「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

板橋の田園調布「ときわ台駅」周辺散策

東京都板橋区常盤台。東武東上線「ときわ台駅」。
東急の「田園調布」、小田急の「成城学園」などの鉄道会社主体の住宅地造成ブームの中で、東武鉄道が手掛けた最初の本格的な住宅地開発が「ときわ台駅」であった。

そんな、開発当初の昭和の雰囲気を感じつつ散策してみました。


常盤台(ときわ台)

東上鉄道
大正3年に東上鉄道として開通した際は、「ときわ台駅」はまだ未開業であった。大正9年(1920)に東上鉄道は東武鉄道と対等合併し、「東武鉄道東上本線」となった。

西板線
合併後の東武鉄道は伊勢崎線などの本線系統と東上鉄道系統との接続を予定し、「西板線」の建設を計画。これは西新井駅と上板橋駅を結ぶ計画であった。しかし関東大震災の影響などもあり頓挫。西板線は、東武大師線として一部が開業。

前野飛行場
西板線の車両基地・操車場予定地として東武鉄道が買収していた用地は、昭和4年(1929)に前野飛行場(板橋飛行場・遠藤飛行場)として、退役軍人の遠藤辰五郎に貸し出され、東京市内などの遊覧飛行が行われていたが、東武鉄道が西板線計画を撤退し、常盤台住宅地として分譲をすることを決め、昭和8年頃に前野飛行場を廃止。

武蔵常盤駅
常盤台住宅地の分譲地への最寄り駅として、昭和10年(1935)10月20日、武蔵常盤駅として開業。
昭和11年より13年にかけて、「常盤台住宅地」として分譲開始。

常盤台住宅地「板橋の田園調布」
駅前ロータリーから放射状に道路が伸びており、大田区田園調布の町並みと比較されることが多い。
そのため「板橋の田園調布」などとも呼称される。
常盤台住宅地分譲の際、東武鉄道が当時の内務省都市計画課職員小宮賢一の設計を採用。地域を一周する並木道(プロムナード)、袋小路(クルドサック)、道路に沿った緑道(ロードベイ)を配置する設計を行い、日本では先駆的な事例となった。

ときわ台駅
昭和26年に武蔵常盤駅から、ときわ台駅に改称。


ときわ台駅

平成30年(2018)に、北口駅舎のリニューアル工事が完了し、昭和20年の開業時の姿で復元。
開業当時からある青色スペイン瓦の三角屋根や、その下に配された縦長の三連窓、大谷石の表面に幾何学的模様を凹凸で表現した壁面や大谷石貼りの柱脚などを残しつつ、開業当初の塗装色で塗り直しなどを行い、改札上部の欄間のデザインなども再現。

特徴的な三連窓。

昭和10年の開業当時から残る大谷石の壁面・柱脚。


ときわ台駅ギャラリースペース
武蔵常盤小径

常盤台住宅地に関連した11枚のパネルが提示してある。


1935(昭和10)年10月20日、ときわ台駅は「武蔵常盤駅」として産声を上げました。以来、80余年にわたり、地域の発展、そして、時代の浮沈みを感じながら、町のシンボルとして皆さまに愛され続けてまいりました。

このたび、駅舎のリニューアルを記念し、11面のパネルから成るギャラリースペースを設けました。特徴的な青瓦と大谷石、幾何学的意匠の目立つ「ときわ台駅」は、今後も地域のシンボルであり続けます。

なお、パネル製作にあたり、板橋区教育委員会、常盤台の景観を守る会、東武博物館より、貴重な資料を提供いただきましたことに感謝いたします。

平成30年5月
東武鉄道株式会社

常盤台住宅
常盤台住宅は、東武東上線で池袋から5つ目「ときわ台」駅の北側に広がる2万3千余坪の面積を持つ住宅地で、現在の常盤台1丁目、2丁目に当ります。東武鉄道株式会社によって昭和11年度から分譲されました。

街づくり
常盤台アーバンデザインの最大の特徴は、地区内を一周できる環状のプロムナード(散歩道)です。日本では珍しい曲線を多用した街路で、5か所に設けられたクルドサック(袋路)や、プロムナード沿いの3か所にロードベイも用意されました。 

常盤台住宅地建築内規
大正期から昭和戦前期までに開発された郊外住宅地の中には、住環境の保全対策を講じていたものが多くあります。常盤台住宅地にも住環境保全を謳った規制が存在しました。開発主体である東武鉄道が定めた「常盤台住宅地建築内規」です。昭和13年4月には成文化されています、以下にそれを要約します。
 (略)

常盤台住宅販売
(略)

思ひ出の建物

思ひ出の景色

思ひ出の駅

帝都幼稚園
帝都幼稚園付門柱 常盤台1丁目6番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成25年(2013)3月27日

 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせ、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開いたことに始まります。

 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。

 建物調査の結果、現在園舎として使われている建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築したものと考えられます。

 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板が施されているなどの特徴が認められます。また、教室空間を大きくとるために、洋小屋構造などの洋風建築の意匠や構造が採用されるなど、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築となっています。

 なお、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たっています。 

 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物であり、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物となっています。

※現在も幼稚園として使われており、内部への立ち入り・見学はできません。

おさんぽマップ
(略)

斯波家住宅
常盤台・斯波家住宅 常盤台2丁目13番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成20年(2008)3月27日

 東武東上線ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし開発された住宅地です。昭和8~13年かけて駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理事業がすすめられ、「常盤台住宅地」と呼ばれています。

 近年、建物の老朽化や生活様式の変化にともなう建て替え、相続による土地の細分化等によって開発当初の建物が大変少なくなっています。

 当住宅は、平成16年に、昭和13年(1938)の建築当初の形が維持できなくなる状況となりましたが、当時の所有者は建造物の文化財的価値の重要性を鑑み、建物二階部分と北側一部分を曳家として保存しました。

 当住宅は、建設当初と比較すると、規模は40%に縮小され、位置も同敷地内において移動していま す。しかし、広縁を含む四部屋と屋根は、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅における草創期の姿をとどめており、現存している数少ない建造物となっています。区の近代の歴史を明らかにする上でも大変重要です。

※現在も住居として使われており、内部への立ち入り・見学はできません


帝都幼稚園

昭和11年(1936)の建物が今も使われている幼稚園。

帝都幼稚園付門柱
 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせて、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開きました。
 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。
 建物調査によれば、現在の建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築し、使用しているものと考えられます。
 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板、教室空間を大きくとるために採用された洋小屋構造などの、洋風建築の意匠や構造を取り入れた、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築です。
 また、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たったものです。
 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物です、また、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物です。平成24年度に登録文化財となりました。 ※内部の見学は不可
  平成26年2月 
   板橋区教育委員会

正門門柱

昭和11年の建造物

帝都幼稚園という、名称に歴史と尊厳を感じさせる。

場所

https://goo.gl/maps/tAJnAkUN97fQmxGZ8


閉館した板橋区立中央図書館。

板橋区立中央図書館旧館は、1970年に開館。2021年度に解体。
旧館は2020年12月20日閉館。新館は板橋区平和公園内に新築され2021年3月28日開館。

曲線を描くプロムナード。


常盤台・斯波家住宅

板橋区登録有形文化財
常盤台・斯波家住宅

木造二階建・近代和風建築
所在地 常盤台2丁目13番
登録年月日 平成20年3月27日
所有者 (略)

 ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし、昭和8~13年に駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理により造った街で、住宅地は「常盤台住宅地」と呼ばれています。
 しかし近年、建物の老朽化・生活様式の変化に伴う建替えや、相続による土地の細分化等で建築当初の建物が大変少なくなってきました。
 この住宅も、平成16年に建築当初の形を維持できなくなる事態が生じましたが、現所有者は建築物の価値の重要性を鑑み、建物の二階部分と北側一部分とを曳家して保存しました。  
 建築当初と比較すると規模は縮小され、位置も同敷地内にて移動していますが、広縁を含む四部屋が屋根を含めて建設当初のまま残っており、「常盤台住宅」の歴史を伝える上で重要な建造物です。
 平成21年3月
  板橋区教育委員会
  ※現在も居住していますので、内部への立ち入りはできません。

場所

https://goo.gl/maps/o9hYsm4x19ay43297


常盤台の南に空襲の慰霊碑があるので足を伸ばしてみる。
マンションのの間に鎮座。

平安地蔵

昭和20年6月10日の板橋区内で最大の死者(死者269名)を出した空襲の犠牲者「戦災死没者之霊」を祀る。昭和二十三年六月十日建之。

平安地蔵尊
平安地蔵尊由来
 この地は、大東亜戰争末期の昭和二十年六月十日午前八時半頃、米爆撃機参拾数機の編隊により數百発の爆彈を投下され一瞬にして修羅の巷と化し死者貮百八拾余名を出せり
 ここに戰災死没者永遠の冥福を祈るため地元有志發起人となり昭和二十三年六月十日平安地蔵尊を建立する

平らけく 安ら希く
  世越は 護り座す
 地蔵菩薩の
   誓ひうれしき

伊藤康安撰 長谷川耕南拜書

平安地蔵
 昭和二十年(一九四五)六月十日、午前七時五十五分より約二時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。『帝都防空本部情報』の記録によると、死者二六九名、重傷者八六名、建物の全壊二六〇戸、投下爆弾(二五〇キログラム級)一一六個、罹災者二、四六七人羅災世帯四九八世帯とあります。区内では最大の死者を出した空襲といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。
 戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和二十三年六月十日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を造立、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。
 平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
  平成九年三月 板橋区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/SCDofGz5KnhB6jqL7

※本記事の撮影は2021年2月


板橋区関連

B29搭乗員慰霊碑(川口市安行吉蔵)

埼玉県川口市にB29の慰霊碑があるというので足を運んでみた。
川口市の安行吉蔵(あんぎょうきちぞう)。安行地区には、安行〇〇という地名がいくつもある。

現在、「安行吉蔵八幡神社」は、安行原の「九重神社」に合祀されており、安行吉蔵八幡神社跡として小祠が祀られている。その境内に、B29の慰霊碑が建立されている。

以下、B29の由来。

1945年5月25〜26日
埼玉県北足立郡安行村(現・川口市安行吉蔵)の田んぼ
 B29(機体番号42−24826、ニックネーム「IN THE MOOD」、第313航空団505爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
 飛行機は、対空砲火を受けて東京方面から炎に包まれて飛来して安行村の吉蔵新田に墜落、3日間燃え続けた。
 6人が墜落死し、安行村原の密蔵院墓地に埋葬。1956年、地元の人によって吉蔵八幡神社に米兵の慰霊碑が建てられた。(略)

POW研究所 本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士  http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html

B29搭乗員慰霊碑

吉蔵八幡神社境内に建立されたB29搭乗員慰霊碑。昭和31年8月終戦記念日に建立。

祈冥福

昭和二十年五月二十六日午前一時頃 片翼の一部を失いたるB29一機 浦和の方面より飛来し 草加方面に逃避せしも 再び旋回し来たり この地に墜落し全搭乗員戦死す 遺体を住民の人類愛により火葬とし 終戦後進駐米軍に引渡しを了せり 残骸は政府整理せしも 墜落地一千坪は荒野と化したり 然るを土地所有者巨費を投じて美田に復元せり 終戦十周年を迎えるに際し 碑を建て後世に伝ふ

村社八幡社旧蹟

かつてB29が飛んでいた、今は平和な安行吉蔵の空を眺める。

場所

https://goo.gl/maps/e9dCzJm6wXL71J54A


関連

足立区のB29タイヤとプロペラ

足立区のB29無名戦士慰霊碑

青梅市のB29搭乗員慰霊碑とエンジン

東村山市のB29搭乗員慰霊の平和観音

B29搭乗員慰霊碑とB29エンジン(青梅)

青梅市の山中にB29が墜落したのは、昭和20(1945)年4月2日未明のことであった。
その墜落現場の山中に、B29搭乗員の慰霊碑が建立されているというので、足を運んでみた。

青梅線・軍畑駅

青梅線・軍畑駅から多摩川を渡る「軍畑大橋」の向こうに広がる山中にB29が墜落した。

後述するが、青梅市郷土博物館に保管されているエンジンの一部は、墜落時に多摩川に落ちたものを回収したものという。

B29が墜落した山を目指す。

写真後方の山中にB29が墜落した。

最初、道にまよったので、場所を明記しておく。

「吉野街道」の「柚木町三丁目交差点」が目印。

場所

https://goo.gl/maps/Jo2DbpK9UGh7NvB56

B29入口 →

看板もある。

案内看板を目印にしよう。

B29入口 →

B29へ →

道が思ったよりも危険でした。

危険

← 40m先 B29

けっこう、集中して歩かないと本当に危ないです。

足元に注意

B29 →

ひたすら山道を歩く。しっかりとした靴でないと辛い道。

B29へ →

B29

B29 →

見えてきました。

軍畑駅から入口までは約15分。
私は入口がわからなく迷ってしまったので、結果プラス30分かかりましたが。
そして、入口からは山道を約15分ほど歩いた感じでした。


B29搭乗員慰霊碑

山林所有者が建立した慰霊碑。
格別な説明はなく、ただ一言「當所無縁一切聖霊」とのみ刻まれた慰霊碑。

昭和20年4月2日未明、柚木の山中にB29が墜落した際に、11人のB29搭乗員のうち既に5名が亡くなっていた。
近くに疎開していた吉川英治は、「死ねば敵も味方もない」「丁重に葬るべし」と提言され、火葬の上で近くの即清寺に埋葬された。(戦後、米軍が回収)

生き残った6名のうち2名はその後になくなり、4名は米国に帰国している。

吉川英治は1944年に横浜から青梅に疎開し戦中戦後の9年5ヶ月間を青梅に居住していた。(近隣に吉川英治記念館がある。)

1945年4月2日午前3時頃
東京都西多摩郡吉野村柚木(現・青梅市柚木町)の愛宕山山腹

 B29(機体番号43ー93999、第73航 空団498爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は空襲が終わるころ高射砲弾を受けたらしく、火の玉になって飛来、墜落と同時に爆発してバラバラになり、破片が山麓の吉野街道付近まで散乱した。
 (注)作戦任務第51号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃122機、損失6機)

 機長のCarl C.SMITHなど5人は機体とともに墜落死、遺体は吉野村即清寺の墓地に火葬して埋葬され、戦後、米軍が回収。参考人は即清寺住職。
 パラシュート降下した5人(西多摩郡三田村で4人、小曾木村で1人)が1両日中に捕虜になり、サイドカーで立川憲兵隊を経て東京憲兵隊へ送られた。彼らのうち、Francis M.REYNOLDS二等軍曹、Sylvio LAMARCA二等軍曹、John W.EVANS 二等軍曹、Morris W.SANSOUCI軍曹の4人は戦後米国へ帰還したが、John S.HOUGHTON少尉は全身に火傷を負っており、東京憲兵隊に収容中症状がさらに悪化、治療の見込みなしとして11日に毒殺された。東京都小石川の陸軍墓地に埋葬。
 また、Kenneth PETTERSON軍曹は数日間山中に隠れていたが、空腹に耐えかねて黒沢3丁目の民家に現れて捕虜になり、東京憲兵隊へ送られた後、東京陸軍刑務所に移送、5月26日の空襲による火災で死亡。
 青梅市立郷土博物館には、このB29のエンジンや破片の一部が保存されている。
 また、山林の所有者の野村哲也さんは、2001年に墜落現場近くにB29搭乗員の慰霊碑を建立し、06年には在日米軍横田基地の代表や青梅市長など150人が参加して慰霊祭が催された。

POW研究会「本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士」 http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html

當所無縁一切聖霊

無縁一切聖霊

【無縁仏】より
…供養されることがないのでつねに腹をすかせ,あるいは安らかな死が迎えられず,怨恨をもって迷っているため,たたりやすく,またこの世に害を与えるので,無縁仏には個人または集団でことあるごとにまつる必要があるとされた。中世の霊魂祭祀では,個々の無縁霊がもれないように,総括して法界,三界万霊,無縁一切精霊などと表現していた。民俗用語としては,現今,南九州・南島ではフケジョロ(外精霊),ウケジョロ(浮精霊),ホカドン(外殿),トモドン(供殿)など,紀ノ川沿いではお客ボトケ,兵庫県宍粟郡ではショウロサン(精霊様),岐阜県加茂郡では一切精霊様,壱岐ではサンゲバンゲ(三界万霊)などとよばれている。…

コトバンク  https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E7%B8%81%E4%B8%80%E5%88%87%E7%B2%BE%E9%9C%8A-1424491

慰霊碑はB29が墜落したという山中に、人知れずに鎮座している。

平和の鐘

B29墜落現場の慰霊碑の先にも案内看板があった。

山ノ神さま →

足を伸ばしてみる。

眼下に広がる柚木の集落。
この山中の斜面にB29が墜落したのだ。

そうして、山ノ神さまが、柚木の集落を見守っていた。


軍畑駅から青梅駅に移動。
青梅駅から再び多摩川を渡って、青梅市郷土博物館へ。


青梅市郷土博物館

青梅市郷土博物館に、前述の柚木の山林に墜落したB29のエンジンの一部が展示されている。

B29のエンジン

墜落したB29のエンジンの一部
 昭和20(1945)年、吉野村柚木(現在の青梅市柚木町)の山林に墜落したB29爆撃機のエンジンの一部です。
 日本側の記録によると、昭和20(1945)年4月2日未明に北多摩地区が空襲を受けたが、午前3時12分頃、柚木の山林にB29が1機墜落したとあります。その際、墜落の直前に4基あるエンジンのうち1基が脱落し、多摩川に落ちたと当時の目撃者が語っております。
 このエンジンは、その後、放置されたままでしたが、昭和54(1979)年、地元の方達により引き上げられ、保管されていました。
 そして、平成5年9月、保管主の青木光男氏より当館にへ寄贈されました。

市内柚木町に墜落したB29「Filthy FayⅡ」と搭乗員

 昭和20年(1945)4月2日未明、中島飛行機武蔵製作所付近(現在の武蔵野市、西東京市、練馬区付近)爆撃任務中に高射砲(搭乗員の証言)により被弾し炎上、市内柚木町2丁目(当時は西多摩郡吉野村)の山中に墜落しました。11人の搭乗員のうち墜落時に5人が死亡し、その後ヤケドや空襲で2人が死亡、終戦後アメリカに帰国したのは4人でした。
 4月2日の爆撃は、午前2時20分ごろから30分ごろまで120機前後のB29が爆撃に参加し、焼夷弾や照明弾、時限爆弾などが投下され、保谷町(現在の西東京市)などで200名以上の犠牲者が出ました。

中島飛行機武蔵製作所

B29のエンジンの一部。


飛龍のエンジン

青梅市郷土博物館には、墜落した帝国陸軍の四式重爆撃機(キ67)「飛龍のエンジン」も展示している。

墜落した「飛龍」のエンジン
 昭和20年8月11日の夕刻、大日本帝国陸軍の重爆撃機「飛龍」が吉野村柚木(現在の青梅市柚木町)の山中に墜落しました。終戦の4日前のことです。墜落機は埼玉県熊谷の第1航空軍、第16独立飛行隊に所属していました。
 当日は、静岡県浜松飛行場での事故機の支援任務を終え、傷病兵2名を乗せて熊谷に帰還する途中、何らかのトラブルにより墜落したものと思われます。
 墜落した場所は、愛宕山尾根の東端付近で、梅ノ木峠と三ツ沢峠をつなぐ稜線の北側斜面です。
 平成16年1月18日、小川秋子氏(元青梅市文化財保護指導員)を始めとする多くの方々の献身的な努力によって、急峻な谷底から100キロを超えるエンジンの一部が搬出されました。
 このたび、小川秋子氏より寄贈を受け、本館に展示することとなりました。

四式重爆撃機「飛龍」

墜落した「飛龍」
○墜落事故
 昭和20年8月11日の夕刻、大日本帝国陸軍の重爆撃機「飛龍」が吉野村柚木(現在の青梅市柚木町)の山中に墜落しました。終戦の4日前のことです。墜落機は埼玉県熊谷の第1航空軍、第16独立飛行隊に所属していました。
 当日は、静岡県浜松飛行場での事故機の支援任務を終え、傷病兵2名を乗せて熊谷に帰還する途中、何らかのトラブルにより墜落したものと思われます。
 墜落した場所は、愛宕山尾根の東端付近で、梅ノ木峠と三ツ沢峠をつなぐ稜線の北側斜面です。
○エンジンの回収
 平成16年1月、墜落現場の山中でエンジンの一部(強制冷却ファン)が発見され、地元有志の協力により谷底から引き上げて回収されました。
○慰霊祭と回収品
 平成20年8月9日、関係者が集まり墜落現場で慰霊祭を挙行、その後、回収品の管理について回収にあたられた地元有志の方々のご厚意により「青梅市郷土博物館」で保管・展示することになりました。
(以下略)

