「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

静岡陸軍墓地(駿府静岡の戦跡散策・その2)

静岡県静岡市。
東海地区の要所である駿府城を中心とした静岡市内の戦跡散策をしてみました。

本編は、「その2」です。

その1はこちら。


陸軍歩兵第34聯隊墓地(静岡陸軍墓地)

駿府城の北東、演習場からさらに北東に進んだ地に「陸軍歩兵第34聯隊墓地(陸軍墓地)」がある。

第34聨隊の戦没者や戦病没者が埋葬されている。
1897年(明治30)年頃設置。
現在は、旧静岡陸軍墓地公園と称されている。

静岡県内には、静岡陸軍墓地、三島陸軍墓地、豊橋陸軍墓地、浜松陸軍墓地の4つの陸軍墓地があった。(豊橋の墓地はまだ訪問しておりませんでした)

墓地入口

陸軍墓地参道

合掌


支那事変・大東亜戦争 忠霊塔
(静岡陸軍墓地)

支那事変・大東亜戦争 忠霊塔

昭和12年から20年に亘る未曾有の大戦に勇躍祖国の難に赴き悠久の大義に殉じた郷土の勇士は7万の多きに及んだその忠烈悲壮鬼神を哭かしめ民族の歴史を彩り護国の礎となった 我等戦友8千有余相図り茲に由緒の深い陸軍墓地を卜して忠霊塔を設け英魂を慰め偉勲を顕彰する
   昭和43年8月31日
    静岡聯隊址碑建設期成会 建立


満州事変戦病死者合葬碑
(静岡陸軍墓地)

満州事変戦病死者合葬碑

昭和11年10月建立
陸軍中将 岩越恒一 書

岩越恒一は、昭和10年3月から昭和11年3月まで、第3師団長であった。静岡聯隊(歩兵第34連隊)は、第3師団隷下。


昭和三年 支那事変 陣歿者之碑
(静岡陸軍墓地)

昭和三年 支那事変 陣歿者之碑

陸軍中将 安満欽一

安満欽一は、昭和3年を含む、1926年(大正15年)7月から1929年(昭和4年)8月まで第三師団長であった。

ここでいう「昭和3年支那事変」は、昭和12年のいわゆる日中戦争ではなく、「山東出兵」のことをいう。


明治三十七八年役 戦死病者追悼碑
(静岡陸軍墓地)

明治三十七八年役 戦死病者追悼碑
元第3師団長陸軍大将正三位勲一等功二級子爵大島義昌建

大島義昌は、日露戦争時の第3師団長。
ちなみに安倍晋三は、大島義昌の玄孫(父方の祖母が大島の孫娘)にあたる。

戦病死兵卒之碑
戦病死下士之碑
戦病死准士官之碑
戦病死将校同相当官之碑

順番に、碑が大きくなっている。

戦病死兵卒之碑

戦病死下士之碑

戦病死准士官之碑

戦病死将校同相当官之碑


大正三・四年戦役 戦病死下士兵卒碑

大正三・四年戦役 戦病死下士兵卒碑

揮毫者、読み取りできず、、、

第一次世界大戦の日独戦争のことを、大正三・四年戦役と称する。


戦没馬犬鳩 慰霊
(静岡陸軍墓地)

戦没馬犬鳩 慰霊

明治天皇御製
 人ならばほまれのしるし 授けまし
 軍のにはにたちし荒駒

明治百年紀念
 歩兵第24聯隊 桜友会有志建立
  昭和46年8月15日


墓標群(静岡陸軍墓地)

個人の墓標が一角にあつまっていた。
将校の墓、下士官の墓、それぞれに。

陸軍歩兵大佐 関谷銘次郎之墓

陸軍歩兵中佐 橘周太之墓

日露戦争の遼陽会戦(首山堡の攻撃)で、歩兵第34聯隊の関谷銘次郎連隊長、橘周太第1大隊長が戦死している。


ドイツ兵捕虜の墓(静岡陸軍墓地)

第一次大戦で捕虜となったドイツ兵(日独戦ドイツ兵捕虜)病死者の墓碑。

Hier ruht in Gott
(Der Matrosen altilierist Gust.Mathais geb.10.1.95. gest.13.4.15.)
Er starb den Heldentod
fürs Vaterland

ここで神とともに安らぎを
(水兵のグスタフ・マタイスは 1995 年 10 月 1 日に生まれ、2015 年 4 月 13 日に亡くなった。)
彼は、祖国のために、英雄的な死を遂げた

2024年4月に、案内板が新設されている。
ニュース映像から。

ドイツ人俘虜のお墓
ドイツ海軍一等砲兵グスタフ・マタイスここに眠る
 第一次世界大戦中の大正3年12月から大正7年8月、千葉県の習志野収容所に統合されるまで、静岡県静岡市にも戦争俘虜収容所が開設されていました。開設時には107名のドイツ人およびオーストリア・ハンガリー人が収容され、かれら俘虜たちは指物や玩具、麺や菓子製造の技術指導を行ったり、サッカーを静岡県に伝えたりしたという記録も残されています。
 ここには、西南ドイツのエトリゲン出身の海軍砲兵、グスタフ・マタイス(1893~1915享年22歳)が葬られています。マタイスは青島(当時中国にあったドイツ租借地)の戦いで負った弾丸による額の傷が原因で、脳膜炎のため大正4年4月13にに静岡県の衛戍病院(陸軍病院)で亡くなりました。その後長きにわたり、地元の方々が大切にお墓を管理してくださたことに感謝をこめて、日独の友好の証としてドイツ連邦共和国大使館が令和6年4月にこの記念碑を設置しました。
 協賛 ドイツ連邦共和国大使館 東京
  2024年4月5日


陸軍歩兵第34聯隊墓地(静岡陸軍墓地)
遺構

軍用地の境界柵の柱が林立している。


陸軍歩兵第34聯隊墓地(静岡陸軍墓地)
正門

こちらが正門。
私が最初に入場した出入り口は脇だったようで。

陸軍墓地

よく整備された陸軍墓地でした。

ありがとうございます。

撮影:2023年12月

場所:

https://maps.app.goo.gl/NPAh6hRXV8LPycBG7

「駿府静岡の戦跡散策・その3」


陸軍墓地関連

はじめに

駿府城公園と歩兵第三十四聯隊(駿府静岡の戦跡散策・その1)

静岡県静岡市。
東海地区の要所である駿府城を中心とした静岡市内の戦跡散策をしてみました。

本編は、「その1」です。


歩兵第三十四聯隊

帝国陸軍は、日清戦争終結後の明治29年(1896年)に、ロシアとの戦争を念頭に師団の強化を計画し、そして新設された聯隊。
明治29年12月に、歩兵18聯隊が設置されていた豊橋に、歩兵34聯隊の本部が発足し、明治30年3月に静岡に移転。
日露戦争においては、歩兵第34聯隊を含む第3師団は、遼陽会戦、奉天会戦などに参加。歩兵第34連隊第1大隊長の橘周太(橘中佐)は、首山堡攻撃で戦死し軍神として橘神社に祀られている。
日露戦争では、歩兵第34聯隊は、約5000人が従軍し、そのうち1112人が死亡したという。
太平洋戦争中は、中国戦線に展開し大陸打通作戦に参加、安徽省蕪湖で終戦を迎えている。

歩兵第三十四聯隊は、別称「静岡連隊」「岳南連隊」、そして、軍神にちなみ、「橘連隊」とも呼称されていた。現在、静岡県御殿場市の板妻駐屯地に展開しているの陸上自衛隊第三十四普通科連隊は、静岡の旧陸軍歩兵三十四聨隊の部隊番号を引き継ぎ、橘連隊・橘精神を受け継いでいる。

陸上自衛隊第三十四普通科連隊(橘連隊)
以下は練馬駐屯地にて


歩兵第三十四聯隊址碑(駿府城公園)

歩兵第三十四聯隊阯

建碑のことば
この城域は明治三十年歩兵第三十四連隊を置かれて以来、岳南士風発祥の地となり国難に際しては軍旗の下幾万将兵を遠く国防の第一線に送って来た。
この間軍神橘中佐を始め、幾多将士の健闘により感状を授与されること三十余回、武勲は燦然として青史に輝いている。
さりながら特設された多数部隊をも含めて大陸の広野に絶海の孤島に玉砕散華した勇士はその数を知らず、忠霊の汗と魂とは城内一握の土一塊の土にも今なお深く浸み透っている。
これら先烈の偉勲を顕彰し、その精神を後世に遺さんがため我ら同志八千有余名、相図って茲にこの碑を建立した所以である。
 昭和四十二年十一月三日
  静岡連隊関係者有志建立
 つわものがとどめしいさを 
  橘のかをりとともに永久に匂はむ

軍歌「橘中佐」は鍵谷徳三郎作詞・安田俊高作曲。
歌碑には第1節(遼陽城頭夜は闌けて~)と第4節(敵の陣地の中堅ぞ~)が刻まれている。

軍神 橘中佐
 遼陽城頭 夜は闌けて
 有明月の 影すごく
 霧立ちこむる 高梁の
 中なる塹壕 声絶えて
 目醒め勝ちなる 敵兵の
 胆驚かす 秋の風

 敵の陣地の 中堅ぞ
 まず首山堡を 乗っ取れと
 三十日の 夜深く
 前進命令 忽ちに
 下る 三十四聯隊
 橘大隊 一線に

歌碑に寄せて
この軍歌は陸軍教授鍵谷徳三郎氏が作詞、安田俊高氏の作曲にかかり、前後三十二節より成っている。
明治大正昭和三代に亘って全国津々浦々に愛唱せられ、これにより岳南勇士の名声高揚に果たした役割は大きい。
今、連隊址碑を建立するにあたり、その一部を抄出して石に刻み後世に遺す。
 昭和四十二年十一月三日
  静岡連隊址碑建設期成会建立

記念碑

大正丙寅年(大正元年・1926)12月建立。

場所

https://maps.app.goo.gl/q8Np5A8BUhRs5fkx6


行幸御野立所跡

昭和天皇は、昭和5(1930)年5月28日から6月3日、地方視察の一環として、一週間の日程で静岡県巡幸をなされた。
昭和天皇は、駿府城内の歩兵第三十四聯隊の演習を観閲された。

5月29日
行幸御野立所跡

場所

https://maps.app.goo.gl/wyn4SsMptm1XtTYq6


やすらぎの塔(動員学徒慰霊塔)

地震により、2001年に銅像は解体され台座のみとなっている。
かつては、学徒をかたどった白い男女の像が台座の上にあった。
再建運動はあるが、なぜか再建されていない。
1958年建立。

動員学徒
やすらぎの塔
 内閣総理大臣岸信介書

やすらぎの塔
駿府城頭はるかに富士をのぞみ民族の悲劇に散った動員学徒の像が年経た今人々の心に刻まれた美姿そのままにひたすら霊よやすらかなれと祈りをこめて静かに建立された。 純潔にして凛々しかった君たち若人らは国家と運命を共にして一片の名誉すらなく献身の一字に消えた。 しかしながら人々はすべての悲善愛憎をのりこえて、この前にぬかずきふたたびくりかえすまじきことを誓って新たなる市民の使命を見出さんとしている、 君たち動員学徒の霊が限りなく希っているであろう自由と平和と真理のある国にすべく人々は君たちの像を永遠に仰ぎ見る。    
 昭和33年11月23日  
  静岡県知事 
   斎藤壽夫

場所

https://maps.app.goo.gl/tab5MjCQvD3M3Whp8


とこしえの塔(戦争犠牲者追悼碑)

戦争犠牲者追悼碑
静岡市は太平洋戦争により昭和19年(1944)12月7日から20年8月1日までの間に16回にわたり米軍機による空襲を受けました。 とりわけ昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけてB29爆撃機123機による大空襲を受け市内のほとんどが焦土と化しました。これらの空襲により静岡市民2000余人の尊い人命と貴重な財産が失われました。 またひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ幾多の戦場に散った静岡市出身の軍人軍属塔等7900余人の尊い犠牲も生じました。 私たち静岡市民はこのような悲惨な戦争を拒否し日本憲法の示す精神を体して昭和35年(1960)3月25日静岡市平和都市宣言をして永達の平和を誓いました。 いま終戦50周年(1995)を迎えるに当たり市民の血のにじむような努力により復興した県都静岡の市民憩いの地に戦争のむなしさを永く記憶にとどめ多くの犠牲者を追悼するとともに世界の恒久平和を祈念してこの碑を建立しました。   
 平成7年8月15日 
  静岡市長 小島善吉

静岡市戦災被爆地図

鳩と親子。
金の鳩がひときわに眩しい。

場所

https://maps.app.goo.gl/R9UHkZnA2FruaPePA


駿府城址

駿府城の東御門・巽櫓(復元)

東御門

鷹狩の家康公

天守台の発掘調査

駿府城の二ノ丸の南西の坤櫓(復元)

場所

https://maps.app.goo.gl/7QRK2Pe6rtFTAUwP8


陸軍歩兵第34聯隊の練兵場跡
(安東練兵場)

駿府城の北東に練兵場があった。

城東町と練兵場
この地は、もとは旧安東村と旧千代田村にかけて設けられた陸軍歩兵第34連隊の練兵場であった。
この石標は、明治30年(1897)に陸軍省用地の境界標識として先宮神社の北側に設置され、その後城東町の発足に伴い、この場所に移されたものである。
城東町は、昭和21年(1946)練兵場跡地に静岡市が戦災者および引揚者のために簡易住宅を建設したことに始まる。昭和25年城東町(通称)厚生会が設立され、昭和33年に大字北安東、緑町、水落三丁目の各一部を合わせて城東町が正式に発足した。
城東町厚生会は、平成6年(1994)城東町町内会と改称され、現在に至っている。
 平成10年12月 静岡市

境界標柱。

陸軍省所轄地

ちかくには、「講堂」(ガス訓練講堂)があったが、2023年6月に解体された。更地。。。

ストリートビューには残っている。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/b94wAZv4hNwZouUx8


駿府静岡の戦跡散策・その2 へ

※撮影:2023年12月


「野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊碑)」と「近衛野砲兵聯隊碑」(三宿駐屯地・陸自衛生学校)

桜の開花タイミングとはずれてしまったけど、世田谷区の三宿駐屯地が一般開放(桜並木の通り抜け)を実施していたので、足を運んでみました。


野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊)

