「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

浜松駅周辺の戦跡散策【浜松5】

浜松駅周辺の戦跡散策。浜松空襲の名残をたどってみる。


揚子橋に残る弾痕

馬込川にかかる揚子橋(ようずばし)。橋の南北に激しく機銃掃射による弾痕が残っている。弾痕は約50箇所にも及ぶという。

浜松は、その都市の規模に比べ、異様なほど多くの空襲を受けた。また艦砲射撃も受けている。
軍事施設や軍需工場が集まっており、また東海道の要衝でもあり、東京や名古屋を爆撃するB29の飛行航路にも当たっていたという複数要因があった。

揚子橋の弾痕がいつのものかは不詳。

場所

https://goo.gl/maps/c47NzCu32F7WzVax7


動員学徒追悼・慈光観音像(林泉寺)

学徒動員により動員現場で死亡した娘を追悼する母親の願いを受けて、1999年に建立。
観音像は学徒動員された10代の若き女性を模している。

慈光観音
為 学徒動員
青春散華

場所

https://goo.gl/maps/nigH8WqgWdqXnjHU9


戦歿者慰霊塔(河合楽器)

河合楽器の敷地内にある慰霊塔。河合楽器関係者の戦歿者を祀る。
河合楽器も軍需工場に指定されピアノ工場では爆弾倉や脚扉が作られていたという。
そこでは学徒動員も行われ、芥田学園や西遠女子学園などの多くの女学生が動員され、そして空襲等で亡くなっている。

場所

https://goo.gl/maps/5EFKCuM2ZH8Xvc8E9


市民の木・プラタナス

市民の木
 昭和20年6月18日の”浜松大空襲”により市街地の大半が焦土と化し、プラタナスの並木も枯死したと思われました。
 しかし、奇跡的に3本だけは幹に焦げ傷を残しながらも市民の愛の手に守られ、2年後の春に見事に発芽しました。
 以後このプラタナスは通行く人に勇気を与え、復興を呼びかけてくれました。
 戦火の中からよみがえり市民ともに生きた木として、昭和39年6月には”市民の木”と命名された記念すべき樹木です。
 浜松市

場所

https://goo.gl/maps/PghDjpPMpoNDSMj68


静岡銀行浜松営業部(旧遠州銀行本店)

昭和3年(1928)竣工。中村與資平設計の銀行建築。浜松市指定文化財。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所

https://goo.gl/maps/FVmtSSWmF8NfkU5v9


鴨江アートセンター(旧浜松警察署)

昭和3年(1928)竣工。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所

https://goo.gl/maps/LALLk3XAPwFwZNXx5


木下恵介記念館(旧浜松銀行協会)

昭和5年(1930)竣工。浜松市指定有形文化財。
設計は、中村與資平。前述の旧遠州銀行本店と同じ設計者。
浜松空襲を耐えた建築物。上記の警察署の向かいにある。

中村與資平は静岡県内に多くの建物を残している。
豊橋市公会堂、静岡市役所本館、静岡市公会堂、静岡県庁本館など。

場所

https://g.page/keisukemuseum?share


夢告地蔵尊

戦争の犠牲となったお地蔵様。

夢告地蔵尊由来
この地蔵尊は安政五年(西暦一八五八年)に大流行したコレラで死んだ人達を供養する為建立されたもので、延命地蔵尊と呼ばれ、遺族達の香華が絶えなかった程の大繁昌ぶりであった。その後明治七年、小野組の大火災に遭い、更に廃仏毀釈の影響で取り壊し令が出て、地中に埋められた。大正八年になって當町住人小柳丈之助といふ人が、「地蔵尊が地上に出たい。」といふ夢を見て、町民一体となり埋められたと思われる庚申堂境内をあちらこちら掘り捜した結果、三日目に發見地蔵尊を復元し、夢告地蔵尊と銘命した。當時このことが異常な評判を博し、特に、花柳界に反響を及ぼし、東西より粋な婦人の参拝が後を絶えなかったと云ふ。其の後、大東亜戦争中、爆撃と艦砲射撃により、御本体御堂共目茶目茶に破壊されてしまったが、戦後再び地蔵尊を復元し、昭和二十六年、現在の場所に、御堂を造り、恭々しくお祀りしたのである。昭和五十一年にいたり、この御堂はすでに老朽化し、倒壊寸前の状態にあり、之の新築を計画したるところ、幸いにして町内外有志の御賛同と御喜捨を得て、茲に総檜造りの御堂を、新築落成したのである。
昭和五十一年六月二十五日落成式佳日誌 世話人

場所

https://goo.gl/maps/Q3H9rrBbJtu5Dhnx6


一連の浜松の散策記録はひとまずこれで〆。
浜松は戦争関連の歴史が多く残されており、まだまだ散策しきれていません、きっとまた訪れることもあるかとは思いますので、そのときには別途追記していきます。

※撮影及び散策は2020年11月


関連

「怨親平等の観音様」松井石根大将と興亜観音・殉国七士之碑(熱海)

静岡県熱海市伊豆山。
太平洋を望む風光明媚な伊豆山鳴沢山の中腹。

陸軍大将 松井岩根が願主となって支那事変戦歿者を「怨親平等」わけへだてなしに慰霊供養するために建立された「興亜観音」が鎮まり、そして「殉国七士」をはじめとした昭和殉難者(殉国刑死者・ABC級戦犯)1068柱の御英霊、大東亜戦争戦歿者を慰霊する聖地が、熱海伊豆山にあった。

※「興亞観音」が正しい記載ですが、
 以下は一般的な「興亜観音」で記載致します。


興亜観音へ

興亜観音に赴くバスの本数は少ない。「興亜観音前」バス停というバス停があることにはあるが、いかんせん本数が少ないので、熱海駅からは「伊豆山循環」を利用して「小学校入口」バス停から歩くのがよい。

興亜観音前バス停のちかくにあるリゾートホテル「東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山&VIALA」。この地は、かつて熱海に隠棲した松井石根陸軍大将宅跡。

興亜観音前バス停から、伊豆山鳴沢山を登る。
この山の中腹に興亜観音が静まる。

この先は駐車場。車であがってくるのも大変そうだ。


興亜観音(礼拝山興亜観音)

わけへだてなし「怨親平等」の観音様。
昭和15年(1940)2月24日に、松井石根陸軍大将の発願により支那事変での日支両軍の戦没者を、等しく弔慰、供養するために建立。
寺院としては、日蓮宗から分かれた法華宗陣門流系であるが、興亜観音はこれにも属さず、日本で唯一の独自の歴史と祭祀を持った独立した寺院。

御参拝の御方様へ
伊豆山の急な山道をお登りになり、ようこそ『平和の御使い 興亜観音』においでくださいました。ここ礼拝山(鳴沢山)は鎌倉幕府を開いた源頼朝が源氏の再興を祈願した祈りのお山でございます。
そして昭和15年、陸軍大将松井石根閣下が日支事変で命を落とされた日中双方の兵士の御霊を弔うため平和を祈願し、
この地に「興亜観音」を建立されました。

 以来長い年月の間、風雨に耐え、野に立っておられる観音様は、かつて戦場であった中国大陸の方に向かい、今も深い慈悲のまなざしで見つめていらっしゃいます。午前11時から午後3時頃が観音様のお顔がもっとも美しく輝く時間でございます。どうぞごゆりと心静かにお参りくださいませ。 合掌
 興亜観音 住職

興亜観音
施無畏
 願主 陸軍大将 松井石根書

施無畏(せむい)
仏語。
菩薩が、その威力や方便で衆生の種々の畏怖を取り去って救うこと。
無畏を施すこと。三施の一つ。施無畏力をもっているために,観世音菩薩は施無畏者と呼ばれる。

コトバンク 施無畏
https://kotobank.jp/word/%E6%96%BD%E7%84%A1%E7%95%8F-87688#:~:text=%E3%81%9B%E2%80%90%E3%82%80%E3%81%84%E3%80%94%E2%80%90%E3%83%A0%E3%83%B0,%E8%A6%B3%E4%B8%96%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%81%AE%E7%95%B0%E7%A7%B0%E3%80%82

松井石根は、熱海の自宅にも無畏の名を冠していた。

決意の證
松井石根大将は、支那事変初期に於ける敵、味方双方の戦没将兵を平等に弔う為に、興亜観音を建立されました。同大将は私共に忠誠心を以て國の為に命を捧げた日本将兵は、永遠に供養されなければならぬ事と、忠誠心の極まった所に生ずる佛心、即ち敵といえども戦没者の霊を丁重に弔う、我が國武士道の伝統に基づく「信」を教えられたのです。これは平和への願いであり、あらゆる善行の基本です。同大将の辞世の内に「自他平等、誠の心」とあり、これこそ武士道精神、声なき声、心の光として人を導いているのです。
 日本国民が天から与えられた至上命令は、人類の文明を破却から守る事です。私共は天を敬い、人を愛して、身を慎んで善を行い、自らに課す精神生活の充実が、我が民族の道徳水準の向上となり、これこそが人類の文明を破却から守る原動力になると言う堅い信念を以て、興亜観音を心の拠り所として善行に励もうと思います。
(以下略)

来山の若き人よ
 名にし負う伊豆山の
明媚なる風光を
 愛づると共に
しばしここに足を留めて
 篁のかそけき風の音の
底なる日本精神の
 真髄なる「天上の声」に
  耳を傾け給え。

平成19年春 興亜観音刻名石版奉納事業 

興亜観音

この場所には、不審者侵入阻止のために扉付きの山門を建立予定。
興亜観音建立80年記念奉賛事業で建立予定であったが、コロナ禍により延期。


偶然が重なり、興亜観音の伊丹妙浄住職のご案内で参拝をさせていただく。
伊丹妙浄住職は、興亜観音の4代目住職。
 「遠いところからわざわざありがとうございます」
 「興亜観音は知っておられましたか」
 「最近はお若い方の参拝も多くなりました」
非常に物腰の低い慈愛に満ちた住職様。


松井石根と興亜観音

松井 石根(まつい いわね)
明治11年(1878年)7月27日 – 昭和23年(1948年)12月23日
最終階級は陸軍大将。大亜細亜協会を設立し大亜細亜協会会長を務める。
上海派遣軍司令官として、「いわゆる南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて処刑された。

松井石根は、成城学校卒業後に陸軍幼年学校に進学し、陸軍士官学校へ入学。
陸軍士官学校を9期次席卒業し、明治34年に陸軍大学校に入学。陸大在学中に日露戦争に従軍。
明治39年に陸大を18期主席卒業。
明治40年、清国に派遣され、孫文と親交。松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。また、蒋介石とも親交を深めた。
昭和2年、陸軍中将に昇進。
昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蔣介石への批判が高まるなか、6月4日に張作霖爆殺事件が勃発。前年に松井石根が調整して蒋介石の来日を働きかけ、合意していた「田中義一・蔣介石会談」(国民党による中国統一と日本の満蒙開発承認)が完全に瓦解してしまった。
松井石根の中国構想は破綻し、そして蒋介石は日本への不信感を高め、そうして昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国へと進んでいってしまう。
松井石根は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立(松井は設立発起人、後に会長に就任)。10月に陸軍大将に昇進。昭和9年に現役を退き予備役となる。

支那事変
昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争(支那事変)勃発。
予備役だった松井石根に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。
そうして8月20日、上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて上海に向けて出港した。
10月30日には、上海軍と第10軍を統括する中支那派遣軍司令官も兼任。
11月5日、柳川平助中将率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行。日本軍が優勢となり11月12日上海陥落。

南京攻略戦
11月19日、第10軍は、独断で中国軍を追撃、「南京攻略戦」を開始してしまう。松井石根は暴走を制止したが間に合わず第10軍の暴走を追認せざるを得なかった。11月28日、参謀本部は、後追いで南京攻略命令を 発令。
12月4日、朝香宮鳩彦中将が上海派遣軍司令官に就任。中支那方面軍司令官専任となる。
そのまま南京攻略戦の指揮にあた り、12月10日に総攻撃を開始、13日に南京城は陥落し、17日に南京入城式が行われた。
南京入城の翌日12月18日に、南京戦において亡くなった 日本軍戦死者の慰霊祭が行われた。松井石根は祭主として「中国軍の戦没者も併せて慰霊するようにせよ」としたが師団長から異論が出たために、日本軍戦没者のみの慰霊となったが、松井石根は、すでにこのときに日本と中国と両軍の慰霊を考えていた。

松井石根は独自の和平交渉を行おうとしていたが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蔣介石を対手とせず」宣言(近衛声明)で、松井石根の交渉の芽は全て摘まれてしまった。
松井石根は、軍中央部から中国寄りと見られ、その考え方の相違から更迭されてしまい、昭和13年2月に帰国し、再び予備役となった。

興亜観音
昭和13年5月、滞在していた熱海伊豆山温泉旅館涼々園主人の古島安二氏に伊豆山で余生を過ごしたいこと、戦歿将兵の供養などを打ち明け、古島氏が松井石根に協力。「観音像」を建立することとなった。

興亜観音の原型製作は、愛知県常滑の陶工柴山清風氏が快諾。
松井石根の後任で中支那派遣軍司令官となっていた畑俊六陸軍大将に「上海上陸以来、南京入城に至るまでの各戦場の土」の用意をお願いし10樽ほど送ってもらって、柴山清風氏と、そして彫塑家小倉右一郎氏に原型の修正を依頼し、漁師合作で「興亜観音」塑像が完成。高さ1丈(3.3m)、推定重量は約600kg。

開眼式は朱桜わ15年2月24日、芝増上寺大島徹水僧正を導師として執り行われた。
柴山清風氏の露座「興亜観音」と同じ姿の瀬戸焼2尺(60.6cm)の「興亜観音」も堂内に安置。

その後
軍籍を離れた松井石根は、「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動、興亜思想の普及などに務めるとともに、仏門に励み、朝昼の二回、興亜観音堂に参拝するのが日課となっていた。
1945年8月15日、熱海伊豆山の自宅で終戦を迎える。11月19日、松井は戦犯指定を受けたが、肺炎を患っていたために巣鴨出頭を1946年3月5日まで延期。
1946年3月5日出頭。収監されてからも毎朝、観音経を上げるのを日課としていた。

松井石根は、極東国際軍事裁判において、A級戦犯(平和に対する罪)としては無罪であったが、B級戦犯(通例の戦争犯罪)では「捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)」での有罪とされ、死刑判決。
東京裁判においては首席検察官を務めたジョセフ・キーナン検事はこの判決について、『なんというバカげた判決か。シゲミツは、平和主義者だ。無罪が当然だ。マツイ、ヒロタが死刑などとは、まったく考えられない。マツイの罪は、部下の罪だから、終身刑がふさわしい。ヒロタも絞首刑は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑まではないか。』と判決を批判していた。

昭和23年(1948年)12月23日
巣鴨プリズン内で松井石根、東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章の死刑が執行された。
松井石根は享年70歳没。昭和53年(1978年)、昭和殉難者として靖国神社へ合祀。