四式重爆撃機「飛龍」のアンテナの一部・アルミ合金・やっきょう・風防ガラスなど。

これらは墜落した飛龍の部品の一部です。
墜落現場から飛龍のエンジンの一部が回収された際に、付近に散乱していたこれらの部品も一緒に改修されました。

四式重爆撃機「飛龍」の模型(1/72)
四式重爆撃機「飛龍」は大日本帝国陸軍が太平洋戦争末期に生産した重爆撃機です。三菱重工業によって開発され、三菱の各工場や陸軍立川航空廠などで生産されました。三菱製の新型発動機などを搭載して優れた性能を持っており、大戦末期の旧日本軍劣勢下においても活躍したといわれています。


青梅市郷土博物館

https://www.city.ome.tokyo.jp/site/provincial-history-museum/

青梅市郷土博物館 収蔵品データベース

http://jmapps.ne.jp/oume/

青梅市郷土博物館 収蔵品データベース > B29のエンジン

http://jmapps.ne.jp/oume/det.html?data_id=7909

青梅市郷土博物館 収蔵品データベース > 飛龍のエンジン

http://jmapps.ne.jp/oume/det.html?data_id=7910


関連

B29搭乗員慰霊の平和観音(東村山市)

B29のタイヤとプロペラ(足立区)

B29無名戦士慰霊碑(足立区j)

B29搭乗員の慰霊碑(川口市)

「哀しみの東京大空襲」と「時忘れじの塔」

上野には、2つの東京大空襲関連の慰霊碑がある。
その2つともに、海老名 香葉子 氏(落語家初代林家三平の妻・作家)が携わっていた。

2005年、海老名 香葉子 氏 は私財と寄付でもって上野に、東京大空襲の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」「時忘れじの塔」を建立している。


哀しみの東京大空襲

慰霊碑 哀しみの東京大空襲

慰霊碑 哀しみの東京大空襲
何の罪もない多くの人々が、
戦時体制の下で悲惨な最期を
遂げられたことを心から悼み、
あらためてそのご冥福をお祈り
すると共に、再びこうした悲劇が
繰り返されないことを願って、
この慰霊碑を建立する。
 平成十七年(二〇〇五)年三月十日

哀しみの心をいつまでも
 今年は昭和二十(一九四五)年の第二次世界大戦の終結からちょうど六十年、あの本所、深川を中心とした三月十日の「東京大空襲」も、次第に人々の記憶から薄れていこうとしています。
 この年は、元旦早々B29が飛来して、浅草付近を空襲したのに始まり、一月だけでも百機を越える来襲があり、五百発もの爆弾と二千五百発もの焼夷弾が投下され、何の罪もない千五百余人の一般市民が死傷されました。
 その後も東京は、実に数十回にも及ぶ空襲を受け、中でも三月九日の夜半から十日にかけての空襲は言葉に絶する程凄まじいものでした。
 房総半島を経て飛来したB29 は、十日の午前零時八分から一斉に
下町を襲いました。
 この日来襲したB29は三百二十五機といわれ、実に千七百トンもの
高性能焼夷弾を投下したのです。
 人々は隅田川や上野公園を目指して必死に逃げましたが、このたっ
た二時間の間に、実に十万人以上もの方が犠牲になられたのです。
 それは今想いだしても、本当の地獄図といえる程、悲惨な光景でした。
 そして、翌日からこの上野の山には焦土と化した下町から夥しい
数のご遺体が運ばれて来ました。この慰霊碑の付近の道端にも、米俵
や筵を掛けられたご遺体が並べられたのです。
 やがて、大八車やリヤカーを引いて、ご遺体を引き取りにみえる方
もありましたが、多くのご遺体は身元不明のままでした。
 そうしたご遺体は、この近くに巨大な穴を掘って、そこに仮埋葬され二年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付されたうえ、本所横網町の
震災記念堂にお祀りされました。
 無論、こうした東京への空襲はその後も続きました。なかでも、こ
の上野の山とその周辺が罹災した五月二十四日、二十五日の空襲は、
凄まじいものでした。
 今、終戦から六十年の歳月が経ち、こうした生々しい記憶が次第に
薄れていきつつある時、下町の焦土化を見守り、そこでの無辜の犠牲者を暖かく迎えたこの上野の山に、私たちは心からの慰霊碑を建て、
東京全域に亘る悲惨な犠牲者の霊を弔い、これからの日本を支えていく若い人々に、この「哀しみの心」を伝えていきたいと希っているのです。
 平成十七(二〇〇五)年三月十日
  海老名香葉子
  建立有志一同

場所
現龍院墓地の前、寛永寺が土地を提供している。

https://goo.gl/maps/QepVyD9k6WmH8wu5A


時忘れじの塔

東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑。
初代林家三平夫人の海老名香葉子さんらにより平成17年3月9日建立。

時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)
  東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。
 建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
 建立有志一同

場所
都立上野公園。
都立公園内に一般寄贈の碑が建立された珍しい例でもある。

https://goo.gl/maps/mxgdrSDJ2fXUUwp3A

※2つとも2021年3月11日撮影(3月10日の翌日)


東京大空襲関連

東京大空襲・慰霊

上野公園関連

3月10日(東京大空襲から76年)

令和3年(2021)3月10日で76年目。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
犠牲者10万人を超す規模であり、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
世にいう、東京大空襲(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、遭難者慰霊大法要が執り行なわれている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都

新型コロナの影響で規模が縮小。法要の参列者は限定され、法要終了後に一般参列者が祭壇で追悼可能となりました。


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中には、「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
大法要が行われる3月10日と9月1日に内部公開。

こちらも手を合わせてきました。

東京空襲犠牲者名簿

現在は、35巻まで納められており、令和2年(2020年)3月現在、81,273名のお名前が登載されている。


リンク

公益財団法人 東京都慰霊協会 都立横綱町公園-震災、戦災の記憶-

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html

総務省 一般戦災死没者の追悼

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/tokyo.html

東京大空襲・戦災資料センター 東京大空襲とは

https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

東京都生活文化局 東京都平和の日関連事業

https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000632.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD,%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82


関連

東京大空襲・慰霊
戦災電柱

深川と渋沢栄一宅跡【渋沢栄一9】

渋沢栄一は深川とも縁が深かった。

渋沢栄一は、明治9年に深川福住町に屋敷を購入、明治21年に中央区兜町(渋沢が創建した第一国立銀行の近く)に本邸が移されたのちは、深川邸は別邸として利用。(最終的な渋沢栄一の本邸は飛鳥山であった)

明治22年から37年まで、渋沢栄一は深川区会議員および区会議長を勤め深川の発展のため尽力。明治30年には深川に渋沢倉庫部(現澁澤倉庫)を創業。
そして明治44年の深川鎮守の富岡八幡宮の大修繕は、渋沢栄一が実行会長として推進している。

渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれた力石。


渋沢栄一宅跡

渋沢榮一は、明治9年に深川福住町に住居を構え、明治21年に兜町に本邸を移し、この地は別邸となり、また澁澤倉庫部が設置された。

江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
  平成21年3月  江東区教育委員会

渋沢邸の跡地は、澁澤倉庫となり、そして今では「渋沢」の名を冠したビルが建立されている。

澁澤シティプレイス永代

澁澤倉庫発祥の地

澁澤倉庫発祥の地
「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・
保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」

日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、
明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。
この地は、澁澤倉庫発祥の地である。

渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の
他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。
この藍玉の商いをするときに使用した記章が
(ちぎり・りうご)であった。
明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として
組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も
「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。

澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
     平成十六年四月吉日
      澁澤倉庫株式会社

ちぎり(りうご)

澁澤倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」

血洗島の渋沢家では、藍玉の製造販売を行っていた。
藍玉の商いの際にシンボルとして使用していた記章が澁澤倉庫の社章の期限となっている。
澁澤倉庫では「りうご」と呼称しているが、渋沢家では「ちぎり」と呼ばれていた。
元来は糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになったなどと言われている。

https://www.shibusawa.co.jp/company/future/


駐車場の片隅に神社があった。

福住稲荷神社

澁澤倉庫の守護神。

福住稲荷神社は、深川福住町(現永代2)にあった近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠であったもので、明治9年に(1876)澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、明治30年に澁澤倉庫部(のちの澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られました。
神狐像は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した福住稲荷神社が、昭和5年(1930)に再興されたことをうけて、澁澤倉庫社員一同によって奉納されたものです。平成3年に社殿内部から発見された奉納目録には、奉納者として当時の社員87名の名前が連なっており、深川の近代倉庫業に関わった人々の信仰を伝える貴重な文化財です。

江東区
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/chokoku/88757.html

澁澤倉庫奉納の石鳥居。

昭和5年2月吉日建之
澁澤倉庫株式會社

神狐像も昭和5年に澁澤倉庫が奉納。

昭和5年(1930)は、渋沢栄一が90歳のとき。渋沢栄一は昭和6年(1931)に91歳で亡くなっている。

福住稲荷神社
子爵渋沢栄一書時年九十

渋沢倉庫が奉納した力石・さし石。力比べでさし上げた(持ち上げた)石。澁澤倉庫の従業員と思われるさし上げた力自慢の者の名前が刻まれている。

力石の中には、渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれたものもある。

澁澤シティプレイス永代と澁澤永代ビル

澁澤倉庫株式会社

https://www.shibusawa.co.jp/#top-pamphlet

https://www.shibusawa.co.jp/story/photos/

場所

https://goo.gl/maps/2dtapXGK2BVn5TWW7


富岡八幡宮

明治44年の富岡八幡宮大修繕の際は、渋沢栄一が中心となって進められた。
なお、現在の社殿は昭和31年(1956)に造営されたもの。

深川公園

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

明治卅七八年役戦死者忠魂碑
正四位勲三等男爵澁澤榮一謹書


関連

渋沢栄一と血洗島(深谷市)【渋沢栄一7】

深谷市の北部「血洗島」。
「日本近代経済の父、日本資本主義の父」渋沢栄一の出身地を散策してみます。
(散策ポイントが広域に点在しているのでレンタサイクルが便利です)


旧渋沢邸「中の家」

慶応3年(1967年)の若き日の渋沢栄一

若き日の榮一
Eiichi in Paris 1867

渋沢栄一の生家「中の家」は、学校法人青淵塾渋沢国際学園として海外留学生向けの教育機関として昭和60年から平成12年まで使用されていた。
若き日の渋沢栄一像は、昭和58年(1983)10月1日の「青淵塾・渋沢国際会館」開館式で除幕された。

若き日の榮一像は、将軍徳川慶喜の異母弟である徳川昭武(水戸藩第11代)の訪欧使節団(パリ万博)に、会計係兼書紀(御勘定格陸軍附調役)として随行し慶応3年3月朔日(1867年4月5日)に、フランス マルセイユで撮影された写真を元に製造された。

中の家。旧渋沢邸。

渋沢栄一翁と論語の里

近代日本資本主義の父
渋沢栄一(1840~1931)

 深谷市血洗島に生まれ、尾高惇忠に学問を学びました。20代で従兄弟らと倒幕を計画し、中止された後は一橋(徳川)慶喜に仕え、家臣として慶喜公の名代昭武に同行し渡欧しました。
 明治維新後は政府の大蔵省で官営富岡製糸場の設立に関わりました。34歳で大蔵省を辞した後、実業界で活躍。幼少期に学んだ「論語の精神」を基に500社以上の企業の設立に関わりました。

論語の里
 栄一は7歳頃から、尾高惇忠に論語をはじめとする学問を習いました。生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え、「近代日本資本主義の父」と呼ばれるに至りました。
 栄一が淳忠の家に通った道はいつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関する史跡が多く残されていることから、それらを総称し「論語の里」と呼んでいます。

青淵まつり
栄一翁の命日(11月11日)を偲び、11月中に渋沢栄一記念館前で開催される。

血洗島獅子舞
市指定無形民俗文化財
諏訪神社の祭礼(秋季大祭)に奉納される。元亀2年(1571)にはじまると伝わり、雄獅子(おじし)・雌獅子(めじし)・法眼(ほうがん)の3頭が一組となって、笛のお囃子のもとで舞う。栄一翁も幼少より雄獅子を舞っており、帰郷の際には参観していた。

我が人生は、実業に在り。 渋沢栄一

天保11年(1840)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。
昭和6年(1931)92歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。
日本実業界の祖。希代の天才実業家と呼ばれる所以である。
男の転換期。慶応3年(1867)15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。
28歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貧欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。
2年間の遊学を終え、明治元年(1868)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向って、一途に歩み始めた。
帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治6年(1873)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。
個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。
私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。
失うことのなかった、こころの若さ。そこから生まれた力のすべてを尽して、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。
 昭和59年1月
 寄贈 エコー実業株式会社

深谷市指定文化財
旧渋沢邸「中の家」(なかんち)
 旧渋沢邸「中の家」に残る現在の建物は、母屋、副屋、4つの土蔵、門、塀から構成されます。明治時代の埼玉県北部の豪農の屋敷として貴重な歴史遺産です。渋沢栄一翁も天保11年(1840)にこの地で誕生しました。

中の家の敷地内にいくつかの碑があつまっている。

渋沢平九郎追懐碑

人の楽しみを楽しむ者は 人の憂いを憂う
人の食を喰う者は 人の事に死す
  渋沢平九郎昌忠

日月らかにするありて能く寃(えん)を雪(そそ)ぐ 
 九原豈(あに)幽魂を慰めざらんや
遺刀今夜灯(あかり)を挑(かかげ)て見るに 
 なお剰(あま)す当年碧血の痕(あと)
  義父・渋沢栄一

渋沢平九郎追懐碑

渋沢平九郎は、尾高淳忠の弟で、渋沢栄一の養子。幕末の飯能戦争で敗れ自刃。(尾高惇忠の項で詳述。)

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁が、飯能戦争で亡くなった自分の義子平九郎を偲んで作ったものである。
 平九郎は尾高惇忠の末弟で、栄一翁がパリ万博へ旅立つ際に養子となった。兄淳忠は栄一翁の学問の師で、富岡製糸場初代場長となった。
 慶応4年4月、江戸城が開場すると、平九郎は、年少ながら主家の窮状を見過ごすことが出来ず、振武軍に身を投じた。振武軍は、渋沢喜作や尾高惇忠を中心に、旧幕臣で構成されたものであるが、5月23日、飯能で官軍を迎え撃った。わっずか半日の戦闘で壊滅状態となり、平九郎は戦場から故郷を目指して逃走、顔振峠を超えて黒山(現越生町)に至り、官軍と遭遇、進退窮まり、ついに自刃して果てた。
 この追悼碑は、平九郎没後50年を経た大正6年に建てられたもので、平九郎の手跡を石に刻むとともに、栄一翁が平九郎を追悼して作った詩が刻まれている。時を経てもなお、若くして亡くなった義子平九郎を悼む栄一翁の、思いの深さをうかがわせる。

渋沢平九郎追懐碑
楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
 昌忠

嗚呼此我義子平九郎取義之前日自題寓舎障壁之辞也。 明治戊辰五月官軍入江戸城。 平九郎年尚少不忍坐視主憂便投振武軍廿三日遂殞命草野。 甲午家祭日有人贈其戦没時所佩刀予。 悲喜交至賦詩曰。 
 日月有明能雪寃 九原豈不慰幽魂
 遺刀今夜挑灯見 猶剰当年碧血痕
此憫其孤忠也。 今玆丁巳五十年忌辰重展遺墨不勝追懐之情。乃鈎摹刻石以見其志云。
 大正六年十二月 義父 渋沢栄一識並題額

【渋沢平九郎追懐碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

晩香渋沢翁招魂碑

渋沢栄一の父渋沢市郎の招魂碑。
渋沢市郎右衛門は晩香と号した。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の父で、晩香と号した渋沢市郎右衛門の招魂碑である。
 明治四年十一月二十二日、享年六十三で亡くなった。年が明けた正月五日に郷里の墓地に葬られた。
 晩香没後の明治五年、故郷血洗島を出て東京に居を構える栄一翁が、時宜に応じて父の祭事を欠かすことのないよう、東京の谷中天王寺境内に建立したものである。撰文は尾高惇忠、書は明治の三筆に上げられる日下部東作(鳴鶴)、題額は同じく三筆の巌谷修(一六)である。

晩香渋沢翁招魂碑
翁諱美雅渋沢氏通称市郎号晩香。武蔵国血洗島村人。世農。考諱敬林君妣高田氏。実同族諱政徳者第三子。嗣敬林君之後配其長女。翁自幼嗜学慨然有特立之志。而思慮周密一事不苟。凡自耕稼生産之道至尋常瑣事必反復審思本於実際。是以施設不差成算。家製藍為品素精。至翁研究益到名伝遠近其業大盛家産致優。至有郷人倣以立産者。村原係半原藩封内。藩侯有土木若不時之費毎令翁供財。翁毫無難色。曰財之用在応緩急耳況藩命乎。又厚於親姻故旧。人或失産破家則諄諄誘誨為捐財賑恤使其復産。故人皆称之不已。明治四年冬十一月二十二日病歿。年六十三。越五日葬其郷先兆之次。贈号曰藍田青於。五男八女。長男栄一君見為大蔵省三等出仕叙正五位。長女適吉岡十郎。少女配外甥須永才三郎委其家産。余夭。男栄一君以在東京建招魂碑於谷中天王寺以為行香之便。嗚呼翁行修於家信及郷里而老死畎畝之間終無著于世。洵為可惜矣。然栄一君擢草莾居顕職望属而名馳。蓋有所以矣哉。惇忠於翁有叔氏之親而蒙師父之恩。謹叙其行状表之。
 租税大属 尾高惇忠 撰文 
 少内史正六位 日下部東作 書 
 少内史正六位 巌谷修 隷額

晩香渋沢翁招魂碑(裏面)
明治五年壬申十一月廿二日
男正五位 渋沢栄一建

【大意】
 翁は、諱は美雅といい、通称は市郎、晩香と号した。武蔵国血洗島に、代々農業を生業とする渋沢家に生まれた。翁の父の諱は敬林、母は高田氏。もとは同族(東の家)の政徳の第三子である。養子として中の家に入り、敬林の後を継ぎ、その長女を妻とした。
 幼少より学問を好み、はっきりとした独立の志を持っていた。そして、思慮深く、ささいたことでも疎かにしなかった。家の仕事や日常の細々とした事まで、慎重に考え、事実に基づいて判断した。このようなわけで、何事も見通しと違うようなことはなかった。
 実家の藍玉づくりでは、もともと品質を大事にしてきたが、翁に至って、ますます研究が深まった。翁の名は広く知れ渡り、藍玉づくりは大変盛んになり、財産も大いに増えた。地元の人で、藍玉づくりを習って生計を立てるものもあらわれた。
 村はもともと半原藩の領地で、藩主の方で土木工事や不意の出費がある時は、いつも翁に費用を出させたが、翁は少しも苦にしなかった。翁が言うことに、「お金というのは緊急の時に使うためにあるのであって、まして藩の命令ならなおさらである。」というのである。また、親戚や古い友人に対しても同じようにした。他人で財産を失って家を傾ける人があれば、よく教えを諭すとともに、自らの財産を投げ打って助けてやり、元通りの生活が出来るようにした。それゆえ、だれもが翁を称賛してやまなかった。
 翁の行状は、家を修め、信用は郷里全体に及んだが、生涯を一農民として過ごしたため、世の中に知られることがなかったのは、まことに残念である。しかし、栄一の君が国家の中枢の仕事に携わり、大いに期待されているのも、翁の感化があったればこそといえるのである。惇忠にとって翁は、叔父であるが、父親以上に親愛の情を注いでくれた。謹んでその一生を文章に表すものである。

【晩香渋沢翁招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

先妣渋沢氏招魂碑

渋沢栄一の母、渋沢えいの招魂碑。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑である。
 碑の内容は、よく働き、贅沢をせず、慈愛をもって人々に接するという、えいの人となりを記すもので、栄一翁は生涯にわたり多数の社会福祉事業に携わったが、その資質は母から受け継がれたものであることがよく示している。
 えいは明治七年病により東京で逝去し、夫晩香の墓に寄り添うように葬られ、この碑は明治十六年癸未十一月七日谷中に建てられた。
 碑の撰文には栄一翁自身が行い、題額と書は、明治の三筆に数えられる巌谷修(一六)によるもので、亡き母を敬慕する栄一翁の心情をうかがわせる碑である。

先妣渋沢氏招魂碑
          不肖男正五位 渋沢栄一抆涕撰
先妣諱恵伊子、武蔵国榛沢郡血洗島村渋沢敬林君長女、君無男、養同族宗助君第三男晩香翁為嗣、即先考也、配以妣、妣幼善事父母、既長任中饋及蚕織澣濯之労、孜孜不懈、五十年如一日矣、為人勤倹慈恵凡衣食器皿自取敝麤而供人以豊美、遇親戚故旧煦煦推恩、見疾病窮苦則流涕賑給唯恐不及、平素率家人愛恕有余、至教督生産之道不毫仮貸、子女僮婢克服命、足以見其内助有方焉、晩往来東京之邸、以楽余年矣明治七年一月七日以病卒于東京、享年六十有三、其十日帰葬晩香翁墓側、仏諡曰梅光院盛冬妙室大姉、越十六年癸未十一月七日建招魂碑谷中、因記其行実之概略
       脩史館監事従五位勛五等巌谷修書并題額
                         広群鶴刻