野重八之碑
 下野一霍書

野重八とは、野戦重砲兵第8聯隊のこと。
下野一霍は、最終階級は陸軍中将。
1935年(昭和10年)3月、野戦重砲兵第8連隊長

野戦重砲兵第八聯隊は、我が国最初の機械化砲兵として大正11年8月15日創設せられ昭和20年大東亜戦争の終結に至るまでこの地に在り、その間日支事変及び大東亜戦争に際しては独立野戦重砲兵第八聯隊、同第十五聯隊、同第十六聯隊、同第二十聯隊を編成し十糎加農を装備せる、これら諸隊は軍砲兵として各地に転戦し赫々たる武勲を建てたり。ここに、これら諸隊に属せし元将兵一同これを記念して、この碑を建つ。
 昭和47年4月8日
  野重八会有志


近衛野砲兵聯隊の碑

近衛野砲兵聯隊は明治4年(1871年御親兵砲隊として竹橋に設置せられ、同31年(1898年)6月依頼にこの地に駐屯し、日夜皇居の非常号砲勤務に任じた。
この間、北白川宮成久王、成久王御父子二代にわたり、長期間在隊された由緒深い聯隊である。また西南、日清、日露の各戦役、日支事変、大東亜戦争に従って輝かしい勲功をたてた。
ここに縁故者有志相はかって記念碑をたて永く後世に伝える。
なお、この聯隊歌は昭和7年北白川房子内親王の御作によるものである。
 昭和43年12月
  藤江恵輔

藤江恵輔は最終階級は陸軍大将。
鈴木貫太郎の娘を妻とする。
野戦重砲兵第4旅団長を努めていた。
野戦重砲兵第4旅団隷下に、近衛野砲兵聯隊と野戦重砲兵第8聯隊があった。

北白川房子内親王(北白川宮成久王の妃)
「聯隊歌」の碑

 房子内親王
いぬる明治の大御代に
 屯をここに定められ
 忠勇奉公献身の
 心に生くる世田谷乃
あゝ、わが近衛野砲隊
 名誉は高し
  任重し

縁故者


陸自衛生学校として。

仁の碑

「仁」について
 「仁」は歴代校長の掲げられた衛生学校の指導理念であり、その意味するところは端的に申せば他人に対する慈しみの心である。人が二人と書いて「仁」である。一人は自分であり、もう一人は相手の人である。
 相手に対して自分と同等の人格を認め、相手の喜び、痛み、悩み、苦しみ、そして悲しみを自分のものとして受け止める心が「仁」の心であり、衛生科精神として示されている「骨肉の至情」・「挺身奉仕」の精神そのものに他ならない。
 我々衛生科に職を奉する者は、有事・平時を問わず「仁」に裏付けされた衛生科精神の涵養と衛生科技術の修得に努め、「一人でも多く生き残らせる」衛生支援に徹することが肝要である。
 昭和63年10月吉日
  第18代衛生学校長
   陸将補 芳賀 稔

陸上自衛隊 衛生学校


彰古館(医学情報史料室)

軍事医療、医学情報の史料館。事前申込制。
この日は、非公開でした。


三宿駐屯地 桜の通り抜け一般公開

3月23日の訪問。
例年より開花が遅れ、公開日に桜が咲いていない事態となったが、仕方がない。

わずかに咲いている桜を発見。

散策開放エリアは、衛生学校の中心部のみ。

陸上自衛隊 三宿駐屯地
陸上自衛隊 衛生学校

自衛隊中央病院

正門、ちなみに荷物チェックは無しでした。

防衛装備庁次世代装備研究所もある。

自衛隊中央病院

用廃のUH-1H。

東門。


世田谷区立平和資料館

東門の先には、世田谷公園。
かつては、駒沢練兵場であった。
世田谷公園に資料館があるので足を伸ばしてみた。

いろいろ配布資料もあります。

世田谷の戦跡

世田谷区の主な軍事施設跡地図

大正末期の世田谷地域軍事施設所在地

世田谷区とは関係ないけど、興味深かったのが、
「御真影 勅語 運搬箱」

そのほか

※撮影:2024年3月


関連


用賀駐屯地・陸軍衛生材料廠跡地散策(世田谷)

東京都世田谷区上用賀にあった陸軍の施設。その跡地を散策してみました。
なお、2回にわたり散策しているために、撮影日によって晴天だったり曇天だったりしています。


陸軍衛生材料廠
(現:陸上自衛隊用賀駐屯地ほか)

近代的な軍隊を維持するために、必要不可欠なのが医療衛生機関。
衛生材料と獣医材料等の制作、購買、補給などを行っていた。
もともと帝国陸軍の衛生材料廠本廠は、白金台にあったが大正12年の関東大震災で被災し、昭和4年に用賀に移転した。
また支廠は各師団司令部に付随して開設されていた。

用賀の陸軍衛生材料廠は、現在の陸上自衛隊用賀駐屯地、国立医薬品食品衛生研究所、駒沢大学附属高校、覆馬場などを含むエリアにあった。
陸軍の衛生機関を継承した陸上自衛隊用賀駐屯地は、旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設。旧軍時代から衛生材料の兵站中枢を担っている。

なお、この地にあった「国立医薬品食品衛生研究所」は川崎に移転しており、用賀支処は2029年(令和11年)度以降に防衛省三宿地区(世田谷区・目黒区)に、東京音楽隊は2024年(令和6年)度に東立川地区(立川市)に、それぞれ移転する予定があるという。

移転後の建屋がどうなるかは不明。解体されるかもしれず、いまのうちに見ておくのが良いかも、です。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-132_19480329
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真。

一部加工。


陸上自衛隊・用賀駐屯地

2024年3月23日に、用賀駐屯地一般開放が実施されました。桜見学という名目の一般開放でしたが、桜はまだ咲かず、見学者も皆無な状態でしたが、隊員さんの案内ガイド付きで貴重な建屋を見学できました。
ありがとうございます!
案内をしていただいた隊員さんによると、なんと20年ぶりの一般開放だったとか。格別な集客の広報もされていなく、地元周辺住民との交流をメインとした公開は、シークレット的な状態で、かなり偶然の産物で足を運べた私は、かなりラッキーでした。

関東補給処用賀支処

陸上自衛隊用賀駐屯地


陸軍衛生材料本廠跡碑

陸軍衛生材料本廠跡
 元陸軍薬剤中将 田口文太 書

昭和40年5月建立

揮毫した、田口文太は、日本の陸軍で活躍した薬剤師。
東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任。
1931年(昭和6年)に、陸軍省の外局である陸軍衛生材料廠にて廠長に就任。
1935年(昭和10年)には陸軍薬剤総監に就任し、陸軍全体における薬剤師の最高位を占めた。最終階級は陸軍薬剤中将。


陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場

現在、陸上自衛隊用賀駐屯地内にある「陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場」は、昭和4年の造営。
用賀駐屯地内で許可を得て撮影。

以下は、敷地外から。
「国立医薬品食品衛生研究所」が解体されたので、敷地外からよく見えるようになった。


陸軍衛生材料廠・倉庫建造物3棟

3棟ならんでいる建造物も、陸軍衛生材料廠時代の建物。
南側2棟は、蹄鉄工場と同じく昭和4年造立。北側の1棟は、それよりも新しいという。
ドイツ人の設計による倉庫建造物は、東西南北にそれぞれ出入り口を設けており、倉庫内の東西には庫内の物流をスムーズにするためにレールが引かれている。

レールの跡がわかる。


国立医薬品食品衛生研究所跡地

国立医薬品食品衛生研究所敷地内にも往時の建物があったらしいが、2022年から解体が始まり、すでに更地。


陸軍衛生材料廠・境界壁

外壁は、陸軍衛生材料廠時代のものという。

上部が波打っている意匠的な境界壁は、ほかではあまり例を見ない。

この部分は民家の壁になっている。デザイン的に切り取ったのかもしれない?


「陸上自衛隊」交差点

交差点の名称が「陸上自衛隊」。そのものズバリ。


陸軍衛生材料廠・周辺散策

昭和薬科大学世田谷校舎跡地

駒澤大学高等学校

海上自衛隊 東京音楽隊

※移転予定

JRA覆馬場(馬事公苑)

最寄りの桜新町は、サザエさんの街ですね。

※撮影:2024年3月


関連

東洋のマタハリ・男装の麗人、満洲国建国に協力した清朝王女「川島芳子」墓と記念室(松本)

信州松本に訪れた際に、川島芳子が松本に縁があったと知り、足を運んでみました。雪が降っていたけれども。。。


川島芳子

川島 芳子(かわしま よしこ)
1906年5月24日 – 1948年3月25日
清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。
本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)
字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子、他に芳麿、良輔とも。

父の粛親王は、中国清朝末期の皇族で、清朝で近代化改革を促進したが、辛亥革命時に北京を脱出し、日本陸軍参謀本部の保護を受けて旅順に逃避。そのときに8歳であった愛新覺羅顯㺭(第14王女)は、父の粛親王の顧問だった川島浪速の養女となった。

川島浪速は、信州松本藩士の家に生まれ、中国語を学び1900年の義和団の乱の際は、陸軍通訳官として従軍。
日本軍撤退後は、清国に雇用され中国初の近代的警察官養成学校であった北京警務学堂の総監督に就任し、義兄弟の関係を結ぶほどに粛親王と深い親交があった。

愛新覺羅顯㺭は、川島浪速の幼女となり、川島芳子という日本名で日本で教育を受けることとなった。
1915年に来日した川島芳子は、当初東京赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通学。
卒業後は跡見女学校に進学。
やがて川島浪速の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住。松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学していたエピソードが残っている。

17歳でピストル自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになり、マスコミも取り上げ、「男装の麗人」と呼ばれるようになった。
昭和2年(1927)に、19歳で蒙古族の巴布扎布(パプチャップ)将軍の二男カンジュルジャップと結婚するが3年で離婚。カンジュルジャブは満州国軍の軍人で最終階級は陸軍中将。
離婚後は、上海にわたり、上海駐在武官の田中隆吉少佐と親交を深る。
昭和6年(1931)の満洲事変では、天津から満洲へ愛新覚羅溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことに協力し、婉容を天津から旅順へ護送する任務を担った。
また、第一次上海事変にも関わったとされている。

昭和8年(1933)、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(熱河民国連合定国軍、安国軍または定国軍とも)が組織され、川島芳子(金璧輝)は総司令に就任し熱河作戦に従事したことをきっかけに、川島芳子は「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれることになった。関東軍も「清王朝の王女が率いる義勇軍」として最大限に有効活用した。
ただ昭和9年(1934)以降は、関東軍と満洲国を巡って軋轢が生まれており、軍部批判も行っており、監視対象となっており、芳子は料亭「東興楼」を経営し女将となり、第一線で話題にあがることも少なくなっていた。

昭和16年(1941)から昭和20年(1945)の太平洋戦争中は、川島芳子は満洲国を出ずに、特に目立った活動はなかった。

昭和20年の日本敗戦後、10月に北平で中国国民党軍に逮捕された川島芳子は、漢奸(中国語で「国賊」「売国奴」の意)として訴追され、1947年10月に死刑判決が下され、1948年3月25日に北平第一監獄の刑場で川島芳子は銃殺刑に処された。41歳であった。
奇しくも、第一次世界大戦でフランス軍によってマタ・ハリが処刑されたのも41歳で、没年が同じ歳であった。

川島芳子の遺骨は、後に信州の養父・川島浪速のもとへ届けられた。1949年に浪速が83歳で死去すると、芳子の遺骨はともに松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある川島家の墓に葬られた。

川島芳子 辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん


川島芳子の墓(正麟寺)

養父であった川島浪速と一緒に葬られている。

國士 川島浪速墓
    同婦人 福子
    同女 芳子

男装の麗人
 川島芳子さん
 川島芳子さんは、1906(1907) 年、清国 粛親王の第13王女として生まれ、大正3年 9歳のとき、旧松本藩士で当時の満蒙に活躍し国士といわれた故川島浪速翁の養女となり、同翁とともに浅間温泉に居を移し、松本高等女学校(現 蟻ケ崎高校)に入学、馬に乗って通学するなど、お転婆娘といわれ 市民の話題の的となった。
 その後 戦前の中国大陸を舞台に男装の麗人といわれ、満洲国建立のため大活躍をし有名を馳せたが昭和23年2月、42歳の若さでその波乱の生涯をとじました。

男装の麗人
川島芳子さんの墓案内図

最初、適当に墓所を巡っていて迷子になりまして。
正麟寺の奥、松本市営葬祭センターの脇に看板がありまして、見れば、迷うこと無く。

川島家の墓。

合掌

肅忠親王善耆(川島芳子の実父)の書碑が、川島家の墓所に建立されている。

正麟寺

曹洞宗蓬莱山正麟寺
(小笠原長時公菩提寺)
 室町時代中期に草創され、古くは少林寺と号した。天正11年(1583)に長時公の菩提寺となり、長時公の法名正麟に因んで、正麟寺に改められる。
 明治の廃仏毀釈で一時無住となるが、復興し、永平寺直末となる。墓地には「男装の麗人」といわれ、満州国建国に尽力した川島芳子の墓がある。
 平成22年7月
 白板地区史跡研究会

場所:

https://maps.app.goo.gl/jpz4SFLd7f8qmkVB9


長野県松本蟻ヶ崎高等学校
(旧・松本高等女学校)

川島芳子が通った松本高等女学校。現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校。


川島芳子記念室(松本市歴史の里)

松本市歴史の里には、川島芳子記念室がある。

松本市で少女時代を過ごした川島芳子のゆかりの品を展示する川。川島芳子記念室は川島芳子没後50年にあたる1998年に開設。

満洲国陸軍上将の軍服を着用した川島芳子

コレクション展示
川島芳子記念室
中国清朝の皇女として生まれ、のちに松本出身の大陸浪人川島浪速の養女となり、「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」として知られた川島芳子の関係資料を展示。

川島芳子記念室
Memorial Room of Yoshiko Kawashima
 川島芳子は明治40(1907)年、清朝の皇族である粛親王(しゅくしんのう)の、第14王女として北京に生まれ、本名は愛新覚羅顕㺭(あいしんかくら けんし)。同44年、芳子が4歳のとき辛亥革命がおこり 清朝は崩壊、父親と親交のあった、松本出身の大陸浪人川島浪速(なにわ)の養女となり、日本で育ちました。
 芳子は川島の転居に伴い松本高等女学校に入学しますが、学校まで馬で通ったエピソードは有名です。
 20歳で蒙古族の将軍の息子と結婚するも、まもなく離婚。のち清朝の復活を願い、日本軍に協力して、さまざまな謀略工作に関わったといわれ、「東洋のマタハリ」、「男装の麗人」などと、世間の注目を浴びますが、その活動の実際は明らかになっていません。
 戦後 中国国民党政府に逮捕、「漢奸(国賊)」として昭和23(1948)年銃殺刑に処せられました。
 没後50周年にあたる平成10(1988)年、芳子を偲ぶ有志により、松本市歴史の里の前身である「日本司法博物館」(当時)内に、記念室が設けられました。