興亜観音の部下英霊に捧ぐ

以下に、松井石根の「興亜観音」建立に至った心持ちが取材された記事を引用する。

戦場の霊土で作り奉った
興亜観音の部下英霊に捧ぐ
 元中支方面軍最高司令官陸軍大将 松井石根

 (前略)記者は、堂主として余生を送るために、本籍までここに移されたといふ将軍を、観音堂に程近い、伊豆山麓のお住居にお訪ねして、将軍の興亜観音を建立された御心境を伺った。(記者)

 部下の英霊と共に住みたい —- それが、私の永い間の願ひであった。

 いまここに幾多同感の人士、併に熱海市各方面の協力によりて興亜観音の完成を見、開眼式を行ひ、日夜諸君の霊を慰め得ることを、私は衷心から歓ばしく思ふのである。

 大命を拝して江南の野に転戦し私は敵味方幾多の将兵の貴い生命を滅ぼした。
 南京入城の翌日、戦没将兵の慰霊祭を行つたのであるが、その時、私の脳裏に浮かんだのは、皇軍将士の忠勇義烈の様と共に、蒋政権の傀儡となつて、徒らに生命を捨てた、哀れな支那人の犠牲者のことであつた。
 皇軍の将兵は、その最後において一様に、陛下の萬歳を唱へまつり、莞爾(かんじ)として皇国のために殉じたのである。
 この姿は、成佛の姿でなくして何であらう。
 また、靖国神社に神として斎(いつ)き祀られ、萬人の景仰のもとに永遠に神鎮まり給ふのである。
 ひきかへて支那の犠牲者達は、その多くが、些末(さまつ)の囘向(えこう)をも受けることなくして、空しく屍を荒野にさらしている。
 その亡魂は成佛することができずして、大陸にさまようていることであらう。
 この哀れな犠牲者を、皇軍将士と共々供養してやりたいといふ願ひは、私の心深く根ざすところがあった。
 命により、數多の部下を残して帰還するに當つて、私は人に託して部下の遺骨と、日中両国将兵が戦没の地の霊土をもって佛像を作り、両国の戦没将兵を平等に祀ることにした。

 すでに靖国神社に神として祀られ、皇国の英霊を、私してお祀りすることは、まことに僭越であつた。
 しかし私個人として、私の部下であつた多くの勇士に對する感謝と愛惜(あいせき)の情はまことに禁じ難く、僭越ながらかうして英霊を祀り、これを一般に公開することにしたのである
 両国殉難者を祀るためには、相通じる佛教もつてすべきだと思つた。
 そして各宗派に超越している観世音を祀り、その大慈大非の念力によって數多の亡魂を救ひ、普く三千大千世界を照らす観音の光明をもって、業障を浄除して、両国犠牲者の霊が、地下に融和せんことを願つたのである。

 更に、我が身を殺して大慈を布き、畏(おそ)れなきを施すといふ施無畏(せむい)の観音の精神は、即ち八紘一宇の興亜大業の精神に他ならぬ。
 諸人と共に、両国犠牲者の冥福を怨親平等に囘向(えこう)し、八紘一宇の大精神を具現する、日支親善の守り本尊となるならば望外の幸福である。
 私が興亜観音の建立を発願したのは、この目的に他ならなかつた。
 携えて来た霊土は、陶土に混へて、上餘(じょうよ)の外佛と二尺餘の内佛の二體作つて興亜観音となし、部下勇士達の遺骨は、寶蓮華臺(ほうれんげだい)の中にねんごろに納めた。
 この伊豆山の麓に居を移した私は、朝夕(ちょうせき)の閼伽(あか)の水を奉るべく、杖を引いて山路を登り下りする。
 観音像の御前に合掌して、想ひを蒼海萬里(そうかいばんり)の外に馳(はせ)するとき、うたた感慨切なきものなきを得ない。
 諸君と共に死すべかりし身の、命により帰還して後、私の眼前に見んとして見得ず、しかも脳裏を巡って離れぬものは、諸君が戦場において、敢然敵陣に突入せんとする忠勇義烈の姿であった。
 いま諸君のこの姿を、興亜観音の御像の上に仰ふ。
 私はこの観音堂にあつて、身の餘生を、諸君の霊を守つて明し暮らしたいと思ふ。
 しかしながら、諸君の莫大の命を捧げし、興亜の聖業未だ成らざるのとき、徒らに身を閑居の安きに処しているべきではない。
 言うまでもなく地位の如何を問わず、なほまた何かと邦家(ほうか)のため微力をいたすの義務ありと信じている。
 聖業の成れる暁にこそ、私は興亜観音像の堂主として、諸君の霊に仕えへて餘生を終わりたいと思ふ。

「主婦の友」昭和15(1940)年4月号
戦場の霊土で作り奉った 興亜観音の部下英霊に捧ぐ 松井石根
http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/6-2.html

興亜観音の後ろの崖は、最近は開発で山に追われたイノシシが頻繁に通行して、その際に木々やがれきを落としていくという。昔は観音様の周りの草木を伐採していたが、最近は観音様を護るクッションとして茂らせている、とは伊丹妙浄住職のお話。
樹木が「見苦しくて申し訳ないです」ともお話されましたが、いえいえ緑に包まれた観音様のお姿もお美しいです。

「彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り、 施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立」された。
興亜観音は、中国大陸の方向を向いて鎮座している。

国土安穏
日本古来の伝統ある良き日本の心を大切に日々に感謝
御参詣各位の御健康を心からお祈り申し上げます
 礼拝山興亜観音

興亜観音縁起
支那事変は友隣相打ちて莫大の生命を喪滅す 実に千歳の悲惨事なり 然りといえども是所謂東亜氏族救済の聖戦なり おもふに此の犠牲たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇慈悲の行 真に興亜の礎たらんとする意に出てたるものなり 予大命を拝して江南の野に転戦し亡ふ所の生霊算せいれいさんなし まことに痛惜の至りに堪へす 茲に此等の霊を弔ふ為に、 彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り、 施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、 此の功徳を以て永く怨親平等に回向し、 諸人とともに彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る
因に古島安二氏其他幾多同感の人士併に熱海市各方面の熱心なる協力を感謝す
 紀元二千六百年二月
  願主 陸軍大将松井石根誌

紀元二千六百年は昭和15年。

興亜観音の右並びに3つの石碑が林立している。

南無妙法蓮華経
大東亜戦殉国刑死一〇六八霊位供養碑

(裏面)昭和43年12月8日 有志建之

大東亜戦争戦歿将士英霊菩薩

(裏面)
昭和19年4月
 願主 陸軍大将 松井石根 建之


七士之碑

巣鴨プリズン
昭和23年(1948年)12月23日、 当時、皇太子であった 上皇陛下の15歳の誕生日であった。

12月23日の尊い「国民の祝い日」であった夜中の午前0時。
巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)で極東国際軍事裁判(東京裁判)により「戦犯」として死刑判決が処せられた7名の絞首刑が執行された。

  • 板垣征四郎 陸軍大将・陸相
           <中国侵略・米国に対する平和の罪>
  • 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
           <英国に対する戦争開始の罪>
  • 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
           <中国侵略の罪>
  • 東條英機  陸軍大将・第40代内閣総理大臣
           <真珠湾不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪>
  • 武藤章   陸軍中将・第14方面軍参謀長
           <一部捕虜虐待の罪>
  • 松井石根  陸軍大将・中支那方面軍司令官
           <捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)>
  • 広田弘毅  文官・第32代内閣総理大臣
           <近衛内閣外相時に南京事件を止めなかった不作為責任>

横浜・久保山
巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場に運び込まれ、厳重警戒の中で焼却された。
遺族は遺骨遺灰の引き取りを願ったが、GHQはA級戦犯七士が神聖化されることを恐れ拒絶。
そうして、A級戦犯七士の遺骨は米兵によって粉々に砕かれ東京湾に捨てられた。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、細かい遺骨や遺灰は、久保山火葬場のコンクリ穴に捨てられていた。この僅かな遺骨と遺灰を回収するために、小磯国昭弁護人三文字正平、興禅寺住職市川伊雄、久保山火葬場場長飛田善美は、米兵がクリスマスで浮かれている12月26日の夜中に、必至の覚悟で密かに忍び込み、苦心の末に骨壺一杯分の遺骨灰を集めることに成功した。

熱海・興亜観音
骨壺は密かに久保山火葬場から、すぐ隣に鎮座していた市川住職の興禅寺に運び出され、しばらくは興禅寺に隠されていたが、やはり久保山葬祭場のすぐ近くは危険だということもあり、三文字弁護士や市川住職、七士の遺族の人々が、極秘のうちに相談した結果、翌年昭和24年5月三日に松井石根大将ゆかりの熱海・興亜観音に運ばれれることとなった。
三文字正平は、広田弘毅氏の令息、東條未亡人、武藤未亡人らとともに興亜観音住職伊丹忍礼に相談。「知り合いの方の遺骨だが時期が来るまで、誰にもわからぬように秘蔵しておいて欲しい」と申し出て、伊丹住職は一見して七士のご遺骨であることを直感し、快諾。そうして東亜観音にて遺骨は秘匿された。

「七士之碑」建立
密かに興亜観音に運び込まれた七士のご遺灰は10年もの間、秘事として興亜観音の初代住職伊丹忍礼によって護持されてきた。
昭和34年4月一九日、松井大将の無二の親友であった高木陸郎氏(興亜観音奉賛会長)らの発起により、吉田茂元総理の筆になる「七士の碑」が建立された。吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。「七士之碑」建立の際は、81歳と高齢な吉田茂は、興亜観音の山道を籠に乗って登られた。
ご遺灰は、「七士之碑」の碑の下に約3メートルの地下に埋葬されている。
碑文についても種々議論があったが、「知る人ぞ知る「七士之碑」でいいではないか」との結論に落ち着いたという。
そして昭和35年には、遺灰の回収と秘匿に尽力した三文字弁護士の発起により愛知県の三ヶ根山(松井石根の出身地)にある「殉国七士墓」に、「興亜観音」にある骨壷から香盒1ヶ分ほどが分骨埋葬された。

七士之碑
吉田茂書

昭和34年4月17日、興亜観音奉賛会建之

すめろぎの
 おほみいのちに
  代りませる
七つのみたま
 います奥城

松井石根
板垣征四郎
東条英機
土肥原賢二
木村兵太郎
武藤章
広田弘毅

七士之碑裏面
殉国七士 処刑直前の揮毫の写し


興亜観音・七士之碑爆破事件

昭和46年(1971)12月12日。
赤軍派「東アジア反日武装戦線」グループ数名が、「七士之碑」にダイナマイトを仕掛け爆破を行った。

「七士の碑」から、さらに導火線は「大東亜戦争殉国刑死一〇六八霊位供養碑」を一巻きし、30メートルほど離れた「興亜観音」の腰にも導火線を巻きつけ、それぞれにダイナマイトを仕掛けた。
22時少し前、時限装置が発動し大爆音とともに「七士の碑」は粉々に砕けるも、隣の「1068名霊位供養碑」に上部「南無妙法蓮華経」の「法蓮」のところで、導火線がショートし、供養碑と観音様は爆破を逃れた。いまも、ショートして黒くなった部分が見てわかる。
「七士の碑」は爆破されて粉々になってしまったが、復旧作業が行われ、3つに割れた石を元に破片をあわせドイツ製の接着剤を用いて復元された。

南無妙法蓮華経の「法蓮」が黒くなっているのが、導線がショートし黒く焼けた部分。

爆破事件の際に砕けた「七士之碑」の破片。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで


興亜観音本堂

本堂は熱田神宮造営の余材を用いて建立された。昭和15年の建立。

興亜観音
陸軍大将松井石根

当興亜観音は戦没者の慰霊と御供養をする霊場です
英霊緒霊位に畏敬の念を抱き現在ある幸せに感謝の心で御参詣を賜れば真にありがたく存じます
 礼拝山興亜観音

相模湾を望む


興亜観音本堂・堂内

伊丹妙浄住職の読経
南無妙法蓮華経 唱和し拝する。 

合掌

支那事変の犠牲者、大東亜戦争の犠牲者、極東軍事裁判で処刑された昭和殉難者、そして七士の御霊に。

堂内の様々な事物に関して、伊丹妙浄住職のお話を拝聴する。
ありがとうございます。
堂内総て撮影可、とのことでお話をお伺いしたあとで、パシャリパシャリと。
住職からお伺い出来たお話を踏まえて、ほんの一部ですが、以下に記載させていただきます。

興亜観音
朝香宮殿下(朝香宮鳩彦王)による揮毫扁額

興亜観音

霊座されている興亜観音と同じ姿で作られた、2尺(60,6cm)の瀬戸焼による観音様。

右       「日本国民戦死者霊牌」
中央  観音菩薩「松井将軍部下戦死者霊名(23,104柱)」
左       「中華民国戦死者霊牌」
 「殉国刑死1068柱の霊」
 「七士の霊」(松井石根、東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章)

支那事変日本戦歿者霊位

支那事変中華戦歿者霊位

松井石根閣下を祀る神棚

興亜観音 
 岩根書

パール判事

パール判事は、昭和28年、3度目の来日の際に興亜観音に参詣された。都合2回参詣されたという。

殉国七士 処刑前の揮毫(写し)

七士は、死刑執行の3分前に、両手が縛られた状態で最後の揮毫をおこなった。

昭和15年に画かれた中国の人々の様子

松井石根書

万歳
 岩根

巣鴨プリズンにて。
絞首刑台に向かう直前、最初の組(土肥原、松井、東條、武藤)は、松井石根大将の音頭で万歳三唱をされたという。
「天皇陛下万歳」 「大日本帝国万歳
それぞれ三唱。しかし、手錠のせいで、両手は胸の高さまでしか上がらなかった。
その次の組(板垣、広田、木村)は、前の組の万歳が聞こえていたということもあり、板垣征四郎大将の音頭で同じく万歳三唱を行った。

松井大将の外套

八紘一宇の絵画

松井石根大将の獄中の遺書(扇面)
その生涯を五言絶句に詠む

昭和21(1946)年から約3年間A級戦犯として巣鴨の獄中にあった松井石根大将。
昭和22年7月、古稀の誕生日に際して白扇の地紙に五言絶句の漢詩を以ってご自分の生涯を22行に集約して揮毫された遺書ともいうべき由緒あるもの。

上記を書き下し

古希誕辰 述懐
明治戊寅の夏 尾張牧野に生る
清和源氏の裔 歴代金城に仕ふ
武兵の第六男 幼にして凌雲の気有り
十六陸軍に入り 廿歳少尉に任ず
累升、大将を承け 勲位寵恩全し
夙に東方の事を志し 支に遊ぶこと十数年
初時燕京に赴き 又江滬に駐留す
朝野の士人と交り 日華親善に努む
帰って帷幕の賛に當り 出でて旅・師・聯に長たり
三次欧米に経き 軍縮・執権を談ず
審に國際の難きを知り 画策す東洋の社
侶中・偉和に座し 鞍を懸けて草野に臥す
上海の兵変に逢ひ  起き来たりて晩節を揮ふ
征師真に涙血 力戦愈々仁威
首府金陵を降し 皇軍神武熾なり
巧成りて戟を収めて還り 内朝の参議に任ず
興亜同盟立ち 大東亜戦酣なるや
中外の事を籌謀し 歴巡して西南に説く
国破れて戦犯の人となり 落莫たり幽牢の裏
老骨古希を迎へて 痩身荘志を埋む
俯して地に恥る無く 仰いで亦天に羞る没し
面壁専ら道を求め 心を放つ一味の禅
  昭和丁亥夏七月  巣鴨獄中に於て
   孤峯 石根