【大意】
えいは、渋沢敬林の長女として生まれたが、敬林に男子がいなかったため、同族の「東の家」渋沢宗助の三男晩香翁を婿に迎え家を継いだ。
幼いころからよく両親の手伝いをしたえいは、長ずるに及んでは食事の支度はもちろん、養蚕や機織の仕事、洗濯までこなし、怠ることなく長い年月にわたってよく働き続けた。贅沢をせず、人には慈愛をもって接した。衣服や食器なども、自らは粗末なものを用いても、人にはより良いものを供した。病に苦しんだり、困っている人を見れば、涙を流して施しを与えた。ふだん家業にあたって人を使うにも愛情と思いやりをもち、余力があれば生活に役立つ方法や技術を教えるなどして、少しも気を緩めることがなかった。
皆がえいによく従ったことは、妻としてのあり方にきちんとしたものがあったということをよく示している。
晩年には東京の栄一翁の邸宅へも往来し、余生を楽しんでいたが、明治七年一月七日病により東京で逝去した。享年は六十三であった。十日には郷里に移され、晩香翁の墓の側に葬られた。仏諡は梅光院盛冬妙室大姉という。
明治十六年癸未十一月七日招魂碑を建てた。そこで、その生涯の概略を記すのである。

【先妣渋沢氏招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

場所

https://goo.gl/maps/NuKVHwYEx7Qn9PY38


青淵公園

「中の家」の後方は、清水川が流れており青淵公園として整備をされている。

青淵由来之跡碑

渋沢栄一の号、「青淵」の由来となった場所。「中の家」のすぐ後ろ。
「青淵」の号は渋沢栄一が18歳の頃に尾高惇忠(藍香)に付けてもらった。

撰書の渋沢治太郎は渋沢栄一の甥。県会議員や八基村長などを勤めていた。渋沢栄一に代わって渋沢栄一生家の「中の家」を継いだ、渋沢てい(渋沢栄一の妹)の次男。

青淵由来之跡
正二位伯爵清浦奎吾書

建碑の記
奉祝 皇太子明仁親王殿下御降誕を記念申上る為め、八基村青年団は村内の史蹟保存の事業を企てらる、血洗島支部亦其の挙に出て、故子爵青淵先生雅号発祥の跡を追慕すると同時に、利用厚生の実を挙ぐる耕地改良の整備に恵まれたる永久の幸福に感謝の誠を捧けんものをと青淵由来の跡と題し建碑の企を決議せらる、而して之れの揮毫を日本青年協会総裁伯爵清浦奎吾閣下に仰がんとせし所、夙夜世道風教の刷新振興を念とせらるゝ伯爵は、特に青淵先生と旧交を懐はれ、高齢と尊貴とを忘れて青年等の請を快諾せられたり、斯くして建碑の業進捗に伴ひ、血洗島青淵会並に大字血洗島は進んで其の企てを援け完成を期せられしは誠に機宜を得たるものと謂ふべきなり、抑も此地は元清水川の一部に属し、東西百五十米余、南北五十米の池沼の跡にして、蘆荻禽影を宿し、処々湧水あり、古来上の淵と呼ばれたるは新編武蔵風土記稿等にも載せられたる所にして、右岸の部落を血洗島字淵の上と云ひ、近世の名士子爵渋沢栄一・同喜作の君等此地に生れたるは世人の悉知する処なるか、其号を青淵といひ、蘆陰と称したるは、蓋し郷土の風物に因み各々撰ばれたる所なりと、故子爵より親しく語られたるを聴けり、昭和六年八基村昭和耕地整理組合設立せられ、干拓開道の工を加ふるに方り、地区の人々は之と連繋して由緒ある遺跡保存に意を用ゐ、一部の地を村社諏訪神社の社有地と為し、若干の風致を施こして新道に小橋を架設す、之を青淵橋と名付け永遠に記念を劃す余は耕地整理組合に長たるの名を汚し、各役員並に組合員の協力に倚りて事業完結を告げたる縁故者として、玆に建碑発起者の嘱に応じ其の顛末を識すこと爾利
  昭和十一年十月          渋沢治太郎撰書
           発起者 八基村青年団血洗島支部
                    血洗島青淵会
                     大字血洗島

場所

https://goo.gl/maps/GYT5wxKmZ491fmBs7


水戸藩烈士弔魂碑

岡部藩によって討たれた水戸藩天狗党浪士2名の慰霊碑。
渋沢栄一生家の「中の家」のすぐ手前の薬師堂に建立されている。

弔魂碑
 此弔魂碑は旧水戸藩士二人合葬の所を標せしなり、元治甲子の年、水藩の志士田丸稲之衛門・藤田小四郎等尊王攘夷の説を唱へ同志を糾合して幕府に抗し、事敗るゝに及び一橋慶喜公に就きて天朝に愬ふる所あらむとし、武田耕雲斎等と共に西上せむとす、兵凡三百余人、其嘗て筑波山に拠れるを以て世人呼びて筑波勢といふ、幕府傍近の諸藩に令して之を討たしむ、十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率ゐて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり、血洗島村人其非命を憐み遺骸を収めて墓石を建て、其氏名を詳にせざるを以て唯無縁塔とのみ称したりき、今玆大正七年、村人其久しくして湮滅せむことを恐れ碑を刻して之を表せむとし、余に其事由を記せむことを請はる、嗚呼筑波勢の挙言ふに忍びざるものあり、其行為には議すべきものありといへども、其志は朝旨を遵奉して幕政を革め、外侮を禦がむとするにありき、然るに事志と違ひ却て慶喜公の旗下に降服して、遂に幕府の為に敦賀に刑せらる、心ある者誰か痛惜せざらむや、明治二十四年、朝廷武田・藤田等の諸士に位を贈りて其忠悃を追賞せられ、寃魂始て黄泉の下に伸び、精忠永く青史の上に顕る、然るに此二士は其名だに伝はらず、空しく寒烟荒草の下に朽ちむとす、村人の之を歎きて貞石に刻せむとするは固より美挙といふべきなり、回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり、今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり
  大正七年九月
                  青淵 渋沢栄一 撰并書

血洗嶋中建之

場所

https://goo.gl/maps/Eb9PtS5cgtorDbCG6


血洗島の諏訪神社

渋沢栄一の出身地、血洗島の鎮守。
渋沢栄一崇敬の鎮守様。「中の家」から南に500メートルほど。

渋沢栄一寄進の拝殿。大正5年(1916年)建立。

諏訪神社
 血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く、源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も参拝したと伝えられている。
 大正5年(1916)に渋沢栄一の喜寿を記念して村民により建てられた渋沢青淵翁喜寿碑が境内に残る。神社の拝殿は栄一がこれに応えて造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に参詣した。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父、栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
  深谷市

渋沢青淵翁喜寿碑

大正5年(1916)建立。徳川慶久の題額。
徳川慶久は、徳川慶喜の七男。貴族院議員。そして渋沢栄一が設立した第一銀行取締役なども勤めていた。

澁澤青淵翁喜寿碑
公爵徳川慶久題額
男爵渋沢青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てゝ、翁の徳を頌せんとして、余に文を求めらる、余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやといふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし、翁や青年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども我等は尚翁を吾村の父老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり、翁は嚮に八基小学校の新築と、其維持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり、村社諏訪神社は、翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり、今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり、翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳と情愛とは、村人の深く感謝する所なりと、余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり翁や世界の偉人として其故旧を忘れず父老を敬ひ青年を導く、大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を振起せしむべし、余は翁の知遇を蒙る者、いかでか人々の請を辞すべけんやと、因りて其言を録すること此の如し、翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて与る者あらば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり
  大正五年九月       文学博士 萩野由之撰
                    阪正臣書

宮城遥拝所

紀元2600年記念(昭和15年)

諏訪神社修繕記念碑
 当社は、その創立の年代を詳らかにしていませんが、かつては諏訪大明神ととなえ、信州諏訪の地より勧請したものと伝えられています。江戸時代には岡部藩主安部氏の崇敬するところでもありました。
 現在の本殿は、明治四十年九月に竣工したもので、郷土の偉人澁澤榮一翁と当時の血洗島村民が費用を折半して造営されました。さらに現在の拝殿は、榮一翁がその費用を全額負担して造営され、大正五年九月に竣工したものです。以後代々の氏子により厚く崇敬されてきました。
<省略>

澁澤父子遺徳顕彰碑は、昭和48年11月建立。

澁澤父子遺徳顕彰碑
以和為貴

 君子は本を務む本立ちて道生ずその根柢をなすものこそ孝悌である わが澁澤父子三氏の如き正に斯の道の亀鑑と仰ぐべきであろう
 澁澤市郎は群馬縣太田市成塚須永氏に生れ初め才三郎と稱した わが國經濟界の泰斗澁澤榮一の妹ていの婿に迎えられて市郎と改名し榮一に代って中の家を嗣いだ 市郎は資性惇朴信義を重んじ常に謙虚に中の家は義兄に代って自分が守るのである 自分の任務は家名を傷つけず資産を失わないことであると語った 夫婦能く和合して家政を理め立派にその負託に應え長子元治次子治太郎を舉げた 市郎は生涯を通じて各般の地方公共事業に盡力した 八基信用組合を興し特に科學肥料の普及と農作物の増収に努めた さらに八基村名譽村長に就任し埼玉縣會議員に當選治水同盟を組織 利根川小山川の改修工事を促進した これに因って流域住民は始めて多年に亙る水害の苦難を脱することを得その恩澤は猶今日に及んでいる 大正六年齢七十一を以て歿した 市郎の一周忌に當り 榮一は自らその墓誌銘に諄信好義の士と撰書して厚く義弟を弔った
 長子元治は當時公職に在って東京に移住した爲榮一は二子と謀り次子治太郎が中の家を管理し農業を經営する方針を決めた 治太郎は誠意を盡して中の家を管理した 後年元治は自分が中央において心置きなく働けたのは偏に弟治太郎のお陰であると述懐している 治太郎は中の家を中心に産業の振興地方の發展に大いに貢献した 西部蚕業改良組合を結成してわが國最初の生繭正量取引を実施した 埼玉縣養蚕組合連合會を組織して會長となり更に全國養蚕業者の利益代表として奮闘した 當時治太郎らが政府當局に献策した蚕絲業振興策は悉く國策として採用された 父市郎を後を承け八基産業組合長となって經營の基礎を確立し八基村名譽村長埼玉縣會議員等に選ばれて自治行政を強力に推進し幾多地方の重要公共事業を遂行した なお自ら首唱して耕地整理を行い公民學校及び青淵図書館を開設した また埼玉興業株式会社深谷倉庫株式会社その他治太郎が設立経営した事業は多数に上りその目覚しい活躍と業績とは恰も伯父栄一の事蹟を地方に再現した觀があるとさえ評された 昭和十七年齢六十五を以て歿した
 隅々元治は昭和二十一年名古屋帝國大學總長の職を罷め父市郎弟治太郎の後を継いで中の家の主人となった 爾來元治は専ら著述と後進指導に力を注ぎ地方文化の進展に寄与した 元治は生來學問を好み東京帝國大學工學部に學び欧米各国に留学後工学博士の学位を得逓信技師となり次で東京帝國大學教授に就任工學部長を經て昭和十二年退官した 同十四年名古屋帝國大學初代總長に任ぜられ名古屋帝國大學を創立した 同三十年わが國電氣事業の開發育成に盡力した功績に依り文化功勞章を授與された 元治は本年九十八歳の高齢に達したが現在正三位勲一等日本學士院會員として活躍しその申申たる温容は衆人の齊しく景仰措かざる所である
 われらは澁澤父子が三代にわたり中の家を管理されさらに國家社會に貢獻された偉績を想起しその功業を永く後昆に傅える爲茲に顕彰碑を建立した 冀くは貞石と共に愈々その遺徳の顕彰されんことを祈ってやまない
     昭和四十八癸丑年十一月 
      澁澤父子遺徳顕彰會選書建立

扁額は渋沢栄一謹書。

場所

https://goo.gl/maps/68VxWDRNSGMAjcvN9


尾高惇忠生家


「中の家」から東に約1.5キロ。

尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)は渋沢栄一の従兄。号は藍香。
渋沢栄一は10歳年上の尾高惇忠に師事している。
「藍香ありてこそ、青淵あり」と称えられた。

のちに尾高惇忠は、官営富岡製糸場初代場長や第一国立銀行仙台支店長などを努めている。
尾高惇忠の妹である尾高ちよは渋沢栄一に嫁いでいる。(渋沢ちよ)
そして、尾高惇忠の弟である、尾高平九郎(渋沢平九郎)は、渋沢栄一の養子となるが飯能戦争で敗れ自刃している。

深谷市指定史跡
尾高惇忠生家
 尾高惇忠は天保元年(1830)下手計村に生まれ、通称は新五郎、藍香と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からここ藍香のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。“藍香ありてこそ、青淵(栄一)あり”とまで、後の人々は称えており、知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。淳忠や渋沢栄一、喜作ら青年同志が、ときの尊皇攘夷論に共鳴し、高崎城の乗っ取りを謀議したのもこの2階であると伝わります。その後官営富岡製糸場初代場長や国立第一銀行仙台支店長を努めたことでもよく知られています。
 この尾高惇忠生家は、江戸時代後期に淳忠の曽祖父礒五郎が建てたものと伝わっており、屋号が油屋と故障されていた、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。母屋の裏にある煉瓦倉庫は、明治30年頃建てられたといわれ、日本煉瓦製造株式会社の煉瓦を使用している可能性が考えられます。

尾高家の人々
尾高惇忠(藍香)
渋沢栄一の学問の師、従兄、義兄。富岡製糸場初代場長。第一国立銀行仙台支店長。
尾高(渋沢)ちよ
淳忠の妹で、渋沢栄一の妻。
尾高(渋沢)平九郎
淳忠の弟で、渋沢栄一の養子となる。飯能戦争で新政府軍に敗れ、22歳で自刃。
尾高ゆう
淳忠の長女。14歳で富岡製糸場の第1号伝習工女となる。

以下は、場所は変わって埼玉県越生町。
渋沢平九郎に関する案内板が越生駅近くにある。越生町は渋沢平九郎の終焉の地。せっかくなのであわせて記載。

※以下は、越生町にて

渋沢平九郎
尾高(旧姓)平九郎の生涯
 弘化4年(1847)、武蔵国榛沢郡下手計村(現深谷市)の名主尾高勝五郎の末子として生まれました。幼少期から兄の新五郎(淳忠)や長七郎、従兄の渋沢栄一や渋沢成一郎(喜作)らと学問・文芸に親しみ、剣の腕を磨きました。そして兄や従兄たちと尊皇攘夷運動に傾倒していきました。
 「渋沢平九郎昌忠伝(藍香選)」は、平九郎は「温厚で沈勇果毅(沈着で勇気があり、決断がよく意思が強い)で、所作は美しく色白で背が高く腕力もある」と評しています。

 安政5年(1858)に姉千代が渋沢栄一に嫁ぎ、平九郎と栄一は義兄弟になりました。慶応3年(1867)には渡欧する栄一の養子となって、幕臣として江戸に出府しました。翌年2月に彰義隊に加わり、のちに、成一郎、淳忠らと振武軍を組織します。
 慶応4年(明治元年)5月23日、飯能で新政府軍に敗れ、顔振峠を下って黒山村(現越生町黒山)へ逃れてきた平九郎は、芸州藩斥候隊と遭遇、孤軍奮闘後、川岸の岩に座して自決しました。まだ20歳の若さでした。

深谷の尾高惇忠生家にもどる。

尾高惇忠生家にある煉瓦蔵は、日本煉瓦製造株式会社製か?といわれている。

旧尾高家 長屋跡

現在は基壇が残るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/QEPW4cAZj51upvCW6


尾高家墓所

尾高家の近くではあるが、しょうしょうわかりにくい場所。

藍香、尾高惇忠の墓。

尾高長七郎(尾高弘忠)の墓

渋沢平九郎昌忠君招魂碑
渋沢栄一の建立。

場所

https://goo.gl/maps/oWjnNoqZyN51RWcV9


東の家跡

近くには、東の家跡もある。
中の家の東側が、尾高の下手計となるので、東の家は尾高家と近い。

渋沢市郎右衛門・喜作
宗助 東の家跡地


下手計の鹿嶋神社

尾高惇忠の下手計村(しもてばか)は、渋沢栄一の血洗島村の隣町。
下手計の鎮守は鹿嶋神社。
尾高惇忠家から、西に約500メートル、渋沢栄一「中の家」かたは東に約1キロ。

鹿島神社
 創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀨牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(一八一〇)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
  昭和六十年三月  深谷上杉顕彰会    (第二十二号)

渋沢栄一揮毫の扁額

鹿嶋神社 従三位勲一等男爵澁澤榮一謹書

克己復禮 尾高次郎書

尾高惇忠の次男、尾高次郎による揮毫。「克己復礼」は論語の出典。
尾高次郎は、尾高惇忠のあと、尾高家を相続。渋沢栄一の第一銀行(現・みずほ銀行)にて各地の支店長を勤め、武州銀行(現・埼玉りそな銀行)を設立し頭取に就任している。渋沢栄一は岳父にあたる。

鹿島神社
 下手計の鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
 境内には、栄一の師である尾高藍香の偉業を称える頌徳碑が建立されている。
 この碑のてん額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号 中洲)の撰文によるものである。
 今では朽木となったが、大欅の根元に湧いた神水で共同風呂が設けられていた。栄一の母、栄はこれを汲み、らい病患者の背を流したと伝えられている。
 栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
    深谷市教育委員会

渋沢栄一手植えの月桂樹などは記録しそこねました・・・


藍香尾高翁頌徳碑

篆額は、徳川慶喜の揮毫。堂々たる石碑。

藍香尾高翁頌徳碑について
 尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(一九〇九)四月十八日に挙行されました。
 おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
 碑の高さは約四・五メートル、幅は約一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
 郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
    平成十七年十月

藍香尾高翁頌徳碑
藍香尾高翁頌徳碑   従一位公爵徳川慶喜篆額
西武有君子人、曰尾高翁、々少時遭人倫之変、慈母与祖父不相協、去而不帰者数年、翁泣涕往来其間、或哀請、或幾諫、蒸々克諧以復旧、親戚郷党、莫不感称焉、嗚呼孝百行之本、自此以往、翁之進退出処、皆有功徳、物故已七年、人々追慕不已、況其門人故旧乎、乃胥謀欲樹碑於村社側以頌之、謁余文、按状翁諱惇忠、称新五郎、号藍香、尾高氏、武蔵榛沢郡下手計村人、祖曰磯五郎、父曰勝五郎、並為里正、家業農商、母渋沢氏、今男爵青淵君姑也、天保元年七月某日生翁、々少聡敏強記、独学通経史、業暇教授隣里子弟、青淵君亦就学焉、嘉永中辺警荐臻、海内騒然、翁喜水藩尊攘之説、窃与四方志士交、有所謀議文久元年襲里正、而心不在焉、慶応中以嫌疑下岡部藩獄、無幾免、既而翁悔悟攘夷未可遽行、専務殖産興業、而徳川慶喜公夙聞其名、行将用之、時公奉還大政、退大阪、誠意未上達、将陥危難、翁聞之慨然蹶起、欲有所救、到信州、則官軍既在木曾、乃還、明治元年二月入彰義隊、又起振武軍、屯飯能、与官軍戦敗、匿于家、乱已平、為静岡藩勧業属吏、亡何辞帰、家居三年、民部省辟為監督権少佑、転勧業大属、兼富岡製糸場長、十年辞之、為東京府養育院幹事、兼蚕種組合会議長翁曾得秋蚕之製於信州、伝之遠邇、皆獲大利、先是青淵君創立第一銀行、翁応嘱為盛岡支店長、土人又推為商業会議所長、傍勧製藍、励染工、後歴転秋田仙台支店長、興植林会社、二十三年刱製靛之方、得専売権、翌年以老辞職、翁助青淵君掌銀行業已十五年、功労不少、且所在為斯民授業興利、不可枚挙、遂寓東京福住街、専販藍靛、暇則矻々著述、而泰東格物学、其所最注心、毎曰名教之本、全在此、三十四年一月二日病終、享年七十有二、帰葬郷塋、青淵君以妹婿作墓銘、可謂交有終始矣、元室根岸氏、生二男五女、先亡、長男勝五郎夭、次次郎出為支族幸五郎嗣、季女配養子定四郎奉祀、余皆適人、翁天資惇誠温良、与物歓洽、有器局、処艱難能耐忍、為郷党謀最忠実、歳歉則廉価糶貯穀、有紛議則懇諭和解、其他善行不可勝記、而莫不一本於至性、豈可不謂君子人乎哉、銘曰、
  維孝為本 学術正淳 事君則藎 育英則循
  述作垂後 名教維因 造次顛沛 志在経済
  殖産刱業 大起民利 誰言理財 不由徳義
明治四十年七月
        東宮侍講正四位勲三等 文学博士 三島毅撰
        正五位日下部東作書  吉川黄雲鐫


