「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

最初で最後の陸海軍連合大演習・明治天皇統監の地「駐蹕御趾・乙川御野立所」(乙川白山公園・半田)

知多半島の中心都市「半田」。
明治23年(1890年)3月29日から4月2日にかけて、日本で最初の、(最初で最後の)「陸海軍連合大演習」が、知多半島で実施された。

半田市内の2つの公園を中心に、関連する戦跡などを巡ってみたいと思う。


第1回 陸海軍連合大演習

明治23年(1890年)3月29日から4月2日まで実施された、日本最初の「陸海軍連合大演習」。
明治天皇を統監、参謀総長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を審判官副長とし、明治政府からも山縣有朋内閣総理大臣、大山巌陸軍大臣、西郷従道海軍大臣らの重鎮たち勢揃いした大演習。

前年の明治22年に、国民皆兵制度としての徴兵令(太政官布告・法律第1号)大改正、そして明治23年は、第一回衆議院議員総選挙(7月1日)、教育勅語発布(10月30日)、第一回帝国議会召集(11月25日)、大日本帝国憲法(明治憲法)施行(11月29日)と施策が矢継ぎ早に打たれ、明治政府の近代国家としての体制が整った都市でもあった。
そして、4年後の明治26年(1894年)に、日清戦争に突入することなる。

「第1回 陸海軍連合大演習」では、陸軍は近衛師団、東軍に名古屋第三師団、西軍に大阪第四師団が参加し、海軍は御召艦の「八重山」をはじめ「高千穂」「大和」「高雄」「葛城」「扶桑」「浪速」「金剛」「鳳翔」「天龍」「筑紫」「摩耶」など28隻の軍艦のほか、水雷艇および運送船が知多半島の東の湾内に展開し、陸海軍の兵数28,000人を西軍(侵入側)と東軍(日本軍)に分かれ、実戦さながらの演習が開催された。
東西両軍艦隊が伊勢湾と衣ヶ浦湾で海戦を行い、西の侵入軍が武豊に上陸して東進し、これを阻もうとする東の日本軍との間で阿久比川を挟んで攻防戦を繰り広げられた。

明治天皇は大演習統監のため愛知県下に行幸。
まず大本営を真宗大谷派名古屋別院に置き、戦機の進展に伴い半田町に大本営を移した。
明治天皇の宿泊所は「半田大本営」と呼ばれ、大富豪小栗富次郎の邸宅に置かれた。
明治天皇は3月30日に小栗富次郎邸宅に宿泊し、翌31日に乙川と雁宿で大演習を統監した。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201311/vol_48-6.html


駐蹕御趾

駐蹕御趾

勝海舟の書。
明治35年(1902年)8月に乙川村有志によって、『駐蹕御趾』は明治天皇が野立した地点に建立された。

明治23年(1890年)3月30日から4月3日の5日間、西三河から名古屋東部にかけての地域を中心に第1回陸海軍連合大演習が行われた。その演習の2日目となる3月31日に、乙川白山付近から半田雁宿山にかけて東西両軍支隊の陸戦が行われた。
明治天皇は大演習の統監をすべく、最もよく東西両軍を見渡すことができる現在の白山公園の高台から観戦した。

明治廿三年三月
天皇親率陸海二軍大講武於尾參之間其兵凡三萬餘戰闘五日砲聲轟々天地爲震其三十一日 天皇御馬侵大雨馳驅戰陣之中來登白山社頭按轡而観焉嗚呼  
聖徳乾健躬與士卒分艱苦駐蹕寒郷而不顧自此乙川民甘棠之情常不能忘也乃稱此地日駐蹕御趾意我邦自古以武建國而其所謂兵式者參之海外諸國而拔其萃夫廿七八年之役而後  
皇威振於八紘者蓋非偶然也頃村民相謀欲建碑以表其趾永傳之後代因謹記其梗墍以勒石云明治三十五年八月建之

<読み下し>明治23年3月、天皇は尾三の間に於ける陸海二軍の大講武を親率す。其の兵は凡そ3万余、戦闘は5日砲声は轟々とし為に天地は震える。其の31日 天皇の御馬は大雨を侵し、戦陣の中を馳駆し、白山の社頭に登り来り、轡 (くつわ) を按めて焉 (これ) を観る。
嗚呼聖徳は乾健にして躬ら士卒と艱苦を分かち寒郷に駐蹕して顧みず。此れより乙川の民は甘棠 (かんとう) の情は常に忘れ能わざる也。乃ち此の地を称して駐蹕御趾と日う。意うに我が国は古より武を以て建国し、其の所謂兵式は之を海外諸国に参じて其の萃 (あつまり) を抜く。
夫二十七八年の役爾後皇威が八紘に於いて振るうは蓋し偶然に非ざる也。頃 (ちかごろ) 村民相謀って建碑し、以て其の趾を表し、永に之を後代に伝えんと欲す。因って其の梗概を謹んで記し、以て云 (ここ) に石に勒 (ろく) す。明治35年之を建つ


明治天皇乙川御野立所

明治天皇乙川御野立所碑

昭和9年(1934)11月1日に、聖蹟地として雁宿御野立所と乙川御野立所が史蹟に指定され、昭和10年3月に建碑された。内閣総理大臣 斎藤 実 の書。

明治天皇乙川御野立所碑
 この碑は昭和九年(一九三四)十一月一日「史蹟名勝天然記念物保存法」に基づき、半田の雁宿御野立所とともに文部大臣から聖蹟地として史蹟(跡)指定されたのを記念して、この地に昭和十年(一九三五)三月に建てられた。
 碑の題字は、当時内閣総理大臣であった斎藤 実の書である。斎藤 実は内閣総理大臣を辞した後に、内大臣を務めたが、昭和十一年(一九三六)に起きた「二·二六事件」で凶弾に斃れた。
 昭和二十五年(一九五〇)に「史蹟名勝天然記念物保存法」は廃止になったが、「文化財保護法」の附則により「史蹟名勝天然記念物保存法」によって指定されたものは「文化財保護法」により指定されたものとみなすことになった。
 なお、史蹟指定された時点では、公園中央を通る歩道の南側の土地は明治四年(一八七一)に制定された「上知令」により官有地とされていたが、戦後になり国から返還された。
  平成二十七年十一月 乙川白山公園聖跡保存会


明治天皇御統監四十周年記念碑 (誓いの御柱)

昭和5年(1930)、明治天皇御統監40周年を記念して建立。
塔部には「五箇条の御誓文」が記され、台座部には「弥栄 (いやさか) 」「天晴 (あわ) れ」「あな面白 (おもしろ) 」「あな手伸 (たのし) 」「あな明 (さや) けおけ」と記載。現在は、経年劣化で一部剥落している。

明治天皇御統監四十周年記念碑
 この碑は、明治二十三年(一八九〇)に行われた第一回陸海軍大演習を明治天皇が、この地で統監されてから四十周年を迎えたことを記念して昭和五年(一九三〇)十一月に建てられた。通称「誓いの御柱」と呼ばれている。
 塔部には明治元年(一ハ六八)三月に発布された明治新政府の政治理念である「五箇条の御誓文」が記されている。塔の台座部には正面に「弥栄(いやさか)」左回りに「天晴(あわ)れ」·「あな面白(おもしろ)」·「あな手伸(たのし)」·「あな明(さや)けおけ」と記されている。
「弥栄」は国の益々の繁栄を祈る寿ぎの言葉で、「天晴れ」以下は古史古伝に書かれている言葉で、天照大神の「天の岩戸隠れ」」で暗闇に閉ざされていた世界が「天の岩戸開き」によって光明に満ち満ちた時に諸々の神々が発した喜びの言葉である。
 五箇条の御誓文
一、広ク会議興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ラ一ニシテ盛ニ経綸フ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志遂ケ人心フシテ倦マサラシメンコトラ要ス
一、旧来ノ陋習ラ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識フ世界ニ求メ大ニ皇基振起スヘシ
 我国未曾有ノ変革フ為サントシ、朕躬ラ以テ衆ニ先ンシ、天地神明ニ誓ヒ、
 大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ン卜ス。衆亦此旨趣二基キ協心努力セヨ。
  平成二十七年十一月 乙川白山公園聖跡保存会

広く会議を興し万機公論に決すべし

上下心を一にして盛んに経綸を行うべし

官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ 人心をして倦まざらしめん事を要す

旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし

智識を世界に求め大に皇基を振基すべし

弥栄 (いやさか) 

天晴 (あわ) れ

あな面白 (おもしろ)

あな手伸 (たのし) 

あな明 (さや) けおけ

柵は、戦後の修復あり。

支那事変大東亜戦争戦没者慰霊碑建設記念
昭和46年4月29日修復
乙川郷友会

明治天皇御統監四十周年記念

昭和5年11月建立 亀崎町


日清戦争従軍紀念碑

明治35年8月に日清戦争従軍を記念して建立。大山 巌 書。
現在地に大正15年8月に移設された。

従軍紀念碑

従軍紀念碑銘  

乙川小学校長 林和三郎撰
明治廿七年 皇師討清国渝盟之罪戦勝攻取海陸席巻軍亘両歳清国悔過之遣重臣講和大軍凱旋使国家威武宣揚於八表此雖固由 聖朝威霊而兵士之忠勇𡈽與有力焉此役也乙川郷民従軍者廿五人以功賜賞有差頃郷民欲建碑以垂範于後昆碑余銘銘日
其旗正正  其陣堂堂  討罪正名
我武維揚  豈図彼我  本為唇歯
鷸蚌之争  恐漁之利  投水赴火
万人一心  有凌我者  其利断金
糺忠克毅  常執厥一  龍驤虎変
猶期他日
 南厳中川衡憲書
元帥陸軍大将正二位勲一等功二級候爵大山巌

日清戦争従軍紀念碑
この碑は、明治二十七·二十八年(一八九四·一八九五)の日清戦争に従軍したことを記念して明治三十五年(一九〇二)八月に建てられた。現在地には大正十五(一九二六)年八月に移築されたが、当初の建碑場所は不明である。
碑の題字は当時陸軍参謀総長であった大山 巖の書である。大山巌は、明治二十三年(一八九〇)の陸海軍大演習時には陸軍大臣であり、明治天皇に随従し、この白山の地から大演習を観戦した。
碑銘は乙川小学校長の林 和三郎の撰、書は中川 南厳によるもので「駐蹕御址」碑陰文の選者·書家と同じである。
碑銘の下側には従軍者二十五名の名前がきざまれている。日清戦争では乙川村からの出征者に戦死·戦病死者はいなかった。新修半田市誌には、明治二十八年七月に乙川八幡社で凱旋祝賀会が催され、臨時祭礼も挙行されたと記されている。
碑裏面には建碑発起人二十五名の名前が刻まれており、その中には数名の従軍者の名前も見られる。また建設委員には竹内惣九郎氏はじめ、当時の乙川村の有力者の名前も多数見られ、紀念碑の建設が村を挙げての事業であったことが窺える。
平成二十七年十一月 乙川白山公園聖跡保存会


慰霊碑

支那事変及び大東亜戦の犠牲者267名の慰霊碑。
昭和46年4月、乙川郷友会が中心となり、乙川遺族会と乙川区長会の協賛で建立。
題字は、内閣総理大臣 佐藤栄作の書。

慰霊碑
 この碑は、昭和十二年(一九三七)七月に中国北京郊外の盧溝橋で勃発した日華事変から、昭和二十年(一九四五)八月の終戦までの犠牲者(戦死·戦病死·事故死者)の慰霊のため、昭和四十六年(一九七一)四月に建てられた。
 碑の題字は、当時内閣総理大臣であった佐藤 栄作の書である。
 碑裏面には犠牲者二六七名の名前が地域別に刻まれており、その内訳は次のとおりである。
  支那方面 七三名
  満州方面 一五二名
  朝鮮 一名
  沖縄 九名
  北太平洋 二名
  内地 二〇名
  シベリヤ 三名
  ルソン島 七名
 終戦から二十六年を経た昭和四十六年になって慰霊碑が建立された。戦後、復旧に汲々としていた日本経済が昭和四十年代の高度成長に伴い、人々の生活も豊かになった。戦争犠牲者に思いを馳せる余裕ができ、遺族が元気なうちに慰霊をしたいとの思いから碑がつくられた。
 平成二十七年十一月 乙川白山公園聖跡保存会


乙川白山公園

乙川白山の頂上付近に八幡社と併設された公園。
昭和44年に整備。
明治天皇が乙川白山で統監された際の馬の足跡に建碑した「駐蹕御跡」の石標(明治35年8月)や、慰霊碑などが残されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/by1vojDS719HVatt6


乙川駅

名鉄の知多半田駅を15時すぎにスタートして、雁宿公園に赴いて、そこから乙川白山公園まで歩いて、17時半にJR乙川駅に辿り着き。約2時間半の散策。

乙川駅の近くには、中島飛行機半田製作所があった。
半田製作所の至近位置にあった武豊線乙川駅は1933年12月7日、無人の簡易駅で開業。
駅舎前の急坂は、線路の急勾配を回避した乙川駅の嵩上げの名残。

もしかして?往時の路面??


※撮影:2026年2月


関連

対となる「雁宿公園」はこちら。

最初で最後の陸海軍連合大演習・明治天皇統監の地「半田大本営と雁宿御野立所」(雁宿公園・半田)

知多半島の中心都市「半田」。
明治23年(1890年)3月29日から4月2日にかけて、日本で最初の、(最初で最後の)「陸海軍連合大演習」が、知多半島で実施された。

半田市内の2つの公園を中心に、関連する戦跡などを巡ってみたいと思う。


第1回 陸海軍連合大演習

明治23年(1890年)3月29日から4月2日まで実施された、日本最初の「陸海軍連合大演習」。
明治天皇を統監、参謀総長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を審判官副長とし、明治政府からも山縣有朋内閣総理大臣、大山巌陸軍大臣、西郷従道海軍大臣らの重鎮たち勢揃いした大演習。

前年の明治22年に、国民皆兵制度としての徴兵令(太政官布告・法律第1号)大改正、そして明治23年は、第一回衆議院議員総選挙(7月1日)、教育勅語発布(10月30日)、第一回帝国議会召集(11月25日)、大日本帝国憲法(明治憲法)施行(11月29日)と施策が矢継ぎ早に打たれ、明治政府の近代国家としての体制が整った都市でもあった。
そして、4年後の明治26年(1894年)に、日清戦争に突入することなる。

「第1回 陸海軍連合大演習」では、陸軍は近衛師団、名古屋第三師団、大阪第四師団が参加し、海軍は御召艦の「八重山」をはじめ「高千穂」「大和」「高雄」「葛城」「扶桑」「浪速」「金剛」「鳳翔」「天龍」「筑紫」「摩耶」など28隻の軍艦のほか、水雷艇および運送船が知多半島の東の湾内に展開し、陸海軍の兵数28,000人を西軍(侵入側)と東軍(日本軍)に分かれ、実戦さながらの演習が開催された。
東西両軍艦隊が伊勢湾と衣ヶ浦湾で海戦を行い、西の侵入軍が武豊に上陸して東進し、これを阻もうとする東の日本軍との間で阿久比川を挟んで攻防戦を繰り広げられた。

明治天皇は大演習統監のため愛知県下に行幸。
まず大本営を真宗大谷派名古屋別院に置き、戦機の進展に伴い半田町に大本営を移した。
明治天皇の宿泊所は「半田大本営」と呼ばれ、大富豪小栗富次郎の邸宅に置かれた。
明治天皇は3月30日に小栗富次郎邸宅に宿泊し、翌31日に乙川と雁宿で大演習を統監した。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201311/vol_48-6.html

「陸海軍連合大演習」および、後年の「陸軍特別大演習」(第一回目の陸軍特別大演習は、明治25年の宇都宮)においては司令部でなく、天皇の行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」と称した。これが、のちの戦時大本営へとつながる呼称のルーツの一つといわれている。


雁宿公園

明治23年 (1890) に陸海軍の連合大演習が行われた際、明治天皇が大演習統監のために滞在されたことを記念し、大正2年(1913)に公園として整備。
公園全体が明治天皇ゆかりの地として、園内に「明治天皇雁宿御野立所」碑、「明治天皇半田大本営」碑、「明治天皇駐蹕碑」が建っている。


明治天皇駐蹕碑(雁宿公園)

明治天皇御駐蹕碑
 大正二年十一月 建立
明治二十三年三月三十日から四日間、第一回陸海軍連合大演習が当地と西三河の一帯で行われた。この碑は演習御統監のため明治天皇が来半なさったことを記念して建てられた。伊勢湾、衣ヶ浦湾における両軍艦隊の海戦に続いて、武豊へ上陸した侵入軍と、東進を阻もうとする日本軍との間で、激しい攻防戦が阿久比川を挟んでり広げられた。この大演習は日露戦争を目前にした我が国が軍事力を世界に示すために計画したもの。

展望台の上から石碑をみることができる。


明治天皇雁宿御野立所(雁宿公園)

明治天皇御野立所
 昭和十年 建立
降り続く前夜からの豪雨の中、ここ雁宿の丘に立たれた明治天皇は外套の御頭巾も召されずに演習を御統監になった。その御勇姿が国定教科書の修身巻四に掲載され、半田町のことが全国に知れ渡った。この碑はうしろに立つ巨大な駐蹕碑を含めて、雁宿公園全体が明治天皇縁の地であることを示している。

清浦奎吾の書


旧半田大本営明治天皇仮御所 
明治天皇半田大本営碑(雁宿公園)

明治天皇は、第1回陸海軍連合大演習の際、半田の豪農・小栗富次郎邸を仮御所(大本営)とした。
小栗富次郎家はその後、破産。建物は中埜産業合名会社の手に渡ったが、昭和5(1930)年に半田市に寄付。現在地に明治天皇は、第1回陸海軍連合大演習の際、半田の豪農・小栗富次郎邸を仮御所(大本営)とした。
小栗富次郎家はその後、破産。建物は中埜産業合名会社(ミツカン)の手に渡ったが、昭和5(1930)年に半田市に寄付。現在地に小栗富次郎邸(明治天皇の寝所・大本営御便殿跡の一部)移築されたのは昭和8(1933)年。建物自体は明治20年建築。旧小栗邸の跡地は国盛「酒の文化館」(中埜酒造株式会社・國盛)となっている。

明治天皇半田大本営碑
 昭和9年5月建設

明治天皇半田大本営碑
 昭和九年五月 移築
明治二十三年三月の陸海軍連合大演習の折、当時の政府や陸海軍の中心となる人々が明治天皇に従って来半し町内各所で宿泊した。明治天皇の御宿舎は大本営と呼ばれ、下半田の氏神様、業葉神社東にあった大富豪小栗冨治郎邸(現中埜酒造)に置かれた。のちにそれを記念して小栗邸から天皇御宿泊の御部屋を移転し保存したのがこの建物である。

史蹟指定地境界

指定地の文字が塗りつぶされている。

ピアかりやど
一時期は結婚式場などとしても活用されていが、建物の老朽化や耐震上の理由から閉鎖。


忠魂碑(雁宿公園)

乃木希典書

忠魂碑
 大正三年十一月建立
これは日露戦争における戦いで大切な命を落とした半田町出身の兵士を慰霊し、その行いに対して感謝の気持ちを表すために建てられた戦没者記念碑である。碑文は日露戦争で活躍した乃木希典大将の筆による。こういった忠魂碑は旧成岩町(成岩小学校校庭)、旧亀崎町(神前神社境内)など市内各所にある。


追憶之碑(雁宿公園)

東中島飛行機半田製作所山方工場で学徒動員中に、東南海地震で犠牲なった生徒たちを偲ぶ追憶の慰霊碑。

追憶之碑
昭和二十六年七月 建立
 昭和十九年(一九四四)十二月七日午後一時三十六分、当地を襲った東南海地震によって倒壊した中島飛行機(株)半田製作所山方工場(現在の市役所の位置)で学徒動員中に犠牲になった九十七名の殉難学徒のうち、旧制半田中学校、半田高等女学校、半田商工学校、半田第一国民学校、乙川国民学校、亀崎国氏学校、成岩国民学校(順不同)の生徒四十八名を偲ぶ記念碑が同期生らの手によって建立された。


殉難学徒之像(雁宿公園)