興亜観音開眼式
記念絵葉書
昭和15年2月

松井石根とご家族のお写真

衆生皆姑息
正気払神州
無為観音力
普明照亜洲
松井石根大将辞世 田中正明書

田中正明は松井石根の私設秘書であった。

堂本印象画伯の天龍画

堂本印象は近代日本画の大家

興亜観音本堂


本堂脇の休憩所

伊丹妙浄住職から、お茶をいただきつつ、談笑させていただく。
ありがとうございます。

興亜観音ヲ奉る

松井石根大将が巣鴨刑務所で記した興亜観音の詩

北京仏学研究院より松井大将閣下に贈られた書

作業された職人に手跡がついた木材。最近の合成木材では手跡がつくことがなく、これはこれで貴重なもの、だそうだ。

用材奉納
名古屋木材組合有志
昭和15年11月

熱田神宮の余材で建立。

徐州会戦 堤防修復の絵画

相模湾と狛犬
狛犬は昭和17年10月奉納


一段下がった場所にあったお堂は、乙女の祈りを捧げるお堂だった。

乙女の祈り

乙女の祈り
ソ連兵に身を汚されるくらいなら私たちは命を絶って純潔を守りますと昭和21年6月21日に、ハルピンにて22名の従軍看護婦さんが青酸カリで自決なされました。
この建屋の祭壇の従軍看護婦観音像を見守るように多くの観音像が安置され、総ての観音像の御胎内には、観音経がお収められています。
已む無き自決を決断せざるを得なかった清らかな乙女たちに思いを馳せ、無念の声なき声に耳を傾け、祈りを捧げましょう。 合掌

なぜか、小笠原海軍中将の額が。
小笠原長生は明治のイメージが強いけど、戦後まで長生きしてたな、そういえば。 

朝香宮殿下お手植えの菩提樹

昭和15年、松井大将の部隊に随行されていたご縁から朝香宮殿下が、興亜観音開山式の際にお手植えされた。

昭和17年10月奉納の掲揚台

熱海市中心部の方向を望む。
東海道本線は伊豆山の下をトンネルで抜ける。

相模湾、かすかに熱海城が見える。


各地の興亜観音

熱海の興亜観音が建立され、松井石根大将の「怨親平等思想」が広まると、共鳴した僧侶が自らの寺院にも「興亜観音」を建立したいと松井閣下に申し出があった。

  • 昭和16年8月11日  三重県尾鷲市 曹洞宗寺院 金剛寺
  • 昭和17年5月3日  富山県入善町 浄土真宗 養照寺
  • 昭和18年3月27日  奈良県桜井市 浄土宗 蓮台寺

機会があれば、これらの寺院にも参詣したいと思います。


授与品

お忙しいところ、伊丹妙浄住職には、大変お世話になりました。
ありがとうございます。

ちなみに、興亜観音でも御朱印をいただくことは可能です。昨今のブームの中でも、興亜観音で頂いている人は少ないようで、いわゆる御朱印サイトにも掲載がほとんどありませんでした。
ただし、興亜観音で御朱印をいただくためには帳面の持参が必要です。私は「興亜観音で御朱印」ということがすっかり念頭になかった為に、帳面を持参しておりませんでした。次回、参拝時には、靖國神社の御朱印帳を持参して参拝させていただこうと思います。

ご由緒書を頂き、御札を授かりました。

実は、松井石根大将のことは、さほどに深くは知っていなかった私でした。
今回、東亜観音にて松井石根大将の「施無畏」「怨親平等」のお心持ちを知ることが出来、認識を大いに深めることができました。

ありがとうございます。
また参拝させていただきます。


参考

参考文献として、「興亜観音を守る会」会報を使用したが、いわゆる「興亜観音問題」は私はよく知らない。「興亜観音を守る会」が守ることを放棄して崩壊した(平成23年に解散)という。
なお、昭和17年に設立された「興亜観音奉賛会」が唯一の公式団体。

興亜観音を守る会会報バックナンバー
http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/backnumber.html
興亜観音第2号
興亜観音ものがたり 第1回
興亜観音第3号(平成8年4月18日号)
興亜観音はどうして建立されたか 伊丹忍礼
興亜観音ものがたり 第2回
興亜観音第6号(平成9年10月18日号)
戦場の霊土で作り奉った 興亜観音の部下英霊に捧ぐ ・・・松井石根(「主婦の友」昭和15年4月号より)
興亜観音第7号(平成10年4月18日号)
殉国七士の墓、興亜観音にその墓があるわけ  伊丹忍礼

興亜観音公式サイト
http://www.koakannon.org/index.html
興亜観音 いつも そして 永遠に
https://www.facebook.com/kouakannon/
興亜観音リーフレット
http://www.koakannon.org/box2/k03.pdf
興亜観音のいわれ(創建時 本修院道場主 伊丹忍礼)
http://www.koakannon.org/box4/a01.pdf


関連

市ヶ谷
極東軍事裁判は市ヶ谷の法廷で執り行われた

巣鴨拘置所
松井石根をはじめとする殉国七士は巣鴨プリズンで処刑された

久保山
松井石根をはじめとする殉国七士が火葬され、そして遺骨灰が収集された

靖國神社
殉国七士をはじめとする昭和殉難者の皆様は靖國神社に祀られている

殉国七士を偲ぶ慰霊の鐘

「河野壽大尉自決の地」二・二六事件と熱海陸軍病院跡

昭和11年(1936)2月26日。
後の世に言う「2・26事件」。東京以外では唯一、湯河原・熱海でも事件があった。

2・26事件と河野壽大尉

河野壽(こうの ひさし)は、陸軍航空兵大尉。陸軍士官学校(陸士40期)卒業。所沢陸軍飛行学校操縦学生。

河野壽大尉以下8人は、別働隊(河野隊)として湯河原「光風荘」に滞在していた牧野伸顕伯爵を襲撃した。

牧野伸顕
牧野伸顕は大久保利通の次男。事件当時75歳。前内大臣として 天皇陛下の側近であり欧米強調主義であったために、君側の奸( 天皇を取り巻く悪者)として暗殺対象となっていた。麻生太郎の母、麻生和子は吉田茂の長女(吉田和子)であったが、当時、祖父であった牧野伸顕ともに湯河原に滞在して事件を経験している。(吉田和子は事件当時20歳)

河野寿大尉の指揮する湯河原襲撃隊
現役は、河野寿大尉・宇治野時参軍曹(歩一第六中隊歩兵軍曹)・黒沢鶴一上等兵(歩一歩兵砲隊歩兵一等兵)。
民間元陸軍からは、黒田昶(予備役歩兵上等兵)・中島清治(予備役歩兵曹長)・宮田晃(予備役歩兵曹長)
民間からの参加者は、水上源一(弁理士)・綿引正三の合計8名。
河野寿大尉自身は、学生であったために部下がおらず、同士であった栗原中尉からの紹介で7名を率いることとなった。

湯河原・熱海の「二・二六事件」
2月26日早朝午前5時頃、牧野伸顕が滞在していた湯河原「光風荘」を襲撃。
玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査(警視庁警務部警衛課勤務・牧野礼遇随衛)は、機転を働かせ牧野伯爵を裏口から避させることに成功。
河野壽大尉の襲撃部隊は護衛の皆川義孝巡査と銃撃戦となり、河野大尉と宮田が負傷。河野大尉が負傷したことで計画変更を余儀なくされ、放火を行い光風荘を炎上させるも、牧野伸顕伯爵襲撃は失敗。

銃撃戦で皆川義孝巡査は死亡(享年32歳・殉職)、河野壽大尉と宮田晃予備役曹長は負傷。河野壽大尉重傷後の部隊指揮は民間出身であった水上源一が務めている。(そのために民間人でありながら水上源一は、河野大尉自決後の湯河原隊責任者として唯一の死刑となっている)

襲撃隊8名の内、宮田は湯河原の病院に入院。重傷の河野大尉は熱海の東京第一衛戍病院熱海分院に入院し胸部盲貫の弾丸摘出手術を受ける。残る6名は翌日の2月27日に三島憲兵隊に収容。

河野壽の最期
熱海陸軍病院に入院し、刃物などを取り上げられた河野壽は、密かに兄の河野司に自決用の刃物を用意するように頼み、河野司は果物ナイフを差し入れ。
昭和11年3月5日午後、軍服に着替え病室を抜け出した河野壽大尉は、病院の外、裏山で自決。しかし果物ナイフでの自決は致命傷を得られず、16時間後の3月6日朝に死去。享年28歳。

辞世
 あを嵐 過ぎて静けき 日和かな
戒名 
 徹心院天嶽徳寿居士

二・二六事件
河野壽大尉自決の地

河野寿大尉自決の地
 河野寿大尉(28才)はニ・ニ六事件において、湯河原の伊藤屋旅館の貸別荘(当時)である光風荘に滞在していた牧野伸顕前内大臣(大久保利通の二男、麻生太郎元総理の曾祖父)を8名で襲撃し、護衛の皆川義孝巡査と相撃ちとなり、熱海の陸軍病院で治療をした。
 ニ・ニ六事件は陸軍皇道派の青年将校が、世界恐慌を発端とした昭和恐慌、また冷害による凶作によって疲弊する東北地方の農村の状況を座視し得ず、世直しを目指して取起した事件。昭和11年2月26日、第一師団を中心に1,483名を率いて、政府要人および天皇側近6名を襲撃し4日後には反乱軍となり鎮圧された。
 反乱軍となった河野大尉は3月5日、兄の司氏に果物ナイフを差し入れて貰い、午後3時半頃、病院の裏山で割腹し首を6箇所も切って、翌朝6時半絶命した。
 陸軍病院は戦後、国立熱海病院となった。昭和39年熱海バイパス国道の開通によって病院は分断され、山側は国家公務員共済組合連合会(KKR)に売却された。病院は取り壊され荒地となって放置されていた。
 平成2年に地元有志が自決跡に目印の石を置き、平成5年に標柱を立てたが、KKRホテルの建設に伴いそれらは撤去させられ、平成15年6月19日に関係者一同で現在地に石碑を建立した。
 光風荘は日本で唯一のニ・ニ六事件資料館として土日祭日開館しており、入館時間は午前10時~午後2時半。
 湯河原駅より奥湯河原行きバス乗車、万葉公園入口下車、徒歩1分。
 問合せは、湯河原町役場・地域政策課(0465・63・2111)
平成25年9月 
 看板菅理者川久保勲0557(83)4636

入口にはいくつかの案内があった。

熱海陸軍病院裏門跡
河野寿大尉自決の地
豆相人車鉄道軽便路

場所

https://goo.gl/maps/hqVFnt3ZzPrGL1NG8


東京第一衛戍病院熱海分院
熱海陸軍病院
(現・国際医療福祉大学熱海病院)

現在の国際医療福祉大学熱海病院とKKRホテル熱海のあるあたりに、当時は熱海陸軍病院があった。

明治44年(1911)5月、東京第一衛戍病院熱海分院が創設。
昭和13年(1938)2月、臨時東京第一陸軍病院熱海分院と改称。
昭和20年(1945)12月、終戦により厚生省に移管、国立東京第一病院熱海分院として発足。
昭和25年(1950)7月、国立東京第一病院から分離独立し、国立熱海病院に改称。
平成19年(2007年)2月、国際医療福祉大学熱海病院となる。

熱海陸軍病院の裏山。河野寿大尉自決の地。

KKRホテル熱海。
写真の後方奥に、熱海病院


熱海陸軍病院の陸軍境界標石

河野寿大尉自決の地から山の反対側に当たる場所。熱海駅側に標石が残っていた。

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/khT5H6qyBNakEuAUA

熱海

風光明媚な熱海の海を望みながら、自決された河野大尉。
二・二六事件の歴史をほんの僅かに残していた、熱海でした。


関連

渋谷にある「二・二六事件慰霊碑」は、河野壽大尉の兄であった河野司氏が中心となって建立された。

麻布の賢崇寺は、二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。

河野司さんが代表を務めていた佛心會(仏心会)

https://busshinkai.or.jp/

「二・二六事件」海軍の動き。

こちらは湯河原。

2・26事件資料館「光風荘」

https://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kankou/leisure/koufusou.html

瓜生外吉海軍大将之像と瓜生外吉墓(小田原と南青山)

小田原に、海軍大将 瓜生外吉 が晩年に隠棲した邸宅があった。


瓜生外吉(うりゅう そときち)

安政4年1月2日(1857年1月27日) – 昭和12年(1937年)11月11日)
大日本帝国の海軍軍人。海軍大将。加賀藩支藩の大聖寺藩(石川県)の出身。

海軍兵学校は卒業していないがアナポリス海軍兵学校に留学をしており明治海軍有数のアメリカ通。
瓜生外吉夫人の瓜生繁子は三井物産の益田孝の実妹。明治新政府の第一回海外女子留学生(日本初の女子留学生)として渡米し10年間のアメリカ経験あり。三井物産初代社長の益田孝は義理の兄となる。
そして、「東洋のセシル・ローズ」と称された衆議院議員・森恪は女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)となる。

明治33年(1900)、海軍少将・軍令部第1局長。
明治37年(1904)2月4日、日露戦争開戦。第四戦隊司令官として参加。
開戦直後の明治37年2月9日、瓜生外吉率いる第四戦隊(旗艦・巡洋艦浪速、高千穂、明石、新高に、臨時で装甲巡洋艦浅間と第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻)は、仁川のロシア海軍・防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」を、日露戦争の口火を切った「仁川沖海戦」で撃破。瓜生外吉率いる第四戦隊が初戦の勝利を飾る。

日露戦争後、佐世保鎮守府長官・横須賀鎮守府長官を歴任。
大正元年(1912年)10月16日、海軍大将に昇級。薩摩出身者以外では2番目の海軍大将であった。
ちなみに、薩摩閥以外での1番目の海軍大将は会津白虎隊出身の出羽重遠(日露戦争では第三戦隊司令官)。出羽重遠は明治時代で唯一の薩摩閥外の海軍大将。とはいっても明治45年(1912)7月9日に海軍大将となっているので、瓜生外吉の3ヶ月前。
大正2年(1913年)、予備役に編入。

瓜生外吉は義兄である三井物産創始者・益田孝の勧めで、海軍退役後の大正2年に、小田原天神山に隠棲の別荘を設けて移り住んだ。
大正11年に体調を悪くし、小田原で療養中に大正12年の関東大震災に遭遇。一度、都内に転地療養し全快。
大正14年以降、再び小田原別邸に移住。
瓜生邸付近の道路が狭隘で、その上石段があるため、自動車の通行が不可能であったため、義兄・益田孝の経済的な援助と、海軍部員の奉仕によって工事が施行され、完成後に「瓜生坂」と呼ばれるようになった。
瓜生外吉は小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々とも交流が深かったという。(死後に地域の人々により記念の胸像が建立された)
昭和12年11月11日、81歳の天寿を全うした。正二位勲一等旭日桐花大授章が追贈。