北阿賀野の稲荷神社

「中の家」から北に約800メートルの地に鎮座。
青淵公園を流れていた清水川の北側にあたる。

稲荷神社 子爵澁澤榮一謹書

稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑
 深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
 旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
 境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
 又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
 當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
 この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
 誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
 茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
   平成二十七年六月吉日
     北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
     同          氏子一同

可堂桃井先生碑

桃井可堂(もものい・かどう)
幕末の尊皇攘夷活動家。渋沢栄一の血洗島村の北隣りに位置する北阿賀野村出身。渋沢栄一より37歳年上。
文久3年(1863)に慷慨組を組織するも挙兵計画が漏洩し川越藩に自首。幽囚され自ら絶食して死去。「深谷の吉田松蔭」と称された。

可堂桃井先生碑
慷慨国を憂ひ率先義を唱へ、時運未だ会せず謀成らずして身を殞し、英魂慰する所なかりしも、適昭代の隆運に遭ひて恩賞枯骨に及ぶ、吾が可堂桃井先生の如きは寔に生前に否にして死後に泰なるものと謂ふべし、先生諱は誠、通称は儀八、字は中道、可堂は其号なり、享和三年八月八日武蔵榛沢郡北阿賀野村に生る、本姓は福本、忠臣新田氏の後裔なり、父諱は守道、世々農を業とす、先生幼より好みて稗史野乗を読み、能く其要を記す、一日父先生に謂て曰く、汝をして大儒に就て修学せしめんと欲するも、家貧にして資なきを如何せんと、言畢りて撫然たり、先生も亦切歯涙を垂る、時に甫めて八歳なり、幾もなく郷儒渋沢仁山に就て学ぶ、仁山深く望を属す、年二十二、蹶然江戸に遊び、東条一堂の門に入り、清川八郎・那珂梧楼と併せて三傑と称せらる、業成り帷を下して教授す、名声日に揚り交道月に広し、庭瀬侯賓礼を以て先生を聘し、亀山侯も亦師事せり、嘉永六年米艦渡来し、物情騒然たり、先生感ずる所あり、藤田東湖に因りて書を水戸烈公に上らんとす、適東湖の死に遭ひて果さず、尋で米国の通商強要、安政戊午の大獄等ありて、幕政日に非なり、先生慨然職を辞して郷に帰り窃に名族岩松某を推して謀首と為し、兵を挙げて外人を掃攘し、一挙幕府を倒さんとす、某期に臨み遅疑して起たず、事漸く漏る、先生責を一身に負ひ、衆に代りて川越藩に自首す、幕府先生を江戸に檻送し福井藩邸に幽す、先生憂憤自ら食を絶ちて死す、実に元治元年七月二十二日なり、享年六十又二、巍然たる大節、真に忠臣の裔たるに恥ぢずと謂ふべし、諡して義道院猛雲至誠居士と云ふ、麻布光専寺に葬る
大正天皇登極の年、特旨を以て正五位を追贈せらる、是に於て戚族相議し駒込吉祥寺に改葬す、先生二男あり、長は之彦、畳山と号し、次は直徳、山東と号す、明治の初予大蔵省に勤務するに及び、二人を薦めて民部・大蔵両省に奉職せしめしに、頗る循吏の聞ありしが、不幸短命にして倶に世を蚤くせり、山東五男あり、長可雄は早く横浜の渋沢商店に入りて、生糸輸出の業に従ひ、季健吾は石井氏を冒して現に第一銀行副頭取たり、是亦予の推薦する所にして、倶に経済界に令名あり、忠誠の報空しからずと謂ふべし、頃日八基村教育会、碑を村社の境域に樹て、其義烈を顕揚せんとし、文を予に嘱す、嗚呼、先生と同憂の士多くは玉砕し、其子其孫亦既に地下に入りて、相見る能はざるものあり、予は郷閭先生と相近く、壮時同じく尊攘を以て念とせしも、故ありて事を共にせず、瓦全今に至る、偏に聖世の恩沢に因ると雖も、亦曷ぞ命長くして悲傷多きの歎なきを得んや、往時を追懐して悵然たること之を久しうす
  昭和二年五月 正三位勲一等子爵 渋沢栄一撰并書

場所

https://goo.gl/maps/iUQCydJk2o3MgwWf9

桃井可堂が塾を開いた中瀬村には、個人史料館「桃井可堂郷土史料館」もある。歯科医院の敷地内。

郷土の先人 苦学力闘の人
桃井可堂郷土史料館

場所

https://goo.gl/maps/SwRpz7gxRAAhn7T16


渋沢栄一記念館

渋沢栄一の「中の家」 血洗島村からは東に約500メートル。
平成7年(1995)11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館。八基公民館を兼ねている。

「富岡製糸場と深谷の三偉人」
 深谷市は、平成26年に世界文化遺産に登録された富岡製糸場の設立に深く関わった渋沢栄一・尾高惇忠・韮塚直次郎三氏の偉業を称え、顕彰しています。
 渋沢栄一は明治政府において官営製糸場設置を推進し、尾高淳忠は富岡の地にフランス式機械製糸場を竣工、初代場長として運営を行い、韮塚直次郎は富岡製糸場の巨大建造物を支える煉瓦などの資材調達に尽力しました。
 ※このレリーフは、石坂産業株式会社創業者である石坂好男氏の寄附ににより制作しました。

渋沢栄一

尾高惇忠

韮塚直次郎


渋沢記念館の後ろ側、清水川、そして上州を見渡す方向に、大きな渋沢栄一像が建っている。

渋沢栄一像

渋沢栄一翁
 本像はもと深谷駅頭にありき
 昭和63年3月、有志1500有余名の錠剤をもとに駅前区画整理事業の完成と翁の顕彰を記念して建立せしものなり
 平成7年10月、翁、生誕八基の地に渋沢栄一記念館の落成に伴い、ここに遷座し奉る
 この地や、園日に渉り以て趣を成すの如く大いなる発展をとげしも、刀水は悠遠にして、翁、在世の昔も今の如し上毛三山の遠望も又、今も昔もなし
 翁没して65年、翁の像が故山の風物を眺めて起つは又美しき哉
 平成8年11月吉日
  深谷市長 福嶋健助


桃井可堂が塾を開いていた中瀬村には「河岸場」があった。

中瀬河岸跡

古来は、新田義貞が鎌倉幕府倒幕の兵を揚げ「中瀬の渡し」を渡り、そして江戸時代には武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えていた河岸。物資や船客の乗り換え場所であったということから、江戸の情報がいち早く伝わる情報発信地であり、これが北武蔵で渋沢榮一を始めとする偉人を生んだきっかけでもあった。

中瀬河岸跡
 中瀬河岸は、江戸時代から明治にかけて利根川筋の河岸場として大いに繁栄した。
 慶長12年(1607)に江戸城秋竹の栗石中瀬から運んだ記録があり、この頃には既に中瀬からの水運が行われていたようである。その後、中瀬は周辺の物資の集積所となり上流や下流から来た乗客や荷物を積み替えるように定められ、関所のような役割を果たしたという。
最盛期には、大小100隻近くの舟が出入りし、問屋、旅籠屋などが軒を連ねて賑わった。
明治16年(1883)の高崎線の開通により次第に衰退し、明治43年の大洪水とその後の河川改修で河岸場の姿は失われた。
 平成5年11月 深谷上杉顕彰会

以上、渋沢栄一の出身地「血洗島」周辺の記事でした。

「誠之堂・清風亭」は、別記事にて。


リンク

渋沢栄一デジタルミュージアム

http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/index.html


関連

渋沢栄一像と深谷駅【渋沢栄一5】

渋沢栄一の出身地「深谷市」。
その深谷駅前に渋沢栄一像がある。

渋沢栄一像

青淵澁澤榮一像

青淵広場

碑文
正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。
幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。
明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。
一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。
先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。
先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。
  建立 昭和63年3月吉日   青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会

建立 1996年7月  澁澤栄一座像  田中 昭 作


深谷駅

関東の駅百選。
平成8年(1996)7月10日改築。
東京駅が深谷産の煉瓦を使用していることから東京駅を模して「ミニ東京駅」として改築された。
これは、東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷に所在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された煉瓦が使用されたことにちなむ。

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一による設立。深谷駅から日本煉瓦製造工場まで、専用線が敷設されていた。

ようこそ!渋沢栄一のふるさと深谷市へ!

祝 渋沢栄一 一万円札に

ようこそ 青天のまち 深谷へ

コミュニティバスにも渋沢栄一が描かれていた。

ようこそ 大河ドラマ「青天を衝け」の舞台へ
渋沢栄一の生誕地 埼玉県深谷市

深谷市のマンホール、深谷市のキャラクターふっかちゃん


渋沢栄一からくり時計

深谷駅気前に設置されたからくり時計。
第一国立銀行をイメージした時計台。
7時~23時の定時になると、ふっかちゃんの下から、渋沢栄一翁が現れる。

日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化した1927年(昭和2年)に、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士が「万国児童親交会委員(世界児童親善会)」を設立し、アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた。そして、ギューリック博士と親交のあった渋沢栄一が中心となって「日本国際児童親善会」が呼びかけを行い、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された「市松人形」(答礼人形)がアメリカに送られた。

渋沢栄一からくり時計
 渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。
 日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。
 論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。
 日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに贈ったのが「市松人形」である。
 このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。また、時計はソーラーエネルギーを使っている。
平成24年2月
 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 
 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)

ふだんは、ふっかちゃんが回っている。

定刻になると、下から渋沢栄一翁が登場。ふっかちゃんは上に押し出される。
童謡「青い眼の人形」が流れる。

青い目の人形と市松人形を手にした渋沢栄一翁。

https://www.shibusawa.or.jp/museum/newsletter/302.html


あかね通りにかかる歩道橋。
あかね通りは、日本煉瓦製造専用鉄道線跡の遊歩道。
日本煉瓦製造に関しては別記事にて。。。


渋沢栄一関連

渋沢栄一像と日本銀行【渋沢栄一3】

日本橋界隈の渋沢栄一関連を散策してみる。

常盤橋公園(常磐橋)

常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところ。

昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われた公園。令和3年現在、工事のため閉鎖中。2021年度中に一部を暫定開放予定。

明治10年(1877年)に再建された2連アーチ石橋が残る。経年劣化と東日本大震災による被害のために全面的な修復工事が行われている。

公園の名前は、「常盤橋公園」
石橋は「常磐橋」
下流には「常盤橋」
上流には「新常盤橋」
磐と盤がややこしい。


渋沢栄一像(常盤橋公園)

工事中の常盤橋公園のなかで、渋沢栄一像の一角のみ開放されている。

渋沢栄一像は、日本で初めて設立された銀行「第一国立銀行」(日本銀行ではなく)の方向を向いているという。

青淵澁澤榮一

 青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。
 歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。
 また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。
 然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

昭和8年11月11日
財團法人澁澤青淵翁記念會建之

場所

https://goo.gl/maps/2SjJoNKm8PrTUNbX6


常盤橋

日本場川に架かる橋。上流は石橋の常磐橋。左手には渋沢栄一像、右手には日本銀行本館。

常盤橋
昭和元年11月完成

渋沢栄一像

日本銀行本館

日本橋川の上流には石橋二連の「常磐橋」

渋沢栄一・渋沢敬三と日本銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治9年(1876)、国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレが進行する。
明治14年(1881)、大蔵卿松方正義は不換紙幣の整理と中央銀行の創立をめざす建議を三条太政大臣宛に提出。大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
明治15年(1882)、日本銀行条例により日本銀行が設立。第一国立銀行頭取であった渋沢栄一は割引手形審査のための日本銀行割引委員に就任。

渋沢栄一は、明治6年(1873)に日本最初の銀行「第一国立銀行」を創設。民間資本の民間経営の株式会社であったが、国立銀行条例による発券機能等を有していた。

渋沢栄一の孫である渋沢敬三は、昭和17年(1942)に日本銀行副総裁、そして昭和19年(1944)には第16代日本銀行総裁に就任している。就任は昭和19年3月18日であり、戦前最後の日本銀行総裁であった。幣原喜重郎内閣の大蔵大臣就任のために、昭和20年10月9日に日本銀行総裁を辞任している。

日本銀行本店本館

ベルギー国立銀行を参考に明治29年(1896)2月竣工。設計は辰野金吾。
明治24年(1891)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化し耐震性を高めており、2階3階は煉瓦造石貼り建築。
1974年2月5日に国の重要文化財に指定。

日本銀行本店別館

辰野金吾の弟子・長野宇平治の設計。昭和13年(1938)竣工。なお、長野宇平治は日本銀行本店別館の完成前の昭和12年に死去している。

本館の隣に別館が増築されている。

場所

https://goo.gl/maps/e93utY2d91aThXtw5


日本銀行創業の地

ちなみに、「日本銀行創業の地」は中央区日本橋箱崎にある。隅田川と日本橋川が合流する箱崎の地で創業し14年後に現在地に移転した、とのことで。
現在の日本IBM本社近く。

日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

場所

https://goo.gl/maps/ncwXnUADuhVYrJy6A


渋沢栄一関連記事

「日本の福祉・医療の原点」養育院と渋沢栄一【渋沢栄一2】


渋沢栄一銅像

板橋区登録有形文化財
渋沢栄一銅像

初代養育院院長として渋沢栄一は50年以上養育院に関与し、他の職を辞することはあっても、養育院の運営には最後まで関与し続けた。

明治5年(1872)に、本郷の旧加賀藩邸の長屋を利用して養育院の仮施設が造られ、翌明治6年に上野に養育院本院を設置。維新後に急増した窮民収容保護のため、東京府知事大久保一翁(大久保忠寛)の「救貧三策」の一策であった。
養育院本院は、上野、神田、本所、大塚などを転々とし、関東大震災後に板橋に移転。
渋沢栄一は、大久保一翁東京府知事より、共有金の取り締まりを依頼され、養育院に関与。財政基盤が定まらない中で、渋沢栄一は初代・養育院院長として必死に寄金を集め、養育院の維持に努力。
関東大震災後に養育院本院が板橋に引っ越しし一段落した大正14年に、養育院常設委員会(委員長は東京市長)は市民の寄付金による渋沢栄一養育院院長の銅像建設を計画。
「養育院の構内に、百年の後も永久にこれを守護せんとする渋沢栄一子爵の魂魄ための定住所」という設立理由に渋沢栄一も銅像制作を承諾。

大正14年(1925)11月15日、本院完成にあわせて建立、小倉右一郎作の渋沢栄一像は、高さ4.3メートル、方5.4メートルの花崗岩台座に、高さ3.75メートル、重量1.8トンの青銅製銅像。フロックコート姿でソファーに座っている姿となる。
銅像の完成時には、渋沢栄一本人も出席して除幕式が執り行われた。

昭和20年(1945)、戦時中の金属供出によってコンクリート像に作り変えられ、銅像本体は供出予定で地上に降ろされるも、4月の板橋空襲で養育院は9割が焼失、107名の犠牲が出る中で、渋沢栄一銅像は焼け残った。そのまま運搬手段などが無くなったために渋沢栄一銅像は供出を逃れ、戦後に修復された。

旧養育院長渋沢栄一銅像
 日本の福祉・医療の原点である「養育院」は、明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を超えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
 帝展・文展の審査員も努めた彫刻家、小倉右一郎の制作で、高さ16尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で造られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
 また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないままに昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
 昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至ってます。
 大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。平成26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
 平成26年12月 板橋区教育委員会

子爵渋沢栄一像

大正14年11月
小倉右一郎

大正14年11月建設寄附
澁澤養育院長銅像建設會
理事
會長 中村是公 
(以下略)

中村是公は関東大震災後の復興に取り組んだ第9代東京市長。
渋谷区広尾3丁目の旧中村是公邸(旧羽澤ガーデン)は有名であった。2011年に再開発で消失。


養育院本院

養育院本院の跡。
「養育院本院」の字は渋沢栄一の墨蹟

養育院本院の碑
 養育院は、昭和5(1871)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諸問に対し経営会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京芸大)、神田、本所大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信によって創設された七分積金が明治維新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次世界大戦後は、自動の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
 平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の膜を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
 養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のいない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。
 なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。
  平成25(2013)年3月 養育院を語り継ぐ会

この碑は元養育院職員当の篤志によって建てられました。
 地王独立行政法人 東京都健康長寿医療センター

養育院に関しては、以下に詳しい。

地方独立行政法人 
東京都健康長寿医療センター

養育院は、現在「東京都健康長寿医療センター」となっている。

https://www.tmghig.jp/hospital/about/history/

ようこそ 養育院・渋沢記念コーナーへ

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/guide.pdf

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/shibusawacorner2014.pdf

櫻園通信平成25年度発行

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/ouen_1-9.pdf


東京都健康長寿医療センター、かつての養育院を見つめる渋沢栄一像


谷中に養育院関連の慰霊碑が2つある。

養育院者故者の墓
義葬之冡(大雄寺)

台東区谷中の大雄寺では、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向を行っていた。
明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に「義葬之冡」がある。この「義葬之冡」は養育院創立当時の唯一の遺構という。

養育院義葬の冡
 養育院は、明治5年(1872)10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原始資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治7年(1874)から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年(1879)には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成11年(1999)12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に義葬之冡がある。この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。
 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
  平成22年(2010)4月 
   養育院を語り継ぐ会

義葬之冡  明治6年癸酉

幕末三舟の一人、高橋泥舟墓の墓も大雄寺にある。


養育院者故者の墓
東京都養育院慰霊碑・了俒寺

谷中霊園の隣、了俒寺(りょうごんじ)の飛地にあたる了俒寺墓地に「東京都養育院慰霊碑」がある。了俒寺の境内ではなく、谷中霊園側となるので要注意。私は場所がわからなかったので、了俒寺の御人に案内していただきました。

東京都養育院慰霊碑
 養育院は、明治五年(1872)十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関るようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史に幕を閉じた。
 ここ了俒寺の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向を御願いしたものであり、明治六年末から大正二年に至る埋葬者は三千七百六十二名である。
 なお、養育院物故者の墓は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。

 平成二十二年(2010)四月
             養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                          了俒寺

慰霊碑
明治6年末から
大正2年12月まで
3762名
 合葬
東京都養育院

養育院義葬之墓
明治12年3月建之

東京市養育院義葬

明治から大正にかけての合葬墓、義葬墓が5つ並んでいる。

場所は、谷中霊園の甲3号5側の隣。

谷中霊園には渋沢栄一墓もあるがそれは別記事にて。

谷中霊園の一角に、了俒寺墓地の隣に養育院慰霊碑の敷地がある。

谷中7丁目に、了俒寺がある。

突き当りの白い壁が了俒寺。左手に谷中霊園側の了俒寺墓地がある。


養育院合葬冢・多磨霊園

多磨霊園にて拝してきました。(※2021年9月)
場所は、5区の無縁墓地エリア。

東京市養育院合葬冢

歸入無為楽

昭和五年三月 成

養育院合葬冢
 養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ多磨霊園には、昭和八年以降、養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬し、現在も供養をしている。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺及び栃木県那須塩原市の妙雲寺がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
   平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会

 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   東京都福祉保健局

 ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。

裏には、墓標が5つ、並んでおりました。
明治・大正・昭和にかけて合葬されてきた証。

場所

https://goo.gl/maps/ykwnFSMRFTJh2xre7


大久保一翁墓

多磨霊園には、養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)もあるので拝してきた。

大久保忠寛
幕臣、のちに東京府第五代知事を務める。養育院創立時の東京府知事。養育院の設立を行い、運営を渋沢栄一に委任した。

大久保氏墓
一翁忠寛之墓

勝海舟の書、という。


栃木県那須塩原市の妙雲寺にあるという養育院者故者の墓は、訪れる機会があれば、アップデートします。


渋沢栄一関連

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その2)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の跡地を散策。

加賀公園・野口研究所跡地・理化学研究所板橋分所跡地・愛誠病院エリアなどは「その1」にて。

「その2」では、西側のエリアを散策。位置関係等なども、その1を参照で。


圧磨機圧輪記念碑(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園に鎮座。
板橋火薬製造所(日本で最初の西洋式火薬製造工場)で用いられた「圧磨機圧輪」にちなむ澤太郎左衛門の遺徳を称え建てられた記念碑。

慶応元年(1865年)、澤太郎左衛門が幕命を受け、オランダに留学し火薬の製法を学び、ベルギーより圧磨機圧輪を購入し帰国の際持ち帰ったもの。
澤太郎左衛門は旧幕臣として榎本武揚とともに函館戦争を戦い、蝦夷共和国開拓奉行に選任。室蘭で明治新政府に降伏。
明治新政府では、おもに海軍兵学校の教官職にあった。日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは澤が最初であったという。

