「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

陸軍清洲飛行場(甚目寺飛行場)跡地散策(愛知)

愛知県に出張の折、時間ができたので、名古屋から足を伸ばして、名鉄大里駅に。ここから、清須飛行場跡地を目指してみる。



位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97L24-C1-7
1945年4月22日、帝国陸軍撮影の航空写真を加工。

清須飛行場部分を拡大

現在の様子。戦後の農地開拓のまま、かつての清須飛行場の用地が残っている。


清須飛行場(甚目寺飛行場)

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月、海部郡甚目寺町と西春日井郡清洲町にまたがる約200ヘクタールの農地に建設された。正式名称は清洲飛行場だが、飛行場の大部分が甚目寺町にあったため、地元では甚目寺飛行場と呼ばれていた。
終戦時には、飛行第5戦隊が所在し、中京地区の防衛任務にあたりつつ、来たるべき本土決戦に向けて戦力を温存していた。


清須飛行場の建屋

清須飛行場にあった建屋を戦後に移築して倉庫に転用したという。

https://www.asahi.com/articles/ASNDV7RSVND4OIPE02F.html

記事より、転載

 横井さんら地元住民によると、終戦直後から1947(昭和22)年ごろにかけて、飛行場に放置されていた建物群や備品は次々と持ち去られた。横井さんの父親は飛行場跡を開拓して田畑に戻す組合の役員を務めていたといい、「使える物は何でも使う時代だったから住民が引き取ったようだ。集落総出で大八車に積んでここまで運び、組み立てたと聞いた」。
 横井さんも自宅に軍用機の燃料タンクと座席を保管している。飛行場の建設時には勤労奉仕で土運びに駆り出された経験を持つ。
 倉庫は後に、板張りの壁をトタンに変えたり、屋根をスレートにふき替えたりしたが、柱などの部材は当時のままという。昭和30年代にはボヤ騒ぎにも見舞われたが、令和に至るまで残った。宮崎亮一さん(81)は「しっかりした建物だったので補修で済んで、壊さずに使い続けることができた」と振り返る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3swzrukcTCfKqiN5A

バス停は「増田(ました)」

増田長盛の出生の地、という。
ましたながもり

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA


清須飛行場跡地

広がる農地は、戦後の開拓。この広大な農地がそのまま清須飛行場の跡地となる。


清須飛行場の作戦室跡

宅地の奥に、作戦室跡が残っていた。
頑丈なコンクリート建屋は、これを撤去するのも大変な労力を割くことが容易に想像され、それが撤去を諦めて残ったとも言えそうだ。

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA

飛行場エリア=農地開拓エリアの外周となり、周辺は宅地造営が進むも、作戦室跡地だけは取り残されている模様。

南に進む。

高架道路は、名古屋第二環状自動車道。
清須飛行場跡を北東から南西にかけて斜めに横断している。


元飛行場開拓記念碑

あま市甚目寺公民館の敷地内に開拓記念碑がある。
清須飛行場の南端近く。

元飛行場
開拓記念碑

元飛行場開拓記念碑文
太平洋戦争の砌(みぎり)国土防衛のため建設された飛行場が終戦と共に廃棄された。
元来この地は農民の至宝で五穀豊壌の沃野であった。
戦後国力は極度に疲弊し農家と雖も食料に事欠く時であったから関係町村民は挙ってこの地に開拓の意欲を燃やし主食の甘薯馬鈴薯の作付けをしたが大半は雑草の茂る荒蕪地として放置されてあった。
時の甚目寺町長・近藤寿治氏は大いに之を憂い昔日の美田に復帰せむと払下げの請願書を関係官庁に提出しあらゆる困難を押して運動された結果、昭和二十三年十月十八日遂に氏の至誠が認められ入植の許可が下付された。
宿願のかなった農民は一致団結して工事に勉励した。
理事長・山田善吉氏の人格と手腕は衆望を集めて事業の推進に精励せられた。
又、関係農民のたゆまざる努力により灌漑排水共に整備せる理想の開拓地が十有余年の星霜を経て完成し、黄金波打つ豊穣の沃野が限りなく展開されて穀倉地帯の名にふさわしい美田が復興した。
今回清浄の地を選んで開拓記念碑の建設されることは山田善吉氏を始め尽力された人々の頌徳碑でもある。
茲に功労者各位の氏名を列記して永久にその功績を讃えます。
 里人が こころ合わせて 拓きたる
    飛行場の跡  白鷺群れる

場所:

https://maps.app.goo.gl/xAj1YJR68yNThp4BA

あま市甚目寺公民館

※撮影:2024年6月


関連

愛知縣護國神社

「大阪大空襲」の痕跡が残る柴島浄水場と淀川周辺の戦跡散策(大阪)

新大阪に宿泊していたある日。
早起きして、早朝に、新大阪駅から淀川に掛けてのエリアに点在している戦跡関連を散策してみました。
ざっくり朝4時30分から6時30分の約2時間の散策。
出張だったので、朝しか時間がなかったのだ。


柴島浄水場の壁面の空襲による弾痕

東淀川区・柴島浄水場の北側。崇禅寺駅と淡路駅の踏切の南側。
機銃掃射の弾痕の壁面跡が残されている。

大阪市民の水瓶・柴島浄水場も空襲の目標となり、大阪空襲では直撃弾を受けて水道水の供給が止まったという。

ちなみに、柴崎と書いて「くにじま」と読む。難読。。。

柴島浄水場壁面の空襲による弾痕
 1945年6月7日・6月15日・6月26日 東淀川区は米軍機による空襲にみまわれた。
 特に6月7日の空襲は激烈をきわめ、1トン爆弾や焼夷弾が雨あられと降りそそいだ。
 米軍機はさらに低空の機銃掃射を繰り返し、浄水場の崇禅寺駅側壁面に弾痕が約50メートルにわたり残された。
 この弾痕は、空襲に倒れ、傷つき、死んでいった物言わぬ多くの人々への生き証人として、私たちにかたりかけている。


JRガードに残る弾痕

JR東海道線と阪急京都線が交差するガードに機銃掃射の弾痕がある。


大阪市水道局 水道記念館
柴島浄水場第一配水ポンプ場)

敷地外から。
旧第一配水ポンプ場(竣工:1914年、設計:宗兵蔵)を保存活用した記念館。
国の登録有形文化財に登録(第27-0072号)。
土木学会選奨土木遺産に認定。

この建物も気になるんですけど。。。


明倫観世音菩薩像と旧長柄橋弾痕

長柄橋南詰に。
機銃掃射の弾痕と、空襲犠牲者を慰霊する観音様がある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/osaka_osaka_city017/index.html

合掌

旧長柄橋弾痕と菩薩像
昭和20年6月大阪大空襲で旧長柄橋周辺の堤防に多くの住民が避難した。そこへ機銃掃射があり約400人の住民が犠牲となった。
弾痕の残る橋脚の一部は、悲惨な歴史と平和の尊さを伝える戦争遺構であり、菩薩とともに住民によって設置された戦没者追悼施設である。
 大阪市北区役所

明倫觀世音菩薩
昭和二十年六月七日この橋畔において散華されたる空襲犠牲者並に
淀川水難犠牲者の冥福を祈るため此處に觀世音菩薩を建立して明倫觀世音菩薩と稱へ奉る。
願くは諸靈安らかに随願往生遂げられんことを。

南無大慈大悲觀世音菩薩
 昭和三十二年八月十四日
  三輪 勝 建立
  魚森 天心 撰文

長柄橋

日の出。朝5時20分。

※撮影:2024年5月


関連

旧陸軍第四師団司令部庁舎と大阪城の戦跡散策

大阪城周辺を訪れる機会があったので、前回記事の不足分などを補填的に掲載をしてみる。
仕事終わりの夕方の18時頃に。


大阪城周辺の戦跡

下記も参照に。
本記事は、下記に掲載しきれていない内容を中心としております。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。


第四師団司令部庁舎

「旧・大阪市立博物館」は、かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。
大阪城天守閣の復興のために集められた寄付金約150万円の内、約80万円を投じて1931年(昭和6年)に本丸に新築された。
外観は左右対称のロマネスク様式を採用。
1940年(昭和15年)に、中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入り、第四師団司令部は二ノ丸に移転。
1945年(昭和20年)に、中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」を使用。
終戦とともに、GHQに接収。
1948年にGHQ接収解除、その後は大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として使用され、1958年からは、大阪市の管理下におかれる。
1960年からは、大阪市立博物館として使用され、市立博物館としては2001年に閉館。
2001年から、2016年までは特に何にも利用されずに保全され、2017年に複合施設「ミライザ大阪城」として再開業。

この建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年(1931年)市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。

外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。

戦後は、大阪市警視庁として、またそのあとは大阪府警察本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
その後、耐震補強工事などのリノベーションが施され、平成29年(2017年)10月、装いも新たに複合施設「ミライザ大阪城」としてよみがえりました。


明治天皇駐蹕之所

大阪市青年聯合團によって建てられた石碑。
大正14年(1925年)5月10日建立。


明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡

あぁぁ、見逃したあ、、、
司令部庁舎前の向かって左側の植え込み、、、


山里丸石垣の機銃掃射痕

山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった、山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

機銃掃射痕が、斜めに刻まれていた。


天守大石垣の爆撃被害跡

天守大石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)陸軍の関連施設が集中していた大阪城は終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

石垣が「ずれ」ているのがよくわかる。
爆撃の衝撃の大きさが、如実に伝わってくる。

※撮影:2024年5月


濃飛護國神社(大垣)

2024年6月に大垣に立ち寄る機会があったので、大垣城の護國神社を参拝してきました。
御英霊に感謝を。

時間の都合で、午前5時台という早朝参拝でした。
社務所開始前のために、御朱印などはいただけず。また再訪したいものです。


濃飛護國神社

大垣城址(大垣公園)に鎮座する。
岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の戦没者1万8900余柱を祀る。

現在、岐阜県には主要な護國神社が3つ存在している。
「濃飛護國神社」「岐阜護國神社」「飛騨護國神社」

創立の順番
 1870年(明治3年)  大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)
 1909年(明治42年) 高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)
 1940年(昭和15年) 岐阜城金華山の麓に岐阜護國神社

1869年(明治2年)、旧大垣藩主・戸田氏共が戊辰戦争に参加した大垣藩士の戦死者54名を祀るため、大垣城下の操練場に仮招魂祠を創建したのに始まる。
1870年(明治3年)に大垣城内に「大垣招魂社」(後の濃飛護國神社)が創建。
1875年(明治8年)9月、国庫から毎年神饌、祭祀料、営繕費が支給されることになり、「官祭招魂社」(大垣招魂社)となった。

1939年(昭和14年)3月27日に官祭「濃飛招魂社」に改称し、次いで「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)による同年4月1日の官報告示を以って内務省指定の「濃飛護國神社」と改称した。
社殿造営工事中の1945年(昭和20年)7月29日、大垣空襲で本殿、拝殿、社務所を全焼。
現在の社殿は、1956年(昭和31年)4月に起工。1958年(昭和33年)4月21日に本殿が竣工し、翌1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

岐阜県内では、濃飛護國神社と岐阜護國神社が、内務省指定護國神社となっている。(飛騨護國神社は指定外護國神社)