瓜生海軍大将之像

作者は、北村四海。大正6年(1917)の作。
瓜生外吉没後、小田原町第十六区民・山角町青年誠友会員により、昭和14年(1939)5月27日、山角天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が東京の瓜生邸から山角天神社へ移築され建立された。

瓜生海軍大将之像

昭和14年5月27日
小田原町第十六区民 
山角町青年誠友会員 建設

瓜生外吉海軍大将之像
Statue of Admiral Baron Sotokichi Uriu, I.J.H.
 瓜生外吉(1857‐1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。
 日露戦争(1904‐1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。
 後年は夫人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。
 ここから」西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛しました。

小田原の海を望む。

坂に名を残した人・瓜生外吉(海軍大将・男爵)

山角天神社


瓜生坂

すみません、写真を取りそこねております。
Googleストリートビューのキャプチャを暫定で掲載しておきます。。。

瓜生坂は、海軍を退役後に小田原天神山の別荘に移り住み、入退院を繰り返していた瓜生外吉を車で移動できるようにするため、義兄の益田孝の援助と、交流のあった海軍関係者が奉仕活動で造った坂。

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-110665.html


場所は変わって。。。東京の青山霊園

瓜生外吉の墓

場所は、1種イ22号5側。訪れたときは、ちょうど薔薇の花が賑わっていました。

海軍大将正二位
勲一等功二級男爵
瓜生外吉墓

隣には瓜生夫人の墓も。

従五位 瓜生繁子之墓

瓜生外吉の長男、瓜生武雄は、明治41(1908)年4月30日の松島爆沈事故で殉職している。

海軍少尉従五位瓜生武雄墓

明治41年4月30日軍艦松島
馬公港爆裂之際殉難齒廿三


森恪の墓(もり かく/もり つとむ)

青山霊園には、森恪の墓もありました。瓜生外吉の女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)。
青山霊園内を散策していたら、たまたま見つけましたので参詣。
ちょっと墓地が荒れていました。。。
場所は、1種ロ8号1側。


小田原の瓜生海軍大将之像から、東にちょっと行った所に、対潮閣跡がある。
海軍史としては、秋山真之終焉の地。瓜生外吉とは日露戦争の縁もあり、ここに付記する。

対潮閣(山下亀三郎別邸)《秋山真之終焉の地》

山下亀三郎は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
現在は、邸宅は残っておらず、個人宅・私邸が分割されている。
対潮閣の正面玄関があった場所に、説明の看板がある。

対潮閣(山下亀三郎別邸)跡(秋山真之終焉の地) 
 明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。
 山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。
 対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。

 正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので「釣鐘石」といわれている。
 左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られている。

碑文
「うちたたく 人ありてこ曾(そ) よの中に な里(り)もわたらね つりが年(ね)の石 光顕」

田中光顕歌碑

うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石 光顕

 釣鐘石

山下亀三郎別邸の上段は清閑亭。

清閑亭(旧・黒田長成邸)

対潮閣の隣にあるのが清閑亭。
秋山真之も最後のときに、同じように相模灘の小田原の海を眺めていたかもしれない。

瓜生外吉から、神奈川の小田原から東京の青山霊園から、小田原の秋山真之へと、話が散らかりました。


小田原散策で、瓜生外吉と出会って、あまり知ることなかった瓜生提督のことを深堀りできたのが、良き記録となりました。


「ガラスのうさぎ像」二宮駅に残る機銃掃射弾痕(二宮町)

JR二宮駅南口のロータリーに「少女の像」が立っている。
ガラスのうさぎを手にした、少女の像は、戦争にまつわるエピソードがあった。

ガラスのうさぎ像

この像は太平洋戦争中、二宮町に縁故疎開していた童話作家高木敏子氏の体験記である『ガラスのうさぎ』をモチーフとして建てられたものである。
『ガラスのうさぎ』には終戦間近、父親が二宮駅で米軍機の機銃掃射を受けて死亡したために、ひとり取り残された少女と、少女に温かく接する町民の心情が描かれて童話。1977 年に金の星社から出版。ドラマ化や映画も作られ他作品。

ガラスのうさぎ像
設 置 1981 年(昭和 56 年)
製作者 圓鍔勝三氏(芸術院会員 昭和 55 年度神奈川文化賞受賞)

ガラスのうさぎ像
 太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日
 ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載式P51 の機銃掃射を受け 幾人かの尊い生命がその犠牲と
なりました
 この時 目の前で父を失った十二歳の少女が その悲しみを乗り越え けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は 国民の心に深い感動を呼び起こし 戦争の悲惨さを強く印象づけました
 この像は私たち二宮町民が 平和の尊さを後世に伝えるために また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために 多くのご協力をいただき 建てたものです
 少女が胸に抱えているのは 父の形見となったガラスのうさぎです

 ここに平和と友情よ 永遠に

 昭和五十六年八月五日
 「ガラスのうさぎ」像を二宮駅に建てる会

このクスノキは、樹齢108年の大クスノキが腐朽したため新たに植栽された2代目のシンボルツリーです。
ガラスのうさぎ像とともに、クスノキも平和を見守っています。 二宮町


二宮駅

昭和20年8月5日。
二宮駅とその周辺は、アメリカ軍戦闘機P‐51の機銃掃射を受け、5 名の方が亡くなった。
『ガラスのうさぎ』の著書高木敏子氏の父親が亡くなったのもこの時であった。
P-51戦闘機は、十数機ほどが相模湾より侵入二宮上空で、ちょうど二宮駅に集まっていた乗客目掛けて、無差別に機銃掃射を行い、二宮駅及び周辺が被害を受けた。
終戦、10日前のことであった。

二宮駅の東側・大磯よりのホーム。
一部、屋根の形が異なり、ホームの両側に柱が立っている上家がある。
この部分が大正14年の建屋であり、梁の一部に、機銃掃射の銃撃痕が残っている。

建物財産標

旅客上家4号
大14年 月 日

上家の梁に幾多の銃撃痕が残されている。


機銃掃射の悲劇

二宮駅が機銃掃射を受けたのが、8月5日。
この日、襲来したP-51戦闘機の編隊は、各地の鉄道駅や列車を襲撃し続けている。
彼らにとって、一般市民が集っていても、それは軍事施設しか見えていなかった。

彼らは二宮駅や小田原駅・下曽我駅・国府津駅などに機銃掃射を加えながら、丹沢山地を抜け内陸部へと飛行を続けた。

そして、彼らは、八王子・浅川の上空に到達し、走っていた列車に機銃掃射を行った。

湯の花トンネル列車銃撃空襲

昭和20年8月5日
新宿発長野行419列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花(猪の鼻)トンネルに差し掛かった時、硫黄島から飛来したP‐51マスタングの銃撃を受け、52人が死亡、133名が重軽傷を負った。
列車への銃撃空襲としては日本最大級の被害であった。


参考

http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20120807150280001.html

http://www.town.ninomiya.kanagawa.jp/gyosei_jigyosha/gyosei/shokai/1471339461480.html


関連

「計画に無かった最後の空襲」小田原空襲の戦跡散策

小田原地区は大規模な絨毯爆撃こそ受けることはなかったが、小規模な空襲は数度あった。
そして関東地方を空襲した米軍機の帰路にあたるために、たびたび予定計画外の空襲(余剰爆弾の投下)を受けることがあった。

8月15日、終戦の日。
米軍は熊谷・伊勢崎・秋田土崎に空襲を実行した。
この3都市が「最後の空襲」として取り上げられるが、計画外の空襲を最後の最後に受けたのが小田原だった・・・

そんな小田原市内に点在する空襲の爪痕を巡ってみたいと思う。

合掌


太平洋戦争の爆弾着弾跡(蓮上院土塁)

戦国時代の小田原北条氏が築いた土塁に、昭和時代の太平洋戦争の傷跡が残る貴重な史跡&戦跡。

太平洋戦争の爆弾着弾跡
 太平洋戦争が終わりに近づくにつれ、日本各地でB29爆撃機などによる空襲が激しくなってきました。
 小田原市でも、昭和20年4月以降終戦まで、たびたび空襲を受けました。
 そして、戦争終結直前の8月13日の午前8時30分ころ、小型機による空襲があり30名の犠牲者を出しました。このとき、新玉小学校(当時新玉国民学校)も攻撃を受け、若い教員1名と用務員2名が犠牲になりました。
 この空襲で投下された爆弾のひとつが、ここ蓮上院土塁に着弾し、土塁が大きく損壊してしまいました。
 戦国時代に小田原北条氏が築いた土塁に、昭和時代の太平洋戦争の傷跡が残る大変貴重な場所です。
  小田原市教育委員会

蓮上院土塁は、天正18年(1590)に小田原北条氏が築いた総構の一部。低地部残る総構の土塁は貴重なものとして、昭和34年に国の史跡に指定されている。

場所

https://goo.gl/maps/uCLkZwaiLx1xDy1EA


旧青橋の橋桁に残る弾痕

青橋は、小田原駅から早川駅方面に約400mほどのところにあった道路橋。並行して走る東海道線と箱根登山鉄道の線路をまたいでいた。旧青橋の橋桁は、横河橋梁製作所の製造。

昭和20年8月、小田原駅を狙った米艦載機の機銃掃射による弾痕が残されいる。
8月の幾日かは明らかではない。
8月3日に、下曽我駅と富士フィルム小田原工場がP‐51マスタングによる空襲あり
8月5日に、国府津駅と下曽我駅、富士フィルム小田原工場に同じくP‐51マスタングによる空襲があった。

戦後、青橋の改修でスクラップにされる予定だったところを、工事を請け負い、この空襲の体験者でもあった田中組の2代目社長が譲り受けて記念碑とした。
田中組が2011年7月、長期不況の影響で民事再生法適用を申請。会社再建のために本社ビルの社有地を売却し、寿町に事務所を移転。3代目社長は「記念碑は社の看板でもあり、先代の遺志は守っていきたい。」として、引き続き保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/FdrNzjCDhcaN5tQJ6


小田原空襲の碑の跡

総務省のサイトには、一般戦災死没者の追悼・追悼施設として「小田原空襲の碑」の掲載がある。
ただし、小田原空襲の碑(撤去されました)との記載とともに。

現地に訪れてみたら、たしかに、碑はなくなっていた。。。

総務省サイト

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/kanagawa_odawara_city001/index.html

在りし日の写真と碑文面を総務省サイトより

小田原空襲の碑
第二次世界大戦最後の空襲
大南勝彦
 その昔 小田原宿は、東海道沿いと甲州街道沿いとに家並みがひろがっていましたが、当家の所は此の両者の交わる地点で、青物町一丁田へと伸びる甲州街道の基点でもありました。
 第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争の最後の日の夜半から早暁にかけ、当地はアメリカ空軍B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けました。
 一九四五年(昭和二十年)八月十四日夜半、B29一機が来襲。まず照明弾が落とされ、旧甲州街道沿いに大量の焼夷弾攻撃を展開、当家は八箇の焼夷弾による直撃を受けましたが、警防団の消火活動で一旦鎮火。しかし十五日午前一時頃炎に包まれました。
 高梨町、青物町、宮小路、一丁田など、焼失家屋は合わせて四〇二戸。罹災者一八四四人。負傷者六五人。死者四八人を数えました。
 日本がポツダム宣言受諾を打電したのは八月十日でしたが、その後も交戦状態は続き、無条件降伏を決定したのは八月十四日、小田原空襲はそのあとに行われたもので、国内の他の数カ所の地域と共に、文字通り第二次世界大戦最後の空襲でした。


前述の「小田原空襲の碑跡」から西に少し移動すると看板があった。
8月15日の小田原空襲を物語る看板。

8月15日の小田原空襲

昭和20年8月15日。正午に「終戦の詔」が発せられる約11時間前。深夜1時か2時頃に、1機のB29が小田原市上空に飛来した。直前に伊勢崎か熊谷を空襲した編隊のうちの1機だった。
このたった1機のB29は小田原上空で焼夷弾(余剰分か?)を投下。マリアナ諸島の基地に帰投する途中での計画外での空襲行為は、文字通りに「無差別爆撃」であり、そして「最後の最後の空襲」であった。

8月15日の小田原空襲
1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。
 小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その2都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではありませんでした。
 しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「一八〇都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。
 8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町1・3丁目、本町2・3丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によれば12名です。
 被災した小清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並みが映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。
 今から62年前にあった小田原空襲を記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。
 2007(平成19)年8月15日
  戦時下の小田原地方を記録する会
  古清水旅館 館主 清水伊十良

場所

https://goo.gl/maps/TyfN2h4ihwZP5Qwr8


小田原市慰霊塔

昭和32年(1957)、竣工。慰霊塔の高さは約12m。明治以降の小田原市の戦没者及び戦争犠牲者2858名を慰霊。

小田原市慰霊塔
 太平洋戦争終結以来十有余年 今や我が国は国土の復興も漸く進み 世界平和に寄興すべき国際的な地歩を築くと共に 本市また発展の一途を辿り 市民の福祉は日に月に増進せられつつある この時 殉国の英霊に対する市民の敬慕の情はいよいよ昴まり その総意として英霊の御冥福を祈念し その功績を後世に伝える恒久的慰霊顕彰施設の建設を希うに至った ここにおいて 本市は明治以降の戦役及び太平洋戦争における戦没者並びに戦争犠牲者の慰霊塔建設を企画し 昭和32年5月9日 小田原市戦没者慰霊塔建設委員会を設置 市民の浄財と市費とをもって 昭和32年7月4日起工 同年10月29日その完成を見るに至った 本慰霊塔の表題字は 元小田原市長鈴木英雄氏の揮毫に成るものである われわれは今この聖塔を前にして 永遠の平和を祈念すると共に 郷土の発展と 御遺族の援護とに一層努力することを誓う次第である 願わくば諸霊 永えに鎮まり 御遺族の上に加護を垂れ給わらんことを ここに建設の経緯を記し 後世に遺すことした
 昭和32年10月29日
  小田原市長 鈴木十郎 選書

慰霊塔の隣に石碑があった。

(表面)
明治天皇 御製
世とともに かたり伝へよ 國のため
 命をすてし 人のいさをを
  従二位伯爵 東郷平八郎 謹書
(裏面)
私儀東郷家執事時代閣下より特に揮毫賜りし書を慰霊の為捧ぐ
昭和43年12月吉日建之
小田原市栄町寄贈者 飯田貫一  

場所

https://goo.gl/maps/mDTgN3Rhze1pCCqM9

なお、エリアは広域のために、レンタサイクルが便利。


参考

https://www.townnews.co.jp/0607/2017/08/19/395175.html

https://www.townnews.co.jp/0607/2014/08/09/247580.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-43693.html


関連

熊谷空襲

潮音寺の平和観音・特設自動車隊第23中隊(小田原)

