慶應義塾大学の近代建築・戦跡散策(三田)

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慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の三田キャンパスには、いくつか戦争に関するモニメント(戦跡)がある。キャンパス散策をしてみました。


慶應義塾大学と戦争

太平洋戦争のさなか、全国の大学で最大の戦災を被ったのは慶應義塾であったという。
昭和20年4月、日吉・工学部校舎の8割が焼失。
昭和20年5月、信濃町地区(医学部)と三田地区の施設の半分以上が焼失。
慶應義塾の塾長・小泉信三も傷を負った。
慶應義塾の塾生は、陸海軍に、勤労動員に、疎開に、散り散りとなり、学生による学徒出陣は約3,500名となり、義塾関係の戦歿者は2,200名以上を数えた。
8月終戦。慶應義塾は全国の大学の中で、最大の空襲被害を受けた罹災校であった。
9月には日吉地区に米軍が進駐し、昭和24年秋まで接収されたため、戦後の復興計画もすすまなかった。

1995/09/01 『塾』1995年 No.193 掲載太平洋戦争のさなか、全国の大学で最大の戦災を被ったのは慶應義塾だった。そして終戦。昭和22年、日吉校舎の接収が続く中で創立90年記念式典が挙行

還らざる学友の碑

「還らざる学友の碑」は、先の戦争により学び舎に戻ることが叶わず、志半ばにして逝った学友を偲んで1998年に建立された。碑には、「アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿(白井厚編/慶應義塾福澤研究センター発行)が、収められている。

 還らざる友よ
  君の志は
   われらが胸に生き
 君の足音は
  われらが学び舎に
   響き続けている

ここには
「アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿」
(白井厚編/慶應義塾福澤研究センター発行)
が納められています
 平成26年10月 慶應義塾

還らざる学友の碑
この碑は今次大戦において志半ばにして逝った
学友を偲び慶応義塾が建立する
 平成十年十一月
  慶應義塾塾長 鳥居泰彦

戦没者名簿によると、日中戦争以降の塾関係の戦没者数は2,224名に上るという。

みたまやすらかに
合掌


「平和来」朝倉文夫

戦没した学徒や卒業生を追悼するために、1952年に製作され、1957年に設置された。
「へいわきたる」(へいわらい)
作者は、朝倉文夫。第8回日展出品作品。
台座には、戦時中塾長であった小泉信三の碑文が刻まれている。

平和来 朝倉文夫作

丘の上の平和なる日々に
 征きて還らぬ人々を思ふ
  小泉信三 識


「青年」菊池一雄

1948年製作、菊池一雄の代表作。
戦時下の応召中に喉を潰した声楽家志望の青年をモデルにする。


手古奈(空襲被災)

彫刻家・北村四海の代表作。
明治45(1912)年4月に竣工した図書館玄関ホールに設置。
1945年5月の東京大空襲によって被災し、戦後まもなくより図書館地下の倉庫に収納され、そのままの状態となっていた。
歴史的痕跡を留める方針とし、欠損部分は補填せず、戦禍による痕跡についても残すこととなった。

  本作品は明治から大正期に活躍した彫刻家北村四海(1971-1927)の代表作で、明治42(1909)年、第3回文展(文部省美術展覧会)の出品作である。文展終了後塾員山下吉三郎氏の仲介で創立五十周年記念図書館の新築祝いとして慶應義塾に寄贈されることになり、明治45(1912)年4月に竣工した図書館玄関ホールに設置され...
2025年は、太平洋戦争終結から80年となる節目の年。慶應義塾のキャンパスはこの戦争において全国の大学の中でも最大の空襲被害に遭った。また、約3500名もの塾生を学徒出陣で戦地に送り出し、2200名以

あえて戦災の痕跡を残し修復された


幻の門(旧表門)

慶應義塾が三田に移転した明治時代初期にさかのぼる門柱。当時はこちらが表門=「正門」であったという。

第2次世界大戦中の1943(昭和18)年11月、三田で塾生出陣(学徒出陣)の壮行会が挙行された。
大講堂前を出発した出陣学徒は他の塾生たちに見送られ、表門から旅立ち、福澤の墓参に向かった。

戦時中には、陸軍のトラックが門柱を破損した事件もあった。当時用度課長であった羽磯武平が、小泉信三塾長にそのことを報告すると「軍と雖(いえども)遠慮することは無用である。然るべく要求し請求すべきである」との指示を受けたそうである。

1945(昭和20)年5月の空襲で表門も被災したが、その2年後に横須賀三田会の寄付などによって修復された。戦後間もなく右側の門柱に「慶應義塾」と墨書きされた門標が掲げられた。しかし何者かに持ち去られてしまい、今はその門標は慶應義塾には存在しない。

三田キャンパスの東館を抜け、左側に上るスロープの先に「幻の門」と呼ばれる門柱が見える。その歴史は、慶應義塾が三田に移転した明治時代初期にさかのぼり、当時はこちらが表門=「正門」だった。カレッジソングに

慶應義塾図書館旧館

曾禰達蔵・中條精一郎の設計によるゴシック様式の建物。
明治45年(1912)4月、慶應義塾創立50年記念の寄付金によって建立。
国の重要文化財。

大正12年(1923)9月の関東大震災で大きく損傷し、八角塔は一度解体された。
昭和20年(1945)5月の米軍による空襲では、本館部分(大閲覧室や事務室、ステンドグラスなど書庫以外の部分)を全焼。
昭和44年(1969)には国の重要文化財に指定。
昭和57年(1982)に図書館新館が開館したことに伴う改修工事で、戦後形状が大きく変わっていた屋根を復旧し、本館部分の用途を変更。平成28-30年(2016-19)にかけて免震化工事を実施し、あわせて外装も修復。
福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館が2021年に開館している。