東中島飛行機半田製作所山方工場で学徒動員中に、東南海地震で犠牲なった生徒たちを偲ぶ慰霊碑。

戦時動員学徒殉難遺徳顕彰記念像

殉難学徒之像
 昭和三十四年八月 建立
昭和十九年十二月六日頃の戦局は悪化の一途を辿っていた。軍需工場では学徒動員で集められた男女生徒が一人前の男顔負けの仕事ぶりで頑張っていた。古い赤レンガ造りの旧東洋紡績(株)を改装した中島飛行機(株)半田製作所山方工場でも多数の少年少女達が飛行機の組み立てに一心不乱、お国のために働いていた。そんな当地をマグニチュード8の東南海地震が襲ったのは午後一時三十六分である。一瞬にして倒壊した工場の瓦礫に押しつぶされて、九十七名の尊い命が悪夢の如く失われてしまった。半田高等女学校二十九名、豊橋高等女学校二十三名、京都第三中学校十三名、福井商業学校七名、半田国民学校六名、半田商工学校四名、旧制半田中学校三名、愛知高等実修女学校三名、成岩国民学校三名、片施国民学校三名、亀崎国民学校二名、乙川国民学校一名(順不同)の御靈の安らがならんことを祈り、世界の平和を願ってこの像は立つ。

殉難学徒之像


半田戦争犠牲者追悼平和祈念碑(雁宿公園)

平和祈念碑
 平成七年七月建立
この碑は、太平洋戦争戦後五〇周年を記念し、半田地域の民間戦災者を追悼し、戦争の惨禍を記録して、平和を誓うために建立された。
中島飛行機など軍需工場に動員された生徒·児童、徴用者、従業員、さらに朝鮮北部から連行された青年など四三二人(建立当時)の戦災犠牲者氏名が刻名してある。市民の浄財募金によって建立されたものである。

半田市に残る戦争のつめあと
犠牲者の追悼

半田地域の空襲·動員などによる戦時災害被害者を刻名した石碑です。
戦後50周年を記念して、半田空襲と戦争を記録する会の提唱のもと、建立実行委員会が結成され、市民や動員体験者などから募金をいただいたうえで、1995年7月に建立されました。
碑文「平和を願って」にあるとおり、事実を後世に伝え、再び戦争を起こさない決意が込められています。
このプレートは、戦争の悲惨さや平和の尊さの継承や、恒久平和を祈念するため、設置しているものです。
設置者:半田市

半田・戦災犠牲者追悼
平和祈念碑

平和を願って
 半世紀前、太平洋戦争がありました。
 その戦争のため、この半田でも、子ども・老人・市民・労働者・地元をはじめ、全国から軍需工場に動員されていた学徒・女子挺身隊・徴用の人びと四三二人以上の貴い生命が失われました。
 とくに、当時、日本の植民地とされていた朝鮮の北部から連行された、青年四十九人以上がこの中に含まれることは、まことにいたましいことです。
 戦災は天災ではありません。わたしたちは、半田における戦争の惨禍の記録をここに刻み、アジア諸国をはじめとする、すべての戦災犠牲者を追悼します。そして、この事実を後世に伝え再び戦争を起こさせない決意をこめて、平和を祈念するものであります。
 一九九五年七月二四日
  半田・戦災犠牲者追悼
   平和祈念碑建立実行委員会

半田の戦災
軍需工場と国家総動員
 太平洋戦争の開始にともない、半田市に中島飛行機をはじめ、多くの軍需工場が進出。全国各地から徴用労働者学徒ら約2万人が動員され、朝鮮から千二百人の青年が強制連行されていた。

東南海地震
 1944年12月7日、M8の地震が起こり、中島飛行機山方工場と葭野工場などで、学徒97人を含む154人が死亡。
 これは、旧紡績工場で軍用機の生産を行い、支柱・隔壁などを撤去したために工場が崩壊した人災であり、戦争被害でもあった。

半田空襲
 1945(昭和20)年7月15日小型機数機が来襲。機銃掃射により、市民8人が死亡。7月24日午前10時38分、アメリカの爆撃機B-29 78機が中島飛行機と周辺住宅地を爆撃。従業員・市民の264人以上が死亡。

労働災害
 病気・事故により、6人以上が死亡。
 合計、432人以上が犠牲となった。

東南海地震と半田空襲の犠牲なのご芳名を刻む。


南吉文学碑・貝殻詩碑(雁宿公園)

半田は新美南吉(ごんぎつね)の出身地。

雁宿公園と南吉文学碑(貝殼詩碑)
 ここ雁宿公園は、明治二十三年に半田を中心に行われた第一回陸海軍大演習の際、明治天皇がこの地から統監されたこどを記念してつくられました。開園は明治天皇が崩御された翌年の大正二年で、同じ年に半田出身の児童文学者新美南吉が生まれています。
 南吉は度々、雁宿公園を訪れています。中学時代には同級生と訪れて「小山」と題する童謡を作り、小学校で代用教員をしていた頃には児童と遠足に来ています。
 雁宿公園に南吉の文学碑が建てられたのは、昭和三十六年のことです。詩「貝殻」の一節を刻み、ランプとでんでんむしをかたどったユニークな碑は、旧制半田中学校で南吉の先輩にあたる小田寛一氏(彫刻家·日展審査員)がデザインしました。整地や周囲の植栽には、市民がボランティアで参加し、除幕式には、詩人の異聖歌が招かれました。以来、半田市内で最初の南吉文学碑として市民に親しまれています。
※巽聖歌 ·· 南吉にとって北原白秋門下の兄弟子にあたる詩人。南吉顕彰に尽くした。


雁宿配水池跡(雁宿公園)

半田市上水道の始まりの地。

半田市上水道の始まり
 日本で最初の近代水道は、明治20年に横浜で開設したのが始まりです。愛知県では、大正3年に名古屋市、昭和4年に豊橋市が開設し、それに続き昭和5年(1930年)、県下3番目に半田市が開設しました。これは、当時の知多郡半田町(現JR半田駅周辺)のみを給水区域として発足したものです。
 それまで、蔵のまちとして栄えた半田町の山手の方は、昔から良質の水に恵まれていましたが、酒·酢·味噌·しょうゆなどの醸造工場があった港の方は、地下水の水質が悪く湧水量も乏しい状況でした。そのため、嘉永3年(1850年)に、酒造家たちが私設水道として、今の名鉄知多半田駅付近に井戸を掘って、そこから木製の水道管を敷設し、利用していました。
 こうした状況のなか、産業の振興や伝染病予防など保健衛生のために、上水道の設置が熱望されていたことから、大正13年(1924年)、時の皇太子ご成婚記念として、半田町の豪商2人より上水道設置のために、当時の金額で各10万円の寄付があり、これを機に半田町としての上水道事業が動き出したのです。
 水源となる深井戸は、大正15年、雁宿公園際で122mの掘削に成功した第一水源(星崎浄水場併設)と、翌年の昭和2年、半田中学校(現半田高校)西で117mの掘削に成功した第二水源の合わせて2か所としました。
 これら水源の深井戸から汲み揚げられた水は、星崎浄水場でろ過した後、昭和5年、ここ雁宿公園内の丘上に建設された雁宿配水池にポンプで送水し貯えられ、半田町の計画人口2万人の水道水として供給を開始しました。雁宿配水池は、長さ20m×幅13.33m×深さ3.65mの鉄筋コンクリート製の配水池で、容量は970m3あり、人口2万人に対して10時間分を貯えることができました。


雁宿公園の動物園

ウサギや、インコ、ウコッケイ、アイガモ、アヒル、カメなど、ちょっとした癒しの空間。


雁宿公園の展望台からの眺望

半田の臨海を望む。

場所

https://maps.app.goo.gl/qBDnppctBtuRtXPP8

撮影:2026年2月


関連

対となる「乙川白山公園」はこちら

日本陸軍史上初の近代兵士反乱「竹橋事件」の戦跡散策

都内をいろいろと巡っていたら、いつの間にか、「竹橋事件」に関係する散策が出来ていたので、簡単にまとめてみることにしました。


竹橋事件

1878年(明治11年)8月23日に竹橋付近に駐屯していた「近衛砲兵大隊竹橋部隊」を中心とした兵士の反乱が発生。動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平であった。

近衛砲兵を中心に東京鎮台予備砲兵や近衛歩兵の一部も同調した、日本陸軍史上初の近代兵士による反乱「竹橋事件」

7月上旬、かねてより士官に比べ兵卒の恩賞が極めて少ない事に不満を抱いていた近衛砲兵大隊第2小隊馭卒の長島竹四郎は、同馭卒小島萬助と増給を強請せんと論じた。
続いて彼らは8月上旬、近衛歩兵第2連隊第2大隊第2中隊兵卒の三添卯之助と接触、近衛砲兵大隊第1小隊馭卒高橋小三郎、小川弥蔵、東京鎮台予備砲兵第1大隊の兵卒らとも接触した。反乱の機運は同予備砲兵第1大隊附内山定吾少尉、下副官梁田正直曹長、第1中隊平山荊火工下長(一等軍曹相当官)ら将校下士官も巻き込み、決起の計画が練られた。

そうして、8月23日に反乱兵259名が山砲2門を引き出して蜂起。
近衛砲兵第一大隊長の宇都宮茂敏陸軍少佐は、騒ぎを聞きつけ部下の反乱兵を制止しようとするが反乱兵に殺害され、続いて週番士官の深沢巳吉大尉も殺害されてしまう。

東京鎭台予備砲兵第一大隊長の岡本柳之助陸軍少佐は、一度は暴動に賛成するも、直前で静観姿勢に転換。竹橋事件に際しては、東京鎮台予備砲隊は飛鳥山に行軍し、近衛砲兵大隊竹橋部隊の暴動発生後も、そのまま飛鳥山で静観を続け暴動には不参加であった。しかし、岡本は、竹橋兵営の隊長としての責任を問われ事件後に官職剥奪となっている。

近衛砲兵大隊竹橋部隊は、砲兵隊の門前を出ると、すでに、近衛歩兵第1聯隊、近衛歩兵第2聯隊が出動しており、これと銃撃戦になった。
反乱軍は、近衛歩兵聯隊との戦闘にまぎれて、大蔵卿であった大隈重信邸に銃撃を加える。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したから、とされている。

1時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された。

この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を虜らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官・磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ。

赤坂離宮正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た兵士は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。
続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これを潮に、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった。

一方、東京鎮台予備砲隊では内山少尉が数名の部下を連れ赤羽火薬庫まで弾薬を取りに行くが、時既に暴動は鎮圧されていた。

竹橋事件での戦闘での死者は鎮圧側は2名、反乱側は6名、であった。

https://maps.app.goo.gl/EM4v9p9fBeW6oeQ19

https://maps.app.goo.gl/n2vkbMSNdFVRmFiR9

23日に勃発した竹橋事件は、収束後の8月24日午前8時に、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が開始された。
そして、約2ヶ月後の10月15日に竹橋事件関係者への判決がくだされた。
騒乱に加わった者のうち、55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)。内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑。
士官でも岡本少佐のほか、近衛砲兵大隊第2小隊長の津田震一郎大尉、松尾三代太郎騎兵大尉らが官職剥奪で除隊、甲斐宗義大尉が降官、川上親枝中尉、池田綱平少尉、松村恒久大尉らが停職となった。事件に直接参加していない兵士、民間人1名を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった。

竹橋事件の結果、軍人への統制を強めるために「軍人訓戒」や「軍人勅諭」が発布、軍内部の秩序を維持するために「憲兵」が創設、近衛兵以外の皇居警備組織として「問部(のちの皇宮警察)」の設置などが進んだ。


竹橋

明治時代には、橋西詰に近衛砲兵大隊竹橋部隊があった。
1878年(明治11年)8月23日、西南戦争後の処遇を巡って、竹橋兵営に居住する同部隊の兵士215名が武装蜂起したために、のちに竹橋事件と呼ばれることになる騒乱が起きた。
天皇と宮城を警護する近衛兵が、宮城に向かって発砲したために明治政府は驚愕し、反乱が鎮圧されたのちに53名の兵士が銃殺で処刑された。

大正15年5月竣工。平成5年三月改修。
「竹橋事件」は、明治11年。

場所

https://maps.app.goo.gl/TCJ168oPbYB8NvoeA

竹橋の橋西詰

警視庁第一機動隊や厚遇系猿の宿舎のあるあたり、科学技術館の裏手に、竹橋事件を起こした「近衛砲兵大隊」(竹橋部隊)が駐留していた。


大隈重信候 雉子橋邸跡

竹橋のすぐ近くにあった大隈重信邸。
竹橋事件で、反乱兵士は、大隈重信邸を襲撃する。

大隈重信邸跡
 近代になるとこの地は、明治政府の既が置かれましたが、明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えます。
 その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。

 早稲田大学創立者大隈重信(1838~1922)は、明治新政府に出任し、大蔵卿等を歴任し、日本国の「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎作りに貢献しました。
 大隈重信は、1876(明治元年)年10月から1884(明治17年)年3月まで、この雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
 創立125周年を記念して
  2007(平成19)年10月  
   早稲田大学・千代田稲門会

「大隈記念講堂」の時計塔を模している。

清水門の前。

早稲田大学>

https://www.waseda.jp/top/news/60890

https://www.waseda.jp/top/news/60918

場所

https://maps.app.goo.gl/BGGgP9irB892wkSa6


清水門

近衛砲兵大隊の兵営(竹橋の砲兵営)や、近衛歩兵連隊の兵営(近衛歩兵営)などに一番近い門が清水門であった。
反乱軍は清水門近くの清水橋を渡り、隣接する雉子橋付近にあった参議・大隈重信の邸宅に向けて砲撃・銃撃を加えるなど、この清水門・竹橋周辺の一帯は一晩にして激しい戦闘・暴動の現場となった。

場所

https://maps.app.goo.gl/MmYZmPJnGjkvP8SA8


竹橋事件処刑場跡
(東京海洋大学越中島キャンパス)

竹橋事件から2ヶ月後の10月15日。
竹橋事件関係者への判決がくだされた。
騒乱に加わった者のうち、55名は判決即日に銃殺刑となった。
処刑場所は、越中島練兵場の地。

現在は、東京海洋大学越中島キャンパスのグランド。

https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/shiseki/16061.html

場所

https://maps.app.goo.gl/WSkLVpYxk2zVQc4D7


竹橋事件の合葬墓(青山霊園)

青山霊園の西側にひっそりと佇む竹橋事件の合葬墓。
青山霊園内 2種イ11-29

合葬之墓

「合葬の墓」としか記載がないが、これが竹橋事件で銃殺処刑された反乱兵士たちの墓。

昭和18年12月建之

旧近衛鎮台砲兵之墓

大赦 明治二十二年二月十一日

明治22年の大赦によって、福井清介(詳細不明)、内山定吾(竹橋事件では鎮台予備砲兵大隊の陸軍砲兵少尉・無期流刑から後に大赦)らの発起により、建立された。

 この碑は、一八六七年(明治11年)八月二十三日夜に起きた「竹橋事件」殉難者の鎮魂のためのものである。事件は東京竹橋にあった、近衛砲兵大隊の兵士を主力に東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二聯隊の同調者をまじえて、将校、下士官の連座者をふくみ、日本陸軍史上唯一の兵士の叛乱となった。三百余人が、待遇改善その他の要求をかかげて直接行動に訴えたのである。兵士たちはすべて徴兵によって陸軍にとられ、その多くは、前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろっている。徴兵制度への根本的疑問、明治維新以後の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へ兵士たちを馳りたてていった。生れ在所の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火であったと思われる。
 叛乱は鎮圧され、同年十月十五日、兵士五三名が深川越中島で銃殺刑になり、遺体は青山墓地に埋められた。現在の都立赤坂高校正門付近と推定される。
 一八八九年(明治二二年)帝国憲法発布にちなむ大赦ののちに、福井清介、内山定吾らの発起により、計五六名の事件殉難者を祀る「旧近衛鎮台砲兵之墓」が埋葬地に建立された。
 この墓は、第二次世界大戦末期の混乱で行方不明になっていたが、百回忌にあたる一九七七年十一月、現在地に移されているのを発見した。
 事件の真相は明治政府によって抹殺され埋歿せしめられ忘れられた歳月が過ぎたが、全国的な研究と調査がすすみ、ようやく全容があきらかになろうとしている。
 たたかい、かつ踏みにじられた明治の青春の記念としていまここにこの碑を建て、「竹橋事件」が後世に伝えられるべき火となることを願う。
この碑は、遺族をはじめ事件にかかわったわれら一同の反戦平和への悲願の証でもある。
  一九八七年十月十五日  澤地久枝 撰

竹橋事件殉難者名簿

1878(明治11)年10月15日刑死
近衛砲兵大隊兵士
浅見綾次郎 伊藤丈三郎 今井政十郎 岩本久蔵 浦塚城次郎 小川弥蔵 門井藤七 金井惣太郎 菊池作次郎 木島次三郎 木村円解 久保田善作 小島万助 是永虎市 近藤租舟 桜井鶴次 笹井常七 佐藤種五郎 沢本久米吉 新熊保治郎 新家仲吉 高橋小三郎 高橋竹四郎 田島盛介 谷新四郎 辻亀吉 堤熊吉 中沢章治 長島竹四郎 永合竹次郎 野中与吉 羽成常助 馬場鉄市 広瀬喜市 藤橋吉三郎 布施仙吉 松井善助 松宮弁次郎 松本久三郎 宮崎関四郎 水上丈平 見山今朝治 本橋兼次郎 山中繁蔵 山部七蔵 山本丈作 吉田定吉

東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士  
真田兼松 鈴木直次 高見沢卯助 宮崎忠次 横山昇

近衛歩兵第二連隊兵士
三添卯之助

1879(明治12)年4月10日 刑死
東京鎮台予備砲兵第一大隊下士  
平山荊 梁田正直

1879年8月23日 自殺
近衛砲兵大隊兵士 
大久保忠八

竹橋事件  
墓と碑の由来
 「旧近衛鎮台砲兵之墓」は、一八七八(明治一一)年八月二三日の竹橋事件で死刑に処せられた、近衛砲兵大隊兵士四七名・近衛歩兵第二連隊兵士一名・東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士五名・同隊下士官二名および事件当日夜自殺した近衛砲兵大隊兵士一名の・計五六名の墓である。
 下士官二名は、翌一八七九(明治一二)年四月一〇日になって処刑されたが、兵士五三名は事件後二か月足らずの一〇月一五日深川越中島で銃殺され、当青山墓地の陸軍墓所(現都立赤坂高校正門付近)に埋葬された。
 一八八九(明治二二)年の帝国憲法発布に伴う大赦により、墓碑建設が許され、無期流刑から生還した鎮台予備砲兵大隊少尉内山定吾や同志、遺族らの手によって、頭書の墓碑が建立された。
 しかし、第二次大戦後、赤坂高校の建設の際、墓は現在地に移されたという(異説もあって、経緯の詳細は不明)。たまたま隣接地に住む遺族の高樋和夫氏が、独力で墓を探し当て、守って来たが、くしくも、兵士の一〇〇回忌に当たる一九七七(昭和五二)年、作家澤地久枝氏も墓を突き止め、広く世間に紹介した。
 同じ年、麻生三郎氏を中心に、「明治一一年竹橋近衛暴動の真相を追求する会」(現「竹橋事件の真相を明らかにする会」)が結成され、すでに澤地氏が始めていた全国的な遺族の「掘り起こし」を、さらに精力的に進めた。
 その結果、多くの遺族が判明し、一九八五(昭和六〇)年遺族有志によって全国遺族会が発足し、左隣の「合葬之墓」と、合わせた「旧近衛鎮台砲兵之墓」の管理権を、東京都から委譲された。
 「竹橋事件の真相を明らかにする会」の運動も大きく前進し、事件の真相とその意義の解明は本格的な軌道に乗りつつある。
 墓の右隣の碑(撰文澤地久枝)は、この事件を、裏面に刻まれた五六名の殉難兵士たちの名とともに日本の歴史に永遠に留めるため、兵士たちの一一〇回忌を機として多くの人々の思いと協力を集めて、建てられたものである。
 なお、前記「合葬の墓」は明治年間に陸軍刑務所で刑死ないし獄死した兵士の内、引き取り手のなかった一七名を合葬して一九四三(昭和一八)年に建てられた(その経緯も不明)。
 その中には事件に参加して準流刑一〇年に処せられ、獄死した、近衛砲兵大隊兵士市川朝吉・宮崎又作の二名も、含まれている。
  一九七八年一〇月一五日   
   竹橋事件全国遺族会  
   竹橋事件の真相を明らかにする会

陸軍境界標もある。
詳細は不明だが、墓石と同じく青山霊園にあった陸軍墓地からの移設だろうか?

