横須賀の浦賀。ここに幾多の駆逐艦を生み出した造船所があった。
「浦賀船渠」
「西の藤永田、東の浦賀」と称された、大日本帝国海軍駆逐艦のふるさとである「浦賀船渠」跡地を散策してみた。
西の藤永田造船所のレポートは以下にて。
「浦賀ドック」は、横須賀市浦賀地区にあった造船所。
2003年に「浦賀ドック」は閉鎖され、2021年に住友重機械工業から横須賀市に無償寄付された。
浦賀造船所
嘉永6年(1853年)、ペリー来航を期に、江戸幕府は「大船建造の禁」を解禁し、大型船の建造を開始。「浦賀造船所」を設置。
安政元年(1854年)、「浦賀造船所」にて、国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」が建造される。これは、浦賀奉行所与力の「中島三郎助」の尽力による。
中島三郎助と鳳凰丸
ペリー来航により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与力・中島三郎助らに軍艦建造を命じた。安政元年(1854)5月、日本で最初の洋式軍艦鳳凰丸は浦賀の地で誕生した。
浦賀国際文化村推進協議会
安政6年(1859)には、日本初のドライドックが完成。アメリカに向かう咸臨丸の整備も浦賀で行われ、咸臨丸は浦賀から出港している。
慶応元年(1865)、江戸幕府の勘定奉行であった小栗忠順の進言により、フランスの技師ヴァルニーによって「横須賀製鉄所」が開設。造船所としての拡張も行われ、江戸幕府が瓦解したのちの明治4年(1871)に「横須賀造船所」(横須賀海軍工廠)となり、艦艇建造は浦賀から横須賀に移り、「浦賀造船所」は明治9年(1876)に閉鎖となった。
戦前の浦賀船渠
浦賀造船所の基礎を築いた中島三郎助は、戊辰戦争に際して、榎本武揚らと行動をともにし、函館政権(蝦夷共和国)下では、箱館奉行並、砲兵頭並として要職を務め、箱館戦争では、本陣前衛の千代ヶ岱陣屋の陣屋隊長として奮戦。五稜郭への撤退及び新政府への降伏も拒絶し、本陣五稜郭降伏の2日前に、中島三郎助は長男次男とともに戦死している。
明治24年(1891年)、中島三郎助の23回忌にあたり、三郎助を慕う地元の人々によって、愛宕山公園に中島三郎助招魂碑が建てられた。
中島三郎助招魂碑の除幕式に参列した荒井郁之助が中心となり、榎本武揚・塚原周造も賛同し中島三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを決定。
明治30年(1897年)、かつての浦賀造船所と同じ場所に「浦賀船渠株式会社」が設立された。(浦賀船渠の浦賀ドックの竣工は明治32年)
明治31年には 東京石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)が、渋沢栄一によって開業し、浦賀での造船競争が活発化。
最終的には、明治35年(1902)に、浦賀船渠が石川島の浦賀分工場(川間ドック)を買収し、浦賀船渠川間分工場となっている。
榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック
日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。
浦賀国際文化村推進協議会
浦賀船渠は、日露戦争に際して、横須賀海工廠から艦載水雷艇の受注を受けたことから、軍艦製造を開始。
明治40年(1907年)に、浦賀船渠は初めて駆逐艦を建造。最初の建造は駆逐艦「長月」であった。
大阪の藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門となり、「西の藤永田、東の浦賀」として、多くの艦艇を生産した。
海軍軍艦として建造実績は、軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完、であった。
また、大正13年(1924)には、青函連絡船の原点となった、国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」を竣工させ、その後の多くの青函連絡船も浦賀での建造となった。
浦賀船渠で造られた艦艇
軽巡洋艦
五十鈴(長良型2番艦)
阿武隈(長良型6番艦)
敷設艦
厳島(2代目)
駆逐艦
神風型駆逐艦 (初代、昭和5年全艦退役)
長月、菊月
樺型駆逐艦(昭和7年全艦退役)
桐
以下は太平洋戦争に参加世代の艦艇
樅型駆逐艦
柿、萩、菱、蓮
若竹型駆逐艦
早苗、早蕨
神風型駆逐艦 (2代目)
追風(2代目)
睦月型
弥生(2代目)、水無月(2代目)、望月
吹雪型
深雪、磯波(2代目)、狭霧、潮(2代目)、雷(2代目)
初春型
子日(2代目)、初霜(2代目)
白露型
時雨(2代目)、五月雨(2代目)、山風(2代目)、涼風
朝潮型
霞(2代目)
陽炎型
不知火(2代目)、早潮、時津風(2代目)、浜風(2代目)、萩風、秋雲
夕雲型
風雲、高波、涼波、岸波、清波、清霜
秋月型
宵月
官公庁船
関門連絡船:長水丸、豊山丸
青函連絡船:飛鸞丸
青函連絡船・戦時標準船:第三青函丸
青函連絡船・W型戦時標準船:第四青函丸、第五〜第十青函丸
民間船
貨物船:葛城丸
貨客船:白山丸
戦後の浦賀船渠
戦後も浦賀船渠では海上自衛隊向けの艦艇の建造や、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。
