鉄道の町「米原」は、滋賀県唯一の新幹線停車駅であり、東海道と北陸道の分岐点でもある。
そんな「米原」に戦争に関連する戦跡が残っているというので、足を運んでみた。
目次
岩脇蒸気機関車退避壕
※岩脇は「いをぎ(いおぎ)」と読む。
太平洋戦争中、米原駅が空襲の対象になることが予想され、機関区の転車台が破壊された時に備えた機関車の方向転換ができる三角線が設置され、列車を空襲から守るための列車壕(蒸気機関車避難壕)も運輸省鉄道総局によって秘密裏に工事着工された。
東側のトンネル(長さ130m)は貫通したが、西側のトンネルは中央部を残して非貫通。上下二段工法で掘られたが穴の大きさも機関車を入れるには不十分な大きさで、線路も敷設できないまま、蒸気機関車避難壕は完成せずに終戦となり工事は中断された。
蒸気機関車退避壕
ここに存在する二つの洞窟(左側は奥行52m止め、右側は130mで貫通)は、太平洋戦争末期に日本の輸送の大動脈である東海道線及び北陸線の列車を引っ張る蒸気機関車を連合軍の空爆から守るために掘られた防空壕です。
この岩脇山は岩盤が固く、その上当時は物量が乏しく、火薬、スコップ、ツルハシ、トロッコなどの手作業のため難工事であったことがうかがえます。
しかしながら完成することなく終戦となったが、作業に従事した人達の汗と涙の結晶である防空壕跡が、長い間ごみ捨て場として放置されたままになっていました。
そこで「岩脇まちづくり委員会」では戦争の悲劇を風化させないために戦争の遺跡として保存するため平成20年10月から平成21年8月にかけて整備したものです。
平成21年8月
岩脇まちつくり委員会
戦争が残した2つの洞穴
貫通した退避壕(南側)
立入禁止とあるので、入口までで。
望遠で覗いてみる。
非貫通の退避壕(南側)
こちらは未貫通の退避壕。
柵がないので、中に入れる。
外の熱気と中の冷気で、白く温度の壁ができる。
東海道線がみえる。
非貫通の退避壕(北側)
柵の隙間から。
貫通の退避壕(北側)
同じく柵の隙間から。貫通している。
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R586-5
昭和22年(1947年)11月21日、米軍撮影の航空写真。
岩脇山周辺を拡大。
東海道本線と北陸本線が二股で分かれるポイントでデルタ線が形成されており、退避壕まで線路が造成されていることがわかる。
退避壕のある岩脇山は南北に路盤が貫通して造成が進んでいることもわかる。
未完成の待避線アクセス線路は、のちに東海道本線上り線に流用される。
資料館
まちづくりの一環で作られた資料館。手作り感あふれるこぢんまりとした資料館だが、なかなかに情報量もあって、良い感じに見学できました。
地元の皆様の保存活動が行き届いた戦跡。佳き環境。
熊が迎えてくれました。
出土品
1 爆破する際に火薬の挿入に用いたと思われる
2 大形のかすがい?
岩脇山周辺案内図。
南北が逆になっている地図は位置関係を見失うので勘弁してほしい。
岩屋善光堂
推古天皇時代、本多善光が三尊の仏像を長野にお連れする途中にこの地で休憩し、そのときみた神の夢のお告げにより仏像の分身像を安置。以来、信州長野善光寺の分身として崇拝。
岩脇稲荷神社
創建年代は不詳。第92代天皇の伏見天皇が即位していた正応4年(1291年)の記録が残されている事からそれ以前から鎮座の神社と推定。
退避壕のある岩脇山。
現在の東海道本線上り線。
応じは退避壕までのアクセス路として造成中で終戦を迎えている。
場所
撮影:2024年6月