川島芳子資料室

川島芳子の書

日本人たる前に亜細亜人であらねば成ぬ

肅忠親王善耆(芳子の実父)の書(川島家の墓にある石碑の拓本か?)
川島芳子の書
川島浪速の書

愛馬(太郎)とともに。大正10年。
川島芳子は15歳。
松本高等女学校時代は、愛馬に跨って通学をしていた。

男装の川島芳子

川島浪速と川島芳子

王道
 若宮八幡神社寶前
  昭和丁丑夏日
   愛新覚羅氏第十一世
    肅親王 川島芳子

昭和12年の銘

大正十五年のサンデー毎日
川島芳子(川島芳麿)の記事。

東洋のジャンヌ・ダルク
逆転の美女川島芳子

男装の麗人川島芳子さん
満洲建国の為め東奔西走男子も及ばぬ活躍を続け建国史を採った女丈夫川島芳子さんは養子に擬せられて居る金辟王を伴い末朝した
写真甲子園ホテルに於ける川島芳子さんと金辟王

電送ニュース昭和9年12月19日

男装の麗人

川島芳子の直筆原稿(写し)

父上様 御前に

戒名

芳雲院龍種東珍大姉霊位
 浪速定

芳子の字は東珍であった。
実父の粛親王が養子に出すときに、東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いをこめて「東珍」とつけた。

辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん
 川島芳子

川島芳子周辺地図。
実は、さきに川島芳子記念室を訪れて、そこで墓所を知って、足を伸ばした次第。

展示・休憩棟の川島芳子記念室がある。


旧松本区裁判所庁舎

「松本市歴史の里」内に。

重要文化財
旧松本区裁判所庁舎
明治41年(1908)、松本城二の丸御殿跡に建立。
明治後期の区裁判所庁舎の典型的な特徴を残す。

https://matsu-haku.com/rekishinosato/shisetsu


大庭駅

川島芳子記念室のある「松本市歴史の里」の最寄り駅は、アルピコ交通上高地線(通称・松本電鉄)大庭駅。

1921年(大正10年)10月2日、筑摩鉄道(後の松本電気鉄道、現在のアルピコ交通)により島々線として松本駅 – 新村駅間6.2 kmが開業。川島芳子が松本にいたときとほぼ同じ頃に開通。


松本城

雪の松本城。せっかく松本にいたので。

帰路の「特急あずさ」

※撮影:2024年3月


満洲関連

「ともちゃん地蔵」満洲難民収容所の悲話を伝承するお地蔵様(六本木)

麻布十番から六本木ヒルズへ抜ける道の途中に、戦争を物語るお地蔵様がいらっしゃいました。

この記事は、六本木の「ともちゃん地蔵」になります。
岩槻の「ともちゃん地蔵」は下記にて。

箱根や浜松にもありますが、まだ未訪問です。。。


ともちゃん地蔵

ともちゃん地蔵は、増田昭一さん(2020年12月に急逝、ドラマ「遠い約束」の原作者)が自身の体験をつづった「満州の星くずと散った子供たちの遺書 新京敷島地区難民収容所の孤児たち」に収められた「ともちゃんのおへそ」という伝承に基づく。
「ともちゃんのおへそ」は、のちに絵本にもなった。

公益財団法人中国残留孤児援護基金 中国帰国者支援・交流センター 

https://www.sien-center.or.jp/

ともちゃんのおへそ

https://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/shuki/sm/hokuman_top.html

増田昭一の本

http://www.yumekoubou-t.com/raiburari/masudasyouitinohonn.html

~ともちゃんの おへそは お母さんの顔~

ともちゃん地蔵の碑
「お母さんに会いたいときはおへそを見なさい。きっとお母さんに会えるでしょう。」
ともちゃんのお母さんは収容所の死の床でそう言いました。
お母さんのお墓の前で毎日ともちゃんはおへそを眺めました。
そんなともちゃんも厳しい冬が来ると、身体をくの字に曲げておへそを見ながら死んでいきました。
遠い昔、中国の北の街にそんな子供たちがいたことを忘れないでください。
二度とこんな悲しみを子供たちに負わせないでください。
 2001年7月29日
 語りつごう ともちゃんの会
  代表 千野誠治

引き揚げ経験者で中国残留孤児の支援にも尽力した千野誠治さんは2014年に89歳でなくなっている。

ともちゃんの おへそは お母さんの顔

「ギャラリー壁」には千野誠治さんの作品なども展示してある。

ちかくの食堂の看板にも「ともちゃん地蔵」が。
「海南鶏飯(シンガポールチキンライス)」。

増田昭一さんの『満州の星くずと散った子供たちの遺書』を知った、千野誠治さんは「語りつごう、ともちゃんの会」を立ち上げ、絵本「ともちゃんのおへそ」を企画。
「ともちゃん地蔵」を、東京六本木を皮切りに、全国各地に賛同者を得て造立してきたという。
そうして、ともちゃん地蔵は、ここ六本木のほかに、箱根(阿弥陀寺)、岩槻(慈恩寺玄奘塔)、浜松(浜名区根堅)にある。

場所

https://maps.app.goo.gl/mA826kPq8xFJtmfG9

撮影:2024年1月


関連

浅草「まんしゅう母子地蔵」の願主も、千野誠治さん。

西多摩墓苑の「中国帰国者之墓」の建立にも千野誠治さんが関わっている。

東京大空襲と下町(墨田区北部・押上・東向島)

東京大空襲と下町。
錦糸町駅と亀戸駅周辺の社寺にある慰霊碑を巡ってみる。

慰霊巡拝を。


東京大空襲被災の鉄骨と焦木片
(多聞寺)

多聞寺に戦争遺産がいくつかあつめられていた。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は“炎の夜”と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
 この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃団を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎり、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
 戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、
 不殺生の誓いを新たにしましょう。
  隅田山 多聞寺

戦災の証言者
 パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための堀削により発見されました。
 東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
 ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。
 当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。
 戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。
 1992年10月18日 戦災の木を保存する会

平和観音(多門寺)

平和観音
観自在菩薩の 手に蓮華を執って
一切衆生の身心の中に 本来清浄の理あることを表す
 弘法大師

貪りと瞋りと愚かしさに毒された私たちは、本来の仏さまのいのちに覚め、内なる心の平和と外なる世界の平和を具現し密厳仏国土建設への無尽の願いと誓いをこめて、ここに平和観音を建立し弘法大師御入定千百五十年御遠忌の報恩謝徳の行といたします
 南無大師遍照金剛
  仏紀二千五百五十年春
   墨田山多門寺山主
         檀信徒一同

東京大空襲の犠牲者と平和祈念の観音様。

多門寺。建立は慶長11年(1606年)。
隅田川七福神。

多聞寺山門は、墨田区に残る最古の建造物。
享保3年(1718年)の焼失後に再建。

場所

https://maps.app.goo.gl/BnFRsTa7SBSj82Jx9


戦災クスノキ(第二寺島小学校の戦災樹木)

東武線「東向島駅」近くにある「墨田区立第二寺島小学校」校庭の「くすのき(クスノキ)」。
樹齢400年以上ともいわれる。
墨田区の約7割が焼けた昭和20年3月10日の東京大空襲にも耐えた。

東向島駅の窓から覗くことも可能。

場所

https://maps.app.goo.gl/3op9PZU8J3EXgtjp8


平和地蔵尊戦災者慰霊之碑と戦災殉難者之精霊供養塔(吾嬬西公園)

吾嬬西公園の一角に平和地蔵尊と慰霊碑ある。
この地は、東京大空襲の犠牲者の仮埋葬地でもあった。

戦災殉難者之精霊供養塔

戦災者慰霊之碑
平和地蔵尊
 昭和三九年十月吉日建設 
  世話人一同

場所

吾嬬西公園

https://maps.app.goo.gl/MTipoh6smKvs9m5T6


戦災イチョウ(飛木稲荷神社の戦災樹木)

飛木稲荷神社の境内にひときわに存在感があるイチョウ(公孫樹)も戦災樹木であった。

社名の飛木の由来ともなっている御神木のイチョウは樹齢500~600年といわれ墨田区内随一の大木、区の天然記念物に指定されている。
暴風雨によって飛んできた銀杏の枝がこの地に刺さり、いつしか大樹となったそうで。

”身代り” 飛木の焼けイチョウ
名前の由来
昭和二十年 ( 1945年 ) 三月十日の東京大空襲で、ご神木 ( 神霊が宿っているとされる木 ) は、我が身を焦がし、懸命に災をくい止め、町の延焼を防ぎました。
そして幸いにも多くの人達が助かりました。 
ご神木は、戦災という大きな悲劇を乗り越え、数年を経て緑の芽を吹き出しました。
このようにたくましく生き延びた縁起のイチョウです。 今の世にあって、私達に生きる勇気と希望を与えてくれています。 
きっと焼けイチョウは、大変な戦争があったという事を、これから先も伝えてくれることでしょう。
 平成二十二年六月吉日 
  飛木稲荷神社総代一同

黒く焼け焦げた幹の木が、東京大空襲の焼夷弾の火勢を物語っている。

国威宣揚
 昭和八年四月建之

場所

https://maps.app.goo.gl/uUq7abHLwBxmxuwb7


大東亜戦争殉難者之碑(圓通寺)

前述の飛木稲荷神社の隣に鎮座している圓通寺には、慰霊碑がある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city008/index.html

大東亜戦争殉難者之碑
 昭和二十年三月十日

元吾嬬町西一丁目連合町会長 小野内寿松
               外役員一同
昭和四十三年三月十日建立
              野澤勝治書

境内の仏さまも戦災被害で、焼け焦げてしまった。

場所

https://maps.app.goo.gl/j96Tfk8PAtoQGTVz6


言問小学校

昭和11年(1936)に建てられた現役の近代学校建築。
2023年に校舎と講堂が国の登録文化財に指定された。

https://www.city.sumida.lg.jp/kosodate_kyouiku/tiiki_kyouiku_shien/bunkazai_hogo/bunkazai_itiran/new_shoukai/kototoishou_toushin.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/558065

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/524334

場所

https://maps.app.goo.gl/De77pRfDpGhongeX8


安全地蔵(とうきょうスカイツリー駅)

とうきょうスカイツリー駅の近くに「安全地蔵」といわれる地蔵があり、平和祈願の地蔵でもあるというのだが、立体化工事の影響で、どこに祀られているのやらで、所在不明。
駅工事が終わったら、再訪してみましょう。

※撮影:2022年4月及び2024年3月


慰霊碑(牛嶋神社)

牛嶋神社境内に、戦没者を慰霊する碑が建立されている。

慰霊碑
 靖国神社宮司 筑波藤麿 書

建碑ノ言葉
元本所区出身過去戦役事変戦災ニ依リ祖国防衛ノ為メ名誉アル戦病死ヲ遂ゲラレタル諸英霊ニ対シ聊カ御霊ヲ慰メンタメ旧本所区在郷軍人の有志並ニ本趣旨ニ賛同セラレタル同士ト共ニ祖国再建発足十周年ノ記念ノ日ヲ選ビ茲ニ慰霊ノ碑ヲ建ツルモノナリ
 昭和30年8月15日

場所

https://maps.app.goo.gl/Wi2DqvSWFBaMvE2s5

※撮影:2020年9月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(墨田区江東橋と江東区亀戸周辺)

東京大空襲と下町。
錦糸町駅と亀戸駅周辺の社寺にある慰霊碑を巡ってみる。

慰霊巡拝を。


慰霊碑・戦災殉職者慰霊碑
(江東寺・江東観世音)

錦糸町駅の南に。
当初、木塔碑があったが17回忌の昭和36年に町内会有志により「慰霊碑」石碑が建立された。

戦災殉難者慰霊碑建設趣旨
この碑は昭和20年3月9日夜半より10日の暁にかけて米機の大空襲に伴う戦禍により愛国純真の人々が劫火のうちに仆れた誠に哀悼に耐えぬものがあり、よっってここに慰霊碑を再建したものである。
この碑を建立した企図は当時の太平警防団々長長谷川秀吉氏外団員と町会有志各位により当所に木塔碑を建立して其の霊を慰めた。
その後塔の老朽甚だしく為に再建の議が起りたまたま元管内の有志諸氏相より其の実現に当り関係各町発起人及び委員各位に相計った結果17回忌を迎うる日を記念し建立の運びになった。
その後更に各町より150名よりなる建設委員によって建碑会を結成し530数氏の賛助協力によって建碑奉献の実現を見るに至ったものである。
 昭和36年3月建碑に当たりて

五徳山 江東寺 江東観世音
昭和15年建立

場所

https://maps.app.goo.gl/1cRAHe4qMw23XFig8


戦災殉難者供養之碑
(普門院)

亀戸駅前に建立されていた慰霊碑が、昭和30年の都市開発計画によって、普門院(普門寺)に移転した。
あわせて仮葬されていた遺骨なども普門寺に納骨され、一部が分骨として東京都慰霊堂にも納骨されたという。

昭和20年3月10日歿
戦災殉難者供養之碑
縁山辯匡書

この碑は昭和貮拾年参月拾日の亀戸地区戦災殉難者供養のため建立せられたものであります
本年三十三回忌を迎えるに当り記念事業として永く後世に傅えるため碑及び周辺の整備改修を行い再び惨禍を繰り返さないことを念願し諸霊位の冥福を祈るものであります
 昭和五拾貮年参月拾日
  亀戸町会連合会

時も忘却も我が泪を乾すまじ
  この碑は昭和二十年三月十日我国で最初の大量の犠牲者を出した大空襲による多くの殉難者を悼むために亀戸駅前の焦土に建てた供養碑であります
  昭和二十九年晩秋都市區割整理に依て奉賛会は普門院の浄域を擇んで移転し平和の礎となつた貴い人々の冥福を永遠に祈るために奉安しました
 昭和三十年三月十日 誌

場所

https://maps.app.goo.gl/Smsc76eyRDssFyiy9


戦災受難者慰霊地蔵尊・戦災受難者之碑
(光明寺)

普門院と光明寺は隣り合っているが、入り口は真逆となっているので、敷地を周回する道路をぐるりと回り込んで参拝。

戦災受難者慰霊地蔵尊

昭和43年3月建立

城東三業組合
戦災受難者之碑
昭和20年3月10日

昭和36年3月10日建立

場所

https://maps.app.goo.gl/sTquP3bR8wLcHmV59


戦災殉難者慰霊之塔・戦災懐古の碑・戦災精霊五十回忌供養塔
(明源寺)