濃飛護國神社
陸軍大将 林仙之書

社号標は、大日本傷痍軍人会大垣市分会による建立。
林仙之は、大日本傷痍軍人協会会長を勤めていた縁で揮毫。

参道

1965年(昭和40年)に、西濃運輸(現・セイノーホールディングス)創業者・田口利八が大鳥居を奉納。

1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

官祭招魂社
陸軍中将 上田太郎 謹書

濃飛護國神社になる前時代の社号標。
上田太郎は岐阜県出身。第19師団長などを歴任。

濃飛護國神社裏参道
天皇陛下皇后陛下御親拝記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝されている。

御本殿


神馬像(濃飛護國神社)

日露戦役満二十五週年記念

招魂社

天皇陛下 皇后陛下 行幸啓記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝


石灯籠(濃飛護國神社)

愛国婦人会安八郡幹事部
明治43年4月建之


忠魂顕彰之碑(濃飛護國神社)

忠魂顕彰之碑
戦さのため若くして異国の地に散られ給ひし御霊の華は 
郷土の幸を祈りて永久に美しく咲き給ふ
拝礼


傷痍之碑(濃飛護國神社)

傷痍之碑
日傷援護議員協議会々長 衆 議 院 議 員 武藤嘉文 書

平成元年3月吉日建之
財団法人岐阜県傷痍軍人会西濃支部


恒久平和之碑(濃飛護國神社)

恒久平和之碑
シベリヤ抑留者ダモイ会
 今川順夫書

平和記念碑建立の志
 昭和20年8月15日に、第二次世界大戦は漸く終戦を迎える事が出来た。しかしその当時旧満洲地区に居た約60万の日本軍将兵及び民間人は、直ちにソ連軍の支配下に入り、極寒のシベリア地区抑留の身となった。
 ラーゲル(収容所)生活では、粗末な服装と僅かな食糧を与えられただけで、冬は零下60度の寒さに耐え、夏はブヨとダニの猛襲に悩まされ、シベリアの雪の中での大木の伐採や、バム鉄道(第2シベリア鉄道)の路盤工事、炭坑での石炭堀等の重労働を強いられ、明日の命が誰一人として保証されなかった中で、男泣きに泣きながら歯を食いしばり唯ひたすら「何時かはダモイ」(日本へ帰る)皆でダモイ・ダモイを合言葉に、それを一つの盾とし、又大きな励みとして、一日も早いダモイに望をかけ、厳しい労働に耐え忍び、漸く生き伸びて帰還することが出来たのである。
 しかし中には飢餓と酷寒と重労働など、あまりにも生き地獄のような過酷な条件に耐え切れず、幾多の戦友がシベリアの地に散っていった。その数は6万とも10万ともいわれて居る。
 今思いを致せば当時のシベリアの悲惨さが、脳裏に深く焼き付き、改めて平和の尊さが偲ばれるのである。
 私達シベリア抑留者西濃地区ダモイ会会員一同は、これらの悲惨な戦争は二度としてはならないと心に誓い合い、永遠の人類平和のために此処に平和の碑を建立し、後世に残すものである。
 1991年(平成3年)8月9日
   大垣市・西濃地区ダモイ会  会長 今川順夫

此の恒久平和の碑は1945年、中国満州の地において終戦、日本に帰れると思ったら、ロシヤ軍によって強制連行され日本兵約60万人以上の人が極寒のシベリアの地において飢餓と、重労働に苦しみながら約6万人以上異国の土と化した。 明日の命がだれ一人として保証されなかったなかで、このような悲惨なことが二度とあってはならないと平和の誓いを込めてこの碑を建立しました。
   大垣西濃地区ダモイ会(ダモイとは帰る)
  「国の賠償に代わる労務提供者」として我々は抑留された。


大垣城址

大垣城は国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失している。

※撮影:2024年6月


関連

岐阜護國神社

宇都宮市慰霊塔と宇都宮空襲(軍都宇都宮の戦跡散策6)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本編は「その6」です。「その5」はこちらから。


宇都宮市慰霊塔(北山霊園)

北山霊園行きのバスが、宇都宮駅から1時間に1本程度走っている。急に思い立って行こうと思ってもなんとかなる感じではある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tochigi_utsunomiya_city001/index.html

宇都宮市慰霊塔は、北山霊園の奥まった高台に鎮座していた。

以前の写真よりもきれいになっているので、近年の再整備と思われれる。

合掌

昭和四十五年九月
宇都宮市慰霊塔建設委員会
  委員長
  宇都宮市長 小池嘉子

明治以来國運は時に隆替したが遂に今日の繁栄を見たのは先人達が義勇奉公國難に處した賜である
茲に郷土出身の戦歿者戦争引揚死者戦災死者並に公務殉職者の勲を讃えて感謝の誠を捧げ世界の平和と祖國の發展を祈念しこの聖地に慰霊の塔を建てその冥福を祈る


平和の塔(北山霊園)

鳩と地球の平和の塔

平和の塔
  宇都宮市長 小池嘉子

昭和47年4月の建立


陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑(北山霊園)

栃木県出身の陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑。

陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑
 元第十飛行師団長陸軍中将近藤兼利 書

 昭和9年に誕生した少年飛行兵は、同20年太平洋戦争終結までの間に、若干14、5歳の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、日本陸軍航空部隊の中核となり、遼友と靖國の宮での再開を誓い合って、数々の武勲をたて、大空に華と散っていった。
 今は還らぬ友を偲び、英魂を慰め、その偉業を幾世に伝えると共に、永遠の平和を祈念して、生存者一同相はかり、ここに慰霊の碑を建立する。
 昭和49年9月23日
   少年飛行兵栃木県出身 生存者 関係者 一同 建立

皇太后陛下(香淳皇后)御歌
やすらかに
ねむれとぞ思ふ
 君のため
いのちささげ
志ますらをの
 とも


北山霊園

北山霊園は昭和39年開設。

東北新幹線を見下ろす高台

場所

https://maps.app.goo.gl/bHXmJQFgST9wj6uu6

※撮影:2024年8月


宇都宮空襲

軍都であった宇都宮は、軍需工場(中島飛行機)のあった太田市や大泉町ともども、たびたび空襲を受けた。
昭和20年(1945年)7月10日、7月12日、7月28日、7月30日、8月13日が主な空襲とされ、中でも7月12日の空襲ではB-29が133機到来し、市街地中心部を爆撃され600余名が死亡し特に「宇都宮大空襲」と称されている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_26.html

また、7月28日は宇都宮と同時に小金井も急襲されている。(小金井空襲)


枝病院門柱戦災記念碑(空襲を語り継ぐ門柱)

宇都宮市街地に。東武宇都宮駅のほど近く。

空襲を語り継ぐ門柱
 1945年(昭和20年)7月12日、宇都宮大空襲によって当時の市街地の大半が焦土と化し、この地にあった枝病院も焼け落ちてしまいました。
 このみかげ石の門柱は、枝病院院長・枝 全(たもつ)さん宅の玄関を支えていたもので「戦争の悲惨さを忘れまい」との枝さんの重いが込められ、現在まで大切に残されてきました。
 2000年4月1日
  うつのみや平和祈念館をつくる会

場所

https://maps.app.goo.gl/bywMzVXTPU25AJZUA

※撮影:2023年5月


旭町の大いちょう

昭和20年7月12日の宇都宮大空襲で被災し黒焦げとなり枯死するかと思われたが、復活を果たした「宇都宮の復興のシンボル」

樹齢は400年以上とされ、宇都宮城三の丸跡に位置する。
宇都宮城があったころからの現存物であり、宇都宮を取り巻く2つの戦争(戊辰戦争・大東亜戦争)を生き延びた貴重な存在でもある。

宇都宮市指定天然記念物
大いちょう
 昭和32年10月4日指定
推定樹齢 400年
樹高   33メートル
枝張東西 10メートル
  南北 13メートル
目通周囲 6.4メートル
大いちょうは、宇都宮城の三の丸と百間堀の堺の土塁の上にあり、宇都宮城ゆかりの名木である。今では、宇都宮市民のシンボルとして、多くの人々に愛されている。
 宇都宮市教育委員会
  (平成元年3月建)

宇都宮空襲と大いちょう
 宇都宮市は、一九四五(昭和二十)年の七月十二日深夜から翌日未明にかけての空襲で、中心市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者をだしました。大いちょうも、この空襲により、真っ黒に焼けるほどの被害を受けましたが、翌年には、新芽を吹き見事に再生しました。空襲にも負けなかった大いちょうの強さは、戦後、焼け跡に残された宇都宮市民を勇気づけました。
 そのことにより、大いちょうは、宇都宮の戦後復興のシンボルとなり市民に親しまれています。その後、市制九十周年を向かえた一九八六(昭和六十一)年に、「いちょう」は、市の木に制定されています。

場所

https://maps.app.goo.gl/AHNJ8XCT22Vm3XFL8

※撮影:2023年5月


カトリック松が峰教会

大谷石建築としては現存最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築。
1932年(昭和7年)11月20日に聖堂が竣工している。
昭和20年の宇都宮空襲において、屋根と礼拝堂が被災し焼失してしまったが、戦後すぐに復元を果たした。

宇都宮空襲を生き延びた建造物

場所

https://maps.app.goo.gl/6iLiBgSj2KUz9TwFA

※撮影:2023年5月


宇都宮ライトレール

せっかく雷都・宇都宮にいるのだから、噂のライトレールに乗車。


宇都宮餃子と陸軍第14師団

宇都宮餃子は、陸軍第14師団が、1940年(昭和15年)8月以降、衛戍地を満州としたことから宇都宮出身の将兵が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれている。

まあ、せっかく、宇都宮にいるのだから、餃子を。
駅ナカんだけど、ここの餃子、特に水餃子が美味しい!でした。

別の餃子も

※撮影:2024年8月

いったん、宇都宮関連はひとまず〆。
また追記があれば、それはそれで。。。


宇都宮関連

栃木縣護國神社
はじめに

宇都宮歩兵聯隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策4)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


見返り橋(水無橋)

かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zPXbBSDDFJEstx3F7

歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。

いったん北に向かいます。


宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)

歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。

宝木
開拓之碑

碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
 昭和46年3月12日
  宝木開拓農業協同組合

場所

https://maps.app.goo.gl/bM5vn2kj31xCRecQ6


宇都宮歩兵聯隊跡碑

わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。

碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。

至誠
宇都宮歩兵聯隊跡

記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った 
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた 
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した 
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
 昭和38年3月10日
  宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
  および 有志一同

場所

https://maps.app.goo.gl/RzEUFYdMboA2y72r7


宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)

宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/FSVb5ftYrrdAHxGF9

警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。

殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。

胸像は委細不明

栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。


宇都宮歩兵聯隊の倉庫

栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。

明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。

敷地外から遠望。

倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。

場所

https://maps.app.goo.gl/mX4UCfw1DMHRQxtW8

※撮影:2024年1月

「その5」へ


関連

栃木縣護國神社

中島飛行機大谷地下工場跡(軍都宇都宮の戦跡散策1)

大谷石の地下採掘場も、戦時中は軍需工場であった。
JR宇都宮駅からバスで約30分。せっかくなので気になっていた大谷石資料館に足を運んでみました。


大谷資料館

栃木県宇都宮市大谷町にある、大谷石採石場跡に関する博物館。
大谷資料館の地下採掘場跡は、1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけて、 大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間となり、2万平方メートル(140m×150m)にもおよび、野球場が一つ入ってしまう大きさである。
戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用されてきた。
1943年:陸軍の糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫として使用。
1945年:中島飛行機(富士重工業・SUBARU)の四式戦闘機製造のため地下軍需工場として使用。
1969年:年平均気温が8度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として利用。
1979年:大谷資料館がオープン。地下採掘場が一般公開。

http://www.oya909.co.jp/

http://www.oya909.co.jp/contents/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%9F%B3%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E6%8E%A1%E6%8E%98%E5%A0%B4%E8%B7%A1/


