「日本の航空事始め」としては、第5弾になります。
今回は、実質「その0」の位置づけ。本格的に飛び立つ前のお話です。
二宮忠八関連ゆかりで、2003年に訪問していた飛行神社を再訪し、写真と記事を追記して掲載で。
以前の記事は下記。
出生の八幡浜にも行きたいですけど、なかなか。。。
目次
日本の航空事始め
飛行神社と二宮忠八
京都府八幡市、石清水八幡宮のお膝元に鎮座している航空関連の神社。
二宮忠八は、愛媛県八幡浜出身。
明治24年4月29日香川県丸亀の歩兵第12聯隊練兵場に於いて、日本人として最初のゴム動力によるカラス型飛行器の飛行に成功させた。
「日本の航空機の父」と称された二宮忠八が大正4年(1915)に航空受難者の霊を慰めるべく創建したことにはじまる。
現在の社殿、拝殿、資料館は平成元年の飛行原理発見100周年を記念して、二宮忠八翁の次男二宮顕次郎によって建てかえられた。
飛行神社
飛行神社は、日本で初めて動力飛行機を発明した二宮忠八(1866-1936年)によって1915年に創建されました。飛ぶことへ興味を持った忠八は、20代の頃、カラスが滑空する姿に着想を得て固定翼の「カラス型飛行器」を制作し、1891年に飛行を成功させました。また、人が乗れる複葉機モデルの「玉虫型飛行器」を設計しました。その後、八幡の地で試作機の製作を始めましたが、完成前の1903年にライト兄弟が有人飛行を成功させたことを聞き、制作を断念しました。
本殿中央には、空の神様である饒速日命を祀り、向かって左側は日本薬学会の偉人らを祀る薬光神社、向かってっ右側は航空事故で亡くなられた航空殉難者と航空業界の先覚者を祀る祖霊社で、世界は同じ空の下でつながっているという忠八の信念で、国籍に関係なく全ての犠牲者を祀っています。
併設の資料館には、忠八が撮影した写真や自筆の資料、本人が晩年に作り残した玉虫型飛行器(模型)をはじめ、発明に関連す品々が展示されています。
航空安全祈願
飛行神社 縁起略記
鎮座 大正4年(1915)3月10日
主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
別社 常磐稲荷社
当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。
現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。
平成12年9月
京都八幡市土井四十四
宗教法人 飛行神社
飛行神社
御社殿はギリシャ風拝殿。
現在の拝殿は平成元年(1989)建立。
飛行神社 ご本社
第一殿 ご本殿 饒速日命
第二殿 祖霊社 航空殉難者並び航空先覚者
第三殿 薬光神社 薬祖神
第一殿
饒速日命
饒速日命は、天津神のご指示を受け三十二柱の神様を従えて天磐船という岩で出来た飛行船で地上に天降られた神様で、古代から空の神様、行く先を守る神様として祀られてきました。
当社には大正4年(1915)に創建者二宮忠八翁が飛行神社創建に当たって磐船神社(大阪府交野市)よりご分霊いただきました。
交通安全、航空安全、旅行安全などの旅先、移動の安全に深く信仰されております。
第二殿
祖霊社
航空事故で亡くなられた方、技術革新、指導に当たられ航空業界に多大な影響を与えられた方をお祀りしております。
二宮忠八翁は空に関わられた全ての御霊と共に航空安全、航空事業の発展を祈る為、この飛行神社を創建しました。
航空安全はもちろん、忠八翁等の発明者をお祀りしている為、開発発明祈願や、学業成就合格祈願などの信仰も深くございます。
年次祭(4月29日)に毎年の御霊をこの社殿に合祀しております。
第三殿
薬光神社
この社殿は薬業界の偉人とされる長井博士や、二宮忠八翁が共に働いた武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などの薬学会の仲間を薬祖神としてお祀りしております。
健康長寿、病気平癒、医学界・薬業界の発展を祈念するお社です。
また、この地には白い蛇がおりました。白蛇はこの社殿創建と同時にいなくなった事から、白蛇はこの御社に籠られたと言われております。
白蛇は白龍神と言われ金運、開運の神様としてお祀りされております。
二宮忠八と長岡外史
明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。
日清戦争中の明治27年(1894年)8月19日、大島混成旅団の参謀隷下の衛生兵(二宮忠八)が飛行機の開発に軍の協力を求め、略図を添えて大島義昌旅団長宛に『軍用飛行器(飛行機)考案之儀二付上申』を提出してきた。
参謀であった長岡は人が乗って自在に空中を移動する機械という当時としては奇想天外な研究の意義を理解することができず、「今は戦時である」「外国で成功していないことが日本で出来るはずがない」「成功したとしても戦争には使えない(上申では偵察に使えるとされていた)」と一蹴した。
その後、陸軍を離れた二宮忠八は、飛行機開発をすすめるが、1903年12月17日にライト兄弟による有人動力飛行がすでに行なわれていた事が判明(兄弟らは情報秘匿のため積極的な公表を控えたため、暫くの間世界的にこの偉業が伝わっていなかった)。したのちに、二宮は飛行機の開発をやめてしまう。
日清戦争中の上申時点では二宮忠八の飛行機の着想はライト兄弟に先行しており、結果として長岡ら軍上層部の冷淡な態度が日本人による飛行機の発明の機会を失った一因とされている。
その後白川義則中将と二宮の対談が新聞や雑誌に取り上げられてこの事実が世間に知られることになると、長岡は自らの先見のなさを嘆いて長文の詫び状を送り、二宮に面会して謝罪したという。
長岡外史が二宮忠八に宛てた手紙の写しは、飛行神社に設けられた飛行神社資料館(二宮忠八資料館)に展示がある。
飛行神社社号標(白川義則謹書)
白川義則は、二宮忠八と同じ愛媛県の出身であった。
1919年(大正8年)、陸軍中将(当時)であた白川義則と二宮忠八が懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいことがわかった。そして、ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰。
1927年(昭和2年)勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。
白川義則は、二宮忠八と縁があり、改築時に社号標を揮毫している。
飛行神社
飛行機発明勲功旌表地鎮座
昭和7年3月改築
陸軍大将白川義則書
二宮忠八顕彰碑(白川元春謹書)
二宮忠八 1866‐1936
妻 寿世 1873-1929
わが航空界の先覚者二宮忠八翁をたたえる
航空幕僚長 白川元春
男爵陸軍大臣であった白川義則の三男。
陸軍航空士官学校を第51期で卒業し、飛行第90戦隊中隊長として、マレージャワを転戦。
陸軍大学校(第58期)を昭和19年5月に卒業後は、陸軍少佐に進級し南方軍総司令部参謀としてサイゴンで終戦を迎えた。
戦後は、航空自衛隊として、第11代航空幕僚長、第8代統合幕僚会議議長を歴任。最終階級は、統合幕僚会議議長たる空将。
親子2代に渡る支援があった。
零式艦上戦闘機の機首部
零式艦上戦闘機の機首部
昭和58年10月下旬、大阪湾漁場において大阪府岸和田の漁師が、底引網操業中の漁網に、機首部がかかり、岸和田漁港に引き揚げられたものです。
何かのプロペラ
ジェット機エンジン(F-104J)
飛行神社の写真あれこれ
ステンドグラスは、「飛行」に縁のある生き物たち。
手水盤は、烏型飛行器と玉虫型飛行器
奉納飛行機が浮かんでいます。
アンネのバラが咲いていました。
撮影:2024年3月