戦災殉難者慰霊塔は、地元の有志が1965年(昭和40年)3月に建立。

その右にある戦災精霊五十回忌供養塔は、1994年(平成6年)3月10日、五十回忌法要とともに戦災供養会一同によって立てられた。

戦災殉難者慰霊之塔
時に昭和二十年三月十日未明空襲における戦災殉難者及び地區内百二十余命の霊を慰めるものなり
昭和四十年三月建立
 発願人 中田武雄

戰災精霊五十回忌供養塔
爆音鳴響米機來 一意護都遇戰災
君死我存今日到 叩頭僅獻慰霊杯
追憶献杯 二十五世 巨宗萬年

暗雲低覆我家偕 満目荒涼累積骸
來襲米機焚萬物 敗兵涙見墨東街
戦災懐古
 昭和四十二年三月
 まん つくり かく

https://maps.app.goo.gl/2yFG2HTBjSbcGvXJ6


日露戦役祈念百度碑
(亀戸香取神社)

これは、東京大空襲とは関係なく。通りかかった亀戸香取神社にて。

https://maps.app.goo.gl/SPEnzWehD3kLgtQV6

※撮影:2023年6月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から79年(令和6年・東京都慰霊堂と東京大空襲戦災犠牲者追悼碑)

令和6年(2024)3月10日。
あの日から79年目。
昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲。

東京都慰霊堂にて、慰霊鎮魂の合掌を。
今日は、慰霊の日。


東京大空襲

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
罹災者は100万人を超え、死者は10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。
慰霊鎮魂の日として、「東京都平和の日」となっている。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

午前9時45分。
10時からの法要にあわせて、秋篠宮殿下・同妃殿下がご参列に。

秋篠宮家の公用車は「三菱・ディグニティ(DIGNITY)」
20年以上も愛用されている秋篠宮家の専用車。
(三菱の最高級乗用車であったが生産台数は59台と、日本製乗用車では例題最小生産数で、ある意味で幻の乗用車)

10時25分頃、秋篠宮両殿下が退出。

だいたい11時位に、一般参列が可能になります。

合掌

納骨堂も開扉されていました

三重塔を模した納骨堂

甘酒、ありがとうございます

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

内部には霊璽簿が奉納されており、3月10日と9月1日の春秋の法要にあわせて、内部で手を合わせることが可能。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html


東京水辺ライン(隅田川・水上バス)

「両国リバーセンター」から「浅草二天門」まで水上バスで移動します。
両国12時15分の便が、ちょうどよく。

駒形橋

アサヒビール本社とスカイツリー

東武鉄道

言問橋

水上から言問橋を見るのは、実は、はじめて。

往時を思い起こしながら。

東京大空襲では、浅草(台東区)の人々は「川の向こうに行けば助かる」と考え言問橋を渡ろうとした。
同じく向島・本所深川(墨田区)の人々も「対岸へ」と橋に殺到。
向島本所地区は、すでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となった。そこに焼夷弾が落ち、言問橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。
言問橋の親柱は、その時の黒焦げた焼き跡が今も残っている。


東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

東京大空襲犠牲者追悼集会

被災79周年
東京大空襲犠牲者追悼集会
 主催 東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会
 共催 台東区
 後援 台東区教育委員会

実行委員長の挨拶

台東区教育委員の挨拶

日本共産党の小池氏の挨拶

被爆体験者のお話し

毎年のことではあるが、語り継ぐべく、記録を。


東京大空襲関連

2023年

2022年

2021年

そのほか

東京大空襲・慰霊
戦災電柱
東京都戦没者霊苑

駆逐艦「朝霜」「梅」と重巡洋艦「愛宕」戦没者慰霊碑(三島・妙法華寺)

静岡県三島市の山中に静かに鎮座する玉澤妙法華寺(妙法華寺)。
その境内に、軍艦の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


「愛宕」「朝霜」の慰霊碑建立の経緯

昭和19年(1944)10月。
捷一号作戦、レイテ沖海戦。
第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将は、重巡洋艦「愛宕」に座乗し、第一遊撃部隊第一部隊(通称:栗田艦隊)は、10月22日にブルネイを出航し、レイテ島に向かった。
翌日10月23日に米国潜水艦が栗田艦隊を発見し、雷撃を実施。栗田艦隊の旗艦「愛宕」に魚雷が命中し、愛宕は20分後に転覆沈没。1197名の乗員のうち、492名が駆逐艦「朝霜」に、221名が「岸波」に救助され、484名が戦死したという。
駆逐艦「朝霜」は、愛宕生存者を救助後に、駆逐艦「長波」とともに、同じく雷撃を受けて応急修理を行っていた重巡洋艦「高雄」の警戒と護衛を実施。「高雄」に留めを刺そうとする米潜水艦による攻撃を断念させた。

昭和20年4月。

坊の岬沖海戦。沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)
4月6日。
沖縄特攻部隊として、第二水雷戦隊第21駆逐隊「朝霜」(司令駆逐艦)、僚艦の「初霜」「霞」は、第一航空戦隊戦艦「大和」(第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」、第17駆逐隊「磯風」「雪風」「浜風」、第41駆逐隊「冬月」「涼月」とともに徳山を出撃。
翌日7日に、朝霜は機関故障を起こし速力低下し艦隊から落伍。応急修理を実施するも復旧せずに、単艦で米軍機と戦闘。孤軍奮闘し『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶え消息が途絶えた。朝霜乗組の第21駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、327名の将兵は、消息不明となった朝霜と殉じ、全員戦死認定された。

昭和32年
三島市の高橋氏が朝霜で戦士した息子を思い、朝霜戦没者遺族に呼びかけて、戦没者の冥福を供養する為に玉沢の妙法華寺に「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」を建立。

昭和55年
「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前での慰霊祭を耳にした、軍艦愛宕元乗組員が、愛宕沈没時に乗組員を救助した朝霜の英霊に感謝し、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前にて、軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により施行し、併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。
その折に、「愛宕戦没者慰霊碑」建立を決定し、妙法華寺の理解を得て、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」と並んで建立された。

慰霊碑建立の経緯
 軍艦「愛宕」は、重巡洋艦(壱万屯)で戦時中は第四戦隊の旗艦として活躍し、昭和十九年十月二十三日、比島パラワン島沖の回線で不運にも轟沈せり。乗組員(司令部付を含む)一一九七名のうち戦死者四八四名、その折り救援の駆逐艦「朝霜」が四百九二名同じく「岸波」が二二一名救出せり(戦闘詳報より)駆逐艦朝霜は昭和二十年四月七日沖縄特攻部隊として出撃中、敵機三十余機と交戦、武運拙く第二一駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、三二七名の将兵は九州南端沖に護国の鬼と化し、悲惨、艦と共に轟沈。全員戦死せり。駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑の建立は三島市中央町高橋実衛氏(錦店)の父晋吾氏が五男通夫氏も朝霜で戦死したので、子を想う親として同憂の全国の朝霜戦没者遺族に呼びかけ、先達となり全国を行脚し、尚私財を投じ戦没者の冥福を供養する為に玉沢の聖地に、昭和三十二年春建立したものである。
 毎年命日には遺族会長小滝国雄氏(故 小滝司令息子)のもと全国より遺族が碑前で慰霊祭を行っておるがその祭事を地元海軍出身者の集いである海軍会員が協賛し、厳粛盛大に行っており、時候的に玉沢は桜花咲き乱れ好時期であり桜花の如く散りし戦没者を想い同じ海軍にありて運よく達者である事を感謝しつつ戦没者のご冥福を祈念し祭事に奉仕しておる三島地方の出身者海軍会であります。
 この事を軍艦愛宕元乗組員が知り愛宕沈没の折り身を悌し救助に活躍した駆逐艦朝霜の英霊の碑前で先年軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により海軍会員多数列席佛式により厳粛に施行し併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。その折愛宕戦没者慰霊碑建立の議を決し、妙法華寺の御理解を得て駆逐艦朝霜の碑と並びに建立する事が決り愛宕関係者や海軍出身者その他各界の協賛を得て昭和五十五年十月二十三日建立されました。
 敵味方入り乱れての激戦の最中沈没寸前に救助された生存者の感謝が朝霜の英霊に答えるや如く愛宕戦没者の慰霊碑が建立された事は、戦後三十余年を迎え遅ればせながら両艦の偉勲をたたえると共に、慰霊と御供養になることを信ずるものであります。
 願わくば、此の慰霊碑建立によって永年に平和を願い戦争の悲劇を再び繰り返さないよう楯となっていただき祖国日本をお守りくださることを念願してやまない次第です。
 このようにして由緒深い玉沢の妙法華寺境内に大東亜戦の生んだ海軍の遺跡が生現した次第であります。
  昭和五十五年十月二十三日
   三島田方駿東海軍会


駆逐艦朝霜戦没者之碑
(駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑)

駆逐艦朝霜戦没者之碑
正二位勲一等 小笠原長生 書

駆逐艦朝霜の戦歴
 駆逐艦朝霜は大東亜戦争中 帝国海軍第二艦隊第二水雷戦隊に所属し、太平洋海域の主要作戦に参加、奮闘した。
 昭和二十年四月六日、戦艦大和ほか九隻で水上特攻隊を編成し、米軍による沖縄侵攻を阻止するため、同地に向け 三田尻沖を出撃し 四月七日正午頃 九州南西方面海域において敵機多数と交戦、奮闘するも力及ばず、旗艦 大和 宛て
「我、敵機 三十機と 交戦中」との電報を最後に 十二時十分頃 同海域に沈没、乗組員全員三百二十九柱は 艦と共に 壮絶な最後を遂げた。
 ここに同艦の赫々たる功績を称え、戦没者諸柱の鎮魂のため、此の碑を建立する。


一、建造
   竣工 昭和十八年十一月二十七日
   場所 藤永田造船所(大阪)
二、要目
   排水量 二、〇七七 屯
   全長 百十七米 全幅一〇・八 米
   吃水 三・七六 米
   主機 蒸気タービン二機二軸
   出力 五二、〇〇〇 馬力
   最高速力 三十五 節
   装備 主砲 十二・七糎 二連 三基
      魚雷 六十一・〇糎 四連 二基
   乗員 約三百名
三、戦歴 (参戦した主要な作戦)
   あ号作戦(マリアナ沖海戦)
   捷一号作戦(レイテ沖海戦)
   多号作戦(オルモック輸送作戦)
   礼号作戦(ミンドロ島沖作戦)
   天一号作戦(沖縄突入作戦)

跋文
「駆逐艦朝霜戦没者之碑」は昭和三十一年 同艦沈没時、艦と運命を共にした乗組員総員の鎮魂のために建立された。
 「駆逐艦朝霜戦没者之碑」の建立にあたっては朝霜会地元世話人 髙橋晋五殿の並々ならぬ御苦労があった。
 三島市玉澤の聖地に立つ此の碑を心の拠りどころとして爾来三十数年に亘って遺族と元乗組員から成る朝霜会は、毎年一回此の地に集い相互に親交を深め励ましあって戦後の荒波を乗り越えてくることができた。
 此の度、北海道亀田郡七飯町の遺族 森本絹子殿は篤志を以て英霊の供養のため本戦歴碑を寄進された。
  平成二年四月七日 
   駆逐艦朝霜会一同

揮毫の小笠原長生さん、、、昭和31年建立の慰霊碑にも揮毫されていました。小笠原長生は昭和33年に90歳で没しているので、戦後は、海軍の大長老といったところ。

大和、、、坊の岬沖海戦。


軍艦愛宕戦没者之碑
(軍艦愛宕戦没者慰霊碑)

軍艦愛宕戦没者之碑
参議院議員 源田実 書

巡洋艦 愛宕
巡洋艦愛宕は、広島県呉海軍工廠に於て昭和7年3月30日竣工し排水量12,400屯、太平洋戦争に当り、マレー沖海戦・マレー比島上陸作戦支援・ミッドウェー海戦・アリューシャン攻略戦・南太平洋海戦・ソロモン沖海戦・ガダルカナル攻防戦・マリアナ沖海戦・比島沖海戦等に参加。昭和19年10月23日比島パラワン島西方東経1177北緯922に於て敵潜水艦の雷撃により乗組員480余名と共に沈没す。
我等九死に一生を得て生存した愛宕乗組員は、共に戦った戦友と愛宕の御霊を慰め、永くその名を後世に留めようと決意し、ここに真心をこめて慰霊碑を建立した。
 昭和55年10月23日
  愛宕慰霊碑建立委員長  芹沢吉作
        副委員長  平山正晴
        副委員長  冨樫雅文
  静岡愛宕会会長     山下三男
  三島田方駿東海軍会会長 星谷庄作
   (略)


駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
(駆逐艦梅戦没者慰霊碑)

駆逐艦「梅」の慰霊碑が当地にある由来は不明。

駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
艦長 海軍少佐 従六位勲四等 大西快治 書

駆逐艦「梅」
丁型一等駆逐艦第5483号艦として藤永田造船所にて、昭和19年6月竣工した。昭和19年10月のレイテ作戦には参加せず、台湾方面輸送作戦に従事していた。

「パトリナオ輸送作戦」
駆逐艦「梅」は、昭和20年1月31日、ルソン島アパリに集結していたフィリピンからの搭乗員救出(フィリピン撤退)のために、台湾高雄からルソン島に向けて航行中に空襲され沈没。