場所

https://maps.app.goo.gl/exTM7198KE3JR1gQ6

ちなみに、隣には、、、


「高岡市護國神社」と高岡散策

富山県高岡市の高岡古城公園を中心に散策をしてみました。


伏木・新湊空襲

富山大空襲で大規模な損害を被った富山市とは異なり、富山県第二の都市であった高岡市街地は大規模な空襲を免れた。しかし、米軍の空襲目標指定は84番目の都市であり、終戦が遅れていたら、空襲されていた可能性が高い状況ではあった。

昭和20年5月24日から25日にかけて、伏木港・新湊一帯に、富山県として、はじめての空襲があり、70機のB-29が、海上に「機雷」を大量に投下している。
そして、伏木では、投下された機雷の不発弾処理中に爆発事故が起き、13人が亡くなっている。
以後も、伏木・新湊は、たびたび空襲による機雷投下が行われおり、重要な港湾を要していた高岡(伏木・新湊)は、常に米軍の脅威にさらされていた。


高岡市護國神社

高岡市出身の戦没者および空襲殉難者など3,576柱の御霊を祀る。
射水神社の境外末社。
昭和8年に「高岡市忠魂社」として創建。昭和10年に「高岡市招魂社」となり、昭和27年(1952年)に「高岡市護国神社」へ改称され、昭和37年に現在の地ニの丸へ移転された。

みたまやすらかに

高岡市特志消防隊、昭和八年十月の奉納狛犬

高岡市護國神社
陸軍大将 林銑十郎 敬書
帝国在郷軍人会高岡市連合分会
昭和十五年十一月建之

忠魂社時代の社号標も残っている。

高岡市忠魂社
陸軍大臣 荒木貞夫 敬書
昭和八年十一月建之

昭和八年奉納の手水鉢

なお、現在は射水神社の境外末社として、管理されている。

https://www.imizujinjya.or.jp/about/setsumatsusha

サイトには、「昭和10年(1935)12月に高岡市招魂社として創祀」と記載があるが、社号標・手水鉢・狛犬等の建立が「昭和8年」となっていることから、創建は「昭和8年」と思われる。


忠魂永存

高岡古城公園(高岡市護国神社左側)に鎮座。
昭和30年8月15日の建立。
「蘇峰徳富正敬頽齢九十三書」とある。
徳富蘇峰が93歳のときの書。(徳富蘇峰は94歳で没している)

徳富蘇峰による、高岡市出身犠牲者に対する慰霊鎮魂顕彰碑


射水神社

越中国一之宮。延喜式内社。旧社格は国幣中社。
大日本帝国海軍軽巡洋艦「神通」の艦内神社として、御祭神の分霊が祀られていた。


皇太子殿下御野立所

明治42年(1909年)10月2日に皇太子殿下(後の大正天皇)が北陸行啓で訪れた際の御野立所跡の記念碑。


瑞龍前田公遺徳碑

瑞龍院は前田利長公の戒名。

瑞龍前田公遺徳碑
陸軍大尉正四位勲五等公爵前田利為扁額

扁額を揮毫した、前田利為は、陸士17期・陸大23期恩賜。最終階級は陸軍大将。旧加賀藩前田家第16代当主。位階・勲等・爵位は正二位勲一等侯爵。

鷹狩する前田利長公


前田利長公像

前田利長は、加賀前田家2代目。前田利家の長男。加賀藩初代。


高岡城

日本100名城のひとつ。
富山城に隠居した初代加賀藩主の前田利長が、1605年(慶長10年)6月28日の富山城火災焼失で魚津城に移り、幕府に新たな築城許可を得て築城。前田家の客将であった高山右近による縄張りともいう。
前田利長が1614年(慶長19年)5月20日に死去すると、一国一城令の影響もあり、前田家の隠居場としての役割も失い、高岡城は配乗となった。

高岡古城公園

http://www.kojyo.sakura.ne.jp/index.shtml


高岡大仏

高岡市の大佛寺にある阿弥陀如来坐像。
奈良大仏、鎌倉大仏に並ぶ「日本三大大仏」とされている。
1907年に建立が開始され、1932年に完成、1933年に開眼供養が行われた。


万葉線

高岡の路面電車。
富山県には、富山駅と高岡駅、それぞれに路面電車がある。

万葉線のドラえもんトラム

まんが家藤子・F・不二雄氏は、高岡市の出身。

https://www.city.takaoka.toyama.jp/gyosei/gyoseijoho/koho_kocho/3/6/5648.html


※撮影:2026年9月


富山大空襲 被災者漂流無縁仏供養地蔵尊(氷見・島尾海浜公園)

氷見の島尾海岸。
富山大空襲で被災した犠牲者が、富山市から遠く離れたこの地に漂着した、という。

氷見の浅野総一郎に会った帰路に、足を運んでみました。


富山大空襲

昭和20年8月1日、富山は米軍B-29爆撃機182機による大空襲を受けた。
富山市街地は99・5%を焼き尽くされ廃墟となり、死者は約3,000人、負傷者は約8,000人、被災者は約11万人にのぼった。
「富山大空襲」は、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出した空襲であった。

当時、米軍は、空襲目標として中小都市を選定していた。すでに空襲により都市機能を破壊した東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・川崎・尼崎を外し、原爆投下候補として、京都・広島・新潟・小倉を外した、空襲対象地は137都市となり、富山市は人口12万7,000人で36番目であった。
しかし富山市は呉羽紡績・日清紡績・日本曹達・不二越などの近代的大工場が集まり東岩瀬港の改修と東岩瀬臨海工業地帯を始めとした臨海工業地帯が発展しつつあり、米軍としては重要な爆撃目標であった。
ただ、米軍は、富山において工場群を狙う戦略爆撃は実施せず(結果、工場群は、ほぼ無傷)ではなく、労働者(市民)の住む都市爆撃を敢行し、富山は多大な犠牲を払った。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu

https://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2013/12/post-44.html


富山大空襲 被災者漂流無縁仏供養地蔵尊

合掌

趣意書
 昭和二十年夜半、東南の夜空は夕焼けの様に真赤でした。私達の上空ではサーチライトの光芒に小さい機影を見せて、B29の編隊が何度も富山市の方に向つて行きました。
 富山市の大半が焼き払らわれ、二二七五人の無辜の市民が無残に焼き殺された富山空襲の遠い夜景でありました。
 それから数日、劫火に追はれ川に逃がれて甲斐なく溺死した人々でありましょう、この海岸に点ゝと漂流死体が打上げられました。生まれたばかりの嬰児をしっかり胸に抱いた若い母、十二、三才の姉と六、七才の弟と手を縛り合せた寝まき姿のいたいけな骸に涙しながら村の古老達が近くの松の根方に懇ろに葬むりました。
 それから毎年八月一日、この不幸な無縁仏に野花を供えて供養をいたしておりますが、国泰寺管長稲葉心田老師の御激励と地元有志の協力を得まして、本年三十年忌に当り地蔵尊像を建立いたしました次第であります。
 御芳志賜りました多数の皆様のお心を念じまして、永く供養いたしたいと思います。
 昭和五十年八月一日

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_himi_005/index.html

供養地蔵尊は、富山の海に向いて鎮座している。

和光同塵

昭和50年(1975)8月1日の建立。
金沢出身で、朝倉文夫に師事した、米林勝二が彫刻。

趣意書
地蔵尊に刻まれた趣意書以外にも、案内板として2枚が公園内に。わかりやすくて良い。

地蔵尊建立の寄附者。
富山地区、高岡地区、氷見地区、宮田地区、県内外からのご芳名。

海の方向を。

富山大空襲で犠牲となり、神通川河口から流され漂流となった亡き骸が島尾の海岸に浮かび、打ち上げられた。

南側、富山市の方向

北側、能登半島の方向

遺体は、松の根方に懇ろに葬むられたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/Xk15XpsBLXtTzWX57


島尾海浜公園

快水浴場百選の島尾海水浴場を有する白砂青松の島尾海岸に隣接した公園。
万葉の頃より「松田江の長浜」と呼ばれた景勝地。

猿が居ました。

孔雀も居ました。


交通手段

行きは、氷見線の島尾駅から。

氷見線。キハ40・47形。
いいぞ、気動車!

帰りは、運良くバスがあったので、「島尾」バス停から。

バスで高岡駅まで行けるが、途中の伏木駅前で下車、そこからはまた別の記録で。

※撮影:2026年9月


九転十起の像・浅野総一郎翁像(富山・氷見)

以前に、横浜の浅見総一郎関連の史跡を巡った際に「氷見」が浅見総一郎の出身地と知り、訪れる機会があれば、、、としていたところ、思ったよりも早くにその機会が訪れまして。
氷見の浅見総一郎翁を訪問してきました。

横浜の浅見総一郎に関しては、下記を。
「京浜工業地帯の父」浅野財閥・浅野総一郎像と墓


浅野総一郎(淺野總一郎)

1848年4月13日(嘉永元年3月10日) – 1930年(昭和5年)11月9日)

越中氷見の生まれ。明治4年(1871年)、23歳の時に上京。夏はお茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた水売り、冬は本郷赤門でおでん屋をして資金を蓄え、横浜で贈呈用の竹の皮を販売し、薪炭商に転向。
明治6年、薪炭商のつながりから横浜ガス局より、石炭からガスを製造したあとに廃棄されていたコークスを安価で買取。セメント製造の燃料として、コークスを官営深川セメント製造所に納めることで利益を得た。
明治17年には、官営深川セメント製造所が浅野総一郎に払い下げされ、これが浅野セメントの基礎となる。払い下げ時には渋沢栄一のサポートもあった。
明治29年(1896)に欧米視察に赴いた浅野総一郎は、帰国後に東京から横浜にかけて日本初の臨海工業地帯の建設を計画。
浅野総一郎の計画に理解を示した安田善次郎(安田財閥)も支援。浅野と安田は富山出身の同郷でもあった。
浅野総一郎と安田善次郎は「浅野はエンジン、安田は石炭(燃料)」と呼ばれるほどの名コンビであった。

大正2年(1913)から昭和3年(1928)にかけて約15年をかけて、横浜鶴見から川崎にかけての埋立が完成。いわゆる「浅野埋立」は京浜工業地帯の元となった。現在のJR鶴見線沿線が浅野総一郎が埋め立てした「浅野埋立」の地。
昭和5年、欧米視察中の6月26日にベルリンで発病。8月2日に帰国して大磯別邸で療養していたが11月9日に死去。
墓は横浜市鶴見区の大本山総持寺。
法名は積功院殿偉業総成大居士。

浅野総一郎の銅像は以下に建立されている。

  • 浅野学園(浅野総一郎が創設した学校)
  • アサノコンクリート深川工場(旧官営深川セメント製造所)
  • 東亜建設工業技術研究開発センター(浅野埋立)
  • 氷見市(浅野総一郎出生地)
  • 渋川市(浅野総一郎が設立した佐久発電所)
  • 砺波市(浅野総一郎が設立した庄内小牧ダム)

日本におけるセメント産業を軌道に乗せた浅野総一郎は「セメント王」と呼ばれ、京浜工業地帯のもとになった浅野埋立によって「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼ばれている。
また、台湾高雄港築港にも尽力し高雄市の発展にも寄与している。


九転十起の像(浅野総一郎翁像)

九転十起の像(浅野総一郎翁像)
 この像は、事業を起こしては失敗・挫折を繰り返しながらも人生の夢と希望に向かって邁進し、一代で財閥を築きあげセメント王や京浜工業地帯の父と呼ばれている浅見総一郎翁の像です。
 人は、生を受け七転八起の人生を送りますが、事業にはその時節によって良し悪しが必ずめぐってきます。
 そうした中において、いかなる時も努力と勤勉を惜しまずに頑張れば、必ず道が開けることを我々に身をもって教えてくれた浅野翁です。
 翁は、幾多の失敗と挫折を繰り返し若い頃には何かと面倒を見てもらっていた村の肝いり役山崎善次郎氏から七転八起で足りなければ。九回転んで十回起きれば良いと教えられ。懸命な努力をし成功を掴みました。このことから、本像を「九転十起の像」と命名しました。
 長い人生の歩みの中で、行き詰まったり失敗しても、必ず立ち上がる勇気を持って努力すれば必ず道が開けるという九転十起の像を心静かに拝見していただき、すべての人々の人生が豊かになるよう願うものです。

浅野総一郎 座右の銘
「度胸・努力・勤勉」

(略) 
平成二十年七月二十日 建立

浅野總一郎翁関係事業
(昭和33年12月調)
セメント事業
浅野セメント株式会社 明治16年4月創立
 (日本セメント株式会社に改名)
東亜セメント株式会社 明治40年1月創立
 (浅野セメント株式会社に併合)
浅野スレート株式会社 大正4年2月創立
第一セメント株式会社
 (旧浅野セメント株式会社川崎工場)
会津鑛業株式会社 大正9年6月設立
日本石膏株式会社 明治45年3月設立
 (会津鑛業株式会社に併合)
日本カーリット株式会社 大正9年7月創立
旭コンクリート工業株式会社 大正12年11月創立
大阪石綿工業株式会社 大正14年8月創立
 (浅野スレート株式会社に併合)
日本ヒューム管株式会社 大正14年10月創立

製鉄造船事業
浅野合資会社製鉄所 大正6年9月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見製鉄所)
日本銑鉄株式会社 大正6年9月創立
 (旧小倉製鋼株式会社に併合)
株式会社大島製鋼所 大正6年11月創立
 (日曹製鋼株式会社に併合)
中央製鉄株式会社 大正6年11月創立(解散)
小倉製鋼株式会社 大正7年12月創立
 (住友金属工業株式会社に整合)
日本鋳造株式会社 大正9年9月創立
東京シャリング株式会社 大正15年9月創立
 (現在 東都製鋼株式会社及び東京シャリング株式会社)
株式会社浅野造船所 大正5年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見造船所)
株式会社浅野造船所船渠部 大正12年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社浅野船渠)

海運陸運部門
東洋汽船株式会社 明治29年6月創立
日之出汽船株式会社 大正元年11月創立
国際汽船株式会社 大正8年7月創立
 (大阪商船株式会社に併合)
関東運輸株式会社 大正9年7月創立
青梅電気鉄道株式会社 明治26年12月創立
 (国有鉄道に譲渡)
小倉鉄道株式会社 明治40年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
南部鉄道株式会社 大正10年3月創立
 (国有鉄道に譲渡)
鶴見臨港鉄道株式会社 大正13年7月創立
 (国有鉄道に譲渡)
留萠鉄道株式会社 昭和3年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
三岐鉄道株式会社 昭和3年9月創立

埋築地所事業
鶴見埋築株式会社 大正3年3月創立
 (東京湾埋立株式会社に併合更に東亜港湾工業株式会社に改名)
京浜運河株式会社 大正6年9月創立
 (旧東京湾埋立株式会社に併合)
台湾地所建物株式会社 明治43年6月創立(解散)

石油事業
宝田石油株式会社 明治35年6月創立
 (旧日本石油株式会社に併合)
南北石油株式会社 明治38年創立
 (旧宝田石油株式会社に併合)
東亜石油株式会社 明治39年8月創立
 (旧南北石油株式会社に併合)

鑛山事業
磐城炭鑛株式会社 明治16年創立
 (現在 常磐炭鑛株式会社)
茨城探炭株式会社 明治34年9月創立
 (旧磐城炭鑛株式会社に併合)
石狩石炭株式会社 明治39年4月創立
 (北海道炭礦汽舩株式会社に譲渡)
大日本鑛業株式会社 大正4年11月創立
日支炭礦汽舩株式会社 大正6年10月創立(解散)
朝鮮鉄山株式会社 大正6年10月創立(解散)
浅野雨龍炭礦株式会社 昭和4年9月創立
 (古河鉱業株式会社に譲渡)

貿易事業
浅野物産株式会社 大正7年4月創立

電気事業
沖電気株式会社 大正元年8月創立
庄川水力電気株式会社 大正8年9月創立
 (関西電力株式会社に譲渡)
関東水力電気株式会社 大正8年10月創立
 (東京電力株式会社に譲渡)

文化事業
浅野綜合中学校 大正9年1月創立
 (浅野学園に改名)

銀行業
 株式会社日本昼夜銀行 大正5年5月創立
 (旧安田銀行に併合)

其他の事業
東京瓦斯株式会社 明治18年10月創立
大日本人造肥料株式会社 明治20年2月創立
 (日産化学鉱業株式会社に改名)
東京製鋼株式会社 明治20年3月設立
札幌麦酒株式会社 明治21年創立
 (日本麦酒株式会社に改名)
株式会社帝国ホテル 明治23年6月創立
浅野石材工業株式会社 明治38年9月創立(解散)
神奈川コークス株式会社 大正8年4月創立
 (東京瓦斯株式会社に併合)
鶴見木工株式会社 大正9年8月創立(解散)
伏木板紙株式会社 大正12年9月創立
 (中越パルプ株式会社に併合)

この事業一覧は横浜市の学校法人浅野学園敷地内にある浅野総一郎翁銅像に表示していあるものを写したものです。
 製作 藪下紙工印刷(株)

浅野総一郎が関連した事業(会社)の列記。

年譜。
浅野総一郎の九転十起を物語る波乱万丈の一生が年譜レベルでも垣間見れて、なかなかに面白い。

浅野総一郎年譜
嘉永元年三月十日
富山県氷見郡薮田村に医師・浅野泰順の長男として生まれる。幼名泰治郎。後に総一郎と改名。
嘉永六年(6歳)
富山県氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となる。
文久元年(14歳)
考えるところあって養家より離縁し浅野に復帰する。
文久二年(15歳)
母親を説得し資本を出させ編機を始める。
文久三年(16歳)
醤油醸造を営む。
元治元年(17歳)
稲扱仕入れのため氷見針を行商しながら陸路を単身京都へ赴く。
慶応二年(19歳)
二月、近村の大野村豪農・鎌仲惣右衛門長女の婿養子となり、泰治郎を総一郎と改名。
慶応三年(20歳)
産物会社を創設し常務担当となる。柏崎と新潟に事務所を設け、裏日本一帯に産物を商い、その名をようやく顕れる。
明治元年(21歳)
積極行動に因を発し、産物会社破綻。鎌仲家より離縁となる。
明治三年(23歳)
実家の薮田村近郷各村へ農業の副業として蓆機を宣伝。氷見町に浅野商店の看板を掲げ産物会社の再挙を計る。
明治四年(24歳)
能州の有名な金貸お熊より無担保にて金三百両を借入。
五月五日、夜事業に失敗して故郷を脱走。同月十九日初めて東京に入る。
夏、万世橋際およびお茶の水の路傍にて冷水を売る。
秋、横浜の醤油および味噌商・小倉屋に奉公。
冬、独立して横浜で竹の皮商を始める。
明治五年(25歳)
栃木県人鈴木長右衛門の次女サクと結婚。
明治六年(26歳)
横浜住吉町に大塚屋・大熊良三の仮名に隠れて薪炭商を営み、石炭販売を兼業する。
明治七年(27歳)
石炭商専業となる。七月強盗に襲われる。
明治八年(28歳)
二月、近火に類焼し無一文になる。横浜寿町に再挙を図る。
明治九年(29歳)
横浜瓦斯局よりコークスの払い下げを受け奇利を博する。
明治十年(30歳)
西南戦争のため全国の汽船は御用船に徴用され、九州・横浜間の輸送が途絶したために石炭の価格は暴騰し一挙に巨利を収める。
明治十二年(32歳)
横浜の市中六十三ヵ所に公衆便所を建設する。
明治十六年(36歳)
四月、渋沢栄一らの助力を得て深川のセメント工場の払い下げを受ける。品川弥太郎、榎本武揚らの後援を得て、益田孝、渋沢喜作と協力し共同運輸株式会社を創立する。磐城炭礦社を創立する。
明治十八年(38歳)
十月、共同運輸を岩崎汽船部に合併し、日本郵船会社となる。
明治二十年(40歳)
二月、大日本人造肥料会社の創立に参与する。
三月、大倉喜八郎、渋沢栄一と図り東京製綱会社を創立する。
明治二十一年(41歳)
渋沢栄一と共に平・上野間の鉄道布設を企てる。
札幌麦酒会社の創立に参与する。
明治二十三年(43歳)
六月、帝国ホテルの創立に参与する。
明治二十六年(46歳)
十二月、磐城炭礦社を株式組織とし磐城炭礦株式会社と改称する。
明治二十九年(49歳)
七月、東洋汽船会社を創立し、新船注文のため渡米。
明治三十七年(57歳)
日露戦争開戦のため東洋汽船の所有船三隻、御用船に徴発される。
鶴見海岸埋立計画の認可申請を神奈川県庁に提出する。
明治四十年(60歳)
安田善次郎と協り、東京湾築港を計画し、東京府へ認可を申請する。
明治四十一年(61歳)
鶴見海岸百五十万坪の埋立計画を企てる。
大正元年(65歳)
八月、沖電気会社の設立成る、
大正二年(66歳)
鶴見埋立組合成り、二月、工事に着手する。同月、セメント工場を株式組織に改め、浅野セメント会社と改称する。
大正五年(69歳)
四月、浅野造船所を創設する。
五月、日本昼夜銀行を創立する。
大正七年(71歳)
四月、浅野物産を創立する。
五月、日本昼夜銀行を浅野昼夜銀行と改称する。
同月、日本鋳造会社を創立する。
大正八年(72歳)
十月、水電界の有力者と協り、各水電会社の送電統一を計ろうとの大抱負をもって、東京電力会社設立の計画を企てる。
大正九年(73歳)
一月、宿願の浅野綜合中学校を創立する。
大正十一年(75歳)
八月、浅野昼夜銀行を安田家に譲渡する。浅野セメント会社の拡張工事を行う。
大正十二年(76歳)
関東大震災救護金百万円を公共に寄付する。
大正十三年(77歳)
五月、約二十五万人の寄付金により浅野綜合中学校校庭の一角に、身長一丈六尺(四.八メートル)台座二十尺(六メートル)の寿像成り、除幕式を挙行する。
十一月、郷里の薮田小学校入口に寿像成り、除幕式を挙行する。
昭和五年(83歳)
高齢をものともせず、約三ヶ月の欧米視察の旅を終えて八月帰朝。横浜埠頭の歓迎の群衆ににこやかに帽子を振った翁の、この秋の長逝を誰が予想しえたか。
十一月九日長逝

