、波上宮、護国寺などが近隣にある。


小桜の塔(旭ヶ丘公園)

対馬丸の犠牲者の慰霊碑

昭和19年8月22日夜半、学童疎開船対馬丸は、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて、悪石島沖で撃沈し、いたいけな学童と付添の人・1484人の尊い生命が、ひと時に奪われてしまいました。
 これらのみたまを弔い慰め、世界の恒久平和を念ずるために、多くの人々の善意で「小桜の塔」は建立されました

小桜之塔
厚生大臣 草葉隆圓書

小桜の塔建立について
愛知県丹陽村の「すずしろ子供会」会長川井桂氏は、戦争の犠牲となった子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂え、昭和28年護国寺の名幸芳章住職を通じて対馬丸遭難者遺族会に建立の意志を申し出た。河井氏を始め 関係者は愛知県の児童に広く1円募金を呼びかけて20余万円の浄財及び資材を集めるに至り、同年5月五日小桜の塔が建立された。

悪石島の霊石
この敷石は、対馬丸が沈没した悪石島海岸の石を集めた霊石です。

小桜の塔のシンボル。
対馬丸の子どもたちが平和の使いとなって大空に羽ばたくようすを表している。

弔歌
いのちみじかく青汐に 花とちりつつ過ぎゆけリ 
 年はめぐれど帰りこぬ おさなき顔の眼には見ゆ
  山崎敏夫

犠牲になられた皆様のご芳名
みたまやすらかに

小桜地蔵尊
昭和45年建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_naha_004/index.html


海鳴りの像・戦時船舶遭難碑(旭ヶ丘公園)

戦時遭難船舶での犠牲者を祀る。
戦時遭難船舶は二六隻。「海なりの像」には、対馬丸を除く二五隻の船舶で犠牲になられた県民1,927人(沖縄県調査)の御霊を祀っている。
対馬丸の犠牲者は、上記の「小桜の塔」で祀っている。

海鳴りの像

海鳴りの像
 第二次世界大戦(太平洋戦争)で沖縄県は、全国で唯一地上戦が闘われ、軍・民併せて
二十万余の尊い命が犠牲になりました。戦後六十二年経った今日なお、戦争で犠牲になった人々の遺骨がいまだに山野に残されたままになっています。他方沖縄県は、離島県である
が故に、海で犠牲になった県民は三四〇五人(沖縄県調査)にのぼります。学童疎開船
「対馬丸」を初め、軍需工場に向かった若者や女子挺身隊・少年航空兵になるために
乗船した者・召集令状を受け、郷里から出征しようと本土から沖縄に向かったもの・満州
開拓団から帰郷した者・南洋方面から軍命によって強制送還された者などです。
 沖縄県民が乗船して撃沈された戦時遭難船舶は二六隻です。海なりの像には、対馬丸を除く二五隻の船舶で犠牲になられた県民一九二七人(沖縄県調査)の霊を祀ってあります。二度と再び悲惨な戦争は起こしてはならないと堅く誓い、犠牲になられた御霊に心から追悼の誠を捧げます。戦時遭難船舶遺族会は、一九八七年六月二十三日「海鳴りの像」を建立しました。
二〇〇七年六月二十三日、赤城丸(四〇六人)・嘉義丸(三六八人)・開城丸(十人)・湘南丸(五七七人)・台中丸(一八六人)など五隻の犠牲者(一五四七人)の「刻銘板」を建立しました。
 戦時遭難船舶遺族会

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_naha_003/index.html


戦没新聞人の碑(旭ヶ丘公園)

新聞社の戦没者14柱の慰霊碑。

戦没新聞人の碑

1945年春から初夏にかけて沖縄は戦火につつまれた。砲煙弾雨の下で新聞人たちは二ヵ月にわたり新聞の発行を続けた。
 これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した14人の霊はここに眠っている。
   昭和36年9月 建立

沖縄新報社(1940年に沖縄日報・沖縄朝日新聞・琉球新報が戦時統合)、同盟通信社、朝日新聞社、毎日新聞社

「沖縄新報」は、沖縄戦の進捗とあわせ第32司令部壕の東側に設けられた「新聞社壕」に移り、3月下旬からは、地下壕で印刷発行が行われた。第32軍司令部の南部撤退が決まった直後の5月25日まで続けられた。
第32軍司令部の南部撤退とともに新聞発行が不可となり1945年5月25日に廃刊となった。

犠牲になられた皆様のご芳名
みたまやすらかに


台湾遭難者之墓(臺灣遭害者之墓)

敷地としては、「波の上の護国寺」の境内にあたる。
戦争とは関係なく、「宮古島島民遭難事件」(琉球漂流民殺害事件)の遭難者の墓。
明治4年(1871年)宮古の船が台湾に漂着し、69人のうち3人が溺死、54人が漂着先の台湾原住民に殺害された。
日本政府は、清国に抗議するも、清国から「化外の民(台湾原住民は国家統治外)」と回答されたことから、のちに、明治7年の「台湾出兵」につながることとなる。


琉球箏曲先師顕彰碑

戦争とは関係ない、「琉球箏曲」(琉球琴)の「かつての師匠」を「顕彰する碑」かと。


波上宮(沖縄総鎮守・琉球国新一の宮・官幣小社)にも、行けばよかったのですが、時間があまりなかったので、見送りとなりました。以前の私であれば、全国一宮巡拝として必ず参拝したと思うのですが、今回は軸点が戦跡に集約されていいたので。

撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その14」へ

全国最多の御祭神をお祀りする護国神社「沖縄県護国神社」(沖縄戦跡慰霊巡拝12)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その12」となります。

その11は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


沖縄県護国神社

沖縄県那覇市の奥武山公園に鎮座。
御祭神は、沖縄関係の戦死者だけではなく、沖縄戦に殉じた本土出身者や一般市民も祀っており、17万8,800余柱を祀っており、全国各地の護国神社では最多の御祭神となっている。

沖縄護国神社は昭和11年に創建した招魂社に始まり、昭和15年に内務大臣指定の護国神社(沖縄県護国神社)となった。
昭和20年4月の沖縄戦で社殿を焼失し<昭和34年に仮社殿を竣工、昭和40年に現在の社殿が建立している。