駆逐艦「梅」艦長・大西快治少佐は、子ノ日航海長、水雷艇鳩艇長、朝凪艦長、梅艦長等を歴任。「梅」沈没後は、横須賀突撃隊特攻隊長。終戦後は「萩」艦長を努めている。

艦歴
昭和一九
(四.二四)  大阪藤永田造船所にて進水
六.二   竣工 第十一水雷戦隊に編入
七.一五  桃と共に第四十三駆逐隊を編成
七.二〇  内海西部にて訓練に従事
八.二〇  第三十一戦隊に編入
一〇.一二 台湾沖航空戦に参加
一〇.二三 多号作戦一〇二師団レイテ西岸オルモック上陸作戦掩護
一一.三  人員機材を台湾に緊急輸送
一一.六  戦艦伊勢 日向 五十鈴 新南郡島進出の為護衛任務に従事
一一.一四 戦艦大和 長門 金剛 内地回航の為護衛任務に従事
一一.二五 単艦にてブルネイ方面に進出
一二.二  南西方面艦隊(マニラ)指揮下に入りマニラに回航
一二.五  多号第八次オルモック輸送作戦に従事
一二.一四 マニラ湾にて敵機動部隊の艦載機と交戦
      艦首へ至近弾を受け揚錨機作動不能となる
一二.一五 修理の為香港に回航
昭和二〇
一.一五  香港々内にて米機動部隊艦載機五〇機と交戦 三機撃墜
一.二九  台湾高雄港にて米機動部隊艦載機と交戦
一.三一  比島アパリ集結中の搭乗員救出の為
パトリナオ輸送作戦実施の為
高雄を出港
     バシー海峡にて敵機約三〇機の来襲を受け之と交戦
     被弾三発後部甲板切断沈没 敵一機撃墜(一八時一〇分)
     戦死者八〇余名 東経一二〇度五〇分 北緯二〇度三〇分
茲にて短命なりと雖も 梅の輝かしい戦績を讃え 勇敢に戦い悠久の大義に就いた戦友の霊を慰むる為「梅」ゆかりの地 三島玉沢木山妙法華寺霊峰富士の万年雪溶けて流るる神霊地に 此の碑を建立す
  昭和六十一年一月三十一日(四十年目命日)
   駆逐艦梅慰霊碑建立委員会


永代供養料碑

昭和63年、3団体の寄進。

三島田方駿東海軍会
駆逐艦梅戦友会
静岡県愛宕戦友会


忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将 鈴木荘六書

昭和8年建立。
鈴木荘六は、定年退役後に第4代帝国在郷軍人会長であったことから、揮毫された忠魂碑も多い。


日露役戦死病没英霊菩提塔


忠霊殿

にゃあ


玉澤妙法華寺(妙法華寺)

静岡県三島市玉沢にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。
山号は経王山。

1284年(弘安7年)、日蓮の弟子日昭は風間信昭の帰依を受け、鎌倉浜土の玉沢(現鎌倉市材木座)に法華堂を建立したことにはじまる。
1538年(天文7年)戦乱により、越後村田(現新潟県長岡市村田)の妙法寺に避難。
1594年(文禄3年)戦乱により、伊豆加殿(現静岡県伊豆市)の妙国寺に避難。
その後、15代日産の時、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転し、日産、日達、日亮の3代に渡り再建された。大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。

最寄りのバス停は「玉沢」
1時間に1本あるときもあれば、2時間に1本のときもあるので、バスで赴く時は、時間配分は要注意。

私は9時15分に到着して、帰りは11時5分のバスでしたので、約2時間ほどの持ち時間でした。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Ndi3Ae2UrL4ohjB78

撮影:2023年12月


関連

朝霜と梅は、藤永田造船所で生まれた

岐阜護國神社

岐阜県岐阜市の稲葉山の麓にある岐阜護國神社。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


岐阜護國神社

岐阜城の築かれた金華山の北麓に鎮座する。戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの、岐阜・中濃・東濃各地区出身の英霊37,800余柱を祀る。

現在、岐阜県には主要な護國神社が3つ存在している。
「濃飛護國神社」「岐阜護國神社」「飛騨護國神社」

創立の順番
 1870年(明治3年)  大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)
 1909年(明治42年) 高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)
 1940年(昭和15年) 岐阜城金華山の麓に岐阜護國神社

岐阜県内には、1870年(明治3年)に大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)が創建。
1909年(明治42年)に高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)が創建。
岐阜市ほか10郡には招魂社がなかった。日露戦争後の1908年(明治41年)、岐阜市郊外の稲葉郡北長森村(現・岐阜市野一色)に陸軍歩兵第68聯隊が設置され、1917年(大正6年)に稲葉郡那加村(現・各務原市)に陸軍各務原飛行場が開設されると、当地出身の英霊を祀る招魂社建立の機運が高まった。
1918年(大正7年)に歩兵第68聯隊は岐阜県知事、市町村長及び在郷軍人などの有志と共に招魂社の創建を企画したが実現しなかった。
1937年(昭和12年)の支那事変勃発に伴い、1939年(昭和14年)3月10日に2市10郡209ケ村の代表者が内務省へ創立を出願し、内務大臣から創立許可を受けた。
翌1940年(昭和15年)11月に社殿が竣工、同19日に鎮座の儀、翌20日に幣帛供進の儀が執り行われて「岐阜護國神社」と称し、内務大臣指定護国神社に指定され創建した。

結果、岐阜護國神社は、創建は後発であったが、岐阜県内では、濃飛護國神社と岐阜護國神社が、内務省指定護國神社となった。(飛騨護國神社は指定外護國神社)

御英霊に感謝を。

岐阜護國神社


御朱印(岐阜護國神社)

御朱印をいただきました。


霊璽簿奉安殿(岐阜護國神社)

英霊の霊璽簿(名簿)を護る耐火耐震造の奉安殿


招魂祭場(岐阜護國神社)

御英霊の御霊をお招きする場。

招魂斎場
新たに御英霊を御本殿にお祀りする際に、御霊をお招きする招魂祭を行う場所です。
中央にある、美しく苔むした磐座に御英霊の御霊をお招きします。
御霊は依代に遷され、御本殿にお祀りされます。


足乳根宮(岐阜護國神社)

足乳根宮(たらちね宮)
女性の悩み・出会い
英霊に支えられた女性(母・妻・恋人など)を女神としてお祀りしとります。
女性の参拝にはある時は母、ある時は姉、またある時は先輩、友人とお姿を変え、女性の悩みをお聞きいただき導いて下さる神様として信仰されています。


愚多羅愚多羅のかわらけ割り
(岐阜護國神社)

民俗風習が同居している護國神社は珍しい。


河童堂(岐阜護國神社)

土着の水神様の使いとしてカッパを祀る。

河童堂
 水難守護・水練上達・無病息災
当社が創建される以前、この地は長良川の河川敷で沼地が広がり、古くから河童が棲むといわれていました。
水の神様の使いである河童をお祀りし土地の鎮めをしています。
毎年7月に子供の水難防止・水練上達・無病息災を祈念する河童祭が行われ、河童の仮装をした子供達が参列します。


御神田(岐阜護國神社)

中央に河童がいますね。


大八州(岐阜護國神社)

我が国の雅称。大八洲国。
岐阜護國神社の境内の庭は、大八洲を見立てた庭造りとなっている。


鵜飼桜(岐阜護國神社)

岐阜市内きっての早咲き桜


鎮霊社(岐阜護國神社)

戦災犠牲者(空襲や海外移民、敵味方を問わず)及び無縁の遺族や遺骨を祀る鎮霊社
また、サイパンテニアン両島の遺骨が分骨祭祀されている。

 この御社には先の大戦の戦没将兵の他にも空襲や海外移住民などの多くの犠牲者が祀られています 人は誰しもが その所を得て祀られねばなりません 友敵恩仇を問わず 不祀怨念もいまは解脱供養し万霊を浄斎して大平を祈ります 正殿の御英霊も靖国なす神と転生され安心されますよう鎮魂の御社です
 霊社は伊勢の神宮古殿賜材・霊像に大秡詞と般若心経・床下には戦跡地よりの収骨・遺品を納めた家郷の墳墓です。
   昭和53年終戦33年忌建立


平和之碑(岐阜護國神社)

 岐阜県フィリピン慰霊碑建立奉賛会により、昭和54年5月7日、比島ルソン島リサール州モンタルバン町に建立除幕された。
 「岐阜県出身戦没者慰霊碑」「主碑」を周辺環境の変化、遺族、戦友の高齢化等による慰霊巡拝の激減により、将来の慰霊碑の管理等を考慮し、慰霊碑「主碑」を撤去し、ご英霊を郷土岐阜県へお帰り願うこととし、平成16年4月、ご英霊お迎えの慰霊巡拝を行い、4月20日現地で還霊祭を斎行し、碑の撤去を行ったものである。
 この「平和之碑」は、撤去された「主碑」の銘板であり、岐阜県へ持ち返り、平成16年7月18日還幸祭を行い、ここに安置するものである。
 なお、レイテ島に建立してある「副碑」は、現地オルモック市により日比親善の碑として永久管理されます。


防人群像(岐阜護國神社)

 防人とは御英霊のことで、ここではサイパンのバンザイクリフに見立て、御英霊が遠く日本の未来を信じ、玉砕する様子を表している。(愛知文明作)
  「郷国思慕」

 昭和の戦いは万葉のむかしから、うたい継がれた海ゆかばで兵士は出征し、大君の辺にこそ死なめの歌さながらに散華されました。
 防人はその兵士の古称です。
  昭和五十九年五月十三日 寄進
   発起 サイパン、テニアン遺族会


庭師寄進碑(岐阜護國神社)

終戦二十三年忌 庭師寄進碑

戦友乃 みたま弔う 時得しと 
 庭のたくみも わざをつくしぬ

終戦二十三年忌盛夏建立 
庭師らが記念の寄進なり


神馬像(岐阜護國神社)


陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭之碑
(岐阜護國神社)

留守第3師団長 陸軍中将 曽田孝一郎
曽田孝一郎は陸士5期、陸大16期。満洲軍参謀、台湾総督府陸軍部参謀長、台湾軍初代参謀長、鎮海湾要塞司令官などを歴任。大正15年予備役。昭和3年消臭され、留守第3師団長(名古屋・本体は山東出兵)に着任している。


境内風景(岐阜護國神社)

かつての扁額かな。

本神社は長良川河畔に位置するため、浸水を防ぐために境内を囲むように防水壁が設けられいる。
そして、洪水時に使用される陸閘もところどころに設けられている

金華山の山頂に岐阜城が見える。
岐阜護國神社から見ると、かなり高い。


岐阜城

標高329mの金華山(稲葉山)。
山頂には、復興模擬天守がある。昭和31年落成。


引き続き、岐阜護國神社の周辺を散策

明治大帝聖像

明治天皇ご崩御100年に岐阜公園千畳敷に建立されたものを移設。
平成24年3月。

明治大帝
明治天皇は御名を睦仁、御幼稱は祐宮と申し、孝明天皇の第二皇子として嘉永五年九月二十二日(陽暦十一月三日)京都御所朔平門外の權大納言中山忠能邸内後産所に於て誕生せられた。 御生母は忠能の女、從一位勳一等中山慶子である。 萬延元年七月十日准后夙子(後の英照皇太后)の御子として儲君に治定せられ、次いで九月二十八日親王宣下を受けられ、慶應二年十二月御父天皇が崩御されるや、翌三年正月九日踐祚せられた。 時に御年十六である。 翌四年八月二十七日即位の禮を/擧げられ、同年九月八日明治と改元あり、御在位四十六年に亘られたが、明治四十五年七月三十日御年六十一を以て崩御せられた。 翌八月二十五日御追號を定めて明治天皇と稱し奉り、九月十五日御遺旨によつて、京都府紀伊郡堀内村大字堀内字古城山(京都市伏見區桃山町古城山)に斂葬し奉つた。 御陵名は伏見桃山陵と申上げる。 「御資性英武嚴明にあらせられ、而して善く侍補耳に逆ふの諫を嘉納し給ふ、是れ眞に寛仁大度の君徳に適はせ給ひて大舜太宗に揆を同うし給うなり」とは侍講元田永孚が納諫の御盛徳を稱揚し奉つた語である。
 御製  述懐
 いにしへのふみ見るたびに思ふかな
  おのがをさむる國はいかにと

照古鑑今 源深流長
今日、我が日本の輝かしい繁栄の、もといを築かれた明治天皇の御遺徳を永く顕彰し、国民等しく、これを景慕するため、明治100年・昭和43年を追憶して御料林・国有林・金華山のふもとに、御遺旨によって斂葬し奉つた伏見桃山陵に対峙して、崩御の御命日に聖像を建立する。

明治大帝崩御百年のこの年に明治大帝のご偉功を後世に末永く継承することを旨として昭和四十七年に岐阜公園千畳敷に建立された明治大帝聖像を「明治大帝崩御百年聖像移設委員会」の提言により多くの方々に親しんで頂けることを願いこの地に移設する
 明治大帝崩御百年聖像移設委員会
  平成二十四年三月

場所

https://maps.app.goo.gl/8eK9zLnQJh9DLBn96


満蒙開拓青年義勇軍 伊藤中隊慰霊碑

拓魂
満蒙の 野に鍬とりし開拓の 勇士の夢を とわに忘れじ

昭和17年3月5日満蒙の曠野に開拓を夢見 小さな胸に大望を抱いて第三次岐阜中隊を編成 中隊長伊藤喜馬太氏外二百八十九名 茨城県内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所 同年四月二十七日親兄弟と別離の哀しみを胸に秘め曠漠たる満洲の地四平省昌図青年義勇隊訓練所に入所 夏は水沸く猛暑に悪疫と闘い 冬は零下三十余度の酷寒をものともせず農事に亦軍事訓練に励み一意祖国日本の為と信じつゝ互いに励まし助け合い 昭和二十年三月 三ヶ年の義勇隊訓練を模範中隊として修了した
 その後大東亜戦争酣と成り一部は軍奉仕に出動他は銃と鍬を肩に氷雪未だ解けやらぬソ満国境 虎林県五十鈴開拓団に入植 開拓精神に則り日夜健闘したが同年八月十日未明突如ソ聯軍の参戦により我等の夢は空しく破れ去り宝西城外にて最悪の戦闘状態となり中隊長外若い義勇隊員四十九名 父母を呼びつゝ異国の夏草を血に染め散った同志のなきがらを手厚く葬むる事も出来ず心ならずも二十有余年の歳月は流れた
 幸い 我等無事帰国した者 会い集い茲に同志の冥福を祈り永遠にその栄光を称えて故郷の地にこの碑を建立する
  昭和四十一年三月    
    伊藤中隊帰還者一同

追碑文
 雄途心ざし、満蒙開拓青少年義勇軍として国策に呼応し、華々しく満蒙の荒野の地に移住し、希望の達成に全魂を傾け、食糧増産、軍事訓練にいそしむも、戦局は悪化し敗戦の終結となり、志し半ばにして戦後九死に一生を得て帰郷し、国土復興に、又自らの生活のため苦難に打ち勝ち最善を重ね、今日の繁栄ある郷土と社会を築き挙げ、ここに歓喜に満ちた人生を期して居ることに万福の感がある。
 時を追憶すれば日時の経つのは早いもので、渡満半世紀を得る年齢を重ねてきました。
 ここに生ある者として、残れる同志拓友は、五十周年を記念として現碑に無き友の銘記、併せて生存者の拓友名を刻み、永遠の拓魂に追碑を建立するものである。
   平成四年四月吉日
    五十鈴拓友会生存者同志