小田急足柄駅の近くに鎮座している「潮音寺」。
ここに平和観音があるというので足を運んでみた。


平和観音

平和観音
比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊戦没者英霊 50柱
各戦役戦没者英霊 52柱
潮音寺戦没英霊各位 27柱

平和観音像は比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊戦没者英霊及び各戦役に散華された諸英霊に対し広大無辺なる観世音菩薩のご慈悲を仰ぎ心からなる供養の誠心を捧げると共に再び悲惨な戦争が繰り返されぬよう永遠の世界平和を祈念し建立されたものである。
昭和56年11月22日
比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊
 生存者遺族一同合掌
奉為当山35世天英光重大和尚尚上酬滋恩
 守塔比丘康哉合掌 

第35軍とレイテ島の戦い

比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊は、第35軍直属の部隊。
第35軍は、鈴木宗作陸軍中将を司令官とする。
昭和19年8月4日に編成。第14方面軍隷下。司令官は山下奉文陸軍大将。

第35軍はレイテ島の戦いの主力として奮戦。
制空権制海権を失い、昭和19年12月18日に大本営はレイテ島を放棄。12月22日には第14方面軍より自戦自活を命じられる。第35軍は、レイテ島、ミンダナオ島、ビサヤ諸島などの各地で長期持久作戦を行い、米軍へ抵抗するとともに、飢餓との戦いが行われた。
第35軍直轄部隊参加者10,932人のうち戦死者10,682人、第35軍司令官であった鈴木宗作も昭和20年4月19日にフィリピン戦線で戦死、没後陸軍大将に進級する。

合掌

親を子を
 妻はとよびて
  逝きしとも
静かに眠むる
 平和のいしぶみ

為 平和観音慰霊供養

潮音寺

潮音寺毘沙門天と平和観音 小田原七福神
 この寺は大徳山潮音寺と号し、天文23年(1554)大休宗恵大和尚により開創され聖観世音菩薩をご本尊とする霊場である。
 毘沙門堂には七福神の一つである毘沙門天が安置され特に小田原七福神として広く知られている。
 尊像は総丈1m余り、室町中期の傑作といわれ、勇壮破邪の相を現じている。
 毘沙門天は北方多聞天とも称せられ財宝、智慧、福徳を授け、仏法加護の天王として篤い信仰を集めている。寅の日が縁日であり年頭の初寅の日には大祈祷会が厳修され大勢の善男善女で賑つている。
 「初黄晴れ毘沙門天の破邪心」俳人 石川冬城の句です。
 境内には平和観音像が建立されており、慰霊供養と世界平和を祈念する平和観音祭が行われる。

場所

〒250-0055 神奈川県小田原市久野511 潮音寺

https://goo.gl/maps/zJ5C5NJz66YkDusw7

「陸軍中佐上原重雄戦死の地碑」と「疾風のプロペラ」(小田原)

小田原市沼代。その山中の道路の傍らに、この地で戦死された搭乗員の慰霊碑があった。


上原重雄

鹿児島出身。陸士第52期卒業。
上原重雄は、スマトラ島の「パレンバン航空隊」にて、遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍。
特にB17爆撃機の迎撃で勇戦した「偉勲の戦士」として知られる。
昭和19年にパレンバンから日本本土に戻り、兵庫県の「加古川航空隊」で教育にあたっていたが、昭和20年1月愛甲郡愛川町中津にあった「相模陸軍飛行場(中津飛行場)」を拠点としていた「飛行第22戦隊長(22FR長)」に着任。

ジャンボリー作戦
昭和20年2月16日、米海軍空母機動部隊は関東地方に対して、空母艦載機による本土初空襲を敢行。(ドーリットル空襲を除く、通常の米海軍空母艦載機による本土初空襲)
これは、硫黄島上陸作戦と連動する、日本本土航空戦力の撃滅を目指したものであった。

米海軍の高速空母機動部隊である第58任務部隊が、関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃。第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹とする強力な艦隊であった。
2月16日の空襲では、房総半島から関東上空を目指し、戦闘機部隊は本土上空で空中戦を展開。爆撃隊は中島飛行機太田製作所や小泉製作所を目標としたものであった。
2月17日の空襲では、東京西部の中島飛行機武蔵製作所や多摩立川地区の航空機工場が目標となる。
日本軍航空隊の損失は、少なくとも被撃墜60機・地上撃破60機以上。アメリカ軍の損失は戦闘による航空機損失60機とその他作戦中の損失28機の合計88機。

相模陸軍飛行場(中津飛行場)
第22航空戦隊は最前線から帰還し戦力回復のため中津で錬成している最中であった。
昭和20年2月17日、第22航空戦隊は既に近日中に朝鮮への移駐が決まっており、部隊には迎撃中止命令が発令されていた。しかし着任したばかりの飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、我が物顔に飛行する米軍機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、部下をなだめつつも自らは義憤の単機発進を決行。

飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、相模陸軍飛行場(中津飛行場)から離陸し、米軍機を迎撃した。

100機にも及ぶ米軍機に上原重雄少佐は単機捨身で突入するも衆寡敵せず被弾。小田原市沼代上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の中津飛行場、そして皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆。壮烈な戦死を遂げられた。
(上原重雄少佐は、死後、陸軍中佐に特進)


飛行第22戦隊(隼第18913)
飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 

飛行第22戦隊は、初の四式戦闘機「疾風」装備部隊であった。
初代戦隊長には陸軍戦闘機隊のエースパイロットであった、岩橋譲三少佐が着任。岩橋譲三少佐は四式戦テストパイロットも務めていた。
岩橋譲三少佐はノモンハン事件以来の古参熟練搭乗員でもあったが、昭和19年9月9日に西安飛行場で戦死。

飛行第22戦隊は、最新鋭の大東亜決決戦機「四式戦 疾風」を要する陸軍屈指の決戦部隊であり、上原重雄少佐は、第四代目の飛行第22戦隊長であった。

「疾風」運用の最初の実戦部隊として活躍した飛行第22戦隊の部隊マークは、湊川の楠木正成にちなむ「菊水紋」であった。

※画像は「ハセガワ 1/48 日本陸軍 中島 キ84-I 四式戦闘機 疾風 プラモデル JT67」
 http://www.hasegawa-model.co.jp/product/jt67/

飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 略歴
昭和19年3月5日  東京福生(多摩陸軍飛行場)において臨時編成・
昭和19年5月下旬  神奈川中津(中津陸軍飛行場)において教育訓練開始
昭和19年8月17日  中津飛行場を出発し漢口へ
昭和19年8月20日  中国大陸にて桂林作戦に参加
昭和19年10月中旬 内地帰還
昭和19年10月18日 中津飛行場を出発しフィリピンへ移動、レイテ作戦に参加
昭和20年1月28日  戦力を回復するために内地帰還
昭和20年2月20日  福岡第一飛行場に到着   
昭和20年2月21日  中津飛行場に到着
昭和20年3月5日  朝鮮京城金浦第二飛行場に着
昭和20年3月25日  中国徐州飛行場に着 
昭和20年8月2日  朝鮮京城飛行場に着
昭和20年8月15日 朝鮮晋州で終戦

参考:
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122419500、陸軍航空部隊略歴(その1) 付.航空部隊の隷指揮下にあったその他の部隊/分割8(防衛省防衛研究所)」


中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

大東亜決戦機として名高い「疾風」。
小山悌技師長を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成。
「疾風」は重点生産機に指定され、戦争末期に近い昭和19年配備でありながら日本軍戦闘機としては零戦、一式戦(隼)に次ぐ約3,500機に及んだ。


疾風のプロペラ

四式戦に採用されたプロペラブレードは直径3.05 mの4翅であり、2000馬力戦闘機としては小径のプロペラであった。同時期に誕生した海軍の紫電・紫電改は、直径3.3 m、そして疾風と同じ中島製の海軍の彩雲は直径3.6 mを採用ということからも、疾風のプロペラが小さいことがわかる。一般には、プロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上するといわれている。
「疾風」プロペラは、フランスのラチェ式を改造し日本国際航空工業が国産化した電動可変ピッチ機構プロペラ「ペ32型」が採用。

「上原重雄戦死地の慰霊碑」は、疾風プロペラ1枚が用いられている。
これは、上原重雄の愛機「疾風」の残骸を陸軍が回収しに来た際に、「偉勲の戦士」の最後を見届けた農家の1人がプロペラを隠しておき、碑を作ったものだという。


陸軍中佐上原重雄戦死之地碑

合掌

近隣の方々により、今も手厚く維持されている。

陸軍中佐上原重雄戦死の地碑
 昭和20年2月17日、相模湾沖に進行した航空母艦から発進したグラマン戦闘機延べ600機が初めて関東地区を襲った。硫黄島上陸作戦を目前に、米軍の本土の目標に対する超低空からの集団攻撃だった。2日目を迎えた当地は朝から空襲警報下にあった。
 午前10時頃、攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。衆寡敵せず不運にも本市小竹上空で被弾してしまった。機は相模湾上で反転し、飛行場への帰還に向かったが、後続し南下する敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。墜落場所は沼代の山の中腹(やまゆりライン沼代入口付近から山側に入る鉄塔近く)。
 その姿は当地の人々に現在も鮮烈に残っている。戦死した搭乗者は首都防衛飛行第22戦隊長上原重雄中佐(鹿児島出身 享年28歳)であった。
 歴戦の中佐は陸士第52期の卒業でスマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍をし、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。前年に祖国に帰り兵庫県加古川航空隊で教育にあたっていたが、20年1月愛甲郡愛川町中津にあった第22航空戦隊長として着任した直後であった。
 当日は部隊が朝鮮平壌に移駐が決まり、軍は迎撃中止を命じていたが、我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員を掩体壕になだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。
 当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養している。
 墓地の記念碑は搭乗機「疾風」のプロペラ4枚のなかの1枚である。永く戦死の地に設置されていたが、平成22年(2011)に現在地に移設された。

(表面)
 故上原重雄墓

(裏面)
 昭和20年2月17日戦死
 昭和28年9月23日建之
 百機ノ敵ニ一機ヲ以テ挑戦
 享年28才
 

(表面)
上原重雄戦死之地

(裏面)
 時 昭和20年2月17日
爆音乃たへて 桜とちりぬるも 
 高きかんばせ 永遠にきへなん

隼 戦闘隊長
 陸軍少佐 行年28才

故人愛キ之プロペラ

出身地
 鹿児島県日置郡
  市来町 湊

昭和28年
 墓ト共ニ建之

林唯四郎
 カキキザム

疾風のプロペラ。ジュラルミンのアルミ合金に刻まれたレクイエム。

プロペラであることがわかる薄さ。なおかつ、墜落時の衝撃でより一層に曲がっている。

案内看板の背面には、地元の人による墜落当時のエピソードが掲げられていたが、残念ながら風雨により劣化しており、全てを読むことが出来ない状態だった。

第22航空戦隊長上原重雄が散った小田原の空。

実際の墜落現場は、慰霊碑がある場所より直線距離で約800mほど西側の山中。
平成22年(2011)に山中で関係者が高齢となり維持や参拝が困難となったことから、山中から沼代の集落近くの道路に移転。

Googleストリートビューにて。中央の鉄塔のあたりが、墜落現場。

墜落現場

https://goo.gl/maps/6d49swavBGKpnnkV9


福泉寺

ちかくの福泉寺には、上原重雄中佐の遺影が保管されているという。

王子神社

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」へは、王子神社を目標とするとわかりやすい。
王子神社 〒256-0801 神奈川県小田原市沼代506−1

下記写真の鳥居の先の道路がカーブする所に、慰霊碑がある。

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」の場所

https://goo.gl/maps/9vd8T8yrW3oKfSPT8


公共機関でのアクセス方法

JR二宮駅南口よりバスというのが、一番わかりやすい。
ニ30系統 中井町役場入口行に乗車し、「下中駐在所前」で下車。徒歩約20分。

道中は、のどかな田園地帯を20分ほど歩く感じ。


参考

https://www.townnews.co.jp/0607/2015/05/02/281877.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-92679.html

駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑(小田原)

JR早川駅から見える大きな白い観音様。
「魚藍観音」
小田原市早川の東善院に、駆逐艦五月雨の慰霊碑があるというので足を運んでみた。


駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑

小田原市早川鎮座の東善院、魚藍観音の後方の墓地の最上段に、「駆逐艦五月雨の慰霊碑」はあった。

駆逐艦五月雨慰霊碑がこの地に建立された理由は、五月雨の元乗組員で組織された「五月雨会」のメンバーに小田原出身者がいたことによるという。相模湾を望むこの地から、五月雨の慰霊碑は生まれ故郷(建造ドック)のある浦賀に向け建てられているという。

駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑
昭和57年8月 戦友並ニ遺族 建之

慰霊碑の下部には戦没者の名前が刻まれている。
昭和17年10月14日 10名 (ガダルカナル島の戦い)
昭和18年11月2日  6名 (ブーゲンビル島沖海戦)
昭和19年8月26日  9名 (パラオ・ガルワングル環礁)

駆逐艦五月雨

白露型駆逐艦の6番艦。
浦賀船渠で建造され、昭和12年(1937年)就役。
昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は、白露型4隻(村雨・五月雨・夕立・春雨)で第2駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊(旗艦・那珂)に所属。南方作戦に従事。

昭和17年10月12日夕刻、第2駆逐隊3隻(五月雨・春雨・夕立)は輸送船4隻(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸)を護衛してラバウルを出撃。
10月14日、栗田健男中将指揮下の第三戦隊(金剛、榛名)によるガ島ヘンダーソン飛行場砲撃は成功するも、輸送船団は14日朝以降米軍機の空襲を受け、五月雨も被害を受け10名の犠牲者を出す。
その後も五月雨は、第三次ソロモン海戦、キスカ島撤退作戦などに参戦。

昭和18年11月2月、第27駆逐隊(時雨・白露・五月雨)はブーゲンビル島沖海戦に参加。五月雨は舵が故障した白露と衝突し、さらに米軍駆逐隊に追撃されて被弾し、6名の犠牲者を出すが、五月雨・白露とも離脱に成功。

昭和19年にはいり五月雨は中部太平洋諸島への船団護衛に従事。
昭和19年8月18日、軽巡鬼怒と第27駆逐隊(時雨・五月雨)で航行中に、五月雨はパラオ近海のガルワングル環礁で座礁。火災も発生し深刻な損傷を受けてしまう。B-24の爆撃に曝される中で、8月26日にアメリカの潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS/AGSS-310)が座礁中の五月雨を雷撃。魚雷は五月雨右舷中部に命中し、大破した船体は断裂し9名の犠牲者を出す。五月雨は放棄され五月雨艦長以下生存者は駆逐艦竹に救助された。

五月雨の生まれ故郷「浦賀」を望む。(魚藍大観音とともに)

五月雨慰霊碑の高台からは、小田原城も見える。

そして、五月雨慰霊碑の後方を東海道新幹線が走り抜ける。


魚藍大観音

大きな白い観音様は、魚を入れる籠(魚藍)を携えている。籠からは魚の尾びれが飛び出している。なかなか愛くるしい観音様。
昭和57年(1982年)に、海上安全・大漁祈願を目的として建立。
鉄筋コンクリート造りの全身像で総高13m。