明治9年8月の火薬製造所開業より黒色火薬製造に圧磨機圧輪が使用開始。
圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する際の硫黄や木炭、硝石などを、水力を動力にして磨り潰すために用いた。
明治39年11月、黒色火薬の製造廃止により圧磨機圧輪の使用が停止。
大正11年3月に記念碑として設置。
昭和60年頃に加賀西公園造成にあわせて現在地に移設。
板橋区登録文化財に指定。

板橋区指定記念物
圧磨機圧輪記念碑

 この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する機械です。その材質はヨーロッパ産の大理石と判明しています。慶応元年(1865)に、艦船運用術・砲術・火薬製造などを研究するため欧州へ留学していた幕臣の澤太郎左衛門が幕命を受けて、ベルギーで購入したものです。澤はその任にあたり、ベルギーのウエッテレンにあったコーパル火薬製造所で作業員として働き、そこで職工長から火薬製造に必要な炭化釜等の図面を借り受け、圧磨機などについて教授されたと伝えられています。また、工場技師長を通じて、圧磨機をはじめとする火薬製造機械類の発注に成功したともいわれています。
 慶応3年に開陽丸で帰国した澤は、すでに小栗上野介忠順などにより、北区滝野川で企画されていた幕府の大砲製造所・火薬製造所の建設に加わりますが、明治維新の中で工事は中断となり、澤も箱館へと脱出します。この時に輸入した火薬製造機械の一部は滝野川から運び出され、軍艦へと積み込まれていますが、この圧磨機圧輪自体の動向については不詳です。のちに澤は新政府軍へと投降しますが、釈放された直後の明治5年(1872)には兵部省へ出仕し、板橋における火薬製造所建設にも中心的な役割を果たしました。
 明治4年7月、兵部省は板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造所の用地とするために政府に引き渡しを求めました。その理由は「彼邸水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と申入れ書にあるように、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要な条件となっているためでした。同年12月に当邸の一部は造兵廠属地となり。火薬製造所の建設が始まりました。なお、当時の兵部省における造兵部門の長にあたる造兵司正には、加賀藩師で洋学(兵学・科学)に通じていた佐野鼎が就任しており、このことが製造所用地の選択にも影響を与えた可能性があります。
 明治9年8月に完成した火薬製造所は、陸軍の「砲兵本廠板橋属廠」として操業を開始し、この圧磨機圧輪を使って黒色火薬が製造されました。圧磨機による火薬製造工程は、水を注ぎながら、圧輪を回し、硫黄・硝石・木炭を細砕・混和し、篩(ふるい)にかけて粒子をそろえ、乾燥させたのち製品化するというものでした。なお、圧磨機を回転させる動力には、、石神井川からの導水路による縦軸水車(簡易フランシス水車)の動力が利用されています。なお、その設置場所は、現在の加賀2丁目15番街区あたりと考えられます。当工廠は、その後、「板橋火薬製造所と改称され、最終的な呼称は、東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)となりました。
 明治27年には、当所で無煙火薬の製造が開始され、施設・設備も拡充していきますが、その一方で、取扱いが難しく、爆発事故が続いた黒色火薬については製造が減少し、同39年に製造中止となると、圧磨機圧輪も使用されなくなりました。
 大正11年(1922)3月、国内外で軍縮が進む中で、陸軍は使用されなくなった圧磨機圧輪を転用し、そこに澤の威徳を称え、圧磨機圧輪の来歴などについて刻み、記念碑としました。
 戦後、当記念碑は、通産省計量研究所敷地内にありましたが、同研究所の移転にともなって区立加賀西公園に移設されました。昭和60年(1985)に産業考古学会推薦の産業遺産に認定され、翌年には板橋区登録記念物(平成7年からは指定記念物)となりました。
 平成23年(2011)10月
  板橋区教育委員会

「板橋火薬製造所」を管轄していた「東京陸軍砲兵工廠」のマークが中央にある。

圧磨機圧輪記
是為圧磨機圧輪当用製火薬
慶応元年九月澤太郎左衛門承徳川幕府旨所購於白耳義也・・・

招魂之碑
明治 35 年爆発事故招魂之碑
(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園内に鎮座。

明治35年7月24日に発生した、板橋火薬製造所内の丙製薬所で出火した火災が隣接する建物に延焼し、 消火活動の指揮を執った花土丈七技士をはじめ、 火薬の搬出にあたった職工ら、 合計 10 名が亡くなった事故。
明治36年7月24日で、 火災爆発事故によって亡くなった技師 ・ 職工の
1 周忌に合わせて建立された。建立者は 「板橋火薬製造所有志一同」。

 明治35年7月24日板橋火薬製作所火災起り各員之が消火に勉む偶々爆然たる猛火は勢迅雷の如く襲い来り陸軍技手花土丈七 職工今井吉次郎 辺見忠一 常盤勝次郎 金子徳次郎 田中信太郎 高木文次郎 石原吉五郎 渡辺誠次郎 新井久太郎の諸君を包み遂に非命に斃れしむ誠に悲惨の極と云うべし然と雖も死生固より命あり諸君の死を以て其任を謁し以て災害を一局に制し巨方の財を花神の厄より免れしめんもの其功績亦偉大にして以て瞑するに足るべし 茲に其一周忌に際し義金を拠出し碑を立て其霊を弔し其魂を慰むると而云。
  明治36年7月24日
   板橋火薬製造所 建之

https://goo.gl/maps/j1ZSmNcU863qtnjUA


板橋区立板谷公園

板橋の二造の南側に造成された公園。

 江戸時代、この板橋3・4丁目、加賀一帯は加賀藩の江戸下屋敷でした。明治になると板橋3・4丁目周辺は三合商会の所有地となり「三合野原」、「三五ヶ原」と呼ばれました。その後、小樽を基盤とした船運会社板谷商船の設立者初代板谷宮吉氏が取得し、昭和4年(1929)に東京市電が板橋まで延長したのを契機に、二代目宮吉氏(貴族院議員等も歴任)が昭和10年(1935)1月、区画整理による大規模住宅地「上御代の台」の造成に着手しました。
 当時、国は区画整理に際しては公園用地の確保を求めており、それを受け、東京市は土地の無償提供を条件に公園造成を代行する規定を設けていました。当公園はこの規定により、板谷氏の用地提供を受けて同市が施行し、昭和12年(1937)4月29日に東京市板谷公園として開園しました。なお、その際に設置された銘板が、ニか所の出入口の門柱に残っています。その後、昭和18年(1943)の都制施行により都立公園となり、昭和25年(1950)10月1日には板橋区に移管されました。
 この公園は、区内に現存する公園の中で開園時期が最も古く、また、その来歴にこの地域の歴史がよく反映されている事から、平成21年(2009)3月に区の登録文化財(史跡)となりました。
 平成21年(2009)9月  
  板橋区教育委員会

東京市板谷公園
 昭和12年4月開園

https://goo.gl/maps/L9WPAc4bc8mDjVLz9


コミュニケーションステージ
レンガパーク
(加賀一丁目緑橋緑地内)

陸軍板橋火薬製造所時代に設置された煉瓦造平屋建(大正期 ) の建物の一部をモニュメントとして保存。

 このモニュメントは、明治から大正時代に建てられた煉瓦建造物の一部を利用しています。
 明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、加賀1・2丁目には日本陸軍の火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、通称「二造」)がありました。製造所は、江戸時代の旧加賀藩下屋敷の広大な敷地を利用して作られていました。内部には、火薬の事故に備えて土塁で囲まれた建物や煉瓦造りの建物などが立ち並んでおり、その一部は、戦後の払い下げ後も学校や工場、研究所の建物として利用されていました。
 ここの敷地にも、当時の建物が工場として残されていましたが、日本の近代建築史を伝える貴重な煉瓦建造物を保存・活用するため、その一部をモニュメントとして利用することになりました。

中央部の古さを感じられる黒ずんだ部分が、当時の建物の壁をそのまま保存した箇所。

かすかに「東京陸軍砲兵工廠」のマークを見ることができる。

https://goo.gl/maps/ySLuEPF6EsAAQzr58


陸軍の消火栓

金沢小学校の校庭隅の隅。道路から見える場所に、板橋製造所時代の消火栓があった。陸軍の徽章「星」のマーク付き。
案内板は小学校敷地内内より。休日校庭開放日に見学。

 これは、昔の消火栓です。昭和の初め頃につくられました。このあたりは、陸軍の第二造兵廠というものがありました。
 星の印は陸軍のマークで、陸軍の人達が火事を消すための設備として作ったのが、この消火栓です。
 江戸時代には、このあたりに加賀前田藩の下屋敷がありました。明治になって、板橋火薬製造所ができました。その後、太平洋戦争が終わるまで、第二造兵廠として約70年間火薬を作る仕事などしていたのです。
 昭和20年8月に戦争は終り、このあたりには、研究所、公園、学校、工場等が造られました。
 板橋火薬製造所のことは、おとなりの東板橋体育館にある記念碑にくわしく書いてあります。この消火栓も、昔をしのぶ一つの記念碑として大事に保存したいと思います。

https://goo.gl/maps/cYWhfnkdxsLuTwrr5


境界壁柱とコンクリート壁

板橋区立東板橋公園と板橋こども動物園の北側。ユースハイムという建物の車庫入口近くに、「板橋製造所の境界壁柱」が残っている。

https://goo.gl/maps/m44R4jfG9kQqJ5QA7

さらに道なりに西の方に歩みを進めていくと、駐車場と電信柱のあいだに、もう一本「板橋製造所の境界壁柱」がある。

https://goo.gl/maps/eWFMxMPLNzrABBkv6


境界壁柱(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。道なりに歩んでいくと、さらに「境界壁柱」があったが、2018年の段階で消失を確認。

※写真は2016年

消失を確認。。。 ※2020年撮影


境界壁と境界石(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。
陸軍用地の境界石と境界壁が残っていたが、同じく消失を確認。

境界壁は消失。
境界石は、2つのうち、1つはまだ残っています。
(コメントでのご指摘ありがとうございます)

1つ目 ※写真は2016年

この境界石と境界壁は消失。

2つ目 ※写真は2016年

この境界壁も消失した。

※境界石は下の写真で、右側の電信柱の根本右側に残っているという。
(私は見逃していました。後日、再確認します。)
※コメントでのご指摘ありがとうございます。

境界壁は綺麗に消失。

新築住宅がセットバックされたために、境界壁とともに境界石も消失してしまいました。境界壁がなくなり、だいぶ見た目が変わってしまいました。


場所は変わって。

板橋憲兵分隊の門柱跡

「板橋製造所」の西側には中仙道が走っていた。
中山道の宿場町「板橋宿」の中心であった「仲宿」も徒歩圏内。
宿場町が廃止された後は「板橋遊廓」としても賑わっていた地区。
ここに「板橋憲兵分隊」は置かれ、門柱が1本だけ残されていた。

https://goo.gl/maps/TFU6xV9ypWD1tLm69

仲宿

地名「板橋」の由来となった石神井川を渡る「板橋」

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月


関連

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その1)

十条の造兵廠は掲載しておりましたが、板橋の造兵廠は未掲載でした。
板橋の二造は公園整備が行われることも決まり、そのために記録が鈍化していたというのもありました。
ひとまずは、整備前の写真を中心としたレポとなります。
整備が終りましたら再訪は必須ですが。

十条…東京第一陸軍造兵廠(一造)
板橋…東京第二陸軍造兵廠(二造)


東京第二陸軍造兵廠(東二造・二造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

明治3年、兵器工場として造兵司が新設。
明治4年、小石川に東京工場として「東京造兵司火工所」が新設。
明治8年、東京造兵司は「砲兵本廠」と改称。

明治9年(1876)
砲兵本廠板橋火薬製造所」として、加賀藩江戸下屋敷跡地に石神井川の水力を生かした火薬製造所が発足。これが明治政府が初めて設置した火薬製造所となる。当時の工場は水力を軸としており、小石川の板橋火薬製造所をはじめ、赤羽火薬庫なども水運を想定した位置関係であった。

明治12年(1879)
東京砲兵工廠と改称。「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」となる。

大正12年(1923)
「陸軍造兵廠」が設置。「陸軍造兵廠板橋火薬製造所」となる。

昭和11年(1936)組織改編
陸軍造兵廠火工廠から十条兵器製造所が分離し、小石川の東京工廠が十条に移転。十条に置かれていた陸軍造兵廠火工廠本部は板橋に移転。
板橋が「陸軍造兵廠火工廠本部」となる。火薬製造所は再編により加工廠管轄下となる。「陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所

昭和15年(1940)組織改変
陸軍造兵廠と陸軍兵器廠を統合。兵器本部が新設。
 十条の東京工廠「東京第一陸軍造兵廠」(東一造・一造)
 板橋の火工廠 「東京第二陸軍造兵廠」(東二造・二造)
板橋火薬製造所は「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」となる。

2008年に「旧東京第二陸軍造兵廠建物群(東京家政大学構内)」が板橋区登録有形文化財に指定。
2017年(平成27年)10月13日に「陸軍板橋火薬製造所跡」として国指定史跡に指定。
2018年(平成30年)3月29日付で板橋区登録記念物(史跡)に登録。
史跡範囲は「旧野口研究所跡・旧理化学研究所板橋分所跡・区立加賀公園」

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/bunkazai/1004848.html

現在は、、史跡公園に向けて整備となる。

板橋区史跡公園(仮称)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/1021974/1023606.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-129
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※航空写真はクリックして拡大可

上記を拡大。
こうしてみると、板橋十条の軍事施設は思ったよりかは建屋が残っているのがわかる。逆に周辺の住宅地が白くなっており建屋が焼失しているので、軍事施設を狙った爆撃が工場周辺に外れてしまった様子を想像することもできる。

上記とほぼ同じエリアの現在の様子。
こうしてみると、軍事区画であった場所が今でもかなりわかりやすい。

前述の航空写真より東京第二陸軍造兵廠の部分を拡大。

現在の様子と並べてみる。
黄色は「その1」での掲載箇所。
紫色は「その2」での掲載箇所。

前述の航空写真(USA-M380-129)の南東部をさらに拡大。

黄色は愛誠病院・愛世会関連施設
橙色は旧理研
赤色は加賀公園・旧野口研究所


関連記事

上記の位置関係でも記載のある周辺エリアは別記事にまとめてあるので、それぞれリンク掲載。

東京第一陸軍造兵廠

陸軍兵器補給廠と稲付射場・赤羽火薬庫道


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策

軍用鉄道跨線橋台座跡
(トロッコ・電気軌道)

埼京線にかかる十条台橋から見えるのが、往時の軍用鉄道跨線橋(トロッコ)の台座跡。金網の向こうを覗く。両側に台座が残っているのがわかる。

明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡。

場所

https://goo.gl/maps/ps6TZ6ThbeHo3tpm9


東京家政大学構内

北側に広がる「東京家政大学」も東京第二陸軍造兵廠板橋製造所時代の建物が残っているが、女子大となるので構内は未見学。
煉瓦造平屋が3棟現存という。
 旧220号棟 (現板橋校舎21号棟)
 旧225号棟 (現板橋校舎22号棟)
 旧261号棟 (現板橋校舎58号棟)
上記が板橋区登録有形文化財(建造物)に指定されている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・板橋区立加賀公園)
(旧野口研究所跡)

加賀公園と、その西側にあった旧野口研究所跡。
周辺が「板橋区史跡公園」(仮称)として整備される予定。

加賀公園は、もともとは加賀前田家下屋敷であった。明治期にこの地に火薬製造所が置かれたことに始まる。

建屋の情報は板橋区の資料に詳しい。

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/res/projects/default_project/_page/001/023/606/noguchikenmap.pdf

爆薬製造実験室

建築年代は昭和10年1月。構造は鉄筋コンクリート造の平屋建築、屋根は切妻屋根。トタンによって外壁が補修されている。
もともとは後方のマンションの位置にあったが、保存のために平成29年に主要部(全体の1/3部分)の曳家工事を実施。

常温貯蔵室
地下貯蔵庫

常温貯蔵庫は昭和9年以前には建設されていたと推定。
構造はコンクリート造で、上下2段8列の棚構造で、16の鉄製扉を有している。扉は現在、8面のみ現存するも固着しており開閉は困難という。

常温貯蔵庫の手前には地下貯蔵庫がある。
地下貯蔵庫には蓋がされている。水槽として使用されていたという。

加温貯蔵室

昭和9年以前には建造か?

加温貯蔵室試験火薬仮置場基礎

加温貯蔵室に併設されていた建物。基礎のみ現存。平姓18年までは建物が確認できたが、平成26年までのあいだで撤去。

銃器庫

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、内部は木造二階建の棚床が設置。
昭和18年以降の改築か?

土塁

燃焼実験室
試験室
弾道管

燃焼実験室の構造は鉄筋コンクリート造2階建。
昭和18年以降の建築か?

弾道管は、約30m現存。

「燃焼実験室」から弾道管が一直線に伸びている。
コンクリートの2棟は「試験室」。

試験室No.672

試験室No.552

弾道管

弾道管

試験室

試験室No.552

試験室No.672

弾道検査管(爆速測定管)の標的
 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家 の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=ニ造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前のニ造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵 が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場 時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。 

擁壁

軽便鉄道の軌道と北側の試験室や弾道管等の試験施設との間を隔てる役割を担っていた。
鉱滓煉瓦壁が4スパン、コンクリート壁が1スパン、合計5スパンが現存。

射垜

露天式発射場の的である射垜と、弾道管と接続する隠蔽式発射場の射垜が存在していた。隠蔽式発射場の射垜は昭和46年の加賀公園造成工事の際に一部撤去。遺構が埋蔵している可能性あり。
露天式発射場の射垜の下方部構造は埋蔵されており不明。
レンガ積にモルタルが塗布。

コンクリート擁壁

昭和46年の加賀公園造成工事で撤去された常温貯蔵庫が隣接していた。また防火壁も設置されていたという。

電気軌道線路敷跡

電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。


加賀公園の北側を流れる石神井川の対岸エリア。
現在は「愛誠病院」など愛生会関連の建物が展開されているエリアにも、当時の建屋が残っている。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛歯技工研究所)

最近まで愛歯技工専門学校として使用されていたが2019年3月で閉校。
愛歯技工研究所は存続しているが、今後の扱いが気になるところ。

試験室(140号棟)

煉瓦造建造物。
愛歯技工専門学校時代の内部は体育館兼倉庫として使用。

仕上収函仮置場(13号棟)

煉瓦造建造物か?だいぶ改良されている外観であるが、建屋下部には面影が残っている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛誠病院)

愛誠病院内にもいくつかの建屋が残っている。
愛生会病院は、昭和22年に二造の敷地と建物の使用を開始したという。

現存する建物
 煉瓦造の旧 36 号家 ( 現第 1 病棟 )
 煉瓦造の旧 35 号家 ( 現第 2病棟 )
 煉瓦造で一部二階の旧 168 号家 ( 現精神神経科外来棟 )
 煉瓦造の旧 164 号家 ( 現本部事務棟および第 3 病棟 )
 煉瓦造の旧 256 号家 ( 現作業療法棟 )
 鉄筋コンクリート造の旧 438 号家 ( 現第 11 病棟 )

病院敷地の見学は、言わずもがなですが、常識の範囲内で静粛に。

化学実験室(438号棟)
現・愛誠病院第11病棟

鉄筋コンクリート造。

駆水室(35号棟)
現・愛誠病院第2病棟

煉瓦造

綿薬配合室(36号棟)
現・愛誠病院第1病棟

煉瓦造

混合室(168号棟)
現・愛誠病院精神科外来棟

煉瓦造

爆薬理学実験室(256号棟)
現・愛誠病院作業療法棟

煉瓦造

物置(164号棟)か?
現・愛誠病院デイケア棟

煉瓦造

煉瓦の気配。

なお、板橋区の資料によると「愛誠病院本部事務棟/第 3 病棟」(下の写真)が煉瓦造の164号棟と記載あるが、どうみてもデイケア棟が煉瓦造建造物。事務棟/第 3 病棟は、逆に煉瓦造建造物には見えず。

本記事の冒頭に記載した位置関係でもデイケア棟と当時の建屋の場所が一致する。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(理化学研究所板橋分所跡)

石神井川の北側。旧・理化学研究所板橋分所エリア。

物理試験室

東西に3棟が連結。
東から昭和13年、明治40年、昭和6年の建造。中央部が一番古く、東西が増設されたことがわかる。
理研時代は湯川秀樹や武井武、朝永振一郎が使用していた。

中央の煉瓦棟は明治40年の建造。

東の棟は昭和13年。

西側の棟は昭和6年。

南側、石神井川側より。

爆薬理学試験室

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、地下一階建。
昭和9年から昭和12年にかけて建造か。

理研跡地も板橋区によって加賀公園・野口研究所跡地ともども、「史跡公園」として再整備予定。
この辺のエリアは整備されたら改めて訪問したいと思う。


陸軍工科学校板橋分校跡

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の南東におかれていた陸軍学校。
現在の「加賀公園」の南側に設置された石碑。
陸軍工科学校の卒業生によって組織された工華会による設置。