大谷地下工場について

大谷資料館の場所の地下は「中島飛行機宇都宮製作所城山工場」であった。
また南西部の地下には「中島飛行機武蔵製作所大谷工場」もあった。

大谷地下工場について
 太平洋戦争時の大谷地下工場、今では知る人も少なくなりましたが、1945年3月ごろ、この大谷地区には、日毎に激しくなる米軍機の爆撃を避けるため、工場の疎開が行われ、展示図の中島飛行機(株)(現富士重工)宇都宮製作所城山工場(機体)と、図面南西図に位置する戸室山を中心とした同武蔵製作所大谷工場(発動機)の二工場が飛行機の地下生産を開始しました。当時、この二工場には、正規従業員・徴用工・女子挺身隊員・通年動員による旧制中学校3年以上の男女学生・坑内工事関係者・関係軍人合計約15,000名の人達が勤務していたと言われています。
 これらの方達の中には、大谷で唯一公開されている当資料館坑内を訪れ、当時の思い出などを話して帰られる方もあります。ここは城山工場に属し、治工具・熱処理部門の工場になっていました。
 地元である宇都宮製作所は、1943年10月ごろから既にその準備に入っていましたが、外来の武蔵製作所は1944年11月からでした。
 大谷では、明治末期ごろから、坑内掘りが行われていて、多くの地下坑があり、軟石のため、拡張が容易なことから、工場の疎開先に選定されたわけです。既設坑の整備と共に坑の新設、各坑との連絡通路造成のためにダイナマイトの発破作業による隧道(トンネル)の掘削が、文字通り、日夜突貫工事で行われ、展示図(城山工場)の様な大地下工場群ができたのです。青図は白抜き部分、拡大図ではピンク染色部分が隧道です。
 最近大谷では、採掘跡(廃坑)が問題視されていますが、戦後の復興期、これらの隧道を利用して、盛んに採掘が行われたため、廃坑問題の一因ともなっています。
 しかし、廃坑になった所は採掘に伴う廃土石の捨て場として、埋め戻されることが多いため採掘跡全部が空洞になっているわけではありません。

空襲を避け、長期戦に備えるため、日本でも有数の地下工場群として、計画され、実施中だった城山工場(河内郡城山村大谷)の極秘配置図です。米軍も、この地下工場には全く気付かず、接収に当たり、その規模の大きさに驚いたそうです。

昭和17年 1942
 入江侍従、大谷石採掘場視察
昭和19年 1944
 陸軍糧秣廠・被服廠、大谷石採掘場を地下倉庫に使用
昭和20年 1945
 中島飛行機工場を地下工場に移転
 採掘場は地下工場となる

ここに展示されたパネル写真は、終戦当時進駐軍関係者により撮影された大谷地下工場の数少ない写真です。

1 発破作業により開坑された工場(または倉庫)の入口

2 カムフラージュされた望楼

3 当時最新の工作機械

4 中島飛行機製作の戦闘機「疾風」(通称ハチヨン)の星型エンジンケース

5 工場接収時、日本側の説明を受ける、米国調査団。
  中島飛行機夏処理工場付近(当大谷資料館地下採掘場)

キ‐84 四式戦闘機「疾風」
 キ‐84、四式戦闘機「疾風」)以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った重戦闘機で、速度、運動性、武装と防御、航続距離など最もバランスに優れ、昭和19年(1944年)4月の制式採用後、陸軍は「大東亜決戦機」と称して、最も重要な航空機として位置づけ、大戦における運命を託した。日本国民の総力を注いで送り出されたキ‐84は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、および本土防空戦において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が発揮できず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を撃墜、あるいは特攻機として出撃、御盾となり南溟に散った。千フォ、連合国は、接収したキ‐84に再整備を施し、飛行テストを実施したところ、秘められた性能を発揮。P‐51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、日本戦闘機の最高傑作と消化した。


地下軍事工場跡(大谷資料館)

地下軍事工場跡
この地下空間は戦時中、陸軍の地下倉庫として、また、中島飛行機の戦闘機「疾風」の機体工場として利用されました。
当時、他の地下工場や外につながるたくさんの隧道(トンネル)が掘られ現在もこの奥に残っています。

地下工場の隧道

広大な地下空間
この地下坑内は、大正8年(1919)から昭和61年(1986)に渡り採掘が行われ、下図のような構造になりました。
広さは、約20,000㎡(間口150mx奥行140m)、深さは地下約30mで、野球場がひとつ入る大きさがあります。
この空間の容積は、約300,000㎥で、約1,000万本の石が切り出され日本全国に出荷されました。

芸術的な地下空間美でもある。

教会エリアは通常非公開とのことで。

圧巻の空間。

いろいろ凄まじい、、、

政府米を預かったときに取り付けられた鉄扉。
採掘場と倉庫の仕切りで、大形トラックが出入りしたという。

石の華
大谷石に含まれる塩分が冬の乾燥時期に結晶として吹き出たもの。
夏場は消滅するという。

なかなか楽しい地下空間でした

外に出ました。

外の景観もなかなか圧巻。

坑口に自販機

場所

https://maps.app.goo.gl/BzL8iqm7W1suWECH8


平和観音(大谷公園)

公園に移動しまして。

天狗の投岩

平和観音

平和観音
 大谷寺の南側に高くそびえる平和観音は、身丈26.93メートル(88尺8寸8分)の高さで、第二次世界大戦による戦没者の霊を弔い、世界平和を祈念するために、大谷観音の御前立として彫刻されたものです。
 戦後間もない昭和23年9月より、当時の大谷観光協会と地元の人々の熱心な後援のもとに、大谷石の採石場であった壁面を利用し、南側の岩肌に観音像を刻みました。東京芸術大学教授・飛田朝次郎氏が彫刻を手がけ、その指導のもと、大谷町の大工・上野浪造氏らが制作にあたりました。6年の歳月を費やした結果、昭和29年12月に完成しました。
 昭和31年には、日光輪王寺門跡菅原大僧正により開眼供養が行われ、それ以降大谷の顔としてそびえ立っています。

平和観音の隣は見晴台になってました。

場所

あいかわらず、見事な石の造形があっちこっちに、です。


慰霊之塔(大谷公園)

大谷の城山村地区戦没者390余名の慰霊顕彰碑

慰霊之塔

撰文
我が日本は開国と共に世界の文化を吸収して近代国家に発展したが幾多の戦乱に遭い遂に太平洋戦争に突入して許多の多くの尊い生命が祖国進展の為に捧げられた 明治大正昭和の三代に亘り我が家郷を出て、故国の悲運に殉じたる者実に三百九十余名の多きに及んで居る 其の愛国の情を祖国再建の礎石たらんことを確信して茲に慰霊之塔を建立し霊を慰むると共に世界永遠の平和を祈念して人類理想具現の道標とせんとする者である
 城山村長 安納 基 謹書
  昭和29年10月 建立

以上、大谷関連の戦跡散策、でした。

場所

https://maps.app.goo.gl/5yzScbRZP6wbFQXT9

撮影:2024年1月


中島飛行機関連

はじめに

陸軍富士飛行場跡地散策(富士市)

以前に、陸軍児玉飛行場のことを調べていたら、富士飛行場の話題が出てきて、そのときから気になっていた場所。
ようやく、足を運ぶチャンスが訪れましたので、散策してみました。


陸軍富士飛行場

「富士飛行場」
国道一号線の「道の駅富士」が、飛行場のほぼ中心に位置している。
戦争末期の1944年6月に工事着工。
1944年10月に「明野陸軍飛行学校天竜分教所富士分教場」が開設している。
明野陸軍飛行学校(三重)の下部組織として「天竜分教所」があり、さらに下部組織として「富士分教場」という位置づけ。
ややこしいのは、「飛行学校の富士文教場」とは別に、「陸軍重砲兵学校富士分教場(=陸上自衛隊駒門駐屯地)」というのもあって、それは御殿場なので、まったく別地域。


野中俊雄大佐

昭和20年7月18日に、児玉飛行場の第27飛行団長(第6航空軍隷下・司令官は菅原道大中将)に就任した野中俊雄大佐(士候36 陸大専科7)。
児玉飛行場の飛行団長としても終戦間際を描いた映画「日本のいちばん長い日」に出てくる。

野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に、第27飛行団の部下とともに入植開墾。そして開墾した地を「靖国」と名付けたという。
なお、野中俊雄は、1902年(明治35年)生まれ、1993年(平成5年)に92歳で亡くなっている。


靖国町

静岡県富士市五貫島。
住所としては呼称されていないが、この富士南地区の町内会に「靖国町」がある。

戦禍の果て
跡刻む靖国町 進む風化
幻の富士飛行場(下)
 富士市の富士南地区にあった富士飛行場は、1945(昭和20)年8月の終戦で1年足らずの役目を終えた。70年を経て、跡地には民家や事業所などが立ち並び、飛行場の面影はほとんど消え去った。ただ、地名としてその跡を刻む場所がある。
 現在の同市五貫島付近に位置する一つの町内を地元の人は「靖国町」と呼んでいる。この地は終戦後に入植した旧軍人が住み、名付けた。入植者の中心は、埼玉県の児玉飛行場を拠点としていた「第27飛行団」に所属していた人たちだった。飛行団長だった野中俊雄大佐=当時(42)、大分県出身=が、帰る場所のない部下らとこの地を訪れた。他からも軍人らが集まり、滑走路として使われていた土地で農業をしながら新たな生活を始める決意をした12世帯が「靖国町」の始まりだった。

静岡新聞 連載企画 「轍」 ~しずおか戦後70年~
https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No2-144
1946年05月22日に米軍が撮影した航空写真を参照。

富士飛行場部分を抜粋、すでに入植がおこなわれている。

現在の様子。国道1号線と東海道新幹線が横断している。
旧国道1号線は、だいぶ北側(東海道本線より北側)を通っていた。


陸軍富士飛行場跡地散策

戦跡としては何も残っていない。
国道1号の交差点名に「靖国」とある。これが戦後に入植した野中俊雄大佐たちの残した地名の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/bwpJhMZryeEti7D27

町内会として「靖国町」がある。

靖国公会堂

靖国地下道

地域に根づいた地名として。ここに確かに「靖国」が伝承されていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RbvSeLXN4mPCedBe6


開拓記念碑

富士南まちづくりセンター敷地内南西角に。

開拓記念碑
この辺りは、昭和19年(1944年)から陸軍富士飛行場用地として使用されていました。戦後、開
拓事業として元の土地提供者が中心となって入植し、10年余の歳月をかけ、その努力により元の緑の田畑に復旧しました。
 この碑は、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立。令和2年(2020年)、現在地に移設されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/shisei/c1401/rn2ola000002sc7b.html