国旗掲揚台

宣揚皇道
 陸軍大将松井石根書

松井石根大将の揮毫


大野伴睦 句碑

草に埋もれて、よくわかりませんでした。

大野伴睦先生略歴
 先生は明治23年岐阜県山県郡谷合村に生まれ 生来豪放闊達 大志をいだいて上京し 後の首相原敬 鳩山一郎両先生の知遇を得 政界に進出することとなり 後に衆議院議長 国務大臣 自由民主党副総裁などを歴任し 政界の重鎮となった
 永年の政治活動においては常に指導的役割を演じ その間 新時代の要請たる保守党の大同団結を実現されたことは日本政治史上特筆すべきである
 青年時代から侠気と情熱にあふれ 義理人情に厚く 他面ユーモアを解し 囲碁 俳句をよくし 虎に関する収集などいずれも政界の第一人者として知られている
特に第二次大戦の犠牲者たる軍人遺族の援護については諸種の悪条件を克服し その実績をあげるために全力を傾注されている
 下記両団体は先生の多年のご偉業に報いるため 句碑をたて 永く記念することとした
 昭和38年3月 岐阜県知事 松野幸泰 撰文
 財団法人日本遺族会 岐阜県遺族連合会建之


平和祈念の碑

傷痍軍人の記念碑

 本年は 先の大戦の終結より50年になります
 苛烈を極めた戦争を身をもって体験し 二度と戦争を繰り返さないよう 傷痍軍人は心より願っております
 戦後の荒廃と苦難の道から立上がり 祖国日本の復興に心血を注ぎ筆舌につくせぬ苦労の上 今日の繁栄を迎えたことを誇りとし 平和の大切さを後世にわたり訴えるため ここに日本国及び世界の恒久平和と繁栄を希求する証として 平和祈念の碑を建立します
   平成七年十一月
     財団法人 岐阜県傷痍軍人会
     平和祈念の碑建設委員会

碑名揮毫は、日傷援護議員協議会会長・衆議院議員・武藤嘉文による。


岐阜県戦歿者慰霊塔

慰霊塔

この慰霊塔は日清戦役以後太平洋戦争に至る間に日本の繁栄と平和を念じ戦陣に散華されあるいは戦禍にたおれた人々の霊を慰め後世永くその遺芳を伝えるため岐阜県民の総意によって建設されたものである
   昭和三十一年十一月
    岐阜県戦没者慰霊塔建設委員会

(世界の平和を願って)
 この慰霊塔は昭和三十一年十一月に建設されたものであるが長い年月の経過とともに老朽化したためここに世界の平和を願い全面改修したものである。
   平成五年六月
    岐阜県戦没者慰霊塔改修委員会


御製

川の辺に あまたの人のつどひ来て 
 振るともしびを遠く望みぬ


平和一神

1941年に創始された「いわゆる新宗教」の修養団捧誠会による記念碑。


青年日本の歌

いわゆる「昭和維新の歌」。
作者は海軍中尉で、後の五・一五事件に関与した三上卓。


岐阜公園(日中友好庭園)

1989年(平成元年)に、岐阜市と中華人民共和国 杭州市の友好都市提携10周年を記念して作られた庭園。

なぜか、拓友関連の慰霊碑が、この不可思議な公園にある。できることなら、岐阜護國神社に移設してほしいが。。。


慰霊塔・満蒙開拓青少年義勇隊栗田中隊

満蒙開拓青少年義勇隊慰霊碑。

 昭和16年3月美濃若人弐百余名茨城県内原訓練所に満洲開拓義勇隊栗田中隊を編成 同年6月渡満浜江省一面波訓練所及び北安省鉄驪訓練所に多年開拓訓練に励む
 19年4月永住地北安省綏稜県南長英屯に入植第4次岐阜義勇隊開拓団生まる
 20年8月太平洋戦争終戦 団は解散の悲運 幾多団員は業ならず開拓の礎石と仆る 
茲に生存者集ひ殉難同志の霊を慰め開拓の雄図を永く後世に伝う
  昭和36年9月吉日 
   岐阜義勇隊開拓団生存者一同建立

栗田会のあゆみ
 風雲急をつげる昭和16年3月当時の国策であった 
 満洲國建設の使命と新天地開拓の夢と希望に燃え 県知事始め各市町村長より激励の言葉と祝辞を受け 県民からは日の丸の旗と歓呼の声援で見送られ岐阜県郷土中隊として日本を後に大陸に渡ったのである 
 年齢は八割強が14才の少年であった

    記 
昭和16年3月8日  
 満蒙開拓青少年義勇軍として 茨城県内原訓練所に入所した 
 第3大隊第13中隊に編制された 
 中隊長は栗田英太郎
昭和16年6月    
 敦賀港より渡満の途につく元満洲国浜江省珠河縣一面波 一面波訓練所に入所した
昭和16年7月   
 一部留守隊員を残し関東軍特別演習勤労奉仕隊として ソ連国境近くの軍務についた
昭和16年9月   
 軍勤解除で鉄驪に移行となった 
 北安省慶安県鉄山包 鉄驪訓練所 第5大隊栗田中隊
昭和17年      
 大半の隊員は農作業と軍事訓練が日課となる 
 約50名は将来の村造りに備えて特殊技能修得の為訓練本部特科隊に編入された
昭和19年春    
 北安省綏稜県北黒馬劉へ 第4次岐阜義勇隊開拓団として入植した 
 草葺き掘立て小屋の住居建設から村造りを始めた 
 村造りの進んでいる隣村の四国村に種々便宜を受けた 
 十余名が技能修得の為派遣された
昭和20年5月   
 昭和18年頃より年長者から現地現役入営した  
 20年5月には一度に70余名が入営した 
 団に残った拓友は43名となった
昭和20年8月   
 ソ連が参戦し国境を越えて進攻して来た 
 日本國敗れて終戦となる 
 その間にも 召集令状が来て一時は二百余名居た同志が 栗田団長他男子が7名女子子供5名となった 
 最後の入営者が即時帰団で43名となった
昭和20年9月   
 団本部襲撃を受け付近の開拓団と共に四国村開拓団に集結した 
 四国村も襲撃を受け死亡者28名 
 我々同志からも負傷者が2名出た
昭和20年10月  
 四国村を出て過酷な避難民の旅が始まった
 哈尓浜市に向けて南下 途中ソ連軍に連行されシベリヤ行きになった者が3名居た
 この頃5月の入営者の大半はシベリヤの収容所に送られ厳寒と食料不足や強制労働で苦労した
昭和20年10月~翌年8月 
 この間哈尓浜で生活するも 不衛生と栄養不足 マイナス30度を越す寒さでほとんどの者が発疹チブスにかかり生死をさまよう日々であった 
 この時岐阜市出身の高井勇氏と知り合い世話になった 
 病気を克服した者から 思い思いに中國人の住み込み働いた
昭和21年8月  
 哈尓浜を出て新京 奉天の難民収容所を経て 南下コロ島へ集結した
昭和21年10月 
 夢破れて避難民の姿で帰国した 
 帰国早々高井氏の発案に協力 栗田の同志により岐阜駅前に ハルピン街を建設した 
 これが岐阜市のアパレル産業の源となった 
 事は岐阜新聞の「終戦から半世紀」の連載記事に紹介されたとおりである
昭和21年~24年
 一部中途で進路を変え離農した者も同じく入営しシベリヤに多くが抑留されシベリヤ収容所で苦労した者も逐次帰国祖国の土を踏んだ
昭和27年     
 戦病死等で不帰の人となった同志の第1回慰霊祭を行ない次年度からは各地で会合を開き旧交を温めた
昭和36年     
 拓友同志の霊を祀るため 尊い浄財を集めて慰霊塔を金華山水道山に建立した 
 爾後9月に慰霊の会を催す事を決めた
昭和48年9月   
 栗田会として発足した
平成元年      
 四国村引揚者と交流が始まり旧交を温めた
平成3年      
 栗田会の会員による渡満50周年を記念し思い出の書「青春の追憶」を発行した 
 日中友好訪中団を結成し栗田会の有志が昭和57年61年と平成3年に訪中し ゆかりの地を訪問残留孤児と対話激励等を行った。
平成7年     
 終戦後50年水道山からこの地に再び浄財を募り慰霊塔を移設併せて追碑を建立し慰霊祭を行ない生存者の念願を叶えて今は亡き拓友に心から哀悼の誠を捧げる
     平成七年九月吉日      栗田会生存者一同

 昭和の歴史に残る五十有余年前昭和16年国策としての大事業に僅か14 5歳の少年が中国東北部旧満州に 満蒙開拓青少年義勇軍として我ら栗田中隊二百有余名は 鋤 鍬あるときは銃を手に王道楽土の建設 五族共和の夢を胸に北満の地に渡りしが 図らずも昭和20年敗戦に夢破れ九死に一生を得 裸一貫で帰国 戦後の荒廃した社会のなかで郷土復興 自活の為と根性で恵まれた郷土社会を築き上げた 不運にも異国の地に骨を埋めた拓友同志の霊を祀るため 昭和36年金華山中腹に慰霊塔を建立 慰霊祭を行い青春を追憶慰霊し歓喜してきた今日 年老いて金華山での慰霊祭も至難となり 寂しさを痛感するとき岐阜公園に移設することとなった
 この機を記念し拓友同志の名を刻み 後世に記す追碑を建立す  
 拓友生存者の念願を叶えた戦後半世紀の記念すべき年である
 兵戈無用  世界はひとつ
  平成七年九月吉日
   栗田会 拓友生存者一同


拓友之碑・満蒙開拓義勇隊横山中隊

同じく、満蒙開拓青少年義勇隊の慰霊碑。

拓友之碑

 維時大東亜戦争熾烈の半、昭和18年錦秋我々満蒙開拓義勇隊岐阜県中隊は、日本民族繁栄の一翼として墳墓の地に袂別し勇躍渡満以来、現地の厳寒酷暑と闘いつつ開拓に専念す。 然るに図らんや戦争の終結に遭遇し、その夢と事業は遂に水泡に帰し死亡或は雄図空しく生還し今日に至る
 而して戦後二十星霜を閲したる現在と雖も、吾々愛国の至誠は不変にして母国の永遠の平和と郷土発展に努力せんことを誓い、併せて義勇開拓精神の同志の魂の寄り処としてこの聖地を選び記念の碑を建立す
   昭和四十年八月十五日
    旧横山中隊 朋友会一同
      教士 馬渕 勲 文


中国人殉難者之碑

中国人殉難者之碑
 平野三郎書

碑文
 太平洋戦争の末期 日本国内において軍関係の建設工事に従事された中国人が約四万人あり このうち六八三〇人に及ぶ多数のひとびとが殉難されました
 岐阜県においても一六八九人が高山市 瑞浪市 各務原市および加茂郡川辺町で従事せられ七三人が殉難されております
 遠い異郷の地で亡くなられたこれらのひとびとの冥福を祈り ここにその事蹟を永く後世に伝えるとともに 県民をあげて友好親善の誓いを新たにし 日中両国恒久の平和を祈念してこの碑を建設したものであります
 昭和四十七年六月
  岐阜県中国人殉難者慰霊事業実行委員会会長
   岐阜県知事 平野三郎


岐阜杭州友好盟約記念碑


中日両国人民世世代代友好下去

昭和37(1962)年9月、杭州・王子達市長と岐阜・松尾吾策市長との間で碑文が交換されたことを記念して建立されたもの。
日本国と中華人民共和国の間で「日中国交正常化交渉」が行われた昭和47(1972)年より10年前にあたる。

杭州っぽいらしい。

西湖を模して作られた池。

※撮影:2023年9月


護國神社関連

はじめに

久里浜駐屯地 創立73周年記念行事・その2(海軍通信学校の戦跡散策)

2023年11月19日。
神奈川県 横須賀市にある陸上自衛隊 久里浜駐屯地で「久里浜駐屯地 創立73周年記念行事」が開催されました。
今は、陸上自衛隊通信学校。そして、かつては、海軍通信学校のあった久里浜。
駐屯地内が開放されましたので、足を運んでみました。

ちなみに、久里浜駐屯地は日本最古の駐屯地、でもあります。

その1は、訓練展示など。

こちらも参照で。


海軍通信学校

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。


海軍通信学校跡碑

海軍通信学校跡

我々ここに巣立つ 
 第五十二期普通科練習生 十四志 
 昭和四十七年十一月五日 建立 
  海軍中将 志摩清英書

志摩清英中将は、昭和18年9月16日から昭和19年1月31日までの通信学校長。ついで、昭和19年2月に第5艦隊司令長官となり、第二遊撃部隊(通称志摩艦隊)を率いてレイテ沖海戦を戦う。

碑の脇には、海軍用地の標石がある。海軍通信学校の境界標かと。

もともと「海軍通信学校碑」がある場所は、海軍通信神社が鎮座していた場所であった。本部庁舎前。


通校神社(海軍通信学校神社) ※長安寺

海軍通信学校・本部庁舎前に鎮座していた「通校神社(海軍通信学校神社)」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

長安寺は2018年撮影


防空壕跡

海軍通信学校本部庁舎前の庭にあるこんもりとした丘。
防空壕跡と推測。


海軍通信学校・本部庁舎
(久里浜駐屯地・本館・建屋1)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。

戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。

昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。

正面玄関

陸上自衛隊 通信学校

中に入ってみます。

正面玄関

在室確認のランプ

歴史を感じさせる廊下。

本部庁舎の裏側。

建屋番号は「1」


海軍通信学校・第一兵舎(久里浜駐屯地・建屋2)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」。
おそらく本部庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・第二兵舎(久里浜駐屯地・建屋3)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


地下通路入り口

久里浜駐屯地には、地下通路が4ヶ所設けられていたという。そのうちの一箇所は、タイヤ倉庫になっている。
立ち入りはできないので、望遠にて。

敷地の北側。南を向いている開口部。

上記写真は「C」に該当する。

久里浜駐屯地の東側の山にも地下通路があった。


久里浜駐屯地内の記念碑

いくつかの記念碑が、整備されている。

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立

保安隊記念碑 
昭和29年

保安隊駐屯記念碑 
昭和28年

保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立


海軍電話蓋

「波」に「話」
建屋1の本部庁舎と建屋2の兵舎のあいだに。


海軍蓋(制水弁蓋)

敷地内にいくつかあるらしい。
私は2つ見つけました。

1つ目。建屋2の近く。

2つ目(歴史館前)


歴史館

主に通信に関係するものなどを展示。

海軍の精神注入棒

山下奉文ゆかりの書


御稜威橋

海軍通信学校、そして久里浜駐屯地の入り口。
平作川にかかる「御稜威橋」

御稜威とは、天皇陛下の強い御威光のこと。


日本最古の駐屯地「御稜威橋」(日本酒)