花匂ふ桜ヶ丘
永遠の平和を祈る
 工科学校
 板橋分校跡
  工華会建之

板橋区立板橋第五中学校の敷地は、明治41年から昭和15年まで陸軍工科学校板橋分校(通称「桜ケ丘」)が位置していた。

明治41年9月に砲兵工科学校分校として砲兵工科学校の火工学生が小石川本校から板橋分校に移転。大正9年に陸軍工科学校板橋分校と改称。
昭和15年7月に小石川本校とともに陸軍兵器学校と解消され、神奈川県相模原市に移転。
その後、終戦までは「一造の板橋宿舎」として使用。終戦後は昭和30年までGHQの情報機関CIC(対敵諜報隊)が置かれていた。
昭和30年4月に板橋区立板橋第五中学校が開校。


陸軍工科学校板橋分校の陸軍境界石

加賀公園の南、板橋第五中学校の南東に残る境界石。
板橋第五中学校の界隈が、陸軍工科学校板橋分校であった。

「陸軍省」の文字が残る。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の西側は、その2、にて。

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月

「京浜工業地帯の父」浅野財閥・浅野総一郎像と墓

たまたま清洲橋の近くで浅野総一郎銅像を見つけたということもあり、浅野総一郎のことを調べていたら、鶴見の大本山総持寺に墓もあるとのことなので、これを機会に関連する近場に脚を運んでみた。

浅野総一郎(淺野總一郎)

1848年4月13日(嘉永元年3月10日) – 1930年(昭和5年)11月9日)

越中氷見の生まれ。明治4年(1871年)、23歳の時に上京。夏はお茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた水売り、冬は本郷赤門でおでん屋をして資金を蓄え、横浜で贈呈用の竹の皮を販売し、薪炭商に転向。
明治6年、薪炭商のつながりから横浜ガス局より、石炭からガスを製造したあとに廃棄されていたコークスを安価で買取。セメント製造の燃料として、コークスを官営深川セメント製造所に納めることで利益を得た。
明治17年には、官営深川セメント製造所が浅野総一郎に払い下げされ、これが浅野セメントの基礎となる。払い下げ時には渋沢栄一のサポートもあった。
明治29年(1896)に欧米視察に赴いた浅野総一郎は、帰国後に東京から横浜にかけて日本初の臨海工業地帯の建設を計画。
浅野総一郎の計画に理解を示した安田善次郎(安田財閥)も支援。浅野と安田は富山出身の同郷でもあった。
浅野総一郎と安田善次郎は「浅野はエンジン、安田は石炭(燃料)」と呼ばれるほどの名コンビであった。

大正2年(1913)から昭和3年(1928)にかけて約15年をかけて、横浜鶴見から川崎にかけての埋立が完成。いわゆる「浅野埋立」は京浜工業地帯の元となった。現在のJR鶴見線沿線が浅野総一郎が埋め立てした「浅野埋立」の地。
昭和5年、欧米視察中の6月26日にベルリンで発病。8月2日に帰国して大磯別邸で療養していたが11月9日に死去。
墓は横浜市鶴見区の大本山総持寺。
法名は積功院殿偉業総成大居士。

浅野総一郎の銅像は以下に建立されている。

  • 浅野学園(浅野総一郎が創設した学校)
  • アサノコンクリート深川工場(旧官営深川セメント製造所)
  • 東亜建設工業技術研究開発センター(浅野埋立)
  • 氷見市(浅野総一郎出生地)
  • 渋川市(浅野総一郎が設立した佐久発電所)
  • 砺波市(浅野総一郎が設立した庄内小牧ダム)

日本におけるセメント産業を軌道に乗せた浅野総一郎は「セメント王」と呼ばれ、京浜工業地帯のもとになった浅野埋立によって「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼ばれている。
また、台湾高雄港築港にも尽力し高雄市の発展にも寄与している。


浅野総一郎銅像
(アサノコンクリート深川工場)

明治5年(1872)、セメント国産化を目指して、大蔵省所管の深川摂綿篤製造所が着工。目的を果たせぬまま明治7年(1874)に工部省に移管。明治8年(1875)5月19日に官営深川セメント製造所が日本初の国産セメント製造に成功。5月19日がセメントの一なった。
明治17年(1884)に官営深川セメント製造所は浅野総一郎に売却。浅野財閥の基礎となる浅野セメントの工場となり、そして現在はアサノコンクリート深川工場(太平洋セメント)として今も存続している。

浅野セメント(現太平洋セメント株式会社)の創設者
初代社長 浅野総一郎翁 像

淺野總一郎翁像

本邦セメント工業発祥之地
此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治五年大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ 
同七年工部省ノ所管トナリ深川製作寮出張所ト改メラレ技師宇都宮三郎氏ニ依リ湿式焼成法ヲ採用シ初メテ外国品ニ劣ラザル製品ヲ得タリ 
明治十年一月深川工作分局ト改称サレ工場ノ拡張相次テ行ハレ同十六年四月逐ニ初代浅野惣一郎ノ経営ニ移リ浅野工場ト称スルニ至ル 
明治三十一年ニ月浅野セメント合資会社創立ト共ニ本社工場トナリ同三十六年十一月本邦最初ノ回転窯ヲ設置シ事業愈盛大トナレリ 
大正元年十月組織ヲ改メ株式会社トナリ東京工場ト改称シ今日ニ改フ
蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ同時ニ又当社発祥ノ地タリ仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス
 昭和十二年七月八日
          浅野セメント株式会社
            社長 浅野総一郎

セメント工業発祥の地碑
当地は日本で初めてのセメント工場があった場所です。明治8年(1875)、工部省が本格的なセメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上げました。明治16年(1883)、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を遂げました。
 平成16年(2004)5月 
 太平洋セメント株式会社

本邦セメント工業発祥之地

明治27年に製造されたコンクリートブロック
明治22~23年(1889~1896)に行われた横浜港築港工事で、その防波堤基礎用として明治27年(1894)に製造して海中に沈設され、昭和6年(1931)同港改築に際し引上げられたコンクリートブロックである。このコンクリートはアサノ普通ボルトラントセメントを使用したもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。
江東区登録文化財

浅野総一郎の家紋「扇」をモチーフにした、アサノコンクリートのシンボルマーク、社章。

思ったよりも小さな銅像。
ストリートビューで見るとその小ささがわかる。

https://goo.gl/maps/X7oce4kwdMNg8HP47


浅野總一郎翁銅像
(浅野学園)

浅野財閥の創始者・浅野総一郎が大正9年(1920)に「淺野綜合中學校」を設立。
大正13年(1924)5月に、浅野総一郎翁の初代銅像が完成。
昭和18年に、浅野総一郎翁の初代銅像が戦時供出。
昭和33年11月に浅野総一郎翁の銅像を再建。

浅野総一郎翁

大正13年5月18日 建立
昭和18年5月2日 供出
昭和33年11月23日 再建
 浅野總一郎翁銅像再建期成會

寄贈 總一郎翁銅像修復
現總一郎翁銅像は1958年に再建された。作者は横浜市掃部山公園井伊直弼像作者の慶寺丹長である。
銅像の高さは4.94メートル、重さは2.3トンである。
浅野学園創立100周年を記念して修復した。
 2020年3月
  浅野学園同窓会
  浅野学園PTA

地洋丸の鎖
台座の鎖は、總一郎が設立した東洋汽船の「地洋丸」のものと伝えられている。
地洋丸は、造船史上わが国初の蒸気タービンで、1万総トン超の大型豪華客船であった。
1908(明治41)年、サンフランシスコ線に就航。1916年(大正5)年、香港沖で濃霧のために坐礁し、解撒となった。

寿像頌徳文
嗚呼是レ明治大正ノ聖代ニ於ケル大日本帝国実業界ノ巨人浅野総一郎翁ノ寿像也(略)
 大正13年5月18日 徳富蘇峰撰

再建のことば
昭和5年11月9日翁は永眠 昭和18年5月2日大戦の国策に応じ寿像も遂に供出の止むなきに至った  
爾来、十有余年を経て今日再建の期熟し同志一万数千の冀願(きがん)結集し翁の像復元再建の事成った   
 昭和33年11月23日 
  浅野総一郎翁銅像再建期成会 大島撫山

像の後ろの壁面には浅野総一郎が関わった企業が列記されていた。
そうそうたる会社が並んでおり、浅野総一郎と浅野財閥の歴史を垣間見る事ができる。

浅野總一郎翁関係事業
(昭和33年12月調)

セメント事業
浅野セメント株式会社 明治16年4月創立
 (日本セメント株式会社に改名)
東亜セメント株式会社 明治40年1月創立
 (浅野セメント株式会社に併合)
浅野スレート株式会社 大正4年2月創立
第一セメント株式会社
 (旧浅野セメント株式会社川崎工場)
会津鑛業株式会社 大正9年6月設立
日本石膏株式会社 明治45年3月設立
 (会津鑛業株式会社に併合)
日本カーリット株式会社 大正9年7月創立
旭コンクリート工業株式会社 大正12年11月創立
大阪石綿工業株式会社 大正14年8月創立
 (浅野スレート株式会社に併合)
日本ヒューム管株式会社 大正14年10月創立

製鉄造船事業
浅野合資会社製鉄所 大正6年9月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見製鉄所)
日本銑鉄株式会社 大正6年9月創立
 (旧小倉製鋼株式会社に併合)
株式会社大島製鋼所 大正6年11月創立
 (日曹製鋼株式会社に併合)
中央製鉄株式会社 大正6年11月創立(解散)
小倉製鋼株式会社 大正7年12月創立
 (住友金属工業株式会社に整合)
日本鋳造株式会社 大正9年9月創立
東京シャリング株式会社 大正15年9月創立
 (現在 東都製鋼株式会社及び東京シャリング株式会社)
株式会社浅野造船所 大正5年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見造船所)
株式会社浅野造船所船渠部 大正12年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社浅野船渠)

海運陸運部門
東洋汽船株式会社 明治29年6月創立
日之出汽船株式会社 大正元年11月創立
国際汽船株式会社 大正8年7月創立
 (大阪商船株式会社に併合)
関東運輸株式会社 大正9年7月創立
青梅電気鉄道株式会社 明治26年12月創立
 (国有鉄道に譲渡)
小倉鉄道株式会社 明治40年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
南部鉄道株式会社 大正10年3月創立
 (国有鉄道に譲渡)
鶴見臨港鉄道株式会社 大正13年7月創立
 (国有鉄道に譲渡)
留萠鉄道株式会社 昭和3年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
三岐鉄道株式会社 昭和3年9月創立

埋築地所事業
鶴見埋築株式会社 大正3年3月創立
 (東京湾埋立株式会社に併合更に東亜港湾工業株式会社に改名)

京浜運河株式会社 大正6年9月創立
 (旧東京湾埋立株式会社に併合)
台湾地所建物株式会社 明治43年6月創立(解散)

石油事業
宝田石油株式会社 明治35年6月創立
 (旧日本石油株式会社に併合)
南北石油株式会社 明治38年創立
 (旧宝田石油株式会社に併合)
東亜石油株式会社 明治39年8月創立
 (旧南北石油株式会社に併合)

鑛山事業
磐城炭鑛株式会社 明治16年創立
 (現在 常磐炭鑛株式会社)
茨城探炭株式会社 明治34年9月創立
 (旧磐城炭鑛株式会社に併合)
石狩石炭株式会社 明治39年4月創立
 (北海道炭礦汽舩株式会社に譲渡)
大日本鑛業株式会社 大正4年11月創立
日支炭礦汽舩株式会社 大正6年10月創立(解散)
朝鮮鉄山株式会社 大正6年10月創立(解散)
浅野雨龍炭礦株式会社 昭和4年9月創立
 (古河鉱業株式会社に譲渡)

貿易事業
浅野物産株式会社 大正7年4月創立

電気事業
沖電気株式会社 大正元年8月創立
庄川水力電気株式会社 大正8年9月創立
 (関西電力株式会社に譲渡)
関東水力電気株式会社 大正8年10月創立
 (東京電力株式会社に譲渡)

文化事業
浅野綜合中学校 大正9年1月創立
 (浅野学園に改名)

銀行業
 株式会社日本昼夜銀行 大正5年5月創立
 (旧安田銀行に併合)

其他の事業
東京瓦斯株式会社 明治18年10月創立
大日本人造肥料株式会社 明治20年2月創立
 (日産化学鉱業株式会社に改名)
東京製鋼株式会社 明治20年3月設立
札幌麦酒株式会社 明治21年創立
 (日本麦酒株式会社に改名)
株式会社帝国ホテル 明治23年6月創立
浅野石材工業株式会社 明治38年9月創立(解散)
神奈川コークス株式会社 大正8年4月創立
 (東京瓦斯株式会社に併合)
鶴見木工株式会社 大正9年8月創立(解散)
伏木板紙株式会社 大正12年9月創立
 (中越パルプ株式会社に併合)

富山県氷見市
1848
誕生
富山県氷見市薮田に誕生。父泰順は總一郎を抱え上げて「眉尻が下がり、長者どんになる面構えだ。福々しい子だ。」と喜んだ。

富山県氷見市
1862
15歳
初めて起業。縮織という織物の生産と販売で一旗挙げて初陣を飾ろうとしたが、すぐに資金難に陥り、3ヶ月で廃業。

日本海
1867
20歳
日本で初めて株式会社に相当する産物会社を創設。日本海側一帯に販路を拡げて「總一郎」の名が知れ渡るも、急拡大して失敗。

文京区本郷
1871
24歳
上京。本郷赤門前下宿屋の一間を借りる。
お茶の水の清水に砂糖を入れて冷水「ひゃっこい」を売る商売を始める。

横浜市中区住吉町
20代後半
冷水売りを店じまいして横浜に移る。食品包装用の竹の皮販売が軌道に乗る。サクと結婚し、新居を構えるも全焼して全財産を失う。しかし、すぐにコークスの再燃料化に成功し再挙。渋沢栄一に認められる。渋沢は總一郎の生涯に多大な影響を与えた。

江東区清澄
1883
36歳
渋沢栄一らの助言で官営のセメント工場を借り受け、セメント製造を開始。製造設備を増設し、赤字会社を見事に黒字化させる。

東京・福島
30代後半~40代後半
事業家として本格的に動き出す。磐城炭礦社、東京瓦斯会社、札幌麦酒会社、帝国ホテルなどの創立に参画する。

サンフランシスコ
1896
49歳
海外輸送に強い関心のあった總一郎のは東洋汽船会社を設立。日本で初めてサンフランシスコ航路就航を米国側に承諾させる。

サンフランシスコ
50歳代
東洋汽船会社の外国航路を拡大。香港とサンフランシスコ間の定期航路を行うも、日露戦争に全船徴用され、営業停止となる。しかし、その翌年、日本初の大型豪華客船を建造。この時の大型新機軸の豪華客船建造は日本の造船技術に大きな影響を与える。

東京湾
1908
61歳
政治経済の中心地近くに工業地帯を建設すべく、インフラ整備のため安田善次郎の支援を得て東京湾埋立・築港計画を申請。

東京三田
1909
62歳
東京都港区三田に日本建築の粋を結集した「紫雲閣」を建築。東洋汽船の外国人船客をもてなす民間外交の舞台となる。

東京湾
1913
66歳
東京湾埋立工事を開始。完成は15年後。安善町にその名をとどめている安田善次郎の資金援助があればこそ実現したといえる。

横浜市鶴見区末広町
1916年
69歳
自らが造船すべく埋立地に造船所を建設。隣接地には製鉄所を建設し、造船用鋼材確保のため厚板圧延設備を完成させる。

群馬県渋川市
70歳代
工業インフラとしての電力事業にも進出。富山県に庄川水力電気会社を創立。群馬県には妻の名をとり佐久発電所を建設した。

南武線
1920
73歳
京浜工業地帯への工業用原料輸送のため南武線を敷設。鶴見線、青梅線、五日市線等の鉄道敷設にも尽力。産業の発展に寄与。

浅野学園
1920
73歳
未来の人材育成のため、ここ打越の丘に宿願の淺野綜合中学校を創立。校訓の「九転十起」は總一郎の生きざまを想像させる。

總一郎銅像
1924
77歳
喜寿を祝って有志が寿像を建立。土佐桂浜の龍馬像作者の本山白雲佐久。埋立計画書を手にして、今も京浜工業地帯を見守っている。

東京湾
1928
81歳
東京湾埋立工事が完了。港湾が整備されて巨船が横付けできるようになり、京浜工業地帯は日本の中核コンビナートとなる。

横浜総持寺
1930
永眠
享年82。鶴見の総持寺に眠る。

銅像山の頂上に鎮座。

浅野総一郎翁銅像の見学は、浅野学園の守衛に申し出れは可能。

https://g.page/asanogakuen?share


浅野学園の防空壕跡

浅野総一郎とは直接には関係ないけれども、浅野学園に防空壕跡が残されているので、この機会に掲載。
都合、4つ穴を塞いだあとが見える。

戦争遺跡・防空壕
 大平洋戦争中、本校の“銅像山”には、本校(浅野綜合中学)生徒や地域の人々がアメリカ軍による空襲から逃れたり日本鋼管株式会社等の機密資料を保管したりするために日本軍や本校生徒の勤労作業によって数個の防空壕が作られた。
 ここは、その場所の一部である。当時、生徒たちの防空演習では、学年別防空壕への避難訓練も行われていた。
 1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では、防空壕内に待避した大勢の人たちは、火と黒煙が渦巻く横浜市内の惨状、そして焼夷弾が火を噴き焼け落ちる学園の校舎を涙して眺めていたという。
 今日に伝わる”戦争遺跡”として後世に残すものである。
  浅野学園
  2004(平成16)年8月

https://goo.gl/maps/L6efqYc2q9DQwhp59


浅野総一郎墓(総持寺)

横浜市鶴見区の大本山總持寺。
境内の奥に広大な敷地を有しているのが浅野家の墓。

浅野総一郎は昭和5年11月9日に死去。
法名は積功院殿偉業総成大居士。

墓所は昭和7年に完成。
浅野総一郎夫妻墓として墓地全体の整備設計を伊東忠太が行っている。

浅野セメントのマークが両扉に描かれていた。

積功院殿偉業総成大居士           

浅野家の墓は、総持寺で一番広い区画。
「中央ハ 6」

近くの著名人としては、
清浦奎吾墓「中央ニ1-27」
小野光賢墓と小野光景墓「中央ハ2」

浅野家墓地の敷地内には娘婿の白石家の墓もあった。


鶴見線浅野駅

鶴見線は浅野総一郎が埋め立てした「浅野埋立」の地を走る路線。
駅の名前にも面影を残す。

  • 浅野駅:浅野総一郎 浅野財閥 鶴見臨港鉄道創設者
  • 鶴見小野駅:小野重行 地主 浅野造船所を誘致
  • 安善駅:安田善次郎 安田財閥
  • 武蔵白石駅:白石元治郎 浅野総一郎娘婿 日本鋼管社長
  • 大川駅:大川平三郎 大川財閥 日本の製紙王
  • 扇町駅:浅野総一郎の家紋「扇」

浅野総一郎の同郷富山の先輩、安田善次郎、そして浅野財閥関連企業の経営に携わってきた大川平三郎。娘婿として浅野総一郎後の浅野財閥を長老格として支えた白石元治郎。浅野財閥の臨海地区開発に協力した小野重行。そして浅野家家紋に因む扇駅。
鶴見線は浅野総一郎とともにある路線。

浅野総一郎の名を残す浅野駅に脚を運んでみた。

「浅野総一郎の浅野駅」隣は、同郷の先輩「安田善次郎の安善駅」。


浅野総一郎翁の銅像は、浅野埋立の地にもある。

1914年(大正3年)に鶴見・川崎地区の埋立工事のために鶴見埋築株式会社を創立。その後進は、東亜建設工業株式会社。現在の東亜建設工業技術研究センター。
会社構内となるために見学には許可が必要。
今回は、未訪問。安善駅近く。

https://www.toa-const.co.jp/trdc/origin/

https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/course/hop.html

https://tourist-map.mapion.co.jp/b/tm_tsurumi/info/tsurumi084/


以上、浅野総一郎にまつわる、東京横浜界隈の散策でした。
富山氷見なども機会がありましたら関連する地に脚を運んでみたいいですね。


関連

浅野総一郎が設立した「浅野カーリット」。
浅野カーリット埼玉工場の跡地。

横浜船渠会社は浅野総一郎や渋沢栄一が設立に関与。

浅野総一郎ゆかりの鶴見線、国道駅、大川支線

総持寺の浅野総一郎墓地は伊東忠太が設計。
伊東忠太は浅野邸「紫雲閣」の設計も行っている。
伊東忠太自身も総持寺に眠る。

横浜の基礎を築いた小野光賢は、浅野総一郎と同じ総持寺に眠る。

特攻の創設者の一人、大西瀧治郎も総持寺に眠る。

大西瀧治郎を偲ぶ

「日本建築史のパイオニア」伊東忠太作品と伊東忠太墓 

日本の近代建築を巡っていると、知らず知らずに出会っているのが「伊東忠太」が手掛けた建造物。日本近代建築において、欠かすことができない人物。
そんな伊東忠太の墓が、鶴見・総持寺にあると聞いたので脚を運んでみた。