以下、公式サイトより

由緒
沖縄県護国神社が鎮座する那覇市奥武山の地は、古くは奥(ア)武之(フノ)山(ヤマ)と呼ばれる集落のない小島でした。「奥武(アフ)」とは、神々と通ずる地という意味があり、古くから信仰の地とされてきました。
護国神社は、明治三十九年にこの地で県出身戦没者の御霊を招き鎮め、神として祀る「大招魂祭」が県主催で行われたのが始まりです。その後、昭和十一年に沖縄県招魂社として社殿が建立され、昭和十四年に沖縄県護国神社へと改称、昭和十五年に内務大臣指定護国神社となりました。
そして、皇紀二六〇〇年の那覇市の筆頭事業として境内が整備されました。昭和二十年の沖縄戦では米軍の砲撃を受けましたが社殿は奇跡的に残り、戦後は学校用地として供用されるなどを経て、沖縄戦戦没者をお祀りしようとの声が沸き起こり昭和三十四年に仮社殿が建立されました。現在の社殿は沖縄県内外御遺族崇敬者の御浄財により昭和四十年に竣功し、現在に至っております。昭和四十七年沖縄本土復帰を機に宗教法人認証申請の末、翌四十八年に「宗教法人沖縄県護国神社」となり県内外より多くの参拝者が訪れています。

ご祭神
沖縄県護国神社のご祭神は、日清日露戦争以降、先の大戦で国難に殉ぜられた沖縄県出身の軍人軍属を始め沖縄戦にて散華された一般住民の尊い御霊も神様としてお祀りしています。その中には那覇の十・十空襲や対馬丸の犠牲者なども含まれます。さらに、北海道から鹿児島までの本土出身軍人軍属で沖縄戦戦没者も合祀しており、現在のご祭神名簿には一七七、九一三柱のご祭神が記されています。
(柱数は追加合祀の都度異なります。)

https://okinawa-gokoku.jp

大鳥居

沖縄縣護國神社

昭和19年12月建之
陸軍大将鈴木孝雄書

昭和19年建立の社号標??
沖縄戦で焼失を免れたのか?

二の鳥居

御社殿

深く拝する
みたまやすらかに

御朱印

靖國神社 南部利昭宮司御植樹
平成20年10月23日
第50回記念秋季例大祭


御製の碑(沖縄県護国神社)

上皇陛下(平成)ご即位20周年、上皇上皇后両陛下ご成婚50周年記念の碑。

御製
弥勒世よ 願て 揃りたる人たちと 戦場の跡に 松よ植ゑたん

天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須・山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。

御歌
鹿子じもの ただ一人子を 捧げしと 護国神社に 語る 母はも

天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須・山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。


平和の像(沖縄県護国神社)

大東亜戦争終結50周年記念
沖縄県遺族連合会
平成7年(1995)9月7日建立

恒久平和
碑文
 大東亜戦争終結50周年にあたり、沖縄県護国神社に神鎮まる戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に、恒久平和希求の切なる願いを込めて沖縄県内遺族の総意を結集し、この像を建立する。
 御英霊は、祖国防衛と民族の安泰を守るため、尊い生命を祖国に捧げられたのであり、私たち遺族は常に尊崇と感謝の念を持ち続けている。
 今日、わが国は、この半世紀に亘り、自由と平和の恩恵を享受している。
 これもひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされいることを決して忘れてはならない。
 私たちは、命の貴さ、平和の尊さを常に肝に銘じ、二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地として「広げよう平和の輪、伝えよう沖縄の心」を内外に強く訴えるものである。
 二十一世紀に向け、私たちは世界の人々と手を携えて恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
  平成7年9月7日
   沖縄県遺族連合会 建立

慰霊顕彰
いくとしゆひてん
 忘しる間やねこみ
すぎし日ぬ姿
 朝ん夕さん

共存友好
今年今月ぬ
 今日吉日に
たげにはいするて
 ありし別ら

文字は起こしましたが、意味がわからない内地人でして。


悲歌(沖縄県護国神社)

悲歌
遺骨だにまだ見ぬ
 人にたのまれて 
泣き泣きひろう
 沖縄の石

 沖縄は太平洋戦争終焉の地として 日本国民にとって永遠に忘れ得ぬ土地であります
 祖国の必勝を信じ祈りながら 軍官民一丸となり 老幼婦女子、学園の健児や乙女に至るまで 山野を血に染め 祖国防衛の防人として 散りゆきし英霊の眠られるこの聖地沖縄県護国神社の社頭に 由緒深き京都霊山護国神社にある 大鳥居を日本民主同志会の発起によって碑礎に留めん 有志の篤きご協賛により 之を奉納し併せて表記の悲歌を碑となし 遺恨を千載に留めて硝煙の中に散りゆきし御霊に捧げ 英勲の安らかに眠られんことを祈ると共に世界平和を悲願といたします。
  昭和41年4月19日 建立
   日本民主同志会中央執行委員長
   泉湧寺管長


人命尊愛・神石(沖縄県護国神社)

新宗教の「修養団捧誠会」の教祖・出居清太郎による建立。

アジアにひとたび戦雲おおえば
惨禍およばざるところなし
と昭和三年天啓によって諭され時の政府に再三謹告したにもかかわらず聴聞に達することを得ずかえって獄舎の身となる 
時の流れはそのまま推移し時局は予言にたがわず第二次世界大戦へと突入アジア全域にわたって戦塵の巷と化す 
このとき再び 琉球は聖地なり の天啓をいただくもいかんとする術を知らず 
日ならずして沖縄に戦火燃え彼我の熾烈なる攻防に山容あらたまり幾多の人命は失わる 
やがて戦火止むといえども人心その拠るところを失う 
たまたま修養団捧誠会沖縄県支部の発会を機として仲本興徳支部長護得久和子根波朝造副支部長以下同志の熱誠と沖縄県護国神社奉賛会具志堅宗精会長ほか三好邦忠加治順正両氏等同神社関係の人達の協力を得てここに人命尊愛和石の建立をみる 
まさに天の理と人の和の合掌の姿なり 
人命尊愛は人の命を長らうるのみにあらず尊い命を与えられし万人が活かされる大恩に感謝し他自ともに助けあい悠久なる平和の郷をこの地上に実現せんとするためなり 
これ吾人の七十年の願望なり 
沖縄はアジアの要にして東洋の平和の根元たるべき聖地なり 
ここに人命尊愛の和石を通じ広く万人に呼びかくるものなり
 昭和四十九年九月吉日
  修養団捧誠会
  教祖ならびに総裁 出居清太郎
  清堂亀井安之助謹書


傷痍軍人夫妻像(沖縄県護国神社)