この年譜は、浅野総一郎翁の喜寿を祝して嗣子・浅野泰治郎および良三の両氏が著した「浅野総一郎」(初版発行大正十二年六月八日)並びに「日本セメント七十年史」に基づいて作成したものであります。
 製作 (有)総合宣伝シミズ

富山湾(有磯海・ありそうみ)を望む

有効提携の記念樹。川崎市木の「つばき」


浅野総一郎翁誕生地

浅野総一郎翁誕生地
武安千春謹書

セメント王浅野総一郎翁小伝
明治大正昭和にわたりわが国実業界の巨人であった浅野総一郎翁は嘉永元年三月十日富山県氷見郡薮田村医師浅野泰順の長男としてこの地に生まれた 
年少にして上京し薪炭コークス等の商業に従事して功を納めた
燃料の納入で関係のあった東京深川清澄町所在の官営セメント工場が経営に行き詰まるや明治十六年これを借り受け次いで払下げを受けて経営に当たった 
これが現在の日本セメント株式会社の前身浅野セメント株式会社である 
以来翁はセメント事業を主柱として開運炭鉱埋立て水力電気製鉄造船貿易等の事業を興しわが国産業界に多大の貢献をなし昭和五年十一月九日八十三歳をもって長逝した
一生を通し「努力と度胸かせぐに追いつく貧乏なし」の信条を掲げて国家社会のために活躍し事業の権化と仰がれた 
生誕百二十五年に当たりこの地に誕生碑を建て翁の鴻業を顕彰する
 昭和四十八年三月十日
  日本セメント株式会社
   取締役社長 武安千春

「日本セメント」の前身が「浅野セメント」。
「秩父小野田」(秩父セメント・小野田セメント)と「日本セメント」が合併して、現在の「太平洋セメント」となる。「太平洋セメント」は、日本最大のセメント会社にして、朝のセメントを源流とすることから、会社設立の年月では最も古い企業とされている。

横浜の浅野中学校・浅野高等学校の寄贈
浅野総一郎が立ち上げた学校。

薮田港

場所

https://maps.app.goo.gl/u1CyYUoxtNxEMNSu6


交通手段

高岡駅から加越能バス(新守谷経由灘浦海岸・脇)で「薮田」バス停下車。バスはだいたい1時間に1本。高岡からの所要時間はざっくり1時間。

薮田バス停留所

太平洋セメントが建てた看板がある。

公園

帰りのバス。

「氷見駅口」で下車。逆を言えば、「氷見駅」からバスでも行ける。氷見駅前にはバスは乗り入れしていないので、「氷見駅口」から「氷見駅」には、5分くらい歩く。
氷見線との接続の良し悪しは未確認。

氷見駅に。

氷見は藤子不二雄Aのまち。

氷見駅から氷見線に乗って隣駅の島尾駅に移動でした。
下記に赴くため、に。


国内現存最大級のスロープ「河和海軍航空隊」跡地散策(愛知・美浜)

2026年2月、愛知県を散策していました。
午前中に軍人像を見学し、昼前に河和駅に到着、でした。 約3時間の散策。


河和海軍航空隊

第一河和海軍航空隊は南側で「整備教育部隊(整備訓練)」
第二河和海軍航空隊は北側で「編成教育隊(搭乗訓練)」
河和海軍航空隊は、性質の異なる2つの教育部隊が集まったものであった。


第一河和海軍航空隊

昭和18年4月1日「追浜海軍航空隊」から整備教育の分派として「追浜海軍航空隊知多分遺隊」が設置。
「追浜海軍航空隊」は幹部養成の高等科、「河和海軍航空隊」は現場整備員養成の普通科教育部隊。
昭和18年12月1日「河和海軍航空隊」として独立。連合練習航空総隊隷下の第十八連合航空隊(整備教育隊)に編入。
昭和19年2月1日「河和海軍航空隊岡崎分遣隊」が設置。
4月1日「岡崎海軍航空隊」が分離。
昭和20年3月1日「第一河和海軍航空隊」に改称。十八連空解散。横須賀鎮守府第二十連合航空隊に転籍。そのまま終戦を迎える。


第二河和海軍航空隊

昭和18年12月1日「小松島海軍航空隊」から水上機錬成部隊の分派として「小松島海軍航空隊知多分遣隊」が設置。
昭和19年4月1日「第二河和海軍航空隊」として独立。連合練習航空総隊隷下の第十一連合航空隊(横須賀鎮守府隷下練成教育隊)に編入。
昭和20年1月、名古屋へのB-29空襲に際し、訓練用に配備されていた「強風」「二式水上戦闘機」での迎撃を開始。
2月26日「神風特別攻撃隊・御楯隊」の「河和隊」を編成。
5月5日、実施部隊に変更。第三航空艦隊第十三航空戦隊に転籍。
8月5日、御楯隊は玄界灘水上基地に進出し、15日出撃命令が発令されるが、玉音放送により中止、終戦を迎える。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R2985-9
1949年8月5日、米軍撮影の航空写真。

以下、拡大加工

第2河和海軍航空隊

第一河和航空隊


第二河和海軍航空隊・正門跡

美浜町立河和中学校の南側の道路に「第二河和海軍航空隊の正門」が残っている。

旧第二河和海軍航空隊 正門跡
 第二河和海軍航空隊は、太平洋戦争中の昭和19年(1944)4月に水上機の操縦訓練技術を養成する練習航空隊として開隊しました。昭和18年から飛行機の整備教育を行った第一河和海軍航空隊と併せて、河和から豊丘までの1.8平方kmの用地が接収されました。特に、旧古布·旧浦戸の集落は、航空隊の用地内となり集団移転を余儀なくされました。
 この正門は、上部が欠損していますが、高さ160cm、縦57cm、横91cmあり、コンクリートブロックを積み上げて全体をコンクリートで塗る方法で造られています。正門を入った北側には、兵舎や病院などがありました。また、現国道247号線の海側には司令部や士官舎がありました。
 昭和20年7月30日、アメリカ軍機の機銃掃射により、この門周辺で多数の戦死者を出しました。
  美浜町教育委員会
   平成28年3月

機銃掃射の跡も残る。

美浜町立河和中学校

場所

https://maps.app.goo.gl/Y7EMcHiC9u1FMbeX9


第二河和海軍航空隊・給水タンク土台

美浜町立河和中学校の敷地内に残っているコンクリート構造物。西側の道路上から垣間見ることができる、この巨大な円筒のコンクリート構造物は、兵舎に供給するための高架水槽の土台跡。

敷地外から見学。

場所

https://maps.app.goo.gl/EFSH6xXzz3daHxkv9


河和海軍航空隊跡記念碑(森下公園)

森下公園に、河和海軍航空隊の跡地記念碑があった。
第一も第二もあわせた記念碑となっているが、この場所は、「第二」。

河和海軍航空隊跡記念碑
 第二次世界大戦中、河和の地に海軍航空隊設立され、全国より集結した隊員の、青春の広場となったことを、ここにとどめ、この碑を建立する
 昭和五十三年八月吉日 河和会

記
昭和十八年十二月
 河和海軍航空隊設立
 第十八連合航空隊に編入(整備教育)
昭和十九年四月
 第二河和海軍航空隊開設
 第十一連合航空隊に編入(水上機操縦教育)
昭和二十年二月
 河和海軍航空隊は第一河和海軍航空隊になる
昭和二十年五月
 第二河和海軍航空隊は第十一連合航空隊から第三航空艦隊第十三連合航空戦隊に編入さる
昭和二十年八月
 終戦 
 戦没者数三十七名

碑名 青春
制作者 三谷 勲

場所

https://maps.app.goo.gl/Tvz5VEfCH9yMYd2W6


第二河和海軍航空隊・滑走台跡

日本最大級の滑走台(スロープ)が残る河和海軍航空隊跡。

旧第二河和海軍航空隊 滑走台跡
 目の前に広がる海への傾斜面は、旧海軍の水上機の上げ下ろしに使った施設「滑走台」です。通称「スベリ」と呼んでいます。工事は昭和17年から19年(1942~1944)に行われ、北側に1面、東側に2面造られ、全て現存しています。
 北側の第1滑走台は幅50m長さ92m、東側の第2滑走台は幅220m長さ92m、第3滑走台は幅90m長さ92m(防衛研究所資料)、勾配は1/14(傾斜4度)です。特に第2滑走台は、現存する日本最大規模の滑走台です。
 第二河和海軍航空隊は、昭和19年に開隊された水上機の練習航空隊でした。波穏やかな知多湾の水面を滑走路代わりに練習機による操縦訓練や、実戦機による特攻訓練が行われました。現在、西側の大川と国道247号線までの広大な場所には、指揮所·駐機場·格納庫·整備場など多くの施設がありました。
 美浜町教育委員会 平成28年3月

93式水上中間練習機

案内は、第二滑走台のところに掲示がありました。


第二河和海軍航空隊・第1滑走台跡

北側の第1滑走台は幅50m長さ92m
第1滑走台は、近くで見ることが可能でした。

すぐ近くでスロープを見ることができる。
これは良い!
気持ち良い空間。なんかずっと居られる。
しばし、往時を偲びながら、波を無心に眺めてしまう。

海が綺麗!
ここも三河湾の湾内なのに、普段見ている海とは雲泥の違い。

東側は少し崩壊。

場所

https://maps.app.goo.gl/SjMT4RjBuXvWvktp9


第二河和海軍航空隊・第2滑走台跡

東側の第2滑走台は幅220m長さ92m
現存する日本最大規模の滑走台。
降りることは出来ない。

幅220メートルは圧巻。

場所

https://maps.app.goo.gl/cm5ZnqpzNB8F66HA6


第二河和海軍航空隊・第3滑走台跡

第3滑走台は幅90m長さ92m
第2と同じく降りることは出来ない。

第3滑走台の方向を望む。

広い空。陸地側はソーラーパネル。
往時は、エプロン(駐機場)があった。

場所

https://maps.app.goo.gl/HR1AuJSY7DYCgZTU6


第一河和海軍航空隊・軍港跡

事故や故障で不時着水・墜落した水上機などを、台船を使って引き揚げたり運び込んだりするための入江状の施設として機能していたという。
当時の入江には堤防が築かれ、現在は水門で海と繋がっている状態。

下段が、往時の軍港の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/xzsPPA7ij5mSm64i6


第一河和海軍航空隊・機体整備場基礎跡

機体整備場の基礎が残っている。
見事に真っ直ぐに綺麗に残ってますね。

東側の基礎は、トレーラーの土台になってました。

場所

https://maps.app.goo.gl/UH5sZQyQFQkD5AfN6


第一河和海軍航空隊・連絡橋橋脚基礎跡

水上機運搬用の陸橋の橋脚跡が残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/M9QZct42GhgNHWNo6


第一河和海軍航空隊・防空指揮所跡

半地下式のコンクリート製で、内部は通路で結ばれたかまぼこ形の部屋が3つあるというが、現在は入口は全て塞がれている。

入口が塞がれているため、よくわからない不思議な土盛り感がある。

天井部分のコンクリートが露出。

通気口

覗いてみた(小型ライト持ってた笑)

石段が残っている

場所

https://maps.app.goo.gl/GoKiweRfKHTCRzvr9


第一河和海軍航空隊・兵員浴場基礎跡

一直線に残っている基礎。畔の境界として活用?されている感。

このあたりに兵舎があった、、、

場所

https://maps.app.goo.gl/2nxDtQ9oBad7PvEW7

このあと、兵舎の西南にあったという対空機銃陣地跡とか貯水槽跡とか防空壕とかを探しに行ってみたが、迷子になりそうな雰囲気濃厚で、帰りの時間も考慮しギブアップ。


河和駅

ちなみにいまさらだけど「かわわ」ではなく「こうわ」。

今回の散策では、河和駅を起点に「海っ子バス」(一日乗車券)を活用しました。

※撮影:2026年2月


関連

「軍人像」第二次上海事変で奮戦した歩兵第六聯隊(愛知南知多・中之院)

知多半島に眠る軍人像。
以前より気になっていたこの地に、ようやく足を運ぶことが出来ました。

みたま、やすらかに、と。


中之院軍人像について

もともとは、1939年から43年頃にかけて、名古屋市千種区の大日寺の月ケ丘墓苑に、第二次上海事変の戦没者、その多くは歩兵第六聯隊の兵士たちであり、めいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立されたものであった。大日寺廃寺に伴い、1995年に現在地に遷座。

中之院軍人像について
 ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
 緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、艀で野間沖に待機していた巡洋艦・駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でした。が、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
 軍人像そのものはめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
 また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った。
 おかげで像は壊されずに済んだということです。
 建立当時より名古屋市千種区月ヶ丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
 現在もよくご遺族ご縁者の方が御参りにいらっしゃっています。
  天台宗 大慈山 中之院

英霊ニ捧ル詩

きょうもさむい
  雪がふる 
 われらは無言で
   たっている 
花はさけども
  ぼちはさかず
 きょうもあつい
   水はなし 
かぜがつよい
  かれはがおちる 
 また冬がくる
  やどはなし 
よろこびも
 かなしみも
  昭和63年5月
  (個人名略)


第二次上海事変と名古屋第三師団歩兵第六聯隊

「第一次上海事変」が起きた昭和7年(1932年)ごろから、上海の日中間は常に緊張状態であった。
日中間の衝突は、昭和12年7月7日に「盧溝橋事件」(北支事変)が勃発し、7月28日には河北全面に戦線が拡大していた。
そして、8月9日、上海海軍特別陸戦隊西部派遣中隊長の大山勇夫海軍中尉と、斎藤與蔵一等水兵が中国保安隊に射殺される「大山事件」が起こり、上海での情勢も緊迫することになった。
中国軍による上海居留地に対する攻撃に対し、居留地をまもる上海海軍特別陸戦隊・海軍単独での対応が困難となった8月12日に、海軍軍令部は陸軍派兵を要請。そうして、13日に近衛内閣は内地2個師団の上海派兵を決定した。

海軍戦略と中支派兵問題
中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣
海軍の対支政戦略と近衛内閣

上海では、8月12日には、上海海軍特別陸戦隊(約5,000)と、中国軍2個師団(約5万)の対峙は、既に10倍の戦力がついており、緊迫した状態から小競り合いに突入。13日には、本格戦闘が開始された。
上海居留民保護のためとして陸軍2個師団の派兵を決定した近衛内閣は、8月15日に名古屋第三師団と善通寺第十一師団に動員下命され、上海派遣軍が編成された。(司令官は松井石根大将)

中国軍は8月15日には、約7万名に増強(一方、日本軍は海軍陸戦隊を中心に約7,000名)し、上海租界を猛攻撃する。海軍特別陸戦隊は約10倍の敵を相手に上海租界を死守。
松井石根大将を司令官とし名古屋第三師団と善通寺第十一師団の2個師団の先遣隊は海軍が用意した艦艇群により上海に急送。

8月23日に名古屋歩兵第六聯隊と岐阜歩兵第六十八聯隊の応急動員分を主力とする第三師団先遣隊は、呉淞(ウースン)小運河(クリーク)南方の黄浦江岸の呉淞鉄道桟橋周辺へ強行上陸を決行し、多大な犠牲を払い橋頭保を構築。

この「第二次上海事変」で奮戦した歩兵第6聯隊の犠牲者の遺族によって建立されたのが「軍人像」であった。


浅野祥雲

浅野祥雲(1891年 – 1978年)
「軍人像」を造ったのは、岐阜中津川出身の浅野祥雲であった。
コンクリート像の造型家として著名。
代表作は「関ヶ原ウォーランド」「五色園」「桃太郎神社」


九十二体の軍人像

軍人像と対峙する。

生前の写真をもとに造られた軍人像。
一体一体の表情が異なる。

1938年(昭和13年)初頭に、歩兵第六連隊長の倉永辰治陸軍少将ら3人の胸像が造られたことに始まり、その後、43年頃までに108体が建立されたという。

倉永辰治聯隊長は、8月29日敵弾の胸部貫通により戦死。第二次上海事変の高級指揮官として最初の戦死、であった。

生前の写真をもとに作られた軍人像の大きさは、約50~約180センチ。
戦争の戦局が悪化してからはコンクリート像の柱となる金属が不足し、小さくなっていったという。

https://www.asahi.com/articles/ASR8B7QNRR70OIPE005.html

大日寺の月ケ丘墓苑が廃寺することになり、1995年に知多半島の「中之院」が軍人像を引き取り、現在の姿となった。
92体の軍人像を遷座することになったが、全部を台座ごと置く場所がなく、遺族と連絡が付いた22体は台座ごと遷座し、残る70体は台座の上部のみを遷座。結果、向かって右側に台座のある軍人像、左側に台座のない軍人像が並んでいる。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/447815

軍犬も

陸軍軍人も、海軍軍人も。愛知県出身の犠牲者を慰霊する。

後姿もきちんと造形されている。

無心となって、時間を忘れて軍人像と対座。

改めて

みたまやすらかに、と、祈念する。

梅の花が咲いていました。

知多半島から、伊勢志摩方面を望む。

神島、かな

答志島、かな。

河和駅からバスに乗って「サンタバーバラサンセット」バス停で下車。そこから約三十分ほど歩いて、軍人像まで、という道のりでした。

山海海水浴場

バスはだいたい1時間に1本。行きたいところには、アクセスがもっと悪い場所も多いので、1時間に1本なら有難いと私は思ってしまうが、訪問には時間の計画と組み立ては必要なところですね。

河和駅前 行き

サンタバーバラサンセット 帰り

場所

https://maps.app.goo.gl/zD1eokwLLiHENA9GA

※撮影:2026年2月

この日の午後は、こちらに。


参考掲載

歩兵第六聯隊長・倉永辰治陸軍少将の墓(東京・賢崇寺)