伊東忠太

1867年11月21日-1954年(昭和29年)4月7日(享年87歳)
正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・米沢市名誉市民第1号。早稲田大学教授。辰野金吾の弟子。

日本建築を学問的に見直した第一人者。「日本建築史の創始」。
また明治27年当時は「造家」と約されていた「Architecture」を「建築」と訳すように提唱したの伊東忠太であった。それを受けて、明治30年に「造家学会」が「建築学会」に改称し、明治31年には東京帝国大学工科大学造家学科が建築学科に改称している。
昭和18年(1943年)に建築界ではじめての文化勲章を受賞。

伊東忠太が手掛けた建造物は枚挙にいとまがない。
以下、現存している代表的なものを。

  • 橿原神宮 1890年/重要文化財
  • 平安神宮 1895年/重要文化財
  • 東京大学正門 1912年/登録文化財
  • 弥彦神社 1916年/登録文化財
  • 明治神宮 1920年
  • 上杉神社 1923年
  • 総持寺放光観音台座 1923年/登録文化財
  • 東京商科大学兼松講堂(一橋大学) 1927年/登録文化財
  • 震災祈念堂(東京都慰霊堂) 1930年
  • 靖國神社遊就館 1930年/登録文化財
  • 靖國神社神門 1930年
  • 靖國神社石鳥居 1934年
  • 築地本願寺 1934年/重要文化財
  • 湯島聖堂 1934年
  • 神田神社 1934年/登録文化財
  • 高麗神社 1935年
  • 総持寺大僧堂 1937年/登録文化財

伊東忠太墓

総持寺の「伊東忠太の墓」は「石原裕次郎の墓」の4つ南に鎮座している。
石原裕次郎という目印がないとしょうしょうわかりにくい。

伊東忠太の墓は大谷石で造られているため年月とともに風化している。風化することを踏まえているのであれば、なおさらに奥深いものがある。

伊東家之墓

昭和15年3月建 
 伊東忠太

生前に設計した墓。
伊東忠太は昭和29年4月に亡くなっている。

総持寺の墓地担当者による立て看板が建っていました。
総持寺が伊東忠太の御子孫と連絡が取れない。。。と

大谷石で造られた外柵は一部崩壊していた。

伊東忠太の墓の場所は、「西望一 5-1」
(ちなみに石原裕次郎の墓は隣の「西望一 6-1」

大本山總持寺、墓地はかなりの広さ。

総持寺にある「浅野家墓所」の設計は伊東忠太。
伊東忠太は東京三田の浅野邸「紫雲閣」(戦災焼失)の設計も行っていた。

浅野総一郎墓所

伊東忠太設計。詳細は下記記事にて。

そのほか総持寺には、伊東忠太とは関係ないが、下記で記事にした「小野光賢と小野光景父子」や「大西瀧治郎」の墓がある。高橋三吉海軍大将の墓もあるというが未訪問(場所不明です・・・)

大西瀧治郎を偲ぶ

伊東忠太が眠る総持寺境内には、伊東忠太の作品が2つある。(ほかにも境内には伊東忠太が関わっている墓がいくつかあるが、浅野家以外の個人墓は割愛。)

総持寺・放光観音台座

大正12年(1923年)建立。花崗岩製の台座。台座の設計は伊東忠太。
登録有形文化財。

総持寺・大僧堂

昭和12年(1937年)建立。伊東忠太の設計。登録有形文化財。


伊東忠太作品

そのほか、私の写真フォルダから伊東忠太作品をいくつか掲載。

上杉神社

伊東忠太は米沢出身。
大正8年に米沢大火で焼失した社殿を、伊東忠太が設計し大正12年に竣工。

稽照殿(上杉神社宝物殿)

一橋大学兼松講堂(東京商科大学)

昭和2年(1927年)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

入澤達吉邸(近衛文麿邸)

昭和2年、伊東忠太設計。

東京都慰霊堂(震災祈念堂)

昭和5年(1930)、伊東忠太設計。

東京都復興記念館

昭和6年、伊東忠太設計。

東京大空襲・慰霊

築地本願寺

昭和9年(1934)、重要文化財、伊東忠太設計。

東郷寺山門

昭和15年、伊東忠太設計。

児玉神社

明治45年(1912年)、伊東忠太設計。


明治神宮

大正9年(1920)、伊東忠太設計。戦後再建。

平安神宮

明治28年(1895)、重要文化財、伊東忠太設計。

弥彦神社

大正5年(1916)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

神田神社(神田明神)

昭和9年(1934)、権現造鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

湯島聖堂

大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建。寛政年間の旧制をもとに復元再建したもの。

高麗神社

昭和10年(1935年)、伊東忠太設計。

靖國神社遊就館

昭和5年(1930)、登録文化財、伊東忠太設計。

靖國神社神門

昭和8年、伊東忠太設計。

靖國神社石鳥居と狛犬

昭和8年。長野の片倉財閥の奉納。伊東忠太設計。

靖國神社大灯籠

昭和10年、設計は伊東忠太。

大燈籠に関しては、別記事を作成予定。


伊東忠太作品に出会ったら追記していきます。。。

世界無名戦士之墓

埼玉県越生町に「第二次世界大戦で戦死した犠牲者の慰霊施設」があるという。
その名も「世界無名戦士之墓」という慰霊廟。

越生駅

越生といえば「越生梅林」が有名。それ以外は越生に関して格別な知識がなかった。越生に「大規模な戦争慰霊施設」があることも知らず、戦跡関連の情報収集をしていたら、たまたま見つけたため、足を運んでみた次第。

越生駅は東武越生線とJR八高線の2社。
越生梅林、さくら山公園、山吹の里歴史公園、五大尊つつじ公園、あじさい山公園など、四季折々で見頃となる花で賑わう観光地でもある。

東武越生線。ワンマン化された8000系。

東武越生線ホームの名所案内。
「世界無名戦士廟」とありますね。
ホームからも白亜の廟が見えます。

さて、あそこまで歩いていきますか。。。

目印が目立つので、迷うことなく歩みをすすめる。

山道へ。

越生駅からゆっくり歩いても20分くらいで到着。
桜の季節になれば最高の眺望を得られる場所。

大観山に鎮座する「世界無名戦士之墓」まであと少し。
野球部が石段トレーニングをしておりました。
つまり、それほどに立派な石段。


世界無名戦士之墓

大観山に鎮座する「世界無名戦士の墓」(世界無名戦士廟)
昭和30年8月に完成。

完成した当時は、千鳥ケ淵戦没者墓苑をはじめ国家的な慰霊施設がまだ存在しておらず、千鳥ケ淵戦没者墓苑が決まる前に国家的な慰霊施設を越生に誘致する運動もあった。

世界無名戦士之墓の概要
 世界無名戦士之墓は、埼玉県からお預かりした第二次世界大戦後、埼玉県庁の一室に安置されていた遺族の行方のわからない方、また受け取る方のいない御遺骨など2百余柱のほか、世界無名戦士之霊をはじめ、世界民族の霊、萬國萬霊、ビルマ戦没霊、フィリピン戦没霊、埼玉県戦士之霊、東京都無名戦士之霊、神奈川県無名戦士の霊、石川縣戦士之霊、越生町戦没者之霊などの位牌、英霊名簿などが納められた霊廟で、越生町の医師で埼玉県議会副議長でありました長谷部英邦氏の発願により、県内の英霊をはじめ世界の英霊たちをお祀りし、世界平和祈願の殿堂として国、埼玉県または多くの篤志家のご支援を得て6年の歳月をかけ挙町体制のもと、特定の宗教宗派に属さない施設として昭和30年8月に完成致しました。「無名戦士」とは、名前のわからないという意味ではなく、位階を超越し、一切無名平等にお祀りするという意味でこの名称になりました。
 詳しくは越生町のホームページをご覧ください。

Outline
 World Unknown Soldiers Tomb was built to place the ashes of the dead people, around 200 and more, whose bereaved family were not identified and no one had received the ashes. They were once temporally put in a room of Saitama prefectural office. And Buddhist memorial tablet and dead people’s list of world unknown soldiers were also placed in the tomb,where included were the Burmese war dead, Philippine war dead, war dead in Saitama pref., in Tokyo metropolis, in Kanagawa pref., in Ishikawa pref., and in OGOSE town and other war dead of races and nations.
 First proposal to build this tomb was suggested by Mr. Hidekuni HASEBE who was a doctor in OGOSE town and vice chairman of Saitama Prefectural Assembly. He hoped to build the tomb in order to mourn for the numerous war dead and to pray for the world peace. He got to work on Japanese Government and Saitama prefecture and got many charitable supporters. And six years later from his proposal, this tomb was completed in August of 1955. This tomb is not belonged to specific religion. And the understanding of the word “unknown” is not unidentifying the each name, but mourning as the sense of equal ,nevertheless they had various dignity, orders and degrees in this world.

http://www.town.ogose.saitama.jp/kamei/kaikei/1513744425763.html

http://www.town.ogose.saitama.jp/kankonavi/meguri/1455863576470.html

登録有形文化財
第11-0195号
この建造物は基調な国民的財産です
文化庁

登録番号 第11-0195号
世界無名戦士之墓 一棟
構造・形式:鉄筋コンクリート造3階建、建築面積210㎡
年代:昭和29年(1954)竣工
   令和2年4月3日登録
登録基準 (1)国土の歴史的景観に寄与しているもの

 世界無名戦士之墓は、当町の医師長谷部秀邦氏の発願によって建設された第二次世界大戦戦没者の納骨・慰霊施設です。
 弧を描いて聳え立つ壁の内部は3階建の納骨室です。1階正面の半円形にせり出た礼拝室の祭壇には国内外の将兵の位牌が祀られ、屋上は展望台になっています。壁面の襞の頂部先端には各国旗を立てる穴が開けられており、独立を回復し国際社会復帰を目指していた、当時の日本の時代背景がうかがわれます。建物裏手には、竣工年月日や設計者の高岡元次(埼玉県土木部建築課技師)等関係者名を刻んだ銘板が嵌め込まれています。
 越生町のシンボル、ランドマークとして親しまれている、世界平和を希求する日本国民の意志を具現化した記念碑的建造物です。
  越生町教育委員会

世界無名戦士之墓建設趣意書
 この企ては、講和条約の成立を祝福記念すると倶に、世界各国の人の間に国際的理解と、親善とをうち建て恒久平和の大願を成就したいと云う信念から発したのであります。
崇高な代償と貴い犠牲を払った民主日本が、彼我戦没者の勇気と献身を記念し、神に感謝し仏に念ずるとともに、是等無限の犠牲を永遠の亀鑑として、強く支持するよう祈り続けるために企だてられたものでありまして、世界各国の国使及び一般外遊の士がこれに礼拝することは、最も美しい国際情誼と解せられるに至りました。

省みまして我が国には斯くの如き国際的儀礼の表徴としての無名戦士の墓は未だ無かったのであります。
是れを卜する地は国立公園奥秩父を背景とした埼玉県立黒山自然公園の関門をようし関東平野を一眸の裡におさめ、名所旧蹟に囲まれた景勝のところで、交通の便と相俟って観光参拝の浄地、古邑越生町の大観山であります。
今次世界大戦は、有史以来未曾有の広大な戦線に亙った為、南溟朔北の地に散華され、空しく枯骨となって雨雪に曝らすがままの英霊、無慮数拾万と称せられて居ります。
国を挙げての歓びである和解と信頼による千古比類のない講話の成立、これによって寄らさるる民主日本の名に於ける平和の謳歌!!
この際真に私達は英霊の無限の犠牲に対し、満腔の感謝と敬意を表し、一柱でも供養されない不幸があってはならないことに心すべきであって、全世界の英霊と倶に、全地球の半かばに散在し耿々として望郷の念熄むことなき斯の日本の英霊に、肉親の情愛を捧ぐる事こそ祖国に生ける者の義務であると確信致す次第であります。茲に同憂相諮り、昭和25年建設を発願致しまして、昭和26年衆参両院に、以上の趣旨に依る建設請願に及びたる所、何れも本会議に於て名実共に国家的尊崇の表徴を建設せんとして努力を尽くしつつあるのであります。既に実行段階に入り、境内約1万坪の山嶺に整地工事を終り、目下建塔計画を本県土木部の応援を得て進めて居ります。
何卒この企てを深くご理解くださいまして、一掬の至誠を手向け御協賛賜らむことを御願申し上げます。
  東京都郊外黒山自然公園
 財団法人 世界無名戦士之墓建設会
   代表 長谷部秀邦

越生町「世界無名戦士之墓」
http://www.town.ogose.saitama.jp/kamei/kaikei/1513744425763.html

白亜の廟の中には、位牌が祀られた祭壇がある。

扁額

屋上の展望

白亜の慰霊廟


階段の両脇にいくつかの碑がある。

馬魂碑

昭和47年9月建立。世界無名戦士の墓建設会。
軍馬、農耕馬、競走馬などの馬たちの霊を祀る。

遠く戦国時代はもとより明治大正を通し大東亜戦争まで幾多の戦史の蔭に言うに言葉を持たず訴えるにその術もなく、戦野に屍を晒してそのままの、幾十万の軍馬、或は時代時代の大きな輸送力として、或は農耕等今日の経済復興に又競走馬として國民に潤の道を与え蔭の力となって命数を終った駿馬に対し、この偉大なる社会に貢献した歴史を今ここで次代に伝え更にその霊を慰むるべく建碑を計画した。幸いに中央競馬社会福祉財団より金400万円の巨額の賛同を得て、ここに馬魂碑の建立を得た。私達は詣でる人人に彼等の、在りし日の姿を偲び、霊に感謝の、心を手向けていただくことを祈る。


慰霊碑

慰霊碑
内閣総理大臣 佐藤栄作書

昭和41年5月、越生町慰霊碑建設会にて建立。
越生町出身の大東亜戦戦歿者の慰霊碑。
碑裏面にご英霊の出身区とご芳名が刻印されている。

ちなみに右の石段と左の石段は段数が違う。
左の石段は、右の倍。歩幅が小さい方用に高さが調整されているのだ。

徳を讃う碑

「世界無名戦士の墓」建立の発起人・長谷部秀邦氏を讃える碑。


場所

https://goo.gl/maps/LuovS3ExxGkiDzPx9


越生町

意外と奥深い町でした。
太田道灌の生誕の地とは知りませんでした。。。

「世界無名戦士之墓」。
非常に尊い空間。この地には、また脚を運ぶことになりそうです。
桜の季節に、御英霊と花を愛でたいものですね。
ありがとうございます。


「最後の空襲」熊谷の戦跡散策

昭和20年8月14日から8月15日にかけて。結果論的にいうと8月15日正午に「終戦の詔」が発せられる、その12時間前に、埼玉県熊谷市に空襲があった。
これが太平洋戦争最後の空襲であり、埼玉県内最大規模の空襲であった。
この最後の空襲の被害は甚大であり、この空襲によって熊谷市は埼玉県内唯一の戦災都市に指定されることとなった。(戦災都市は全国115都市)

この8月14日から15日にかけての日本最後の空襲被害は、埼玉県の「熊谷空襲」、群馬県の「伊勢崎空襲」、そして秋田県の「土崎空襲」(日本石油製油所)の3箇所となっている。

熊谷空襲

当時の熊谷市は中島飛行機の部品製造を担っていた「熊谷航空工業」「理研工業熊谷工業」など、中島飛行機太田製作所や小泉製作所、大宮製作所などの中島飛行機主要工場に付属関連する施設があり、また熊谷陸軍飛行学校もあり、海軍艦政本部も疎開しているなど、重要拠点の一つであったが、熊谷市はこれまで空襲被害がなかったということから、米軍によってマークされており、それが最後の空襲の候補地となった理由でもあった。

昭和20年8月15日0時頃。B-29 爆撃機89機が熊谷市上空に到達。
米軍は、熊谷市に対し4,000ポンド爆弾6発、M17焼夷弾356発、M19焼夷弾1,372発、M47焼夷弾6,321発を投下。
熊谷市街地の74%に相当する35万8000坪、全戸数の40%に相当する3630戸が焼失。全人口の28%に相当する1万5390人が被災し266人が死亡、約3000人が負傷。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_05.html

秩父鉄道上熊谷駅から散策スタート。


平和地蔵尊

熊谷厄除子育地蔵尊

熊谷空襲にちなむ、「平和地蔵尊並火伏地蔵」という。

すでに読めなくなっておりますが、記録によると以下の記述があるという。

舌代
顧るに昭和二十年八月十四日夜半より
翌15日に亘り、 吾が熊谷全市
は火の海と化し、言語に絶する
混乱状態となりたり。
折しも星川の流れに身を投じて
避難せる人々は、川の両側に並ぶ家屋
の焼落ちる火と火との間にて、哀れ
にも狂い死をなしたる者多大なり。
又無残や大火傷を受け、薬石
効無く遂に尊い一命を失った者驚く
勿れ全市に於て其の数実に二百
有余命なり。
そのお気の毒な方々の最後
を思いやり、情厚き全市有志の
皆名様と共にここに平和地蔵尊並火伏地蔵
と唱えて建立せしものなり、斯くのごとき
死亡者の中には身寄り頼り無く不幸
此の上も無き霊魂の為に何卒一片の香花を
手向け下さる様御願い申上げます。
 昭和三十二年一月 熊谷市有志一同
  堂守 杵屋二十五代目 新井龍吉

地蔵としては珍しく、眼を開けられているのが特徴という。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/saitama_kumagaya_city002/index.html

場所

https://goo.gl/maps/HSt7N1qkKD1TiV359


石山寺(せきじょうじ)

本堂前のケヤキは熊谷空襲にて被災。戦後75年をかけて幹周りを自己修復している。

平和地蔵尊から道を挟んだ東側に鎮座。

場所

https://goo.gl/maps/3ewphusXdwHZSb68A


熊谷聖パウロ教会

登録有形文化財。
1919年、アメリカ人ウィルソンの設計・監督により建設された総レンガ造りの教会。

昭和20年8月15日の熊谷空襲をくぐり抜けた建物。

 熊谷で聖公会によってキリスト教の伝道がはじめられたのは、明治15(1882)年ころで、明治21年には石原町に聖堂が建設されました。
 現在の地に聖堂が建ったのは、大正8年(1919)年です。
 平成17(2005)年には聖堂と門が登録文化財として文化庁に登録されました。

場所

https://goo.gl/maps/biFRBJYJYg1V6zWE7


熊谷寺・千形神社・高城神社

周辺には寺社も多い。寺社の樹木で戦火を免れた建物も多いという。

熊谷寺(ゆうこくじ)

場所

https://goo.gl/maps/fkdLutqrT718serA6

千形神社

場所

https://goo.gl/maps/Mp4p9G9aw1XZEbkx6

高城神社

場所

https://goo.gl/maps/xVVdF9vT65zgW6pTA


戦災者慰霊の女神

建立は昭和50年8月16日。北村西望による。
熊谷空襲慰霊の女神。熊谷空襲で行き場をなくした多くの人々が飛び込んだという星川に鎮座する。

戦災慰霊の女神
 北村西望作
 終戦前夜の大空襲で熊谷市は、焼土と化し、多くの尊い命も失われました。
 昭和50年、戦災30周年に完成したこの等身大の像は、高純度アルミニウムで作られていて、静かな銀色は慈悲に満ち、戦災の悲しみを再び繰り返してはならないとの祈りがこめられています。

慰霊碑 建立について
熊谷市は昭和二十年(一九四五年)
太平洋戰争終戰前夜の
八月十四日空襲をうけ一夜
にして當時の市の三分の二
が焼土と化し二百六十余名
の方が悲惨な最後を遂げま
した。
特に市の中央部を流れる星川
には一齊にあがった火の
手に逃げ場を失った人人が
飛び込み焼け崩れた家の下敷
となり百人近い方が焼死
しました。けれどもあの痛ましい
戰災の記憶や思い出
は年と共にうすれ忘れられ
てまいります。
よって被災三十周年を迎え
るに當り由緒ある星川上に
碑を建立して永く慰霊と平和
を祈る灯といたします。
 昭和五十年八月十六日
  慰霊碑建立奉賛會

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/saitama_kumagaya_city001/index.html