傷痍軍人夫妻像
去る第二次世界大戦において多くの若者が異国の戦場で散華し、又は、傷痍の身となった。
特に、沖縄戦においては、民間人も 戦闘に協力し、尊い命を失い、又は負傷した。
昭和29年1月沖縄傷痍軍人会を結成し、2630名の旧軍人及び戦傷病者が入会した。戦後、塗の苦しみを体験した私達は、世界の恒久平和を渇望し、その証として、この像を建立する。
 平成23年6月22日
  財団法人 沖縄県傷痍軍人会
  沖縄県傷痍軍人妻の会


あゝ特攻(沖縄県護国神社)

(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会 日本人の心を伝える会

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

沖縄を護るため、航空機による空の特攻、戦艦や特殊潜航艇による海の特攻、爆雷を用いての陸の特攻で散華されたすべての特攻戦没者、並びに戦地に赴き特攻にて散華された沖縄県出身の戦没者を永久に顕彰する。

空の特攻
 大東亜戦争末期、最後の手段として航空機による特攻が行われた。 特攻隊員の中には、昭和19年12月16日フィリピン・スミラフ島付近で海軍神風特攻隊 として散華した 我喜屋元太郎少尉 (伊計島出身) ら沖縄県出身者も存在する。 沖縄戦においては、昭和20年3月26日那覇南西洋上にて戦死した陸軍特攻隊の伊舎堂用久中佐 (石垣島出身) をはじめ、終戦まで沖縄を護るため海軍1,957名 (982機)、陸軍1,021名 (義烈空挺隊 含む891機) が特攻で散華した。

海の特攻 
 昭和20年4月7日 戦艦大和 を旗艦とする第二艦隊は、海上特攻隊として沖縄を死守すべく出撃したが、坊ノ岬沖にて米軍機の攻撃を受け、約三千名が散華した。その中には沖縄県出身者37名も含まれている。 また、沖縄守備隊として渡嘉敷、阿嘉、慶留間、座間味、北谷、読谷、与那原、那覇、具志頭、糸満、玉城に配備されていた陸軍海上挺進戦隊「マルレ」、金武、石垣、宮古、小浜に配備されていた海軍「震洋隊」、運天港に配備された特殊潜航艇「蛟竜」は、米軍の砲撃を受けつつも米軍艦艇に対し攻撃を行った。 他にも人間魚雷「回天」は伊号潜水艦に搭載され、昭和20年3月から沖縄近海に出撃し、多くが艦艇と共に散華した。

陸の特攻
 首里に司令部を置き、宜野湾、浦添以南に陣地を配備した沖縄守備隊第三十二軍は、昭和20年4月1日沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍と壮絶な戦いを繰り広げた。その際、激戦地となった嘉数高地 (現在の宜野湾市嘉数高台公園) や安里52高地 (現在の那覇市おもろまち) での戦いでは、手作りの梱包爆雷を抱えた兵士による敵戦車への肉弾特攻が行われた。また、県内各地の戦場でも 鉄血勤皇隊 などの沖縄県出身学徒による肉弾特攻が行われ、壮絶な最期を遂げた。
 平成30年4月23日 
  沖縄県護国神社


場所

https://maps.app.goo.gl/A69QvQT6PkSnL63X7


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その13」へ

南西諸島海軍航空隊「巌部隊」本部陣地壕「寿山海軍壕」(沖縄戦跡慰霊巡拝11)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その11」となります。

その10は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


カテーラムイ(寿山)旧海軍壕

小緑駅の東側にある田原公園に。
海軍小禄飛行場(現在の那覇空港)を防衛するための海軍航空隊「巌部隊」(南西諸島海軍航空隊)の本部陣地が置かれた壕。

カテーラムイ(寿山)旧海軍壕
 海軍航空隊巌部隊の本部陣地壕。日本軍は、この地を寿山と称した。小緑飛行場防衛のため、小緑・豊見城一帯では、海軍少将大田実司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。
 1945年6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水に上陸、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の将兵・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内にとどまっていたいう。

開口部が2つ見える。

案内板のある開口部。

https://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/spot/154

場所:

https://maps.app.goo.gl/FF7zfmyNRsF8hscn8


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その12」へ

「沖縄県民斯ク戦ヘリ」沖縄方面根拠地隊司令官・大田実海軍中将と「海軍司令部壕」(沖縄戦跡慰霊巡拝10)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その10」となります。

その9は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


大田実(大田實)

最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。
大田實生家前(生誕地)には「海軍中将大田実顕彰碑」が建立されている。
海兵41期。同期には草鹿龍之介、木村昌福、田中頼三などがいる。
大田実は海軍の陸戦隊の隊長として上海事変や二・二六事件などで活躍している。
太平洋戦に於いては、ミッドウェー島の上陸部隊の海軍指揮官(陸軍指揮官は一木清直)となるも、ミッドウェー海戦の敗北により上陸作戦は中止となった。
沖縄戦では、海軍先任者として、沖縄根拠地隊司令官として、約一万人の海軍陸戦部隊を指揮。沖縄本島の小緑半島を防衛するも、陸軍の南部撤退により海軍司令部は孤立し、部隊は玉砕。
大田實は豊見城の海軍壕で自決。

沖縄戦に際して、沖縄知事・島田叡とは戦闘の最中でも密接な連絡を取り合い、肝胆相照らす仲であったという。

大田海軍司令が最後に発した電報の冒頭にある「県知事より報告せらるべきも」「本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども」の文言を添えたのも、本来民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは、「県民に関して、殆ど顧みるに暇なかりき」と言った軍人からではなく、最後まで彼ら県民と共にあった島田県知事であるはずであるが、既に沖縄県庁の組織自体に通信能力が無く、やむを得ず大田が、行政官である島田に代わって県民の姿を伝えるという意思から綴られたものであった。

最後の電報は、1945年6月6日午後8時16分に、海軍次官多田武雄宛に発せられた。
玉砕決別電報の常套句であった「天皇陛下万歳」等の言葉はなく、ただただ沖縄県民の敢闘の伝えている電報であった。
 沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

1945年6月13日、海軍壕で自決。
死後、海軍中将に特別昇進。満54歳没。

辞世の句
 大君の
  御はたのもとに
   死してこそ
 人と生まれし
  甲斐ぞありけり


海軍戦没者慰霊之塔(海軍壕公園)