倉永辰治陸軍少将。佐賀県出身。
陸士23期、陸大34期。

昭和10年(1935)に歩兵大佐に昇任し、翌年に歩兵第6連隊長となった。
昭和12年(1937)の、第二次上海事変で、呉淞上陸作戦の前線指揮を担う。火力優勢な中国軍に対し、8月23日に勇敢な正面敵前上陸を敢行し、多大な犠牲を払うも上陸に成功し橋頭保を構築。しかし歩兵第六連隊長の倉永辰治も8月29日に敵弾が胸部貫通し戦死。第二次上海事変の高級指揮官として最初の戦死、であった。死後、陸軍少将に特進。

この第二次上海事変で奮戦した歩兵第六聯隊の犠牲者に対する遺族の慰霊顕彰の願いが軍人像建立のきっかけになった。

倉永辰治の墓は佐賀藩の江戸の菩提寺であった賢崇寺にある。上官にあたる上海派遣軍司令官の松井岩根陸軍大将の書。
また、歩兵第6連隊長の倉永辰治少将、そして同じく上海で戦死した歩兵第101連隊長の加納治雄少将など7名の「戦没勇士の胸像」が昭和14年に作られ、靖國神社遊就館に献納されている。

陸軍少将倉永辰治墓
 陸軍大将松井岩根書

「七つ日足に三つ巴」の家紋。
日足紋は、戦国時代に肥前の龍造寺氏が初めて使用したといわれ、北部九州の武家でよく使われた家紋。倉永家は佐賀藩の馬術指南の家柄。

倉永辰治は、佐賀藩士の袋武辰の次男であったが、陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。

法号 永勝院殿徳忠辰光居士 享年五十
 昭和十二年八月二十九日 於上海戦死

賢崇寺には「肥前佐賀藩主鍋島家墓所」や「二十二士之墓」(二・二六事件の墓)もある。

※撮影:2026年9月


関連

沖縄で奮闘継戦した霞城聯隊「歩兵第三十二聯隊」と「山形城址」(山形の戦跡散策・3)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。


歩兵第三十二聯隊

明治29年(1896)に秋田市に聯隊本部を設置。
明治31年(1898)に軍旗拝受。
明治37年(1904)日露戦争に参戦。戦後に、秋田市から山形城に転営。
本拠地にちなみ「霞城聯隊」とも称された。
大正7年(1918)シベリア出兵、大正11年に帰還。
昭和14年(1939)10月、第8師団から満洲で新設された第24師団に所属変更。
昭和19年(1944)満洲から南方戦線に兵力転用となり、歩兵第32聯隊は1個大隊はサイパンに派遣となり、連隊主力は沖縄に派遣となった。

歩兵第32聯隊の沖縄戦
沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。


山形歩兵第三十二聯隊之跡

山形城(霞城)に駐屯した歩兵第三十二聯隊

山形歩兵第三十二聯隊之跡
昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会建之

歩兵第32聯隊足跡の大要
 聯隊は、明治31年3月24日、宮中にて軍旗を拝受。最上義光公の居城であったこの地に誕生し、國防の一翼を担い、霞城聯隊とも称した。
 日露戦争では、明治38年、緒戦の黒溝台会戦に抜群の勲を樹て、勇名を馳せた。
 満州事変では、昭和7年、熱河作戦に参加し万里の長城の古北口、南天門等の戦闘で活躍。12~19年の間、満州東部國境の防衛に任じた。
 大東亜戦争の戦況急迫に伴い、19年、聯隊は一個大隊をメレオン島に急派、主力は転進して沖縄防衛第32軍の指揮下に入った。
 昭和20年3月末から沖縄本島は、圧倒的優勢な米陸海空軍の猛攻を受け、各部隊は勇戦敢闘したが、逐次壊滅、6月23日、軍司令官の自刃により組織的抵抗を終えた。
 しかし、我が聯隊だけは、軍旗を奉じ、残存二百五十名が、沖縄南部の國吉台とウテル原台一帯を死守した。8月末終戦の大命を知り、26日夜軍旗を奉焼し翌日聯隊は終焉を迎えた。
 ここに恒久平和を願い、聯隊創設以来の戦没者の遺徳を偲び哀悼の誠を捧げる。
  平成十九年四月
   山形歩兵第三十二聯隊会・関係者一同

建碑由来
 霞ヶ城は最上義光の居城にして歩兵第三十二聯隊は明治三十一年三月軍旗親授とともにここに創設され爾来鋭意国防訓練に励み霞城聯隊と称す。
 明治三十七八年日露戦役には黒溝台の戦闘に勇名をはせ、大正七年朝鮮守備、同十一年サガレン派遣、こえて昭和七年満洲事変には万里の長城古北口等の戦闘に参加して数々の功績を樹てり、同十二年再度渡満しソ満国境警備の任につき田原山ノモンハン事件に出動し同十六年遂に大東亜戦争を迎う同十九年主力は沖縄本島に転進し歩兵一ヶ大隊をメレオン島に派遣す。翌二十年三月十数倍の敵機動部隊の攻撃を受け勇戦敢闘し多大の損害を与えたるも聯隊もまた死傷続出し将兵の大半を失ない寡兵克く敵の重囲下死闘を続けること五ヶ月余、遂に終戦の大命を拝し同年八月二十八日夜軍旗を奉焼して終る。
 ここに異国の丘に眠る幾多戦友の武勲をしのび恒久平和の願いをこめて霞城聯隊跡にこの碑を建て永久に伝う
 昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会

歴代の聯隊長
初代 岩元 貞英
二代 安村 範雄
三代 森川 武
四代 高山 公通
五代 山本 延身
六代 森川 武
七代 岡沢 慶三郎
八代 柴 豊彦
九代 大川 盛行
十代 山田 留太郎
十一代 宮地 太郎
十二代 倉茂 三蔵
十三代 堀之内 直
十四代 佐藤 正三郎
十五代 田中 清一
十六代 阿部 規秀
十七代 山本 源右衛門
十八代 野地 嘉平
十九代 川村 脩
二十代 泉 可畏翁
二十一代 北郷 格郎

歴代の知事
初代 三島 通庸
(以下略)

場所:

https://maps.app.goo.gl/6DTgyKVx3nRafVyb6


山形城(霞城・霞ヶ城)

国史跡、日本100名城。
最上義光が整備し、出羽57万石の本城となる。
三の丸の内側の面積は、日本国内で5番目の広さを誇り、奥羽地方では最大の城であった。
最上57万石時代から藩主交代と石高削減に伴い、幕末の水野氏5万石時代には、広大な城を維持するのが難しい状態であったという。

明治に、山形市が城跡を取得し、陸軍を誘致。歩兵第三十二聯隊の兵営となった。

最上義光像

山形城主最上義光顕彰詞


霞城聯隊(山形市郷土館・済生館)

山形市郷土館にある「霞城聯隊(かじょうれんたい)」に関係する展示と解説など。

血染めの桜

霞城連隊の発足
 明治時代以降、急速な近代化政策に伴う軍備増強のため、旧山形城内に陸軍が駐屯するなど、山形も国の政策とそれに伴う戦争に巻き込まれていきました。
 1894(明治27)年に始まった日清戦争は日本の勝利に終わり、戦後調停された下関条約により、日本は新たな領土と多額の賠償金獲得しました。しかし、三国干渉により遼東半島の返還を余儀なくされ、また本土から離れた台湾統治の必要があり、国内における軍備増強が急務となりました。
 そのような背景から、山形県にも連隊が設置されることが決定しました。それを受けて、山形市は旧山形城本丸·二ノ丸の跡地を買収して国に寄付することを決議しました。連隊の誘致が成功し、1897(明治 30)年から駐屯したのが、第八師団管下の歩兵第三十二連隊(通称、霞城連隊)です。
 連隊入隊のため、山形県内の青年が二千人近くも山形市に集まり、市経済は大いに潤いました。連隊は、日露戦争で活躍を見せ、その後も朝鮮、樺太、満州に派遣されたほか、ソ満国境にも駐屯しました。太平洋戦争末期には、満州から沖縄への移動を命ぜられ、力戦の末、終戦を迎えました。

日露戦争・血染の桜
 1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、しばらくして歩兵第三十二連隊にも出征の要請がかかりました。連隊が属する第八師団は、初め遼陽の警備にあたっていましたが、翌年1月、ロシア軍の攻撃を受け壊滅の危機に瀕していた黒溝台に進軍し、多大な犠牲を出しながらも同地を死守し、日本の勝利に貢献しました。日露戦争の勝敗を分ける要因となったといわれる黒溝台会戦です。
 日露戦争終結後も遼東地方で警備を続けた連隊は、1906(明治39)年に帰還しました。生存者の中では、凱旋したら兵営に記念の桜を植えようという話が持ち上がっており、それが実現して植えられたのが、現在の霞城公園の桜といわれます。
 日露戦争以前から、連隊のシンボルとなっていた桜の木がありました。「血染の桜」です。この名前は、最上義光が病気を装い、敵対していた谷地(現在の山形県河北町)城主、白鳥十郎長久を山形城に呼び寄せて斬った際に、桜が返り血で染まったという伝承に由来します。戦後、霞城公園内の野球場建設のために移植されて枯れるまで、山形城及び霞城公園のシンボルでした。

第二次世界大戦と山形の生活
 1920年代の日本は、第一次世界大戦後の戦後恐慌や昭和恐慌という慢性不況に陥っていましたが、それを打破すべく中国大陸に新領土を求めました。
 1931(昭和6)年、満州事変で日中両軍は衝突し、1937(昭和 12)年に日中は本格的な戦争状態に突入しました。満州事変以降、経済統制が進み、日本は軍需·戦時経済へ移行しました。
 市内でも軍需産業への転換が起きました。1938年、金属工業の軍需品以外への原材料使用が禁止されると、銅町の銅鉄器鋳物工業は鉄瓶製造を禁止されました。それにより失業した者の一部は、軍需品製造の下請けとして職を得ました。また戦闘機の生産を手掛ける日本飛行機株式会社の山形工場が1942(昭和17)年に設置され、統制経済による地元の廃業失業者を吸収しました。さらに民間の銅鉄器供出も始まり、公共施設の門扉·鉄柵のほか、豊烈神社境内の水野三郎右衛門元宣銅像も供出されてしまいました。
 1944年以降、空襲激化により学童集団疎開が進み、山形市は6月30日に東京都豊島区から小学生600名以上の集団疎開を受け入れました。

戦禍を免れた山形市
 1945(昭和20年)3月10日の東京大空襲の後、山形市には多くの疎開者が流入し、深刻な食糧不足に陥りました。そのような中で6月29日、山形市上空に初めてB29機が飛来しました。その後7月10日、ついに隣県宮城県仙台市で米軍による大規模な空襲が行われ、山形においても空襲を免れえないという危機感が強まりました。山形市では急ぎ防空壕を作り、分散備蓄や建物疎開を進めました。旧済生館本館は、当時県内で最も高い建物であり、空襲の標的とされる恐れがあったため、最上階部分を撤去し、低くする工事が行われました。
 戦時中、現在の市内漆山駅付近(当時は出羽村、楯山村)に設置されていた日本飛行機の飛行場では、市内工場で生産した戦闘機の飛行実験をしていました。それにより、8月9日、米軍による空襲を受けました。
 済生館病院の医師看護師たちは、8月15日の終戦を中庭で聞いたそうです。山形市は、無差別爆撃を受けずに終戦を迎えた数少ない県庁所在地です。城下町特融の丁字路やかぎ形路、食い違い道路などが残っているほか、歴史的建造物など文化財も多く残っています。

昭和8年作
七生報国


陸軍用地境界標杭(山形城周辺)

山形城址の北にいくつか境界標杭が残っている。

「四六」とありますね。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NbbEfu2WSHM31VpG9

こっちは「四五」

埋もれてますね。

これは?


山形市郷土館・済生館

旧済生館病院本館
1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。
全国的に見ても唯一の明治初年の病院遺構として貴重であり、明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作として、国の重要文化財に指定。
戦後、病院としては役目を終えて、1969年に霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されている。

明治11年(1878年)太政大臣三条実美により「済生館」と命名された。

3層楼なのに実は4層。
1階部は、ドーナツ型。
2階部は16角形の直径10メートルほどの柱のないホール。
トラス構造で、中3、4階を支え、8角形へと楼の形を変え、そして螺旋階段で上階へとつながっている。

1階から

1階から2階への階段

ステンドグラス

3階へは螺旋階段

中庭で終戦の玉音放送を聞いたという。

明治洋風建築系統図
これは興味深い

ローレツ先生
明治に来日したオーストリアの医師。山形県公立病院済生館医学寮に教頭に就任した。

木村逸堂は、明治時代初期に山形公立病院(のちの済生館)で働いていた医師。

場所

https://maps.app.goo.gl/3Yzwzj6xsJpu7mbJ8


霞城セントラル展望台

おー、霞城がよく見える!

済生館

蔵王山もよく見える!

山形駅。四方を山に囲まれているのがよく分かる。

1階には、日本酒の利き酒エリアも!

500円で3コイン、1000円で6コイン

6杯いただきました!

山形駅のうしろに見えるのが、霞城セントラル

https://maps.app.goo.gl/p6AVPnN6dbV3o7a28


※撮影:2026年3月


その4へ(準備中)

「山形縣護國神社」と「薬師公園」「千歳山霊苑」巡拝(山形の戦跡散策・1)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。


山形縣護國神社(山形県護国神社)

山形県関係の戦没者40,845柱を祀る。
明治2年(1869年)1月、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀るために山形市八日町に社殿を造影したことに始まる。
明治8年、官祭「山形招魂社」となり、以後は、山形県関係者の戦没者を祀る。
明治22年、山形市宮町に遷座。明治44年の山形市の大火で社殿焼失、大正3年に再建。
昭和9年(1934)に千歳公園内の現在地に遷座。昭和14年に、内務省指定護國神社となり、「山形縣護國神社」と称した。
GHQ占領下の昭和22年から昭和27年は、「千歳宮」と称していた。
現在の社殿は、平成6年(1994)に改築。
山形県内では、初詣参拝客1位を誇る(約13万人)

https://yamagataken-gokokujinja.jp

青銅日本一の狛犬。
平成29年8月15日の終戦記念日に奉納。
高さは7尺(2m10㎝)。

大鳥居から一直線に社殿まで伸びる参道

社号標

山形縣護國神社
陸軍大臣 小磯国昭 謹書
昭和十四年九月十八日

小磯国昭は山形県出身。東条英機の次の総理大臣でもある。

さくら陶板

さくら陶板
 靖國神社は令和元年に御創立150年を迎えられ、その記念事業として「さくら陶板」が作製されました。この陶板は47都道府県の土を使い、各地の著名な陶工の方々が奉納したものです。山形県の陶板は山形の土を使い、長井市出身の陶芸家和久井修氏が作成されました。「さくら陶板」には慰霊の心とそれを次世代に伝えることが祈念されております。
 和久井氏は当神社にも同じ陶板を奉納したいと希望され、山形建設株式会社の協力により、靖國神社に建立されている陶板と同じく山形県の土を使った「さくら陶板」が奉納されることとなりました。
 靖國神社と当神社がこの陶板を通してつながることで、御祭神もお喜びのことでしょう。この陶板を通じて御祭神の慰霊と平和への祈りが届くものと思っております。

社号標

山形縣招魂社
海軍大将 正二位勲一等功二級子爵 齋藤實 謹書
昭和九年十月三十日

昭和九年十月に、山形県招魂社は現在地に遷座している。

御社殿

みたまやすらかに

蔵王山は南東に。(社殿は南面)

山形県護国神社
御朱印

「祈りの塔」
巫女さんの像

祖国の安泰を念じて尊い生命を捧げたご英霊のお陰で今日の平和と繁栄があることを忘れてはなりません。
 山形県護國神社 宮司 宮舘厚悦

御本殿

山形県神社庁

https://maps.app.goo.gl/xLQccCk4q8zAWuU97

「建国記念塔」が境内にあるはずなのだが、あるべき場所に見当たらず。
うーん?

https://maps.app.goo.gl/ReGrgquy1jnpQ8uv9


山形招魂社 社号標(薬師公園)

山形招魂社時代の社号標。
大正2年六月建立。
「官祭」の文字は塗りつぶされている。

https://maps.app.goo.gl/guP1wCb8TNHcdNz96


雪部隊・戦没者慰霊碑(薬師公園)

山形県護国神社には、慰霊碑はなく、隣の薬師公園(出羽国分寺薬師堂・千歳公園)にいくつかの慰霊碑があるので、足を運んでみる。

雪部隊
戦没者慰霊碑
 雪部隊慰霊会長 
 山形県知事 板垣清一郎 謹書

碑文
 雪部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
 雪部隊は昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。 当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
 日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、連合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。 部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。 この島は密林(ジャングル)と湿地帯とそしてマラリヤの猛威をふるう全くの未開地であった。 時既に戦局は我に不利、上陸後戦備を整える暇もなく昭和19年4月頃より敵はサルミ地区に対し圧倒的な空軍と海軍により攻撃を開始して来た。 わが雪部隊はマッカーサーの指揮する南東太平洋方面連合軍をこの地に迎撃して血みどろの激戦となったのである。 日本陸軍でも最強とうたわれたわが雪部隊は、悪条件にもかかわらず、よく善戦奮闘し、遂に敵上陸部隊を撃退したが、物量に物をいわせる連合軍の連日の猛爆撃と艦砲射撃、制空権と制海権を完全に奪われたわが軍は、密林と湿地帯に阻まれて作戦行動ままならず加えて赤道直下の炎熱と食糧不足、マラリヤ、栄養失調、脚気等により悪戦苦闘その極に達し、戦場は正にこの世の生地獄の様相を呈し、生残る戦友数うるに足らず、ワクデ島守備の石塚隊玉砕、そしてまたビアク島の雪3523部隊(葛目聨隊)も玉砕、雪部隊はその主力を失なってしまった。 ニューギニアに上陸した雪部隊隷下の将兵14,000名戦没者11,794名、生存して帰還したる者僅かに2,000余名に過ぎず。
 戦後昭和31年(遺族代表神保氏参加)と昭和46年(戦友代表鈴木健三郎氏・中沢農夫氏参加)にニューギニア遺骨収集団が派遣され多数の遺骨を故国に持ち帰ることができたが未だ南海の果、ジャングルの中には無数の戦友の遺骨が眠っている。
 九死に一生を得て僅かに帰還したる者われら断腸の思い、誠にしのびざるものある。 山形在住の雪部隊生存者による雪部隊慰霊祭実行委員会が中心となり、寄付を募り再度遺骨収集を計画したが現地政府の許可なく断念するのやむなきに至る。 よってこの地に雪部隊戦没者慰霊碑を建立し、純粋なる祖国愛に殉じた戦友の英霊を慰め心から冥福を祈るものである。
    昭和53年9月2日 謹日

 異国の地で散華された13,249名の、戦没者名簿、雪部隊史並びに聨隊史をカプセルにし、生存者の赤誠の鎮物として、慰霊碑の奥深きに納め埋蔵し、永久に慰めるものである。
  安らかにお眠り下さい。

https://maps.app.goo.gl/n3huzkkXFJSrcmSi8


戊辰薩藩戦死者墓(薬師公園)

山形県護国神社の前身である招魂社は、戊辰戦争での薩摩藩の戦死者を祀ることから始まっていた。

戊辰
薩藩戦死者墓
大勲位公爵 松方正義 書

大正4年11月合葬

戦死者名


出羽国分寺薬師堂(薬師堂)

聖武天皇の国分寺建立の詔により、天平13年(741)の建立に基づく。創建時は酒田の城輪柵の近隣に位置していたが、平安後期以降、国府が内陸の山形市に移転するとともに国分寺も移転。薬師堂が出羽国分寺の後継寺院とされている。

薬師堂
明治初期に山形県会の仮議事堂となり、山形県指定史跡「旧山形県会仮議事堂」でもある。
現在は、柏山寺が管理。

宮城浩蔵顕彰碑
明治大学の創設者

扁額は、西園寺公望
選文は、中江兆民

https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/miyagikozo.html

https://maps.app.goo.gl/Ct2RcBZtRJiMf5eR8


陣没軍馬慰霊塔(薬師公園)