 陸上自衛隊久里浜駐屯地は、昭和14年「海軍通信学校」として開設、その後は昭和27年から通信電子の教育の中核として「通信学校」が置かれている。
 自衛隊としては最も古い駐屯地である。

販売は、久里浜駐屯地限定。
製造は、岩手の「世嬉の一酒造」

百里基地航空祭2023・その1(百里原海軍航空隊の戦跡散策)

2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。

本編は歴史的なところを触れる「その1」となります。
航空祭そのものは「その2」で。


関連


百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。
昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。
昭和17年には予科練の受け入れを開始。
昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。
昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。
同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。
終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


百里基地(雄飛園)

百里基地内にある用廃機(用途廃棄機)を保存展示しているエリア。
保存機の記録は多いようだけど、慰霊碑や記念碑の記録がすくないようなので、百里基地航空祭で開放をされていたエリアを散策記録しました。


百里原海軍航空隊記念碑

ここに百里旗海軍航空隊ありき
記念に桜を植え その栄光を伝う 
 昭和51年3月
  百里原海軍航空隊有志

百里原海軍航空隊と特攻について
百里原海軍航空隊は昭和13年、練習機の教育航空隊として発足した。
昭和16年大東亜戦争勃発、昭和18年練習機境域は他基地に移され、実用機の操縦員、偵察員の教育が開始されて昭和20年8月の終戦まで続けられた。
昭和20年3月沖縄戦が始まると、百里空も作戦に参加、教育に使用中の飛行機35機が九州から出撃、85名の隊員が沖縄の海域に散華した。
この記念碑の下に戦死者の名簿が埋めてある。
 平成20年3月
  百里原海軍航空隊有志


雄魂碑(殉職者慰霊碑

基地殉職者を祀っている。
昭和49年4月吉日の建立。


犬魂碑

基地内警備犬慰霊碑


F-4EJ飛行隊発祥の地記念碑

この記念碑は、第301飛行隊が昭和48年10月16日航空自衛隊初のF-4EJ飛行隊として誕生し昭和60年
3月九州に移動するまでの間、この百里基地において活躍したことを記念して建立したものである。

記念碑修復の記
 昭和六十年、部隊移動に先立ち建立されし本記念碑なれど、爾来十数年の風雪に耐え難く、「銘板」等の損傷見るに忍びず、第三〇一飛行隊(百里)出身者より浄財を募り、ここに「銘板」の修復・土手基礎部の造成をみるに至る。
 尚、「銘板」につきては、当初揮毫せりし土屋重正氏に依頼致したものなり。
 平成十三年九月吉日 記念碑修復実行委員会


第206飛行隊記念碑

栄光と共に
昭和40年12月~昭和53年12月
 第206飛行隊


アルゼンチンの碑

「アルゼンチンの碑」
大正十三年(一九二四)六月、アルゼンチン空軍のサンニ大佐とベルトラメ技師の二人が四五〇馬力の単発機を駆使し、アムステルダムから世界一周に飛び立ちました。
 同年十月、約二万キロメートルにも及ぶ人類未踏の大飛行を達成し、土浦の霞ヶ浦に着陸しました。
 その後、航空機の故障によりやむなく世界一周は断念することとなりましたが、二人の偉業を永久に顕彰するため、昭和五十六年十二月、アルゼンチン大統領の訪日に際し、最後の着陸地となった霞ヶ浦に近い百里基地に当記念碑が建立されました。


保存機

向こう側の保存機

こっち側の保存機

あまり興味がなかったようで、撮影ほぼシていませんでした。


百里基地

入り口。茨城空港とは反対側。航空祭の機会がなければ、まずこないですね。

航空祭の様子は、その2で。

2023年12月撮影


「観武ケ原」盛岡市青山地区の戦跡散策

盛岡市北西部の青山地区。往時は騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した地域。
陸軍時代の面影を辿りつつ散策をしてみました。

観武ケ原(みたけがはら)

観武ヶ原(みたけがはら)は、現在の岩手県盛岡市の青山・みたけ・月が丘、及び滝沢市滝沢地区にあたる地域に広がっていた原野。後世に観武野(みたけの)とも。
大正天皇が皇太子時代に、練兵場を観閲した折に命名したと言われている。またそれ以前に、岩手山が眼前に見えることから、「御嶽(みたけ)」と呼ばれていたものを改めたという。

今昔マップ on the web


陸軍騎兵第三旅団・覆馬場(覆練兵場)(現・盛岡ふれあい覆馬場プラザ)

煉瓦造の建屋がのこっている。
かつて青山地区に6棟の「覆馬場」があったが、この1棟を残し解体されてしまった。
建築年代は、明治42年(1909年)となる。
陸軍第八師団騎兵第三旅団騎兵第二十三聯隊、騎兵第二十四聯隊が明治42年に編成配備。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要と周辺案内
盛岡ふれあい覆馬場プラザと青山地区の歴史
 青山地区一帯は、藩政時代は荒涼とした原野でした。明治41年に、工兵第八大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第二十三聯隊、第二十四聯隊が編成配置され、煉瓦造の覆馬場が6棟建設されました。
 当時、南部駒は軍馬として優秀であり、岩手山から続く広い原野は絶好の演習地でした。終戦後の昭和21年には、観武原の開拓とともに、兵舎を応急仮設住宅とし、この年に青山町が誕生しました。
 青山地区一帯には、現在でも盛岡ふれあい覆馬場プラザ(旧覆馬場)をはじめ、近接する森永乳業盛岡工場敷地内には、騎兵第三旅団の兵舎の煉瓦造の門柱等が保存され、また独立行政法人国立病院機構盛岡病院の敷地内には、工兵第8聯隊の兵舎の門柱等が保存されています。
 また、平成18年に開業した青山駅の駅舎や門柱、ショッピングセンターの歩道境等にも煉瓦が使用されており、今日においても、煉瓦文化が根付いている地域となっています。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要
 この建造物は、平成16年に地元住民や有識者、保存を求める団体等からの要望をうけ、平成17年に盛岡市が取得しました。その後、平成18年から平成21年まで、5回の旧覆練兵場活用懇話会を開催して策定した「旧覆練兵場整備基本構想」に基づき、平成23年度、24年度の2個年で整備を進めてきました。
 歴史的な景観を形成するうえで、復元を基本に、屋根等の外観の色彩は建築当時のものとし、外壁の煉瓦については、経年劣化部分を補修のうえ、煉瓦素地のままの外観としました。また、敷地内の桜の樹木も保存し、さらに、閉鎖的にならないよう緑化整備を行うなど、景観に配慮したものです。
 名称を「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」とし、平成24年6月1日に、「多目的施設」として開館しました。この建造物は、約100年もの間、青山地区の歴史を見続けてきた建造物である、同地区における歴史的建造物のシンボルとして、また本市における近代化遺産として、次代に継承するものです。

境界柵の残骸かも。

内部を覗いてみる。

場所

https://maps.app.goo.gl/QpYMUoxPCGzWDZ7t9


第八師団工兵第八聯隊・工兵園
(現・国立病院機構盛岡医療センター)

病院内のちいさな庭園。整備されたこの庭園が、工兵の思い出の場所であった。

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転してきている。

工兵園の由来(碑文)
1,この園庭は明治、大正、昭和に亘りこの地に駐屯した工兵第八聯隊及びその編成部隊の隊員の冥福と勲功を顕彰するため造営し後世の活用を希い、厚生大臣の承認を得て国立盛岡療養所に寄贈したものである。
1,工兵隊は第8師団管下青森、秋田、岩手、山形四県の壮丁を訓練し数々の戦役に従軍して、常に抜群の功績を挙げ国宝師団の名を高からしむると共に、平時災害に際しては身を挺して事に當り、その温厚純朴の気風は市民に深い愛敬を受けていた。
1,部隊の歴史は陸上自衛隊岩手駐屯部隊史料館に、また造園記録は当園管理者に委託し永く保存する。
 昭和44年夏
  工八会

工兵園

工兵第八聯隊碑

工兵営跡

盛岡医療センター内にある。

病院敷地内の為、節度ある見学を。

場所

https://maps.app.goo.gl/XSrLGVZYyi9MJBSS9


騎兵第23連隊跡地
(現・青山児童公園)

いくつか「御手植えの碑」があった。
どうも見逃したものもあるようで。。。 
大正天皇の碑を確認漏れしていることをあとから知りました。。。

閑院宮殿下御手植

大正9年◯月◯日

月日は判読できなかった。

竹田宮殿下御手植

昭和7年5月7日

淳宮殿下御手植

淳宮は、 昭和天皇の弟で、後の秩父宮。

大正5年◯月◯日

月日は判読できなかった。

岩手県営体育館

場所

https://maps.app.goo.gl/qgnHPvLsWL5zEMiv5


騎兵第三旅団第23聯隊跡の門柱
陸軍豫備士官學校跡の碑
(現・森永乳業盛岡工場)

第23聯隊の門柱、盛岡陸軍予備士官学校の碑などがある。

旧騎兵第三旅団第二十三聯隊

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第23聯隊、第24聯隊が編成配置されている。

騎兵第三旅団
観武練兵之跡
 飯田貞固謹書

飯田貞固は、最終階級は陸軍中将。昭和8年(1933年)に騎兵第三旅団長を務め満州事変に出動している。

盛岡陸軍豫備士官學校跡

「陸軍予備士官学校」は、昭和13年に「仙台陸軍教導学校」内に「陸軍予備士官学校」を設置したことにはじまる。
「盛岡陸軍予備士官学校」は、「騎兵第三旅団」が昭和10年(1935)に満州に移駐したのち、昭和14年(1939)に騎兵第三旅団兵営跡地に、仙台から移転して創設された。
昭和16年8月に、盛岡から前橋に移動となり、前橋陸軍予備士官学校となっている。

  • 1938年8月 陸軍予備士官学校を設置(仙台陸軍教導学校内)
  • 1939年3月 陸軍予備士官学校を盛岡近郊に移転(騎兵第23連隊跡地)
  • 1939年8月 陸軍予備士官学校を盛岡陸軍予備士官学校と改称
  • 1941年8月 盛岡陸軍予備士官学校を前橋近郊に移転、前橋陸軍予備士官学校と改称
  • 1945年8月 敗戦によりすべての予備士官学校を閉校

建立志
 盛岡陸軍豫備士官學校は、兵制上はじめての陸軍予備士官学校として昭和14年に創設され、改正甲種幹部候補生制度上での第三期生が、同年4月にはじめて入校し、ついで同年11月第四期生、昭和15年12月第五期生が入校し、昭和16年7月、この期の卒業と同時に新設された前橋陸軍豫備士官學校に、その教育が引き継がれた。
 日支事変や、それに続く大東亜戦争では、多くの卒業生を戦場で失った。また生き長らえた私たち同窓生が、戦後の混乱と困難を乗り越えて、国家の債権に多大の貢献を成し得たのも、この校に学び性根を尽くして鍛えられ培われた不撓不屈の精神に因るところが大きい。
 この地に私たちが人生の足跡を残した證として「學校跡」の記念碑を建立した所以である。
 平成5年9月吉日
  盛士校記念碑建立委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/zPUpf7WhuTn47pzp9

「燕飛行隊発祥の地」「大元帥陛下御野立所聖蹟」とかがある「観武ヶ原」の北部(演習場跡地)には訪れる時間がなかった。これは再訪案件です。。。

※撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺・移設)

盛岡にあった陸軍墓地関連の散策。


盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺)

久昌寺の記載によると以下の説明がある。

放光塔(忠霊塔)
元陸軍墓地にあった忠霊塔を二十二世義雄和尚が、戦争殉難者供養のためにこの地に移設したものと伝えられています。

久昌寺 http://www.kyushoji.com/history.html

久昌寺の放光塔(忠霊塔)

昭和9年10月建之

久昌寺の山門。昭和8年に建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/1jceTVuYxsXDacjK7


盛岡陸軍墓地跡(盛岡市高松2丁目)

当所は、岩手県滝沢市穴口にある「穴口公葬地」に陸軍墓地があった。その後、盛岡市高松にあった元岩手県庁舎第二分庁舎の地に移転している。
現在、元岩手県庁舎第二分庁舎は解体されており、更地となっている。ここは特に遺構は残っていない。
※滝沢市の跡地には境界標が残っているという。

更地。格別になにかは残されていない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/WfdQEZvRBx68UHiu7

撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

岩手護國神社

岩手県盛岡市。盛岡八幡宮と並んで、岩手護國神社が鎮座している。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


岩手護國神社

岩手県ゆかりの殉国の御英霊を祀る。
約3万5800余柱。
岩手縣護國神社ではなく岩手護國神社。「県(縣)」がつかない社号は珍しい。
明治2年(1869年)11月2日創建。
明治39年(1906年)、岩手護國神社は岩手郡東中野村茶畑から盛岡八幡宮の境内に移設されている。

https://morioka8man.jp/gokoku/

岩手護國神社
御祭神
岩手県ゆかりの殉国の御英霊
御由緒
当神社は、明治天皇の畏き思し召しのより、明治新政の夜明け勤王の大儀を固守し国事に殉ぜられた郷土の勤王の志士 目時隆之進命・中島源蔵命の二柱の御霊を祀る為明治二年十一月二日岩手郡東中野村茶畑の地に時の盛岡蕃知事南部利恭により創建されました。
その後、西南戦争、日清日露の両戦役、そして大東亜戦争等幾多の事変戦役で、我が国の平和と繁栄を念じつつ尊い生命を御国に捧げられた、岩手県ゆかりの御英霊三万五千七百余柱がお祀りされています。
 明治十四年、当時の内丸公園地に遷座されましたが、明治三十九年にはその社地を県社八幡宮の境内に求め遷座されました。更に、昭和十四年には境内地を拡張して、神明造様式による新たな大社殿が造営され、現在に至っております。
天皇皇后両陛下(昭和天皇)には、昭和45年10月13日、本県で開催された国民体育大会御臨場の行幸啓の砌り、畏くも当神社に幣饌料を御奉納の上、御親拝あらせられました。

岩手護國神社
御祭神
殉国の御英霊
(令和4年現在)
三万五千七百八十五柱
相殿一柱

広々とした境内

左の燈籠には「照闇(しょうあん)」
右の燈籠には「揚輝(ようき)」

昭和10年4月建立

照明燈
愛国婦人会解散記念として昭和18年3月31日に石灯籠、参道敷石、階段を奉納。

岩手護國神社

社号額

参拝

岩手護國神社御朱印
盛岡八幡宮で頒布しております。

東北3県、福島・宮城・岩手の護國神社の御朱印。


鎮魂
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊

鎮魂
南部ルソン島マニラ東・西地区 
 昭和20年1月~9月
振武集団第8師団
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊
 歩兵第三十一連隊岩手会