外壁の損傷
一部欠落しているのは、戦災被害の痕跡

修復工事でも残された空襲の痕

戦没者調査とアーカイブ
大学別では、慶應義塾は早稲田に次ぐ戦没者

チャフ(電波欺瞞紙)
戦争系の資料は多く拝見しているが、チャフを意識して見たのは初めてかも知れないなあ、と。

アメリカ軍が散布した伝単(福澤諭吉肖像入)
慶應義塾に保管されている伝単が福澤諭吉というのが、良いですね。

空襲により損傷した考古資料
大山巌の息子の大山柏文学部教授の採集資料

陸軍予科士官学校教科書「本邦史教程」
福沢諭吉の「学問のすゝめ」を批判する教科書。。。

廃墟と化した三田の惨状
信濃町キャンパスの焼け跡

開設まもない日吉キャンパス 昭和10年頃

日吉から野外教練に出発する塾生 昭和16年2月

日吉キャンパスの連合艦隊司令部地下壕

小泉信三 塾長訓示
昭和15年

慶應義塾のシンボルたち

展示室の光景


上原良司(特攻出撃前夜の手記)

そうだった、特攻隊員として、著名な上原良司氏は、慶應義塾の出身だった。

五六振武隊 陸軍少尉 上原良司

上原良司「所感」(特攻出撃前夜の手記)
昭和20年(1945)5月10日
権力主義全体主義の国は「最後には敗れる」、特攻は「理性をもって考えたなら実に考へられぬ事」、最後に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」などと記す出撃前夜の義塾出身特攻隊員の遺書。筆者は翌日沖縄方面で戦死。

五六振武隊 陸軍少尉 上原良司
 大正十一年九月廿七日生

本籍 長野県東筑摩郡和田村一七三
現住所長野県南安曇郡有明村一八六
出身校慶應義塾大学経済学部

所感
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべ
き陸軍特別攻撃隊に選ばれ身の光栄之に過ぐ
るものなきを痛感致して居ります
思へば長き学生時代を通じて得た信念とも申
すべき理論万能の道理から考へた場合これは

或は自由主義者と謂はれるかも知れませんが
自由の勝利は明白な事だと思ひます。人間の本
性たる自由を減す事は絶対に出来なく例へそ
れが抑へられて居る如く見えても、底に於ては
常に闘ひつゝ、最後には必ず勝つと云ふ事は、
彼のイタリヤのクローチエも云って居る如く真
理であると思ひます。権力主義全体主義の国家
は一時的に隆盛であらうとも必ずや最後
には敗れる事は明白な事実です。我々はその真
理を今次世界大戦の枢軸国家に於て見る事が

出来ると思ひます。ファシズムのイタリヤは如
何ナチズムのドイツ亦、既に敗れ、今や権力主義
国家は、土台石の壊れた建築物の如く、次から次
へと減亡しつつあります。真理の普遍さは今、現
実に依って証明されつゝ過去に於て歴史が示
した如く未来永久に自由の偉大さを証明して
行くと思はれます。自己の信念の正しかつた事
この事は或は祖国にとって恐るべき事であ
るかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限
りです。現在の如何なる闘争もその根底を為す

ものは必ず思想なりと思ふ次第です。既に思想
に依って、その闘争の結果を明白に見る事が出
来ると信じます。
愛する祖国日本をして嘗ての大英帝国の如き
大帝国たらしめんとする私の野望は遂に空し
くなりました。真に日本を愛する者をして立た
しめたなら日本は現在の如き状態には或は追
ひ込まれなかったと思ひます。世界何処に於て
も肩で風を切って歩く日本人これが私の夢見
た理想でした。

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと
一友人が云った事は確かです。操縦桿を採る器
械、人格もなく感情もなく勿論理性もなく、只敵
の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の
一分子に過ぎぬのです。理性を以て考へたなら
実に考へられぬ事で強ひて考ふれば彼等が云
ふ如く自殺者とでも云ひませうか、精神の国、日
本に於てのみ見られる事だと思ひます。一器
械である吾人は何も云ふ権利もありませんが
唯、願はくば愛する日本を偉大ならしめられん

事を、国民の方々にお願ひするのみです。
こんな精神状態で征ったなら勿論死んでも何
にもならないかも知れません。故に最初に述べ
た如く特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思って
居る次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、一
旦下りればやはり人間ですから、そこには感情
もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた
時自分も一緒に精神的には死んで居りました。
天国に待ちある人、天国に於て彼女と会へると
思ふと死は天国に行く途中てしかありません
から何でもありません。明日は出撃です。過激に
亘り、勿論発表すべき事ではありませんてした
が、偽はらぬ心境は以上述べた如くです。何も系
統だてず思った儘を雑然と並べた事を許して
下さい。明日は自由主義者が一人この世から去
って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満
足で一杯です。
云ひたい事を云ひたいだけ云ひました無礼を
御許し下さい。ではこの辺で

出撃の前夜記す

みたまやすらかに


塾監局

大正15年(1926年)9月の竣工。シック風の建物。
設計は1912(明治45)年竣工の図書館旧館と同じく曾禰達蔵・中條精一郎による。
戦中から戦後の一時期には教室と事務室に併用されていた。
塾監局とは、事務局のこと。

塾監局という建物をご存知だろうか。ちょっと古めかしい感じがするこの名称は、三田キャンパスにある建物を指すとともに、義塾の事務全般を支える組織も意味する。現在の建物が竣工して90年、塾監局は常に義塾とと

三田演説館

明治8(1875)年5月1日、日本最初の演説会堂として建造された演説館。慶應義塾において、福澤諭吉存命中から存在する唯一の建造物。
木造瓦葺、洋風、なまこ壁の建物。
国の重要文化財。


※撮影:2026年2月


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