軍馬を祀る慰霊塔。創建団体や創建時期は不詳という。
建立にいたる銘記や碑誌もなく。

陣没軍馬慰霊塔
陸軍大将 小磯国昭 書

「陣没軍馬慰霊塔」の創建時期は不明というが、ある程度の推測で絞り込みは出来そうだ。

謹書している小磯国昭は、山形県新庄市の出身。山形出身の代表的な軍人として謹書したのであろう。肩書として「陸軍大将」と記載している。小磯は戦後はGHQに拘束され昭和25年に巣鴨拘置所で亡くなっているために、確実に戦前の建立であることは予想できる。
小磯国昭は、昭和12年7月21日に陸軍大将、昭和13年7月29日に予備役に編入となっている。
そして昭和14年に平沼騏一郎内閣の拓務大臣、昭和15年に米内光政内閣の拓務大臣をつとめ、昭和16年の開戦時は満洲移住協会理事長であった。
昭和17年5月29日から朝鮮総督、そして昭和19年に東條英機の次の総理大臣に就任している。
時局や情勢を考えると、昭和12年から昭和16年にかけての建立でないかと推測。朝鮮総督に就任した昭和17年以降は、軍馬のために慰霊塔を建立する時勢ではなく。

東日本大震災後は倒壊の恐れがあり、近づけなくなっている。

今にも飛び出してきそうな躍動感ある軍馬のレリーフ。
取り囲む銘板の刻は判別不能。なにかが刻まれていたかもしれないが。

https://maps.app.goo.gl/hxRsGz43fiTetZmq8


山形陸軍墓地(千歳山霊苑)

山形陸軍墓地の地。
閉門の為、敷地外から遥拝する。
みたまやすらかに

千歲山霊苑

千歲山霊苑沿革
一、明治二十九年十一月この地に始めて陸軍墓地が設置されました。
一、明治三十九年十一月
   日露戦役戦没者墓碑建立
一、昭和八年一月
   満洲事変戦没者慰霊塔建立
一、昭和二十七年八月
  靖霊塔建立
一、昭和二十八年以後山形県が奉祭維持管理にあたっている。
  昭和三十四年三月 山形県

千歲山霊苑の沿革
本霊苑は明治二十九年に設置された旧陸軍墓地であって、終戦に伴い昭和二十年十月陸軍省から大蔵省へ移管さらに昭和二十八年県において無償譲与を受けたものであり、昭和三十四年に名称を「千歳山霊苑」と改め今日に至っている。
霊苑内には、日露戦争戦没者の各墓碑、満洲事変戦没者慰霊塔並に昭和二十七年に県民有志からの寄附と国費、県費を併せて建立した太平洋戦争の英霊分骨約六千柱の納骨施設たる靖霊塔があリ、その後弘前佛舎利塔に納骨されていた日露戦争当時の県出身英霊約二百柱の分骨並びに南方戦域から収集された遺骨を併せ納めている。
毎年四月には県内の戦没者遺族代表参列のもと慰霊条を挙行するほか、彼岸等には供養拝礼式を行うなど県が奉系維持管理にあたっている。
 昭和六十三年三月再建 山形県

うーん。開門は「月」「水」「金」のみ。
(訪れたのは木曜日でした、惜しい)

陸軍軍人合葬之墓

陸軍軍人合葬之墓

拓魂碑

靖霊塔

満州事変戦没者慰霊塔は、敷地外からは見えず
盛岡の久昌寺と同じ形状の慰霊塔があるという。

https://senseki-kikou.net/?p=36368&

場所

https://maps.app.goo.gl/Y8jxTm3Ki9ymmNJy5


※撮影:2026年3月


その2へ

https://senseki-kikou.net/?p=57525

秋田の郷土部隊「歩兵第十七聯隊」(秋田の戦跡散策・4)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

東京への帰路前に時間があったので、秋田駅周辺を巡ってみました。

秋田の戦跡散策1は、こちらから


歩兵第17聯隊

明治18年(1885)に仙台鎮台の3つめの歩兵聯隊として設置。
明治31年(1898)に、歩兵第17聯隊は、秋田に衛戍地を移し、新設の第8師団所属となった。
明治37年の日露戦争では、当初は予備隊であったが、38年の黒溝台会戦に援軍として参戦、ロシア軍に包囲され、聯隊の半数を失う大きな被害を受ける。次いで第2軍に所属し、奉天会戦に参戦。

第二次世界大戦では、昭和19年(1944)にフィリピン戦線に投入され、歩兵第17聯隊は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍下の振武集団・第41軍に所属し、ルソン島の戦いで、全滅寸前で終戦を迎える。
最後の歩兵第17連隊長となった藤重正従陸軍少将は終戦後の9月下旬に投降し戦犯として逮捕。マニラ軍事裁判で住民虐殺の容疑で昭和21年7月17日に絞首刑となっている。


歩兵第十七聯隊趾(中通四丁目)

NTT秋田支局裏手・平田篤胤誕生地碑の向かいに鎮座。
秋田駅前一帯にあった兵営の跡地(中心地)の裏通りに、ひっそりと立てられている。

歩兵第十七聯隊趾
統合幕僚会議議長 陸将 天野良英

我が歩兵第十七聯隊は明治十九年六月仙台市河内に創設。
同年八月十七日宮中にて軍旗を親授せらる。
明治三十一年九月此処旧久保田城址(千秋公園)と内濠を隔てて相対する風光明媚の地に転英す。
創設依頼日進日露の戦役を始め西比利亜事変満洲事変支那事変大東亜戦争に出征し赫赫たる武勲を樹てたり。
昭和二十年八月十五日終戦の命により軍旗は比島にて奉焼す。
百万県民に親しまれ秋田県児修練演舞の道場たりし四万二千有余坪の地も今や街路四通しビル建ち並び往昔の威容を偲ぶよすがなし。
茲に有志相図り碑を刻して陣没せられたる英霊の偉勲を後世に伝う。
 昭和四十一年八月十五日
  選文 三浦熊士郎 

歩兵第十七聯隊の衛戍地からの移築ですね。

北白川宮殿下御手植松

御慶事之松

明治三十三年五月十日

明治33年5月10日の御慶事は、皇太子(のちの 大正天皇)と公爵九条道孝の三女である九条節子姫(のちの貞明皇后)のご成婚(結婚式)。

忠節・礼儀・武勇・信義・質素
軍人勅諭50周年で植樹した公孫樹の碑
昭和7年
最初に記名された「歩兵大佐・日置勝騂」は秋田連隊区司令官。


平田篤胤先生誕生之地

むかいには、なんと平田篤胤の誕生地。
平田篤胤は国学四大人のひとりにして、復古神道の大成者。
土手谷地街区公園内に。

平田篤胤先生誕生之地
陸軍大将 本郷房太郎 書

平田篤胤生誕の地
 平田篤胤は、本居宣長らとともに国学四大人の一人と称される江戸後期の国学者。
 安永五年(一七七六)に秋田藩士・大和田祚胤の四男としてこの地に生まれ、幼少の頃から勉学に励み、二十歳で江戸に出て苦学を重ねると、やがて備中(岡山県)松山藩士·平田篤穏の養子となった。
 宣長の学風を色濃く受け継ぎながら、江戸や京都で復古神道を確立し、諸国にその名を知られたが、儒教を廃し極端な尊王思想を唱えたことで、幕府の体制を揺るがすとされ、天保十二年(一八四一)に久保田へ帰された。
 二年後、中亀ノ丁(南通亀の町)で、病により没するまで、秋田の国学界の発展に寄与した。
 篤胤の墓は手形大沢にあり、国指定史跡となっている。
  平成二十四年六月一日再設置
   秋田市教育委員会


歩兵第十七聯隊之碑(千秋公園)

千秋公園・久保田城址にある歩兵第十七聯隊の記念碑

歩兵第十七聯隊之碑
十七比島会長 尾張三郎 謹書

昭和57年4月29日建立
以下、カタカナをひらがなに置き換えて文字起こし。

歩兵第十七聯隊は明治十九年八月十七日仙台市青葉城址に於て創設され第二師団に属していたが、日清戦争後、弘前市に第八師団司令部が新設されるに及びその隷下部隊として仙台市より秋田市に移駐し、以来終戦まで約五十年の間秋田県の郷土部隊として存在した。
従って聯隊は太平洋戦争の他、遠くは日清日露の両戦役をはじめ、シベリヤ出兵、満洲事変、日華事変にも参加し、それ等の戦役を通じて真摯素朴忍不抜の秋田県民特有の精神を発揮して、輝かしい武勲を樹て隣県部隊と共に国宝師団の名を馳せた。
昭和十二年第八師団が中国旧満洲に移駐するに当り聯隊は同地牡丹江省に於て北満の守護に任ずこと七ヶ年太平洋戦争が愈々苛烈の度を加えるに及び、その決戦場たる比島戦線に投入されたのは昭和十九年八月のことである。
無傷の精鋭部隊として、フィリピン、ルソン島に上陸した当初三千余名を数えた兵員が、極度の劣悪な環境と過酷極まる条件のもとで激烈な死闘を繰り返し、わずか一ヶ年後の終戦時には、生存者九百余命に過ぎなかったことは、この戦闘が如何に苛烈なものであったかを物語るものである。
戦後三十三年を経て昭和五十三年に比島戦の生存者が相集い、比島戦線に於て散華した戦友の遺徳を顕彰するために十七比島会を結成し歩兵第十七聯隊比島戦史の編集に着手することが決議された。
以来三年間に亘り会員の献身的な努力の結果昭和五十六年四月二十九日比島戦史の発刊を見ると同時に生存者の願いであった戦没将兵の慰霊祭を厳粛に執行することが出来た。
同日の決議により今茲に聯隊駐屯の地を眼下に望む千秋公園の一画に記念碑を建立し、聯隊創設より太平洋戦争終末までの事績を収録し比島決戦に於て護國の礎として散華した聯隊長藤重従大佐以下の戦没者並びに生還者の氏名を列記した秋田歩兵第十七聯隊比島戦史壱冊を収納し、祖国平和追求の一布石として永く後世に伝えんことを希うものである。
 昭和五十七年四月二十九日 
  秋田歩兵第十七聯隊比島会 誌之

鎮魂之碑 四月二十九日
霊峰東拝太平山
眼下西望駐屯跡
幾万将兵比島散
英霊鎮魂千秋社


千秋公園・久保田城跡

秋田藩佐竹氏の居城久保田城の本丸・二の丸跡地を整備した公園が「千秋公園」

久保田城表門

佐竹義堯公像
幕末最後の佐竹藩主、出羽久保田藩十二代、佐竹氏第三十代、三十二代。龍角散の開発のきっかけになった殿様。

八幡秋田神社

殉職消防組員招魂碑

受難警察官之碑

大平山

小高い丘(神明山)を活かした平山城。


秋田駅

目いっぱいに散策していたので、時間がなくなってまして。
駅そばで、「秋田のぎばさ」を。
海藻の郷土食ですね。

秋田散策は、いったんこれで〆。

※撮影:2026年3月


日本最大の製油所を狙った「最後の空襲・土崎空襲」(秋田の戦跡散策・3)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

終戦前夜、秋田市の土崎地区が爆撃された。関連戦跡の慰霊巡拝を。

秋田の戦跡散策1はこちらから。


土崎空襲

終戦前夜の昭和20年8月14日午後10時半頃から15日午前3時半頃にかけて、土崎地区は約4時間にわたり激しい空襲を受けた。この空襲は「日本で最後の空襲」のひとつであった。
土崎空襲での攻撃目標は、終戦間際でも無傷のままであった当時日本で最大の産油量をあげていた日本石油秋田製油所であったが、近隣の民家も多大な被害を受けた。

土崎空襲はグアム島を出発したアメリカ軍のB29を中心とした爆撃機約132機が、100kg爆弾を7,360発、50kg爆弾が4,687発の合計1万2047発、953.9トンに及ぶ爆弾を投下。
犠牲者は一般市民92名、軍人50名に、確認できない人を合わせると250名以上を数え、製油所のほか104戸が全焼、及び全半壊した。
秋田県で唯一の大規模空襲でもあった。

ターゲットとなった日本石油秋田製油所は、内地では10番目の大きさであったが、秋田市周辺の油田(八橋油田は国内生産量の70%を占めていた)からの原油産出量は日本本土最大で、その原油を精製し、内地における精製石油の37パーセントを担ってた。さらに、他の製油所とは異なり、輸入原油に依存しないことがわかっていたことから、日本の石油産業におけるもっとも重要な攻撃地の一つであった。

https://thsk-akita-tsuchizaki.amebaownd.com/pages/2963902/page_201906081840

https://tuchizaki.com/kusyu/%E5%9C%9F%E5%B4%8E%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2

https://wararchive.yahoo.co.jp/airraid/detail/14

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_04.html


平和を祈る乙女の像(港湾公園)

昭和54年建立。土崎港の臨海、ポートタワー・セリオンの近くに鎮座。「土崎空襲犠牲者追悼平和祈念式典」が毎年、この地で実施。

慰霊

鳩を抱えた乙女の像。

 日本が開国以来の大敗戦を喫した昭和二十年八月十五日の前夜半、わが郷土は「日本石油」を中心に米国空軍の猛爆撃を受け、市民、軍人およそ一八四名の犠牲者を出すに至った。
 その後昭和五十年「被爆市民会議」の発足成り爾来各種の慰霊行事を行なって来たが、漸くここに官民一致の協力を得て、其の霊を永遠に慰むべく慰霊塔の建立を見るに至った。
 願わくば諸霊とこしないに安らかに、以て世界の恒久平和と郷土の繁栄を守り給わらんことを。
 昭和五十四年八月十五日
  土崎港被爆市民会議会長 藤田渓山 謹誌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/akita_akita_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city002/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/5bA9CpAFXmb6MYYB6


道の駅あきた港 ポートタワー・セリオン

秋田市ポートタワー・セリオン
高さ143.6メートル
展望台の高さは100メートル。

ENEOS秋田油槽所
終戦直前の「土崎空襲」では、土崎港北大浜地区にあった「日本石油秋田製油所」がターゲットであった。

秋田港(土崎港)は北前船で発達し、そして臨海鉄道が陸と海の結節点として活躍していたが、「秋田臨海鉄道」は2021年に廃線し、そして秋田港駅も2026年7月に廃止となった。

秋田港駅。
明治40年(1907)開業。陸と海の結節点として機能し、秋田港にある製油所や製錬所からの輸送需要多くの貨物列車が通ったが、2026年7月廃止。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kD6BWVkjkbSxMG5L9


土崎みなと歴史伝承館

土崎空襲をはじめとした土先の歴史を伝える施設。

https://tuchizaki.com

空襲展示ホールには、旧日本石油秋田製油所の建物(被爆倉庫)の一部(爆撃で溶けた実物のコンクリート)を移設して展示してある。

なんと、、、休館日(おとづれたのが火曜日)

残念すぎる。。。再訪??

場所

https://maps.app.goo.gl/c338R4yiH9aNYry79


祈恒久平和(雄物岸街区公園)

雄物岸街区公園にある慰霊碑

祈恒久平和
 秋田市長
  石川錬治郎

碑の由来
  昭和二十年八月十四日夜半から十五日未明にかけて、B29爆撃機百三十二機による、日本最後の土崎空襲で、上酒田町 新城町・稲荷町・小鴨町・加賀町で三十名の方々が尊い生命を失ないました。
  この碑は、この犠牲者の慰霊と戦争のない恒久平和をきずく誓いとして市民の篤志募金で建立したものです。
 平成四年八月十四日
  土崎港被爆市民会議
  平和祈念碑建立実行委員会
   委員長 佐藤 実 謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city001/index.html

明治天皇行在遺蹟
1881年(明治14年)9月の 明治天皇「山形・秋田・北海道巡幸」のおりに、土崎港に行在所が設けられたことを記念。

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfHSscHVKd7GxHd79


慰霊碑つばさ(古川町街区公園)

古川町街区公園に鎮座。
犠牲者の遺体を集めた場所という。

祈恒久平和
 この周辺は、一九四五年八月十四日夜半から、終戦の十五日未明にかけて米軍機B29による日本最後の土崎空襲で犠牲になった百数十人の遺体を鉄道線路上に置かれた痛恨の地である。
 ここに、慰霊と恒久平和の誓いを捧げる。
  一九九一年八月十四日
   建立
    土崎港被爆市民会議
    平和祈念碑建立実行委員会
     文 委員長佐藤実
         吉田金也謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/jT68umsydWLVz2Np6


祈平和(光沼の祈念碑)

光沼近隣公園の駐車場近くに鎮座。

祈平和
土崎港被爆市民会議

土崎空襲で光沼に沈んだ犠牲者に捧げる

昭和20年8月14日の土崎空襲のとき、当時、燃え盛る日本石油秋田製油所などから逃れてきた多くの市民が、この光沼に飛び込んで熱や火を避けたと伝えられているが、亡くなった人も多数いたという。戦後、再開発によって光沼は段階的に埋め立てが行われ、沼としての姿は消滅している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/o9far4p5ymqF5bDfA


慰霊塔
(高射砲台座上に建てられた慰霊塔)

土崎港(日本石油秋田製油所などの重要施設)を守るために配備された高射砲第四八大隊第四中隊の九九式八糎高射砲陣地のあった場所。そして秋田県でただ一つの戦場の跡でもある。

慰霊塔
秋田県知事小畑勇二郎書

この塔を建てた由来
この町内は太平洋戦争の末期の昭和二十年八月十四日から同十五日にかけて連合軍の大型爆撃機延べ二百五十機により約二千発の爆弾を投下され猛爆を受けたのであるがその際当地を警備中の独立高射砲隊(高射砲一箇中隊高射機関銃一箇小隊)および同隊を救援するため駆けつけた郷土部隊は最後まで勇敢に応戦し隊員の大部分が戦死されまた同時に一般市民も多数被爆し尊い命の失われた秋田県でただ一つの戦場であったのである よってこの人々の霊を慰めあわせてこの戦跡を永久に記念し再び戦争の悲劇をくりかえさぬことを誓うため当町内一同の総意によってここにこの塔を建立したのである
 昭和四十年八月十四日
  秋田市土崎港相染字緑町々内会一同

慰霊碑の台座が高射砲台座

場所:

https://maps.app.goo.gl/aQ6jdSMRreWzzvVG8


平和祈念碑
(土崎空襲 犠牲者に捧げる 慰霊平和)

通称、浜ナシ山。旧日石通りの慰霊碑。
日本石油秋田製油所従業員らを慰霊する。

土崎空襲 犠牲者に捧げる
慰霊平和
 祈念碑建立実行委員長 佐藤 実 謹書
  平成七年八月十四日

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city005/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Z5rfLQAAdrGxS33RA


雲祥院

土崎空襲で被災した秋田県内で唯一の戦災寺院という。

https://unshouin.com/history

空しゅう被弾地域

場所:

https://maps.app.goo.gl/cxhvDHgh9xN1sdqM7


雲祥院の首無し地蔵

四体のお地蔵さまは、爆撃の破片で首が削ぎ取られ無くなっていた。被爆地蔵。


被爆した墓石(雲祥院)

境内の墓石にも被爆した痕跡が残る。


被爆した宝篋印塔(雲祥院)

秋田県内最古の宝篋印塔とされ、南北朝期の建立という。
上部は土崎空襲での被爆によって破損している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1022-2
1948年5月16日、米軍撮影の航空写真を加工。
日石秋田製油所と、各慰霊碑の位置関係。

ちなみに、このエリアをすべて歩いて散策しました。
秋田県護國神社を起点に、ポートタワーセリオンを経由し、各慰霊碑を巡って、ゴールの上飯島駅までざっくり3時間でした。(土崎みなと歴史伝承館に寄れていればプラス1時間だったかも)


※撮影:2026年3月


空襲関連

昭和20年8月14日から8月15日にかけて、「最後の空襲」として被害をうけた空襲として「土崎空襲」のほかに「熊谷空襲」「伊勢崎空襲」「小田原空襲」などがある。

富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)

例の場所。
富士山と桜と五重塔の、いかにも日本的な風景。外国人観光客、インバウンドにとにかく人気の場所。
ただ、ここが「戦没者慰霊塔」であることを知ったうえで訪れている人は、極めて少なそう。

富士山は見えませんでした。。。


富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)

みたまやすらかに
合掌

富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)
五重塔と富士山が織りなすこの美しい景色の背後には、戦争によって失われた多くの尊い命があります。
この塔は、その方々を追悼し、二度と戦争の悲しみを繰り返してはならないという想いと、戦争のない平和な世界への願いを後世に伝えるために建てられました。

この塔は、富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)といいます。
明治以降、日本国として参戦した戦争において、富士吉田市から出征し、尊い命を落とされた方々を追悼するため、市の援護会を中心に、多くの市民の浄財によって建設が進められました。
昭和33年(1958年)8月、富士吉田市長を委員長とする富士吉田市慰霊塔建設委員会が設置され、昭和34年(1959年)4月に起工し、3年の歳月を経て、昭和37年
(1962年)4月に完成しました。この塔内には、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦及び太平洋戦争において亡くなられた本市出身の戦没者1,055名の位牌が納められており、その方々を追悼する場となっています。
戦争で大切な家族を失った遺族にとって、世界中から国境を越えて多くの人々がこの地に集う今日の姿は、平和の尊さをあらためて感じさせてくれるものです。
来訪者の皆さまが、戦争の悲惨さと平和の尊さ、また、命の大切さに静かに心を寄せてくださることを願っています。
 令和8年8月
  富士吉田市戦没者慰霊塔奉賛会
  富士吉田市遺族会

Fujiyoshida City War Memorial Tower
(commonly known as Chureito Pagoda)

Behind the breathtaking view created by the five-story pagoda and Mount Fuji lies the memory of
countless precious lives lost to war.
This memorial tower was built to honor those who sacrificed their lives, to remind future generations that the tragedy of war must never be repeated, and to express our hope for a peaceful world free from conflict.