魚籃観音
三十三観音の一つ。魚を入れたかごを手にさげている観音。大魚に乗っている像もある。羅刹(らせつ)・毒龍の害を除く功徳があるという。魚籃。

コトバンク 
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%9A%E7%B1%83%E8%A6%B3%E9%9F%B3-480000

東善院

神奈川県小田原市早川482鎮座。真言宗東寺派。

JR早川駅からも、魚藍大観音のお姿は見える。


JR早川駅

JRの駅では日本一港に近い駅、らしい。小田原漁港の最寄駅。
1922年(大正11年)12月21日、開業。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で駅舎倒壊。
現在の駅舎は関東大震災以降に再建されたであろう木造駅舎。昭和初期の佇まいを残す。


場所

https://goo.gl/maps/GrKN9roxnGSLM8C56


関連(五月雨の僚艦たち)

村雨

白露・時雨(第二十七駆逐隊慰霊碑)

佐世保海軍墓地

「45cm四四式二号魚雷」神山神社に残る国産初の魚雷(小田原)

小田原駅から北西に約2キロの地に鎮座している神社に「魚雷」があると聞き、足を運んでみた。
なんでも地元では「久野の爆弾神社」といわれているらしい。


45cm四四式二号魚雷

昭和2年に神山神社に下付された魚雷。
第24代横須賀鎮守府長官・安保清種まで魚雷提供の相談があったという。

日清・日露戦争時の帝国海軍は輸入魚雷に頼っていた。
日露戦争後、明治44年(1911)に国産化にはじめて成功した魚雷が「45cm四四式魚雷」。
この四四式魚雷が帝国海軍の魚雷技術発展の礎となり、世界で唯一実用化に成功した酸素魚雷を生み出すこととなる。

由来(郷社神山神社の魚雷について)
「戦時下の小田原地方を記録する会」の調査によると、神社関係者が戦前旧日本海軍から譲り受けたとみられる。
防衛省防衛研究図書館所蔵の「廃兵器無償下附の件」と題する文章によると、1927年8月1日で同神社の関係者から旧日本海軍の横須賀鎮守府長官迄に魚雷提供の要請があり、同9月に許可が下りる。陸軍大臣にも同様の要請を行い、魚雷、砲弾が送られる。戦後、魚雷1基と砲弾2発は慰霊碑とともに残されたが砲弾は火薬が残存する疑いがあり、2003年に撤去する。
海上自衛隊による魚雷調査結果は、全長5.2メートル直径45センチメートル、明治44年制式と推定された。

 久野氏子の皆様に恒久の平和を願うものです

思った以上に、しっかりとした魚雷。

細部を観察。

ネジ穴が海中の抵抗を考慮し、涙滴型となっている。

内部に木材が使われていました。

当時、最新のテクノロジーで作られたであろう機器が露出。

シャフト部分

横舵と縦舵と推進プロペラ

これは貴重な戦跡、戦争遺産。一見の価値ありです。


魚雷の後方に並んでいる3つの慰霊碑。

忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵 奥保鞏 書

明治三七八年戦役戦没者

日露戦争の慰霊碑。明治39年建立。
日露戦争における戦没者17柱の慰霊顕彰。

二七八役戦歿者碑

陸軍歩兵大佐従五位勲三等功四級 隠岐重筋 書
明治31年3月建立。日清戦争の慰霊碑。
日清戦争における戦没者2柱の慰霊顕彰

忠霊塔

忠霊塔
靖国神社宮司 筑波 藤麿 書

昭和32年3月建立。
大東亜戦争における戦没者110柱の慰霊顕彰。

砲弾が置かれていたであろう場所。


神山神社(こうやま神社)

神奈川県小田原市久野に鎮座。明治社格は郷社。

神山神社
 神山神社の祭神は天照大神、伊弉諾命、伊弉冉命で、第六十六代一条天皇の永延2年(988)に創建されたといわれています。
 かつて神山神社は、久野坊所村山中に在社していましたが、兵火により焼け落ち、その時社殿から御幣が舞い上がり、松田の神山と現在地に落ちた。また、権現再興のために牛に乗せ山道を降りて来た時、現在地にて牛が動かなくなったため、この地を霊地として御魂を移した、などと言い伝えられています。
 応永23年(1416)、上杉禅秀の乱により、それまでの社殿や宝物などが焼失しましたが、大栄永4年(1524)神山権現を信仰した北条氏綱により社殿が改修されました。
 天正18年(1590)、小田原合戦の際に、神主の窪倉中務正広は、戦火を逃れるために神社の宝物類を携えて逃げる途中に亡くなったため、神社はこれまでの繁栄を失ったといわれています。
 小田原合戦前は近隣の村々18箇所の総鎮守でしたが、江戸時代後期には久野・池上・荻窪の3箇所の、そして現在は久野地区及び水之尾地区の一部の総鎮守となっています。例祭日は10月吉日です。

場所

https://goo.gl/maps/d591NSrv74k3NsiX7


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https://www.townnews.co.jp/0607/2014/09/20/252243.html

英連邦兵士たちが眠る日本唯一の墓苑「英連邦戦死者墓地」(横浜)

神奈川県横浜市保土ケ谷区。
この地に、イギリス連邦諸国の戦死者専用墓地がある。
日本の中のイギリス。足を運んでみました。

アクセスはバスで。
保土ヶ谷駅から市営バス「児童遊園地前」バス停を利用するのが便利。

手入れの行き渡り整えられた芝生と草木。ありがたいばかりに神聖で静謐な空間が広がっておりました。
勇者に敵味方なし。自ずと頭をたれて、手を合わせる。


英連邦戦死者墓地

第二次世界大戦後に、現在の横浜市保土ケ谷区に所在していた保土ヶ谷児童遊園地・保土ヶ谷錬成場が接収され、英連邦戦死者墓地が作られたことにはじまる。約3ヘクタールの土地に1800余柱が眠っているという。

英連邦では1917(大正6)年に定められた原則があり、「戦死者の遺体は本国に送還せず、階級差なく現地で埋葬する」という方針のもと、英連邦戦死者墓地委員会が設置され、世界中にある英連邦戦死者の墓地を管理している。

1952年に日本国との平和条約発効によってイギリス連邦占領軍による占領解除されるが、1955年に日本国とイギリス連邦諸国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタン)の間に締結された「日本国における英連邦戦死者墓地に関する協定」(1955年9月21日署名、1956年6月22日効力発生)に基づき、「英連邦戦死者墓地」の設置が確認された。
敷地は、日本国政府より英連邦戦死者墓地委員会に対し無償かつ自動更新(30年期限)で使用を許可している。

詳細は「英連邦戦死者墓地委員会(コモンウェルス戦争墓地委員会)」公式サイトにて。

CWGC
Commonwealth War Graves Commission
コモンウェルス戦争墓地委員会

https://www.cwgc.org/visit-us/find-cemeteries-memorials/cemetery-details/49433/YOKOHAMA%20WAR%20CEMETERY/

COMMONWEALTH
WAR GRAVES

COMMONWEALTH WAR
CEMETERY YOKOHAMA

英連邦戦死者墓地

日本政府の厚意によって提供されたこの土地には、英連邦諸国、アメリカ合衆国、オランダ王国の各国民で祖国の為に生命をささげた人々が葬られています。
この墓地の維持管理は英連邦戦死者墓地委員会が英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタンの諸国に代わって行っています。
参観時間は8:00AM~5:00PM迄となっています。
 英連邦戦死者墓地委員会

VISITORS BOOK
記載室(資料有り)

パンフレットがありましたが、英文でした。。。

1939-1945
この共同墓地の土地は第二次大戦で亡った陸・海・空軍戦没者の永遠の安らいの場所として日本国民から贈られたものです。

1939-1945
THE LAND ON WHICH THIS CEMETERY STANDS IS THE GIFT OF THE JAPAN FOR THE PERPETUAL RESTING PLACE OF THE SAILORS SOLDIERS AND AIEMAN WHO ARE HONOURED HERE

CWGC
Commonwealth War Graves Commission

英連邦戦死者墓地委員会にようこそ
横浜戦死者墓地
Yokohama War Cemetery

ここは日本で唯一の英連邦の墓地です。第二次世界大戦中に亡くなった2000名以上の連合国要員が、ここに埋葬または慰霊されています。大部分はオーストラリア、カナダ、統一インド、ニュージランドおよび英国から英連邦軍に所属していましたが、80名は米国とオランダ軍からでした。

第二次世界大戦(1939年-1945年)中、何万人もの連合国兵士と女性が日本軍の捕虜(POW)になりました。35,000人以上の捕虜が、労働力として日本に連行され、鉱山や造船から農業や軍需品製造まで、さまざまな産業で働かされました。福岡、広島、大阪、名古屋、東京、仙台、函館の7ヵ所には、主要な捕虜収容所が設けられました。収容所の状態は過酷だったので、何千人もの人々が捕虜の身のまま死亡しました。

1945年の日本の降伏後、この墓地は第38オーストラリア戦争墓地ユニットによって始められました。収容所で亡くなった人々の遺骨は埋葬のためにここに運ばれました。

  • 1 戦死者名簿と訪問者の記載室
  • 2 「犠牲の十字架」 ここに埋葬されたキリスト教徒に敬意を表す
  • 3 横浜記念碑 墓石のない20名のインド兵を追悼
  • 4 イギリス兵の墓地
  • 5 オーストラリア兵の墓地
  • 6 インド兵の墓地
  • 7 ニュージランドとカナダ兵のの墓地
  • 8 横浜納骨堂 火葬された335名の英連邦の兵士、オランダ兵およびアメリカ兵を追悼
  • 9 第二次世界大戦後の墓地

1917年5月
 大英帝国死者墓地委員会を設立
1939年9月
 英国、第二次世界大戦に参戦
1941年12月
 日本軍の真珠湾攻撃と東南アジア侵攻
1942年2月
 シンガポールの英連邦軍、日本に降伏
1942年6月
 日本軍、ミッドウェイの戦いで敗北
1944年6月
 日本軍、インドで敗北
1944年6月
 日本への大規模な爆撃開始
1945年3月
 東京大空襲
1945年6月
 日本軍、沖縄で敗北
1945年8月
 原爆投下と日本降伏。第二次世界大戦終了
1945年
 この地での最初の埋葬
1951年
 墓地委員会に墓地の土地を恒久的に貸与
1960年
 英連邦戦死者墓地委員会と名称変更

ジョージ・ヘンリー・ビールについて
ジョージ・ビールは、第二次世界大戦中オーストラリア軍に所属しました。ジョージと彼の兄弟のフレデリックは、1942年2月にシンガポールで捕虜となりました。彼は日本に収容され、製鉄所で強制労働をさせられました。ジョージは、24時間シフトの工場での事故で重傷を負った後、1943年5月28日に死亡しました。彼はオーストラリア区のE区画、A列、墓石3番に埋葬されています。彼の兄弟は戦争を生き抜き、1945年9月に開放されました。

設計と建築
戦前、この地域一帯は横浜市の公園でしたが、1945年に捕虜埋葬のために接収されました。1951年、公式にこの土地は墓地委員会に恒久的に貸与されました、ニュージランドとカナダ両国のための合同区画と共に、英国、統一インド、オーストラリア各軍に所属した人々の埋葬のために独立した区画が設けられました。それぞれの墓には、そこに埋葬された人についての詳細が記載されたブロンズのプレートが付いています。

CWGC
1917年に設立された英連邦戦死者墓地委員会(CWGC)は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に英国軍と英連邦軍に従軍して戦死した170万人以上の軍人と女性を慰霊しています。CWGCは、世界中の150以上の国と地域で活動しています。CWGCは、第二次世界大戦中に亡くなった24,000人以上の連邦国軍の兵士が慰霊されているシンガポール・メモリアルなど、アジア太平洋地域の何十もの墓地や慰霊碑を管理しています。

こちらは英語版の看板。

日本語と英語と2つの看板が並んでいる。


横浜納骨堂

火葬された335名の英連邦の兵士、オランダ兵およびアメリカ兵を追悼

https://www.cwgc.org/visit-us/find-cemeteries-memorials/cemetery-details/2086701/YOKOHAMA%20CREMATION%20MEMORIAL/

YOKOHAMA CREMATION MEMORIAL

1939-1945
IN THE URN BELOW REST THE ASHES OF 335 SAILORS. SOLDIERS AND AIRMAN OF THE BRITISH COMMONWEALTH. THE KINGDOM OF THE NETHERLANDS AND THE UNITED STATES OF AMERICA WHO DIED AS PRISONERS OF WAR IN JAPAN. THE NAMES OF 284 ARE INSCRIBED ON THESE WALLS. THE IDENTITY OF THEIR 51 COMRADES IS UNKNOWN
THERE BE OF THEM THAT HAVE LEFT A NAME BEHIND THEM THAT THEIR PRAISES MIGHT BE REP ORTED AND SOME THERE BE WHICH HAVE NO MEMORIAL. BUT THEIR RIGHT-EOUSNESS HATH NOT BEEN FORGOTTEN AND THEIR GLORY SHALL NOT BE BLOTTED OUT

(意訳)
1939-1945
下の骨壺には、英国連邦の水兵、兵士、空軍兵士、日本で捕虜として死亡した英国連邦、オランダ王国、米国の兵士など335名の遺灰が納められています。この壁には284名の名前が刻まれています。51人の仲間の身元は不明である。
彼らの中には、その称賛を伝えるために名前を残した者もいれば、記念碑のない者もいるだろう。しかし、彼らの正義は忘れられず、その栄光は消し去られることはない。


イギリス兵の墓地

「犠牲の十字架」 ここに埋葬されたキリスト教徒に敬意を表す


インド兵の墓地

統一インド兵の墓地(イギリス領インド=インド・パキスタン・バングラデッシュ)

「横浜記念碑」
墓石のない20名のインド兵を追悼

1939-1945
IN HONOUR OF THESE OFFICERS AND MEN WHO DIED IN THE SERVICE OF THEIR COUNTRY AND NO KNOWN GRAVE
(意訳)祖国のために亡くなった将校や、決まった墓のない男たちに敬意を表す

INDIAN FORCES
1939-1945

INDIAN
PAKISTAN


第二次世界大戦後の墓地

BRITISH COMMONWEALTH FORCES CEMETERY
(英国連邦軍墓地)


オーストラリア兵の墓地


ニュージランドとカナダ兵の墓地


徽章

墓石には、亡くなられた方々が所属していたであろう、さまざまな部隊の徽章(シンボルマーク)があった。
以下、順不同で。

●英国

●ニュージランド

●カナダ

●統一インド


場所

https://goo.gl/maps/S3Kts5BvwY22X9uRA

参考

https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=358

※撮影は2021年4月

臨時東京第三陸軍病院跡(相模原)

小田急相模原駅から一直線に伸びる道路を1.5キロほど突き当たりまで歩いていくと、「国立相模原病院」にたどり着く。「国立相模原病院」はかつて、「陸軍病院」であった。