「旧海軍司令部壕」は、那覇市の南西、豊見城市の豊見城の小高い丘にある。
海軍戦没者慰霊之塔は、昭和33年(1958)の建立。

海軍戦没者慰霊之塔
野村吉三郎謹書

野村吉三郎は海軍大将・外交官。阿部内閣で外務大臣、第二次近衛内閣で駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走し戦争回避を模索。
戦後は日本ビクターの社長を経て、海上自衛隊の前身となる海上警備隊の創設に関わる。その後、参議院銀として政界人として活躍した。

旧海軍司令部壕
この壕は太平洋戦争中沖縄方面根拠地隊司令部のあった場所で昭和20年6月13日午前1時戦い利あらず遂に大田実司令官は
 大君の 御はたのもとに 死してこそ
 人と生まれし 甲斐ぞありけり
の辞世の句を残し将兵四千余名と共に壕内で壮烈な最期を遂げ太平洋戦争中最も悲惨を極めた沖縄戦における海軍部隊の組織的戦闘はここで終わった。鋤やつるはしで掘った壕には司令官室作戦室等があった当時の姿をしのび世界の恒久平和を祈念するにふさわしい戦跡でもある。

参加部隊名
沖縄方面根拠地隊
南西諸島航空隊(巌部隊)
第九五一航空隊 沖縄派遣隊(護部隊)
神風特別攻撃隊
佐世保軍需部那覇派遣隊
佐世保運輸部那覇派遣隊
佐世保工廠那覇派遣隊
沖縄海軍地方人事部
第二二六設営隊
第三二一〇設営隊
第三十七魚雷調整班
沖縄島連合陸戦隊
第二十七魚雷艇隊
第二蛟龍隊
第二一空廠派遣隊
震洋隊 第19 第22 第23 第26 第38 第41 第42

参加艦艇
軍艦 大和・矢矧・迅鯨
駆逐艦 磯風・雪風・濱風・初霜・朝霜・霞・冬月・涼月・沼風
潜水艦 伊号第8・伊号第44・伊号第56・伊号第361
    呂号第41・呂号第46・呂号第49・呂号第56・呂号第109
特務艦 杵崎
特設砲艦 長白山丸
敷設艦 廣島・鴎・燕
海防艦 第四十二号
輸送艦 第十八号・第158号
水雷艇 真鶴・友鶴
回天隊 多々良隊・天武隊・振武隊・轟隊・多聞隊・白龍隊
駆潜艇 海威
 昭和33年10月30日
 海軍軍人軍属生存者一同建立

沖縄戦に関係したすべての海軍部隊が明記されている。

南無阿弥陀仏

旧海軍いわお部隊
地域住民
戦没者之碑

特設陸戦隊第二大隊
第一中隊員之慰霊碑

海軍壕のある丘からの景観。はるかに海を望む。


旧海軍司令部壕・展示室

海軍壕公園ビジターセンターから展示室に。

https://kaigungou.ocvb.or.jp

大田実司令の最後の伝文。
沖縄県民に大きな感銘を与えた。

大田司令官の少将旗

旧海軍司令部號見取図
昭和19年8月着工、同年12月完成
第226設営隊(山根部隊3,000名)
司令官室、幕僚室、作戦室、通信室、暗号室、下士官室、信号室、その他

合掌


旧海軍司令部壕

下に


旧海軍司令部壕・信号室

この部屋からモールス信号などにより部隊間の通信を実施していた。


旧海軍司令部壕・作戦室

コンクリート漆喰でかためた当時のままの部屋。

作戦を練る重要な部屋でコンクリート漆喰で固めた当時のままの部屋です

当時の配電用碍子


旧海軍司令部壕・幕僚室

自決の手榴弾の弾痕が残っている。

合掌

みたまやすらかに

司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとがくっきり残っています。当時のままの部屋です。

自決された時の手榴弾の弾痕

なまなましい弾痕が残る。

合掌


旧海軍司令部壕・司令官室

司令官室で大田實と幕僚たちが自刃した。
みたまやすらかに。

大田実少将(当時)外幕僚6名が最期を遂げた当時のままの部屋です。

大田実司令官の辞世の句

 大君の
  御はたのもとに
   死してこそ
 人と生まれし
  甲斐ぞありけり

「大君の錦の御旗のもとに屍をさらしてこそ、日本に人と生まれて来た甲斐があるというものだ。」

この辞世の句は、寺田屋騒動の首謀者とされている幕末の志士・田中河内介(綏猷)の詩。大田実司令が愛唱していた。

大田司令の辞世の句は、フィルム保護がされていた。

神州不滅

神国である日本は不滅である

醜米覆滅

当時、戦闘中に記載された四文字は、かすれてきていた。「醜いアメリカを覆し滅ぼす」
この4文字に対しては、フォルム保護などが行われておらず、で。

観音菩薩様

やすらかに
 鎮まりませと 
  ひたすらに
願ひをこめし
 黄菊白菊

平和祈念
至心合掌

なお、施主に名を連ねている板垣愛子氏は大田司令官の3女。

沖縄県民はこのように戦いました

司令官室
大田司令官は県民の将来を憂い、「沖縄県民かく戦えり」の電文をこの部屋で書きました。

1945年6月6日20時16分
大田實海軍少将は自決する直前、沖縄司令部発、沖縄県民の献身的作戦協力を伝える電文を海軍次官宛に発信。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結んだ。


旧海軍司令部壕・医療室


旧海軍司令部壕・発電室

壕掘り作業
この壕はすべて兵士たちの「つるはし」や「くわ」によって掘られた手作りの壕です。


旧海軍司令部壕・下士官室

下士官室
玉砕前この部屋には兵士達がいっぱいで、立ったままで睡眠や休息をとったといわれています。

下士官室復元図
当時の壕内には、国頭方面から運ばれてきた琉球松が、支柱として多数使われていました。


旧海軍司令部壕・出撃の出口

出撃風景(出口付近)
兵士たちのほとんどは武器らしい武器もなくこの出口から出撃、大半が二度と帰ってきませんでした。


旧海軍司令部壕・出口

頒布物

場所:

https://maps.app.goo.gl/jGcbK9fNwVuiDE5ZA


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その11」へ

沖縄県庁最後の地「轟壕」と「沖縄の島守・島田彰沖縄県知事」(沖縄戦跡慰霊巡拝9)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その9」となります。

その8は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


「沖縄の島守」島田叡沖縄県知事

兵庫県神戸市須磨区出身。
1901年(明治34年)12月25日〜1945年(昭和20年)6月26日。
兵庫県立第二神戸中学校時代に第1回全国中等学校優勝野球大会(いわゆる夏の甲子園の第1回大会)に出場、東京帝国大学法学部)は野球部のスター選手でもあった。
野球殿堂博物館に建立された戦没野球人モニュメントも島田叡の名前が刻まれている。