星川の上に鎮座している。

場所

https://goo.gl/maps/yt9ahvh4N178Cbgk6


身代わり地蔵

熊谷空襲で焼失した久山寺の跡地一画に、空襲や戦地で亡くなった戦争犠牲者の異例のために建てられたお地蔵様。熊谷空襲で多くの犠牲者を出した星川のそばに鎮座している。

場所

https://goo.gl/maps/EFiFWTi43bvrR5nX9


熊谷市慰霊塔

昭和37年3月建立。荒川公園。

建立の経緯
西南の役より太平洋戰争に至る戰役事変にお
いて祖國日本の安危を担い勇躍征途につかれ
果なき昿野に怒濤逆巻くわだつみにあるいは
乱雲の大空にその勲しも髙く散華せられた本
市出身軍人軍属一千九百余柱の英靈を追悼し
ここに招魂鎮祭の願いを果さんとする
昭和二十年八月終戰の混乱と廃?の中にあっ
て祖國再建の悲願に燃え世界恒久の平和を念
じてここに十有七星霜今や新日本として飛躍
的な發展を遂げ本市も又大熊谷への進展の冥
途を辿りつつある時殉國の英靈に對求る追慕
の情いよいよ深く市民の総意として英霊の冥
福を祈念しその功績を永?に傅うるに足る慰
霊塔建立の議が發願されるに至ったここにお
いて本市は昭和三十六年一月熊谷市慰霊塔建
設協力委員会を設置し市遺族會の寄附金を始
め広く市民の浄財を市費とをもつて名勝櫻堤
のあたり遠く秩父連峯を望むこの地をトし昭
和三十六年十二月起工本年三月その完成をみ
たのである
我等は今この聖塔を前にして英霊の遺志を顕
彰し人類の平和と国家の興隆を念じ郷土の發
展とご遺族の援護に一層の努力を誓う次第で
ある願わくは諸霊とこしえに鎮まりご遺族と
全市民に加護を給わらんことを
ここに建立の経緯を略記しもつて後世に傳
えんとする
 昭和三十七年三月
  熊谷市長 栗原正一撰
  岡 翠雪書

工事記録
起工 昭和三十六年十二月
竣工 昭和三十七年三月
工費 金四百七拾萬圓也
建設管理 熊谷市建築課
施工 株式会社小林組
慰霊塔の規模
構造 鉄筋コンクリート造
塔の高さ 一五・五米
述面積 二八一二平方米

奉仕の理想で世界の平和を

熊谷ロータリクラブ
創立15周年記念
 昭和42年10月建設

戦前に建造されたSLが静態保存されている。

D51 140号蒸気機関車について
新製年月日 昭和13年11月6日 製作所 日本車両製造株式会社

場所

https://goo.gl/maps/BYE29bvqjb52Dggk8


中家堂の石灯籠

熊谷名物の瓦せんべい・軍配せんべいで有名な和菓子屋さん。
軍配本舗・中家堂

熊谷空襲と石灯籠のこと
 昭和20年(1945年)8月14日、ここ熊谷の町はアメリカの戦闘爆撃B29からの爆撃を受け、辺り一面が焼け野原となった。
 あれから幾星霜、見事に復興を遂げた町中には、あの日の惨禍を物語る遺構は全くと言っていいほど残っていない。
唯一つ、この石灯籠のみがここに立つ。
 空襲を受けた暁、当店の看板であった石灯籠は、土蔵が軒並み崩れる程の業火に炙られた。明治中期に造作された石の灯篭は、宝珠・笠・火袋・中台・棹・露盤の6部から成っていたが、これらは全て紅蓮の炎と熱風に倒れ散った。宝珠と笠に残る黒い焦げ痕は、焼夷弾によるものである。
 時を経て再建の際、失った中台と棹が新しく造られた。大規模な区画整理が行われたこの場所に、元の姿で戻ってこられたことをさぞかし喜んでいるに違いない。
 今日、戦の痕跡を留める石灯籠は昔日の姿の儘、物言わぬ語り部となる。
 未来永劫、あの夏の記憶をここに結ぶ。
  某年8月 中家堂

場所

https://goo.gl/maps/2jpVd9193NRnbsSq7


中央公園

熊谷市役所隣の中央公園内には、熊谷空襲を生き延びた欅が8本ほど移築されている。

平和の鐘

熊谷ライオンズクラブ寄贈。

場所

https://goo.gl/maps/K4gnUFLmdcLq8Bnq6


埼玉県立熊谷女子高等学校

明治44年(1911)に埼玉県立熊谷高等女学校として開校。
戦争末期には、熊谷高等女学校構内に理研学内工場が設置されピストンなどを製造。また中島飛行機小泉製作所技術部第二設計課(長距離爆撃機「連山」設計試作部隊)や海軍艦政本部が当校に疎開している。

埼玉県内で唯一戦災被害を受けた高等女学校。焼け残った校門は、現在も北門として利用されている。

場所

https://goo.gl/maps/41szxm2ah2sS8aAV8


熊谷駅前。戦跡とは関係ないが、熊谷次郎直実銅像をみながら、熊谷をあとにする。


「12月23日の記念日」陽気と陰気と

令和2年(2020)になっても、12月23日は特別な記念日という想いが強い。

平成の時代は 天皇誕生日、であった。
そして
令和の時代は 上皇誕生日。御年87歳となられた祝ひ日。

https://www.kunaicho.go.jp/joko/press/r021223.html

https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/42

記念日であり、節目の日である「12月23日」という日を振り返ってみる。

陽気と陰気と。


令和2年12月23日-巣鴨プリズン跡

かつて巣鴨プリズンと呼ばれていた巣鴨拘置所跡地。
そのサンシャイン足元の東池袋公園。

この公園に慰霊碑がある。
かつて天皇陛下誕生日であり、一般参賀を終わらせた流れから足を運びに来る人も多く、一般参賀の名残で日の丸の小旗が多く捧げられていた慰霊碑。鎮魂の碑。

永久平和を願って
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

墓標のように聳え立つサンシャイン60を横目に、静かに頭を下げる。

昭和23年12月23日

昭和23年12月23日。
極東国際軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯とされ、死刑囚とされた7名に対する絞首刑が執行された。
これは当時の皇太子殿下(現在の 天皇陛下)の誕生日という、12月23日の尊い「国民の祝い日」を敢えて刑の執行日に選んだともされている。

昭和受難者

1978年(昭和53年)10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀。

靖國神社に合祀された「昭和受難者14柱」は以下の方々。

昭和23年12月23日に絞首刑執行(刑死)
 東條英機
 広田弘毅
 土肥原賢二
 板垣征四郎
 木村兵太郎
 松井石根
 武藤章
終身刑(刑期中に病死)
 平沼騏一郎
 白鳥敏夫
 小磯国昭
 梅津美治郎
 東郷茂徳
戦犯指定を受けたが判決前に病死
 永野修身
 松岡洋右

令和2年12月23日-東条英機墓

サンシャイン60が見える雑司ヶ谷霊園に東条英機は眠る。

昭和23年(1948)12月23日
午前零時1分
巣鴨拘置所(スガモプリズン)内

東条英機は極東国際軍事裁判(東京裁判)にて裁かれ、ときの皇太子誕生日であった12月23日に死刑(絞首刑)が執行された。64歳没。

「東條家墓」(東條英機墓)
明治四十四年七月 第二代英俊埋葬の機会に於て墓地を浅草区松葉町清水寺より雑司ヶ谷共葬地に移し新に此墳墓を築く 第三代英教 識す

東條家第二代東條英俊(盛岡藩士)、第三代が東條英教(陸軍中将・東条英機の父)、そして第四代が東條英機。

令和2年12月23日-皇居

毎年のように朝一番で足を運んでいた12月23日の二重橋前広場。懐かしさもあって思わず足を運んでみた。感慨深い心持ち。

令和2年12月23日-靖國神社

昭和受難者の方々、いわゆるA級戦犯と称された方々が祀られた靖國神社。

参拝を。

パール博士顕彰碑
極東国際軍事裁判法廷インド代表判事
※顕彰碑の写真は2018年12月23日

時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には
また理性が虚偽から
その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを帰ることを
要求するであろう


ラダ・ビノード・パール博士は昭和二十一(1946)年五月東京に開設された『極東国際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和二十三年十一月結審・判決に至るまで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に関する膨大な史料の調査と分析に没頭されました。
博士はこの裁判を担当した連合国十一箇国の裁判官の中で唯一人の国際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持主でありました。
博士はこの通称「東京裁判」が、勝利に傲る連合国の、今や無力となった敗戦国日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎない事を看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根拠が全く欠けている事を論証し、被告団に対し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公にされたのであります。
その意見書の結語にある如く、大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の国際法学会に於ける定説と認められたのです。
私共は茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本国民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に伝えんとするものであります。
 平成十七年六月二十五日 
  靖国神社
   宮司 
    南部利昭

※パール判事の碑の写真は別の年


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「七転八起のダルマ蔵相」高橋是清像と関連史跡

総理大臣を1度、そして大蔵大臣を6度も勤め、近代日本きっての財政家として、「ダルマさん」として、親しまれた高橋是清にまつわる史跡などを散策してみました。


高橋是清

1854年9月19日-1936年(昭和11年)2月26日
正二位大勲位子爵。立憲政友会第4代総裁、第20代内閣総理大臣。

生い立ち
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)、幕府御用絵師・川村庄右衛門の子として芝に生まれる。2歳で仙台藩足軽の高橋覚治の養子となる。
 11歳で横浜でアメリカ人医師ヘボンの私塾ヘボン塾(現在の明治学院大学)に入学。1867年に14歳に藩命により渡米。勝海舟の長男・勝子鹿と一緒の海外留学であった。米国ではホームステイ先で奴隷として売られてしまうが英語を習得し、1868年(明治元年)に帰国。
共立学校の初代校長を務め、教え子には正岡子規や秋山真之などがいた。

日露戦争
1892年(明治25年)日本銀行に入行。日露戦争時には 日銀副総裁として戦費調達を行ない、外債公債募集に成功。日露戦争の戦費調達の立役者となる。支払いの完済は1986年(昭和61年)
1905年(明治38年)に貴族院議員に勅選。1906年から1911年まで横浜正金銀行頭取、1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。

政界
1913年(大正2年)、第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任。立憲政友会に入党。その後の原敬内閣でも大蔵大臣に就任。原敬が暗殺された直後に、第20代内閣総理大臣に就任。立憲政友会の第4代総裁ともなった。
その後の清浦奎吾内閣時に行われた第15回総選挙の際は、高橋是清は貴族院議員から隠居し子爵の爵位を長男に譲り、自らは原敬の選挙区であった盛岡から出馬。政友会総裁として、前総裁であり盟友であった原敬の地盤から出馬し、衆議院議員として当選。清浦内閣を総辞職に追い込む。

就任した大臣職は以下
1913年
 第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣(1度目)
1918年
 原敬内閣の大蔵大臣(2度目)
1921年
 高橋是清内閣総理大臣
1924年
 加藤高明内閣の農商務大臣
1927年
 田中義一内閣の大蔵大臣(3度目)
1931年
 犬養毅内閣の大蔵大臣(4度目)
1932年
 犬養毅内閣の臨時内閣総理大臣(五・一五事件で犬養毅暗殺後の臨時内閣)
 斉藤実内閣の大蔵大臣(5度目)
1934年
 岡啓介内閣の大蔵大臣(6度目)

二・二六事件
田中義一内閣以降、高橋是清が取り組んできた金融恐慌対策、デフレ脱出のケインズ政策など、いわゆる「高橋財政」を展開してきたが、あわせて陸軍予算の削減を図っていたことから、青年将校の襲撃対象となってしまう。
昭和11年2月26日、中橋基明中尉及び中島莞爾少尉が赤坂の高橋是清私邸を襲撃。高橋是清は自宅2階寝室において拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。享年83歳(満81歳)。
戒名は、報国院殿仁翁是清大居士


高橋是清翁記念公園

東京都港区赤坂。赤坂の高崎是清邸は赤坂御所と対面する青山通り沿いにある。現在は高橋是清翁記念公園として整備。隣のカナダ大使館もかつては高橋是清邸の敷地内であったという。

高橋是清翁記念公園の沿革
 この公園は、日本の金融界における重鎮で大勝から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。
 翁は、昭和11年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多磨霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。
 現在の面積は5,320㎡で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。
 園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。

高橋是清翁像が奥まった高台に鎮座している。

高橋是清翁像

ダルマさんと親しまれた風貌。

英字新聞を読むのが日課だったという。右手には丸メガネ。

高橋是清翁ハ安政元年江戸芝ニ生ル幼少轗軻不運十四歳ニシテ
北米ニ渡航刻苦勉學シ長シテ轉々窮境ニ在ルモ気宇益高邁識見
常ニ卓抜夙ニ特許制度ヲ創設シ殖産興業國家経済ニ盡瘁シ或ハ
戰時財政ノ確保ニ貢獻スル所多ク日本銀行総裁大蔵大臣ヲ歴任
シテ遂ニ首相ノ枢職ニ就キ日夜一死報國ノ純志ニ終始セラレタ
リ昭和十一年二月倏忽トシテ此邸ニ薨ス年八十三本邸ハ明治三
十三年以来翁カ日常起居ノ處ニシテ之ニ臨メハ洵ニヨク其ノ髙
風雅懐ヲ偲フニ足レリ
昭和十三年十月嗣子子爵高橋是資氏ハ故高橋是清翁記念事業會
ト戮カ邸地二千坪ヲ擧ケテ本市ニ寄附シ永ク翁ヲ追慕スルノ資
タラシム本市ハ其趣旨ヲ承ケ諸般ノ保存施設ヲ了セリ茲ニ公開
ニ當リ由緒ヲ記シ以テ之ヲ後世ニ傳フ
 昭和十六年六月   東京市

高橋是清時代の庭園が残されている。
この組井筒を水源にした流れや 雪見型灯籠は、後述する移築先の江戸東京たてもの園でも復原をされている。

https://goo.gl/maps/fg6zeWMD4fKzUves7


高橋是清邸

高橋是清邸の主屋が、高橋是清死後に移築されている。赤坂から高橋是清の眠る多磨霊園に移築された主屋は、休憩所「仁翁閣」として使用されていた。
昭和20年の東京大空襲で、高橋是清翁記念公園内に残っていた邸宅跡は焼失するも、多磨霊園にあった主屋は被災を免れ、平成5年に江戸東京たてもの園内に移築公開をされている。

高橋是清邸
 高橋是清邸は経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の誠治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地約6,000平方メートルを購入し、1902年(明治35)に屋敷を建てた。
総栂普請の主屋は、複雑な屋敷構成をもっており、また当時としては高価な硝子障子を、縁周りに大量に使用している。赤坂にあった頃は、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
 1936年(昭和11)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒された(2.26事件)。敷地と屋敷はまもなく東京市に寄付され、記念公園になった。是清の眠る多磨霊園に移築され、休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築された。
建築年:1902年(明治35)
旧所在地:港区赤坂7丁目

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玄関部分と母屋部分が移築復元されている。

1階と2階と見学可能。

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明治のガラスが使われています
注意して下さい

昭和11年2月26日早朝。
青年将校たちが高橋是清が眠る2階へと駆け上った・・・。

 高橋是清は、2階の庭に面した二部屋を書斎と寝室に使っていた。是清の娘・眞喜子氏によると、書斎には大きな洋机があり、そこで仕事をしたという。また、寝室の床の間の前には文机が置かれ、就寝前にその机で習字をするのが晩年の習慣であったという。
 是清は1936年(昭和11)2月26日早朝、青年将校によって暗殺された。(二・二六事件)。兵士10数名が寝室になだれ込み、白の寝巻き姿で布団に座っていた是清に銃弾をあびせ、群島で切りつけた。即死であった。
 是清は市民から「達磨さん」と呼ばれ、親しみを持たれていたため、葬儀には、別れを告げる人々が大勢参列した。
 波乱に満ちた83年の生涯であった。

一行書「不忘念」
 曹洞宗の開祖道元は、「正法眼蔵」で「八大人覚」のひとつとして「不忘念」(正法を心に念じて、忘れないようにすること)を説いている。
 高橋是清/筆(複製)

 写真はこの建物の2階の部屋で、書斎として使用していたもの。是清は毎日欠かさず日記をつけており、英字新聞も毎日購読していた。拡大鏡は辞書を引くときなどに使っていたと伝えられる。

2階からは庭園がよく見える。

この2階の寝室で、高橋是清は暗殺された。

1階に降りる階段。

高橋是清邸の主屋を外からも拝見。

紅葉がひときわに美しいタイミングでの見学でした。

この組井筒や雪見型灯籠は、高橋是清翁記念公園にあるものを復元している。

https://goo.gl/maps/BfDQjro4hE3AyKW17


高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清の「おヒゲ」のお墓が世田谷区にある。
東京都世田谷区弦の実相院の境内に。

永井如雲画伯が高橋是清から戴いた御髭を埋葬したお墓。

高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清翁御鬚の墓由緒
 是清翁の鬚は旦那様のお髭として旧川越藩主の家に生まれた永井如雲画伯が身辺に大切に拝持したものである。画伯は斯道の大家として、永く宮内省御用掛りを拝命し、特に宮内省お買い上げ絵画の審査、帝室博物館所蔵国宝級絵画の鑑定補修主任として、丹青の道に精通され、霊筆を振るわれた画人である。如雲画伯は青年時代より高橋是清の庇護信任を受け、本心乾漆観音像を是清翁より直接拝受。爾後永井家の霊宝として日夜観音経を読誦信奉され居りしところ、偶々、第二次世界大戦の戦局緊迫を告げ、身辺の不安愈々急なるを感ぜられ、帝都を去り暫く桐生に疎開せらるるに当り、永代回向料金壹百円也を並びに昭和9年5月2日に戴いた御壽81歳の時の高橋旦那様の御鬚を添えて、実相禅院の寺宝として後昆に相伝すべく、當寺廿四世憲翁義宣老師に寄進せられた。時移り縁熟し、當山廿五世硯全一雄老?永代追善の鬚墓を建立。本堂安置の観音像と共に永く寺門に遺すべく茲に掩蓋供養する。更に加うるに高橋是清翁の嫡子是彰氏と令孫正治氏とは老?の親交を厚くするなかであり、両者お鬚確認の上當山に納鬚を諾され、就中令孫正治氏は老?若き日慶應義塾大学に於ける愛弟子の一人でもあり、その学恩に報いんとして祖父是清翁の納鬚の法縁となり鬚の墓開眼法筵供養に参列され、ご祖父翁の高徳を忍び老?とともに永劫の菩提を念じ虔みてともに識すものなり。

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高橋是清翁略伝
(略)
大正2年60歳の時、山本権兵衛内閣の大蔵大臣となり、その後大正7年9月29日原敬内閣の大蔵大臣。大正9年9月7日子爵(67歳)。大正10年11月13日、内閣総理大臣兼大蔵大臣(68歳)政友会総裁となる。大正13年3月24日貴族院議員辞任、盛岡より5月10日衆議院議員に当選。6月11日加藤高明内閣護憲三派内閣の農商務大臣(71歳)として入閣。翌14年4月1日商工大臣兼農林大臣(72歳)となる。昭和2年4月20日田中義一内閣の大蔵大臣(74歳)、昭和6年犬養毅内閣の大蔵大臣(78歳)、昭和7年斉藤実内閣の大蔵大臣(79歳)、続いて昭和9年11月27日岡田啓介内閣の大蔵大臣(81歳)となる。昭和10年1月14日82歳の高齢の為特旨により宮中杖を差許さる。昭和11年2月26日折からの大雪の日帝国陸軍叛乱軍青年将校らによって殺される。享年83歳。世に云う二・二六事件として史上に伝えらる。

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報国院殿仁翁是清大居士
維時 昭和61年6月吉日
 鶴松山實相禪院 (以下略

https://goo.gl/maps/Zk5svVyGzuZXNS9H9


鶴松山実相院


高橋是清墓

多磨霊園に高橋是清は眠っている。
場所は、8区1種2側16番。おなじ8区には西園寺公望墓もある。8区の向かい側の7区には同じく二・二六事件で暗殺された斎藤実墓もある。

正二位
大勲位
高橋是清墓

昭和11年2月26日薨

御誄

資性忠純立朝ノ大節ヲ全クシ気宇英爽経世ノ遠猷ヲ懐キ再ヒ閣僚ノ首班ニ列シ屡財政ノ要路ニ当ル殊域ニ渉リテ国難ヲ紓タシ老躯ヲ挺ンチテ時艱ヲ済フ勲労両ナカラ優ニ歯徳並ニ邵ク国ノ重寄ニ任シ民ノ具瞻ニ叶ヒシニ遽ニ溘逝ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘム茲ニ侍臣ヲ遣ハシ賻ヲ斎ラシ臨ミ弔セシム

(平仮名転記)
資性忠純立朝の大節を全くし気宇英爽経世の遠猷を懐き再ひ閣僚の首班に列し屡財政の要路に当る殊域に渉りて国難を紓たし老躯を挺んちて時艱を済ふ勲労両なから優に歯徳並に邵く国の重寄に任し民の具瞻に叶ひしに遽に溘逝を聞く曷そ軫悼に勝へむ茲に侍臣を遣はし賻を斎らし臨み弔せしむ

「賜誄」
誄(るい)と呼ばれるご弔意を 天皇陛下より賜っている。

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高橋是清の家紋は、三つ追い花沢瀉紋

https://goo.gl/maps/3uVd4HW8PQab8gTm9

多磨霊園


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