富士南地区の歴史
 富士南地区は、『ききょうのさと』と呼ばれています。江戸時代、富士川の氾濫によって富士南地区一帯に築かれた堤防が「帰郷堤」と呼ばれたことから名付けられました。この堤防を造った勘定奉行土岐摂津守の家紋が「桔梗」だったこと、堤防ができてから人々が安心して故郷に帰ってきたことが「帰郷堤」の由来とされています。
 また、第二次大戦中、陸軍富士飛行場の建設により立ち退かされた住民が、戦後、再びその地に帰郷したことも、住民の「ききょう」という言葉への思いを強めています。
 戦後、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立した開拓記念碑が、現在は富士南まちづくりセンター駐車場に移設されています。
 現在の富士南地区にあたる区域は、昭和41年の2市1町の合併による新制「富士市」の誕生、昭和47年の「線引き」による市街化区域への区分などにより急速に宅地化が進み、昭和53年に開校した富士南小学校の校区と同一です。昭和56年の富士南公民館の開設に合わせ、富士駅南地区の一部及び田子浦地区の一部をもって組織されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/machi/c0605/rn2ola0000043ki1.html

開拓記念

富士飛行場跡地は、碁盤の目できれいに整備されている。
下記の写真は、南北に連なる道路。かつての滑走路も同様に南北に伸びていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RGfoozzpqZHBxMew8


道の駅「富士」

「道の駅富士」は、静岡県で最初に誕生した道の駅。
陸軍富士飛行場のちょうど真ん中あたりに位置している。

「桜えびひつまぶし」をいただきました。美味。
これは、桜えびシーズンになったら、がっつり食べに行きたいですね。

国道1号線
富士飛行場のあった方向を望む。

富士川の河口

富士山は雲がかかっていました。

ちなみに、富士川の対岸の新蒲原駅からシェアサイクルを活用。移動は20分前後なので、そこまで苦ではなく。
何気にクロスバイク系は、疲れてくると足を後ろに振り上げるのも大変で。
走り出したら楽なんですけど。

新蒲原駅前。桜えび漁船。

ちなみに、戦跡としては、「富士飛行場燃料庫地下壕」も残存している。
富士飛行場の建設に併せて、航空燃料の油を保管する倉庫として岩本山西麓に掘った地下壕。
今回は未訪問でしたが、機会あれば、で。

※撮影:2024年8月


神奈川宿周辺の戦跡散策

横浜駅の隣の神奈川駅。
かつては東海道五十三次の3番目の宿場町「神奈川宿」のあった場所。
ちょっとした戦跡が残っているので、散策してみた。


神奈川駅・神奈川宿

東海道五十三次の日本橋から数えて3番目に位置する「神奈川宿」
この地が「県名や区名」の由来となった「神奈川」の地であり、近代都市「横浜」の母体となった地でもある。

まずは、幸ヶ谷公園に向かいます。

場所

https://maps.app.goo.gl/RnHNFd8pxwREB7QeA


表忠碑(幸ヶ谷公園)

神奈川宿(神奈川町と青木町)出身者における日清戦争3柱、日露戦争21柱の陣歿者合計24柱を合祀した招魂碑。
明治43年6月、神奈川軍友会が建立。


支那事変陣歿者銘碑(幸ケ谷公園)

隣には、支那事変陣没者銘碑もある。
支那事変による陣歿者120名の慰霊碑。
皇紀2600年にあたる昭和15年10月20日に、帝国在郷軍人会によって建立。

神奈川区第二次世界大戦陣没者

昭和41年に合同慰霊祭を執行し、第二次世界大戦での陣没者1357名の御霊は洲崎神社に奉安されている。


権現山(幸ヶ谷公園)

神奈川宿の権現山は、幕末から明治にかけて作られた神奈川台場や鉄道用地の埋立のため削りとられ山としては、姿を残していない。
権現山は、戦国時代には上田蔵人の砦があり、北条早雲に内通をしたことで、扇谷上杉朝良に責められた「権現山合戦」の跡地でもある。


割れた石碑(幸ケ谷公園)

昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲では、神奈川宿にほど近い東神奈川駅周辺をはじめ5カ所を目標地点に設定し集中的に攻撃した。
割れているので、委細不明だが、太田櫛朝書とある。太田櫛朝は江戸文字(千社札文字)で著名。
この功績碑は、一説には「横浜大空襲」で割れた、ともいわれているが、これも委細不明。

幸ケ谷公園


防空壕?(洲崎大神)

洲崎大神のわきに、防空壕と思われる横穴が残っている。


洲崎大神

1191年(建久2年)創建。
源頼朝が安房国安房郡(現・千葉県館山市)の安房国一宮安房神社より分霊を勧請。
明治天皇の東京行幸の際、境内に内侍所奉安殿が設けられた。

明治遷都内侍所奉安之跡

皇紀2600年記念

御即位記念
大正4年11月10日建之

場所

https://maps.app.goo.gl/BaytmnTP5e39sg6r8

※撮影:2024年5月


杉野中尉殉難遺蹟の碑(荒川区東尾久)

都電荒川線の熊野前停留所のちかくにある「はっぴーもーる熊野前商店街」
商店街の只中に、異色な空間がある。
そそり立つ石碑には「杉野中尉殉難遺蹟」とあった。


杉野中尉殉難遺蹟

熊野前商店街防災スポットにある石碑。
かつては、稲荷社と飛行機オブジェもあったというが、防災スポットとして整備された際に、それらは無くなり現在のようなすっきりした空間となったようだ。
荒川区のサイトの写真は、再整備前のもの。

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/ogu001.html

航空界初期の事故
わが国の初飛行は、明治43年(1910)のことで、徳川好敏大尉が代々木練兵場で高度70メートルで約3,000メートルの距離を飛んでいる。それから7年後にして尊い犠牲が生まれた。
陸軍工兵中尉杉野治義(27歳)が、陸軍野外飛行で下志津から高度500メートルで所沢へ帰航中、突風に襲われて尾久村の水田に墜落したのである。
大正6年(1917)3月25日、午前11時40分のできごとであった。
荒川区教育委員会

杉野治義中尉(陸軍工兵中尉)は大正6年3月25日午前11時45分、千葉の下志津から所沢飛行場へ、フランスから輸入した複葉モーリス・ファルマン2号機で高度500メートルで帰航中、突風に翼を折られ機体がバラバラになって尾久村(当時)の水田に墜落、殉職している。
翌年の大正7年に一周忌に、帝国在郷軍人会尾久村分会によって殉職遺跡碑が建てられた。

航空黎明期の事故であった。

合掌

ちなみに、近くには、「東京初空襲の地」もある。

場所

https://maps.app.goo.gl/6SFF5VkDcpk6d7vo6

撮影:2024年8月


関連

霞ヶ浦駐屯地 開設71周年・関東補給処 創立26周年記念行事(2024年)

霞ヶ浦駐屯地の記念行事に行ってきました。
2024年4月28日。

戦跡関連は、下記にて


霞ヶ浦駐屯地記念行事

昨年(2023年)は雨天で記念式典観閲行進は中止でしたが、今回は晴天。
霞ヶ浦駐屯地はスペースの都合か、しょうしょう狭い記念式典でした。

記念式典会場

厚生センター

整列

10式さん

はじまり

指揮官入場

観閲官入場

国旗掲揚

巡閲

陸上自衛隊関東補給処長 兼ねて 霞ヶ浦駐屯地司令

陸将なので銀色桜星3個。


観閲行進

補給処本処なので、後方支援な部隊が中心。
それはそれで、良い。

空自も。

16式機動戦闘車

10式戦車

グランドは立入禁止。だいたいの駐屯地はグランドで式典するけど、ここでは使わない。。。


霞ヶ浦駐屯地(本部地区)散策

本部庁舎

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報資料などは、2023年の記事で。。。


高機動車試乗

当たりました!
なかなか壮快な走り、撮影禁止なので、まあ。


霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)

旧海軍時代の格納庫が残る。詳細は2023年の記事で。


庚申塚(庚申青面金剛)

2023年のときは、垣間見れなかった、庚申塚を遠目に見ることが出来ました。(自販機エリアの奥から望遠)
立入禁止なのことはかわりないでしたが。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚の由来
(前略)
 庚申塚にまつわる話として言い伝えられていることは、この地に数百年前からあった庚申塚を旧海軍航空隊が格納庫建設のため取り払い工事を始めたところ怪我人が頻発しその後航空事故が続発した。土地の人や工事関係者の間では庚申さまのたtりではないかと恐れていた。
 当時、精強を誇った海軍も庚申塚を取り払ったままにしておけなくなって土地の篤信者と相談し、昭和10年12月現在のところに再築し、小さい方の碑を建立し無事故を祈願した。その後、大事故は殆どなくなりご利益あっらたな庚申塚と言われるようになった。また時期は不明であるが庚申塚に手をかけると災難に見舞われると言い伝えられいる。
 大きい方の碑は格納庫の建設が完了した昭和14年12月に格納庫の落成を謝し建立して航空安全を祈願したと言われている。
 最近では、塚も崩れかかり、碑も傾いてきたので平成6年11月に分校と業務隊が諸々の安全を祈願して整備再鎮座したものである。


霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫(茨城倉庫)

霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫として、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。

  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
  • 茨城倉庫3
  • 茨城倉庫2
  • 茨城倉庫1

今回は、敷地外から「茨城倉庫」を見学。

自衛隊側からはこちらで。


周辺の建屋

近くに古そうな建屋があったので記録してみたが、往時の航空写真を見直すと、どうやら違うようで。戦後の建屋ですね。

※撮影:2024年4月


関連

陸軍松本飛行場の跡地散策(三菱名古屋製作所大江工場の疎開工場跡)

松本で時間があったので、飛行場の跡を見に行ってみた。
松本空港(信州まつもと空港)ではなく、松本飛行場跡です。


松本陸軍飛行場跡・三菱重工業名古屋製作所大江工場の疎開工場跡

松本市にあった大日本帝國陸軍の飛行場。
現在の「松本空港(信州まつもと空港)の北側に位置する。
昭和18年以降に建設開始、昭和20年春に飛行場の運用が開始された。

また、愛知の三菱重工業名古屋航空機製作所(大江工場)が松本市に疎開することとなり、1945年2月1日に三菱重工業第一製作所が開設。
松本飛行場の試作工場において、当時三菱が開発中だった海軍の戦闘機烈風の六号機、七号機が鈴鹿工場から当飛行場に移されて開発、試験を行うこととなったが程なく終戦を迎えている。

同じく、三菱が開発中であった陸軍のキ83の一号機が各務原飛行場から疎開して当飛行場で試験が続けられたが終戦を迎え、進駐してきたアメリカ軍に当飛行場で接収された。
試作双発戦闘機「キ83」の初号機は、そのまま松本飛行場において、米軍のハイオクガソリンを用いて試験飛行を行い、時速762kmを記録し、日本の軍用機史上において”最高速度記録を誇る戦闘機”となった。