当時、前任者の泉守紀沖縄県知事は頻繁に東京に出張していた。(在任期間の三分の一を出張で沖縄から離れていた)、1944年末から1月も東京に出張しており、そうして1945年1月に出張中にもかかわらず香川県知事に転任する辞令を得ており、米軍上陸直前で、後任の沖縄県知事選出が難航している状況であった。

その、沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、大阪府内政部長から、沖縄県最後の官選知事として、島田叡は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。

1944年10月の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前のことであった。

戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力。五ヶ月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で 疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救い「沖縄の島守」として慕われた。

1945年3月、空襲が始まり、沖縄県庁は、首里の地下壕に移転。以後、沖縄戦の選局の推移に伴い、壕を移転させながら、行政を担っていく。

6月7日ごろに、島田叡知事以下の県庁首脳部が「轟壕」に移動。
6月15日の夜、島田叡知事は県幹部・職員・警察官らを集めて県庁の活動停止を命令。そのため轟豪が「沖縄県庁最後の地」とも言われている。
島田知事と荒井沖縄県警察部長は、翌16日朝、摩文仁の司令部に移動。
6月26日、島田沖縄県知事と、荒井沖縄警察部長は、摩文仁の壕を出たきり消息不明となっており、現在まで遺体は発見されていない。享年43歳。最後まで、沖縄県民とともにあった「沖縄の島守」であった。

1945年7月9日、島田沖縄県知事の殉職の報に際し内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞を贈り、「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。内務大臣が一知事に対し賞詞を授与することは、前例がなかった。

墓所は、多摩霊園。


沖縄県庁最後の地「轟壕」

島田叡沖縄県知事がこの地で、沖縄県庁の活動停止を発したことにより、沖縄県庁最後の地とされている。

轟壕
 轟壕は東西方向に伸びる自然洞穴で、地元ではトゥルルチ、またはトゥルルシなどと呼ばれています。
 1945年3月に米軍による空爆や艦砲による攻撃が始まると、真壁村名城の住民が避難しましたが、日本軍の南部撤退で司令部を摩文仁に移した5月末頃から、戦禍に追われた地域外からの住民も避難して来ました。
 6月7日頃に島田叡知事以下の県庁首脳部がこの壕に移動。15日の夜、知事は県幹部を集めて県庁の活動停止を命じており、沖縄県庁最後の地とも言われています。知事は16日朝、摩文仁の司令部に向かいました。同じ頃、銃剣などで武装した日本兵十数人が入り込み、入り口付近を占拠し、軍官民雑居の状態となりました。
 6月18日頃から米軍による、ガソリンや爆薬の入ったドラム缶を落とし込むなどの「馬乗り攻撃」が始まり、死傷者が出ました。手持ちの食糧が尽きた住民のなかには衰弱死する者も出ました。
 6月25日頃、先に米軍の捕虜となった宮城嗣吉さんらが投降呼びかけを再三行ったことから、約500人から600人の避難民は壕を出てきました。

戦没者犠牲者霊供養

合掌

自己責任で。

場所

https://maps.app.goo.gl/RgCtdKnSrNkY79167


島田叡氏顕彰碑

沖縄県最後の官選知事、沖縄戦で殉職した島田叡氏の顕彰碑が、「奥武山公園」に建立されている。
場所は異なるが、島田知事繋がりで掲載。

第27代 沖縄県知事
島田叡氏顕彰碑

《建立の詞》
 1945年1月、島田叡氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第27代県知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
 以来、五か月に及ぶ戦時下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(469柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われます。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園の夢へ育み、大きな励みになりました。
 1972年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄。兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事蹟を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
  2015年6月吉日
   島田叡氏事跡顕彰期成会 会長 嘉数昇明
《碑の構想》
祈り(合掌)、命(ぬちどぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)

《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(『史記』李斯列伝より)
“断じて行えば鬼神もこれを避く”
 …意を決して敢然と行えば、鬼神でさえもその勢いを避ける…
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」
(沖縄赴任に携行した愛蔵書)

「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや、誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
 米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか…という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地になることの必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)

「極限の沖縄戦のなかで『生きろ!』」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ…。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。

「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)

《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまでも全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは障害、それを実行した」(三高野球部球友の回想)

「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部) 東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大三年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還を目指した。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。

「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に…島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和三九年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
 さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。

「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の一年後輩で、野球部で二年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
 「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を祈念につけてもらえないだろうか」

南東側の碑文。島田の生誕の地・須磨と、終焉の地・糸満市摩文仁を詠んだ詩。「北へ」は沖縄戦では「ひめゆり学徒隊」の引率教官も務めた言語学者・仲宗根政善氏(1907~1995)の詩。「南へ」は島田と同じ神戸二中の後輩で詩人の竹中郁氏(1904~1982)の詩。また碑には母校神戸二中(現・県立兵庫高校)の校庭にあるユーカリの樹と摩文仁の海岸の写真が焼き付けられている。

詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
 ふるさとの
 いや果てみんと
 摩文仁岳の
 巌に立ちし
 島守のかみ
  (詠人 仲宗根政善)

南へ(摩文仁・沖縄県)
 このグラウンド
 このユーカリプタス
 みな目の底に
 心の中に収めて
 島田叡は沖縄に赴いた
 一九四五年六月下浣
 摩文仁岳近くで
 かれもこれも砕け散った
  (詠人 竹中郁)

島田叡氏を縁とする深い絆
兵庫・沖縄友愛グランド

 沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、沖縄県最後の官選知事として、島田叡(あきら)は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力し、「沖縄の島守」として慕われる。最後は県民と運命をともにする。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 その島田叡知事の縁によりもたらされた至誠と信頼。そして尊敬を礎とする兵庫・沖縄の交流の歴史は、1972年「復帰の年」に締結された「兵庫・沖縄友愛提携」を機に一層深まり、数々の交流事業が展開された。
 かつてこの地には、兵庫県民から贈られた「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」があり、多くの若者・県民がスポーツやレクレーションを楽しんだ。
 このグラウンドは、スポーツをこよなく愛した島田叡知事が青少年の嬉戯する姿を思い描き、将来にわたって、なお一層の両県の「絆」が発展することを祈念して「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と呼称するとともに、両県の「友愛の証」とする。
  2015年6月吉日  
  島田叡氏事跡顕彰期成会