昭和44年に住友機械工業と合併し、「住友重機械工業浦賀造船所」となり、追浜造船所(現横須賀造船所)も開設。工場集約に伴い浦賀地区は平成15年(2003)に閉鎖され資材置き場となる。
2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。
2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部が、住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付され、現在に至る。
昭和52年 市制施行70周年期記念
横須賀風物百選
浦賀造船所
浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。
この造船所は、明治29年(1896)、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め翌年、明治30年(1897)6月21日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は100万円でした。
そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約150円で雇いドックを築きました。
明治35年(1902)10月15日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、14隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。
この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約千隻にのぼります。現在もなお技術革新の旗手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もな地元市民に基盤を置いています。
「浦賀ドック」ツアー見学
現在、限定公開されている浦賀ドックの見学会に参加してきました。
NPO邦人よこすかシティガイド協会
令和3年3月に住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄附された浦賀レンガドックは、明治32年(1899年)に建造されてから平成15年(2003年)に閉鎖されるまで1,000隻以上の船の製造や修理を行ってきた歴史のある造船所。
レンガ造りのドライドックとしては日本では浦賀にしか現存していない貴重な施設となっている。
入口。ツアーに申し込みしないと入れない。。。
レンガ片
浦賀船渠「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)
昭和20年6月と銘記のあるドックサイドクレーン。
現存する唯一のクレーン。
浦賀船渠
昭和20年6月
ジブクレーンは、一本の支柱で腕(ジブ)を支えるクレーン。
浦賀船渠「ドライドック側面」(乾ドック)
世界に4箇所(5個)しか現存していないレンガ積みのドライドックのひとつ。
長さは約180m、幅は約20m、深さ約11m。レンガ使用数は約215万個、積み方はフランドル積(フランス積)
浦賀船渠「ポンプ所」
ドライドック(乾ドック)では、ポンプが必須。壁のレンガは、レンガドックと同じ年に完成した、貴重な遺構。
浦賀湾の奥を望む。この護岸も往時からのもの。
浦賀船渠「浦賀ドック船尾側(フラップゲート側)」
海水をせき止めるのが、フラップゲート。自重で海面側に倒れるようになっているという。
船尾側(海側)から浦賀ドックを一望する。
船とドックのセンターを合わせる水平装置。船尾側。
ゲートを開閉する装置。
このあたりはタワークレーンの跡。
浦賀船渠「ボラード」
岸壁の杭。係留用だったり進入防止用だったり。
浦賀船渠「ドック底部」
いよいよ下に降ります。
盤木。船を固定するための土台。
現在の盤木は、2002年に浦賀ドックに最後に入渠した「しらはま丸」のもの。盤木は船の設計図にあわせて、都度作成していた。
フランス積みの煉瓦
船首方向
浦賀ドックを拡張した昭和35年7月の銘板。
見えなかったが、竣工当時の銘板もあるらしい。
これはワクワクする空間ですね。
レンガドック活用センター
浦賀ドックに関する資料が集められた建屋を見学。
浦賀船渠株式会社
浦賀工場
浦賀と浦賀レンガドックの歴史
(住友重機械工業浦賀工場第1号ドック)
享保5年(1720年)
浦賀奉行所の開設
嘉永6年(1853年)
浦賀沖にペリー来航、久里浜に上陸
慶応元年(1865年)
横須賀製鉄所の起工
幕末に開国した日本は、欧米諸国に追いつくため、現在の米海軍横須賀基地と京急線汐入駅周辺の場所に、日本で初めて石造りのドライドックを備える横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)を建設した。蒸気機関を動力として、造船に必要な部品生産から組み立て、メンテナンスまでを一貫して行い、技術者育成機関も備える大工場だった。伴って、蒸気機関に欠かせない水道や物流に欠かせない鉄道など都市基盤の整備もいち早く進み、横須賀は最先端技術が集まる造船の町へと変容していった。
明治28年(1895年)
渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所が、浦賀ドックにほど近い川間でドック建設に着手
明治28年に、渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所(現在の㈱IHI)は、浦賀ドックにほど近い川間でドライドック建設に着手し、明治31年に営業を開始した。明治32年には、浦賀船渠㈱により、浦賀1号ドライドックが竣工し、浦賀には、同時期に2つのドライドックが稼働することになった。後に、浦賀船渠㈱が川間のドライドックを買収・合併することとなった。
歴史の小話
明治28年3月8日付の「国民新聞」には、浦賀に計画された2つの造船所について書かれている。「榎本武揚ら武士が発起人となって、西浦賀に設立しようとする船渠は、政府内部の許可は早くとれたのに、地元の地主との交渉が難航して、未だ工事に着工できない」一方、「渋沢栄一ら町人一派が東浦賀に計画している船渠は、すでに地主との間に売買の契約が整い、一坪3円ずつお手付け金も渡してあるが砲台に近いという理由で、陸軍省からクレームがあり、これまた設立に至らず。」どちらが先に問題を解決して、造船所の建設を進められるのか。浦賀の人々を自陣に取り込もうと、榎本ら武士と渋沢ら町人が、両者一歩も引かぬにらみ合いが行われていたようだ。
明治32年(1899年)
浦賀1号ドライドック(浦賀ドック)の竣工
明治30年に、農商務大臣であった榎本武揚らの提唱により、浦賀船渠㈱が設立された。浦賀1号ドライドックの工事着手に先立ち、オランダの技師デレーケに設計を委嘱、元横須賀造船所技師の古川庄八の協力などにより設計と整備が進められた。明治30年に本工事に着手し、最終的には、横須賀造船所のドライドック建造に関わった経験を持つ杉浦栄次郎が、浦賀ドック㈱の主任技師に赴任し、紆余曲折を経て完成した。
平成15年(2003年)
住友重機械工業裏が工場の閉鎖
浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)で最後の修繕した船は”しらはら丸”。
惜しまれつつ閉鎖した後、令和3年に、浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)と周辺部が住友重機械工業㈱から横須賀市に寄付され、現在に至る。
場所
浦賀船渠「浦賀ドック渠頭側」
渠頭側からドックを一望する。
船とドックのセンターを合わせる水平装置。渠頭側。
敷地内の見学は、以上。
レンガ積みのドライドック。これは、ぜひとも、見学すべき貴重な空間。
次は、浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)に向かいます。
浦賀船渠「浦賀ドック煉瓦壁」
道すがら。
外壁の一部も往時からのもの。
内側から
浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)
浦賀奉行所を模した入口。
浦賀屯営碑
旧浦賀ドック構内の非公開エリアにある、浦賀屯営碑の説明。
明治9年9月1日から浦賀に「浦賀水平屯集所」が設立。以後、水兵練習所・浦賀屯営・横須賀海兵隊と名前を変えつつ水兵養成機関があった。
場所
浦賀ドックの最後の建造「護衛艦たかなみ」
2003年(平成15年)3月12日、浦賀ドック(住友重機械工業浦賀艦船工場)で最後の建造となったのが護衛艦「たかなみ」。
「たかなみ」竣工後の3月31日に、浦賀工場は閉鎖した。
護衛艦「たかなみ」
2017年に撮影していた「たかなみ」の姿。
陸軍用地境界石
浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に保存されている陸軍用地の境界石。
浦賀ドック跡
浦賀駅前周辺。
屯営跡の碑
築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、1875年(明治8年)、「浦賀水平屯集所」が設置されました。
その後「東海水兵分営」、明治15年には「水兵練習所」、明治18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。
その事績を残すため、昭和9年に「屯営跡の碑」が建てられました。
この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われていました。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ
参考
敷地の外から浦賀ドックを。
※撮影:2022年7月及び8月
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-143
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。
浦賀ドック周辺
現在の様子
浦賀ドック
現在の様子
2016年の浦賀ドック
2016年に浦賀に訪れていたときに何気なく撮影をしていました。
今思えば、もっと撮影をしておくべきでした。。。
昭和18年建造のハンマーヘッドクレーンの姿も撮影していました。
撤去解体済み。
「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)も写真を撮っていました。
※撮影:この箇所のみ2016年4月
関連