旧 陸 軍 飛 行 場
 太平洋戦争が激化してきた昭和18年(1943)10月、陸軍省から今井村役場に関係者が集められ、その場で飛行場範囲が示された。その月のうちに笹賀国民学校に関係する地主が召集され、耕地・山林など200町歩以上に及ぶ飛行場用地買収に調印させられた。10月には測量が始り、19年2月下旬から整地工事が開始された。
 工事には、中信地区の翼賛壮年団をはじめ近傍の住民、学生、児童までが勤労動員され、さらには多くの朝鮮の人々も動員されたため、その数は延べ十数万人であったと、終戦直後の新聞は伝えている。兵舎や格納庫を建てるために動員された大工や鳶職は、広く南信一円にまで及んだ。
 陸軍飛行場が完成したのは昭和20年8月であるが、滑走路はそれ以前に利用可能であり、3月には当時浅間温泉に滞在していた特攻隊の隊員達がこの飛行場から飛び立っている。また、「赤トンボ」とよばれる練習機による訓練も行われていた。
 飛行場の施設は、現在の菅野小・中学校・住宅地の場所に事務所や6棟の格納庫等が集中し、その西
に現在の幅の広い道路と重なる滑走路、さらにその西に広がる広大な草地の方形区画部分、さらにその
南の松林の中に向かう誘導路と多くの掩体壕があった。
 本土爆撃がはげしくなると格納庫は目立つため、陸軍により2棟が破壊されたが、残りの4棟は、終戦時まで三菱重工業名古屋製作所の組立工場として使用された。
 終戦後、飛行場に使用された土地の多くは農地に戻され、かつての滑走路は、菅野小学校西側の道路
となり、格納庫などが置かれた土地は、住宅地となっている。また、格納庫などのコンクリート基礎の一部は菅野小学校グラウンドの基礎を兼ねており、現在でも確認することができる。
   2012年8月
    松本市


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1022-5
昭和23年(1948年)2月18日、米軍撮影の航空写真。

飛行場部分を一部拡大

現地の地図は、東が上になっている。

格納庫をはじめとする地上施設部分を拡大。

現在の様子。

現地の地図は、東が上になっているので、ちょっと位置関係を迷う。

松本市立菅野小学校は、旧飛行場施設のコンクリート製基礎が校庭の基礎として流用されている。


松本飛行場の滑走路跡

松本市道6086号線から西側に滑走路があった。
現在、往時を偲ぶ記念碑がたっている。
市立菅野小学校の近く。


松本飛行場の格納庫基礎跡

松本飛行場の格納庫の基礎が残っている。


松本飛行場コンクリート基礎跡(菅野小学校校庭)

松本市立菅野小学校は旧飛行場の滑走路の東に位置し、旧飛行場施設のコンクリート製基礎が校庭の基礎として流用されている。

ちなみに、アクセスにはコミュニティーバスを使用しました。(バスというより乗り合いタクシーな感じ)
時間の調整が、ちょっと大変でした、、、

場所

https://maps.app.goo.gl/vFziWqAX9zDV2qAy8

https://maps.app.goo.gl/7HKUrKdXwX59gsvw5

※撮影:2024年6月


関連

「苦しいのは息が止まるまでよ…」山の手大空襲の慰霊観音菩薩(早稲田喜久井町・感通寺)

早稲田大学の早稲田の隣町、喜久井町。
昭和20年5月25日の「山の手空襲」では、早稲田喜久井町の防空壕が被災し300余名が亡くなったという。
合掌。


山の手大空襲

東京は昭和19年以降、100回以上に及ぶ空襲を受けてきた。
昭和20年3月10日に東京下町を襲った空襲では死者は10万人を超え、罹災者も100万人を超えており、1回の空襲としては、世界史上に例を見ない規模として「東京大空襲」と称されれているが、その他にも多くの空襲があった。

昭和20年5月25日、空襲警報発令22時22分。
山の手地域に470機ものB‐29が襲来した空襲では、死者3600余人、罹災者は約56万人、焼失16万6千戸にも及び、国会議事堂周辺や東京駅も被災。皇居も被災し 昭和天皇・香淳皇后は御文庫に避難、皇居内の明治宮殿は、この空襲で焼失。

東京地方では、2番目の被災規模であり「山の手大空襲」と称されている。
なお、3月10日の下町を襲った東京大空襲で襲来したB-29は325機であり、山の手大空襲で襲来したB-29の470機は東京大空襲以上であった。

米軍は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」でもって、東京の市街地はほぼ壊滅したと判断し、この日以降、東京への大規模な空襲は終了した。
まさに、東京に止めを刺した空襲が、この「山の手大空襲」であった。

上記の記事は、原宿表参道。
山の手空襲は、東京の市街地各所に爪痕を残している。

早稲田大学の周辺でも大きな被害があった。


喜久井町観音・喜久井町慰霊園

第二次世界大戦の空襲により喜久井町の防空壕で亡なられた方の供養のために建立。
「日米彼我戦歿之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没之諸英霊・鎮魂供養」

建立縁起
昭和20年5月25日当町ヲ含メテ山手地区ハ米軍ノ空襲ヲ蒙リ悉皆灰燼ニ帰セリ酸鼻ノ状タル死屍累々トシテ巷ニ倒レ残月白骨ヲ照シ遂ニ惨害シテ異物ト為スノ観ナリキ。殊ニ夏目坂台地ヨリ早稲田通リ向ケL字型構築セル地下壕ノ中ニ避難ノ人々ハ爆撃炎上焔ト瓦斯ノタメ犠牲者参百余名ヲコエタリト。親ハ愛児ヲ抱キ、若キハ老タルヲ庇イ、夫ハ妻ヲ助ケント為シタル等、或ハ全身大焼炭化シ、或ハ生ケルガ如ク直立シ、或ハ両手ヲ虚空ニシテ落命セル等、目ヲ蔽イ言ヲ失フ恐怖地獄ノ惨状ナリキ。惨害無残非命ニ倒レシ犠牲ヲ念ストキ人皆歔欷シ或ハ慟哭シ、心折レテ生事ヲ悲シムノミナリ。屍ヲ積ンデ草木腥ク流血ハ瓦礫ヲ染メテ声ナシ、マコトニ国破レテ山河アリ、魂魄招ケドモ再ビ来ラズノ感慨ヲ深カラシム、ココニ春風秋雨メグリテ三十三年ノ歳月ヲ閲ミシ漸クニシテ観世音菩薩一体ヲ造立シ奉ルコトヲ得タリ、願クバ日米彼我戦歿之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没之諸英霊・鎮魂供養ノタメナリ。今ヤ一会ノ大衆ト供ニ梵唄誦経修スル所ノ秘妙五段ノ加持ヲ以テ観世音菩薩御尊像開眼供養ノ法儀ヲ営ナミ、仰而喜久井町観音ト名ケ奉ル者也、造立シ奉ル喜久井町観音、ソノ妙智之力ハ能ク群生ノ苦厄ヲ救イ、十方諸々ノ国土ニ於テ身ヲ現ゼザルナク、克ク生老病死ノ苦ヲ減ジ常ニ苦悩諸厄ニ於テ依怙トナラセ給ハン事ヲ。
 昭和52年5月25日 
  造立願主感通寺二十卋伝灯新間日恵

町慰霊園
「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ!!」と子供を抱えて震える私の手も肉もやけどでじんじん落ちていきます。 
 成願寺報五五号抜粋
昭和20年5月25日米軍山之手地区空襲の一般庶民の残状だった。
58年余を経て今日それも忘却のかなたに去ろうとしている。後の私達は歴史として伝え継いでいかねばならない務めがあると痛感し平成16年5月25日・当山に於て前大戦で亡くなられた人々の供養の為に慰霊園を作庭し名を刻し永遠に町会員と共に現在も生きて在しますことを顕すものである。
 伝燈二十一卋日良記す

上記のエピソードは、中野の成願寺の住職が記録したエピソード。

https://www.nakanojouganji.jp/backno/schugaku1.htm

さざれ石

さざれ石
第二次世界大戦が終了し戦勝国も敗戦国も、そして人々も戦争は、つくづく懲りたはずなのに、その後も全世界各地で愚かな争いを繰り返しています。
正義の為と称し、民族、宗教その他あらゆる理屈付けのもとに戦い、地獄の様相を現じております。佛様のお説きになる平和で争いのない、互いに尊重しあう浄佛国土は、いつになったら顕われるのでしょうか。
この人類平和の願いが古来より、「さざれ石」に願いを託して永く伝えられてきました。
国歌に詠まれているごとく「千代に八千代」の年月を経て「さざれ石の巌」となり「苔のむす」と云う、団結と繁栄、平和と長壽を象徴した石であります。
特にこの石は「都園」から寄贈を受け、昭和四十五年に開催された大阪万博博覧会での日本館に展示されていたと云うものです。
 感通寺 二十一世 新間 日良
  平成十六年五月二十五日
この石は、学名を石灰質角礫岩 と云います。
石灰岩が雨水に溶解して粘着力の強い乳状体となり、地下に大粒の石、小粒の石を集結して次第に大きくなったものであります。


感通寺

東京都新宿区喜久井町に鎮座する日蓮宗の寺院。
本妙⼭高田感通寺。
松平越後守(越後高田藩)の下屋敷高田御殿跡でもある。

https://www.kantsuji.tokyo/

お寺犬の、すばるちゃん。

切り絵御朱印が人気。

※2024年5月撮影

場所

https://maps.app.goo.gl/TD3Z2qbegsC8mvZh6


喜久井町戦災者供養観音像
(早稲田大学喜久井町キャンパス)

早稲田大学・喜久井町キャンパス(理工学術総合研究所)

戦時中、早稲田大学喜久井キャンパスの研究所地下には防空壕があった。
空襲に際して周辺住民と学生などが避難していた防空壕も被災し300余名が亡くなったという。

戦災者供養観音像建立の由来
 第二次世界大戦の終局も近い昭和二十年五月二十五日(1945年)米軍の東京空襲は、山手地区の多くを焼土と化した。
 理工学研究所も建物のほとんどが焼失し、とりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて三百余名が火焔と煙に包まれて、悲しくも尊い犠牲となった。
 昭和三十年五月罹災十周年を迎えるにあたりこれらの人々の霊を慰め、永遠の 平和を祈願するため本観音像を建立した。
 昭和五十八年三月  
 観音像製作者 二紀会 永野隆業氏
 早稲田大学理工学研究所

※2020年1月

場所

https://maps.app.goo.gl/s2dL9MxALuiQEPsY9


関連

移築整備された野砲兵第一聯隊の馬魂碑(世田谷)

世田谷区池尻・三宿・下馬、駅で言うところの「池尻大橋駅」「三軒茶屋駅」の界隈は「駒澤練兵場」があり、そして3つの陸軍砲兵部隊が駐留していた。
すなわち「三軒茶屋は軍都であった」と言っても過言ではない。


軍都「三軒茶屋」

  • 近衛野砲兵聯隊(昭和女子大・三宿中学校)
  • 野戦重砲兵第八聯隊(都営住宅)
  • 野砲兵第一聯隊(都営住宅)

上記の3聯隊のうち、野戦重砲兵第八聯隊と近衛野砲兵聯隊の記念碑は、陸上自衛隊三宿駐屯地内にある。

しかし、野砲兵第一聯隊の記念碑は残されていない。


野砲兵第一聯隊

野砲兵第一聯隊は、昭和11年の二・二六事件ののちに北満移駐を命ぜられ、そして大戦末期にはレイテ作戦に参加しカンギポット山麓に玉砕。
昭和20年に残存兵力はセブ島に転進し、ゲリラ戦を実施し、そこで終戦を迎えている。
日本陸軍最古の砲兵部隊である栄誉ある野砲兵第1聨隊であったが、国内には記念碑が残されていないが、玉砕したレイテ島・リモン峠には野砲兵第1聨隊の慰霊碑があるという。

そんな、野砲兵第1聨隊が駐留していた世田谷の下馬地区に痕跡として残された馬魂碑が、都営住宅下馬アパート再開発でも失われることなく、移築保存されたのは、なにより喜ばしく。
すこしでも、往時を伝承する軌跡が残ったことに感謝する。