兵庫・沖縄
友愛グランド

沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地の碑

レリーフは、沖縄・兵庫両県の県花デイゴとのじぎくを図案化したものです。

 沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、日本復帰後の昭和50年(1975年)6月、兵庫県民から「友愛の証」として沖縄県に贈られた。
 そして、スポーツやレクリエーション活動の拠点として、沖縄県のスポーツの振興に寄与するとともに、兵庫県との友愛の象徴として中心的な役割を果たした。
 沖縄・兵庫両県の友愛の絆が、より深く恒常的なものとなることを祈念し、ここに記念碑を建立する。
 平成21年3月  沖縄県教育委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZrXC2YdMirwW6jVf7

撮影:2022年10月


島田叡墓所(多摩霊園)

多摩霊園の11−1−6に、島田彰の墓がある。

合掌

場所

https://maps.app.goo.gl/jqD7D5GueNDJSagy5

※多磨霊園の撮影のみ2025年9月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その10」へ

沖縄最古の慰霊塔「魂魄之塔」と「有川中将以下将兵自決の壕」米須霊域(沖縄戦跡慰霊巡拝8)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その8」となります。

その7は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


米須霊域

沖縄本島南部の糸満市に所在する「米須霊域」は、「平和祈念公園」に次ぐ霊域。
米須霊域は、「ひめゆりの塔」の南側に位置している。
米須霊域の西側には、全国植樹祭の会場となった「平和創造の森公園」が広がっている。


有川中将以下将兵自決の壕

歩兵第64旅団長・有川主一陸軍少将(ありかわもりかず・死後に中将)

歩兵第64旅団は、第32軍 第62師団 所属
第32軍隷下の全部隊が玉砕した。

有川中将以下将兵自決の壕

石第64旅団は沖縄県民の絶大なる協力を得て奮戦力闘したが武運拙く、将兵は悉く玉砕し、旅団長有川圭一中将は高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に此の壕で自決した。時は昭和20年6月21日の未明であった。
茲に全国篤志家の賛助を受け、記念の碑を建てその偉烈を後世に伝える云爾
   昭和56年6月21日 建立
     鹿児島県沖縄戦歿者慰霊会

場所

https://maps.app.goo.gl/TpMPfHeQ5hCvy2eHA


魂魄乃塔

沖縄では最古にして最大の合祀数となる慰霊塔。
沖縄戦最後の激戦地「米須」に建立された。
元々は納骨堂であり、沖縄各地に点在する慰霊塔で最古のものとされている。
(ご遺骨は、現在は、国立沖縄戦没者墓苑に転骨されている)

魂魄

<建立の経緯>
糸満市米須集落の南方300m、海岸寄りにある。ここは沖縄戦最後の激戦地であり、日本軍も住民も米軍に追い詰められて逃げ場を失い、陸海空からの激しい攻撃を受け命を落とした人は数多い。敗戦直後、米須地区に移転収容された旧真和志村(現在の那覇市)の住民が米軍の許可を得て遺骨収集班を結成、道路や畑、丘、森に散っていた遺骨を集め魂魄の塔を建立した。合祀柱数3万5000は沖縄では最大の慰霊塔にあたるが、昭和54年2月摩文仁が丘に完成した国立沖縄戦没者墓苑にその大部分は転骨された。
なお、塔は終戦直後の石積みで素手造りであり崩れる恐れがあったため、平成元年補修され、あわせて碑文の刻板が設置された。
塔の裏側には
 にぎたまと なりてしづもる おくつきの
 み床の上を わたる潮風
と刻まれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_007/index.htmlhttps://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/konpakunotou

魂魄の塔
 この地は今次大戦でも一番の激戦地であり、日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡である。
 戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。
 祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後、昭和五十四年二月摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨して安置してあります。
 和魂となりてしづもるおくつきの
 み床の上を渡る潮風
  建立年月日 昭和二十一年二月
   財団法人 沖縄県遺族連合会

和魂となりてしづもるおくつきの
み床の上を渡る潮風
 翁長助静 詠 
  潭洞 書

 歌意は、和魂「平和でもの柔らかな徳を備えた霊魂」となってねむるおくつき(奥津城=墓)のみ床の上を潮風が吹き渡っている、ということです。
 終戦の翌年の昭和二十一年一月、沖縄の各地に散らばっていた旧真和志村民は自分の村に帰る予備的措置として、この米須一帯の地に集結させられました。
 沖縄戦において、島の南の果てまで追いつめられ、逃げ場を失った日本軍や民間人は、ここ
で夥しい数の戦死者をだしました。 戦死者の屍は目をおうばかりに散在し、放置されたままとなっていました。
 このような惨状をみかねた当時の金城和信真和志村長は村民に呼びかけ、遺骨の収集へと乗り出しました。そのとき、糸満高校真和志分校校長をされていた翁長助静先生は、生徒を指揮して遺骨収集の先頭にたつかたわら、この魂魄建立に協力し、表記の歌を墓碑の裏に刻まれました。
 この歌はいわば無名の戦死者に捧げられた鎮魂歌となっています。
 なお、当時の歌碑は長い年月の流れに風化され、歌の文字もほとんど読取ることができないまでに失せてしまっていました。そこで、この歌碑はこれに心を痛めた当時の教え子たちが、戦後五十周年の節目にこの歌碑を建立しました。
       平成七年六月

 沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、20万余の同胞が散華した。
 かかる中で、昭和21年1月23日、九死に一生を得た真和志村民は、米軍によって当地に終結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。
 この光景を痛嘆した金城村長は、先づ御遺体を弔ふべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。
そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我2万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年2月27日、金城村長はこれを魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
 更に、金城ご夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年4月5日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を建立した。
 ひめゆりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第1高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。
 続いて金城ご夫妻は、同年4月9日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立した。
 後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。
 今では、方々に慰霊塔が建つようになったが、思えば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。
 東京大学名誉教授 中野精一

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_007/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/LieJx2sixz3cGvu99


金城和信翁の胸像

「魂魄の塔」の隣に建立、北村西望の製作。昭和55年10月23日除幕式。
金城和信翁は、明治31年3月1日生まれ。戦前は沖縄県の小学校長などを歴任され、戦後の米軍占領下では、摩文仁におかれた真和志村の村長に就任。
米軍の許可を得て、ご遺骨の収集を開始し、昭和21年(1946年)2月に、戦後初の慰霊塔であり納骨堂として「魂魄の塔」が建立された。

