戦後の食糧難から生まれた「仙台牛タン焼き」

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戦後日本。GHQ統治下にあった昭和20年代の日本は慢性的な食糧難にあった。


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昭和20年代の仙台

第二次世界大戦後、仙台にもGHQが進駐。
大量に牛肉を消費する駐留米軍が残したタンとテールを有効に活用するために、1948年(昭和23年)、仙台の焼き鳥店「太助」初代店主・佐野啓四郎が、牛タンシチューより着想し、知識・技術を用い、牛タン焼きの専門店を開業したことが「仙台牛タン」の始まりという。

「牛タン定食」は、当時の食糧難(農地改革や戦後開拓をしてもコメ不足)を反映した「麦飯」、電気冷蔵庫が普及する前の時代に望むべくもない生鮮野菜に代わる「野菜の浅漬け」、佐野啓四郎氏の出身地である山形県の伝統料理「味噌南蛮」、エネルギー革命前で都市ガスが一般化していなかった当時の燃料事情を反映した炭火による牛タン焼き、そしてテールスープが構成要素となっている。

ちなみに、GHQ進駐軍は、多くは解体された牛肉の正肉ばかりを輸入していたため、臓物の牛タンの充分な供給元としては望めず、多くの牛タンを必要となった際には、周辺県の屠畜場にまで牛タン等を求めることとなったという。


初代牛タンの味を生み出した、佐野啓四郎氏

佐野啓四郎氏は、山形県西村山郡西里村(現・河北町)の生まれ。
20代のころから、料理の世界に入り、割烹料理で住み込みで働いていた。毎朝築地市場に買い出しに行く中で知り合った中華料理・洋食・和食の各店で働く人々との交流において牛タンや牛テールの美味しさを知らされ、在京中にフランス人シェフがいる洋食屋にてタンシチューを食する機会もあった。
昭和16年に太平洋戦争が始まる。
佐野は1942年(昭和17年)に、徴用され宮城県柴田郡船岡町(現・柴田町船岡)の第一海軍火薬廠に配属となったが、明け番の日は商売をしても良い職場だったため、船岡で焼き鳥屋を始めた。
昭和20年8月の終戦を機に、佐野は仙台に移り、焼き鳥屋を開店し、物資不足の中で、牛タンや牛テールの活用研究を開始した。
昭和23年、佐野は新たに「太助」を開店し、佐野が考案した「牛タン焼き」の提供が始まった。

牛たん焼きの誕生は、戦後の混乱期に当たる昭和20年代。
仙台市一番町に焼鳥屋を営んでいた、佐野啓四郎氏によって生み出された。
佐野氏は、洋食レストランで口にした、タンシチューにヒントを得て、日本人の口に合う牛たん料理作りに没頭した
試行錯誤を重ね、シンプルな味付けで素材そのものの風味が楽しめる、牛たん塩味を考案。
店では、23年から販売を開始した。
その人気に、宮城県や仙台市の観光担当者も注目し、「年間を通して口に出来る郷土料理にしてほしい」と、佐野氏に協力を要請。
これにより、今ではおなじみとなった、麦飯・テールスープとの“黄金”セット「牛たん定食」が誕生した。
評判は瞬く間に広まり、牛たん屋「旨味太助」には連日マスコミが殺到。同店が出演した全国放送番組には、多方面から注目を浴びた。

なお、佐野を創業とする現存する店舗「太助」は、2系統に別れている。
「味・太助」は創業者・佐野啓四郎の息子が2代目を務める店。
「旨味・太助」は創業者・佐野啓四郎の一番弟子の娘婿が店主を務める店。
今回は、とくに意図はなく、「旨味・太助」に足を運びました。


旨味・太助

良い店構え。

牛たん定食

創業当時のままの噛み応えのある塩味の牛タン。これは満足度が高くて美味。

麦飯と牛テールスープ

牛たんの塊

塩味の炭焼き

※2024年9月


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