This monument is officially known as the Fujiyoshida City War Memorial Tower,
commonly called the Chureito Pagoda.
It was constructed through generous donations from many citizens, led by the city’s War Bereaved Families Association, to commemorate the people of Fujiyoshida who left their hometown to serve Japan in wars from the Meiji era onward and lost their lives.
In August 1958, the Fujiyoshida City War Memorial Tower Construction Committee, chaired by the Mayor of Fujiyoshida, was established. Construction began in April 1959, and after three years of work, the tower was completed in April 1962.
Enshrined within the tower are memorial tablets dedicated to the 1,055 men and women from Fujiyoshida who lost their lives in the First Sino-Japanese War, the Russo -Japanese War, the First World War, and the Pacific War. The tower serves as a place to remember and honor their sacrifice.
For the families who lost their loved ones in war, seeing people from around the world gather here today, crossing national borders to visit this place, is a powerful reminder of the value of peace.
We hope that all who visit this memorial will take a quiet moment to reflect on the tragedy of war, the preciousness of peace, and the value of every human life.
 August 2026
  Fujiyoshida City War Memorial Tower Support Association
  Fujiyoshida City Bereaved Families Association

忠霊塔の概要
1.正式名称 富士吉田市戦没慰霊塔(通称:忠霊塔)
2.所在地 富士吉田市浅間2丁目3360番地の1
    市立新倉山浅間公園内
3.構造等
1構 造 鋼板一文字葺鉄筋コンクリート五層建
   大阪四天王寺の五重塔を模している。
2大きさ 基礎部分7.3m四方 一階床面積四坪(13m2)
3高 さ 19.5m(本体部分13m、相輪6.5m)
4総工費 9,368,884円
    (工事費9,210,767円 事務費158,117円)

「富士山眺望日本一」の写真

殉国之塔
昭和27年4月21日建立

忠霊塔建立前の石碑。殉国。

展望デッキからの眺め。
富士山は見えませんね。

富士山は見えなかったけど、外国人の皆様がとにかく多く、体感的には、日本人は10%、残り90%が外国人の皆様。。。


新倉山浅間公園(あらくらやませんげんこうえん)

1959年10月設置。三國第一山新倉富士浅間神社が鎮座しており、新倉山は神域となっている。

三國第一山新倉富士浅間神社
宗教法人名称は「富士浅間神社」、旧社格は村社。

創建は、慶雲3年(705年)9月9日。甲斐国八代郡荒倉郷の氏神として祀られる。
大同2年(807年)、富士山の大噴火があり、同年8月22日、当社に勅使が参向、国土安泰富士山鎮火祭を執行し、その時、平城天皇より「三國第一山」の称号並びに天皇親筆による大鳥居勅額・金幣・破魔宝面(勅使面)が奉納された。

「三國第一山」の扁額。

咲くや姫階段 398段

お土産・軽食堂屋さんは、外国人観光客仕様。


下吉田駅

富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)の最寄り駅。


都留市駅

都留市駅で途中下車。

温泉寄り道してみました。
「より道の湯」
なかなかに良い温泉。ゆっくり出来ました。また来ましょう。

大月駅にはフジサン特急が居ました。

河口湖駅には、「富士山ビュー特急」とJRの特急「富士回遊」も。

※撮影:2026年8月


関連

「富山大空襲」の戦跡と近代建築(富山の戦跡散策6)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その6では、「富山大空襲」と富山市街地に残る近代建築などを。

なお、2026年9月にも富山に訪れており、富山大空襲関連に関して追記をしました。


富山の戦跡散策1


富山大空襲

昭和20年8月1日、富山は米軍B-29爆撃機182機による大空襲を受けた。
富山市街地は99・5%を焼き尽くされ廃墟となり、死者は約3,000人、負傷者は約8,000人、被災者は約11万人にのぼった。
「富山大空襲」は、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出した空襲であった。

当時、米軍は、空襲目標として中小都市を選定していた。すでに空襲により都市機能を破壊した東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・川崎・尼崎を外し、原爆投下候補として、京都・広島・新潟・小倉を外した、空襲対象地は137都市となり、富山市は人口12万7,000人で36番目であった。
しかし富山市は呉羽紡績・日清紡績・日本曹達・不二越などの近代的大工場が集まり東岩瀬港の改修と東岩瀬臨海工業地帯を始めとした臨海工業地帯が発展しつつあり、米軍としては重要な爆撃目標であった。
ただ、米軍は、富山において工場群を狙う戦略爆撃は実施せず(結果、工場群は、ほぼ無傷)ではなく、労働者(市民)の住む都市爆撃を敢行し、富山は多大な犠牲を払った。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu

https://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2013/12/post-44.html


戦災復興記念像(天女の像・富山城址公園)

富山城址公園内に。

 昭和二十年、太平洋戦争は激烈の度を加え、八月二日未明に、富山市は、B29百七十余機の焼夷爆弾攻撃を受け、市街地は一夜にして焦土と化しました。
 約二万五千の世帯、十一万人の市民が罹災し、約八千人が重軽傷を負い、二千七百余人の尊い生命が失われ、まさに、壊滅的な状況になりました。
 惨憺たる焼土と、絶望の虚脱の中から、富山市民は、平和を渇望し郷土の復興に気力を燃やし、槌音高く、県都富山の再建に立ち上がりました。
 市民の決意と総力の結集が実を結び、戦災復興の大大事業が完成し、今日の近代的都市に生まれ変わりました。
 この天女の像は、恒久の平和を念願するとともに、尊い犠牲に敬虔な祈りを捧げ、市民の努力による偉大な業績を記念して、富山復興特別事業協議会により、昭和四十九年八月一日に、戦災復興記念像として建立されたものです。
 平成二十年八月一日
  富山市

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfEzy39FMocorHACA


富山城址公園

富山市郷土博物館(模擬天守)。

加賀前田藩の分家となる富山前田藩の居城。
富山大空襲では、米軍は爆撃中心点を富山城址の東南に設定している。
なお富山城自体は、明治4年(1870)の廃藩置県により廃城となり払下げ解体となっている。
現在の模擬天守は、1954年(昭和29年)完成。

呑んだあとに散歩していたので、夜の様相も。

2026年9月

場所:

https://maps.app.goo.gl/UvCBUbbZ3Mg6Ukhe6


殉職警防團員之碑(富山城址公園)

富山城址公園内に。

皇紀2600年(1940年・昭和15年)を記念して建立。
明治42年から昭和15年までの30年間で、消防・水防活動中に亡くなった消防組員および警防団員20名の殉職者の慰霊顕彰碑。
また第二次大戦中に活動していた当時の消防関係者の志気を高めるという意味も込められていた。

警防団は昭和14年に結成。防護団(防空)と消防団(火防・水防)を統合し、警察の指揮下にあった。

殉職警防團員之碑

殉職警防団員之碑
 警防団員とは、戦前の名称で、現在の消防団員をいいます。
 消防団員は、住民の生命、身体、財産をあらゆる災害から守るという崇高な使命と長い伝統のなかで培われた旺盛な郷土愛護の精神に燃えています。
 水火災害に敢然と身を挺してその職に殉じた消防職団員の霊を弔い、その功績を永くたたえるとともに、県下消防関係者の志気を鼓舞するために建設されました。
 昭和20年8月2日未明の富山市空襲には奇跡的に戦禍を免れています。
    昭和15年12月竣工 (皇紀二千六百年)
    木曽川産 水成岩
    本碑揮毫 富山県知事 矢野兼三
    (財)富山県消防協会 

明治天皇御製
事しあらば 火にも水にも いりなむと
思ふがやがて やまとだましひ

明治40年に詠まれた歌
意訳:事故があったときには、火の中水の中飛び込んででも、救助しようとするその心こそが大和魂だ
万葉集の「事しあらば火にも水にもわれなけなくに」の表現が取り入れられている。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori34/tayori34.htm

場所:

https://maps.app.goo.gl/4RJxHoMYSa5uyrX37


前田正甫像(富山城址公園)

富山城址公園内に。

前田正甫(まえだ まさとし)は、富山藩二代目藩主。産業奨励とし富山売薬(富山反魂丹)を推進し、いわゆる「越中富山の薬売り」を発展させた人物。

場所:

https://maps.app.goo.gl/QfuQLr2w7SYBTLHe7


愛こそ平和の母なれ(県庁前公園)

富山県出身の彫刻家・横江嘉純の作品。
終戦から10年を経て、平和を希求する強い心が慈愛に満ちた母子の姿に表現。
1968年の製像。目黒区民キャンパスや糸魚川の親不知記念広場にも建立されている。


お野立所(県庁前公園)

大正13年 秋
 当時、摂政宮であった昭和天皇は、北陸地方における陸軍特別大演習の統裁ならびに地方事情の視察のため富山県に行啓になりました。
 11月10日午前に汽車にて富山駅にお着きになり、富山県庁にて県知事らに拝謁を賜りました。同日午後からは、富山県立神通中学校での奉迎式に御臨席ののち、このお野立所(陛下の御座所)において県下の児童生徒らの体操や運動競技を親しくご覧になりました。
富山県

大正13年当時は、この付近は神通川の廃川地で、神通中学校の敷地であった。
現在は県庁前公園として、大きな噴水が特徴的な公園。


殉職警察官之碑(県庁前公園)

富山県庁前公園に。

殉職警察官之碑
内務大臣 男爵 山本 達雄 書

昭和9年5月竣工

殉職警察官之碑
 昭和九年五月竣工 (常願寺川産水成岩)
 殉職者 建立時 三十柱
     令和六年八月現在 一四四柱 
 本碑 揮毫 内務大臣 山本達雄
 副脾 稿 漢詩家 国府種德
    撰文 富山県知事 斎藤樹
    揮毫 臨済宗国泰
       寺派管長 佐竹竜水

碑文要旨
 立山を仰ぎ見れば、高くそびえてまことに崇高であり、越の海を望み見れば、まことに広大である。しかし、わが富山県の殉
職警察官の義勇もその崇高、広大さにおいては、かの立山や越の海に比類するものというべきである。
 警察官の任務は、安寧を擁護し、秩序を維持し、邪悪を戒め、災禍を救うにあり、一身の安危を忘れて、敢然として職務に挺
身すべきものであるが、思うに、旺盛な義勇心がなくては、どうして至難の事に処し、ひいては世人の期待にそい得ることができ
ようか。まさにこの旺盛な義勇心こそ、警察精神というべきである。
 社会の治安と民衆の福祉のために捧げられた、本県殉職警察官の義勇を知るならば、かの立山の山霊、越の海の海神も、その崇
高偉大さに一歩も二歩も譲るであろう。
 富山県警察本部
 富山県警友会

場所:

https://maps.app.goo.gl/gjyoNzQK5S2GR4jc8


平和群像(富山駅前)

平和群像
作者は松村外次郎、建立は昭和24年(1949) 9月、再建が平成2年 (1990) 3月。

平和群像
 「平和群像」は、未来永劫の平和を祈念し人類の至高の英知を現わす自由と正義、希望と真理を象徴するモニュメントとして、原型製作者 松村外次郎のもと渡辺義知氏ら数名が協力して富山市制60周年と平和記念の一環として、昭和24年9月にコンクリート製で建立されたものです。
 その後、歳月を経て風化損傷がはげしく原型保持が困難となったことから、富山市施行100周年を記念して横山豊介氏の監修を受けて原形のままブロンズ像で再生したものです。
 平和のシンボルとして市民の皆様に愛されることを願ってやみません。
  平成2年3月 富山市
   原型製作者 松村外次郎

場所:

https://maps.app.goo.gl/v8ozqHKctTCTfFL69


富山大空襲で破損した「常夜灯」(松川・舟橋)

寛政11年(1799)の建立。
富山大空襲で破損した常夜灯。
2026年に、富山大空襲の戦火をくぐり抜けた「神通川船橋常夜灯」として、富山市の有形文化財に指定された。

場所:

https://maps.app.goo.gl/wC4kFApVoBVbxUSj7


富山大空襲で破損した「富山別院創立記念碑」

富山大空襲により一部破損しているが、明治初頭の廃仏毀釈と富山東別院創立を物語るモニュメントとして今日まで伝承されている。

富山別院創立記念碑
このたび、法要の記念整備整備事業の一環で、記念碑が境内正面に移転整備されました。
富山別院は、創立以来、大火や戦火によって何度も消失しています。そのような中、創立時から残っている唯一のモニュメントがこの記念碑です。第二次大戦の富山空襲により石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年に説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際にこの石碑が建立されたこと、松任本誓寺(現白山市)の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます。(以下略)

場所:

https://maps.app.goo.gl/2aMrKkEQ8e25Z8L16


富山大空襲で破損した「日枝神社の敷石」

富山大空襲で破損した日枝神社の参道敷石が残されている。

富山大空襲の傷跡
この石畳は昭和20年8月1日未明から約2時間に渡って米軍機B29による富山市への大空襲の折、雨の様に投下された焼夷弾が当たって割れた数十枚の一枚です。
 その他破損したものは、平成14年参道改修工事を以ってすべて修復した。

日枝神社御社殿

御社殿前の鳥居

奉納 日独戦争記念

大正六年六月建立
日独戦争は、第一次世界大戦での日本とドイツ領「青島」やドイツ東洋艦隊本拠地の南洋諸島での戦い。

弁慶石
弁慶が怪力で転がし、義経が腰掛けたという石。
佐々成政の庭石でもあったという。

大正四年(1915年)の御大典記念で献納された鳥居と狛犬。

場所

https://maps.app.goo.gl/LMEn6urwCkB9UeHi8


富山大空襲で焼けた石碑(応声寺)

焼夷弾の熱と炎で表面が焼け、碑文が読めなくなった石碑

亀谷先生之碑
明治初年頃、梅沢町の亀谷家は医師として生業を営む傍ら、私塾・寺子屋として地域の子どもたちに漢籍や読み書きを教えていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RaWhNDAJwgZzUwdK7


富山大空襲の爆撃痕が残る梵鐘(大法寺)

幼稚園の神様。

場所:

https://maps.app.goo.gl/g5dQvdspAsnpH6LQA


富山薬学教育発祥之地碑

1894(明治26)年に,私立の「共立富山薬学校」が この地梅沢町に設立。
その後、「富山薬学専門学校」の門柱を、梅沢町に居住していた 一人の卒業生が譲りうけて、昭和40年(1965) に自宅の庭先である共立富山薬学校の跡地に建てたもの。という。
なお、市立の「共立富山薬学校」は、明治30年に富山市「富山市立薬学校」となり、明治40年に富山県「富山県立薬業学校」を経て、昭和24年に国立富山大学に統合されて「富山大学薬学部」となっている。

場所

https://maps.app.goo.gl/Eyqr6Qjh6BTQug6X9


富山県庁本庁

国会議事堂の設計を担当した大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦が監修し、1935年(昭和10年)8月17日に完成。
1945年(昭和20年)8月1日に富山市一円を焼き尽くした富山大空襲では、焼夷弾の直撃を受けたとされるが焼け残った。
全国の庁舎の中では5番目に古い建造物。国登録有形文化財。

夜の散歩

場所:

https://maps.app.goo.gl/v9im9SuXp9kkNNjJ6


富山市役所

1992年完成。最上階の展望塔から富山市街を一望できる。

富山城方面

富山県庁方面

富山電気ビルディング方面


富山電気ビルデイング

1936年(昭和11年)4月8日に竣工。
富山市内では富山県庁舎(富山県庁)とともに第二次世界大戦以前に竣工した建築物。
富山大空襲では焼夷弾の屋上への直撃で焼失した5階部分を除き、耐えぬいた。
第二次世界大戦後の1945年11月には、進駐軍の富山司令部が設置(1952年6月廃止)されている。

富山電気ビルデイングの前を路面電車が走る

場所:

https://maps.app.goo.gl/X6zsLvAKqtfPaj7y9


富山あれこれ

富山地方鉄道の路面電車でなんとなく南富山駅に行ってみたり。

富山地鉄路面電車

富山駅

鱒寿司自販機!