金城和信翁は、明治三十一年沖縄に生れ その性寡黙にして温情溢れ 進んで艱難に当たる
思えば昭和二十年春夏の間 凄絶比類なき戦場となった沖縄は学徒を含む県民の殆どが戦列に加はり 実にその大半が国に殉じた
然るに戦火終るも 沖縄は引続いて米軍占領下に置かれ 為に人々は戦没者を祀ることに対し 先方の干渉を慮り実行を恐れたこのとき身を挺して県民の先頭に立った偉丈夫があった その人こそ金城和信である 翁は戦野に累々たる三万余の遺骨を拾収するや「魂魄の塔」を建立 鄭重にこれを収めてその尊い霊を慰め 続いて「ひめゆりの塔」「健児の塔」を建て戦没学徒を悼んだ
爾来 翁は沖縄県遺族連合会会長となり 英霊の顕彰 遺家族の福祉援護 戦没学徒の処遇及び全国都道府県慰霊塔建設などのために尽瘁し その業績は遺家族の親 戦没学徒の父として遍く知られるに至った
しかして日本国家は 八十一歳の翁を正五位勲三等に叙し 授くるに瑞宝章を以てし 翁が一生の労苦に報いその功績を讃へた ここに翁の威徳を慕ふ者相集って胸像を建立するに至る
見よ いまなほ この地に在りて ふる里を見守る翁のまなざしを 翁よ 翼はくは魂魄この世に留まり次代を背負ふ人々を加護し給はらんことを
 昭和五十五年十月
  金城和信先生威徳顕彰会議 
  文化勲章日展会長北村西望書 

沖縄戦継承事業 戦場に動員された21校の学徒隊
 戦前、沖縄には21の中等学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての男女中等学校の生徒たちが戦場に動員されました。女子学徒は、15歳から19歳で、主に看護活動にあたりました。男子学徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。沖縄戦により、学業半ばで多くの学徒が短い生涯を散らしました。

https://www.pref.okinawa.lg.jp/kyoiku/seikatufukushi/1006765/1027103.html


東京之塔(東京都)

所在地糸満市山城
建立年月日昭和46年10月27日
敷地面積8,000㎡
合祀者数103,500柱(沖縄戦戦没者6,500柱、南方諸地域戦没者97,000柱)
管理団体東京都

東京之塔

 さきの大戦中、南方諸地域において戦没せられた東京都の関係者は実に10万有余柱に及ぶ。
 顧みればわれら同胞が戦禍に堪えて刻苦精励すること20有余年、よく平和の恩恵に浴しえたことは、ひとえに英霊が戦火の悲惨と生命の尊厳を貴い血をもって示されたたまものにほかならない。
 よって戦没者遺族をはじめ都民1100余万こぞって慰霊の誠を捧げ平和への誓いをこめ、ここ沖縄の激戦地米須の丘に謹んで東京の塔を建立する。
 み霊よ安らかに眠りたまえ
  昭和46年10月
   東京都南方地域戦没者慰霊碑建設委員会

「東京乃塔」の概要 東京都
この「東京之塔」は、さきの大戦において、南方諸地域で戦没された、東京都関係十万余柱の慰霊のために、建立されたものであり、一千百余万都民の心からなる平和への願いを象徴するものであります。

1、所在地
沖縄県糸満市字山城南コブサ原五百六十八番地

1、規模構造
敷地は約八千平方メートルあります。
基壇は八メートル四方で、遺族代表が多摩川で採取した小石を敷き詰めてあります。
基壇中央に直径五メートルの塚があり、塚は建設当時の、二十三区、二十三市九町、九村を象徴する六十四個の石をもって構成されています。
塚の中心に縦一.三メートル、横二.三メートルの石棺の形を模した舟型式の黒御影石の塔が据えられています。
上段広場は、約四百五十平方メートルで三方を石垣で囲んであります。
この石垣は、沖縄産の栗石を用い、沖縄特有の積み方をしております。

1、竣工
昭和四十六年九月三十日

南方戦域方向盤

トラックやマリアナの方向を拝む

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/tokyonotou

場所

https://maps.app.goo.gl/q69EgP4NEbqat66d8


因伯の塔(鳥取県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和46年11月4日
敷地面積1,894㎡
合祀者数13,904柱(沖縄戦戦没者539柱、南方諸地域戦没者13,365柱)
管理団体鳥取県

因伯の塔

鳥取県民はその総意に依り此所に碑を建て大東亜戦争に当たり沖縄その他南方地域に於て戦没した郷土の勇士の偉勲を偲びその冥福を祈る
塔石は佐治石である
 昭和46年11月
  鳥取県知事石破二朗書

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/inpakunotou

場所

https://maps.app.goo.gl/amtQyiFHE565GC4e9


紀乃國之塔(和歌山県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和36年11月30日
敷地面積932㎡
合祀者数839柱
管理団体和歌山県

紀乃国之塔はこの地で祖国の安泰を祈念しながら壮烈な最期をとげた和歌山県出身839柱の英霊を祀るため、昭和36年11月敬弔の誠をこめて県民が建設したものであります。爾来遠く海を渡ってこの塔を訪れ英霊に対面されるご遺族や県民が年を追うて多くなりました。私も昭和44年11月参拝する機会を得ましたが、浄域を拡張整備したいとの声がとみに高まるを聞き、且つまた建塔された各位の意向を推察するとき、浄域を更に荘厳にすることが戦後25周年記念事業として最もふさわしいと考えて整備することにいたしました。 こいねがわくは諸霊には郷土の人々の捧げる追弔敬祭の微衷をおうけ下さらんことを。
 昭和45年11月
  和歌山県知事 大橋正雄

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/kinokuninotou

場所

https://maps.app.goo.gl/npfAGbtcJ8yBVfAYA


北霊碑(北海道)

所在地沖縄県糸満市米須
建立年月日昭和29年4月(昭和47年10月と平成8年11月に改修)
敷地面積640平方メートル
合祀者数40,850柱(沖縄戦戦没者10,850柱、南方諸地域戦没者30,000柱)
管理団体(一財)北海道連合遺族会