軍都相模原
昭和12年(1937)に「陸軍士官学校本科」が、座間・相模原に移転。
その後も続々と陸軍関連施設が展開。
「相模陸軍造兵廠」「陸軍兵器学校」「陸軍機甲整備学校」「陸軍通信学校」「相武台陸軍病院」など。

臨時東京第三陸軍病院
昭和13年4月、野戦病院として、「臨時東京第三陸軍病院」創設。突貫でバラック建物を建てたという短期間設営の病院であったが、規模は大病院以上。陸軍直轄病院。東日本最大の陸軍病院であった。
陸軍病院の開院に合わせて小田急相模原駅が開業。
昭和天皇が、戦地からの傷病兵を見舞うために、行幸された唯一の陸軍病院。敷地内は記念碑が残っている。

昭和20年12月、戦後、臨時東京第三陸軍病院は、厚生省に移管され、「国立相模原病院」として発足する。

臨時東京第三陸軍病院 行幸記念碑

相模原病院正門右手に。陸軍病院時代を物語る石碑。

行幸記念碑
陸軍省医務局長 三木良英 謹書

(裏面)
行幸 昭和14年3月14日
臨時東京第三陸軍病院

(添碑)

昭和15年5月
 臨時東京第三陸軍病院長
 陸軍軍医少将 押火権太郎 選並書

昭和14年3月14日に、支那事変での傷病将兵を 昭和天皇が見舞うために行幸されたことを記念する碑。
昭和15年に建立された。

行幸記念碑と相模原病院


相模原病院

相模台商店街通り(サウザンロード相模台)

古道「辰街道」(たつ街道)
小田急相模原駅と相模原病院を結ぶ道路。

※2021年4月撮影


関連

「八面九体地蔵」空襲犠牲者供養の地蔵(板橋区)

東京都板橋区大山金井町16-8。東武東上線大山駅徒歩8分。

大山の住宅地の交差点に、お地蔵様が建立されていた。
「八面九体地蔵」
文字通りに、八面あり、それぞれにお地蔵様が掘られている。一面のみは、親子の地蔵様。

昭和20年4月13日「板橋空襲」
この地にあった防空壕に避難していた1人の乳児を含む9人が、直撃弾を受けて犠牲となった。
昭和25年、この地を所有した小川氏が、供養のために建立したのが、「八面九体地蔵」であった。

地元に人々によって祀られており、乳児も含む9体のお地蔵様それぞれに、綺麗な頭巾が乗せられており、前掛けも回されていた。

合掌

空襲犠牲者供養の地蔵
第二次世界大戦中の昭和二十年(一九四五)四月十三日夜、板橋から志村の地域にかけてアメリカ軍による空襲がありました。この空襲は、区内最大の羅災者約四万五千人を出し、板橋駅、区役所、養育院など板橋区の中枢を焼け野原にしました。
 この空襲で、当地の防空壕に避難していた、一人の乳児を含む九人が、爆弾の直撃弾を受け犠牲になったといわれています。
 戦後、当地を購入し、公衆浴場を開業した小川忠雄氏が、先の空襲による被害を知り、供養のために建てたのが、このお地蔵さまです。昭和二十五年(一九五〇)に現在地に建てられました。八面の胴部分に一体ずつの地蔵が刻まれ、そのうちの一体が子供を抱いています。
 昭和四十九年(一九七四)には、覆屋(おおいや)も作られ、現在ではまちの方々によって大切におまもりされています。
 このお地蔵さまは、板橋区における空襲の事実を伝え、後世に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える史跡として、平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
 平成九年二月 
  板橋区教育委員会

小川医院の敷地の角地に建立されている。

場所

https://goo.gl/maps/hGrvHVxWj2SCks1v8


関連

板橋空襲で、甚大な被害を出した「養育院」

板橋区内の空襲犠牲者を祀る「平安地蔵」

板橋区内には都内有数の軍需工場があった。「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」

平和の碑・探照灯基地跡(川崎市麻生区)

神奈川県川崎市麻生区古沢。
小田急線新百合ヶ丘駅から歩いて10分ほどの里山に、かつて「探照灯基地」があったという。

戦争末期、内地防空の為に、「高射第1師団」が編成。
麾下の「高射砲第112聯隊」は世田谷を本部とし東京西部地区、多摩川を挟んで南北に展開していた。
この川崎市麻生区の探照灯基地も、この照空隊陣地の一つであったと思われる。

ちなみに、日本陸軍では「照空灯(照空燈)」と呼称し、陸軍船舶部隊及び日本海軍では「探照灯(探照燈)」と呼称していたので、本来であれば、麻生区古沢での記載は「照空灯基地跡」とするのが正しい。
(現在の自衛隊では「サーチライト」と呼称。

平和の碑 探照灯基地跡

(裏面)
世界第二次大戦により古沢288番地海抜70m地点に探照灯が据えつけられ昭和19年9月20日から昭和20年8月17日まで使用された

(側面)
平成2年6月吉日
 柿生郷土誌古沢編集委員協力者

里山の丘陵の中腹に。
「平和の碑」のとなりにあるのは、「地神塔」嘉永6(1853)年建立。

実際には、石碑のある場所の上、丘陵の高台に「照空基地」があった。

場所

https://goo.gl/maps/9nWHfM21U3f22i5R6

新百合ヶ丘駅から10分ほど歩いた場所に、のどかな里山風景が残っていて、そして戦時中のエピソードがあるというのが驚きであった。

※撮影2021年4月

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

東京裁判と殉国七士

巣鴨プリズン
昭和23年(1948年)12月23日、 当時、皇太子であった 上皇陛下の15歳の誕生日であった。

12月23日の尊い「国民の祝い日」であった夜中の午前0時。
巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)で極東国際軍事裁判(東京裁判)により「戦犯」として死刑判決が処せられた7名の絞首刑が執行された。

  • 板垣征四郎 陸軍大将・陸相
           <中国侵略・米国に対する平和の罪>
  • 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
           <英国に対する戦争開始の罪>
  • 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
           <中国侵略の罪>
  • 東條英機  陸軍大将・第40代内閣総理大臣
           <真珠湾不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪>
  • 武藤章   陸軍中将・第14方面軍参謀長
           <一部捕虜虐待の罪>
  • 松井石根  陸軍大将・中支那方面軍司令官
           <捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)>
  • 広田弘毅  文官・第32代内閣総理大臣
           <近衛内閣外相時に南京事件を止めなかった不作為責任>

横浜・久保山
巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場に運び込まれ、厳重警戒の中で焼却された。
遺族は遺骨遺灰の引き取りを願ったが、GHQはA級戦犯七士が神聖化されることを恐れ拒絶。
そうして、A級戦犯七士の遺骨は米兵によって粉々に砕かれ東京湾に捨てられた。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、細かい遺骨や遺灰は、久保山火葬場のコンクリ穴に捨てられていた。この僅かな遺骨と遺灰を回収するために、小磯国昭弁護人三文字正平、興禅寺住職市川伊雄、久保山火葬場場長飛田善美は、米兵がクリスマスで浮かれている12月26日の夜中に、必至の覚悟で密かに忍び込み、苦心の末に骨壺一杯分の遺骨灰を集めることに成功した。

熱海・興亜観音
骨壺は密かに久保山火葬場から、すぐ隣に鎮座していた市川住職の興禅寺に運び出され、しばらくは興禅寺に隠されていたが、やはり久保山葬祭場のすぐ近くは危険だということもあり、三文字弁護士や市川住職、七士の遺族の人々が、極秘のうちに相談した結果、翌年昭和24年5月三日に松井石根大将ゆかりの熱海・興亜観音に運ばれることとなった。
三文字正平は、広田弘毅氏の令息、東條未亡人、武藤未亡人らとともに興亜観音住職伊丹忍礼に相談。「知り合いの方の遺骨灰だが時期が来るまで、誰にもわからぬように秘蔵しておいて欲しい」と申し出て、伊丹住職は一見して七士のご遺骨灰であることを直感し、快諾。そうして東亜観音にて遺骨灰は秘匿された。

「七士之碑」建立
密かに興亜観音に運び込まれた七士のご遺灰は10年もの間、秘事として興亜観音の初代住職伊丹忍礼によって護持されてきた。
昭和34年4月一九日、松井大将の無二の親友であった高木陸郎氏(興亜観音奉賛会長)らの発起により、吉田茂元総理の筆になる「七士の碑」が建立された。吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。「七士之碑」建立の際は、81歳と高齢な吉田茂は、興亜観音の山道を籠に乗って登られた。
ご遺灰は、「七士之碑」の碑の下に約3メートルの地下に埋葬されている。
碑文についても種々議論があったが、「知る人ぞ知る「七士之碑」でいいではないか」との結論に落ち着いたという。
そして昭和35年には、遺灰の回収と秘匿に尽力した三文字弁護士の発起により愛知県の三ヶ根山(松井石根の出身地)にある「殉国七士墓」に、「興亜観音」にある骨壷から香盒1ヶ分ほどが分骨埋葬された。


六十烈士忠魂碑(光明寺)

久保山火葬場近くの光明寺には、極東軍事裁判によって巣鴨プリズンで極刑死せられ、久保山火葬場で茶毘に付された、東條英機(陸軍大将)らA級戦犯7人をはじめとする、六十吊の方々の忠魂碑がある。

合掌

顕彰記
この碑は天をも畏れぬ赦し難き 不法な極東国際軍事裁判の結果 巣鴨刑務所で極刑死せられ 当地 久保山で茶毘に付された東條首相 以下六十吊の忠魂碑である (烈士吊は碑裏面に処刑順記載) この殉国烈士の慰霊は日本協会 や有志の方により行われていたが 昭和四十三年当光明寺境内に碑が 建立せられるに及び 日本協会に 次いで昭和五十七年以降は当会が 毎年慰霊祭を挙行している
 平成十年六月 日本郷友連盟神奈川県支部

六十烈士  忠魂碑

別記の諸氏は大東亞戦争おいて盡忠報国の誠を貫きたるに拘らず旧敵國の一方的裁判により巣鴨において極刑を授けられたり 本会は深く之を悼み諸氏を此地に合祀して忠霊を慰めかつ其遺功を後世に伝えんことを冀う

六十烈士元官職吊故氏吊
陸軍中尉 由利敬、陸軍大尉 福原勲、陸軍大尉 平手嘉一、陸軍大尉 満淵正明
陸軍中尉 池上宇一、陸軍大尉 末松一幹、陸軍軍属 本田始、陸軍憲兵中尉 本川貞
陸軍軍属 牟田松吉、陸軍軍曹 武田定、陸軍軍属 髙木芳郎、陸軍大佐 宮沢亥重
陸軍軍曹 穂積正克、海軍上等兵曹 潁川幸生、陸軍大尉 都市野順三郎
陸軍伊長 相原一胤、陸軍大尉 中島祐雄、陸軍軍属 平松貞次
陸軍一等兵 川手晴美、陸軍軍属 木村保、陸軍軍属 吉沢国夫、陸軍曹長 道下正能
陸軍少佐 村上宅治、陸軍大佐 尾屋刢、陸軍大尉 西澤正夫、陸軍准尉 柴野忠雄
首相 東條英機、陸軍大将 土肥原賢二、陸軍大将 松井石根、陸軍大将 板垣征四郎
首相 広田弘毅、陸軍大将 木村兵太郎、陸軍中将 武藤章、陸軍軍医少将 水口安俊
陸軍少将 河根良賢、陸軍大佐 平野庫太郎、陸軍中尉 石﨑英男
陸軍曹長 片岡正雄、陸軍上等兵 斉藤善太郎、陸軍伊長 富岡菊雄
陸軍兵長 伊藤正治、陸軍中佐 田中義成、陸軍主計准尉 小西貞明
海軍中佐 大隈馨、海軍中佐 佐藤勇、陸軍軍属 柳沢章、陸軍軍属 関原政次
陸軍軍属 秋山米作、陸軍軍属 小日向治、陸軍軍属 鈴木賞博、陸軍軍属 牛木榮一
陸軍中将 岡田資、陸軍衛生曹長 青木勇次、海軍大佐 井上乙彦
海軍大尉 井上勝太郎、海軍大尉 幕田稔、海軍少尉 田口泰正、海軍大尉 榎本宗応
海軍一等兵曹 藤中松雄、海軍上等兵曹 成迫忠邦  昇霊順
 昭和四十三年十月建之
  日本協会
  日本郷友連盟神奈川県支部協賛
  日本協会々長 正三位勲一等下村定謹誌
   久保山花塚石材店謹刻

いわゆるA旧戦犯として、処刑された、七士
 首相 東條英機、
 陸軍大将 土肥原賢二、
 陸軍大将 松井石根、
 陸軍大将 板垣征四郎
 首相 広田弘毅、
 陸軍大将 木村兵太郎、
 陸軍中将 武藤章

光明寺


市川伊雄大和尚顕彰碑(興禅寺)

東條英機らA級戦犯7名の遺骨を密かに運び出した市川伊雄大和尚の功績を讃える顕彰碑。
昭和44年9月7日建立。

市川伊雄大和尚顕彰碑
碑文
(和尚の経歴など前略)
大東亜戦争後東京軍事裁判々決により、連合軍の東條元首相外六氏は、久保山火葬場に於て火葬 その遺骨の総てが遺族に還らざるを知り愕然出家の身として黙し難く身の危険をも顧りみず其の遺骨を搬出密かに当寺に安置回向其の冥福を祈る等禅僧としてその気概気風は寔に豪にして高邁の姿に後日世の注目を集めたが大和尚の姿は終始一貫経典の心にあり正義を貫く和尚一代を畢生の念願とした


久保山火葬場(久保山斎場)

神奈川県横浜市西区元久保。

久保山火葬場は昭和20年10月に連合軍に接収。
極東軍事裁判で裁かれた巣鴨プリズン刑死者の火葬が、この久保山火葬場で行われた。

久保山火葬場場長飛田善美は、極東軍事裁判終了後に、巣鴨で処刑され久保山で火葬された60名の遺灰が集められていた場内に供養塔を建立。今も久保山斎場内に残されているという。(火葬場という性質上、無造作に足を運ぶべき場所ではないので敷地内は未確認)


久保山墓地には、広田弘毅と外交官同期であった吉田茂の墓がある。

吉田茂墓

吉田茂墓の詳細に関しては、別記事で。

※本記事の撮影は2021年3月


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難波宮跡公園周辺の戦跡散策(大阪)

大阪城の南側、難波宮跡周辺を散策してみた。
「難波宮跡公園」界隈。


大阪医学校跡 明治天皇聖躅碑
大阪師範学校跡 明治天皇聖躅碑
(国立病院大阪医療センター)

大阪城の南側、中央区の法円坂。明治の初め頃、この地に大阪医学校と大阪師範学校があった。
そして、学校が廃止された後は、陸軍の地、であった。

大阪医学校
大阪医学校の歴史は、適塾までさかのぼる。緒方洪庵が大阪で開いた蘭学・蘭医学の個人塾「適塾」。その緒方洪庵の息子であった緒方惟準が院長として就任したのが明治元年(1869)2月に設立した「大阪府仮病院」(上本町の大福寺を仮地としてスタート)。大阪府仮病院には適塾出身者が多く採用された。
明治2年に「大阪府仮病院」は法円坂に移転し「大阪府医学校病院」(大阪医学校病院)となった。緒方洪庵の弟子であった大村益次郎が運び込まれて、そして絶命したのが、この病院であった。南東角には「大村益次郎卿殉難報国之碑」は建立されている。