以下、移築先の様子。


野砲兵第一聯隊の馬魂碑

5基の石碑が保存されている。

馬魂碑

詳細は不明

馬魂碑

一番大きな「馬魂碑」

碑の裏面に詳細な記述がある。

我部隊保管ノ軍馬ハ我隊将士ノ死生ヲ倶ニスヘキ戦友ニシテ平戦来時攻々黙々内ニ外ニ多大ノ功績ヲ残セシモノ枚挙ニ遑アラス 
其ノ間不幸或ハ敵弾ニ斃レ或ハ不慮ノ危害ヲ蒙リ或ハ又病魔ニ冒サレ遂ニ死ニ至レル其ノ最後ニ想ヒ到レハ憐憫ノ情ニ堪ヘス
茲ニ犠牲馬ノ霊ヲ祀リ其ノ冥福ヲ祈リ将来保管馬愛護ノ精神的自覚ヲ促サレトシテ此ノ碑ヲ建ツ
 昭和14年12月
  野砲兵第一聯隊留守隊長
   陸軍砲兵中佐 正六位勲四等 原捷吉

野砲兵第一聯隊は、昭和11年から北満に移駐しているために、石碑が建立された昭和14年の段階では、留守部隊が軍馬(保管馬)の世話をしていたことがわかる。
愛馬の愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。

馬頭観音菩薩

詳細不明

軍馬梨山号
昭和十一年一月二十四日殉職

馬頭観音

整備中の広場。広場の名称も、まだ不詳。

下馬図書館の近く。

案内図は古いまま。

都営住宅下馬アパート16号棟17棟18棟19棟20棟のあった区画には、
「東京都立青鳥特別支援学校三軒茶屋校舎」が新設された。

場所

https://maps.app.goo.gl/uJcX1qhmt93tWPLP6


野砲兵第一聯隊の兵舎跡

唯一現存する野砲兵第一聯隊の兵営。韓国会館となっている。いつまでの残るかの不安があるが、往時を偲ぶ貴重な建屋。

場所

https://maps.app.goo.gl/17zBp2k5PTNn2uwB6


旅団の電信柱

昭和女子大の近く、「旅団」の名前を残す電信柱があった。
管理の都合、往時のままの名称を用いている「旅団線」通信線。

昭和女子大の西門

※撮影:2024年5月


世田谷関連

熊谷陸軍飛行学校新田分教場・新田飛行場跡(太田の戦跡散策4)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
そんな中島知久平ゆかりの太田市内に点在する戦跡に足を運んでみました。

本編は、その4です。


新田飛行場跡(生品飛行場跡)
熊谷陸軍飛行学校新田分教場跡

新田市野倉。
生品のマツの森に1935(昭和10)年、陸軍の飛行場が建設され、昭和13年(1938年)、熊谷陸軍飛行学校新田分教場が開校。
飛行場の大きさは、東西約1850m、南北約1350m、総面積は約249万㎡。
陸軍九五式一型乙練習機が配備され、飛行訓練に活用された。
新田飛行場(生品飛行場)は昭和20年の7月と8月に空襲を受け諸施設が壊滅している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R408-No1-90
昭和22年(1947年)10月29日、米軍撮影の航空写真。

拡大

群馬県は、赤城おろしの空っ風が強く吹き荒れる土地のため、赤城おろしは北西風で、飛行機は向かい風の方向に離着陸をするのが普通のため、生品飛行場をはじめ、周辺の飛行場の滑走路は、いずれも南東から北西に向かって造られている。
そのために、戦後開墾後も、周辺の区画から傾いているのがよくわかる。

ピンの場所が今回のポイント。


新田飛行場跡(生品飛行場跡)鎮碇

着陸訓練用のロープを固定したRC造の鎮碇が残る。
少し離れた鉄塔からワイヤでつられた主翼の無い練習機で鎮碇方向へ滑り降り、練習生は操縦桿を引くタイミングや着陸の感覚をつかんだ着陸訓練用の構造物。

場所

https://maps.app.goo.gl/sr1brHn3QFe49Rfc6

飛行場跡地


陸鷲修練之地

敷地の東端に往時を偲ぶ石碑が建立されている。

少年飛行兵操縦教育校
旧陸軍熊谷飛行学校
陸鷲修練之地
新田教育隊跡地

平成7年8月
終戦50周年記念
元少飛 柳文夫書

場所

https://maps.app.goo.gl/oEyceHRpiKzZnQqy5

※撮影:2024年1月

その5に続く。


中島飛行機関連

はじめに

中島知久平と呑龍(太田の戦跡散策2・金山城址と呑龍工場、太田大空襲)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
その出生の地・群馬県新田郡尾島町には、中島知久平の立像と旧宅、墓がある。
同じ太田市内には、中島飛行機のDNAを受け継ぐSUBARU(富士重工)工場もあり、そして、太田市の中心部にそびえる金山(太田金山)の金山城址に中島知久平胸像があった。

本編は、その2です。


中島知久平

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月11日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

多くは、下記に記載。


中島知久平先生像(金山城址)

中島知久平先生像

昭和39年の建立。
裏面の顕彰碑文は、元陸軍大将井上幾太郎の撰並書となっている。

撰文の井上幾太郎は、初代陸軍航空部本部長。1933年3月には予備役に編入されるも、長命で、1965年に93歳で没している。

 中島知久平先生ハ、明治17年1月17日群馬県尾島町押切ノ徳望家中島粂吉翁ノ長男トシテ出生ス。同36年、海軍機関学校ヲ経テ海軍大学ニオイテ航空機ノ研究ニ着手、卒業後ハ海軍工廠造兵部ノ飛行機工場長トナリ、海軍機第一号機ヲハジメ各種ノ航空機ヲ創案制作セリ、ソノ後欧米ノ航空界ヲ視察シ民営ノ航空機工業ハ必要性ヲ提唱スルトトモニ、大正6年自ラ海軍ヲ退官シテ郷里群馬県太田町ニ中島飛行機製作所ヲ創立ス。コレワガ国航空機生産会社ノ嚆矢ニシテ、同社ハ後日世界最大規模ヲ有スル中島飛行機株式会社ニ発展シ、約20年間ニ亘リ、陸海軍民各方面ノ要望ニ応エ多数ノ優秀ナル航空機ヲ生産シ、ワガ国航空機工業ノ絶大ナル貢献ヲモタラシタリ。
 先生ハマタ偉大ナル経世ノ抱負ヲ実現スルタメ昭和5年政界ニ入リ鉄道大臣、商工大臣、軍需大臣等ヲ歴任シ、コノ間選ベシテ政友会総裁ニ就任スルナド、ソノ輝シキ業績ハ飛行機王ノ名トトモニ今ナヲ高ク評価セラル。
 昭和24年10月29日、享年66歳ヲモツテ惜シマレツツ逝去ス、ココニ中島飛行機関係者有志ノ発起ニヨリ、事業発祥ノ地ヲ選ビ記念像ヲ建設シ、先生ノ偉業ヲ永ク後世ニ伝エントスルモノナリ。

 昭和39年2月 
  元陸軍大将 井上幾太郎 撰並書

太田市内を見渡す金山の山頂に鎮座。いまも眼下に中島飛行機を受け継ぐSUBARUの工場群を眺望している。

https://maps.app.goo.gl/2K7H2G5PDEtBp6gAA


金山城(日本百名城)

山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定となっている。天守閣が設けられる時代よりも古い設計で石垣が多用された山城。

標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城。
特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆された。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所。山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られる。

https://www.city.ota.gunma.jp/page/4140.html

新田神社

太田金山山頂に鎮座する神社。明治六年の創建。新田義貞公を祀り「初志貫徹」の神様として崇敬されている。
なお、創建にあたっては、由良系新田家が尽力している。その際に岩松系新田家は排除されたが、のちに岩松系新田家が新田氏嫡流として華族となった。

https://www.ota-kanko.jp/spot/spot02/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

弾丸があった。

御腰掛石が並んでいる。
 大正天皇  明治25年10月17日
 秩父宮殿下 明治42年11月7日
 昭和天皇  明治42年11月7日
 高松宮殿下 大正4年11月7日
 三笠宮殿下 大正14年10月26日

金山城の石垣。関東地方では珍しい石垣の山城。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R256-No1-32
昭和22年(1947年)10月30日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。

ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。


呑龍

中島知久平(海軍機関大尉)が、生まれ故郷の尾島に、大正6年(1917)5月に「飛行機研究所」を創業。
同年12月に正式に海軍を退官し、民間会社として「飛行機研究所」を尾島から金山南麓の「大光院・呑龍さま」の隣接地に移転。民間会社としての中島飛行機の発祥の地は、すなわち今のSUBARUの発祥の地でもある。

中島飛行機が開発したキ49・100式重爆撃機「呑龍」の愛称は、江戸時代の浄土宗の僧「呑龍」の名前であり、中島知久平の地元の大光院の通称「呑龍さま」から命名された。


中島飛行機呑龍工場

太田金山の南麓には、「中島飛行機呑龍工場」があった。現在の「SUBARU群馬製作所北工場」。

旧中島飛行機(株)呑龍工場と中島知久平
 眼前の工場は大正6年(1917)12月10日、飛行機王中島知久平が尾島から飛行機研究所をここに移し、9名程の同士と創業し、中島飛行機製作所と改める、後の富士重工業(株)群馬製作所の発祥の地である。
 ここで製造された中島の出世機「中島式四型6号機」は、大正8年10月の第1回懸賞郵便飛行競技大会で優勝し中島飛行機の名声を一気に高めた。
 太田市街の東端に新工場が完成してからは、ここは呑龍工場(現北工場)と呼ばれた。
 創業者中島知久平は明治17年(1884)1月17日、尾島町押切で農家の長男として出生。海軍機関学校を卒業し海軍機関大尉まで昇進したが、民間での飛行機製造を志して退役、中島飛行機の創立と経営に当った。
 昭和5年(1930)2月、衆議院議員に当選し政友会総裁、商工政務次官、鉄道大臣(後に商工大臣)などを歴任した。同24年(1949)10月29日、脳溢血で急逝、多摩霊園及び押切の徳性寺に眠る。
行年六十六。
法名は知空院殿久遠成道大居士
 太田市観光協会
 平成21年(2009)3月

右手に呑龍工場と、左手には大光院「呑龍さま」。

呑龍公園

金山からの眺望。呑龍工場と太田工場を望む。


子育呑龍上人の大光院「呑龍さま」

義重山大光院新田寺。浄土宗寺院。
通称「子育て呑龍」「呑龍様」。
東上州三十三観音特別札所、群馬七福神の弁財天。

慶長16年(1611年)3月、徳川家康は徳川一族の繁栄と天下泰平、さらにご先祖の新田義重の追善供養のため菩提寺を建立する計画を立てた。
家康は、芝増上寺の観智国師に相談し、菩提寺建立の適地として太田金山南麓が選ばれた。 そして、観智国師の門弟で四哲の一人といわれる呑龍上人が招聘され創建された。


戦歿者慰霊碑(大光院)

大光院の境内にある戦歿者慰霊碑。

 太田市は西南の役から第二次世界大戦にいたる幾多の戦役により二千余柱の戦没者及び戦災被爆者の尊い犠牲がありました。
 中央の慰霊碑は昭和二十八年に建立され。当時の戦没者が刻まれております。しかし、その後合併した地区等の戦没者及び戦災被爆者は刻まれておりませんので今般英霊にこたえる会及び太田市遺族会のご尽力並びに関係各位のご理解ご協力により、その後合併した地区等を含めた戦没者及び戦災被爆者の慰霊碑2基を建立し、今日の太田市繁栄の礎となられた御霊に対し、尊崇と感謝の意を表するものであります。
 昭和56年3月吉日 
  太田市長 戸澤久夫