建立趣旨
 日本民族の繁栄と郷土の幸福を一途に遠くは日露戦争より太平洋戦争に到るまで散華された数多くの郷土出身戦死者の事蹟を永久に忘却してはならない。終戦五十周年にあたり御霊の奉安と恒久平和を祈念し関係諸団体と相謀り多くの御賛同と尊いご芳志により鎮魂の碑を護国の社に建立した次第であります。
 平成七年九月吉日
  歩三一岩手会


ビアク支隊戦歿者顕彰碑

ビアク支隊戦歿者顕彰碑
 内閣総理大臣 大平正芳 書

ビアク支隊戦史
 ビアク支隊は太平洋戦争のさなか北支山西省よりニューギニア、サルミ地区に派遣された第36師団(雪部隊)の中、ビアク島に分遣された歩兵第222連隊(雪3523部隊即ち葛目部隊)とその配属諸隊により構成された11,267名の混成部隊であり、葛目部隊と少数の海軍部隊の他は、飛行場設定隊、開拓勤務隊等の軍属を主とする非戦闘部隊であった。
その基幹を成す葛目部隊(3,815名)は、岩手県人を主体とし、青森・秋田・山形出身の東北健児並びに全国各県より選ばれた精鋭部隊であった。
 昭和14年3月雪部隊創建以来、幾多の輝かしい戦績を北支の山野に残して、戦雲急を告げる南海の要衝ビアク島に急遽派遣されるに至ったのは、戦局の頽勢いよいよ深まりつつあった昭和昭和18年の暮れのことであり、ガダルカナルに勝利を収めたマッカーサー麾下の連合軍が余勢を駆ってまさに怒涛の如くニューギニア北岸を西進北上中の時であった。
この優勢な連合軍の進攻正面に敢然と立ち向かったのが即ちビアク支隊である。
まる1ヶ月に亘る間断なき爆撃の後、連合軍は突如昭和19年5月27日の早暁約40隻の艦船と空を蔽う戦爆連合の大編隊支援の下に、水陸両用戦車を先頭に夥しい上陸用舟艇を連ねて雲霞の如くビアク島南岸に殺到した。 満を持して待機せる我が軍はこれを水際に邀撃し、随所に悽惨な白兵戦が展開され、ここに濃密なビアク攻防戦の幕が切って落とされたのであった。 以来制海権・制空権ともに無きビアク支隊が寡兵よく衆敵に抗し、用兵の妙を発揮して3万の敵大軍を小島の一隅に釘付けにして絶え間なき攻撃を敢行し、二度三度敵を海中に追い落としてその第一の目標とする飛行場の使用を許さなかった。  これがため、遂に敵将は戦闘のさなかに更迭されるに至りビアク支隊の目覚ましい勇戦敢闘は全軍の模範と謳われて度々感状を授与されたである。 しかし、戦力の消耗甚だしく、しかも援軍は続かず、遂に連日連夜の死闘に刀折れ矢尽きて部隊としての組織的戦闘は継続不能となり支隊長陸軍中将葛目直幸は、支隊本部の西洞窟脱出に当り軍旗を奉焼し、7月2日天水山に於て引責自決したのであった。
 同年7月25日「ビアク支隊は玉砕することなく極力ビアク島に健在し、現地自活を徹底しつつ次期攻勢を準備すべし」との持久命令を受け、生き残った将兵は「次期攻勢」を固く信じて、後日の再会を誓い、それぞれ生きんがための糧を求めて痩躯に鞭打ち、あてどなき密林に分散したのである。 しかしながら、生き残った者のすべては既に体力消尽し、熱帯病の患者たるか或は負傷者たるか、いずれも健全な者とては無く、執拗な敵の進撃と厳しい自然との闘いに、その殆んどがあたかも大地に吸われる水の如く戦場の土に帰したのであった。
かくして戦後生きて祖国の土を踏んだ者は、捜索隊により救出された者並びに戦中現地住民又は連合軍により救出収容された者、或は島外に分遣されて、ヌンホル島その他の地区に於て万死に一生を得た者、合わせて520名を数えるのみであった。
 戦後すでに34年、今や我が国が世界にその繁栄を誇り、平和と自由を謳歌出来るのも、前線に銃後に今次大戦の幾多数知れぬ尊い犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはならない。
その一典型として、酷寒の北支に、はた又炎熱と瘴癘の南溟の孤島に精強なるが故に常に祖国防衛の最前線に身を挺して遂に護国の神と化したビアク支隊戦没諸氏の崇高な殉国の史実を記憶されんことを切に希うものである。
 これ、この度御遺族の御支援を忝うし、共に砲火を潜り、共に草の根をかじって辛くも生き残った戦友一同心から平和の尊さを思い、悲惨な過ちを二度と繰り返さざることを祈念し茲に碑を建立する所以である。
 ビアク島その名忘れそみちのくの
  ますらたけおの聖き奥津城
      昭和54年5月27日
         ビアク戦友会

西南太平洋図

戦歿者遺骨奉安殿


天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念碑

昭和45年10月本県で開催された第25回国民体育大会秋季大会にご臨場のため両陛下が行幸啓の御砌り同月13日午前10時2分畏くも当岩手護國神社へ聖籠を進められ幣饌料を御奉納のうえ御親拝あらせられたことは千載一遇の栄誉であった
以ってここに無上の光栄を後世に伝えるためこの碑を建てたものである。
 昭和46年10月13日
  岩手護國神社宮司 北田喜七郎敬白


平和の塔


岩手県戦没者遺品館

残念ながら閉館中でした。


明治天皇像(盛岡八幡宮)

御聖像奉建之詞
謹んで顧うに 明治御維新の大業は洵に今日日本国進展の基礎である
明治天皇御歳16歳にして御即位あそばされ御在位46年常に御躬を以て衆に先んじ聖明親しく国運拓開の萬機を総攬せらる ご聖徳は赫々として日月の如く御聖訓は昭々として萬世を照させ給う 恪も明治9年7月7日東北巡幸の砌り畏くも
天皇親しく岩手県産馬御台覧の地盛岡八幡宮の境内に御聖像を奉建して永く御聖徳を景仰し奉らんことを希い奉ります
                       謹白再拝
昭和50年9月10日
 明治大帝聖像奉賛協会 会長 榊原孝

明治大帝聖像

明治天皇産馬展覧聖阯


盛岡八幡宮

旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。
盛岡総鎮守。
創建は、康平5年(1062年)、源頼義の安倍氏討伐に際して、岩清水八幡宮を当地に勧請したことにはじまる。

※撮影:2023年8月


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「昭和の聖将」今村均の墓と輪王寺散策(仙台の戦跡散策・その6)

名将・今村均大将の墓がある輪王寺に足を運びました。
本編は、「その6」です。

仙台市の輪王寺。仙台藩伊達家にゆかりの深い寺院。

境内案内図もわかりやすいですね。墓地を彷徨わなくて済むので助かります。
境内裏手の墓地には、足を運ぶ。


今村 均

今村均
1886年(明治19年)6月28日 – 1968年(昭和43年)10月4日)
陸士19期、陸大27期首席。陸大同期は本間雅晴や東條英機などがいた。最終階級は陸軍大将。
仙台藩士の家柄で仙台出身。
太平洋戦争では、初戦に第16軍司令官として蘭印作戦を指揮した名将。ジャワ軍政では、中央よりとかくの批判を受けるも、独自色を発揮し成果を発揮する。
昭和17年に第8方面軍司令官として、ラバウルに着任。
ラバウルで自給自足体制を確立。米軍は今村によって要塞化したラバウルの状況を知った米軍は、占領を回避し、打撃による無力化に留め、封鎖を実施。ラバウル守備隊は孤立したが、自給自足体制を整えていたために、今村均の陸軍第8方面軍は、草鹿任一の海軍南東方面艦隊とともに終戦までラバウルを維持し続けた。

陸軍大将 今村均 明治19年~昭和43年〔宮城〕
南方進攻作戦の最終段階、蘭印攻略作戦を指揮した昭和の名将
今村は、知、情、意の調和がとれた名将と知られています。開戦前、今村は、陸軍大学校で蘭印の石油資源を含む要域占領を目的とした蘭印攻略作戦準備を統括しましたが、よく部下と意志の疎通を図り、各級指揮官が孤立しても適切な判断ができるよう認識統一に努めていました。そして今村は、第16軍司令官としてその作戦指揮を執り、戦域の広大さ、部隊運用の複雑さがありつつも名将ぶりを発揮しました。また、昭和17年2月11日発令の第16軍命令(下掲史料)からもわかるように、今村は、兵站を特に重視し、各正面毎綿密に準備しました。さらに住民の安全に意を尽くし、住宅地への軍の進入を厳に諫め、占領後は住民の心に寄り添います。第16軍主力は、3月1日、ジャワ本土に上陸、日本軍戦力を過大評価したオランダ軍は、9日に降伏します。占領後、今村は、敵味方の区別なく緩和を主義とする軍政の実行を指示します。今村の軍政は緩すぎると中央で問題となりますが、その意思は揺るぎませんでした。戦後、今村は、ジャワ戦犯裁判で捕虜虐待の責任を追及されますが、責任追及は当然と求刑を甘受します。結局この法廷では無罪となり巣鴨に送還されますが、自ら志願してマヌス島に送られ、29年の刑期終了まで旧部下数百名とともに在監の苦悩を共にします。

防衛研究所 https://www.nids.mod.go.jp/military_archives/siryo/siryo_19.html


今村均の墓

今村均家累代之墓

合掌

墓誌
今村均
 明治19年6月28日 仙台に生まる 陸軍士官学校 陸軍大学校を卒業し 歩兵第四聯隊付 英国駐在武官 等を歴任 第二次世界大戦に際しては 郷土部隊と共にジャワ ラバウル方面の戦闘に参加す
 昭和18年5月 陸軍大将に任ぜらる 昭和43年10月4日歿
勲一等功二級従三位
 享年82歳

今村家の家紋は、浮線蝶紋


輪王寺境内を巡ります。

昭和大戦戦没者慰霊碑

昭和の戦いに 
 国のために倒れ 
  帰らぬ私達を
ふるさとの人は 
 忘れないで下さい

合掌

この碑は、昭和の大戦で戦没した将兵の慰霊の為昭和37年有志が通町公園内に建立した。
然し、仙台市が平成13年に撤去削損、国民は碑に託された将兵360余柱を思い、多くの協力を得て再建した。
 国のため戦死された人々よ
  安らかにお眠りください
    平成14年3月建立

昭和の大戦戦没者慰霊碑
別名 戦没者の声なき声、忘れないでの碑
 昭和6年、満州事変より、大東亜戦争後ソ連抑留の18年間、国の命により戦いに倒れた将兵212万1千名、その多くは遺骨すら故郷に帰へらなかった。
遺族らは父や夫の面影を追い、昭和37年通町公園に慰霊碑を建立、裏面に戦没者名(364柱)を刻み残した。然し、40年後の平成13年、仙台市は公園整備の際撤去、他に転用の為。碑の両面を削除した。
人々は祖国に尽くした戦没者と遺族の進駐を思い、碑石の返却を求め慰霊の為、亡き人の声なき声を碑文とし、日本の永遠の平和と安泰を願い、この地に再建した。
 平成14年3月
  戦没者遺族・妻子孫他
  旧軍・自衛隊市民有志


志賀潔博士の墓

赤痢菌発見の志賀潔博士の墓所


飯沼貞雄の墓

白虎隊士として飯盛山で自刃するも偶然救助されて、唯一蘇生した人物。


輪王寺

伊達家ゆかりの古刹。

※撮影:2023年8月


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仙台陸軍墓地・常盤台霊苑(仙台の戦跡散策・その5)

仙台陸軍墓地のあった場所を巡ってみました。
本編は、「その5」です。


仙台陸軍墓地(常盤台霊苑)

歩兵第四聯隊が駐留した仙台。往時の陸軍墓地は、「特話題霊苑」として宮城県によって管理されている。
宮城県が、昭和28年に国から譲渡を受け、戦没者慰霊の合葬碑等を建立し、慰霊祭等を行っている。
現在は、一般非公開となっており施錠され、敷地内に立ち入ることができない。

常盤台霊苑

入れないと知ってはいたが、訪れてみた。
入口で、手を合わせ黙祷をする。

常盤台霊苑の由来
 ここ常盤台霊苑はもとの陸軍墓地であり明治年間平時に病没した第二師団将兵軍属の墓であった。後に日露戦争及び満洲事変における戦歿勇士合葬の墓をそれぞれこの地に建立したのは当時世界列強の包囲と抑圧に耐えて我が民族の独立と生存を守り抜いた国民的心意気の発露であった。
 昭和20年8月大東亜戦争の配線と共に人身極度に混迷し為にこの聖域は荒廃してこの戦争に斃れた勇士の遺品は仮の堂中に納められたまま永くその所に安んずることができなかった。
 サンフランシスコ平和条約成り我が国独立の快復と共に県民の総意は再びここに大東亜戦争勇士合葬の墓を建立し聖域を補修し昭和28年11月これを完成したのである。
天主台の護國神社が戦没者英霊の神域であればここはその墓域である。
 その名も常盤台霊苑と改め不滅の遺芳を偲びつつ毎年毎月の祭を絶やすことはない。
 日本民族無窮の生命は古来敬神崇祖の伝統に輝く
ここに霊苑の由来を碑に刻んで永く後世に伝える所以である
  昭和44年3月
   文 島貫常行

文責の島貫常行は、宮城県出身の陸軍大佐(砲兵・士候39 陸大47優等)ルーマニア駐在武官などを務めた。

標柱

陸軍墓地

占用期間が記されていた。どうやら5年更新のようです。

占用期間
自 昭和13年10月1日
至 同 18年9月30日

閉門。立入禁止。
脇の隙間から入れそうだけど、もちろん入らない。
門前で拝礼する。


常盤台霊苑の後方

敷地の後方から、見渡せる高台があった。
多くの陸軍墓地に足を運んだが、立入を制限しているだけあって、霊域として見事な空間を保っていた。

左:満州事変戦没勇士合葬之墓
中央:明治三十七・八年役戦死病没者合葬之墓
右:大東亜戦争戦没勇士合葬之墓

宮城県

https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/syahuku/shisetsu.html

場所

https://maps.app.goo.gl/gtzcAmj8n64y5SrH7

撮影:2023年8月


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