駅そば、立山そば(202509)

「しろえび天ぷら」と「ますずし」、「ニシンの昆布巻」
ますの寿司でおなじみの「源」
駅そばで富山を満喫。
(202509)

駅ビルのどんぶり屋さんで。
特別純米「立山」(202509)

富山スペシャル天丼(白えび・ブリ・ほたるいか)(202509)

ねばり昆布生姜(202509)

駅ビルで買って、ホテルで晩酌
「焼き鯖すし」「幻の瀧」(202509)

居酒屋で、
「呉羽梨」とほうじ茶のJIN(202509)

千代鶴(202509)

羽根屋(202509)

羽根屋(202609)

勝駒(202509)

富山の地酒(202609)

シメそば、を

とろろそば、とろろ昆布おにぎり(202509)

コロッケそばも美味しい。(202609)

あんばやし(味噌田楽)(202509)

冷やしそば出しラーメン(202509)

ラーメン屋さんで。
富山ブラックラーメン(202509)

おでん(202509)

元祖のお店で。
ブラックラーメン
さすが元祖だけあって、いちばん黒かった。
(202509)

別のラーメン屋さんで。
モツ串(202609)

モツ味噌ラーメン(202609)

別日に。
モツ味噌が美味しかったので、今度はブラック。これも美味しい。モツトッピング。
ブラックラーメン(202609)

駅ビルの8番ラーメン(202609)

いろいろ買ってますね。
ビーバー
ロングサラダ(202509)

いろんなビーバー(202609)

北陸っぽいもの。

新幹線アイス(202509)

パウチ日本酒(202509)

ビーバーとハッピーターンと柿の種(202509)

新幹線様に。(202609)

カウヒーが美味しい。。。

高田屋さんの「鱒の寿」
先輩におすすめされて。(202509)

2026年は、青山総本舗さん(202609)

※撮影:2025年9月及び2026年9月

富山の食も堪能満喫、また来ますね。富山良い街です。
一連の富山散策は、いったん、〆で。


関連

富山市に投下された模擬原爆(富山の戦跡散策5)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その5では、「富山に投下された模擬原爆」に関連する戦跡に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)

パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)は、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)である「ファットマン」の模擬爆弾として開発された。「パンプキン」は特殊形状な爆弾であった「ファットマン」の投下訓練とデータ取得の爆弾として、日本全国に投下され、その訓練と解析の実績が長崎に投下された「ファットマン」へのつながることとなった。
パンプキンは、18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日 – 8月14日の間に投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が記録されている。

下記はアメリカ・ラスベガスのアトミックミュージアム展示の「ファットマン原寸大模型」
(2025年4月撮影)


富山に投下された模擬原爆

米軍の原爆投下部隊・第509混成群団が広島・長崎を前に模擬原爆・パンプキン爆弾で投下訓練を実施。
富山市内には4発の模擬爆弾が投下された。
7月20日、3発の模擬原爆が、富山市内の重要な軍需工場となっていた不二越製鋼東岩瀬工場、日満アルミニウム及び日本曹達富山製鋼所を目標に投下。
これによる被害は死者47人、重軽傷者40人、また家屋4戸が火災に遭ったほか、家屋約50戸が損害を受けた。
7月20日の爆撃は天候不順のために目標には命中できず、観測も失敗したために、7月26日に富山市豊田地区に対して一発のパンプキン爆弾と再度投下している。この26日の爆撃では死者は6人、重軽傷者は50人、全壊家屋は8戸、半壊家屋は50戸が被害を受けた。
この一連の富山市の中田地区・森地区・下新西町地区・豊田本町地区における4発の模擬原爆による被害は、死者53人、負傷者90人であった。

そして、富山市は、8月1日に「富山大空襲」を迎えることとなる。


爆心地
(7月20日・中田地区の模擬原爆の爆心地)

昭和20年7月20日に投下された模擬原爆の「爆心地」。

昭和二十年
世界初の原子爆弾の模擬爆弾の跡地
 終戦間際の昭和二十年(一九四五年)七月二十日朝八時過ぎ、突然「Bニ十九」が飛来して、市の北部で基幹産業の工場地帯に三発(当地の他·森地内·下新地内)の爆弾を投下されました。
 後に解ったことですが、後に広島·長崎に投下された、世界初の原子爆弾の模擬爆弾であること、当初は、新潟もその候補地であった為、気象条件も似た富山が選ばれ、時間帯も朝に設定されていたとのことです。
その為、当地域では、通勤途上の十数人が犠牲となられ、また負傷者も多く出ました。
 当町内では、奇跡的に犠牲者はありませんでした。負傷者は、数名あったようです。
 しかし、家屋にも焼失した家、屋根も床も抜け柱だけの家や半壊の家が多く出ました。
 又、遠く離れた「小学校」の南向き窓ガラスはすべて割れ、破片も屋根·床を貫通していたようです。又、工場のスレートも多く破損しました。
 その爆風の威力は、田んぼの稲もまるで刈り取ったかのように、根元から綺麗に何處かに消し飛んでしまったと、翌日の新聞が報じています。
 跡地には、大きな窪地ができ、数年間に亘り直径十五メートルを超える池となり、筏を浮かべることもできました。
 これは、長崎に投下されたものと同じ形状であること·色合いが黄褐色でもあり「パンプキン」と云われていました。

爆弾の大きさ
直径:1.5M
長さ:3.5M
重さ:4.5トン

被爆後の空撮写真には、
1の現在地には、明らかに爆弾の跡に水がたまっているのが、はっきりと写っています。
窪地を年々埋めて現在のようになりました。
2は、中田八幡社の元の場所で、森地内の投下場所とほぼ等距離にあった為、被災しませんでした。
昭和31年に、全体を持ち上げて、コロ引きで、現在地まで移設遷座されました。
その後、経路沿いに植樹して、現在の桜並木になりました。

爆撃により発生した大きな窪地

爆心地の裏手にある不二越の工場。
ちなみに不二越のブランド名「NACHI」は、那智熊野大社に由来する富山発祥のメーカー。
もともとは、不二越を目標にした爆撃であった。

中田八幡

場所:

https://maps.app.goo.gl/kA6FDoP8nMExcaqL7


上記の東岩瀬の爆心地の最寄り駅。

東富山駅

あいの風とやま鉄道(旧・JR北陸本線)の駅。
明治41年(1908年)開業時は「東岩瀬駅」。
昭和13年に「不二越鋼材工業株式会社東岩瀬工場」が駅近くに設置され、工業地帯への貨物駅も担うことになった。
戦後の昭和25年に富山港線の越中岩瀬駅が東岩瀬駅へと改称することになり東富山駅に改称。

西口駅舎本屋は1908年(明治41年)9月竣工。

レンガ倉庫。
かつては、駅灯室として用いられ、駅本屋と同じく、1908年(明治41年)9月築。


平和祈願之碑

7月26日、富山市での2回目となる「模擬爆弾」が投下されたのが、「富山市豊田地区」であった。

平和祈願之碑

大東亜戦争被爆地の記
一九四五年(昭二十年)七月二十六日朝八時頃アメリカ軍の爆撃機B29が飛来し豊田のこの地に爆弾を投下しました そのため鈴木善作(当時四十九才)ほか十五名の者が被爆犠牲者として尊き生命を断ちました。
人類にとって戦爭ほど醜く嘆き悲しまずにいられないものはありません。
再びと、このようなことの起ることはなく未来永遠に人類が平和でありますことを請い願ってこの碑を建立します。
 一九八八年(昭六十三年)七月二十六日

昭和六十三年七月建之
犠牲者の遺族が自費で建立した「平和祈願之碑」。
当地で犠牲になった鈴木善作・レツ夫妻ら住民16人を悼み、善作氏の息子である故・善蔵氏が1988年、着弾地から数十メートルの所有地に退職金を元手に建立。内部には爆弾の破片と防空頭巾が収められたという。

総務省>追悼施設
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_004/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/p3sKeQFoFVbNrq2Y9

帰路は富山港線ポートラムで富山駅に。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策6 へ


富山関連

模擬原爆関連

砲身を台座とした「利田忠魂碑」(富山の戦跡散策4)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その4では、「砲身を用いた忠魂碑」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山駅から東に約10キロ。
富山県中新川郡立山町の利田小学校脇にある「利田忠魂碑」。
バスの場合は、富山駅から日置バス停で下車して、そこから歩きで、ざっくりトータル1時間ほどで到着。


利田忠魂碑

青の砲身と金の地球と金の鷲
みたまやすらかに、と、忠魂碑に合掌

建立の由来
大正十三年
利田忠魂碑は利田村民の総力により戦没者のみたまに感謝の誠を捧げんと建設費二千八百円(当時の村年予算二千円)の巨費と四百六十人の奉仕によって建設される
上部は日本海海戦に武勲をたてし志保丸の砲身で長さ七・二米、重さ六・七屯、海軍軍人として活躍中の曽我大佐 宮崎中尉 保正一等兵曹の三氏が海軍省から払下げに努力されたものである。
昭和十四年
蘇我の藤田金太郎翁が砲身の上に地球と鷲を寄贈される
昭和四十三年
明治百年を記念し大改装を行い追悼法要を執行する
平成三年八月
利田小学校グランド整備のため現在地に移転建設する

忠とはまごころ いつわりのない心 まことの心である
合祀する六十五柱のまごころに感謝し
永遠の平和を祈念するものである

合祀する六十五柱のまごころに感謝し永遠の平和を記念するものである
 平成三年八月吉日
  利田自治振興会

碑文中に出てくる「志保丸」という艦船は、日本海海戦時には海軍には存在しておらず、調査の結果、戦艦「安芸」の砲身が下附されたともいわれている。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tut/1339942?page=2

ん?戦艦安芸??となると、砲身の忠魂碑(慰霊碑)は、兵庫西宮の鳴尾八幡でも拝見してましたが、そちらも戦艦安芸という話が伝承されている。。。

「金鷲輝く 日本の 栄ある光 身に受けて」、、、あっ金鵄か、国民歌「紀元二千六百年」は。

場所

https://maps.app.goo.gl/o1xFzDnWAQQWJWPbA


行き帰り

バスは休日は2時間に1本程度。

行きは良いけど、帰りのバスが無いので、越中三郷駅まで50分くらい歩きました、地方あるあるです。

富山地方鉄道

越中三郷駅

ちょうど、電車が入線して、行ってしまいました。。。

これは良い佇まい。

昭和6年(1931年)開業。

「鐵電山富」「驛鄕三」
開業時の社名で右書き

予備知識無しで訪れましたが、これは良い。歩いて正解でした。

「みさと」ではなく、「さんごう」

ぼーっと、無人駅で一休みする時間も良いものです。

富山駅に戻ります。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策5 へ


関連

富山県忠霊塔・富山陸軍墓地(富山の戦跡散策3)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」、その2の「富山歩兵聯隊」関連の戦跡に次いで「富山陸軍墓地」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山歩兵聯隊跡のある富山大学前から、シェアサイクルを活用して、一気に「富山陸軍墓地」へ。
富山市の西にある呉羽山。その呉羽山の南東に富山大学、北東に「富山陸軍墓地」という位置関係。


富山県忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

富山陸軍墓地は市営長岡墓地にある。現在は「富山県忠霊塔」。
陸軍墓地として個人墓はなく、忠霊塔と3つの合葬碑が残っている。

富山県忠霊塔の沿革について
 明治四十一年、歩兵第六十九連隊が富山で編成され、同隊の公傷病死者の分骨を埋葬する「陸軍墓地」が、この富山市北代の地に設けられました。その後、各戦役ごとに「忠魂碑」が建立されて、陸海軍戦没者を合葬されております。
 向かって中央の「忠霊塔」は昭和十六年十月に建設されましたもので、昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬してあります
 向かって右の一番目の碑は、昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立されました。
 向かって右の二番目の碑は、昭和十年から同十二年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬してあります。
 忠霊塔の向かって左の碑は、歩兵第三十五連隊が富山に移駐したため、金沢陸軍墓地に合葬してあった、日清日露戦役の戦死者の分骨を富山に移されたもので、昭和八年に建立されたものであります。
 これら旧陸軍墓地の合葬者は二八七四八柱にのぼっています。
 現在ご英霊に対しましては、富山県遺族会によりまして毎年八月に、慰霊祭が厳修されております。
 ご英霊の永遠のご冥福をお祈りします。
  平成九年七月吉日
   寄贈 社団法人 日本郷友連盟富山県支部

中央に忠霊塔
むかって右に上海事件陣歿者合葬碑、
むかって左に、満州事変陣歿者合葬碑と陣歿者病死者合祀碑がある。


忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

「忠霊塔」は、昭和十六年十月に建設。
昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬。

2023年に改修工事があり、忠霊塔は安全面を考慮し、建立時の14メートルから9メートルに低くなった。

合掌
みたまやすらかに

2023年の改修工事の際に、銘板には高岡銅器を使用。


陣歿者病死者合祀碑(旧富山陸軍墓地)

大正14年5月に歩兵第35聯隊が、金沢から富山に転営したため、金沢陸軍墓地に合葬されていた日新日露戦争の戦死者の分骨を、富山に移されたもので、昭和8年9月に建立された。

陣歿者病死者合祀碑
陸軍中将 荒蒔義勝書

荒蒔義勝は、昭和7年(1932年)9月から昭和9年8月までに第9師団長であった。第9師団は北陸3県(富山・石川・福井)を管轄。

大正14年5月転営
昭和8年9月建之


上海事件陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立。

上海事件陣歿者合葬碑
陸軍中将 植田謙吉 書

昭和4年(1929) 支那駐屯軍司令官、昭和5年12月に第9師団長となる。第9師団長在任中に、第一次上海事変勃発し出動。停戦交渉中の昭和7年(1932)4月29日の天長節爆撃事件により左脚を失う重傷を負う。上海事件陣歿者合葬碑は、第9師団長として揮毫している。

昭和7年12月建之


満州事変陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和10年から同12年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬。昭和12年5月建立。

満州事変陣歿者合葬碑
陸軍中将 蓮沼蕃 書

蓮沼蕃は石川県出身。陸大兵学教官時代の教え子が栗林忠道であった。
昭和10年8月から昭和14年8月まで第9師団長。その後、最後の侍従武官長を終戦まで務めた。

昭和12年5月建之


石灯篭(旧富山陸軍墓地)

陸軍星の五芒星が刻まれた石灯篭

これは何だろう?

昭和8年3月1日建之


旧富山陸軍墓地入口

富山陸軍墓地の入口。

大灯篭

昭和12年奉納

手水石も陸軍星の五芒星、昭和12年奉納

門柱

場所:

https://maps.app.goo.gl/qSyiVWewrN2ZSANF9

※撮影:2025年9月


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関連

富山歩兵聯隊跡(富山の戦跡散策2)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」に次いで、「富山歩兵聯隊」関連の戦跡を巡ってみました。


富山の戦跡散策1


富山の歩兵聯隊

明治29年(1896年)、石川県野田村(現在の陸自金沢駐屯地)に「歩兵第35聯隊」聯隊本部を設置。
明治40年(1907年)、「歩兵第69聯隊」が歩兵第7連隊(金沢)及び歩兵第35聯隊(石川)内に設置。
明治41年(1908年)、「歩兵第69聯隊」が石川から富山の東呉羽村に移転。
大正10年(1921年)、「歩兵第69聯隊」は富山からシベリア出兵。七尾港からシベリアに出征。
大正14年(1925年)5月、宇垣軍縮により富山「歩兵69聯隊」は廃止。「歩兵第35聯隊」が金沢から富山に転営。「歩兵第69聯隊」の600余名は、新たに富山に配属された歩兵第35聯隊に編合。

歩兵第35聯隊
昭和7年(1932年)「歩兵第35聯隊」は第一次上海事変に出征。
昭和12年(1937年)「歩兵第35聯隊」は第二次上海事変に出征し、南京追撃戦の第9師団の主力として活躍。その後、徐州会戦などに参戦し、昭和15年からは満洲駐屯。
昭和19年(1944年)7月、沖縄に移駐し防御陣地の構築に参加。11月に台湾に移駐し、終戦を迎えている。

歩兵第69聯隊
昭和12年(1937年)動員され、第109師団隷下。
昭和15年(1940年)再動員され、第52師団隷下。
昭和17年(1942年)大本営予備として待機
昭和18年(1943年)トラック島に進出、防御陣地構築にあたり、そのままトラック島で終戦を迎える。


富山歩兵聯隊跡

富山市五福の県営富山野球場のちかくに、記念碑が建立されている。
現在の富山大学五福キャンパスから県営野球場のあたりが、富山歩兵聯隊の地であった。

富山歩兵聯隊跡

題字は、瀬島龍三氏。
瀬島龍三氏は、富山県出身。陸士44期次席、陸大51期主席。最終階級は中佐。太平洋戦争のほとんどを陸軍参謀本部部員として陸軍中枢の作戦担当にあたった人物。
戦後は伊藤忠商事会長、亜細亜大学理事長、中曾根康弘首相顧問などを務めた。

この地は明治41年5月より昭和20年10月まで37年間、越中飛騨信濃等の青年が入隊し錬武に励んだところである
 題字 瀬島龍三 書
 昭和53年8月19日建之
富山聯隊跡地記念碑建設協賛会


本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地

昭和20年(1945年)4月に本土決戦に備えて創設された陸軍聯隊の動員編成地。

1945年(昭和20年)4月2日、第209師団が創設され、第209師団所属歩兵第514聯隊(加越第21613部隊・加越第3部隊)が動員された。
第209師団は機動打撃師団として、上陸してくる敵に対し、「地上特攻」総攻撃すべく水際殲減決戦部隊であった。
富山大空襲では、隊員25人が爆死している。

本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地
歩共第514聯隊(通称加越第3部隊)(富山市)の創設記念碑文

 昭和20年終戦目前の4月、本土決戦(米軍本土進攻)準備のため、陸軍において8個の機動師団が動員され、その款下に第1総軍、第12方面軍 第36軍(浦和)、金沢師管区では第209師団が編成され、その隷下部隊として 步兵第514聯隊(通称加越第3部隊)総勢4368名が富山市に創設された。
 機動師団の特質は、師団を拳げて、一意怒涛の「地上特攻」総攻撃を連続不断に実施し、上陸してくる敵を水際において殲減すべき決戦の思想のもと、皇士防衛の重大任務を帯び、穿貫戦力を保持するため、兵は、昭和19年懲集の19歳から20歳の現役兵を主力とし、下士官は25歳以下とし、小隊長は、全員、予備士官学校卒業直後の見習士官を当て、中隊長並びに将校は年齢30歳以下、大隊長は、陸軍士官学校区隊長(現役将校)より赴任し、各方面軍の優秀戦歴者を現地から充用し、当時陸軍では最も若い年龄の最精銳で編成された。
 4月27日動員第1日、富山聯隊兵営(現国立富山大学)から5月5日次の各分駐所べ移駐した。聯隊本部及び直轄中隊の聯隊砲中隊·通信中隊·作業中隊·乗馬小隊は、富山男子師範学校(現富山市立南部中学校)及び西田地方国民学校(現市立西田地方小学校)へ、
第1大隊は安野屋国民学校(現富山中部高校校庭)及び県立神通中学校(現県立富山中部高校)
第2大隊は、私立大谷女学校(現機部町公園)及び星井町国民学校(現富山市角川介護予防センター)へ
第3大隊は、県立富山中学校(現県立富山高校)へ移駐
 5月5日及び5月25日の2回にわたり、現役初年兵入隊。5月12日第209師団長初度巡視を神通中学校て受閲、聯隊は編成定員を充足し、将兵一同強固な団結のもと、日夜重大任務の即戦必須の猛訓練に邁進。
 6月19日軍旗親授式が宮中で拳行、大元帥陛下御手づから聯隊長陸軍中佐力石勝寿、聯隊旗手陸軍少尉山口重信に親授され、荘重にして御力強い勒語を賜る。6月21日神通中学校按庭において、軍、官民、国防諸団体、学生ら県民総参加で、軍撰奉拝式を盛大に挙行。8月1日第36軍司令官初度巡視·検開を呉羽山練兵場で受閲。
 8月1日深夜~2日未明にかけて、B29爆撃機170余機(米軍戦術任務報告書)による富山市への大空襲時、聯隊各分駐所は富山中学校以外は全焼し、隊員25人が爆死した。焼実弾の猛火の中、聯隊旗手山口重信陸軍少尉は、師範学校裏の 冷川の中で天佑神助無事軍旗泰安の任を果たす。
 聯隊は、空襲後富山中学校及び校庭に集結するも、本土決戦の重大任務のため8月3日一面の焼野原となった富山市を後に、転進地下新川郡の16ヶ所の各国民学校、光闡寺に移駐したが、戦況は米軍進攻の危機が急迫し、聯隊は、引続き本土決戦に即応すべく必須の訓練に邁進した。8月13日決号作戦警戒命令発令され将共士気旺盛なりしところ、突如運命の8月15日終戦(聯隊本部、三日市国民学校·現黒部市役所)、8月25日 軍旗奉還式を挙行(三日市国民学校)、軍旗は8月29日に陸軍省へ奉還した。聯隊は9月3日復員下令され、三日市国民学校において解散式を挙行し、9月5日解散した。聯隊は、決戦地域関東に赴くことなく創設から5ヶ月で青史を終えた。11月中旬兵器弾薬一切は残留部隊が立野ヶ原演習場廠舎(現城端·福光地区)において進駐軍(司令部富山電気ビルに駐屯)に引渡しを終了した。
 戦後平和の礎に、昭和の大戦末期において国家存亡の危機に直面し、終戦·占領·独立·復興を経て平和日本への史実があったことを後世に伝える。
  平成27年4月27日(動員編成70周年記念日)
   公益財団法人借行社 富山偕行会
   一般社团法人日本郷友連盟 富山県郷友会
   防衛大学校同窓会北陸地区支部

機動兵団歩兵第514聯隊創設記念碑 建立誌
 聯隊旗手山口重信陸軍中尉(昭和20年8月20日昇任)は97才でご健在であり、終戦後70年の節目にあたり、当時の米軍本州上陸が差し迫り、日本が土壇場の中、富山で聯隊が編成された歴史を後世に伝えようとの声が彷彿と上がり、当時の憂国と明日への希望の思い出を留め、新たなる日本、新たなる北陸、新たなる富山の建設の思いの礎としたく、記念碑建の隣の旧歩兵第35聯隊碑傍地に記念碑を建立したものである。
(以下、記念建立委員会名簿及び建立協賛及び賛同団体名・会社名・個人名などは略)

県営富山野球場

富山地方鉄道富山市内軌道線呉羽線

富山縣護國神社の最寄りとなる「安野屋」から、歩兵聯隊跡地となる「富山大学前駅」まで、路面電車を活用。

ちょうど居合わせたのが「7018号」
富山地鉄の路面電車7000形で唯一、登場時からのクリーム色と緑の「旧塗装」を維持している車両。

富山大学前電停の近くにあったシェアサイクルを活用して、その3では、陸軍墓地に訪問します。

場所:

https://maps.app.goo.gl/c3vayBNuBCaSq1br8

※2025年9月撮影


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