曠古の大東亜戦争はその惨烈ここ沖縄の決戦に極まって我北海道出身の将兵1万有余名も玉砕護国の楯とはなった。昭和29年4月北海タイムス社、北海道沖縄遺族会が、その霊を悼み全国に魁けて本碑を創建したが、爾来風雨18年漸くその補繕を迫られるに及び茲に本会の発議により、本年恰も沖縄の祖国復帰を卜し道並に全道市町村の助成及び沖縄会の協力をも得て浄財を募り、本島はもとより伊江島、慶良間等40余島並に広く南方海域諸島に散華した北霊凡そ3万余柱の招魂の聖碑ともなして之を改修した。
願わくは英魂、永遠に瞑せられんことを。改修にあたり終戦以来慰霊事業諸般に亘り献身的な奉仕援助を戴いた沖縄遺族連合会会長金城和信翁以下の御恩徳を銘記し永く後世に伝うる次第である。
 昭和47年5月15日

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/hokureihi

場所

https://maps.app.goo.gl/Pf7oHS8V7BsUQmdW8


大和の塔(奈良県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和42年11月16日
敷地面積642㎡
合祀者数15,871柱(沖縄戦戦没者556柱、南方諸地域戦没者15,315柱)
管理団体奈良県

この塔は、すぐる太平洋戦争においてふるさとを遠くはなれた南海の島々で、祖国の安泰と繁栄をいのりつつ散華された奈良県出身戦没者 1万 5000余柱のみたまを慰めるため、県民の心をこめて ゆかりの地ここ米須の丘に建立したものである。
1967年11月
奈良県知事 奥田良三

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/daiwanotou

場所

https://maps.app.goo.gl/Qz3Z5YeUaV6zHtWV7


大分の塔(大分県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和40年11月17日
敷地面積314㎡
合祀者数約1,430柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)大分県遺族連合会

建塔の記
 太平洋戦争における最終段階としての沖縄の死闘の歴史は何人も涙なくして語ることができません。
 戦後10余年、県民生活もやや安定した1961年11月、大分県の遺族代表が初めて沖縄に巡拝したとき
 ふるさとの
  山河も泣かむ
   この島に
 散りたる若き
  御霊祭れば
と記した県産檜の白木の柱を建て、沖縄に散華した県出身 900余柱の霊を慰めたのであります。
 他方数県で現地に永久的な慰霊塔を次々に建立するようになりましたので、このたび県遺族会の発意で、ここ最後の激戦地米須の丘に大分県耶馬渓産の霊石を用い「大分の塔」を建てることにいたしました。
 謹んで哀悼の誠を捧げ、英霊の御冥福と世界の平和を祈念する次第であります。
  1965年11月
   大分県知事 木下 郁
   大分県沖縄戦没者慰霊塔建設委員会 会長 小林政治

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/oitanotou

場所

https://maps.app.goo.gl/bLoH7t7h1Yeob5bg8


ひろしまの塔(広島県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月23日
敷地面積1,594.2㎡
合祀者数34,635柱(沖縄戦戦没者1,271柱、南方諸地域戦没者33,364柱)
管理団体広島県

献辞
海を渡り また 海を渡り
郷土はるかに 戦って還らず
沖縄に散り 南方に散る 護国の英霊 3万4600余柱
ここに とこしえに 鎮まりませば
ふるさとの 妻子 父母 老いも若きも
海を渡り また 海を渡り
ここに もうでて み霊安かれと
祈らざらめや 祈らざらめや
 昭和43年 5月
  広島県戦没者沖縄慰霊塔建設委員会
  会長 県議会議長 檜山袖四郎

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/hiroshimanotou

場所

https://maps.app.goo.gl/RAVz9ZwbkfhMYf5v7


讃岐の奉公塔(香川県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月18日
敷地面積910㎡
合祀者数32,413柱(沖縄戦戦没者1,120柱、南方諸地域戦没者18,637柱、満州および中国方面戦没者12,656柱)
管理団体香川県

むかしむかし、
讃岐の国の殿様に仕える可憐な乙女がおってな
その娘はお姫様の身代わりに病気になり、悲しくも命を失った
人々はその死をいたみ、誠実にして至純
献身的なその心をあわれんで
「奉公さん」と名づけ
人形を作り功績をたたえたそうな

讃岐の奉公塔建立の碑
ここ沖縄、南方諸地域、中国大陸で祖国の安泰を願い
家族を案じつつ亡くなられた
3万2413柱の御霊
とこしえに安かれと祈るとともに
郷土の発展と恒久平和の実現を心から願いつつ
郷土人形奉公さんを想い起し
「讃岐の奉公塔」と命名する
  昭和43年5月吉日
   香川県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/sanukinohokotou

場所

https://maps.app.goo.gl/HDpFti5EXqyqReiM6


島根の塔(島根県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和44年3月28日
敷地面積1,179㎡
合祀者数908柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)島根県遺族連合会

島根の塔
美しく花開くためには
そのかくれた根のたえまない
営みがあるように
私達の平和で心静かな日々には
この地に散ったあなた達
の深い悲しみと苦しみが
そのいしずえになっていることを思い
ここに深い祈りを捧げます
 昭和44年 3月
  島根県知事 田部長右衛門

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/shimanenotou

場所

https://maps.app.goo.gl/LBp6XqrWH6HdVqp5A


開南健児之塔

開南鉄血勤皇隊・開南通信隊(開南中学校)
 開南中学校は、戦前の沖縄県で唯一の旧制私立中学校で1936年(昭和11年)に創設されましたが、沖縄戦によりわずか9年という短い歳月で廃校になりました。
 1945年(昭和20年)3月25日前後、教頭から「空襲下で学校としてまとまって入隊するのは難しいので、各自で入隊するように」との指示を受け、各自で部隊に向かうことになりました。
 開南鉄血勤皇隊の入隊先の第六十二師団独立歩兵第二十三大隊は、激戦地となった宜野湾ー浦添戦線に配置され多くの犠牲者を出した部隊で、入隊した開南中学生が全員戦死しました。
 3月9日、通信隊要員の生徒は、高嶺村の大城森(現糸満市)に駐屯していた第24師団司令部に配属されました。
 生徒らは、同地で訓練を受けた後、5月中旬、部隊とともに首里に移動しましたが、前田(現浦添市)方面の劣勢がはっきりした5月下旬頃、高嶺村の大城森に撤退することになりました。その後、真栄里集落西側に布陣していた大隊へ配置換えになり、それから国吉集落西側に布陣していた大隊へ配置換えとなりました。
 国吉へ配置換えになって間もなく、米軍野営陣地へ切り込みましたが、多くの犠牲者を出しました。8月29日に生徒らは米軍に収容されました。

戦没生徒らのご芳名が刻まれた銘板

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_008/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/dqDimAps5vBUVaT28


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その9」へ