戦争末期。
苦肉の策として航空燃料原料としての利用が試みられたのが「松から採取された油」であった。
しかし労力と効率の割が悪く、また粗悪のために実用には至らず。
松の根からは「松根油」、樹皮からは「松脂油」が採取されたという。
その痕跡を「井の頭自然文化園」で探してみました…
目次
井の頭恩賜公園(井の頭公園)
吉祥寺駅の南に広がる、井の頭池を中心とした公園。神田川は井の頭池を源としている。徳川家光が鷹狩りの際に休息した御殿を造営した場所でもあり、地名として「御殿山」と呼称されている。
井の頭自然文化園
当地には、明治38年(1905年)、渋沢栄一が、井の頭御殿山御料地の一角(現在の自然文化園本園)を皇室から拝借して、非行少年を収容する東京市養育院感化部(のちの「井の頭学校」)を創設したことにはじまる。
大正6年(1917年)御料地全体が東京市に下賜され「井の頭恩賜公園」となる。
昭和9年(1934年)「中之島小動物園」が開園。
昭和14年(1939年)「井の頭学校」移転。「中之島小動物園」を上野動物園規模の大動物園にする計画が立ち上がるが、戦時中ということもあり、予算も物資も不足。
昭和17年(1942年)5月17日に「井の頭自然文化園」が開園する。
昭和18年には、猛獣処分が井の頭自然文化園でも実施されていおり、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。
昭和20年には、事実上の救援状態となる。
昭和22年、水生物園が再開。昭和26年に移動動物園が開催、昭和28年に北村西望がアトリエを設置。昭和29年、アジアゾウはな子が来日。昭和33年、北村西望から平和祈念像の原型や作品、アトリエなどが寄贈される。
松脂油採取の跡(井の頭自然文化園)
井の頭自然文化園の中心に位置する「大放飼場」のあたりにある松の木。
根本を見てみれば、人工的に削られた痕跡がありました。
今どきの感覚でいうと「ハート型」でかわいい、となるかもしれません。
この松の木の傷が、戦時中に油を採取した名残といっても、ピンと来ないかもしれませんが、これも立派な戦跡、です。
東京都井の頭自然文化園
小動物中心の動物園。
アジアゾウ はな子
終戦時、日本には名古屋東山動物園に2頭、京都市動物園に1頭のゾウが生き延びていただけであった。
1947年にタイ王国で生まれたアジアゾウの「はな子」は、戦後日本で、再びゾウの姿をみたいという声に応えるかたちで1947年に来日。
戦後にはじめて来日した像であった。
「はな子」は、公募で決まった名前であったが、これは戦争中に猛獣処分(餓死処分)された上野動物園の「花子」(ワンリー)に因んだ名前であった。
なお、昭和18年に「井の頭自然文化園」でも、猛獣処分により、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。
はな子は2016年5月26日、69歳で永眠。
北村西望「アトリエ館」「彫刻館」
北村西望は、昭和を代表する彫刻家。
代表作は、長崎平和公園の「平和祈念像」、国会議事堂内「板垣退助翁像」など。
「平和祈念像」を作成するにあたり、大きなアトリエが必要となり、東京都が井の頭自然文化園内の敷地を提供。北村西望はアトリエ施設や作品を寄付という縁から、井の頭自然文化園内に北村西望作品が展示されることとなった。
「将軍の孫」と北村西望アトリエ
「将軍の孫像」の軍靴と、「橘中佐像」の軍靴は同一のものという。
加藤清正像
若き日の織田信長像
聖観世音菩薩
咆哮
彫刻館B館には、興味深い作品がいくつか集まっているので、是非とも足を運んでみてほしい。なお、館内は写真撮影は禁止。以下はテキスト紹介のみで。
橘中佐
1919年
北村西望の初めての公共彫刻。橘中佐は故郷の隣町出身。日露戦争で戦死。その死が惜しまれ、橘神社も建立されている。
寺内正毅元帥騎馬像
1921年
北村西望がはじめて制作した騎馬像でもある。赤坂の三宅坂に設置されていたが、像は失われ現在は台座のみ残されている。
山県有朋公騎馬像
1929年
当初は永田町の陸軍省前に置かれていたが戦後に撤去。
現在は山県の出身地である山口県萩市に復元されている。
閑院宮馬上像
1937年
閑院宮載仁親王殿下の騎馬像。
児玉源太郎大将騎馬像
1938年
北村西望最大の騎馬像で高さ5m。満洲に設置されていた。
松脂油から北村西望まで、目線を変えた見どころも豊富な井の頭自然文化園。
ちょっとしたスキマ時間に足を運んでみるのも楽しいかもしれません。
※撮影:2022年6月
参考リンク
関連
松脂油採取の跡。