慰霊碑(中央)

中央の慰霊碑の裏面

維時昭和28年9月23日太田市出身殉国英霊ニ白ス
諸士等身ヲ君国ニ捧ゲ終ニ異境ノ花ト散ル 
其ノ忠烈ハ永ク責史ヲ◯シ英魂長ヘニ国家ノ柱礎タリ
茲ニ平和回復ハ年ヲ迎へ太田市遺族会並ビニ有志一同碑ヲ建チ衷心諸士ガ英魂ヲ慰ム
希クハ英霊神力ヲ増上シ長ヘニ護国ノ霊威ヲ加ヘンコトエヲ
 鈴木霊海撰
 昭和28年9月23日
  太田市慰霊碑建設委員会建之

皇紀二千六百年記念

昭和15年2月11日 太田各町有志

慈愛の鐘。
もとの鐘は、戦争中に供出。昭和31年に再鋳造。

場所

https://maps.app.goo.gl/Nh7SL6j9Qbqm5Ezz9


中島飛行機太田製作所
(SUBARU 群馬製作所本工場)

中島飛行機太田製作所は、現在のSUBARU群馬製作所本工場。

昭和9年(1934)11月に太田に新しい機体組み立て工場を設け、「太田工場」として稼働。従来から旧太田工場は「呑龍工場」と改称。
昭和12年(1937)に、太田工場を太田製作所に改称。
昭和15年に海軍機専用の組立工場として「小泉製作所」が開設すると太田製作所は陸軍機専用の組み立て工場となる。

中島飛行機が創業以来終戦までに製作した機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。
工場は分散され、太田工場では陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を生産したとされている。

https://maps.app.goo.gl/XcvjyCGiYnFcELiT6


中島飛行機太田製作所付属太田病院
(太田記念病院)

昭和13年に、中島飛行機太田製作所付属太田病院として開設するも昭和20年の終戦とともに病院閉鎖。
昭和21年に旧中島飛行機の八幡寮を改修して富士産業太田健康保険組合病院として、現在の八幡町で、戦争の災禍にあった太田地域住民のために開設。
平成24年に八幡町から現在の大島町に移転している。
現在は、株式会社SUBARUの健康保険組合病院。

https://maps.app.goo.gl/ouZrsiRwQX1CvrVZ8


太田大空襲

中島飛行機を有する太田市は、米軍の攻撃目標となり、終戦まで7回の空襲に見舞われた。
昭和20年2月10日の最初の空襲では、B29が約90機飛来し、午後3時過ぎから爆弾約750発、焼夷弾約200発を投下。
1時間ほどで太田製作所は、工場の東側が壊滅的な被害を受けた。周辺の学校や民家なども巻き込まれ、中島飛行機の工員を中心に死者約160人、けが人約280人、被災者は約2500人にのぼった。
2月10日の空襲のあと、立て続けに2月16日、2月25日も空襲され、中島飛行機の太田製作所、小泉製作所や太田飛行場などが次々と空襲で破壊された。そうして、太田と周辺は終戦間際の8月14日まで計7回の空襲に遭い、計約250人が亡くなったとされている。


太田市戦災被爆者慰霊記念の碑

太田中央公園内に。

太田市戦災被爆者慰霊記念の碑
 太田市長 戸澤久夫書

安らかに
この国の永遠の
平和を祈念して
 建設大臣
  長谷川四郎書

趣意書
 わが太田市は、太平洋戦争の末期、昭和二十年二月十日、二月十六日、二月二十五日、四月四日、七月二十八日、八月十四日と数度にわたって、はげしい空襲に見舞われその度毎に数多くの死傷者が続出したが、現在の太田市在住の遺家族数は、五十五家族、その被爆犠牲者は壱百弐名に及んでいる。
 ところで、戦後における国の援護の実状は、民間の被爆犠牲者には、その処遇も行われないまま、すでに三十有余年の年月を経てきたのである。そのため、本市鳥山に存在する大越福は、昭和四十五年十二月、太田市戦災被爆者遺家族の会を結成し、その会長となって 私財を投じて国会等に対し、強力な陳情活動を続けたのである。時あたかも今年昭和五十二年は、被爆犠牲者の三十三回忌にあたり、市当局並びに市民各層の協力のもと太田市戦災被爆者慰霊祈念の碑の建設となったのである。
 このことは、この国の永遠の平和をこいねがう被爆遺家族のせめてものねがいでもあり、こゝに記してその由来とする所以である。
 昭和五十二年八月十日
  広田良撰文

https://maps.app.goo.gl/gSpNU4H8tDvxPued9


大田駅

ちなみに、市内散策には太田市のレンタサイクルを活用しています。

※撮影:2024年1月

その3に続く。


中島飛行機関連

はじめに

座間・陸軍士官学校の戦跡散策4「相武台碑と大講堂・雄健神社跡」(在日米陸軍キャンプ座間)

ようやく「キャンプ座間」に立ち入る機会がありました。
2023年8月「日米親善盆踊りフェスティバル2023」
花火や盆踊りでフレンドシップなイベント。米軍基地が一般開放されますので、散策してきました。

2024年4月の「キャンプ座間 桜祭り / CAMP ZAMA CHERRY BLOSSOM FESTIVAL」で再訪し、記事を大幅に補完しました。

「座間・陸軍士官学校の戦跡散策」シリーズとしては、「その4」となります。
米軍基地以外の関連する散策は以下より。


相武台(相武臺)

座間には、陸軍士官学校があった。
陸軍士官学校の土地は、現在の「キャンプ座間」となっている。

小田急「相武台前駅」、JR相模線「相武台下駅」。
座間市と相模原市に地名として使用されている「相武台」は、もともと陸軍に関係のある名称であった。

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
昭和12年12月20日に行われた陸軍士官学校卒業式に 昭和天皇が行幸した際に、同校に「相武台」の名称が賜名された。

  • 市谷台 座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 航空士官学校(航士)
  • 振武台 陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 陸軍経理学校
  • 健武台 東京陸軍幼年学校

陸軍士官学校が移転したあとの市谷台には、陸軍省や参謀本部なのでの省部が三宅坂から移転し、陸軍の中枢となった。

相武台(相武臺)

記念碑の揮毫は、陸軍大臣・杉山元大将。
昭和20年の終戦時には、相武台碑は地中に埋められたが、2年後の昭和22年に米軍第8軍司令官ロバート・L・アイケルバーガー中将の命令で掘り出され、現状に復された。

相武台碑
昭和12年12月20日天皇陛下御命名
昭和14年建立

昭和十二年陸軍士官學校󠄁此ノ地ニ移ル冬󠄀十二月二十日 
天皇陛下卒業式ニ行幸アラセラレ親シク生徒ノ演習󠄁ヲ臠ハセ給ヒ陸軍大臣ヲ召シ本校󠄁所󠄁在地名ヲ特ニ相武臺ト賜フ大臣ハ恐懼感激シ益󠄁々練󠄀武養󠄁材ノ實ヲ擧ケ 聖󠄁旨ニ副ヒ奉ランコトヲ奉答セリ 
謹󠄀ミテ按スルニ相模國ハ古ク佐賀牟ト訓シ古事記日本武尊󠄁東征ノ條ニ相模國ニ作ル臺ハ其ノ形󠄁勝󠄁ヲ占メ相模原ヲ控󠄁ヘ最モ武ヲ練󠄀リ銳ヲ養󠄁フニ適󠄁ス乃チ武ヲ相ル意󠄁ヲ寓シ給ヒタルモノト拜ス茲ニ御命名書ノ相武臺ノ三字ヲ廊󠄁大シテ碑ニ題シ緣由ヲ背ニ記スト云爾
 昭和十五年八月二十日 
  陸軍大臣 三位勲一等功五級 杉山 元 書


陸軍士官学校関連記念碑(相武台碑周辺)

相武台碑の周辺には、陸士関連の記念碑が多い。
卒業順に掲載。

なお、下記の資料を参照

https://www.usarj.army.mil/Portals/33/about/history/Monuments_and_Markers_v4_202101.pdf


陸士50期卒業記念

旧陸軍士官学校第50期生卒業記念碑
昭和12年12月20日卒業

陸士50期は、陸軍士官学校が座間に移設してから初の卒業組となる。
昭和9年4月入学、昭和12年12月卒業。相武台は3ヶ月しか過ごしていないクラス。466名卒業のうち、175名が戦死している。

陸士51期卒業記念

旧陸軍士官学校第51期生卒業記念碑
昭和13年12月22日卒業

昭和10年4月入学、昭和13年12月卒業。506名卒業のうち176名戦死。

陸士52期卒業記念

旧陸軍士官学校第52期生卒業記念碑
昭和14年9月7日卒業

昭和11年4月入学、昭和14年9月卒業。635名卒業のうち245名戦死。
52期が在学中に、予科と本科の課程が戦時体制に改定され、訓練期間も48ヶ月から36ヶ月に短縮となっている。

陸士53期卒業記念

こちらは大講堂脇に建立

旧陸軍士官学校第53期生卒業記念碑
昭和15年2月27日卒業

昭和12年4月入学、昭和15年2月卒業。日中戦争勃発により定員が増員。1710名の卒業のうち800名が戦士している。

陸士54期卒業記念

場所は相武台碑から、外れて、体育館の脇の駐車場に。

奮忠
旧陸軍士官学校第54期生卒業記念碑
昭和15年9月卒業

第54期は、昭和12年12月入学、昭和15年9月卒業。2186名の卒業のうち、891名が戦死。

※上記2枚は2024年4月撮影

陸士55期卒業記念

相武台碑の周辺に戻ります。


旧陸軍士官学校第55期生卒業記念碑
昭和16年7月18日卒業

昭和49年に建立。
昭和13年12月入学、昭和16年7月卒業。2349名の卒業のうち、953名が戦死あるいは捕虜収容所で亡くなっている。

第1期将校学生卒業記念

境界西角。

旧陸軍士官学校第1期将校学生卒業記念碑
昭和16年7月卒業

第1期将校学生は、昭和15年10月入学、昭和16年7月卒業。51名の卒業。

陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念碑
昭和16年9月30日卒業

昭和15年12月に入学し昭和16年9月に卒業。卒業生267名。卒業3か月後に下士官から少尉に任官した。

第2期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第2期将校学生卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第2期将校学生は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日卒業。90名の卒業。

陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第22期少尉候補者は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日に卒業。481名卒業。

陸士56期卒業記念

旧陸軍士官学校第56期生卒業記念碑
昭和17年12月17日卒業

第56期生は、昭和14年12月入学、昭和17年12月卒業。
地上兵科1672名、航空兵科627名の卒業。地上兵科257名が航空兵科操縦士に転出し、操縦士884名のうち545名が特攻で戦死。
56期生合計では2299名のうち1071名が戦死。戦死者を一番出した期となっている。