「大阪医学校」は明治5年の学制発布により文部省管轄の「第四大学区医学校」と改称。
しかし、改称2ヶ月後の明治5年(1872)10月に大阪の「第四大学区医学校」は廃校となり、「第一大学区医学校」(東大医学部)に医学教育が集中されることとなる。
「大阪医学校」は官立であったために国の方針で廃校となってしまったが、その後に公立医学校として復活。現在の大阪大学医学部へとつながっている。

大阪師範学校(官立大阪師範学校)
明治5年(1872)に廃校となった「大阪医学校」の跡地に、明治6年8月に大阪師範学校(官立大阪師範学校)が開設。明治11年(1878)に学制改革により廃止。大阪府師範学校として、現在の大阪教育大に連なる。

明治天皇聖躅碑
明治天皇は、大阪師範学校を明治10年(1877年)2月に行幸されており、 明治天皇聖躅碑が大正14年5月に建立された。
明治天皇聖躅碑は、所在不明であったが2016年に発掘調査時に発見された。

明治天皇聖躅碑

大阪医学校
大阪師範学校

大阪市青年聨合團

大正14年5月10日建之


国立病院 大阪医療センター
(独立行政法人国立病院機構大阪医療センター)

大阪医学校・大阪師範学校のあと、この地は陸軍の兵営となった。
昭和22年、「旧大阪陸軍病院」の流れをくむ「国立大阪病院」が河内長野から現在地に移転。

大阪医学校があった地は、陸軍の時代を経て、再び医学の地に戻ったこととなる。


歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)

「大阪医療センター」の敷地内に陸軍時代の記念碑がある。
歩兵第三十七聯隊に関係する石碑。

歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)
明治29年(1896)連隊本部設置
明治31年(1898)3月24日  明治天皇より軍旗拝受
明治37年(1904)日露戦争従軍
昭和12年(1937)南京攻略戦に参加、翌年昭和13年に徐州会戦に参加
昭和15年(1940)漢水作戦に参加
昭和17年(1942)バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島パレンバン警備
昭和20年(1945)タイに転戦、タイ・ビルマ国境で終戦。

歩兵第三十七聯隊
創立100周年 記念碑

碑文
明治三十一年三月二十四日 歩兵第三十七聯隊が創立されて本年を以て100周年に当たるため由緒あるこの地に記念として建立した所以であります。 
 平成十年三月吉日 
  歩三七会建立

歩兵第三十七聯隊跡
昭61年11月 歩三七会 建之

克忠

克忠とは、「より忠に」の意。大正11年5月二五日建立。
上部の「克忠」は、第四師団長・鈴木荘六中将の揮毫
下部の「詩」は、歩兵第三十七聯隊長・井染禄郎大佐の揮毫

(碑面裏)
此碑は元営門築山に在りし物にして終戦後撤去されおりしも北庭園を増築するに当たり37会此を再建せしものなり。

歩兵第三十七聯隊
明治三十六年創設
昭和二十年廃止
 三七会

かつて営門築山にあった灯籠?かもしれない。

大阪医療センターの一角に記念碑が集められていた。


歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)

またも負けたか八連隊(大阪の歩兵第8連隊)、それでは勲章九連隊(くんしょうくれんたい)(京都の歩兵第9連隊)」といわれた大阪の歩兵第八聯隊の兵営地は、現在の難波宮跡公園であった。
その歩兵第八聯隊は、決して弱かったわけではなく多くの勝ち戦もある。語呂の耳障りの良さと大阪人らしい気質とウィットに富んでいたために流布された里謡という側面もありそうだ。

歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)
明治7年(1874)5月、第10大隊と第14大隊を基幹に改編
        10月、萩の乱に第3大隊が従軍
12月、 明治天皇より軍旗拝受
明治10年(1877)西南戦争に従軍
明治27年(1894)日清戦争に従軍
明治37年(1904)日露戦争に従軍
大正3年(1914)第一次世界大戦にて、青島の戦いに参戦
昭和12年(1937)満州転戦
昭和17年(1942)第二次バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島に移動
昭和20年(1945)仏印に転進、明号作戦に参加、その後タイへ転進し終戦

歩兵第八聯隊跡

碑文
歩兵第八聯隊は 明治7年5月14日創設
同年12月18日天皇より軍旗を親授せられ 萩の乱 西南の役 日清戦争 日露戦争 日独戦争 支那事変 大東亜戦争等に参加
七十有余年にわたり 国土の防衛に任じた
碑は 国史に著き摂河泉出身の若人が 練武に励んだ想い出の聯隊跡地を記念し 中馬馨大阪市長の揮毫をいただいて建てたもので この記念碑には 全国歩八関係戦友の魂がこもっている
 昭和50年4月
  歩八会

御臨幸之
 昭和7年11月14日

昭和7年(1932)年11月、奈良と大阪で陸軍特別大演習が行われ、
昭和天皇が大阪城東練兵場において観兵式を御統監になったのを記念して建立された碑。

石垣部分は当時からのもの、という。

排水孔

歩兵第八聯隊兵営の南門門柱。

難波宮跡公園。
大阪城と教育塔を望むことができる。

※撮影は2021年4月


関連

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑と埋腿骨之地(大阪)

大阪市中央区法円坂の国立病院機構大阪医療センター近くの上町交差点。
ひときわに大きな石碑がある。
当時、この地にあった鈴木町の大阪府医学校病院(大阪府仮病院)に大村益次郎が運び込まれ、そしてこの地で亡くなった。


大村益次郎

文政7年5月3日〈1824年5月30日〉 – 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。「維新の十傑」の一人。
日本陸軍の創設者
村田蔵六、良庵、諱は永敏。あだ名は「火吹き達磨」

周防国の村医の家柄に生まれた村田蔵六は、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。
嘉永6年(1853年)、宇和島藩で蘭学者として勤務。
安政3年(1856年)4月、宇和島藩主・伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出府。
同年11月、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となる。
安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授に就任。
万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国、長州藩の軍事を掌り、高杉晋作の奇兵隊の指導などを行う。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐に際して、石州石見国方面の実戦指揮を担当し、軍事的才能を遺憾なく発揮し幕府軍を撃破。
明治元年(1868年)、戊辰戦争では有栖川宮東征大総督府補佐として、軍務官判事、江戸府判事を兼任し、江戸を掌握。討伐軍を指揮し、上野山に籠もる彰義隊を撃破。その後も江戸から事実上の新政府軍総司令官として戊辰戦争を指揮し、新政府軍を勝利に導く。

明治2年(1869年)、明治新政府の幹部として軍政改革の音頭を取るも、兵制論争となり、結果として大久保利通派に敗れるも、軍政では大村益次郎に変わるものもなく、新たに設置された兵部省の兵部大輔(次官)に就任。兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王であったために、実質的には大村益次郎は近代日本の軍制建設を指導する立場となる。

大村益次郎は大阪に大阪城近くに兵部省の兵学寮(士官学校)を設け、造兵廠(大阪砲兵工廠)、宇治に火薬製造所の建設するなどを決め、東京から関西へ軍事拠点を移転させることを決定。

明治2年(1869年)8月、視察のために京阪方面に出張。
9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で会食中、8人の刺客に襲われる。
重傷を負い9月7日に京都の山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けるも、傷口から菌が入り敗血症となる。医療設備の整っていた「大阪府医学校病院」(浪華仮病院・大阪府仮病院)に転院を決め、教え子であった寺内正毅、児玉源太郎らが担架で高瀬川船着き場まで運び、10月2日に大阪府医学校病院(大阪仮病院)に入院。
大阪府医学校病院は院長が緒方惟準(大村益次郎の恩師・適塾緒方洪庵の次男)、オランダ人医師ボードウィンを主席教授とし、楠本イネ(シーボルトの娘)らが看護。蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術をおこない、足を切断するも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し11月5日の夜に死去した。享年46歳。
大村益次郎は「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めるように。」と遺言した。(龍海寺の緒方洪庵の墓の隣に足塚がある)


兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

昭和15年11月に大村益次郎が治療を受けた大阪府医学校病院(浪華仮病院・大阪仮病院)、そして亡くなった地に鎮座。
昭和15年(1940)は、1月米内光政内閣、7月に第2次近衛文麿内閣が成立し陸相には東条英機が就任。9月には、日独伊三国同盟条約が締結され、11月には、紀元2600年祝賀行事が行われるという時局であった。
ひときわに大きい、大村益次郎の殉難報國之碑もそんな時局をあらわしていた。

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭学ヲ梅田幽斎及緒方洪庵等ニ学ビ専ラ醫学及兵学ヲ修メ夙ニ皇政維新ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵学寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於て刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於て右大腿切断ノ手術ヲ受ク病牀二ケ月瀕死ノ中ニ在ツテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整備ト軍事醫療ノ急設トヲ説キ傷處ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■ク愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾
   昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

※中央部に亀裂が有り、一部の文字が読み取れず

発起人・賛助者にはそうそうたる名前が刻まれていた。
昭和15年当時の軍人・関西財界人など。

また、緒方銈次郎の名も有る。
緒方銈次郎は、大村益次郎の恩師であった緒方洪庵の子・緒方惟準の二男。大村益次郎は緒方惟準が院長を務める、適塾の流れをくむ浪華仮病院・大阪仮病院に担ぎ込まれた。

財界
伊藤忠兵衛(伊藤忠)
鳥井信治郎(サントリー)
種田虎雄(近鉄)
松下幸之助(パナソニック)
鴻池善右衛門(鴻池家)
小林一三(阪急)
江崎利一(江崎グリコ)
野村徳七(野村証券)

陸軍
畑俊六
林銑十郎
東条英機
大島健一
松井石根
松岡洋右
寺内寿一
荒木貞夫
杉山元

海軍
及川古志郎
高橋三吉
末次信正

場所

https://goo.gl/maps/UoLZBv6H6k1Debqy7

現在は、国立病院大阪医療センター。
この地は、のちに元歩兵第三十七連隊が展開されていた。
敷地内には、歩兵第三十七連隊の慰霊碑などもある。


大村益次郎寓居跡「漏月庵」

少し時系列をさかのぼる。
大村益次郎(村田蔵六)は、22歳のころに来阪して「緒方洪庵の適塾」に入門して塾頭まで務める。そのころにこの場所から適塾に通っていたという。

大村益次郎寓居跡
「漏月庵」

 大村益次郎は1825(文政8)年、山口・周防の医者の家に生まれた。蘭学、医学、蘭式兵学に通じ、日本の近代兵制を創始した。
 緒方洪庵に師事し、1849(嘉永2)年からこの家に住んで適塾に通った。初めて構えた居宅を愛し、ひさしのすき間から見える月の美しさに感謝して「漏月庵」と名付けた。
 後、故郷に戻って医者になったが洋楽の知識を認められ、明治新政府の兵部大輔(軍事大臣)となり、日本の兵制をととのえた。1869(明治2)年没。
「漏月庵址」の石碑は1950(昭和25)年まで存在したが、その後不明になり今回改めて建立した。
 令和2年9月吉日
  古川宏太郎建立

場所

https://maps.app.goo.gl/vPs8sqw7kCMfZRp78


大村益次郎埋腿骨之地(足塚)
緒方洪庵墓所

大阪市北区の龍海寺。緒方洪庵の菩提寺。
緒方洪庵の墓は東京文京区の高林寺にもあり、この龍海寺には遺髪が埋葬されている。
適塾で恩師であった緒方洪庵の墓之隣に、大村益次郎は切断した右足を埋めるように遺言した。
埋葬後も、しばらくは秘匿されており、昭和14年(1939)に、「埋腿骨之地」が建立された。

大村兵部大輔埋腿骨之地

裏面は陸軍軍医中将飯島茂による撰文。

緒方洪庵先生之墓
洪庵先生夫人億川氏墓

緒方洪庵の墓の隣に、大村益次郎足塚がある。

場所

https://goo.gl/maps/wqmbK9kYwMZDJQ1f6

靖國地蔵尊

龍海寺境内に。
昭和17年1月14日建立。開戦直後、ですね。


付記

緒方洪庵墓所(東京文京区・高林寺)

緒方洪庵墓(文京区指定史跡)
 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年~文久9年(1810~63)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。
 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。


付記

大村益次郎像(靖國神社)

明治15年(1882)、大村益次郎の意思を継いで陸軍創設に貢献をした山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議される。
明治26年(1893)、6月、大村益次郎も創建に尽力をしていた東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され、除幕式が執行。日本初の西洋式銅像、であった。

この像は、戊辰戦争の際、司令官として江戸城本丸から、彰義隊が立てこもる上野を見つめている姿であるという。

靖國神社の大村益次郎は、上野公園の方向を向いているという。そして上野公園の西郷隆盛と向かい合っている、ともいう。


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大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑(大阪京橋)

1945年8月14日、約150機のB29による大阪空襲にて、国鉄京橋駅では甚大な被害が発生した。
そのため「京橋空襲」とも呼称されている。

往時の犠牲者の慰霊碑がJR京橋駅南口に建立されているので、参拝を。

合掌


大阪大空襲

大阪市では昭和20年(1945)3月から8月にかけて、8回もの大規模な空襲があり、1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。

昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)

京橋空襲(京橋駅空襲)

これまで7回の空襲を大阪に対して行っていた米軍ではあったが、大阪最大の軍需工場であった大阪陸軍造兵廠への爆撃は失敗に終わっていた。
昭和20年8月14日、米軍は約150機のB29でもって「大阪陸軍造兵廠」を狙い、約700個に及ぶ1トン爆弾を集中投下。大阪陸軍造兵廠は壊滅した。
この爆撃によって、大阪陸軍造兵廠(大阪城)の北東に位置する国鉄京橋駅周辺にも1トン爆弾が4発落下し、駅にいた乗客などに直撃し身元判明車210名以上、身元不明者600名以上の犠牲者を出した。


大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑

大阪大空襲
京橋駅爆撃被災者慰霊碑
 太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。       
 当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された慰霊碑である。

納経塔
 戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年8月慰霊碑の前で鴫野・妙見閣寺によって行われているが、37回忌を機に写経による供養をと、遺族及び当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他多数の市民からの基金、協力を得て建立した納経塔である。

釈迦牟尼仏尊像と平和祈念像
 この惨事を後世に伝えるため、昭和59年に釈迦牟尼仏尊像が建立された。これは大阪城東ライオンズクラブが結成20周年事業として寄贈したものである。

 空襲被災者慰霊祭世話人会
 大阪市城東区役所
 JR西日本京橋駅

(正面) 南無阿彌陀佛
(側面) 昭和20年8月14日受難者供養之為
(背面) 昭和22年8月14日 森本栄一郎建之

釈迦牟尼仏尊像

納経塔

JR京橋駅前の平和祈念像

平和よ永遠なれ


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