第3期特別将校学生卒業記念

「三紀会」
旧陸軍士官学校第3期将校学生卒業記念碑
昭和18年11月15日卒業

第3期特別将校養成課程で、昭和18年1月入学、昭和18年11月修了した予備役将校学生。118名のうち69名が戦死。

陸士57期卒業記念植樹

旧陸軍士官学校第57期生記念植樹
昭和19年4月卒業

第57期は、昭和16年4月入学、19年4月卒業。
航空兵科卒業生400名のうち74名が戦死、地上兵科卒業生1150名のうち299名が戦死。
昭和58年5月22日建立。後述するが57期は卒業記念碑は建立せず、雄健神社の近くに桜を植樹している。そしてこちらは戦後の記念植樹。

陸士60期在校記念

「和」
旧陸軍士官学校第60期生記念碑

第60期生は、昭和19年3月から昭和20年8月まで在校。陸軍最後の士官候補生であった。第60期生は疎開先の長野で終戦を迎えている。
「和」記念碑は昭和57年に建立。

陸士58期までは卒業したが、59期と60期は在校での終戦。

陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念植樹碑

第4期将校学生は、昭和18年に卒業。50周年の平成5年に植樹を記念して建立。


雄健神社跡

陸軍士官学校の神社「雄健神社」。

雄健神社跡
昭和12年9月陸軍士官学校は、東京市ヶ谷台よりこの地相武台に移転し、翌13年6月に雄健神社が建立され、左記の御祭神と共に同校出身戦死者 殉職者が合祀された。
 天照大神 鹿島大神 大国主大神
 靖国大神 香取大神 明治天皇
在校生は朝な夕な社殿に額づいて心を正し、崇高な使命に殉じた先輩の意志を継ぎ立派な将校になることを願い、文部の道に励んだ。
 終戦の年、御祭神は長野県北佐久郡望月の里にある、大伴神社に遷座しお祀りして来たが、昭和31年6月 靖国神社に於て 昇神の儀を執り行い、その歴史を閉じた。
 往時の純真にして崇高なる精神をはぐくんだこの地を史跡として末永く保存するため有志相集い、在日米陸軍本州駐屯部隊並びに陸上自衛隊第三施設群のご協力を得てここに鳥居を再建した。
 昭和60年12月吉日
  財団法人 偕行社内
   相武台鳥居再建委員会

陸軍士官学校は昭和20年に佐久市望月など川西地域に疎開しており、雄健神社も、郷土の名社であった大伴神社に遷座していた。

市ヶ谷台の雄健神社


方位石(陸軍士官学校遙拝所方位盤)

長さ2.7m、幅2.3m、高さ60cmの巨石。
もともとはチャベルヒルのある場所にあったが、平成26年に現在地に移築。
円形状のくぼみに、かつては大理石の方位盤が埋められ、盤面には皇居や明治神宮、伊勢皇大神宮、陸軍司令部所在地の地名や方角などが刻まれていた。
陸軍士官候補生は毎朝、方位石にて皇居に遥拝し、明治神宮や伊勢皇大神宮の大祭時には国家安泰を祈念した。

いまは、鳥居の手間にあるので、手水石のような佇まい。

以下は、南地区の富士山公園内にある「方位石」(陸軍士官学校遙拝所方位盤)を参照まで。

なお、さらに奥に進むことができたが、米軍基地内でどこまで侵入してよいのかがわからず、進むのはためておきました。(以前、別の基地で「Keep out」表示がない場所で米軍の警備員に呼び止められた苦い思い出もあるので。)

DO NOT ENTER FOR AUTHORIZED PERSONNEL USE ONLY
Only for use by trained Soldiers under supervision Refer to TRADOC TP 385-1
関係者以外立ち入り禁止
監督下の訓練を受けた兵士のみ使用可能 TRADOC TP 385-1 参照

うん。ひとまず、戻りましょう。。。

雄健神社跡の観桜が良かったですね。


陸軍士官学校関連記念碑(雄健神社跡周辺)

雄健神社の鳥居周辺にも、記念碑が散在している。

陸士57期卒業記念

旧陸軍士官学校第57期生
昭和19年4月20日卒業
卒業記念碑を建立せず同期一同血書して名を連ねこの地に埋めた

陸士57期(昭和16年4月~昭和19年4月)
400名の航空兵科転科者は74名が戦死。1,150名の地上兵科卒業生のうち299名がビルマ・フィリピン・ニューギニアなどの東南アジアで戦死している。

陸士57期の血書の桜。
由縁を知るとさらに趣が深まる桜。ありがとうございます。

陸士58期卒業記念

七生報国

旧陸軍士官学校第58期生
卒業記念碑
昭和20年6月17日卒業

士官学校最後の卒業生となった第58期生(昭和17年4月~昭和20年6月)。
2,395名の学生が本科生となったころには、本土空襲も頻繁になっており、昭和20年4月には相武台も空襲を受け、校内で初めて実戦に参加した士官候補生でもあった。卒業後は、すでに制空権も制海権も失われていたために外地の戦闘部隊に合流することもできず、その結果、他の期生と比べると戦死者は少なく90名が戦死したにとどまっている。

陸士59期在校記念

在校記念碑
陸士第59期生
昭和20年8月30日修業

第59期生(昭和18年4月~昭和20年8月)は、卒業記念ではではなく、在校記念での石碑となる。
合計2,850名の士官候補生のうち1,250名は本科地上兵科生で、終戦を長野県で迎えている。(陸軍士官学校の疎開)
同期の豊岡航空学校の本科生の一部は実戦技能訓練を満洲で実施していたために約100名の候補生は、終戦時にソ連の捕虜となりシベリア収容所に連行され、多くの候補生がシベリアで死亡し、生存者も帰国まで4年の月日を要している。

第22期生任官30周年記念碑

第22期(明治41年12月~明治43年5月)の卒業生が将校任官30周年記念として昭和15年に建立。
市ヶ谷台時代の卒業生たちは、本科が相武台に移転したあとも、自分たちの母校として記念碑を建立したことがわかる。

第24期生任官30周年記念碑

旧陸軍士官学校第24期生
卒業30周年記念碑
明治45年5月27日卒業

第24期(明治43年12月~明治45年5月)の卒業生の帝国陸軍将校任官30周年記念で昭和17年に建立。


陸軍士官学校大講堂(Kizuna Hall)

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
おそらくは、その際に造営されたと推測。
米軍進駐後は映画館としても使われた。
現在は「Kizuna Hall」として活用されている。


天皇陛下用防空壕

陸軍士官学校大講堂の裏手に防空壕の入口がある。
大きな入口は裏手の右側にあり、小さな入口は裏手にあたる。
昭和17年に造られた 天皇陛下用の防空壕。

壕内には約17mの曲がりくねった通路があり、広さが30平方mの部屋に通じているという。鉄筋コンクリート造の防空壕の壁の厚さは70cmで天井の厚さは1.7m。
昭和12年から昭和20年まで、士官学校では9回の卒業式があり、そのうちの7回に 天皇兵陛下がご臨席になられた。しかし、防空壕は一度もご利用にはならなかった。ちなみに、51期はご病気、58期は首都圏空襲で欠席であった。

なお、出入り口は2箇所ある。

旧陸軍士官学校
天皇陛下行幸時の防空壕
昭和18年建設(未使用)

「Kizuna Hall」の後ろにも。もう一つの入口。

Authorized Persons Only
権限のある人のみ、だそうで。


陸軍マンホール

陸軍士官学校大講堂の周辺に、2つ残存。
中央に、陸軍のシンボルマーク「五芒」がある。

1つ目は、大講堂の北側。

2つ目。大講堂の正面。


陸軍士官学校生徒集会所

Camp Zama Express Main Store の東側。米軍のSUDCC(Substance Use Disorder Clinical Care)として使用されていた建物。
かつての「陸軍士官学校生徒集会所」
取り壊されるという話もあったが、2023年8月の段階では現存している。

2024年4月、解体を確認

2024年4月、解体を確認。
以下の写真は、解体後。


陸軍士官学校皇族舎(皇室宿泊施設)跡

かつてこの場所に、陸軍士官学校皇族舎があったが、現在は、振武臺記念館として、陸軍予科士官学校のあった朝霞に移築保存されている。

日米友好親善碑

以下は、2024年4月撮影

この場所から、南に歩けば、雄健神社跡。


陸軍制水弁

陸軍士官学校時代の制水弁。
陸軍のシンボルマーク「五芒」もある。


ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

桜の季節


キャンプ座間/座間駐屯地

キャンプ座間は、在日米陸軍司令部、米陸軍第1軍団前方司令部などが置かれ、在日米陸軍の中枢部として機能している。

座間駐屯地には、陸上総隊司令部日米共同部が展開。

中央の第1ゲートからも、ちらりと見える鳥居。

桜の季節

平和
日米友好碑

グランドの北側に。

陸上自衛隊ー在日米陸軍
座間キャンプ共同使用開放記念碑

ここは陸自っぽい。

陸自ですね。


給水がありがたい。。。

鳥居、、、

消防署

野外ステージ

芝生

野球場が盆踊り会場

出店のメインストリート

大人気なファーストフード行列。

ローストチキン

生ビール

暑すぎたので、かき氷

暑すぎて、かなりの疲労困憊だったということもあり、
いくつか確認漏れを自覚しているので、リベンジします。。。

2024年に再訪して、各記事に写真追加済

※撮影:2023年8月 2024年4月


米軍関連

移築再整備された東京第一陸軍造兵廠滝野川工場の陸軍用地標石(滝野川三丁目公園)

2022年4月に開園した「滝野川三丁目公園」。
東京国税局滝野川第二宿舎(公務員第二宿舎)などがあった国有地の土地利用転換等に合わせ北区が用地を取得し、構造物の解体・更地化ののちに公園として再整備。

実は、なにげに、再整備公園に設置された案内看板に、弊サイトが写真提供を実施しておりましたが、先日にようやく再訪できた次第。

関連記事


陸軍用地の標石(東京第一陸軍造兵廠滝野川工場)

陸軍用地の標石
この標石は陸軍の旧用地を示す目印とする石です。
滝野川三丁目公園の整備にともない、園内へ移設しました。
【東京第一陸軍造兵廠滝野川工場】
滝野川工場は、東京第一陸軍造兵廠第三製造所として、主に火薬・照明弾・発煙筒などの製造を行っていた。

この案内板にある写真、弊サイトにて、素材提供をしました。

以下、依頼主より

(前略)
さて今回ご連絡させていただきましたのは、ホームページに掲載されている陸軍標石についてです。
現在、公務員第二宿舎だった場所を北区役所が国より引き受け、公園として整備工事を行っております。(当社がその施工を担当)
その公園整備工事経過において、歴史ある陸軍標石を保存し、整備する公園の中に再設置を行い、歴史施設説明サインとともに掲示を行う案が出てきております。
つきましては現在ホームページに掲載してある写真の掲載許可とバックアップ等にて可能であればリサイズしていない元の写真データをご提供いただれば助かります。
ただ現在、陸軍標石の保存と歴史施設説明サインの設置は確定しておりますが、盤面デザインによっては写真の掲載がない場合もありますのでその節は、ご容赦ください。
(後略)

公園施工会社様のメールより

その結果、下記の写真となりました。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

欠けていた標石の当時の写真は下記。2016年5月撮影。
こちらは掲載見送りになりましたが、併せて移築保存していただけました。

そして、移築された標石。

こうして、歴史の伝承として、綺麗に整備され保存されたのは、なにより喜ばしく、ありがたいこと。


滝野川三丁目公園

※撮影:2024年4月

場所

https://maps.app.goo.gl/UJdsUEZjXxixTkVp6